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フランコ・ドナトーニ&杉山洋一(その4)

●杉山洋一「ミラノ日記」(1997年3月~98年12月末日/初出 Yominet、文芸フォーラム yomiuri lane) [.tzzファイル]
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●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~2004年11月/初出 サイト「水牛」)[.tzzファイル]
●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~現在)



ミラノ日記より
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サンドロのクラスでドナトーニの話になる。
彼は、最初に頭の中で十秒位、次の部分をどう書こうか考える。それから三日間位は全く何も考えず、ただ音符だけを書いてゆく。こうした作業を突き詰めてゆくと、単調な作業が神秘的な様相を帯びてくる。
或る午後、ドナトーニの帽子だらけのアパートを訪ねた。
壁中至る処に、世界中から贈られた帽子が掛かっている。
話尽きる事がなく、気が付くと、地下鉄のストライキで家に帰れなくなってしまった。
ドナトーニは家まで送って上げると言い、お気に入りの日本車を出してくれたが、 話を続け運転をしているうち、二人とも道に迷ってしまった。
仕方がない、タクシーでも拾って家まで帰りなさい。
彼がいつも胸に吊している財布から、五万リラ札を抜き取って手渡してくれた。
この処ドナトーニに会っていないが、もう車の運転は出来なくなったと聞いた。
97.06.01


ドナトーニの楽譜には無数の間違いがあるが、古いステンドグラスに紛れ込んだ不純物が反って美しさを引き立てるように、間違いは間違いのままで良いような気がする。
97.06.08


ピアノのマリアグラツィアの演奏会にゆく。ゴルリが来日した折、アンサンブルのピアノを務めた、理知的な雰囲気の漂う女性だ。
演奏会の前半、ドナトーニのフランソワーズ変奏曲という四十九曲の長大な作品を淡々と弾いた。
耳が飽和状態になり、音の美しさだけが際立つ。
ドナトーニとひたむきに対峙する姿は、美しかった。
最前列の作曲者がじっと顔をうつむき聴き入る姿とあいまって、自分の裡に何かが刻み込まれた。この作品は十年以上かかって仕上げられたが、聴きながらドナトーニはその時間を噛みしめていたのかも知れない。
静的な空間に包まれ、響きに人生を捧げた二人の出逢いが、聴き手に染みる。
高校で作曲科に入学するまで、ヴァイオリンを弾いていた。
ヴァイオリンの師匠が現代音楽と縁が深かったお陰で、今もこんな文章を書いている。
師匠の関わっていたアンサンブルが、当時知られていなかったイタリア現代音楽を取り上げ演奏会をした際、ドナトーニやシャリーノの名を知った。
書込みだらけのパート譜を見せて貰い、胸がときめいた。
シャリーノの「ソナチネ」、そしてドナトーニの「最後の夜」だった。

譜面には、ハーモニックスの菱形の音符ばかり並んでいた気がする。
今から思えば、「最後の夜」はハーモニックスが多用される作品ではないのだが、曲中、確かに弦楽器がハーモニックスを鏤める部分があって、そこに惹きつけられたのだろう。

指定の速度で演奏不可能だからドナトーニに電話をしてみたら、出来る早さで弾いて下さいですって、とさも可笑しそうに笑ったのが印象に残った。
そうか凄いな、電話なんてしてしまうのか。

譜面から、乾いた音質と、乾いているのだけれど、どこか神秘的な一人の男性を思い浮かべた。当時、師匠の家に赤茶に日焼けしたカーテンが掛かっていて、そこに夕日が映える姿は、正にドナトーニだった。

どこかへ埋もれてしまったと思うけれど、演奏会のプログラムの解説も思春期の心を捉えた。今から思えば、解説を書いている本人も相手がどんな人物か良く分からず、想像を膨らませて書いていたという処だろう。
それが良かった。
マルコポーロの東方見聞録を読むような驚きに満ちていて、何度と無く読み返した。”“

何年か過ぎ、音楽高校に辛うじて入学し、アカデミズムの中で生きる事を学ばなければいけなかった。
一人で好き勝手に音楽をしていた者にとって、それまでの習慣を捨てるに等しく、慌ただしい時間の中ドナトーニの名前も忘れかけていた。
思い出してはいけないと、どこかで自分を戒めていたのかも知れない。

