6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


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7/16(土) ラヴェル全ピアノ曲+小林純生新作初演 (その2)

ディアギレフと三人の作曲家たち
<ラヴェルをめぐって> 神の道化スカルボ讃 ―――山村雅治


Oh ! que de fois je l'ai entendu et vu, Scarbo, lorsqu’à minuit la lune brille dans le ciel comme un écu d’argent sur une bannière d’azur semée d’abeilles d’or !
 嗟呼、吾 幾度か邂逅えし、スカルボと。月影鮮かなる 彼の夜半ぞ、黄金の群蜂鏤めし碧き旛の上なる白銀の貨の如。 (ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 安田毅・訳)


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c0050810_16534981.gif  バレエ・リュスの総帥、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は彼の芸術活動をバレエ公演から始めたわけではなかった。芸術に広範な興味を抱き、音楽を学ぶ法学生だった1897年2月、ペテルブルグのシュティーグリッツ美術館で「イギリス・ドイツ水彩画展」を開催したのが最初に手がけた催しだった。ロシア以外の美術を紹介した展覧会としては、史上もっとも重要なものだった。その後、彼は美術を展示するために奔走するが、すでに18歳のペテルブルグ大学入学後に、のちにバレエ・リュスの美術を担当することになるレオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワらと親しくなっていた。
  翌1898年、雑誌『芸術世界』を発行。彼は理念を述べる。「この雑誌はわが国の芸術界に、そして国民の間に、革命をもたらすでしょう」。「芸術に対するわれわれの姿勢のすべては、独立と自由という前提の上に立っている」。「われわれの出発点は、唯一自由な存在である人間そのものなのである」。
  そして民族主義高揚運動については、「民族主義的芸術家になりたいという願望ほど破壊的なものが他にあろうか。唯一可能な民族主義とは血の中にある無意識的民族主義であり」、「われわれは神々のように自由でなければならない」、「われわれは美の中に調和の偉大な正当性を、個人の中にその最も高尚な具現を探し求めなくてはならない」。
  その後、28歳の1900年、ディアギレフは「帝室劇場運営特任要員」に任命され「帝室劇場年鑑」の編集に携わる。そして浮沈の激しい2年間が過ぎ、1902年12月20日、ペテルブルグで開かれた「現代音楽の夕べ」第1回が開催された。若いピアニストとしてストラヴィンスキーが出演し、この音楽会の活動を通じて当時のロシアにドビュッシー、ラヴェル、シュトラウス、マーラー、シェーンベルクらの音楽が紹介されたのだ。

c0050810_16544298.jpg  ディアギレフは止まらない。1905年1月22日、ペテルブルグで「血の日曜日」事件が起こった翌年、1906年10月、34歳の彼はパリのサロン・ドートンヌでロシア美術展を開催。さらに1907年5月にはパリ・オペラ座で5回のロシア音楽演奏会を開催し、シャリアピンを出演させた。そして1908年5月19日、国際的なバス歌手だったシャリアピンを主役に迎えたムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を、パリ・オペラ座で公演。この年の秋、ディアギレフはニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)と親しくなった。
  バレエ・リュスの旗揚げは1909年。収支はともかく公演は大成功だった。ディアギレフのプロデュース、フォーキンの振付、踊り手のニジンスキー、美術のブノワ、バクストらの「あらゆる細部に注ぎ込んだ愛情と真摯さと献身的努力」が讃えられた。終わるやいなや、デァギレフは次のシーズンの準備に取りかかる。彼は決断をした。第一に、毎年かならず新作を複数上演する。第二は、ロシア人以外の、おもにフランス人の画家や音楽家の才能を採り入れること。
  ディアギレフは、音楽家では、48歳のドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)。そして34歳だったラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいた。そのとき依頼したバレエ音楽はドビュッシーには『マスクとベルガマスク』と呼ばれるもの、ラヴェルには『ダフニスとクロエ』であり、ドビュッシーはその曲をついに完成させることがなかった。ラヴェルの方も完成させるまでには時間がかかった。
  1910年のめざましい初演作品は、ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)の「火の鳥」だけに終った。カルサヴィナとフォーキンが踊り、ニジンスキーは「シェエラザード」「ジゼル」「謝肉祭」「オリエンタル」など他のすべての演目に出演。「牧神の午後への前奏曲」の振付に取りかかり始めた。 1911年のシーズンの初演作は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。ニジンスキーはこの年、初めて主演を踊った。短篇「薔薇の精」と併せて。


