Blog | Hiroaki Ooi
2024-03-18T15:09:50+09:00
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3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演
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3/22(金) シューベルト:クラヴィアソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演 [2024/03/17 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33257250/
2024-03-17T19:18:00+09:00
2024-03-17T20:26:15+09:00
2024-02-11T19:27:03+09:00
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Schubertiade vonZzuZ
《Schubertiade von Zeit zu Zeit シューベルトの時の時》(全5回公演)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【最終公演】 2024年3月22日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《楽興の時 D 780》(1823/28) 25分
I. Moderato - II. Andantino - III. Allegro moderato 「ロシアの唄」
- IV. Moderato - V. Allegro vivace - VI. Allegretto 「吟遊詩人の嘆き」
M.フィニッシー(1946- ):《シューベルト:ソナタ断章 D769a の外衍》
(1823/2023、献呈初演) 16分
(休憩10分)
近藤譲(1947- ):《ペルゴラ》(1994/2024、フォルテピアノ独奏版初演) 8分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第21番変ロ長調 D 960》(1828) 35分
I. Molto moderato - II. Andante sostenuto
- III. Scherzo. Allegro vivace con delicatezza - IV. Allegro ma non troppo
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
M.フィニッシー:《シューベルト:ソナタ断章 D769a の外衍》 (1823/2023)
シューベルトのソナタ断片D769Aは1823年頃の作品。ソナタ(ホ短調)の冒頭部分で、1ページしか残っていない。「Fortsetzung」という言葉は通常「続き」と訳されるが、私の作品は「続き」ではなく、シューベルトの現存する断片的な草稿を再文脈化(re-contextualise)している。この作品では、シューベルトのピアノ連弾のための《ハンガリー風ディヴェルティメント D 818》(1824)や、1822-23年のシューベルトの2つの歌曲、《愛は裏切られ D 751》《貴方は私を愛していない D 756》も参照したが、後者はシューベルトの未完ソナタ《レリーク D 840》の私の補完稿(2017)にも登場している。
シューベルトは「遠い人」であり、私の心を込めた補作は気に入らないかもしれないが、東欧の民俗音楽へのアウトサイダー的な興味は彼と共有している。研究の後には、努力と空想と想像がある。(マイケル・フィニッシー)
マイケル・フィニッシー Michael Finnissy, composer
1946年3月、テムズ川の南、ロンドンのランベス区に生まれる。 父親は写真家・記録家で、第二次世界大戦後のロンドンの爆撃被害と再建問題を記録していた。4歳から断続的にピアノを習い、独学で作曲を始める。奨学金を得て、ロンドンの王立音楽大学でバーナード・スティーヴンスに師事、さらにイタリアでローマン・ヴラドに師事。ブライアン・ファーニホウと出逢い、書簡で議論を重ねる。1977年、フライブルク=イム=ブライスガウでピアニストとしてデビュー。ダーティントン・サマースクール、サセックス大学、ルーヴェン・カトリック大学、英国王立音楽アカデミーで教鞭をとる。1990年、国際現代音楽協会(ISCM)会長に就任、1993年に再選され、1998年には同協会終身名誉会員となった。1999年から2018年までサウサンプトン大学教授、現在は名誉教授。2008年に英国王立音楽院フェロー、2023年にクーセヴィツキー賞。
近藤譲:《ペルゴラ》(1994/2024) [フォルテピアノ独奏版]
曲題「ペルゴラ」は、例えば藤棚のような、蔓性の花樹や果樹で作ったトンネル状の四阿の意。元の編成はフルートとピアノの二重奏だが、ピアノ伴奏付きのフルート曲というよりも、フルートのオブリガートを伴うピアノ曲であった。旋律楽器とピアノという二重奏のための私の作品では、大抵の場合、ピアノが音楽の持続を担う役割を果たしている。(近藤譲)
ロバート・レヴィン(ハーヴァード大学名誉教授)がシューベルト《2つの断章 D 916B/C》の自身による補筆稿と併せて2015年に発表したシューベルト奏法概論(約2万2千字)は、古楽器ならびに歴史的演奏実践を注意深く踏まえている点で例外的な文献である。この論考を叩き台として参照しつつ、現時点で妥当と思われる落としどころについて、幾つか省察を行う。いわゆる「古楽奏者とモダン奏者の温度差」や「古楽器へのアプローチ方法」については、10年前に《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》シリーズのためのプログラムノートで詳説した。
シューベルトの存命中、フォルテピアノ製造の中心地はウィーン、パリ、ロンドンの3都市だった。エラール(パリ)やブロードウッド(ロンドン)から楽器を譲り受けながらも、ベートーヴェン、そして無論シューベルトのクラヴィア書法は、あくまでウィーン方式の楽器を前提としていた。ハンマーシャンクの方向と打弦位置、フェルトではなく革で覆われた小さなハンマーヘッドにより、打鍵速度は俊敏で、明瞭なアーティキュレーションに長けていた。英仏の丸みを帯びた、いわゆる「歌うような」響きに対し、ウィーン方式では「語る」ように設計されている。クラヴィコードやチェンバロの流れを汲む後者は、シューベルトの死後急速に廃れ、前者の優勢は延いてはモダンピアノへと結実してゆく。ロマン派の嚆矢として解釈されがちのシューベルトは、少なくとも使用楽器の外形的な特性については、モーツァルト・ベートーヴェンと同じカテゴリーに属している事に留意が必要である。
ベートーヴェンのクラヴィア曲では、世紀をまたがりつつ5オクターヴから5オクターヴ半へじりじりと使用音域を拡げていったが、彼のホームグラウンド(そして当時の常識)は5オクターヴ半であり、Op.106(1818年)でもそれに準じて音域を狭めたロンドン初版が作成された。
対照的に、若いシューベルトは所与のものとして高音域を渉猟し、ベートーヴェンでは最晩年のバガテルでのみ無茶振りされる「高音域へのクレッシェンド」も、屈託なく指示される。一方、低音域はE1を絶対に下回らない。ソナタ第14番D 784第3楽章で、ベーレンライター版でD1と太字で印刷されている音符は、初版ではもちろんD(1オクターヴ上)であった。
シューベルトが作曲を始めた頃には、膝レバーは足ペダルに置き換えられ、ダンパーペダルも使いやすくなった。フンメルの教則本(1827年)では、「ダンパーをあげたままの演奏の流行は、未熟者の隠れ蓑である」「学習者はペダルを控えるべき」「ペダルの濫用に耐えられるのは鈍麻な耳の持ち主だけである」と、烈しい語気で戒めている。ことにシューベルトの中庸のテンポの楽章で、モダンピアノに準じてダンパーペダルを使用すると、途端に「語るような」アクションが不規則・不如意にかき乱されるため(生理的に弾きにくい)、むしろチェンバロ並みのかなり思い切った節制を余儀なくされた。
チェルニーの教本(1839年、シューベルトの死から11年後)では、ダンパーペダルを徐々に活用し始めたのは「ベートーヴェン(1770-1827)、ドゥシーク(1760-1812)、シュタイベルト(1765-1823)」以降であり、ペダルを頻用する新しい作曲家達として「リース(1784-1838)、カルクブレンナー(1784-1849)、フィールド(1782-1837)、ヘルツ(1803-1888)、リスト(1811-1886)、タールベルク(1821-1871)、モシェレス(1794-1870)」を挙げている。そこにシューベルト(とショパン)の名は無い。
シューベルト時代の弱音ペダルには2種類あり、1つはシフトペダル、もう1つはモデラートペダルである。ベートーヴェンOp.110(1821年)では、3本弦から2本弦、そして1本弦へとシフト指定がしてある(モダンピアノでは不可能)。シューベルトでシフトペダル(mit Verschiebung)が書き込まれているのは、ソナタ第16番第3楽章トリオとソナタ第17番第2楽章だけである。音楽面で際立った楽句でもないので、(シューベルト自身による)出版時の気まぐれな追加に見える。
シューベルト作品でのpppはモデラートペダルの使用を指す、という口頭伝承は、ソナタ第14番第2楽章(1823)での8分休符で枠取りされた短い挿入句「sordini」に由来する。歌曲《テクラ D595》と《死と乙女 D 531》(どちらも1817年)でsordiniはPed.と同時に併記されているため、この説を補強している(違う種類のペダルを指している事になる)。
pppの楽句が休符等で枠取りされていれば良いが、そもそもpppはppからの連続で現れる事も多い。ダンパーペダルと併用される条件下で、シフトペダルとモデラートペダルは連続させることが出来ない。シフトペダルの効き具合には楽器の個体差があるようである。
シューベルト中期ソナタの冒頭第1主題は、第13番イ長調(p)、第14番イ短調(pp/ユニゾン)、第15番ハ長調(p/ユニゾン)、第16番イ短調(pp/ユニゾン)と云った調子で、たとえp/ppと書かれていても、シフトペダルで輝きを減じさせて大ソナタを開始出来るものなのか、という疑問がある。シフトペダルが無ければ即死するか、と言われれば、《さすらい人幻想曲》第2部後半(1822)を除けば、おおよそどの曲も演奏可能であった。チェルニー曰く、「シフトペダルは滅多に用いてはならない」「最も美しく賞賛に値する弱音は、常に指の柔らかいタッチだけで作り出す物である」。さらには、「ファゴットペダルは、しっかりした演奏家なら決して使わない子供騙しである」。
シューベルト自筆譜のアクセント記号は、大きさも長さもまちまちで、時には(=五線譜にスペースがある時には?)斜め上方に伸ばされており、デクレッシェンドと区別が付きにくい。ベーレンライター社の新シューベルト全集は、一説には「長さだけで」即物的に判断してアクセント記号に統一しているため、この点で長らく悪名高い。
アクセント記号についてはやや配慮した他社の新しいエディションには、漏れなく編者による指使いが付け加えられており、その点のみがベーレンライター版の優位を保証していたが、2011年の《即興曲集》《楽興の時》の新訂版では何故かわざわざ指使いを添加し、旧版を絶版にしてしまった。モダン奏者による「レガート優先」の愚鈍な指使いに煩わされないためには、ベーレンライター社ライセンスによるヤマハミュージックメディアの日本版(2001年)を入手するしかなくなったが(!)、これも既に国内の在庫は払底している。
2015年以降、ウィーン科学研究技術基金(WWTF)のウェブサイトでシューベルトの自筆譜ならびに初版譜等は無料ウェブ公開が開始され、20/21世紀の原典版の校訂報告と照らし合わせなくとも、第1次史料に容易にアクセス可能となったのは喜ばしい。初版譜をそのままプリントアウトして使用すれば、少なくとも「指使い」問題は解決される。
シューベルトのディミヌエンド(dim.)には、デクレシェンド「かつ」リタルダンドが含意される、という口頭伝承も厄介である。《3つのクラヴィア曲 D 946》第1曲中間部の最後のように、ppでdecresc.した直後、pppがdimin.されて冒頭に回帰するような、一目見て分かりやすい箇所ばかりではない。構造上の区切りの前に出現するのは良いとして、変に早すぎるタイミングでのdim.指定も少なからず見かける。ただ、「ベートーヴェンは初期にはdecresc.を使っていたが後年はdim.に移行した一方、シューベルトは初期から両方同時に使用している」「a tempo指示はdim.のあとに書かれてもdecresc.の後には書かれない」等の指摘は傾聴に値する。
快速テンポで3連符が付点と一致するのは、18世紀以来親しまれた記譜法に過ぎず、シューベルト《グレート》(1826)の両端楽章とショパン《ロンド ハ短調 Op.1》(1825)は同じ慣行に従っている。ソナタ第19番第2楽章等の6連符での一致も同様である。どうしても諦めきれない場合は、彼らの自筆譜での音符位置を眺める事である。
シューベルトやショパンの新全集が現れる以前と以降の解釈差がはっきり分かりやすいのはこのリズムの扱いあたりで、シューベルトでは往年の巨匠は苦心して付点を詰めているし、21世紀でもショパンホ長調前奏曲をワルシャワ優勝者は律儀に一致させている(主催者からお達しが来るのだろうか)。
シューベルト時代の繰り返し記号は、任意ではない事を認めなければならない(閉館時間を気にしなくて良いのなら)。クラヴィア三重奏曲第2番第4楽章を846小節から約100小節ぶん刈り込んだ際、シューベルトは繰り返し記号を削除した。(繰り返しが任意ならそんな事をする必要はない)。翻って、《楽興の時》第1番の再現部、ヘ短調即興曲の再現部には繰り返し指定は無い。
《3つのクラヴィア曲 D 946》第1曲は、A-B-Aの3部形式であるが、元々はA-B-A-C-Aであった初稿を、シューベルト自身が最後の2セクションを抹消した。1828年の自筆譜が、40年後に初めて公刊された際、校訂者ブラームスは削除された2セクションを断り無しに復活させた。この「古い」楽譜をそのまま使った演奏もある(アラウ、ピレシュ、内田etc)。本来なら、ハース版とノヴァーク版の殴り合いになりそうなトピックスだが、聴き手の関心は呼んでいないようである。
シューベルトの生前に出版されたクラヴィア曲は限定的である。レントラー・エコセーズ・ワルツ・ギャロップ等の舞曲集(D 145 / 365/ 734/ 735/ 779/ 783/ 924/ 969)、連弾作品(D 599/ 602/ 617/ 624/ 675/ 733/ 773/ 813/ 819/ 818/ 823/ 824/ 859/ 885/ 951)を除けば、独奏曲としては《さすらい人幻想曲》(1823年出版)、ソナタ第16番イ短調「大ソナタ第1番」(1826年出版)、同第17番「大ソナタ第2番」(1826年出版)、同第18番「幻想曲」(1827年出版)、《即興曲 D 899》(1827年出版、第1・第2曲のみ)、《6つの楽興の時》(1828年出版)を数えるのみであり、残りは公刊前の推敲を経ない「遺作草稿」に過ぎない。言い換えれば、D 850の最終草稿と出版譜の差異程度の斟酌は、演奏者の裁量に任されている。バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンの諸作とは事情が異なり、少なくともシューベルトの遺作群に関しては、1820年代当時の楽器で演奏されるのは20世紀/21世紀を待たねばならなかった。
シューベルトの1818年から1825年にかけてのクラヴィアソナタは、4曲の完成作品と5曲の未完成作品からなっている。シューベルトの未完成作品の補筆作業の意義は、偏に「現代人が『シューベルト様式』でゼロから作曲したもの」より、明瞭に上質なものが出来上がる点にある。
補筆にあたっては、シューベルト全作品の「悉皆調査」は当然の大前提であるとして、クラシック作品の「どこが面白いか(特別か)」についての直観的洞察力が問われる。嬰へ短調ソナタ(第8番)D 571では、マルコム・ビルソン、バドゥラ・スコダ(ヘンレ版)、マルティノ・ティリモ(ウィーン原典版)他の補筆例は、どうしても辛抱が出来なくなって余白を塗りつぶしてしまいがちなのに対し、2月16日公演で初演したロバート・レヴィン版(未出版)では、聴衆の想像力を誘発する余韻と悠揚迫らぬエレガンス、「何てことない機微」の決定的なセンスの差があるように感じられる。
この嬰へ短調ソナタ D 571については、ベーレンライター社の「シューベルト初期ソナタ集(第1巻)」は、2000年のエディション(BA5642)では、(伝統的に欠落楽章を補綴するとされる)D 570/ 571が含まれていた。(D 604は大冊のBA 5525にしか採録されず)。ところが奇妙なことに、2022年の新訂エディション(BA9642)では丸ごと削除されてしまった。旧エディション(BA5642)は、前掲の《即興曲集》と同様に廃版状態であり、「国立音大のアカデミア出張売店に売れ残っていた」のが国内最後の1冊だったようである。(大井浩明)
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ライヴ演奏動画集 (2024/03/05 update)
http://ooipiano.exblog.jp/26761905/
2024-03-05T08:03:00+09:00
2024-03-06T04:57:50+09:00
2017-06-23T18:52:23+09:00
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雑記
【New!】●シューベルト編曲集プレイリスト
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●南聡(1955- ):《帽子なしで Op.63-4》(2023)
●F.グロリュー(1932-2023) :《ショパンのマズルカ風のモーツァルトのトルコ風ロンド》(1988)■F.シューベルト:《連弾のためのソナタ ハ長調「グラン・ドゥオ」 D 812》(1824) [J.F.C.ディートリヒ/L.シュタルク編独奏版]■F.シューベルト:《連弾のためのフーガ ホ短調 D 952》(1828) [J.F.C.ディートリヒ編独奏版]----■F.シューベルト:弦楽四重奏曲第12番ハ短調 D 703 「四重奏断章」 (1820/2023) [米沢典剛編独奏版] ■F.シューベルト:《連禱(万霊節) D 343》 (1816/1926) [ゴドフスキー独奏版] ----■F.シューベルト:《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]■F.シューベルト:ピアノトリオ第2番 変ホ長調 D 929 より第2楽章+第3楽章 (1827/1875) [ルートヴィヒ・シュタルク(1831-1884)によるピアノ独奏版]■F.シューベルト:《弦楽三重奏曲 D 471》(1816/2023) [米沢典剛によるピアノ独奏版]■F.シューベルト:《さすらい人 D 493》(1816/1981) [フリードリヒ・グルダによるピアノ独奏版]---■メンデルスゾーン(1809-1847):《弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20》より終楽章「プレスト」 (1825) [作曲者編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]■米津玄師(1991- ):《KICK BACK》(2022) [金喜聖(キム・ヒソン)編曲による連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]----■G. シェルシ:《アデュー(お別れ)》(1978)■B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977)■B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番「怒りの日?」》(2022)■R. ピアナ(1971- ):《フニクリ・フニクラによる即興》(1880/2017)■C. モンテヴェルディ(1567-1643):オペラ《ポッペーアの戴冠》より終曲の二重唱「ただあなただけを見つめ」 (1642/2016) [E.デルッキによるピアノ独奏版]----■S.V.ラフマニノフ:《6手のためのロマンス》(1891/2022) [米沢典剛編独奏版] ■S.V.ラフマニノフ:《ここは素晴らしい場所 Op.21-7》 (1902/2004) [V.アシュケナージ編独奏版]■S.V.ラフマニノフ:《ああ Op.38-6》(1916/2022) [米沢典剛編独奏版]
───────────────────────────────────────一般社団法人全日本ピアノ指導者協会[PTNA]のYouTubeアカウント(+α)で公開されている動画一覧 大井浩明(ピアノ/フォルテピアノ/クラヴィコード/オルガン)
【プレイリスト】
●シューベルト編曲集 ●委嘱作品/編曲プレイリスト ●大井浩明+浦壁信二ピアノドゥオ集 ●米沢典剛編曲集 ●ウクライナ関連作品集 ●韓国関連曲集 ●「ピアニスト=作曲家」作品集 ●ワーグナー編曲集 ●ブラームス編曲集 ●チャイコフスキー編曲集 ●サンサーンス編曲集 ●レーガー編曲集 ●フォーレ編曲集 ●ドビュッシー編曲集 ●ショスタコーヴィチ編曲集 ●行進曲集 ●さくらさくら編曲集 ●君が代編曲集 ●京大出身作曲家集 ●BGM用プレイリスト
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【作曲家五十音順】
【あ】
■M.A.アムラン(1961- ):《サーカス・ギャロップ》(1994/2014) [金喜聖(キム・ヒソン)編2台ピアノ版]
■A.アレクサンドロフ(1883-1946):《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
■李成賢(イ・ソンヒョン)(1995- ):《遺聞(ユムン)~W.フェントン「君が代」に基づく》(2019)
■池辺晋一郎(1943- ):《黄金の日日》(1977) 《峠の群像》(1981) 《独眼竜政宗》(1986) 《エデュイエ・ブギ》(1990) 《君の名は》(1991) 《八代将軍吉宗》(1994) 《元禄繚乱》(1999) 《J.S.の声のほうへ》(2000)
■伊左治直(1968- ): 《舟歌》(1996)・《夢の散歩》(2002)・《子守歌》(2002)・《魔法の庭》(2001) 《墜落舞踏遁走曲》(1997) 《海獣天国》(2010) 《ビリバとバンレイシ》(2010)〔+伊左治直(パフォーマンス)〕
■石川芳:《さくらさくら》(2016)
■石川高(1963- ):《何処で私は道を踏みはずしたのか。何を私は行ったのか。なすべきことの何を私は成し遂げないでしまったか。》(2011) (三分損益律オルガンと笙のための) 〔+石川高(笙)〕
■和泉宏隆(1958- ):《オーメンズ・オブ・ラヴ》(1985) [麻緒岳典(石川芳)によるピアノ独奏版]
■井上武士(1894-1974):《チューリップ》 (夏田昌和によるピアノ独奏版)(1932/2012)
■伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018)
■今堀拓也(1978- ):《同期 - サンクロニザシオン》(2003) 〔+パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)〕
■入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
■H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):《練習曲第11番+第12番》(ユリア・バルによるピアノ独奏版)(1929/2013) 《山のメロディー(ベロオリゾンテの信仰の山)》(1938) 《ニューヨーク・スカイライン》(1939)
■上野耕路(1960- ):《ブレーメン(ブレヘメン)》(1981) 《ウンタマギルー》(1989) 《パルティータ》(2015) (中全音律オルガン独奏) ジェフスキ「不屈の民変奏曲」のためのカデンツァ(2声のカノンと4声のフーガ) (2016) 《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018)
■H.ヴォルフ(1860-1903):《メーリケ歌曲集》より第12曲「隠棲」(1888/1904) [M.レーガー編独奏版] 《メーリケ歌曲集》より第46曲「ヴァイラの歌」(1888/1904) [M.レーガー編独奏版]
■S.ヴォルペ(1902-1972):《前奏曲と小フーガ(リリー・クレー夫人のために)》(1924)
■大石泰(1951- ): 《ピアニストと打楽器奏者のための音楽》(1979) 〔+渡邊理恵(打楽器)〕
■太田順也[Zun] (1977- ):《さくらさくら ~Japanize Dream... (東方妖々夢)》(2003)
■大村久美子(1970- ): 《ゲルミナツィオン》(2003) 〔+パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)〕
■岡野貞一(1878-1941):《ふるさと》(夏田昌和によるピアノ独奏版)(1914/2014)
■岡野勇仁(1972- ):《木々は萌え、そよ風》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■奥村一(1925-1994):《さくらさくら》(1963)
■尾崎豊(1965-1992):《I love you》(1983) [A.スルタノフ編独奏版]
■落晃子(1969- ):《八犬伝》(2021)
■P.オリヴェロス(1932-2016):《ノルウェーの木》(1989)
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【か】
■片岡由紀(1970- ):《架空CMソング集 ~「アトラス」「カモメの極上麦茶」「ダチョウの宅急便」》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■金澤攝(1959- ):《葬送後退曲》(1975) 《烏枢沙摩》(2018)
■B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977) 《カターロゴ第2番「怒りの日?」》(2022)
■G.カペレン (1869-1934) :《君が代》(1904)
■河合拓始(1963- ):《オーガンザ》(2005) (オルガン独奏) 《アゼィリア、セギディーリャ》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■川上統(1979- ):フォルテピアノ独奏のための《閻魔斑猫》(2008) チェンバロ独奏のための《花潜(ハナムグリ)》 (2009) 《赤蜻蛉日記》 (2020)
■川崎弘二(1970- ):《木賊》(2015)
■川島素晴(1972-):《アクション・ミュージック I-IV》(2017) 《鏡は横にひび割れて》(2019) 《マルシュ・リュネール》(2019)
■川原伸司(1950- ):《瑠璃色の地球》(1986)(水野修孝編ピアノ独奏版)
■姜碩煕(カン・スキ)(1934-2020):《ゲット・バック》(1989)
■G.カンチェリ(1935-2019):映画《ミミノ(Мимино/მიმინო/Միմինո》より「黄色い葉」 (1977)
■神田晋一郎(1976- ):《たばこの煙》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■喜多郎(1953- ):《絲綢之路》(1980)
■J.ギンペル(1906-1989):《オッフェンバック「軍隊の二人の男」(1859)による演奏会用パラフレーズ》(1942)
■I.クセナキス(1922-2001):《シナファイ》(1969) (i) NJP 1996 Jul. - (ii) KSO 1996 Nov.(前半 ・後半)- (iii) LPO 2002 Mar. 《エリフソン》(1974) LPO 2004 Jun. 《ケクロプス》(1986) TPO 2022 Feb.