併し、元来の不真面目な性格が祟って、禁欲生活にも破綻をきたし、精神的放浪生活に身を任せるようになった。
周りが似たような作品ばかり書いている事が疑問でならなかった。
真似をしているのか、それとも同じ事が心に湧いて来るのか。
湧いて来ない自分は何なのか。

自問自答の日々をやり過ごしている時、学校の図書館で久木山さんに会った。
彼は一世代上の作曲家で、当時はまだ研究生として学校に籍を残されていたかも知れない。
九段下のイタリア文化会館の図書館に、昔文化会館で催された現代音楽の資料が残っているかも知れない、と声を潜めて助言を受けた。
98.02.16
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イタリアの現代音楽か、昔好きだったな。
ふらりと出掛けたイタリア文化会館は、不思議な空間に見えた。
蔦の絡まる古い洋館は、イタリアそのものだった。
ニスのてかる木の廊下の奥に図書館があって、痩せた女性が一人タイプに向かっていた。
東京である事すら忘れていたせいか、女性がどうにもイタリア人に見えて仕方がなく、どう声を掛けたものか窮していると、彼女の方からさっぱりした声で、何かお探しですかと尋ねてくれた。
確かに、数本のカセットに録音された演奏会の様子が残されていたが、録音に興味を持った人はいないという話だった。
一冊のプログラムと一緒にカセットを貸りて、繰返し耳を傾けた。
明らかに安いテレコで録音されたとおぼしきカセットは、自分が描いていたイタリア音楽の神秘的なイメージにぴったりで、昔のときめきが蘇ってくるには充分だった。
へろへろで雑音だらけの録音は、蓄音機に耳をそばだてるような手触りがあった。

ブソッティ、ベリオ、ドナトーニ、シャリーノ、カスティリオーニ、ゴルリ。
妙な名前が並んでいるだけで、澁澤のマニエリスムに鳥肌を立てる少年には刺激的で、それらが生身のイタリア人の音で聴こえて来た時にはどうしようかと思った。

プログラムは今から思い出しても素晴らしい内容だったし、演奏家も今は引退した音楽界の寵児ばかり名を連ねていた。
モジリアニを思わせる図書館の女性と話が弾み、演奏会には数える程の客しかいなかった事も知った。
98.02.16


数日間催された演奏会のうちの一晩が、ドナトーニとベリオの作品集だった。
ドナトーニの作品は覚えている処で、ギターの為の「アルゴ」、ピアノの為の「韻」、ソプラノとピアノの為の「そして誰かがノックした」等だったような気がする。

果たして、思った通りかさかさした乾いた音が並んでいた。
音が乾いていると言うより、寧ろ感性が空気に晒されている感触であって、感情の起伏があるのかないのか、不思議な心地に襲われた。
今から思えばそれは演奏の趣味にも因るのであって、イタリア人が彼の作品を演奏すると、そんな乾いた土壌を連想させるものがある。

それを期にイタリアの現代作品を漁る日々は何年も続き、イタリアへの憧憬は時間と共に膨らんでいった。
ヤマハで艶のある白地に赤のリコルディ社の楽譜を見つけると、中身がどうであれ買おうとしたし、小遣いの殆どは楽譜に費やされた。
溜りに溜った楽譜は今でも実家に山積みされていて、ドナトーニの作品も数多く含まれている。

ドナトーニ作品で初めて取り寄せた楽譜は、アンサンブルの為の「スピーリ」ではなかったか。
冒頭のオーボエとヴァイオリンの快活な絡みは、今でもすっかり頭にこびりついている。
迸るようなリズムと心地よい和音の質感にすっかり魅了されたし、うねうねと続く装飾音の束が鮮やかな模様に見えた。
当時、何度注文しても届かないイタリアの楽譜に半ば呆れつつ、併し半ばそれを愉しみながら待ち暮らした。

初めてドナトーニに習おうと思ったのは、大学三年の春だった。
彼はシエナのキジアーナ音楽院で夏季二ヵ月間の講座を持っている。
七月初めから八月終わりまでの期間中、七月半ばまで大学での試験があり参加出来なかった。
遅れて参加する旨のファックスは送っておいたが、行き違いにでもなったのか、講座が始まって暫くして、音楽院から参加しないのかとドナトーニが言っていると書いてよこした。
慌てて、これこれしかじか遅れて参加させて頂きます云々、自習書の例文と辞書片手に馬鹿丁寧な拙いイタリア語のファックスを送り、肝を冷やしながらイタリアへと出掛けた。
98.02.18
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イタリア語も覚束ないまま、どうやってシエナに辿り着けたのか、今考えると不思議で仕方がない。
飛行機で知り合った親父さん一行にローマから車に乗せてもらい、どこかの駅で下ろされた。
駅でシエナに行きたいと言うと、今日はもう電車がないと言われた。
とにかく早く着かなければという一心で色々掛け合い、どうにかシエナに着いた。
石畳を歩いていると、買ったばかりのスーツケースのコロは、焼けただれて動かなくなった。

