6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

汎用クラヴィア奏法試論βーーーおおまかな組織化(その1)

[読み易いように、(その1)→(その5)を上下順にしました。項目については、ブログ目次を御覧下さい。(11/07)]

c0050810_12481076.jpg  2年前に脱力法についての一連の記事(その1その2その3その4)を書いた際、A社から出版の御打診を頂いたもののそのままになり、追加記事を昨年10月にアップしつつ、クラヴィコード録音ならびに各種フォルテピアノの経験を経て、今年後半に入ってやっと試論(Versuch)としての目処が立ちました。ここ2ヶ月ほどは、様々な職種・年齢層・音楽歴の方々への脱力セッション(closed beta test)もやってみました。
   初心者が16分音符で指がもつれるのも、上級者が重音技巧に手を焼いたり腱鞘炎やジストニア(書痙・跳ね指)で往生するのも、傍目には似たような現象に見えますし、「もどかしさ」という点では両者に差は無いでしょう。運動神経や才能の多寡は、この際クリティカルではありません。なぜ「もどかしい」のか、なぜ神経細胞を活動電位が効率的に伝わっていってくれないのか、と言えば、「意識されない」筋肉のこわばりが邪魔をしているからです。


  試論は大きく2つの部分に分かれます。

【1】 鍵盤を押し下げるために必要最小限なモーションとは。
【2】 筋肉・骨の可動域を最大限確保するためには。


  【1】は奏法認識の演繹(ソフト)、【2】は指から胴体に至る体の燃費向上(ハード)と言えるでしょう。
  【2】が十分滑らかに活性化されており、そこに良い楽器と耳があれば、自然と【1】に到達出来る筈です。ソフト面ならびにハード面それぞれにおいて発生しがちな障碍についても、考察していきます。


1-a  奏法趣旨
   ヒストリカル・モデルのクラヴィコードで、特に3声部以上の複音楽を演奏しようとした際、余りにも鍵盤が軽いため、打鍵の「指先成分」を可能な限り捨象する必要に迫られました。すなわち、鍵盤上の適切な位置まで手首を持って行って、あとは置くだけ。
   この「ある位置まで手首を持って行く」、という作業に着目します。一見単純きわまりない動きですが、指先を決して阻害することなく、---すなわち手首・肘・肩等が一切突っ張ることなく---、完璧に手首を適正位置へ持って来るのは、実は非常に難しい。体操選手が平均台の上でバランスを取るのと同じくらいの覚悟をして丁度、かもしれません。
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   J.S.バッハは「あたかも指を動かしていないかのように」楽器を弾いた、と伝えられていますが、そのじつ本当に指を「動かして」いなかったのでは無いか。古今の名匠、ピアノだけではなくヴァイオリンでもギターでも、指をほとんど動かしていないように見える方は大勢いらっしゃいます。それらを評して、「背中の使い方が素晴らしい」、「インナーマッスルのバランスが半端じゃない」、等の形容も巷間耳にするところです。
c0050810_2217583.jpg   既成のピアノ奏法論が完璧なシステムならば、誰でも習えば楽にピアノが弾けるようになり、そのまま音楽とともに幸せな一生を過ごすことが出来る筈です。ピアノは10年習ったけれど、ショパンのワルツも弾けるようにはならなかった、と何度打ち明けられたことでしょう。あるいは、音大ピアノ科卒業者のうち、ピアノ、ひいては音楽そのものが嫌いになり、一切の関わりを持たなくなった人の割合のいかに高いことか。才能が無いから駄目、早期教育を受けないと駄目、良い楽器・環境で長期間練習しないと駄目、などのエクスキュースが準備されているのも、そもそも奇妙な話です。実のところ、教育者の方々は、「なぜか弾けない」元凶としばしばなりうる指先成分の動きについて、過度に強調するどころか、反対に、そこからどうにかして目を逸らさせるために粉骨なさっているのでは無いでしょうか。そこで御提案するのが、指先成分を可能な限り排除した鍵盤奏法です。

