「現代音楽が好きだと言ってるヤツは、しょせん口先だけだ」

数年前、マティアス・シュパーリンガーの大作《エクステンション》を日本初演した際、かなり綿密に書き込まれたスコアであるにも関わらず、作曲家自身からの仔細な注解が無ければ、第1ページ目から演奏不能でした(当時のメモその1・その2・その3)。
現代音楽の作曲家は「面白い楽譜を書ける人」に過ぎず、ジョン・ケージの図形楽譜の初演は完全にデイヴィッド・テュードア任せでしたし、マウリツィオ・ポリーニは作曲家と一度も会うこと無くブーレーズ・第2ソナタやシュトックハウゼン・ピアノ曲Xを演奏・録音しました。クセナキス作品の演奏伝統など一切実在しなかったことは、この目で最終確認しました。このあたりの事情は、既にこのブログで何度も触れた通りです。
私はクセナキスやブーレーズに直接会ったことがありません。会おうと思ったことも無いのが、我ながら不思議でもあります。平安神宮の前を朝夕毎日10年間自転車で通過しながら、中に一度も入ったことが無かったのを思い出します。銀閣寺道は知っていても、いまだに銀閣寺には行ったことが無い。ベルン芸大の斜向かいに立地するアインシュタイン・ハウスの中を覗いたのは、渡欧してから3年目、理学部の友人を案内した際でした。
ブー《第3ソナタ》は、音楽的にはカスであっても音楽史的には教科書で特筆されている有名作品です。ドミニク・ジャムー著「Pierre Boulez」(原語版・英語版)では、第3ソナタの「楽章名」ならびに「演奏順」について、もしそれが事実なら、看過出来ない重大な指摘が見られます。
[1] Constellation と Constellation-Miroir の演奏順序(楽章名について)
第3フォルマンの楽譜は「Constellation-Miroir」(コンステラシオン、その鏡像形)というタイトルで出版(Universal Edition)されており、「Melange>Point3>Bloc2>Point2>Bloc1>Point1」の順で「左から右へ」印刷されています。楽譜の指示によれば、「Melange から始めて、同種のグループ(les ensembles homogene/the homogeneous groups [pointとblocのこと]を交互に弾く」とあります。これによれば、「Melange>Point3>.....>Point1」が鏡像バージョンであるということになります。
出版譜序文には書かれていませんが、ブー自身の論文「Sonate, que me veux-tu ?」(ソナタよ、お前は私に何を望むのか?)によれば、このフォルマンは演奏が可逆的であり、オリジナルと鏡像の関係にあるとされています。そして、「Point1>.....>Point3>Melange」がオリジナル(正立形)で、「Melange>Point3>.....>Point1」が鏡像型であるとされる。これは楽譜の指示に一致します。
これに対して、Dominique Jameuxの「Pierre Boulez」によれば、反対に、「Melange>Point3>.....>Point1」がオリジナル、「Point1>.....>Point3>Melange」が鏡像型であるとされています。
これは、Jameux の記述が間違っている、ということで宜しかったでしょうか。
[2] 第2・第3フォルマンを続けて演奏する際の、第3フォルマン内の演奏順序
Jameux によれば、formant2と3を一緒に演奏する場合、formant2 > formant3 の順で演奏するなら、formant3は「Melange>Point3.....>Point1」の順で演奏されなければならないそうです。(Jameuxの言う「オリジナル・バージョン」。ブーの言う「鏡像バージョン」)。一方、formant3 > formant2 の順で演奏されるなら、「Point1>.....>Point3>Melange」>formant2 の順で演奏されなければならないそうな。(Jameuxの言う「鏡像バージョン」。ブーの言う「オリジナル・バージョン」)。
どちらの場合も、Melangeは「Constellation全体の小宇宙」(Boulez)であると同時に、TropeとConstellation(-Miroir)とを結びつけるものだそうで、してみると、可能な演奏順序は次の二つのみ、となります。