シエナは宝石のような中世の街並を残していて、音楽院はその街の中心にあった。
煩い程にバロック風な内装の、絨毯敷きの廊下を歩いてゆくと、一番奥の長方形の大部屋の扉に「作曲教室・ドナトーニ」と書いてあった。
確か夕方だったと思う。
大部屋には二十人位の生徒が犇めいていて、銘々が煙草を燻らせている。
部屋は殆ど霞んで見えた。
突然水と数個のケーキを抱えた大柄の老人が入って来て、やれやれと椅子に腰掛けた。
寧ろ、巨体という言葉が的確かも知れない。
煙の向こうの、さっぱりした白髪、髭をたくわえ吊りズボンを引っ張ったアンバランスな風貌の老人がドナトーニだった。
どことなく可笑しい服装と裏腹に、顔つきは精悍に見えた。
98.02.21


すぐこちらに気が付いた彼は、
「あのど偉いファックスをよこした日本人がやって来たぞ」
そんな事を言うと、周りの生徒が一斉に爆笑した。
後でファックスを読み返してみると丁寧というより時代錯誤的な文章で、戦時中の日本語で書かれた手紙を想像して貰えば良いだろう。
参考にした例文も戦前のものだった。

挨拶をし曲を見せていると、妙齢が入って来て親しげに彼の頬にキスをした。
ドナトーニは愛敬たっぷりに彼女の臀部を叩いて喜んでいる。
驚いた。この一語に尽きる。
作曲家と言えば、気難しく難解な言葉を操る芸術家と理解していたし、日本の周りの作曲家や先生方が煙の中にケーキとコーヒを持って現れたりしないし、授業中に妙齢の尻など触れば告訴されかねない。

当時想像していたドナトーニは、難解な著作を何冊も著し、名作と呼ばれる作品を数多く残す、今世紀の偉大な作曲家の一人であり、世界で最も演奏頻度の高い作曲家の一人であり、同時に厳しい教育者の筈だった。
一体どうした事か。唖然としたり訝しいとさえ思ったが、実際のドナトーニはそんな人物だった。
毎日どんよりした煙の中でたゆたうように時間が過ぎた。
生徒の楽譜を読む時だけは、信じられない位深く光る眼差しになって、これが作曲家の目なのかと思った。
98.02.26


イタリア語も覚束ず、彼の隠喩たっぷりの小噺も分からない。
ぼんやり周りの流れを見つめていたが、或る日、教室に入ってゆくと、これを食べなさいと悪戯っぽくケーキを目の前に差し出した。
食べないとレッスンしないと言うので、おそるおそる口に運ぶと、それは不味いシエナの伝統ケーキだった。
そうして和気あいあいとレッスンが終わると、ドナトーニは卓上のコップを自分で片付けゆっくりと去って行くのだった。

レッスンでは特に何かを教えられた記憶はない。
生徒が作品について説明をし、代わる代わる楽譜を眺める。

そんな時、ドナトーニがもの凄い勢いで楽譜を読むのでびっくりしたが、彼が自分の考えを押し付ける事は一度もなかった。

彼らの雰囲気に馴れてくると、生徒の作品もドナトーニの亜流ばかりが並んでいる事に気が付き、やはり何処にいても結局同じなのかな、とぼんやり思ったりした。
生徒達は音列や数列を説明し、和音構造やリズム構造へと話を進める。
彼らにとって音楽は何なのか、といつも漠然と思っていた。
そう尋ねた処で自分の語学力では理解出来ないだろうと思い、結局そのままになってしまった。それまで日本でのレッスンは、この音は何処から来たのか、何を表現したいのか、この一つの音に込められた意味は何かといった、抽象的な観念論に終始していた。
だから、そんな数学談義は音楽ではないと感じたのだろう。
ただ、何を教わった訳でもないのだけれど、同じ時間を共有しているだけで伝わってくる感動があった。
素晴らしい人物とはそんな存在なのかも知れない。

