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9/20(水) 現代日本人作品2台ピアノ傑作選
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2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (3/5)

(承前)

c0050810_852720.jpg  一柳は28歳でアメリカから帰国すると、次々と新しい作品を世に問うていった。
  初演はケージやテュードアの初来日の折に、彼らと一柳、小澤征爾、高橋悠治、小林健次、小野洋子などによって演奏された《サッポロ》()や、NHKによって委嘱された、一柳による初のテープ音楽である《パラレル・ミュージック》では、テープ音楽のもっている「ひとつの宿命的な制約」である「テープ・レコーダの均等な回転」への「挑戦」として「5台かなんかのテープ・レコーダーからいつ音が出てくるかわかんないけれども、ともかく、プロデューサだの、作曲者だの、技師だのいろんなやつがテープをえんえんとひっぱ」ったり、ラジオ放送において「致命的な現象」である「スピーカーの音がわれちゃうまでオーバー・ボリューム」させたりするなどの試みを持ち込んでいる(23)。ケージから吸収した不確定性の音楽の手法を、一柳は自身のものとして、のびのびと用いている。

  また、ケージ来日の1962(昭和37)年に公開された勅使河原宏の映画『おとし穴』は、『砂の女』や『他人の顔』と続く、勅使河原と安部公房、そして武満徹のコラボレーションの端緒となったものだが、この映画の武満によるサウンドトラックでは、高橋悠治とともに、一柳がプリペアド・ピアノを弾いている。
  あるいは、盟友であるヴァイオリニストの小林健次の父である小林米作が手がけた科学映画のサウンドトラックも、一柳は帰国後から多く手がけており、伸びやかな音楽の実験を聴くことができる。

c0050810_871148.jpg  いわゆるジョン・ケージ・ショックが音楽家たちの域を超えて、広く当時の若い美術家たちに深甚な影響を与えたことは先に述べたが、その熱狂のなかで、一柳もまた映画作家、建築家、美術家たちと広く交流し、しばしば、みずからの音楽を彼らとのコミュニケーションのなかから立ち上げていった。
それがたとえば《ミュージック・フォー・ティンゲリー》である。
  これは1963(昭和38)年、東京の南画廊で、来日したジャン・ティンゲリーが東京中を歩き回って、壊れかけの機械の部品やらガラクタを集めて動く彫刻をつくり、新作展を開いた。その個展に接した一柳が、「それらひとつひとつの彫刻が発する音にも、彼の神経が行きとどいているのを強く感じ」、ティンゲリーのオブジェが発する音からテープ音楽をつくったのだった(24)。

  1964(昭和39)年にはマース・カニングハムと、ラウシェンバーグを含むそのカンパニーが来日する。このときケージやテュードアも再びやってきた。東京で、ラウシェンバーグと、カニングハム&ケージの訣別も決定的となったのだったが、この日本でのツアーでは一柳の《サッポロ》も公演で用いられた。

c0050810_881019.jpg  1966(昭和41)年には、音楽家同士のコラボレーションの発展として、一柳は武満徹とともに「オーケストラル・スペース―新しい耳のために」と題された三日間にわたる演奏会の企画をじぶんたちで立ち上げて、クセナキスやリゲティなどの本邦初演のオーケストラ曲や、自作のほかに湯浅譲二や高橋悠治の作品なども上演した。武満徹によると、この演奏会を開催するため、彼らはあちこちから寄付を募ったそうだが、当時売れっ子の作詞&作曲家だった浜口庫之助は、「船のへさきにいる、あなたたちのアドヴァンスド・ミュージックがしっかりしていなきゃ、私たちがいる、船の真ん中も駄目になるから」と云って、ポンと大金を出してくれたそうである(25)。なお、「オーケストラル・スペース」は、1968(昭和43)年にも開催され、スティーヴ・ライヒの《ピアノ・フェイズ》を、前年のニューヨークでの初演の場に居合わせた一柳が、日本に紹介するのは、このときのことである。

