7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


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「松平頼則が遺したもの」(石塚潤一)

《松平頼則が遺したもの》 -------- 石塚潤一
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  一九二五年、秋。フランスのピアニスト、ジル=マルシェックスは、帝国ホテルロビーにおいて、六夜に渡る連続演奏会を挙行した。日本楽壇のメインストリームはドイツ音楽へ目を向けており、フランス音楽など噂ばかりで稀にしか聴けなかった頃の話である。ドビュッシー、サティ、六人組の作品を中心に、実に三十三曲もの日本初演曲を含んだプログラムは、音楽専門家だけではなく、在京の趣味人の興味をも惹きつけ、後に梶井基次郎は、これらの演奏会の印象をもとに、小説「器楽的幻覚」を書くことになる。さて、これら一連の演奏会を聴いたことを機に音楽家への道を歩み始めた青年がいる。彼は、ほぼ独学の末に作曲家となり、フランス近代音楽の和声法から、総音列技法、アレアトリーに至る西欧最先端の音楽語法を、確実に自分のものとして行った。その姿は、あたかも日本の洋楽受容史を体現しているかのようである。しかしながら、真に重要なことは、彼が新しい技法を次々と習得したことではない。単に新しい技法を導入しただけでなく、それを自分だけのやり方で運用するに至ったこと。それゆえに、彼は日本洋楽受容史の体現者と呼ばれるに相応しい。

  この青年、松平頼則は、一九〇七年五月五日、旧石岡藩主の流れを汲む松平頼孝子爵の長男として生まれた。ジル=マルシェックスによる演奏会が開かれた当時は、慶應義塾大学仏文科に在学する学生であった。音楽への意思を固めた松平は、上野の音楽学校で指揮を教えていたラウルトルップにピアノを習い始め、ドイツ出身のチェリスト、ヴェルクマイスターには、作曲と機能和声とを師事することになる。ただし、松平自身によれば、作曲のレッスンは「すごくオーソドックスで、ほとんど何のプラスにもならなかった」と手厳しい。パリ音楽院でダンディらに師事した小松耕輔の下で作曲を学んだこともあったが、作曲のレッスンよりも、同門の清瀬保二との議論を繰り返すうちに月日は過ぎていった。そのような事情により、プロフィールには「ほぼ独学で作曲を学ぶ」と記載されることもある。

  そうした修行時代を経て、一九三〇年、松平は箕作秋吉や清瀬保二、菅原明朗、橋本國彦らと共に新興作曲家連盟の設立に参画する。これよって、ドイツを規範とした旧来の作曲界とは違う指向を持った作曲家達が、ようやく日本音楽史の表舞台に立ち始めることとなった。当時の日本のモダニズムもまた、アカデミックな場ではなく、そうした在野での活動の中に花開いた。橋本は四分音を用いた日本民謡の研究に勤しみ、箕作はシェーンベルクがその著書「和声学」で用いた分析法を日本音階の研究へと応用した。西欧音楽の単なる模倣より脱し、オリジナルな作品を創造することで自らの存在をアピールすること。それこそが新興作曲家連盟の身上であった。故に、自らのオリジナリティの基盤を日本的音楽要素の中へと求め、それらを西欧的な音楽語法の中に構成することによって、自らの表現の核を形成しようと考えたのであった。このような野心的な活動と平行して、彼らは、当時の現代音楽であるラヴェルや六人組の作品を毎月のように取り寄せ、それらを書き写すことで西欧の新しい音楽語法を吸収することも忘れなかった。松平は一九三一年から三四年にかけて、ピアニストとして四回のリサイタルを行い、フランス近代音楽の紹介に貢献してもいる。しかしながら、ピアニストとしての技術的限界を悟った彼は、一九三四年以降作曲へと専念し、ピアニストとしての経験は、新たな音楽語法の習得と自らの作品の作曲とへ反映させられて行く。

