6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

フランコ・ドナトーニ&杉山洋一(その2)

(つづき)
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・・・否定性・・・

  ぺトラッシとマデルナとの出会いの後、ドナトーニに影響を与えたのは、シュトックハウゼンやアドルノを翻訳しイタリア紹介した音楽評論家マリオ・ボルトロット(1927-)だった。
  ボルトロットはドナトーニに、シモーヌ・ヴェイユ、アドルノ、エレミール・ゾラの著作を紹介したが、特に1960年代、カフカ、ロベルト・ムージル、ゴットフリート・ベン、サミュエル・ベケットの著作は、ドナトーニの創作の規範となった。
  どれも否定的傾向をもつ当時流行した著作だが、ドナトーニにとってそれらは自分で気づいていなかった部分を開眼させるものであった。
  自らの手で自らの人生をつき動かす必要を痛感し、自己の内面を甦らせるべく、意志の否定と魂や思考、記憶の停止を求めたのだ。

  直接的に言えばカフカとムージルの著作が不確定性へと向かわせることになったのは、彼らがドナトーニに素材と素材変容間の分離の必要性に気づかせたからだった。
  素材はドとレの音をさすのではなく、ドとレの間に存在する相関関係、ドとレの音を変容させるためドナトーニがもちいる作曲規則を意味する。
  たとえば1962年に作曲されドナトーニ自身の指揮で初演された「オーケストラのためにPer Orchestra」は、音楽素材はただ譜面の紙切れに過ぎず、素材の変容は作曲者からもたらされるのではなく、そのつど素材から霊感をえて変化させる奏者一人ひとりに委ねられるため、
結果としてそこに立ち上るものは定着された形式ではなく、気化した形式となった。
  形式は、今となっては消滅しているが、演奏の瞬間には確かに存在していたので「開かれた音楽」とは一線を画すという。
  「オーケストラのために」で気化形式を活かせるのは、指揮者のジェスチャー以外のなにものでもなかった。

  同じような例として、1964年クラウディオ・シモーネのために書いた弦楽合奏のための「アザールAsar」を、クラウディオ・シモーネが日本で演奏したときの逸話が残っている。
  「アザール」には指揮者は登場せず、演奏者は各自自分で決めた聴衆を舞台上から観察し、聴衆のしぐさに反応しつつ演奏するよう指示されている。
  しぐさの大きさは本来演奏の強弱に影響を与えるはずなのだが、これを日本で演奏した際の日本の聴衆は微動だにしなかったそうである。
  このため演奏者は大いに当惑し、結果的に最初から最後まですべてピアニッシモで演奏された。
  このように、否定性の時期のドナトーニ作品は演奏にあたって偶発性が取り込まれてはいるが、これは偶然性ではなく、素材と素材の変容間の分離だとドナトーニは強調する。

  それは自己抑制の姿であり、能動性と受動性という二元性の意識化であり、自身の知性と意志の作者であり続ける不可能性を現した。
  二元性とはこの場合、行為を完遂するか、完遂される行為なのかという部分にあたるが、本来であれば二つの言葉をいれかえても何ら変化は生じないはずであった。
  ぼくがドアを開けるのと、ドアはぼくによって開けられることに違いはないようだが、当時明らかに受動的傾向に傾いていたドナトーニは、あるとき、これら二つの間に根本的な相違を認めてしまう。
  当時、こうした思索の後押ししていたのは、他ならない彼の錬金術的な視点であり、錬金術的な実験であった。
  そのなかで彼が理解を努めたのは、分離すること、その相違を見分けることにあった。


・・・自動書記・・・

  ケージとの出会いが生むことになったこれら偶発性の作品群を経て、1966年ドナトーニはフルートのオーケストラのための「人形芝居2 Puppenspiel2」をもって古典的な作曲姿勢に回帰する。
  5年から6年間、古典的な作曲姿勢から遠ざかっていたのは、思えば随分長い時間だった。
  「特に秘密の理由があったわけではない。単に自分自身がまだ書けるかどうか試してみたかっただけなんだ。ピアニストが何年もピアノに触らなければ間違いなく弾けなくなるだろう。作曲においては発想が技術の全てだから、君が発想や思考や意志を殺めていたならば、それは自殺行為に等しいわけさ。もちろん実際に死ぬわけではないけれども。だったらこの際、この作曲の自殺行為を証明してはどうかと思ったわけさ。そうでなければ何の意味もないじゃないか。実のところ、本当の目的は否定性を否定だったんだ。二重否定を通して否定性を肯定するのではなく、完全な虚構をもって完結させたいと思ったのさ。全て問題なく収まっていて、全てが正しく、しかし全てが虚構なのさ。その裏にはいつも自分を生まれ変わらせたい欲求が常に根本にあったのだけれど」。

  「人形芝居2」は、冒頭オーケストラがハ音上の長3和音を全員で奏し、それが次第に分化してゆく。
  この長3和音の第3音へ音を中心とし、3度ずつ開いた音程関係を出発点に作曲を進めたのだが、ドナトーニはそもそも長3和音という「擬似素材」から出発したことが大きな誤りだったと記している。抽象的でない具体的な素材がそこには必要であった。
  同じハ音の長3和音でも、それがベートーヴェンであったり、ブラームスであったり、デュボアの和声教本であったりすれば、素材と変容の間に相違が生じたのかもしれない。ただの長3和音そのものは余りに無味乾燥として抽象的な素材であった。