  さて、1967(昭和42)年に、ロックフェラー財団の招聘によって、一柳は再び渡米する。このたびは一年弱の滞在であったが、その帰国ののち、人びとは一柳が変貌を遂げたのを知る。
  それまでは、髪を短く整え、眼鏡に背広で銀行員のような成りをしていた一柳が、髪を延ばし、奇矯なデザインの眼鏡をかけ、ヒッピーたちの好んだ花柄のネクタイをしめるようになっていたのである。
  一柳は、云わばアメリカ実験音楽のフロンティアの伝道師として日本に帰ってきた直後の1962(昭和37)年には、しばしば彼もそこへ通った、ケージやテュードアが「その精神性を実生活を通して実践するため、辺鄙なニューヨーク州の片いなかに、自分たちで部落を形成して移り住み、いわゆる都会の文化生活とは縁遠い、素朴で静かな生活を営んで」いたことを紹介している。そして、「この辺は、テレビや、電気洗たく機などを持って、文化生活に甘んじている日本の作曲家たちと比べると、物質文明にさらされているはずのアメリカの精神的な一面がのぞかれていておもしろい」と書いたのだったが(26)、十年ぶりに日本で生活しながら音楽をつくっていた一柳は、ふたたび渡米し帰国することによって、ケージやテュードアたちが進んだような、生活を純化するほうへではなく、むしろ生活を不純化させることに進むことで、音楽を自由にすることのじぶんのなりの活路を見いだそうとしたのである。

c0050810_8104941.jpg  その前に、渡米中に書かれた一柳の《アピアランス》(初演の録音)をみておこう。これは、図形楽譜で書かれた、オシレータとリングモデュレータと複数の楽器のための作品であり、いわゆるライヴ・エレクトロニクスの音楽である。ちなみに、初演では電子機器をケージが、バンドネオンをテュードアが演奏している。いちど定着されてしまうと、どんなに刺激的な音が鳴ろうとそれは静的なものであるテープ音楽の登場において、「演奏音楽と電子音楽はともすれば対極的なものとして考えられていた」。その限界を超えるものとして、一柳はライヴ・エレクトロニクスを持ち込んだのである。
  ライヴ・エレクトロニクスとは、「非スタジオ的電子音楽であり、演奏ステージが即創作と表現の場になって」いるため、「そこでは従来のスタジオにおける電子音楽のように、修正とか、編集とか、やりなおしというものは存在しない。一回一回の演奏がすべて本番である」ことから、「音を聴いたり、音を創ったり、音に反応したり、また新しい音を発見したりというような点で、作曲と演奏が分かちがたく結ばれている」。
  つまり一柳がライヴ・エレクトロニクスの音楽に取り組んだのは、電子音楽の可能性を開拓するというよりも、彼が培ってきた「不確定性の音楽から発祥してきたもの」としてライヴ・エレクトロニクスが捉えられており、これまで追究してきた音楽の自由をさらに推し進めるための「やり方」として選ばれたのだった(27)。

c0050810_8112575.jpg  さて、1968(昭和43)年に帰国した一柳は、「ダラク」(富岡多恵子)の道を突っ走ることになる。
  「ダラク」とは、どういうことか。
  「生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉」が、一柳の脳裡を離れたことはいちどもなく、また、これからもないだろうことは既に書いた。しかし、二度目の渡米から帰国した一柳は、キノコのオーソリティとしても知られる郊外暮らしのケージのように、その生活を自然に沿わせたかたちで純化してゆくのとは違った道を選んだということである。
  まさにこの帰国の年の一柳に取材し、富岡多恵子が書いた優れたルポルタージュから引いてみよう。

  《われわれが自然を聴くとき、より価値のある音というのがそこにあるだろうか。一柳慧は、音の自然、つまり人間の自然を欲している。それを得るためには、まさに俗世間の泥沼へおちてダラクするしか、いまのわれわれには手がないのである。一柳慧はアメリカでつけていたゲイジュツカの翅を切りおとしたが最後、もう四本の脚で這いまわるより仕方ない。ニンゲンや植物や、土のにおいを嗅ぐのには、そのブサイクな恰好がいちばんよく合うかもしれぬ。》(28)