■桑原ゆう(1984- ):《花のフーガ》(2019)
■A.ケテルビー(1875-1959) :《日本の屏風から》(1934)
■A.グラズノフ(1865-1936): 《ヴォルガの舟歌 Op.97》 [A.ジロティ(1863-1945)による独奏版]
■F.グロリュー(1932-2023) :《ショパンのマズルカ風のモーツァルトのトルコ風ロンド》(1988)
■剣持秀紀(1967- ):《ピンチェ》(2015)
■E.ゴーティエ(1575-1651):《メザンジョーの墓》(クラヴィコード独奏)
■小坂直敏(1953- ): 《ハイブリッド・コラージュ ― ピアノと電子音響のための》(2015)
■古関裕而(1909-1989):《オリンピック・マーチ》(1964) 《スポーツショー行進曲》(1949)
■J.コズマ(1905-1969):《枯葉》 (1945/1993)[武満徹編]
■L.ゴドフスキー(1870-1938):《天国のアナクレオンへ》(1780/1921)
■小林純生(1982- ):《フーガ ~モーリス・ラヴェルを頌して》(2016)
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【さ】
■財津和夫(1948- ):《青春の影》(1974) (水野修孝編ピアノ独奏版)
■坂本龍一(1952- ):《エナジー・フロー》(1999)
■佐近田展康(1961-):《ニューセンチュリーソング》(2000/2005)
■佐藤聡明(1947- ):《コラール(「アダムの堕落によりすべては朽ちぬ」に基づく)》(2000)
■佐野敏幸(1972- ):《ションディプラカーシュ ~光の境界》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■佐村河内守(新垣隆)(1970- ):《ドレンテ》(2011)
■C.サン=サーンス(1835-1921):歌劇「サムソンとダリラ」第2幕より ダリラのアリア《あなたの声に心は開く》(1877/2005)(W.リンゲンベルク編) 歌劇「サムソンとダリラ」第3幕より バレエ音楽《バッカナール》(1877)(作曲者編) 《フランス風軍隊行進曲》(作曲者編ピアノ独奏版)(1880) 《白鳥》(1886/1927)(ゴドフスキー編) 《白鳥》 (1886/2019)(G.ファウル編) [米沢典剛によるピアノ版] 《交響曲第3番 ハ短調 Op.78 「オルガン付」 ~F.リストの追憶に》(1886/87、作曲者による2台ピアノ版)
■A.シェーンベルク(1874-1951):《月に憑かれたピエロ(第3部)》(E.シュタインによるピアノ伴奏版)[+柴田暦(vocal)] オペラ《モーゼとアーロン》第2幕第3場より「黄金の仔牛の踊り」(川島素晴によるピアノ独奏版) (1932/2007)
■G. シェルシ(1905-1988):《アデュー(お別れ)》(1978)
■篠原眞(1931- ):《四つの小品》(1951/2017) 《アンデュレーションB〈波状B〉》 (1997) [+浦壁信二(ピアノ)] 《24のブレヴィティーズ[簡潔]》(2015)
■しばてつ(1959- ):「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019)
■J.シベリウス(1865-1957) : 弦楽四重奏のための《祝祭アンダンテ》(1922/1941)(=K.エクマン編) 《フリーメーソンの儀式音楽》より「冒頭の讃歌」Op.113-1 (1927)
■清水卓也(1986- ):《町田のヤンキー》(2011)
■F.シューベルト(1797-1828):《弦楽三重奏曲 D 471》(1816/2023) [米沢典剛によるピアノ独奏版] 《さすらい人 D 493》(1816/1981) [フリードリヒ・グルダ編独奏版] 《連禱(万霊節) D 343》 (1816/1926) [ゴドフスキー独奏版] 弦楽四重奏曲第12番ハ短調 D 703 「四重奏断章」 (1820/2023) [米沢典剛編独奏版] 《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)] 《連弾のためのソナタ ハ長調「グラン・ドゥオ」 D 812》(1824) [J.F.C.ディートリヒ/L.シュタルク編独奏版] ピアノトリオ第2番 変ホ長調 D 929 より第2楽章+第3楽章 (1827/1875) [L.シュタルク編独奏版] 《連弾のためのフーガ ホ短調 D 952》(1828) [J.F.C.ディートリヒ編独奏版]
■R.シューマン(1810-1856):《夕べの歌 Op.85-12》(サン=サーンス編)
■R.シュトラウス(1864-1949):《万霊節 Op.10-8》(1883/1903) [M.レーガー編独奏版] 《ツェツィーリエ Op.27-2》(1894/1903) [M.レーガー編独奏版] 《明日! Op.27-4》(1894/1899) [M.レーガー編独奏版] 《オリンピック讃歌》(1934/2019) (米沢典剛によるピアノ独奏版) 《メタモルフォーゼン(変容)》(1945/2017) (米沢典剛によるピアノ独奏版) 歌劇《カプリッチョ》より「月の光の音楽」(1941/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)
■D. D. ショスタコーヴィチ(1906-1975):《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918) オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より第2幕間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版] 《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版] オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版) 映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版] [+浦壁信二(pf)] 交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版] [浦壁信二(pf)] 交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版] 《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]
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■F.F.ショパン(1810-1849):《ドンブロスキのマズルカ(ポーランドは未だ滅びず)》(1835)(マリウシュ・デュバイ補筆版)
■A.シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、テイク1/テイク2)
■V.シルヴェストロフ(1937- ):《ウクライナへの祈り》(2014)
■杉山洋一(1969- ):《嬉遊曲II》(2001) (二台ピアノのための)〔+B.カニーノ(ピアノ)〕 《間奏曲V》(2010) 《間奏曲IX「スーパーパッサカリア」》(2014)
■H.スケンプトン(1947- ):《カンパネッラ》(1981) 《星芒》(1996) 《モノグラム》(1997)
■M.スコリク(1938-2020):《メロディ》(1981)
■鈴木淳史(1970- ):《取り引きに、筆写で耐えた》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■鈴木光介(1979- ):《Even Be Hot ホットこともありえます》(2008、全7曲)
■鈴木悦久(1975- ): 《クロマティスト》(2004) 《ピアノの練習》(2019)
■I.ストラヴィンスキー(1882-1971): :バレエ音楽《狐》より「行進曲」(1916、作曲者編) 舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017) [+浦壁信二(ピアノ)](米沢典剛編2台ピアノ版) 《ヴォルガの舟歌》(1917) 《星条旗》(1941)
■J.S.スミス(1750-1836):《星条旗》(ラフマニノフ編、1780/1918) 《星条旗》(ゴドフスキー編、1780/1921) 《星条旗》(ストラヴィンスキー編、1780/1941)
■瀬戸口藤吉(1868-1941):《軍艦行進曲》(1900/2019) [米沢典剛による独奏版] 《愛國行進曲》(1937/2020)[米沢典剛編独奏版]
■D.ゼミソン(1980- ):《霞を抜けて》(2018)
■陝北民歌:《東方紅(東方ヴァージョン)》(米沢典剛によるピアノ版、2019)
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【た】
■高橋悠治(1938- ): 《光州1980年5月》(1980) 《さまよう風の痛み》(1982)
■高橋裕(1953- ):《シンフォニック・カルマ》(1990/2020、米沢典剛による2台ピアノ版) 《晩照 ~金澤希伊子先生に捧ぐ》(2019) フォルテピアノ独奏のための《濫觴》(2020)
■滝廉太郎(1879-1903):《花》(ござ[茣蓙]編曲独奏版)(1899/2017)
■武満徹(1930-1996):《二つのメロディ》(1948) 《二つの作品》(1949) 《二つのレント》(1950) 《さようなら(西村朗編)》(1953/2001) 《アルデールまたは聖女》(1956/57) 《うたうだけ》(1958) [作曲者によるピアノ編曲] 《MI・YO・TA(松尾賢志郎編)》 (1950s/2019) 《MI・YO・TA(神田晋一郎編)》 (1950s/2020) 《小さな空(杉山洋一編)》(1962/2009) 《さくら》(1973) 《インターナショナル》(1974) 《燃える秋》(1978) [作曲者によるピアノ編曲] 《クロス・ハッチ》(1982) [+浦壁信二(ピアノ)] 《すべては薄明の中で》(1988) 《ゴールデン・スランバー》(1990)
■田中吉史(1968- ): 《TROS III》(1992/97) 《松平頼曉のための傘》(2011)
■棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/18)
■田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011)
■P.チャイコフスキー(1840-1893) :《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版] 交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版] 歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版) 《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873) 《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876) 《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版] 《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版] 《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]
■陳銀淑(1961- ): 《ピアノのためのエチュード集 第2番「連鎖」・第3番「自由なスケルツォ」・第4番「音階」(オリジナル版)》(1994)
■筒見京平(1940- ):《魅せられて》(1979)(tOmozo編独奏版)
■R.ディットリヒ(1861-1919):《さくら》(1894)
■J.テニー(1934-2006):《ドゥ ユー ウォント トゥ ノウ ア シークレット》(1992) 《ラヴ・ミー・ドゥ》(1992)
■寺内大輔(1974- ):《地層》(2014)
■P. ドゥゲートゥル(1848-1932): 《インターナショナル Op.15-1》(1933) [A.ゴリデンヴェイゼル編] 《インターナショナル》(1974) [武満徹編]
■都倉俊一(1948- ):《渚のシンドバッド》(1977) [青山しおり編独奏版] 《サウスポー》(1978)[tOmozo編独奏版]
■戸島美喜夫(1937-2020):《鳥のうた(カタルニア民謡)》 (1982)
■C.ドビュッシー(1862-1918): 《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005、J.E.バヴゼ編2台ピアノ版)[+浦壁信二(ピアノ)] 《白と黒で》(1915) [+浦壁信二(ピアノ)]
■冨田勲(1932-2016):《きょうの料理》(1957)
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【な】
■中川真(1951- ):《非在の声》(2020)
■長瀬弘樹(1975-2012):《見えない星》(2007)
■中山晋平(1887-1952):《ゴンドラの歌》 [伊藤賢(1985- )/SwZap編独奏版] (1915/2020) 《大平壌行進曲》(1932)
■夏田昌和(1968- ):《ガムラフォニー II》 (2009) 《てふてふ》(2012) 《ザ・デイ・アフター・イエスタデイ》(2015)
■成田為三(1893-1945):「君が代」変奏曲(1942)
■西村朗(1953- ):《夜光》(1999) 《武満徹「さようなら」独奏版》(1953/2001) 《アリラン幻想曲》(2002)
■野平一郎(1953- ):《林の中の散歩道》(1985) 《日本古謡によるパラフレーズ》(さくらさくら/ずいずいずっころばし)(1987) 間奏曲第2番「イン・メモリアム・T (武満徹の追憶に)」(1998) 《響きの歩み》(1999/2000) 《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006) 《間奏曲第7番》(2014)
■信時潔(1887-1965):《あかがり》(1920)
■野村誠(1968- ):《パニック青二才》(2003)(2台ピアノのための)〔+鈴木貴彦(ピアノ)〕 《DVがなくなる日のためのインテルメッツォ》(2001) 《体重減らそう》(2007、ヒュー・ナンキヴェルとの共作)[+柴田暦(vocal)] 《ベルハモまつり》(2009)
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【は】
■J.S.バッハ(1685-1750):無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番BWV1005より「フーガ」「ラルゴ」(サン=サーンス編、1720/1862) 《3声のインヴェンション BWV775》(H.ラッヘンマン編、1723/1985) 《フーガの技法 BWV1080》(1742/49)より 第9番「12度の転回対位法による二重フーガ」・第10番「10度の転回対位法による二重フーガ」・第11番「4声の三重フーガ」(クラヴィコード独奏)
■S.バーバー(1910-1981) (米沢典剛編):《弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」》(1936/2017)
■L.バーンスタイン(1918-1990)(=米沢典剛編):《バルコニー・シーン》(1957)[+浦壁信二(ピアノ)] 《フィナーレ》(1957)[+浦壁信二(ピアノ)]
■林光(1931-2012):《国盗り物語》(1972) (寺西千秋によるピアノ独奏版) 《徳利小(とぅっくいぐゎ)》(1979) 《アリラン2002》(2002)
■林廣守(1831-1896):《君が代》(1880) ノエル・ペリ(1865-1922)編曲(1905) A.グラズノフ (1865-1936) [Op.96、米沢典剛編ピアノ版](1915/2019) 河村光陽(直則)(1897-1946):《君が代踊り》(1941) 溝部國光(1908-1996)編(1971) 小弥信一郎(1950- )編(1979) 三宅純(1958- )編(2016) 吉田光貴(1994- )編(2016) 久米由基(1960- )編(2018) 松尾賢志郎(1995- )編(2019)
■R. ピアナ(1971- ):《フニクリ・フニクラによる即興》(1880/2017)
■A.ピアソラ(1921-1992):《ストリート・タンゴ》(1987) [米沢典剛編によるピアノ版]
■久石譲(1950-): 《 「風の谷のナウシカ」より組曲5つのメロディー》(1984) 〔+上森祥平(チェロ)〕 《もののけ姫》より「アシタカとサン」(伊左治直編)(1997)
■H.ビュッセル(1872-1973):《日本の歌による即興曲(君が代) Op.58》(1915)
■平井(保喜)康三郎(1910-2002): 幻想曲「さくらさくら」(1971)
■平野弦(1968- ):《天才バカボンの主題によるフーガ》(1992) 《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM (ハイパーカリフラジリスティックサドマゾキズム)》(2022)
■M.d.ファリャ(1876- 1946):《ヴォルガの舟歌》(1922)
■M.フィニッシー(1946- ):《ミュコノス》(2017) 《トゥー・オブ・アス》(1990) 《果てなき日々のグレイス》(2019/20)
■G.フォーレ(1845-1924):《さようなら Op.21-3》 (1878/2021) [横島浩編ピアノ独奏版] 《バイロイトの思い出 ~ワーグナー「ニーベルングの指環」のお気に入りの主題によるカドリーユ形式の幻想曲》(1880、A.メサジェ採譜) 《月の光》(1887/1927)(M.ボニによるピアノ独奏版)+C.ドビュッシー(1862-1918):「仮装舞踏組曲」より《月の光》(1880) 《消え去らぬ香り Op.76-1》 (1897/2021) [横島浩編ピアノ独奏版] パリ音楽院ピアノ科初見試験課題曲 [女子学生用(1899)/男子学生用(1901)] 歌劇《ペネロープ》第1幕への前奏曲 (1913、作曲者編) 《チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109》(1917)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕 《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918) (ピアノ独奏版) 《幻想曲 Op.111》(1918、作曲者による2台ピアノ版) [+浦壁信二(ピアノ)] 《平和が来た Op.114》(1919/2021) [横島浩によるピアノ独奏版] 組曲《マスクとベルガマスク》 Op.112 (1919/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版] 《チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117》(1921)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕 「ディアーヌよ、セレネよ Op.118-3」(1921) ~歌曲集《幻想の水平線》より 《ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120》(米沢典剛によるピアノ独奏版)(1923/2018) 《弦楽四重奏曲 Op.121》(G.サマズイユ編独奏版)
■福島康晴(1970- ): 《モノローグ》(2015) (中全音律オルガン独奏)
■藤井一興(1955- ):《ル・モン・サン・ミシェル》(2020)
■G.プッチーニ(1858-1924)(=R.T.カッツ編):《弦楽四重奏曲 「菊」 嬰ハ短調》(1890/2017)
■冬木透(蒔田尚昊)(1935- ):ウルトラセブンの歌(1967) [+浦壁信二(ピアノ)] 《チャイニーズ・ラプソディ(義勇軍行進曲)》(1935/2007) 《君が代パラフレーズ》(1880/2007)
■J.ブラームス(1833-1897):交響曲第2番 Op. 73 第2楽章(1877/1915) [M.レーガー編独奏版] 《野の寂しさ Op.86-2》(1881/1907) [M.レーガー編独奏版] 《セレナード Op.106-1》(1885/1907) [M.レーガー編独奏版] 交響曲第4番 Op. 98 第2楽章 (1886/1916) [M.レーガーによるピアノ独奏版] 《メロディのように Op.105-1》(1888/1912) [M.レーガーによるピアノ独奏版] 《我が眠りは一層浅くなり Op.105-2》(1888/1906) [M.レーガー編独奏版] 《弦楽五重奏曲第2番 ト長調 Op.111》(1890/1920) [P.クレンゲルによるピアノ独奏版] 《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[P.クレンゲルによるピアノ独奏版] クラリネットソナタ第2番(Op.120-2) 第1楽章 (1894/2021) [米沢典剛編ピアノ独奏版] 《4つの厳粛な歌 Op.121》(1896/1912) [M.レーガーによるピアノ独奏版] 《一輪のバラが咲いて Op.122-8》(1896/1902) [ブゾーニ編独奏版]
■C.フランク(1822-1890):《交響的変奏曲》(1885/1932) [G.サマズイユによるピアノ独奏版]
■C.フランソワ (1939-1978)/J.ルヴォー(1940- ):《マイ・ウェイ》(夏田昌和によるピアノ独奏版)(1967/2014)
■R.フリエール(グリエール)(1876-1956):《ブリヤート=モンゴル・ソ連社会主義自治共和国のための英雄的行進曲 Op.71》(1936/2022) [米沢典剛編ピアノ独奏版]
■G.フレスコバルディ(1583-1643): 《使徒のミサ》(1635)より「信仰宣言の後の半音階的リチェルカーレ」 (中全音律オルガン独奏) 《聖母のミサ》(1635)より「(分かる者には分かるところの)歌唱用の第5声部を伴うリチェルカーレ」 (中全音律オルガン独奏) 《聖母のミサ》(1635)より「(この曲を弾く者は頗る為になるところの)ベルガマスカ」 (中全音律オルガン独奏)
■L.ブローウェル(1939- ):《丘の愚者》(1976)
■L.v.ベートーヴェン(1770-1827): ソナタ第20番第2楽章(1795) 交響曲第3番《英雄》第1楽章(1803)(F.リストによる独奏版、前半・後半) ソナタ第23番《熱情》第1楽章(1806) 弦楽四重奏のための《大フーガ》(1826)(L.ヴィンクラーによる独奏版、前半・後半)(全てフォルテピアノ独奏)
■G.ペッソン(1958- ):《マストの上で(水兵の歌)》(2009)
■A.ペルト(1935- ):《アリーナへ》(1976) 《アリヌシカの快復のための変奏曲》(1977)
■H.ベルリオーズ(1803-1869):叙情的モノドラマ《レリオ、あるいは生への回帰 Op.14bis》 より第IV曲「しあわせの歌」(1831) [米沢典剛によるピアノ独奏用編曲]
■細川俊夫(1955- ): 《メロディア II》(1977/78) 《ピアノ独奏のための「さくら」》(2007)
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【ま】
■前山田健一(ヒャダイン)(1980- ):《カカカタ☆カタオモイ-C》(2011) (marasy編ピアノ独奏版) 《カカカタ☆カタオモイ-C》(2011/2019) [金喜聖編2台ピアノ版]
■ギヨーム・ド・マショー(ca.1300-1377): 三声の蟹カノン《わが終わりはわが初め》(ca.1350/2017)(米沢典剛編ピアノ独奏版)
■松尾賢志郎(1995- ):《なにがでるかな?》(2019) 《マルシュ・リュネール》(2019)
■松下眞一(1922-1990): 《スペクトラ第4番》(1971)
■松平(工藤)あかね(1972- ):《ルグリにリフト》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■松平頼則(1907-2001): 組曲《美しい日本》(1969)より第1曲「前奏曲」・第2曲「朗詠的な幻想(七夕)」・第3曲「わらべ唄(手まり唄) 同・第4曲「草刈り唄」・第5曲「平曲のパラフレーズ(横笛)」・第6曲「箏曲風の終曲(茶音頭)」
■松村禎三(1929-2007):《初見課題曲》(1970s) 《巡禮 - ピアノのための - I, II, III》(1999/2000) 《三橋鷹女の俳句によせて》(2002)
■松村牧亜(1975- ):《Sakuratango (ピアノ・ソロ・ヴァージョン)》(2017)
■黛敏郎(1929-1997):《スポーツ行進曲》(1953) 《「天地創造」のテーマ》(1966) 《「栄誉礼冠譜」および「祖国」》(1986)(Fortis934編ピアノ独奏版) 《ROKUDAN(六段)》(1989) [八橋検校(1614-1685)による]
■G.マーラー(1860-1911) (米沢典剛編): 《花の章》(1888/2017)
■三河郷(1928-2007):《デビルマンのうた》(1972/2021) [米沢典剛による独奏版]
■三木たかし [渡邊匡] (1945-2009):《夜桜お七》(1994) [後藤丹編ピアノ独奏版]
■水野みか子(1958- ):《醒める河で ―ピアノと電子音響のための》(2004)
■箕作秋吉(1895-1971):《さくらさくら Op.16-2》(1940)
■港大尋(1969- ):《アリランは何処へいく》(2002)
■湊真一(1965- ):《六花(りっか)のトッカータ 第1024番》(2015)
■南聡(1955- ):《帽子なしで Op.63-4》(2023)
■宮尾幹成(1979- ):《オリヴィエ・メシアンの墓への小品》(2014)
■宮川泰(1931-2006):《宇宙戦艦ヤマト》(1974、宮川晶(彬良)による2台ピアノ版) [+浦壁信二(ピアノ)]
■宮城道雄(1894-1956):《さくらさくら変奏曲》(1923) [市花真弓編ピアノ独奏版] 《君が代変奏曲》(1927/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)
■三宅榛名(1942- ):《鉄道唱歌ビッグ変奏曲大人用》(1981) 《鳥の影》(1984) 《イェスタディ》(1990) 《オルランド・ディ・ラッソのモテットに基づく『御業を待ち望む』》(2001) (二台ピアノのための)〔+B.カニーノ(ピアノ)〕
■三善晃(1933-2013):《きこえるかしら》 (1979) 《さめない夢》 (1979) 《ひとりぼっちで(花と花とは)》 (1979) 《スクリアビン風の詩曲(ポエム) I / II》 (2002) 《むすんでひらいて》(2011) 《さくら さくら》(2011) 《あんたがたどこさ》(2011) 《通りゃんせ》(2011) 《ずいずい ずっころばし》(2011)
■三輪眞弘(1958- ): 《三つの小品 ~「第1番」「第3番」》(1976) 《レット・イット・ビー=アジア旅行》(1990) 《海ゆかば》(2014) 《虹機械 公案-001》(2015)
■O.メシアン(1908-1992)(=米沢典剛編):《星の血の悦び》(1948) [+浦壁信二(ピアノ)]
■F.メンデルスゾーン(1809-1847):《弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20》より終楽章「プレスト」 (1825) [作曲者編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
■C. モンテヴェルディ(1567-1643):オペラ《ポッペーアの戴冠》より終曲の二重唱「ただあなただけを見つめ」 (1642/2016) [E.デルッキによるピアノ独奏版]
■F.モンポウ(1893-1987):《歌と踊り第13番 (鳥の歌+賢い猟師)》(1972)
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【や】
■矢代秋雄(1929-1976):《スケルツォ》(1958/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)
■山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022)
■山田耕筰(1886-1965):《御大典奉祝前奏曲 ~「君が代」を主題とせる》(米沢典剛によるピアノ独奏版、1915/2019) 《さくらさくら》(1922) 《からたちの花》(1925/1928、作曲者によるピアノ独奏版) 《あげよ日の丸 - オリンピック応援歌》(1936/2019) (米沢典剛編独奏版) 《ヒロシマ ~一九四九年八月六日に寄するうた》(1949/2019) (米沢典剛編独奏版) [篠原眞編曲]赤とんぼ(1927/2002/2019) (米沢典剛編独奏版) [三善晃編曲]赤とんぼ(1927/1977/2019) (米沢典剛編独奏版) [三宅榛名編] 赤とんぼ変奏曲(1927/1981)
■山本裕之(1967- ): 《東京コンチェルト》(1993) 《ハウス・カスヤのための音楽》(2005) 《東京舞曲》(2010)
■湯浅譲二(1929- ):《ポンポンてね》(1960) 《川》(1960s) 《じゃあね》(1960s) 《耳をすましてごらん》(1972) 《藍より青く》(1972) 《わたりどり》(1973) 《徳川慶喜》(1997)(米沢典剛編独奏版) 《レナの子守歌》(1960s/2005) 《おやすみなさい》(2013)
■由雄正恒(1972- ): 《連.弾.指.》(2004)(ピアノとコンピュータ) 《セクシー・プライムズ》(2017、全5楽章)
■吉田恭(1972- ): 《アイ・ガット・リズム・アンド・プレイド・テニス・ウィズ・ミスター・シェーンベルク》(2004) (二台ピアノのための)〔+鈴木貴彦(ピアノ)〕
■吉松隆(1953- ): 《シリウスの伴星によせる Op.1》(1974)
