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3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)

WINDS CAFE 231 【ディアベリ&不屈の民】

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_632545.gif2016年03月27日(日) 午後3時開演(午後2時半開場)
入場無料(投げ銭形式)
カーサ・モーツァルト http://casamoz.org/ 東京都渋谷区神宮前1-10-23 3階
JR「原宿駅」竹下口 徒歩5分/東京メトロ千代田線・副都心線「明治神宮前駅」5番出口 徒歩2分

大井浩明(ピアノ)
使用楽器: ベヒシュタイン(Bechstein) S型/1920年ロンドン製

■L.v.ベートーヴェン (1770-1827):《ディアベリ変奏曲》(或るワルツ主題による33の変容) 作品120 (1823)
Ludwig van Beethoven: 33 Veränderungen über einen Walzer für Piano-Forte Op.120
  THEMA von A.Diabelli: Vivace - Var.I: Alla Marcia maestoso - Var.II: Poco Allegro - Var.III: L'istesso tempo - Var.IV: Un poco più vivace - Var.V: Allegro vivace - Var.VI: Allegro ma non troppo e serioso - Var.VII: Un poco più allegro - Var.VIII: Poco vivace - Var.IX: Allegro pesante e risoluto - Var.X: Presto - Var.XI: Allegretto - Var.XII: Un poco più moto - Var.XIII: Vivace - Var.XIV: Grave e maestoso - Var.XV: Presto Scherzando - Var.XVI: Allegro - Var.XVII: Allegro - Var.XVIII: Poco moderato - Var.XIX: Presto - Var.XX: Andante - Var.XXI: Allegro con brio/Meno allegro/Tempo primo - Var.XXII: Allegro molto, alla 'Notte e giorno faticar'di Mozart - Var.XXIII: Allegro assai - Var.XXIV: Fughetta (Andante) - Var.XXV: Allegro - Var.XXVI: (Piacevole) - Var.XXVII: Vivace - Var.XXVIII: Allegro - Var.XXIX: Adagio ma non troppo - Var.XXX: Andante, sempre cantabile - Var.XXXI: Largo, molto espressivo - Var.XXXII: Fuga: Allegro - Var.XXXIII: Tempo di Menuetto moderato

 (休憩約10分)

■F.ジェフスキー(1938- ):《「不屈の民」変奏曲》(チリの抵抗歌 “人民連合党は絶対負けない!” による36の変奏) (1975)
Frederic Rzewski: "The People United Will Never Be Defeated!" (36 Variations on !El pueblo unido, jamas sera vencido! / "TPUWNBD!")
 ※上野耕路(1960- )による新作カデンツァ付き(2016、委嘱初演)
 with cadenza newly composed by Koji UENO (world premiere)
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引用歌曲対訳(ジェフスキ)  WINDS CAFE 公式サイト  WINDS CAFE でお会いしましょう 

  ジェフスキ《「不屈の民」変奏曲》は、NY生まれのアーシュラ・オッペンスが地元ケネディ・センターにおけるアメリカ建国200周年リサイタルで、ベートーヴェン《ディアベリ変奏曲》と組み合わせるために委嘱し、1975年10月に完成された。ところが翌年2月のリサイタルでは、ジェフスキー新作が長すぎ難しすぎたため、単独で初演された経緯がある。爾来、女史は《ディアベリ》と組み合わせた演奏は現時点に到るまで行っておらず、よってアメリカ建国240周年(2016年)の本公演は、幻の初演コンサートの実現となる。今回は、クラシックから現代音楽、ジャズやポップスにも通暁する上野耕路による新作カデンツァと組み合わされる。


