6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

■2005/05/29(日) 遠く遥かに~末広がりこそ目出度ーけ~れ~


「トラックバック出来ない」との御知らせを頂きました(出来るはずなんだけどな)。皆様どんどん御自由にトラバって下さいませ。
髭無し氏のコメント書き込みで思い出しましたが、そもそもこのブログは古楽系マネージメントの情宣活動の一環として始まりそのままダラダラ続いているだけのもので――それにしてもooipianoなどというアラレも無いURLは何とかならんもんか――、たまにはそっち系のネタも取り上げるべきですね。

そこで、意外にもあまり人口に膾炙しているようでもない、有田正広氏のレクチャービデオについて御紹介することにします。(鈴木秀美氏のワークショップについては、サイトもありますね。)



これは10年ほど前(1994~1996年)に東京・ムラマツ楽器ホールにて行われた、バロック時代の演奏習慣に関する氏の全10回のレクチャー・シリーズ(1回につきテープ1本=約2時間余)を収録したものです。基本的にはプロ・アマのモダン・フルート奏者を対象とし、バッハ・モーツァルトを中心に平易に奏法解説をなさっていますが、例えば氏が使い分けていると云う11種類の指使いやトラヴェルソ特有の「カラー・トリル」等の瑣末な事項はほとんど触れられず、音楽表現のための「行間の読み方」をかなり広範に扱っているという点で、誰が見ても面白いドキュメントだと思います。

c0050810_521658.jpg第1巻《修辞学》/第2巻《調性と音楽》
彼はまず、美術史における修辞学の話題からこのレクチャーシリーズを始めます。例えばファン・エイク(弟)の《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(1434)。卵で顔料を乳化させたテンペラ画の不透明感と油彩の透明感が画面上で絶妙にテンペラーレされる中、真鍮のオランダのシャンデリア(=結婚)、昼間なのに1本だけ火が灯った蝋燭(=契約)、足元の犬(=忠誠)とサンダル(=ベッドインする夫婦)、ベッドの木枠に彫られた聖マルガレータ(=結婚の守護聖人)、窓辺の果実(=原罪)、奥壁面の凸面鏡の回りに描かれたキリスト受難の10場面、その鏡に映り込む二人の立会人と銘「ヤン・ファン・エイクここにあり」等々、といった寓意がちりばめられています。その教訓は「原罪を踏まえつつ忠義を」。
美術史から始められるとなかなか反論しにくくなる前提の上で、マタイ受難曲の《愛ゆえに主は死に給う》や《ああ痛まし、苛まれし心ここにうち震う》etcについて、まるで蓮見重彦を思わせる爽やかな弁舌で説き来たり説き去られていました。
ところで、古楽演奏の現場で修辞的フィグーラについて喋々されることは、実際どのくらいあるのでしょうか?その手に詳しそうな奏者に訊いてみても、「知ってないといけないんだけどねぇ」などと横を向くばかり。有田氏にしても、恐らくは修辞学の知識など一切無しに、音符からだけで十全に音楽を汲み取られることでしょう。しかしながら、数学の問題を解くのに九九や公式を知っているとやはり簡便なのと同様、「お約束」(=作曲のためのネタ帳)はお手軽に利用してみるのも一興です。反復や和音(響き)のフィグーラは、見ればすぐ分かることなので割愛するとして、案外盲点となりそうなものを挙げてみましょう。