98.02.26


そうして二ヵ月を共に過ごし、彼と共に書いた自分の作品も夏の終わりに演奏された。何やら意味も分からぬまま賞まで頂いた。
演奏会前のリハーサルに撮った録音に偶然彼の声が入っていて、
「ヨウイチはイタリア人じゃないんだ」
と誰かに嬉しそうに話していたが、これは今でもどういう意味なのか良く分からない。
最後の夜にクラスの連中とドナトーニでトスカーナの田舎のレストランにゆき、大いに羽目を外した。
言葉が分からぬまま何となく生活していると、これは現実ではないのではとの錯覚を覚える事があるが、あの頃はそんな夢心地に酔っていた。

日本に戻り、先ずイタリアで書いた作品を元にして「夕日」という作品を書いた。続いて「フランコ」という作品も仕上げた。
彼に楽譜とテープを贈ると、暫くして短いお礼の手紙が届いた。
「相変わらず仕事ばかりしています」

これは勿論「フランコ・ドナトーニ」へのオマージュとして作曲した訳だが、実はその頃ドナトーニと自分との距離を計りかねてもいた。
あの生徒達のように、彼の作品の真似事になるのではないかと、畏怖にも近い感触を覚えた。
確かに彼の作品や存在には、カリスマ性と明快な論理が同居している。
論理が明快だと生徒も簡単に納得し、免罪符を貰った気分になるのかも知れない。
イタリア政府給費を受ける事にして、師匠としてドナトーニではなく、彼の高弟であるゴルリを選んだのは、ドナトーニの影響からゴルリがどのように自らを発芽させたのか、大いに興味を覚えたからに他ならない。
シエナから戻って四年後、再びイタリアに戻った。
98.02.26
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ミラノに住み始めて暫くの間、何故かドナトーニに連絡が取れなかった。
何となく後ろめたいものがあって、背後には常にドナトーニ楽派への不信感が張り付いていた。
もやもやしたものが躯に広がっていて、半年ほど経って、思い立って電話をした。
電話口の思いがけない明るい声と、少しちぐはぐな会話を交わし、その後すぐに会いに出掛けた。

地下鉄のピオラ駅からランブラーテ方面へ七分ほど歩く。
付近は灰色の味気ないアパート群で、取り立てて雰囲気の良い界隈ではないのが印象的だった。
色味に欠ける風景にオレンジ色のトロリーバスが映えて見える。
そんな事を思いながら、数個目の信号脇にへばり付いている、何の変哲もないくすんだアパートにドナトーニは住んでいた。

呼び鈴を鳴らしながら少し戸惑っていた。
落ち着いた風景の中、悠々と暮らす作曲家を描いていたのであって、こんな雑踏の中で彼が仕事しているとは思えなかった。
「三階だよ」
独特の頭に抜けた高い声が応えた。中は古く陰気な趣があって、いよいよ困惑しながら左手奥のエレベータで三階のボタンを押した。

三階に着くと、四年ぶりに見るドナトーニがエレベータの前で微笑んでいて、思わず抱きついた。
数年前に作曲のコースが終わる頃、彼しかいないがらんとした教室で、同じように感激して抱きついた事を思い出した。
あの時より少し痩せたように見えたが、例の吊りズボンの出で立ちは変わっていなかった。

部屋に通されると、壁を埋め尽くす数々の帽子に圧倒された。
小さなアパートだった。よく片付いていたが、余り陽は入らないように見えた。
細長い六畳程の仕事部屋は薄暗く、客人用と思しき二客の簡単なソファーの向こうに大きな机が窓に面していて、書きかけの大きな譜面がきちんと整理され置いてある。

ソファーに坐ると、目の前壁一面に造りつけられた書棚が目に飛び込んできた。ケージやベルクなど作曲家が書いた本もあったけれど、夥しい本の大半が文学書のようだった。
無意識に目が彼の楽譜を探していたが見あたらなかった。
ピアノも置いていない普通の仕事部屋であった。
そこまで納得した後、妙な感動が胸に押し寄せてきた。
ここで彼が音を紡ぐ実感が、感じられたからかも知れない。
ごく質素な空間で、てらいなど微塵もなかったが、実直に音楽に捧げられた時間が流れていた。

