ブログトップ

Blog | Hiroaki Ooi

c0050810_04222235.jpg
~二台ピアノによるバルトーク傑作集~
Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake

2017年4月28日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
※ご予約はこちらのフォームから https://goo.gl/YkRsny


c0050810_16544963.jpg■バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演) 20分
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演) 30分
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto

  (休憩15分)

■バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演) 40分
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲


浦壁信二 Shinji URAKABE
c0050810_20465920.jpg  1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
  ’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
  ’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
  ‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。 浦壁信二インタビュー



【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 <СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ> http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版



バルトークの創作史を振り返る(管弦楽曲を中心に)──野々村 禎彦

c0050810_05425553.jpg バルトークの伝統的音楽修行の集大成=作品1は《ラプソディ》(1904/05) であり、元々のピアノ独奏曲を協奏曲に編曲してアントン・ルビンシテイン国際コンクール作曲部門に参加した。リスト/ブラームス流の「ジプシー風ハンガリー音楽」を初期R.シュトラウス風に管弦楽化した作品であり、この時点では彼はまだモダニズムにも、本物の「ハンガリー音楽」にも出会っていなかった(ただし保守的なコンクールでは、それでも斬新すぎるとされて奨励賞に留まった)。他方、同コンクールのピアノ部門ではバックハウスと優勝を争い、当代随一の国際コンクール第2位という輝かしい経歴を携えて、1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任した。

 バルトークがバルトークになったのは、終生の盟友コダーイと知り合ってからだった。1906年から彼とハンガリー民謡の収集を始めて「本物の民俗音楽」を発見し、翌年に彼を通じてドビュッシーの音楽と出会った。民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。

c0050810_05434173.jpg
 オリジナル民謡に極力手を加えない合唱曲や器楽曲への編曲と、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点がピアノのための《14のバガテル》(1908) と《10のやさしい小品》(1908) である。これらの作品でドビュッシーのピアノ書法を掴むと、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究し、その成果はオペラ《青髯公の城》(1911) に結実した。

 アイヴズ、ストラヴィンスキー、シマノフスキら、ドビュッシーの音楽と出会って一流の作曲家へ飛躍した作曲家は多いが、バルトークは作曲家としても20世紀前半を代表するピアニストのひとりとしても、終生ドビュッシーをリスペクトし続けた。今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は作曲の契機になったオペラのコンクールには入賞すらできず、同時期にコダーイと始めた「新ハンガリー音楽協会」も成果は上がらず、彼は作曲への意欲を失って数年間は民謡収集に専念した。第一次世界大戦が本格化するとそれも困難になって作曲に復帰したが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などは尖鋭さでは《青髯公の城》に及ばない。

c0050810_05443486.jpg
 だが、《青髯公の城》初演と同年のピアノのための《3つの練習曲》(1918) は、一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し創作に生かした。ハンガリーはヨーロッパの中心からは離れているが、その分同時代の諸潮流を俯瞰的に取り入れることができた。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》の延長線上にある作品であり、同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。

 両曲の間に作曲された《中国の不思議な役人》(1918-19/24) も《練習曲》の路線に連なり、今度はストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験が参照されている。シェーンベルクとストラヴィンスキーの直接のフォロワーたちは党派的に対立関係にあり、ヨーロッパの中心で両者と等距離で接するにはブーレーズくらい世代が下る必要があったが、これが「周縁」ならではの利点である。管弦楽化には時間を要したが、この間にストラヴィンスキーの新古典主義も取り入れ、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、モダニズムの最良の成果が凝縮されている。

c0050810_05452026.jpg
 彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだった。1920年代前半は作曲は低調だったが、収集した民謡資料を分析した重要な論文は主にこの時期に書かれた。《中国の不思議な役人》の管弦楽化が終わり、第一次世界大戦敗戦後の混乱も収まると、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) 、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。

 この時期の作曲の中心はピアノがソロを取る曲だが、いずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた。これは彼のピアニストとしての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している。彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。だが彼は音楽院で作曲を教えたことはなく、同時代の音楽界での位置付けは「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だった。

c0050810_05462992.jpg
 彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年。この年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。ようやく天職が本業になり、弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が作品表に並ぶ。ただしナチスドイツとの関係を深めてゆく政府の真意は、「頽廃音楽を排し、国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 

 弦楽四重奏曲第3番・第4番でモダニズムの頂点に昇りつめた彼は、それ以降の作品では民俗音楽とモダニズムを統合する方向に向かうが、弦楽四重奏曲第5番と《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の解決方法は対照的だった。前者では、音楽要素の断片化や空間配置など、無調性や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されるが、曲の末尾ですべての要素はひとつの素朴な民謡旋律から導かれていたことが明かされる。他方後者では、奇数楽章では半音階的フーガや「夜の音楽」、偶数楽章では民俗音楽的素材による平明な舞曲と、両者は簡単には統合できないことが暗示される。これは彼の心境の変化というよりは、弦楽四重奏と管弦楽というメディアの差異なのだろう。

c0050810_05471871.jpg
 《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》(1939)、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。ナチスドイツに傾斜してゆく政府に彼は早くから絶望していたが、彼の母は祖国を離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。ただし、分析の精密化に伴って旋律の微分音程変化にも着目したことは創作へと反映され、総じて全音階的でも一筋縄では行かない陰影が加わった。

 亡命先に米国を選んだ決め手は、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだのは、ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定していたからだが、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人だった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。また自然を愛し孤独を好む彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後の《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化以後は、作曲は全く進まなかった。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。

c0050810_05482874.jpg
 だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱前渡金として当座の生活費を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) には、ヨーロッパ時代の代表作のような野心的な試みは見られないが、モダンオケの機能を生かしてバロック時代の合奏協奏曲を軽やかに換骨奪胎した手腕は見事で、今日では顧みられる機会が減った新古典主義後期の祝祭的な作品の中では例外的に、現在でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。

 久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。

 弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。


c0050810_20480469.jpg




[PR]
# by ooi_piano | 2017-04-20 02:14 | POC2016 | Comments(0)

~バルトーク:弦楽四重奏曲集全6曲(米沢典剛によるピアノ独奏版)
Bartók Béla hat vonósnégyese Zongorára átírta Yonezawa Noritake

大井浩明(ピアノ)

2017年6月4日(日)18時開演(17時半開場)
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/


c0050810_16553274.png■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第1番 イ短調 Op.7 Sz.40》(1909/2017)(世界初演) 30分
  I. Lento - II. Allegretto - III. Introduzione / Allegro vivace

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第2番 Op.17 Sz.67》(1917/2017)(世界初演) 26分
  I. Moderato - II. Allegro molto capriccioso - III. Lento

  (休憩10分)

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第3番 Sz.85》(1927/2017)(世界初演) 15分
  I. Moderato - II. Allegro - III. Moderato(第1部の再現) - IV. Coda : Allegro molto