  松平による新たな音楽語法の習得は、情報が限られた時代に行われたにも拘らず、極めて精緻な分析を伴ったものだった。そして、そうした分析の果てに、西欧音楽を構築するシステムを自在に運用するという明確な目的があった。のちに、「調子のひょうひょうとした捉えどころのない音の群、なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序が好き」と語った松平は、プーランクに代表されるフランス新古典主義の乾いた叙情と、作品の至るところに豊かな揺らぎを配したドビュッシーの作品に深く傾倒し、徹底的な分析の対象としている。その分析の結果は、一九三九年から四五年にかけて作曲された歌曲集「古今集」に代表される四十年代の作品群へと結実し、松平の調性音楽の書き手としての実力を裏付けている。
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  松平が、後の創作の拠りどころとする雅楽と出会うのも「古今集」の作曲中であった。その生涯を通じて、泥臭い情念的な表現を嫌悪し続けた松平は、雅楽という極めて洗練された様式美を持つ表現に心を奪われることとなる。松平と雅楽との関わりについては、この頃、東宝映画に映画音楽作曲家として入社し、上京を果たしていた楽友、早坂文雄からの触発も無視出来ないだろう。早坂の作品「左方の舞と右方の舞」(一九四一)もまた、現在とは違い、宮廷音楽であった雅楽が公開の場で演奏されることが少なかった時代にあって、数少ない演奏機会に取材して作曲された作品のうちの一つである。ただし、早坂は直感にて雅楽へと接近したが、松平はここでもより分析的なスタンスをとった。そのスタンスの違いが、両者の無調への接近の方法にも現れてくる。松平の分析的なスタンスは、十二音技法への共感を伴って、後にはその第三変奏にこの技法を適用した「ピアノと管弦楽のための越天楽による主題と変奏」(以下、「主題と変奏」と略記)(一九五一)へと結実することになる。

  フランス近代音楽を精緻に分析し、その結果を日本的な音楽要素と結び付けることに執心していた松平であったが、そうした創作の過程で実感したのは、日本的な旋法と六全音音階に重きを置くドビュッシーらの語法との間に生じる齟齬であったという。そこで、松平は、自らが拠りどころとする新たなシステムを模索しはじめ、その結果出合ったものこそが十二音技法であった。松平が「主題と変奏」を作曲した一九五一年は、入野義郎(後の義朗)が「音楽芸術」誌に「十二音技法とは何か」と題した十二音音楽入門記事を寄稿し、日本に住む一般の作曲家へも、この技法に関する情報が公開された年でもあった。

  一方、早坂文雄はと言えば、汎東洋主義(パン・エイシャニズム)を標榜し、東洋的「無の感性」を音楽作品として結晶化するには、作品は無調へと向かわざるを得ない、と考え始める。ただし、早坂の考える無調とは、十二音技法や総音列技法といった論理的構成によるものではなく、作曲家が純粋に東洋的感性へと浸り切った時に、感性的に導き出すべきものであった。早坂のそうした指向は、一九五五年に発表された交響的組曲「ユーカラ」における、拍節感の希薄な緩徐楽章へと最終的に結実する。しかしながら、「ユーカラ」の発表後わずか四ヶ月で早坂は病死し、早坂が目指した新しい音楽の行く末は、次世代の作曲家達に託されることとなった。

  早坂が論理的構成と切り捨てた十二音技法ではあるが、この技法は、感性と対立する論理のゲームなどでは決してない。これもまた、多くの作曲技法がそうであるように、作曲家の感性を引き出すための手段と考えられるべきものである。十二音技法以前にも、シェーンベルクを含む多くの作曲家が、感覚的に無調の作品を作曲してはいる。しかしながら、旧来の調感覚から離れて作曲をすることが、作曲家へさらなる自由をもたらすかといえば、必ずしもそうではなかった。譬えて言うなら、樹海を散策するとき、どこへ行くことも可能なように思えても、実際には同じ場所を周回していることが多いように、無調を採用することによって得られる自由を余さず作品へと結実させることは、伝統的な調性原理の中で育ったものには極めて難しい。それ故に、楽曲に付随するテキスト等の力を借りず、大規模な無調による音の構造物を作曲するには限界が生じる。そこで、十二音技法というシステム、つまり、十二音列を対位法的に構成する方法論を導入することが必要となる。作曲上のイメージをより効率的に実現し、作品を豊かなものとするために、自らを束縛する規則の中へと敢えて踏み込むこと。そうした作曲の姿勢は、松平の創作の作法にも通じるものであった。

