6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

12/23韓国特集公演/伊藤謙一郎氏寄稿

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韓国作曲界の「河」の流れ ―――― 伊藤 謙一郎(東京工科大准教授)


 1968年、春のソウル。その日、二人の作曲家が初めて顔を合わせた。その場所は、音楽について語り合うには不釣り合いな「病院」であった。二人の男から厳しい視線を注がれていた彼らに、自由な会話は許されていなかった。この男たちはKCIA(韓国中央情報部)の職員。彼らの言動を監視する命令を受けていた。

 30才過ぎのその若い作曲家は、尊敬すべき先達に面会できた喜びもあって、つい思いのままに話をしてしまい、そのたびに初老の作曲家は無言で目をしばたたいて、話を止めるようサインを送らねばならなかった。しかし彼も、自国の若い作曲家の思いもよらぬ訪問に嬉しさを感じていた。この二人の作曲家の名は、尹伊桑と姜碩熙。この出会いが、その後の韓国作曲界を大きく変えていく契機となった。

c0050810_2216181.jpg 1967年6月17日の西ベルリン。尹は住んでいたアパートから突如拉致され、KCIAによってソウルに連れて行かれた。北朝鮮のスパイ容疑によりKCIA本部と刑務所で連日激しい拷問を受け、裁判では死刑を宣告された。その後、第一審で終身刑に減刑され、西ドイツ政府、シュトックハウゼンやリゲティをはじめとする世界中の作曲家・音楽家や数多くの文化人らの強い抗議によって、第二審ではさらに懲役15年に減刑された。やがて尹は市内の病院に身柄を移されたが、病院への移送を知った姜が尹への面会を希望したところ、思いがけずKCIAから特別に許可が下りたのである。《ピアノ・スケッチ》(1966)や韓国初の電子音楽《原色の饗宴》(1966)によって若手作曲家の急先鋒となっていた姜は、自国の伝統といかに向き合うかということと、電子音楽の制作を通して直面した、音楽の要素をいかに制御するかという点を考え続けていたが、その解決の糸口を、尹を通して見出したいと思っていたのである。

c0050810_22162894.jpg 一方、すでにヨーロッパで国際的作曲家の地位を確立していた尹の目には、韓国の作曲家たちの活動は、まだ不十分なものと映っていた。そこに危険を顧みず若い作曲家が急に訪ねてきて、想像を超える高いクオリティの作品を見せたのだから、尹のその驚きと喜びは大きいものであったに違いない。そして、理想とする音楽や自らの作品について熱弁をふるうこの若い作曲家を、尹は期待と信頼の気持ちをもって温かく迎えたのだった。

 この邂逅を機に、尹が入院している病院で毎週火曜日と木曜日の午後、姜は尹からヨーロッパの現代音楽の情報を聞くとともに作曲のレッスンを受けることとなり、尹がドイツに戻るまでの約1年間続いた。男声独唱、男声合唱、30人の打楽器奏者のための《禮彿》(1968)や、管弦楽のための《生成 ’69》(1969)といった初期の作品は、尹の助言によって書き上げられたものである。姜によれば、そのレッスンは書き直しや修正を求めるものではなく、主に創作上のアイデアを与えるものであったという。

c0050810_22175130.gif 当時、伝統に対する姜の関心は仏教に向けられていて、《禮彿》のほか、チェロ、ピアノ、打楽器のための《ニルマナカヤ[応身]》(1968)などに結実する。《生成’69》では、韓国的な音響と西欧的な音響との対比を追究する姿勢を見せ始めるが、その後のフルートとピアノのための《弄》(1970)やピアノのための《アペックス》(1972)では、いくつかの独立した音響の断片を組み合わせ、調和させて全体を構成する作曲法の萌芽を認めることができよう。なお、《禮彿》、《生成’69》、7奏者のための《原音》(1969)は、いずれも大阪万博からの委嘱によるもので、これをきっかけに姜と日本とのつながりが一気に深まるのである。これについては後述しよう。《生成’69》は大阪万博に先立ち、1969年3月24日にソウルの国立劇場で初演されたが、尹はこの曲の初演を聴くために病院を出て演奏会場に足を運んだという。彼はその一週間後、恩赦によって釈放され、姜をはじめ多くの人々に見送られてドイツに戻ることとなった。

