7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


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11/23(月・祝) ブル9+マラ9 ピアノ独奏版 (下)

(つづき)

■ブルックナー9番「初版」(レーヴェ版)

c0050810_423354.gif  1887年、第8交響曲の作曲を完了したブルックナーは,直ちに第9番の作曲に取りかかったが、信頼する大指揮者ヘルマン・レヴィの否定的評価により第8の改訂に着手、また初期の第1番の改作にも取り組んだため、作曲の進行は遅々として進まなかった。その間の健康状態の悪化のため、第3楽章作曲中の1894年には、第4楽章が未完に終わることを予感し、自作の声楽曲「テ・デウム」をその代わりに演奏するようにと発言したが、その後第4楽章の作曲はかなりの程度進行し、一旦完成まで間もなくのところまで達していた1896年10月11日、午前中作曲に取り組んでいた老巨匠は午後三時、急に容態が悪化して逝去した。
  弟子のレーヴェにより、完成していた第3楽章までが校訂され、作曲家の遺言通り「テ・デウム」を終楽章として、1903年2月11日にレーヴェ指揮ウィーン演奏協会管弦楽団が初演、同時にレーヴェ編曲のピアノ独奏譜とレーヴェ、シャルク編曲の連弾版が出版された。1910年にはレーヴェ校訂になる初版総譜が出版された。これらの楽譜にはレーヴェによる簡潔な序文が付されている。

c0050810_4244394.gif  《完成した3つの楽章をここで公開する「アントン・ブルックナーの第9交響曲」は、(巨匠の当初の意図では)、純粋に器楽的な終楽章で終わるはずであった。重度の肉体的苦痛によって、しばしば、時には長期にわたる作曲の中断を強いられ、ブルックナーはますます、自らの最後の作品を、もはや終えることができないという恐れを抱かざるを得なかった。次第に彼の中で、完結した3つの楽章に、終楽章として彼の『テ・デウム』を添えるという決心が固まったのかもしれない。大まかに構想されたそのための経過部のスケッチが我々に残されている。だがそこから読み取れるものは、ただ巨匠の最後の意図を暗示させるだけである。
 (1903年2月11日ウィーンでの)初演時の主催者らが、交響曲に『テ・デウム』を続けさせるのを、巨匠への畏敬からの要求とみなしたとしても、そのような終楽章のない上演もまた、まったく正統的と思われる。この作品が今ある形で全体として非常に効果的で有り得るだけに、このことはなおさら正統的なことである。
  1903年8月ウィーンにて フェルディナント・レーヴェ》 (渡辺美奈子訳)

  この校訂譜はブルックナーの原譜と管弦楽法にかなりの相違があり、オレルら原典版研究者から異議が出されることとなった。また終楽章がほぼ完成に近づいていた事実に全く触れず、遺言による『テ・デウム』併演をも省いて、アダージョで終結する3楽章のみの上演もまた正統的であるとしたことが、この作品の本来の形を歪曲する印象操作になったとして、さらには終楽章の資料散逸の責任者として、ベンヤミン=グンナー・コールスはレーヴェを厳しく批判している(アーノンクール指揮ウィーン・フィルCD解説書)。だがこれは逆に言えば、20世紀初頭の当時から、アダージョをフィナーレとする3楽章で完結した交響曲という認識がかなり強固に存在したということでもある。マーラー第9のアダージョ・フィナーレとの関連を考えるについて、考慮すべきことであろう。