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c0050810_16553677.jpg  ラヴェルの「ダフニスとクロエ」は、翌1912年6月8日になってようやく上演されることになる。
  劇場はパリ・シャトレ座。指揮はピエール・モントゥー。
  ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)。フォーキン(振付)、レオン・バクスト(美術・衣装)。ヴァーツラフ・ニジンスキー(ダフニス)、タマーラ・カルサヴィナ(クロエ)ほか。

  しかし、この年の最大の話題の中心はニジンスキーが振付けて主演したドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』だった。わずか10分ほどのこの作品を完成させるためには大変な回数の稽古が必要だったために、フォーキンが振り付けた50分ほどの大作の完成が遅れに遅れたのだ。初演の後、フォーキンはディアギレフを「私のバレエには無関心だ」と批判する。ニジンスキーは「僕かフォーキンか、どちらかが出て行かなくてはならないだろう」と洩らした。フォーキンが辞任した。

  『ダフニスとクロエ』は、にもかかわらず、ラヴェルが残した音楽のなかで最も親しまれている作品の一つになった。原作は2世紀末から3世紀初頭にかけてロンゴスが古代ギリシア語で書いた作品。少年・少女の恋物語が、恋敵とのいさかい、海賊の襲撃、ポリス間の戦さなどの逸話をからめて、詩情豊かに描かれている。フォーキンは1904年からこの作品をバレエにすることを考えていた。1909年6月にはラヴェルと台本についての打ち合せが始められた。ラヴェルは遅筆だった。その間、ロシア語とギリシャ語両方に詳しい友人に訊ねている。「またガニュメデスの同胞にかんする問題なのだが、僕はパン(牧神)の笛の名前を忘れてしまった」と。おもしろいのはダフニスを、美少年ゆえに神に誘拐されたガニュメデスの仲間にしていることだ。ガニュメデスは「同性愛者」と同義であり、主役を踊るニジンスキーとディアギレフの性的関係はよく知られていた。
  さらに原作をフランス語訳で読んだラヴェルは、バレエには登場しない怪異なサテュロスにダフニスが結婚を申し込まれるという、いかにも同性愛そのものの挿話があったことを知った。サテュロスは、ギリシャ神話に登場する半人半獣の自然の精霊。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシャの牧羊神パンとしばしば同一視された。「自然の豊穣の化身、欲情の塊」として表わされる。その名前の由来を男根に求める説がある。

c0050810_16564537.jpg  レスボス島。一群の羊飼いたち。ダフニスとドルコンはクロエの接吻を争うダンスを踊る。勝ったダフニスは報酬を受け、喜びに失神する。すると海賊が島を襲い、クロエはさらわれる。ダフニスは打ちひしがれるがニンフ像が祭壇からおりてきて、巨大な岩へみちびく。岩は牧神に姿を変える。ダフニスは牧神にひれ伏す。クロエをさらった海賊たちは彼女を踊らせる。とつぜん牧神があらわれ、畏れた海賊たちは逃げさる。最終の場面では、ダフニスとクロエが牧神とシランクスの愛を讃えて踊り、高揚した「全員の踊り」に締めくくられる。

  バレエ作品としての《ダフニスとクロエ》初演は、延期になったために2回しかおこなわれず、一般の評判こそ《牧神》に奪われたが、ストラヴィンスキーは「フランス音楽で最もすてきな作品の一つ」と評した。踊り手で評価を得たのは置いた羊飼い役のエンリコ・チェケッティのみ。稽古の回数もままならなかったフォーキンは初演前にディアギレフを糾弾していた。「私は彼とニジンスキーの関係をはっきりと申し上げよう。このバレエ団は、洗練された芸術から倒錯したセックスに変質してしまったのだ」と。稽古の段階から振付師フォーキンとの確執があったニジンスキーは、ダフニスに「牧神」をからかう振付をされるなどの嫌がらせを受けていた。以後、ニジンスキーはダフニスを踊ることはなかった。

  この舞台上のバレエ団はフォーキン派とディアギレフ=ニジンスキー派に分裂するおそれがあった。誰もがヒステリックになっていた。ピエール・モントゥーの指揮は、しかし冷静であり、オーケストラの楽員の誰もがラヴェルのもっとも偉大な作品だと理解していたという。ラヴェルは感情をあらわにしない。ただうっとりとしているようにしか見えなかった。「ラヴェルはニジンスキーの舞踏と、ドビュッシーの《牧神の午後》のスコアを賞賛し、ディアギレフがこの公演に好意的であることにも嫉妬しようとしなかった。彼は常々、もしも死ぬときが来たらドビュッシーの音楽を聴きたいと言っていた」。
  ラヴェルはニジンスキーの「牧神」の踊りを理解していたのだ。