1-b   奏法具体例のイントロダクション
   いま、適切な姿勢(後述)で椅子に座っているものとします。指先成分は必要ありませんので、手首から先が「うらめしや」ポーズのようにダランと垂れた状態のまま腕を持ち上げ、ゆっくりと上下・左右・前後に動かします。肩周りは緩められており、肘は吊り橋のように垂れ下がっています。前腕の真ん中あたり(手首と肘の間)がヘリコプターで吊り下げられている、あるいは下からT字杖(or物干し竿受け)で持ち上げられ移動させられている、という体感イメージです。手首を持ち上げるのではなく、前腕の中間地点あたりに意識を置くのは、尺骨と橈骨の空間的ねじれの位置を温存し、手首の硬直を回避するためです。
   いわゆる「気をつけ」の姿勢において、両肩の肩甲骨面は「\...../」のように、20度~30度ほど前へ向かって、逆ハの字型に開いています。そのため、胴体の「真横」で肘をあげようとすると、肩が固まる、という現象が起こります。上記、手首の空間位置を変化させる際、この肩甲骨面のみを念頭に置くこと――、すなわち、「手首の次の位置を予測し、肩甲骨面が先に動き出すこと」を徹底させるのが、この奏法論の骨子です。子供の指は小さく柔らかく、モダン・ピアノの重い鍵盤には向いていませんが、肩甲骨周りは特上の柔らかさですので、「予測変換」については何も問題ありません。逆に、大学生以上の年齢になると、この動きにガクンとぎこちなさが見られるようになります。人間の腕の重みはかなりのものなので、それを持ち上げ支える筋肉と、肩甲骨を回転させる筋肉の齟齬から悪循環が発生するようです。
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   前腕よりも肩甲骨が先に動くのは、翼の羽ばたきをイメージすれば当然のことです。体感的には、腕で何かアクションを起こす直前(例えば投球)、体の内部をフッと軽くしバックスィングさせること等に相当します。人間の指・肘・上腕は様々な関節に分かれているため、この「翼の付け根」を固定したまま打鍵することが可能であり、子供時代には自然にズレていた肩甲骨・肘・手首の位相が、いつしか同期し固定されるに至るようです。
  手や足の位置を動かしたとき、その体勢での安定性がいかに重要であるかは、野球のピッチングフォーム、ゴルフのアドレス、バレエのアラベスク、相撲の四股など、多数の例を引き合いに出すまでもありません。手や足を少しあげただけで、体内のバランスはいとも簡単に崩れ易く、それが手先・足先のコントロールを阻害するわけです。


   以下簡単のため、深層筋(インナーマッスル)等の最適状態調整(バランシング)を、略してI.B.(インナーバランシング)と呼びます。鍵盤の高さ丁度に手首を持って行った状態のI.B.をI.B.(0)、鍵盤から1cm低い位置での手首のI.B.をI.B.(-1)などとします。I.B.(0)とI.B.(-1)は、わずかではありますが異なったものです。I.B.(-5)の状態で指を鍵盤に置くならば、手首から先は(体感的に)垂れ下がったまま、すなわち指の動きは一切使わなくても、指で鍵盤を押し下げることが出来るでしょう。垂れ下がっていた手首の角度は水平に近づき、肘は押し出され、肩甲骨はneutralの位置から外転します。指が鍵盤に触れた瞬間に指をわざわざ硬くする必要はありません。指の形が大きく崩れない程度に意識が「通っているような通っていないような」程度で十分です。
     このI.B.(0とI.B.(-5)の差、いわば位置エネルギーの差が、鍵盤にかかる「腕・体の重み」とされるものです。鍵盤の重さが重いほど、エネルギー差をより利用しなければならなくなります。例えばモダンピアノではI.B.(-5)、チェンバロでは2段カプラーでI.B.(-3)、上段マニュアル8フィートならI.B.(-2)、ヒストリカルのクラヴィコードならI.B.(-1)、などと譬えられるでしょう。モダン・ピアノでも、奏者の指の大きさ・重さ、楽器の個性、強弱・音色、白鍵にくらべ僅かに奥であり高い黒鍵、等々の諸条件下で、I.B.は多様に変化します。チェンバロにおいては、適正なタッチのためには、高さならびに重さの違う鍵盤のための最適なI.B.が求められますし、オルガンではさらに足鍵盤まで両立させるためのI.B.を探らねばなりません。指先メインでの処理にいちいち苦心するよりも、I.B.で柔軟に受け流すほうが、音楽的側面からも遥かに効率的・現実的だと思います。
   この動きでは、「重力(gravity)奏法」という言葉から連想される、加速(gravitational acceleration)は意識する必要はありません(不必要な押し付けにつながるから)。等速運動のイメージで無問題です。I.B.の位相変化を、「落下していく感じ」と表現する人も多い。余計な硬直を取り除いていった結果、I.B.の位相を滑らかに変化出来るようになり、気付くといつのまにかスピードがあがっていた、くらいが健康的なプロセスでしょう。スピードを指標として採用するのは、どうしてもスピード自体が目的となりがちであり、硬直を招く危険と隣り合わせです。