  合竹と呼ばれる不協和な和音の力によって、調性感が希薄なものとなっていた雅楽。それ故に、無調音楽を対位法的に組織するシステムである十二音技法は、雅楽的音楽要素を組織化するシステムとしても機能し得た。音列を構成する十二の音を雅楽の旋律線に沿って選択し、その音列を用いて十二音技法を行使してみる。この技法に身を任せることによって、松平はフランス音楽と雅楽との結びつけに生じていた齟齬を乗り越え、新たなる創作の段階へと入ることができたのだった。

  「主題と変奏」は、一九五二年のISCMのコンクールに初入賞し、松平の国際的な意味でのデビュー作となる。「主題と変奏」が松平の出世作と呼ぶに相応しい素晴らしい作品であることは確かである、が、プロコフィエフのような小気味よい、揺らぎのない時間感覚に満ちたこの曲は、松平のキャリア上、極めて特異な作品でもある。この作品に、松平が志向する「調子のひょうひょうとした捉えどころの無い音の群」は存在せず、第五変奏には当時流行していたブギ・ウギのリズムさえ現れる。作品に一般的な意味での親しみやすさを持たせようとしたが故のことであったが、このような創作のあり方は、楽友である早坂より批判され、以後、松平は自らがイメージする音風景を、極めて抽象的な佇まいのうちに実現することのみに集中することとなる。

  「主題と変奏」以降、松平は、十二音技法から総音列技法へと移行していた当時の西欧音楽の流れを、猛烈な勢いで追いかけていくことになる。だがそれは、単なる西欧の後追いと評価されるべきものでは決してない。「主題と変奏」では実現出来なかった「捉えどころの無い音の群」を、松平は総音列技法によって作品をつくるなかで確実に実現してゆく。音高、ダイナミクス、リズムまでも徹底してパラメータ化して組み合わせる総音列技法。この技法が目指した地平は、作曲の自動化などというものでは、決して、ない。確かに、作曲における自由度を制限する手法ではある。しかしながら、音楽を形成する要素の幾つかに制限を加え、徹底的な管理下に置くことは、管理の外にある要素を浮かび上がらすことに繋がり得る。高度にシステマティックな方法論を自らに課すことで、自己の音楽性を、情念を排した様式化された美として結晶化することを目指す松平にとって、総音列技法という方法論こそが、一九五〇年代の音楽状況の中にあって、最も共感できるシステムだったことは疑いない。
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  松平が目指した「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」。こうした松平の志向を実現するための素材として、雅楽はこの上ないものであったと言える。メシアンは東洋、主にインドのリズムを、西欧的な確固とした拍子感を持つスクウェアなリズムに、異物を付加することで構築しようと試みた。しかしながら、メシアン自身が指摘しているように、東洋のリズムはスクウェアなリズムから派生して作られたものではない。日本人のリズム感にある、西欧的なリズムの周期に当てはまらない擬周期性。それはより自然発生的な側面を持つものだ。例えば、鹿おどし(ししおどし)。竹筒の中に一定量の水が溜まると同時に、間歇的に音を打つ、旧家の庭などに置いてあるあの仕掛け。この竹筒へと流れ込んでくる水の流量は一定ではないため、音が鳴る間隔も完全に同一ではない。とは言っても、竹筒の中に水が一定量溜まるまでの時間には、そう大きな違いが出るわけではないので、その間隔は周期的と言えなくもないものとなる。自然が持つ豊かな揺らぎを、単純な仕掛けをもって引き出す恐るべき知恵。そうした揺らぎの豊かさを愛でる感性が、日本人が持つ擬周期的で大らかなリズム感へと結実し、伝統音楽におけるヘテロフォニー的な音の佇まいに、より一層のリアリティを与えていたのではなかったか。

