6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

1/22(日) ストラヴィンスキー総特集+大蔵雅彦新作

c0050810_7485570.jpg【ポック[POC]#30】
2017年1月22日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 
合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



c0050810_3141715.jpgイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):
ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演) 28分
  I.Allegro - II. Scherzo, Vivo - III.Andante - IV.Finale. Allegro
四つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、東京初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気

 (10分休憩)

大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 4分
イーゴリ・ストラヴィンスキー:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
《兵士の物語》による大組曲(1918)(作曲者による独奏版、日本初演) 25分
  I.兵士の行進 - II.兵士のヴァイオリン - III.王の行進曲 - IV.小コンセール - V.3つの舞曲(タンゴ/ワルツ/ラグタイム) - VI.悪魔の踊り - VII.コラール - VIII.悪魔の勝利の行進曲
ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、東京初演) 8分
コンチェルティーノ(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 6分

 (10分休憩)

八重奏曲(1923)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 16分
  I.シンフォニア - II.主題と変奏 - III.終曲
ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
タンゴ(1940) 3分
仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分




大蔵雅彦:《where is my》 (2016、委嘱新作)
  本作はかつて現実に存在した音のみを使って生成された現実に重ねあわせるためのCメジャーペンタトニックスケールとその派生物からなるブルース尺度構造物であり、習慣的動作=手癖を取り除くためにMIDIシーケンサー上でステップ入力により作曲された。いくつかのパートではX軸とY軸の入れ替えと混同の手法が使用されている。(大蔵雅彦)

c0050810_315399.jpg大蔵雅彦  Masahiko OKURA, composer
  リード奏者、作曲家。1966年生まれ。1993年より中里丈人とのテクノイズ/ダブユニットDub Sonic Warriorで都内のクラブ、ライブハウスを中心に演奏活動を開始。以降アルトサックス、クラリネット類、自作楽器での即興演奏の他、Gnu(1998~ Reeds+Bassx2+Drumsx2編成のパズルジャズ/ファンク/ロックバンド)、室内楽コンサート(2006~2011 杉本拓、宇波拓との共同企画による作曲シリーズ)、 石川高、ジャン=リュック・ギオネとの即興トリオ(2007~)、Active Recovering Music (2013~ スライドホイッスルアンサンブル)、They Live(2016~ 宇波拓とのダークアンビエントデュオ)などで活動。USBメモリーレーベルNo Schools Recordings主宰(2015~ )。 https://soundcloud.com/masahiko-okura https://soundcloud.com/no-schools-recordings



ストラヴィンスキーの全体像───野々村 禎彦

c0050810_317031.jpg イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) はサンクトペテルブルクを代表するオペラ歌手を父とし、少年時代からピアノ演奏を中心に音楽に親しみ、同地の芸術サークルに加わった。帝政ロシアはフランス文化圏に属し、アカデミズムはフランス同様保守的だったが、民間芸術サークルを通じてフランクやドビュッシーの小編成作品には触れることができた。在野の運動として始まったロシア五人組もこの時期にはアカデミズムの一翼を担っており、彼はむしろチャイコフスキーを好んだ。ただし、両親は息子が堅実な人生を歩むことを望み、サンクトペテルブルク大学法学部に進ませた。

 だが、彼の音楽への情熱は止まず、独学で作曲を始めると、友人を通じてリムスキー=コルサコフと知り合い、ピアノソナタ(1903-04) から本格的に指導を受けるようになった。師は音楽院の教授だったが、年長で独立心旺盛な(対位法を独学で身に着けるほどの)彼は音楽院には向かないと判断し、1908年に世を去るまで個人指導を続けた。泰西名曲や自作のピアノ草稿を管弦楽化させ、自分の仕上げと比較して玄人芸を学ばせる独特な教授法も水に合い、交響曲第1番(1905-07) を作品1と定めるまでに成長した。《花火》(1908) や《4つの練習曲》(1908) は修業時代を締め括る作品という位置付けになるが、ディアギレフは《花火》の初演に接してこの新進作曲家に注目し、立ち上げたばかりのバレエ・リュスの新作として《火の鳥》(1909) を委嘱した。

