10/11(日) フランコ・ドナトーニ(歿後15周年)全ピアノ作品

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大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第22回公演
フランコ・ドナトーニ(歿後15周年)全ピアノ作品 
2015年10月11日(日)18時
開演(17時半開場)
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松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/

c0050810_7194451.jpgドナトーニ(1927-2000):
《四楽章の作品 Composizione in quattro movimenti》(1955、日本初演) 約15分
《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957)(東京初演) 約20分
《抜刷 Estratto》(1969) 約2分
《韻(リーマ)~2つの小品 Rima》(1983) 約10分

(休憩15分)

《フランソワーズへ A Françoise》(1983、東京初演)
《フランソワーズ変奏曲(1~49) Françoise Variationen》(1983/96)(東京初演) 約40分
《レンゾとマルチェラへ A renzo e marcella》(1990、日本初演) 約1分
《レオンカヴァッロ Leoncavallo》(1996、日本初演) 約1分



c0050810_7204029.jpg  フランコ・ドナトーニは1927年6月9日ヴェローナ生まれ。7歳でヴァイオリンを始め、10代半ばから作曲を志す。ミラノ・ヴェルディ音楽院、ボローニャ・マルティーニ音楽院作曲科卒業後、ローマ・サンタチェチリア音楽院在籍時にゴッフレド・ペトラッシに兄事する。ブルーノ・マデルノと出会い、1954、1956、1958、1961の各年にダルムシュタット夏季講習会に参加。ボローニャ、トリノ、ミラノ、ローマ、シエナ等で教鞭を執り、P.デュサパン、G.シノーポリ、M.リンドベルイ、E.-P.サロネン、A.ソルビアーティ、S.ゴルリ、F.ロミテッリ、杉山洋一ら多くの優れた弟子を育てた。2000年8月17日ミラノにて歿。
  最初期作の《四楽章の作品》は1955年作曲、献辞無し、1957年ショット社(ロンドン)刊。《3つの即興》は1957年作曲、マリオ・マリーニ博士に献呈、1958年ショット社刊。晩年のドナトニの回想では、前者は「ダラピッコラから借りた擬似ウェーベルン」であり、後者は「ブーレーズ第2ソナタの醜悪なコピー」と評される。
  《抜刷》(1969)は、1970年2月29日トリエステにて、アントニオ・バリスタにより献呈初演。「雀の鼓動」のような極めて軽い有音部と、「骸骨蛾の羽ばたき」のようなほぼ無音部の間を滑走する。《韻(リーマ)》(1983)は、1983年7月9日コルトーナでマリア・イザベラ・デ・カルリにより献呈初演。ほぼ連続して演奏される2つの小品から成る。
c0050810_7214342.jpg  《韻》の世界初演に臨席したローマの映画評論家アルド・タッソーネから、妻フランソワーズ・ペリのために撮影用の1頁の小品を書いてくれ、と冗談で言われ生まれたのが、《フランソワーズへ》(1983)である。これは5年後に、ペトラッシ・ブソッティ・マンゾーニ・カスティリオーニら13人の現代イタリア人作曲家の小品を集めたリコルディ社のアンソロジーに所収された。事実上この小品を主題として連作されたのが《フランソワーズ変奏曲(1~49)》である(他にも多くの自作の源泉となったと云う)。自筆譜で1ページ(出版譜で2ページ)、1分前後の短い変奏曲7曲の7セットからなる。出先のホテルで空き時間に日記のように作曲した、ということになっており、自己と自作への内省とともに新たな実験の場でもあった。短い胚珠が永続的に省察・屈折・装飾を重ねられてゆく。
  第I部(第1~第7変奏、1983)は上記タッソーネに献呈、1983年12月6日アヴィニョンでアルマン・レノーにより初演。第II部(第8~第14変奏、1987)はマッシミリアーノ・ダメリーニに献呈、第III部(第8~第21変奏、1987)はマリア・イザベラ・デ・カルリに献呈、計14曲は1987年7月4日マチェラータでマッシミリアーノ・ダメリーニにより初演。第IV部(第22~28変奏、1989)はデリア・ピッツァルディに献呈、1989年11月28日ミラノでエンリコ・ポンピリにより初演。第V部(第29~35変奏、1994)は「レンゾとマルチェラ」へ献呈、1995年9月17日ペーザロでマリア・イザベラ・デ・カルリにより初演。第VI部(第36~42変奏、1995)はジュゼッペ・スコテーゼに献呈、第VII部(第43~49変奏、1996)はマリア・グラツィア・ベロッキョに献呈。全49変奏による通奏初演は、1997年6月19日ラティーナでマリア・イザベラ・デ・カルリによって行われた。
  この間に、同じ主題による小品として、《レンゾとマルチェラへ》(1990)と《レオンカヴァッロ》(1996)が遺された(どちらも未出版)。1989年12月中旬に交通事故で足を怪我し、新年はヴェローナ郊外、ガルダ湖畔のサン・ゼーノ・ディ・モンターニャにある、幼少時代からの友人レンゾ・ボニッツァート(Renzo Bonizzato、ヴェローナ音楽院教授)の邸宅で過ごした。このとき新しいシリーズのきっかけとなる変奏曲として書いた小品が、ボニッツァート夫妻に献呈された《レンゾとマルチェラへ》であったが、ほどなくしてドナトニはそれを忘れてしまった。《レオンカヴァッロ》はミラノにある共産党系の若者の溜まり場の名前である。そもそも《フランソワーズへ》《フランソワーズ変奏曲》でさえ連続演奏の例は見られず、これら2つの遺作も完全に別作品として扱われている。ドナトニ自身は《フランソワーズへ》を「主題」とはついに認めず、むしろ変奏曲の後に弾くのもいい、などと呟いていたと云う。自作の扱いについては寛容かつ磊落であった、という証言もあるので、今回は敢えて作曲年代順に、いわば主題+51の変奏として通奏を試みる。



