11月5日 第七回公演

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Il n'y a rien au monde que les Sauvages, les paysans et les gens de province pour étudier à fond leurs affaires dans tous les sens; aussi quand ils arrivent de la Pensée au Fait, trouvez vous les choses complètes.
Honoré de Balzac, Le Cabinet des Antiques

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎ものだけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。
バルザック『骨董室』



大井浩明 Beethovenfries
16 Dec 1770 - 26 Mar 1827
第七回公演《ウォッチ・ホワット・ハプンズ》 


京都文化博物館 別館ホール
(旧日本銀行京都支店、明治39年竣工/重要文化財)
2008年11月5日(水) 18時30分開演

使用楽器: ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー
(1846年ウィーン製、修復/山本宣夫)
85鍵(AAA~a4)、アングロジャーマン・アクション


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《演奏曲目》

ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄(Eroica)」(1802/03) R 128/3, SW 464/3
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Marcia funebre: Adagio assai
第3楽章 Scherzo: Allegro vivace
第4楽章 Finale: Allegro molto - Poco Andante - Presto

   【休憩15分】

ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:交響曲第4番変ロ長調Op.60(1806) R 128/4, SW 464/4
第1楽章 Adagio - Allegro vivace
第2楽章 Adagio
第3楽章 Allegro molto e vivace - Un poco meno allegro
第4楽章 Allegro ma non troppo

ベートーヴェン作曲/A.ヘンゼルト編曲:序曲「コリオラン(Coriolan)」Op.62(1807)





器楽の「復元」という試み
                                 杉本舞

c0050810_7305665.jpg  今でもよく覚えている。あれは私が中学生の頃、当時師事していたピアノ教師からベートーヴェンのソナタ第1番作品2-1を課題に出されたときのことだった。レッスンで指導を受けた後、自宅のグランドピアノでおさらいをしながら「なんでこんな曲なんだろう」と思ったのだ。ベートーヴェンの作品は総じて好きだった。第1番も気に入って、よく練習していた。なのに、弾けば弾くほどしっくり来ない。なんだか「うまくない」。飛んだり跳ねたり転がったりする音の流れに、教師の言うとおりのメリハリをつけて弾くのだが、何故か「鳴り過ぎているのにスカスカ」というような訳の分からないことになってしまう。それはもちろん自分の演奏が下手糞すぎるからに違いないのだが、ピアノ教師の模範演奏を聞いても、市販のCDを聞いても、何かがちぐはぐのまま残るのである。どんな演奏なら自分の感覚にしっくりくるのかわからない。ベートーヴェンは何故こんな、どう弾いてもしっくりこないような曲を書いたのか。「ピアノソナタ」なのに、はたしてこの曲はピアノという楽器に寸法が合っているのだろうか。あるいはベートーヴェンのピアノソナタ自体がそもそも「こんなもの」なのか。それとも自分の感覚が変なのか。……結局、好きな曲なのに好みの演奏に出会えないまま曲のレッスンは終わってしまい、ただ漠然とした違和感が頭の片隅に残ったのだった。

  ところが、本シリーズ第1回でヨハン・アンドレアス・シュタインのピアノフォルテによる演奏を聴いたとき、十数年間に及ぶ疑問はあまりにもあっけなく溶け去ってしまった。シュタインのフォルテピアノは、飴細工のような質感の、みやびで繊細で大きすぎない、よく響く音を出していた。モダン・ピアノとはまったく違う方向性の表現力。モダンに比べて、ダイナミックレンジが制限されているのだけれど、それが良い。残響が大きすぎず、わりと歯切れがよく、しかし鋭すぎないのが良い。フォルテピアノ上では、少ない音で構成されたシンプルな曲想は、鳴り過ぎることも切れすぎることもスカスカになることもなかった。形容しがたい艶のある音で綴られたソナタ第1番は、まさしく楽譜上の表現の「寸法通り」だった。「なんだ、そういうことだったのか」と思った。何のことはない、単にこの曲はピアノ――モダン・ピアノのための曲ではなかったという、ただそれだけのことだったのだ。

