12月20日(日) 篠原眞全ピアノ作品

POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

c0050810_10535552.jpg大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第24回公演
篠原眞 全ピアノ作品
 
2015年12月20日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


【演奏曲目】

篠原眞(1931- ):《組曲 Suite》(1951、世界初演)
I.前奏曲 Preludio - II.セレナータ Serenata - III.間奏曲 Intermezzo - IV.ジーガ Giga

《4つのピアノ曲》(1951/54)
 I.お祖父さんのオルゴール La boîte de la musique du grand-père - II.お留守番 Seul dans la maison - III.昔噺 Il y avait une fois … - IV.さよなら Adieu

《ロンド Rondo》(ピアノ独奏版)(1953/54)

《タンダンス[傾向] Tendence》(1962/69)


(休憩15分)

《アンデュレーションA [波状] Undulation A》(1996)

《ブレヴィティーズ[簡潔] Brevities》(2010/15、世界初演)
1. Decrease [減少] - 2. Articulation [発音] - 3. Dispersion [分散] - 4. Fluctuating stability [変動する安定] - 5. Extension [拡張] - 6. Instability [不安定] - 7. Movement [運動] - 8. High tones [高音] - 9. Echoes [残響] - 10. Progression [発展] - 11. Arpeggios [分散音] - 12. Reflection [反映] - 13. Accel. Rit. [加速 減速] - 14. Low tones [低音] - 15. Instant [瞬間] - 16. Changes [変化] - 17. Motions [動作] - 18. Superimposed divided values [重ねられた分割音価] - 19. Distribution [配分] - 20. Clusters [音塊] - 21. Dissolution – Coagulation [分解―帰結] - 22. Contrasted values [対比する音価] - 23. Regular Irregular [規則的 不規則的] - 24. Superimposed dynamics [重ねられた音強]



篠原眞の歳月~POC♯24「篠原眞全ピアノ作品」に寄せて ────高久暁

c0050810_10544770.jpg 12月20日に行われる「POC♯24 篠原 眞全ピアノ作品」では、1951年に作曲された最初期のピアノ曲《ピアノのための組曲》から、今年完成を見た最新作《ピアノのための簡潔》の世界初演を含む、作曲年代にして64年に及ぶ篠原のピアノ曲が演奏される。篠原のピアノ音楽がまとまった形で紹介される初めての、貴重な機会である。新作については演奏会の当日に篠原のコメントもあるだろう。以下、作品とその周辺について概略を記しておく。

 留学以前の篠原のピアノ曲は、篠原の音楽的自己形成―音楽歴や教育歴ほか―と密接な関係がある。青年期の篠原はピアノの伝説的な名手として知られ、また子どものころから箏にも親しんでいた。のちには《タンダンス》の「初演」を篠原自身が行い、箏のための《たゆたい》(1972)の初演や演奏も手掛けている。篠原の作品に、篠原の「演奏家気質」の反映を見るのは許されるだろう。 
 篠原は独学でピアノや箏の演奏を習得した。篠原の一家・一族は芸術には縁を持たなかったが、家にはピアノや箏があった。大都市(篠原は大阪生まれで、7歳のときに東京に転居)の中流家庭の常として、姉たちがピアノや箏を習っていた。楽器に興味を覚えた篠原は、楽譜の読み方を教わると家にある楽譜を次々に弾いていった。中学を終えるころには、家にあったどんな曲の楽譜も弾けるようになっていた。あたかも『オデュッセイア』に登場する吟誦詩人ヘミオスのようではないか―「わたくしの歌は独りで憶えたもので、神がわたくしの心にあらゆる種類の歌の道を植え付けてくださった」(呉茂一訳)。
 高校生になった篠原は、「分離唱」なる音感教育で知られていた佐々木幸徳(基之)の紹介を受けた。和音からその構成音を「分離」して聞き取って歌い、耳に心まで「開く」とするこのメソッドは、実践の簡便さや相応の効果が発揮されるため、ある世代の音楽教諭や合唱指導者たちから支持されていた。佐々木は音感教育が推進された太平洋戦争期に合唱曲集や初歩的なピアノ教本を出版、戦後は在野で音感教育や合唱指導に当たっていた。
 佐々木はただちに「天才少年」篠原の才能を評価した。篠原は佐々木の主催する催しでピアノ演奏や即興演奏を披露、佐々木は篠原を自身の教育の成果と見なしたようである。しかし篠原からすれば、佐々木の指導にはほとんど意義を見出すことができなかった。佐々木の著書を読めば了解されることだが、佐々木は自分のメソッドを徹底させるだけで優れた音楽家が育まれると確信する、独断的で教祖的な側面があった。

