6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

10/10(月・祝)18時 POCシェーンベルク特集

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c0050810_723323.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場)

c0050810_12285012.gifアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演) 約28分
:室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)] 約21分

(休憩10分)

:三つのピアノ曲 Op.11(1909) 約13分
  I.Mäßig - II.Mäßige Achtel - III. Bewegt
:六つのピアノ小品 Op.19(1911) 約5分
  I.Leicht, zart - II.Langsam - III.Sehr langsam - IV.Rasch, aber leicht - V.Etwas rasch - VI.Sehr langsam
:五つのピアノ曲 Op.23(1920/23) 約12分
  I.Sehr langsam - II.Sehr rasch - III.Langsam - IV. Schwungvoll - V.Walzer
:ピアノ組曲 Op.25(1921/23) 約14分
  I.Präludium - II.Gavotte - III.Musette - IV.Intermezzo - V.Menuett - VI.Gigue

(休憩10分)

見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 約10分
  1.黎明 - 2.熟成 - 3.蒸発
アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:二つのピアノ曲 Op.33a/b(1928/31) 約7分
  I.Mäßig - II.Mäßig langsam
:室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/39)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演) 約23分
  I.Adagio - II.Con fuoco




c0050810_1230293.jpg見澤ゆかり:ピアノ独奏のための《Vivo estas ĉiam absurda》(2016)
  曲題《ヴィーヴォ・エスタス・チアム・アブスルダ》は、「人生は常に不条理」という意味のエスペラント語(人工言語)である。エスペラント語とは母語の異なる人々の間での意思伝達のための国際補助語として創られた言語であり、また母語話者を持たないラテン語のように習得が難しいものでもない。表向きは、習得に対して有利、不利の差異がないとされているが、文法は印欧語族に分類され、語彙のほとんどがロマンス語を基礎としていることから、他言語の母語話者の習得の難しさは自然言語よりまし程度であるという指摘がある。つまり、エスペラント語というもの自体が不条理の是正を目指し、それに挫折することによって不条理を浮き彫りにした存在である。
  人間が不条理であると感じる時、その人物は不当な扱いを受けたという感情を抱いている。社会的問題であれ、個人的な問題であれ、その感情は怒りを誘発するものである。この曲の着想は、「怒り」についてである。怒りが起きた状況や、その感情をそのまま曲にするのではなく、「怒り」がいかにして起こり、いかにして増幅され、いかにして消滅するのか、ということから、曲の構造を構築した。また、音要素は主にディエスイレの引用と攻撃的なノイズを使っている。(見澤ゆかり)

c0050810_1230574.jpg見澤ゆかり Yukari MISAWA, composer
  1987年群馬県富岡市生まれ。国立音楽大学音楽文化デザイン学科創作専修(作曲)、大正大学仏教学部仏教学科浄土学科を経て、現在カール・マリア・フォン・ヴェーバー音楽大学大学院作曲課程に在籍。作曲を菊池幸夫、川島素晴、マルク・アンドレ、フランツ・マルティン・オルブリッシュの各氏に師事。作品に《恵天楽》(篳篥・楽琵琶、2011)、《隠響》(管弦楽、2012)、《観察と体験》(pf/perc/fl、2013)、《combi-land》(ギター二重奏、2014)、《Spiel einer Nymphe》(3人のパフォーマー、2015)、《←→ ↓ ←→》(ホルン四重奏、2016)等。浄土宗僧侶、篳篥奏者としても活動している。ドレスデン在住。




シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」になるまで───野々村禎彦

c0050810_12315433.jpg シェーンベルクを「戦後前衛の源流」のひとりに数えるのは今日では自然だが、前衛の時代には決してそうではなかった。特に戦後前衛第一世代にとっては、新ウィーン楽派でモデルになった作曲家はまずヴェーベルンであり、管理された偶然性以後の時代にベルクも加わったが、シェーンベルクの位置付けは一貫して、「12音技法と引き換えに新古典主義に退行した反動」というものだった。