1-c なぜ鍵盤を押さえ込み、握り掴みたくなるか
   体が十分に柔軟であるにもかかわらず、不要な重さをかけて鍵盤を押さえ込み、かえって指が回らなくなってしまうケースについて考えていきます。

c0050810_125218.jpg●鍵盤楽器に共通する問題
   肩周りが最も自由になるためには、骨格的には顔は真正面を向いていなければなりません。一方、どうしても鍵盤の白黒模様、あるいは視線下方にある譜面を見ざるを得ないのも現実です。そのときのI.B.の崩れを最小限に留めること。体の中心線を鍵盤中央に合わせたら、あとは目を閉じていてもおおよその鍵盤風景が把握出来ている(=Keyboard mapping)べきですが、これは手首の左右移動におけるI.B.に他なりません。オルガン奏者が決して足鍵盤を見ないのも同様です。マッピングが出来ていることと、緊張することなく悠々と手首も所期の位置へ移動させられることは、卵が先か鶏が先かと云った相関関係にあります。時間を節約したければ、練習の最初期の段階から、この2つの両立を全力で図るべきでしょう。


●モダンピアノの利便性の裏側
   この百数十年間に製作されたモダン・ピアノは、多少の乱暴なタッチにも耐え得るように設計されており、それが上記I.B.問題と相対する機会を奪っています。肩甲骨周りを硬直させていても手首の回転は可能ですし、音色を度外視すれば音高を拾うこと自体は容易です。すなわち、あたかも「不自由が無い」ような錯覚に陥る。
   I.B.問題を看過あるいは先送りすると、ときどき上手くいくけど、ときどき上手くいかない、という不安定な状態が続きます。そして、舞台上での緊張や、楽器との相性、加齢による筋肉の変質等といった、ちょっとした状況変化によって、いとも簡単に破綻が訪れる。ここで持ち出されるエクスキュースは、またしても「才能」「適性」、あるいは「集中力」、「経験」、「練習量」、「もう年だから」、などです。
  モダン・ピアノでは余りにも簡単に音が出ることから、音色よりもミスタッチの多寡が重視され、特定の指を特定の鍵盤へ無理から捻じ込む、すなわち指先成分メインの打鍵になりがちです。リキんで叩いても音が出るので、安心してブッ叩いた結果、フォルテとフォルティシモの区別は無くなり、強打で音色が割れる。一方ピアノ・ピアニシモでは、音色よりも音量が念頭にあるため、音がかすれるのを恐れて、やはり手を硬くしてしまう。
   引っ掻くようなタッチでもとにかく音は出るので、オクターヴあるいは10度に手を広げる際、肘から前腕をガチガチに固めてしまう。突ッ付いても音が出るため、手首を鍵盤上空まで持って行く準備作業なしに、そのあたりの音域めがけて指を猪突させ、無駄に出血したりする。