c0050810_4282521.gif  レーヴェ校訂になる初版の、原典版との相違は、主にオーケストレーションに関するものであり、楽曲構造にはほとんど手をつけていない点で、ヨゼフ・シャルク校訂の第5番初版とは異なる。第2楽章スケルツォに4小節のみカットがあるが、大勢に影響のあるものではない。マイケル・ケネディ編の『オックスフォード音楽事典』や、アーノンクールが自らの第9録音に付した解説では、レーヴェ版には大きなカットがあるかのような事実誤認があり、専門家の間でレーヴェ版が真面目な検討の対象にさえなっていない風潮があるようだ。
 楽器編成では第3フルートをピッコロ持ち変えとし、コントラファゴットを追加しており、原典では休みの多いファゴットのパートの追加や、オーボエとクラリネットのパートの入れ替えがほとんど全曲に渡って施され、ワーグナー風の音色に改変されている。ブルックナー独特の、突然のフォルテッシモなどは、段階的な強弱に改められ、弦楽と管楽器のバランスが整えられている。第3楽章ではクライマックス最後の斬新な不協和音が常識的な響きに改められ、ブルックナー独特の頻繁な総休止にも、一部につなぎの楽想やティンパニーのロールが挿入される。
  原典版との違いが目立つ、第2楽章冒頭を譜例で示す。このオーケストレーションは、ブルックナーがフランツ・シャルクにその部分をピアノで弾いて聞かせた時の様子からレーヴェが想を得たということになっており、弦のピッチカートにフルート、ファゴットを被せたり、置き換えたりしている。レーヴェは、ピッチカートでは八分音符の演奏が困難なのでファゴットに置き換えたとされ、相当に速いテンポを想定していたようである。原典で印象的なオーボエとクラリネットの持続音をカットしているほか(12小節からのトランペットの持続音は残されている)、音量をメゾフォルテからピアニッシモに変更し、全体に色彩的で繊細、軽妙な音楽にしようとしている感がある。続く強烈なフォルテッシモの和音連打も弱められている。当時の音楽家や批評家はこれを肯定的な文脈でベルリオーズ風と述べており、異様で破壊的な力を持った原典よりも、受け入れやすい音楽であったことがうかがわれる。
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  ブルックナーの9番の日本初演は1936年、クラウス・プリングスハイム指揮東京音楽学校で上野奏楽堂にて行われた。これはレーヴェ版によるものと考えられる。関西初演は朝比奈隆指揮関西交響楽団(現大阪フィル)によって1954年に行われたが、前述のようにフルトヴェングラーから原典版を使用するように助言されたのは有名なエピソードである。その時既にフィルハーモニア版スコアから書き起こされたパート譜が準備されており、現地で購入して持ち帰ったオレル原典版との違いに驚いたものの、時間的制約から大まかな異同部分の訂正で初演に臨んだと朝比奈は証言している。大指揮者フルトヴェングラーから、東洋の偉大なブルックナー指揮者の出発点に、原典版によるブルックナー演奏という原則が伝えられた、奇跡的な邂逅であったが、これは逆に考えれば、レーヴェ版第9の関西初演が頓挫した瞬間でもあった。
  本日の大井浩明氏によるピアノ版日本初演は、それ以来62年ぶりに無修正のレーヴェ版が関西で初演される機会とも言える。大井氏は朝比奈の京都大学の後輩にあたり、同大学オケに朝比奈が来演して指導した折、チェロ奏者としてブルックナー4番を演奏した経験も持つという。ブルックナーの第9が、レーヴェ、フルトヴェングラー、朝比奈と伝えられてきた歴史の流れに想いを馳せると、本日大井氏が記す歴史の一頁の感慨もひとしおである。レーヴェは1903年の第9初演にあたり、事前にピアノを演奏しながら作品解説をしたと伝えられるが、パハマンと同門の、リストに連なるピアニスト、レーヴェの編曲手腕も注目される。



