11/23(月・祝) ブル9+マラ9 ピアノ独奏版 (上)

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c0050810_126309.jpg2015年11月23日(月・祝)18時開演(17時半開場)
芦屋・山村サロン(JR芦屋駅前ラポルテ3階) 全自由席 3,000円
予約・お問い合わせ 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com

●A.ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(1894) [全3楽章](約60分)
 ~F.レーヴェ(1865-1925)によるピアノ独奏版(1903)(日本初演)
 第1楽章 Feierlich, misterioso
 第2楽章 Scherzo. Bewegt, lebhaft – Trio. Schnell
 第3楽章 Adagio. Langsam, feierlich

(休憩15分)

●G.マーラー:交響曲第9番ニ長調(1909/10)[全4楽章](約80分)
 ~A.ブライアー(1961- )によるピアノ独奏版(1993)[第1楽章~第3楽章](関西初演) + P.ステルヌ(1977- )によるピアノ独奏版(2006/15)[第4楽章] (日本初演)
 第1楽章 Andante comodo
 第2楽章 Im Tempo eines gemächlichen Ländlers
 第3楽章 Rondo-Burleske
 第4楽章 Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend


大井浩明 Hiroaki OOI (ピアノ独奏)
c0050810_3522731.gif  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。第3回朝日現代音楽賞(1993)、第11回アリオン賞奨励賞(1994)、第4回青山音楽賞(1995)、第9回村松賞(1996)、第11回出光音楽賞(2001)、第61回文化庁芸術祭新人賞(2006)、第15回日本文化藝術奨励賞(2007)等を受賞。これまでにNHK交響楽団、新日本フィル、東京都交響楽団、東京シティ・フィル、仙台フィル、京都市交響楽団等のほか、ヨーロッパではバイエルン放送交響楽団、ルクセンブルク・フィル、シュトゥットガルト室内管、ベルン交響楽団、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(パリ)、ASKOアンサンブル(アムステルダム)、ドイツ・カンマーオーケストラ(ベルリン)等と共演。
  近年は交響曲のピアノ演奏に力を入れ、ハイドン:第100番《軍隊》/第101番《時計》/第103番《太鼓連打》/第104番《ロンドン》(A.ホルン編/独奏版)、モーツァルト:第23番/第25番/第26番/第29番/第31番《パリ》/第32番《序曲》/第33番/第34番/第35番《ハフナー》/第36番《リンツ》/第38番《プラハ》/第39番/第40番/第41番《ジュピター》(A.ホルン+F.ブゾーニ他編/独奏版)、1846年製J.B.シュトライヒャー/1846年製プレイエル/1852年製エラールによるベートーヴェン:第1番~第9番(F.リスト編/独奏版)(NHK-BS『クラシック倶楽部』で放映)、ベルリオーズ:《幻想交響曲》(F.リスト編/独奏版)、ブラームス:第1番~第4番(O.ジンガー編/独奏版)、ブルックナー:第7番(作曲者+C.ヒュナイス編/独奏版)、同:第8番(J.シャルク編/連弾版)、マーラー:第1番《巨人》(P.ステルヌ編/独奏版)、同:第2番《復活》(H.ベーン編/2台ピアノ版)、同:第4番(J.V.ヴェス編/連弾版)、同:第5番(O.ジンガー編/独奏版)、同:第6番《悲劇的》(A.ツェムリンスキー編/連弾版)、同:第7番《夜の歌》(A.カゼッラ編/連弾版)、同:第8番《千人の交響曲》(J.V.ヴェス編/連弾版)、同:第9番(A.ブライアー編/独奏版)、同:第10番《アダージョ》(R.スティーヴンソン編/独奏版)、同:《大地の歌》(作曲者編/ピアノ伴奏版)、スクリャービン:第4番《法悦の詩》(L.コニュス編/2台ピアノ版)、ショスタコーヴィチ:第4番(作曲者編/2台ピアノ版)、オネゲル;第3番《典礼風》(D.ショスタコーヴィチ編/2台ピアノ版)等を取り上げている。