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第4番 Sz.91》(1928/2016) 25分
  I. Allegro - II. Prestissimo, con sordino - III. Non troppo lento - IV. Allegretto pizzicato - V. Allegro molto

  (休憩10分)

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第5番 Sz.102》(1934/2016)(世界初演) 30分
  I. Allegro - II. Adagio molto - III. Scherzo: alla bulgarese - IV. Andante - V. Finale: Allegro vivace

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第6番 Sz.114》(1939/2016)(世界初演) 30分
  I. Mesto / Più Mosso, pesante / Vivace - II. Mesto / Marcia - III. Mesto / Burletta - IV. Moderato, Mesto



バルトークの先に広がる未来(弦楽四重奏曲を中心に)──野々村 禎彦

c0050810_16362111.jpg
 同時代におけるバルトークの評価は、「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だったが、今日では彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる有名作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う。ただし、「3大B」という発想自体が既にドイツ音楽影響圏に特有であり、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が彼に「周縁代表」を仮託した結果がこの位置付けなのだろう。

 《子供のために》(1908-09) と《ミクロコスモス》(1926/32-39) という20世紀を代表するピアノ練習曲集(演奏会用ジャンルではなく、実用的な意味での)を除いても、質量ともに一晩を埋めるピアノ独奏曲を彼は書いた。ピアニストとして活躍するには常に新しいレパートリーが必要であり、ひとつの創作サイクルをピアノ独奏曲で始め弦楽四重奏曲で閉じる、ベートーヴェンのような傾向を彼も持っていた。ただし、彼はなまじピアノが上手かったために、自分の弾ける範囲で発想が閉じてしまった面はあるかもしれない。自身のソロを前提に書いた協奏曲(1926, 1930-31) では、技巧に走らず管弦楽と一体になって突き進む、丁度良いバランスが実現されているのだが。ベートーヴェンの鍵盤作品の充実は、フォルテピアノの発展期に手探りで書いた賜物だったのだろう。

c0050810_16393566.jpg
 その点、弦楽器との距離感は彼の創作にとっては理想的だったように思われる。バルトーク・ピッツィカートをはじめとする苛烈な特殊奏法の数々は、自分の分身ではない楽器だからこそ指定できたのだろう。二度の結婚はティーンエイジャーのピアノの生徒と関係を持った結果だが、恋愛の相手はそれよりは年長のヴァイオリン奏者だったのも象徴的だ。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) と無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) はいずれも代表作、ヴァイオリン二重奏曲集《44の二重奏曲》(1931) も民謡編曲作品としては重要だが、彼が最も力を注いだ編成は弦楽四重奏だった。

 ピアノのための《14のバガテル》(1908) からオペラ《青髯公の城》(1911) まで、オリジナルな作曲を始めてから民謡収集に専念するため作曲を中断するまでの数年間は、ほぼドビュッシーの語法を自分のものにすることに費やされたが、この時期でも弦楽四重奏曲第1番(1908-09) は例外的で、モデルはドビュッシーではなく後期ベートーヴェンである。以下で眺めるのは、20世紀の弦楽四重奏曲の類型はほぼバルトークの6曲で尽くされている(新ウィーン楽派とその他数人を例外として)ことだが、同時代には敬して遠ざけられていたベートーヴェン後期作品が再評価されたのも20世紀を象徴する出来事であり、彼の6曲が「ベートーヴェン第17番」で始まるのは示唆的だ。

c0050810_16412079.jpg
 彼の中では最も素直に「民俗音楽的」な作品のひとつである弦楽四重奏曲第2番(1915-17) は、《青髯公の城》の直後に音楽上の親殺しを意図したピアノ曲《アレグロ・バルバロ》(1911) に始まる時期を締め括る曲だが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などが書かれたこの時期は、ピアノのための《3つの練習曲》(1918) に始まるその次の時期の尖り具合と同列には論じられない。弦楽四重奏曲としても同時期のシマノフスキ第1番(1917) や幾分後のヤナーチェクの2曲(1923, 1928) を凌ぐわけではない。とはいえ、遠くリゲティ第1番(1953-54) にまで影響を及ぼした、民俗音楽の活用という20世紀の豊かな鉱脈を切り拓いた作品なのは疑いない。

 《3つの練習曲》に始まる時期に彼の音楽が急速に無調化したのは、無調以降の新ウィーン楽派の音楽の影響と考えるのが自然だろう。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) では《春の祭典》、2曲のヴァイオリンソナタではシマノフスキ《神話》、《戸外にて》(1926) では後期ドビュッシー、ピアノ協奏曲第1番(1926) では新古典主義期ストラヴィンスキーと、そこに同時代の別系統の潮流を交配しているのが彼の独自性である。特に新ウィーン楽派とストラヴィンスキーやドビュッシーのハイブリッドは、党派的にも政治的にもヨーロッパの中心では考えられず、「周縁」だからこそ可能な方向性だった。イタリアが音楽の中心だった時代の「周縁」の音楽家J.S.バッハのように。

c0050810_16423778.jpg
 この時期を締め括る弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) は、彼のモダニズム路線の頂点に留まらず、戦後前衛時代後期の弦楽四重奏曲のモデルにもなった。戦後前衛時代前期には、この編成は因襲的だとして忌避されたのは、総音列技法の範囲では新ウィーン楽派の達成以上の可能性は見出せなかったことが大きい。だが、戦後前衛時代後期にトーン・クラスター様式が台頭すると、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たちはこの編成にも新たな鉱脈を見出した。ペンデレツキ第1番(1960) は特殊奏法を多用したざっくりした構成、ルトスワフスキ(1964) は縦の線の合い具合を偶然性に委ねた書法がポイントだが、単一楽章で即興的に表情を変えるバルトーク第3番の音世界を部分的に切り出して参照している。他方、この様式のもう一方の雄リゲティの第2番(1968) では、バルトーク第4番のアーチ型の5楽章を対比する構成をそのまま借用し、民謡由来のオスティナートをミニマル音楽に置き換えるなど、同時代の語法で換骨奪胎している。

