8/25(金) ソラブジ《オープス》& 古川聖《ノベレッテ集》完演


by ooi_piano

9/23(祝) 原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート

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〈原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート〉

2015年9月23日(水/祝) 19時開演(18時半開場) 
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp

甲斐史子(ヴァイオリン)+大井浩明(ピアノ)

甲斐説宗(1938-1978):《ピアノのための音楽Ⅰ》(1974)
甲斐説宗:《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅰ》(1967/74)
ベラ・バルトーク(1881-1945):《ヴァイオリン・ソナタ第1番 Sz.75》(1921) [ペーテル・バルトーク校訂版(1991)による]
  I. Allegro appasionato - II. Adagio - III. Allegro
  (休憩15分)
甲斐説宗:《ピアノのための音楽Ⅱ》(1976)
甲斐説宗:《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》(1978)
ベラ・バルトーク:《ヴァイオリン・ソナタ第2番 Sz.76》(1922) [ペーテル・バルトーク校訂版(1991)による]
  I. Molto moderato - II. Allegretto
ヤニス・クセナキス(1922-2001):《ディフサス》(1979)

Memorial concert commemorating the 20th anniversary of the death of Isao Harada (1939-1995)
Koen-Dori Classics, Shibuya
Wednesday, September 23, 2015, 7 PM
Fumiko KAI (vn) + Hiroaki OOI (pf)

Sesshu KAI: Music for Violin and Piano I (1967/74), Music for Violin and Piano II (1978), Music for Piano I (1974), Music for Piano II (1976)
Béla BARTOK: Violin Sonata No.1 Sz.75 (1921), Violin Sonata No.2 Sz.76 (1922)
Iannis XENAKIS: Dikhthas - Διχθάς for piano and violin (1979)


c0050810_8561648.jpg甲斐 史子 Fumiko KAI, violin
桐朋学園音楽大学卒業。同大学研究科修了。第3回江藤俊哉ヴァイオリンコンクール第1位入賞。デュオROSCOとして、現代音楽演奏コンクール〈競楽V〉第1位入賞。第12回朝日現代音楽賞受賞。2003年度青山バロックザール賞受賞。ドイツ・ダルムシュタット夏季講習会にて、クラーニッヒ・シュタイナー賞受賞。アンサンブル・ノマドメンバーとして、第2回佐治敬三賞受賞。桐朋学園オーケストラ、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、日本フィルハーモニー管弦楽団等と共演。オランダ・ガウデアムス音楽祭、英国ハダース・フィールド音楽祭、メキシコ・グアナファト音楽祭、ベネズエラ・アテンポ・音楽祭等、国内外の音楽祭に出演するほか、数々の新作初演、録音を行っている。2008年3月、一柳慧率いるアンサンブル・オリジンメンバーとして、カーネギーホールにて演奏。北京中央音学院、国家大劇場、上海音楽院など、中国においても日中現代作品を中心にリサイタル公演、レクチャーを重ねている。ジパングレーベルより2枚のCDをリリース。これまでに江藤俊哉、江藤アンジェラ、水野佐知香の各氏に師事。神奈川県立弥栄高校及び東京藝術大学非常勤講師。


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原田力男没後20年に寄せて ───高久暁

c0050810_1212023.jpg 今年2015年は、ピアノ調律師でコンサート制作者として知られていた原田力男(はらだ いさお、1939年3月1日山口県防府~1995年3月22日東京)没後20年の年である。大井浩明さんは、9月23日に行われる甲斐史子さんと共演する演奏会を原田力男追悼の催しとされている。生前の原田と縁のあった者として、原田とそのプロデュース活動について記しておく。

 原田は地元の高校を卒業後、浜松の日本楽器で徒弟制度的な環境のもとでピアノ調律の訓練を受けた。1961年に勤め先の防府の楽器店から「夜逃げ同然」に上京、日本有数の調律師が経営していた杉並区のピアノ販売会社に入社した。高度経済成長のただ中でピアノは売れに売れた。会社で調律の担当者を割り振っていた原田は、顧客のなかから興味の持てそうな家庭を見つけると調律に出かけていた。法政大学の二部に入学して日本文学を学ぼうとしたが、多忙で中退せざるを得なかった。

c0050810_1225826.jpg 1966年8月、武満徹の依頼を受けてピアノ調律に赴いたのが、原田と武満との最初の出会いだった。1969年以降、原田は武満から継続的にピアノ調律の依頼を受けるようになり、家の引っ越しを手伝い雑用を買って出る打ち解けた間柄になっていった。原田は黛敏郎が武満に送り与えたことで知られるスピネット・ピアノ(原田によれば「ボロピアノ」)や、《For Away》が作曲されたエラール・ピアノを調律、高橋悠治が弾いたこのピアノ曲の録音セッションにも立ち会った。のちに原田はこのエラール・ピアノを武満から買い取った。現在このピアノは修復を経て浜松楽器博物館に所蔵されている。