c0050810_3182612.jpg 《火の鳥》の成功は、ロシア民謡に取材した素材の新鮮さも理由のひとつだが、彼はバルトークのような組織的・科学的収集を行ったわけではない。この路線を継いで《ペトルーシュカ》(1910-11) を書いたが、両作の間の飛躍は大きい。複調の使用や不協和音の多用といった書法レベルでの変化もあるが、それ以上に持続の作り方が土台から変わっている。この飛躍の契機はドビュッシーとの直接の出会いだった。ロシアはバルトークのハンガリーよりは文化的に進んでおり、彼はドビュッシーの音楽を修業時代から知ってはいたが、《火の鳥》初演の晩にドビュッシーの方から彼を訪れ、新作を最初に見せて作曲の背景や秘密まで共有する、親密な個人的交流が終生続いた。

 《ペトルーシュカ》はドビュッシーにも刺激を与え、バレエ・リュスの委嘱で《遊戯》(1912) が生まれた。この曲の全面的な形式の自由は同時代には理解されず、約50年後に総音列技法が行き詰まり、ヨーロッパ戦後前衛の作曲家たちが打開策を探る中でようやくドビュッシーの真意が理解されたわけだが、同じシリーズの次の演目が《春の祭典》(1910-13) だったために、そのインパクトの陰に埋もれてしまったことも大きい。不協和音を一見不規則なリズムで打楽器的に叩き付ける書法は強烈で、前期ストラヴィンスキーの作風はしばしば「原始主義」と呼ばれてきた。

c0050810_3185887.jpg 彼は《春の祭典》と並行して、ふたつの実験的な作品を書いた。極めて無調的なカンタータ《星の王》(1911-12) を献呈されたドビュッシーは衝撃を受け、「プラトンの言う『永遠なる天体のハルモニア』のような非凡な音楽……我々の住む星ではまだ地の深みに埋まったままだろう」と返信した(実際、初演は1939年)。またシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の初演を聴いて、《3つの日本の抒情詩》(1912-13) で応えた(この試演を聴いたラヴェルは《マラルメの3つの詩》(1913) を書き、声と小アンサンブルという編成は小ブームになった)。いずれも「原始主義」とは程遠い音楽であり、この呼称の浅薄さは明白だ。なおブーレーズは「ストラヴィンスキーは生きている」という論文(1953) で、《春の祭典》はリズム細胞の精緻な(一見不規則に見えるほど複雑な)操作に基づいて書かれていると解き明かした。実は「原始主義」の対極の音楽だったのである。

 《春の祭典》初演の騒動は、ニジンスキーの振付によるバレエの異様さも大きな要因だったとされる。翌年の演奏会形式による上演は絶賛され、「原始主義」という誤解は長く残ったがオーケストラのレパートリーとして定着した(ただしドビュッシーは初演時点で、自身の《海》や《管弦楽のための映像》における試みを発展させた音楽だと冷静に受け止めた)。初演後程なく、私的な理由でニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されたこともあり、バレエの再演は1920年まで行われなかった。第一次世界大戦後の資金難の中、ココ・シャネルの多額の援助で実現したマシーンの振付による上演は大成功を収め、バレエのレパートリーとしても定着した。その後も多くの振付が生まれている。

c0050810_320050.jpg 《春の祭典》を経たストラヴィンスキーは、第一幕を書いた後はバレエ・リュスの委嘱を優先して放置していたオペラ《夜鶯》(1908-09/13-14) をまず仕上げた。第一幕と第二幕の間にストーリー的にも断絶があり、音楽様式が大きく変化しても不自然ではない、という判断だった。後にディアギレフがこのオペラのバレエ化を打診すると、彼は第二幕以降の素材を交響詩《夜鶯の歌》(1917) として再構成し、バレエもそれに基づいて上演された。バレエ・リュスから毎年のように委嘱を受けるようになると、彼は大半の時間をヨーロッパ各地で過ごしていたが、《夜鶯》の初演後に久々にロシアに戻り、《結婚》(1914-17/23) のテキストとして民衆詩集を大量に買い求めたのが、祖国との長い別れになった。スイスの仕事場に戻った2週間後に、第一次世界大戦が勃発した。

