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10/10(月・祝)18時 POCシェーンベルク特集

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c0050810_723323.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場)

c0050810_12285012.gifアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演) 約28分
:室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)] 約21分

(休憩10分)

:三つのピアノ曲 Op.11(1909) 約13分
  I.Mäßig - II.Mäßige Achtel - III. Bewegt
:六つのピアノ小品 Op.19(1911) 約5分
  I.Leicht, zart - II.Langsam - III.Sehr langsam - IV.Rasch, aber leicht - V.Etwas rasch - VI.Sehr langsam
:五つのピアノ曲 Op.23(1920/23) 約12分
  I.Sehr langsam - II.Sehr rasch - III.Langsam - IV. Schwungvoll - V.Walzer
:ピアノ組曲 Op.25(1921/23) 約14分
  I.Präludium - II.Gavotte - III.Musette - IV.Intermezzo - V.Menuett - VI.Gigue

(休憩10分)

見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 約10分
  1.黎明 - 2.熟成 - 3.蒸発
アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:二つのピアノ曲 Op.33a/b(1928/31) 約7分
  I.Mäßig - II.Mäßig langsam
:室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/39)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演) 約23分
  I.Adagio - II.Con fuoco




c0050810_1230293.jpg見澤ゆかり:ピアノ独奏のための《Vivo estas ĉiam absurda》(2016)
  曲題《ヴィーヴォ・エスタス・チアム・アブスルダ》は、「人生は常に不条理」という意味のエスペラント語(人工言語)である。エスペラント語とは英語が事実上国際公用語となっていることに対抗して創られた言語であり、また母語話者を持たないラテン語のように習得が難しいものでもない。表向きは、習得に対して有利、不利の差異がないとされているが、文法は印欧語族に分類され、語彙のほとんどがロマンス語を基礎としていることから、他言語の母語話者の習得の難しさは自然言語よりまし程度であるという指摘がある。つまり、エスペラント語というもの自体が不条理の是正を目指し、それに挫折することによって不条理を浮き彫りにした存在である。
  人間が不条理であると感じる時、その人物は不当な扱いを受けたという感情を抱いている。社会的問題であれ、個人的な問題であれ、その感情は怒りを誘発するものである。この曲の着想は、「怒り」についてである。怒りが起きた状況や、その感情をそのまま曲にするのではなく、「怒り」がいかにして起こり、いかにして増幅され、いかにして消滅するのか、ということから、曲の構造を構築した。また、音要素は主にディエスイレの引用と攻撃的なノイズを使っている。(見澤ゆかり)

c0050810_1230574.jpg見澤ゆかり Yukari MISAWA, composer
  1987年群馬県富岡市生まれ。国立音楽大学音楽文化デザイン学科創作専修(作曲)、大正大学仏教学部仏教学科浄土学科を経て、現在カール・マリア・フォン・ヴェーバー音楽大学大学院作曲課程に在籍。作曲を菊池幸夫、川島素晴、マルク・アンドレ、フランツ・マルティン・オルブリッシュの各氏に師事。浄土宗僧侶、篳篥奏者としても活動している。作品に《恵天楽》(篳篥・楽琵琶、2011)、《Sein》(弦楽三重奏、2011/13)、《隠響》(管弦楽、2012)、《観察と体験》(pf/perc/fl、2013)、《combi-land》(ギター二重奏、2014)、《Spiel einer Nymphe》(3人のパフォーマー、2015)、《←→ ↓ ←→》(ホルン四重奏、2016)等。ドレスデン在住。




シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」になるまで───野々村禎彦

c0050810_12315433.jpg シェーンベルクを「戦後前衛の源流」のひとりに数えるのは今日では自然だが、前衛の時代には決してそうではなかった。特に戦後前衛第一世代にとっては、新ウィーン楽派でモデルになった作曲家はまずヴェーベルンであり、管理された偶然性以後の時代にベルクも加わったが、シェーンベルクの位置付けは一貫して、「12音技法と引き換えに新古典主義に退行した反動」というものだった。

 本日のプログラムは、後期ロマン派時代のシェーンベルクの代表曲のピアノ独奏編曲から始まる。《浄められた夜》(1899) は、クリムトやピアズリーの絵画が醸し出す世紀末のイメージにふさわしい。室内交響曲第1番(1906) では半音階化がさらに進み、無調前夜のフラストレーションが極限まで高まった。だが、20世紀初頭のこのようなl傾向はシェーンベルクに限ったものではなかった。

c0050810_12332040.gif 初期には華やかな交響詩を量産し、《薔薇の騎士》(1910) 以降の平明なオペラで第三帝国に最も愛された作曲家になったR.シュトラウスは、《サロメ》(1904-05) と《エレクトラ》(1906-08) で無調の瀬戸際まで行った。初期の伝統的な《フィンランディア》(1899) や交響曲第2番(1901-02) で語られがちなシベリウスも、弦楽四重奏曲《親愛の声》(1909) の頃には半音階化で音楽の密度を求めるようになり、交響曲第4番(1911) の不穏さは無調前夜のシェーンベルクすら凌ぐ。

 ただし彼らは、安定した無調まで行き着くことはなかった。R.シュトラウスの場合は、一時の流行が冷めたらホームグラウンドに戻っただけかもしれないが、シベリウスの場合は、一人ではそれ以上先まで行くことはできなかったのだろう。その後の切り詰めた独自様式も興味深いが、一般性のない個人様式であることも彼は理解しており、やがて消え入るように筆を折った。90年代に入って保守化したスペクトル楽派第二世代以降は、調性の明確さゆえに彼の後期作品を崇拝しているが…

c0050810_12343014.gif まさに後期ロマン派を佃煮にしたような作風の持ち主だったシェーンベルクが、弦楽四重奏曲第2番(1907-08) の終楽章でソプラノが「私は別な惑星の大気を感じる…」と歌い始めるのに導かれて清々しい無調音楽を書き始めるに至ったのは、彼一人の力ではない。ヴェーベルンとベルクという二人の弟子は、後期ロマン派の音楽観に囚われていた彼にはない音楽性を持っており、むしろ彼らこそが、「ヨーロッパ戦後前衛の源流」シェーンベルクにとっての「源流の源流」だった。

 ヴェーベルンは、音楽学者としてはフランドル楽派の作曲家イザークを研究しており、ルネサンス時代の多声音楽にも精通していた。ベルクは後期ロマン派の音楽に親しみながら、それを素材として突き放して扱う、新古典主義に通じる感覚を持っていた(ストラヴィンスキーの新古典主義の中核はバロック音楽の素材であり、ロマン派の素材は鬼門だった)。シェーンベルクの作品11 (1909) の浮遊感は、古典的形式を宙吊りにして伝統の重力から解放するベルクの個性の反映であり、作品19 (1911) の凝縮されたミニアチュールは、ヴェーベルンの唯一無二の個性の賜物に他ならない。

 ヴェーベルンとベルクは、同時代の作曲家の中では寡作な部類だが、ひとつひとつの作品で明確なテーマを設定して着実にクリアしてゆくヴェーベルンも、個人史においても音楽史においても大きな意味を持つ大作に絞って入念に仕上げてゆくベルクも、作曲家としては極めて堅実なタイプである。他方シェーンベルクは、霊感に導かれるままに創作に没頭する数年間と、これといった作品を生み出せない期間が交互に訪れる、気紛れなタイプの作曲家だった。

c0050810_1236793.gif 弦楽四重奏曲第2番(1907-08) から《月に憑かれたピエロ》(1912) や《幸福の手》(1910-13) に至る無調初期の数年間は、彼の創造力が最初に爆発した時期だった。しかしその後の数年間は、第一次世界大戦への招集という事情もあったとはいえ、未完に終わった《ヤコブの梯子》(1917-22) 以外にはこれといった作品がない。作品23 (1920-23) と作品25 (1921-23) のピアノ曲は、12音技法の構想が固まってゆく中で、長い沈黙を破って久々に完成された作品だった。

 作品23と《セレナード》(1920-23) には、新たな道を歩み始めた際に特有の不定形の魅力(無調初期では、《架空庭園の書》(1908-09) やモノオペラ《期待》(1909) がこれに相当する)に溢れているが、いったん方向性が固まると、今度は作品25のような型にはまった新古典主義に収まってしまうのも彼の個性である。作品25、《木管五重奏曲》(1923-24)、《組曲》(1925-26) などの作品は、前衛の時代に厳しく批判された「新古典主義への退行」のサンプルと看做さざるを得ない。

c0050810_12365880.gif だが彼はその水準では終わらなかった。弦楽四重奏曲第3番(1927) や《管弦楽のための変奏曲》(1926-28) になると、12音技法で生成した持続を伝統的形式に流し込む次元に留まらない、有機的な構造が再び実現されている。オペラ《今日から明日まで》(1928-29) は《月に憑かれたピエロ》に共通する軽妙さを持ち、《映画の一場面への伴奏音楽》(1929-30) は、彼の代表作を特徴付ける不定形にうごめく無意識と理性による統合がせめぎ合った、極めて豊かな音楽である。