 本日のプログラムは、後期ロマン派時代のシェーンベルクの代表曲のピアノ独奏編曲から始まる。《浄められた夜》(1899) は、クリムトやピアズリーの絵画が醸し出す世紀末のイメージにふさわしい。室内交響曲第1番(1906) では半音階化がさらに進み、無調前夜のフラストレーションが極限まで高まった。だが、20世紀初頭のこのような傾向はシェーンベルクに限ったものではなかった。

c0050810_12332040.gif 初期には華やかな交響詩を量産し、《薔薇の騎士》(1910) 以降の平明なオペラで第三帝国に最も愛された作曲家になったR.シュトラウスは、《サロメ》(1904-05) と《エレクトラ》(1906-08) で無調の瀬戸際まで行った。初期の伝統的な《フィンランディア》(1899) や交響曲第2番(1901-02) で語られがちなシベリウスも、弦楽四重奏曲《親愛の声》(1909) の頃には半音階化で音楽の密度を求めるようになり、交響曲第4番(1911) の不穏さは無調前夜のシェーンベルクすら凌ぐ。

 ただし彼らは、安定した無調まで行き着くことはなかった。R.シュトラウスの場合は、一時の流行が冷めたらホームグラウンドに戻っただけかもしれないが、シベリウスの場合は、一人ではそれ以上先まで行くことはできなかったのだろう。その後の切り詰めた独自様式も興味深いが、一般性のない個人様式であることも彼は理解しており、やがて消え入るように筆を折った。90年代に入って保守化したスペクトル楽派第二世代以降は、調性の明確さゆえに彼の後期作品を崇拝しているが…

c0050810_12343014.gif まさに後期ロマン派を佃煮にしたような作風の持ち主だったシェーンベルクが、弦楽四重奏曲第2番(1907-08) の終楽章でソプラノが「私は別な惑星の大気を感じる…」と歌い始めるのに導かれて清々しい無調音楽を書き始めるに至ったのは、彼一人の力ではない。ヴェーベルンとベルクという二人の弟子は、後期ロマン派の音楽観に囚われていた彼にはない音楽性を持っており、むしろ彼らこそが、「ヨーロッパ戦後前衛の源流」シェーンベルクにとっての「源流の源流」だった。

 ヴェーベルンは、音楽学者としてはフランドル楽派の作曲家イザークを研究しており、ルネサンス時代の多声音楽にも精通していた。ベルクは後期ロマン派の音楽に親しみながら、それを素材として突き放して扱う、新古典主義に通じる感覚を持っていた(ストラヴィンスキーの新古典主義の中核はバロック音楽の素材であり、ロマン派の素材は鬼門だった)。シェーンベルクの作品11 (1909) の浮遊感は、古典的形式を宙吊りにして伝統の重力から解放するベルクの個性の反映であり、作品19 (1911) の凝縮されたミニアチュールは、ヴェーベルンの唯一無二の個性の賜物に他ならない。

 ヴェーベルンとベルクは、同時代の作曲家の中では寡作な部類だが、ひとつひとつの作品で明確なテーマを設定して着実にクリアしてゆくヴェーベルンも、個人史においても音楽史においても大きな意味を持つ大作に絞って入念に仕上げてゆくベルクも、作曲家としては極めて堅実なタイプである。他方シェーンベルクは、霊感に導かれるままに創作に没頭する数年間と、これといった作品を生み出せない期間が交互に訪れる、気紛れなタイプの作曲家だった。

c0050810_1236793.gif 弦楽四重奏曲第2番(1907-08) から《月に憑かれたピエロ》(1912) や《幸福の手》(1910-13) に至る無調初期の数年間は、彼の創造力が最初に爆発した時期だった。しかしその後の数年間は、第一次世界大戦への招集という事情もあったとはいえ、未完に終わった《ヤコブの梯子》(1917-22) 以外にはこれといった作品がない。作品23 (1920-23) と作品25 (1921-23) のピアノ曲は、12音技法の構想が固まってゆく中で、長い沈黙を破って久々に完成された作品だった。

