8/25(金) ソラブジ《オープス》& 古川聖《ノベレッテ集》完演


by ooi_piano

7月31日第5回公演

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第五回公演《莟とは汝れも知らずよ》 
2008年7月31日(木) 18時30分開演
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使用楽器: ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー
(1846年ウィーン製、修復/山本宣夫)
85鍵(AAA~a4)、アングロジャーマン・アクション



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《演奏曲目》

ベートーヴェン作曲/L.ヴィンクラー編曲:弦楽四重奏曲第1番Op.18-1(1798/1800) より第1楽章

ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:交響曲第1番ハ長調Op.21(1799/1800) R 128/1, SW 464/1
第1楽章 Adagio molto - Allegro con brio
第2楽章 Andante cantabile con moto
第3楽章 Menuetto: Allegro molto e vivace
第4楽章 Adagio - Allegro molto e vivace


   【休憩15分】


ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:交響曲第2番ニ長調Op.36(1800/02) R 128/2, SW 464/2 [全4楽章]
第1楽章 Adagio - Allegro con brio
第2楽章 Larghetto
第3楽章 Scherzo: Allegro
第4楽章 Allegro molto



〈ヨハン・バプティスト・シュトライヒャーの革新〉
                                筒井はる香



 ヨハン・バプティスト・シュトライヒャーは1796年1月にウィーンで生まれた。父アンドレアス(1761-1833)はピアニスト、ピアノ教師、作曲家。ハンブルクでC. P. E. バッハのもとで作曲を学んだ。母ナネッテ(1769-1833)はピアノ製作家。彼らは4人の子供をもうけたが、そのうち2人は幼い頃に他界し、成人まで生き残ったのはバプティストと妹のソフィア・バルバラだけだった。