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c0050810_733594.jpg  ロンドンの科学博物館に、1991年に復元された一台の機械式計算機があります。この機械は、もともとはイギリスの数学者チャールズ・バベッジが1847年から49年にかけて設計したものです。航海用の天文表を効率よく計算するために計算機の製作を企画しはじめたバベッジは、結局生涯をかけてその作業にのめりこみ、何台もの試作機と大量の設計図を残しました。博物館の技術部が6年半をかけて復元したのは、最後に設計され遂に組み立てられることのなかった「第二階差機関」と呼ばれる複雑極まりない機械で、手回しで動き、計算だけでなく印字まで行う機能のあるものでした。技術部は当時の技術水準や材料を慎重に判断しながら何千個もの部品を組み立て、これを動作させることに成功しました。

  技術史研究では、古い設計図やスケッチに基づいて、作者の意図した事物を当時の条件にできるだけ忠実に復元する、このような実験的試みがしばしば行われます。その大きな理由は、紙に書かれた情報を、見る者が五感でとらえられる形へと具現化することで、紙に書かれていない作者の意図を顕現させることができるからです。たとえばバベッジの計算機復元では、設計図を見るだけではわからなかった内部機構の機能や、バベッジの設計が当時の技術水準でおおむね実現可能であったということなどが明らかになり、バベッジ研究に大きな進展をもたらしています。

  この研究手法は、歴史的事物を当時の文脈に置き、現代的な後付けの視点からは解釈しないという科学史・技術史研究の基礎的態度に、慎重に裏打ちされています。これは上記のような「復元」に限らず、歴史的な事物を評価する上では不可欠の条件です。たとえば、「コンピュータと言えばデジタルな電子計算機のことであり、計算機は大規模デジタル計算機からパーソナルコンピュータへむかって一直線に開発された」という解釈は、現代的な視点からは十分に思えますが、「コンピュータと言えば1930-40年代には人間の計算係のこと」「アナログ計算機は非常に重宝され、1980年代まで十分に活躍していた」などといった事実の前ではまったく意味をなしません。現代の主流・常識が、過去の主流・常識であったことは、まず無いのです。

  しかし、どれほど当時の技術水準を再現し、どれほど精密さを期そうとも、出来上がった復元物は作者が当時作ろうとしたもの(もしくは作ったもの)そのものではありえません。材料調達や取るべき手順の決定など、その作業はしばしば困難です。それでも復元が試みられるのは、動作するところを見て初めて「わかる」何かが確実にあるからです。それが「復元」とよばれるあらゆるプロジェクトの肝だと言って良いでしょう。

  さて、作品を作曲当時にできるだけ近い状況・環境・文脈に置いて再現を試みるという意味で、このコンサートシリーズを含む古楽の演奏会は、「復元」プロジェクトに似た構造を持っています。「ピアノと言えばモダン・ピアノのことであり、ピアノはその方向へ向かって一直線に開発された」という解釈が意味をなさないのはご承知のとおりですが、同様に、その時々の鍵盤楽器のために書かれてきた作品についても、歴史的に真価を問おうとするならば、現代的な後付けからの解釈――早い話がモダン・ピアノに密着した解釈からは離れねばなりません。器楽が楽器というある種の機械と切り離せない以上、作品そのものと作曲当時に使用されていた楽器も切り離すことはできません。器楽は楽器、作品、作曲者、演奏者、聴衆という多数の要素が絡み合って構成されたものであり、作品は本来、その網目の中で意図を与えられ演奏されてきたものであるからです。たとえ歴史的な価値を問う気がなくても、作曲者の意図を知りたいならば、作品を歴史的な文脈の中に置いてみなければなりません。歴史的文脈の網目の間には、作品の中には直接書かれていないある種の空気が満ちており、作品のありようはその空気に決定的に影響されているからです。

  とはいえ、事態はより複雑です。なぜなら、器楽作品の再現は単なる事物の復元ではなく、楽器、演奏者、環境、楽譜という複雑に絡み合う要素を一度に再現しようという試みに他ならないからです。いざ楽器と演奏者をもってきて当時の状況を再現しようとしたとき、そこには単なる古物や古い機械の復元の範囲を越えた、独特の問題が立ちふさがります。

c0050810_7404049.jpg  第一に楽器の再現性です。これはあらゆる「復元」につきまとう問題ですが、古楽器を含む歴史的機械が、本当に当時使われていたそのままの状態で復元されることは、まずありえません。これは長年保管されていた古楽器を用いる場合も同様です。なぜなら、楽器には日々のメンテナンスの手順や頻度、老朽化に伴う補修に使われる技術などが必要ですが、これらは長年の間に必ず何らかの変化をこうむっているからです。機械にまつわる潜在知は決して保存されえません。これは避けがたいことです。