 作品23と《セレナード》(1920-23) には、新たな道を歩み始めた際に特有の不定形の魅力(無調初期では、《架空庭園の書》(1908-09) やモノオペラ《期待》(1909) がこれに相当する)に溢れているが、いったん方向性が固まると、今度は作品25のような型にはまった新古典主義に収まってしまうのも彼の個性である。作品25、《木管五重奏曲》(1923-24)、《組曲》(1925-26) などの作品は、前衛の時代に厳しく批判された「新古典主義への退行」のサンプルと看做さざるを得ない。

c0050810_12365880.gif だが彼はその水準では終わらなかった。弦楽四重奏曲第3番(1927) や《管弦楽のための変奏曲》(1926-28) になると、12音技法で生成した持続を伝統的形式に流し込む次元に留まらない、有機的な構造が再び実現されている。オペラ《今日から明日まで》(1928-29) は《月に憑かれたピエロ》に共通する軽妙さを持ち、《映画の一場面への伴奏音楽》(1929-30) は、彼の代表作を特徴付ける不定形にうごめく無意識と理性による統合がせめぎ合った、極めて豊かな音楽である。

 これらの作品を生んだ数年間は無調初期と並ぶ彼の創作の第二のピークであり、12音技法による創作の集大成となったオペラ《モーゼとアロン》(1930-32, 未完) まで続いた。この好調の中で書かれたピアノ独奏曲が、作品33の2曲(1928-29, 1931) に他ならない。第一のピークの無調音楽は、テキストの流れに構造を委ねた非組織的なもので、霊感が途切れた途端に深刻なスランプが訪れた。だが二度目のピークは、一度不調に陥った後に書法の成熟に伴って自らを高みに引き上げる、意志で霊感を制御した結果だった。これが、12音技法という組織化された書法の威力である。

 しかし、《モーゼとアロン》完成間近の1933年、ナチスの政権掌握を機に彼の運命は暗転する。ユダヤ人としてナチスの台頭に危機感を抱いていた彼は、フランスで休暇を取って全権委任法成立後の趨勢を見守り、ナチス以外の政党が非合法化されるに及んで亡命を決意した。《浄められた夜》に先立ち、ドイツ圏での活動を見据えてプロテスタントに改宗していた彼は、今後は亡命先のユダヤ人コミュニティで糊口を凌ぐことを見据えてユダヤ教に再改宗し、直接米国に亡命した。

c0050810_12381869.gif 彼は米国でも現代音楽コミュニティでは知られており、亡命の翌年には南カリフォルニア大学(後にUCLA)に教職を得た。ヴァイオリン協奏曲(1934-36) や弦楽四重奏曲第4番(1936) で12音技法による創作を続けたこの時期は、25音音列による作曲を試みていた若き日のケージを、カウエルの紹介で教えていた時期でもある。だが、狭いコミュニティの外ではヨーロッパ以上に新古典主義全盛の米国では、彼は作曲家として全く認知されておらず、その音楽が理解されることもなかった。彼は徐々に厭世的になり、やがてケージも後ろ向きな師のもとを離れて独自の道を歩み始める。

 当時の彼が受けた委嘱は専ら調性的な作品であり、そこで彼が選んだのは、ヴェーベルンとベルクに導かれて無調に歩み始める直前の書法だった。《コル・二ドライ》(1938) や《レチタティーヴォによる変奏曲》(1940) はまさにそのような作品だが、ピアノ編曲版が本日最後の曲目となる室内交響曲第2番(1906/39) も、室内交響曲第1番と同時期の素材をまとめ直した曲で、この時期の創作の文脈を伝える。だが第1番と聴き比べると、この時期の彼の焦燥や諦念も聴き取れてしまう。第二次世界大戦初期にはナチスドイツは連戦連勝、米国は孤立主義を守っていたことを思い出そう。

c0050810_1239711.gif 彼に遅れること数年、ストラヴィンスキー(1939) やヒンデミット(1940) も米国に亡命してくると彼の立場はさらに悪くなり、オペラや管弦楽曲の委嘱を次々と受ける彼らとは対照的に、学生用の吹奏楽のような委嘱しか得られなくなった。米国の第二次世界大戦参戦の報に接し、閉塞状況の変化に期待して《ナポレオン・ボナパルトへの頌歌》(1942) とピアノ協奏曲(1942) という、明確な調的中心音を持つ折衷的な12音作品を突発的に書き上げた後は、ますます筆も進まなくなった。