 これらの作品を生んだ数年間は無調初期と並ぶ彼の創作の第二のピークであり、12音技法による創作の集大成となったオペラ《モーゼとアロン》(1930-32, 未完) まで続いた。この好調の中で書かれたピアノ独奏曲が、作品33の2曲(1928-29, 1931) に他ならない。第一のピークの無調音楽は、テキストの流れに構造を委ねた非組織的なもので、霊感が途切れた途端に深刻なスランプが訪れた。だが二度目のピークは、一度不調に陥った後に書法の成熟に伴って自らを高みに引き上げる、意志で霊感を制御した結果だった。これが、12音技法という組織化された書法の威力である。

 しかし、《モーゼとアロン》完成間近の1933年、ナチスの政権掌握を機に彼の運命は暗転する。ユダヤ人としてナチスの台頭に危機感を抱いていた彼は、フランスで休暇を取って全権委任法成立後の趨勢を見守り、ナチス以外の政党が非合法化されるに及んで亡命を決意した。《浄められた夜》に先立ち、ドイツ圏での活動を見据えてプロテスタントに改宗していた彼は、今後は亡命先のユダヤ人コミュニティで糊口を凌ぐことを見据えてユダヤ教に再改宗し、直接米国に亡命した。

c0050810_12381869.gif 彼は米国でも現代音楽コミュニティでは知られており、亡命の翌年には南カリフォルニア大学(後にUCLA)に教職を得た。ヴァイオリン協奏曲(1934-36) や弦楽四重奏曲第4番(1936) で12音技法による創作を続けたこの時期は、25音音列による作曲を試みていた若き日のケージを、カウエルの紹介で教えていた時期でもある。だが、狭いコミュニティの外ではヨーロッパ以上に新古典主義全盛の米国では、彼は作曲家として全く認知されておらず、その音楽が理解されることもなかった。彼は徐々に厭世的になり、やがてケージも後ろ向きな師のもとを離れて独自の道を歩み始める。

 当時の彼が受けた委嘱は専ら調性的な作品であり、そこで彼が選んだのは、ヴェーベルンとベルクに導かれて無調に歩み始める直前の書法だった。《コル・二ドライ》(1938) や《レチタティーヴォによる変奏曲》(1940) はまさにそのような作品だが、ピアノ編曲版が本日最後の曲目となる室内交響曲第2番(1906/39) も、室内交響曲第1番と同時期の素材をまとめ直した曲で、この時期の創作の文脈を伝える。だが第1番と聴き比べると、この時期の彼の焦燥や諦念も聴き取れてしまう。第二次世界大戦初期にはナチスドイツは連戦連勝、米国は孤立主義を守っていたことを思い出そう。

c0050810_1239711.gif 彼に遅れること数年、ストラヴィンスキー(1939) やヒンデミット(1940) も米国に亡命してくると彼の立場はさらに悪くなり、オペラや管弦楽曲の委嘱を次々と受ける彼らとは対照的に、学生用の吹奏楽のような委嘱しか得られなくなった。米国の第二次世界大戦参戦の報に接し、閉塞状況の変化に期待して《ナポレオン・ボナパルトへの頌歌》(1942) とピアノ協奏曲(1942) という、明確な調的中心音を持つ折衷的な12音作品を突発的に書き上げた後は、ますます筆も進まなくなった。

 だが、このまま音楽史から消え去るかに見えた彼は、持病の喘息による臨死体験を経て弦楽三重奏曲(1946) で奇跡的に復活した。《ワルシャワの生き残り》(1947) から《現代詩篇》(1950, 未完) まで、一見地味だが濃密に書き込まれた12音作品が続き、その音楽的密度は過去二回のピークに勝るとも劣らない。ただし、この生涯三度目のピークにピアノ独奏曲が書かれることはなかった。

                ***********

c0050810_12401359.jpg ここまでシェーンベルクの歩みを振り返ったが、12音技法の創始者である彼は当然、総音列技法に基づくヨーロッパ戦後前衛の源流でもある…という単純な話ではないということだ。総音列技法で参照されたのは後期ヴェーベルンであり、シェーンベルク流の書き込まれた和声は、ヨーロッパ戦後前衛では忌避された。さらに言えば、後期ヴェーベルンの書法を直接受け継いだのはダラピッコラやペトラッシであり、総音列技法はさらに軽やかで装飾的な、シュトックハウゼン流の電子音楽や前期ベリオらの作風と相性の良い方向に発展した。ヨーロッパ戦後前衛第一世代にシェーンベルクの影響を見出すとすれば、前期ノーノを特徴付ける政治的スローガンのシュプレヒコールと、後期シェーンベルクの合唱書法との対応程度だろうか。奇しくもノーノの妻は、シェーンベルクの娘である。

 シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」として見直されるようになったのはむしろ、前衛の時代が終わって総音列技法の特権性が失われてからだった。前衛の時代にシェーンベルクの音楽が敬遠されたのは、ブラームスやマーラーとの連続性を否応無く意識させるためだが、芸術至上主義やヨーロッパ中心主義のような、戦後前衛が前時代から無自覚・無批判に受け継いだものを、視覚的要素を多用して暴き出したカーゲル(やその縮小再生産版のシュネーベル)ですら、前衛の時代が終わる頃にはドイツ音楽の伝統の再利用に創作の中心を移しており、「戦後前衛」の前提は変化した。

c0050810_12411269.gif その中で、シェーンベルクをモデルにした作曲家の典型例がラッヘンマンである。彼は前衛の時代の終わりに、器楽の特殊奏法のみを精緻に組織化した様式を確立して頭角を現したが、カオティックな時間構造を維持していたのは最初の数年で、《カウドウェルのための祝砲》(1977) の頃からは、音色以外はスクエアで伝統的な構造を用いるようになった。この割り切りは、12音技法確立当初のシェーンベルクが、音程以外は伝統的形式に回帰したのに対応している。近作の弦楽四重奏曲第3番《グリド》(2001/02) や《Got Lost…》(2007-08) の持続は、もはやシェーンベルクそのものだ。ファーニホウの弦楽四重奏曲第4番(1989-90) でも、ソプラノ入り編成など強く意識されている。

 もうひとつ忘れてはならないのは、ケージ及びニューヨーク楽派の音楽の源流のひとつは、シェーンベルクの音楽に他ならない。彼らがヴェーベルンの「音と沈黙の対位法」に強い影響を受けたこと(この側面は総音列技法では見事に抜け落ちている)は広く知られているが、そもそも彼らの「アメリカ音楽」に拘らない姿勢は、若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生リスペクトしていたことに由来する。ケージが決裂したのは、渡米後の苦境の中で自分を見失っていたシェーンベルクであり、即興の可能性を疑って理念を厳格に形にする姿勢は、ニューヨーク楽派の音楽に深いレベルで継承された。彼らの音楽は、即興の可能性に疑いを持たない米国実験音楽の大らかな多数派とは異質であり、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたのは歴史的必然だった。
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# by ooi_piano | 2016-09-19 08:45 | POC2016 | Trackback | Comments(0)

POC2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

c0050810_84966.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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c0050810_855583.jpg【プレイベント】 2016年9月22日(木・祝) 19時開演(18時半開場) 公園通りクラシックス(渋谷区) 
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):《4つのエテュード》(1917)、舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)、舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913) (共演/浦壁信二)


c0050810_863877.jpg【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●アルノルト・シェーンベルク(1874-1951):浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演)、室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)]、三つのピアノ曲 Op.11(1909)、六つのピアノ小品 Op.19(1911)、五つのピアノ曲 Op.23(1920/23)、ピアノ組曲 Op.25(1921/23)、ピアノ曲 Op.33a(1928)、ピアノ曲 Op.33b(1931)、室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/40)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演)


c0050810_873735.jpg【関連公演】 2016年11月16日(水)18時20分開演(17時50分開場) 静岡文化芸術大学・講堂(浜松市)
●アルバン・ベルク=米沢典剛:《抒情組曲》〔全6楽章〕(1926/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アルノルト・シェーンベルク=米沢典剛:《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34》(1930/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アントン・ウェーベルン=米沢典剛:《交響曲 Op.21》(1928/2016、ピアノ独奏版・世界初演)


c0050810_883180.jpg【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●藤井健介(1979- ):《セレの物語》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905)、ピアノソナタ第1番(1902/09) 〔全5楽章〕、ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ・コンコード》(1909/15) 〔全4楽章〕


c0050810_891668.jpg【ポック[POC]#29】 2016年12月23日(金・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)


c0050810_810105.jpg【ポック[POC]#30】 2017年1月22日(日) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971): ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演)、4つのエチュード Op.7 (1908)、ペトルーシュカからの3楽章(1911/21)、11楽器のラグタイム(1917/18)[作曲者による独奏版]、交響詩《夜鶯の歌》(1917)[作曲者による独奏版]、《兵士の物語》による大組曲(1918)[作曲者による独奏版](日本初演)、ピアノ・ラグ・ミュージック (1919)、管楽器のシンフォニー集(1920)[A.ルリエと作曲者による独奏版]、コンチェルティーノ(1920)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、八重奏曲(1923)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、ピアノ・ソナタ(1924)〔全3楽章〕、イ調のセレナード(1925)〔全4楽章〕、タンゴ(1940)、仔象のためのサーカス・ポルカ(1943)


c0050810_811861.jpg【ポック[POC]#31】 2017年2月19日(日) 17時開演(16時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●古川聖(1959- ):《七つのノベレッテ》(2017)(委嘱新作・世界初演)
●カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕(約4時間)
 【第一部】 I. 入祭唱 - II. コラール前奏曲 - III. 第一フーガ(四声による) - IV. ファンタジア - V.第二フーガ(二重フーガ) - VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 【第二部】 VII.第一カデンツァ - VIII. 第三フーガ(三重フーガ)  【第三部】 IX. 第二間奏曲(トッカータ、アダージョ、81の変奏によるパッサカリア) - X. 第二カデンツァ - XI. 第四フーガ(四重フーガ) - XII. 終結部(ストレッタ)




