6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

ピアノでバッハをどう弾くか(その1)

《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》第3回公演
2013年4月20日(土)15時開演 (14時半開場)
タカギクラヴィア松濤サロン[JR・東横線・地下鉄「渋谷駅」より徒歩10分、京王井の頭線「神泉駅」より徒歩3分]
■J.S.バッハ:六つのパルティータ BWV825-830 [NYスタインウェイによる演奏]
○お問い合わせ/(株)オカムラ&カンパニー tel 03-6804-7490 info@okamura-co.com

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カイラス山への五体投地----CD《フーガの技法》(ヒストリカル・クラヴィコードによる世界初録音)・曲目解説に代えて》 (2008年10月)
HMV amazon iTunes 古楽誌「アントレ」批評 English translation

c0050810_16105245.jpg━━━《フーガの技法》というと、バッハ晩年の晦渋で難解な作品、という印象があります。
A. 難解だとすれば、それは主に演奏のせいであって、実に申し訳ないことです。バッハは「聞けば分かる」ように音符を書いていますから。
   聴き手側が、フーガという形式に身構えがちなのも一因かもしれません。声と声との雄弁な掛け合いによって、聴く者の中に何かを感応させる、という点では、吉本漫才にかなり似ているのではないでしょうか。タイトルも、《マンザイの技法》あるいは《話芸大全》とかだったら、とっつき易いでしょうに。上岡龍太郎氏によると、「本当に面白い漫才は、1つのコンビに1本が普通、3本で一流。どんなに多くても5本が限度」。松本人志氏によると、「コントは30分でも思いつくが、本当に面白い漫才はどうやっても1ヶ月はかかる」そうです。彼らほどの人が言うのですから、事実そうなのでしょう。この《フーガの技法》所収の各曲は、作り込まれ練り上げられた「本当に面白い漫才」に匹敵するかと思われます。
  各曲の最初に出て来る旋律は「主題」と呼ばれ、これが漫才のボケにあたります。主題は、形を変えて何度も繰り返されます。世間に対して主題(ボケ)を分かりやすく解(ほぐ)すのが、対句(ツッコミ)です。逆に言うと、ツッコミを観察することによって、ボケに何を言わせたかったかを推定出来ます。フーガとは、面白い発想の話題に基づいて数人が雑談している光景です。
  声と声が「会話」をしている部分と、その間にある「ト書き」「余談(くすぐり)」部分の境目がはっきりしていなかったり、二人の声で一人、あるいは一人で二人の声を思わせる動きなどは、落語と一緒です。地味なお題(ボケ)の形を少しずつ変えながら、次から次へとネタを広げていくのは、まるで大喜利(おおぎり)(笑点)です。
  
━━━クラヴィコードとは、どんな楽器ですか。
A. あらゆる楽器の中でバッハが最も愛奏し、息子達にも手取り足取り教えたのが、このクラヴィコードでした。打鍵した音の減衰が早く、離鍵した音の余韻が長い、という点で、音色はチェンバロに似通っていますが、チェンバロでは出来ない、声楽的な強弱・ニュアンス付けが可能です。ただ、タッチのコントロールが至難であり、また音量が非常に繊細なため、もともとクラヴィコードを想定して書いた作品群は、コンサートではもっぱらチェンバロで演奏されてきました。現代のピアノのような、延音ペダルはついていません

c0050810_16113421.jpg━━━ピアノとクラヴィコードでは、弾き方は違うのでしょうか。
A. クラヴィコードといってもピンからキリまであります。028.gifこのディスクで使用したような、歴史的モデルに忠実な楽器であればあるほど、ピアノでもチェンバロでもオルガンでも無い、「クラヴィコードそのもの」の奏法が要求されます。 叩けばとにかく音は出る現代のピアノに比べると、まるでバスケのスリーポイントシュートを千発連続成功させるようなキツさです。ミクローシュ・シュパーニが示唆してくれた、グリーペンケルの方法論は大きな啓示でした。現在はそこから発展させて、自分なりの奏法を模索しています。「クラヴィコードが上手く弾ける人はフリューゲル(チェンバロ)もうまいが、その逆は有り得ない(aber nicht umgekehrt.)」、というエマヌエル・バッハの言葉に、我々は今一度向き合わなくてはならないでしょう。

