9/12(金) 「タコ4」二台ピアノ版・日本初演

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c0050810_1956424.jpg浦壁信二(pf) × 大井浩明(pf)

2014年9月12日(金)19時開演(18時半開場)
公園通りクラシックス
全自由席 3,000円  チラシpdf

■ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
■スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版、日本初演)[単一楽章、約20分]

■FBイベントページ



浦壁信二 Shinji URAKABE
c0050810_2011146.jpg  1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
  ’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
  ’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集」(第4・第5・第7ソナタ《白ミサ》、2つの詩曲Op.32、8つのエチュード集Op.42、3つの小品Op.52、アルバムの一葉Op.58、2つの詩曲Op.71)をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
  ‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。 浦壁信二インタビュー http://psta.jp/topics/interview/index7.html

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ショスタコーヴィチ:交響曲第4番「二台ピアノ版」をめぐって ――工藤庸介

【ショスタコーヴィチの音楽に内在する三層構造】

c0050810_2023396.gif  ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)の名が、とりわけその15曲に及ぶ交響曲によって、20世紀の音楽史に燦然と刻まれることに異論はないだろう。近年では演奏会で取り上げられる頻度も高く、紛れもなく現代の人気作曲家の一人と言ってよい。
  ドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』などの文学作品と同様に、ショスタコーヴィチの作品の多くは「象徴層-物語層-自伝層」の三層構造を有している。一見つながりのなさそうな素材や、個々に完結しているように思われる楽句を、相互に関連させつつ統一感を持たせて構成することに長けていたショスタコーヴィチは、ソナタ形式をはじめとする楽曲形式を使いこなすことで、劇的かつ具体的な物語性を持った作品の数々を創り出した。そこで呈示される、ときに視覚的なイメージすら喚起する明解なプロットは、その明解さゆえに国や時代の枠を超えた普遍的な想念を象徴する。今日ショスタコーヴィチが世界中で広く受容されているのは、この「象徴層-物語層」が現代の聴衆に対しても強い訴求力を持つことの証左であろう。
  とはいえ、この二層についてだけ言えば、多分に個性的ではあるものの、ショスタコーヴィチだけに固有な構造ではない。ショスタコーヴィチを特別な存在たらしめるのは、これらと全く異なる次元で展開する個人的な体験の独白である「自伝層」である。熱心なファンにとっては、作品に潜在する自伝的要素を解読することこそがショスタコーヴィチを聴く醍醐味なのだが、一方でそれが強調されるあまりに作品が歪んで理解されることも少なくない。
  交響曲第4番は、作曲の過程や初演に至るまでの謎に満ちた紆余曲折にショスタコーヴィチの生きた時代と社会が色濃く刻印されているという点で、この「自伝層」が過大にクローズアップされてきた作品の一つである。そこで本稿では作曲の経緯を時系列で辿り、この交響曲がどのような状況下で書かれたのかを整理することから、作品の理解、解釈を図りたい。また、作曲者自身による二台ピアノ用編曲の意義についても考察する。


