6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


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1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その1)


POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

c0050810_115191.jpg大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第25回公演
マウリシオ・カーゲル 全ピアノ作品
 
2016年1月24日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) 
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/



【演奏曲目】

c0050810_125125.jpgブライアン・ファーニホウ(1943- ):《クヮール - 自己相似リズムによる練習曲》(2011/13、日本初演) [招待作品]

マウリシオ・カーゲル(1931-2008):《4つの小品》(1954、日本初演)

●同:《メタピース - 擬態》(1961)

●同:《MM51 - 映画音楽の小品》(1976)

●同:《鍵盤で - 練習曲》(1977)

●同:《Rrrrrrr...》(1980/81)より「ラーガ」「ラグタイム-ワルツ」「ロンデーニャ」

 (休憩15分)

ヴィンコ・グロボカール(1934- ):一人のピアニストのための《音符(ノーツ)》(1972、日本初演) [招待作品]

●カーゲル:《ヒポクラテスの誓詞》(1984)

●同:《複合過去 - 狂詩曲》(1992/93、日本初演)

●同:《二本の手で - 即興曲》(1995、日本初演)

●同:《即興曲第2番》(1998、日本初演)



マウリシオ・カーゲル覚え書き ─────野々村 禎彦

c0050810_194318.gif ヨーロッパ戦後前衛第一世代には、シュネーベル(1930-) やブソッティ(1931-) のような「普通ではない」作曲家は少なくないが、カーゲル(1931-2008) の前では皆霞んでしまう。論より証拠、〈レパートリー〉(1967-70)(映像版ライヴ版)や《ふたりオーケストラ》(1973)(短縮編集版全曲版リンク)の動画を見てみよう。彼の音楽は、「視覚的的要素の導入」「劇場性の導入」といった文脈で語られることが多いが、そういうお上品な言葉で括れるような代物ではないのは明らか。動画から入ると、視覚的要素に頼り切った際物という印象を受けるかもしれないが、こう見えて音だけでも確固とした世界があるのが只者ではない。

 アルゼンチン・ブエノスアイレスのドイツ系ユダヤ人(革命後の旧ソ連から1920年代に亡命)の家庭に生まれたカーゲルは、声楽・指揮・ピアノ・チェロ・オルガンを個人レッスンで学んだ(後の作品でも独唱と指揮はしばしば自ら行い、ピアノ・チェロ・オルガンを用いた重要作が多い)。音楽学校の入試に失敗し、保守的な音楽教育を受けずに済んだのは、結果的に幸運だったかもしれない。彼は16歳でブエノスアイレス現代音楽協会に参加し、南米で最初に12音技法を用いたフアン・カルロス・パス(1901-72) の薫陶を受けた。後に彼の作品を数多く振ることになる指揮者=作曲家ミヒャエル・ギーレン(1927-) は、1950年にウィーン国立歌劇場の指揮者=練習ピアニストとして渡欧するまでは協会の先輩ピアニストで、1949年にはシェーンベルクのピアノ作品全曲を南米初演している。彼はブエノスアイレス大学で哲学と文学を学んだが、指導教官は世界的作家のボルヘスだった。多文化主義・複雑性指向・映画や写真など視覚芸術を重視する姿勢をはじめ、彼の作風に与えた影響は大きい。作品表の最初を飾る1950年の無伴奏合唱曲はただちに出版され、同年にはアルゼンチン・シネマテークを設立して映画評論家としても活動した。

c0050810_1145148.jpg ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ世界三大オペラ劇場として知られるコロン劇場を擁するブエノスアイレスは、南米におけるヨーロッパ文化の中心地だったが、世界有数のユダヤ人ゲットーが存在することも手伝って、ナチス政権成立後はヨーロッパで活動していた音楽家が数多く亡命しており(例えばエーリッヒ・クライバーは1936-49年にはコロン劇場の首席指揮者を務めていた)、カーゲルはヨーロッパ戦後前衛の状況をリアルタイムで把握して作曲を行っていた。フランス演劇界を代表するルノー=バロー劇団が1953年と54年にアルゼンチンを訪れた際、当時の音楽監督ブーレーズは彼の才能を認め、ヨーロッパ留学を重ねて薦めた。この時ブーレーズに見せたのが《六重奏曲》(1953) であり、弦楽六重奏のための改作版(1957) はヨーロッパ・デビュー曲になった。だが当時の彼は彫刻家の妻と結婚し、ブエノスアイレス室内歌劇場でオペラ制作に携わり、コロン劇場管弦楽団を立ち上げて練習ピアニストと副指揮者も務めていた。彼が1957年のドイツ交換留学を機に、妻とケルンに移住すると決めたのは、1955年の軍事クーデター以降、ペロン政権時代以上に自由が失われたことも大きな要因だった。