c0050810_10555893.jpg 1950年、都立日比谷高校を卒業した篠原は、浪人を許さなかった家庭の方針で青山学院大学に進学したが(キャンパスが家の近所にあったからといった理由のようである)、1952年には東京芸術大学作曲科に入学、池内友次郎に作曲を、安川加壽子にピアノを師事した。在野の佐々木からアカデミズムの池内への「切り替え」があったことは言うまでもないだろう。
 佐々木の影響下で篠原は重要な音楽活動を開始した。1951年4月に篠原を中心に結成されたアマチュア合唱団「フェーゲライン・コール」である(フェーゲラインはドイツ語の小鳥Vögelein)。篠原の出身校の日比谷高校が当時日本有数の進学校だったことを背景に、合唱団には首都圏の有力大学や東京芸大の学生が集い、のちに合唱指導者や音大の声楽科の教授になった者もいた(音楽学の分野では、篠原が留学して指導者から退いたのちに、音楽学者の佐野光司や日本音楽研究者の蒲生郷昭が参加した。お二人の先生方へ―小文で名前が挙がるのを迷惑に感じられたとすれば、心からお詫び申し上げます―)。篠原はこの合唱団のために指導はもとより、自らアカペラ編成の合唱曲の編曲を100曲以上行った。そのうちのいくつかは、結成当時の東京混声合唱団のレパートリーとなり、篠原の関知しないまま楽譜が出版された。フェーゲライン・コールの活動は1954年に篠原が留学したのちも盛んに続けられ、1950年代から60年代にかけてのアマチュア合唱運動のなかで目覚ましい活躍を遂げることになった。

c0050810_1056493.jpg 東京芸大に入学した篠原は、ピアノ演奏についていくつかの「伝説」を残している。やはりピアノと即興演奏の名手だった林光とは、奏楽堂で「即興演奏対決」が行われたという。どちらがどちらとは言わないが、モーツァルトとクレメンティ、リストとタールベルクの「決闘」のような話ではある。助川敏弥は具体的で興味深い回想を記している(『助川敏弥の回想記』第12回「篠原真(ママ)君の才能」)。引用しよう。
 「この男の才能のすごさは特筆ものです。古今東西のピアノ文献のどれでもすぐに弾ける…いつでも弾ける能力の保持は実に不思議で、[山本]直純も感嘆していました」。あるとき助川たちが、当時芸大の学生で、ラザール・レヴィに見出されてパリに留学することになったピアニスト柳川守に、N響の定期公演で弾くことになっていたラフマニノフの2番の協奏曲を弾いてほしいと懇願した。第2ピアノの弾き手を探していると、廊下を篠原が通りかかった。柳川は暗譜しているから楽譜はない。篠原は「しばらく弾いていないからどこまで覚えているかなぁ」と言ってピアノに向かい、オーケストラのパートを最後まで完全に弾いてしまった。「私たちはひたすら唖然として聞いていました。柳川君にはわるいが、篠原の離れ業の方に驚嘆していたのがほんねです」。筆者はこのエピソードについて篠原に確認したが、篠原は「さあ…ラフマニノフの自作自演のレコードを聴いていたからねぇ」と言うだけであった…!
 篠原は池内の推挙によって1953年10月8日に行われた上田仁指揮の東京交響楽団第56回定期演奏会でオーケストラ曲《ロンド》を初演、1954年にはパリ国立高等音楽院に留学した。