  松平が雅楽から取り込み、総音列技法での作曲へともたらしたものは、何よりもそうした音楽の流れにおける揺らぎである。まず、そのような揺らぎは多用される前打音によって作品へと導入される。「催馬楽によるメタモルフォーズ」(一九五三、五八)を聴いてみよう。強拍に付けられる前打音が、西欧的な拍子感を曖昧にし、音楽の流れにある確固たる周期性を解体してゆく様を聴き取ることが出来よう。西欧音楽において、前打音は常に拍子感の明らかな音楽の流れを前提とし、その装飾として付加されていたが、松平作品においては、それらはもはや装飾ではなく、作品の本質と不可分な重みを持ったものとなる。

  総音列技法に対する批判の一因にもなった対位法的な複雑さは、不可避的に複雑なリズム構造をも作品へともたらすことになるが、そうした複雑なリズムのあり方もまた、松平の作品においては擬周期的な揺らぎを持つ音楽の流れを実現するための武器となる。松平の作品が飄々と時空を漂うかのような印象を聴く者へともたらすのは、個々の音列を総音列技法での厳格な構成によって配置しながらも、単位時間当たりの音密度の変化が擬周期的なものになるように構築されているからでもある。そうしたコンセプトの下で、リズム構造の複雑さは、作品へより精妙な揺らぎをもたらすことに貢献する。また、松平は雅楽の塩梅に由来するスライドしていく音程を、作品の中へと導入する。近藤譲の指摘にあるように、このことは総音列技法という技法が持つ論理的堅牢性を揺るがすものである。しかしながら、聴覚的には無機的な印象を与えがちな総音列技法での作曲に、微妙な表情を加えるスパイスとなる。時にそれは、音列の中の音を連結して特定の声部を強調し、また、ある時は、前打音のように音楽の拍子感を曖昧にして行く。後に松平は、こうしたグリッサンドの扱いを雅楽における墨譜という記譜法と結合させる。墨譜とは、雅楽の一ジャンルである朗詠で用いられる、微分音程をうつろう声の抑揚をグラフ的に書き示す譜面のこと。この記譜法を応用することで、松平によるグリッサンドの扱いは、より厳密かつ表現力豊かな形へと突き詰められたのだった。

  このような方法によって、松平は自身が求めるイメージを確実に作品へと昇華していった。ここで注意すべきは、「主題と変奏」によって幕を開けた松平の五十年代は、松平が雅楽へと取材しつつ、雅楽からの直接的な引用から離れていく過程でもあったことである。松平が目標としたものは、西洋楽器を使っての今様雅楽の作曲ではない。松平の目的は、あくまで自らが好む「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」を作品として具体化することにあり、雅楽は、創造におけるインスピレーションの源として参照されているに過ぎない。また、松平は、総音列技法特有の緊張感と、自らが志向する揺らぎをもった音世界とを結び付けようとする。そこに生じる違和感を練達の技でねじ伏せ、奇跡的なバランスの上に両者を共存させていることも、松平作品の独自性を一層際立たせる理由となっている。

  六〇年代に入ると、松平の創作に新たな要素が入ることになる。それが、一九五一年、ケージが「易の音楽」によって音楽史へと導入した偶然性であった。「易の音楽」以降、ケージは、コインを投げたり、五線紙についた滲みを音符に見立てたり、といった無意図的な要素を、大胆に音楽へと導入して行く。しかしながら、ケージが行ったことは作曲家としての責任の放棄では、決して、ない。ケージは「易の音楽」の作曲において、単位時間当たりの音密度を極めて薄いものとするように心を配っている。これによって、確率的な事象の持つ揺らぎが聴き手に知覚させるレベルで表現され、作品のどこを聴いても同じ、という不毛な聴覚体験から聴き手を解放することが出来る。作品の音密度に気を配るが、音密度以外の要素については偶然が選択した結果を受け入る。それによって、西欧的な拍観念からも自由で、しかも豊かな揺らぎを取り込んだ音楽をケージは作曲することができた。このことを契機にブーレーズがケージから離反したことは有名であるが、一九五八年には、ケージがヨーロッパ前衛の総本山であるダルムシュタットで講義を行うに至り、ヨーロッパの作曲家の中にも、偶然性という概念を独自に消化しようという試みが始まる。彼らは、偶然性という新しい概念を、西欧音楽におけるテンポ選択の自由度のように、より作曲者の意思に引き寄せたものとして扱おうとしたのだった。ここに管理された偶然性という概念が生まれる。これは、賭けを意味するフランス語:Aleaにちなんでアレアトリーとも呼ばれる。