■間奏曲  - ブルックナー9番の「生からの別れ」を引用したヴォルフ歌曲

c0050810_2484590.jpg  今日歌曲作曲家として名高いフーゴー・ヴォルフは、音楽批評家としてブラームスを目の敵にし、罵倒を続けていたが、ブルックナーの交響曲には好意的であった。当初二人に交流はなかったが、共通の友人であるレーヴェ、シャルク兄弟、シリル・ヒュナイスらブルックナーの弟子たちと、裕福な音楽愛好家でブルックナーの秘書を勤め、ブルックナーとヴォルフの出版に資金援助していたフリードリヒ・エクシュタイン(1861-1939)の紹介により、第7交響曲へのヴォルフの批評を契機として、友人としての交際が始まったという。
  ヴァルター・ヴィオラは著書『ドイツリートの歴史と美学』で、ヴォルフの「ミケランジェロの詩による歌曲集」第2曲「生まれたものはすべて滅びる」(1897)が、ブルックナーの交響曲第9番第3楽章の第1主題群に現れるコラール主題、ブルックナーが「生からの別れAbschied vom Leben」と称した主題に基づいていることを指摘している。第3楽章は1894年に既に完成していたこと、ヴォルフはブルックナーの友人であり、その弟子レーヴェは親友であったのだから、未出版の総譜を見ていただろうことに疑いはない。そしてこの曲は、ブルックナー9番第1楽章の最後と同じく、空虚五度で終わるのである。
  この歌曲集はヴォルフの創作の最後の年で、オペラ『お代官様』と弦楽四重奏曲『イタリアのセレナード』に取り組んでいた1897年、ブルックナー死去翌年の3月末に、わずか10日間で書かれた4曲からなる歌曲集であったが(創作最盛期のヴォルフは異常な集中力による速筆で、後世に残る傑作歌曲を一日に2,3曲書いたこともある)、4曲目は作曲者自身によって破棄され、全3曲の歌曲集として残された。歌詞はルネッサンスの大芸術家、ミケランジェロ・ブオナロッティの作で、第1曲は芸術家としての矜持について、第2曲は冷徹な死の歌、第3曲は愛の歌になっている。第1曲、第3曲のピアノパートは交響的スケールの大きさを有し、管弦楽に編曲もされている。
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 ヴォルフ:「ミケランジェロ歌曲集」全3曲~第2曲「生まれたものはすべて滅びる」

 Hugo Wolf: Alles endet, was entstehet (Michelangelo) 訳:甲斐貴也
 Alles endet, was entstehet.
 Alles, alles rings vergehet,
 Denn die Zeit flieht, und die Sonne
 Sieht, dass alles rings vergehet,
 Denken, Reden, Schmerz und Wonne ;
 Und die wir zu Enkeln hatten
 Schwanden wie bei Tag die Schatten,
 Wie ein Dunst im Windeshauch.
 Menschen waren wir ja auch,
 Froh und traurig, so wie ihr,
 Und nun sind wir leblos hier,
 Sind nur Erde, wie ihr sehet.
 Alles endet, was entstehet.
 Alles, alles rings vergehet.

 c0050810_4351147.gif生まれたものはすべて滅びる。
 周囲の一切のものは消え去る。
 時は過ぎゆくのだから。そして太陽は
 見ている、思考、言葉、苦しみと喜びの
 すべてが消えてゆくのを。
 そして子孫に残そうとしたものは
 煙と消えていった、昼間の陰のように、
 風に吹かれる塵のように。
 我らも同じ人間だったのだ、
 同じように喜び、悲しんだのだ。
 そして今や命絶えて、
 ご覧の通り大地に還った。
 生まれたものはすべて滅びる。
 周囲の一切のものは消え去る。