━━━ピアノやチェンバロではなく、クラヴィコードで演奏する理由とは。
A. 通奏低音(コンティヌオ)抜きのコンソート合奏には、話芸の流れに沿ってカメラがパンされていないもどかしさを感じます。現代楽器か古楽器と問われれば、音色の絶対的優越性から後者を採ります。天然鯛を捨てて養殖ティラピアを好む人はいないでしょう。また、《平均律》や《フーガの技法》のような、中音域で声部が重なり合っている対位法作品は、チェンバロやオルガンには馴染みません。ボケが拾いにくく、ツッコミもしにくく、風景が見晴らせないからです。
   控えめな理由としては、コントラプンクトゥス第12番の長10度が、クラヴィコードならギリギリ掴めることが挙げられます。チェンバロやオルガンでは無理でした。

c0050810_16243346.jpg━━━楽器の音量が小さいとなると、このディスクを再生するときも、ヴォリュームを絞って聴いたほうが、クラヴィコードらしさを味わえるのでしょうか。
A. その必要は一切御座いません。
   星空を眺めるとき、瞳が暗闇に慣れるまで約20分ほどの時間がかかりますが(暗順応)、一方、明るさに慣れるのはその何倍も早いものです。東スーダンの森林地帯に住むマバーン族のような信じ難い聴力を持ち合わせるならともかく、現代社会に生きる我々には、クラヴィコードから数歩離れればそのニュアンスを充分に味わうことは敵(かな)いません。
   ライヴでは実現しにくい音像、という点では、クセナキスのピアノ協奏曲も同様です。ディスクだと明瞭に聞き取られるピアノ独奏部は、実際にはオーケストラの法外な咆哮に掻き消されがちです。クラヴィコードを数名ないし数十名の聴き手の前で演奏する際、どうしても楽器をよく「鳴らす」ことに意識が注がれますが、録音マイクに対しては囁きかけるだけで充分です。 その微(かす)かな囁きに、電車の中でも気軽にランダムアクセス出来るのは、21世紀ならではでしょう。奏者の鼻息が気になる方もおられるやしれませんが、「クラヴィコードの録音はこんなもの」(>ポトフリーヘ氏)だそうですので、どうぞ御容赦下さいませ。

c0050810_1617088.jpg━━━現代のピアノでバッハを弾くのは、意味が無いことなのでしょうか。
A. 現代のピアノは洗練の行き着く先とも言えるし、末生り(うらなり)のカボチャとも言えます。昨日の淵を今日の瀬としていた息子たちに、父バッハが「私とともに歩まぬ者は私に背(そむ)く者である」、と色を作(な)したとは思えません。
  一方、モダンピアノ奏者が古楽器を弾くと、指先から出て来るのは所詮モダンピアノの音であるのも事実です。すなわち、奏者の頭の中で響いている音が指先からこぼれ出すだけですので、つづまるところインターフェースが何であるかは問題ではありません。現代作品を演奏する者として、作曲様式に対応する演奏様式の取捨選択には、出来る限り敏感でいたいと思っています。恐ろしいことに、それは「聞けばすぐ分かる」ことですから。

━━━使用楽器について。
A.  今回使用したのは、ベルギー・トーレムベークに工房を構えるヨリス・ポトフリーヘ(Joris Potvlieghe)氏による、ザクセン式5オクターヴ専有弦モデルのクラヴィコードです。余談ながら、このディスクの録音セッション前日には、彼の工房で、同じ楽器を使ってグスタフ・レオンハルト氏が初期バロック音楽によるサロン・コンサートをなさってました。
   ポトフリーヘ氏の楽器の評価の高さは、その表現力の豊かさに因ります。しかしながら、それは楽器の「弾き易さ」には直結していません。氏曰く、「いつもそれで悩んでいる」。 あくまで「表現力のある楽器」こそが良い楽器なのであって、チェンバロあるいはピアノの打鍵法で手軽に音の出る「弾き易さ」は、楽器そのもののクオリティとは無関係なのでしょう。残念ながら、日本にはまだ納品したことが無いそうです。

c0050810_1617388.gif━━━使用稿やエディションは。
A. 初版譜と自筆譜を手元に置きつつ、新バッハ全集版(NBA)の最終稿です。演奏解釈そのものについて語られるよりむしろ、作品の成立経緯や使用エディション、調律法といったトピックに興味が集まりがちなのは、理解に苦しみます
   なお、いわゆる「初稿」は、細部を含めて明らかに推敲前の未決定稿に過ぎず、論点とするのはむしろバッハに失礼だと思います。あの素晴らしいコントラプンクトゥス第4番が存在しなかったり、第10番に血の気が通ってなかったりするだけでも遺憾です。幾つかの旋法的な箇所には惹かれますが、結局バッハは朱を入れたわけですから。

