6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

8/31(日)公演 平野貴俊氏寄稿(その1)

「五線譜という鳥籠――メシアン《鳥のカタログ》をめぐって」  (平野貴俊)

その1その2その3) 8/31公演・演奏曲目
「《まなざし》をめぐるもうひとつの聖三位一体――メシアン、トエスカ、ドン・コルンバ・マルミオン」
平野貴俊
 +脚注

c0050810_717116.jpg  鳥の歌への関心を学術的なレヴェルで最初に示したのは、18世紀フランス百科全書派の博物学だった。博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール別名ビュフォン伯爵(1707-1788)は、『一般と個別の博物誌』(註1)の第16巻から第24巻をなす『鳥類博物誌』(1770-1783)で、アトリの歌を次のように説明している。「アトリはとても快活な鳥である。[…]その歌を分析するのは面白い。前奏のあと速くなり、終止音がある」(註2)。興味深いことに、メシアンもこれとよく似た言葉でアトリの歌を説明する。「アトリの歌は活気に満ち、だんだん速くなり、それぞれの個体は固有のコデッタをもつ」(註3)。フランスで鳥の歌を記譜する試みが学術的なレヴェルで始まったのは、1917年、総合心理学学会によって『音楽との関連における鳥の声と歌の研究への一考察』が公刊されて以降である(註4)。ここではズグロムシクイの声のアルファベットによる表記、サヨナキドリの声の記譜が掲載され、これがきっかけとなって「鳥類旋律図示学 ornithomélographie」という研究分野が生まれた(註5)。ただ、作曲家がその成果を援用することができる段階まで研究が進展した形跡はない。

c0050810_3133340.gif  西洋芸術音楽におけるいわゆる「鳥の音楽」の系譜は、14世紀のジャン・ヴァイヤン(1360-90ころ活動)、ジャクマン・ド・サンレーシュ(1382-3ころ活動)によるヴィルレー(註6)、16世紀のクレマン・ジャヌカン(1485-1558)らのシャンソンとマドリガルにまでさかのぼる(註7)。チェルニーによれば、ベートーヴェン《交響曲第5番「運命」》冒頭の4音はキアオジ(《鳥のカタログ》第7巻第11曲〈ヨーロッパノスリ〉に登場)の歌を下敷きにしている。鳥の歌が単発的に使用された作品は無数に存在するが、メシアンの周辺をたどっていくと、同世代のジョン・ケージにライヴ・エレクトロニクス作品《電話と鳥》(1977)があり、メシアンの教え子ミカエル・レヴィナス(1949-)にはオペラ《鳥の会議》(1985)、同じくメシアンの弟子フランソワ=ベルナール・マーシュ(1935-)の《ソピアナ》(1980)がある。《ソピアナ》はフルート、ピアノ、鳥の歌を録音したテープのための作品で、マーシュはメシアンの関心を受け継ぐかたちで動物音楽学 zoo musicologyを提唱するに至っている。シュトックハウゼンの《クラヴィーア作品第14番「誕生日のフォルメル」》(1984)は、ブーレーズの生誕60年を記念した作品で、《リヒト》でセキセイインコを演じたピエール=ロラン・エマールが初演している。ブーレーズ、エマールの師ロリオはともにメシアンの弟子である。日本の作曲家も鳥を愛用してきた。メシアンに師事した吉田進は、蝉の声を用いた《カナカナ》(1976)と《空蝉》(1979)を発表し、それらを聴いたメシアンは吉田に賛辞を送っている。20世紀の邦人作曲家の作品のタイトルに頻出する語を調査した沼野雄司によれば、「鳥」は「時」に次いでもっとも頻繁に用いられているという(註8)。メシアンが鳥をインスピレーションの中心的な源に据えていなかったら、武満徹、吉松隆、西村朗はこれほど「鳥」にこだわっていたであろうか(註10)。

