10/19(日)18時 近藤譲全ピアノ曲 野々村禎彦氏寄稿

日本の戦後前衛第二世代について:あえて近藤譲を中心に ――野々村 禎彦

c0050810_04449.gif ヨーロッパの戦後前衛第二世代の作曲家は大きくふたつのタイプに分かれる。1番目は、戦後前衛第一世代を強く意識し、批判的に乗り越えようとした作曲家たち。本シリーズで取り上げたラッヘンマンとホリガーはその典型である。2番目は、ケージらニューヨーク楽派の米国実験音楽を批判的に乗り越えようとした作曲家たち。彼らの多くは、60年代後半にピークを迎えた集団即興グループに参加していた。New Phonic Artにはグロボカール、AMMにはカーデュー、Musica Electronica Vivaにはジェフスキとアルヴィン・カランと、この世代の重要人物が並ぶ。

 日本の場合、1番目のタイプに属するのは主にヨーロッパに留学した作曲家たちである。石井眞木(1936-2003) と甲斐説宗(1938-78) は、ベルリン音楽大学(現・ベルリン芸術大学)でルーファー(1893-1985、シェーンベルクの助手だった12音技法の教師) とブラッハー(1903-75) に学んだ。石井が留学した1958-62年には、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習が最先端を学ぶ唯一の場であり、ドイツでの人脈作りと日本観の把握が主な成果だった。前者は現代音楽祭の企画構成に生かされ、後者は和太鼓・横笛・声明等を用いてエキゾティックに「和」を表現する姿勢に結びついた。他方、甲斐が留学した1966-69年には既に道はひとつではない。彼はブラッハーと共同作曲を行うほどの親交を結ぶ一方、リゲティ《レクイエム》(1963-65) の初演後直ちにレッスンを受け、グレツキも参照し…と軽やかに最先端を吸収していった。彼は最終的にそれとは対照的な切り詰められた音楽に向かったが、与えられた/決まりきったものの先を探求する姿勢は一貫している。

c0050810_045789.gif 日本のアカデミズムは元々フランス系が強く、優等生はフランスに留学することが多い。この世代を代表する平義久(1937-2005) は1966年にパリ音楽院に留学し、ジョリヴェ/デュティユに作曲を学んだ。当時のデュティユは《メタボール》(1964) から《遥かなる遠い国へ》(1970) へ、アカデミックな書法の半音階化の果てに緊密な無調に到る歩みの途上にあった。感覚を研ぎ澄まし、慣れ親しんだ語法を拡張して得たものはブレない。エコール・ノルマル音楽院教授としてパリに居を定めた彼も師に続き、70年代と90年代の二度の大きな調性化の潮流の中でも揺るがない強靭な個人語法を手にした。アカデミズムの異端者、八村義夫(1938-85) にも触れたい。浄瑠璃やスクリャービンの表現主義に惹かれ、全盛期の松村禎三や三善晃をリスペクトする一方、ブーレーズ《主なき槌》やオーネット・コールマンのフリージャズにも惹かれた彼は、この矛盾した嗜好を統合する存在としてブソッティ(1931-) を指標に創作を続けた。また平とは互いに影響を与え合う仲だった。

 日本で2番目のタイプを代表するのは、「グループ・音楽」として1958-62年頃に活動した(この名称で公式に活動したのは1960-61年)作曲家たちである。水野修孝(1934-)、小杉武久(1936-)、塩見允枝子(1938-) ら東京藝大楽理科出身者を中心に、水野が千葉大学在学時に親交を結んだ刀根康尚(1935-) も加わった。帰国後の一柳と当時のパートナー小野洋子も彼らに合流した。一柳を通じてジョージ・マチューナス(1931-78、1962年にフルクサスを設立) ら米国の前衛芸術家たちとの接点が生まれ、ケージらの情報も得られるようになったが、彼らはそれ以前から海外の実験音楽の動向とは無関係に活動を行っていた。特定のイディオムに依らない集団即興がヨーロッパの現代音楽界で始まったのは1964年頃(エヴァンジェリスティ、モリコーネらのNuova Consonanza、シュトックハウゼンの通称ケルン・アンサンブル)なので、「グループ・音楽」の活動ははるかに早い。米国では彼らと同時期にラ=モンテ・ヤング(1935-) のテキスト作曲《Compositions 1960》シリーズなど、後のフルクサスにつながる音楽活動が始まっているが、ヤングが常設即興グループ The Theter of Eternal Music を始めたのも1964年であり、やはり彼らの先駆性は際立っている。