 その後数年は、この時買い集めたテキストを用いた小編成アンサンブルを伴う声楽曲が創作の中心になる。その背景には亡命生活を強いられる中での望郷の念があるのは言うまでもない。《プリバウトキ》(1914)、《猫の子守唄》(1915-16)、《狐》(1916) と続く一連の作品は、ヴェーベルンの同時期の声楽曲と比肩し得る凝縮の美学を持つが(《プリバウトキ》と《猫の子守唄》はウィーンで初演され、立ち会ったヴェーベルンは彼の才能に驚嘆した)、大戦中は大編成作品の上演は困難だったという事情も大きい。この時期はバレエ・リュスも開店休業状態で、新作上演はサティ《パラード》(1916-17) のみ。ディアギレフに依頼され《結婚》もピアノ譜までは完成したが、上演の目処は立たなかった。ストラヴィンスキーは個人的な委嘱と祖国からの送金で細々と食い繫「でいたが、1917年にロシア革命が起こると祖国に残した全財産は没収され、経済的苦境に陥った。

c0050810_321591.jpg そこで彼とスイスの仲間たちが発案したのは、楽器を持ち運べる小アンサンブルのための音楽劇を作り、旅芸人のように演奏旅行することだった。ロシア民話に基づく音楽劇《兵士の物語》(1918) は3人の朗読・ヴァイオリン・コントラバス・クラリネット・ファゴット・コルネット・トロンボーン・打楽器という編成で書き上げられ、大戦末期の同年9月に初演されたが、折悪しくスペイン風邪が流行し、音楽家もスタッフもみな感染して巡業は行われなかった。彼は翌年、この企画を援助したスイスの実業家に感謝の印として《クラリネットのための3つの小品》(1919) を献呈したが、このパトロンはこの曲に加えて、《プリバウトキ》、《猫の子守唄》、《兵士の物語》トリオ版(1919) などからなる、スイス時代の彼の仕事を俯瞰する個展をスイス各地で主催することで応えた。

 《兵士の物語》は、旅芸人一座よろしく既成曲の断片の寄せ集めという体裁を持ち、まさにロシア民衆歌の時代と新古典主義の時代を繫ョ作品だが、寄せ集めた素材には当時流行していたラグタイムも含まれる。ロシア民謡を素材にした作品群で名を挙げ、スペインの酒場で耳にしたアラブ風音楽を素材に、自動ピアノのための《マドリッド》(1917) を作った作曲家だけに、黒人音楽の要素が強い新大陸発の民衆音楽には強く惹かれ、まず11楽器のための《ラグタイム》(1917-18) に取りかかり(完成は《兵士の物語》よりも後、《狐》に続くツィンバロムの使用は、ホンキートンク・ピアノの効果を模したのだろう)、アルトゥール・ルビンシュタインから名技的なピアノ曲を委嘱された機会に《ピアノ・ラグ・ミュージック》(1919) を書き、この音楽の王道編成も制覇した。

c0050810_3215012.jpg 《兵士の物語》を新古典主義の始まりと看做すかどうかは意見が分かれる。この潮流の理論的始祖はブゾーニ、音楽的始祖はドビュッシーであり、《白と黒で》(1915)、《練習曲集》(1915)、3つの室内楽ソナタ(1915/1915/1916-17) はストラヴィンスキーも通暁していたはずだ。この潮流がヨーロッパの主流になった背景は、普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発であり、後期ロマン派~表現主義の複雑な和声を排した「古典回帰」が旗印になった。ドビュッシーの場合には、ラモーやクープランらフランスのバロック音楽への回帰だった。ドビュッシー追悼曲の拡大版である《管楽器のシンフォニー集》(1920) ではドビュッシー最晩年のこのような傾向は当然意識されている。ラグタイムやジャズのような民衆音楽を含むパッチワーク的構成も新古典主義の特徴である。それにもかかわらず、《兵士の物語》は新古典主義には含めないとする場合には、弦楽四重奏のための《コンチェルティーノ》(1920) が弦楽四重奏のための《3つの小品》(1914) と変わらぬ尖鋭的な書法を保っていることが大きな根拠になる。

