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1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)


(つづき)



1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_1264340.gif 1974年のブランクは、戦後前衛の衰退と新ロマン主義の台頭に対応し、カーゲルの音楽もこれに呼応して変化した。1975年以降はクラシック音楽の素材をさらに直接的に利用する方向へと進み、音楽/音響自体よりもコンセプト/コンテクストの面白さに主眼が移ってゆく。ブランク明け最初の《我々の海》(1975) は、「あるアマゾンの部族による地中海地域の発見、講和、改宗」という副題の通り、実際の世界史とは反対の、南米がヨーロッパを支配した仮想世界を描いた舞台作品。《州立劇場》のような抽象化された形態ではなく、常時舞台上に居る演奏者がリブレットに沿って筋書きを進める伝統的な形態に回帰した。クラシック音楽の素材は、南米人が「ヨーロッパ音楽」として戯画化した形で現れる。音楽的には、《エクゾティカ》の裏返しに他ならない。似たコンセプトで民謡を素材にした《カントリー・ミュージック》(1975) の後、クラシック音楽を素材にした大規模な作品は影を潜めるが、この沈黙は《世界の脱創造》(1974-78) の準備のためだった。ヘンデル《世界の創造》を素材に創世記の物語を反転し、最後は創造の仕事に飽きた神による大虐殺で終わる、冒涜的な内容。カーゲル自身は《州立劇場》に次ぐ代表作にすべく意気込んでいたが、非難が巻き起こったわけでもなく、「見なかったことにしよう」という反応が大勢だった。本日の演奏曲《MM51》(1976) と《鍵盤上で》(1977) は、この時期のクラシック音楽寄りの数少ない作品という位置付けになる。《世界の脱創造》の完成後は、シューベルトのリートを素材にしたオペラ《ドイツより》(1977-80)、シューマンの日記の断片に基づく《真夜中の日記》(1981) と、ロマン派の音楽を素材にした作品に立て続けに取り組んだ。50歳記念作品《フィナーレ》(1981) は、この系列の最後の曲にあたる。日本初演時には「指揮者が最後に倒れる曲」としてワイドショーでも取り上げられたが、コロン劇場時代のエーリッヒ・クライバーが演奏中に心臓麻痺で倒れた故事に由来している。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_1292080.jpg コンセプト/コンテクスト重視の姿勢は、むしろラジオ劇の分野で生かされた。《逆回しにされたアメリカ》(1976) は、ヨーロッパ人による南米原住民の虐殺がテーマ。《我々の海》と対になる、こちらは直球の歴史劇である。タイトルの「逆回し」とは、「殺される側」からの描写であることに加え、言語を奪われた原住民の状況を、逆回しで書いた台詞を逆回転再生して得られるたどたどしい語りで表現していることに由来する。《指導者》(1978-79) では、独裁者の煽動的な政治演説を軍楽隊が伴奏する。ラジオは独裁者の演説を広く届けるために利用された歴史を参照しているが、この作品は舞台上演も可能である。また軍楽隊パートは、《10の敗戦行進曲》(1978) として単独で演奏することもできる。《…オーウェルを読んで》(1984) では、ジョージ・オーウェルが『1984』で描写した「新言語」の問題(極度に単純化された言語では権力に都合の良い概念しか表現できない)を、音と言葉で具体的に提示した。この作品も舞台上演可能である。政治的題材に基づいたこれらのラジオ劇は高く評価され、イタリア賞などの放送劇のための賞を得た。ただしこの受賞は、伝統的な「ラジオドラマ」として革新的だと評価されたということであり、ドイツのラジオ劇の方向転換から生まれたケージやフェラーリの作品のような「優れた現代音楽」としての評価ではない。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_130573.jpg 結局この時期で最も興味深いのは、《世界の脱創造》や《ドイツより》の合間に書かれた軽音楽を素材とする作品である。