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902)
■米沢典剛(1959- ):《君が代》(2021)
■米津玄師(1991- ):《KICK BACK》(2022) [金喜聖(キム・ヒソン)編曲による連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
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【ら】
■T.ライリー(1935- ):《海象供養》(追憶のウォルラス) (1991/93)
■H.ラッヘンマン(1935- ):《3声のインヴェンション BWV775》(1985) 《マルシュ・ファタール》(2016/17) 《ベルリンのさくらさくら》(2016/17)
■S.ラフマニノフ(1873-1943):《6手のためのロマンス》(1891/2022) [米沢典剛編独奏版] 《ここは素晴らしい場所 Op.21-7》 (1902/2004) [V.アシュケナージ編独奏版] 《徹夜祷》より「今こそ主よ」 Op.37-5 (1915)(作曲者によるピアノ独奏版) :《ああ Op.38-6》(1916/2022) [米沢典剛編独奏版] 《星条旗》(1918)
■F.リスト(1811-1886):《R.W. - ヴェネツィア S.201》(1883) 《ワーグナーの墓に S.202》(1883)
■L.J.A.ルフェビュール=ヴェリー(1817-1869):《H.ルベールの歌劇「ガイヤールのおやじ」による華麗な二重奏曲》(1852)[+金澤攝(ピアノ連弾)]
■C.ルル―(1851-1926):《分列式行進曲(扶桑歌)》(1886)
■M.レーガー(1873-1916):《クリスマスの夢~「聖しこの夜」による幻想曲》(1902) 《マリアの子守歌 Op.76-52》 (作曲者編ピアノ独奏版)(1904/1915) 《夜の歌 Op.138-3》(1914/2019) [ヴェンデリン・ビツァン編ピアノ独奏用パラフレーズ] 《ドイツ国歌によるフーガ》(1916、遺作)-----------------------
【わ】
■若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019)■R.ワーグナー(1813-1883):歌劇《ローエングリン》第1幕前奏曲(1848/2017)(B.ブライモ編) 歌劇《ローエングリン》第2幕より「エルザの大聖堂への入場」(F.リスト編) ヴェーゼンドンク歌曲集(1858/1917) [A.シュトラダルによるピアノ独奏版] 《トリスタンとイゾルデ》より「愛の場面」(1859/65)(タウジッヒ編) 《ジークフリート牧歌》(1870/1973) [G.グールド編ピアノ独奏版] 舞台神聖祝典劇『パルジファル』第1幕前奏曲(1857-82/1882)(A.ハインツ編) 《エレジー WWV93》(1881)■渡辺香津美(1953- ):《アストラル・フレイクス》(1980)
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2/16(金)シューベルト:ソナタ第8番(レヴィン補筆版)/第16番「大ソナタ」/第20番 + 南聡委嘱新作 [2024/02/06 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33250360/
2024-02-05T15:36:00+09:00
2024-02-11T19:04:12+09:00
2024-02-05T15:36:22+09:00
ooi_piano
Schubertiade vonZzuZ
《Schubertiade von Zeit zu Zeit シューベルトの時の時》(全5回公演)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【第4回公演】 2024年2月16日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第8番嬰へ短調 D 571》(1817/1997)
[R.レヴィンによる補筆完成版/日本初演] 8分
F.シューベルト:《3つのクラヴィア曲 D 946》(1828) 23分
I. Allegro assai - II. Allegretto - III. Allegro
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第16番イ短調(「大ソナタ第1番」)D 845》(1825) 35分
I. Moderato - II. Andante poco mosso
- III. Scherzo. Allegro vivace /Trio. Un poco più lento - IV. Rondo. Allegro vivace
(休憩 10分)
南聡(1955- ):《帽子なしで: a Capo Scoperto Op.63-4》(2023、世界初演) 5分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第20番イ長調 D 959》(1828) 35分
I. Allegro - II. Andantino
- III. Scherzo. Allegro vivace / Trio. Un poco più lento - IV. Rondo. Allegretto
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
南聡:《帽子なしで》(2023、委嘱初演)
極めて圧縮された奇想的なファンタジーである。シューベルトのファンタジーが残骸のようにちりばめてあるが、音楽の質量の差を際だだせる効果を曲のなかで形成することが狙いだった。その他、師匠の初期作であるファンタジーの一節を同時に引用した。師へのささやかな敬意表明と追悼の意をこめた。当初二曲でセットにしようとしたが適当な二曲目を作ることができなかった、そのため、短いながら単独の曲となった。
作品63は老いの遊興といったかんじの独奏曲・室内楽をあつめたもの。相互の関連性は室内楽以外ない。独奏曲は衛星的な存在だ。(南聡)
南聡 Satoshi MINAMI, composer
1955年生まれ。東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。在学中作曲を野田暉行、黛敏郎に師事。 1982年今日の音楽国際作曲コンクール入選。 1983年日本音楽コンクール作曲部門2位(1位空位)。 1983年より八村義夫の周辺に集まった、中川俊郎、久木山直、内藤明美らと同人グループ「三年結社」を結成活動。 1986年北海道に移住。 1988年日本現代音楽協会と日本フィルの共催コンサートで初演された、独奏ハープを伴うオーケストラのための《譬えれば・・・の注解》によって注目される(2003年アジア音楽祭に入選)。 1990 年環太平洋作曲家会議に参加。 1991 年オーケストラのための《彩色計画Ⅴ》の初演が評価され村松賞。1992年3人の独奏と3群のための《歓ばしき知識の花園 Ib》にて文化庁舞台芸術奨励賞。同年ケルンでの日本音楽週間 '92 に湯浅譲二、藤枝守らとともに招かれ、室内アンサンブルのための《昼Ⅱ》の委嘱初演と自作に関する講演を持つ。 2001年ISCM 世界音楽の日々に3楽器のための《帯 / 一体何を思いついた?》 (1998)が入選。翌 2002 年にも8人の奏者のための《日本製ロッシニョール》 (1994) が入選した。現在は、北海道教育大学岩見沢校教授を経て同校名誉教授、日本現代音楽協会会員、荒井記念美術館評議委員、北海道作曲家協会会員。
「補筆完成」などあり得ない
川島素晴
作曲家が様々な理由で完成できなかった作品を、後世の別人が補筆して完成させるということはしばしば行われてきた。例えばマーラーの《交響曲第10番》の場合は、第1楽章がほぼ完成していて、残る楽章をクックが補筆完成したものが広く演奏されているが、これは、作曲者が遺したスケッチなどを参照して、その様式によって完成を試みるものである。この手のものでは(2月14日に没後1年となる)ツェルハによるベルクの《ルル》3幕版などが有名だが、ツェルハのように補筆者が作曲家として活動している場合、その献身的な労力たるや、想像を絶するものがある。この二つに共通するのは、作曲者の逝去により絶筆、未完となった作品という点だが、補筆者が、学者としての活動がメインの場合と、現役で作曲活動もしている場合とでは、その作品性のあり方において異なる背景を見ることになる。学究的な肉薄か、それとも作家性を備えた筆による作品としてのリアリティか。前者に傾けば芸術性への疑義が、後者に傾けば学術的な疑義が生じ、どちらに対しても、それぞれの立場で賛否が分かれることだろう。つまり、どちらの立場からも完全なる同意や納得を得る仕事は、なかなか困難なのではなかろうか。
一方、ベリオが、シューベルトの未完の交響曲を素材として作曲した《レンダリング》の場合は、ベリオ自身が「修復」作業と位置付けているように、遺された部分以外の埋め合わせを、シューベルト様式を逸脱してベリオのオリジナル部分によって行っている。この場合は、学究的な態度を残しつつ、作曲家独自の「作品」としても位置付ける取り組みとなっているわけだが、こうなると、もはやオリジナル作品としてみなされることで、学究的な意味での批判は免れる(というよりは無視することになる)だろう。実際、この作品はベリオの管弦楽作品の中でも再演回数が多いものの一つであり、ある種の「現代音楽マーケティング」成功例とも考えられよう。
今回のコンサートシリーズにおけるレヴィンの態度が学究的なものの究極とすれば、フィニッシーの態度はオリジナルであることを厭わない態度の究極である。そもそもフィニッシーは、民謡や既存の名曲を素材に、編曲と称して全く原型を留めない作曲を行うことでよく知られている。原作者の様式に忠実に、などという考えは毛頭ないであろうことは想像に難くない。
では、レヴィンの試みが、果たして原曲作曲家の想定通りに作曲されたものと考えられるのか、と言えば、それはまた別の議論になるだろう。そもそも、作曲家逝去による絶筆ではない作品の場合、それを補筆完成することにはどのような意義があるのだろうか。初演予定に間に合わなくてお蔵入り、初演機会が頓挫してお蔵入り(コロナ禍では頻発した)、などの理由(つまり作曲家自身がそれを完成させる意欲があったに違いないと推定される場合)であれば、それを完成させる意義はあるかもしれない。しかし、作曲者自身が作品の完成を望まず、破棄と同義で完成を放棄したのだとしたら、それを「作曲者の意を汲んで」完成させるということは、ある種の矛盾を孕んでいる。そもそも、本当に「作曲者の意を汲む」のであれば、完成させないことこそが最も意を汲むことなのだから。では仮に、何らかの理由でお蔵入りして絶筆したものだったとしよう。それにしても、作曲家は、いついかなるときもある一定の様式をもって作曲に臨んでいるわけではなく、時代とともに、あるいは人生の様々な場面に応じて、その都度、少しずつでも新しい思考や経験則を伴って作曲を行うものだとするなら、その筆が途絶えたその瞬間の思考に肉薄してこそ「正しい」補筆と言えるわけだが、しかし果たして、そんなことが可能なのだろうか。
ここで、武満徹の《リタニ》のような作曲者自身による補筆完成作品を思い出してみよう。1950年に作曲した《二つのレント》の紛失した譜面を思い起こしつつ1989年に再作曲したというこの作品は、1989年時点の武満の経験値なり審美眼なりが反映しているという意味で、1950年当時のものと異なる姿であることは明白だ。しかし同時に、作曲者自身の手によるものという意味で、これ以上の説得力はないし、その作品性に疑義を呈する必然性はない。1950年当時の完全再現ではないということの批判にどれほどの意味があるだろうか。武満自身が1989年時点での眼が入ることを厭わなかったとしても、それは紛うことなき武満自身の作品である。では仮に、後世の者が、この作業を行ったとしたらどうだろうか。1950年当時の武満を想定すべきなのか、それとも1989年時点の武満を想定すべきなのか。このように、後世の者が補筆する場合は、どちらの武満を想定すべきか、という観点での判断の難しさを提供することになるだろう。
筆者自身の補筆経験として、1998年に行った甲斐説宗(1938-78)の生誕60年、没後20年企画に際して実行した《コントラバスとピアノのための音楽》について振り返りたい。遺族とともに4公演とシンポジウムなどを開催したこのイベントの首謀者だった筆者は、日本初演、未演奏作品の初演などを集めた回を設定し、そこでこの作品を補筆完成、初演した。甲斐本人によって遺されたものは、少しの断片とメモのみであった。その意味では、補筆というよりは事実上の再作曲と言ってよい取り組みだった。40歳を目前に逝去した甲斐の短い創作期間においても、作風には変化が見られる。この作品のメモが遺された時点の作風を想定すべきなのか、はたまた、最晩年に到達した世界を参照すべきなのか。逡巡はあったが、ここでは、学究的な態度を極めることよりは、むしろ自由にアプローチすることとした。しかしながら、甲斐説宗ならばどうしただろうか、という問いは常に保ち続けていた。このイベントの準備のために、遺族の協力のもと甲斐説宗の全作品のスコアも参照し、遺された様々なノートなども参照していたので、当時筆者は26歳と若かったが、その時点で筆者以上に甲斐説宗作品に通じている作曲家はいなかったはずだ。《コントラバスとピアノのための音楽》のために遺された断片とメモは、それを完成させたいと思わせるに足る魅力的なものだったし、この編成のための作品になかなか名曲が存在しないことを思うと、完成させることへのモチベーションは極めて高いものだった。筆者が試みたことは、当該メモが遺された1970年頃よりは少し後の時期である《ピアノのための音楽Ⅰ》(1974)の作風を主体として、最晩年(といってもそのたった4年後ではあるが)の世界も織り込んだ、いわば「甲斐説宗の軌跡」を一作に込めるものだった。だから、当然のことながら、作者自身が生きてこれに取り組んだら、このようにはならなかったであろう。ベリオのように、補筆者(即ち筆者)のスタイルを盛り込むことはしなかった(ただし、調弦変更などに筆者自身のアイデアも含めてはいる)が、しかし、全体としては確実に甲斐自身が書いたはずのものを想定するならそれとは異なる内容であり、それと同時に、どの瞬間も、甲斐自身が書いたかもしれない内容を想定して作業しており、そのことについては(少なくとも他者による作業を凌駕する)自負がある。このような補筆作業の実例、つまり作曲家の創作の軌跡を織り込みつつ細部は作曲家の書法を再現する試みは、他にはあまり存在しないかもしれない。武満が《リタニ》で見せたように、1998年時点からの再作曲作業は、1970年当時の本人の仕事とは異なるものを導くこととなったが、これが適切な作業だったのかどうかは、当然、賛否が分かれるだろう。
筆者による補筆の実例をもう一つ挙げておく。筆者が師事した師匠である松下功(1951-2018)が舞台作品《影向のボレロ》という新作の委嘱を受けていた。2019年3月24日に福島県白河市で初演されるはずのその作品は、松下自身は全く手付かずの状態で、松下は2018年9月16日に急逝した。その後、主催者による判断で、弟子である筆者が継承することになったのである。管弦楽、合唱のほか出演者総勢200名、正味2時間半に及ぶ全体の中で、幾つか、既存の松下作品を組み入れて上演することは予め決まっていたことだが、残る2時間程度の新しい音楽を作曲しなければならなかった。しかもその依頼を受けたのが9月下旬。本番まで半年を切る状況でのスタートだった。(それだけだったらよかったものの、これ以外の新作8曲の作曲と、本番直前にドイツに一週間滞在する仕事を抱えた状況だった。)組み入れることが決まっていた作品と、白河踊りの音楽など、使うことが決定している素材を軸に、筆者が「作曲」そのものを継承するというオーダーだったため、実際の作業は補筆ではなく、事実上の作曲であった。構想メモのようなものもない全くの手付かずの状況だったため、使用素材以外の事前情報は全く無い。ならば筆者自身の創作として自由に作曲できるかというと、予め組み入れられる素材とのバランスを調停しなければ全体がバラバラになるため、そうはいかない。そこでまず、組み入れることが決まっている松下による3作品と白河踊りを検証し、リズム的な共通点と、旋律的な共通点を見出した。(そのような共通点が存在したこと自体、奇跡的である。)さらに、そのリズム素材と旋律素材を全体の核となす素材として定義した。その上で全体を構築、管弦楽作品や合唱に加え、自身によるピアノや打楽器を用いたブリッジ部分を含めて2時間に及ぶ楽曲を完成させた。構想メモすらない状況での作曲は、補筆とは言えないかもしれない。しかし、既存部分との繋がりもあるので、筆者が筆者のスタイルで作曲したものとも言えない。と同時に、松下の筆ではあり得ず、筆者でなければ実行しないような部分も多々あった。そういった意味では筆者の作品であるが、もしも一から委嘱を受けたなら、全く異なる作品になったであろう。この事例は、作曲者没後の取り組みの実例ではあるものの、前述のマーラー/クックやベルク/ツェルハ、シューベルト/ベリオ等のいずれの例とも異なる、これまた珍しいタイプの補筆完成作業だったと言えよう。この場合はもちろん、松下功の仕事を再現することを目的にしたものではなく、筆者の作品であると思われることを厭わない態度だったが、それと同時に、筆者としては、筆者のオリジナル作品であるという意識もなかった。この作品は何だったのか。筆者自身、明確な答えを未だ持てずにいる。
このような稀有な上演を遂行した後、しばらく経ってから、同時期にオペラ《紫苑物語》を完成させていた西村朗と話をする機会を得た。師匠の松下功を継承して舞台作品を完成させたという話をしたところ、西村曰く、「病気を患っていたこともあり、万が一、この《紫苑物語》のオーケストレーションが完成しなかったら、川島さんに頼もうと思っていたんだよ。」本気か冗談かはともかく、ご一緒しているいずみシンフォニエッタ大阪での編曲の仕事などを通じて技術への信頼を得ていることの証左であり、誠に光栄な話だが、実際には、上記の松下功の件もあって、もしも依頼されたとしても手がけることはできなかっただろう。それに、ご承知の通り、《紫苑物語》は全て本人の手によって完成されており、実演に接しその完成度を目の当たりにした筆者は、到底その代行なぞできなかったと感服し平伏したものである。
補筆してまでして完成に至らしめたいと思うような作品であればあるほど、その本人の筆致を完全再現する、いや、再現しないまでもせめて足元に及ぶ程度の内容になる、ということのハードルが高くなる。とある音楽作品の補筆完成などということは、それが高度なものであればあるほど、とどのつまり絵空事であり、実際に達成をみることなどあり得ないという言説も成立するのではなかろうか。
ところで、そうした「完全再現」を目的とする補筆作業こそ、昨今話題の生成AIに実行させたらどうなのか。完成度や理念的な観点から、完全再現が実際に達成をみることなどあり得ないのだとすれば、AIをひたすら稼働させて、出力された無数の候補の中から、ベストと考えられるものを選択すればよいのではないだろうか。実際、作曲に関していうと、かなり前からプログラミングを行った上での自動作曲は実行されていた。ここ最近の生成AIの発展を見るだに、生成AIが絶筆作品の補筆完成を行うこと、それも、その候補を無数にはじき出すことは、近い将来に実現する話だろう。しかし、この事実をもってしても、なお、誰の目にも納得のいく補筆完成など存在しない、ということを物語っている。結局のところ、多くの候補が出力されて、それを判定するという過程が存在する以上、そこで全ての人が納得する唯一無二の候補を導くことはできないだろう。
そう。作曲とは、そういうものなのだ。
仮に個人様式を確立していたとしても、そのときまでの体験に根差し、そのときに置かれた状況に影響され、思いついたり立ち止まったり、あるいは破棄してやり直したり、といったことをしながら完成させていく過程は、その作品を書き始めた本人が、その瞬間に紡いでいくことでしか、達成できない。少なくとも筆者は、「AIにはできないであろう仕事」を心がけているし、昨日の自分では思いつかなかった発想を得た瞬間など、AIにも、後世の他人にも、絶対に導けないだろう、という確信を感じている。
そしてそれは、過去のあらゆる作曲家も同じだったことだろう。真の意味での「補筆完成」など、あり得ないのである。
「補筆完成」・・・それは、いわば高度な遊戯である。今風に言うなら「◯◯が絶筆した作品を完成させてみた!」という動画をYouTubeにアップロードするかのような。それ以上でも以下でもない、という自覚をもって、こうした作業には臨むべきだろうし、こうした仕事に接するべきだろう。どうせ誰もが認める補筆なぞあり得ないのだから、真顔でその是非を論じても仕方あるまい。ツッコんだり愚痴こぼしたり、ときにスゲーと感嘆しながら、楽しんで聴けばいいのだ。
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《Schubertiade von Zeit zu Zeit シューベルトの時の時》(全5回公演)[2023/02/05 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33100387/
2024-02-05T06:56:00+09:00
2024-03-18T15:09:50+09:00
2023-09-21T10:06:32+09:00
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Schubertiade vonZzuZ
《Schubertiade von Zeit zu Zeit シューベルトの時の時》(全5回公演)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円 5公演パスポート 18,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【第1回公演】 2023年11月10日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第13番イ長調 D 664》(1819)、《幻想曲ハ長調「さすらい人」 D 760》(1822)、《クラヴィアソナタ第17番ニ長調「ガスタイナー」 D 850》(1825)
杉山洋一(1969- ):《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023、委嘱初演)
ブリス・ポゼ(1965- ):《フォルテピアノのための「ミニュット3/ミニュット4」》(2021/23、世界初演)
【アンコール】 F.シューベルト(F.リスト編):《魔王 D 328》(1815) /S.558-4 (1837/76)
【第2回公演】 2023年12月8日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《4つの即興曲 D 899》(1827)、《クラヴィアソナタ第14番イ短調 D 784》(1823)、《クラヴィアソナタ第18番ト長調「幻想曲」 D 894》 (1826)
横島浩(1961- ):《マッシュプローム Maschubroom》(2023、委嘱初演)
ブリス・ポゼ(1965- ):《フォルテピアノのための「ミニュット5/ミニュット6」》(2021/23、世界初演)
【アンコール】 F.シューベルト(S.ラフマニノフ編):歌曲集《水車小屋の娘》より「何処へ」(1823/1925) [生誕150周年]、G.リゲティ:歌曲集《笛と太鼓とフィドルで》より「懸巣」(2000) [生誕100周年]
【第3回公演】 2024年1月19日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《4つの即興曲 D 935》(1827)、《クラヴィアソナタ第15番ハ長調「レリーク」 D 840》(1825/2017) [M.フィニッシーによる補筆完成版/日本初演]、《クラヴィアソナタ第19番ハ短調 D 958》(1828)
小林純生(1982- ):《ポホヨラの火の娘たち Pohjola's Daughters of Fire》(2023、世界初演)
【アンコール】 F.シューベルト(F.リスト編):歌曲集《冬の旅 D 911》(1827)より第24曲「辻音楽師」+第19曲「まぼろし」 [S. 561- 8+9] (1840)
【第4回公演】 2024年2月16日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《3つのクラヴィア曲 D 946》(1828)、《クラヴィアソナタ第16番イ短調(「大ソナタ第1番」)D 845》(1825)、《クラヴィアソナタ第20番イ長調 D 959》(1828)、《クラヴィアソナタ第8番嬰へ短調 D 571》(1817/1997) [R.レヴィンによる補筆完成版/日本初演]
南聡(1955- ):《帽子なしで: a Capo Scoperto Op.63-4》(2023、世界初演)
【第5回公演】 2024年3月22日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《楽興の時 D 780》(1823/28)、《クラヴィアソナタ第21番変ロ長調 D 960》(1828)、M.フィニッシー(1946- ):《シューベルト:ソナタ断章 D769a の外衍》(1823/2023、世界初演)
近藤譲(1947- ):《ペルゴラ》(1994/2024、フォルテピアノ独奏版初演)
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
(左から)杉山洋一(11月公演)、ブリス・ポゼ(11月公演)、横島浩(12月公演)、
小林純生(1月公演)、南聡(2月公演)、マイケル・フィニッシー(1月/3月公演)、近藤譲(3月公演)
"Schubertiade von Zeit zu Zeit" (5 concerts)
Hiroaki OOI, fortepiano
Shōtō Salon (1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo) Google Map https://shorturl.at/bgzJM
instrument: An original Hammerflügel by Johann Krämer [1825, Vienna, 80 keys, 4 pedals, 430Hz]
4,000 yen
reservation: poc@artandmedia.com (Art & Media Inc.)
Fri. 10 November 2023, 7pm start
Franz Schubert : Sonate Nr.13 A-Dur D 664 (1819), "Wanderer-Fantasie" D 760 (1822), Sonate Nr.17 D-Dur D 850 "Gasteiner" (1825)
Yoichi Sugiyama (1969- ): "Hana - in memory of Akira Nishimura" for fortepiano (2023, world premiere)
Brice Pauset (1965- ): "Minutes 3-4" for fortepiano (2021/23, world premiere)
Fri, 8 December 2023, 7pm start
Franz Schubert : 4 Impromptus D 899 (1827), Sonate Nr.14 a-moll D 784 (1823), Sonate Nr.18 G-Dur "Fantasie" (1826)
Hiroshi Yokoshima (1961- ) : "Maschubroom" for fortepiano (2023, world premiere)
Brice Pauset (1965- ): "Minutes 5-6" for fortepiano (2021/23, world premiere)
Fri, 19 January 2024, 7pm start
Franz Schubert : 4 Impromptus D 935 (1827), Sonate Nr. 15 C-Dur D840 "Die Reliquie" (1825) [+ Michael Finnissy : "Vervollständigung von Schuberts D840" (2017, Japan premiere)], Sonate Nr.19 c-moll D 958
Sumio Kobayashi (1982- ) : "Pohjolas Daughters of Fire" for fortepiano (2023, world premiere)
Fri, 16 February 2024, 7pm start
Franz Schubert : 3 Klavierstücke D 946 (1828), Sonate Nr.16 a-moll D 845 "Première Grande Sonate" (1825), Sonate Nr.20 A-Dur D 959 (1828), Sonate Nr. 8 fis-moll D 571 (1817/1997) [completed by Robert Levin, Japan premiere]
Satoshi Minami (1955- ) : "A Capo Scoperto Op. 63-4" for fortepiano (2023, world premiere)
Fri, 22 March 2024, 7pm start
Franz Schubert : Moments musicaux D 780 (1823/28), Sonate Nr.21 B-Dur D 960 (1828)
Michael Finnissy (1946- ) : "Fortsetzung von Schuberts Sonaten-Fragment D769A" (1823/2024, world premiere)
Jo Kondo (1947- ) : "Pergola" (1994/2024, fortepiano solo version, world premiere)
*This is the first attempt in Japan to cover Schubert's major piano masterpieces in five concerts on the ancient instrument (fortepiano/ Hammerflügel) of Schubert's period.