《人生きては別離足つ ~「生からの別れ」を描いた二つの第9交響曲》 ───甲斐貴也


■フェルディナント・レーヴェ - ブルックナー・マーラー・ヴォルフの使徒

c0050810_129369.jpg  ブルックナーの交響曲第9番の初版楽譜「改竄」者として、今日悪名高いフェルディナント・レーヴェFerdinand Löwe(1863-1926)は、一方で当時指折りの偉大なブルックナー指揮者であり、師ブルックナーの音楽の普及に努めた熱烈なる使徒であるとともに、敬愛するマーラーと親友ヴォルフの作品紹介にも尽力した功労者であった。
  1863年ウィーンに生まれたレーヴェは、まずピアノ演奏で頭角を現し、1872年ウィーンのピアノ教師エドゥワルト・ホラークのピアノ学校(現在のフランツ・シューベルト音楽院)に学んた。1877年ウィーン楽友協会音楽院に入学、パハマンの師でもあるヨゼフ・ダックスにピアノを、フランツ・クレンに作曲を、そしてブルックナーにオルガンと対位法を学んだ。同学院でレーヴェは後に初版の校訂で同じく名を残すフランツ、ヨゼフのシャルク兄弟、シリル・ヒュナイスらと共にブルックナーのお気に入りの生徒となり、1875年に入学していたマーラー、フーゴー・ヴォルフらとの親交を得た。ヴォルフとシャルクとは、ワーグナーへの熱狂で意気投合し、共にバイロイトを訪ねてワーグナーの楽劇を鑑賞した。レーヴェはヴォルフの歌曲作曲やオペラの台本探しを助け、歌曲作品演奏会でピアノを弾くこともままあった。
  音楽院卒業後は、同学院で1897年までピアノ科と合唱科の教授を勤めるかたわら、オーケストラの指揮活動を始め、師ブルックナーの第4交響曲の出版譜校訂に携わる(1889年出版)。1895年にはミュンヘンのカイム管弦楽団(現ミュンヘン・フィル)を指揮して第4交響曲初版を演奏。同年ブダペストに赴き、フランツ・シャルクが校訂しグラーツで初演した第5番初版をブダペスト・フィルを指揮して演奏。ついでミュンヘンでも演奏して大成功を収めた。この時の5番の名演奏ぶりは、ブラームスの友人でブルックナーを攻撃したことで有名な批評家マックス・カルベックまでもが、絶賛する評を寄せたほどであった。

  《熟練した大家の忍耐強い愛だけが,この鳴り響く混乱から,秩序だった世界を築き上げることに到達できた。混乱の中にある秩序だった世界を・・・(略)・・・彼の交響曲は,価値の高い細部において豊かで,トロンボーンによるコラールを伴う終結部は,あるときは教会の雲の中へ高められた変容のように,あるときには天から落ちてくる最後の審判のように現れる。その終結部は,響きの尊厳においてベルリオーズ以来この点に関して成し遂げられたものすべてを凌駕している。》(『新ウィーン日刊新聞』) (渡辺美奈子訳)

c0050810_1312010.jpg  レーヴェはこの年カイム管弦楽団の首席指揮者に就任し、在任中にブルックナーの交響曲を次々と上演して評判を高め、同管弦楽団は「ブルックナー・オーケストラ"Bruckner-Orchester"」の異名を得ることとなった。
  1898年にはオペラ指揮者となる念願がかない、ウィーン宮廷歌劇場芸術総監督となっていた先輩マーラーの元で副指揮者を勤めたが、これはレーヴェが不確定要素の多いオペラ上演よりも、交響楽団の指揮に適性があることを示す結果となり、わずか1年という短期間で契約満了になった。マーラーの助手を事実上解任された形とは言え、二人の友好関係は継続していくこととなる。その間1899年4月ウィーン・フィルに客演してブルックナーの交響曲第5番ウィーン初演を指揮し、反ブルックナー派を沈黙させる大成功を収めた。フランツ・シャルクによりワーグナー風に編曲された第5番初版の相次ぐ大成功は、レーヴェにそうした校訂への確信を深めさせたことだろう。
  1900年、ウィーン楽友協会はウィーン市民に高まるオーケストラ演奏会への需要に応えるべく、主催する予約演奏会で演奏する専属のオーケストラ(ウィーン・フィルは楽友協会とは別組織である)を改組し、市民のためにより低価格で多くの演奏会を開き、新作の上演も積極的に行う、ウィーン演奏協会(コンツェルトフェライン)管弦楽団を設立、演奏協会監督および首席指揮者にレーヴェが就任した。レーヴェは現在ウィーン交響楽団として知られるこのオーケストラで師ブルックナーの作品を上演プログラムに多く組み、精力的に演奏した。第一次大戦の勃発と終戦、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を跨ぐ、レーヴェ治世下26年のウィーン演奏協会におけるブルックナー作品上演リストは驚くべきものである。