  そのため、つづく1967年に書いた5楽器のための「ひそやかに」ではシェーンベルクの断片を、15楽器のための「おみやげSouvenir」ではシュトックハウゼン自身の断片から出発し、彼が「自動規則(codici automatici)」とよぶ作曲技法が、またさかんに用いられるようになる。
  上記のパネル作法の項で触れた「ひそやかに」に戻ってきたのである。
  ドナトーニ自身はこの「自動規則」について、現在ではごく当たり前に誰でもコンピュータが行っている作業だという。
  規則をそのつど直感で決めてゆくことそのものには、時間はほんの一瞬しかかからないが、それを実行し仕上げるためには、時には一週間かかることもあると述べている。
  例えば、F#を手に入れようと、ある音列に規則を決めて「フィルター」をかけるときに、音列がF#を含まれない場合など「自動規則」が用いられる。
  規則そのものは「魔法の公式」のように、特別な機能をもっているわけではない。
  それは解剖学から分離させられた生理学のようなもので、カフカのいう「肺なしでの笑い」のようなもの。乾いた枯葉のさざめく音や、口を使わずに大笑いするようなものだという。

  「自動規則」のみならず、「準規則(sotto codice)」や規則の「改変(emendamento)」が用いられることもあり、例えば「自動規則」によって得られたF#を選択の後、この音列から「擬似」全音階(正全音階ではない)を排除すると決めれば、当然そこから短2度、短3度、減5度などの音程のみ抽出して使うことになる。これが「準規則」にあたる。
  これらは前以て決められるのではなく、筆を進めつつそのつど発案され、改変されるべきもので、そのつど細心の注意をはらう訓練であってプログラミングする訓練ではない。こうして直感が磨かれてゆくと、あてはめられる規則はよりラディカルで実験的な様相を帯びてくる。
  なぜならそこから何が起こるか時として予測できない場合さえあるからだ。
  いつも使っている規則を別の素材にあてはめれば、結果はまったく違ったものになるかもしれないが、ある程度の予測は可能である。
  よく知っている素材に違う規則をあてはめるなら、結果は実験的なものにならざるを得ない。なぜならこれらの規則がどのような結果をもたらすか、当初は明確でないからだ。
  もちろん、規則が元来もつ特質と、素材が元来もつ特質の間に保つべき一定のバランス感覚が必要になる。
  直感による選択の結果は、往々にして想像していた形式をくつがえす傾向にある。そして自動書記は、これはリゲティが用いる仕組み=メカニズムとは根本的に違うものだという。そこにはどのようなルールを課すこともできるが、常に何らかの発明が必要だとドナトーニは述べている。

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・・・灰・・・

  数字を偏愛していたドナトーニ曰く、この当時、運命のいたずらのように7年周期で危機が襲ったという。
1970年ドナトーニは、もはや彼には無関係だったはずの偶然性を用いて、室内オーケストラのための「アールに(To Earl)」を書き、これは何の役にも立たない失敗作だと回想している。その直後、生涯で最大の危機がドナトーニをおそった。
  「毎日16時間の作業をのべ16ヶ月もかけて作った自分の人生中もっとも自虐的で痛恨極まりない作品が、1971-1972年に書いたオーケストラのための「アールに第2番(To Earl Two)」だ。1作目はほんの小さなスコアから充分大きな音を得られたのに、2作目は巨大なスコアで細密に書き込まれていながら全く何の効果もあらわさなかった。音のカオスが聴こえるだけで、書き込まれているはずの全ての形式はカオスにかき消され、自動書記で作業し、充分結果を理解していたはずのカオスの渦に、飲み込まれてしまった。これが自身の意志を殺して、限りなく作品に服従した結果なのだ。
  思い出すだけでも恐怖にかられる」とドナトーニは書き残した。

  「アールに第2番」の失敗を経て、同じく1972年に書いた13楽器のための「歌Lied」では従来の自動書記や作曲規則はより自由になり、1972-73年に書かれたオーケストラのための「声Voci」からは、以前のような厳格で被虐的な自動書記法とは一線を画すようになった。
  この自動書記の時代の最期に書かれた傑作が、1974-75年に書かれたオーケストラのための「ブルーノのための二重性Duo pour Bruno」である。

  「ブルーノのための二重性」を書いたドナトーニは、自分が来るところまで来たことと悟り作曲をやめることに決意する。
  2月のある日、きれいなアンティークスタイルの黒い自転車を購入し、仕事部屋も払ってしまった。右手は引き攣りを起こしていたので、鉛筆は持てなかった。
  こうしてスヴィーニ・ツェルボーニ社の校訂の仕事に携わることにし、他の社員と同じように朝自転車で出勤し、他の社員と一緒に自転車で帰宅する生活を数ヶ月続けていたが、一つだけ委嘱がまだ残っていた。
  夏のキジアーナ音楽院の講習会からのもので引き受けるかどうかずっと迷っていると、あるときスージーが言った。
  「もうどうせ作曲をやめるのだから、もはやあなた自身でなにも拘泥する必要はないし、自分自身で背負う責任もないでしょう」。
  その言葉に説得されて、ドナトーニは「灰Ash」という作品を書くことになった。

  「灰」という表題は自身の終焉を意味していたが、とくに何も決めず気の向くままに書いたこの作品こそ、思いがけず彼を甦らせる結果となった。
  「この曲はどうやっても分析することができない。冒頭何がしか意識化されたものを推測できるかもしれないが、その先は何も証明できない。
  ここで用いた全ての作業は自動書記的な音列作法に基づくが、連続的に変化しつづける「規則」を使い、
必要とされるさまざまな選択は経験によって磨かれた直感に従った」。世界的に認められるドナトーニの音楽が、ここに確立されることになった。
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by ooi_piano | 2012-08-16 11:14 | 雑記 | Comments(0)