自然、鳥の歌! 私はそれらを愛してやみません。それはまた心の糧です。暗い時分、私は突然自分の無能さに気づいてはっとします。古典派、異国、古代、現代、超現代、あらゆる種類の音楽言語は、忍耐強い探究の結果として出てきた立派な成果にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。音の背後には、それだけの労苦を正当化してくれるものなど何ひとつありません。森や田園、山々や海辺、鳥たちに囲まれたどこかある場所に、その忘れられた姿を見いだすほかないではありませんか。私にとって、音楽があるのはまさにそこなのです(オリヴィエ・メシアン)(註11)


c0050810_3134627.gif  メシアンが20代で作曲した《昇天》(管弦楽版は1932-1933、オルガン版は1933-1934)の第2楽章〈天を希求する魂の穏やかなアレルヤ〉、オルガン曲集《主の降誕》(1935)にはすでに鳥の歌が現れているが、スコアには鳥の種類が記されていない。鳥の名が現れる最初の作品は《時の終わりへの四重奏曲》(1940)で、その第1楽章では「クロウタドリとサヨナキドリが即興で」歌っているとされる(註11)。ただしこの時期の作品には、《鳥のカタログ》に見られるようなスコアへの仔細な書き込みがまだ存在しない。イヴォンヌ・ロリオ(1924-2010)との出会いに触発されて書かれた「演奏会用典礼三部作」(《アーメンの幻影》〔1943〕、《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》〔1944〕、《神の臨在の3つの小典礼曲》〔1943-1944〕)、人間同士の愛を扱った「トリスタン三部作」(《ハラウィ》〔1945〕、《トゥランガリラ交響曲》〔1946-1948〕、《5つのルシャン》〔1948-1949〕)を経て、1940年代の創作を締めくくったのは、かの有名な〈音価と強度のモード〉を含む《4つのリズム・エテュード》(1949-1950)であった。まもなくブーレーズは、〈音価と強度のモード〉に触発された《構造I》(1952)や挑発的な著述を通して、トータル・セリーこそ現代音楽の採るべき唯一の道であると喧伝した。しかしメシアンは、1952年にシェフェールのもとでミュジック・コンクレートを試しはしたものの(《音色‐持続》)、トータル・セリーと録音媒体を使った音楽のいずれにも十全な可能性を見いだせずにいた。
  こうした状況下で転機となったのが、ピアノと管弦楽のための《鳥たちの目ざめ》(1953)である。これはメシアンに野鳥観察の手ほどきをした鳥類学者、ジャック・ドラマン(1874-1953)の領地で書き記された38の鳥の歌「のみ」からなる作品であり、初演は失敗に終わったものの、これによってメシアンに新たな分野の開拓を続けることを決意した。メシアンはこの決心に至った過程を詳しく述べていないが、彼を鳥の時代へと導いた要因はひとつではないだろう。むしろその選択は、当時の「前衛」の潮流を背景として理解されねばならない。鳥の歌は、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、シェフェールといった現代音楽界の新たな主役のなかで、メシアンがみずからの立ち位置を明確に主張するための強力な切り札として提出された。シュトックハウゼンが電子音楽の創作を通して、トータル・セリーにおけるパラメーターの制御を究極的な精度で実現しようと試みたことは周知の通りである。これと同様にメシアンは、鳥の歌の採譜と加工という作業によって記譜の精緻化を推し進めることができた。パリ音楽院のエクリチュールを知悉するメシアンにとって、頭のなかに鳴り響く音、すなわち内的に聴こえる音を記譜することはきわめてたやすい作業だった。