《4つの段階》(1976-77) は、木質打楽器トリオのための〈馬場馬術〉(TV版その1その2、ライヴ映像)、コメディアンとピアノ伴奏のための〈プレゼンテーション〉、舞台作業員のための無言劇〈撤去〉、コンサート・スペクタクル〈ヴァリエテ〉()の4曲からなり、《プログラム》の軽音楽版とみなせる。ダンスホールの音楽に他ならない〈ヴァリエテ〉に対し、〈馬場馬術〉は「器楽による劇場」の一種だが、コミカルな所作を伴う音楽はあくまで軽い(タイトルは基本素材のギャロップ音型に由来)。〈プレゼンテーション〉はコメディそのものだが、音楽は単なる記号にすぎない点で異なった段階にあり、〈撤去〉では《州立劇場》ですら扱わなかった裏方にスポットを当て、ひたすら小道具を舞台から撤去する。《タンゴ・アルマン》(1978) の素材は伝統的なタンゴだが、器楽パートは特殊奏法を含めて細かく書き込まれており、現代音楽畑の奏者による精緻な解釈が醸し出す違和感はひとつの狙いだろう。他方、声楽パートに歌詞の指定はなく、それらしい言葉をその場で選ぶことが求められており、即興的解釈を含む「タンゴらしい演奏」も許容している。《Blue’s Blue》(1979) の狙いはまた違う。オリジナルの映画版では、「音楽民族学的再構成」と謳いながら「ブルースはジョン・ブルーというジャズミュージシャンが始めた音楽で…」という嘘の歴史を延々と語った後、「ブルーによるSP録音」と称するカーゲル自身によるノリノリの歌唱(にSP盤のノイズを乗せたもの)が始まり、ソファーに寝そべって聴いていた音楽家たちがやがてそれに合わせて即興演奏を始める。音楽民族学のいかがわしさや、歴史的なポピュラー音楽が録音メディアを通じて本来の対象とは全く違う層に消費されている現状を風刺している。ここまで見てきたように、素材はアルゼンチン時代に接した大衆音楽(「ポピュラー音楽」と呼ぶよりも「軽音楽」がふさわしい)にほぼ限られており、《Rrrrrrr…》シリーズ(1980-82) まで来るとネタ切れ感は否めない。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_1363120.gif 《フィナーレ》以降クラシック音楽を素材とする作品が再び減ったように見えるのは、J.S.バッハ生誕300年記念曲《聖バッハ受難曲》(1981-85)(その1その2) という大作に取り組んでいたことが理由である。バッハを救世主になぞらえ、生前の作曲家としての評価の低さを「受難」とみなすのが基本的枠組。カーゲルらしからぬシリアスさを保って分厚く書き込まれているが、軽やかさも失われてはおらず、クラシック音楽を素材にした作品群の中では代表作にふさわしい。だが、この作品の成功を受けて、彼の音楽はますます伝統的な方向に向かった。ピアノ三重奏曲第1番(1985) 弦楽四重奏曲第3番(1987) のように、擬古典的と呼ぶ方が適切な作品すら珍しくなくなった。それでも室内楽ならば、調性的な素材に時折挟まれるノイズ奏法や微分音のニュアンスが聴き取れるが、管弦楽作品になると単に保守的としか言いようがない。《ティンパニ協奏曲》(1992) のように、純粋にネタとして消費されている状況が作品に釣り合っている。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_137274.gif ただし、一度道を踏み外すとそのまま坂を転がり落ちる作曲家が多い中、60歳記念作《1931年12月24日》(1991) の頃から、少なくとも小編成の軽音楽素材の曲は持ち直したように思われる。サロンオーケストラのための《羅針図組曲》(1989-94) も世評は高いが、3奏者のための《セレナーデ》(1994-95)、打楽器奏者と演奏助手のための《アール・ブリュット》(1994-95)、室内アンサンブルのための《オーケストリオン通り》(1995-96) などの作品には、《4つの段階》の時期に劣らぬ生気とウィットがある。