シューベルトの後期クラヴィアソナタの復権は、20世紀後半を待たねばならなかった。数百~数千席の大ホールでは、外面的・即時的な演奏効果とは縁遠い内向的なシューベルト作品に、爛熟した後期ロマン派の過剰な演出を施される事も多く見られた。
シューベルトの主要クラヴィア作品を、フォルテピアノの繊細な息遣いが聴き手にもダイレクトに届く親密なサロンの空間で、当時の演奏慣習(Historische Aufführungspraxis)に則って行われる本シリーズは、日本国内では初の試みとなり、同一会場での集中的な連続コンサートとしては欧米での先例も見当たらないと云う。
現代音楽の演奏で名高い大井浩明は、ベルン芸術大学(スイス)で名匠イェルク・エヴァルト・デーラー教授からフォルテピアノによるシューベルト演奏法の手ほどきを受けて以来、長らくこの楽器にも取り組んできた。日本モーツァルト協会例会にて寺神戸亮指揮レ・ボレアード(古楽器オーケストラ)とフォルテピアノで協奏曲(KV453)を共演、その成果により第61回文化庁芸術祭新人賞を受賞(2006)。また、ベートーヴェン:クラヴィアソナタ全32曲ならびにリスト編交響曲全9曲を、時代順様式別の9種類のフォルテピアノで弾き分けるシリーズ(全13公演)を開催、NHK-BS「クラシック倶楽部」等で紹介され、第15回日本文化藝術賞を受賞している(2008)。
近年では、1843年製プレイエルで初期ロマン派(ベルリオーズ/ショパン/シューマン/リスト/アルカン)を5回シリーズで紹介(2020)、1887年製スタインウェイで後期ロマン派(ワーグナー/フランク/ブラームス/フォーレ/レーガー)を同じく5回シリーズでを取り上げた(2021)。これらのプログラミングは、いずれも本邦初の試みであった。大井にとって長らく「伏せ札」であったシューベルトチクルスは、いわば一連のフォルテピアノシリーズの完結編にあたる。
大井は、チェンバロ・クラヴィコード・フォルテピアノ・オルガンといった古楽器のためにも、内外の作曲家に新作委嘱を続けており、この十数年で既に40曲以上に及ぶと云う。本シリーズでは、南聡、横島浩、杉山洋一、小林純生、そしてマイケル・フィニッシーが書き下ろしたフォルテピアノのための新作が、併せて世界初演される。
1825年ウィーンのヨハン・クレーマー製作によるオリジナル楽器(80鍵、4本ペダル、430Hz)の修復にあたる高木裕は、つい先ごろ(2023年2月)、「ヴィンテージピアノを極力オリジナルのままに、今なお生きた楽器として当時の音をステージから伝えている」長年の功績を称え、第33回日本製鉄音楽賞を受賞したばかりである。
シューベルトの生前、個人宅のサロンで気の置けない仲間たちが集まり音楽を楽しんだ催しは、当時「シューベルティアーデ(シューベルトの集い)」と呼ばれた。音楽構造を決定付ける音像の距離・乖離、そして「沈黙」の重みを、至近距離で聴き手がそのまま味わえる200年前のピリオド楽器(古楽器)を通じて、自身が病に斃れ貧困のうちに夭折したシューベルトの19世紀ウィーンと、コロナ禍によって多様なコミュニケーションの有りようが一変した21世紀の東京を切り結ぶ、都市の日常生活に根差した「そのときどき (von Zeit zu Zeit)」のシューベルティアーデに想いを馳せたい。(三輪与志)
大井浩明 Hiroaki OOI, fortepiano
京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。また、チェンバロと通奏低音をディルク・ベルナーに師事、同大学院古楽部門コンツェルトディプロマ課程も修了した。アンドラーシュ・シフ、ラーザリ・ベルマン、ロバート・レヴィン(以上ピアノ)、ルイジ・フェルディナンド・タリアヴィーニ(バロック・オルガン)、ミクローシュ・シュパーニ(クラヴィコード)等の講習会を受講。
第30回ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996/ロッテルダム)、第1回メシアン国際ピアノコンクール(2000/パリ)に入賞。第3回朝日現代音楽賞(1993)、第11回アリオン賞奨励賞(1994)、第4回青山音楽賞(1995)、第9回村松賞(1996)、第11回出光音楽賞(2001)、第61回文化庁芸術祭新人賞(2006)、第15回日本文化藝術奨励賞(2007)、第1回一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等を受賞。2010年からは、東京で戦後前衛ピアノ音楽を体系的に網羅する作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに51公演(約500曲)を数える。
近年の主な活動として、中全音律バロックオルガンによるフレスコバルディ《音楽の花束(3つのオルガン・ミサ)》(全曲による日本初演)(2015)、ヒストリカル・チェンバロによるフランソワ・クープラン連続演奏会(全27オルドゥル/220曲)(2012/18、全8回)、2段鍵盤ペダルクラヴィコードによるバッハ:トリオソナタ集 BWV525-530(全6曲)(2016)、シリーズ《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》(2012/15、全8回)、ピアノ独奏/重奏によるマーラー:交響曲集(全11曲)(2012/15)等。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/
高木 裕 Yu TAKAGI, piano restorer/technician
ニューヨークにてスタインウェイ&サンズ本社の研究開発コンサルタント兼調律技術統括マネージャーであったW・ガーリック氏とコンサート部チーフのフランツ・モア氏に師事。コンサート・チューナーとして、著名アーティストのコンサートや、レコーディングを数多く手掛けている。1992 年より自社所有コンサートグランドピアノをステージに持ち込むスタイルを開始。これによりピアニストと技術者が理想とするコンサートやレコーディングが可能となり、すでに全国で7000回を越える日本唯一最大のコンサート&アーティスト部に成長した。
2004 年、洋泉社より『スタインウェイ戦争』(共著)、2010 年 11 月、朝日新書より『調律師、至高の音をつくる』を出版、朝日新聞の天声人語に引用される。
2013 年、日経プレミア新書より『今のピアノでショパンは弾けない』、2019 年音楽之友社より『ホロヴィッツ・ピアノの秘密』を出版。『音楽の友』誌に 3 年にわたって連載を執筆。テレビ朝日「徹子の部屋」「題名のない音楽会」などにゲスト出演。全国で講演、レクチャーコンサートなど多数に出演。
大井浩明による古楽器委嘱作
【チェンバロ】
伊左治直《機械の島の旅(夜明け)》[harpsichord solo](2004年2月初演)
三宅榛名《Come back to music(チェンバロ版)》[harpsichord solo](2004年2月初演)
等々力政彦編《豊かな森 Bai-la Taigam》《残忍な領主 Ambïn Noyan》《子守歌 Öpei Ïrï》 [Igil, Xöömei-vo, harpsichord](2009年9月初演)
佐野敏幸《GRS(ガレサ)》[harpsichord solo](2009年9月初演)
川上統《花潜(ハナムグリ)》[harpsichord solo](2009年9月初演)
エムレ・デュンダル《S.シャルボニエール氏の墓》[harpsichord solo](2018年6月初演)
古川聖《アリアと18の変換》[harpsichord solo](2018年6月初演)
上野耕路《リベルタン組曲(全7楽章)》[harpsichord solo](2018年8月初演)
【クラヴィコード】
鈴木優人《バッハ「フーガの技法」より未完の3重フーガ補筆》[clavichord solo](2007年6月初演)
福島康晴《楽興の時 I/II/III》[clavichord solo](2014年3月初演)
【フォルテピアノ(60鍵~80鍵各種)】
林加奈《好転反応II》[fortepiano solo](2006年10月初演)
安野太郎《ダニエラ》《カナスヴィエイラス》[fortepiano solo](2008年2月初演)
小出稚子《ヒソップ》[fortepiano solo](2008年4月初演)
川上統《閻魔斑猫》[fortepiano solo](2008年4月初演)
鈴木光介《Even Be Hot(ホットこともありえます)》(全7曲)[fortepiano solo](2008年7月初演)
河村真衣《クロスローズ》[fortepiano solo](2008年7月初演)
安野太郎《帰って来ないあなた》[fortepiano + mp3](2008年7月初演)
清水一徹《老人の頭と鯨の髭のためのクオドリベット》[fortepiano solo](2008年10月初演)
鈴木純明《白蛇、境界をわたる》[fortepiano solo](2008年11月初演)
有馬純寿《琥珀のソナチネ》[fortepiano solo](2009年3月初演)
福井とも子《夜想曲》(全3曲)[fortepiano solo](2009年3月初演)
野村誠《ベルハモまつり》[fortepiano solo](2009年3月初演)
高橋裕《濫觴》[fortepiano solo](2020年10月初演)
鈴木光介《マズルカ》[fortepiano solo](2020年11月初演)
中川真《非在の声》[fortepiano solo](2020年12月初演)
アダム・コンドール《5つの超越的前奏曲集》[fortepiano solo](2021年1月初演)
クロード・レンナース《パエトーン》[fortepiano solo](2021年2月初演)
杉山洋一《華(はな) ~西村朗の追憶に》[fortepiano solo](2023年11月初演)
横島浩《マッシュプローム Maschubroom》[fortepiano solo](2023年12月初演)
小林純生《ポホヨラの火の娘たち Pohjola's Daughters of Fire》[fortepiano solo](2024年1月初演)
南聡《帽子なしで: a Capo Scoperto Op.63-4》[fortepiano solo](2024年2月初演)
マイケル・フィニッシー:《ソナタ断章 D769a》(2024年3月初演)
【オルガン】
河合拓始《オーガンザ》[organ solo](2005年6月初演)
木下博史《九重親方のイビキ》[organ solo](2005年6月初演)
久保田翠《くろきもの わが眼おほへど》[organ solo](2005年10月初演)
石川高《何処で私は道を踏みはずしたのか。何を私は行ったのか。なすべきことの何を私は成し遂げないでしまったか。》[sho + organ](2011年3月初演)
池田拓実《Pearl on Ruby》[organ + live-electronics](2011年3月初演)
有馬純寿《多色刷りの後奏曲I、II》[organ + live-electronics](2011年3月初演)
多久潤一朗《オル・ガン・バン・スリング》[microtone flute + organ](2011年3月初演)
上野耕路《パルティータ》[baroque organ](2015年3月初演)
福島康晴《モノローグ》[baroque organ](2015年3月初演)
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1月19日(金)シューベルト《レリーク》(フィニッシー補筆版)日本初演+小林純生委嘱初演他 [2024/01/14 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33205057/
2023-12-29T01:54:00+09:00
2024-01-15T11:55:44+09:00
2023-12-29T01:54:13+09:00
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Schubertiade vonZzuZ
《Schubertiade von Zeit zu Zeit シューベルトの時の時》(全5回公演)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【第3回公演】 2024年1月19日(金)19時開演(18時半開場)
F.シューベルト:《4つの即興曲 D 935》(1827) 30分
I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. 主題と5つの変奏 - IV. Allegro scherzando
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第15番ハ長調「レリーク」 D 840》(1825/2017)
[M.フィニッシーによる補筆完成版(*)/日本初演] 35分
I. Moderato - II. Andante - III. Menuetto (*) - IV. Finale (*)
(休憩10分)
小林純生(1982- ):《ポホヨラの火の娘たち》(2023、世界初演) 6分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第19番ハ短調 D 958》(1828) 30分
I. Allegro - II. Adagio - III. Menuett. Allegro - IV. Allegro
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
M.フィニッシー:《シューベルト クラヴィアソナタ D 840 メヌエット/フィナーレ楽章の補筆》(2017、日本初演)
シューベルトをはじめとする過去の作曲家たちの音楽が、コンサート演目やレコード・カタログの中で重要な位置を占め続けている今、私はしばしば自分の作品の中で、この「文化的状況」を分析し、有意義に考察しようと試みている。尤も、巧緻さを競ったり、直接引用したり、パロディやフェイクに走ることは避けている。そうではなく、「クラシック」音楽の内容のさまざまな側面に思慮深く疑問を投げかけ、向き合い、発見したものを自分自身の創作物と同様に扱うのである。その結果は、ある種の肖像画作法、「再映像化」「再編集」されたモンタージュであり、音楽史の諸相を今日の世界(と現代の作曲手法)から選択的に再構築したものと考えている。
シューベルトがピアノ・ソナタ D840を作曲し始めたのは1825年4月のことで、あちこちが未完成であった事もあり、初めて出版されたのは彼の死後33年経った1861年のことだった。最初の出版物の編集者であるF.ホイッスリングは、第1楽章(モデラート)に細かな加筆修正を加え、第2楽章(アンダンテ)の24小節の終わりと87小節の始まりの間の「隙間」を埋めた。現存する第3楽章(メヌエット)の自筆譜には、17小節から80小節までと、トリオ(95小節から122小節)までしか書かれていない。1877年から現在に至るまで、この楽章の「様式的に一貫した」11の代替的な補筆例が存在する。しかし、第4楽章(フィナーレ)については現在何も残っていない。
メヌエットにおける空白部を、私は1825年と2017年の間のどこかに位置する曖昧な方法で埋めた。フィナーレは明らかに内省的で「現代的」だが、それにもかかわらず、ソナタの他の3つの楽章や、アウグスト・フォン・プラーテン(1796-1835)の詩による2つの歌曲《貴方は私を愛していない D 756》《愛は裏切られ D 751》を引用している。この補筆(2016-17)は、ロンドン王立音楽アカデミーでジョアンナ・マクレガーから紹介された彼女の弟子、イェフダー・インバールの委嘱により作曲された。(マイケル・フィニッシー)
小林純生:《ポホヨラの火の娘たち》(2023、委嘱新作)
この作品において最も重視されているのは、幻覚的な作用をもたらす音群を論理的に構成することである。シェパード・トーンと三全音パラドックスと呼ばれる二つの特殊な音響が用いられており、音が上行しているのか、下降しているのか、分かりづらく、聞きながら辿っていく音階は気付けば別の位置に存在する。幻覚をもたらすというと、不快なものにも捉えられるかも知れないが、この作品ではむしろ、特徴的な美学を想起させることを目的として幻覚が用いられている。
幻覚で描かれるのは、フランスの作家、ジェラール・ド・ネルヴァル的な書法での、火のように不定で捉え難い、混濁して歴史によって色褪せた記憶と焦燥した意識下の描写による、女性である。ネルヴァルは、幸か不幸か、先天的にこういった描写が可能だった人物であり、今なお比類ない書法をもった作家だと言える。この作品はそういった生まれつきの書法を後天的に再現しようとしているとも考えられるだろう。ペダリングに関しては演奏者に委ねられているが、その一方で、幻覚的作用を実現するために正確な音量のコントロールが求められている。(小林純生)
小林純生 Sumio Kobayashi, composer
1982年、三重県菰野町生まれ。三重県私費海外留学生奨学金を受け、英国ケント大学博士後期課程修了、博士(言語学)。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011/韓国)、ICOMS国際作曲コンクール (2011/イタリア)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012/英国)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015/フランス)、ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)、ブロツワフ国際作曲コンクール(2016/ポーランド)等に入賞・入選。アイコン・アーツ現代音楽際 (2013/ルーマニア) 、武生国際音楽祭 (2010/2013/2014)、統営市国際音楽祭 (2015/韓国) 、メロス・エトス国際現代音楽祭(2015/スロバキア)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、アンサンブル・ミセーエン等により作品が演奏されている。日本大学芸術学部専任講師。http://sumiokobayashi.com/
小林純生・作品リスト(音源リンク付)
作品集プレイリスト https://www.youtube.com/playlist?list=PLiLOOaD1cYsNtIwGsIubxM4mPC95rwir-
駆ける緑、うねる青 (2009) 11.5'
ピアノ五重奏のための
アメジストの樹の上から (2010) 12.5'
フルート、オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、チェロとピアノのための
草とサファイアの平原 (2011) 11.5'
オーケストラのための
雪のなかのヒバリ (2012) 13.5'
フルートと弦楽オーケストラのための
馥郁たる月の銀色のノート (2013) 10'
フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとハープのための
https://www.youtube.com/watch?v=8fm4dESwHTI
水中の雪 (2014) 15'
クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスとピアノのための
https://www.youtube.com/watch?v=3X7mkss2vm0 (抜粋)
水が咲いて (2014) 15'
フルート、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとピアノのための
森から聞こえるのは… (2014/2015)
リコーダーのための
https://www.youtube.com/watch?v=HJG6lYJXduQ
レクイエムズ (2015) 10'
オーケストラのための
《フーガ ~ モーリス・ラヴェルを頌して》(2016、大井浩明委嘱作) https://www.youtube.com/watch?v=N-zYvn721do
ファンタジー I・II (2016) 6' 6'
ヴァイオリンのための
小人の音楽 (2016) 15'
オーケストラのための
ノスタルジア (2018) 11'
フルート、クラリネット、ピアノとヴァイオリンのための
https://www.youtube.com/watch?v=fU0fLz8VFoQ
ミラージュ (2019) 10’
ヴァイブラフォン、ヴァイオリンとチェロのための
アンリアル・レイン (2020) 5'
ピアノのための
https://www.youtube.com/watch?v=wXjiC8IRC3o
オープン・ユア・ストリングス (2023) 4’
弦楽オーケストラのための
https://www.youtube.com/watch?v=mxQwD65vURI
ロマンス (編曲作品 2023) 8’
ピアノのための
https://www.youtube.com/watch?v=s-k4oJkO72c
シューベルトに魅せられた人々、受容史の万華鏡
白石知雄(音楽学)
シューベルトはヨハン・シュトラウス父子と並ぶ生粋のウィーンっ子、古都の秘蔵っ子として愛されているが、人なつこい外見の裏に未完成交響曲や「冬の旅」の荒涼とした闇が口を開いている。同主長短調のポジとネガのような反転は、優しさと孤独が背中合わせであることの端的な表現に聞こえる。しかも31歳で生涯を終えてから10年以上、重要な作品が埋もれていた。没後の評価を含めてのシューベルトであり、実像と後世の虚像を簡単には切り分けられない。以下、その概略を俯瞰してみよう。
フランツ・シューベルト(1797〜1828)の父親はウィーン近郊で小学校長を務める名士で、フランツ少年は王宮礼拝堂の合唱団員に選ばれて、宮廷音楽家サリエリから特別レッスンを受ける優秀な生徒だったが、ナポレオン戦争後の不景気もあり定職が見つからず、友人の家を転々とする。
ただし歌曲や舞曲、ピアノ小品は生前にウィーンで順調に出版・演奏されていたことがわかっている。三大歌曲集に現れる弱々しい自己愛は、ドイツ文化史で言う「新興市民の微温的ビーダーマイヤー」なのか、凡庸を嫌うロマン主義の価値反転なのか。そして交響曲やソナタを書き続ける諦めの悪さは、弱々しい自己愛と順接するのか逆接するのか。シューベルトの「実像」のわかりにくさは、このあたりに帰着する。
シューマン、リスト、ベルリオーズなどシューベルトの没後1830年代にデビューした若い世代の態度は明快で、彼らはロマン主義の名の下に、シューベルトを独創的な「器楽」の先駆者として評価した。
リストは歌曲のピアノ・トランスクリプションを量産して、「さすらい人」幻想曲を華麗な協奏曲に作り替え、ベルリオーズは「魔王」を管弦楽伴奏に編曲した。歌曲から言葉を引きはがし、圧倒的な超絶技巧や極彩色の楽器法でシューベルトを「絶対音楽」「言語を越えた王国」に迎え入れる。ライプツィヒでは、シューベルトの「大ハ長調」交響曲発掘・初演(1839年)に関わった2人が、「大ハ長調」と同じように金管楽器の主題ではじまる「春の交響曲」(シューマン、1841年)とカンタータ交響曲「讃歌」(メンデルスゾーン、1840年)を書いた。パリのドイツ派、ドイツのベートーヴェン主義者は、いずれもシューベルトに敬意を払った。
1850年生誕100年のバッハ全集を皮切りに、19世紀後半、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は大作曲家の作品全集を次々出す。シューベルトの作品全集は没後百年の1897年に完成した。
ブラームスは傑作と凡作をいっしょくたにする「作品全集」という出版形態に懐疑的だったとされるが、案の定、量は質に転化する。室内楽や宗教音楽の全貌が知られて、シューベルトの評価は、「ロマン派の先駆者」から「最後の古典派」、ベートーヴェンに匹敵する「本格派」へと塗り替えられた。そして「シューベルトはロマン派か古典派か」という果てしない議論がはじまるのだが、「古典的vsロマン的」のヘーゲル風観念論はともかく、シューベルトが18世紀の音楽文化と地続きの素養を持っていた可能性は考察に値するだろう。寄宿学校時代にサリエリの個人指導を受けたとき、その場にどんな楽器があったのか。フォルテピアノかチェンバロか、あるいはクラヴィコードだったのか・・・。ヴァイオリンとクラヴィアが親密に語り合う初期の愛らしいニ長調ソナタ(二つの楽器は室内楽としても異例なほど「距離が近く」感じられる)や、指先が鍵盤上を転げ回る変ホ長調の即興曲(指先で愛でる無窮動のミニチュア感はショパンの即興曲につながる)は、ずんぐりしていたと伝えられるシューベルトの体型だけの問題ではないかもしれない。
19世紀に「大作曲家」の作品全集(いわゆる「旧全集」)はケルンの大聖堂やベルリンのフリードリヒ大王馬上像と同根で、「音楽の国」ドイツ帝国のナショナル・アイデンティティの誇示と総括されても仕方がない面がある。
一方、第二次大戦後に出版社と研究機関が総力をあげた「新全集」は、CERNやNASAの大規模プロジェクトを連想させる。O.E.ドイチュの一連の「ドキュメント」は、足で稼ぐ犯罪捜査に似た実証主義の極みだが(楽譜の年代特定には新バッハ全集でおなじみの筆跡鑑定・透かし調査が威力を発揮)、膨大なデータを蒐集したのは、その先に19世紀的観念論とは水準の違う理論的・美学的「発見」があると信じられていたのだと思う。
事実、新シューベルト全集の編集主幹W.デュルは、「声楽における言葉と音楽には不可避的なズレがあり、それが声楽に豊かさをもたらす」という主張を言語学で補強しながら展開した(『19世紀のドイツ独唱歌曲』)。K.シュトゥッケンシュミットからベルリン工科大学音楽学講座を引き継いだC.ダールハウスは、「主題的コンフィギュレーション」というドライな言い回しでシューベルトのト長調の弦楽四重奏曲を分析した。極端に鋭い付点リズム、ゼクエンツ風の半音下降、同主和音への反転などの特徴的なパラメータの束が、まるでデジタル機器の「カスタム設定パネル」のように舞台裏で楽曲を制御しているという見立てである。この分析はダールハウスが準備中だったベートーヴェン論(『ベートーヴェンとその時代』)の副産物で、後期ベートーヴェンとシューベルトがほぼ同等の抽象度で音楽を捉えていたという歴史的な見取り図が議論の背景にある。
戦後西ドイツ学派の楽曲分析はちょっと偏屈で高精度な職人芸、ライカのレンジファインダー機のようなところがある。シューベルトの「冴えない豊かさ」は楽曲構造、音楽思考の問題でもある。
20世紀末から音楽論・音楽研究の焦点は社会史とメディア史(音が織りなす構造体としての音楽というより、人間たちの行為・交流としてのミュージッキング)に移っている。帝国のエリートたちを夢中にさせた詩と音楽の会とは、具体的にどういうものだったのだろう。サリエリの弟子シューベルトと引退した宮廷歌手フォーグルがそれほどおかしな演奏をしていたとは思えないが、衆人環視のショウアップされた「本番」ではなかっただろう。現在の音楽会にその空気感を蘇らせることはできるのか。歴史情報化(Historically informed)されたシューベルティアーデを体験してみたい。
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1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33165344/
2023-12-12T07:52:00+09:00
2023-12-29T03:40:35+09:00
2023-12-04T12:29:35+09:00
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ショパンの轍
大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ(表・裏)
〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
■エロルドとアレヴィの歌劇《リュドヴィク》の「私は聖衣を売る」
の主題による華麗なる変奏曲 Op. 12 (1833) 8分
●ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831) 5分
●3つの華麗なるワルツ Op.34 (1835/38) 12分
第1番 変イ長調 - 第2番 イ短調 - 第3番 ヘ長調
■タランテラ Op.43 (1841) 3分
●ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840) 4分
●3つのワルツ Op.64 (1846/47) 8分
第1番 変ニ長調「仔犬」 - 第2番 嬰ハ短調 - 第3番 変イ長調
(休憩15分)
●2つのワルツOp.69 [WN47/WN19] (1835/29) 8分
第1番 変イ長調「別れ」 - 第2番 ロ短調
■演奏会用アレグロ Op.46 (1841) 12分
●3つのワルツOp.70 [WN42/WN55/WN20] (1832/42/29) 8分
第1番 変ト長調 - 第2番 ヘ短調 - 第3番 変ニ長調
●ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. [WN29] (1830) 3分
■舟歌 Op.60 (1846) 8分
■ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11 第2楽章〈ロマンス〉+第3楽章〈ロンド〉
(1830/1873/2023) [C.ライネッケ/米沢典剛による独奏版] 20分
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
サロン――あるいはワルツのアポテオーズ
山村雅治
1