c0050810_052559.gif 彼らはその後も、海外(主に米国)の動向を見据えた活動を続けた。最初に日本を離れたのは塩見で、1964年に渡米しフルクサスに参加している。私的な事情で翌年に帰国し、以後は日本で活動を続けているが、視覚的コンセプトを基本に据えた作風は一貫している。また現在でも、日本におけるフルクサス紹介の中心人物である。小杉は内外のフルクサスの拠点を渡り歩いて活動を続けた。音楽活動初期からのヴァイオリン即興に加えて高周波発振音のヘテロダイン干渉で得られる電子音響を見出し、基本素材が出揃った。1969年に結成した「タージ・マハル旅行団」は、ヒッピー文化の影響を強く受けたドローンベースの集団即興グループであり、現代音楽を背景に持つ集団即興が停滞してきた時期に新たな可能性を開拓したグループとして国際的に注目された。彼はこのグループが活動を休止した翌年の1977年に米国移住を表明し、以後はマース・カニングハム舞踏団の音楽監督のひとりとして活動する。その後も基本的な方向性には変化はないが、ヒッピー文化の影響を脱しアナログ発振音の清冷な魅力を取り戻したのは80年代以降である。現代音楽界では非イディオム的集団即興の伝統はほぼ失われ、小杉の活動もサウンド・インスタレーションの比重が高まった。

 刀根も小杉と同時期にフルクサスに参加したが、元々美術畑との縁が深く、ハイレッド・センターなどイヴェント=直接行動志向の美術作家との活動が多かった。フルクサスの限界も早い段階で見切り、60年代は国内で活動を続けたが、意匠よりも原理を重視する批評性の高いスタンスと日本社会との相性は良くなく、1972年に渡米するとそのまま米国に定住した。刀根が音楽に回帰するのは80年代以降、デジタル技術が彼の発想に追いついてからである。CDの盤面に細切れのセロテープを貼り、プレイヤーのトラッキングエラーを音楽として提示した《Music for 2 CD players》(1985)、漢字をスキャンした画像データを音響データとして再生し、苛烈なデジタルノイズを音楽として提示した《Musica Iconologos》(1990-92) が代表作。水野はフルクサス的イヴェントには向かわず、集団即興を図形楽譜で制御する《オートノミー》シリーズ(1963-72) や3時間を超える大作《交響的変容》(1961-87) で知られる。また彼は1973-74年の米国滞在中にメジャーポピュラー音楽の力を再認識し、帰国後はオペラ《天守物語》(1977) をはじめ、新ロマン主義に舵を切った。1977-78年に米国に滞在した八村が、専ら実験的ポピュラー音楽に可能性を見出したのとは対照的だ。