【作曲の経緯】

c0050810_204319.jpg  交響曲第4番についてショスタコーヴィチが公的に初めて言及したのは、1934年11月5日に発表された記事においてである:「交響曲第4番の第1楽章に着手したが、一時的に中断している」(当該記事は『ショスタコーヴィチ自伝』に収録されているものの、そこではこの一文は省略されている)。さらに年末(12月28日)には、次のように述べている:「わたしは(中略)来年の自分の基本的な仕事となるだろう第四交響曲に思考と『野心』を集中することができればと思っている。これは大きな思考力と大きな情熱とを要する記念碑的な、標題楽である。したがって、大きな責任を負っている。多年わたしはその構想をねってきたが、まだその型式と『技術』には手をそめなかった。これまでの準備とデッサンに満足できなかったからである。あらためてそれに取りかからなければならない」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.55)。
  翌35年はじめ(1月14日)にも「第四交響曲との大きな仕事に集中したいと思っている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.58)と繰り返し表明しており、ショスタコーヴィチにとっては初めて自発的に作曲に着手する本格的な交響曲(第1番は音楽院の卒業作品、第2番は革命10周年を記念する委嘱作品)に対する、並々ならぬ意欲を窺うことができる。
  2月には親友のソレルチンスキイが「現在ショスタコーヴィチが作曲中の交響曲」に対する期待を語ったりしているものの、4月の時点ではまだ「わたしは、自分の仕事の一種のクレード(綱領)となるような第四交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしているところだ」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.61)、「いまやわたしは第四交響曲という大きな仕事にとりくんでいる。このところ、バレーや映画音楽のために、交響曲の分野ではおくれをとった感じがしている。交響曲は作曲家のなかでは一番むずかしい、一番重要なものである。(中略)この交響曲のこと、その性格やテーマについては、まだ何もいうことができない。これまであたためてきた音楽的材料は、この作品のためには一つも使われず、まったく新らしく書きはじめている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.64)、といった発言に留まっており、実質的には作曲が進捗していないことがわかる。
  現在知られている交響曲の形にまとまるまでに、様々な試行錯誤があったことを裏付けるように、現在知られている交響曲とは全く異なる素材のスケッチが遺されており、その中にはオーケストレイションまで施された冒頭部分の断片(1934年11月5日の日付があり、作品番号も別のものが与えられている)もある。これら一連のスケッチは、ロジェストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省交響楽団によるLP(Melodiya A10 00319 000)の余白に収録された、同氏による成立過程のレクチャーで聴くことができる他、冒頭部分の断片にはロストロポーヴィチ/ロンドン交響楽団によるライヴ録音CD(Andante SC-AN-4090)も存在する。
c0050810_2051781.gif  結局、ショスタコーヴィチが第1楽章に着手するのは1935年9月13日のことである。10月末には展開部までが出来上がり、12月初めに第1楽章が完成したと伝えられている。ソレルチンスキイに宛てた1936年1月6日の手紙には、数日前に第2楽章が完成したと記されている。歌劇「ムツェンスク群のマクベス夫人」作品29に対する論説「音楽の代わりに荒唐無稽」(同年1月28日)、そしてバレエ「明るい小川」作品39に対する論説「バレエの偽善」(2月6日)がプラウダ紙に掲載された(いわゆる「プラウダ批判」)のは、この後のことである。すなわち、第1楽章に着手してから第2楽章が完成するまでの間に、楽曲の内容を左右するほどショスタコーヴィチ自身に影響を及ぼしたと思われる出来事は、何も起こっていない。強いて言うならば、1934年12月1日にレニングラード・ソビエト議長を務めていたキーロフが暗殺され、実行犯は年末までに処刑されているが、これも第1楽章がほぼ完成してからのことである。
  プラウダ批判にショスタコーヴィチが煩わされたのは確かなようだが、後年のジダーノフ批判とは異なり、公衆の面前で批判されるような集会の場に参加することはなかったため、交響曲の作曲にはそれほど影響しなかったようである。第3楽章の完成は4月26日頃と考えられている(友人のチェロ奏者クバツキイに宛てた手紙より)。
  5月30日には、ロシアへ演奏旅行で訪れていた指揮者のクレンペラーと会い、その際に自身のピアノ演奏(この時点で二台ピアノ用編曲は仕上がっていなかったと思われる)によって交響曲が披露された。親友ソレルチンスキイの他、指揮者のシュティードリやガウク、ピアニストのオボーリンらがその場に居合わせたと伝えられている。この日の未明、長女ガリーナが生まれた。