c0050810_3594093.gif 1900年:3番(第2稿1877/78)、4番
 1901年:5番、7番
 1902年:4番、6番、テ・デウム
 1903年:4番、8番、9番(世界初演)&テ・デウム、9番〔単独2回〕、ミサ曲3番
 1904年:2番(1877初版)、3番(初稿1873)、4番〔2回〕、8番、9番〔4回〕
 1905年:1番(リンツ稿)、9番〔2回〕
 1906年:3番(初稿1973)〔2回〕、4番〔2回〕、7番〔2回〕、8番、9番
 1907年:1番(ウィーン稿)、3番(初稿1973)、5番、7番〔2回〕、9番
 1908年:3番(初稿1973)、4番〔3回〕、5番〔3回〕、8番、9番
 1909年:3番(初稿1973)、4番、7番〔4回〕、6番
 1910年:1番(リンツ稿)、2番(1877)〔3回〕、3番(初稿1973)〔2回〕、3番(第3稿1889)〔9回〕、4番〔6回〕、5番〔4回〕、9番、ミサ曲2番
 1911年:1番(ウィーン稿)、2番、3番(第2稿1877)〔3回〕、4番〔7回〕、5番、6番、7番〔2回〕、8番〔2回〕、9番
 1912年:2番、4番、7番〔5回〕、8番、9番
 1913年:0番〔2回〕、1番(ウィーン稿)、3番(第2稿)、4番〔2回〕、5番〔5回〕、7番、8番、ミサ曲2番、ミサ曲3番、テ・デウム
 1914年:3番(第2稿)、5番、7番〔3回〕、8番〔2回〕、9番〔2回〕、ミサ曲1番
 1915年:2番、3番(第2稿)、4番〔4回〕、5番、6番〔3回〕、7番〔3回〕、ミサ曲1番、テ・デウム
 1916年:1番(ウィーン稿)〔3回〕、2番〔2回〕、3番(第2稿)〔2回〕、4番、9番&テ・デウム、ミサ曲1番
 1917年:3番(第2稿)〔2回〕、3番(第3稿)〔3回〕、4番〔3回〕、5番〔2回〕、7番、9番、ミサ曲1番、ミサ曲3番〔2回〕、テ・デウム
 1918年:2番、3番(第2稿)、3番(第3稿)、4番〔6回〕、6番、8番、詩篇第150篇
 1919年:3番(第2稿)〔4回〕、4番、5番、6番、7番~アダージョ(レーヴェ編)、8番、9番&テ・デウム〔2回〕、ミサ曲1番、ミサ曲3番、詩篇第150篇
 1920年:1番(ウィーン稿)、2番、3番(第2稿)、4番〔3回〕、5番〔3回〕、7番〔3回〕、9番
 1921年:1番(ウィーン稿)、3番(第3稿)、4番〔2回〕、5番、6番、7番、8番〔5回〕、序曲ト短調、詩篇第150篇〔2回〕
 1922年:3番(第3稿)〔2回〕、4番〔9回〕、5番〔2回〕、7番〔4回〕、8番、9番&テ・デウム
 1923年:1番(ウィーン稿)、2番〔3回〕、4番〔5回〕、6番、7番、8番、9番&テ・デウム〔2回〕、9番〔2回〕
 1924年:2番、3番(第3稿)〔2回〕、5番、6番、7番〔3回〕、8番〔3回〕、9番&テ・デウム、9番(5月9日レーヴェ指揮による最後の演奏会)、ミサ曲3番
 1925年:2番、3番(第3稿)〔2回〕、4番〔2回〕、5番〔4回〕、6番、7番、8番、テ・デウム〔2回〕