1. Trope > Melange > Point3 > ..... > Point1
2. Point1 > ..... > Point3 > Melange > Trope
Jameuxは、「このルールは今日ではしばしば無視されている」と述べています。この、楽譜にもなく作曲家エッセイにも見当たらない、しかしその実極めて重大な「ルール」の典拠は、いったいどこにあるのでしょう。口頭でブーがジャムーにそう言ったから、としか思えないのですが。信じるか信じないかは、あなた次第・・・・、ってやかましいわ。
ブー生誕70周年の1995年に京都で、翌年に東京で全ピアノ作品によるリサイタル(2台ピアノ曲とソナチネを含む)を行って以来、第3ソナタの曲順問題は常に脳裏にありました。ブー周りの演奏家・作曲家・音楽学者に訊いてみると、曰く、「リハーサルでは曲順は全く話題に上らなかった」、「大昔に書いた曲だから、手元に楽譜が無いと答えられないと言われた」、「アタシのことを莫迦だと思ってくれていい」等々、とにかくブー様の逆鱗に触れてはならぬとの自主規制なのか、謎は深まるばかり。ダルムシュタットでの作曲家自身による世界初演を目撃した園田高弘氏によると、初演直後に譜面台を覗いたら、真っ白けの殴り書きの断片しか書き込んで無かったそうだし。
ここ数十年、ブーに第3ソナタの帰趨を質問するのは、最早「お約束」の恒例行事であり、中性洗剤に「第2ソナタはいつになったら弾いて下さるんですか」「ソナタは長過ぎボクの人生は短い」と愚問愚答するのと同様、各所で馴染みの光景となっています。完成するのか、と訊かれれば、勿論「いつか完成したいと思っている」「やる気が出れば完成する」、と答えるに決まってます。今年に入って増補改訂したとの情報もありますが、プリ・スロン・プリ程度には整理整頓したのでしょうか。
このジャムー本、入門書として中々コンパクトにまとまった本にも関わらず、英訳は絶版、邦訳の話も出た形跡がありません。ブー20歳時の無理心中やら性的嗜好に触れたペイザー本など、私は退官間際の鴫原教授から譲り受けたものの、今後日の目を見ることも無いでしょう。ブー真理教の発生がIRCAM設立以降であると思われるのは、藤倉大の厚遇ぶりに比べ、それ以前にブーが指揮した松平頼則や松下眞一の不遇っぷりが半端で無いからです。海原はるか・かなたの髪吹きネタを、誰かがブーのバーコード頭へ特攻するわけでもあるまいに、京都では宮内庁記者会見なみの戒厳令との由。ブーを崇め奉ってみせる陣笠連のうち、何人がマルトーを口ずさめるでしょうか。御本人が「怪我のため」指揮をキャンセルした話は先週初めには確定済みなのに、いつまでも告知されないのも不思議です。もう肘から先が上がらない、という噂は本当でしょうか。84歳にして全楽器の高音域はいまだに聞き取れているんでしょうか。70年代のインタビューでは、「鹿威(ししおど)しには一分と我慢出来ない」と明言していたのに、ジャパンマネーに目が眩んだか、今更「日本伝統文化は心から敬意の対象」などとリップサービスされても、京都人としては真に受けられまへんえ。
音色音色と連呼しているわりには、ウィリアム・クリスティを虚仮にするブーは、正しく前世紀の遺物です。生前のクセナキスの親友であったラドゥ・スタン氏は、痴呆症になったのは京都賞の所為だと言わんばかりに慷慨しておられましたけれども、ブー様の最晩年の御健勝をお祈りする次第です。
20歳から30歳までオンド・マルトノで喰っていたブーレーズに敬意を表して、ナズィアールによるグリッサンドが挿入されている・・・わけないか。

数年前、マティアス・シュパーリンガーの大作《エクステンション》を日本初演した際、かなり綿密に書き込まれたスコアであるにも関わらず、作曲家自身からの仔細な注解が無ければ、第1ページ目から演奏不能でした(当時のメモその1・その2・その3)。
現代音楽の作曲家は「面白い楽譜を書ける人」に過ぎず、ジョン・ケージの図形楽譜の初演は完全にデイヴィッド・テュードア任せでしたし、マウリツィオ・ポリーニは作曲家と一度も会うこと無くブーレーズ・第2ソナタやシュトックハウゼン・ピアノ曲Xを演奏・録音しました。クセナキス作品の演奏伝統など一切実在しなかったことは、この目で最終確認しました。このあたりの事情は、既にこのブログで何度も触れた通りです。