【初演の撤回】

c0050810_2054982.gif  交響曲の完成後、すぐに初演の準備が進められ、シュティードリ指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団による初演が1936年12月11日に予定された(DSCH社刊の作品全集第19巻の解説では11月21日とされている)。1933年にヒトラーから逃れてソ連に亡命してきたウィーン生まれのシュティードリが、どのようにこの作品に取り組んだのか、今となってははっきりと分からない。ヴォルコフ著の『ショスタコーヴィチの証言』では相当投げやりなリハーサルを行なったように書かれているが、シュティードリはマーラーと知己があっただけにこの作品を大変気に入ったという説もある。はっきりしているのは、2回目のリハーサルの後、ショスタコーヴィチが初演の中止を決定したということである。
  現在では、党あるいは作曲家同盟から圧力を受けたレニングラード・フィルハーモニーの責任者レンジンの説得によって、ショスタコーヴィチが不本意ながらも初演を撤回したという説が有力である。第1回モスクワ裁判は1936年8月に行われており、「形式主義がぎっしり詰まった、とてつもなく難解な交響曲を書いたという噂」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.127)が広まっている中で初演を強行することに、ショスタコーヴィチが身の危険を感じたとしても不思議ではない。シュティードリは1937年にソ連を去ったため、不自然な初演撤回の理由に、そのリハーサルの混乱が利用されたようだ。
  後述するように、ショスタコーヴィチ自身の手による二台ピアノ用編曲で交響曲自体は既に広く知られていたため、その存在までが抹殺されることはなく、1937年末に初演された次の交響曲は「第5番」とされた。


【25年後の初演】

c0050810_2091620.jpg  スターリン死後の1956年にショスタコーヴィチは、さりげなく「第四交響曲も失敗で、オーケストラで演奏もされなかった。わたし自身は、それでもなお、この総譜のなかのあちこちが気にいっている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.260)と述べている。初演撤回後も、機会がある毎に初演の可能性を求めて奔走していたという話もあり、少なくともショスタコーヴィチ自身にこの交響曲をお蔵入りにする意思はなかったようだ。実際、右手の不調で入院していた時にグリークマンへ送った1958年9月19日の手紙では「この間、自作のオペラ『マクベス夫人』や、交響曲第四番のことばかり考えています。どんなにかこの耳で聴きたいものか、そう思っては心の耳でこれらの曲を通しで演奏しています。(中略)交響曲第四番の演奏は成功するものと確信しています」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.280)と述べている。
  この「幻の交響曲」に転機が訪れたのは、1960年頃のことである。モスクワ・フィルハーモニーの芸術監督グリンベルグが、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になったばかりのコンドラシンに「まだ一度も演奏が行なわれていないショスタコーヴィチの交響曲第4番を取り上げてみないか」と話を持ちかけた。この時点で既にスコアは紛失していたが、アトヴミャーンが残されたパート譜からスコアを復元し、ピアノ連弾用の編曲を作成していた。コンドラシンはこの連弾譜で作品に目を通した上で、初演を引き受ける決心をした。この楽譜は印刷が不鮮明な上に表情記号や速度記号がかなり欠落した粗悪なものだったようだが、コンドラシンによる初演にショスタコーヴィチが同意した際、ショスタコーヴィチ自身による二台ピアノ用編曲の楽譜を手渡されたと、コンドラシンは回想している。
  そして1961年12月30日、モスクワ音楽院大ホールでついに初演が行われた。初演は大成功を収めたと伝えられている。初演撤回から、実に25年の歳月が流れていた。


【交響曲第4番 ハ短調 作品43】

c0050810_2094819.jpg  ここまで整理してきたように、この交響曲の作曲期間中に起こった政治的な事件は、第1楽章完成後のキーロフ暗殺と第2楽章完成後のプラウダ批判だけである。前者については「セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフの卑しくも汚らわしい殺人は私だけでなく、ほかのすべての作曲家たちに、彼の記憶にふさわしい作品を書くことを強いる」(亀山郁夫『磔のロシア』, p.223)という型通りの文言はあるものの、これに相当するような作品をショスタコーヴィチは遺していない。また、プラウダ批判を受けてショスタコーヴィチは芸術問題委員会(のちの文化省)に出頭し、その時のやり取りはスターリンへ極秘に報告もされたが、後年のジダーノフ批判とは異なって公然とショスタコーヴィチを擁護する著名人もおり、少なくとも社会的に抹殺されるような状況ではなかった。
  ちなみに、ショスタコーヴィチのパトロンでもあったトゥハチェフスキイ元帥が逮捕・処刑されたのは1937年6月のことで、大粛清のピークも1937年から翌38年にかけてである。
  したがって、1936年末に予定されていた初演の撤回の背景にソ連社会の不穏な空気を読み取ることは故無しとしないが、交響曲の少なくとも第2楽章までの内容にその種の社会的事象をことさらに反映させて解釈することは適切でないと筆者は考える。