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c0050810_22182515.jpg ここで二人の創作の姿勢や置かれた状況を比較してみたい。
 まず、尹も姜も、韓国に生まれた人間として、自身がもっている音楽上の言語をいかに西洋音楽と融合させるかという問題意識をもち、創作を通してその実現を試みてきた。しかしながら、両者の作風は大きく異なっている。例えば、韓国伝統音楽には「弄絃」[ノンヒョン]とよばれる、弦を素早く押したり揺すったりして音高を変える技法があるが、尹の作品では、それらが「主要音」「主要音響」といった形態の中で明確な輪郭を伴って表れる。韓国伝統音楽における表現の根幹を成すともいえるこの「弄絃」を尹は高い次元で様式化し、西洋楽器を用いながらも民族的な生命力あふれる作品を次々と生み出していった。姜の作品でも「弄絃」のほか、歌や舞踊に見られる「長短」[チャンダン]という伝統音楽特有のリズム型が認められるが、それは外面的には目立たぬように、しかし楽曲の重要な構成要素として昇華された形で取り入れられている。さらに、音高、音強、リズム、ハーモニーをはじめとするさまざまな要素が数理的な思考を通してそれぞれ結合され、楽曲全体と部分とが有機的かつ緊密に関係づけられているのが大きな特徴である。「ダイヤモンドはそれ自体でも美しいが、こなごなになっても、顕微鏡で見れば美しい結晶を見ることができる」という彼の言葉は、その創作の姿勢を示していると言えよう。

c0050810_22185350.jpg また、尹も姜も、「内鮮一体」「内鮮融和」が政策として掲げられた日本の統治下の韓国に生まれ、音楽に限らず、西欧諸国に関する情報を主に日本の書籍や雑誌、先達の留学経験談から得ていた共通の境遇をもっている。尹以前の韓国の作曲家は、文化的にも地理的にも近い日本に留学する者が多く、それに次ぐ留学先はアメリカだった。日本の場合、ヨーロッパへの留学が圧倒的で、ドイツに学んだ瀧廉太郎(1879~1903)や山田耕筰(1886~1965)、諸井三郎(1903~77)、フランスに学んだ池内友次郎(1906~91)、平尾喜四男(1907~53)といった作曲家らの存在が目を引くが、韓国ではベルリンに留学した蔡東鮮[チェ・ドンソン](1901~53)を除き、ほぼ皆無である。

 例えば、童謡《故郷の春》の作曲でも知られる洪蘭玻[ホン・ナンパ](1898~1941)は1918年から20年にかけて東京音楽学校(現 東京藝術大学)でヴァイオリンを学び、韓国の国歌《愛国歌》を作曲した安益泰[アン・イクテ](1906~65)は開学したばかりの東京高等音楽学院(現 国立音楽大学)でチェロを学んだのちアメリカに渡り、シンシナティ音楽院とフィラデルフィアのトピース音楽学校で引き続きチェロを学んだ。1935年にはカーティス音楽院で作曲と指揮を学び、翌36年にはベルリンに留学している。しかし、彼らの活動が西洋音楽の伝統と真正面から対峙した大きな「うねり」となることはなく、それは尹がヨーロッパ留学に向かうときまで待たなくてはならない。

c0050810_22193336.jpg 1956年6月。40才を目前にしていまだ自身の音楽の方向性を定められずにいた尹は、焦りの気持ち抱えながら留学のため韓国を離れた。パリ音楽院でトニー・オーバンに作曲を、エクリチュールをピエール・ルヴェルに学んだが、その後ドイツに移り、ベルリン芸術大学で作曲をボリス・ブラッハーに、12音技法をヨーゼフ・ルーファーに師事した。その後、ドイツでの精力的な創作活動を通して作曲家としての地位を築き上げているさなか、さきのKCIAの事件が起き、ソウルに強制的に連行されたのであった。1969年にようやくドイツに戻ることができて、すぐにハノーヴァー音楽大学に出講することになったが、翌70年に尹は、ソウルで出会った姜をハノーヴァーに呼び寄せている。このとき、姜は36才になっていた。

 ここで、姜の西洋音楽との出会いは尹と大きく異なることを紹介しておこう。
 尹の場合、最初に親しんだ楽器は13才のときに手にしたヴァイオリンだった。その後、チェロに巡り会い、それは尹の生涯で自身を象徴する楽器となった。すでに10代でいくつかの作曲を試み、大阪ではチェロと作曲を学んでいる。韓国に一時帰国したのち、20代の初めには東京で池内友次郎に師事している。

c0050810_22195787.jpg 姜の西洋音楽との出会いは、姜自身、予期しないものだった。このときの自身の状態を姜は「突然変異」と語っているが、20才のある日、音楽に対する興味が急に沸き上がってきたという。それまでは、クラシックの有名な曲をいくつか耳にした程度で、音楽の知識も作曲家の名前も知らなかったし、尹のような楽器の経験すらなかった。その状況にあって、姜はソウル大学校音楽大学作曲科への入学を目指した。入学試験までの3ヶ月あまりの間、まずは楽典から学び始め、和声、音楽理論、聴音、ピアノなどすべての入試科目を独習し、試験に臨んだ。このとき、定員7名に対して47名の受験者がいたが、結局8名が合格となり、その中に姜も含まれていたのである。合格者には姜のほか、白秉東[ペク・ビョンドン](1936~)、李康淑[イ・ガンスク](1936~)ら、その後の韓国の音楽界を牽引していく俊才たちが名を連ねていた。特に姜は、入学当初から白と親しく、ソウル大入学から半世紀が過ぎた今も、その互いの友情と信頼は揺るぎないものである。