例えばサイン・カーヴのように緩やかに上下する音型は「キルクラーティオー circulatio」(円弧・迂回)と呼ばれ、しばしば「思いめぐらしGedankenfiguren」と解されます。「まんまやがな」と思われるかもしれませんけれども、「ここで音の動きがウネウネ逡巡しているのは、音楽を内面に向かわせたいのかなぁ」と察するだけで、弾き方も自ずと変わって来ます。これはバロック音楽に限らず、古典・ロマン派から現代作品にまで応用出来るでしょう。声部間で反進行あるいは交差が生じる場合は「キアスムス chias(u)mus」と言って、これも心の襞や揺れを表します。
半音による上行・下行は「パッスス・ドゥーリウスクルスpassus duriusculus」(苦難の歩み) [あるいはパートポエイアpathopoeia] と呼ばれます。これもアホみたいですが、「そこでは精神状態として困難を感じながら演奏しなければならない」という「お約束」を前頭葉になすり付けておくだけで、思いがけぬ行間の表情が透けて見えてくることがあります。(一般に、♯や♭が多い程Affektも増えるとされます。)モダン・フルートでは何でもない半音階スケールが、トラヴェルソでは美学上の要求から幹音(open)と派生音(close)のバランスの差異をわざわざ際立たされ演奏困難になっているが故に表現じたいが変わってくる、というのは肯綮ドンピシャリで、鍵盤楽器では特に見落とされがちな点でしょう(中全音律のオルガンなどでは自明のことですが)。そういえば先日たまたま耳にしたスクリャービンop.42-5で、クライマックス手前に現れる下降半音階がまさに「苦難の歩み」に聞こえてしまいました。リゲティ《ワルシャワの秋》や《ピアノ協奏曲》の分析にラメント・バスを持ち出して来るのは当然です(――それなら《コンティヌウム》のネタ元がBWV572と《ティク・トク・ショク》等のピエス・クロワゼ群であることも指摘すべきか)。
苦難系としては他に「サルトゥス・ドゥーリウスクルスsaltus duriusculus」 ってのもあります。こちらは「苦難の跳躍」、不協和音程の跳躍のことです。ショパン葬送ソナタ冒頭やベートーヴェン作品111冒頭にも出て来ますね。「精神状態として困難を感じながら演奏しなければならない」。それはすぐに音に現れることでしょう。

c0050810_5232618.jpg旋律が休符によって分断される「ススピーラーティオー suspiratio」は、驚き、懼れ、戸惑いを表します。「おお」という言葉は半休止のあとにアウフタクトでおかれることが多く、suspentioと呼ばれます。8分休符には要注意、というわけですね。バロック音楽に現れる「休止」には、ベートーヴェンのように計算しつくされた劇的対比というよりも、「唐突さ」に主眼が置かれているように思われます。これには「アブルプティオー abruptio」、「アポスィオーペースィスaposiopesis」、「ホモイオテレウトンhomoioteleuton」、「トゥメスィスtumesis」など幾つかの名称が付いています。余談ながら、ヨーロッパ保守系作曲家にとってクセナキスの音楽の何が癇に障るかといえば、「音が聞こえていない」以外には、「唐突な休止」が取り沙汰されるようです。長いゲネラルパウゼを幾つか入れると、口を揃えて「クセナキスの影響が見られる」。三宅榛名のオルガン作品を「取り留めがなく構成が弱いのはヨーロッパでは考えられない」と批評したドイツ人に、「だったらフレスコバルディはヨーロッパ人じゃ無いのかね?」と言い返したら黙り込んでました。
フレーズの終わりで音がキュッと上がって終わるのは「インテッロガーティオー interrogatio」と呼ばれ、音楽(音)による問いかけを表します。これも見過ごされがちかも。直接関係はありませんが、クープランの「アスピラシオン」、ラモーの「ソン・クペ」は、気取って(maniéré)喋る場合のフランス語の、語尾がキュッと上がるイントネーションを模倣しているのでしょう。「ミーはおフランスざんすヨ!」の「ヨ!」に当たります。

フローベルガー《ブランシュロシュ卿の墓》などにあらわれるG-D-Es等という音型は、GとDという2つの音がEsへ向かって解決する、「アマーレー amare」というヒュポテュポースィスhypotyposis(形象模写)の一種だそうです。愕然。階段からの転落を描写しているわけでは無かったのね(笑)。男女間だけではなく広義の愛のフィグーラです。刺繍音を伴ったアラベスクを施されることもあります。解決音へ向けて、音型が途中で不用意に途切れないように演奏しなければなりません(――ポル・ド・ヴォワは、音を運んでいる最中なんだから、小節線では切ってはいけません、という話と同様ですね)。

c0050810_5243372.jpg面白いところでは、幾つかの声部が3度と6度の音程を保ち動く平行進行は修辞学用語としてフォブルドンfauxbourdonと呼ばれており、「ドゥビターティオー Dubitatio(疑念)を表現する」そうな。頓珍漢かつ詮無いことながら、ブラームスのクラリネット五重奏曲冒頭を連想してしまいます――しかも旋回する「思いめぐらし音型」でもある。シューマンが愛用した「クララの主題」が「カタバスィスCatabasis」(=内向性、絶望、悲しみ、否定、苦しみ、弱さ、涙)だったのは偶然では無いでしょう。有田レクチャーでは「構文のレトリック」は取上げられておりませんが――というか有田氏の語り口がまさに「構文のレトリック」の体現そのもの――、ハイドン構造分析にエルヴィン・ラッツを援用するくらいならヨアヒム・ブルマイスター《音楽美学提要》にでも倣ったほうが、よほどソレっぽくデッチ上げられると思います。どのみちお遊びの域を超えないわけだし。

