7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

[増補] 11/3(祝・火) ジャン・バラケ全ピアノ作品+ブソッティ《クラヴィアのために》

POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

c0050810_1651085.jpg  «L’un des musiciens les plus géniaux et les plus méconnus de la génération actuelle.», disait Michel Foucault de Jean Barraqué. 「ジャン・バラケは、この世代の最も才能豊かで、最も知られていない音楽家の一人だ」(ミシェル・フーコー)

  「(・・・)バラケのソナタの演奏を断念したことについて、心よりお詫びを申し上げます。ニューヨークでお話をしたあと、この曲と格闘して多くの時間を費やしましたが、私が思いつくかぎりのどんな攻略法をもっても、人前に出せるだけの結果を生みだせるには至りませんでした。まったくのところ、先延ばしにするのは最もまずいことだという結論を出さざるをえませんでした――もしかすると、このソナタの音楽のかなりの部分はまだ作曲家の考えのなかにとどまっていて、紙のうえに表現されていないのかもしれないとも考えさせられました。この曲が私を非常にとまどわせるものだとよく認識できるまでに、1年かかりました。この曲の背後には、巨大な構造的思考があり、それは、具現化しようという望みの前につねに横たわっていました。しかし、私がここに投入することのできたあらゆる方策をもってしても、美学的に困難と思われる、という結論しか生み出しませんでした――そこで、私はこの作品にさらに関わり続けるのは愚かであると認めねばならなかったのです。このことが不首尾に終わってしまい、あなたに対してもバラケ氏に対してもひじょうに申し訳なく思います。あなたとバラケ氏をこのように長く失望させつづけてしまったことに、たいへん恥じ入っております。しかし、これほどまでに知的な期待にみちた作品をこれまでには知りませんでしたので、この現実にひじょうに失望しております。私ではなく他に、この曲をもっとうまくできる方が見つかることを心より祈っております。...あなたがフランスの曲をプログラムにのせてほしいと希望されていることは覚えておりますので、バラケのかわりにブーレーズの第2ソナタならご提案できます。もう一つの可能性としては、プッスールの変奏曲1&2もあります。私がフェスティバルの成功を望んでいますことをどうかおわかりいただけますよう! (1957年6月、デヴィッド・チューダーからナント音楽祭監督への手紙) 



c0050810_22541665.png大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第23回公演
ジャン・バラケ 全ピアノ作品 
2015年11月3日(祝)18時
開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


【演奏曲目】

シルヴァーノ・ブッソッティ(1931- ):《クラヴィアのために》(1961) [招待作品]  約25分

ジャン・バラケ(1928-1973):《回帰 Retour》(1947/48、日本初演) 約4分
《ソナタの間奏曲楽章 Intermezzo》(1949、日本初演) 約3分
《二つの断章 Deux morceaux》(1949、日本初演)  約3分
  I. Allegro - II. Mystérieux et angoissé avec de brusques éclats
《小曲 Pièce》(1949、日本初演) 約1分
《主題と変奏 Thème et variations》(1949、日本初演) 約5分

(休憩15分)

《ピアノ・ソナタ Sonate pour piano》(1950/52、新校訂版による日本初演) 約45分
  第一部 Très rapide - 第二部 Lent



c0050810_22551981.jpg  ジャン・バラケは1928年1月17日、オー=ド=セーヌ県ピュトー市生まれ。10代前半よりパリ・ノートルダム寺院聖歌隊員を務めつつ、ピアノを学ぶ。ジャン・ラングレに和声と対位法を師事した後、1948年~51年にオリヴィエ・メシアンの音楽分析クラスを受講。1951年~54年、ピエール・シェフェールの具体音楽研究集団に参加。1963年よりブソッティの友人であるフィレンツェの実業家、アルド・ブルッツィケッリの援助により楽譜を出版。代表的著作に《Debussy: ou l'approche d'une organisation autogène de la composition》(1962)(『ドビュッシー』平島正郎訳/白水社)。メシアンの推挙により1973年6月29日、フランス文化省より芸術文化勲章シュヴァリエを受章。同年8月10日片麻痺に襲われ脳内血腫手術を受けるも、同月17日パリにて永眠。1980年、アンリ・デュティユーを初代会長として、パリにジャン・バラケ協会が設立された。
  ピアノ独奏のための《回帰》は、1947年リセ卒業直後の習作。かつては司祭職をこころざしたこともあり、49年3月に宗教的テクストによる無伴奏合唱曲を書くものの、翌月にはセリエル技法による処女作である「無神論的な」無伴奏ヴァイオリンソナタを作曲。《2つの断章》は同年6月10日完成、第1曲は《弦楽四重奏曲》第2楽章のピアノ版である。《小品》は同年10月17日完成、同じく《弦楽四重奏曲》第1楽章のピアノ版にあたり、「提示-実践-再現-終結」の序言が付されている。《ソナタの間奏曲楽章》も同年の作と推測されるが、他の楽章は発見されておらず、また1950~52年に書かれた「ソナタ」とは無関係の作品である。《主題と変奏》は、《弦楽四重奏曲》の変奏楽章に併行して書かれ、1949年12月5日に完成。これらの未出版作品は、2011年10月5日ストラスブールにてニコラス・ホッジスにより公開初演された。
  長大な《ピアノ・ソナタ》は1950年から52年にかけて作曲され、概して速い第1部(全420小節)、それに連続する概して遅い第2部(全317小節)から成る。1957年10月にイヴォンヌ・ロリオによりLP用に録音された後、1966年に上記ブルッツィケッリにより公刊され、その翌年4月24日にコペンハーゲンで、デンマーク人ピアニスト、エリザベート・クラインによって公開世界初演が行われた。