 《狐》《兵士の物語》と、大戦中は自分の手の届かないところで仕事を得ていた彼にディアギレフは嫉妬していたが、新作上演が困難な中でもD.スカルラッティ/トマシーニ《上機嫌な夫人たち》、ロッシーニ/レスピーギ《風変わりな店》と、イタリアの有名作曲家の未出版曲を再構成したバレエが当たりを取ったことを踏まえ、ペルゴレージの素材を図書館で集め(ただし夭折の作曲家には偽作も多く、今日の研究ではその少なからぬ部分は同時代の他の作曲家のものだった)、それらを再構成したバレエの作曲を彼に打診した。ロシア民謡を素材にする際も、原曲を尊重するバルトークのスタンスとは対照的な、原曲を切り刻む再構成が身上だった彼にとって、かねてから関心があった後期バロックの作曲家と自由に戯れるのは魅力的な提案で、《プルチネルラ》(1919-20) が生まれた。

c0050810_3224140.jpg ディアギレフの指定通りの大管弦楽ではなく、アンサンブルを独奏者の集合体=合奏協奏曲として扱うスイス時代に慣れ親しんだ編成を用い、単なる編曲の域を超えて不協和音や複調を忍び込ませ、原素材を批評的に再構成する、新古典主義の出発点にふさわしい作品になった。彼はその後30年にわたりこの様式の延長線上で作曲したが、それ以前よりも作品の質にばらつきが出たことは否定できない。例えば、敬愛するチャイコフスキーの音楽を素材にしたオペラ《マヴラ》(1922) やバレエ曲《妖精の口づけ》(1928) は、《プルチネルラ》や盛期バロックの作曲家リュリの音楽を素材にしたバレエ・リュスのための最後のバレエ曲《ミューズを導くアポロ》(1927-28) ほどには成功していない。彼が考えていたよりも、この様式は素材を選ぶように思われる。

 個々の曲の優劣を語るのは総説としては不毛なので止めるが、総じて言えば特定の編成への最初の取り組みが最も成功しており、経験を重ねるほどにマンネリ化する傾向がこの様式では目立つ。積み重ねによる深化が期待できない、マンガで言えばギャグマンガのような様式であり、クラシック音楽の常識は通用しない。《プルチネルラ》の初演直後にフランスに移住した彼は、1939年9月にハーヴァード大学客員教授着任を機に第二次世界大戦勃発直前のヨーロッパを離れ、そのまま米国に亡命した。この際の講義録は『音楽の詩学』としてまとめられており、そこで強調されているのは対位法の重要性とロマン主義(ヴァーグナーに仮託された)の不純さへの非難だが、この理念と彼の新古典主義のあり方には齟齬があるのではないか。彼の新古典主義における対位法は、即興的な機知を発揮する枠組として機能し、ロマン主義的な素材はこの速度に感情の錘を付けるためにそぐわない。

c0050810_3233648.jpg 特に米国亡命後の作品ではこの矛盾が露わになる。大編成の「代表作」ほど音楽は堅苦しくなり、彼の創造性は、《サーカス・ポルカ》(1942)、《オード》(1944)、《エボニー協奏曲》(1945) のような作品表の隙間を埋めているかに見える小品に専ら表れている。ただし、彼の新古典主義の時期を真に代表するのは、フランス時代は《詩篇交響曲》(1930)、米国時代は《ミサ曲》(1944-48) という、同時期の他作品とは隔絶した宗教曲である。これらの作品は、『音楽の詩学』で示された理念との矛盾はないが、新古典主義に拘る必然性も感じさせない。彼の法的な身分ははスイスに亡命した1914年から米国市民権を得た1945年まで、フランス市民権を得た1934年以降数年以外は常に亡命ロシア人であり、著作権法的に不利な立場にあったので当座の生活費が必要だったという理由付けも可能かもしれないが、それだけでは困窮していたスイス時代の作品の質の高さは説明できない。