 長年構想を暖めていた《カンタータ・プロファーナ》(1930) と、ピアノ協奏曲第1番に続く第2番(1930-31) を書き終えると、以後のピアノ独奏曲は《ミクロコスモス》の一部として書かれることになり、創作サイクルも変化する。民謡分析が本業になって再び創作意欲に火が点いた際、真っ先に取り組んだのは弦楽四重奏曲第5番(1934) だった。音楽要素の断片化や空間配置など、無調や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されており、ポスト戦後前衛時代の潮流を先取りしていたようにすら見える。ペンデレツキは第2番(1968) でこの方向性を取り入れようとしたが、バルトークのような豊かな稔りには結びつかず、結局彼は終生の代表作《ルカ受難曲》で試みた前衛書法と三和音の混淆を進め、戦後前衛第一世代で「新ロマン主義」に転向した最初の作曲家の一人になった。

c0050810_16440071.jpg
 モダニズムと民俗音楽の融合をさらに推し進めた《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936) と《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) は、戦後前衛第一世代の作曲家に霊感を与え続けた。リゲティ流トーン・クラスターである「ミクロポリフォニー」書法とは、《弦楽器…》第1楽章を半音階堆積に圧縮したものに他ならない。ブーレーズが活動の中心を指揮に移してからの《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法も、《弦楽器…》に多くを負っている。前期シュトックハウゼンを代表する電子音楽《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノ…》の記憶の賜物である。

 ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38) 以降のヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。亡命先候補は米国・英国・トルコに絞られたが、音楽状況はどこもヨーロッパ大陸よりも保守的だった。この時期を締めくくる弦楽四重奏曲第6番(1939) は、民謡分析の精密化に伴って作曲作品にも導入されるようになった微分音が微妙な陰影を与えているが、モダニズムよりも切実さにおいて記憶される音楽である。だが、この曲も戦後前衛と無縁ではない。前衛の時代はショスタコーヴィチ、ブリテンらが伝統書法を深化させた時代でもあり、彼らの充実が前衛側に緊張感を与えたことは無視できない。彼らの死と新ロマン主義の台頭や戦後前衛第一世代の頽廃が時期を同じくしたことは、偶然ではないだろう。彼らの音楽は60年代に著しく半音階的になり、特にショスタコーヴィチはこの時期に12音技法を導入した。だが彼らが最晩年に再び全音階的音組織に戻った時、参照したのは同じ歩みを辿ったバルトークだった。ショスタコーヴィチ第15番(1974)、ブリテン第3番(1975) ではこの対応は特に顕著である。

c0050810_16452042.jpg
 バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表例であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。「夜の音楽」に象徴される音楽性まで深く共有していたのは、むしろ同国人クルタークだったのかもしれないが、名声を築くためのツールとして使い倒し、大きな成果を収めたのはリゲティだった。

 ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3番(単一楽章で疾走する不定形の音響)・第4番(特殊奏法の古典的秩序化)・第5番(モダニズムの外側の素材の統合)・第6番(微分音に彩られた全音階的な哀歌)のヴァリアントとみなせる。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者にはこのようなことが起こり得る。

c0050810_16461758.jpg
 むしろ、20世紀後半で特筆すべき弦楽四重奏曲の書き手は、バルトークへの紐付けが難しい作曲家に限られる。具体的には、シェルシ(1905-88)、ケージ(1912-92)、フェルドマン(1926-87)、W.リーム(1952-)、ユルク・フライ(1953-) である。シェルシは微分音程のうなり、フライは息音のような摩擦音という、バルトークが用いなかった素材に絞って新たな世界を拓いた。フェルドマンは弦楽四重奏を完全に滑らかな音表面の器として扱い、演奏時間の長さで知られる後期作品の中でも特に長大な2曲を残した。ケージはこの編成の歴史性を全く意識しなかった特異な存在であり、異なる作風を示す3つの時期に1曲ずつ書いた。W.リームはベートーヴェンを強く意識し、数の上でもこの先達に匹敵する弦楽四重奏曲を作曲しているが、バルトークに繋がる書法を注意深く避けているのが最大の特徴である。「似ないように仕上げる」こと自体がコンセプトになり、作品の質に直結する。現代の弦楽四重奏曲におけるバルトークの重要性を、逆説的だがこの上ない形で伝える事例である。



────────────────────────────────
W.A.モーツァルト:弦楽三重奏/四重奏/五重奏曲集 [closed]
 ○弦楽五重奏曲第2番ハ短調K.406(516b)(1787)、同第3番ハ長調K.515(1787)、同第4番ト短調K.516(1787)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.5.8]
 ○弦楽三重奏のためのディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 (1788)[Paul Graf Walderseeによるピアノ独奏版]、弦楽五重奏曲第5番ニ長調K.593(1790)、同第6番変ホ長調K.614(1791)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.6.4]
 ○弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387 (1782)、同第15番ニ短調K.421(417b) (1783)、同第16番変ホ長調K.428 (1783) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.7.2]
 ○弦楽四重奏曲第17番変ロ長調K.458『狩』(1784)、同第18番イ長調K.464 (1785)、弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465『不協和音』 (1785) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.9.26]
 ○弦楽四重奏曲第21番ニ長調K.575 (プロシャ王第1番)(1789)、同第22番変ロ長調K.589 (プロシャ王第2番)(1790)、同第23番ヘ長調K.590 (プロシャ王第3番)(1790)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.10.31]
 ○弦楽四重奏曲第20番ニ長調K.499 《ホフマイスター》(1786) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.11.26]

■L.v.ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全16曲チクルス(全6回公演、2013年6月~8月)
 ~ヴィンクラー、タウジッヒ、アルカン、サンサーンス、ルビンシテインらによるピアノ独奏版~

ストラヴィンスキー《弦楽四重奏のための「コンチェルティーノ」》(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版) [2017.1.22]

A.ベルク《弦楽四重奏のための「抒情組曲」》〔全6楽章》(1926)(米沢典剛によるピアノ独奏版)[2016.11.16]

■【動画】 ベートーヴェン:《大フーガ 変ロ長調 ~ 時に自由に、時に精緻に Große Fuge - Tantôt libre, tantôt recherchée 変ロ長調 作品133》 (1826/1865、L.ウィンクラーによるピアノ独奏版)
 使用楽器:1816年ロンドン製 J.ブロードウッド(6オクターヴ) 
 Overtura(序奏) - Allegro(第一部) - Meno mosso e moderato(第二部) - Allegro molto e con brio(第三部)




[PR]
# by ooi_piano | 2017-04-16 20:36 | POC2016 | Comments(0)


大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》

〔ポック[POC]#31〕2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



●古川聖(1959- ):《ノベレッテ第1番 「上と下 Oben und Unten」》(2017)(委嘱新作・世界初演) 2分
カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕 ~ 第一部
 I. 入祭唱 3分
 II. コラール前奏曲 13分
 III. 第一フーガ(四声による) 12分
 IV. ファンタジア 4分
 V.第二フーガ(二重フーガ) 16分

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第2番 「音階 Tonleiter」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第二部
 VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
 VII.第一カデンツァ 5分
 VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
   [第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第3番 「エッシャーへのオマージュ Hommage für Escher」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第三部
 IX. 第二間奏曲 56分
   〔トッカータ (5分) - アダージョ (16分) - 81の変奏によるパッサカリア (35分)〕
 X. 第二カデンツァ 3分
 XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
   [第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
 XII. 終結部(ストレッタ) 8分