c0050810_4363531.jpg  友人エミール・カウフマン宛の手紙に「すべてが滅亡の犠牲となるのに、創り闘い求めるのはすべて何のためでしょうか?」(ヴィオラ前掲書)と書いたヴォルフもマーラーと同じく、ニーチェの言うニヒリズムにとり付かれていた。救いのない死の歌として、この曲を書き上げた直後の1897年4月3日に死去したブラームスの最期の作品『4つの厳粛な歌』(1896年5月)に通じ、また非キリスト教的死生観という点で、マーラーの『大地の歌』との同質性も指摘されうるだろう。
  ヴォルフはオスカル・グローエ宛ての手紙でこの第2曲を自らの最高傑作とし、「正気とはこの作品に触れて錯乱するためにあるのです」「私は、自分のあたまがどうかならないかと心配で、この曲がとても怖いのです。そのように万人に害をなし、生命の危険をもたらすようなものを、今書いています」(佐藤牧夫・朝妻令子共訳 エリック・ヴェルバ著『フーゴー・ヴォルフ』より)と豪語した。
  その半年後の9月、ヴォルフはその年6月にウィーン宮廷歌劇場総監督に就任していた旧友マーラーを、自作のオペラ『お代官様』上演の望みを持って訪ねた。かつて学生時代にアパートの同室で暮らしたこともあるマーラーとヴォルフだが、歌曲作家の鬼才としてようやく認められつつも、狷介な性格が禍いして相変わらず住所不定無職に近い境遇のヴォルフが、音楽界の頂点に登りつめたマーラーに複雑な感情を持っていたのは間違いないだろう。ヴォルフが、マーラーの机上にルービンシュタインのオペラ『悪霊』のピアノスコアを見つけて作品を罵倒し始めたことから口論となり、既に次シーズンの上演作品を決めていたマーラーに、『お代官様』が近いうちに上演されることはあるまいと言われ、ヴォルフは激昂してその場から走り去った。その帰宅の途上で会った友人に、マーラーを解任して自分が総監督に就任したと真顔で語るなど異常な言動が始まり、総監督就任時の職員への挨拶とマーラーの解雇を告げる文案を書いて知人に読み聞かせるなど、ヴォルフは明らかに正気を失っていた。
  マーラーとの口論で激昂したことは、狂気の引き金ではあったが、主因は脳梅毒による進行性麻痺であった。精神病院入院後に病状は持ち直し、退院して作曲に取り組むことができたが、1898年9月『ミケランジェロ歌曲集』が出版された翌月にヴォルフは突然入水を図った。再び入院したヴォルフは一時的に回復したが、1899年秋には記憶と言語の障害が高まり、1901年に入ると麻痺性の痙攣により寝たきりとなる。そして、もはや虚空を無表情に見つめるだけの、完全な廃人になってしまった。
  そして1903年2月11日に親友レーヴェの指揮によってブルックナーの第9交響曲が初演され、「生からの別れ」のコラールが初めて鳴り響いた日の10日後、同年2月22日に、「思考も、言葉も、喜びも悲しみもすべて」消え去った、かつての鬼才作曲家ヴォルフは、肺炎のため、献身的な介護人ヨハン・シャイプナーの腕の中で、激しい痙攣を繰り返した後に生から別れて行った。その時、ブルックナー9番の未完の終楽章における燦然たる救済のコラール主題が、天上に鳴り響いていたと信じたい。



■ブルックナー第九交響曲/楽章解説

c0050810_4375244.gif第1楽章 ニ短調 厳かに、神秘的に
  トレモロによる「ブルックナー開始」、断片的な動機からの主題労作、ゼクエンツによるクレッシェンド、そしてフォルテッシモのユニゾンによる豪壮な主題提示と、ブルックナーの常套手段が繰り出されるが、続く展開部は再現部と融合してクライマックスを築き上げてゆく斬新な手法が用いられる。

第2楽章 スケルツォ ニ短調 動的に、生き生きと
  ピッチカートによる異様な序奏に続き、主部は暴力的なまでのリズムが刻まれる。トリオは主部より速い斬新な構成だが、より常識的な初期稿が存在する。完成した3つの楽章が、丹念に推敲された結果、今日知られる傑作に仕上がった証左のひとつである。現トリオの副主題部の楽想は初期稿からの流用で、ここでテンポを落とすのをレーヴェ版の残滓と見る向きもあるが、元々遅いテンポを想定していた楽想に一致した処理とも言える。

第3楽章 アダージョ ホ長調 ゆっくりと、厳かに
  ホ長調だが短調的性格が支配的に進む。第1主題群の終わりには、ブルックナー自身が「生からの別れ」と称した下行音形のコラールが現れる。第1楽章と同じく展開部と再現部が融合した、拡大されたソナタ形式により巨大なクライマックスを築く。

本日演奏されるレーヴェ編ピアノ版には含まれない未完の終楽章について:
第4楽章 ニ短調 神秘的に、急がずに

c0050810_4384789.jpg  終楽章は一旦完成に近い状態だったが、巨匠死去後の現状保存の不備により、知人などの手で遺品の手稿譜の一部が記念品として持ち出されるなど散逸したため、補筆完成が困難な状態となり、その実現は散逸資料の回収が進んだ20世紀後半に持ち越された。現時点で復元はかなりのレベルに達しているが、第3楽章までが一旦完成の後に、念入りな推敲を経て現在知られる傑作に仕上がった過程から見ると、あくまでも楽章を通した叩き台の段階と考えられ、「完成版」と称するのは問題があるだろう。それでも「生との別れ」コラールの燦然と輝く変奏再現など感動的な部分は多い。



