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Blog | Hiroaki Ooi

■2005/04/20(水) きょうびはやんねー・リローデッド(3)

c0050810_13134494.jpgヴァイオリン・パートについても数点。
☆第87小節などに現れる「c.l.」のパッセージについて。まず左手が行うことは、書いてある通りである。すなわち、一つ目の「A」の音を左手で押さえ、かつ左手でpizzicatoする。そして2番目の音は、Esのポジションを押さえて、(スコルダトゥーラになっているので、これは事実上Bの音であるが)、同様に左手でpizzicatoする。そのときに、右手の弓の毛の部分が弦に軽く触れており、それでビリビリというノイズを発生させる。 事実上、col legno的に弓を弦に打ち付けるわけではない。
☆第238小節あたりのスコラダトゥーラについて、最も確実な解決策は、「もう一つの楽器を用意すること」。それが出来ない場合は、「第245小節の前までに、何とか元に戻す」。
☆“expletiv = extempore III ”(第317e小節)木を割るときに楽器にくっつけるかどうかは、もちろん楽器の「都合」に準じて良い。中国製の5000円程度の「使い捨て」楽器を使う手もある。ラモンテヤング作品でそういう例を見たことがある。



音がデカく響くのが重要であるが、ピアノにレゾナンスさせる手もある。初演者のハンガリー人ヴァイオリニストは、楽器の裏面に弓を押し当て、松ヤニを塗った弓の毛を押し付けながらゆっくり回転する、というトリックを使っていた(けっこうデカい音が響く)。いわゆるドラム奏者の「ライオン咆哮」の原理を活用してみると良い・・・ ドラムの穴に松脂を塗ったロープを通し、それをこするとドラムに共鳴して「ワァアアワーン」という音が出る。
☆第389小節、Tを逆さまにした記号は、「指板の上を指で強く叩いて、その音程の音を出す」。
☆第473小節、上の段の白い菱形のH音(記譜の2オクターヴ上)はE線上で、非常に強い弓圧で弾く。と同時に、2段目の音(C)はA線上で、軽く普通に「触れている」。第74ページの477小節では、上の白い菱形はA線、下の黒丸のC線はD線で、ここでも強い弓圧と通常の奏法を同時に行う。




《エクステンション》は、ピアノ協奏曲《インテル=メッツォ》、管弦楽曲《パッサージュ/ペイザージュ》とともに3部作を成しています。作曲者自身による曲目解説(清水穣氏訳)を以下に御紹介致します。

extension(1979/80) ヴァイオリンとピアノのための
この作品は、主となる思想からその変化形や副次的思想を導き出すというような考え方に対する、対抗モデルとして発想された。アドルノの思想的伝統におけるようにすべての思想が中心から等距離におかれているのみならず、1つ1つの思想自体が同時に提示部であり展開部なのであるべきなのだ。つまり、関係システムは、ただちに全ての方向へ同時に爆発的に拡張することによって確立され、それによって、すべてがすべてに、もっとも隔たっているものにすら、関わりあう。だがすべてのものにとっての秩序とはもはや秩序ではない。作曲の基礎となったテーゼとはこういうものである:全面的関連性とは、その連鎖反応にも似た増大と自滅によってのみ、いわば意味の消失点としてのみ達成される。だから作品の冒頭にはポール・ヴァレリーの言葉を掲げた「思考?それは脈絡を見失うと言うことだ。」

passage/paysage (1989/90) 大オーケストラのための
この作品は、ある関連性を産出するとともに止揚しつつ「移行」ということを扱っている。ただしなにか確定したものから他の確定したものへの移行ではないし、結末をもつ1つのまとまりの部分としての移行でもない。そうではなく、移行それ自体、すべての方向へ向かって連続的に変化すること、有限なものの無限性である。というのは、系列化や加算によって形成され、いかなる上位の秩序にも従わないものは、無限にさらなる加算を受け入れるのであり、それゆえにそれ自体1つの部分に過ぎない。方向付けられていること、方向付けられた変化、発展的変奏がそれのみで絶対化され、2番目のものから3番目が生み出され、3番目のものが1番目のものといかなる点でももはや似ていないとき、上位の関係性は生じず、諸々の細部が形式に対してもつ関係にも必然的な順序関係が生じず、つまり任意で恣意的あるいは自由になる。絶えざる進行は、一歩一歩方向付けられるだけでは、サウンドの風景の全体からいかなる必然的方向性をも受け取れない。ある要素は、べつに再帰部というわけでもなく、小さなループや大きなループにおいてふたたび聞かれるが、それは別の方向から、異なるテンポで、新しいパースペクティブにおいて、遠くから眺められるのであり、ちょうど散歩のようなものだ。この作品の基礎となったテーゼとはこういうものである:真実は移行の中にのみ、そして移行としてのみある。全ての形成(確立・制度化)が正当性を得るのは、それらが前方に向かって開かれている限りにおいて、自らの止揚を内在させている限りにおいてである。全方向的な、連続的な変化、1つの音楽的思想の、考えうる限りあらゆる方向への同時的な変奏的展開、こうしたことは、時間の中での一次元的表現からは逸脱する。それはけっして総体としては表現されずかけらとしてのみ、同時に思考された複数の道筋を1かけらずつ、つまり異質なもののポリフォニーとしてしか表現することしかできない、ないし偽のホモフォニーとして、交互に前面に現れるパラメータに限定されて表現される。この場合、作品は様々なループを形成し、聞き覚えのある要素に絶えず別の道筋を通って到達し離脱し、しかしその道筋の全てを通るのではない。多次元的な連続体から切り出された断片は全て恣意的なものであり、形式を支えるユニットではないからだ。いかなる瞬間にも質的な変容を通じて質的な飛躍が生じている。非本質的な特性から本質的な特性が生成し、その生成発展の道筋は無限にある。
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by ooi_piano | 2005-04-20 13:21 | プロメテウスへの道 | Comments(0)