ヨーロッパ戦後前衛第一世代の光と影(そしてバラケもそこにいる) ───野々村 禎彦

c0050810_22574791.jpg POC第2期で取り上げられた4人の作曲家、クセナキス(1922-2001)、リゲティ(1923-2006)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007)、まさにヨーロッパ戦後前衛第一世代の「光」を代表する存在だった。今回の主役のジャン・バラケ(1928-73) は、彼らに劣らない才能を持ちながら「影」に甘んじて早世した作曲家の代表にあたる。ただし、人生には運不運はつきもの。彼は1964年に自動車事故に遭った。後遺症に悩まされながらも多くの作品を並行して書き進め、1968年には気力を振り絞って2作を完成させたが、この年の暮れに自宅アパートがガス漏れで全焼してしまった。幸い怪我はなく、膨大な草稿も持ち出せたが、それをまとめ上げる気力と体力は彼には残っていなかった。だが、それが不運だけで片付けられるものなのかは検討する余地がある。そこでまず、「光」の4人の歩みを簡単に振り返り、そこから読み取れるものをまとめてみよう。

 ブーレーズはメシアン初期の弟子たちの中では飛び抜けた優等生で、その技術と12音技法を結び付けた作品群で20歳代前半から将来を嘱望されていた。特に《ピアノソナタ第2番》(1948) は、古典的形式の解体を意図した4楽章構成がベートーヴェンのソナタ29番を思わせる、ヨーロッパ戦後前衛最初の歴史的作品になった。12音技法のセリー書法をすべての音楽要素に拡張した総音列技法は、メシアン門下生のフイヴァールツ(1923-93) が完成した。すべての音楽要素が均質化された音世界はあらゆる伝統から隔絶したものだったが、ブーレーズは《構造I》(1951-52) でこの技法を採用し、直接管理されない音楽要素に偏りを持たせて伝統的なダイナミズムを回復した。代表作《主なき槌》(1953-55) では、ヴェーベルンとストラヴィンスキーの音世界をこの技法が仲介する。彼はケージのプリペアド・ピアノ作品を高く評価し、40年代末から50年代初頭にかけて親交を結んだが、偶然性の音楽の本質がヨーロッパの伝統である音楽的構築の否定だと気付くと、一転して「怠惰による偶然性」と強く非難し、その毒を奏者による断片の選択に矮小化した「管理された偶然性」を提唱した。この新技法とドビュッシーの音色探求を結び付けたのがもうひとつの代表作《プリ・スロン・プリ》(1957-62) だが、彼本来の緊密な構築感を弱める方向に働くこの技法との相性は悪く、この作品を最後に活動の中心を指揮と教育活動に移すことになる。ただし、20世紀前半の美学を盛る器として前衛諸技法を用いる姿勢には限界があり、結果的に絶妙なタイミングで勝ち逃げに成功した。

c0050810_2259116.jpg シュトックハウゼンはブーレーズに代わってヨーロッパ戦後前衛を牽引する立場になってゆくが、彼にはブーレーズのような20世紀前半の美学への愛着はなく、辛い青少年時代を思い出させる伝統的な音楽とは隔絶した、フイヴァールツ流の総音列技法に惹かれて作曲を志した。その後ブーレーズ流のダイナミックな書法に転換するが、彼には伝統を回復する意図はなく、ルールを拡張して新たな音楽要素を管理の対象にすると、音世界が一変する面白さに魅せられたのだろう。彼は総音列技法を拡張する一方で電子音楽にも積極的に取り組み、《少年の歌》(1955-56) で一躍注目を集めた。正弦波発振音の加算合成に拘る狭義の電子音楽の枠を超えて、少年の歌声も素材にしたのがこの作品の新しさだが、セリー概念を拡張して発振音も人声も同列に扱ったことがポイント。《クラヴィア曲X》(1954-61) は彼の総音列技法の総決算になった。彼は「管理された偶然性」をまずブーレーズに倣って取り入れたが、その後本家のケージを研究して思索を深め、音響素材と音楽の成り行きのみを指定する、「管理された即興」と呼べる新様式に至った。この書法とライヴエレクトロニクスを融合させた《ミクロフォニーI》(1964) から、彼は再び旺盛な創作を始めた。以後の彼の歩みは割愛するが、戦後前衛の転換点を乗り越えるには、このくらい大胆に発想を拡張してゆく必要があった。

