8/25(金) ソラブジ《オープス》& 古川聖《ノベレッテ集》完演


by ooi_piano

2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (2/5)

(承前)

c0050810_11434597.jpg  それからずっとのちに一柳は、彼だけでなく、ポスト・セリーの音楽への道筋をみつけられないでいた作曲家たちにとって、ジョン・ケージは「神の啓示の如く現われた」と書いている。それほどに当時の彼の作曲家としての暗中模索の日々は苦しく、閉塞しきっていたのだろう。実際、ケージとの出会いのあと、「一年にせいぜい一曲か二曲程度しか創れなかった」一柳が、「その後の一九五六年から六一年にかけては、いっきょに二十曲近い作品を創ることができた」のである。たとえば《ピアノ音楽第一》から《ピアノ音楽第六》もまた、総てこの時期に書かれたものである。
  ケージとの遭遇による一柳の変化は、彼のアメリカでの音楽修業時代を締めくくる最大のものだったと云っていいだろう。音楽面以外でも、一柳が通った「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」でのケージのクラスには、ディック・ヒギンズやジャクソン・マクロー、「ハプニング」の創始者として知られるアラン・カプロウなども在籍しており、ケージの影響を強く受けて、藝術の更新をめざす彼らとも親しく交わることができた。
  さらに、ケージの生涯に亘るパートナーであったマース・カニングハムのカンパニーのレッスンで、ピアノを弾くアルバイトもするようになる。それはすべて即興演奏だったというが、カニングハムやそのダンサーたちだけでなく、当時のカンパニーの美術監督を務めていたロバート・ラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズなどとも友誼を結ぶことになる。一柳の交友が一挙に拡がったのは、「多彩な芸術家たちがケージを中心に、環のように連なって存在し」ていたためだった。

c0050810_11443838.jpg  では、音楽面では、ケージとは一柳にとっていったいどのような存在だったのか?
  まず、一柳が決定的な影響を受けたジョン・ケージとは、或る一般化されたケージではなく、1950年代後半のケージだったということである。
  一柳慧における「ケージの原体験となった音楽」とは、プリペアド・ピアノのための《ソナタとインターリュード》でも《フリーマン・エチュード》でもなく、「図形楽譜の原点とも言える八十四種類の美しいグラフィック・ノーテーションを創案して書かれたピアノとオーケストラのための「コンサート」や、長大な不確定性のピアノ曲「ウィンター・ミュージック」、数枚の透明なプラスチックの板に書かれたものを自由に重ね合わせることで、記号の位置や組み合わせを、紙に書かれて固定されているものより、さらに不確定さを増すように考慮された「ヴァリエションズI-V」など」なのである(12)。
  一柳はのちに、ジョン・ケージを理解するための、見落とされやすいが重要なキィワードとして、「変化」を挙げているが(13)、1950年代後半のジョン・ケージもまた、それまでの自身の辿ってきた音楽の作り方、音楽への向き合い方を、再び捉えなおし、組み立てなおそうとしている、特に大きな変化の渦中にいたのだった。たとえば、1958年には、1951年の自作《易の音楽》について、ケージは、「人間的であるというより非人間的な産物」であり、「たとえ音だけで構成されているとしても、それが全部一緒になって、結局は生きた人間をコントロールしようとしているからだ」(14)と自己批判をするようにさえなっていた。
  これは、たしかに「十二音やセリーの音楽のように音に意味づけすることをやめ、音を人間の意志から解放」(15)するため、作曲の過程に偶然性を持ち込み、音楽を作曲家の軛から解き放つというケージの試みは、《易の音楽》によってひとつの到達を果たした。しかし、どのようなやり方で作曲家が書いたものであれ、結果としては厳密に決定されている楽譜を、演奏家がそのまま奏でるだけでは、演奏家にとっての音楽とは、あいもかわらず不自由で、何も解放されないままだったからである。


c0050810_11453541.jpg  自由であることは、ケージの音楽においてずっと、とても大切にされていることである。そしてそれは決して、絵空事であってはならない。

  《われわれの住んでいる現実はたいへん騒々しく、人びとは何とかそこを逃れ、静かな環境や美しい音を得ようとして音楽を聴く。しかし、そういうふうにして聴かれる音楽というのは、完全な虚構の世界としてとらえられているわけで、虚構の世界にしか美がないということは、裏をかえせば、われわれの住んでいる現実は、たいへんみじめなものだということになる。それでは現実に生きている意味がないんではないかというのが、ケージの一つの主張になります。で、彼は、本当に美しいものというのは、そういう造られた虚構の世界にあるのではなくて、現実そのものでなければおかしいのではないかと云っているわけです。》(16)