c0050810_055234.gif 高橋悠治(1938-) はピアニストとしてクセナキス《ヘルマ》(1960-61) 委嘱初演や《エオンタ》(1963-64) 世界初演を行い、作曲家としてもクセナキスに作曲技法を学び、コンピュータ支援作曲を通じて実践した。結局、クセナキスの音楽は彼の個性に由来し、作曲技法に由来するのではないと結論付けて60年代末には直接的な技法参照を止めた。ただしアルゴリズム思考は受け継ぎ、かつて柴田南雄に学んだ「配分法」と組み合わせて民族音楽の素材を再構成するようになった。この時期から著述も積極的に行うようになり、左翼的な立場を鮮明にした攻撃的な論調は強い影響力を持った。「政治参加」は60年代後半から70年代半ばにかけての世界的潮流だったが、彼はむしろ70年代後半から政治参加を強め、1978-85年には民衆歌のバンド「水牛楽団」で活動した。80年代は邦楽器作品を中心に、パソコンとサンプラーを組み合わせた小回りの利くコンピュータ音楽にも取り組み、当時は高円寺に住んでいたジョン・ゾーン(1953-) の企画する異ジャンル共演にもしばしば参加した。この時期は三宅榛名(1942-) とのピアノデュオも多い。ジュリアード音楽院で身に着けた堅実な書法を土台にしたポピュラー音楽との様式混合は一世を風靡した。90年代に入ると、高橋の音楽思考は三味線奏者・高田和子(1951-2007) との共同作業を通じて大きく変わった。身体運動から発想し、ピアニストの運指のみ図形楽譜で記した《指灯明》(1995) は特にラディカルな例だ。

 以上が、ヨーロッパでの戦後前衛第二世代に相当する世代の日本の主な作曲家だが、ヨーロッパの戦後前衛第一世代を強く意識した作曲家たちは、甲斐と八村は夭折、平はヨーロッパで活動した先行世代の松下眞一、篠原眞ら同様日本では十分認知されていない。米国実験音楽のニューヨーク楽派を強く意識した作曲家たちのうち、「グループ・音楽」出身の小杉と刀根は既に「日本」にも「現代音楽」にも見切りをつけており、辛うじて高橋が、現代音楽という制度を厳しく批判しながらも、「日本の現代音楽」の周辺に留まって「生き延びたカーデュー」の役割を担ってきた。百花繚乱の日本の戦後前衛第一世代と比べると寂しい状況だが、ここに今回の主役である近藤譲(1947-)、および同世代の佐藤聰明(1947-) と平石博一(1948-) を加えると風景が大きく変わる。米国実験音楽にもニューヨーク楽派を批判的に継承した第二世代が存在し、彼らはまさにそれに相当する役割を担った。

c0050810_072951.gif 近藤は新しい複雑性・スペクトル楽派など、ポスト戦後前衛の諸潮流の最初の世代と同年代に生まれているが、現代音楽界で知られたのははるかに早い。「新しい複雑性」という呼称は、70年代半ばに勃興した新ロマン主義=「新しい単純性」という呼称の普及後に生まれた。1979年執筆・81年刊行の論文が初出の「スペクトル楽派」という呼称が普及したのも、彼らの音楽はそれ以前は認知されていなかったことの裏返しである。他方、近藤作品は70年代初頭から注目され、秋山邦晴は後に『日本の作曲家たち』としてまとめられた1971-73年の雑誌連載で、戦後生まれでは唯一彼を取り上げた。その後近藤は「線の音楽」と名付けた独自語法に至り、初期作品を集めたLP《線の音楽》を1974年にリリースし(ライナー日英併記で海外にも頒布し)、1979年には音楽思考や作曲技法をまとめた同名書籍を出版した(どちらも2014年に復刻)。

 「線の音楽」以前の作品では、集団即興など戦後前衛第二世代に共通する問題が扱われているが、ほぼ全作品をカバーするヨーク大学音楽出版のカタログには含まれず、実質的に撤回作扱いである。「線の音楽」で近藤が問題にしたのは、機能和声音楽における豊かな連接がセリー音楽では失われたことである。セリーによる音楽要素の「厳格な管理」は、聴覚的にはその要素の「連接感の欠如」に他ならず、管理対象を増やすほど、耳の関心はそれ以外の音楽要素に向かう。全面的セリー技法では唯一残されたテクスチュアの推移が聴き所だが、テクスチュアを直接対象にする音群的音楽の登場でその連接の豊かさすら失われ、音群の新奇な音響とは裏腹の直観的な単純さ(クセナキス等)や伝統への回帰(ペンデレツキ等)に陥った。安直な「機能和声の復活」以外の解決策はないだろうか? 彼がプロトタイプとして提案したのは、協和音程を組み合わせたセリーからランダムに音を選び、能動的な聴取を通じて疑似調性が浮かんでは消える「線」を生成するシステムだった。そこにユニゾンのズレ・グリッサンド・噪音等を隠し味として加えたのが《線の音楽》所収の作品群である。