c0050810_20112550.jpg  虚心坦懐にこの交響曲を聴けば、「自分の仕事の一種のクレード(綱領)」というショスタコーヴィチの言葉通り、これまでに彼が培ってきた音楽的な嗜好が総括され、以後の創作の根幹を成す大規模な楽曲を構成する手法が確立されていることがわかる。
  嗜好という点では、ショスタコーヴィチの初期作品に顕著である前衛的な響きへの傾倒とポルカやワルツのような通俗的な音楽の多用が、当時熱中していたといわれるマーラー風な体裁の中に詰め込まれている。マーラーからの影響は、第1楽章コーダの「郭公の動機」や第2楽章トリオのレントラー舞曲、第3楽章冒頭の葬送行進曲などの形で、直接的に仄めかされている。この交響曲の作曲中、ショスタコーヴィチの手元にはマーラーの第3番や第7番の楽譜が置かれていたとも伝えられる。楽曲形式上は両端楽章に比べるとはるかに簡素な第2楽章が、響きやリズムの面白さの追求という点で徹底しており、後の交響曲第6番 作品54の第2楽章や交響曲第9番 作品70の第3楽章などに通じる。
  楽曲構成の点では、特にソナタ形式の巧みな扱いが注目に値する。第1楽章は、ほぼ型通りのソナタ形式だが、展開部に挿入される猛烈なフーガは異質な素材(ただし、フーガ主題は第1主題から派生している)であるだけに楽曲の様相を一変させ、巨大なクライマックスを築く。展開部への異質な音楽の挿入は、交響曲第7番 作品60の第1楽章をはじめとする後年の交響曲の数々でショスタコーヴィチが好んで用いた手法である。第3楽章もソナタ形式の延長で捉えることができる。冒頭の葬送行進曲(第1主題)に続いてスケルツォ風の音楽(第2主題)がクライマックスを迎えると、第1楽章のような展開部を期待する聴き手に肩透かしを食らわせるかのように突如としてバレエのディヴェルテスマン風のメドレーが繰り広げられる。これは、交響曲第3番 作品20で実験的に用いられた、同じ旋律を繰り返し用いることなく、ひたすらわかりやすい旋律を次から次へと並べていく手法を発展させたものと考えられる。その後、気分に変化がないまま第2主題が再現され、壮大なコラールの中で第1主題が再現される。再現部で主題提示の順序が逆転するアーチ型のソナタ形式は、ショスタコーヴィチが得意とした手法である。結尾部はチャイコフスキイの「悲愴」終楽章コーダと同じ形のバッソ・オスティナートに導かれ、不思議な余韻を残しつつ消えるように終わる。