ドナトーニ歿後15周年に寄せて───杉山洋一

c0050810_7224673.gif  北イタリアはヴェローナの有名なアレーナがある旧市街の中心からアディジェ河を越え3キロ程ゆくと、サンタクローチェと呼ばれる地区があって、通りに音楽家の名が冠された一角がある。プッチーニ通り、ペルゴレージ通り、アレッサンドロ・スカルラッティ通りといったオペラ作曲家の界隈の向こうに、ノルマ通りやトスカ通り、ヴェローナだからリゴレット通りも勿論ある。マリア・カラス通りなど、歌手の名を冠した一角まであり、アレーナありきのヴェローナらしい。こうした通りはどの街にもあるわけではない。

  その音楽家界隈の中心を東西に延びるのがヴェルディ通りで、一本南を短いポンキュエルリ通りが並走する。こう書くとどんなに美しい界隈を想像するか知れないが、実際は薄茶色か黄土色に塗られた5、6階建てのありきたりのマンションが並ぶ、変哲も色味もない郊外の新興住宅地の一つに過ぎない。こうした住宅地にはしばしば子供たちが遊ぶための緑地帯があって、ベンチが数台、水のみ場とパステルカラーの小さな滑り台やら、ゴム製のブランコなどが人口芝の上に味気なく置いてある。

  ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りの間にあるこの典型的な緑地帯が、ヴェローナ市によって「フランコ・ドナトーニ遊園 Parco Giochi Franco Donatoni」と名付けられたのは、2年前の秋2013年11月のことだった。興味があればグーグルマップでVia Amilcare Ponchielli 12, Veronaと検索してみると良い。アスファルト敷きの駐車場の傍らに「ドナトーニ遊園」がささやかに眺められる筈だ。この余りにありふれた緑地帯がドナトーニらしい。わざわざ小雨のなか、関係者を集めて命名式まで執り行われ、次男のレナートが謝辞を述べた。