c0050810_44437.gif  指揮は多くがレーヴェ自身の他、マルティン・シュペルMartin Sporr(1866-1937), アントン・コンラートAnton Konrath(1888-1981)〔ウィーン響を指揮した第3番初版第3楽章のSP録音がある〕, オスカル・ネドバルOskar Nedbal(1874-1930)〔チェコの作曲家でボヘミア四重奏団のヴィオラ奏者、ウィーン・トーンキュンストラー管創設者〕という当時のウィーン演奏協会の指揮者に加え、ウィーン・フィル常任指揮者のフランツ・シャルクや若きフルトヴェングラーらが客演している。稿の記載の無い4,5,6,7,8番は初版と思われるが、第1番と第3番で複数の稿を交互に繰り返し上演しているのが目を惹く。1911年にはブルックナー交響曲全曲演奏会を敢行している。同時期のウィーン・フィルは、演奏会の数そのものが演奏協会より少ないとは言え、1924年の作曲家生誕100年の年を除き、年平均2曲程度しかブルックナーを上演していない。第9番原典版スコアのノヴァークによる序文で言及されている、「ブルックナーの全作品に対するレーヴェの功績はそれでも、ザンクト・フローリアンの巨匠のためにかつて人が行った最も偉大な手柄のひとつに数えられよう」という最大級の賛辞は、このような業績に対して与えられたものなのだ。
  レーヴェは楽団員に室内楽を奨励したが、それに応じて、1912年にマンハイムから招聘した若きコンサートマスターのアドルフ・ブッシュが、ヴィオラのカール・ドクトル、チェロのパウル・グリュンマーらウィーン響首席奏者と結成したウィーン・コンツェルトフェライン弦楽四重奏団は、高名なブッシュ弦楽四重奏団の母体となった。ピアノの名手で、ブラームスのピアノ入り室内楽にも高い見識を持っていたレーヴェは、第一次大戦中の1915年から1917年にかけて、ブッシュ、グリュンマーとのピアノ三重奏も行っていたという。
  レーヴェはマーラーの音楽も当初は少な目ながら次第に上演回数を増やし、マーラーの没後、特に第一次大戦以降はブルックナーと肩を並べるウィーン演奏協会の重要レパートリーになっている。但し、レーヴェ自身はあまり指揮を執らず、ほとんどは僚友や若手に任せているのが、ブルックナー作品への取り組み方との違いであろう。