 だが、このまま音楽史から消え去るかに見えた彼は、持病の喘息による臨死体験を経て弦楽三重奏曲(1946) で奇跡的に復活した。《ワルシャワの生き残り》(1947) から《現代詩篇》(1950, 未完) まで、一見地味だが濃密に書き込まれた12音作品が続き、その音楽的密度は過去二回のピークに勝るとも劣らない。ただし、この生涯三度目のピークにピアノ独奏曲が書かれることはなかった。

                ***********

c0050810_12401359.jpg ここまでシェーンベルクの歩みを振り返ったが、12音技法の創始者である彼は当然、総音列技法に基づくヨーロッパ戦後前衛の源流でもある…という単純な話ではないということだ。総音列技法で参照されたのは後期ヴェーベルンであり、シェーンベルク流の書き込まれた和声は、ヨーロッパ戦後前衛では忌避された。さらに言えば、後期ヴェーベルンの書法を直接受け継いだのはダラピッコラやペトラッシであり、総音列技法はさらに軽やかで装飾的な、シュトックハウゼン流の電子音楽や前期ベリオらの作風と相性の良い方向に発展した。ヨーロッパ戦後前衛第一世代にシェーンベルクの影響を見出すとすれば、前期ノーノを特徴付ける政治的スローガンのシュプレヒコールと、後期シェーンベルクの合唱書法との対応程度だろうか。奇しくもノーノの妻は、シェーンベルクの娘である。

 シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」として見直されるようになったのはむしろ、前衛の時代が終わって総音列技法の特権性が失われてからだった。前衛の時代にシェーンベルクの音楽が敬遠されたのは、ブラームスやマーラーとの連続性を否応無く意識させるためだが、芸術至上主義やヨーロッパ中心主義のような、戦後前衛が前時代から無自覚・無批判に受け継いだものを、視覚的要素を多用して暴き出したカーゲル(やその縮小再生産版のシュネーベル)ですら、前衛の時代が終わる頃にはドイツ音楽の伝統の再利用に創作の中心を移しており、「戦後前衛」の前提は変化した。

c0050810_12411269.gif その中で、シェーンベルクをモデルにした作曲家の典型例がラッヘンマンである。彼は前衛の時代の終わりに、器楽の特殊奏法のみを精緻に組織化した様式を確立して頭角を現したが、カオティックな時間構造を維持していたのは最初の数年で、《カウドウェルのための祝砲》(1977) の頃からは、音色以外はスクエアで伝統的な構造を用いるようになった。この割り切りは、12音技法確立当初のシェーンベルクが、音程以外は伝統的形式に回帰したのに対応している。近作の弦楽四重奏曲第3番《グリド》(2001/02) や《Got Lost…》(2007-08) の持続は、もはやシェーンベルクそのものだ。ファーニホウの弦楽四重奏曲第4番(1989-90) でも、ソプラノ入り編成など強く意識されている。

 もうひとつ忘れてはならないのは、ケージ及びニューヨーク楽派の音楽の源流のひとつは、シェーンベルクの音楽に他ならない。彼らがヴェーベルンの「音と沈黙の対位法」に強い影響を受けたこと(この側面は総音列技法では見事に抜け落ちている)は広く知られているが、そもそも彼らの「アメリカ音楽」に拘らない姿勢は、若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生リスペクトしていたことに由来する。ケージが決裂したのは、渡米後の苦境の中で自分を見失っていたシェーンベルクであり、即興の可能性を疑って理念を厳格に形にする姿勢は、ニューヨーク楽派の音楽に深いレベルで継承された。彼らの音楽は、即興の可能性に疑いを持たない米国実験音楽の大らかな多数派とは異質であり、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたのは歴史的必然だった。
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by ooi_piano | 2016-09-19 08:45 | POC2016 | Comments(0)