古川聖 Kiyoshi FURUKAWA, composer
c0050810_02142659.jpg
  1959年東京生まれ。中学・高校時代に入野義郎氏に師事。高校卒業後渡独、ベルリン、ハンブルクの音楽アカデミーでイサン・ユン、ジェルジ・リゲティのもとで作曲を学ぶ。1991年に米国のスタンフォード大学で客員作曲家。独・カールスルーエのZKM(アート・アンド・メディア・センター)でアーティスト・イン・レジデンス。作品は、新しいメディアと音楽の接点において成立するものが多く、1997年のZKMの新館のオープニングでは委嘱を受け、マルチメディアオペラ『まだ生まれぬ神々へ』を制作・作曲。近年は理化学研究所内で脳波を使った視聴覚表現に関するプロジェクトを行った。社会の中で表現行為が起こる場、新しいアートの形を探して2002年より、新しいメディアを使ったワークショップを世界各国で行っている。東京芸術大学先端芸術表現科教授。 

古川聖:《Novelletten 1、2、3》(2017、委嘱新作初演)
c0050810_11382237.jpg
  私が大井氏から作品の依頼を受けた時、なにか新しい、変わった試みをいくつも並べるような作品構成とノヴェレッテンという言葉がすぐに脳裏にうかんだ。シューマンの8つのノヴェレッテンに限りない憧憬を持ちつつも、私がノヴェレッテという言葉から着想したのは幻想的な物語集ではなく、NOVELという言葉の本来の意味である、新しい種類の、新手の、奇抜な、いままでに無いといったよう作品の特徴である。(そして、もちろん大井氏になら書いても許されるようなピアノ音楽を書ける、何か特別なの機会をいただいたような気がした。)
  Novellettenは全部で7つ書く予定で、7作品分の基本的な着想はあったのだが、諸々の事情で、今回は最初の3曲の初演ということでお許しいただきたい。
  これらの作品は広い意味ではアルゴリズムコンポジション、つまり、音符の形で楽譜が直接書かれるのではなく、楽譜のなかに書かれる音がどのように生成されるのかをまずプログラムで記述し、そのプロセスの後に音符が生成され楽譜として定着されるような種類の音楽である。しかし今回は、私が以前行った複雑系の構造の自己組織化プロセスや現在も行っている脳波からの生理データの音構造へのマッピングなどの手法は使っていない。ノヴェレッテンでは一曲ごとに、7~10個音からなるモティーフを音楽の出発点として準備し、それらを複製し、拡大縮小し、分割し、重ね、移調し、縦に横にひっくり返し組み合わせるという比較的伝統的な音楽の変形手法を、伝統的作曲では行われなかったほど、多重にかさね作品として構築した。その意味で常にモティーフと曲全体は一本の糸で繋がっているといえる。そしてこれらの変形、マニュピュレーション、手法、方法の根底にあるのが、私の興味の中心にある音楽認知プロセスからの音楽生成である。音の認知、グルーピング、階層化と抽象化、記憶と予測、評価とそれらのプロセスから脳内に記憶の糸をたぐり、連想として染み出していく、音楽の内実である情動への共鳴などである。
  Novellette1には “Oben und Unten”「上と下」というドイツ語の副題をつけたが、ここではモティーフが連ねられ形成された、大きく上下する音型が潰され、のばされ、こねくり回される。
  Novellette2は “Tonleiter”「音階」という副題をもつ。音階の順次進行からなるモティーフが組み合わされ、様々な展開をとげる。
  Novellette3の副題は “Hommage für Escher”「エッシャーへのオマージュ」。今までに何度も音楽におけるエッシャー的なものを試みてきたが、今回は二つのモティーフからなるテーマのようなものを協和音程的な制約の中でどのようにうまく組み合わせるかという技法的なソリューションを探した。主要部分ではテーマは調を移され多重に重ねられるが、それらは完全な相似形になっている。
  そしてこれらのマニュピュレーションを可能とする作曲ツールがGESTALT-EDITORというグラフィックプログラミング環境である。現在のVersionは古川聖、藤井晴行、濵野峻行、小林祐貴により開発されている。(古川聖)




──────────────────────────────────

c0050810_11441940.jpg  《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ――たった二単語、九音節であるが、最も果敢なピアニストが恐れをなすに充分である。ラテン語でいかめしく見える曲題は、単に「鍵盤作品」という拍子抜けする意味でありながら、まさに前例の無い規模と熱意を備えた、現代のピアノのための巨大な投企である。
  ソラブジの受けた早期音楽教育はいささか異例である。10代後半と20代初期に数回、ロンドンでチャールズ・トルー(1854-1929)に和声・対位法・形式論のレッスンを受講した以外は、アルノルト・シェーンベルクと同様にほぼ独学であった。20世紀の最初の10年間、彼は最先端のヨーロッパとロシアの音楽への熱意を育んだ。このことが、彼の混ざり合った血筋と同様に、多くの同時代者から隔絶させたようである。彼を最も興奮させたのは当時の現代音楽であった。彼の生まれ育ったエドワード朝の英国のいささか退嬰的な風土では、その大半がほぼ知られず演奏されなかった、さまざまな新潮流に共感を寄せた。周囲でほぼ振り返られなかった、バルトーク、スクリャービン、ドビュッシー、ラフマニノフ、レーガー、シェーンベルク、ラヴェル、マーラー等に彼は傾倒した。その興奮を、戸惑う知人たちにも懸命に伝道しようとしたらしい。
c0050810_11441090.jpg  一方、意外にもこれらの活動はソラブジを作曲行為へとは駆り出さなかった。天才少年ではなかったので、現在知られる最初の作品の日付は1915年であり、そのとき彼は既に22歳であった。(もっとも、ベートーヴェンでさえ、幼少時より相当量の作曲を行なっていたにも関わらず、20代前半になるまで出版作品は限られたものだった。)
 20代半ばに至っても、ソラブジは作曲家よりもむしろ音楽評論家として身を立てることを考えていたようである。いったん創造の水門が開放されると、彼の音楽はつづく半世紀のあいだ、雪崩のように溢れ出した。1960年代末に作曲をやめようと一旦決意するも、80歳代には壮大な二つの《ピアノ交響曲》を含む十数の作品を生み出すに至った。
  作曲家として歩みを進めるかたわら、作家・批評家としての活動も併行させ、少なくとも第二次大戦末期までは精力的かつ恒常的に取り組んだ。