私はクセナキスやブーレーズに直接会ったことがありません。会おうと思ったことも無いのが、我ながら不思議でもあります。平安神宮の前を朝夕毎日10年間自転車で通過しながら、中に一度も入ったことが無かったのを思い出します。銀閣寺道は知っていても、いまだに銀閣寺には行ったことが無い。ベルン芸大の斜向かいに立地するアインシュタイン・ハウスの中を覗いたのは、渡欧してから3年目、理学部の友人を案内した際でした。
ブー《第3ソナタ》は、音楽的にはカスであっても音楽史的には教科書で特筆されている有名作品です。ドミニク・ジャムー著「Pierre Boulez」(原語版・英語版)では、第3ソナタの「楽章名」ならびに「演奏順」について、もしそれが事実なら、看過出来ない重大な指摘が見られます。
[1] Constellation と Constellation-Miroir の演奏順序(楽章名について)
第3フォルマンの楽譜は「Constellation-Miroir」(コンステラシオン、その鏡像形)というタイトルで出版(Universal Edition)されており、「Melange>Point3>Bloc2>Point2>Bloc1>Point1」の順で「左から右へ」印刷されています。楽譜の指示によれば、「Melange から始めて、同種のグループ(les ensembles homogene/the homogeneous groups [pointとblocのこと]を交互に弾く」とあります。これによれば、「Melange>Point3>.....>Point1」が鏡像バージョンであるということになります。
出版譜序文には書かれていませんが、ブー自身の論文「Sonate, que me veux-tu ?」(ソナタよ、お前は私に何を望むのか?)によれば、このフォルマンは演奏が可逆的であり、オリジナルと鏡像の関係にあるとされています。そして、「Point1>.....>Point3>Melange」がオリジナル(正立形)で、「Melange>Point3>.....>Point1」が鏡像型であるとされる。これは楽譜の指示に一致します。
これに対して、Dominique Jameuxの「Pierre Boulez」によれば、反対に、「Melange>Point3>.....>Point1」がオリジナル、「Point1>.....>Point3>Melange」が鏡像型であるとされています。
これは、Jameux の記述が間違っている、ということで宜しかったでしょうか。
[2] 第2・第3フォルマンを続けて演奏する際の、第3フォルマン内の演奏順序
Jameux によれば、formant2と3を一緒に演奏する場合、formant2 > formant3 の順で演奏するなら、formant3は「Melange>Point3.....>Point1」の順で演奏されなければならないそうです。(Jameuxの言う「オリジナル・バージョン」。ブーの言う「鏡像バージョン」)。一方、formant3 > formant2 の順で演奏されるなら、「Point1>.....>Point3>Melange」>formant2 の順で演奏されなければならないそうな。(Jameuxの言う「鏡像バージョン」。ブーの言う「オリジナル・バージョン」)。
どちらの場合も、Melangeは「Constellation全体の小宇宙」(Boulez)であると同時に、TropeとConstellation(-Miroir)とを結びつけるものだそうで、してみると、可能な演奏順序は次の二つのみ、となります。
1. Trope > Melange > Point3 > ..... > Point1
2. Point1 > ..... > Point3 > Melange > Trope
Jameuxは、「このルールは今日ではしばしば無視されている」と述べています。この、楽譜にもなく作曲家エッセイにも見当たらない、しかしその実極めて重大な「ルール」の典拠は、いったいどこにあるのでしょう。口頭でブーがジャムーにそう言ったから、としか思えないのですが。信じるか信じないかは、あなた次第・・・・、ってやかましいわ。