  遡ること更に2年2011年7月、ヴェローナ市は、ヴェローナの記念墓地にある「Ingenio Claris-類まれなるものたち」霊廟の石碑に、ドナトーニの名を加える決定をした。これは霊廟に入ってすぐ目の前に鎮座する高さ2メートルほどの白い石碑で、ヴェローナに所縁があり記念墓地に埋葬された功労者たちの名が、生没年と共に連綿と刻まれている。ドナトーニと同時に刻印の決定がなされたのが、1967年に没した歴史学者アントニオ・アヴェーナや、1世紀以上前の1860年に没した爬虫類学者のアブラモ・マッサロンゴなのを鑑みれば、2000年没のドナトーニが早々に功労者合祀霊廟に奉られる意味の重さが伺われる。

c0050810_7235119.jpg  生前ドナトーニはさも愉快そうに、没後2年程の間にかつて無いほど演奏されるのは有名だった証拠、没後5年で回顧展なら先ず先ず、没後10年で未だ演奏されるなら本物、没後20年で演奏されれば天才、没後50年で演奏されれば天才中の天才、没後100年で演奏されれば神掛かり、と繰返していたから、没後15年の遠く離れた日本で彼のピアノの回顧展に、満足げに北叟笑んでいるに違いない。昨年ミラノでは彼の室内楽を半年かけ相当数演奏する試みが行われたし、パルマ国立音楽院でドナトーニの大規模な学会が催されたりと、没後10年の声を聞いて彼の作品の再評価に繋がった感がある。平板な言い草だが、先入観や固定概念抜きで漸く音楽を素直に受け入れる土壌が生まれたのだろうか。

  不思議な彼の苗字Dona-toni、ラテン語風なら「明快な声を与える人」とでもなるこの苗字と矛盾するように、生涯、自らの存在を音楽から払拭しようと試みた。ドナトーニは折につけ、音符の裏には何もない存在しないと断言して憚らなかった。彼に情念という概念があったか定かではないが、音に情念を込めることはなく、端から見ていて特に愉しく書いていると感じたこともなかった。

  淡々とバランスや誤りに気をつけながら音を並べる。丁寧に縦を揃えて書くのは、几帳面に整頓された彼の仕事部屋や、服装に頓着しないドナトーニが髪だけは毎朝丁寧に撫で付けていたのに似ている。ルーティンは本来否定的に用いられる言葉だが、自らの存在否定によってのみ人生を肯定できる人間にとって、それは否定的な意味にはなり得ない。

  そうして身嗜みを整え颯爽と愛車のトヨタを走らせると、方向感覚がなくて路頭に迷った。最近は「ワルキューレの騎行」をかけながら作曲するのが好き、と笑っていたと思えば、数分後には助手席の私に地図を見て欲しいと懇願することも屡だったが、そんな出来事すら作曲の授業に於いては、所定の路程を走らせ時間通りに着くのと、道に迷いつつ面白い発見や美食に舌鼓を打ち、何時しか目的地に到着するのではどちらが良いか、といった薀蓄に昇華された。生徒たちは当然ながら道に迷って発見と美食を嗜みたいと応えるので、彼は何時まで経ってもあの音楽院への道を覚えなかった。当時携帯電話もカーナビもなかったけれど、開始がいつも少し遅れる以外別段問題にはならなかった。

c0050810_7245280.jpg  作曲であれ人生であれ、ドナトーニは自らより大きな存在、神か運命か定かではないが、その存在に自分が導かれるのを受容し信じていて、その存在に拮抗したり対峙することはなかった。尤もそれは今だから理解されるのであって、本人は生前常に苛まれながら人生を歩んでいたに違いない。彼は無神論者だったが、不可視の何某の価値を無意識に信じ、自らはぺトラッシやバルトーク、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンのような天才ではない、という出発点に立ち、彼らのように自らを道を開拓して、自らの世界をそこに築き上げる人生観とはまるで正反対に、ドナトークと揶揄されてもぺトラッシやバルトークに心酔し、ダルムシュタットでシュトックハウゼンに、ミラノのベリオ宅では奇妙なケージの奔放さにそのまま靡(なび)いた。音列技法や偶然性を導入し、自己否定と自己放擲に押し潰されながら、気がつくと意図せず今の場所に辿り着いていた。それがドナトーニの音楽であり、人生だった。