c0050810_11434453.jpg  ピアノという楽器には、明らかに初期から変わらぬ愛着を持っていた。ほぼ70年に及ぶ作曲活動において、ほとんど全ての作品がピアノのために書かれた。おおよそ100時間以上に及ぶピアノ音楽は、メシアンと並んで20世紀における最も意義ある貢献の一つとなっている。
  ソラブジはピアニストとしても身を立てる事も目論んだが、自らの不本意な演奏に悩み、その活動は驚くほど限定的なものに終わった。1920年代にロンドン・パリ・ウィーンで行なった数公演は常に自作のみであり、演奏家として最も前向きだった1930年にロンドンBBCでピアノのための詩曲《匂える園》(1923)を放送、4回連続公演の第1回をグラスゴーで行い、1936年のその最終公演の後、演奏活動からは身を引いた。
  《オープス・クラウィケンバリスティクム》、そしてピアニストとしてのソラブジについては、注目すべき作曲家・ピアニスト・オルガニスト・教師・講師・指揮者・作家・あらゆる芸術の博学者であるスコットランド人、エリック・チザム(1904-1965)を措いては語れない。チザムの作品は近年やっと知られるようになった。ソラブジとスコットランドとのかかわりは1920年頃に遡り、まずは作曲家フランシス・ジョージ・スコット(1880-1958)の知遇を得、その後、ほぼ同時期を生きた詩人ヒュー・マクダーミッド(1892-1978、本名クリストファー・マレー・グリーヴ)とも交友した。ソラブジとチザムがどうやって知り合ったかは不明だが、文通は1926年に始まっており、その友情はチザムの61歳の早すぎる他界まで続いた。
c0050810_11432615.jpg  このスコットランドの三人組は、ソラブジの音楽と文章を絶賛したため、ソラブジは新たな創造の高みへと大いに鼓舞された。チザムは三人の中ではぐっと年少が、間違いなくスコットランドが輩出したもっとも野心的な音楽家の一人であった。ソラブジの公開演奏を尻込みさせることなく、1930年代の活動を成功裡に乗り切らせたのは、顕揚に価する。終始忍耐強くまた決然と、現代音楽普及協会を立ち上げ、1929年から1937年まで意義深い連続公演を組織し、ヨーロッパの主要作曲家をグラスゴーに招いて、彼らの作品を演奏し意見を交わした。その中にはバルトーク、シマノフスキ、ヒンデミット、メットネルら名士も含まれた。不思議なことに、ソラブジは他のどの作曲家よりも多く演奏を行い、3作品の初演を含む4公演が特集された。1930年の最初の登場で、ソラブジは2時間以上かかる彼の第4ソナタを弾き、聴衆の耳目を集めた(再演は2002年のジョナサン・パウエルまで無かった)。当時、彼は最も野心的な作品である《オルガン交響曲第二番》に取りかかっていた。ソラブジの演奏家としての活躍を今一度担保し、スコットランドの聴衆にその音楽の真価を知らしめるために、チザムはさらに充実した作品を書くようソラブジを励ました。1929年9月、ソラブジは《オルガン交響曲第二番》をいったん中断し、多楽章のピアノ独奏曲を書き始めた。当初はOpus Sequentialeと呼ばれたその作品は、筆を進めるつれOpus Clavicembalisticum (以下OC)と改題された。わずか9ヶ月で脱稿したにも関わらず、その時点で彼の最長のピアノ曲であり、作曲人生の里程標となった。


c0050810_11433516.jpg  OCの初演計画はただちに実行され、1930年12月、グラスゴーでソラブジは全曲を演奏した。聴衆の反応が賛否両論であったことは避けがたかった。その演奏時間の長さ、付き合いがたさ、語法の難解さは、聴衆の注意をはね付けるものの、確かに一つの偉業であると論評された。ソラブジは自筆譜を見ながら演奏した。浄書出版はその翌年で、爾後OCの全曲あるいは抜粋演奏は、すべてこの1931年の浄書譜によるものである。目下、新しい校訂譜が準備中である。
  2度目の再演は部分的なもので、1936年ロンドンにてジョン・トビン(1891-1980)が第一部のみを取り上げた。衆目の一致するところ、この善意のピアニストは曲に立ち向かうには甚だ力不足だった。演奏はソラブジの許可なく行なわれ、作曲家をいたく失望させた。この出来事は、公開演奏に対するソラブジの態度に影響したと思われる。それは、しばしば言われる全面的な拒絶ではなく、自作を誤解から守りたいという至極真っ当な希望であり、安心して許諾を与えられる奏者にのみ未来の公開演奏を明確に限定するものに他ならなかった。
  この異例で果敢な措置の最も早い一例は、ソラブジが非常に尊敬していたピアニスト、エゴン・ペトリ(1881-1962)との文通で確認出来る。ブゾーニの愛弟子であり、その壮大な協奏曲を師の指揮下で演奏したペトリとの関わりは、1920年代にロンドンでの演奏に対するソラブジの熱のこもった批評記事に発した。彼らの友情は終生続いた。ソラブジはペトリに、いつでもどこでも望む通りにOCを演奏する許諾を与えた。ただ残念ながら、ペトリはそれに立ち向かうことは無かった。準備に専心し、他の仕事を数年犠牲にするのは困難と感じたからに違いない。
c0050810_11440172.jpg  作曲家ピーター・マクスウェル・デイヴィス(1934-2016)は、1955年頃にOCの最初の2つの楽章を管弦楽用に編曲したが、不幸にもその所在は不明である。ピアニスト、ジョン・オグドン(1937-1989)は、1950年代半ばにデイヴィスからOCの存在を知らされ、生涯を通じて魅了され続けた。50年代末にバーゼルでオグドンはエオン・ペトリに師事した。オグドンとペトリがOCについて議論したかどうかはっきりしないのは無念だが、ソラブジが述懐するところでは、ペトリはオグドンがかつて教えた中で最も才能のある弟子であると保証し、できるだけ早く演奏を聴くように促したと云う。1959年、スコットランドの作曲家・ピアニスト、ロナルド・スティーヴンソン(1928-2015)の私邸で、オグドンはOCを試演し、その際の数少ない聴衆にはスティーヴンソンの他、被献呈者ヒュー・マクダーミッドも含まれていた。その翌年、ロンドンでオグドンは初めて、そしてただ一度、ソラブジに会うことになる。
  オグドンは1962年、モスクワのチャイコフスキー・コンクールでウラディーミル・アシュケナージと並んで優勝し、一挙にスターダムに駆け上った。1960年代半ば、見紛うことなくEMIの花形アーチストとなったオグドンは、EMI側に二度、OCの録音を打診したが、丁重に断られた。しかしこのことによって、OCを録音・演奏しようとする彼の熱意は、いささかも減じることは無かった。
  同じ頃、ピアニスト、ロナルド・スミス(1922-2004)はOCの演奏に興味を示し、準備作業を始めていたらしい。ただ彼は視力が悪く、長らく暗譜での演奏を余儀なくされていたため、OCには不向きであった。実のところ、暗譜での全曲演奏は今まで無かったし、これからも無いだろう。オグドンのCDに寄せた、ロナルド・スティーヴンソンのOC概説は、分析の傑作であり傑作の分析であるが、恐らくペトリと同じ理由で、一方ならぬ時間OCを練習しながらも、スティーヴンソンは部分的でさえ公開演奏を行わなかった。