何を話したか覚えていないが、拙作の「フランコ」を喜んでくれた事だけが記憶に残っている。
緊帳と興奮で話らしい話もしていなかったのではないか。
暫く話してから、奥の食堂でコーヒーを振舞ってくれた。
壁に寄せられた食卓の前には、何枚か妙齢のヌードのシールが貼ってあった。
子供のようではないか、と微笑ましい気がした。
その横には錠剤の山が整頓して置いてあって、晒されている臀部には不釣り合い見えた。
98.03.04


その頃彼は、隔週末、車で一時間程離れたブレッシャまで教えに出掛けていて、何度か連れていって貰った。
朝の七時半きっかりに彼の家の前で待つ為に、朝六時半の地下鉄に乗り、ピオーラの場末のバールで躯を温めながら時間をやり過ごした。
七時半きっかり、髪を綺麗にとかし、整った身だしなみのドナトーニがさっぱりと現れた。

彼の自家用車は、当時珍しかった日本車で、燃費の良いのが自慢だった。
ダッシュボードには硬貨が溜めてあって、信号で少年が物乞いに来ると、決まって某か小銭を持たせるのが印象的だった。
高速を暫く走った所に、彼が決まって朝食を摂るドライブインがあって、チーズを挟んだトーストと冷たい牛乳を頼んだ。
日曜早朝の、人気の無い店内で、なかなか出来ないトーストを黙って待っていた。
ぼうっと一人で考えに耽るように見える時があって、トーストを待ちつつ立ち尽くす姿はその典型だった。
 車中、互いの仕事の話をし、ここ数日忙しくて筆が進まない等と巨匠の口から聞かされると、恐れ多いなと思いつつ、少し安心した。

車窓を走る風景は、ミラノを離れるとすぐに田園風景に変わる。
朝ぼらけの中、左景の奥から山並みが近付いてきて、教会の屋根がクーポラから尖塔になって来るとブレッシャは近い。
少し靄の湧いた無人の高速を、滑るように走った。
道を覚えるのが苦手で、一度で音楽院の通りに抜けられると
「おい、凄いじゃないか」
満足そうに呟いた。

尤も、道を間違え何度も旧市街を巡っても、何故か時間通りには音楽院の前に着いているのが不思議だった。
細いへろへろの路地に張り付いた、妙に堅牢な造りの建物がそれで、傍の小さな木扉をくぐって中に入った。
だだっ広い部屋にコーヒーと水を運んでくれる、田舎っぽい風貌の歯の不揃いな女性に贈り物も忘れなかった。
そんな時、暖かいものが染み通る心地がした。レッスンはシエナのクラスと代わり映えなく、生徒の作品も似たようなものばかりで、安心したような、裏切られたような、割り方を間違えたアルコールの味わいがあって、何時も少しだけ苦かった。
レッスンと言ってもそっけないもので、曲が良ければ良し、悪ければこれでは仕方ないだろうで終わってしまう。
「音楽は常に展開すべきもので」
と彼が始める時、決って話題にのぼるのはモーツァルトやベートヴェンであって、自身の作曲技法について何も触れなかった。

なのに、何故生徒は似たような作品ばかり書くのだろう。
確かにドナトーニは一時期、個性の表出を極端に押えた「否定的作曲」と呼ばれる技法を確立した時期があったが、結局それが彼の強烈な個性となって我々に迫ってきた。
この生徒達にとって音楽とは自己否定の手段なのか訝しく思った事も一度ではない。
そんな事を繰り返すうち、殆ど迷宮に足を踏み込んでいた。

その頃からドナトーニは日本を訪れてみたいと繰り返していた。
日本の文化は自分に強い影響を与えたから、というのがその理由だった。
普通なら水の滴る音は一定の筈だが、日本のそれは竹筒にひたひたと溜ってゆき、かたりという音とともに、或る瞬間不意に零される。
その覚束ない時間の流れに魅了されたと言うのだ。
彼の音楽は拍感が明快で一定だと思いがちだが、実はそうではなくて、拍感の中でたゆたう彼の息遣いが、そこに微妙な揺らぎを許しているのだった。暖かい触感に何だか救われた。
何かを渇望する自分の裡は、そうして音楽の本質を掠ったり遠のいたりを繰り返していて、小さく震えていた。
98.03.08
by ooi_piano | 2012-08-21 00:27 | 雑記 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano