7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

11/15(木) ケージ公演・曲目解説等 [追記]

[ポック#12] ジョン・ケージ生誕100周年(その1)
2012年11月15日(木)19時開演
 代々木上原・けやきホール

■ジョン・ケージ《一人のピアニストのための34分46.776秒》(1954)
 (休憩10分)
■ジョン・ケージ《易の音楽 Music of Changes》 (1951) (全巻通奏・東京初演)
 第1巻 - 第2巻 - 第3巻 - 第4巻

2012年6月 ケージ《ソナタとインタリュード》+《易の音楽》 感想集
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【チケット料金】 
〈前売〉 学生2,000円 一般2,500円  〈当日〉 学生2,500円 一般3,000円
全5公演通し券 一般12,000円 学生10,000円 
3公演券 一般7,500円 学生6,000円

【チケット取り扱い】
ローソンチケット(各公演1回券のみ) tel. 0570-084-003 http://l-tike.com/ Lコード:37455
(株)オカムラ&カンパニー(下記) 各公演1回券、3回券、5回券をお求めいただけます。

【お問い合わせ】 (株)オカムラ&カンパニー 
tel 03-6804-7490(10:00~18:00 土日祝休) fax 03-6804-7489
info@okamura-co.com  http://www.okamura-co.com/

ジョン・ケージ《易の音楽》(1951)

c0050810_12244612.jpg  《易(えき)の音楽 Music of Changes》というタイトルは、古代中国の占辞集『易経』の英訳〈変化の本 Book of Changes〉の捩(もじ)りである。音/ノイズ、強弱、テンポ、持続、同時に起こる出来事(沈黙/単音/集合体/星座)の重なり具合、といった諸要素が、易に由来する図表と、三枚の硬貨(change)を同時に投げて裏の数から卦を立てる六爻占術の擲銭法によって、偶有的に作曲された。図表には、使い捨てされ流転する要素(変易/change)と、繰り返し使われる要素(不易)が含まれる。
  不確定性の先行例としては、ムジカ・フィクタ(半音階的変位)を奏者に委ねたJ.オケゲム《お好みの旋法によるミサ》や、作曲法を知らなくても無限に曲を生成出来る《音楽のサイコロ遊び》(モーツァルトK.516fはその一例)がある。ケージ自身は、個人の嗜好や芸術の文脈・伝統からの解放を宣言しているが、いわゆる結合術(ars combinatoria)を完全に度外視しているわけでは無い。
c0050810_12253739.jpg  1950年初頭、ケージがブーレーズ《第2ソナタ》の初演をしてくれる代役ピアニストを探していたところ、モートン・フェルドマンからデイヴィッド・チューダーを紹介された。1950年12月18日、ブーレーズのオリジナル自筆譜をケージが譜めくりする中、チューダーは《第2ソナタ》のアメリカ初演を行い、大きな反響を呼んだ。その翌年(1951年)の3月、クリスチャン・ウォルフから譲られた『易経』英語版を基に、ケージは《易の音楽》第1巻の作曲に着手する。「好きな音だけを選んでいると、ある種の甘さが出て来る事に気付きました・・・砂糖が多すぎるのです」「実際『易経』は、どうしても良い答えを得たいと思う人達には、全く悲しい運命を告げる。もし占筮によって不幸になったり、結果に満足出来ないとしても、少なくともそれを受け入れることによって自らを改め、自らを変える機会をもつことが出来る」。
  師カウエルの提案に従い、12台のラジオ受信機のための《心象風景第4番》の作曲を暫く平行させることで、ケージは容赦ない易の結果に耐えた。同年5月2日にニューヨーク・コロンビア大学で《心象風景第4番》が初演される。《易の音楽》第1巻はその直後、5月16日にニューヨークで完成した。ただちに献呈者チューダーによって、7月5日にコロラド州ボルダーで第1巻のみ初演。その翌週の13日の金曜日、ロサンゼルスで師シェーンベルクが他界する。第2巻は8月2日、第3巻は10月18日、第4巻は12月13日に脱稿。その19日後、1952年1月1日にニューヨーク・チェリーレーン劇場で、チューダーによる全曲初演が行われた。以降、チューダーとの協働作業が長く続くことになる。
  「演奏家は己を捨て、によって導かれた『フランケンシュタインの怪物』との非人間的な一体化を要請される」(1958年、ダルムシュタットでの講演)が、一方、「多くの箇所で記譜が不合理(irrational)と思われるだろう。その場合、奏者は自身の裁量(discretion)を行使してよい。」(1960年、Peters社出版譜序文)とケージは付記している。


ジョン・ケージ《一人のピアニストのための34分46.776秒》

c0050810_12264083.jpg  時間の長さ(=Zeitmasse)をタイトルとしている数曲のシリーズの一つ。単独でも、他作品と組み合わせても、また全体でも部分抜粋でも、自由に演奏して良い。
  ピアノは、弦の間にさまざまな素材を挟みこむことによって、音色・音高を変えられる(=プリペアド・ピアノ)。P (プラスチック/骨/ガラス)、M(金属)、C(布/繊維/ゴム)、W(木/紙)、X(他の素材/自由選択)の5つのカテゴリーによる、単一あるいは複合したプリパレーションは、全鍵盤の半数以上に及ぶ。奏者はこれらの素材を、演奏中に除去・追加したり、挟み込む位置を移動したりしなければならない。1940年代の穏健なプリペアドピアノ作品群とは異なり、素材が挟み込みにくい交差弦や1本弦・2本弦部分にも、お構い無しにプリパレーションの指定が見られる。
  楽譜は、通常のピアノ用二段譜の上に、打鍵の強度(大⇔小)・打鍵距離(遠⇔近)・打鍵速度(遅⇔速)の3つのパラメーターが、点と斜線によるグラフ(目盛り無し)で併記してある。随時差し込まれるノイズは、I(ピアノ内部のもの)、O(ピアノ外部のもの)、A(口笛や打楽器など付加的なもの)の三種類に分類される。プリパレーション素材の選択や挟み込む位置、ペダリング、三種のノイズ類、打鍵法指定の解釈、「不可能な箇所」の処理法等は、奏者に一任されている。
  姉妹作《一人のピアニストのための31分57.9864秒》や《一人の弦楽器奏者のための26分1.1499秒》と同様に、リズム構造は3-7-2-5-11であり、作品全体はこの比率で分割される。すなわち、第1部(4分44.95614秒)、第2部(8分17.493秒)、第3部(2分33.10674秒)、第4部(6分34.7184秒)、第5部(12分36.50172秒)である。
  作品は、独ドナウエッシンゲン音楽祭からの、「2台ピアノ曲」の委嘱に応じて書かれた。1954年10月17日の初演は、デイヴィッド・チュードアによる《34分46.776秒》と、ジョン・ケージ自身による《31分57.9864秒》の同時演奏の形で行われた。これは、ケージの正式なヨーロッパ・デビューにあたる。初演の途中でピアノのペダルが壊れたため、チュードアは楽器の下に潜り込みペダルを修理し、ふたたび椅子に座りなおして続きを弾いた。ケージは平然と演奏を続行した。
  ドナウエッシンゲンの2日後、彼らはケルンの西部ドイツ放送局の現代音楽祭に参加する。公演に感銘を受けた26歳のシュトックハウゼンは、一連の初期ピアノ曲をチュードアへ託すことになる。その後の西欧七ヶ国の巡演は、往々にして酷評で迎えられた。「ケージ・ショック」が「ケージ受容」に変わるのは、4年後(1958年)のケージのダルムシュタット訪問時である。



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ジョン・ケージ素描(上) ――― 野々村 禎彦

c0050810_23411919.jpg ケージの創作史は、《易の音楽》(1951) に始まり《4分33秒》(1952) で一般にも広く知られることになる、偶然性の導入で二分される。ヨーロッパがケージに強い関心を示したのは2回、いずれも偶然性導入後だが、偶然性導入以前の達成も以後に劣らず豊かだ。偶然性以前の時期は西海岸から東海岸への転居で区切られ、偶然性以後の時期は、《ピアノとオーケストラのためのコンサート》(1957-58)、《安っぽい模造品》(1969)、《アパートメント・ハウス1776》(1976)、《Two》(1987) という象徴的な4作品で5つに区切られる。本稿では2回にわたってケージの歩みとその内外への影響を眺めてゆくが、前半の今回は演奏会の曲目に合わせて《ピアノとオーケストラのためのコンサート》までの歩みを駆け足で眺める。後半の2013年1月には、ヨーロッパでの受容やケージ以後の展開にも触れたい。

 ケージが作曲を本格的に始めた頃、ドイツではナチスが政権を奪い、シェーンベルクは米国に亡命した。ストラヴィンスキーやヒンデミットよりも軽く扱われるどころか、名前すら殆ど知られていない新古典主義一色の現実を前に、《モーゼとアロン》で燃え盛っていた創作意欲はたちまち萎んだ。過酷な運命に打ちのめされ、戦後に臨死体験を経て《弦楽三重奏曲》で復活するまでは調性的な機会音楽が徐々に作曲の中心になってゆく。当時のケージは、25音音列を用いたシステマティックな作曲を行っていた。まずカウエルの門を叩いたが彼の手には余り、「音列音楽の専門家」シェーンベルクに紹介された。渡米後最初の大曲《ヴァイオリン協奏曲》(1934-36) を作曲していた時期が、まさにケージが師事した時期にあたる。

 ケージの世代には米国にも、12音技法/総音列技法を用いるアカデミックな作曲家が多数現れたが、シェーンベルクに師事した者はいない。彼は貧しいケージを無料で教えたが、やがて「君には和声の感覚が欠けており、常に和声の壁に頭を打ち付けることになるだろう」と作曲を諦めさせようとした。しかしケージは諦めず、和声に頼らない打楽器アンサンブルのための作曲に専念する。その後彼は、厭世的な言葉に憤慨し師のもとを去ったが、即興的自由と原初的衝動を称揚する米国実験音楽の世界で、まずリズム構造を決めて音符をシステマティックにはめ込む作曲技法を堅持した彼は、自分を見失っていた師の抜け殻ではなく、師の芸術の本質に忠実な良き弟子だった。ケージはシェーンベルクを最も影響を受けた芸術家のひとりに終生挙げ続け、シェーンベルクも最晩年に「米国での弟子で面白いのはケージ君だけだ、作曲家とは言えないが天才的な発明家だった」と回想している。

c0050810_23421878.jpg ケージは1938年に、ダンス伴奏音楽の専門家としてシアトルで教職に就いた。生活が安定し、最初の代表作が続々と生まれる。《構成》(1st-3rd, 1939-41) シリーズは、ヴァレーズ《Ionization》(1931) で産声を上げた打楽器アンサンブルという「風変わりな試み」を「ジャンル」に引き上げた記念碑的作品だ。《架空の風景》はさらに実験的なシリーズであり、I (1939) は放送用テストトーンを刻んだレコードを回転数を変えながら再生してグリッサンドを生み出す、「元祖ターンテーブル演奏」である。《居間の音楽》(1940) では家具を打楽器として用いる。彼は学生たちと打楽器アンサンブルを結成し、西海岸ツアーをたびたび行った。

 彼はピアノ1台の演奏スペースでダンス音楽の依頼を受け、ピアノの弦に小物を挟めば「打楽器アンサンブル」が得られることに気付いて《Baccanale》(1940) を作曲した。プリペアド・ピアノ誕生の瞬間だ。ただし、弦に紙などを挟む奏法はバロック時代まで遡る。ケージの独自性は、これを音響効果ではなく「新しい打楽器」と捉えたことで、挟む小物もボルト・木片・ゴムなど「打楽器アンサンブル」にふさわしい音色のものを工夫した。ただし、本物の打楽器アンサンブルが容易に使えるうちは代用品に頼る意味はない。この楽器が多用されるのは、《架空の風景II/III》(1942) をシカゴで書いた後、ニューヨークに居を移してからである。

c0050810_23432524.jpg ここで、ケージの私生活に少々触れておこう。ゲイであることを自覚した後、彼には世間一般のゲイのイメージ通りのボヘミアン的生活を送っていた時期がある。だが彼は1935年に、Xeniaという女性と結婚した。偽装結婚?バイセクシュアル?おそらくどちらでもない。彼の性的指向は男性だがマッチョな女嫌いではなく、むしろ女性の友人が多い。彼と1931年に知り合ったゼニアは彼の性的嗜好も知っており、結婚後は殆どの打楽器アンサンブル作品の初演メンバーとして、アンサンブルの運営にも尽力した。おそらくケージのジェンダーは女性で、ゼニアとの関係は「同性の親友との同居」だったのだろう。生物学的性別に囚われていた当時の社会通念ではそのような関係は許されず、結婚という形を取らざるを得なかった。

 同性の友情は、片方に異性の「運命の恋人」が現れると危機を迎える。ケージにとってのマース・カニングハムはまさにそのような存在だった。ただし、1919年生まれの美青年ダンサーにはゼニアも惹かれていたという。カニングハムがケージの音楽で踊る公演にペギー・グッゲンハイムの援助を取り付けたと聞き、ケージは1942年の夏にニューヨークに移住した。そうして生まれた最初の作品が《Credo in US》だ("US" は「我々」と「合衆国」を掛けている)。プリペアド・ピアノ、2打楽器奏者、ターンテーブルという編成で、泰西名曲のレコード(推奨例はベートーヴェン、ドヴォルザーク、シベリウス、ショスタコーヴィチの標題交響曲)を再生した、入れ替え可能な記号としての 「クラシック音楽」を打楽器が異化する。新生活の喜びが斬新な発想に結びついたが、この幸福は長くは続かなかった。

 やがてゼニアもケージを追ってニューヨークにやって来る。ケージは自作個展を企画し、彼の名が東海岸で知られる契機になったが、ペギーの現代美術ギャラリー開館直前にライバルのMoMAを会場に使う無神経さが彼女の逆鱗に触れ、援助を打ち切られてしまった。友人たちの助力でホームレス転落は免れたが、カニングハムとの駆け落ち劇に加えて社会性のなさも露呈し、「夫婦」関係は冷え込んでゆく。また西海岸時代のケージは抽象絵画風のタイトルを好んだが、東海岸移住後は詩的なタイトルを選んだ(《さまざまな愛》(1943)、《彼女は眠っている》(1943)、《危険な夜》(1943-44)、《4つの壁》(1944) など)。私生活の危機を音楽で表現した結果だが聴衆には伝わらず、精神的混乱は深まった。1945年に正式に離婚するといくらか落ち着き、《3つのダンス》(1944-45)、《謎めいた冒険》(1945)、《孤島の娘たち》(1945) など優れたプリペアド・ピアノ作品が生まれた。

c0050810_23442421.jpg 彼は翌1946年にインド人留学生ギタ・サラバイと出会い、彼女からインド哲学と伝統音楽を学んだ。音楽が表現するのは個人的感情ではなく普遍的類型であり、聴き手の心を落ち着かせ神に近づくことを助ける、という音楽観を知って彼はようやく心の平安を得た。この時期にはサティへの関心から《夜想曲》(1947)、《ある風景の中で》(1948) のようなシンプルな旋律と和声付けの作品が増えた。ただしこれらの曲でもリズム構造に音符をはめ込む方法論は守られている。プリペアド・ピアノのための大曲《ソナタと間奏曲》(1946-48) ではインド伝統音楽の構成を踏襲する一方、この楽器のための書法の新境地を拓いた。リズム主体のアンサンブルに「旋律」が織り込まれ、ロマンティックとすら言えるドラマが生まれた。マロ・アジェミアン(1921-78) はこの曲に献身的に取り組み、1949年1月のカーネギーホールでの公開初演は批評家にも聴衆にも絶賛された。評判は遠くヨーロッパまで届き、ブーレーズとの数年にわたる親密な交際の出発点になった。ただしケージはバブル的な評価を警戒し、1949年には作品を発表せず老荘思想など東洋哲学全般を学び、自我の放棄を徹底して音楽の極北へ向かう準備を整えた。

 《4部の弦楽四重奏曲》(1949-50) や《6つのメロディ》(1950) ではインド音楽とサティが交差し、コンセプトを徹底したクールさが際立つ。彼はさらに5×5の魔法陣による音高の自動生成(彼は初期に25音音列を用いていたことを思い出そう)を行い、よりシステマティックに「自我の放棄」に向かう。《プリペアド・ピアノ協奏曲》(1951) は、第1楽章では直感的に選ばれた音高が終楽章では組織的に選ばれ、曲が進むにつれて「自我の放棄」も進むコンセプト。《16のダンス》(1951) ではリズム構造と魔法陣のシステムが有機的に結合し、《ソナタと間奏曲》と並ぶ偶然性以前のケージの金字塔になった。ひとつの魔法陣から別な魔法陣が順次生成されるシステムを、ブーレーズは総音列技法のマトリクスが別なセリーを順次生み出すシステムの対応物とみなし、「我々は同じ道を歩いている」と考えた。

c0050810_23451537.png ケージの次の一歩は、システムすら放棄して音選択を偶然に委ねることだった。この方向での最初の作品は、12台のラジオを各2人で操作し、ラジオ番組が作り出す偶然の音響を楽しむ《架空の風景IV》(1951) 。続く《易の音楽》(1951) では、すべての音響を易経に基づいて選んだ。ただし1音1音選ぶのではなく、まず64個の短い断片を作り、並べ方も易経で決める2段階方式を用いた。音色変化が乏しいピアノ独奏曲に応じた規則を採るメタレベルの選択が、この作品における「作曲」に他ならない。この大転換中にも、彼はブーレーズとの交流を続けていた。《易の音楽》を聴いたブーレーズは《16のダンス》に連なる音楽として激賞したという。5×5だった選択肢を8×8に拡大したら予想外のイヴェントが頻出した、と受け取ったのだろう。後に《4分33秒》などを通じてケージの真意を知ったブーレーズは、一転して「怠惰による偶然性」と強く批判し、「管理された偶然性」という代案まで提出した。論理的には自らの美学に反する音楽に一度は感銘を受けたことがブーレーズを追いつめ、作曲から指揮へ音楽活動の中心を移す遠因にもなった。

 1951年はニューヨーク楽派の仲間との出会いの年でもある。ケージはブーレーズ経由でヴェーベルンを知り、音楽に沈黙を持ち込んだ先駆者としてサティと共に注目した。ヴェーベルン《交響曲》の演奏会で、独自の図形楽譜を用いた作曲を始めていたモートン・フェルドマン(1926-87) と出会い、この種の音楽が得意なピアニストとしてデヴィッド・テュ―ダー(1926-96) を紹介された。ケージは40年代半ばから、現代音楽に取り組むピアニスト、グレート・サルタン(1906-2005) と親交を結び、彼女にピアノを学んでいたクリスチャン・ウォルフ(1934-) を紹介された。彼の両親はPantheon Booksの創業者。彼は自社が出版する易経の英訳版をケージに贈り、ケージは易経と出会った。アール・ブラウン(1926-2002) はジャズの世界で使われていた図形による略記法を実験音楽に持ち込み、フェルドマンとは独立に図形楽譜に至った。彼も少し遅れてニューヨーク楽派に参加した。