ラジオ劇の分野にも復帰し、トランペットのための《コンクール課題曲》(1971/92) 《ファンファンファーレン》(1993)、及びカリヨンのための《メロディ》(1993) の録音を素材に、環境音を加えて音響の遠近感を際立たせた《近くと遠く》(1993-94)、音楽展示場の音環境を再構成した《プレイバック・プレイ》(1996-97) という、テキストに頼らずに音響で勝負した、ケージやフェラーリに比肩する作品を生み出した。本日演奏される《複合過去》(1993) と《二本の手で》(1995) は、この輝きを取り戻した時期の作品である。ただしこの二度目のピークは、60年代半ばから70年代末まで続いた最初のピークほど長くは続かなかった。本日の演奏会を締め括る《即興曲第2番》(1998) が、実質的に最後の曲とみなせる。作品表は死の直前まで埋まっているが、これ以降の作品はコンセプトや視覚的要素は興味深くても、肝心な音楽が伴っていない。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_2144412.gif 彼が90年代に創作意欲を取り戻したのは、録音メディアの主力がLPからCDに移って生産コストや保管コストが削減されたことで、オイルショック以降冷え込んでいた現代音楽リリースが再び活性化し、仏montaigneレーベルが彼の作品の網羅的リリース(未録音だった70年代半ば以降の作品が中心)を始めたことによる。録音メディアを通じて開かれた回路がなければ、クラシック音楽と隣接した現代音楽業界の中で委嘱も聴取も閉じてしまい、作風もおのずと求められる方向性に沿ったものになる。彼の80年代の停滞はまさにそういう事情による。3大B生誕記念曲がみな彼に委嘱されたのは、「空気を読める作曲家」と業界で評価されていたということだ(その種の委嘱はシュトックハウゼンには行かない)。録音メディアのリリースは売れなければ続かないが、このシリーズはmontaigneレーベルが経営統合で消滅する90年代半ばまで続き、以後はドイツの前衛ジャズレーベルWinter&Winterが引き継いだ。パンク・ムーヴメント以降のポピュラー音楽の転換期に、カーゲルのポストモダン的音楽に強い影響を受けたジョン・ゾーンがNYダウンタウンで細々と始めた、さまざまな音楽の断片を高速で混淆し異化する即興音楽は、飽和した自由即興音楽に代わる方向性として80年代以降の欧米で爆発的に支持され、1990年前後には日本でも広まった(当時のゾーンは高円寺で暮らしていた)。Winter&Winterレーベルが扱う音楽家にはゾーンの盟友も多く、カーゲルの第二のピークを支えた聴取層は明白だ。

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)_c0050810_2153218.jpg また、彼の第二のピークが1998年には終わったのは、この時期にインターネットの利用が急速に普及し、あらゆる音楽データが居ながらにして得られるようになったことで、さまざまな音楽様式を混淆し異化するポストモダン的な音楽のあり方が陳腐化したことを反映している(他方、動画配信が一般化する回線速度に達するまでには間があり、その後のカーゲルが視覚的要素に集中したことは、この角度から説明できるかもしれない)。この転換は、実験的ポピュラー音楽の世界ではさらに明確だった。ゾーンらのミクスチャー即興に代わって、音響派ないし音響的即興と呼ばれた、選び抜いた音を疎らに配置し音色と空間性を重視する方向性が注目を集めた。カーゲルの音楽の変遷は、実験的ポピュラー音楽の変遷と見比べた方が理解しやすいのは、彼が現代音楽界では稀有な、時代状況を見据え続けた作曲家だったことの帰結である。音楽史上、彼はまず実験的ポピュラー音楽との親和性の高さで記憶される存在であり、後年のクラシック音楽寄りの創作は副次的なものにすぎない。
by ooi_piano | 2016-01-11 15:25 | POC2015 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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