  ドナトーニが長年住んだミラーニ通りの小さなアパートは、陽が差さない裏通りに面した部屋が仕事部屋で、いつも薄いカーテンが掛かっていたから昼間でも薄暗く、書架には無数の哲学書が整理され並んでいた。小さな廊下を跨いで反対側、表通りに面して小さなダイニングキッチンがあって、窓が大きかった為かそこはいつも明るかった。小さく質素な食卓脇には見事な臀部を晒した妙齢のピンナップが4、5枚壁に留めてあって、何時も彼女たちに目をやりつつ一緒にコーヒーを飲んだ。当時、そんな生活の一端一つ一つが内包する、途轍もない渇きや不条理観など分かるはずもなく、振り返ってこちらに微笑む、麦藁帽子の妙齢の背中を眺めていただけだった。

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c0050810_7253484.jpg  何年か前に東京で彼の個展をサントリーで催した際、休憩中に舞台で岡部さんからインタビューを受けた。ドナトーニから何を学びましたかと尋ねられ、「音の意味ではないでしょうか、音楽の意味でなく、彼にとって音そのものが持つ意味を、学んだ気がします」と答えた。

  自己否定を受容する際の虚無感と孤独は、音楽を信じられぬ程強固に、凶暴とすら呼べる程までの高みに引き上げる。恐ろしくもあったが、そこには人間の感情を異様に掻き乱す魅力がある。それについて彼に何か説明を求めても、ドナトーニ自身には、特に何の特別の感情もなく、何かを受容れ淡々と書いているに過ぎないので、書いてしまった音に対して、通り一遍の技法の説明以外は何も語る事はなかった。それを霊感と呼ぶべきものかどうかもよく解らない。

  没後15年経って見えてきたのは、正にその部分だ。ドナトーニの書法が彼の音楽の魅力だという偏見は、流石に淘汰されつつある。謂うまでもなく、彼の書法はそのものは実に単純で、その部分のみを説明するのは、近代西洋言語の多くがSVOと並んでいると説明するに等しく、ほぼ意味を成さない。

  ヴェローナのヴェルディ通りの端まで辿り着くと、ロータリーでメフィストーフェレ通りにぶつかる。このメフィストーフェレ通りは思いがけなく長く、北へ北へ田園地帯を延びる。幼少期、ドナトーニがアレーナのオペラを愉しみにしていた頃、特にボーイトの「メフィストーフェレ」を気に入っていたという逸話が、ささくれの様に妙に心に残った。

  「ファウストの死」の最後でファウストが天に召される壮大な舞台、天使たちの歌声、悪魔が口笛を吹いて去ってゆく姿など、どんな子供にとっても心躍る、圧巻で魅惑に満ちた体験に違いない。ただ、ドナトーニ少年が熱狂した厳めしいオーケストレーションや、どこか押し殺したような旋律、悪魔の視点から眺めた無常観に支配された舞台といい、後年のドナトーニの音楽に通じる気がする。ボーイトはワーグナーの音楽に強く影響を受けた作曲家で、ドナトーニがワルキューレをかけながら作曲していると聞いたから尚更なのだろう。ドナトーニ少年の家族は寧ろプッチーニやヴェルディを好んだ。