  松平の作品に偶然性が導入され始めたのは、フルート・ソロのための「蘇莫者」(一九六一)でのこと。当時、一柳慧がアメリカより持ち帰ったケージという事件に、日本中が沸いていた中、ヨーロッパ流のアレアトリーに拘ったことは、反骨の人、松平の面目を新たにしている。しかしながら、六〇年代に松平によって行われていたアレアトリーの実践は、作品を多数のパーツへ分割して、演奏者に演奏順を選択させたり、スコアの中の特定のパートに演奏法の選択肢を設けたり、といった程度のもので、松平以外の作曲家によって既に実現されていたことだったともいえる。「室内管弦楽のための舞楽」(一九六二)、「ピアノと管弦楽のための三楽章」(一九六二)といった作品で、偶然性を部分的に導入しつつ、より精妙に飄々とした音世界を実現してきた松平であったが、松平によるアレアトリーの適用が、余人の追随を許さない独自性を獲得するには、七〇年代まで待たなくてはならない。

  一九七一年に作曲された「二群のオーケストラのための循環する楽章」は、アレアトリーが、松平のいう「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」を実現するための、必要不可欠な要素として適用された記念すべき作品といえる。松平のアレアトリー受容の仲立ちになったのもまた、彼が長年インスピレーションの源としていた雅楽であった。雅楽には、吹渡しと呼ばれる二つの曲をシステマティックに結び付ける方法がある。この方法を応用することで、二群の管弦楽が要素を互いに受け渡しつつ、緊張と弛緩とを、あたかも自発的に繰り返すかのような作品を作曲することが可能となった。この作品に聴くことができる、飄々と、そして明白な意思を以ってその相貌を変えていく音風景は、松平自身が追い求め、ついに行き着いた到達点というに相応しい。
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  七十年代中頃に松平を襲った大病が彼の創作へと与えた影響は大きく、松平は一貫して追い求めてきた飄々とした音のイメージを捨て去り、張り詰めた緊張感が常に持続する作品を書き始める。アレアトリーは、そうした緊張感を作品へと呼び込む仕掛けとしても機能した。CDで聴くことが出来る数少ない晩年の松平作品である「神聖な舞踏による三つの楽章のための変奏曲(振鉾三節による変奏曲)」(一九七八~七九)では、アレアトリーは雅楽における退吹き(おめりぶき)という技法と結び付けられる。退吹きとは、西欧音楽におけるカノンに似た技法で、複数の奏者が順次同じフレーズを吹いて行くものであるが、西欧のカノンと違い、個々の声部の入りが各奏者の勘に任されていて、「縦の線を合わせる」という共時性が規定されていない。松平は、その旋律の入りの自由度をアレアトリーへと結び付ける。しかしながら、松平が目指したものは、雅楽において退吹きが実現する音世界とは全く異なったものだった。松平は、装飾が多く、幅広い音程的跳躍を含むフレーズをカノンで演奏させる。その結果実現されるのは、静と動が極めて短い間に交錯する緊密な音楽である。奏者は、自ら入りのタイミングを決め、先行する奏者の音を追い越すことさえなければ、テンポを揺らすことも自由である。そこにアンサンブルの予定調和は無く、偶然性の導入に基づく空間と時間との混乱が入り込む。だからこそ、奏者は極限まで耳を澄ませ、お互いの音に聴き入り、混乱の中で自らの立ち位置を確保するべく努力しなくてはならない。この仕掛けによって、松平は、西欧の音楽が決して実現出来なかった真剣勝負の緊張感を作品へと組み入れることが出来た。西欧のクラシックの伝統が培ったものとは異なった耳の獲得を、奏者へと要請するシステムとしてのアレアトリー。ケージは、この作品を聴き、「かれの音楽はひじょうに力強い。たとえ十二音音楽や日本の宮廷音楽に結び付いているにせよ、私はこのような音楽を未だかつて聞いたことがない」と激賞した。ケージが指摘した作品のオリジナリティ、その強靭さも賞賛に値するものであるが、そうした豊かな成果を、かくも単純な方法で実現し得た音楽的思考もまた驚異である。音楽的思惟と技法の運用とを分かちがたく結び付けたこと。松平が、アレアトリーの運用に当たっても、唯一無二の存在と成り得た理由がここにある。

  さて、小論では西欧前衛音楽の諸潮流と松平頼則の歩みを併置しつつ、松平頼則という作曲家の独自性について思考してきた。そこでは、松平に関する伝記的な記述につきものの、コンクール入賞歴、叙勲、作品の演奏歴等には敢えて触れなかった。終生アカデミズムを嫌い、「楽聖などといって音楽をやたらと有り難たる。それが日本人の一番悪いところだと思うな」と語っていた松平にとって、権威付けなど迷惑以外の何物でもないと思うが故だ。松平は偉大な作曲家なのかもしれない。しかしながら、その理由を権威づけの中に見出すことは不可能だろう。何故なら、最も尊敬すべき松平の資質とは、そうした自身にまつわる権威を惜しげもなく捨て去ることが出来る高潔さであるからだ。九十年代に入って、松平は、楽器についてまわる歴史や伝統という意味性故に、それまで一貫して使用を避けていた邦楽器を取り入れた作品を書くようになる。それは、変節や転向と考えられるべきものではない。この作曲家は、自身が求めるイメージを追い求めて、過去の拘りやスキルや実績など簡単に捨て去り、走り出してしまう。そうした高潔さこそが、松平の創作を常に瑞々しいままに保ったとも言えよう。かくも純粋な作曲家を、権威主義の文脈で捉えることにどれ程の意味があるのだろう。

  また、松平の人生から、芸術至上主義者の悲愴なる物語を読み取ることも、もう、やめるべきだろう。作曲を志し、封建的な家から放り出された松平の人生に、常に経済的な困難がついて廻ったのは事実である。しかしそれは、映画音楽で成功することも、アカデミズムの中枢へ収まることも自在だったはずの高度な技術を持っていた作曲家が、敢えて選んだ困難だったことを忘れるべきではない。だからこそ、その人生から読み取られるべきは、齢七十を超えても自己の殻を破り作曲活動を続けることができた、幸福な作曲家の物語でなくてはならない。かくも幸福な二十世紀の作曲家を、筆者は他にストラヴィンスキーしか知らない。もし、松平の人生に悲劇的な側面があるとしたら、それは作品の演奏が十分でなく、相当数の作品が、未だに演奏すらされずに放置されているという状況の内に見つけられよう。松平は、八十歳を過ぎても、一曲を作曲する経験からフィードバックを得て、さらなる新境地へと飛躍することが出来た作曲家であった。そのことを思い出す時、松平が八十六歳になってコンクールへ応募したことの、本当の理由も明らかになる。

  松平頼則は、自身が愛した音風景のごとく、飄々と音と戯れながら作曲を続け、二〇〇一年十月二十五日、ついに帰らぬ人となった。松平が去った後には、二十世紀音楽の諸潮流を見事に手中に収め、全く独自の方法へと再構成することで作曲された、膨大な、そして掛け替えのない作品群が遺された。松平が遺した作品を演奏し、耳を傾けること。それは、二十世紀音楽史の大切な、知られざる側面を明らかにすることでもある。そうした喪の作業を経て、我々はようやく二十一世紀音楽史のスタートラインへと立つことが出来る。
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by ooi_piano | 2010-10-13 02:10 | コンサート情報 | Comments(0)