c0050810_11430772.jpg  1980年、オーストラリア人ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジが、移住先のオランダで4公演にわたって最初の2つの楽章を演奏した後、1982年にオランダ・フェスティヴァルの一環としてユトレヒトで全曲を通奏した。初演から半世紀を経た最初の公開上演は、3部の間の休憩を含めてすべてラジオで生放送され(!)、深夜の天気予報を1時間遅延させた。最終番組の代わりに、OCの第二カデンツァ、第四フーガ、終結部 - ストレッタと盛大な拍手を聞かされたリスナーの反応は不詳である。この演奏は、今は無きオランダRCSレーベルから、4枚組LPとして発行された。
  幾つかの抜粋演奏に加え、マッジはボン・シカゴ(1983)、モントリオール(1984)、パリ(1988)、ベルリン(2002)で全曲演奏を行った。シカゴ公演は1999年、スウェーデンBISレーベルから5枚組CDとしてリリースされた。
  1984年、当時英国を拠点としていたAltarusレーベルが、所属アーチストであるロナルド・スティーヴンソンに、OCの録音を打診した。OCは演奏しないことに決めていたスティーヴンソンはこれを残念ながら辞退したが、是非ジョン・オグドンを説得するよう、賢明にもAltarusに勧めた。オグドンは喜んで申し出を受け入れ、ただちに企画を進め、1985年と86年に全曲を録音したのだった。
  1988年、ロンドンのサウス・バンク・センターのクイーン・エリザベス・ホールにて、パークレーン・グループの協賛のもと、オグドンはOC全曲の歴史的なイギリス初演を行なった。96歳で存命だったソラブジは、意識は明晰だったが車椅子から離れることが出来ず、この素晴らしい公演に臨席はかなわなかった。悲しむべきことに、その3ヵ月後、ソラブジはこの世を去った。その直後、オグドンは作曲者を追悼して、ロンドンで再度の全曲演奏を行った。オグドンの録音は、60頁を超えるA5サイズの冊子を合わせた4枚組CDボックスとして1989年にリリースされ、批評家から絶賛を博した(後に、通常の5枚組CDとして再発された)。このとき、パークレーン・グループはオグドンのOC演奏旅行を起案しており、オグドン自身も《100の超絶技巧練習曲集》の録音と演奏を準備し始めていた。これらの計画は、その年の夏、オグドンが享年52で他界することにより頓挫した。
c0050810_11431711.jpg  この作品の全曲演奏に挑んだ4番目のピアニストはジョナサン・パウエル(1969- )である。現在まで4回を数えるその演奏の第1回は、パークレーン・グループに協賛され、サウス・バンクセンターのパーセルルームで行なわれた。パウエルはそれまでに、Altarusレーベルにソラブジの様々なピアノ作品の録音を手がけていた。他の同僚を大きく引き離して、パウエルは多くのソラブジ作品を演奏・録音しており、また彼はその浄書作業にも従事している。
  2009年、ベルギー人ピアニスト、ダーン・ファンデヴァレはOCのスペイン初演を行い、「クラヴィチェンバリスト」の放列に5番目に加わった。彼はベルリンでも再演した。
   ペトリとスティーヴンソンの先例に見られるように、OCを含むソラブジの真に大規模な鍵盤独奏曲は、奏者に過大な負担がかかり、通常の練習日程では準備をこなせないため、畢竟計画を長期化するしか解決法は無い。これはまさに、この作品を演奏した全てのピアニストに降りかかった事である(作曲者自身を除いて!)。ジョン・オグドンは公開演奏する前に30年余りを作品と過ごした。ジェフリー・ダグラス・マッジは初演へ向けて相応の時間を間歇的に費やした。ジョナサン・パウエルは最初の演奏時までの人生の半分以上を、じっくりと準備に向き合っていた。


c0050810_11425523.jpg  《オルガン交響曲第一番》(1923-24)をもって、ソラブジはこの種の多楽章の大規模作品の嚆矢と成し、そのジャンルに半世紀後の《ピアノ交響曲第6番》まで拘り続けた。同曲を完成するまでに、彼は《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》(1923-26)となる作品も併行していた(1940年代後半に書かれ、エゴン・ペトリに献呈された同じく「怒りの日」による、より大規模な《Sequentia Cyclica》とは別作品である)。この変奏曲は、彼のヒーローであるブゾーニに捧げるつもりだったが、作曲中にブゾーニが他界したため、彼を追悼する曲となった。これら二つの作品で、長大な変奏と大胆なフーガ書法へのソラブジの偏愛が初めて表明された。この傾向はほぼ終生変わることなく、彼の代表的な鍵盤作品の多くを特徴付けている。
  ソラブジの巨大な作品は大抵それだけでリサイタル一晩を占めるように意図されているが、多楽章形式を探求する2番目の作品は1928年に完成されたピアノ独創のための《トッカータ第一番》である。75分を所要するものの、彼の最長の作品の一つでは決してなく、2011年ロンドンでジョナサン・パウエルが初演した際はコンサート後半に置かれ、前半はブゾーニ《対位法的幻想曲》が取り上げられた。ある意味、《トッカータ第一番》は、その終結部の嬰ト短調の調性の点を含めて、OCの先駆的作品と言えよう。《トッカータ第一番》と《対位法的幻想曲》と組み合わせるパウエルの発案は、偶然にも《トッカータ》を完成した年のうちに、《対位法的幻想曲》と最も接近し関連付けられるOCの作曲を開始していた事実と、予期せぬ偶合をもたらした。
c0050810_11423093.jpg  ソラブジとブゾーニは1919年ロンドンで出会った。このイタリアの作曲家はソラブジを招いて近作を弾くよう促した。ブゾーニに《ピアノソナタ第一番》(1919)を披露したのは、ソラブジにとって明らかに決定的な体験だった。直後にブゾーニ自身のピアノ演奏を耳にし、そのピアニズムと作品にすっかり釘付けになった(特に印象付けられたのはブゾーニ《トッカータ》だった)。疑いなく、これらの出来事を経てブゾーニの存在が彼の心を占めるようになった。
   特に《オルガン交響曲第一番》《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》《トッカータ第一番》《OC》といった作品群は、バッハ自身やレーガー(1873-1916)の作品に加えて、作曲家でありバッハ研究家/編曲家であったブゾーニの影響下にあり、ソラブジの音楽に独特の過剰性をもたらした。
  先述のように、生涯を通じてソラブジはフーガ形式を偏愛したにも関わらず、OCは彼の全作品の中でも特異な位置を占める。この作品は実に、規模・語法・主題数を徐々に増加させる合計4つのフーガによって句読点を付けられている。OCの高度に労作され錯綜した対位法書法と自由なファンタジア楽章の結合は、《対位法的幻想曲》とのもう一つの重要な共通項となっている。