ショパンの音楽は三つの歴史的背景がある。その第一の背景は国家ではなく国際的な広がりに求められた。若いショパンは彼の「ピアノ協奏曲 第一番」を演奏することによって、ワルシャワ、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、パリの音楽家と聴衆に認められようと望んだ。しかし彼の弾くピアノの音は小さく、大きな会場を満たすことはできなかった。この国際的な背景からショパンが退いたのはきわめて若いころのことであり、彼が名声を得た時期には、ほとんど完全にそこから身を引いていた。
彼がサロンで名士を相手に、あるいはまれではあるが公開の席で名士を相手にするとき、そのスタイルは音楽会場で人気があるヴィルトゥオーゾたちのそれとは似ても似つかぬものだった。ときには小編成の伴奏アンサンブルか第二ピアノ奏者を伴って「協奏曲」の中間楽章が演奏されたものの、それは他のヴィルトゥオーゾたちの「協奏曲」に迫力において匹敵しうるものではなかった。
第二の背景はポーランドだ。とりわけワルシャワの教養ある、国家意識の強い上流社会にかぎられていた。この背景からポロネーズとマズルカが、そしてバラードとポーランド語の詩をうたった歌曲がうまれた。彼の父親が教職を得て、一家がワルシャワに移ったころにはショパンはまだ幼かった。ショパンの父親はフランス人であり、ロシアやポーランドでの上流社会の会話はフランス語で交わされた。そしてショパンは、ポーランドがその苦闘の絶頂と領土併合の苦悶のさなかにあったとき、フランスに滞在したままだった。
国民主義的と呼ばれてきたショパンの音楽には「英雄」を気取ったところは微塵もない。郷土舞踊家が身に着ける派手な衣装もみつけることができない。花も実も葉も落とし去った裸木の姿があり、そのたくましさに感嘆するだけだ。ショパンにおけるポーランドの要素は、リストの場合のハンガリーの要素と同じく「ヨーロッパ風」(もしくはパリ風)に洗練されていている。ショパンのポーランド的背景は必ずしも「最も重要な」ものではない。ポーランドに対する同情、共感と、意識しての国民楽派的な作風は、ロマンティックといえるにしても、それとは裏腹な誠実さをもつ。
第三の背景はパリとそのサロンが現れる。彼と彼の友人の優雅な部屋であり、それに加えてジョルジュ・サンドと二人で過ごしたノアンの夏。この背景をもつ作品がノクターンとワルツになる。これらを「愛玩犬ショパン」と評されたこともある。これらが移り気な独創的な和声を含み、しかもそれらがロマン派の詩―華麗であるとともに内省的な詩にぴったりと対応するものとして、ショパンのさらに感銘深い曲と肩を並べているからだ。
この同じ背景をもつ作品には練習曲、スケルツォと前奏曲がある。これらは単に「国際的演奏会の産物」「ポーランドの産物」、また「フランスの産物」であるだけでなく、高度に独創的な精神の産物であり、それでもこれらの曲は主としてパリと関連のある時代と社会の産物でもある。
2
1831年にショパンはパリにやってきて、すぐさま音楽活動をはじめた。オペラを楽しみ、ロッシーニやケルビーニ、宮廷指揮者のパエルらに会った。パエルの紹介でパリ随一のピアノの名教師カルクブレンナーにめぐりあった。弟子入りはしなかったが、カルクブレンナーはショパンのために演奏会を開いてくれた。
「ワルシャワから来たフレデリック・ショパン氏による大演奏会」は何度か延期されたのち、1832年2月26日にプレイエルの小ホールで開かれた。亡命ポーランド貴族が喝さいを送り、メンデルスゾーンやリストも来場し、音楽雑誌にも好評が載ったが、入りは3分の1程度で収入は少なかった。
5月にはパリ音楽院ホールで慈善演奏会に出演し、「協奏曲第1番」を弾いたがまたもや「ピアノの音量が小さくてよく聞こえず」、しかも「管弦楽書法も不十分だ」と批判された。ショパンは次第に、自分はロッシーニのようなオペラ作曲家としても、リストのようなコンサート・ピアニストとしてもやっていけないことを悟るようになる。
彼が訪れたパリは、革命時代のまったく古いパリとはちがっていた。21歳の彼がパリに引きつけられたのは、ウィーン会議後にほとんどの上流・中級階級のポーランド人たちが亡命した都市だったからだろうか。それが第一の理由ではないにしても、彼がフランスに到着するや、ただちに交際を求めた最初の人びとは彼らだった。
ショパンがフランス人の裕福な家庭にはじめて紹介され、そのサロンで自分の作品を弾いたり、その子女に最高の謝礼で教えることになったのは、ロッシーニやカルクブレンナーといった音楽家よりも、亡命したポーランド上流階級の人びとのおかげだっただろう。ヴァレンティン・ラージヴィル公爵は、彼をパリのロスチャイルド家に紹介することで社交界と財政面での成功を確保してやり、フランスからさらに他国へ移住するという考えを一掃してしまった。パリに住むショパンの同胞のなかで彼ほどに裕福な暮らしをしているものは少なかった。
ロスチャイルド家はドイツ系ユダヤ人の銀行家一族で、ドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、フランス各国で事業を展開している。パリのロスチャイルド男爵のサロンで演奏したショパンは、男爵夫人から弟子入りを志願された。噂はまたたく間に社交界に広がり、多くの上流階級の貴婦人たちがショパンの個人レッスンを受けることになった。リストはパリ時代のショパンを「貴族のご落胤のよう」と評した。ワルシャワ時代のショパンは、アマチュア劇団に属する役者志望の少年だった。パントマイムや物真似の名人で、戯画を描くのもうまかった。パリの上流階級に出入りするショパンは、もしかすればかなり計算された彼なりの見せ方だったかもしれない。退路を断たれたショパンは、なんとしてもこの花の都で生きていかなければならなかった。
ロンドンやウィーンでは、音楽はまだ貴族の掌中にあったが、たびかさなる革命で貴族による音楽活動が停滞していたパリでは、中産階級が貴族のようなサロンを開くなかで文化面の社会的進出を果たしていった。サロンが文化を生みだす時代はここに始まった。
サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、うまくピアノが弾けるヴィルトゥオーゾが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような優れたピアニストはパリの最上級の貴族たちが住むフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、1840年代にはいると彼らのコンサートに貴族たちも来るということになった。かつてはあり得なかったふたつの階級がここで顔を合わせて、新しい文化を創造する基地になった。
こうした状況はショパンにとっては都合がよかった。彼は公開演奏会の大きなホールでは大音量を出せないために、自己評価するほどの成果はあげられなかった。彼のピアノ演奏の美点は、繊細なニュアンスの変化、軽やかにして、ときに地底をも貫く重さをもつタッチの妙は、洗練された感覚をそなえる人々がつどう社交の場「サロン」でこそ真価を輝かせた。ショパンは、自分のことを知らない人々に向かって演奏すれば、ひどく気後れがして自分を満足に表現できなかったという。その意味でも、サロンの少人数の親密な空間がもっともショパンにふさわしい演奏の場だったといえるだろう。パリに滞在していた18年の間、彼がホールと名がつく場で演奏したのはいくつほどか。
3
ショパンの主要作品の多くはパリ時代にはいってから書かれている。ワルシャワ時代との大きな違いは作品の規模だろう。ウィーンでの成功を夢見ていたころは、協奏曲をはじめとしてオーケストラを伴う大規模な作品を5曲も書いている。パリに来てからもしばらくは新しい協奏曲を構想していたかもしれない「演奏会用アレグロ」が名残としてあるけれども、サロンの規模になじみ、より規模の小さなピアノ一台の曲に集中していった。
それはショパンが公開演奏会で多くの聴衆を圧倒しうならせる「ヴィルトゥオーゾ」から、よい趣味をもつサロンに集まる人びとに音楽を届けるピアニストへと昇華した証だった。
ノクターンはささやきかけるような旋律に沿って精緻な和声を聴かせる。それはサロンでのピアノ演奏の大きな武器になっただろう。ワルツもまた、ウィーンで流行していたような「踊るためのワルツ」ではなく、優雅で洗練された芸術作品として創造された。
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ショパンのワルツの作曲は生涯の全般にわたっている。しかし生前に出版されたものはわずか8曲。最初のワルツの出版は、パリの生活をはじめた3年後の1834年まで待たなければならない。
ワルツ出版を遅らせたのは、成功を夢見て挫折したウィーンでの体験があったからだろう。20歳で訪れた2度目のウィーンでは演奏の機会は容易には手にはいらなかった。「自分の音楽が望まれないのは、人びとの趣味がシュトラウス・ファミリーのワルツだからだ」と手紙に書いている。
しかし、パリではじまったサロンでの音楽生活のなかでショパンはワルツを発表しはじめる。彼は「踊らないワルツ」を書いた。それらは気品と洗練を愛するサロンにつどう人たちの耳を奪った。
ノクターン、マズルカ、練習曲を集中して作曲した1831年から1833年にかけて完成させたのが「華麗なる大円舞曲」作品18だ。
ワルツは全19曲あり、その順番は作曲された順番に番号がつけられていない。
ショパンが生前に出版したのは作品18につづいて、作品34の3曲は1835年と1838年につくられて1838年に出版された。作品42は1840年に作曲、出版。作品64の3曲は1846年から1848年にかけての作品。第8番にあたるワルツが生前に出版された最後の作品になる。
フォンタナによってまとめられた未発表のワルツは5曲ある。作品69の2曲。69-1は「別れのワルツ」として名高い作品で、1835年、マリア・ヴォジンスカとドレスデンで楽しいときを過ごしたあと、別れるときにこの楽譜を渡した。 69-2はワルシャワ時代の1829年の作品で、パリ時代の華やかさはまだない。作品70の3曲は1832年、1842年、1829年の作品。これら5曲はそれぞれ1853年と1855年に出版された。ここまでで13曲だ。14番は1830年に作曲したワルツである。 いまだ郷里ジェラゾヴァ・ヴォラにいて、華やかな演奏技巧で名をあげようとしていた時期の作品で、出版は死後の1868年だった。
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12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]
http://ooipiano.exblog.jp/33142055/
2023-12-05T02:39:00+09:00
2023-12-05T02:39:43+09:00
2023-11-05T16:10:44+09:00
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Schubertiade vonZzuZ
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円 5公演パスポート 18,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【第2回公演】 2023年12月8日(金)19時開演(18時半開場)
B.ポゼ(1965- ):《ミニュット5》(2021/23、世界初演) 2分
F.シューベルト:《4つの即興曲 D 899》(1827) 26分
I. Allegro molto moderato - II. Allegro - III. Andante - IV. Allegretto
B.ポゼ(1965- ):《ミニュット6》(2021/23、世界初演) 2分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第14番イ短調 D 784》(1823) 20分
I. Allegro giusto - II. Andante - III. Allegro vivace
(休憩10分)
横島浩(1961- ):《マッシュプローム Maschubroom》(2023、委嘱初演) 8分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第18番ト長調「幻想曲」 D 894》(1826) 31分
I. Molto moderato e cantabile - II. Andante - III. Menuetto / Allegro moderato - IV. Allegretto
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
横島浩:《マッシュプローム Maschubroom》(2023、委嘱新作)
音楽史における引用技法の歴史は長い。オルガヌムの発生からして「引用」作品といえるだろうし、中世ルネサンス時代のパロディ・ミサなど引用元を隠してクイズのように提示しているものもある。オケゲム《ミサ・ミミ》の引用元など、20世紀終末になり明らかになったという例もあり、そのような場合作曲家としての存在意義はどのような立ち位置になるのだろうか、私たちにはなかなかわかりづらい。
19世紀末から興ったリコンポーズ作風は、前提的「引用」手法の前夜であったう。ストラヴィンスキー・シェーンベルク・ウェーベルンなど当時の前衛作曲家のほかに、レーガー・レスピーギ・エルガー等が古典曲を自家薬籠中し自己の独自性をアピールした。戦後はコラージュや素材としての引用が主流となったが、ポストモダン期に入ると、素材原曲のイメージを優先し残しつつ「幻惑」というキーワードで聞き手を引きこむという手法も現れた。今回の私の作品もその部類に入るものだろう。
原曲の基本和音から第7~15倍音全てを根音から拾い上げて、次第にそれらをカットしてく作法による。倍音の鳴り方が現代ピアノより独特な古楽器で、どのような効果が生まれるのかが楽しみである。(横島浩)
横島浩 Hiroshi Yokoshima, composer
1961年長野県生まれ。武蔵野音楽大学大学院(作曲)修了。作曲を池本武、竹内邦光、田辺恒弥の各氏に師事。シアターピース《C.P.E.タイムス》により第5回日本現代音楽協会新人賞入選(1988)。室内楽《モードへのオード I》により第58回日本音楽コンクール入選(1989)。室内楽《インヴァッディオン》により第7回日本現代音楽協会新人賞入選(1990)。《グラーヴェより遅く》により第74回日本音楽コンクール作曲部門第1位、併せて明治安田賞(2005)。
1990年、作曲家グループ「TEMPUS NOVUM」創立メンバーに加わる。2011年、2015年に作曲個展を開催。現在、福島大学教授。
ブリス・ポゼ:《ミニュッツ MINUTES》(2021/23)
ピアノのための《MINUTES》は、1時間=60分というテーマで60曲を作曲すると云う、故・シュトックハウゼンのプロジェクトに部分的に呼応しています。彼の連作は、1日=24時間に基づく24曲の《クラング》に続く筈でした。
私の作品では、フランス語の「Minute」という語の少なくとも3つの意味を生かすようにしています。すなわち、時間の単位、幾何学の角度の単位、そして(法律行為の)原本です。
作曲プロセスにおいては、3つの意味が考慮され、連作自体と個々の断片の間の弁証法的関連において結晶化されます。それぞれ約1~3分の60曲のつらなりは、瞬間的な主観性の集合全体の途中に位置します。
非常に短い作品で構成された長い連作の作曲は、大変特殊な技術的かつ美学的な問題を提起します。すなわち、何かを繰り返すたびに、膨らんでいく全体との接触を維持することが問題となるのです。ある意味、それは作曲家の創造的反射神経と衝動を記録した作品のようなものです。私はさらに、各曲の作曲と並行して、その作曲のプロセスにおける、特定の「世界の状態」をたどってマッピングすることを意図した、一種の作品日記を書き始めました。すなわち、自宅近所の写真(特に、各曲の作曲終了時にいつも同じ場所で撮影した小川の写真で、できるだけ「現実の生活」に即した気候変動を記録するものです)や、新聞記事の抜粋、作曲時に読んだり調べたりした文章、作曲時に観た芸術作品のことです。
今回演奏される各曲は、一種のインスタレーションないし展示といった感じで提示しているので、これを聴きなが、ら2024年末頃に予定される全曲完成版を思い描いてみてください。
この作品は1810年代から1820年代初頭にかけてのウィーン製のピアノのために特別に構想されています。よって、様々な音響的変化(ウナ・コルダ、モデレーター、ダブル・モデレーターや複数の効果の組み合わせ)を加えるとと、位相的な距離をシミュレーションすることが非常に容易になり、現代のグランドピアノのよりもはるかに効果的になります。
《MINUTES》はまた、音楽学者のロザモンド・ハーディングへのオマージュでもあります。彼女は楽器学、美学、美術史研究における驚くほど謙虚な人物でありました。彼女の著作、《ピアノフォルテ》(1931)は当時このテーマに関して非常に先端を行く研究成果で、《インスピレーションの解剖学》(1940)もまた今日においてもなお示唆に富み、アイデアを与えてくれる著作だと思われます。(ブリス・ポゼ、訳/中西充弥)
ましてや今は遠き世に――器楽の「復元」という試み
杉本舞(関西大学准教授)
今でもよく覚えている。あれは私が中学生の頃、当時師事していたピアノ教師からベートーヴェンのソナタ第1番 Op.2-1 を課題に出されたときのことだった。レッスンで指導を受けた後、自宅のグランドピアノでおさらいをしながら「なんでこんな曲なんだろう」と思ったのだ。ベートーヴェンの作品は総じて好きだった。第1番も気に入って、よく練習していた。なのに、弾けば弾くほどしっくり来ない。なんだか「うまくない」。飛んだり跳ねたり転がったりする音の流れに、教師の言うとおりのメリハリをつけて弾くのだが、何故か「鳴り過ぎているのにスカスカ」というような訳の分からないことになってしまう。それはもちろん、そもそも自分の演奏が下手糞すぎるからには違いないのだが、ピアノ教師の模範演奏を聞いても、市販のCDを聞いても、何かがちぐはぐのまま残るのである。どんな演奏なら自分の感覚にしっくりくるのかわからない。ベートーヴェンは何故こんな、どう弾いてもしっくりこないような曲を書いたのか。「ピアノソナタ」なのに、はたしてこの曲はピアノという楽器に寸法が合っているのだろうか。あるいはベートーヴェンのピアノソナタ自体がそもそも「こんなもの」なのか。それとも自分の感覚が変なのか。……結局、好きな曲なのに好みの演奏に出会えないまま曲のレッスンは終わってしまい、ただ漠然とした違和感が頭の片隅に残ったのだった。
ところが、2008年に大井氏がヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノでこのベートーヴェンのソナタ第1番を演奏するのを聴いたとき、それまでの十数年間に及ぶ疑問はあまりにもあっけなく溶け去ってしまったのだった。シュタインのフォルテピアノは、飴細工のような質感の、みやびで繊細で大きすぎない、よく響く音を出していた。モダン・ピアノとはまったく違う方向性の表現力。モダンに比べて、ダイナミックレンジが制限されているのだけれど、それが良い。残響が大きすぎず、わりと歯切れがよく、しかし鋭すぎないのが良い。フォルテピアノ上では、少ない音で構成されたシンプルな曲想は、鳴り過ぎることも切れすぎることもスカスカになることもなかった。形容しがたい艶のある音で綴られたソナタ第 1 番は、まさしく楽譜上の表現の「寸法通り」だった。「なんだ、そういうことだったのか」と思った。何のことはない、単にこの曲はピアノ―モダン・ピアノのための曲ではなかったという、ただそれだけのことだったのだ。
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ロンドンの科学博物館に、1991 年に復元された一台の機械式計算機が展示されています。この機械は、もとはイギリスの数学者チャールズ・バベッジが 1847 年から 49 年にかけて設計したものです。航海用の天文表を効率よく計算したいという動機から計算機の製作を企画しはじめたバベッジは、結局生涯をかけてその作業にのめりこみ、何台もの試作機と大量の設計図を残しました。博物館の技術部が 6 年半をかけて復元したのは、設計されたもののついに組み立てられることのなかった「第二階差機関」と呼ばれる複雑な機械で、手回しで動き、計算だけでなく印字まで行う機能のあるものでした。技術部は当時の技術水準や、実際に製作されたならば利用されただろう材料を慎重に判断しながら何千個もの部品を組み立て、これを動作させることに成功しました(*) 。
博物館では、歴史的な文化財を補修・補完したり、あるいは古い文化財を分析してその製作工程を明らかにし、同じものを新しく製作する、「復元」とよばれる作業がしばしば行われます。こういった復元には、文化財の保存という目的があるだけでなく、それ自体が歴史研究の一環として行われるという側面があります。技術史の研究でも、古い設計図やスケッチに基づいて、作者の意図した事物を当時の条件にできるだけ忠実に復元する、実験的試みが行われることがあります。こういった試みが行われるのは、その事物が実際に製作可能なものであったのかどうか、またそれがどのような機能をもっていたのかといった、紙に書かれたことを分析するのではわからない事実や作者の意図が復元から明らかになることがあるからです。たとえば、先に述べたバベッジの計算機復元では、設計図を見るだけではわからなかった内部機構の機能や、バベッジの設計が当時の技術水準でおおむね実現可能であったということなどが判明し、バベッジ研究に進展をもたらしました。
ただ、どれほど当時の技術水準を吟味して再現し、どれほど精密さを期そうとも、出来上がった復元物は作者が当時作ろうとしたもの(もしくは作ったもの)そのものではありえません。材料調達や取るべき手順の決定など、その作業はしばしば困難です。それでも復元が試みられるのは、紙に書かれた情報を五感でとらえられる形へと具現化することで初めて「わかる」何かが確実にあるからです。それが「復元」とよばれるあらゆるプロジェクトの肝だと言って良いでしょう。
また、こういった研究手法は、とりわけ科学史・技術史の場合には、歴史的事物を当時の文脈に置き、現代的な後付けの視点からは解釈しないという科学史・技術史研究の基礎的態度に、慎重に裏打ちされなければなりません。われわれは、今の科学・技術の水準を「高み」であるとみなし、人類がそこに向かって直線的に知識を蓄積してきた、あるいは科学研究・技術開発を行ってきたと考えがちです。現代の技術に比べて、過去の技術には何が「足りなかったか」という視点を持ってしまうことが往々にしてあります。しかし、実際には過去の事物と現在の事物はそれほど簡単には比較できません。事物の歴史的評価は、その時代の社会的・思想的背景を含む、複雑な関係性のなかに位置づけながら行わなければならないからです。現代の主流・常識が、過去の主流・常識であったことが、まず無いと考えられる以上、過去の技術を一概に「足りなかった」とはいえないのです。
さて、作品を作曲当時にできるだけ近い状況・環境・文脈に置いて再現を試みるという意味で、古楽の演奏会は、上述の「復元」プロジェクトに似た構造を持ちえます。その時々の鍵盤楽器のために書かれてきた作品について、歴史的に真価を問おうとするならば、現代的な後付けからの解釈――モダン・ピアノに密着した解釈から離れてみる必要があります。フォルテピアノはモダン・ピアノとは似て非なる楽器です。作品そのものと作曲当時に使用されていた楽器は、本来切り離すことはできません。作曲当時により近い条件で作品を演奏すれば、楽譜だけ、あるいは楽器だけを観察・分析するだけではわからなかった何かが立ち現れる可能性があります。たとえ歴史的な価値を問う気がなくても、作曲者の意図を知りたいならば、作品を歴史的な文脈の中に置いてみるべきです。歴史的文脈の網目の間には、作品の中には直接書かれていないある種の空気が満ちており、作品のありようはその空気に決定的に影響されているからです。
とはいえ、事態はより複雑です。なぜなら、器楽は楽器、作品、作曲者、演奏者、聴衆という多数の要素が絡み合って構成されたものであり、作品は本来、その網目の中で意図を与えられ演奏されてきたものであるからです。いざ楽器と演奏者をもってきて当時の状況を再現しようとしたとき、そこには単なる古物や古い機械の復元の範囲を越えた、独特の問題が立ちふさがります。
大前提となるのが、まず楽器の再現性の問題です。これはあらゆる「復元」につきまとう課題ですが、古楽器を含む歴史的機械が、本当に当時使われていたそのままの状態で復元されることは、まずありえません。これは長年保管されていた古楽器を用いる場合も同様です。楽器には日々のメンテナンスの手順や頻度、老朽化に伴う補修に使われる技術などが必要ですが、これらは長年の間に必ず何らかの変化をこうむっています。機械にまつわる暗黙知は決して保存されえません。これは避けがたいことです。また、補修やメンテナンスに必要な材料(たとえば木材や金属材料など)も、当時のままというわけにはいきません。
楽器に様々なバージョンがある場合には、どの楽器で演奏するかという問題も重要です。たとえばベートーヴェンはウィーン式とイギリス式の両方のフォルテピアノを所有していました。ベートーヴェンがどの楽器を好んだのかというのは興味深い問題ですが、ベートーヴェン作品の行間ならぬ「五線譜間」の意図を明らかにするには、ウィーン式だけではなくロンドン式のフォルテピアノで演奏され、比較される必要があるかもしれません。また、「採用されなかった」「好まれなかった」と言われる楽器に注目することも大切です。最終的に採用されたり、主流になったりしたものは、歴史の中で選ばれるべくして選ばれたのではないことも多いからです。
次に、演奏法の再現性です。言うまでもなく、楽器の演奏法は(楽器製作と同じく、もしくはそれ以上に)暗黙知の塊です。その曲を弾くとき、どのように身体を使うべきであったのかは、伝わっている伝統的奏法、史料や作品の分析、楽器の機構による制約、そして自分の身体そのものによる制約などから推測するしかありません。
ただし、器楽の場合、楽器の機構による制約そのものが復元を試みる際のヒントとなっている側面はあるでしょう。作曲当時の演奏は、鍵盤の幅や弾いたときのタッチ、ダイナミックレンジといった、当時使われていた楽器の特徴や制約のなかで可能な表現であったはずです。その点、楽器を使わず声だけを使った芸能などでは、復元が難しいことが少なくありません。たとえば日本の伝統芸能である能は、現在ではゆっくりとした重い曲調や、強吟と呼ばれる唸るような謡い方で特徴づけられていますが、室町当時は曲によっては現在の半分以下という遥かにスピーディな上演時間であったそうですし、強吟という謡い方は存在しなかったと言われています。江戸期を通じて変化した能の上演スタイルの元の姿は、現在のそれとはかけ離れたものだったのです。しかし、史料も少なく、機械による制約といったようなヒントも残されていない今となっては、かつての姿の再現はおそろしく困難な試みとなっています。
第三に楽器と演奏者をとりまく環境の再現性です。楽器はどこに置かれたのか。それはどれくらいの大きさのどのような部屋だったのか(もしくは戸外だったのか)。聴衆は何人くらいで、どこに座り、何をしながら(あるいは何もせずに?)聴いていたのか。作曲者はこの曲がどのような環境で弾かれることを想定していたのか、そして演奏者が実際どこで弾いたのか。聴衆なしに音楽がありえない以上、本当に当時の状況を再現するならば、この要素を無視するわけにはいきません。
しかも、フォルテピアノの場合、座る位置の微妙な差異でモダン・ピアノとは比べ物にならないほど聞こえる音に違いが出ます。2008年7月に大井氏によるアントン・ヴァルターのフォルテピアノ演奏(於:京都文化博物館別館ホール)を鑑賞した際、会場内で座る場所を変えると、別の楽器かと思うほど聞こえる音に差がありました。演奏者側の前から 2 列目に座って聴いたときは、音はどこか少し遠くで鳴っており、強弱もそれほど感じられず、趣味良く可愛くこじんまりした印象があったのですが、そののち席を替え反響板側で残りを聴いたところ、音量は大迫力、機構の動作音も聞こえますし、強弱のメリハリに至っては明らかに作品の差を超えた違いでした(大井氏によれば、楽器の中に頭を突っ込んで聴けば、さらに違う音が聴けるとのことです)。座る場所がたった数メートル変わるだけで明らかな差が出るということは、フォルテピアノがモダン・ピアノと同じ環境で聴かれた楽器ではないということを示唆しています。
結局のところ、当時の状況の完璧な「復元」は不可能なのです。多数の要素の絡み合った「器楽」というものの構造、さらには演奏者がこれまで受けてきた教育課程や、聴衆の音楽経験や期待といった、演奏とその鑑賞に影響を与えるさまざまな社会的条件が、事態をさらに複雑にしています。しかし、それを承知のうえで敢えて器楽作品の「復元」を試みることに意味があるのは、楽譜に書きようのない、現代的演奏では欠落してしまう何かが、その試みの中で緩やかに立ち現れるからにほかなりません。堆く積みあがった解釈と変革の上にあるモダン・ピアノによる音楽は、それはそれ自身として価値のあるものです。しかし、ひとときそれを忘れて、モダン・ピアノに無いきめ細かな音の膚触りや、現代とはまったく異質の美意識を味わうとき、我々は作曲者の語る言葉なきメッセージに一歩近いところにいるのです。
(*) Science Museum, “Charles Babbage’s Difference Engines and the Science Museum,” July 18, 2023.
https://www.sciencemuseum.org.uk/objects-and-stories/charles-babbages-difference-engines-and-science-museum#the-difference-engine-no-2-
Swade, Doron. "The Construction of Charles Babbage's Difference Engine No. 2." IEEE Annals of the History of Computing 27.3 (2005): 70-88.