とまれ、「情緒Affekt」とは、《拾玉得花》劈頭で論じられている「出て来る(いでくる)」ものと同じく、自分を超えた不思議な「働き」、伎(わざ)を招ぎ演奏を成就させるためのコマンドのことです。修辞学フィグーラを「ビジネス英文手紙の書き方」とすると、Affektはさしずめ顧客(=聴衆)の購買意欲(の発生)でしょう。そう言えば有田氏は噺家の例を挙げていました。息もつかせずパンパンパンとクレッシェンドしつつ捲くし立てた後、突如ストップし、間をおいて声を殺して別の話を始める、etc。これなどまさに、アポスィオーペースィスaposiopesis――「パッセージあるいは旋律がたたみ込まれて休止する絶句。その後に用意されるのはそれとの対比」、ですね。ショパン・ヘ短調バラード終結部など。


c0050810_5252183.jpg第3巻《ヴィブラート》
「ヴィブラートの歴史は音楽そのものの歴史である」「17・18世紀にはヴィブラートは装飾法の一部であった」「当時ヴィブラートは多用されていたが、記譜されることは稀」「長い音符にかける/かけ過ぎはしない/強弱・振幅・速度変化など多様な種類が前提(=均一で連続的なヴィブラートは不快なものである)」、ってなところから始まるヴィブラート総覧。
横隔膜を張って舌根を下げてのどを開けると、自然に声にヴィブラートはかかるものだそうですから、確かに「ノン・ヴィブラートの時代」は机上のものかもしれません。ヴィオラ・ダ・ガンバのヴィブラート奏法って色々なものがあるんですねー。ブランデンブルク第5番第1楽章95小節目のウネウネは横笛の指ヴィブラートを記譜したものらしいです(あそこでホゲホゲやっているのはヴィブラートだったんですね)。クラヴィコードのベーブング効果についてのシュパーニの見解はここに書きました(エマヌエルやテュルク邦訳書とは全く違う結論になっています)。
ところで、複数のピアニストが一台の楽器を弾いたときに、いかに「音色」が違って響くかはよく知られていますが、全く同じことがオンド・マルトノでも発生します(もちろん同一レジストレーションの条件下で)。ピアノやヴァイオリンと違って一応電気楽器ですから、入力(左手トゥッシュの深さの変化/右手リボン奏法グリッサンドの速度・タイミング/ヴィブラートの振幅・周波数・変化/各奏者の基音調律/それらの組み合わせ・・・)ならびに出力(=いわゆる聴き手が感じる「音色」)について、諸パラメーターのデジタル解析もしやすい筈です。「人間の《声》の模倣はどこまで可能か」「人間の耳はどこ(何)を《聞いて》いるのか」等々を研究するにはうってつけだと思うのですが、いかがで御座いましょう。