 メシアンの弟子の中でも、クセナキスは最劣等だったのは疑いない。祖国ギリシアでは戦中戦後とゲリラ闘争に明け暮れた彼の作曲技術は、亡命先のフランスでは嘲笑される水準だった。だがメシアンは彼を温かく励まし、「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に使わないのか?」と助言した。やがて彼は、音楽を周波数と時間の2次元グラフ上の図形と捉えてまず「外骨格」を直観的に作り、内部構造を推計学・集合論・群論などの知識を駆使して埋めてゆく、真に伝統から隔絶した作曲法を編み出した。彼の作曲理論書を読む限り、「使えそうな数式を借用した」程度の理解にも見えるが、重要なのは「最小要素を積み上げて大伽藍を築く」伝統的作曲技法(総音列技法はその極致)と対照的な音楽思考の方で、「高度な数学」自体は劣等生が「俺の理論は奴らよりも高度」だと自信を持って作曲するための呪文で構わない。本来の意味の「前衛音楽」である彼の音楽は聴衆にも批評家にもなかなか理解されなかったが、大指揮者シェルヘン(1891-1966) はその斬新さをいち早く見抜き、デビュー作《メタスタシス》(1953-54) 以来、彼が新作を書き上げるたびに演奏を手配し、多くを初演した。その音響をより伝統的な手法で再現した、ペンデレツキ(1933-) やリゲティの作品の方が世間では早く認められたが、大オーケストラを聴衆の間に分散した《テレテクトール》(1965-66) で評価を確立した。彼くらい隔絶した存在には「戦後前衛の転換点」など関係なかった。

c0050810_2321650.jpg リゲティはハンガリーで生まれ育ち、バルトークを受け継いで無調化をさらに進めたような作品を書いていただけに、ハンガリー動乱以降のソ連支配が強まる中で弾圧を恐れ、着の身着のままで西側に亡命した。ヨーロッパ戦後前衛の本場との圧倒的な格差を目の当たりにした彼が、生き残り戦略として選んだのは、バルトーク流ポリフォニー書法の土台の上に流行の書法を節操なくトッピングする二番煎じ戦略と、総音列技法と偶然性の音楽という「本流」だけは無視して差別化を図る逆張り戦略だった。クセナキス作品の本質的な新しさを同業者として見抜き、その音響を半音階堆積で実現した「ミクロ・ポリフォニー書法」で評価を確立してからも変遷を続け、前衛の時代をトップランナーのひとりとして駆け抜けた。その後、自らの歩みに虚しさを覚えてスランプに陥った時期もあったが、ナンカロウ(1912-97) のポリリズムと出会う「ヴェーベルンとアイヴズ以降で最大の音楽的発見」を契機に創作意欲を取り戻し、《ヴァイオリン協奏曲》(1989-93) を頂点とする、ポリリズムと音律探求(民謡収集に由来する)を融合した作品群に至った。小手先の戦略に頼らない後期作品の充実は彼の音楽的実力を示しているが、そんな彼もかつては小賢しい戦略に頼らざるを得なかったことは、20世紀前半の美学の持ち主が「戦後前衛の転換点」を乗り越える際の困難を示している。

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c0050810_233155.jpg ここでようやくバラケだが、本日演奏されるピアノ独奏曲は初期の習作と作品1にあたる《ピアノソナタ》(1950-52) のみなので、ことさらに伝記的細部には触れない。彼が終生偏愛した作曲家はベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ドビュッシー。20世紀前半で好んだのはヴェーベルンら数名、新古典主義は総じて好まず、ストラヴィンスキーはもちろんラヴェルも苦手だったという。彼は《ピアノソナタ》を、ブーレーズの《第2ソナタ》を横目で見ながら精緻な12音技法で書いた。元々ベートーヴェンを偏愛する彼が、ベートーヴェンを意識した先輩の曲を参照して書き上げたら、おのずとベートーヴェン的になる。長大な演奏時間から29番と比較されることが多いが、ブーレーズ作品にも共通するJ.S.バッハの衣鉢を継ぐポリフォニーはバラケ作品にはない。急緩の2楽章構成という点からも、比較すべきは32番だろう。ただし第2楽章の佇まいは対照的。天上に昇りつめてゆくベートーヴェン作品に対し、バラケ作品では音楽は徐々に希薄になり、虚無の奈落に堕ちてゆく。