c0050810_11414698.jpg  OC冒頭の《入祭唱》《コラール前奏曲》では見まがうことなくブゾーニ的な雰囲気が漂い、その鍵盤書法のみならず、彼の舞台作品に見られる独特で両義的な和声法をソラブジが吸収していたことが伺える。これらの楽章では、あらかじめ作品全体に関わる幾つかの予告を行なっている。OCの多くの箇所で輝かしく音符がばらまかれるのに対し、冒頭部における硬直した単音の恐るべき下降は、黙示録第11章第5節の第七のラッパを思わせ、「終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり」(コリント第15章52節)という感覚を示唆するよりむしろ、14世紀初期のダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』の地獄の門口の銘文、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を想起させる。ソラブジのアルカンへのほとんど狂信的な献身を考えると、OCの一世紀前に書かれたアルカン:ヴァイオリンとピアノのための《協奏的大二重奏曲 Op.21》の中間楽章「地獄」を念頭に置いていたのかもしれない。この楽章は「闇深い深淵の、極めて荒涼とし強靭な音楽的幻視をもたらす」と評されているが、興味深いことに、19世紀末に書かれたブゾーニ:ヴァイオリンソナタ第2番の冒頭部との符合が見られる。
c0050810_12010685.jpg  《入祭唱》はOC最短の楽章である。続く《コラール前奏曲》は、ブゾーニによってピアノ用に編曲されたバッハ風コラール前奏曲に範を取っている。
  《コラール前奏曲》は、続く第一フーガを暗示して締め括られる。4つのフーガのうち最初のものは、単一主題で最も簡潔に書かれ、むしろ《トッカータ第一番》の書法と同種である。
  嬰ト短調で決然と終結した《第一フーガ》は、そのままアルカンとリストを回想するような急速で動的な技巧走句で満たされる《ファンタジア》へ続く。憤怒の抗議の身振りにも似た、破壊的な複調による終止を経て、対照的な二つの主題による《第二フーガ》では、《第一フーガ》を特徴付ける硬直した厳格さの中に、叙情的要素も加味される。この楽章も嬰ト短調で閉じられるが、この調性と嬰ハ長調がこの独自な楽章を土台として支えている。


c0050810_11415968.jpg  かくして第一部は終わり、代わって、第二部はゆったりとした塊状和音による主題により開始され、嬰ハ長調で終止する。ここから極めて対照的な性格を持つ49の変奏が生成される。最後から二番目の変奏(第46変奏)が両手の和音の猛攻で畳み掛けられ、最後の和音が霧散するまで放置された後、優美にさりげなく、豊饒たる繊細さの極みにむせかえる夜想曲(ソラブジが雄弁たるもう一つの側面)へ移行する。温室でまどろむような雰囲気は一転、とぐろを巻いていた蛇が突如鎌首をもたげ毒牙を剥き出すかのように、荒れ狂う結末を迎える。
  続く《第一カデンツァ》は、第一部の《ファンタジア》とは異なった、早口の走句の速射で特色付けられる。この短い楽章の次に来る《第三フーガ》は、《第一フーガ》と《第二フーガ》の性格を合体させ、拡張し、極限の強度へ到達する。この楽章も嬰ハ長調で終止し、かくして第二部は閉じられる。


c0050810_11413052.jpg   巨大な楽章である《第二間奏曲》は、トッカータ、アダージョ、パッサカリアの3つの部分から成っている。トッカータは、お察しの通り、偏執的な走句による金銀線細工の発展形である。意外にもニ短調で終わる。アダージョは、この種のソラブジ作品の中でも際立って静謐な夜想曲であり、全曲の中でも情緒的な核心部と言えよう。もっとも、先行作品の《主題と変奏》のように、その永続的な静穏さは、嬰ハ長調の持続低音上の最弱音に始まり圧倒的な最強音へ至る塊状和音の下降によって打ち切られる。この楽章の最終部分の主動機は、伝統的な3拍子のパッサカリア形式を下敷きにしながらも、それは貫徹されない。(《オルガン交響曲第一番》第1楽章の主部であるパッサカリアと同様で、こちらも81の変奏を含む。)再び、雰囲気・質感・性格のさらなる対比が全編を通して労作され、最終変奏では鍵盤全域に及ぶ激烈で多層的な最強音が噴出し、決然と嬰ハ長調で結論付けられるが、《主題と変奏》や「アダージョ」と異なり、その嵐のような最終和音が徐々に死に絶えてゆくかのような、非常に緩やかな締め口上(Epilogo)が、ppで始まりmpまで至るが最後はほとんど聴こえないppppへ沈むように後書きされる。
   引き続く《第二カデンツァ》は、全曲が持続低音Aの上に展開される。(持続低音はソラブジの大好物である。)《入祭唱》と同じく、非常に短い楽章であり、4分音符の和音の連射ののち、複調へ雪崩れ込む。
  《第四フーガ》の四つのフーガ主題は、先行する二つのフーガに比べてもより互いの対比が図られている。OCの4つのフーガのうちで最長であり、進行するにつれOCのほかの動機を組み合わせつつ、最終楽章《終結部 (ストレッタ)》へ導いてゆく。
c0050810_11411663.jpg  この最終節の目指すところは、前例の無いレベルまで対位法を錯綜させることで表現と質感を引き上げ、全曲を焼け付くような終末へ牽引し、レーガーのオルガン・フーガの最も気宇雄大な終結部のごとく、まさに津波のように破壊的な和音の物量をもって、その嬰ハ長調の決定的な勝利の爆発へ到達する事である。
  しかし全てはまだ終わっていない・・・最後の2ページは嬰ハ長調を含む幾つかの調性を通過しつつ、燃え盛る凱歌をあげるどころか、全曲劈頭《入祭唱》の地獄門へと回帰するのである。稲妻の炸裂が嬰ト短調で完了し、低音部の抗うような雷鳴は右手の房状和音とそれを支える左手の嬰ト短調の和音を包含する。エリック・チザムへの手紙で、ゲーテ《ファウスト》を引用しつつ、「私は常に否定するところの霊である(メフィストフェレス)」と、作曲者はこの箇所を説明している。
  OCはガリアのように3つの領分に分けられ、通常休憩が差し挟まれる。ジョナサン・パウエルの4回の全曲演奏のうち2回目・3回目・4回目では、最初の休憩を省略し、第一部と第二部を連結させた。(私の予想に反して、この方法は非常に効果的であった。もしピアニストがパウエルのように体力があるのならば!) 1930年のソラブジ自身による初演fでは2回の休憩を差し挟んだが、それらは非常に短いもので、集中力の強度が失われるのを恐れるかのように迅速にピアノへ戻り演奏を再開し、それでもなお魅了されていた聴衆の有り得べき身体的不快感を度外視したと云う。