c0050810_10572698.jpg 今回演奏される《ピアノのための組曲》(1951)から《ロンド》(1954)までのピアノ曲は、調性音楽の範囲内でアマチュアからプロフェッショナリズムへと目覚めてゆく篠原の音楽的軌跡として見ることができる。自筆譜のタイトルページに「1951.4」と記された《ピアノのための組曲》は、現存する篠原の最古の作品のひとつである(それ以前の篠原の作曲も存在する)。「プレリュード」(Allegro con anima, 4/4)「セレナータ」(Andantino, 3/8)「間奏曲」(Allegro moderato, 2/2)「ジーガ」(Molto vivace, 3/4(6/8))の4曲は、それぞれがドビュッシーやラヴェルの特定のピアノ曲をモデルとして作曲されている。第1曲には第三者によって理論的に正しい臨時記号が指摘された書き込みがある。篠原はこの曲を池内などの指導者に見せたのかもしれない。
 「お祖父さんのオルゴール」(Allegretto ma non troppo, 3/4)「お留守番」(Andantino espressivo, 6/8)「昔噺」(Andante, 2/4)「さよなら」(Moderato assai, 4/4)の4曲は、1951年ごろから書かれた小品で、1954年6月末に最終的な決定稿が作成された。先に述べたフェーゲライン・コールは、サークル内で『ミルテ』という機関誌(花のミルテの意味)を刊行していたが、その誌上にこれらの小曲の楽譜を頒布する「広告」が掲載されている。子ども向けとも言える、仕上がりのよい平易で可憐な小曲だが、最後の曲が「さよなら」なのは意味深長でもある。
 《ロンド》は、1953年に初演されたオーケストラ曲《ロンド》のピアノ独奏用ヴァージョンである。作品の主要なモデルは例えばシャブリエの音楽であり、後半でロンドの主要主題と中間部の主題が対位法的に組み合わされてクライマックスを作る。この作品は1954年に安川加壽子によって、同年7月に行われた「現代フランスと邦人作品の夕べ」と、篠原を含むフランス政府の奨学金を得た音楽留学生たちのための壮行会的なコンサートの二度演奏されている。今回は61年ぶり三度目の演奏となる。

c0050810_1058187.jpg パリ国立高等音楽院で学んでいた時期の篠原は、公的には音楽院の作曲クラス入学のために提出した《木管三重奏曲》(1956)、トニー・オーバンのクラスで学んで一年目の提出作品《ピアノ三重奏曲》(1957)、一等賞首席を得た修了作品《ヴァイオリン・ソナタ》(1958)の3作しか公表していないが、他にも歌曲やピアノ曲を作曲している。1956年に書かれたピアノ曲は、トニー・オーバンから「このような曲を作ってはいけない」と言われたという。残念ながら今回の演奏会までに楽譜の準備が叶わなかったため、演奏することができなくなった。初演される機会を期待したい。
 音楽院を卒業し、前衛音楽へと参入しようとした時期にも篠原の「演奏家気質」が発動された。モーリス・マルトノからオンド・マルトノの手ほどきを受け、パリを訪れた秋山邦晴からはオンディストになることを強く勧められたという。1958年の夏にダルムシュタットの夏季音楽講習会を訪れ、またハイデルベルク大学のドイツ語の短期研修にも参加していた篠原は、クセナキスらからの助言も考慮し、「前衛」を求めてドイツへと修行の場を変えていった。

c0050810_1059867.jpg その後の篠原の創作のうち、電子音楽での業績は今日よく知られている。モビール形式の打楽器アンサンブル曲《アルテルナンス(交互)》(1962)をシュトックハウゼンに激賞された篠原は、ピアノ曲で同形式の異なる趣向の作品《タンダンス》を作曲した。篠原の解説を引用する。
 「作品はそれぞれ独自の構造と性格を持ち、ABCDEFの6つのカテゴリーに分けられた21の別々になった部分よりなる。演奏に当たって、全部を用いるかいくつかの部分を選びだし、前もってヴァージョンを作っておかなければならないが、その際Aから始めてBCDEを経てFで終わらなければならないので、ヴァージョンの可能性は非常に多数あっても常に一定の方向が生じることになる。このことから「タンダンス」という題名があたえられた。
 演奏は鍵盤上のみに限られ、エコーやクラスターなどの新しい奏法を追及し、音価や音量の不確定性を取り入れ、ヴィルチュオジティが必要とされる。」
 21の部分は作曲者個人の精神状態や心理状態から導かれている。Aは出発点としての中庸さ、Bは積極的・肯定的、CはBを否定する外的・内的な障害、Dは障害を克服しようとする葛藤や闘争、EはDのあとの消耗や沈滞、Fは新たな出発への期待や憧憬が表わされている。
 このような作曲者の精神や心理状態の語りとしての音楽は、《タンダンス》だけではなく、他の篠原の多くの作品にも共通するものであり、いわば篠原作品の基調をなしている。