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 バプティストの話に入る前に、シュタイン/シュトライヒャー工房の前史を振り返ろう。シュタイン一族は、南ドイツで活動した鍵盤楽器製作一家である。初代ヨハン・ゲオルグ(1697-1754)はハイデルスハイムでオルガン製作家として活動した。二代目アンドレアス(1728-1792)はアウグスブルクで活動した18世紀後半を代表する楽器製作家で、プレルツンゲンメヒャーニク(「突き上げ式機構」後のウィーン式アクション)を発明した。1777年にモーツァルトが彼の工房を訪ねた話は大変有名である。この時モーツァルトの前でピアノを演奏したのが娘のナネッテである。三代目はナネッテと彼女の弟マテーウス(1776-1842)であり、父の後を継いでピアノ製作家の道を歩んだ。1794年にアウグスブルクからウィーンへ活動拠点を移したが、彼らの共同経営は8年間でピリオドを打つ。その背景には、人間関係のこじれ(マテーウスの気難しい性質?)やピアノ製作上の理念における相違があったと言われているが、実際のところ明らかではない。いずれにせよ1802年からそれぞれ異なる工房名を使い分けた。
 ナネッテ・シュトライヒャーの工房にヨハン・バプティスト・シュトライヒャーが登場するのは1812年頃、16歳の時である。彼は母のもとで手ほどきを受けた後、1821年から22年にかけてパリ、ロンドンを拠点に研修を目的した大旅行を行った(この時、モーツァルトの息子が同伴した)。この時バプティストは、一冊の旅日記を書いた。旅の経由地、出会った人々、土地の風景や芸術、ピアノの製作技術など、あらゆることが正確に記録されている。この旅行で、当時、世界市場のリーダー的存在であったエラールとブロードウッドの工房を偵察したことは、後のバプティストの活動に大きく影響を及ぼした。
 1823年からバプティストは正式にシュトライヒャー社の共同経営者となった。彼は製作家としても経営者としても優れた能力を発揮した。彼はよいと思えるものを採り入れる柔軟な感覚があった。例えば、彼が発明したアングロ・ジャーマンアクション、これは文字通り、イギリス式(Anglo)とドイツ式(German)アクションの折衷であり、後に見るように絶大な効果を生み出した。経営方法に関しても、当時のウィーンの慣習、すなわち顧客からの注文を受けて楽器を作る受注生産に加えて、工場の建設により、大量生産を可能にした。これはエラールやブロードウッドから学んだことであると言えるだろう。
 シュトライヒャー工場は、バプティスト40歳の時、ウンガルガッセ(直訳するとハンガリー人通り)に建てられた(この通りにはかつてベートーヴェンも住んだことがある)。従業員の数は定かではないが、かなり大人数の職人が働いていたはずである。中庭に面した一階部分にコンサートホールがあり、ここで定期的に演奏会が開かれただけでなく、ピアノの展示会場としても公開されていた。1840年頃に描かれたリトグラフには、高い天井にシャンデリアが三つ、大きなアーチ型の窓、窓に面して一台のグランドピアノ、壁側には六台のグランドピアノがあり、それらをしげしげと見入っている身なりの整った人物たちがいる。このホールに足しげく通った作曲家がいた。それはブラームスである。彼はバプティストの友人で、しばしばここでピアノを練習したという。
 バプティストと交友があった作曲家としてリストを挙げないわけにはいかない。ヴァイマール大公の宮廷音楽監督に任命された頃のリストの住まいには、ベーゼンドルファーやブロードウッドやエラールと並んでシュトライヒャーがあったし、彼はしばしば演奏会でもシュトライヒャーのピアノを弾いた。
 こんなエピソードがある。1847年リストがルーマニアで二台のピアノを使って演奏会をした。エラールとシュトライヒャーである。そこに居合わせた市長によると、最初にリストがエラールのピアノで弾いたとき、会場にいた大勢の聴衆は全員、完全にしらけてしまった。一方、彼がシュトライヒャーのピアノで弾いたときには拍手喝采となった。音に輝きがあり、響きが豊かで、繊細なニュアンスを弾き分けることができたからである。その後リストは、残りのプログラムをシュトライヒャーで弾いたという。なお近年の研究によればリストがバプティストに宛てた未出版の手紙などが発見され、そこから彼らの重要な交友関係が明らかになりつつある。
 このようにバプティスト・シュトライヒャーはロマン派の音楽家と接点があり、彼らに少なからぬ影響をもたらした。かつてベートーヴェンは、バプティストの両親に対して「あらゆる楽器のなかでもっとも研究が遅れているのはピアノだ」と訴え、「ハープとピアノが違う楽器として扱われる日が来ること」を切望した。つまり彼はナネッテ・シュトライヒャーのピアノも含めて当時彼の周囲にあったピアノに心から満足していたわけではなかった。バプティストが活躍したのはベートーヴェンがいなくなってからであるが、彼が生きている時に理想としたピアノ像を、バプティストがようやく実現させた、と考えることはできないだろうか?

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 さて、ヨーロッパ各地に現存するバプティスト・シュトライヒャーのピアノを見てまわると彼のアイディアの豊富さに改めて驚かされる。アイディアの豊富さというのは単なる外観の装飾などを意味するのではない。それらは楽器の本質を根底から変える重要な部分であった。多くの発明のなかで重要なのは何といっても二つの打弦機構であったと言えるだろう。


1) 下方打弦アクション(1823年考案)
        