  今夜の上演はOCの16回目の全曲通奏であり、日本初演、そして今夜のピアニストである大井浩明による最初の演奏である。 (アリステア・ヒントン/英ソラブジ・アーカイヴ)



------------
補足:ソラブジの戦後前衛への影響? ──野々村 禎彦

c0050810_11404974.jpg ソラブジ協会のヒントン氏による詳細な作品/作曲家解説に、「戦後前衛との関連」に関する補足を依頼されたが、ソラブジ作品から戦後前衛への、通常の意味での影響関係は皆無としか言いようがない。氏の解説にもある通り、1936年に《オプス…》の悲惨な演奏を聴いて自作の公開演奏を禁止して以来、この禁止は1976年まで解かれることはなかったのだから、影響などあろうはずがない。

 技術水準のみを問題にするならば、ジョン・オグドンはチャイコフスキー・コンクールで優勝する以前からソラブジ作品に取り組んでおり、彼でも不満はなかったはずだ。彼はヴィルトゥオーゾ志向の作曲家でもあり、ソラブジ作品に強く共感していた。それにもかかわらず、ソラブジが自作の公開演奏を禁止し続けたのは、前衛の時代には自作が正当に評価されないことを見越していたのだろう。実際オグドンはこの時代に、ピアニストとしての評価に比べて作曲家としての評価が低いことに悩むうちに精神の平衡を崩し、1973年には演奏活動を休止して療養生活に入った。

c0050810_11394797.jpg 現代音楽界で「新ロマン主義」が脚光を浴びたのは1974年だった。1976年はこの傾向が一過性の流行ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家たちの多くも巻き込んだ潮流になることが見え始めた年であり、結局ソラブジの音楽は戦後前衛とは相容れないものだった…という単純な話でもなかった。彼は自作演奏を再び許可したものの、当時取り組んでいたピアニストに満足していたわけではなく、措置は暫定的なものだった。この措置が永続的なものになるにあたっては、ジョフリー・ダグラス・マッジが《オプス…》に取り組み始めたことが大きな役割を果たした。

 大井はクセナキス《シナファイ》の録音で国際的に注目されたが、この難曲を最初に録音したのが他ならぬマッジである。主にオランダでクセナキス作品など現代弾きとして鳴らした彼は、戦後前衛が曲がり角を迎えるとクシェネック、スカルコッタスら、1900年前後に生まれた忘れられた作曲家たちにレパートリーを広げる中で《オプス…》に出会った。彼の解釈をソラブジは高く評価し、彼は《オプス…》を最初に録音した。すなわち、ソラブジは自作が後期ロマン派の超絶技巧探求の延長線上で解釈されることに満足できず、現代音楽の演奏経験を踏まえたモダンな解釈を望んでいた。

 《オプス…》演奏史で次に大きな位置を占めるのは、マッジにはまだ残っていた後期ロマン派的な身振りを削ぎ落としたジョナサン・パウエルだが、彼もフィニスィー《英国田舎唄》(1977/82-85) 改訂版の全曲演奏でデビューした生粋の現代弾きである。マッジは《オプス…》を繰り返し全曲演奏している以外はソラブジ作品にはあまり深く関わってはいないが、パウエルは中期・後期のより錯綜した作品群までレパートリーにしており、ソラブジの難読手稿譜を浄書して演奏のハードルを下げるプロジェクトの中心人物のひとりでもある(ただし、《オプス…》の作業は担当していない)。

c0050810_03005260.jpg ソラブジの音楽は前衛の時代に評価されるような音楽ではないが、その反動としての後期ロマン派回帰で済まされる音楽でもなかった。その立ち位置は、マイケル・フィニスィー(1946-) の音楽にも通じるものがある。フィニスィーはファーニホウと並ぶ、英国での「新しい複雑性」の創始者だが、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の失地回復を目指したファーニホウとは異なり、J.シュトラウス二世やヴェルディ作品の「編曲」を前衛の時代末期から試み始めた、ヴィルトゥオーゾ志向の持ち主だった。彼もソラブジ同様、作曲家=ピアニストである。ただし原曲の面影を残しているのは輪郭のみで、個々の音符はセリー操作で変換され、「新ロマン主義」とも明白に異質である。

 英国ならではの中庸を行く姿勢はソラブジからフィニスィーに受け継がれ、演奏実践から見ても、パウエル以降のソラブジ演奏はフィニスィー体験が基盤になっている…という傾向はなくもないが、フィニスィーのスタンスはそこまで独特でもない。米国実験音楽第二世代のフレデリック・ジェフスキー(1938-) の立ち位置も、極めて近い。前衛の時代にはシュトックハウゼン作品などの演奏で鳴らした彼は、MEVでの集団即興を経て前衛の時代末期にはミニマル手法を用いた政治参加の音楽に取り組んだ。前衛の時代が終わると民衆歌や抵抗歌を素材に、即興経験を生かして複雑に変奏する作品群で自己を確立した(《「不屈の民」変奏曲》(1975)、《北米バラード》(1978-79) など)。

c0050810_11501842.jpg ただしジェフスキーのこのような方向性は、英国実験音楽を代表する作曲家=ピアニストのコーネリアス・カーデュー(1936-81) の活動をモデルにしている。シュトックハウゼンの助手としてセリー音楽を書き始めたが、ニューヨーク楽派の音楽に接して自由度の高い図形楽譜に移行し、AMMでの集団即興を経てアマチュア音楽家集団スクラッチ・オーケストラを結成し、やがて毛沢東主義に傾倒してそれまでの活動をブルジョア的だと自己批判し、自動車事故による早逝までは民衆歌や抵抗歌を民衆に馴染み深い様式=後期ロマン派風の変奏曲として処理する書法に落ち着いた。ジェフスキーの歩みは、短い生涯を生き急いだカーデューの人生を緩やかに辿り直したものだった。

 もはやソラブジとは何の関係もない話に見えるかもしれないが、彼らのその後に及んでようやく、ソラブジとの糸が繋がってくる。ソラブジ作品の最も特異な点は、常識外れの長大な演奏時間を持ちながら、小品集という伝統的な形態には収まっていないことだが、死後も衰えないソラブジの名声をなぞるかのように、彼らも20世紀末から21世紀初頭にかけて、《オプス…》すら凌ぐ長大なピアノ独奏曲を書いた。フィニスィー《音で辿る写真の歴史》(1995-2001) は6時間、ジェフスキー《道》(1995-2003) は10時間を全曲演奏に要し、彼らの創作史の総括にもなっている。



[PR]
# by ooi_piano | 2017-02-08 01:38 | POC2016 | Comments(0)