c0050810_7263337.gif  指揮のポマーリコとドナトーニの音楽について話した際、演奏不可能な程早い速度指定の「In Cauda II」のテンポ設定について、ポマーリコはディオニュソス的狂気が聴こえてこなければならないから、多少の犠牲を払っても極限まで早く弾くべきだと主張し、私は全ての音が明確に聴こえなければ、恐ろしさが伝わらないと応えた。彼は初めから終わりまで駆り立てられて鬩ぎつつ演奏すべきだと云い、私は少しずつ饗宴は高潮してゆき、遂には狂気に呑み込まれるべきだと応えた。メフィストーフェレとワルキューレが、ディオニュソスとは正格には対応しないだろうが、その辺りにドナトーニの音楽の本質が浮かび上るのは確かだろう。明らかに破綻した何か。自らから引き剥がされ、理知的ではない何某かが作用した結果もたらされる、原始的で直截な音。

  「プロム」の補完の際、リコルディのマッツォッリーニが送ってきた楽譜は、今も丁寧に仕舞ってある。「蚯蚓がのたくったような」と昔は思っていたけれど、実際に自分でその楽譜を演奏して初めて、その崩れた筆跡の奥で彼を突き動かしていた何かこそが、ドナトーニの音楽の本質だと理解した。発作後覚束ない手で書き留められた、目に見えないディオニュソス的な衝動こそ、この作品の演奏に於いて表現されるものだと悟った。

  再構成を試みた当時は、その音符一つ一つを徒に検証し、如何に論理的な解決点を見出せるかしか考えていなかった。それは間違っていなかったかも知れないが、当時自分が探して求めていたものは、音楽の本質ではなかった。

  各音符はアルファベットに過ぎず、因って文章を組立てるためには一定の規則に則りそれらを並べる必要はある。アルファベットで書かれた文章を理解するなら、当然文字配列の分析で終る筈ばなく、その先の深い考察が必要だった。「プロム」の楽譜を受け取った当時20代最後の年で、その重圧に耐えるだけで精一杯だった。藁にもすがる思いで、各音符を読み取るべく躍起になるばかりで、その傍らで彼の音楽に巣食う大きな闇がぽっかりと口を空けている様など、想像も及ばなかった。

c0050810_727381.jpg  彼は生前、繰り返し書いているうちに手が規則を覚え、手が規則になると語ったけれど、今となってはそれが少し解る。自動書記的な彼の作法は、ある時から規則ではなく、古代の預言者たちが発した言葉を、誰か第三者が書き留めるような姿に変化していた。端から見れば、何も以前と何も違わないように見えただろうけれども、ここで彼の音楽の本質は自己欠如そのものであって、彼の音楽の強靭で超人間的な響きは、文字通りのディオニュソスであった。

  大量の抗糖尿病と時に精神安定剤がゴムで束ねられ、ピンナップ写真の丁度臀部の前辺りに雑然と積んである。ドナトーニの音楽に明るさや軽さを見出すとき、それは恐らく自然な発露の結果とは呼べないかも知れない。メフェストーフェレに誂えてもらった張りぼての至福かもしれないし、向精神薬で笑わされた喜びなき笑いかもしれない。

  ドナトーニが没してから我々が少しずつ理解してきたのは、そんな彼と音楽との絶望的な距離感ではなかったか。皮肉なことに、その距離感こそが彼の音楽を際立たせ、虚無の音符の裏側に、無限に広がる果てしない宇宙を映し出す。

  彼の音に気持ちを込めてはならない。彼はそれを望んでいなかった。彼は目の前で音楽が紡がれてゆくのを、預言者のように無条件に受容れ、じっと観察していたに過ぎない。そして我々は、誰にも帰属しない音符の持つ恐ろしい程の意志の強さを、等しく受け留めなければならぬ。彼は確かに音楽に「明快な声を与える」ことに成功し、それを書き残すことに成功した。

  時間には僅かな重さがあって、目に見えぬほど少しずつ、ただ永遠に積り続ける。
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by ooi_piano | 2015-10-04 06:38 | POC2015 | Comments(0)