c0050810_20114823.jpg  この第3楽章コーダについてだけは、ここまで意図的に避けてきた文学的な解釈の可能性を記しておきたい。
  一つ目は、筆者が指揮者の井上道義氏から示唆していただいた、練習番号255、256、259の3カ所に現れる「H-A-C」音型である。この音型は全曲を通して登場する様々な動機とは無関係にもかかわらず、全曲の終わりになって突如として意味ありげに現れる。この3文字をロシア語読みすると「われら(主格はмыで、насは生格/対格)」という意味になる。これをザミャーチンの『われら(Мы)』(1921年)と関係づけるか、あるいは『ショスタコーヴィチの証言』の第4章、アメリカ訪問のくだりで出てくる「彼(スターリン)は『われわれ』というように自分のことを呼んでいた」(中公文庫版, p.263)という一節と関係づけるか、いずれにせよプラウダ批判に対する何らかのメッセージと考えることも可能だろう。
  二つ目は、最後にチェレスタが静かに奏でる「A-D」の2音である。交響曲第5番の終楽章コーダでは強奏でA音が連呼された後、D音のユニゾンで曲が閉じられる。指揮者のハイキンはショスタコーヴィチが「この交響曲(筆者注:第5番のこと)の最後は、フォルティッシモで長調にしました。誰もがそれを楽天的で、人生を肯定する交響曲だと言っています。でも、もし短調のピアニッシモで終えたら、みんな、どう言うのでしょうね」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.137)と語ったことを回想しているが、ピアニッシモ/フォルティッシモ、短調/長調の違いだけで、第4番と第5番が同じ音名象徴で終えられていると考えるならば、第5番と同様の私小説的な解釈が第4番でも成立し得ることになる。それは、1934年から翌年にかけてのショスタコーヴィチの道ならぬ恋である。妻ニーナとは離婚の危機を迎えたが、1935年秋にニーナの妊娠が判明したことで、この不倫関係は清算された。これは交響曲第4番に着手する直前のことである。翌36年はじめに密告によって、不倫相手の女性が投獄される。「音楽の代わりに荒唐無稽」が掲載された1月28日に、ショスタコーヴィチは彼女の不幸について手紙の中で言及している。この不倫相手の愛称が「リャーリャ(Ляля)」であることからA音=ラ(Ля)が彼女を象徴しているという説を採ると、D音をDmitryだとすれば、「A-D」音型にはこの実を結ぶことのなかった恋が象徴されていると考えることも可能だろう。


【作曲者による二台ピアノ用編曲】

c0050810_20123511.jpg  上述した第3楽章の完成を伝えるクバツキイ宛ての手紙で、ショスタコーヴィチは交響曲の二台ピアノ用編曲に直ちに取り掛かる旨を記している。いつ完成したのかは定かでないものの、初演撤回後も著名な作曲家達がこの編曲で交響曲を知ったという記録が残っている。たとえばミャスコフスキイが1936年12月22日の日記に音楽学者のラムとこの交響曲を試奏した際の感想を記しているし、指揮者のハイキンは1937年の交響曲第5番の初演直後に交響曲第4番を(おそらくこの編曲で)聴いたと回想している。1945年には仲間内で初演の可能性を探る過程で、ショスタコーヴィチ自身が友人の作曲家ヴァインベルグとこの編曲を演奏したことも知られている。
  このように、二台ピアノ用編曲は交響曲第4番を幻の作品として埋もれさせないための重要な役割を果たした。しかしながら一般にこの編曲が流布する機会には恵まれず、1946年に写真製版で限定的に出版された(編曲者名は表記されず)ものの、直後の1948年に起こったジダーノフ批判に伴って回収・破棄の憂き目にあった。ショスタコーヴィチの遺族が中心となって設立されたDSCH社によって出版されたのは、2004年のことである。出版と同時にハイルディノフとストーンのデュオで世界初録音がなされた(Chandos CHAN 10296)。

c0050810_20151024.jpg  オーケストラ・スコアの自筆譜が紛失しているため(自筆譜を入れた旅行鞄をガウクが紛失したと伝えられているが、1961年の時点ではガウクの手元にあった可能性も指摘されている。いずれにせよ、現時点で自筆譜の存在は確認されていない)、1961年の初演時に復元されたスコアと二台ピアノ用編曲との間には、メトロノーム表示を中心にいくつかの齟齬がある。本日の演奏で用いられるDSCH社刊の作品全集第19巻では、これらの差異について一定の整合が図られているが、音符そのものはショスタコーヴィチが書き記したものが尊重されている。
  作曲に際してピアノを使わなかったといわれるショスタコーヴィチにとって、ピアノ用の編曲というのは基本的にデモ・テープのような意味合いが強い。しかし、幻となってしまった気鋭の作曲家による最先端の交響曲を知る唯一の手段が、四半世紀に渡って二台ピアノ用の編曲しかなかったこの交響曲の場合は、むしろこの編曲こそが作曲当時の熱気を現代に伝えるフォーマットとも言えるのではないだろうか。
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by ooi_piano | 2014-09-02 01:50 | コンサート情報 | Comments(0)