上野耕路 Koji UENO
3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6584648.jpg  千葉県出身。日大藝術学部在学中に、「8 1/2」、サエキけんぞうらと「少年ホームランズ」「ハルメンズ」を、戸川純・太田螢一と「ゲルニカ」を結成、1982年に『改造への躍動』でYENレーベルからデビュー。1985年、無声映画のための『Music For Silent Movies』をリリース。1986/87年、坂本龍一の映画音楽プロジェクトへ参加、『子猫物語』『オネアミスの翼』『ラストエンペラー』などを手がける。高嶺剛監督「ウンタマギルー」(1989)で第44回毎日映画コンクール音楽賞。14奏者のための《日本民謡組曲》(1990、国立劇場委嘱)、邦楽器アンサンブルのための《Sinfonietta Rurale》(1992)・《稲の王》(1996)(日本音楽集団委嘱)、6奏者のための《Connotations》(1993、ポール・ドレッシャー・アンサンブル(サンフランシスコ)委嘱)等。NHKテレビドラマ『幻蒼』(1995)で第32回プラハ国際テレビ祭でチェコ・クリスタル賞。1999年、全音楽譜出版社より『上野耕路 ピアノ作品集』を出版。2000年より日本大学藝術学部にて、映画音楽の講義を受け持つ。2004年、キユーピー「たらこパスタソース」のCM音楽が話題を呼ぶ。2009年、リコーダー四重奏のための《クァルテット・パストラーレ》初演。犬童一心監督『ゼロの焦点』(2009)で第33回日本アカデミー賞優秀音楽賞。2011年、音楽的側面の集大成とも言えるアルバム『エレクトロニック・ミュージック』を配信開始。蜷川実花監督『ヘルタースケルター』(2012)音楽監督。犬童一心・樋口真嗣監督『のぼうの城』(2012)で第36回日本アカデミー賞優秀音楽賞。2014年、NHKアニメ「ナンダカベロニカ」、NHKBSドラマ「プラトニック」等。16人編成のバンド「上野耕路オーケストラ」でも活動を展開している。 http://kojiueno.com/



ピノチェト、アラウ、大内啓伍────宮尾 幹成

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6343088.jpg クラシック音楽の世界では、作曲家や演奏家の「生誕○○年」「没後○○年」といったメモリアル・イヤーに合わせて演奏会の企画などを立てる慣行がある。
 その顰みに倣えば、今年2016年は、南米・チリ共和国の元大統領アウグスト・ピノチェト[1915年11月25日~2006年12月10日]が首都サンティアゴの軍病院で死去して10年の節目であり、存命なら昨年は100回目の誕生日を迎えていたことになる。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6351866.jpg ピノチェト。今となっては、その名前を記憶している日本人はそう多くないかもしれない。1973年9月のいわゆる「チリ・クーデター」を主導、自由選挙で合法的に選ばれた社会主義政権を武力で転覆させ、1990年まで最高権力者の地位にあった軍人である。

 チリは南米大陸の西岸、南北4000キロにも及ぶ海岸線を持つ細長い国だ。現在の日本では、もっぱらワインの生産国として親しまれているが、伝統的な外貨獲得手段は銅である。南米に強い影響力を持つ米国は、当然のようにチリの銅利権に触手を伸ばし、20世紀中盤には主要な銅鉱山の経営を米国資本が握るようになった。
 当時のチリ経済は停滞が続いていた。チリ政府は、輸入に頼っていた工業製品を国内生産へ切り替える政策を打ち出すが、やがて行き詰まり、農業生産の不調による食料輸入の増加も相俟って、対外収支が悪化する。1958年に誕生した保守政権も、1964年に成立した中道政権も、十分な対策を講じられなかった。1970年9月の大統領選挙で、社会党と共産党を中心とする「人民連合」が擁立したサルバドール・アジェンデ[1908年6月26日~1973年9月11日]が勝利を収めるのは、そうした状況下においてである。

 民主的な自由選挙によって社会主義政権が成立したのは、世界で初めてのケースだった。アジェンデは前2回、1958年と1964年の大統領選挙にも出馬し、一定の支持を得ていたため、警戒を強めた米国中央情報局(CIA)はチリ国内の反共勢力を動かし、露骨な反アジェンデのプロパガンダを展開。だが、僅差で大統領の椅子をつかんだのはアジェンダだった。この過程で、CIAはチリ陸軍総司令官に接触し、「最悪の場合」の軍事クーデターを打診。しかし、軍の政治的中立を信条としていた総司令官はこれを拒否、業を煮やしたCIAが軍内部の対立勢力をそそのかして総司令官を暗殺させるという、信じがたい事件も発生した。
 選挙結果は米国の財界や保守層を震撼させた。冷戦のまっただ中、核戦争の危機が現実味を帯びたキューバ危機[1962年]の記憶もまだ生々しい時代だ。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_636555.jpg 1970年11月3日に大統領に就任したアジェンデは、米国資本が支配する銅鉱山の国有化をはじめ、農地改革による地主制度の解体、児童への牛乳の無料配給といった社会主義的な経済政策を矢継ぎ早に進めていく。銅鉱山の国有化は、形式的には有償での接収だったものの、米国企業がこれまでに上げていた“不当な”利益の分は差し引く形を取ったため、事実上は無償接収になった。米国のリチャード・ニクソン政権は対抗措置として、チリへの経済援助を停止。政府系金融機関にはチリ企業への信用供与を拒否させた。さらに備蓄していた銅を国際市場に放出して銅価格を下落させ、チリが銅を輸出しても儲からないようするという、なりふり構わない嫌がらせまで敢行した。
 チリ国内では、1972年10月にトラック業界を中心とするストライキが発生。南北に細長い国土で、鉄道網が発達していないチリでは、トラック運送は経済の大動脈である。通常の労働者主体のストライキではなく、社会主義政権の足を引っ張るために資本家側が仕掛けたストライキだった。