 新古典主義時代を締め括る大規模なオペラ《蕩児の遍歴》(1948-51) を書き上げると、彼はこの様式ではこれ以上書き続けられないと判断し、『音楽の詩学』の理念をより純粋に実現すべく、ルネサンス音楽の対位法を研究し始めた。程なくシェーンベルクが逝去し、個人的な確執から遠ざかってきた12音技法を忌避する理由もなくなった。1948年から助手を務めた指揮者のロバート・クラフトは、当時の米国における現代音楽の伝道師であり、彼を通じて新ウィーン楽派の作品を多く知った。なかでもヴェーベルンの音楽は、表現主義の身振りを残すシェーンベルクとも後期ロマン派的素材を新古典主義的に処理したベルクとも違い、ルネサンス音楽の対位法に根ざした、彼の理念を体現した音楽だった。当時の米国にはバビットのような独自のセリー主義者が現れ、カーターやセッションズも新古典主義から12音技法に転じ、コープランドまで12音技法を使い始めていた。

c0050810_3263011.jpg ただし彼は、同時代の流行として性急に12音技法を取り入れるのではなく、《ミサ曲》より先に進むための手段として、ゆっくりと身に着けていった。まず《カンタータ》(1951-52) では主題をセリーのように扱い、《ディラン・トマス追悼》(1954) では旋法的5音音列でセリー操作を行い、《カンティクム・サクルム》(1955) でようやく12音音列を用いた。彼が求めたのは厳格な対位法であり、オクターブの12音を均等に扱って調性感を消すことは目的ではなかった。最終的に12音音列に落ち着いたのは、6×2、4×3などのより細かいグループ化が可能で、構造化に都合が良かったからである(この点もヴェーベルンに倣っている)。この意味で、バレエ曲《アゴン》(1953-57) には特に注目したい。作曲年代から想像される通り、新古典主義的な素材と12音音列に基づいた素材が混在しているが、両者は全く矛盾なく一体化しており、12音技法は彼の血肉の一部になった。

 米国実験音楽は彼の眼中にはなく、ブーレーズやシュトックハウゼンとしばしば会って戦後前衛の動向を知ろうとした。ピアノと管弦楽のための《ムーヴメンツ》(1958-59) は、彼のテクスチュアが最も戦後前衛に近づいた瞬間である。同時期の作品表には宗教的作品が並び、静的な対位法構造を着実に築き上げた。だが彼はそれだけでは満足せず、TV用オペラ《洪水》(1961-62) で《アゴン》のダイナミズムを取り戻すと、管弦楽のための《変奏曲》(1963-64) では12声部の対位法の極致と彼らしい運動性が交錯する「20世紀で最も密度の高い音楽」(フェルドマン)を実現した。最後の大曲《レクイエム・カンティクルス》(1965-66) はもう少し落ち着いた調子で、セリー時代の創作を総括している。70歳から新しい語法に取り組み、創作歴の最後がピークになるのは並大抵のことではない。「彼の晩年は、ブラームスのように豊かだった」(シュトックハウゼン)。

c0050810_3272797.jpg 彼の歩みは20世紀音楽の歴史そのものであり、彼の「後世への影響」を議論することには意味がない。彼の後半生の理念を彼以上に体現した作曲家がヴェーベルンであり、戦後前衛の歴史はヴェーベルンの先に続いている。彼が米国実験音楽には全く関心を示さなかったのは、20世紀音楽の歴史を彼とケージに集約する上ではむしろ都合が良い。複数の音楽様式にまたがって活動を続ける中で、50年以上世界の第一線に留まった作曲家は、20世紀ではこのふたりだけである。



【関連公演】
СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ ~二台ピアノによるストラヴィンスキー傑作集~
2016年9月22日(祝・木) 浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)ストラヴィンスキー:魔王カスチェイの邪悪な踊り
プロコフィエフ:邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り
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by ooi_piano | 2017-01-05 00:02 | POC2016 | Comments(0)