POC2016:戦後前衛の源流を求めて────野々村禎彦

c0050810_21303021.gif POCシリーズも今年度で6期目。今回の特集作曲家はみな19世紀生まれであり、このシリーズでは従来試みられなかった、若手/中堅作曲家(特集作曲家ではない)への新作委嘱も毎回行っている。昨年度のシリーズも、60年代以降に生まれた作曲家の特集ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家の補遺であり、いよいよネタ切れ…と思う向きもあるかもしれない。だが、このシリーズは近年の大井の活動の中ではむしろ特異な位置にある。彼の普段の活動の中心は、新作委嘱と古典を組み合わせたプログラムであり、委嘱先も現代音楽業界での常連ではなく、アウトサイダーや境界領域で活動する音楽家(や非音楽家!)が主体。今回のプログラムの方が大井の本来の姿なのである。

 もちろん、19世紀後半に生まれ、主に20世紀前半に活動した作曲家を漫然と並べているわけではない。戦後前衛に焦点を絞ったシリーズにふさわしく、戦後前衛(第一世代に限らない)に直接的な影響を与えた作曲家に限られ、すると1874年生まれのシェーンベルクとアイヴズが最初になる。この戦後前衛の源流にあたる作曲家たちに大きな影響を与えた、「源流の源流」のドビュッシーは対象外である。ストラヴィンスキーの新古典主義とバルトークの「夜の音楽」への影響は言うに及ばず、アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、彼の音楽がなければ有り得なかった。彼の音楽とは無関係でいられたのは、シェーンベルクとソラブジくらいかもしれない。

c0050810_21312484.gif 生年だけ見ればラヴェルは1875年であり、シャリーノを筆頭に、彼の直接的な影響下にある戦後前衛の作曲家も少なくないが、彼もまた「源流の源流」に他ならない。作曲家としては遅咲きだったドビュッシーと早熟なラヴェルは、影響を与え合うライバルだった(《版画》―《鏡》―《映像》―《夜のガスパール》―《前奏曲集》という時系列)。ラヴェルの影から解放されたドビュッシーは、今度はストラヴィンスキーを意識し、《白と黒で》《練習曲集》で彼の進むべき道を示した。

 シェーンベルクを「戦後前衛の源流」のひとりに数えるのは今日では自然だが、前衛の時代には決してそうではなかった。特に戦後前衛第一世代にとっては、新ウィーン楽派でモデルになった作曲家はまずヴェーベルンであり(管理された偶然性以降の時代にベルクも加わった)、シェーンベルクは「12音技法と引き換えに新古典主義に退行した反動」にすぎない。またヴェーベルンベルクは、《浄夜》や《室内交響曲第1番》の後期ロマン派を佃煮にしたような作曲家を、「別な惑星の大気」を感じさせる清々しい無調音楽の作曲家に変貌させた、「源流の源流」とみなすことも可能だ。

c0050810_2132418.gif 紆余曲折を経て、シェーンベルクが「戦後前衛の源流」として見直された背景はふたつある。前衛の時代を代表するドイツの作曲家は、電子音楽の体現者シュトックハウゼンと、視覚的要素を重視しヨーロッパの伝統に疑義を突きつけたカーゲル(及びその縮小再生産版のシュネーベル)程度だったが、前衛の時代以降に頭角を現したラッヘンマンファーニホウ(英国を早々に見限った)は、当初こそ「伝統の異化」を標榜していたものの、しだいに伝統主義者の側面を露わにし、そこでモデルになったのはブラームスマーラーとの連続性が明確なシェーンベルクだったことがひとつ。カーゲルやシュネーベルすら、いつの間にかドイツ音楽の伝統の再利用を創作の中心に移していた。

 もうひとつは、ブーレーズが「怠惰による偶然性」と非難したケージ及びニューヨーク楽派の音楽が、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたこと。彼らの音楽は、実は米国実験音楽としては異端であり、その源流は若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生最も影響を受けた人物のひとりとしてリスペクトしていたことに由来する。即興の可能性を疑い、理念を厳格に形にする姿勢は、師シェーンベルクが体現した精神の深いレベルでの継承に他ならない。ケージらの音楽の性格は、米国実験音楽の多数派の「大らかさ」とは全く異なっている。

c0050810_21334169.gif このようなシェーンベルクの位置付けを前提にすると、なぜアイヴズが今回取り上げられたのかも見えてくる。「米国実験音楽の源流はアイヴズであり、彼は奇しくもシェーンベルクと同年生まれ」という単純な話では決してないのだ。非アカデミックな「アメリカ音楽」(中南米も含む)を包括的に内外で紹介し、文字通りの「日曜作曲家」アイヴズを見出して最初に出版したカウエルこそ「米国実験音楽の源流」にふさわしい。ピアノ独奏曲も一晩に余るくらい書いている。だが彼の「実験」は「戦後前衛」とは接点がないタイプのものであり、POCシリーズにはふさわしくない。

 もちろん、アイヴズの音楽も「戦後前衛」との直接の接点はない。シェーンベルクのテニス仲間であり、ベルクのオペラを参照して《ポーギーとベス》を書き上げたガーシュウィンの方が、まだ近いかもしれない。「トーン・クラスターの使用」「微分音調律」「音楽の空間性の探求」といった要素に切り分けて、アイヴズの音楽の「前衛性」が喧伝された時期もあるが、このような要素への分解を徹底すれば、セリー主義以外の「戦後前衛」の構成要素の大半は19世紀までの音楽に見出せる。

c0050810_21343028.gif アイヴズの音楽の本質的な特徴は、今回の曲目で言えば第2ソナタの第3楽章のような素朴な調性と、第4楽章のような深遠な無調が全く矛盾なく並んでいるところにある。これは戦後前衛における「引用」や「異化」とは性格を異にし、対立する美学を折衷主義に陥らずに受け止める、真の多文化主義と呼べる。これこそが、米国実験音楽の大らかな多数派に欠けている美質であり、ニューヨーク楽派(及びチューダー、オリヴェロス、テニー、初期ミニマル音楽)以降で体現しているのは、フランク・ザッパやジョン・ゾーンをはじめ、実験的ポピュラー音楽の最も先鋭的な音楽家たちである。これがアイヴズを「源流」とみなす意味であり、今回の委嘱作曲家の人選にも反映されている。

 1880年代前半に生まれたストラヴィンスキーとバルトークを「源流」とみなすことは、シェーンベルクとアイヴズの場合よりも議論の余地は少ない。ストラヴィンスキーは、第一次世界大戦後から戦後前衛が歴史的地位を確立するまで、「芸術音楽」のマジョリティであり続けた新古典主義の中心人物であり、アンチ新古典主義は戦後前衛勃興期の活動の原動力だったという意味でも、「源流」とみなせる。そもそも、アンチ意識は似た者同士だからこそ生まれる。新古典主義も戦後前衛も、同じ新即物主義の土壌から生まれた。美学は共有するが素材や技法だけが違うから、内ゲバになる。

c0050810_21354191.gif バルトークは、民謡収集で得られた素材を作曲に持ち込んだ、というレベルではヨーロッパ周縁部(中南米やアジアも含む一般的な概念)の多くの作曲家のひとりに留まるが、それを抽象化・普遍化する姿勢において突出していた。特に、クラシックの伝統における抽象化の頂点である弦楽四重奏においてその美質は発揮された。ペンデレツキやリゲティらの前衛の時代の作例は言うに及ばず、その影響はポスト前衛の時代まで及んでいる。クセナキス《テトラス》、ラッヘンマン《精霊の踊り》、グロボカール《ディスクールVI》、シュニトケ《弦楽四重奏曲第4番》という、80年代のこの編成を代表する多様な作品ですら、各々バルトークの3・4・5・6番のマイナーチェンジとみなせる。

 ただしピアノ独奏曲に限ると、ふたりの独自性は十分に発揮されているとは言い難い。ストラヴィンスキーの新古典主義は、原素材の編成やコンテクストを置き換える過程が面白いが、抽象度の高いこの編成では十分に機能しない。彼は最終的に、戦後前衛の点描書法まで取り扱うようになったが、この編成で扱った対象ははるかに狭いことが傍証になる。バルトークの場合も、ピアノの打楽器書法ではカウエルら、「夜の音楽」ではドビュッシーらとの本質的な差異は見出せない。こちらはストラヴィンスキーの場合とは反対に、元々抽象的な素材では「抽象化力」が発揮されないのだろう。

c0050810_2137586.gif だが、彼らがモダニズムに目覚める以前の最初期の作品から、従来は副次的だと顧みられなかった作品まで、一晩で網羅的かつ年代順に聴き進めることで、新たに見えてくるものがあるのではないだろうか? POCシリーズの全曲演奏主義にはそのような狙いがあり、戦後前衛を代表する作曲家たちの場合には大きな成果を挙げてきた。今回のプログラムでは、ストラヴィンスキーとバルトークに関して、このシリーズならではの発見が特に期待される。