 経済の混乱は収まらず、アジェンデ派、反アジェンデ派の対立が深刻化する中、1973年9月11日、CIAの後ろ盾を受けたピノチェト将軍率いる軍部や、警察によるクーデターが勃発した。首都サンティアゴは瞬く間に制圧され、アジェンデは側近やわずかな私兵とともに大統領官邸(モネダ宮殿)に籠城。徹底抗戦を呼びかけるラジオ放送を行った後、官邸は空爆された。アジェンデは戦死したのか、自殺したのか、長いこと不明だったが、2011年になって実施された遺体調査によって自殺だったことが判明している。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6374569.jpg クーデターが成功すると、軍部と警察は直ちに戒厳令を敷いた。激しい「左翼狩り」が行われ、虐殺されたアジェンデ派の市民は一日で約3000人に上ると言われている。人権団体は、実際には3万人が犠牲になったと主張している。
 その中には、歌を通じて社会変革を目指す「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」運動の旗手として人気のあったシンガー・ソングライターのビクトル・ハラもいた。《不屈の民》は、ヌエバ・カンシオンの代表的な曲の一つである。チリ・クーデターを描いたフランス=ブルガリア映画『サンチャゴに雨が降る』[1975年]には、ハラをモデルとした人物が、強制収用所と化した国立競技場の中で革命歌を歌った後、殺害される場面がある。この映画は、音楽をアストル・ピアソラが手掛けていることでも特筆される。
 チリ・クーデターを題材とした映画には、戒厳令下で行方不明になった米国人ジャーナリストの家族と米国政府の闘いを活写した『ミッシング』[1982年、米国]もある。
 チリ人のノーベル文学賞受賞者で、アジェンデ政権を支持していたパブロ・ネルーダは、クーデター直後に自宅を破壊され、蔵書を燃やされてしまった。これをきっかけにネルーダの健康状態は悪化し、2週間後に息を引き取った。五木寛之の小説『戒厳令の夜』[1976年]は、ネルーダの他、画家のパブロ・ピカソ、チェリストのパブロ・カザルス(ならびにパブロ・ロペスなる作中人物)という「パブロ」たち全員が、偶然にも1973年に死去していることに着目した作品である。この設定は、アドルフ・ヒトラー他、複数の「アドルフ」を軸に物語が展開する手塚治虫の漫画『アドルフに告ぐ』[1983~1985年]を連想させる。
 ピカソとカザルスが、チリの旧宗主国でもあるスペインの、フランシスコ・フランコ独裁政権への抗議を生涯続けていたことはよく知られている。フランコ総統を崇拝していたピノチェトは、1975年にフランコが没した際、その葬儀に参列するためにマドリードを訪問。ピノチェトはこの時、イタリアのネオ・ファシストらとも接触している。
 ピカソもまた、アジェンデのシンパだった。アジェンデ政権時代、自身の作品を連帯のしるしとしてチリ政府に寄贈したが、ピノチェト政権時代は地下室に放り込まれていたという。ピノチェトが亡くなる直前の2006年7月、サンティアゴの秘密警察本部だった建物を改装した「サルバドール・アジェンデ連帯美術館」が開館。現在はジョアン・ミロやフランク・ステラ、オノ・ヨーコらの寄贈作品とともに収蔵・展示されている。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_640518.jpg チリ出身のクラシック音楽関係者で、ピノチェトとの因縁浅からぬ人物に、ピアニストのクラウディオ・アラウ[1903年2月6日~1991年6月9日]がいる。もっとも、アラウ自身は政治との関わりについてほとんど語っておらず、友人の作曲家ジョーゼフ・ホロヴィッツが著した『アラウとの対話』[1982年]にも政治の話題は全く出てこないが、ホロヴィッツ自身が書いた「地の文」に次のような記述がある(引用は野水瑞穂訳)。
 「政治的にみると、アラウは“リベラル・ヒューマニタリアン(自由主義的人道主義者)”を自称している。この方面でも彼は、はっきりと公けに顔を出しているわけではないが、まったく目につかないというほどでもない」
 「チリにもアジェンデ政権倒壊後は、大金による誘い、友人や昔の弟子たちの要請にもかかわらず訪れていない。アジェンデ政権の目指していた社会的平等の夢を、彼も夢見ていたのだ」
 「彼は若き日にチリ政府が支給してくれた学費を恩に着て、ずっとチリ市民権を持っていた。しかし、一九七九年、ピノチェト体制を恥としてアメリカ国民となった」
 アラウは1979年に米国の市民権を取得したものの、祖国を捨てたわけではなく、チリ国籍との二重国籍者であり続けた。『アラウとの対話』出版後の1983年には、ピノチェトのチリ政府から音楽家としての功績を顕彰され、翌1984年にはクーデター後初めての帰国公演を行っている。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_641362.gif ピノチェトは1974年6月27日に正式に大統領に就任。米国の政財界や、チリ国内の軍部や資本家層などの支持を得て、1990年3月まで16年間にわたって軍事政権を率い、強権政治を行った。この間、マルクス・レーニン主義の文献や左派系文化人の書物は焚書され、多くの市民が誘拐されたり行方不明になったりしている。こうした人権状況に対して、国連総会が1974年以降、繰り返し非難決議を採択するなど、国際社会でもしばしば問題になったが、冷戦下において米国は見て見ぬふりをし続けた。
 国際的な批判の高まりを受け、ピノチェト政権は1978年に戒厳令を解除し、戒厳令下の人権侵害事件による身柄拘束に対する恩赦法を制定した。また、1981年から8年間を「民主政体への移行期間」と定め、1988年に引き続きピノチェトが大統領を続けるかどうかの国民投票を実施することを決めた。