 留学の名目は電子音楽の研究であり、留学先をケルンに選んだのも、シュトックハウゼンのお膝元である西ドイツ放送電子音楽スタジオで学ぶためだった。移住後第1作は前衛書法のアンサンブルと合唱のための《アナグラマ》(1957-58) 、次に電子音楽《トランジションI》(1958-60) を手がけたが、続編にあたる《トランジションII》(1958-59) が先に完成した。ピアノ、打楽器、電子音のための作品だが、「打楽器」の内容はピアノの内部奏法専門の奏者を付けることで、視覚的要素の導入の端緒とみなせる。なお、《アナグラマ》の初演は《コンタクテ》電子音楽版の初演の前座だったが、終演後はシュトックハウゼンを差し置いてカーゲルが話題をさらい、この新人作曲家の次作の編成を参考にして《コンタクテ》のピアノと打楽器を伴う版が生まれたという。このように、ドイツ移住初期の彼は、概ねヨーロッパ戦後前衛の動向に忠実だった。留学期限後も母国には戻らないと決めて、安定した職を得るまでは野心的な試みは封印したわけだ。また渡欧時に母国に置いてきた旧作の譜面は散逸した。

c0050810_1173739.jpg 1960年からダルムシュタット国際現代音楽夏期講習の講師職に就くと、彼はいよいよ「器楽による劇場」と称する、視覚的・劇場的要素を全面的に導入したシリーズに取りかかった。このような作品の満足な演奏は通常のアンサンブルには期待できない。そこで、彼は最初の2作《響き》(1960)《舞台上で》(1960) の初演に際し、ケルン現代音楽アンサンブルを創設した。「器楽による劇場」と並行して、ケージの影響を強く受けたコンセプチュアルな試みも、本日の演奏曲《メタピース(模倣物)》(1961) から始めた。またオーケストラのための《ヘテロフォニー》(1959-61) は、線的素材(20世紀前半の作品の断片)を堆積させた独自の音群音楽である。これらの作品は、音響自体を聴く限りまだ戦後前衛の枠内にあるが、《付加された即興》(1962/68) で、いよいよ音響面でもその枠から飛び出した。自由度の高いオルガン独奏曲だが、演奏中にふたりの助手がストップを操作して、電子音楽をはるかに凌ぐ異様な音世界を生み出している。若き日のジョン・ゾーン(1953-) は、この作品のレコードを聴いて音楽を志したという。《アンチテーゼ》(1962) は、元々は電子音と環境音を組み合わせた電子音響音楽だが、そこに俳優の演技を加えると、抽象的な音響が一挙に具体的な意味を持ち始めるのがポイント。この作品は、カーゲル自身が監督して「映画版」を作った最初の実例でもある。

c0050810_121277.jpg 本領発揮の2作の翌1963年にはブランクがあるが、この時期こそがブーレーズが活動の中心を作曲から指揮と教育に移し、シュトックハウゼンが創作の中心を全面的セリー技法による緻密な管理から「プロセス作曲」とライヴエレクトロニクスに移した、戦後前衛の転換点に他ならない。ブランク明けに書かれた《試合》(1964) は、ふたりのチェリストの音による「試合」の「審判」を打楽器奏者が務めるという明快なコンセプトを持つ「器楽による劇場」であり、彼のピークの始まりである。構想のみで中断していた《劇場の記録》(1960/65-67) シリーズも形を持ち始め、5人の俳優が歩き回る際に発する音響のみで構成した〈何もない5人〉(1965) のような、音楽の定義を問い直す作品も含まれる。《ルネサンス楽器のための音楽》(1966) は、古楽復興運動の勃興期の時事的な作品と見せかけて不定形のノイズがダラダラ続く、彼らしい不条理音楽。無伴奏合唱のための《アレルヤ》(1968)(ライヴ映像版) は、60年代後半の代表作。タイトルこそヘンデル《メサイア》のハレルヤ・コーラスに由来するが、テキストは音素のみ、音楽も抽象的で中身は無関係。パート譜のみで総譜はなく、同時発声可能な奏者数の上限を指定して偶然に生成される声の響き合いを聴く、カーゲル流実験音楽である。