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11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他
http://ooipiano.exblog.jp/33141919/
2023-11-05T13:26:00+09:00
2023-11-05T22:11:56+09:00
2023-11-05T13:26:56+09:00
ooi_piano
Schubertiade vonZzuZ
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]
4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円 5公演パスポート 18,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【第1回公演】 2023年11月10日(金)19時開演(18時半開場)
B.ポゼ(1965- ):《ミニュット3》(2021/23、世界初演) 2分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第13番イ長調 D 664》(1819 or 1825) 16分
I. Allegro moderato - II. Andante - III. Allegro
B.ポゼ(1965- ):《ミニュット4》(2021/23、世界初演) 2分
F.シューベルト:《幻想曲ハ長調「さすらい人」 D 760》(1822) 20分
Allegro con fuoco ma non troppo - Adagio - Presto - Allegro
(休憩10分)
杉山洋一(1969- ):《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023、委嘱初演) 4分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第17番ニ長調「ガスタイナー」 D 850》(1825) 35分
I. Allegro vivace - II. Con moto - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Rondo / Allegro moderato
[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]
ブリス・ポゼ:《ミニュッツ MINUTES》(2021/23)
フォルテピアノのための連作《MINUTES》は、作曲者が所有するJ.ブロートマン(1814年ウィーン、6オクターヴ、5本ペダル、C.クラーク/M.ヴィオン復元)による自作自演を前提とした、ヴィッテン市委嘱作品である。ヴィッテン現代室内音楽祭のために2021年に作曲を開始し、現時点で約10曲がほぼ完成、次の15曲の構想が固まっており、2024年末の完成を見超すワーク・イン・プログレスとなっている。
Minuteというタイトルは、時間の尺度、幾何学上の角度、そして保存正本の3つの意味合いを重ねている。1~3分の小曲を60曲集成するアイデアは、シュトックハウゼンが《音(クラング) - 1日の24時間》(2004-2007、遺作)の完成後に取り掛かる筈だった構想に由来する。
《ピアノフォルテの歴史》(1933)や《霊感の腑分》(1940)で知られるイギリス人音楽学者・楽器構造学者、ロザモンド・ハーディング(1898-1982)に捧げられている。
ブリス・ポゼ Brice Pauset, composer
1965年ブザンソン生まれ。パリ音楽院でミシェル・フィリッポとジェラール・グリゼイに、シエナでフランコ・ドナトーニに師事。師グリゼイの3つの最期の作品、《時の渦》《背理のイコン》《4つの歌》の作曲補佐を行った。欧米の主要音楽祭、演奏団体によって多くの作品が演奏されている。2010年にフライブルク音大教授に就任。2012年から2019年までアンサンブル・コントルシャン(ジュネーヴ)の芸術監督を務めた。歴史的鍵盤楽器奏者として、チェンバロ5台/フォルテピアノ3台/クラヴィコード2台/クラヴィオルガン1台他(オリジナルまたは自作を含む)を所蔵している。
杉山洋一:《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023)
四半世紀近く前に、「さくらさくら」をモチーフに、ヴァイオリンの小品をかいた。ぜひそれをピアノで弾けるように直してほしいと大井さんからお話をいただいていたのが、この編作の切っ掛けであった。今回は、フォルテピアノで演奏していただくのだけれど、フォルテピアノのためには、2年前にも、リストの《アンジェリュス!》を使って《山への別れ》という曲をかいている。現代のピアノより、セピア色で、どこか心に沁みとおるような音色のフォルテピアノに、とても感激した。
今回、この小さな編曲を、急逝された西村先生にささげようと思ったのは、最後に自分が演奏した西村先生の作品、《華開世界》(2021)のリハーサルのとき、作品のあらわす、次から次へと新しい花が咲き誇るさまを、未来永劫へつづく生命の営みに喩えた先生の言葉に深く心を動かされたからであり、そこにはらはら散り行く花びらの一枚を、ふと手に取って愛でてみたくなったからでもある。(杉山洋一)
杉山洋一 Yoichi Sugiyama, composer
1969年生まれ。桐朋学園大学作曲科卒業。95年に渡伊。作曲を三善晃、フランコ・ドナトーニ、サンドロ・ゴルリに、指揮をエミリオ・ポマリコ、岡部守弘の各氏に師事。作曲家としてミラノ・ムジカ、ベネチア・ビエンナーレをはじめ、国内外より多くの委嘱を受ける。サンマリノ共和国サンタアガタ騎士勲章(2010)、第13回佐治敬三賞(2013)、イタリアAmadeusディスク大賞(2015)、第2回一柳慧コンテンポラリー賞(2016)、芸術選奨文部科学省大臣新人賞(2018)等。指揮者として携わった主な劇場作品にノーノ《プロメテオ》、ヴェルディ《ファルスタッフ》、モーツァルト《魔笛》、クセナキス《クラーネルグ》、カザーレ《チョムスキーとの対話》、メルキオーレ《碁の名人》、細川俊夫《大鴉》他。現在ミラノ市立クラウディオ・アッバード音楽院で教鞭を執る。
古楽と自分――杉山洋一
自分と古楽との出会いについて、改めて思い返してみた。
幼少期、家にあったコレルリ《合奏協奏曲》のレコードを愛聴していたが、当時は古楽というジャンルすら知らなかった。音楽事典の巻頭に載っている、デュプレとデュカスやリュリとキュイの違いなど、時間や歴史の観念がないから理解しようもないが、何のてらいもなくすべてを無償に受容できたのだろう。
1979年、カナダ放送協会で製作された「メニューヒンが語る 人間と音楽 (The Music of Man)」を見たのが、一つの切っ掛けには違いない。日本で放送されたのが何時だったのか定かではないが、当時、家には購入したばかりのヴィデオデッキがあって、シリーズ全てを録画して、擦り切れるほど見たものである。
これは、古代ギリシャのアポロン賛歌からジョン・ケージ、ラヴィ・シャンカルまでの世界音楽史を紐解く、8回にわたるテレビドキュメンタリーで、ふんだんに実際の演奏風景が挿入されていて、あらためて顧みても、実に魅力的な番組だったとおもう。古代ギリシャの音楽は勿論、アフリカ、アジア、中東の民族音楽も豊富に紹介されていて、その中には、確か日本の筝も取り上げられていた。
この番組の以前から、既にさまざまな音楽に興味を持っていたのか定かではないが、あそこまで飽きるほど眺めたヴィデオは他になく、今でもそれぞれのシーンや楽器をよく覚えている。当時はヴァイオリンを習っていたから、見馴れない形状の弦楽器に惹きつけられて、インドのサーランギや、おそらくキプロスのフィドル状の民族楽器が今も強く印象に残っている。ヴィオラ・ダ・ガンバやそれに類する中世の弦楽器も、中世音楽や初期ルネッサンス音楽紹介の折に演奏されていて、すっかり魅了されてしまった。
その為なのか、民族音楽と古楽というと今でも無意識に近しい存在として認識していて、40年以上経った今でも、思い起こすと時めきすら覚える。
特に好きだった、中世からルネッサンスまでを紹介する「花開くハーモニー( The Flowering of Harmony)」の回では、モサラべ聖歌、カンタベリー聖歌からペロタン、マショーやデュファイ、カベソンやパレストリーナ、ジョヴァンニ・ガブリエリの演奏が収録されていて、1600年代のコバルビアの古いオルガンで、カベソンのティエントを演奏する姿に憧れたものだ。
その影響で、古楽と民族音楽を欠かさずFMで聴くようになり、カベソンを聴き漁るうち、スペインルネッサンス音楽に魅了されたのだろう。カバニレスやデ・アラウホなどのオルガン曲はよく聴いたし、ヴィクトリアの合唱も好きだった。
当時、ヴァイオリン曲では普通にロマン派も近代音楽も聴いていたが、それ以外、室内楽も交響曲にも全く食指が動かなかったから、かなり臍は曲がっていたに違いない。バロックのヴァイオリン作品は好んで聴いたが、それも特殊調弦のビーバーの「ロザリアのソナタ」だったりしたから、押しなべて珍妙なものばかり聴いていたのだろう。だから、カークビーがF・クープランの「エレミアの哀歌」を歌うのを聴いて、これこそ天使の声ではないかしらと涙ぐんだのは、実に素直で初々しいとおもう。
馬齢を重ねつつ、少しずつ興味の対象の年代も現在に近づいてゆき、高校と大学時代は、W.F.バッハとC.P.E.バッハの楽譜をよく眺めた。大バッハは勿論よく聴いたし、下手ながらピアノでも弾いていたが、あまりに偉大過ぎて、結局息子たちの楽譜を引っ張り出すのだった。それが高じて、大学では仲間を集めて、W.F.バッハのアダージォとフーガとか、C.P.E.バッハのチェンバロ協奏曲やフルート協奏曲など試演もした。
当時、通っていた大学では、有田正広先生の授業が学生に人気で、ルネッサンス、バロックの、絵画や音楽のアレゴリーの逸話など、面白くて仕方がない。有田先生の古楽科の部屋に行くと、普段は触れない、クラヴィコードなどを隠れて弾くことも出来たし、当時有田先生に習っていたフルートの菊池香苗さんが、よく現代作品を演奏してくださったお陰で、現代と古楽の演奏は、思いの外近しいとも知った。
「Giardino armonico」というとんでもないアンサンブルがイタリアにできて、常識を覆すような新鮮な音楽をやるんだ、信じられない、と興奮冷めやらないリコーダーの畑田祐二さんからカセットを借りたのもこの頃だったとおもう。こんな瑞々しいイタリア初期バロックは聴いたことがない、という畑田さんの言葉どおり、迸るような自由闊達なエネルギーに眩暈すらおぼえた。当時《Groviglio(ごちゃごちゃと絡み合ったもの)》というリコーダー曲を畑田さんのために書いたのが、自分にとって最初の古楽器曲になる。詳細は覚えていないが、とても複雑な作品だったはずだ。
当時、以前から好きだったカスティリオーニやドナトーニのようなイタリア現代音楽と、より前衛らしいファーニホーのような譜面を見比べて、自分は何がしたいのかと、漠然と将来について考えあぐねていた。あの曲を、とても雰囲気のある、ひんやりとした土壁の洋館のような会場で聴いた記憶があるのだが、あれはどこだったのか。甲高いソプラノリコーダーの音が、心地良く会場中に反響していた。
その後イタリアの作曲家や演奏家と付き合うようになり、ローマの現代音楽アンサンブルAlter Egoと知己を得た。その彼らと活動していたのが、アントニオ・ポリタ―ノというリコーダーの奇才で、アントニオは古楽から現代音楽まで、何の境界なく颯爽と吹ききってしまう。彼は当時Musica speculativaに凝っていたから、ボールドウィン写本で特に演奏困難な何曲か、わざわざ実演しやすくコンピュータで浄書し直して、友人たちと練習していた。それ以来だから、ポリターノとは随分長い付き合いである。彼のために、リコーダー曲《Notturno》と、リコーダーを含む短いアンサンブル作品を書いた。
それから暫く、作曲者として古楽器とつきあう機会は途絶えているが、実際は、世界的に優秀な古楽器科で知られるミラノ市立音楽院に勤め始めて、オルガンのロレンツォ・ギェルミはじめ、古楽の同僚から常に刺激を貰っていた(Giardino armonicoのメンバーも、この古楽器科で研鑽を積んでいる)。
音楽院から中華街を越えてすぐ、ミラノのスフォルツェスコ城には有名な楽器博物館があって、珍妙な楽器の宝庫だから足繁く通ったものだ。午前中は、楽器博物館には市内の幼稚園児、小学校生徒などが、集団で校外学習に訪れる。特に、巨大なアルチリュートや、側面のふいごを押して音を出すルネッサンスのオルガンなど、子供たちに大人気であった。
当時は古楽好きと言っても《嬉遊曲》(1997)曲尾の民謡風の旋律が中世風であったり、民族音楽風だったりする程度で、具体的な理由も意図もない。それでも無意識に書いてしまうのだった。
2014年にルネッサンス・フルートとサグバットのために《バンショワ「かなしみにくれる女のように」による「断片、変奏と再構築」 Frammenti, Variazioni e Ricostruzione sul “Comme femme"》を書いた。ガザの爆撃で死んだ母親から帝王切開で救い出され、5日間人工保育器のなかで生きた、シマ―という女の赤ん坊をニュースで知り、バンショワの旋律に、パレスチナとイスラエルの国歌を細切れにして、挟みこみ、ルネッサンス・フルートのパートは、パレスチナのフルート、dabkeを模して書いた。なるほど自分の裡では、民族音楽と古楽は、明らかに繋がったまま、脈々と生き続けていたのである。
後日、原曲の歌詞を付加したヴァージョンや、10名のアンサンブル版を大学生が再演してくれた。選挙すら行ったことのない学生でも、何かを考える切っ掛けにはなるかも知れない、との事だった。どの演奏も押しなべて静謐なままだが、緊張と瓦解とそして祈りが霧状になって、次第に空間にたちこめてゆく。
この不思議な体験は、数年後に管弦楽のための《自画像》(2020)を書く作業に繋がった。少年時代、無邪気に聴き続けたカバニレスの《皇帝の戦争 Battaglia imperiale》を織り上げていた糸を一本ずつほぐし、世界の戦争、紛争について、書き残さねばと感じた言葉を掬い取っては、その糸でその言葉を紡ぎ直した。そうして、全く別のカーペットを織り上げようと試みた。
古来、音楽は明快に喜怒哀楽をあらわしていた。とりわけ、アレゴリーを含め古楽は非常に具体的なメッセージをもっていて、例えばBattagliaとは戦いを鼓舞する音楽であり、そこにみっしり縫い込まれた夥しい国歌も、国威発揚の象徴に他ならない。《自画像》の作曲は、頓に精神的負担を強いるものだった。
それから暫くしてフォルテピアノのための《山への別れ Addio ai monti》(2021)を書いた折は、敢えてメッセージ性から距離を置いたのかもしれない。コロナで死んだ友人が葬式で演奏してほしいと言い残した、リストの《守護天使への祈り》を下敷きにしている。
パンデミックで非日常的な毎日を送っていたからか、フォルテピアノの音に助けられ、どこか現実を直視するのを避けているようにもみえる。恣意的な作業をできるだけ避けて、淡々と書き進めたつもりだが、実際はどうだったのだろう。
その後、「ラフォリア」を素材にヴァイオリン協奏曲を手掛けた際、表面上の重苦しさを避けつつ、《自画像》に続く「狂気 la follia」を書こうとした。敢えて直截に書かないことについて後ろめたさもあったが、自分の感情と音楽との間で、意識的に普段以上の距離を置こうとした。そこにメッセージを絡み取る否か、聴き手に任せたのである。
こうして、幼少期から現在まで、自分と古楽とのつきあいを振り返ると、自分にとって古楽は、ドナトーニに学んだ、音符に観念をこめない自らの作曲姿勢に通じるところもあって、観念性でも耳あたりのよさでもなく、「ラフォリア」のように、半ば形骸化しつつも直截に我々に訴えかける、堅固な構造の指針なのかもしれないし、クラシック音楽が、未だ確固とした方向性を持たなかったころ、緩やかに大らかに、社会と繋がっていた時代への憧憬なのかもしれない。
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2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]
http://ooipiano.exblog.jp/33100353/
2023-10-17T05:07:00+09:00
2023-10-17T05:07:10+09:00
2023-09-21T08:58:29+09:00
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Schubertiade vonZzuZ
《ウィーン体制のシューベルト Schubert im Metternichschen System》
2023年10月19日(木)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明 [4手連弾]
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円
PTNAサイト https://concert.piano.or.jp/concerts/20636
予約サイト https://peatix.com/event/3686995/view
チラシpdf https://ptna-assets.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/concert/files/C20636.pdf
FBイベントページ https://fb.me/e/8GE9tpBUK
曲目解説パンフレットpdf https://drive.google.com/file/d/1tFv_wuLA_djrT-NMn9swau4ODSvcBlP9/view
F.シューベルト(1797-1828):
《F.エロルドの歌劇「マリー」(1826)の主題による8つの変奏曲 ハ長調 D 908》 (1827) 12分
Thema (Allegretto) - Var.I - Var.II - Var.III - Var.IV - Var.V (Un poco più lento) - Var.VI (Tempo I) - Var.VII (Andantino) - Var.VIII (Allegro vivace ma non più)
《ピアノ五重奏曲 イ長調 D 667「鱒」》 (1819/1870、全5楽章) [H.ウルリッヒ編連弾版] 35分
I. Allegro vivace - II. Andante - III. Scherzo / Presto - IV. Tema con variazione / Andantino - V. Finale / Allegro giusto
(休憩)
《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] 50分
I. Adagio / Allegro / Più allegro - II. Adagio - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Andante / Un poco più mosso / Più lento - V. Menuetto / Allegretto - VI. Andante molto / Allegro / Andante molto / Allegro molto
《総て燐火の戯れゆゑに Alles eines Irrlichts Spiel》――本郷健一
フランツ・シューベルトが死んだとき、遺品は衣類・雑貨55点と古い楽譜(誰の作品かは分からない)2,3点、総額63フローリン(1フローリン5,000円とみても31万5千円)分で全部だった。これは、彼が最期を迎えた次兄フェルディナントの家の一室へ、死後13日目に管財人が立ち入って見積もったものだ。この遺品目録には、検閲局に届けるべき書籍があったか・・・なかった、との報告が含まれている。検閲局云々がされているところ、メッテルニヒ体制のもと、革命思想の浸透防止に厳しい目線がウィーンの市井隅々にまで向けられていたことがうかがわれる。
シューベルトの創作活動期間は、ビーダーマイヤー文化の時代(1815~1848)の前半に、ほぼ包含される。
1814年9月、ナポレオンの敗北をうけてヨーロッパの秩序回復を目的にウィーン会議が開催されたが、おもに各国の領土をめぐり10か月にもわたって紛糾し、それに伴い、主催したオーストリア外相メッテルニヒは秘密警察による諜報活動を大幅に増強した。この諜報活動はウィーン会議終了後も緩められることがなかった。
これにより、張り巡らされた監視網は市井の隅々までを覆い、文化活動も委縮の度を強めることとなった。
ビーダー(実直な)マイヤー(マイヤーさん~ドイツでもっともありふれた姓)なる語は、1853年になって、とある裁判官兼詩人が友人のエッセイ中の架空人物をこの名前で前時代的な滑稽詩の作者に擬したところから普及し、「お上のご政道に対しては口を閉ざして背を向け、お勤めでは黙々と義務を果たすが、あとは我が家とせいぜい隣近所との交際という小さな世界に閉じ籠って文学や芸術の世界に遊」ぶ、ウィーン会議後のドイツ圏の人々を、後付けで象徴することとなったものだ。
シューベルティアーデの絵画で友人に囲まれたシューベルトの像は、このような象徴によく当てはまる。生前および死の直後に出版された作品も、作曲者と出版社の直接の合意で付された作品番号108までのうち、購入者の享受しやすいリートを集めたものが、半数超の58を占めている。その死後10年ほどを経て、シューマンはシューベルトのイ短調ピアノソナタD845につき書いた記事で、この作曲家のことを「いまだにただ歌曲しか作らなかったと思っている人が多い」と述べている。
1828年11月19日に腸チフスで死んだシューベルトは、遺言書を書かなかった。ほんの一週間前には、兄の家に来る直前まで居候させてくれていた友人ショーバー宛に読み物をいくつか送ってくれるよう催促の手紙を送っている。同じく17日には、見舞いに訪ねた指揮者ラハナーに、自分が作曲する新しいオペラの台本を要求したほどだから、死への予感はまったくなかったのだろう。
31歳での死が、シューベルトの悲劇的なイメージをもたらすものとなったようだ。
9歳年下のシューベルトの庇護者的存在だったシュパウンが、歌曲集『冬の旅』(D911、1827年)について述べた回想も、このことに一役かっている。
「『今日ショーバーのところへ来てくれ。僕は君たちに一組の恐ろしいリートを歌って聞かせたいんだ。・・・これには、他のどんなリートよりも苦しめられたんだ。』彼は我々に感動した声で『冬の旅』全曲[このときは最初に完成した前半12曲]を通して歌って聞かせてくれた。私たちはこのリート集の暗い気分に全く当惑してしまい・・・シューベルトはただ「(略)君たちもいずれは気に入ってくれるだろう」と言っただけであった。」
ベートーヴェンと縁の深かったシュパンツィヒの四重奏団が、全曲短調という異例の弦楽四重奏曲『死と乙女』(D810、1824年)の公開を拒んだというエピソードも、それに重なる。1826年初のリハーサルでこの曲の第一楽章をさんざんミスしながら弾いたシュパンツィヒは、途中でやめると、こう言った。
「兄弟、これは駄目だね、もう止めたほうがいい。君は君のリートだけに専念しなさい。」
日本で最近書かれたクラシック音楽入門書は述べている。
「シューベルトはそれまでになく暗い音楽を書いた人です。/こんな音楽を書く人が30歳を超えたあたりで世を去るのもあまりにも当然でしょう。」
この本があげてるシューベルトの代表作は、『未完成』交響曲、バラード『魔王』、そして上の『冬の旅』、四重奏曲『死と乙女』である。
とりあえず、しかし付き合いのあった人々からは、シューベルトはあくまでその突然の早逝によって惜しまれたのであって、生きていたシューベルトを悲劇的にとらえる向きはほとんどなかった。シュパウンの、上の回想の続き。
「シューベルトは何事にも苦しむことのない鈍感な男だと信じていた者は大勢いたし、あるいはいまだにいるかも知れない。」
こう述べたシュパウン自身は、シューベルトは苦しんで創作活動をしていた、そのため内面に閉じこもることを愛していた、と続けてはいる。それでも多くの人たちにとって、シューベルトは明るい思い出の中の存在だった。
「[シューベルトを含む]数人の愉快な仲間が(略)夜パーティーから帰宅するところだった。彼らは、ようやく建物の外壁が出来上がったかどうかの段階にある建築工事現場に差しかかった。すると彼らはそこに並んで立ち、出来かけの建物の未来の住人に向かって、情のこもったセレナーデを歌いだしたのである。」
シューベルトは友人と共にピアノ四手で演奏していたとの回想も見受けられる。
他の人によってシューベルトがいつも彼と一緒でなければ四手用の作品を弾かなかったとまで報告されているヨゼフ・フォン・ガヒーの回想。
「私がシューベルトと一緒に演奏をして過ごした時間は、私の生涯の一番の楽しさにあふれた時間のひとつに数えられるものです。」
『未完成』交響曲を長いこと引き出しにしまいっぱなしにしていたアンゼルム・ヒュッテンブルンナーの回想。こちらは弦楽器で演奏を楽しんだのかも知れない。
「ある日シューベルトが私のところへ来て、モーツァルトのヘ長調の『坑夫音楽』(「音楽の冗談」K.522のこと)の自筆楽譜を見せてくれました。・・・彼はこの作品を、当時まだ生きていたあるモーツァルトの友人から贈られたのです。私たちはヴァイオリン二挺、ヴィオラ、この交響曲を全部通して弾いてみて、モーツァルトがそこで意識的に犯した作曲上の間違いの混乱状態を大いに楽しみました。」
ヒュッテンブルンナーは後年これをピアノ四手用に編曲したという。
そもそもシューベルトの最初の作品は四手ピアノのための幻想曲D1(1810年)だった。富裕層を中心に急速に家庭内へピアノが普及したことを背景に、四手用の曲は18世紀後半から、師匠が手本を示し弟子が真似る(例:ハイドン Hob.XVII a:1)・師匠が弟子を支えて演奏するものとして流行しはじめ、19世紀には演奏会用に作られるようになった。シューベルトはその時流に乗って、モーツァルトやベートーヴェンを大きく超える数の四手用作品を作った。
世間を見渡すと、ピアノの普及と反比例するように、ピアノ・ソナタの楽譜には需要が薄れた。1818年のウィーンのピアノ楽譜出版はまだ35%がソナタだったが、1823年には15%にまで落ち込む。代わりに台頭したのは出版の50%を占めるようになった変奏曲だったという。
シューベルトにはピアノの変奏曲作品も若干あるが、同時期の出版リストに見られだす幻想曲ジャンルにも代表作の一つとなる『さすらい人幻想曲』D760など数作がみとめられ、2年後の四手用作品D940も優れた幻想曲である。
アルフレート・アインシュタインは、シューベルトは四手用の作品を「本来はオーケストラ用に構想した作品の代用として利用」したと見ており、エステルハージ伯爵家で音楽教師をした1818年と1824年に高い集中度で作られたものは、伯爵令嬢たちの教育のためだったかとも考えている。上流家庭に浸透したピアノによるサロンでの効果的な演奏もシューベルトは想定していたかも知れない。24年の大二重奏曲(四手用作品である)D812はジェリズ(エステルハージ家の所在地)で客人たちの前で披露されている。加えて、最後の年に書かれた四手用作品には「社交的なもの」が多く現れる、とアインシュタインは言っている。通称「子供の行進曲」D928は、1827年にグラーツのバハラー夫人が夫の命名祝日に7歳の息子と連弾するため注文したものだ。同じ年の「『マリー』の主題による変奏曲」D908は、詳しい経緯は不明だが、リンツ大学の哲学教授ノイハウスに献呈されている。モーツァルト(6作+断片2)やベートーヴェン(4作)にはほとんどなかった四手用ピアノ曲ジャンルに、より立ち入ったシューベルトの場合、独奏用ピアノ曲が生前あまり出版へと結実しなかったのに対し、四手用は33作中17作と、半数が出版されている。