 1988年10月の国民投票で、長期独裁政権に嫌気が指していたチリ国民は、ピノチェトの信任を否決。米国にとっても、既にピノチェトの利用価値は小さくなっており、特段の内政干渉はなされなかった。1989年12月には、米ソ首脳によるマルタ会談が実現し、冷戦が終結している。1990年3月にピノチェトは大統領の座から退き、16年半ぶりの民政移管が実現した。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6435078.gif ピノチェトはその後も陸軍司令官として、1998年3月以降は終身上院議員として隠然たる影響力を保持していた。
 国際社会を驚かせたのは、1998年10月16日、ロンドン滞在中のピノチェトを、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)が軍事政権時代の「人道上の犯罪」容疑で逮捕・拘束した事件である。スペインの司法当局の要請に基づくものだったが、ピノチェトの身柄がスペインに引き渡されることはなかった。この逮捕・拘束が適正なものであるかどうかについては、英国の司法当局の判断も二転三転し、最終的にピノチェトのチリへの帰国が許されたのは2000年3月だった。
 その後、チリの司法当局も、殺人や誘拐、脱税などの容疑でピノチェトの訴追を進めたものの、裁判の終結を待たず、2006年12月10日にピノチェトは91歳の天寿を全うした。大統領経験者であるにも関わらず、国葬は行われなかった。当時の大統領ミシェル・バチェレは、父親が軍事政権の犠牲になり、自身も亡命を余儀なくされた経験の持ち主だった。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6444599.gif ピノチェト政権は、アジェンデ時代の社会主義路線を180度転換させ、新自由主義な経済政策に舵を切った。その結果、輸出の好調に支えられたチリ経済は、1977~1981年には年平均7%の高成長を実現し、「チリの奇跡」と称された。政権の正統性や人権侵害の問題をひとまず措けば、この点では一定の評価を受けている。少なくとも国論を二分しているのは確かだ。他方で貧困率が上昇し、所得格差が広がったことも、半面の事実である。
 晩年には一族の不正蓄財が発覚し、一部で根強く信じられていた「清廉潔白な反共の士」の偶像は地に墜ちた。一方で、チリ国民の底流にある反米感情から「米国の捨て駒にされた犠牲者」との同情論も拭い難くあるようだ。少なくとも、ヒトラーやポル=ポトと同等の扱いを受けているわけではないことは、指摘しておくべきだろう。
 ピノチェトの新自由主義路線は、当時の先進国、とりわけ米国のロナルド・レーガン政権や英国のマーガレット・サッチャー政権と軌を一にするものでもあった。両政権とは盟友関係にあった日本の中曽根康弘政権をそこに加えても良い。2006年12月のピノチェトの死に際して、サッチャー元首相は「深い悲しみを抱いている」と哀悼の意を表明した。レーガン元大統領は、その2年前に既に鬼籍に入っている。中曽根元首相が特にコメントした形跡は見当たらない。当時の日本の首相は安倍晋三(第1次内閣)である。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6452719.gif 安倍の名前が出たついでに、日本の内政の話を少々。
 つい先日、「民社党のプリンス」と呼ばれた元・同党委員長の大内啓伍[1930年1月23日~2016年3月9日(どうでも良いが筆者と誕生日が同じ)]が86歳で亡くなったとのニュースが飛び込んできた。大内は1973年12月、クーデター直後のチリを民社党調査団の一員として訪れ、軍事政権の最高権力者(大統領に就任する前)になったばかりのピノチェトと面会している。
 民社党は、日本社会党の右派が、60年安保闘争などをめぐる党内路線対立の末に離党して1960年に結成した政党(1990年代に新進党を経て民主党に合流)だが、当初から反共産党色が極めて強く、自民党よりも右と言われることさえあった。調査団長の塚本三郎(後に党委員長)はクーデターを「天の声」と称賛し、大内も軍事クーデターという手法には留保を付けながらも「軍の行動を必然化させたアジェンデ政権の無法なやり方そのものに根本の問題がある」とピノチェトを擁護。当時の日本でピノチェト支持の論陣を張った著名人には、他に作家の曾野綾子らがいる。
 大内は「マルクス・レーニン主義勢力は、チリの場合のみならず、その独裁政権を確立する過程でつねに連立政権を求めてきた」と日本共産党への警戒心を露わにし、野党間の選挙協力や連立政権構想の枠組みから共産党を排除することに心血を燃やしていた。ちなみに、1994年に民社党が解党する際、大内も塚本も新進党には行かず、二人とも最終的には自民党入りした。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6461421.jpg この強烈な反共のDNAは、民社党系労働組合のナショナル・センター「同盟」と社会党系労組のナショナル・センター「総評」が1989年に合流して出来た現在の連合(日本労働組合総連合会)にも引き継がれている。連合は民主党(本日、2016年3月27日に維新の党と合流し「民進党」を結成する)の有力な支持母体だが、共産党が提唱している安全保障関連法の廃止を共通目標とする連立政権「国民連合政府」構想や、民主党が今夏の参議院議員通常選挙や次の衆議院議員総選挙(衆参ダブル選挙になるとの観測もある)に向けて進めている共産党との選挙協力に関し、連合の会長(民社党系労組出身)は一貫して強烈な拒否反応を示している。
 とはいえ、さすがに現在の連合が、外国の反共軍事クーデターを公然と支持することはあり得ないだろう。民社党調査団の一件は、冷戦期の西側資本主義陣営を覆っていた、今日では考えられないような異様な空気感が伝わってくるエピソードではある。
 2006年1月のチリ大統領選で社会党のバチェレが当選した際、民社党の青年組織を引き継いだ「社会主義青年フォーラム」は、同党が1973年当時、ピノチェトによるクーデターを支持したのは誤りだったとの見解を発表した。もっとも、社会主義青年フォーラムは、民社党の後継団体である「民社協会」(現在は民主党内の議員グループとして機能している)の下部組織ではないとのことである。