■マーラー:交響曲第9番

c0050810_4404244.gif  マーラーがこの曲の前に完成した「テノール、アルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」と称する大作『大地の歌』が、実際には9番目の交響曲であるのに、ベートーヴェンもブルックナーも第9を書いて死んだというジンクスを恐れて番号をつけなかったという、未亡人アルマによって紹介された「第9のジンクス」は、その三面記事的話題性もあって広く知られているが、近年これをアルマ独特の虚言として退ける意見もある。だが親友でマーラーの気質を良く知り、アルマの回想録に批判的だった指揮者ブルーノ・ワルターも、自らの回想録で、マーラーが9番という番号にこだわっていたことを紹介していることから、アルマの虚言とばかり決めつけるのは難しいのではないだろうか。近代的教養人であったマーラーがそのような迷信じみたことを気にするのも、分裂的と言われるその気質には反していないし(マーラー指揮者として著名なエリアフ・インバルは、東京都交響楽団の前任者ガリ・ベルティーニの同響最後の公演曲目がマーラーの9番であったことを非常に気にしていたという)、迷信じみたこだわりにいささかの羞恥があったので、妻にのみ語ったとも考えられる。ベートーヴェンの第9と同じ調性で同じ空虚5度で始まり、同じ楽章配置を取るブルックナーの9番が、ベートーヴェンを凌駕しようと図ったことは明らかだが、そのための10年に及ぶ苦闘と力尽きての死は、マーラーに強い印象を与えたはずである。
c0050810_4425070.gif  とは言え、マーラーが晩年に死の影に怯えながら第9を書いたという見方は当たらない。確かにマーラーの第9には、そのブルックナーのアダージョの主題や下行音形、自らの『大地の歌』の「告別」や、ベートーヴェンの「告別」ソナタの引用など、様々な別れのモチーフがちりばめられているが、マーラーは初期の歌曲から一貫して生からの別れ、死を重要なテーマのひとつとして取り上げており、『子供の死の歌』や第6交響曲など、そうしたテーマの代表作は、実生活で幸福な時期に書かれている。この曲の完成後のマーラーの死は、あくまでも感染症による急死であった。本作は、壮年期のマーラーが熟達した書法と野心的な技法を駆使して「生からの別れ」を描いた、気力に満ちた傑作である。

第1楽章 アンダンテ・コモド ニ長調
  拡大されたソナタ形式、二重変奏などさまざまな説があるが、今日に至るまで一致を見ないユニークなもので、ソナタ形式の枠組を破り、交響曲の新たなドラマツルギーの構築を目指した野心作である。

第2楽章 ハ長調
  一見素朴なレントラー楽章だが、三種類の舞曲がABCBCABAの順に現れる変則的な構成は、念入りな推敲の結果であることが草稿から判明している。

第3楽章 ロンド・ブルレスケ イ短調
  死の舞踏を思わせる諧謔的なスケルツォ風楽章。

第4楽章 アダージョ 変ニ長調
  チャイコフスキーの悲愴交響曲が先駆とされ、マーラー自身、交響曲第3番、『大地の歌』で既に試みていたアダージョ・フィナーレだが、前述のごとくブルックナーの第9が未完のために第3楽章アダージョで終わるのを、作品としては効果的と当時認められていたことは注目されるべきだろう。衰微し消え去ってゆく結末は、一途な信仰を持ち得なかった現代人マーラーの必然であり、それが今日においても深い共感を呼ぶ所以であろう。


c0050810_4435131.gif 于武陵 《勧酒》

 勧君金屈巵  コノサカヅキヲ受ケテクレ
 満酌不須辞  ドウゾナミナミツガシテオクレ
 花発多風雨  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 人生足別離  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
                     (井伏鱒二訳)

















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by ooi_piano | 2015-11-17 00:28 | コンサート情報 | Comments(0)