加えてメシアンは、パリ音楽院で彼に学んだ弟子たちが口をそろえて証言する通り、西洋・非西洋を問わずあらゆる音楽伝統のエッセンスを抽き出すことに長けていた。メシアンのまなざしは、こうして人間界には存在しない音響に向けられるようになったのである。この点でメシアンの選択はケージのそれに通じる。「あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです」(傍点ケージ)。自然界の音の導入はまた、ミュジック・コンクレートの実践とも共通する。メシアンは、パリ音楽院の授業で《鳥のカタログ》第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ〉を扱ったとき、クロジョウビタキの鳴き声を「紙をくしゃくしゃとしたときの音」にたとえ、ミュジック・コンクレートにおいてはきわめて効果的な素材となるだろうと述べる(註13)。加えて鳥は、予想されるように、「生まれながらにして信仰者」であることを標榜するメシアンにとって、神と作曲家を仲介する一種の使者の役割をも担った。「聖フランチェスコが鳥に説教するように、メシアンは鳥の説教に耳を傾ける」(註14)。鳥はまた、1940年代末のメシアン個人の信条を象徴する生物であるともいわれる(註15)。メシアンはしばしば戦争や核の使用に対して憂慮を表明しているが、1948年にはフランス初の核連鎖反応が実施され、1949年にはプルトニウムが初めて抽出された。当時の首相ヴァンサン・オリオルは、この進歩がフランスの栄光に寄与するだろうと誇らしげに語っている。このような状況を背景として、フランスでは1940年代にカトリックの復権を唱える書物が多く刊行された。1940年代末に書かれたオルガン曲集《聖霊降臨祭のミサ》(1949-1950)は、全体の24%が鳥の歌で構成されている。メシアンは鳥の歌が自由の象徴であるとしばしば語っており、1940年代末に同じくパリで活動していたピカソとダリも、やはり自由の象徴として鳥を自作に登場させている。メシアンとダリは、シュルレアリスムを高く評価しカトリックを信奉しているという点で共通しており、ダリとピカソはメシアンお気に入りの画家であった(註16)。
c0050810_718392.png  ブーレーズ率いるドメーヌ・ミュジカルのために書かれた《異国の鳥たち》(1955-1956)は、北南米を含む世界各地の鳥の寄せ集めであるが、メシアンはこれらの歌を実地で聴いたわけではなく、1942年にコーネル大学が製作したレコードを利用している(註17)。またこの作品では「調および旋法の枠に当てはまらない」和音、「色彩‐和音 accords-couleurs」(7-10音からなる音の複合体)が用いられている(註18)。こうしてメシアンは、調および旋法に代わりうるものとして「色彩」の概念を導入し、かつて『わが音楽語法』(1941)で定式化した「移調の限られた旋法 modes à transposition limitée」という軛からみずからの和声語法を解放したのである(註19)。《鳥のカタログ》の作曲を通してピアノにおける鳥の歌を探究したメシアンは、アルブレイシュが「鳥の10年 décade oiseau」(註20)とよぶこの転換期(1953-1963)の締めくくりとして、《クロノクロミー》(1959-1960)、《7つの俳諧》(1962)、《天の都の色彩》(1963)を作曲した。鳥の歌の洗練化と和声語法の深化の末に生み出された《天の都の色彩》は、《神の臨在の3つの小典礼曲》以来約20年ぶりに信仰がテーマとなった作品であり(註21)、メシアンはこの時点までに、鳥の歌と信仰の真理を同じ作品のなかで扱うことは矛盾しないという結論に達していた。20余年前の典礼三部作と鳥を結びつける構想が実現されたことで、これまでいくたびかの変転を経てきたメシアンの探究はひとつの円環を閉じるに至ったのである。