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c0050810_16574248.jpg  『ダフニスとクロエ』について「ラヴェルを終生夢中にさせたパン神的(パニック)なテーマを立脚点としたバレエ」であると、ベンジャミン・イヴリーは指摘する。<パン神>は<牧神>と同義であり、牧羊神、半獣神とも訳されている。パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ。
  イヴリーは「牧神(パン)という概念は、ラヴェルの作品において、若書きの《古風なメヌエット》から《ダフニスとクロエ》を経て、以後も継承されていく」と書いた。「芸術における古代ギリシアのイメージは、デカダンスの世代にとって、性の自由を含む理想郷(アルカディア)伝説の復活を意味していた。理想郷では、牧神が音楽を通じて激烈な性衝動を表現した。古代ギリシアでは男性の同性愛行為を意味するのに『牧神を讃える』という表現を使い、牧神的(パニック)な愛は、恐慌的(パニック)な恐怖と同様、激烈で、急激で、予期しがたかった」。「神話的伝承が深く浸透したラヴェルの作品は、しばしば牧神的(パニック)な理想が具象化されている」。

  「牧神的」(パニック)な音楽の始まりだった『古風なメヌエット』1895は、ラヴェルの作品目録では『愛に死せる女王のバラード』(ピアノ独奏曲)、『グロテスクなセレナード』(ピアノ独奏曲。その名の通りグロテスクで、悲劇と喜劇が混ざり合った、恋人の役を不器用にこなす人物が描かれるという。ラヴェルの自画像か。シャブリエの影響があると作曲者は言っている)、『暗く果てない眠り』(ヴェルレーヌ詩によるバスのための歌曲)に次いで4番目に挙げられるが、記念すべき初めての出版作品だった。典雅に見えて、内部にはエロスが踊っている。牧神の舞踏の地面に打ちつけるリズム。

c0050810_16583871.jpg  そして『鏡』1904/5は《蛾》《悲しげな鳥たち》《海原の小舟》《道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)」、そして《鐘の谷》の5曲からなる。
  牧神が踊るのは第4曲《道化師の朝の歌》だ。この訳語についての異論を読んだことがある。「道化師」ではなくて「放蕩者」と訳すべきだと。夜を徹して遊びはてたあげくの放蕩者の朝帰りの歌なのだ、と。その異論は現在に至るまで一般には浸透しなかった。道化師って?アルレッキーノのこと? じつは高校生の頃、そんな疑問を抱いていた。アルルカン、ピエロがその服装のまま、朝の街を歩くの? なるほど「放蕩者」かあ、と一人住まいを始めた大学生になって新宿で夜遊びし、夜明かしして朝帰りしてからひとりごちた。
  しかし、異論はやはり異論だった。Graciosoはスペインの17世紀の芝居のキャラクターで「道化師」に他ならなかった。「彼は糞尿愛好的、好色的、反女性的」「で、粗雑にして反英雄的な風刺をおこなうのによく利用される」。「彼はたいてい召使いで」「あらゆる猥褻行為を許されたおどけ者たる道化師は、」「多くの場合において自らを半陰半陽者、同性愛者、去勢男子などと宣言し、エロティシズムを茶番化する」。
  《道化師の朝の歌》の中で、「ラヴェルは自らを道化師とも、また恋愛物語(ロマンス)の反英雄とも見立て、さらには、鏡に映る逆像の異性愛を眺める外部の傍観者として描いたのだった」。(前掲書)。

  道化。この言葉はニジンスキーも書いた。
  ニジンスキーは「私は神の道化だから、冗談が好きだ」と文字に刻みつけた。(『ニジンスキーの手記』鈴木晶訳 新書館)。「私は言いたい、愛のあるところが道化の本来の場所だ。愛のない道化は神ではない。神は道化である。私は神である」。