ブー生誕70周年の1995年に京都で、翌年に東京で全ピアノ作品によるリサイタル(2台ピアノ曲とソナチネを含む)を行って以来、第3ソナタの曲順問題は常に脳裏にありました。ブー周りの演奏家・作曲家・音楽学者に訊いてみると、曰く、「リハーサルでは曲順は全く話題に上らなかった」、「大昔に書いた曲だから、手元に楽譜が無いと答えられないと言われた」、「アタシのことを莫迦だと思ってくれていい」等々、とにかくブー様の逆鱗に触れてはならぬとの自主規制なのか、謎は深まるばかり。ダルムシュタットでの作曲家自身による世界初演を目撃した園田高弘氏によると、初演直後に譜面台を覗いたら、真っ白けの殴り書きの断片しか書き込んで無かったそうだし。
ここ数十年、ブーに第3ソナタの帰趨を質問するのは、最早「お約束」の恒例行事であり、中性洗剤に「第2ソナタはいつになったら弾いて下さるんですか」「ソナタは長過ぎボクの人生は短い」と愚問愚答するのと同様、各所で馴染みの光景となっています。完成するのか、と訊かれれば、勿論「いつか完成したいと思っている」「やる気が出れば完成する」、と答えるに決まってます。今年に入って増補改訂したとの情報もありますが、プリ・スロン・プリ程度には整理整頓したのでしょうか。
このジャムー本、入門書として中々コンパクトにまとまった本にも関わらず、英訳は絶版、邦訳の話も出た形跡がありません。ブー20歳時の無理心中やら性的嗜好に触れたペイザー本など、私は退官間際の鴫原教授から譲り受けたものの、今後日の目を見ることも無いでしょう。ブー真理教の発生がIRCAM設立以降であると思われるのは、藤倉大の厚遇ぶりに比べ、それ以前にブーが指揮した松平頼則や松下眞一の不遇っぷりが半端で無いからです。海原はるか・かなたの髪吹きネタを、誰かがブーのバーコード頭へ特攻するわけでもあるまいに、京都では宮内庁記者会見なみの戒厳令との由。ブーを崇め奉ってみせる陣笠連のうち、何人がマルトーを口ずさめるでしょうか。御本人が「怪我のため」指揮をキャンセルした話は先週初めには確定済みなのに、いつまでも告知されないのも不思議です。もう肘から先が上がらない、という噂は本当でしょうか。84歳にして全楽器の高音域はいまだに聞き取れているんでしょうか。70年代のインタビューでは、「鹿威(ししおど)しには一分と我慢出来ない」と明言していたのに、ジャパンマネーに目が眩んだか、今更「日本伝統文化は心から敬意の対象」などとリップサービスされても、京都人としては真に受けられまへんえ。
音色音色と連呼しているわりには、ウィリアム・クリスティを虚仮にするブーは、正しく前世紀の遺物です。生前のクセナキスの親友であったラドゥ・スタン氏は、痴呆症になったのは京都賞の所為だと言わんばかりに慷慨しておられましたけれども、ブー様の最晩年の御健勝をお祈りする次第です。
20歳から30歳までオンド・マルトノで喰っていたブーレーズに敬意を表して、ナズィアールによるグリッサンドが挿入されている・・・わけないか。

2年前に脱力法についての一連の記事(
既成のピアノ奏法論が完璧なシステムならば、誰でも習えば楽にピアノが弾けるようになり、そのまま音楽とともに幸せな一生を過ごすことが出来る筈です。ピアノは10年習ったけれど、ショパンのワルツも弾けるようにはならなかった、と何度打ち明けられたことでしょう。あるいは、音大ピアノ科卒業者のうち、ピアノ、ひいては音楽そのものが嫌いになり、一切の関わりを持たなくなった人の割合のいかに高いことか。才能が無いから駄目、早期教育を受けないと駄目、良い楽器・環境で長期間練習しないと駄目、などのエクスキュースが準備されているのも、そもそも奇妙な話です。実のところ、教育者の方々は、「なぜか弾けない」元凶としばしばなりうる指先成分の動きについて、過度に強調するどころか、反対に、そこからどうにかして目を逸らさせるために粉骨なさっているのでは無いでしょうか。そこで御提案するのが、指先成分を可能な限り排除した鍵盤奏法です。
●鍵盤楽器に共通する問題
●モダンピアノの無意味に重い鍵盤
●われ爆音主義を待ち望む
指が動いてくれない、という壁を突破するためには、「ピアノをどうやって弾くか(奏法認識)」というソフト側と、「体をやわらかくしておく(大枠)」のハード側、その両側からトンネルを掘り進み開通させるのが賢明だと思います。第1部で述べたのが前者で、これから述べるのが後者です。もしこの世に完全無欠な鍵盤奏法というものが存在するなら、年をとろうが何をしようが指は回り続けるでしょうし、ピアノのみならずくチェンバロもクラヴィコードもオンド・マルトノでもこなせる筈です。また、いかなる手の変位も体が柔軟に受け流すことが出来るなら、あらゆる体操選手はピアニストへ転職可能でしょう。