c0050810_08077.gif 《視覚リズム法》(1975) 以降、「線の音楽」の構造を直観的に書けるようになると、近藤は複雑化に向かう。一本の線を細分化し音色が極端に異なる楽器に配分する「散奏」、線の構成音を和音に拡張した「和声研究」。《時の形》(1980) や《忍冬》(1984) を生んだ80年代前半はひとつの頂点である。この時期までの作品の連接は、専ら初期「線の音楽」以来の疑似調性に依っていたが、これ以降は調性感の希薄な連接を試みるようになる。80年代後半は模索の時期で、特に80年代末は複雑なポリリズムを持つ作品が多い。90年代初頭には和声の基本を短二度や増四度のような不協和度の高いものにして無調的な連接のストレスを相対的に下げる発想を、90年代末には曲中で異物として機能する調性感の強いフレーズを用いて同様の効果を得る発想も導入した。「線の音楽」は音群的音楽の個人言語化を克服する試みとして提唱されたが、ここまで来るともはや個人言語の一種だろう。とはいえ、新しい発想で一定の成果を挙げたらそこに安住せず、さらに新しい発想を求める姿勢こそ「前衛」の態度であり、「最後の前衛作曲家」という近藤の自己規定は正確だ。また彼の場合、このような新しい発想はまず「即興的に書かれた」ピアノ独奏曲として現れるのも興味深い。

 佐藤と平石の位置付けは明白で、日本におけるミニマル音楽第一世代にあたる。ピアノのトレモロにディレイをかけて堆積した佐藤の70年代の作品群は、ライリー(1935-) や初期グラス(1937-) の陶酔的な音楽に相当し、平石の作品群はライヒ(1936-) の覚醒的な音楽に相当する。80年代以降の佐藤は瞑想的な旋律をミニマルパターンで彩る作風に転換し、平石も年代が下るとポップな素材を用いるようになるが、あくまで素材の多様化の一環である。また彼は「空間音楽」を、マルチチャンネル電子音楽や奏者の空間配置を通じて真摯に探究している。いまや「ミニマル音楽の作曲家」の大半がこの語法を表現素材として用いているに過ぎない中、平石はこの語法の原理的な探求を続けている世界で唯一の作曲家である。なお、70年代の一柳のミニマル音楽的な作品群は、同時期のリゲティがミニマル音楽を参照した作品群に相当し、実験音楽としてのミニマル音楽ではない。

c0050810_093821.gif 近藤の位置付けは、米国実験音楽第二世代ではテニー(1934-2006) に最も近い。音楽史に対する深い洞察、原理的な音楽思考とそれを反映させた実作を並行して行う姿勢。ただし、コンセプトが剥き出しのいかにも実験音楽らしいテニー作品と、ひと味付けてコーダも付け、「音楽作品」の体裁を整えた近藤作品の違いも小さくはない。また、テニーの「米国実験音楽の統合」には、ポピュラー音楽との境界領域で様式混合を行ったジョン・ゾーンのような音楽も含まれるのに対し、近藤はこの種の音楽には総じて冷淡である。ただし、「線の音楽」以前の近藤の試みの中にはゾーンのような方向性も含まれていた。「線の音楽」はヨーロッパ戦後前衛と同様の「絶対零度からの第一歩」であり、一度美学的に切り捨てたものはもはや無批判には取り込めない、という潔癖さなのだろう。
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by ooi_piano | 2014-09-30 23:18 | POC2014 | Comments(0)