c0050810_45347.gif 1902年:2番~原光
 1904年:1番
 1907年:6番(マーラー指揮)
 1908年:1番(レーヴェ)
 1909年:3番(ワルター)、4番、5番、7番(レーヴェ:ウィーン初演)
 1911年:1番、2番(ワルター)、3番、4番、6番
 1912年:8番〔2回〕(ワルター)、『大地の歌』(ワルター)
 1913年:4番〔3回〕、『子供の死の歌』(シェーンベルク指揮により、他にヴェーベルン、ベルク、ツェムリンスキーが演奏された)
 1914年:1番、5番、9番、『子供の死の歌』
 1915年:4番〔2回〕
 1916年:1番、2番〔2回〕、4番
 1917年:1番(ワルター)、2番、3番、4番、『大地の歌』〔2回〕、『さすらう若人の歌』、『子供の死の歌』
 1918年:『嘆きの歌』(1880 初稿)、3番(レーヴェ)、5番~アダージョ、『大地の歌』
 1919年:1番、2番(ワルター)〔2回〕、2番(オスカー・フリート)〔4回〕、3番(フルトヴェングラー)、4番〔4回〕、5番(ワルター)、9番(フリート)、『大地の歌』〔2回〕(ツェムリンスキー)
 1920年:1番(フリート)、2番(フリート)〔2回〕、3番(フリート)、3番〔2回〕(フルトヴェングラー)、4番〔4回〕(シャルク、フリート他)、5番(レーヴェ)、6番(フリート)7番(ワルター)、『大地の歌』〔3回〕(フリート他)、『嘆きの歌』(第2稿:フリート)、『さすらう若人の歌』〔4回〕
 1921年:1番〔2回〕(フルトヴェングラー)、2番(フルトヴェングラー)、3番(シャルク)、4番〔4回〕、5番、『大地の歌』〔2回〕(シューリヒト、フリート)、『さすらう若人の歌』〔3回〕(シャルク他)
 1922年:1番〔2回〕(ホーレンシュタイン)、2番〔2回〕(ワルター)、3番〔2回〕(アントン・ヴェーベルン)、4番、『大地の歌』、『さすらう若人の歌』〔2回〕、『子供の死の歌』〔4回〕
 1923年:4番〔3回〕、5番(レーヴェ)、『さすらう若人の歌』〔2回〕
 1924年:2番、4番〔2回〕(クナッパーツブッシュ他)、7番〔2回〕(クレメンス・クラウス)、『大地の歌』(フリッツ・シュティドリー)、『さすらう若人の歌』〔3回〕
 1925年:1番(クラウス)、2番〔3回〕(クラウス)、3番(クラウス)、4番〔4回〕(クラウス他)、5番、『大地の歌』〔6回〕(クラウス、クナッパーツブッシュ他)、『さすらう若人の歌』〔2回〕


c0050810_463612.gif  今日その演奏が知られている指揮者に限り名前を書いたが、若きクナッパーツブッシュがブルックナーではなくマーラーを振っているのが興味深い。この他、ウィーン演奏協会主催のピアノ伴奏による声楽作品演奏会で、マーラーの歌曲が多く取り上げられている。
  親友ヴォルフのオーケストラ作品、声楽作品もまた、没年の1903年(2月22日、奇しくもレーヴェによるブルックナー9番初演の10日後である)からは毎年上演されいてる。26年間に、交響詩『ペンテジレーア』11回、『イタリアのセレナード』弦楽合奏版25回、歌劇『お代官様』前奏曲と第3幕の音楽2回、合唱と管弦楽のための『祖国に』8回、『6つの宗教的合唱曲』(ジョージ・セル指揮)、その他多くの歌曲が上演され、1905年と1910年には、オール・ヴォルフ・プログラムの歌曲演奏会が開催されている。 
  そしてレーヴェは死の前年1925年に出演した3回の演奏会で全てブルックナー作品を指揮、最後の回においてはブルックナーの第9番を振って、その音楽家として、師ブルックナーの使徒としての生涯を締めくくった。その人柄は、マーラー、ヴォルフらエキセントリックな天才や、風変わりなブルックナーと異なり、穏やかで人望が高かったという。
c0050810_48212.gif  このように、師ブルックナーと友人たちに献身的だった好人物が、本当に師の作品を改竄したのだろうか。1920年代にレーヴェの元でたびたびブルックナーを演奏していたヴィオラ奏者ジョセフ・ブラウンスタイン(1892-1996)とフルトヴェングラーは、レーヴェが勝手な改変を行ったとは考えられないと証言している。同じくレーヴェを直接知るクナッパーツブッシュ、ジョージ・セル、ヨゼフ・クリップス、チャールズ・アドラーなどの指揮者も、原典版使用が一般的になった戦後までレーヴェ版を演奏し続けた。
  だが残念ながら、レーヴェの改竄容疑は限りなく黒に近いようだ。デルンベルクによれば、フランツ・シャルク校訂の第5番と、レーヴェ校訂による第9番初版の自筆譜との異同の多さは早い段階で問題になっていた。レーヴェはブルックナー自身が印刷用原稿に訂正を書き入れたのだと断言していたが、それについての討論会が、紆余曲折の末、宮廷歌劇場内のシャルクの事務所で開かれた折、証人として招かれたレーヴェは出席を拒否した。そしてこの改竄の度合いが大きいと思われる2曲に限って、編者に返却されるか出版業者が保管するはずの印刷用原稿が当時から紛失しており、ブルックナーの筆跡による修正の跡や承認のサインなどの証拠がないというのである。
  1906年6月、レーヴェによる初演のわずか3年後に、カイム管弦楽団でレーヴェ版ブルックナー第9を指揮し、弱冠20歳で指揮者デビューしたフルトヴェングラーは(父親が楽団オーナーのカイムの友人であったことから実現した演奏会という)、レーヴェ版についていくつかの異なった発言を残している。