c0050810_10594460.jpg 《タンダンス》は日本人作曲家の作曲したピアノ曲の代表的作品のひとつとして演奏や録音が盛んに行われた。現在も自己の創作に厳格なスタンスを取り続けている篠原は、1990年代半ばまで同じ編成の作品の作曲を避けていた。そのため次のピアノ曲《アンデュレーションA》の作曲は、《タンダンス》の最終ヴァージョンの完成から25年以上を経た1996年まで持ち越された。1997年3月に初演された際のプログラム・ノートは次のようになる。
 「この作品は25の部分から成っている。まず12の半音をたどるメロディックな線と、その11の変奏から成る計12の部分―人間のさまざまな心理とその現れとしての行動を暗示する―が提示され、続いてそれぞれの部分が一回ずつ(最初の部分だけは2回)繰り返される。
 この繰り返しは個々の部分を継続的に展開させたもの、さらなる変奏、類似しながらも異なっているもの、などである。ある部分から次の部分へ移行する際には、それぞれ一つ前の部分の繰り返しが間に挟まれる。このことから、作品にはちょうど引いては寄せるような波の動きのようなフォームが与えられる。
 演奏は鍵盤のみに限られているが、通常の奏法に加えて音量ペダルを僅かに押し下げることによって生じる短い余韻、無音で押し下げられた鍵盤の弦の共鳴による長い余韻、ソステヌート・ペダルを用いた保続音とそうでない音の重ね合わせ、などの奏法が用いられている」
 この作品以降、篠原は同一作品の異なるヴァージョンや過去の作品の再作曲を手掛けるようになった。《アンデュレーションA》には二台ピアノ版の《アンデュレーションB》があり、テノール・リコーダーのための《フラグメンテ》や、増幅を伴うバス・フルートのための《パッセージ》は、二十一絃箏や打楽器を入れたデュオ、トリオのヴァージョンや、木管四重奏のヴァージョンが作られた。

c0050810_1103946.jpg 最後に新作《ピアノのための簡潔》について書いておこう。作曲の発端は、2010年にシドニーで行われたISCM(国際現代音楽協会)音楽祭で募集された「演奏時間2分間以内のピアノ曲」に応募する目的で作曲された《プログレッション》(現曲集の第10曲目)である。この曲は第1小節の音符が「I」「S」「C」「M」の形に配置され、以下17小節までの16小節間で、音符によるアルファベットの形がさまざまに変形されて「進展」してゆく。
 《ピアノのための簡潔》では、篠原の創作歴のなかで新たな試みが行われている。作品は想定演奏時間20秒未満から1分半程度までの短い断片的な小曲の集合体であり、タイトルは各小曲の音響体としての現象の記述である。篠原の音楽的着想は多くの場合、作曲者自身の精神・心理状態から導かれてきたが、《簡潔》ではより客観的な音群の操作によって規定されている。この点で作曲面ではかつてのミュージック・セリエルに近い態度が取られていると言えるだろう。

c0050810_1112947.jpg キャリアの初期の大井浩明は篠原作品とともにあった。日本現代音楽協会主催の「競楽」コンクールでは木ノ脇道元とともに《レラシオン》を演奏して優勝し、1994年には須川展也と《シチュエーションズ》の世界初演を行った。ガウデアムス・コンクールでは《タンダンス》を演奏し、1998年には向井山朋子ともに二台ピアノのための《アンデュレーションB》の世界初演を手掛けた。どれも20世紀の出来事だ。今回のPOC♯24は、いわばオデュッセウスか放蕩息子の帰還にあたる催しである。大井の演奏を刮目して待つことにしたい。(文中敬称略)(たかく・さとる/音楽学・音楽評論/日本大学芸術学部教授)
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by ooi_piano | 2015-12-12 05:21 | POC2015 | Comments(0)