生まれながらの鳥類学者!......オリヴィエ・メシアンの母であり詩人のセシル・ソヴァージュは、1910年春アヴィニョンで、14か月の幼いオリヴィエを乳母車に乗せて歩いていた。オリヴィエはその小さな手で哺乳瓶をしっかりと握って飲んでいた。すると彼は、哺乳瓶を放して目を空のほうへ向けた。セシルも空を見つめたけれど、息子の幸福そうな微笑のほかには何も目に入らなかった。オリヴィエがじっと聴き入っていたのは、一羽の鳥の楽しげな歌だったのだ......彼の最初の先生が何の鳥だったのか、いまでは知る由もないけれど!......(イヴォンヌ・ロリオ)(註22)


c0050810_3142226.gif  メシアンが鳥の歌を初めて書き記したのは1927年、パリとバーゼルの中間辺りに位置するオーブ県フュリニーの叔母の家に滞在していたときだった(註23)。この年の8月にメシアンは母セシル・ソヴァージュ(1883-1927)を亡くしているが、《鳥のカタログ》の全曲初演が行われてちょうど1週間後の1959年4月22日には、最初の妻クレール・デルボス(1906-1959)がパリ近郊の療養所で亡くなっている(註24)。また、《鳥のカタログ》〈コシジロイソヒヨドリ〉の素材となる歌を収集するため、南仏エロー県に滞在していた最中の1957年6月、父ピエールがパリで亡くなった。このような事情を知ると、鳥の発見を通した語法の拡充は、皮肉な偶然によってメシアン個人の苦境と重なっているようにも思える(註25)。
  だが、1950年代以降の旺盛な採譜活動は、まもなく(2番目の、そして生涯の)伴侶となるロリオの助けを抜きにしてはあり得なかった。1950年代半ば、車の運転ができなかったメシアンのために、ロリオはルノーの小型車を購入して運転を覚え、デルボスへの見舞いにメシアンを連れて行くようになった。同時にこの慣行は、ヴァカンスを利用してフランス各地で野鳥観察の旅を行うことをも可能にした。鉛筆と五線紙を携え、ベレー帽を被って森のなかにたたずむメシアンの姿は有名だが、その背後にはテープレコーダーを携えたロリオの姿があったのだ。ロリオがメシアンの採譜に忠実に付き添っていたことは、ロリオがインタヴューや著述で採譜旅行のエピソードを好んで引き合いに出すことからも明らかである(註26)。「私たちが結婚する前のことです。私はメシアンを小さな車に乗せてよく田舎へ行きました。彼は明け方の合唱を聴くために、干し草の山や納屋のなかで夜を過ごしていたんです」(註27)。2人が結婚したのは1961年4月。フランス各地を周遊した採譜旅行を一通り終え、ロリオが《鳥のカタログ》全曲初演を行ってから約2年が経っていた。鳥はメシアンにとって、親族の喪失という痛ましい出来事を想起させる存在である同時に、ロリオというミューズから受け取る新たなインスピレーションの象徴でもあった。メシアンがとりわけ好んだ鳥のひとつ、ニシコウライウグイスのフランス語名がロリオ(Loriod)と一字違いの Loriot であるというのは何という偶然だろうか。

c0050810_3151776.gif  メシアンの採譜は基本的に実地で行われたが、屋内で録音を聴きながら丁寧に書き写すこともめずらしくなかった。同時に多数の鳥の声が聞こえるときは、一度にすべての歌を書き留めることは不可能なので、何日かに分けて一種類ずつ書き記したという(註28)。メシアンは「科学的で精確な鳥の歌の記譜を行った最初の作曲家」をもって自任していたが(註29)、その功績は録音機器によって支えられてもいたのだ。しかし、採譜を始めてまもないころは録音機器を使っていなかったためか、メシアン研究の先鞭を付けたジョンソンやアルブレイシュは(註30)、採譜は耳だけをたよりに行われていたと伝えている。ブーレーズでさえ、メシアン生誕100年に際したオマージュのなかで「メシアンの耳の鋭さを考えれば、彼は実地で鳥の歌を採譜したのだろう」と言っている(註31)。メシアンは採譜を本格的に開始した当初、素早く書き留めるためのメモ帳と清書用のノートを分けて使っていた。ノートは全部で200余りにおよぶが、現在その一部はフランス国立図書館に所蔵されている。
  メシアンが記譜の「忠実さ」を重視したことは、録音機器を使用していた事実からも明らかであるが、典拠となったレコードが判明している《異国の鳥たち》のような場合を除き、その記譜がオリジナルに果たしてどれほど「忠実」であるのかを疑う人も少なくない。イギリスの作曲家トレヴァー・ホールド(1939-2004)は、早くも1971年にその忠実性に疑問を呈し、録音された鳥の歌のスペクトログラムをメシアンの記譜と対比しながら、メシアンが鳥の声をいかに歪曲しているかを示している(註32)。「鳥の歌のモデルに忠実たらんとすれば、ピアノほどその目的に適さない楽器が選ばれるはずはない」(註33)、メシアンは「鳥を自由に歌わせるのではなく、籠のなかに閉じ込めることに成功したのだ」(註34)。メシアンもその限界は承知していた。「鳥のことをほんとうに知っている人のなかにも、私の音楽を聴いて何の鳥が使われているのかわからないと言う人がいます。ですから私は間違えているのかもしれません。しかしそれでも、そこには真実しかないと断言できます。聴いたのはあくまで私なのです。何か私なりのもの、私自身の歌の聴き方、書き取り方がそこに入り込んでしまっているのでしょう」(註35)。