 最後に、誰にとっても意外であろう、ソラブジ《オプス・クラヴィチェンバリスティクム》全曲。前衛の時代が過ぎた後、かつての「前衛弾き」たちが続々と挑んだことも手伝って、アルカン作品やゴドフスキ編曲版など、所謂「体育会系」ピアノ曲愛好家たちの間でカルト的な人気を集めている。ただし、この5時間近い規模ですら、このピアニスト=作曲家の創作歴の中では、「中程度の長さのまとまりの良い曲」なのだが。

c0050810_2138154.gif この作品が、直接的に「戦後前衛の源流」のひとつとみなせるのかどうかは疑わしい面もあるが、ピアニスト=作曲家が、退嬰的とまでは言えないが前衛的とも言えない、演奏家として慣れ親しんだ語法で即興的な手癖を交えて長大かつヴィルトゥオジックな作品を量産することは、戦後前衛を経たポスト前衛の時代の見慣れた風景ではある。ジェフスキしかり、フィニスィーしかり。大井は最近、ジェフスキ《「不屈の民」変奏曲》もレパートリーに加え、「源流」に挑む良い時期ではある。

 ただしソラブジは、ブゾーニの薫陶を受けたJ.S.バッハをリスペクトする作曲家であり、この作品の表題は『チェンバロ風の鍵盤作品』を意味することは、ピアニスト=ソラブジの後期ロマン派的な手癖も手伝って、必要以上に忘れられていたのかもしれない。作曲家=ソラブジがこの作品で意図していたのは、新即物主義を背景にしたモダニズム版《フーガの技法》だったのではないだろうか? POCシリーズの目的は、古楽奏法を通じてクラシックレパートリーの真価を引き出した体験を通じて、作曲家自身も気付いていない現代作品の真価を引き出すことだったのを、いま一度思い出そう。
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# by ooi_piano | 2016-09-02 07:07 | POC2016 | Trackback | Comments(0)

9月22日(祝・木)2台ピアノによるストラヴィンスキー傑作集

c0050810_15253444.jpgСТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ ~二台ピアノによるストラヴィンスキー傑作集~
2016年9月22日(祝・木)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp 
〔予約フォーム〕 http://koendoriclassics.com/events/149/
FBイベントページ 

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c0050810_5113286.gif■ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
■ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)  (歌詞邦訳全文
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)

  (休憩15分)

■ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り


〔いずれもイーゴリ&スーリマ・ストラヴィンスキーによるピアノ・リダクション版〕



■《4つのエテュード》(1917)

c0050810_5204862.jpg  最初の3曲が《弦楽四重奏のための3つの小品》(1914)、終曲が《自動ピアノのためのエテュード》(1917)の管弦楽配置である。ピアノラ(自動演奏ピアノ)というのは、空気を通す穴が開いた紙がロール状に巻かれていて、この紙がトイレットペーパーを引きだすごとく順次ピアノに送られ、この穴が個々の音符であり、穴からの空気で鍵盤が叩かれピアノが無人で音楽を奏する仕組み。20世紀の初頭に流行した。ストラヴィンスキーは後年になって、「作曲家は10本の指で出せる音以外を同時にピアノで鳴らせなかったけれども、ピアノラは自分に音楽をオーケストラ化する可能性を与えてくれた」と語っている。また、この曲を書くにあたってはグリンカの「マドリッドの夏の夜の思い出(1848)」から影響を受けたことを認めている。今も昔もロシア人は総じて太陽の光が燦燦とそそぐ地中海沿岸に惹かれるらしい。現代のロシアではトルコとエジプトに絶大な人気があったが、原油価格の暴落に連動した自国通貨のルーブル安、加えてイスラム国の台頭、欧米との泥仕合となりつつある経済制裁が、彼らの旅行の楽しみをおおいに制限してしまっている。



■舞踏カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)

c0050810_5214996.jpg  イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882 - 1971)は、帝政ロシアの俗福な家庭に生まれた。父はサンクト・ペテルブルグの王立マリインスキー歌劇場のバス歌手で、1893年にこの街でチャイコフスキーが没したとき、その死の床にかけつけたリムスキー=コルサコフ、グラズノフといった音楽家の中に、イーゴリの父、フョードル・ストラヴィンスキーもいたと記録されている。
  ストラヴィンスキーは革命の3年前、1914年に家族とともにロシアを出ている。その後ヨーロッパで興行師ディアギレフと組んで作曲・編曲活動に拍車がかかる。その点、1917年に同じくロシアを出たラフマニノフがその後アメリカに渡ったあと創造活動が委縮してしまったのとは対照的だ。
  ストラヴィンスキーはロシアを捨てたあと、純粋な望郷の念にかられただけの理由で曲を書いたとは思えない。《結婚(儀礼)》はロシアの古い婚礼の儀式を題材としているけれど、たとえばチャイコフスキーやムソルクスキーのように古いロシアの旋律をそのまま持ってきている、というものではない。全音階、アンヘミトニー(無半音)が通常のロシアの民族音楽よりもはるかに多用されている。おそらく当時の一般のロシア人が聴いても「なんやこれは」と違和感を覚えたはずだ。19世紀後半にロシアのインテリ家庭で育った人間として、またあのやや人をおちょくったような風貌からしても、この20世紀を代表する作曲家の屈折した発想と構想は、現代の我々にそう易々と覗き込めるものではなかろう。
c0050810_5224770.jpg  《結婚(儀礼) Les noces(仏), Свадебка(露)》は、作曲家自身によるいくつかの異なる楽器編成によるドラフトがあるが、1923年の最終ヴァージョンは、4台のピアノ、打楽器、声楽(ソロと合唱)という編成である。この20分強の曲は4つの場面から成り立っており、連続して演奏される。
 ● (婚礼に出かける前の)花嫁の家で。原タイトルは「おさげ髪, Коса(露)」
 ● (同じく)花婿の家で。
 ● 花嫁の出発。
 ● 婚礼の祝宴。原タイトルは「美しい食卓、Красный Стол (露)」

  曲名が示すとおり、扱われているのは「結婚儀礼」、つまり「しきたり」であり、花嫁、花婿がどういう人間であるかということは全く問題にされていない。古いロシアでは、若い結婚前の女性は髪を三つ編み(коса)にして、一本の長く垂れたおさげをこしらえ、処女の象徴とした。この一本おさげ髪が嫁入り前に花嫁の家において解かれ、人妻の象徴である二本のおさげに結い直され、これがプラトーク(ネッカチーフ)で覆われて、婚礼の祝典に出発する。革命後、このкосаという言葉・象徴性は共産主義の思想に合わず鳴りを潜めていたようだが、ソ連邦崩壊後(当のストラヴィンスキーは知るよしもない)、今度はファッション用語として使われ始めた。この場合、三つ編みは長く垂れなくてもよい。美人の首相と一時期脚光を浴びたウクライナのユリヤ・チモチェンコのあの髪型もкосаである。もちろん垂れた一本おさげを編んでいる女性と処女性は現代のロシアにおいて全く関係は無い。
c0050810_5235071.jpg  「婚礼の祝宴」の儀式は、日本の昔の嫁入り儀式、つまり殆どなんの会話もしない花嫁・花婿が仲人に挟まれて座敷の中心に置物のように座らされ、親戚一同が回りで飲めや歌え踊れのドンチャン騒ぎをしている光景に似ているかもしれない。面白いのは、その祝宴のさ中に新郎新婦の寝床に先にはいって床を温めている係りの別夫婦がいて、祝宴が続いている間に新郎新婦は「ゴーリカ!ゴーリカ!(苦いぞ、苦いぞ。酒がまだ苦いから、もっとキスをして甘くしろ)」という回りの掛け声に促されて、半ば強制的に温められた寝床に急き立てられる、という場面。なお結婚披露宴で客たちが「ゴーリカ!ゴーリカ!」と叫んで新郎新婦にその場でキスを迫る風習は、現代のロシアの結婚式でもよく見られる。
  ストラヴィンスキーはその育ちからしてこのようなロシアの田舎の古い慣習を日常として経験したことはあまりないはずで、こういった民俗的な結婚儀礼を原始的な生活への回帰というテーマとして書いたのか、あるいは曲を献呈しているディアギレフ率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の増収増益を促すネタとして商業的にこのテーマを選んだのか、あるいはその両方なのか、これはいろいろな見方があろう。