c0050810_23453858.jpg ケージの探求は、フェルドマンやブラウンに影響された図形楽譜の使用、紙の滲みを音符と看做す《カリヨンのための音楽》シリーズ(1952-54)、異分野の芸術家が無関係な行為を並行して行う《Black Mountain Piece》(1952)、42枚のレコードの「ライヴ演奏」《架空の風景V》(1952)、多様な音素材の録音テープを易経に従って切り貼りした「元祖カットアップ音楽」《Williams Mix》(1952-53) など、さまざまな方向に広がった。《4分33秒》(1952) もこれらの試行のひとつにすぎない。一音も発さず「沈黙」を聴くというコンセプトは特異だが、これ以降ケージの核心は音響ではなく哲学に移った、これ以降も作曲から離れなかった彼は悟っていない、などと評するのは全く的外れだ。ケージは終生作曲家であり、その真意は彼の言葉ではなく彼が生んだ音楽の中にある。彼の音楽を禅と関連付けたければ、このような態度こそ望ましい。《4分33秒》に関して付け加えれば、彼がこの発想を得たのは偶然性に至る前、街にあふれるミューザック社のBGM音楽に腹を立て、SP片面に相当する時間を無音で埋めて抗議しようと思い立った時だった。

 偶然性の音楽への反発は強く、ケージは正当化する言説を探し回っていた。鈴木大拙を通じて禅の無為自然の精神を知り、偶然性の音楽に至ったと彼は説明してきたが、実際の時系列は逆で、偶然性の音楽を正当化する理屈を探す中で禅に出会ったと近年の研究では考えられている。だが、そうだとしても偶然性の音楽の根拠が揺らぐわけではない。少なくとも《プリペアド・ピアノ協奏曲》や《16のダンス》と《易の音楽》の間に明確な断絶はなく、ケージの美学は一貫している。むしろ、偶然性の音楽の真の衝撃は、システマティックな作曲と偶然性に基づく作曲の間に本質的な差異は見出せないことではないか。音楽作品の本質は音楽要素を論理的に組み上げる中で顕れるのではなく、発想と音響イメージが得られた時点で決まり、楽曲の細部をどのような方法論で埋めても大差はないという音楽観は、クラシック音楽の伝統に忠実なヨーロッパ戦後前衛に大きな疑問符を突きつける。ブーレーズの音楽とケージの音楽の違いはふたりの音楽性の違いに由来するもので、総音列技法と偶然性の全面的導入の違いに由来するものではない、ということだ。

c0050810_23461393.jpg 《4分33秒》以降、彼の作曲ペースは急速に上がった。ブーレーズら多くの友人を失い、「音楽の破壊者」として有名になってしまった以上、結果を出さざるを得なくなった。《ピアノのための音楽1-84》(1952-56)、プリペアド・ピアノのための《34'46.776"》&《31'57.9864"》(1954)、朗読のための《45'》(1954)、弦楽器のための《26'1.1499"》(1953-55)、打楽器のための《27'10.554"》(1956) という独奏曲(時間タイトルの曲は任意の組合せで同時演奏可能)から始まるが、1-20台のピアノのための《冬の音楽》(1957) ではある程度の奏者が集まることが前提にされ、《ピアノとオーケストラのためのコンサート》(1957-58) では、各々異なる規則に基づく図形楽譜による《ソロ》シリーズをすべて同時演奏する。この大作の初演を含む音楽活動25周年記念コンサートには、アジェミアン、テューダーら彼を支えてきた演奏家が集まり、元妻ゼニアも演奏に参加した。偶然性の音楽に転じてからの苦労が報われた瞬間だが、《ピアノとオーケストラのためのコンサート》の少なからぬ奏者が図形楽譜とはかけ離れたトリルやスケールを弾き、あからさまにサボタージュを行っている演奏記録は、その後の困難を予告していた。
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by ooi_piano | 2012-11-07 22:01 | POC2012 | Comments(0)