シューベルトと交流のあった人々の回想は、それでもリートを含む声楽作品にまつわっているものが圧倒的に多い。
創作の数が突然に減り、器楽曲が中途で放棄された稿ばかり残された、研究者の間で「クリーゼ(危機 Krise)」と呼ばれている1818年から1823年ごろには、「器楽は当時のシューベルトにとってまったく関心の中心にはなかった」。
だが、それはシューベルトがこのとき器楽を諦めたことを示すのではない、と、近年の研究が明らかにしている。この期間は「音楽劇への取り組みが頂点を迎える。たいへんな時間を必要とするこのジャンルは、部分的には大いなる実りをもたらすものでもあった」(し、この期間にシューベルトは3作ものオペラを完成させている)。そうしたうちにあって、実は断片だとされている器楽曲も、ピアノソナタ数曲は再現部の開始直前で中断されていて完成のめどが立っている点が共通しており、変ホ長調の交響曲D729の場合はシューベルトが最終部分に「Fin」と書き込んでおり、一応できたと思ったものの浄書するに至らなかっただけだと考えられる。
オペラは、残念ながら、書いても書いても水の泡だった。1823年に成った『陰謀者たち Die Verschworenen』D787は、検閲局の意向に沿うようタイトルを『家庭争議 Der häusliche Kreig』と改めたにもかかわらず、検閲で時間をとられているうちにベルリンで別の作曲者による同台本のオペラが好評を博してしまい、上演に至らなかった。
同じ年に出来た『フィエラブラス』D796は、台本作者クーペルヴィーザーが色恋沙汰で劇場秘書の地位を降りてしまったため、結局上演されずじまいとなった。
生涯に10作を完成させたオペラも、運と台本に恵まれず、1820年に2作が劇場にかかりながら短期間で打ち切られたのが関の山だった。この1823年の『フィエラブラス』上演不可をもって、オペラへの邁進を、シューベルトはいったん断念する。寿命が許せばまたこちらを向いただろうことは、彼が死の数日前に訪ねてきたラハナーに頼んだことを思い出せばうなずけよう。
『フィエラブラス』台本作者の弟宛、1824年3月31日に出した手紙から。
「君の兄さんのオペラは(舞台を離れてしまったのがよくなかった)、使い物にならないと宣告されて、そのおかげで、僕の音楽は不採用となってしまった。・・・僕はまたしても、オペラを二つ無駄に作曲したことになる。」
こうして、シューベルトは器楽への注力を決心する。
同じ手紙から。
「リートのほうではあまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲を2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている。」
その後、シューベルト自身がブライトコップフ&ヘルテル社とライプツィヒのプロースト社に送った、日付も同じ1826年8月12日で内容もほぼ同じ書簡がある。
「私はドイツ全土で、できるかぎり名を知られたく思っておりますので、下記のうちより貴殿のご選択にお任せ致し[て出版したいと思い]ます。ピアノ伴奏つきのリート・弦楽四重奏曲とピアノソナタ・四手用ピアノ曲等々、そのほか八重奏曲も一曲作りました。」
最初こそ自費出版(実態は友人たちの出資)だったシューベルトの楽譜だが、クリーゼの時期までには、そのリート集が出版社にとって収益の上がるものとなっていたようだ。
58に上る歌曲群(ドイッチュ番号が与えられた600弱の完成作のうち136作、22%)が出版され世に問われているのは、彼がビーダーマイヤー的に親しい隣近所ばかりを念頭に作曲をしていたのではないことを意味している。完成作品総数の5分の1程度しか出版できていないことは、そんな状況にもかかわらず、主要ジャンル次位であるピアノ曲が完成300作弱に対する37作出版(出版単位としては32)、12%程度であることも勘案すると、決して低い数字ではない。
友人たちの助力による『魔王』Op.1、『糸をつむぐグレートヒェン』Op.2と単独歌曲の自費出版で出発したシューベルトの楽譜出版は、24歳になった1821年から軌道に乗り始める。自信を得たシューベルトは、それまで出版を担っていたカッピ&ディアベリ社が自分の作品を安く買いたたいているのではないか、との疑念を発し、他の幾つかの出版社に販路を拡げていった。1823年にはザイアー&ライデスドルフ社、25年にペナウアー、26年にアルタリア、以後ヴァイグル、ハスリンガー等々と、シューベルト作品を続々と引き受けている。
歌曲に限らず、多様な器楽曲をアピールしたシューベルトは、器楽でも着々と成功を収めていく。
1823年2月に出版した器楽、ハ長調の大幻想曲D760(「さすらい人幻想曲」)はウィーン新聞の出版広告で「最上の作曲家による似たような作品と同列にならべるにふさわしい」と紹介された。
シューベルトは、出版に関してまた別に、1828年2月ショット社から打診を受けて返信をしている。このときは手元にある作品としてピアノ三重奏曲・弦楽四重奏曲(ト長調とニ短調)・ピアノ独奏のための四つの即興曲・ピアノ連弾の幻想曲(エステルハージ伯令嬢カロリーネに献呈したもの)・ピアノとヴァイオリンのための幻想曲・声楽曲数作を列挙し、
「このほかにまだ3曲のオペラ、1曲のミサ、1曲のシンフォニーがあります」
とわざわざ付記した。付記に関しては、なお
「これらの最後の作曲群に言及したのは、貴殿に私が芸術における最高のジャンルを目指す努力の一端を知っていただきたい、という気持ちだけで、他意はありません。」
とことわっていて、自分がこの年のうちに死んでしまうことなど思いもよらなかったシューベルトの、胸に描いていた音楽人生プランを垣間見させてくれる。
ミサ曲は、シューベルトが最初に公的な成功を得たジャンルだった。17歳のとき作曲したヘ長調ミサ曲は、その年のうちに2つの教会で演奏され、生涯で6作書かれることになるラテン語通常文ミサ曲のうち4作までは演奏の記録ないし形跡がある。ただ、上のリストにある、おそらく最後の変ホ長調ミサ曲は、そこまでたどりつけなかった。
シューベルトのミサ曲は、グローリアとクレドに一貫した詞句省略があり、とくにクレドにおいて「一にして聖かつ公の使途継承の教会を[我は信ず] Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam」に付曲されていないことは、他の詞句の省略とあいまって、シューベルトの信仰における非カトリック性を示すのではないか、と、研究者の間で議論され続けている。シューベルトの教会への皮肉な見方は、1818年10月29日にジェリズから家族宛に送った手紙で窺える。
「兄さんには想像もつかないだろうな。ここの坊さんときた日には、老いぼれた駄馬みたいに偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりなのだ。お説教を聞いていると、あの悪徳に骨まで染まったネポムツェーネ神父でもまったく顔色なしというくらいひどいものだ。祭壇の上には道楽者や非行少年どもがわんさかとひしめいていて、この連中に思い知らせてやろうとするなら、死人の頭蓋骨を持ってきて祭壇の上に突き出して、こう言ってやるしかない。この罰当たりのチンピラめ、おまえたちもいつかはこういう風になるんだよってネ。」(ネポムツェーネ神父については具体的なことは分からない。)
ショット社への手紙で言っているシンフォニーが「グレイト」を指すことはいうまでもないが、弦楽四重奏曲は少年期のシューベルトにとって家庭で父や兄と一緒に演奏するために作るジャンルだったことに目を向けておかなくてはならない。
次兄フェルディナントの回想には、幼少のフランツ・シューベルトと一緒に弦楽四重奏を演奏するのは父と兄たちにとってこの上ない楽しみだった、とあり、家族にとってはその思いが持続していたようだが、ジェリズへ二度目の赴任をしていた1824年7月16~18日の手紙で、フランツは
「[兄さんたちの四重奏演奏会は、兄さんの手元に残っている昔の]僕の作った曲より誰かほかの人の曲でやればよかったのに。僕のはそんなにたいした曲じゃない。」
と、子供時代の自作にマイナス評価を下している。実際には、長く中断していた弦楽四重奏曲創作はこの年から再開、内容も精巧となって、産まれた名作、通称「ロザムンデ」D804は上の手紙を書いたよりも前の3月に公開演奏され、「死と乙女」D810は2年後に試演されているのである。
作曲や出版をめぐって、シューベルトは相当にプロフェッショナルな意識を持って臨んでいたことが、以上のような行動や発言から明確に窺われる。シューベルト作品の評価の際には、この点が今後いっそう注意されるべきだろう。
ところで、シューベルトの作品自体は、暗いものが主流なのか。
内面的なもの云々は措いて、さしあたり短調が暗いものと前提し、前後の世代と比較しよう。誰もがわりと数を作っている弦楽四重奏曲・ピアノソナタの総数で、長調との作品比率を見てみよう。ハイドンは、総数121に対して短調作品19、約16%。モーツァルトは同じく40に対し4で10%。ベートーヴェンは48に対し14で29%。シューマンは絶対数が少なく総数8だが半分の4が短調である。シューベルトは、35の総数に対し短調は11。31%であって、ベートーヴェンに近い。このことから見る限り、シューベルトが暗い作品でとびぬけた作曲家であるとは言えないだろう。
ともあれ、『死と乙女』は拒んだシュパンツィヒだが、それ以前の1824年3月にイ短調の弦楽四重奏曲D804(「ロザムンデ」)は公開演奏に応じており、八重奏曲D803も1827年4月のコンサートシリーズにとりあげている。
五重奏曲『ます』は作曲年次(1819? 23?)、公開演奏の有無が不明ながら、こちらも早くに知られたものと推測される。
「彼はこの曲を、この珠玉のリート[歌曲「ます」D550 1816-17または20]に心から魅せられていた私[回想者アルベルト・シュタードラー]の友人ジルヴェスター・パウムガルトナーの特別の要望によって書いたのでした。」
このほか、弦楽五重奏曲、ヴァイオリンのための幻想曲なども出来上がり、とくにピアノ三重奏曲変ホ長調D929はライプツィヒの出版社プローストから出されることになった。1828年7月、プローストからの照会に対し、シューベルトは
「拝啓! トリオの作品番号は100です。(略)この作品は誰に献呈したものでもなく、気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。」
と陽気に返事している。
期待に胸を膨らませて待っていただろうこの三重奏曲の印刷譜を、しかしシューベルトは生きて目にすることが叶わなかった。届いたのは、死の数日後だったという。
自分でも予期しなかった死を迎えなかったなら、シューベルトのその後は順風満帆だったかも知れない。
彼を病弱にし、その短命を導いたのは、1822年と思われる梅毒への感染との推測が確実視されている。その感染の原因をつくったのは、作曲家から最も親近感を抱かれ、最初のシューベルティアーデを開催もし、シューベルトにオペラ『アルフォンソとエストレッラ』D732(1822)の台本も提供したショーバーが、シューベルトを悪所に入り込ませたことだと疑われている。最も親しい間柄だったとみなされていたにも関わらず、ショーバーはシューベルトについての回想を書き残さず、人にもあまり語らなかった。
「どんなにその気になろうとしても果たすことが出来ないのだ」
と、ショーバーは言っている。
「誰一人知らないだろうと思うシューベルトの一種の恋物語があって、これを・・・どんな風に、またそのどこまでを公表していいか・・・いまではもう遅すぎる。」
ショーバーと1858年から短期間夫婦だったテークラ・フォン・グンベルトは、元夫がシューベルトの臨終に立ち会ったときの様子を伝えている。「ショーバーは、いつもよく知っていた目が彼をよそよそしく狂ったように見つめたときに」痛ましい印象を受けたのだ、と、それだけなのだが。
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2023年10月14日(土)ショパン:ポロネーズ全8曲他
http://ooipiano.exblog.jp/33088226/
2023-09-30T15:50:00+09:00
2023-10-09T20:34:08+09:00
2023-09-05T08:32:30+09:00
ooi_piano
ショパンの轍
大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ(表・裏)
〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
F.F.ショパン(1810-1849):
●3つのエコセーズ Op.72-3 (1826) 2分
第1番 ニ長調 - 第2番 ト長調 - 第3番 変ニ長調
■アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834) 13分
■2つのポロネーズ Op.26 (1835) 13分
第1番 嬰ハ短調 - 第2番 変ホ短調
■2つのポロネーズ Op.40 (1838) 14分
第1番 イ長調「軍隊」 - 第2番 ハ短調
(休憩15分)
●序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833) 10分
●ボレロ Op.19 (1833) 7分
■ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841) 10分
■ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842) 7分
■ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846) 12分
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
《アッラ・ポラッカ――ショパンの肉と皮膚》(山村雅治)
――生きているうち一度でも天国に足を踏み入れし者は、
死んで後、すぐには天国へ行けるものではないと。(アダム・ミツキェーヴィチ)
1
ショパンの人間像は「ロマンス」のなかの人間が、血が通った現実の人間にとってかわってしまっていた。現実をゆがめるレンズを通して彼とその芸術を眺める過程は、ほとんど彼の直後からはじまった。19世紀後半のあいだに速度を速め、20世紀の前半には絶頂に達していた。リストが語るショパン像は歴史の上では重要な史料だし、コルトーが自ら校訂した楽譜につけた解説も同じだが、あまりにもロマンティックなショパン解釈だった。彼の生涯と性格は夢と想像にあふれた伝記になり、作品にも本人がつけていない呼び名をつけられたものがある。ショパンを語ろうとする人間はショパンの音楽に酔った体験から言葉をあふれさせる。かくして個人の気まぐれと幻想のなかをさまよってしまう。
たしかにショパンは謎めいた人物だった。サロンという小さな空間で少数の人たちだけに知られ、作品も演奏も少数の人たちだけが聴いた。彼らにはショパンの全体を語るには、あまりに言葉が足りなかった。残ったのは感傷的な逸話と不正確な総論が事実にとってかわった。ショパンが短命だったことも肖像をロマンティックにゆがめてしまった。それに加えて、迫害された国からの亡命者であるフランス系ポーランド人として、彼はきまって関心の対象になっていた。彼はパリの音楽界に特色ある奇才として登場した。
彼の作品とピアノ演奏は、それまでには聴いたことがない新しいものだ。社交界が求める情緒的欲求をみたしていたことも確かだろう。彼が存在するという衝撃は、彼自身が私生活を覆い隠したヴェールによって、むしろ強められた。ジョルジュ・サンドとの恋愛と同居と39歳のときに訪れた肺病による死とは、ショパンが「ロマンスの人物」であることを裏書きするものだった。
自作に対する彼の態度はまさに「閉じた本」のように知られざるものだった。親友は数少なく、しかも音楽家ではなかったが、彼らにたいしても心の奥底にあるもの、音楽の動機になるものを明かしたことがなかった。自分の作品が文学や絵画を背景にもっていることを、彼は憤然として否定した。シューマンの評言を嘲笑ったように。曲に後から他人につけられた「標題」にも同じ態度をとっただろう。若かったワルシャワ時代から国外に出ると、心の扉をおずおずと開いて見せることはやめてしまった。
外の世界へのショパンの極度に控えめな態度は「書簡」に見られる言葉の表現に見られる顕著な特徴だ。しかし時が経つにつれて、これを病的なまでに育てあげていったことは彼の「音楽」には聴くことができる。ショパンが自己の魂を覗いて、そこに見出されるものを肯定していたことは、ポーランドの親友だったフォンタナへの書簡には暗示されている。自己を語っている。あるいは自作について語っている。
「もしもぼくが、見たところは食べられそうなので、ほかのものと間違えて摘み取り、食べてみたら中毒を起こしてしまう茸のようであっても、それはぼくが悪いのではないのだ」(1839年3月2日)。
またショパンは自分を「おそらくぼくよりも魂のなかに激しい焔を燃やしながら、それを無理にもみ消して消滅させてしまった修道士」(1938年12月14日)に喩えている。
生涯の終わり近くには「われわれはある有名な製作者の創造物、まあ一種のストラディヴァリウスのような存在で、もはや修理してくれる人はいないのだ。不器用な手にかかっては新しい音を出すこともできず、だれもわれわれから引き出してくれることのないすべてのものを、自分の内部で窒息させてしまうことになる――しかもこれはすべて、われわれを修理する者がいないために起こることなのだ」(1848年8月18日)。
これらの書簡に見られる「もみ消して」や「窒息させて」は、感情の「抑圧」を意味している。情緒のあらわな表現を抑える自制が必要だというショパンの言葉は、ショパンの音楽をとりわけ感傷的な気分を誇示するだけの音楽とみなす人たちにとっては、奇妙な言葉に響くだろう。
ひとつのことは明らかだ。彼の音楽はやさしさと親しみやすさとともに、かくも激しい情熱と獣の獰猛さを含んでいる。伝説によって語り伝えられた温厚で悪気がない病気がちの人間が生みだした作品ではなかった。時代の音楽のしきたりに反抗し、その反抗は傲慢でさえあり、パリのサロンの貴族たちのしきたりに対する大げさな敬意とは相反するものがあった。ショパンは矛盾に満ちた不可解な複雑な人間であり、異国に出てからはいつも仮面をかぶっていた。
2
ショパンの体内にはふたつの国の血が混ざりあって流れていた。父ニコラ・ショパンは純粋に農夫のフランス人の家系をつぎ、16歳のときにポーランド人の領主の家令にやとわれてから立身出世をとげ高校のフランス語教師になった。父からは秩序と正確さへの好みを受け継いだ。母ユスティナはポーランド人でピアノを弾いた。温和で信心深く控えめで夢見がちな性格は、男らしい積極的な父親と均衡がとれていたようだ。
フレデリック・ショパンが生まれたポーランドは強烈な国民意識があった。ポーランド人は愛国心と独立心と文化の自由という主題にたえず心を奪われていた。それらが近隣の大国によって奪われていたからだ。ショパンの少年時代にはポーランドの社会はヨーロッパの時代の思潮には目覚めきっていた。ワルシャワは独立への気概があふれる街だった。
国家消滅という危機に襲われた時代、ポーランド文化史上もっとも重要なロマン主義が開花する。それは国家が存在しない時代だったからこそ、民族の伝統と深く結びついて誕生し、燦然と輝いた。ポーランド・ロマン主義は、ミツキェーヴィチの最初ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。その詩集「バラードとロマンス」が出された1822年に幕を開けた。この時代には詩が異常なまでの力をもってあらゆる芸術を支配した。
早熟な少年ショパンは音楽の才能がなかったら上流階級に知られることはなかった。幼年期を過ぎて社交界の寵児になってからは困難ではあったが、ときに若いリストの身の上に起こったような冷遇の寂しさは経験しなくてすんだ。若いリストはときに冷遇され、劣等感の重荷に苦しまされたが、少年のショパンは慎み深い家族の出である神童が過ごしていた社会の欲求と、根強い生まれつきの傾向を両立させていた。
18歳になった1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。フェリクス・ヤロツキに同行して、ベルリンに赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルターやメンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。
その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダもピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した 。7歳のときにト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキの印刷工房で刷られ出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。「ポロネーズ」は小さなころからからだにしみ込んだリズムだったのだ。
1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルに出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた。
演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。
その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。
〈彼は母語のポーランド語で「コンラッド」の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などにぶつけられた〉。
という通説も「ものがたり」ではなかったかと疑ってしまう。周りに起きる具体的な事件や読んだ文学を「そのまま」音楽にうつしたことなどショパンになかったからだ。
また、こういう「はやわかり」のものがたりもある。
〈ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」〉。
それにしても祖国へは帰れなくなったショパンは、少年のころにはむしろ偽古典的な曲を書いていたのが「裸のポーランド」をむきだしにするようになった。
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ショパンのむきだしのポーランド語で書かれた書簡には、彼の不死身の外面と並行して存在し続けた力強い内面の力と激しい気質が露出しているものがある。うっかりしたはずみに、彼は激しい高まりをみせる怒りや軽蔑の感情に押し流されることがあったが、これを口に出したときの言葉は、彼がワルシャワやパリの優雅なサロンで用いていた言葉とはひどく縁遠いものだった。荒々しい激情は抑制されず解き放たれていた。
広範囲にわたるショパンの作品の背後にひそむ国民主義・愛国主義的動機には異論を挟むつもりはない。しかし、彼はこの無類の霊感の泉から湧き出したものでなければ、たったひとつの音符も書けなかったとするのは暴論だろう。フランス人の名前を持っていた事実のために、ポーランドを永久に去ってから、より生まれた国を意識することになった。彼は生誕の地に対して熱烈な態度で、しかし盲目的にではなく、心をささげていた。実在の国としてかどうかは判らない。二度と帰れない浄化された概念としての「ポーランド」であればそれは確かなことだろう。彼の本質はワルシャワにあった。フランス人を「自国民」として見なすようになったというのは嘘だ。作品についてもポーランドの人たちがどう思うかを気にしたし、彼が最も親密な関係を結んだのはフランスにいる亡命ポーランド人たちだった。
ショパンは子どものころから体の奥深くにまで沁みこんだポーランドの舞曲に耳を澄ます。7歳のときにポロネーズを2曲書いたことから、ポロネーズは幼いころから親しんでいたものだ。ショパンのポロネーズ第1番嬰ハ短調と同第2番は1836年作曲、翌年出版された。1938-39年には第3番(軍隊)と第4番。1840年に第5番。1842-43年に第6番(英雄)。1846年に第7番「幻想ポロネーズ」。第8番から10番までの3曲は1827-29年に作っていた作品を遺作として出版された。ショパン自身が作品番号をつけて出したのは7曲だが、少年時代の習作を含めれば16曲にも及ぶ。
ポーランドの舞曲にはマズルカもある。ショパンは1830-32年に書きはじめて1849年、死の年まで50曲以上を書きつづけた。
またクラコヴィアクは、クラクフやマウォポルスカ県の民族舞曲で、ポロネーズやマズルカ、オベレクと並んでポーランドの主要な舞曲となっている。ショパンは、非常に華麗な演奏会用クラコヴィアク(ピアノと管弦楽のための《クラコヴィアク風ロンドヘ長調》作品14)を1828年に作曲した。同年の作品に「ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調」がある。ここではポーランド民謡「もう月は沈み」や同郷の作曲家カロル・クルピニスキの主題が扱われ、フィナーレはクラコヴィアク(ヴィヴァーチェ イ長調 3/4拍子)で結ばれる。
1810年にポーランドに生まれたフレデリック・ショパンは、1832年(22歳)でパリに出た。1838年、ジョルジュ・サンドに出会いマヨルカ島に滞在。その後も冬はパリで暮らし、1847年(37歳)サンドと別れる。1848年(38歳)2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。1849年 (39歳)10月17日、永眠した。ショパンが奏で続けた音楽はいまも人びととともにある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちなみにポロネーズ(仏: polonaise、波: polonez、伊: polacca)は、フランス語で「ポーランド風」の意。「もとは民俗的なものでなく貴族の行進から始まったといわれ、16世紀後半にポーランド王国の宮廷で行われたという」という解説がどの本を読んでも現われる。伝聞であって物証はない。ポーランドの音楽学者クシシュトフ・ピェガンスキによれば「王宮内の実用舞踊についてはごくわずかなことが分かっているだけである。年代記作者たちは、舞踊会の始まりを飾った凱旋行進のようなものに言及している。ことによると、それはポロネーズの原型であったかもしれないが、しかしこの仮説を裏付ける十分な史料はない」(Muzyka Polska)。
「フランス宮廷からポロネーズの名が広まった」のは、その名がフランス語だから確かだろう。バロック時代に至ってテレマンが「ポーランド・ソナタ」を書き、ポーランドのフォークロアを書いた。ポロネーズはその名の曲をバッハがブランデンブルク協奏曲、フランス組曲、管弦楽組曲などに書いた。ヘンデルの合奏協奏曲集作品6の3の第4曲も魅力ある音楽だ。
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2023年8月5日(土) ショパン:バラード全曲+スケルツォ全曲
http://ooipiano.exblog.jp/33023794/
2023-07-06T05:00:00+09:00
2023-09-06T01:29:24+09:00
2023-07-06T05:00:30+09:00
ooi_piano
ショパンの轍
大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ 表・裏
〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)
F.F.ショパン(1810-1849):
ソナタ第1番 Op.4 (1828) 23分
I. Allegro maestoso - II. Minuetto / Allegretto