c0050810_16592927.jpg  ニジンスキーはいつも「人間ではない」役を踊って喝采を博してきた。バレエ・リュス初期の『アルミードの館』、『クレオパトラ』『シェエラザード』での奴隷は、人間以下の存在として。このころディアギレフの友人ヌーヴェリは『シェエラザード』でもニジンスキーは奴隷を踊ることになったことについて、「彼はいつも奴隷じゃないか。ねえ、セリョージャ、そろそろ解放してやったらどうだい」と皮肉を飛ばしている。『薔薇の精』では妖精。この作品では両性具有性がきわだつ。『青神』では神。『牧神の午後への前奏曲』では牧神。振付は革命だった。そして、次に主役を踊るだろう『ペトルーシュカ』は人形なのだ。もっといえば、魔術師である人形一座の座長の奴隷。ニジンスキーは、舞台を離れてもディアギレフの奴隷であるといえた。だから舞台では実人生をこえて、さらに人間を離れた凄まじい存在になった。
  フォーキンは言う。ニジンスキーには「男っぽさが欠けていて」「その特徴ゆえに黒人の奴隷の役にはぴったりだった。原始的な野蛮人みたいだった」。「半分人間で、半分は猫科の獣になったかのように、音を立てずに大きく跳躍したかと思うと、今度は種馬に」なった。
  ブノワは言う。「半分は猫で半分は蛇だ。悪魔のようにすばしこく、女性的だが、背筋が寒くなるような恐ろしさを秘めている」。
  ヴォドワイエは言う。「彼はぎらぎら光り、のたくっていた。爬虫類のように」。
  ブロニスラヴァ・ニジンスカは言う。「最初は蛇、次いで豹になった」。(『ニジンスキー 神の道化』鈴木晶 新書館)。


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c0050810_1702177.jpg  ラヴェルもまた「人間以外」の存在を書かせれば、そこにラヴェル自身が現われた。完成させるまでに時間はかかったが、最高に楽しく仕上がったのはオペラ『子供と魔法』1924だろう。ファンタジー・リリックと作曲家が名付けたオペラとバレエを融合させた、彼の独創が輝くおとぎ話だ。主役は子供。ほかに母親、王女、羊飼いの娘、お姫様、数を数える小さな老人、羊飼いの男が出てくる、あとは雌猫、安楽椅子、火、ナイチンゲール、こうもり、ふくろう、、うぐいす、雨蛙、中国の茶器、カップ、とんぼ、ソファー、大時計、雄猫、木などが声を出して歌うのだ。
  ピアノ連弾で聴ける曲にもある。管弦楽曲に編曲された『マ・メール・ロワ』1908/9だ。英語で歌われてきた伝承童謡「マザー・グース」(がちょう婆さん)の仏語訳。《眠れる森の美女のパヴァーヌ》、《親指小僧》、《パゴダの女王レドロネット》、《美女と野獣の対話》、《妖精の園》の5曲からなる。原作はシャルル・ペロー、ドロノワ夫人とルプランス・ド・ボーモン夫人。
  おとぎ話には、しばしば生々しい大人の感情がこめられている。人間以外の場所にしか生きられない悲しさを、たとえばハンス・クリスティアン・アンデルセンは童話の姿で表現した。「かたわもの」や「みにくいあひるの子」がそうだが、《おやゆび小僧》《美女と野獣の対話》のラヴェルも同じことをしている。とても小さな体に生まれついたおやゆび小僧は、親に捨てられて森の中で迷ってしまう。心のやさしさを知り、野獣の醜さを受け入れる姫だが、それだけでは足りない。なによりも性的な魅力は欠けたままだ。ここに肉体に魔術がかかり、グリッサンドが野獣から美貌の王子への変身が遂げられる。
  『マ・メール・ロワ』は、のちに管弦楽に編曲され、新たに書き加えられた部分とともにバレエ音楽として上演された。テアトル・デザール(芸術劇場)の支配人、ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)からの依頼により、1911年から翌1912年初頭にかけて編曲。初演は1912年1月28日、ラヴェル自身の台本、ジャンヌ・ユガール夫人の振付、ガブリエル・グロヴレーズの指揮による。
  1916年になってから、9月にディアギレフは『マ・メール・ロワ』を舞台にかける意欲を示した。しかしラヴェルの楽譜を専属で出版するデュランが反対した。ロシアバレエ団、「彼らに攻撃された作品は異常に輝きますが、その輝きは放火の輝きです」。「このささやかな幻想は、アジア的豪奢のなかで燃えさかるというよりも、むしろより尊敬される、息の長い、もっと地味な運命をたどるべきなのです」。
 
c0050810_1711976.jpg  1914年に着手し、1917年に完成した『クープランの墓』は、ピアノ独奏曲としての最後の大作になった。《プレリュード》《フーガ》《フォルラーヌ》《リゴードン》《メヌエット》《トッカータ》の6曲からなる。1919年に4つの曲が管弦楽に編曲され1920年初演。同年にバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によって「フォルラーヌ」、「メヌエット」、「リゴードン」の3曲がバレエ化され、11月8日にシャンゼリゼ劇場で初演された(指揮:デジレ=エミール・アンゲルブレシュト)。バレエ版は好評であり、1923年にはラヴェルが100回目の公演を指揮した。