■舞踏音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)

c0050810_5321366.jpg  題名は仏語でLe sacre du printemps、英語で The Rite of springでこれらはまさに「春の祭典」なのだが、露語では Весна священная, 「神聖なる春」、「浄められた春」という意味に訳せる。太陽の神への生贄として一人の乙女が選ばれ、踊り続けされて最後は死に至るというおどろおどろしいストーリーを彷彿させるタイトルはロシア語の方だ。ストラヴィンスキーはこの曲を書くにあたって、リトアニアからウクライナ周辺に至る多くの地域を回って現地民謡の素材を集めたという。その点ではバルトークもそうであったが、ストラヴィンスキーはこれをロシア・バレエ団という当時欧州で最先端を行っていたショウ・ビジネスの中に持ち込んだというところが決定的に違う。
  かつては「変拍子、不協和音」という言葉がこの曲の代名詞のように使われたけれども、いまの人たち、少なくともクラシック音楽ファンは、そういう観点からだけでは聴いていないと思う。たとえば第一部の「春の兆し」の冒頭、オーケストラでは弦とホルン八本で八分音符をダッ、ダッ、ダッ、ダッと刻むところ。E♭7とE(F♭)のコードが重なった音を現代の我々が聴くとき、確かに音楽理論上は不協和音ではあるが感覚的に「不協和」と感じるかと問われれば、多くの人が否であろう。ましてピアノの透明な音色による演奏では尚更である。耳を澄まして「春の兆し」の響きを聴いてほしい。
c0050810_533452.jpg  1913年のパリにおける初演において、乱闘も出るような大スキャンダルになったことは有名だが、故国のサンクト・ペテルブルグ、モスクワでの初演では、ロシアの評論家たちはこの曲を単にいま流行の雑音(ノイズ)として片づけてしまったという。筆者はそれに似たような体験をまだ「鉄のカーテン」の時代のソ連、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)でした。ディアギレフやストラヴィンスキーとも親交があり、《春の祭典》初演の振付をした天才ダンサー、ニジンスキーの娘と結婚した(後に離婚)指揮者イーゴリ・マルケヴィッチ(1912-1983)がその亡くなる直前にレニングラード・フィルハーモニーに客演したときのこと。曲目はベートーヴェンの第7交響曲と《春の祭典》。ともに指揮者の得意とするレパートリーで、客席には珍しくムラヴィンスキー(1903-1988)の姿もあった。世界最高レベルのオケとのベートーヴェンは感動的な演奏。耳の超えた聴衆達も惜しみない拍手を送った。空気がちと変わったのは後半の8春の祭典》。巨匠マルケヴィッチが暗譜で振る指揮棒の下、オケはあのシャープなサウンドで熱演したが、聴衆は明らかに「引いて」いて拍手も前半ほどではなく、曲はもちろん知っているがこれは我々が楽しむ「クラシック」とは違う、という態度が感じられた。1980年代の前半でも、レニングラードという街における演奏と聴衆は相当に保守的で革命前の貴族社会の雰囲気をひきずっていたのではないか、と今になって改めて思う。
   なお、Stravinsky は、ロシア語のアクセントにこだわる人はストラヴィーンスキイと綴るが、ここでは一般的なストラヴィンスキーとした。その他のロシア人の名前も一般的なカタカナ記載にとどめた。(大塚健夫/音楽評論)


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【関連公演】
〔ポック[POC]#30〕 2017年1月22日(日) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971): ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演)、4つのエチュード Op.7 (1908)、ペトルーシュカからの3楽章(1911/21)(ティバダール・サーントと作曲者による独奏版)、11楽器のラグタイム(1917/18)[作曲者による独奏版]、交響詩《夜鶯の歌》(1917)[作曲者による独奏版]、《兵士の物語》による大組曲(1918)[作曲者による独奏版](日本初演)、ピアノ・ラグ・ミュージック (1919)、管楽器のシンフォニー集(1920)[アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版]、コンチェルティーノ(1920)[アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、八重奏曲(1923)[アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、ピアノ・ソナタ(1924)〔全3楽章〕、イ調のセレナード(1925)〔全4楽章〕、タンゴ(1940)[作曲者による独奏版]、仔象のためのサーカス・ポルカ(1943)[作曲者による独奏版]

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ストラヴィンスキー自身の編曲による、プレイエル社自動ピアノ(88鍵)のための作品一覧の広告:《春の祭典》《ペトルーシュカ》《火の鳥》《夜鶯の歌》《結婚》《兵士の物語》《プルチネルラ》《コンチェルティーノ》他
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※ストラヴィンスキーとその家族
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※1913年《春の祭典》初演のジャン・コクトーによる素描
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浦壁信二+大井浩明 ドゥオ

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)
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# by ooi_piano | 2016-08-30 02:45 | POC2016 | Trackback | Comments(0)

8/26(金)19時 一柳慧個展@芦屋

c0050810_21562392.jpgPOC [Portraits of Composers] 特別公演
一柳慧 個展

2016年8月26日(金) 19時開演(18時半開場)
山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com

一柳慧(プレトーク)
大井浩明(ピアノ、笙(※))


一柳慧(1933- ):《トッカータ》(1953)
《ピアノ音楽第1》(1959)
《ピアノ・メディア》(1972)
《タイム・シークエンス》(1976)
《星の輪》(1983)(※)
《ピアノ音楽第9》(2015)

  (休憩 15分)

《時の佇い I 》(1983/86)第1楽章 (※)
《雲の表情》(1984-99)より
  -- 雲の表情 I
  -- 雲の表情 II
  -- 雲の表情 III
《時の佇い I 》(1983/86)第2楽章 (※)
《雲の表情》(1984-99)より
  --IV. 〈雲の澪〉
  --V. 〈雲霓(うんげい)〉
  --VI. 〈雲の瀑〉
《時の佇い I 》(1983/86)第3楽章 (※)
《雲の表情》(1984-99)より
  --VII. 〈雲の錦〉
  --VIII. 〈久毛波那礼(くもばなれ)〉
  --IX. 〈雲の潮〉
《時の佇い I 》(1983/86)第4楽章 (※)
《雲の表情》(1984-99)より
  --X. 〈雲・空間〉


西田博至氏寄稿 〈一柳慧のピアノ音楽から〉


一柳慧 (作曲/プレトーク)
  1933年2月4日、神戸生まれ。作曲家、ピアニスト。作曲を平尾貴四男、池内友次郎、ジョン・ケージ、ピアノを原智恵子、ヴィヴェレッジ・ウェブスターの各氏に師事。第18回(1949)および第20回(1951)毎日音楽コンクール(現、日本音楽コンクール)作曲部門第1位入賞。1954年から57年までニューヨークのジュリアード音楽院に学ぶ間、エリザベス・クーリッジ賞(1955)、セルゲイ・クーセヴィツキー賞(1956)、アレキサンダー・グレチャニノフ賞(1957)を受賞。
  「20世紀音楽研究所」フェスティバルの招聘により1961年帰国。自作および日欧米の新しい音楽の紹介と演奏をおこない、さまざまな分野に強い刺激を与える。1966–67年、ロックフェラー財団の招聘により再度渡米、アメリカ各地で作品発表会をおこなう。1976年、ドイツ学術交流会(DAAD)の招聘でベルリン市にコンポーザー・イン・レジデンスとして半年間滞在。欧州各地の音楽祭で自作の発表と邦人作品の演奏をおこなう。その後も再々訪欧し、ヨーロッパのプロ・ムジカ・ノヴァ・フェスティヴァル(1976)、メタムジーク・フェスティヴァル(1978)、ケルン現代音楽祭(1978、 81)、オランダ音楽祭(1979)、ベルリン芸術週間などから委嘱を受ける。
  1981年《ピアノ協奏曲第1番「空間の記憶」》で第30回尾高賞を受賞。1984年に、作曲、演奏、プロデュース活動に対して中島健蔵最優秀賞を、また《ヴァイオリン協奏曲「循環する風景」》で2度目の尾高賞を受賞。同ヴァイオリン協奏曲は、同年2月にニューヨークのカーネギー・ホールでアメリカ初演された。同じ年の6月には現代音楽祭「今日の音楽」のテーマ作曲家として、西武劇場において多数の作品が演奏され、同じ月には日仏文化サミットの一環として、武満徹とともにパリのシャンゼリゼ劇場でフランス国立管弦楽団によるオーケストラ作品の演奏会が行われた。1985年5月、フランス共和国芸術文化勲章を受章。1988年11月、サントリー音楽財団(現、サントリー芸術財団)の主催による「作曲家の個展――’88 一柳 慧」で、同財団委嘱の《交響曲「ベルリン連詩」》を発表。この演奏会は、1989年1月の第30回毎日芸術賞を受賞する。1989年にはこれまでの一連の活動に対して京都音楽賞大賞を、《ピアノ協奏曲第2番「冬の肖像」》により3度目の尾高賞をそれぞれ受賞。翌1990年、《交響曲「ベルリン連詩」》で、4度目の尾高賞を受賞。
  80年代から90年代にかけて、国立劇場からの委嘱により、《往還楽》、《雲の岸、風の根》、《伶楽交響曲「闇を熔かして訪れる影」》などの、雅楽、伶楽、声明、舞のための大規模な作品を継続的に発表。1989年9月には、国立劇場の二つのホールを同時に使用する《伶楽交響曲第2番「日月屏風一雙 虚諧」》が初演。1989年に伝統楽器群と声明を中心とした合奏団「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル—新しい伝統」(TIME)を組織。以来、アメリカ各都市と、イギリス、ドイツ、オーストリア、フランス、ノルウェーなどヨーロッパ各地の演奏旅行をおこない、ベルリン・フェスティヴァル(1992)、ウィーン・モデルン(1996)、ハダースフィールド現代音楽祭(1992)、ウルティマ・オスロ現代音楽祭(1997)など多くの音楽祭に出演した。自身の伝統楽器群と声明、舞のための《道》、《道Ⅱ》など、欧米各地で演奏された。2002年には第33回サントリー音楽賞を受賞。2004年、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)のコンポーザー・イン・レジデンスに就任。2006年、3作目のオペラ《愛の白夜》を初演。
  1999年に紫綬褒章を、また2005年には旭日小綬章を受章。2008年文化功労者。現在、TIMEの芸術監督、アンサンブル・オリジン――千年の響き音楽監督、日本音楽コンクール顧問、セゾン文化財団評議員、サントリー芸術財団評議員、神奈川芸術文化財団芸術総監督等などをつとめ、現代音楽の普及にも携わる。最新作に、交響曲第9番《ディアスポラ》(2014)、ピアノ協奏曲第6番《禅 - ZEN》(2016)、交響曲第10番《さまざまな想い出の中に》(2016)等。
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# by ooi_piano | 2016-08-22 12:48 | POC2015 | Trackback(1) | Comments(0)