  1965(昭和40)年の一柳の言葉である。彼もまた、このケージの音楽への「現実そのもの」に向かう姿勢を強く受け継いでいるのだが、音楽を自由にすることをめざして一柳が進んだ道と、ケージのそれは、結果としてはやはり異なるのである。やがて少しずつ明瞭となってくるふたりの道行きの違いを見つけやすくするためにも、そもそも一柳は、まずケージから何を学んだのかを、いろいろな時期に書かれた一柳自身の言葉から、概観しておくことにしよう。
  一柳が、行きづまっていた音楽の世界にケージは、「神の啓示の如く現われた」と書いていることは先に引いたとおりであるが、しかし一柳はケージの営みを、先人たちが繋いできた音楽からの切断としてではなく、その延長として捉えている。

c0050810_11465151.jpg  1961(昭和36)年、ようやくの日本への帰国と、翌秋のケージとテュードアの来日のころ、一柳は彼らの音楽の紹介を盛んに発表しているのだが、そこではっきりとうかがうことができるのは、ケージの音楽を、「音に楽音(音程を持った音)と噪音の区別をつけることをやめ」た、エドカー・ヴァレーズの《イオニザシオン》やミュジーク・コンクレートのさらなる推し進めとして理解していることである。これはもちろん、噪音を奏でる打楽器としての側面をつよく打ち出すために「発明」された、プリペアド・ピアノのために書かれたさまざまな曲にも、よく現われているが、最も世に膾炙したケージの作品である《4分33秒》においてより端的であるだろう。
  
  《音を音そのものに還そう。彼らは人間ではない。音だ。という考えのもとに、ケージは音に対して、セリーの音楽のように禁欲的とも言える厳格な規制を行う代わりに、選択することを最小限にとどめ、あるがままの音を聴く自在な方法論をつくり出す。》(1998年)(17)

  これを、もう少し詳しく説明しているものも読んでみよう。

  《芸術に、より高い次元の精神美の場を見いだすために、自己主張を極力縮小して人間性を解体させそれによって逆に宇宙や、大自然のもっと大きな動きに同化しようと試みる。自然と人間を別々なものと考えず、人間も自然の一部とみる。そして自然に対して働きかけるのをやめることによって、人間性などという小さな自意識の世界を越えようというわけである。その結果、もはや音に意味をつけたり、自己の観念で有機的な音関係を作ったりしない。その場その場の現実に徹した行為がそのまま音楽につながる。その意味で、生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉そのものなのである。》(1962年)(18)

c0050810_11473811.jpg  シルヴァーマンのケージ伝には、当時の「一柳のことをケージは褒めていたが、それは彼が「自分の想像力という邪魔物から自らの音楽を解放する」やり方をいくつか見出していたからだ」とある。
  「自分の想像力」だとか「人間性などという小さな自意識の世界」といった「邪魔物」を越えて音楽の自由をめざす。しかしそれは何をやってもよいというわけではない。「音に意味をつけたり、自己の観念で有機的な音関係を作ったり」せずに、勝手気儘さえやれば、音楽はおのずと解放されるというようなことなのではない。ケージが一柳を褒めたのは、音楽を自由にするための、「やり方をいくつか見出していた」からであるということに注意しておこう。そう、「やり方」こそが、肝要なのである。
  再び一柳の言葉を引く。だからこそケージは、「演奏する者の主体的表現が生かせるように、結果を固定させないでおく」図形楽譜を導入して、「作曲家もすすんで演奏に携わる」ことができるようにした。そして「演奏家も単に作曲家の書いた物をなぞるのではなく、自らも創造行為にかかわる者としての立場から、演奏を行うように」態度を変更することが求められた。その結果、「作曲家には、音を介した身体性が蘇り、演奏家は再現芸術家という奴隷的な立場から解放されて、演奏の自由を謳歌できるようにな」り、こうして「音楽家はようやく、分業化によって矮小化された役割から解放され、音楽全体へかかわりをもてるようになった」のである(19)。