 通常、ピアノのハンマーは下から上に向かって弦を打つ。これに対してバプティストが発明したこのアクションは、ハンマーが上から下に向かって弦を打つという逆のメカニズムを持つ。これによって当時のピアノ製作にしばしば起こった問題点を解決しようとした。
 問題点の一つは、ハンマーが下から上へ向かって打弦する場合、響板が傷みやすいこと。この状態でさらに強く打鍵した場合、ピンに巻かれた弦が徐々にずれ上がり、その結果、調律や響きに悪影響をもたらす危険性があった。下方打弦アクションを用いることによって楽器にかかる負担を減らすだけでなく、「より強く、豊かでしなやかな音」が出るようになった。フンメルが所有したピアノもこのタイプであった。彼はヴァイマールで行なわれた演奏会の際にも自らのピアノを持参したという。さらに彼の弟子F.ヒラーやヘンゼルトらもこのピアノを弾いた。
 しかしこんなに画期的なアクションだったにもかかわらず、なぜもっと普及しなかったのか、という疑問もわく。他のメーカーによって模倣されたピアノをあまり見たことがないからだ。もちろんパテントの問題が大きいのかもしれないが、もしかしたらシルエットの問題もあったのではないか、筆者はとひそかに考えている。曲線のしなやかな華奢なウィーンのピアノとは全体的に角張って、平べったい形状をしている。
              
2) アングロ=ジャーマンアクション(1831年)
      
 これは、バプティストがエラールを訪問した際に着想を得たものと言われている。当時エラールでは「ダブルエスケープメント」と呼ばれる急速な同音連打を可能にする機構を発明した。バプィストはイギリス式アクションとウィーン式アクションの長所をそれぞれ混ぜ合わせた独自のアクションを考案し、その結果、ウィーン式アクションの特徴である軽やかなタッチに加えて、イギリスアクションの長所である安定感と、急速な同音反復を可能にした。なお今回使用されるシュトライヒャーのピアノ(ヤマモトコレクション蔵)はこのアングロ=ジャーマンアクションを備えている。
 もう一点、このピアノの重要な特徴はダンパーにある。従来ウィーンでは、ダンパーの表面には鹿や兎のなめし皮が巻かれていたが、バプティストは皮の代わりに羊毛のフェルトを使用した。これは音色に決定的な影響を与えた。たとえばピアノの弦を上から鉄の棒で叩くのと、柔らかい布で覆われた撥で叩くのとでは音色が全然違うように、ダンパーの素材が変われば、音色に決定的な影響を与えることは簡単に想像できるだろう。
ところで1838年にシューマンがバプティストを訪ねたとき、彼は次のような感想を日記に記した。
あのピアノは、言葉で言い表すことができないほど美しい音で、まるでグラスハーモニカのようだ。これはどんな陰影も創り出すことができる。

 シューマンが実際にどのピアノを見たのかを特定することはできないが、音色に関する言及から上記のタイプ(フェルトのハンマーをもつアングロ=ジャーマンアクション)のピアノであった可能性は高い。少なくともここから窺えるのは、バプティスト・シュトライヒャーのピアノを見たことによって、シューマンは、彼が予めもっていたピアノの音に対するイメージや美意識を、大きく揺さぶられることになったことである。そして瞬時にして彼は作曲の可能性の広がりを確信した。つまり、製作家であるバプティストが、消費者の側に、理想とする音響像を突きつけ、それに触発された消費者(ここでは作曲家)が、音楽を創造するという状況も起こり得た。音楽史は、決して作曲家の発想だけではなく、技術的な革新によって、刺激されたのである。
 ところで、一聴すればお気づきのように、バプティスト・シュトライヒャーのピアノは、煌びやかなモダン・ピアノに比べると、少しくすんだような、甘い鼻声のような響きを持っている。これは彼の祖父、シュタインが作った初期フォルテピアノや、多感様式の音楽に好んで使われたクラヴィコードといった、18世紀の古楽器の音色の嗜好性をそのまま受け継いだものと言える。
 音の美意識はその時代を映し出している。音量・速度・明瞭さを追い求める風潮にあって、そっと囁きかける「くすんだ鼻声」は、時代遅れと捨象されるに到った。モダン・ピアノが興隆した1870年以降、百数十年ものあいだ忘れ去られていたこの旧き美しき音色を、21世紀を迎えた今、じっくり味わってみたい。
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by ooi_piano | 2008-07-28 23:10 | コンサート情報 | Comments(0)