3/27(日) WINDS CAFE 《ディアベリ》+《不屈の民》 (改訂)_c0050810_6471865.jpg 奇しくもピノチェトが世を去った2006年、米国国務省が公開した資料によって、1960年の民社党結成の際に、自民党有力者や「左派穏健勢力」(社会党右派を指すとみられる)がCIAから資金提供を受けていた事実が判明した。CIAの影響下にあった民社党がピノチェト支持を表明したのは、理の当然だったわけだ。
 米国のニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞職したのを受け、副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領は、後に、ニクソンがCIAに対してチリへの介入を指示していたことを明らかにしている。CIAは当時、チリ国内の反アジェンデ勢力に800万ドルの資金提供を行ったという。

 「9・11」と言えば、日本を含む多くの国々では、2001年の米国同時多発テロ事件のイメージが強い。しかし、南米では現在も、1973年の軍事クーデターがもたらしたチリの混乱や悲劇とともに、この日付は記憶されている。[文中、敬称略]

【主な参考文献】
『新版 ラテンアメリカを知る辞典』大貫良夫ら5名監修 平凡社 2013年
『カザルスと国際政治』細田晴子著 吉田書店 2013年
『反米大陸』伊藤千尋著 集英社新書 2007年
『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判』Ariel Dorfman著(宮下嶺夫訳) 現代企画室 2006年
『アラウとの対話』Joseph Horowitz著(野水瑞穂訳) みすず書房 1986年
『戒厳令の夜』(上・下)五木寛之著 文春文庫 1980年
『朝のこない夜はない』大内啓伍著 富士社会教育センター出版局 1975年





























by ooi_piano | 2016-03-14 06:05 | コンサート情報 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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