━━━未完のフーガについて。
A. ブゾーニ《対位法的幻想曲》を愛奏していることもあり、割愛するに忍びません。私は作曲家ではないので、「どうして自分で補筆しないんですか?」という質問から免れられるのは有難いことです。この二百年間に書かれた様々な補作例を十数個試してみましたが、いきなり音楽の強度がトコロテンのように腰砕けになるものばかりでした。長らく対位法学習のモデルが大バッハであり続けているにも拘らず、これは驚くべきことです。もっとも、ミロのヴィーナスのように、明らかに「破損」が前提となっているものの補綴でも、どうしても違和感がぬぐえないものなので、そもそも勝算は無いのかもしれません。
  中断されること自体より、ある種の効果が見出される、という点では、小泉八雲《茶碗の中》を思い出します。そういえば小林正樹によって映画化された際、音響担当の武満徹は薩摩琵琶の音をあしらいましたが、クラヴィコードの音色に相通ずるものがありますね。

c0050810_16194258.gif━━━最後のコラールについて。
A.  このディスクを収録した修道院には、ポトフリーヘ氏製作によるバロック・オルガンが所蔵されています。ボーナストラックとして、このコラール前奏曲を別途オルガンで録音するつもりでしたが、残念なことにペダル鍵盤数が足りず、断念致しました。言うまでも無く明らかにオルガン用に書かれており、また、明らかにこの曲集とは内容的に無関係ながら、いまわの際に口述筆記させたとなると、案外それはクラヴィコードを使ったのでは、などという想像もあり、あえて収録した次第です。オルガンで演奏された際、しばしばリード管によるカントゥス・フィルムス(定旋律)が余りにも前面に出過ぎ、フルー管によるその他の声部の「ツッコミ」が日陰へと押しやられる慣行への違和感もありました。宮廷や教会から帰宅し、当盤のCDジャケットのようにカツラを脱いでくつろいでいる、等身大のバッハのイメージです。

c0050810_1620824.jpg━━━このディスクでの解釈や試みについて、何かコメントはありますか。古楽的アプローチをなさっているのでしょうか。聴き手として、何か意識する必要がありますか。
A.  そのまんま、聞いてくだされば良いと思います。
   昨今、「古楽アプローチ」というと、表現上でのある種のバイアスを意味することが多いようですが、本来は「自分の頭で考えてみよう」、というムーヴメントなはずです。古物営業法違反の疑いで逮捕されるならともかく、実体の無い「正調お古楽」の名取を目指して精進するのも空しいことです。
  私は日本人ですから、硬直したアーリア・モデルを恭しく踏襲する義理もありません。身の丈を忘れて仰々しく吟じれば、大作曲家への尊崇を表したことになるのでしょうか。また、最晩年の作品だからといって、まるで《タイタニック号の沈没》のような高踏的身振りや、ニ短調の嘆きの谷で涙にくれてみせるのも、一切の弛緩が見られないあの恐るべき対位法の綾取りにはそぐわないと思います。個人的には、拡大された主題が後ろから迫り来る箇所など、黄泉比良坂(よもつひらさか)でイザナミに追い付かれたような恐怖を覚えます。
  大バッハがもっとも愛し、教育用にも最重要視した楽器のはずなのに、音楽学的研究はおろか、実践的演奏も寂々たる状態であるのは、憂うべきことです。なにせ、あらゆる鍵盤奏法の根幹、そして鍵盤楽器教育の基盤にかかわる問題なのですから。このささやかなディスクがその叩き台、パイロット盤となれば幸いです。
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by ooi_piano | 2013-04-14 15:48 | クラヴィコード様への五体投地 | Comments(0)