c0050810_12533095.jpg●モダンピアノの無意味に重い鍵盤
   バッハがクラヴィコードで《平均律》を弾いていた際は勿論、ショパンがウィーン式フォルテピアノで《練習曲集》を書いたときでさえ、彼らはここまで重たい鍵盤、鈍く濁った響きは想像だにしていなかったことでしょう。ヴァイオリンやチェロなら子供用の分数楽器が用意されているのに、ピアノだと5度しか届かない小さな手で必死で鍵盤を叩くよう強いられます。バッハが長男に手ほどきするためクラヴィア小曲集を書いたのは彼が10歳になってから、しかもクラヴィコード用でした。いまの小学生が弾くレパートリーは、所詮バロック・古典派がメインなのですから、リストやラフマニノフ用の重たい楽器を宛(あて)がうのも、19世紀以前は存在もしなかった、「不必要な労苦」と謂えるでしょう。
  プロセスとしてのハイフィンガー、「肘を使いましょう」「脇を閉めましょう」「鍵盤の底までしっかりと」「打鍵の瞬間だけ指を硬くしましょう」など、ある場面ではひょっとすると有用でも、他の場面では途端に障碍となり得る善意のアドヴァイスの数々は、特に子供・女性・東洋人にとって非常に重たい、モダンピアノの鍵盤に由来しているのでは無いでしょうか。

●「レガート奏法」の呪い
   モダンピアノ開発時に「語る」から「歌う」へと演奏様式が変化していったせいもあり、レガートで弾ければ弾けるほど上級者、ペダルを最大限踏めば踏むほど音楽的、という、無間レガート地獄が今もって跋扈しています。ボーイング(弦楽器)やアンブシュア(管楽器)も無く、鍵盤に粘着したままでも演奏は可能な上、初心者向けに「隣り合う音を少しずつ重ねましょう」と推奨されることも、止め処ない指の押し付けの一因だと思います。演奏開始直前は、鍵盤にちょっと触ってはまた離し、と躊躇(ためら)い傷を繰り返しておきながら、いったん演奏を始めた後は、ずっと鍵盤を押さえ込みしがみ付いていないと不安、という心理は、重力恐怖症(Barophobia)の一種と看做せるでしょう。一方スタッカートはスタッカートで、腕全体を軽くはずませるというよりは、指先でチクチクと小さく突き刺しているのもよく見かけます。
  同じヨーロッパの中でも、ドイツ・フランスよりはイタリア・スペインなどのほうが無節操なレガートの弊害は軽いようなので、日常会話での修辞が多少なりとも音楽とリンクしていることが、楽器の奏法にも関連してくるのかもしれません。書道と一緒で、手首が空中を自由に浮遊していなければ、適切なアーティキュレーションは施せません。舌が口蓋に貼り付かず自由に動かせ波打たせられるからこそ、的確に子音が発音出来、言葉の意味合いも明瞭に伝えることが出来ます。 浮かせたいと思ったときに即座に浮かせられる手首は、少なくともベートーヴェン以前の作品では必須でしょう。

c0050810_12553899.jpg●われ爆音主義を待ち望む
  例えば私のような巨デブのオッサンがグラビアアイドルになりたいとかジャニーズJr.に入りたいとか妄想するのと同程度に、指の細い手の小さい女の子がラフマニノフの第3協奏曲を大管弦楽と共演したがるのは、傍目には悲喜劇です。
  そもそもモダンピアノは、ほっといても莫迦デカい音が出る楽器なのに、さらに「楽器を鳴らし切る」ことが重要なテクニックの一つとされ、「オーケストラを貫いて聞こえるピアノ独奏部」などが賞賛されます。音量のためにリキみ、速度のためにさらにリキむ。
   本来、ある限度以上の音量や速度は、聴き手とのコミュニケーションとしては低劣な手法であり、むしろ騒音として拒絶される確率のほうが高い。大きな声で怒鳴ったり、早口でまくしたてたり、プロパガンダを連呼されても、説得力は増しません。ところが一部の聴き手は、大盛り御飯をスピード給仕することに、盛大な拍手を送る。喰っていかないといけないし、弾いていて気持ちも良いものだから、ますます頑張って鍵盤を殴打する日々となります。

●他の人が手を押し付けて弾いているから、そう教えられたから
  これは単なる悪循環ですので、論考に値しません。「ポリーニが死ね言うたら死ぬんか」というレベルの話です。弾けない人が弾ける人の表層だけを物真似するのは滑稽であり、時間の無駄です。機械を使おうが使おまいが、モーション・キャプチャー解析に意味はありません。

(この項続く)
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Commented at 2009-10-18 16:26 x
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by ooi_piano | 2009-11-07 09:12 | クラヴィコード様への五体投地 | Comments(1)