第4巻・第5巻《バロック時代の組曲について》
舞曲の始まり、15世紀のタンツとナーハタンツから語り起こされてました。前者は謹厳・静けさをもって、足を交互にツーツーツーツーと低い姿勢で滑るように踊るもの。後者は速く情熱的にタラッタラッと飛び跳ねます。これはそれぞれパヴァン(2拍子)とガリアード(3拍子)、ひいてはアルマンドとクーラントへ変化していきました。
舞曲の組み合わせである「組曲」の前に、即興的で自由なプレリュードで音楽を開始したのはパリのリュート奏者たちでした。余談ながら、3月のクラヴィコードによるバッハ《平均律クラヴィア曲集》公演では、楽器の音量や調律法への耳ならし・指ならしを兼ねて、冒頭にエヌモン・ゴーティエのリュート作品《メザンジョーの墓》を演奏しました。質問頂きましたので御回答まで。
サラバンドはそもそもメキシコあたりの、女が男を誘惑する、淫らで曲がりくねったテンポの速い舞踏曲だったそうな。よって宮廷に取り入れられないだけではなく、演奏したり踊ったりすると禁固刑さえ喰らったとか(西フィリップ2世時代)。一方ガボットの性格は程良い快活さと喜びであり、時にはゆったりとなることもあったらしいです。それで思い出しましたがフランス世俗歌にはガボットのものが多いようで、例えば《きらきら星》もそうですね。要するにあれは「ドドソソ・ララソー」ではなく、「ドッドッ、 ソーソーラーラー・ソー」という風に、最初の2つの音はアウフタクトなんだとか。(しかしフランス人のガキに確認したところでは、別にそう歌っているわけでも無かった。)ベートーヴェン《歓喜の歌》も本来は「ファファソラ・ラソファミ、 レレミファ・ファーミミー」ではなく、「ファファソラ、 ラソファミ・レレミファ、 ファーミミー」、すなわち自由の表象としてのフランス民衆歌を意識した、拡大されたガボットってわけ。Op.110の第2楽章が「ドシラソ・ファファミー」ではなく「ドシ・ラソファファ・ミー」だと書いてあったのはシュナーベル版だったかな。
ポロネーズについては、有田氏いわく「不可解な舞曲である」。古くからポーランド風(仏語表記)と信じられているが、出所は判然としていないそうです。よく話題になるシャコンヌ/チャコーナとパッサカリアの違いについては、前者は舞曲、後者は楽曲(歌曲)として扱われており、前者にくらべて後者は短調を好む傾向にあり、またI-(下降することあり)-IV-V-(I)の和声構造を持つ、とまとめておられました。

ますます盛り上ってゆくレクチャービデオの後半5巻ぶん(第6巻~第10巻)については、また次回に。



c0050810_526537.jpgイヴェント告知をかねて、もう一つ古楽ネタ行きますね。有田氏レクチャービデオでは、残念ながら調律法については殆ど触れられていませんでしたが、今シーズン《平均律クラヴィコード曲集》を弾いた身としては、「バッハ調律発見(?)」の話題に触れないわけには参りません。
今年2月号の《Early Music》誌に、バッハ《平均律》自筆譜表紙の上端のウネウネ模様が、実はバッハの調律法を指示していた、という論文が発表されました。この「新発見調律」に基づいたオルガンまで製作しちゃったらしい。
一方、「渦巻き模様への着目は面白いが、その《読み方》がおかしい」という反論が、フランスの某クラヴサン製作家とオルガン製作家によってなされています。ここで公表されると聞いてから既に数週間経過しました。Early Music誌5月号で原論文が「完成」されるタイミングを見計らっているんでしょうか。
彼らが新たに提唱した「バッハ調律」(ランベール=ショモン法に類似)で、「平均律クラヴィア曲集」を一通り試し弾きしてみましたが、私の節穴の耳で感じたところでは、この自筆譜表紙で示唆された調律法それ自体よりはずっと、当時の調性格論に基づいて個々の作品の楽想が練られているように思われました。って言うと身もフタも無いけど。(和弦的かそうで無いかでもチェックしてみましたがピンと来なかった。)よほど慣れてないと不均等平均律なんてどれも似たように聞こえてしまうのは、常人には“紫にけむる夜明けのラーガ”と“神々しくけだるい日没のラーガ”の区別がつかないのと同様でしょう。そういえばホーメイやってると、生活音の倍音成分さえよく聞き分けられるようになるそうですので、いっそ始めてみようかな。日々の調律作業中に、ある部分を純正3度にしてみる、ってな感じで気まぐれにテンペラーレを施すうち、偶然上記のような調律法に行き当たることは有り得るでしょう。さしずめフランス風な1/4コンマが乳化剤といったところですね。
なお某巨匠は、この「新発見」には端からスルーの構えだそうな。自分では気付かなかったから、と揶揄するのは失礼に当たりましょうが、仮説の是非はともかく、ちょっと狭量に思えます。バッハ調律「発見者」の米国人のオッサンの演奏mp3がいまいちアレなのも説得力を失わせる憾みがありますが、でもまぁフランス人組にしても複勝オッズ4.2倍くらいかも。
今週火曜日(明日)には梅岡楽器主催による弾き較べワークショップも予定されているようですので御案内まで(これが今回の本題)。
仏人オルガン製作家氏は某教会でこの「反論調律」を仕込んだらしいので(ブルドンだけ)、近いうちに平均律抜粋と、鈴木悦久《クロマティスト》のデモ録音でもしようかと画策しております。乞御期待。

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by ooi_piano | 2005-05-29 22:15 | Comments(0)