c0050810_814445.gif  渋谷のど真ん中に居を構え、東京中の「俗世間の泥沼」を、花柄のネクタイできめて飛び回りながら、一柳はどんなふうに「音の自然、つまり人間の自然」を掴まえようとしていたのだったか。
  まず一柳は、ちょうどおなじときにニューヨークに滞在していて、いつもずっと一緒にいたというほど親しくつきあった横尾忠則と組んで、草月ホールで「サイコ・デリシャス・ショウ」という音と映像のイヴェントを開催し、さらに、当時の人気TV番組だった『11PM』では、横尾によると、「全時間を一柳さんの選択した様々な音源と、ぼくが選択したありとあらゆる映像を直感的かつ偶然に衝突させることで計算外の創造的調和と秩序を得るという生テレビ初の実験的な試みを行った。音や映像はあらかじめ用意していたものの、放送開始と同時に音とビジョンのチャンス・オペレーションによるパフォーマンスが家庭のブラウン管を刺激的に攻撃し、芸術的狂気を提供した」(29)。これらの試みは、今も当時つくられた《オペラ横尾忠則を歌う。》でうかがうことができる。

  二度目の「オーケストラル・スペース」では、当時先鋭的なロックバンドだったザ・モップスと日本フィルハーモニー交響楽団を共演させる、オーケストラ、グループ・サウンズおよびテープのための《アップ・トゥ・デイト・アプローズ》を発表するが、指揮を担当した武満徹がザ・モップスの演奏を途中で止めてしまい、一柳にとってはずいぶん不満の残るものだったという(30、)。

c0050810_8155752.gif  同年、ミラノ・トリエナーレでの磯崎新の発表したインスタレーション「エレクトリック・ラビリンス」の音楽を担当。メタボリズムの旗手であった黒川紀章が内装を手がけた「スペース・カプセル」というディスコでも、一柳は、奥山重之助と組んで光と音楽の演出を引き受ける。ほぼ同時期に並行して、1970(昭和45)年の大阪万博での幾つものパヴィリオンで使われた音楽も一柳はつくった。万博での彼の仕事で今も聴くことができるのは、「太陽の塔」を取り囲んだ大屋根で流れていたという、コンピュータが黒川紀章の未来の建築のマニフェストを読み上げる《生活空間のための音楽》である。1972(昭和47)年には銀座のソニービルで「音響デザイン展」を開き、一柳は「音師」と名乗り、さまざまな音を発する家具や玩具などのオブジェを発表している。

  このころ一柳は、自身の音楽活動をしばしば、「音の環境デザイン」と呼ぶようになっていた。秋山邦晴に作曲とデザインの違いを問われ、一柳は「作曲された音楽の場合は、どんな音楽でも必ずはじめと終りがある」、「つまりフォームがある」のだが、「デザインというのは作曲として発想されていない音の世界、そして結果的にも音楽と異なった次元の世界」であるという。その例として一柳は「日本の庭園できく滝つぼに落ちる水音とか、ししおどしの竹が石を打つ音とか、あるいはお寺の鐘の音」と並べて、ライヴ・エレクトロニクスの音楽や、横尾や黒川らと組んで行ったイヴェントやディスコの音や光の演出などを挙げる(31)。
  つまり、異なったものを次々にぶちこみ、ぶち合わせる環境としての、また、そこから生れてくるものを受け止め得る器として、この時期の一柳慧の生活/音楽は捉えられているのだった。あるいは、ふたたび富岡多恵子から引くなら、「この音楽家は、どんな音でもはいるイレモノをつくって、そこへやってくるニンゲンどもを待っている」のだった。

c0050810_8173099.gif  当時の一柳の音楽の取り組みを伝える最良のものが、吉田喜重の映画のサウンドトラックだろう。
1965(昭和40)年の『水に書かれた物語』でも一柳は吉田の映画の音楽を担当しているが、一柳ならではの特色と取り組みがはっきりと現われるのは、やはり二度目の帰国後、1968(昭和43)年に組んだ『さらば夏の光』から始まる仕事である。それはこの映画での一柳のクレジットが単なる「音楽」ではなく、「音響デザイン」となっていることからも明らかである。
  続く1969(昭和44)年の『エロス+虐殺』(予告篇)は吉田の代表作でもあるが、ここでの一柳の音楽とその音響デザインが、映像と繰り広げる緊張感に溢れたやり取りの美しさは、特筆に価する。さらに、『煉獄エロイカ』(予告篇)、『告白的女優論』、そして1973(昭和48)年の『戒厳令』(予告篇)では「特別演奏」のクレジットで、観世栄夫、高橋悠治、小杉武久の名前もある。  (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:52 | POC2015 | Comments(0)
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