 武満の活動に多大な関心を抱いた原田は、武満に関する資料や情報を収集、1973年から始まった「Music Today」ではステージ・マネージャーやキャシー・バーベリアンほかの来日演奏家のアテンドを行い、武満周辺の音楽家たちのコンサートのチケット販売を手伝った。当時武満と同じマンションに住んでいた湯浅譲二や一柳慧はもとより、松村禎三や高橋悠治や林光など、作曲家の知人は次々と増えていった。ピアノ調律師としての原田は卓越した事務能力が評価され、調律師の団体が法人格を得るための組織に最年少で参加するほどの業界を主導しうる人物となっていたが、現代音楽の現場に関わることに意義を見出すようになった。

c0050810_1235736.jpg 「プライヴェート・コンサート」は武満との雑談から得た着想とされる。少人数の聞き手を集めて私的な場で行われる音楽会ほどの意味だ。この言葉の歴史を筆者は知らないが、19世紀後半のドイツ語圏の音楽文献にすでにPrivatkonzertという語が現れる。武満は体験的に「プライヴェート・コンサート」なるものを理解していたと思われるが、原田はそれをシェーンベルクの「私的演奏協会」と結びつけ、後年は「ぼくの方法論」―武満の「私の方法」からの影響―と呼んだ。

 原田は1975年から1988年までに53回のコンサートを制作した。意図や方向性は最初の一年余に行われた5回のコンサートに内包されている。原田の選んだ演奏家による、制作者の意図を汲んだプログラミングのリサイタル、実験工房など過去の芸術運動や特定の音楽家を取り上げたコンサート、アマチュア音楽家を起用した演奏会など。しかしコンサート・プロデューサーとしての原田の名声の源泉となったのは、作曲家志望の学生などおよそ20名に「高橋アキさんが初演することをあらかじめ想定したピアノ曲」の作曲を呼びかけ、集まった作品から高橋アキが6作を選んで初演を行った「高橋アキの夕べ(1976年3月1日)」だった。今ではおよそ信じられないことだろうが、東京芸大の作曲専攻学生たちが企画した演奏会を教官たちが中止させたことに原田は義憤を感じたのだった。作品が演奏された6人の新人作曲家のなかに坂本龍一がいた。藤枝守、吉川和夫、大石泰もいた。吉松隆は選に漏れたが、のちに原田の制作した演奏会で作品が初演されて脚光を浴びることになった。武満は新聞に連載したコラムで演奏会の前宣伝を行い、学部学生だった吉川の作品は『音楽芸術』の付録楽譜として出版された。原田には「坂本龍一の発見(発掘)者」というフレーズが付きまとい、新人作曲家の「デビューあるいはデビュー同然の作品」を紹介するコンサートを独力で、私費を投じて開催する特異なコンサート・プロデューサーとして知られるようになった。

c0050810_1261449.jpg 53回のコンサートで、31人の作曲家の作曲した委嘱作品51作が初演された。特筆すべきは例えば甲斐説宗との関係だろう。原田の演奏会に傑作《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》ほかの作品を提供した甲斐は1979年に39歳で急逝、原田は追悼演奏会を三度開催して甲斐作品の演奏の保持に努めた。原田の制作したコンサートに出演した演奏家の多くは、新人・中堅を問わず原田の見込んだ極めて優れた奏者たちだった。

 しかし原田は数年で作曲の「新人発掘」に限界を覚えるようになった。原田のプロデュース活動は、恰好の場を提供したいわさきちひろ絵本美術館(現、ちひろ美術館・東京)ほかでの演奏家のリサイタルや、アマチュアをも起用したニーチェの音楽作品の演奏会、篠原眞や細川俊夫など国外で活動を行っていた作曲家のセミナーや作品個展へと幅を広げていった。

c0050810_12733.jpg 原田のコンサート活動を特徴づけたのが、ガリ版こと謄写版で印刷された手書きの個人誌『プライヴェート・コンサート通信』だった。調律の仕事などで毎日首都圏を自動車で往来した原田は、主要な街道沿いに住むコンサートの来場者や知人の家に立ち寄り、ポストにホチキスで綴じた「通信」の束を投げ込み、挨拶や雑談をしてゆくのだった。「通信」には原田の文章だけでなく、コンサートのアンケートや関連記事の転載、第三者による連載記事など、編集者としての原田の奇想が遺憾なく発揮されていた。また、原田のコンサートは、プログラム・パンフレットやちらしやチケットに至るまで、原田とデザイナーの意識が反映された「作品」と言えるものだった。