  また、楽器に様々なバージョンがある場合、どの楽器で演奏するかという問題も重要です。たとえばベートーヴェンはウィーン式とイギリス式の両方のピアノフォルテを所有していました。ベートーヴェンがどの楽器を好んだのかというのは興味深い問題ですが、ベートーヴェン作品の行間ならぬ「五線譜間」の意図を明らかにするには、ウィーン式だけではなくロンドン式のフォルテピアノで演奏され、比較されなければなりません。また、「採用されなかった」「好まれなかった」と言われる楽器に注目することも今後必要となるでしょう。最終的に採用されたり、主流になったりしたものは、歴史の中で選ばれるべくして選ばれたのでは「ない」ことも多いからです。

  第二に演奏法の再現性です。言うまでもなく、楽器の演奏法は(楽器製作と同じく、もしくはそれ以上に)潜在知の塊です。その曲を弾くとき、どのように身体を使うべきであったのかは、伝わっている伝統的奏法、史料や作品の分析、楽器の機構による制約、そして自分の身体そのものによる制約などから推測するしかありません。

  ただし、器楽の場合、楽器の機構による制約そのものが復元を試みる際のヒントとなっている側面はあるでしょう。たとえば日本の伝統芸能である能は、現在ではゆっくりとした重い曲調や、強吟と呼ばれる唸るような謡い方で特徴づけられていますが、室町当時は曲によっては現在の半分以下という遥かにスピーディな上演時間であったそうですし、強吟という謡い方は存在しなかったと言われています(すなわち弱吟と呼ばれるメロディアスな謡が主流であったということになります)。江戸期を通じて変化した能の上演スタイルの元の姿は、現在のそれとはかけ離れたものだったのです。しかし、史料も少なく、機械による制約といったようなヒントも残されていない今となっては、かつての姿の再現はおそろしく困難な試みとなっています。

c0050810_7411796.jpg  第三に楽器と演奏者をとりまく環境の再現性です。楽器はどこに置かれたのか。それはどれくらいの大きさのどのような部屋だったのか。聴衆は何人くらいで、どこに座り、何をしながら(あるいは何もせずに?)聴いていたのか。作曲者がどのような環境で弾かれることを想定していたのか、そして演奏者が実際どこで弾いたのか。聴衆なしに音楽がありえない以上、本当に当時の状況を再現するならば、この要素を無視するわけにはいきません。しかも、フォルテピアノの場合、座る位置の微妙な差異でモダン・ピアノとは比べ物にならないほど聞こえる音に違いが出ます。私は本シリーズの第3回演奏会では前半と後半で座る席を変えたのですが、別の楽器かと思うほど音に差がありました。演奏者側の前から2列目に座って聴いたときは、音はどこか少し遠くで鳴っており、強弱もそれほど感じられず、趣味良く可愛くこじんまりした印象があったのですが、そののち席を替え反響板側で残りを聴いたところ、音量は大迫力、機構の動作音も聞こえますし、強弱のメリハリに至っては明らかに作品の差を超えた違いでした(大井氏によれば、楽器の中に頭を突っ込んで聴けば、さらに違う音が聴けるとのことです)。たった数メートルの差であからさまな差が出るという事実は、ピアノフォルテがモダン・ピアノと同じ環境で聴かれた楽器でないということを示しています(これをお読みの皆さんも、ぜひ積極的に聞こえる音の変化を体感頂きたく思います)。

  結局のところ、当時の状況の完璧な「復元」は不可能なのです。多数の要素の絡み合った「器楽」というものの構造が、事態をさらに困難にしています。しかし、それを承知のうえで敢えて試みることに意味があるのは、楽譜に書きようのない、現代的演奏では欠落してしまう何かが、その試みの中で緩やかに立ち現れるからにほかなりません。堆く積みあがった解釈と変革の上にあるモダン・ピアノによる音楽は、それはそれ自身として価値のあるものです。しかし、ひとときそれを忘れて、モダン・ピアノに無いきめ細かな音の膚触りや、現代とはまったく異質の美意識を味わうとき、我々は作曲者の語る言葉なきメッセージに一歩近いところにいるのです。
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by ooi_piano | 2008-10-30 07:28 | コンサート情報 | Comments(0)