  しかし、「あるがままの音を聴く」こと、奏でることのために最適の、「その場その場の現実に徹した行為」をとることは、決して簡単なことではない。
  ポール・グリフィスが、まさに一柳がケージのすぐそばで学んでいた「一九五〇年代を通して、ケージが最も心を砕きながらも、しかし最も実現が困難だった目標は、演奏家が「馬鹿騒ぎ」の状態に陥らない方法をとりつつ、かつ同時に彼らに自由な意思で振る舞うことを可能にさせておくことだった」と述べていることからも判るように、「今、行っていることを正確に行う」ことを、実行するのは至難だった。

c0050810_11492699.jpg  それでも1950年代後半のケージは、このやり方で音楽と音楽家を、ともに自由にすることができると信じることができた。それは、彼の傍らに、デイヴィッド・テュードアがいたからだったからかもしれない。
  再びポール・グリフィスの所見を引くなら、「そもそも一九五〇年代のケージの主要な創作は、アマチュア音楽家や現代音楽ファンのための愛想のいい演習課題というよりも、デイヴィッド・テュードアというピアニストがもつ恐るべきヴィルトゥオジティの極限までの開拓と、次に何が起こるかまったく予測すらできない出来事の発見を同時に目的としたものであった」ということになる。
  一柳もまたグリフィスの説を裏づけるように、テュードアの「並はずれた解釈や、演奏から受けた刺激によって」、ケージの音楽は「大きな発展を遂げることが出来たと言っても過言ではない」と述べている(20)。しかしこれは何もケージだけに限ったことではなく、自身もまた鋭敏なピアニストであったがゆえに、ますます感応し得ることも大だっただろう一柳の音楽においても、テュードアからの刺激の痕を認めることはできる。
  実際テュードアは、演奏家がただ楽譜をなぞるのではなく「創造行為にかかわる者として」、「演奏の自由を謳歌」することに真摯に取り組まねばならない、一柳の《ピアノ音楽》のシリーズから、「2番、4番、5番、6番を好んで再々とり上げ、演奏してくれた」のだった。これらの意欲的な作品も、「チュードアが居なければ、それ程注目されることもなく終わっていただろう」とさえ、一柳は述べている(21)。

c0050810_1150447.jpg  一柳は1962(昭和37)年に、当時のテュードアをこう評している。

  《生活と結びついた行為が、そのまま音楽につながる、ということは、今までの音楽に対する態度のように(これは特に演奏家によくみられるのだが)一日に一定の時間を音楽するためにさけば、あとはどんな生活をしていてみよい、というような考えでは成り立っていかない。ちょうど昔、武士が一瞬たりとも気を許さず、常に心の構えを持っていたように、生活に対する心構えが必要となってくる。テュードアは、演奏という、より謙虚な行為に徹することによって、更に無創造性へと近づいていっているように見受けられる。》(22)

  ここではむしろテュードアこそが、ケージや一柳をはじめとする作曲家たちからの挑戦をうけて、「厳格な精神修練によって自分自身の本質を試された後に、音楽家としての自分本来の姿を発見する」(ポール・グリフィス)ことで、1950年代後半のケージの拓いた道を、ケージよりも先んじて歩んでいると読み取ることもできるだろう。

  テュードアによってめざましく実現されたヴィルトゥオジティは、やがて一柳自身の音楽の開拓において、きわめて重要なものとなってくるのだが、ともあれ、1961(昭和36)年の夏、一柳慧は日本に帰朝する。吉田秀和や、当時非常にケージに傾倒していた黛敏郎などに招かれて、大阪で開催された「二十世紀音楽研究所」のコンサートで、ケージやフェルドマン、そして自作の《ピアノ音楽第四》と《ピアノ音楽第六》と《弦楽器のために》を同時に演奏する。11月には個展を開き、さらに翌年の秋にはケージとテュードアも来日して、一柳は彼らや小野洋子などと共に、新しい音楽を聴かせて、日本の音楽家だけでなくさまざまな分野の藝術家たちにも衝撃を与える。これがのちに「ジョン・ケージ・ショック」と呼ばれる、戦後の日本前衛音楽史の一大事となることは、よく知られているだろう)。

  そして一柳は、その熱狂のなかで、云わば「ジョン・ケイジ教の布教師か宣教師にされて」(富岡多恵子)ゆくのだったが、しかし一柳にとっては、先達としてのケージも、新しい音楽のヴィルトゥオーソのテュードアもいない日本で、どのようにして、やっと掴んだみずからの音楽の自由を展開してゆくか、その「やり方」をみつけることこそが、切実な問題であった。  
  日本に帰ってきても、「その場その場の現実に徹した行為がそのまま音楽につながる。その意味で、生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉」は、いつまでも変らず、一柳を貫いていたからである。 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:53 | POC2015 | Comments(0)