この項では、筋肉が滑らかに連動するための準備体勢(姿勢による下拵え)について、概観していきます。
胸に硬いクッションをあててうつ伏せに寝、全身をリラックスさせると、呼吸する胸とクッションの押し引きに連動して、体のさまざまな部分が緩やかに動いていることが分かります。これが脱力の基本です。
肩甲骨を硬直から解き放つためには、まずは首周りを徹底的にリラックスさせることです。それには、頭が軽やかに背骨の上でバランスを取っている必要があります。首周りで一番ネックになるのは何と言っても、両耳の後ろから項(うなじ)にかけての部位です。知らず知らずのうちに、このあたりを萎縮させていると、いつしか猛毒が全身に回ります。逆に言うと、全身の解毒(げどく)をしたければ、首元から手をつけるべきでしょう。
余りにも猫背が長年の癖になっている場合、腰を反らせたり背中の下部を突っ張らせずに「姿勢を正しく」することは、いわば真後ろへ向かって体を落下させるに等しい恐怖です。ゆえに猫背は治らず、首周りの硬直もなかなか取れない。良い姿勢を習慣付けていけば、いきなり筋肉が滑らかに動かなくとも、少なくとも筋肉の突っ張りを感じ取れるようにはなって来ます。これは不必要な硬直をほぐしていくための、非常に重要なステップです。一見ラクなダラけた体勢は、そのじつ自分の背骨そのものに寄りかかるに等しく、肩凝り・腰痛の原因となります。いわゆる姿勢の良い人は、見た目の美しさや倫理的規範にしたがって姿勢を正しくしているのではなく、単にラクだから背筋を伸ばしているのです。「正しい姿勢」とは、筋肉の不必要な硬直を起こさないために、体の各部位の重みが適切なバランスを取れる体勢のことであり、結果としての外見の美しさは二義的なものです。
腰周りがリラックスするためには、まず骨盤を立てて坐骨で座ることです。坐骨というのは、骨盤の一番下にある2つの突起です(図参照)。坐骨で座る、とは、頭蓋骨を乗せた背骨の重みを、骨盤が効率よく支える、ということです。
坐骨で座れているかどうかを判別するためには、腿を少しあげ前後左右に動かしてみて、腰周りの安定性を確かめるのと良いでしょう。腰周りがリラックス出来ていないと、演奏中に足が不要にバタバタ動いたり、腿(もも)がリキんで競(せ)り上がってきたりします。初期フォルテピアノでは、両足の太腿で鍵盤裏側(下面)の「膝レバー(膝ペダル)」を操作しなければなりませんし、オルガンの足鍵盤では持ち上げた足を前後左右へ自在に滑り下ろす必要があります。坐骨で座れていないと、太腿をあげるたびに上半身がグラつき、膝レバー・足鍵盤の操作のみならず、手鍵盤にも深刻な影響を与えます。モダン・ピアノですと、肩周りをかためて鍵盤を押さえ付け、腰周りを固めてガチガチの足首でペダルを踏み付けても、一応音は出せるため、かくして各人各様の気侭な「演奏スタイル」が生まれます。
さて、立った状態から椅子へ座る際の座り方、また椅子からの立ち上がり方についても、十分注意が必要です。これには、足を開いて腰を上げ下ろしする、相撲の腰割り(wide-stance squat)が一番でしょう。両足を肩幅より広く、逆ハの字型に開いて立ちます。爪先と膝は同じ方向になるよう、内股を緩め股関節を調節します。(この、股関節~膝~爪先を「逆ハの字型」に揃えることが、肩甲骨面の「逆ハの字」同様、最も重要なポイントだと思います。)顔を真正面に向け、背骨は地面と垂直のまま、太腿が床と平行になるまで、息を吸いながら腰を下ろして(しゃがんで)いきます。そして、息を吐き出しながら元に戻します。普通のスクワットと違ってお尻を突き出さないように、また膝が爪先より内側(の角度)に入って来ないようにします。先述の丹田呼吸、肛門閉めも意識してみましょう。膝を90度以上曲げるのは有害のようです。最初は壁に沿ってやったり、慣れてきたら頭の後ろや胸の前で両手を組む、などのヴァリアントもあります。腰の上げ下げを最も邪魔するのは、意外にも肩周りの硬直のようです。I.B.のチェックが目的ですので、筋肉の微細な突っ張りを一つ一つ丁寧にほぐし、観察していきましょう。突っ張りが無ければ、上半身全体が錘(おもり)となり、まるでフタを取った便器に尻が落ち込んでいくような重心移動を体感出来ます。