8/20(土) ストラヴィンスキー特集+中田粥新作初演 (その1)

連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)


c0050810_10102442.jpg【第三回】2016年8月20日(土)午後6時開演 (午後5時半開場)

●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):スケルツォ(1902) 2分
:4つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
:バレエ音楽「火の鳥」より3つの場面(1910)〔グイド・アゴスティ(1901-1989)による独奏版〕 12分
  魔王カスチェイの凶悪な踊り - 子守歌 - 終曲
:ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
:ドイツ人の行進曲の思い出(1915) 1分
:3つの易しい小品(1915) 4分
  行進曲 - ワルツ - ポルカ
:子供達のワルツ(1917)  1分


  (休憩10分)

●イーゴリ・ストラヴィンスキー:交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、日本初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気
:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
●モデスト・ムソルグスキー(1839-1881):《ボリス・ゴドノフ》序幕より民衆の合唱「なぜ我らを見捨てられるのか、我らが父よ!」(1869/1918)(ストラヴィンスキーによる独奏版、日本初演) 1分
●イーゴリ・ストラヴィンスキー:ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
:管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、日本初演) 8分

  (休憩10分)

●中田粥(1980- ):ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱新作初演)  10分
●イーゴリ・ストラヴィンスキー:5本の指で(1921) 8分
  I. Andantino - II. Allegro - III. Allegretto - IV. Larghetto - V. Moderato - VI. Lento - VII. Vivo - VIII. Pesante
:ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
:イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
:タンゴ(1940) 3分
:仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分


c0050810_10114396.jpg中田粥:ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱初演)
  この作品ではピアノを、振動を発生させる装置と捉え直す。楽器とはそもそも振動を聴覚化させる装置であって、音楽は振動が聴覚化した一つの現象にすぎない。そして譜面とはその現象を再現するためのものであるが、実際の演奏で再現されること自体は確率の問題である。この作品は楽器を装置と捉え直すことによって音楽の持つ、振動する現象という部分のみを抉り出す試みである。


c0050810_10122692.jpg中田粥 Kayu NAKADA, composer
  1980年東京生まれ。2006年洗足学園音楽大学音楽学部作曲科卒業。作曲作品に、交響曲《チッポのなぞなぞ》、室内楽《チッポのなぞなぞの答え》、木管五重奏曲《太陽とりさん》、《クールなカメレオンは自転車を想像する》、ヴァイオリン・フルート・ドラム・ギターのための《クールなカメレオンは自転車を想像する Ⅱ》等。舞台音楽の作曲、ミュージカルのバックバンド、即興演奏活動などを経て2013年、サーキットベンディングの一種、電子楽器数台分の剥き出しにされた回路基板を用い、「バグシンセ」「bugsynthesizer」と名付けてリアルタイムに電子回路をショートさせる方法で演奏活動を開始。参加グループ:《《》》(metsu)、相ieトtナ(略)、zzzt、そばうどん。 公式サイト: http://www.kayunakada.com




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ディアギレフと三人の作曲家たち
<ストラヴィンスキーをめぐって> もうひとりのwith Diaghilev賛 ─────山村雅治


Мы за все твои сироты Беззащитные, Ах да мы тебя-то Просим, молим со сле зами, Со горучими.
 われらは皆みなし児、よるべなきみなし児。ああ、われらは汝に願う、祈る、涙とともに、熱い涙とともに。     (ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)


1

c0050810_8251939.gif  稀代の興行師・ディアギレフという呼び名にはいささかの抵抗がある。彼は興行師にはちがいないけれども、バレエ・リュスの公演を打つ年ごとに「あたらしい」ものを展開した興行師としては、彼はいつも金がなかった。公演に資金を出してくれるロシアの王族や貴族たちに絶えず無心していた。その名の通りの「興行師」なら、濡れ手に粟のぼろ儲けをしなければならない。しかし、かつて彼は一度も儲けたためしがなく、無一文のうちに生を閉じた。金があったのは生涯でただ一度、生後3ヶ月で亡くなった母の遺産を受け継いだときであり、一部を使えるようになった1891年からの学生時代であり、それも乳母を養い、義弟たちを育てるために費やさなければならなかった。
  1895年の夏、翌年から美術批評を書き、芸術に関わる仕事を始めることになる、まだ23歳だった彼は義母に手紙を書いている。そこには醒めた自己分析がある。「まず、僕は大ペテン師です。ただし天才的な。第二に、強力な誘惑者です。第三に、度胸があります。第四に、かなり理屈っぽいですが、主義主張はほとんどありません。第五に、才能はないみたいです。でも、僕は真の天職を見つけました。芸術家のパトロンになることです。いろいろ恵まれています。無いのは金だけです。Mais ça viendra (でも、いずれはいってくるでしょう)」。
  バレエ・リュスを率いることになったのちも、この楽天性は生涯かわらなかった。セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は「生活、そんなものは家来にまかせておけ」という芸術家の気質を生涯もっていた。そして、いつも金がない興行師であるよりも、「偉大な総合芸術の企画者・制作者」だった。

c0050810_8263620.jpg  バレエ・リュスのパリでの公演は1909年にはじまり、ディアギレフが没する1929年まで続いた。ディアギレフの熱い旋風が巻き込んでいった美術家は、初期のバクストやブノワから、やがてアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、モーリス・ユトリロ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、マリー・ローランサン、ココ・シャネルら、当時の絵画とファッションの前衛たちの名が並ぶ。
  また、作曲家・編曲家にはチャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、チェレプニン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらロシアの作曲家のほか、ドビュッシー、ラヴェル、アーン、シュミット、フォーレ、サティらフランスの作曲家、ドイツの作曲家の音楽ではリヒャルト・シュトラウス、スペインのファリャも音楽を書いた。ディアギレフはシェーンベルクにもバレエ音楽を委嘱しようとしたが、これは果たせなかった。Diaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照)。

  バレエの振付は、まず古典バレエを基礎にしたフォーキン。そしてニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)が「牧神の午後への前奏曲」で革命を起こした。ニジンスキーが去ってから加入したレオニード・マシーンは団の解散後「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」で活躍し、ジョージ・バランシンも同じくモンテカルロで活動。その後アメリカに渡りバレエ学校を設立し、現在の「ニューヨーク・シティ・バレエ団」を設立した。彼らのほかにも活動の場所をアジアに定めたダンサーたちもいる。上海バレエ・リュスには、やがて小牧正英が参加し、プリンシパルとして踊った。


2

c0050810_8273161.jpg  ディアギレフと彼に関わった芸術家たちとの関係のありかたはさまざまだった。
  ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)の生理は、バレエ曲の新作を依頼した初対面のディアギレフを受け付けなかった。1909年7月、楽譜出版社のデュランに宛てて、手紙を書いている。「頼まれているバレエ曲が書けない。大体、18世紀イタリアを舞台にしたバレエをロシア人ダンサーが踊るなんて、ばかげているとしか思えない」。「ディアギレフはフランス語がよくできないので、会話はどこかぎくしゃくしたものになった」。また1912年、『遊戯』の制作過程でも「ニジンスキーと彼の子守り(ディアギレフ)がやってきた。すでに書いた部分を聞かせてくれと頼まれたが、断った。野蛮人どもが私の感性を嗅ぎ回るのは不愉快だ」。その名作をディアギレフの「数小節延ばした方がいい」という助言を受け入れて「格段に華麗に」仕上げることができても、なおドビュッシーは最後までロシア人への不信感を捨てなかった。ディアギレフのことを「石をも躍らせる恐ろしいが魅力ある男」といった彼でさえ。また、ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)は『ダフニスとクロエ』をようやくのこと上演したあと、『ラ・ヴァルス』を書いたがディアギレフにバレエ作品としての上演を却下されて、その後は関係が悪化した。

  ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)は残った。1910年の『火の鳥』から、ディアギレフが没してバレエ・リュスが終焉を迎える前年の1928年の『アポロ』まで、作品を書き続けた。それだけでなく、バランシンのバレエ団のために『カルタ遊び』(1937)、『アゴン』(1957)を書き続けた。
  1909年、バレエ・リュスを旗揚げしたあと、ディアギレフの最大の課題は、新しいロシアのバレエを創りあげることだった。ロシアの歴史、民話や伝説を題材にしての作品。アレクサンドル・アファナシエフの民話集をもとにした『火の鳥』の台本を、デイアギレフ、フォーキンらでつくりあげた台本を得て、まずリャードフに依頼したが、仕事が進まないのですぐに諦めた。イーゴリ・ストラヴィンスキーを思い出した。1909年春に、ペテルブルクの音楽院で管弦楽曲『花火』を、バレエ・リュスの振付師、主役ダンサーだったフォーキンとともに聴いて、彼を認めた。ディアギレフは深い感銘を受けた。「新しく、独創的だ。あの音づかいは大衆を驚愕させるだろう」と語っている。
  数年前からその名を知り、父・フョードル・ストラヴィンスキーはマリインスキー劇場のバス歌手であり、ディアギレフはその劇場につとめていたので親しみもあったのだろう。まもなく、イーゴリのもとにディアギレフの使いが訪れた。

