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寄稿:《松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて》(白石知雄)

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松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて 音楽評論家 白石知雄

寄稿:《松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて》(白石知雄)_c0050810_23374963.jpg 1958年に「八人の奏者のための室内コンポジション」で軽井沢の第2回現代音楽祭作曲コンクールに入賞したことは(武満徹「ソン・カリグラフィ」と順位なし同時入賞)、大阪茨木の旧家に生まれて、作曲を独学で身につけた松下眞一(1922-1990)が日本の戦後作曲界に認知される契機になった。1960年代には、矢継ぎ早に新作を発表して、『音楽芸術』等で積極的に発言した。また、1958年に大阪で結成した作曲グループ「えらん」や、翌年に音楽評論家の上野晃らと立ち上げた現代音楽研究所の活動は、第4回現代音楽祭の大阪開催(1961)を経て、「大阪の秋」国際現代音楽祭(1963-1977)に発展した。



寄稿:《松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて》(白石知雄)_c0050810_23383672.jpg 大阪市大とハンブルク大学で教える数学者という肩書きと相まって、松下眞一には前衛音楽がよく似合う。「人類の進歩と調和」を掲げる1970年の日本万国博覧会で本部企画委員を委嘱されたのは、(巨大国家事業に巻き込まれた愚痴を後年書きつづってはいるけれど)適任だったと見ていいだろう。

 しかし考えてみれば、1922年すなわち大正11年生まれの松下は、「室内コンポジション」発表当時、既に35歳。昭和20年代から活躍していた「三人の会」の團伊玖磨(大正13年生)や芥川也寸志(大正14年生)より、さらに年上である。

 早熟な少年時代に映画館でタンスマン(「にんじん」1932年)やイベール(「ゴルゴダの丘」1935年)のフランス音楽を楽しんだというから、彼は昭和初期のモダニズムに間に合っており、日中戦争勃発の年に入学した旧制三高では、かつて織田作之助や梶井基次郎がいた文芸部に所属した。大正5年生まれの柴田南雄が、一連のシアター・ピースで旧制高校風の教養主義を装いも新たに復活させた1970年代から、松下眞一も、哲学科志望だった学生時代に戻ってやり直すかのように、西洋思想と東洋思想、物理学と歴史学、宗教学と音楽美学を横断する著作を書き継いでいる。



寄稿:《松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて》(白石知雄)_c0050810_23391393.jpg とはいえ、松下眞一を「戦中派」だと言い張るのは、さすがに強引。彼は、兵役のない理系に転じて九州帝国大学理学部へ進み、社会に出る前に終戦を迎えた。敗戦後のオトナたちの豹変ぶりを嫌悪して、若い世代が戦前からの決別を叫ぶ心情には、心底、共感していたはずだ。戦前的教養の残り香を留めながら、戦後音楽の旗手でもあった危うい立場は、どこかしら、2歳年下の評論家、吉本隆明(妥協を知らぬ断言・啖呵と、意外にミーハーな時代感覚の共存)を連想させる。



寄稿:《松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて》(白石知雄)_c0050810_23393931.jpg 松下眞一には、至るところに分裂がある。西洋と東洋、数学と音楽、人文趣味と合理主義、終生変わることのなかった郷土愛(彼は生涯、ドイツからの帰国時は茨木の生家に暮らした)と、宇宙の果てまで思いを馳せる広大無辺なユニヴァーサリズム……。そして亀裂の深さと同じくらい激烈な、総合への意志があった。没後20年目に実現したスペクトラ全曲演奏は、その異形の全体像、「統一」や「まとまり」とはおよそ無縁なその全貌と向き合う最初の一歩となることだろう。
by ooi_piano | 2010-01-18 23:22 | コンサート情報 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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