2-aの条件下で、手首~肘~肩甲骨を連動させるエクササイズを導入していきます。
解剖図を見ながら××筋を動かし××筋を動かさないように、と思ってみても、特に肩周りでは、そうは簡単にことは運びません。付加的な指令を脳から発信するのは諸刃の刃(やいば)で、使用は限定した方が良いでしょう(次章参照)。動きを支える部位の準備が出来たら(前章参照)、あとは筋肉が勝手に回りだしてくれるのを待つのがベストです。勝手に動いてくれたときが、筋肉の組み合わせが最も効率化されているからです。
以下、揺する側(A)・揺すられる側(B)の視点を、適宜シフトしながら書いていきます。いま揺する側(A)は人間を想定していますが、最終的にはこの(A)は楽器そのものです。すなわち、「ピアノに手をつかまれ、揺さ振られている」、という見方です。
【1】・・・ AがBの手に触れる前に、既にBが手を差し出して来ることがあります。両腕は全行程を通じて、ブランと垂れ下がったままにしてもらって下さい。赤の他人に手を握られる心理的抵抗感、あるいは、急に腕に放されてその落下の衝撃を受ける恐怖(=高所恐怖症の一種)から、脇や腕を硬くしてしまわないようにしましょう。腕の「脱力」を確認するため、ピアノ教師が生徒の腕をガッと持ち上げ、急に放して自由落下するかどうかテストすることがありますが、果たして、一般に演奏中も始終その「落下状態」は守られているでしょうか。
【2】~【4】・・・ AがBの右手を取って高音域側へ動かそうとすると、右脇が閉まってAの手を引っ張り返してしまう(【2】)。鍵盤位置から手首を上へ持ち上げていくと、今度は吊り橋のように垂れているべき肘がリキんで外側へ張り出し、脇が開く(【3】)。手首の位置を胴体側へ押し込んでいくと(=手押し相撲)、肩と肘が背中方向へ退却し受け流すことなく、脇が締まり、胸の手前で肘が折り畳まれてしまう(【4】)。 ・・・というのが、よくあるパターンでした。
【5】~【8】・・・ 手首を揺すられたときに肩甲骨がブラブラと連動してくれない、あるいは揺すられると手首位置の移動に支障が生じたりするのは、硬い肩、すなわち首周りの緊張に起因しています。肩が「開端」していないことにより波動が堰き止められていることは、Bには自覚出来ていなくても、Aは如実に手元で感じることが出来ます。縄跳びの縄を左右に振ってヘビごっこをする際、縄の一方が結び付けられているかどうかは、手元ですぐ判別出来るのと同様です。
●自分で揺すってみる場合
第1-b章で述べたように、自分自身で手を持ち上げる場合、「前腕の真ん中あたり(手首と肘の間)がヘリコプターで吊り下げられている」、あるいは「下からT字杖(or物干し竿受け)でリフトアップされている」、という体感イメージがベストだと思います。これは、前腕の尺骨、すなわち手首の小指側の付け根と肘を結ぶラインを動きの支点とするに等しい。もし手・腕のどこかに意識をあてるとするなら、それは指先ではなく、尺骨の真ん中(重心)あたりであれば、手首から先をリキませずに済みます。
手首~肘~肩甲骨の連動について、別経路で考えてみます。まず腰の横に両腕を垂らします。そのまま上半身全体を左右に捻ると、両腕はデンデン太鼓のように投げ出され、振り回されます。一挙に両腕ともデンデン太鼓状態にするのは難しいので、例えばまず右腕は胴体にぴったり貼り付けて固定しておいて、左腕だけをブンブン回す、その次に左腕を固定して右腕を振り回す、最後に両手で、という順を追っても良いでしょう。脇の上で、肩甲骨と鎖骨がクランクシャフトのような押し競饅頭をしているのを感じること。
今度は、手首のかわりに足首を持ち上げて、揺すってみましょう。手首のときと同様、足首はフワッフワの状態のままにします。椅子や地面があるとどうしても踏ん張ってしまいたくなるので、例えば空中に浮かぶ椅子に、タケコプターで着地する、とイメージしましょう。当然タケコプターは頭の天辺についています。椅子は宙に浮かんでますので、座っても足首は空中に垂れ下がっています。椅子を取り払うと、元のタケコプター飛行状態(=手足ともにダランと垂れている)に戻ります。・・・この喩えが想像しにくい場合は、プールサイドで水に足を漬けている状態、と言ったほうが早いかもしれません。どちらにしても、椅子には坐骨で座っています。