  1910年6月25日 パリ、オペラ座『火の鳥』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/ピエルネ
  美術(装置・衣装)/ゴロヴィン、バクスト 
  振付/フォーキン 
  出演/カルサヴィナ、フィキーナ、フォーキン、ブルガコフ

c0050810_8283983.jpg  パリでの2回目のバレエ・リュスの演目は『謝肉祭』(シューマン)、『ジゼル』(アダン)、『シェエラザード』(リムスキー=コルサコフ)、『オリエンタル』(ロシアと北欧の音楽)に、誇らしい新作としてストラヴィンスキーの『火の鳥』が上演された。話題作はニジンスキーが踊り、バクストの美術が賞賛された『シェエラザード』だった。『火の鳥』の音楽は当時、「メロディがない。まったく音楽に聞こえない」と失笑する人もいたし、稽古中のダンサーたちには、ストラヴィンスキーが「ピアノを弾いているというよりは、壊している」ように見えた。しかし、初演時の観衆には熱狂的に迎えられ、ゴロヴィンの美術も当時のロシアの舞台美術の頂点といわれた。バレエにおいても音楽においても、バレエ・リュスは前衛芸術の世界に属していることが認められた。
  ドビュッシーも賞賛した。「完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。ときどき、まったく聞いたことのないリズムの組み合わせが聞こえます。フランスのダンサーたちは、こんな音楽に合わせて踊るのは拒むでしょう。なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です」。やはり楽譜商デュランへの手紙で。 (つづく
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# by ooi_piano | 2016-08-04 10:13 | コンサート情報 | Trackback(1) | Comments(0)

8/20(土) ストラヴィンスキー特集+中田粥新作初演 (その2)

つづき

3

  1911年6月13日 パリ、シャトレ座『ペトルーシュカ』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー 
  美術/ブノワ
  振付/フォーキン
  出演/カルサヴィナ、ニジンスキー、フォーキン、オルロフ、チェケッティ、ショラール

c0050810_8583415.jpg  1911年1月、ニジンスキーが帝室マリインスキー劇場を解雇され、バレエ・リュスは夏休みだけではなく一年中公演できる体制になった。すでにパリだけではなく、前年にはベルリンで、この年はモンテカルロとロンドンでも開催。4月19日のモンテカルロ公演ではニジンスキーが初めての主役を『薔薇の精』(ウェーバーの音楽「舞踏への勧誘」)で踊り喝采を博した。これはニジンスキーに「その並外れた跳躍力を披露する機会をたっぷり与える」ために構想された作品で、以後、看板作品のひとつになった。
  5月からはローマ公演。6月の『ペトルーシュカ』の稽古も同時に進められていく。しかし、振付師フォーキンは、リズムが複雑でなかなか振付ができない。ストラヴィンスキーも朝から晩までピアノの前に座り作曲を続けている。指揮者のモントゥーは「他には誰もいなかった」という理由で選ばれたのだが「その曲と作曲家にすっかり魅了されていた」。
  本番の日が来た。ニジンスキーは、いよいよ大作の主役になって『ペトルーシュカ』を踊った。フォーキンの振付の源泉はスタニスラフスキー模倣的演劇技法であり、脇役の一人ひとりに至るまでの略歴を書き「役になりきり人物を生き返らせろ」と指示した。人形芝居小屋の人形ペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人が、小屋の主である老魔術師に生命を吹き込まれる。ペトルーシュカのバレリーナへの恋心、男盛りのムーア人はむき出しの男性性をもってバレリーナの目を奪う。ペトルーシュカの嫉妬。ムーア人は邪魔者のペトルーシュカを追い回し、ついに刀で斬り殺す。魔術師は彼を修理しようとするが、とつぜん芝居小屋の上にペトルーシュカの幽霊が現われる。魔術師にむかってこぶしを振り上げると魔術師は逃げ出してしまった。ニジンスキーに与えられた振付にはほとんど跳躍はなく、自分の役者としての才能だけが頼りだった。そして見事に成功した。


4

  1913年5月29日 パリ、シャンゼリゼ劇場『春の祭典』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー
  振付/ニジンスキー
  美術/レーリッヒ
  出演/ピルツ

c0050810_8591983.jpg  『火の鳥』を書いているさなかに、ストラヴィンスキーは幻を見た。
  「サンクトペテルブルクで『火の鳥』の最後のページを仕上げていた頃のある日、束の間の幻をみた。私は他のことで頭がいっぱいだったので、その幻の出現には仰天した。空想の中で、私は荘厳な異教の儀式をみた。輪になって座った老賢者たちが、若い娘が死ぬまで踊るのをみていた。春の神を喜ばせるために、彼らは娘を生贄にしていたのだ」。(『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳)。引用元の書物には同じ内容の言葉に続いて「『春の祭典』の主題だった」。と付け加えられる。(Chroniques de ma vie by Igor Stravinsky , Éditions Denoël et Steele, 1935 。邦訳は『私の人生の年代記』イーゴリ・ストラヴィンスキー著 笠羽映子訳。スヘイエンはこの書をスティーヴン・ウォルシュが書いたとしている)。
  この幻を、彼はニコライ・レーリヒとともに新しいバレエ作品として構想しはじめた。ディアギレフも夢中になった。『ペトルーシュカ』から2年を経て、1913年に初演の日を迎えた。指揮者のモントゥーは、曲の完成(1912.11.17)後にディアギレフに呼ばれ、ストラヴィンスキーがピアノで弾くのを聴いた。
  「古いアップライト・ピアノはがたがた揺れ続けていた」「このままでは彼は爆発するか、失神してしまうだろう」「私自身も猛烈な頭痛がした」「この気の狂ったロシア人の曲なんか音楽じゃない」「とにかく部屋を逃げ出して、どこか静かな場所へ行き、痛む頭を休ませたかった。そのとき団長が私のほうを振り返って、にっこり笑った。『これは大傑作だ、モントゥー君、この曲は音楽に一大革命を起こし、君を有名にするだろう。だって君が指揮するんだからね』。むろん、私は指揮をした」。(『ディアギレフ』前掲書)。
  初演の夜に起きたのは、まさしく暴動だった。ストラヴィンスキーは回想する。
  「前奏曲の冒頭で、早くも嘲笑が起きた。私はむかついて席を立った。最初はまばらだった示威行為がしだいに客席全体に広がり、それが反対の示威行為を誘い、瞬く間に劇場全体が怒号に包まれた。公演の間じゅう、私は舞台袖のニジンスキーの横にいた。彼は椅子の上に仁王立ちになって、「16、17、18」と叫んでいた。ダンサーには独特の拍子の取り方があるのだ。当然ながら、あわれなダンサーたちは、客席からの騒音と、自分たちの足踏みの音で、何も聞こえないのだった」。「公演の後、私たちは興奮し、怒り、憤慨し、そして幸福だった。ディアギレフ、ニジンスキーとレストランに行った。ディアギレフの感想はただ、『私の狙い通りだ』」。

c0050810_902726.jpg  音楽について、ドビュッシーはすでに『ペトルーシュカ』について「この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。それを理解しているのは、これまでのところ、きみだけです。きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です」と賛辞を送っていた。『春の祭典』についても「ラロワ邸でいっしょにきみの『春の祭典』を弾いたことを今でもよく覚えています。あのときの思い出は美しい悪夢のように頭にこびりついています。あのときに受けた衝撃をなんとか甦らせようとするのですが、なかなかできません」。
  『春の祭典』は、同時代の音楽家に深刻な影響を与えた点で『トリスタンとイゾルデ』以降の最も重大な事件だった。

  振付はニジンスキー。彼の振付作品として『牧神の午後への前奏曲』『遊戯』に続いての三作目になった。『牧神』を成功させた後もニジンスキーはマラルメの詩を読んでいなかったし、詩人の名前も知らなかった。『春の祭典』を振り付けるときにも、総譜を読めず楽器も演奏できないニジンスキーに、ストラヴィンスキーは「まず彼に音楽の初歩、つまり音価、拍子、テンポ、リズム以下もろもろの手ほどきから始めなければならなかった。稽古は難渋をきわめた。主役は妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツが代役となった。ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の振付は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかった。
  完成した作品は前2作と同じく、古典的なバレエとはまったく異なるものだった。いくつもの群舞の独自の動きが全体として不調和な舞台を創る。これは古典的なバレエを期待した人は戸惑う。作曲者にさえ理解を超えるものだった。
  1909年以来、バレエ・リュスとニジンスキーに魅了されていたハリー・ケスラー(ドイツの外交官で国際的に有名な芸術愛好家)は、この作品に圧倒された。「突然、まったく新しい光景が出現した。これまで一度も見たことのないような、心を鷲づかみにし、納得させる光景が。芸術における新しい野蛮性と、反芸術性とが、一度にやってきたのだ。すべての形式は破壊され、その混沌から新しい形式が突然に出現する」。
  ニジンスキーの振付には『牧神』とちがってエロティックな身振りはなかった。透けない生地の衣装もダンサーの体を覆い、肌も体の線も見せない。そして、ダンサーたちは舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がる。