 「高橋アキの夕べ」制作の背景がそうだったように、原田は生来ある種の反骨精神の持ち主だった。それは東京芸大や武満へと向けられた。1980年に武満が芸術院賞を受賞すると原田は激怒し、1981年に発覚したいわゆる「芸大事件」では、新聞への投書に始まって公判の傍聴記を「通信」や雑誌に執筆・掲載、追及の手を休めなかった。

c0050810_1274918.jpg 1984年には私的勉強会「零の会」が発足した。「Private Concert周辺の、シーリアス音楽をめぐる交友…、ほかにも、さまざまな立場にある若者たちがつどって作ったごく私的な同人勉強会」だった。同人の発表もあれば夏には合宿もあり、大庭みな子、戸口幸策、小川圭治、佐藤慶次郎らが講演を行うこともあった。

 独身者の原田はプロデュース事業に文字通り心血を注ぎ命を削った。1980年代半ばに糖尿病を、88年以降はがんを患い、以後は闘病生活のなかでセミナーや「零の会」を続け、会う者や見舞い客にワープロで作成した「日記」を配布した。「零の会」は原田の没した4週間前の1995年2月まで63回開催された。長い闘病の年月にプロデュース活動を振り返った原田は、本を執筆する構想を持っていたが、構成案を残しただけで没してしまった。それを踏まえて2002年に私家版の著作『青春の音楽 原田力男の仕事』が刊行され、主に原田の葬儀に参列した人々に向けて配布された。 

*  *  *

c0050810_1284579.jpg 以上が原田の生涯と活動の概要である。なるべく冷静に、いくらか詳しく書いたのは、原田を直接知らない世代の音楽関係者が増えたからである。現在40代後半以降の年代で、首都圏で現代音楽に何らかのかたちで関わった者であれば、原田を知らないことはほぼあり得ないだろう。原田は決して忘れられたわけではないだろう。それにもかかわらず今日原田について話がほぼ出なくなったことが、「小柄なセールスマン・タイプで甲高い声でよくしゃべる」(吉松隆)原田の逆説的な存在感を物語っている。ごく最近見かけた表現を用いて事態をごく単純化して言えば、文化資本をほとんど持たずに音楽の世界に参入した「一般国民」の原田とその振る舞いに、割り切れない思いを持った「上級国民」を装いたい音楽関係者もいたにちがいない。しかし出来事は歴史に組み込まれる。先年行われた『実験工房展』では、1976年10月に開催された「鈴木博義作品の夕べ」の意匠を凝らしたチケットが展示されていた。原田の業績はその逆説を凌駕するのだろう。

 筆者が初めて「プライヴェート・コンサート」に行き、原田と会ったのは中学二年生だった1977年3月、森田利明の出演した「Gemini Concert Ⅰ」だった。20代に入って原田と親しく付き合うようになり、遺言でプライヴェート・コンサート関係の資料を管理し、原田の著作の著作権を譲り受けたことになっている。原田の残した他の資料の調査も相応に行い、『青春の音楽』の執筆に加わった。原田のプロデュース活動にも、それを彩った人々にも、また筆者自身についても、筆者の見解はさまざまにあり、時間とともに変化した(小文でそれに言及するのは控える)。

c0050810_1292573.jpg 原田の「ぼくの方法論」は武満の影響から始まったが、今日そのプロデュース活動は自立したものと見なされよう。谷川俊太郎は晩年の原田にそのような趣旨のことを述べて、故人をいたく感激させた。興味を持つ者がいればの話ではあるが、原田のプロデュース活動は、結果的に1970年代後半の首都圏に存在した現代音楽のひとつの状況を克明に知らせる記録となっている。また原田はコンサートに来た聴衆について詳細な記録を残した。これも分析に値する。しかしそれは恐らくは生前の原田を知らない者がなすべき仕事だろう。「原田アーカイヴ」のアーキヴィストといった役回りの筆者は、今のところその機会に向けて原田の残した資料を整理管理することに徹している。

 大井浩明さんを最晩年の原田に引き合わせたのは筆者だった。原田は病気を押して東京で行なわれた大井さんのリサイタルを聞き、原田一流の毒舌で「日記」に記して配布した。世の中、誰が追悼を表明しつづけることになるのかわからない。原田の没後10年の2005年に、ちひろ美術館・東京の厚意を得て追悼演奏会を提案・企画したのは大井さんだった。甲斐史子さんと渡邊理恵さんの共演を得て、原田が楽譜を持ったまま演奏されていなかった大石泰作品の初演やアナラポスの復元制作を行った。そして没後20年。大井浩明さんに心からの感謝と敬意を表したい。(たかく・さとる/日本大学芸術学部教授、文中一部敬称略)
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by ooi_piano | 2015-09-05 00:00 | POC2015 | Comments(0)