左項(専門学生的)、右項(アマチュア的)ともに、長所・短所があると思います。クラシックの演奏家が古楽器や現代曲に手を出さないのは、プロフェッショナル的(11)とも言えるし、アマチュア的(2、4、6、8)とも批判され得る。重音のパッセージが弾けない、クラヴィコードがうまく発音出来ない、あるいは寝違えや四十肩で指が回らなくなって右往左往するのは、解決法がメソッド化されていない(4)、奏法の根源的見直しや長期間の忍耐を要する(6)、という点で、本来はプロにとって、がぷり四つに組むべき課題ではあります。
先述の「専門学生的」と「アマチュア的」の対比と同様に、先生側・生徒側双方に、各々の要素が混在するのが普通です(ドビュッシーは得意だけどバッハは頓珍漢、etc)。良心的なボディワークでは、行き当たりばったりの思いつきを投げかけることは無いでしょうが、壁に突き当たった際に途方にくれる点では五十歩百歩です。胃の中の紐を引っ張ればクシャミが出る、というほど人間の体は単純では無いので、約(つづ)まるところ、壁に向き合い続けるのは自分自身の意思・忍耐でしかない。
上記で二極化した右項目に該当する演奏家は、なんだかんだで貴重な存在ですが、現代音楽演奏コンクールで優勝して日が当たるのが常に右項系とは限りません。もっとも、右項系は右項系で、バッハなど弾かせると左項系真っ青の古色蒼然たる解釈だったりしますので、情けない限り。
さて、上記の右項系が抱える宿痾は、何と言っても「不真面目さ」「不徹底さ」でしょう。いつになっても左項系から不審視される所以でもある。
2-aの条件下で2-bのエクササイズをやっても、それでも筋肉が動き出してくれない場合の、ありがちな死角・盲点・ブラックボックス、そしてその突破口について考察していきます。
出来るときは何も考えなくても出来るし、出来ないときは色々工夫しても動かない、というのが筋肉の厄介なところです。動かない元凶を意識の表層に引き摺りだすことが、この奏法論の
ある動きを行うために、(A)大枠を支える筋肉、(B)その動作のために縮むべき筋肉、(C)そして何もすべきで無い筋肉があります。弾けているときは、その「支え」や「緩め」はほとんど意識されません。(A)がシュッと屹立していなくても指は回りますが、そこへいつしか(C)が余計な介入を始めたときに、指は回らなくなります。筋肉のストレッチとは、(C)を何もしないままで置くための、神経回路の構築(あるいは再構築)のことです。ある動きに対して、どの筋肉が(A)なのか(B)なのか(C)なのかは、ありとあらゆる側面から自分自身で感じ、探り当てていくしかありません。2-aの「首周りのリラックス」で触れた、三面八臂の阿修羅の喩えを御参照下さい。
筋肉のストレッチとは、なにごともなく無抵抗に動く可動域を少しずつ広げていくことです。体の中心線を基準に最短距離で動いていたものが、いつしか奇妙なS字の寄り道を始める。痛み自体は鍼灸や冷却で抑えることが出来るかもしれませんが、「遠回り」癖は自分の脳で矯正するしかない。骨・筋肉・内臓が全てドロドロの液状になったように感じるのは無理にしても、関節をすべてはずして中国雑技団になった「つもりのつもり」を念じるだけでも、存外に変化はあらわれます。因みに、私は生まれてこの方、膝をのばして両手が地面に付いたことが無いほどの体の固さですが、手首の角度と肩甲骨の回転をシンクロさせる程度のことは出来るようになりました。
硬直の観測は、空間的あるいは時間的なラグを伴うことがあります。前者は、硬直している部分そのものではなく、その周りの部位の痛みによって異常が推定される現象です。後者は、筋肉を伸ばしていくときに発生した硬直が、伸ばし切ったのちに戻していく際にやっと感知されたり、あるいは、息を吸い込むときに発生していた硬直が、息を吐くときになってやっと観測されるようなケースです。つまり、「戻していくとき」「息を吐くとき」の異常のチェックにも、決して油断をしないこと。
ピアノのレッスンでは、生徒の自主性を尊重して、あえて曖昧にアドヴァイスを与える場合があります。曰く、「もっと明るく」、「もっと夢見て」、「もっと溌剌と」、「もっと悲しげに」。幼少時からレッスン慣れしている生徒にはこれで十分でしょうが、それでもピンと来ない生徒には、勿論幾つかの具体的なトリックを教えるのが教師側の義務となります。