5

c0050810_913855.jpg  上演後の8月15日、一座は座長ディアギレフだけをのこしてブエノス・アイレスに出航する。到着後の9月10日、ディアギレフへの嫌悪が頂点に達していたニジンスキーはバレリーナのロモラ・ド・プルスキーと結婚式を挙げた。この知らせを聞いたディアギレフは激怒する。同性愛者の男性は、若い青年の愛人が異性とつきあうことを許さない。道を女性とともに歩くこと、仲よさげに女性と喋ることすら許せない。いつも、いつまでも自分の「女」として仕えなければならない。ニジンスキーは掟を踏みにじったのだ。彼は即座にバレエ・リュスからの解雇を決断。その後、ニジンスキーは自分のバレエ団を結成して公演するが、当然のことながらディアギレフのマネジメントの能力はなく、惨憺たる失敗に終わった。バレエ・リュスには興行上の理由で1916年の北米ツアーで復帰して、ニジンスキーは『ティル・オイレンシュピーゲル』(リヒャルト・シュトラウス/音楽)に振付をして、踊った。シュトラウスはバレエ・リュスの作品として『ヨゼフの伝説』を1914年5月17日に初演) の振付をし、上演。しかし、すでに彼の精神は病魔に襲われはじめていた。自ら書きつけた舞踏譜は『牧神の午後への前奏曲』の一作だけだった。

  ニジンスキーは現代バレエを切り拓いた先駆者だった。のみならず、彼の古典バレエの約束を打ち破る踊りは、現代日本の「舞踏」にまで及んでいる。舞踏家、笠井叡は「ニジンスキーも『牧神の午後』以降は完全に舞踏です」と発言している。(『土方巽の舞踏』慶應義塾大学出版会刊)。そして「Butō」の研究家、アリクス・ド・モランは、土方巽の『疱瘡譚』を語るなかでニジンスキーにも触れている。「ニジンスキーの課題は、調和のとれた動きに基いたクラシックの語彙と手を切ることであった。ニジンスキーは足を内に向ける姿勢によって不具の醜くなった身体性を浮上させ、グロテスクの印を焼き付けることに成功したのだ」。(横山義志訳 同書)。


6

c0050810_923178.jpg  ニジンスキーを失った1914年の新作は、5月17日のリヒャルト・シュトラウスの音楽によるバレエ『ヨゼフの伝説』と、ストラヴィンスキーのオペラ『ナイチンゲール』(夜鶯)だった。ディアギレフがニジンスキーに代わる主役を踊る男性バレエ・ダンサーとして新しく加入させたのは、やはり同性愛の愛人にしたレオニード・マシーンだった。
  シュトラウスの新作はさほど評判を呼ばず、一座の命運はオペラにかかった。リムスキー=コルサコフの『金鶏』をオペラ・バレエとしてフォーキンが振り付けた作品が、もうひとつのオペラだった。
  舞踊劇の形をとった『ナイチンゲール』(夜鶯)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話にもとづくオペラ・バレエ。曲の一部は『火の鳥』以前に書かれ、残りは『春の祭典』以後に書いた。ストラヴィンスキーは作風の変化が速い。少し長い曲なので、繋ぎ目がわかってしまう。しかし、素晴らしい部分の繊細な音色感は美しく、フランス音楽(もちろんドビュッシーとラヴェル)から得た成果が聴きとれる。
  この年1914年に始まった第一次大戦は1918年まで終結せず、バレエ・リュスを構成していた人たちは、これまで通りには芸術活動ができにくくなる。また、ロシア革命が1917年に起きる。ディアギレフらは故国に帰ることができなくなった。

c0050810_934869.jpg  この間、ストラヴィンスキーのバレエ・リュス上演作は、1915年の『花火』。これは旧作を舞台作品に仕上げたもの。それだけだった。『ナイチンゲール』のバレエ改作版、『ナイチンゲールの歌』(夜鶯の歌)は、1916年に企画されて、公演が実現したのは1920年だった。アンリ・マティスが美術を担当した。振付はマシーン。音楽は20分程度に圧縮したもので、東洋の音階が魅力的だ。ストラヴィンスキーは1959年に来日し、この曲を演奏した。曲に自信があったのだろう。原作の童話は中国の皇帝の御殿と庭園が舞台になり、訪れる人が夜鶯(さよなきどり、ともいう)の声を賞賛し、皇帝も聞いて感動した。ある日、日本の皇帝から細工物の夜鶯が贈られる。宝石で飾られた夜鶯はいつも同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか本物の夜鶯はいなくなってしまう……

  バレエ作品『プルチネルラ』も1920年の初演。ピカソが美術を受け持った。伝ペルゴレージの手稿や印刷譜からの18曲をストラヴィンスキーが編曲した。もう1913年ははるか昔に過ぎ去り、作風の変容は、編曲時1919年のストラヴィンスキーを先駆者ではなくしてしまっていた。この頃から1950年までの作風を、それまでの「原始主義」にかわる「新古典主義」と名付けられ、それ以後、若い友人で彼の仕事の協力者だったロバート・クラフトの示唆によってシェーンベルクの「十二音技法」を採り入れて、さらに「セリー主義」へと歩みを進めた。クラフトは書いている。「1952年3月8日。彼は遠回しにシェーンベルクの七重奏曲(作品29)に触れ、それが彼に強烈な印象を与えたという。40年ものあいだシェーンベルクを『実験的』『理論的』『時代遅れ』と片付けてきたので、シェーンベルクの音楽が実質的には自分自身の音楽よりもより豊かであるという認識に、衝撃を受けている」。(Stravinsky: Chronicle of a Friendship by Robrt Craft, Vanderbilt Univ. Pr. 1994 邦訳は『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。


7

c0050810_943890.jpg  バレエ・リュスの歩みを振り返ってみよう。1915年はリムスキー=コルサコフの旧作『雪娘』。1916年はフォーレの『ラス・メニナス』、そして、ンジンスキーの最後の『ティル』。1917年にはストラヴィンスキーの旧作『花火』。そしてディアギレフが最後に見出した若い才能、イーゴル・マルケヴィッチが評価してやまなかったサティの『バラード』。1918年に
  1921年、プロコフィエフの『道化師』が初演。ファリャ編曲による『クァドロ・フラメンコ』とともに。1922年はストラヴィンスキーの2作品。ニジンスカが踊ったバレエ『狐』とオペラ『マヴラ』。
  1923年6月23日に上演された新作バレエ・カンタータ『結婚』は、歌手を伴った作品で、これはしかし、往年の創造力が舞い戻ってきたかのような傑作のひとつになった。それもそのはずだ。構想は1912年には芽生えていて、1914年に着手された。1915年にはディアギレフに2場までの音楽を聴いてもらっていた。振付はソ連を亡命して1年足らずのブロニスラヴァ・ニジンスカ。美術と衣装はナターリヤ・ゴンチャローワ、指揮はエルネスト・アンセルメ。
  翌1924年は多くの作品が上演されたが、新しいものはミヨーの『青列車』。この舞台で新しく前年に入団したセルジュ・リファールが踊った。幕をピカソが描き、衣装はココ・シャネルだ。1925年は振付家にバランシンが入り、リエーティ作曲の『バラボー』が上演されるなど。1926年にはニジンスカとバランシンの振付作品。サテイ作曲・ミヨー編曲の「びっくり箱」も。1927年には、ストラヴィンスキーが復帰する。オペラ『オイディプス王』。サティの『メルキュール』、プロコフィエフの『鋼鉄の歩み』、ともにマシーンの振付で上演された。1928年、ストラヴィンスキーの『ミューズを導くアポロ』。1929年5月21日、プロコフィエフの『放蕩息子』をバレエ・リュスとしての最後の上演を果たした後、8月19日にディアギレフはベニスで生涯を閉じた。看取ったのは看護していたセルジュ・リファール、そして16日、晩年の忠実な秘書だったボリス・コフノが駆けつける。二人ともディアギレフが愛した青年だった。18日にはミシア・セールとココ・シャネルも最後の病床に間に合った。


8

c0050810_954973.jpg  ディアギレフが8月12日、病床で口ずさんだのは『トリスタン』と『悲愴交響曲』の一節だった。ストラヴィンスキーは8月21日に知らせを聞いて愕然とした。ここ数か月の冷えた関係に胸がかきむしられた。26日になってから、ようやくヌーヴェリに手紙を書いた。「手紙を書くのは辛いのです。沈黙したままでいたいと思います。それでも手紙を書けば、愛するセリョジャを突然に失って私が感じている鋭い痛みが、あなたにもわかってもらえるでしょう」……。ストラヴィンスキーの妻、ヴェラは「年齢とアメリカがストラヴィンスキーの性格を変える以前、あの人はディアギレフにしか心を開きませんでしたわ。そして留意した批評は、ディアギレフのものだけでした」と言った。((『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。

  ストラヴィンスキーにも世に別れを告げる時が来る。1971年3月31日、クラフトは「ラズモフスキー四重奏曲」と「悲愴交響曲」のレコードをかけ、ストラヴィンスキーは「チャイコフスキーの最高の音楽だ」と言って喜んだ。4月4日、重い病床の枕もとでクラフトは「悲愴交響曲」の最終楽章を流した。それがストラヴィンスキーが聴いただろう最後の音楽になった。4月6日に巨星は墜ちた。 

Да здравствует ! уж как на небе солнцу красному, Слава ! cлава !
 万歳! 空にはすでにかくも赤き太陽! 栄えあれ! 栄えあれ!
(ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)

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# by ooi_piano | 2016-08-04 07:23 | コンサート情報 | Trackback | Comments(0)


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