 ハノーヴァーの話に戻そう。ハノーヴァーで尹の教えを受けたのは姜以外に白秉東と崔仁讃[チェ・インチャン](1923~)、彼らから一学期遅れて留学した金正吉[キム・ジョンギル](1934~)で、この四人が、尹が教えた韓国人の弟子すべてである。白と崔、金はハノーヴァー留学を終えて韓国に戻ったが、姜は引き続きドイツにとどまり、ベルリン音楽大学で尹とボリス・ブラッハーに、ベルリン工科大学通信工学科でフリッツ・ヴィンケルに電子音楽を学んだ。ここでの経験が、《モザイコ》(1981)をはじめとする80年代の一連の電子音楽作品群につながっている。姜はその後、82年にソウル大に招かれるまで創作の拠点をドイツにおき、韓国に帰国後は、白、金とともに、ソウル大の作曲教授として多くの優れた作曲家たちを育てた。

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c0050810_22203936.gif さて、尹と姜の関係を中心に見てきたが、ここで姜の韓国での活動、そして隣国である日本との関係に目を向けてみたい。
 ソウルでの尹のレッスンでは作曲の指導のほか、韓国での現代音楽の今後について少なからぬ示唆を受けていた。その一つが国際的な現代音楽祭の開催であった。尹は、韓国の現代音楽の水準を高めるためには、世界各国の現代音楽の情報をリアルタイムに得られる場が必要と考えていた。そして、姜にその思い託し、音楽祭の開催を勧めたのである。

 姜の行動は機敏で、ドイツに戻る尹を見送ってから5ヶ月後の1969年9月には、「ソウル現代音楽ビエンナーレ」という名称で早くも第1回の演奏会を開いている。これが、現在も行われている「パン・ミュージック・フェスティヴァル」の前身である。このとき演奏されたのは、エドガー・ヴァレーズ(1883~1965)の《オクタンドル》(1924)や、アール・ブラウン(1926?2002)、ローマン・ハウベンシュトック=ラマティ(1919?94)らの作品であった。また、姜の友人である白南準[ペク・ナムジュン](1932~2006)が姜の委嘱によるパフォーマンス作品を上演したが、その内容から大きな話題を呼んだ(この作品が白の韓国デビューとなった)。姜をはじめ、多くの若手作曲家・演奏家が、いかにこの音楽祭に意気込んでいたかが窺えよう。

c0050810_22213298.gif 1971年には第2回が、そして75年に「スペース ’75」という名称で第3回が開催された。76年からは「パン・ミュージック・フェスティヴァル」と名を変えて、毎年開かれるようになった。韓国の現代音楽界が大きく動き始めるのはこのころからである。78年には、それまで以上に新作の紹介に力を入れ、クラウス・フーバー(1924~ )、ジェルジュ・クルターク(1926~ )らのほか、フライブルク音楽大学に留学していた朴英姫[パク・ヨンヒ](1945~ )のクラリネットと弦楽三重奏のための《出会いⅠ》(1977)が演奏されている。

 さて、大阪万博からの委嘱で姜が《禮彿》、《生成’69》、《原音》を作曲したことはさきに触れたが、秋山邦晴は湯浅譲二とともに録音で流されているこれらの作品を韓国館で聴き、その独創的な音楽に強い衝撃を受けたという。このとき姜は来日していないため日本の作曲家たちと会うことはなかったが、秋山が音楽評論家として姜を多方面に紹介したこともあって、その後、湯浅のほか武満徹、一柳慧らをはじめとする日本の作曲家たちとの親交が深められていったのである。そして、姜を通じて韓国の現代音楽界の状況を知ることができるようになったほか、「パン・ミュージック・フェスティヴァル」に日本の作曲家や演奏家が招かれ、音楽を通した両国の文化交流が盛んになっていった。そこには、秋山と同様、姜の親友である音楽評論家、石田一志の献身的なはたらきがあったことは特に強調されるべきであろう。日本と韓国を何度も往復し、両国の橋渡しをしてきた彼の存在は非常に大きい。なお、1996年に秋山が亡くなってちょうど1年後の1997年8月17日、姜と石田の呼びかけにより、「本日休演・秋山邦晴」と題した秋山の追悼演奏会が開かれたことも記憶にとどめておこう。この演奏会のために、姜は秋山を偲んで、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための《伝説》(1997年)を作曲している。