c0050810_1224838.jpg 70年代初頭の数年間が彼の創作歴の頂点であり、冒頭で挙げた2作品もこの時期に書かれている。《音響効果》(1968-70)(オリジナル録音2008年ライヴ) は実験音楽路線の集大成。タイトルとは裏腹な「発音装置とスピーカーのための」という副題が、作品の本質を的確に表している。各奏者は200枚以上のカードに記された発音行為を淡々とこなすが、通常の楽器は一切用いず、レコードやテープの再生も重要な要素である。ベートーヴェン生誕200年記念作《Ludwig van》(1969-70) は、ベートーヴェンの主要作品をチープな小編成アンサンブルに編曲した断片のみで構成した大曲。最初に作られた映画版・演奏シーンを譜面化した版・独自の素材によるLPレコード版の3種類があり、ベートーヴェンの音楽をめぐる不毛な状況(消費材化や偶像化に始まり、当時の音楽評論家やカーゲル自身がパネリストの無内容な討論会の場面すらある)を風刺している。そして《州立劇場》(1967-70) は、彼の終生の代表作。ナチス時代の中央集権が独裁を生んだ反省から、旧西ドイツではドイツ統一以前の小国家に由来する州の権限を大幅に強化し、文化政策も州ごとに決めていた。すなわち放送局や放送管弦楽団はもちろん、歌劇場まで各州にひとつずつあり、公的援助に頼り切った音楽状況を象徴している。この作品では、オペラの特定の構成要素を切り出して組曲の形にまとめた。すなわち、〈レパートリー〉は演劇的演出、〈録音行為〉はオーケストラの合奏、〈アンサンブル〉は声のソロ、〈デビュー〉は合唱、〈季節〉は歌唱劇、〈スケジュール〉は器楽の合奏、〈コントル→ダンス〉はダンス、〈ただ乗り〉は器楽のソロ、〈平土間席〉は群衆シーンを各々扱っている。〈レパートリー〉の動画からも明白なように、各瞬間はグロテスクなカリカチュアの連続だが、やがてオペラは本質的にこのようなもので、それを娯楽として享受できているのは慣れにすぎないのではないか、と思えてくる。ハンブルク歌劇場での初演は熱烈な賛否両論を引き起こし、劇場には爆破や放火を予告する脅迫が相次いだという。

c0050810_1233745.jpg この時期で言及すべき作品はまだ多い。州ごとに放送局があるドイツではラジオ劇(H¥horspiel)が盛んだったが、TVドラマに押されて本来の需要が失われる中で、内外の現代作曲家の実験の場へと方向転換していった。ケージ《ロアラトリオ》(1979) やフェラーリ《極西ニュース》(1998-99) のような、各作曲家の代表作もこのメディアから生まれているが、この転換の先陣を切った西ドイツ放送がまず委嘱したのは地元のカーゲル。《録音状態》(1969/71) からこのジャンルは始まった。《エクゾティカ》(1972) は、非ヨーロッパ楽器をヨーロッパ人音楽家が、エキゾティシズム丸出しな「土人」の扮装で演奏するコンセプト。劇場性・実験主義・ヨーロッパ批判など、彼がそれまで探求してきた要素がひとつになった怪作だ。ただし、彼の中では実験音楽的な路線は1970年の作品群で一区切りがついており、クラシック音楽をより伝統的な形(《Ludwig van》のような戦後前衛的引用ではない)で利用する方に興味が移ってゆく。《プログラム》(1972) はこの傾向の端緒をなす室内楽組曲。例えば、〈爪が肉体化される〉ではリスト《暗い雲》を足踏みのリズムが異化し、〈レシタティヴァリエ〉ではJ.S.バッハのカンタータを調子外れな歌唱と装飾性皆無の伴奏で異化する。《フーガ抜きの変奏曲》(1972) はブラームス生誕140年記念曲。《ヘンデルの主題による変奏曲》の大オーケストラへの歪んだ転写。《1898》(1973) はドイチェ・グラモフォン・レーベル創業75周年記念曲で、録音メディアが浸透する以前の家庭内合奏のイメージを、単純な調性的素材をほぼユニゾンで奏するスカスカなアンサンブルの隙間を、児童合唱が簡略譜面に沿って埋めることで再構成している。この並びの中では、《ふたりオーケストラ》(1973) の実験音楽路線は例外的だが、奏者ひとりで大オーケストラに匹敵する数の楽器を、主に紐で操作するチープな装置(彫刻家の妻のデザインで実現した)は、「伝統的な素材の異化」という意味ではこの時期の傾向に沿っている。 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-11 15:26 | POC2015 | Comments(0)