c0050810_2342445.jpg ソナタと並行してソプラノとアンサンブルのための《セカンス》(1950-55) を書き始め、ソナタを完成するとGRMスタジオに通ってミュジック・コンクレートの《習作》(1952-53) を制作し、《セカンス》が完成するとソプラノ、合唱、管弦楽のための《復元された時間》(1956-57/67-68) の草稿を書き上げ、続けて声と4群のアンサンブルのための《…偶然の彼方に》(1958-59) を完成した。彼は寡作な作曲家とされるが、この時期の生産性は同時期のブーレーズと比べてもさほど見劣りしない。違いがあるとすれば、ブーレーズは作品がある程度まとまった時点でまず発表し、その後加筆改訂することが多かったのに対し、バラケは完成まで発表することはなく、またブーレーズはいったん発表後撤回した作品も少なくないのに対し、バラケにはそのような中途半端な姿勢はない。

 《復元された時間》以降に書かれた作品はみなヘルマン・ブロッホの小説『ヴェルギリウスの死』に基づいている。彼は1952年から55年まで後の大哲学者フーコーと恋愛関係にあり、別れ際に手渡されたのがこの小説だった。彼はしばしば、不当に低く評価されてきた作曲家として言及されるが、60年代以降発表した作品は《復元された時間》の完成稿の他には声、ピアノ、打楽器アンサンブルのための《歌に次ぐ歌》(1966) とクラリネット、ヴィブラフォン、6群のアンサンブルのための《コンチェルト》(1962-68) に留まり、同時期に自由なセリー技法を用いていた作曲家たち:松平頼則、篠原眞、スペインのアルフテルとパブロ、旧ソ連のデニソフらの作品よりも歴然と見劣りする。だが《ピアノソナタ》の録音だけでも生前に3種類も発売されており、むしろ十分な関心を集めていた。フーコーが別離後も折に触れて彼を賞賛し続けたことも、そのひとつの要因だろう。

 《…偶然の彼方に》以降の彼の仕事で特筆すべきは、むしろ独自のドビュッシー観の提示である。従来の見方では、全音音階などの非調性的な音組織の導入がドビュッシーの業績であり、音組織の面ではバロック回帰した晩年の作品群は新古典主義の端緒とされてきた。だが彼は、伝統的な動機労作に依らず「既存の鋳型の助けを借りることなく、それ自身によって推進してゆく」《開かれた形式》こそがドビュッシーの音楽の本質であり、それが全面的に開花したのが晩年の作品群だと主張した。この主張に基づいて《海》を分析した論文で音楽博士号を取得し、ドビュッシーの評伝(1962, 邦訳あり) も執筆した。この論文準備中に書き上げた《…偶然の彼方に》から採用した、セリーをDNAの組み換えのように《増殖》させる手法は、「それ自身によって推進してゆく」発想に由来している。また最後の作品《コンチェルト》ではセリー書法による部分と明確な調性を持つ部分が交替するが、それを「異質な要素の対比」ではなく、ひと続きの推移としてまとめているのも、この音楽観の帰結だろう。ただし、彼の発想は「既存の要素の並べ方の工夫」に留まり、シュトックハウゼンのような大胆な概念の拡張には至らなかった。ガムラン音楽に「これと比べたら、パレストリーナなど児戯に等しい」《対位法》を聴き取る、ドビュッシーの域に達することはできなかった。

c0050810_2361866.gif 彼の「低評価」の要因として、総音列技法とは異なる形でセリー技法を用いていたこともしばしば挙げられるが、クセナキスやリゲティと比べたら差異は小さい。《セカンス》も《…偶然の彼方に》もブーレーズが主宰するドメーヌ・ミュジカルで初演された。技法の僅かな差異を理由に主流派から冷遇された、とは考えにくい。結局、彼が「光」の側には入れなかったのは、60年代初頭の「戦後前衛の転換点」を乗り越えられなかったからだ。彼のような20世紀前半までの美学の持ち主にはこのハードルは高く、リゲティのように戦略的に立ち回るか、ブーレーズのように他分野で記憶されて名声を維持するか。総音列技法の開発者の座を同門の後輩ブーレーズに奪われたフイヴァールツは、雌伏の後ミニマル書法を習得してしぶとく復活したが、バラケは自らの美学と心中する道を選んだ。『ヴェルギリウスの死』は実はそういう話だが、そもそも《ソナタ》の音楽的成り行きが彼の歩みを予言していた。そのような意味でも、《ソナタ》は彼のデビュー作にして代表作なのである。
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by ooi_piano | 2015-10-29 15:58 | POC2015 | Comments(0)