c0050810_495477.gif  《レーヴェによるブルックナーの第九交響曲の改訂が特筆に値する労作であることがわかってきた。(中略)レーヴェはまず第一に管弦楽法を柔軟化し、それによって内容がより明確に聴き取れるようにと心がけている。この意味において、彼の修正はどこまでも実演者による改訂であると言ってよい。(中略)レーヴェがブルックナーの理念を放棄することなく現存する諸関係に適応させた強弱法についても、これと同じことが言える。(中略)第三に、レーヴェはしばしば主題にもとづいて楽句を仕上げたり、経過句をつくったりしている。これらはもちろん原譜からの明らかな逸脱を示すものである。たとえこれに関する詳細は不明であるにせよ、レーヴェの心に浸みわたっていた巨匠に対するかぎりない崇拝の念、また彼の作品に対する忠実さを考えれば、レーヴェがこれらの改訂をブルックナーの合意なしに企てるというようなことは決してなかっただろうとわたしは考えている。》(1934年のカレンダーへの書き込み。『フルトヴェングラー 音楽ノート』芦津丈夫訳)

c0050810_10295061.gif  《巨匠と親しく交友し愛していた、真摯な、着実な人々、シャルクやレーヴェのような音楽家たちは、彼が生きていた時代には、彼の作品をその原形のままで聴衆の前に演奏することは、明らかに不可能だと考え、それをそのまま端的に理解させることに絶望していました。彼らはそれに橋を架し、媒介しようと試みました。これらのシンフォニーの編曲はそのような架橋を、そのような媒介作業を物語っているのです。》(1939年の国際ブルックナー協会における同協会会長としての講演より。『音楽の手帖ブルックナー』芳賀檀訳)
  《〔1953年にフランクフルトで会ったフルトヴェングラーに〕「おまえ、最近にはどんな曲をやるんだ」と聞かれたので、「ブルックナーの〈9番〉だ」と答えたのです。すると彼は、「あれは非常にいい作品だから結構だ。時にどの版でやるのか」と、こうきたわけです。私はムニャムニャといい加減な返事をしたら、彼は「ブルックナーは絶対に原典版でやらなくてはいけない。それだけは注意しなさい。その辺の楽器屋にあるから買って帰りなさい」と言われました。》(『朝比奈隆 音楽談義』小石忠男編)

c0050810_413253.gif  フルトヴェングラーは4番と7番は初版を演奏しているので、朝比奈の証言での発言は、9番に限ってのことと考えられる。ブルックナーの音楽を深く愛し、レーヴェの人柄を身近に親しんだフルトヴェングラーの発言の変遷は、レーヴェの功罪と改訂版・原典版問題の難しさ、そして苦渋を伴ったであろうその結論の重みを窺わせるものである。
  レーヴェが何度も指揮したヴォルフの交響詩『ペンテジレーア』も、ヨゼフ・ヘルメスベルガー校訂の初版(1903)には169小節もの省略と楽器編成の変更があったが、これにレーヴェの手も加わっているとして、ヴォルフの伝記著者デチャイはレーヴェを編曲者と呼んだ。レーヴェによる1904年の初演は華々しい成功を収めたという。ブルックナーと同じくロベルト・ハースの校訂により、国際フーゴー・ヴォルフ協会から原典版が出版されたのは1937年のことであった。 (→つづき
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by ooi_piano | 2015-11-17 06:58 | Comments(0)