c0050810_752432.gif  客観性と恣意性とのアンビヴァレンスは、鳥の記譜のみならず、メシアンの大著『リズム、色彩、鳥類学の総説』(1949-1992、7巻8冊〔鳥の歌を扱った5巻は2冊に分かれている〕、全3289ページ)にも現れている。本書の分析と例示がくどいまでに冗長なのは、その目的が紛れもなく読者を啓蒙することにあるからだ。しかし同時に、学術的とよぶにはほど遠い詩的な独白が頻出することも確かである。鳥の歌の扱いについても同様のことがいえる。鳥の歌は1940年代の作品で早くも様式化されているが(註35)、この時期の鳥の歌はあくまで「鳥の歌風」のフレーズにすぎず、実地で書き取られた歌はそこには含まれていない。その後、実地踏査する「鳥類学者メシアン」の誕生に伴って、これらの鳥は緻密な分類・整理の対象となったのである。「カタログ化」は、メシアンがみずからの音楽語法を確立するうえでの常套手段だった。実質上の処女作《前奏曲集》(1928-1929)から一貫して用いられてきた「移調の限られた旋法」は、1941年の『わが音楽語法』において初めて定式化された。インスピレーションの導きに従うなかで頻出した要素は、一定の期間を経たあとで言語化、体系化を被る。この手続きによってメシアンは、みずからをドビュッシーら音楽史上重要な作曲家のいわば後継 héritier として位置づけようとした。若いころのメシアンが、あらゆる機会をとらえて自作の解説を披露しようとしたことはよく知られている。これはとりもなおさず、メシアンが20世紀フランスを代表する作曲家として音楽史に名を刻むための戦略だった。
  語法のカタログ化は、しかしながら、鳥の時代以降メシアンが語法をラディカルに刷新することを妨げはしなかっただろうか。『リズム、色彩、鳥類学総説』というタイトルは、メシアンが鳥の時代たる1950年代までに発展させた概念が、死去する1992年まで主要な役割を演じ続けたことを物語っている。1965年、文化相マルローから直々に委嘱を受け、翌年にはパリ音楽院作曲クラス教授に就任、その翌年にはフランス学士院メンバーに選ばれ、パリ音楽院のクラスにミュライユが入学する。『総説』の刊行がもたらした反響が思いのほか小さく、現時点で英語とドイツ語の部分訳しか存在しないのは、メシアンの自閉性、すなわち1960年代までに言語化しえた要素に執拗に立ち返り続ける姿勢のためであり、それは現在メシアンを好む音楽家が必ずしも多くないこととも無関係ではない。 (つづく)
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by ooi_piano | 2014-08-28 08:13 | Chiersance2014 | Comments(0)