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c0050810_2222382.jpg 再び姜の活動に目を向けよう。10年以上にわたるドイツでの生活を終えて、彼は1982年に韓国に帰国した。母校のソウル大学校音楽大学作曲科の教授として赴任を要請されたためである。この帰国には、すでにソウル大教授の要職にあった白秉東の強い説得があった。そして、着任した姜はここで、一人の学生、陳銀淑(1961~ )に出会う。彼女は、在学中に書いた《Gestalten》(1984)のISCMカナダ大会への入選を皮切りに、翌年には3本のチェロのための《Spektra》(1985)でガウデアムス国際作曲コンクール第1位をはじめとする数々の作曲賞を受賞し、2004年には《ヴァイオリン協奏曲》(2001年)でグロマイヤー賞を受賞するなど、国際的な評価を受けている。ジェルジ・リゲティ(1923?2006)に師事するため1985年にハンブルクに留学して以降、ドイツに定住し、ベルリンを拠点に現在も旺盛な創作を続ける彼女の活動は常に高い注目を浴び、一作ごとに大きな反響を呼んでいる。

c0050810_22222523.jpg 帰国してからの姜は、韓国とヨーロッパを行き来し「パン・ミュージック・フェスティヴァル」の芸術監督(~1992)、ISCM副委員長(1984~90)、ソウルオリンピック閉会式の音楽監督(1988)、ISCMソウル大会実行委員長・芸術監督(1997)などの要職を務めながら、ソウル大作曲科教授(~2000)として陳をはじめとする多くの俊英を育てた。現在ISCM韓国支部会長を務める白勝寓[ペク・スンウ](1963~ )や、弱冠29才でソウル大教授に就任した李信雨[イ・シヌ](1969~ )も姜の弟子である。特に李は、大学3年次に作曲したフルート、クラリネット、ピアノのための《空間》(1990)でISCMおよびガウデアムス国際作曲コンクールに入賞し、20代前半ですでに完成度の高い作品を創り上げている。1991年にイギリスに渡り、ロイヤル・アカデミーでマイケル・フィニシーに師事した彼女は、その後、無伴奏チェロのための《Expression》(1992)、木管五重奏のための《Micropolyphony》(1993?94)、管弦楽のための《詩篇20》(1994?96/98改訂)などの作品で、韓国を代表する作曲家の一人としてその存在を強く印象づけた。なお、李信雨のソウル大作曲科受験時の指導をしたのは、陳銀淑であったことを付け加えておこう。李に続くものとして、チョ・ヒョナ、イ・ビョンム、イ・ドフンといった作曲家たちがいる。彼らは1995年以降、ソウル大の姜クラスに学び、李をはじめとする先輩作曲家たちからも世界各国の動向に関する情報を得て、その後はドイツやフランスに留学、現在はヨーロッパ各地で活発な創作活動を行っている。

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c0050810_22233985.jpg こうして韓国の作曲界を俯瞰すると、韓国を離れ、ドイツに身を置きながら西洋音楽と自国の音楽言語とを融合させるべく努力し、韓国人として初めて国際的な活躍をした「尹伊桑」、ヨーロッパの最先端の現代音楽の情報を韓国にもたらし、数々の優れた弟子を育てた「姜碩熙」、そして透徹した論理的思考さらに徹底させ、それまでにない新しい音楽表現の境地を切り拓いた「陳銀淑」という3人の作曲家をメルクマールとする系譜が浮かび上がってくる。それはまるで一筋の「河」のようだ。韓国語で「河(川)」のことを「カン」(江)と言い、同じ発音で「強い」という意味もある。ベートーヴェンは「バッハは小川ではなく大海である」と語ったが、「姜」の名前と「河」の流れ、そしてピアノのための《ソナタ・バッハ》(1986)を結びつけるのは、あまりにも無邪気な言葉遊びだろうか? しかし、「姜碩熙」という作曲家の存在が大きな河の流れを生み出したことは論をまたないだろう。
 ここで、尹、姜、朴、陳という世代の異なる四人の韓国人作曲家の作品を一度に聴くことは、その流れに身を委ねる川下りにも似たスリリングな体験となるに違いない。
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by ooi_piano | 2011-12-15 22:10 | POC2011 | Comments(0)