  ディアギレフは1913年の夏、『春の祭典』初演後の頃にはニジンスキーとの関係を終えていた。8月15日、バレエ・リュス一座はブエノス・アイレスに向けて出発した。ディアギレフ不在の旅先で、ニジンスキーはロモラ・ド・プルスキーと結婚した。激怒したディアギレフはニジンスキーを解雇した。ニジンスキーは自分の一座を立ち上げなければならなくなった。かつての仲間は除名を恐れてその一座に加わらない。しかし、ラヴェルは救いの手を差しのべた。1914年3月のロンドン公演のためにシューマン『謝肉祭』とショパン『シルフィード』のオーケストレーションを大急ぎで改訂した。
  そんなことを根に持っていたのかどうかは判らない。1920年になって、ラヴェルは『ラ・ヴァルス』の2台ピアノ版をディアギレフに聞かせた。ディアギレフはその場で、バレエ・リュスの舞台にのせることを却下した。「名曲ではあるが、これはバレエの真似事だ。バレエそのものではない」と。しかし『ラ・ヴァルス』は他のバレエ一座によって上演される。1928年10月の時点ではアントワープの劇場とイダ・ルビンシュタインの舞踊団が、そして後代の1951年、ジョージ・バランシン振付によって偉大なバレエ作品になった。

  『ボレロ』の場合もそうだ。初めからバレエ曲として、イダ・ルビンシュタインが委嘱した。初演は1928年11月22日にパリ・オペラ座において、ワルテル・ストララム(フランス語版)(Walther Straram)の指揮、イダ・ルビンシュタインのバレエ団(振付:ブロニスラヴァ・ニジンスカ)によって行なわれた。ディアギレフはこの公演を見て、1928年11月23日付のセルジュ・リファール宛の手紙に「ラヴェルの曲も、単調なリズムが延々14分も続く」と、こきおろしている。
  ディアギレフが関わらなかったバレエ曲としては、『ダフニスとクロエ』初演の年、1912年に『高雅で感傷的なワルツ』が、ロシアのバレリーナ、ナターシャ・トルハノフからの依頼を受けて、バレエ『アデライード、または花言葉』のための音楽として作られた。初演は同年4月22日にシャトレ座において、ナターシャ・トルハノフのバレエ団、作曲家本人が指揮するラムルー管弦楽団によって行われた。


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c0050810_1724997.jpg  ラヴェルがディアギレフに会ったのは、バレエ・リュスが初めてパリ公演にやってきた1909年のことだった。「ディアギレフ以前」のラヴェルの作品には、『鏡』もそうだったが、多感なモーリス少年の資質が包み隠されることなく表現されている。愛読書はリラダンの『未来のイヴ』、ユイスマンスの『さかしま』、そしてボードレールの仏語訳『エドガー・アラン・ポー全集』だ。ラヴェルは12歳のときに、ピアニストのリカルド・ヴィニェスとめぐりあい、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』を借りた。その頃のラヴェルをヴィニェスはこう書いている。「前髪をたらしたフィレンツェの小姓がしゃちほこばっているみたいな子供で……優美でほっそりとした繊細なバスク顔が、狭い肩と細い首の上にのっていた」。
  『夜のガスパール』1908は3曲からなる。
  《オンディーヌ》。人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る。
  《絞首台》。葬送の鐘。遅く重いテンポは変更されないが、それとは裏腹に拍子はめまぐるしく変化を重ねる(鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か……)。死は不可避だ。
  《スカルボ》。自由に飛び回る悪鬼スカルボ。不吉な和音と炸裂する走句。まがまがしい跳躍の舞踏。ついに悪のエロティックな勝利。
 ラヴェルは1908年7月、イダ・ゴデブスカへの手紙の中で書いている。「終わりかたが悪魔じみているのは、『彼』が作者であることからして当然です」。

 Mais bientôt son corps bleuissait, diaphane comme la cire d’une bougie, son visage
blêmissait comme la cire d’un lumignon, — et soudain il s’éteignait.
 須臾 その體 かの貌 倶に蒼冴め 燭の涙と透けゆき 色喪せゆき、
 然りて 彼の者 突如に 見えずなりたりけり。(ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 安田毅・訳)

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by ooi_piano | 2016-07-03 15:51 | コンサート情報 | Comments(0)