頭の中で描く体の構造と実物との差異を知り、筋肉はこのように動く筈だ、という思い込みを捨て去るために、解剖図解説書に眼を通すのは勿論有益です。いったん手綱を手放すのは不愉快であり恐怖でもありますが、向き合う勇気を持ちましょう。例えば、上腕と前腕が組み合わさっている部分、肘の外側にちょっとした(指半分くらいの)スキマがあることを知れば、もっと小回りに回転出来るようになるかもしれません。
体の関節をストレッチする際、[1]ある部分を完全に緩めることによって支える筋肉を探し出す、あるいは逆に、[2]ある筋肉をビシッと固めて(支えて)おいて、他の部分がどこまで緩められるかを調べる、というニ通りが考えられます。
[2]としては、いわゆる「丹田に力を入れる」のが、よく言われる方便です。体が一番へっこむポイント、例えば尻の穴を締めてみるのも良いでしょう(すぼめ方も色々)。開いた手から第3・4指を折り曲げた、いわゆる「折れ紅葉」との併用も効果的です。(もちろん、「うらめしや」状態に垂れ下がった「折れ紅葉」。)息を吐き切った状態からのアクション、息を吐き出しながらのアクションとの組み合わせ、体・顔の向きと視線とあえてズラすのも、バイアス法の一種です。息が変になってきたら、肺よりも臍の下、鳩尾(みぞおち)、眉間などを意識してみると良いでしょう。誰かに両人差し指で鉄杭のように脇を下から突き刺してもらい、阿修羅に持ち上げられる筋肉をイメージしながら両腕を動かしてみると、脇のどのあたりをグッと締めれば肩周りが支えられるのか、見当が付け易いと思います。
変化は、非常にゆっくりであることが普通です。不具合の度合いが大きいほど、一瞬垣間見える光芒は所詮表層的なものだとあらかじめ悟ったほうが、後の落胆は小さいでしょう。「毎日わずか数分間××さえすれば、誰でも簡単にラクラク××出来る」、などという惹句は、まずは疑ってかかるのが社会人のたしなみです。射幸心を煽るような、その場限りのショーに惑わされてはいけません。
息を整えて冷静になりましょう。ことあるごとに原則に立ち帰るのは、思考停止でも敗走でもありません。自分の体の自浄作用を信じてみるのも非常に大事です。ドラマの結末を知らなかった昨日の自分へは決して戻れないのと同様に、筋肉の状態は日々変化しています。ジャブを打ったら、パッと数歩さがって様子を見、プラトー時の心理を楽しむ余裕(習慣)を持ちたいものです。接近戦で打ち合いになると、事態は膠着します。
ぶっちゃけ、膠着状態の打開プロセスとしては、(1)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどは感じない) ⇔ (2)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる) ⇔ (3)指が或る程度は回る(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる) ⇔ (4)指が回る(体に痛みも突っ張りもない)、といったあたりが典型的のように思われます。無理の無い範囲でのエクササイズを、と言われても、筋肉の使い方くらいすぐ変えられる筈、とナメてかかって、どうしても功を急いでしまうからです。
何かが出来ないとき、壁にぶつかったときに、それを糊塗するためのさまざまな言い訳が用意されているものです。
100メートル走の世界新記録を目指すのならともかく、ピアノを快適に楽しむ程度のことに、人体能力の極限は求められていません。インナーマッスルを含む筋肉を「鍛える」ことは、ピアノの上達には直結していません。無負荷で無抵抗の感触を求めるのが基本です。太極拳・ヨガは東洋人向け、ピラティス・アレクサンダーは西洋人向け、などとしたり顔で語るのも、「バッハはドイツ人にしか理解出来ない」「ドビュッシーはパリジャンしか弾けない」、というレベルの戯言です。ガキより大人のほうが遥かに時間の使い方は理性的な筈ですし、指も長く大きくしっかりしているので、ガキに負けているのはせいぜい肩甲骨周りの柔らかさだけです。1800年以前は誰にでも出来ていたことが、現代人に再現不能なわけが無い。空気なんてものはアッという間に変わります。ロバート・レヴィンの名言、「1000人に一人しか分からない平行5度でも、我々は全力で避けなければならない。なぜなら、その一人が残りの999人に喋りまくるからだ」。




