- III. Larghetto - IV. Finale / Presto
--
スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832) 9分
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835) 9分
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837) 10分
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839) 7分
(休憩15分)
ロンド ハ長調 Op.73 (1826、作曲者編独奏版) 9分
歌曲《私のいとしい人 Op.74-12》(1837/1860、リスト編独奏版) 4分
--
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839) 7分
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841) 8分
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842) 11分
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842) 11分
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
〔アンコール〕A.N.スクリャービン(1872-1915):《ソナタ第1番 ヘ短調 Op.6》(1892)[全4楽章]、
A.G.ルビンシテイン(1829-1894):《9つの雑曲集 Op.93》より
「ヤンキー・ドゥードゥル(アルプス一万尺)の主題による42の変奏曲」(1872/73)
アダム・ミツキェーヴィチがいた――山村雅治
1
ポーランド共和国(Rzeczpospolita Polsk)は、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であり、ロシアからの侵略戦争を仕掛けられて応戦するウクライナからの避難民を受け入れている。
ポーランドの歴史は「分割と統合」を幾度も繰り返されてきた。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。
ショパン(1810-1849)が生まれる少し前、ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。これはフランス帝国の衛星国にすぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体されることになる。その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。
そしてショパンが20歳を迎える1830年、「十一月蜂起」が起きる。
ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。しかし翌年には鎮圧されてしまった。
ショパンが没した1849年以降にもポーランド人はその後にも抑圧に対してポーランド文化をもって抵抗した。ロシアに鎮圧された一月蜂起やビスマルクによるポーランド人抑圧政策に苦しめられた。強大な力をもって押しかぶさってきた大国の抑圧政策によって、反発する力はより強靭に鍛え上げられてポーランド人の連帯とカトリック信仰は確固たるものになった。抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあとも続けられたが、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了する。共和制のポーランド国家が再生した。
その後、ポーランドが舐めさせられた辛酸はスターリンとヒトラーがもたらした。1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。
ポーランドの人びとの耳には、心の底にはショパンの音楽があった。
言葉があれば切れ端をとりあげられて反権力の重罪に問われて粛清されることもある。直接的な政治イデオロギーがわからない音楽は、かえって直接に人びとを励ました。勇ましいポロネーズのほかにもショパンには華やかなワルツも慰めの夜想曲もあった。
フレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールは第一次世界大戦の終結を経てポーランドが一国家として独立してから9年後にあたる1927年に第1回大会を開催。ワルシャワ音楽院のイェジ・ジュラヴレフ教授は、第一次世界大戦で荒廃した人々の心を癒し、当時フランス音楽と考えられていたショパンの音楽をポーランドに取り戻して愛国心を鼓舞しようと考え、コンクールの創設を思い立った。
そしてショパンとともにポーランドの人々の心には、ミツキェーヴィチの文学が奥底に滾る炎の波としてあった。
アダム・ベルナルト・ミツキェーヴィチ(1798-1855)は、ポーランドの国民的ロマン派詩人であり、政治活動家だった。
彼はスラブ、ヨーロッパのもっとも偉大な詩人のひとりとされ、ポーランドや西ヨーロッパではゲーテ、バイロンに比肩する詩人とみなされている。『コンラット・ヴァレンロット』『祖霊祭』『パン・タデウシュ』などの劇詩、「バラードとロマンス」などの詩など文学作品のすべてがポーランド・リトアニア共和国を壊滅させた大国に対する蜂起の狼煙になった。
「霊感と感情の爆発のおもむくままに生き、風俗的、美学的規律を越え、同時に孤独で不幸で周囲に背き、世界に自分の場所を見つけられない、そうした己の独自性を意識した、非凡な個人としてのロマン主義詩人」。
『祖霊祭』『パン・タデウシュ』が執筆された1832年から34年までの2年間は創造力は最高潮に達した。政治パンフレット『ポーランド民族とその亡命の書』を匿名で刊行し、それは即座に各国語に翻訳された。「豪然たる評判を呼んだ扇動と祈祷の書である」。
アンジェイ・ワイダ監督が映画化した『パン・タデウシュ物語』はソビエト連邦崩壊の1991年から7年を経た1998年に公開された。
ナポレオンのモスクワ遠征を目前に控えた1811年から1812年のリトアニアの農村を舞台に、対立する小貴族(シュラフタ)ソプリツァ家とホレシュコ家に生まれた若い男女の愛が、ロシア帝国の支配下にあった当時のリトアニアの歴史を背景に描かれる。原作者であるミツキェーヴィチがパリでポーランド人亡命者らを前に原作を朗読する形式で物語が構成されている。
2
ロベルト・シューマンは、ショパンは「バラードはミツキェーヴィチのいくつかの詩に刺激されたものだとも言った」と1841年の『音楽新報』に書いている。
彼らがライプチィヒで会ったのは5年も前の1836年9月のことだった。そのときにショパンは「バラード2番」を引いて聴かせ、献呈している。この日のことをシューマンは「ショパンが自分の作品について語るのを好まない」と日記に書いている。
シューマンの『音楽と音楽家』が出版された1854年以来、ショパンのバラードを引くピアニストにはもちろんのこと、研究者にも重い課題がのしかかった。
日本で「バラード」全曲のSPレコードが発売されたのは1933年録音のアルフレッド・コルトーが演奏したものだった。日本ビクターは野村光一による解説冊子をつけていた。野村光一は「ショパンは4曲の物語の筋を彼と同郷の詩人ミッキーヴィッツに拠ったと謂われている。そのことは、ロバート・シューマンが作曲者自身から聞いたといって確認している。けれども、これらの楽曲を創作する場合、彼はミッキーヴィッツの詩のプログラムを写実的に描写しただろうか。左様なことは絶対にあり得ない。第一、表題にこれらのプログラムは少しも規定されていないし、また、ショパンの音楽それ自体がかくの如き客観的描写を行うには甚だ縁が遠い素質のものだからである」と断じている。コルトー自身が校訂した楽譜には、冒頭にミツキェーヴィチの詩が掲げられているにもかかわらず。
『アルフレッド・コルトー版 ショパン バラード』の前書きにコルトーは書いた。「ショパンがミツキェーヴィチの悲劇的な詩句から引き出したものは物語やイメージというよりも、むしろその詩を生き生きさせている強烈な愛国的な精神である」「私が1924年に行った一連のコンサートの解説の中で、ローラン・セイリエが書いてくれた解釈に従って4つの詩の要約をここに載せることによって、演奏者の貴重な助けになると考える」
バラード第1番 “コンラット・ヴァレンロット”
この作品の発想の源となっている散文のバラードは、リトアニアやプロシャ(1828年)の年代記による歴史上の伝説であるコンラット・ヴァレンロットの第4部の中の最後のエピソードとなっている。その中のエピソードでヴァレンロットは宴会が終わった時、酔いのために非常に興奮して、ムーア人の制圧者であるスペイン人に、前もってわざとペストやハンセン病など最も恐るべき病気に罹って、見せかけの善意で接触して復讐をしたムーア人の偉業を誉めそやしている。そしてあきれて驚いているお客さんに、ポーランド人である彼自身も死に至る抱擁で敵に死を吹き込むであろうと話して聞かせた。
バラード第2番 “シフィテジ湖”(即ちヴィリの湖)
“夜には星の光を映す鏡を張って広がっているような波一つ立たない”この湖は、嘗てロシア人の一団によって包囲された村の跡である。若いポーランドの娘達は彼女らを脅かす恥辱から逃れるために神に祈って、征服者達の手にかからずに、彼女らの足元に突然わずかに裂けた地の中に身を投げた。
神秘的な花に変わった娘達はその後、湖の岸辺を飾っている。その花に触れる者に禍あれ!
バラード第3番 “水の精”(ヴィリ湖)
この曲は女性が誘惑する描写である。若い青年が湖の岸辺で出会った少女に愛を誓った。男の変わらない愛なんか信じていない少女は、青年の愛の誓いにもかかわらず離れていき、そして人を魅了する“水の精”の姿になって再び現れてきた。彼女がその青年を誘惑するとたちまち、彼は水の精に魔法をかけられたように虜になってしまった。そこで罰を受けた彼は水の底深く引きずり込まれ、そして苦しげに呻きながら、決してつかまえることのできない滑りやすい水の精を追いかけるように運命づけられた。
バラード第4番 “ブドゥリ家の3人”(リトアニアの物語)
ブドゥリ家の3人-すなわち3人の兄弟-は彼らの父の命を受けて、最も素晴らしい財宝を見つけるために、はるばる遠征に出かけた。秋が過ぎて、そして冬になった。父は息子たちが戦争で死んだと考えた…。ところが吹雪の中をめいめいが順次戻ってきた。しかも3人とも唯一の戦利品として許嫁を連れて…。
コルトーの示唆を受けて、まじめに受け取ったピアニストはもちろんいる。コルトーは世紀の大ピアニストであり、エコール・ノルマルを創設した教授にして校長。ヴァーグナーを勉強しにバイロイトへ泊まり込み、「神々の黄昏」のフランス初演を果たした彼はピアニストを超えた大音楽家だった。
園田高弘はマルグリット・ロンらに師事した国際的な活動をしたピアニストだった。「園田高弘 諸井誠 往復書簡 ロマン派のピアノ曲 分析と演奏」(音楽之友社)には、バラードを演奏するにさいして「幸いなことに、ショパンのコルトー版にはミッケヴィッチの詩の大意が記述してあるので、それを参考にすることは、暗中模索で音符だけをたどることに較べて、どれほど有益でしょうか」と書き、「コルトー自身は、ショパンの作品の中に一つの、具体的な反映を探すことは意味がないことだし、空しい努力である、としています。しかし、われわれ演奏家が、とくに遠く離れた日本の状態を考えれば、それについて全く無知であるということは、もっと危険なことではないかと思います」と結んでいる。続けて詩句と楽想を並べて挙げている。
3
ミツキェーヴィチ『バラードとロマンス』(未知谷)には以下の諸編が収められている。「プリムラ」「浪漫性 バラード」「シフィテシ バラード」「シフィテジャンカ バラード」「魚 バラード」「父さんのお帰り バラード」「マリラの小塚 ロマンス」「友たちに」「こいつは気に入った バラード」「手袋」「トファルドフスキの奥方 バラード」「トゥカイ、あるいは信義の試練 バラード」「百合の花 バラード」「ドゥダシュ ロマンス」「アダム・ミツキェーヴィチ詩集 第一巻 序」。
1822年はミツキェーヴィチがこれらの詩を「アダム・ミツキェーヴィチ詩集」として発表した年だ。「バラードとロマンス」が収録された本は年内には売り切れて、翌年版は重ねられた。彼は古典主義を打倒し「ロマン主義」を高く掲げた。人びとにはその民衆性が衝撃だった。俗謡を芸術としての詩に昇華させた作品は同時代のポーランド詩人の中でも群を抜いたものだった。その年、フレデリク・ショパンは12歳。少年時代から「バラード」はポーランドじゅうに広まっていた。「詩こそが最高の芸術と考えられ、音楽はより低いランクに甘んじていた」ロマン主義の時代がはじまっていた。
ショパンは作品にジャンル以外の題をつけなかった。ダンテやゲーテにインスピレーションを受けて作品を書いたリストとシューマンとちがって、ショパンは文学には関心がなく「標題」がついた音楽を書かなかった。「バラード」はほかの作曲家は歌詞がついた「歌曲」として書いたが、ショパンはピアノ一台で「バラード」を4曲書いた。
1832年、22歳のショパンははじめてパーティの席で12歳上のミツキェーヴィチに会った。その後も親交をかさねていた。1839年3月27日の書簡で、ジョルジュ・サンドが「ゲーテ、バイロン、ミツキェーヴィチ」を高く評価する記事を書いたから読むべきだ、とグジマワに書いた。また1839年4月15-16日のグジマワ宛の書簡には『祖霊祭』への言及がある。ショパンは1836年26歳から1847年37歳まで同伴したサンドから話を聞き、その作品も読んではいた。没後の1857年にユリアン・フォンタナにより出版された(遺作)「17のポーランドの歌 作品74」はショパンが作曲したポーランド語の歌曲集である。
第1曲 - 願い Życzenie (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第2曲 - 春 Wiosna (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第3曲 - 悲しみの川 Smutna rzeka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第4曲 - 酒宴 Hulanka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第5曲 - 彼女の好きな Gdzie lubi (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第6曲 - 私の目の前から消えてPrecz z moich oczu (アダム・ミツキェーヴィチ)
第7曲 - 使者 Poseł (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第8曲 - かわいい若者 Śliczny Chłopiec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第9曲 - メロディ Melodia(ジグムント・クラシンスキ)
第10曲 - 闘士 Wojak (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第11曲 - 二人の死 Dwojaki koniec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第12曲 -僕の愛しい人 Moja pieszczotka (アダム・ミツキェーヴィチ)
第13曲 - 望みはない Nie ma czego trzeba (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第14曲 - 指環 Pierścień (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第15曲 - 花婿 Narzeczony (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第16曲 - リトアニアの歌 Piosenka litewska (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第17曲 - 舞い落ちる木の葉 Śpiew z mogiłky (ヴィンチェンティ・ポル)
ここにミツキェーヴィチの詩を歌曲にした作品が2曲ある。「私の目の前から消えて」と「僕の愛しい人」。
松尾梨沙『ショパンの詩学』には「私の目の前から消えて」の全文が訳されている。4行が10連に並ぶ長い詩だ。
私の目の前から消えて!…すぐに聞くよ、
私の心から消えて!…心が聞くよ、
私の記憶から消えて!…いや、その命には
僕ときみの記憶は従わない。(以下略)
「僕の愛しい人」として。6行が2連。
僕の愛しい人は、陽気な一時には
チュンチュン、ツピツピ、クークーさえずり始める、
こんなにも愛らしくクークー、ツピツピ、チュンチュン鳴くので、
どんな一言も漏らしたくなくて、
僕は敢えて止めず、敢えて返事もせず、
そしてただ聴いて、聴いて、聴いていられたら。(以下略)
4
<ミツキェーヴィチ小伝>
ミツキェーヴィチは旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァフルダク)で、弁護士の子として生まれる。学生時代には、ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となった。
1823年にロシアによって逮捕され、1824年にロシア領内への追放刑を受けたが、首都サンクトペテルブルクで文芸サークルに所属し詩作の才能を伸ばした。1828年には14世紀のリトアニア大公国で活躍したドイツ騎士団、コンラード・フォン・ヴァレンロットについての叙事詩を発表し、その後にポーランドで続いた民族蜂起に思想的な影響を与えた。
1829年にロシア出国を認められ、ドイツのヴァイマルでゲーテに会った後にイタリアに向かい、最終的にはローマで創作活動を行った。ここでミツキェーヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。
1832年にはフランス(七月王政期)のパリに移り、1834年6月に「パン・タデウシュ」の初版を発行。1840年にはコレージュ・ド・フランスに新設されたスラヴ語・スラヴ文学のトップとなったが、1844年に辞任した。1848年から1849年にかけての冬にはフレデリック・ショパンが病気だったミツキェーヴィチを訪れ、ピアノ演奏によって彼の心を癒した。ショパンは12年前にミツキェーヴィチの詩2編に旋律を付けた事があった。
1855年、妻のセリナが亡くなると、ミツキェーヴィチはクリミア戦争にポーランド人部隊を派遣してロシアと戦うため、パリに未成年の子ども達を残してオスマン帝国のコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)に移動して準備を進めたが、その最中に同地で病没。死因はコレラと推測される。
死後、彼の遺体はコンスタンティノープルで仮埋葬された後にフランスに移されたが、1890年にポーランドに移され、クラクフのヴァヴェル大聖堂の地下室に安置された。
1998年にはアンジェイ・ワイダによって「パン・タデウシュ」が映画化(邦題『パン・タデウシュ物語』)された。
ミツキェーヴィチの母語はポーランド語だった。基本的にポーランド語で創作活動を行ったが、血筋はリトアニア人の家系で、住んでいたのはベラルーシだった。彼はポーランド・リトアニア共和国として一体性を持っていたこの地域の複雑で豊かな文化的土壌によって育まれた。ポーランドでは「国民的詩人」としての評価が与えられ、クラクフのヴェヴァル大聖堂に埋葬された。首都ワルシャワにあるポーランド大統領府の北側にはミツキェーヴィチの銅像が建てられ、ポズナニではアダム・ミツキェーヴィチ大学が設置されている。
一方、リトアニアでも敬意が捧げられている。首都ヴィリニュスに博物館が置かれ、1998年には生誕200周年の記念硬貨が発行された。この他、ベラルーシの首都ミンスクやグロドノ、ウクライナのリヴィウなど、かつてのポーランド・リトアニア領の各地に銅像が残っている。また、ミツキェーヴィチが長年居住したパリや死没地のイスタンブールでも博物館があり、現在でも彼は多くの国の人々に慕われている。
【公演予告】
〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)
〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)
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《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)[2023/07/05 update]
http://ooipiano.exblog.jp/32964280/
2023-07-06T04:54:00+09:00
2023-09-06T01:31:01+09:00
2023-05-03T16:41:52+09:00
ooi_piano
ショパンの轍
大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ 表・裏
【第1回】2023年6月4日(日)15時開演(14時45分開場)
F.F.ショパン(1810-1849):
前奏曲 変イ長調 Op.Posth. (1834) 1分
ロンド ハ短調 Op.1 (1825) 8分
--
前奏曲 変ホ短調 Op.Posth. (1838/2002、J.カルバーグ補筆) 1分
即興曲第1番 変イ長調 Op.29 (1837) 4分
即興曲第2番 嬰ヘ長調 Op.36 (1839) 6分
即興曲第3番 変ト長調 Op.51 (1842) 4分
--
前奏曲 嬰ハ短調 Op.45 (1841) 5分
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66 (最終稿、1835) 5分
幻想曲 ヘ短調 Op.49 (1841) 13分
(休憩15分)
24の前奏曲集 Op.28 (1839) 38分
I. ハ長調 - II. イ短調 - III. ト長調 - IV. ホ短調
- V. ニ長調 - VI. ロ短調 - VII. イ長調 - VIII. 嬰へ短調
- IX. ホ長調 - X. 嬰ハ短調 - XI. ロ長調 - XII. 嬰ト短調
- XIII. 嬰ヘ長調 - XIV. 変ホ短調 - XV. 変ニ長調「霤」 - XVI. 変ロ短調
- XVII. 変イ長調 - XVIII. ヘ短調 - XIX. 変ホ長調 - XX. ハ短調
- XXI. 変ロ長調 - XXII. ト短調 - XXIII. ヘ長調 - XXIV. ニ短調
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
〔アンコール〕
A.スクリャービン(1872-1915):《幻想曲 ロ短調 Op.28》(1900)
ポーランド・アラベスク――山村雅治
1.
SPレコードが発明されて、音楽が刻まれた音盤が発売された1900年代初頭には、パデレフスキはピアノの帝王だった。イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860- 1941)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家。当時の偉大なピアニストであり、第1次大戦後に独立を果たしたポーランドの初代首相を務めた。
20世紀初頭に「パリのショパン」から「ポーランドのショパン」に奪還したのがパデレフスキだった。その時代にはショパンはフランス音楽だったし、ドイツ音楽を至上のものとする人たちからは歯牙にもかけられていなかった。
ショパンの音楽に秘められていた天才が世界に広まったのは、パデレフスキとパハマンらが録音したSPレコードの功績が大きい。ドイツ・グラモフォンが1898年、イギリス・コロンビアが1897年、アメリカ・ビクターが1901年に設立されたころからの録音が鑑賞にたえる音源として残された。SPレコードは片面盤が最初期に売りだされた。片面には4分半ほどしか音を刻むことができない。メルバやカルーソーらの声楽とクライスラーやカザルスらの弦楽器の小品、そしてパデレフスキやパハマン、コルトーらのピアノ演奏の音盤はそれらの片面盤にショパンの作品をたくさん刻んだ。パデレフスキのは1920年代の録音から手元にある。
パデレフスキはポーランドの独立のために力を尽くした闘士でもあった。ポーランドは17世紀なかばからすでにロシア、オーストリア、プロイセンに分割統治されていた。1795年に独立を求めての戦いに敗れてワルシャワはプロイセン領になった。ところが1807年にフランス軍がプロイセン軍をしりぞけて、ナポレオンはワルシャワ公国をつくる。しかし1812年にフランス軍はロシア軍に粉砕される。ワルシャワもロシア軍が占領した。ウィーン会議が開かれたのは1815年。ワルシャワ公国が「ポーランド立憲王国」として再建されることが決まった。王はロシア皇帝アレクサンドル一世だった。ワルシャワの中心部の建物はロシア軍が駐留した。多くのポーランド人がフランスへ亡命した。
このときすでにフリデリク・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin 1810-1849)は5歳。彼は1810年、ワルシャワから西に46kmはなれたジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにしてミコワイとなのった。彼は自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった。フランス語が堪能だったミコワイは貴族の家庭教師をするようになった。そのつながりでユスティナ・クシジャノフスカと出会った。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、家が没落して貴族の家で住み込みの侍女をしていた。ミコワイとユスティナは1806年に結ばれた。
ショパンは6歳でピアノを習いはじめた。そして一年半後には演奏会を開いている。はじめからピアノが弾けた。7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。ポロネーズはフランス語で「ポーランド風」の意味をもち、マズルカと並んでポーランド起源の舞曲である。4分の3拍子で、もとはポーランドの民族舞踊だった。幼いショパンにはからだに浸み込むほどに親しい音楽だった。
ポーランドはその後、独立運動の時代をむかえる。1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。青年に成長したショパンは「ピアノ協奏曲第2番」、「同第1番」を自ら初演し成功をおさめ、西ヨーロッパに活動の場を広げようとして到着したばかりのウィーンに滞在していたときだった。旅の仲間だった親友は蜂起に加わるために帰国したが、ショパンはウィーンにとどまった。蜂起はつぶされた。ショパンはウィーンに冷遇された。
ポーランドは、最後の作品がマズルカだったショパンの没後にもくりかえし蜂起する。1856年の「一月蜂起」またしても敗れ、数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアに流刑になった。
プロイセン王国内の旧ポーランド王国領では、1871年からはビスマルクにより、ポーランド人に対する抑圧政策が敷かれた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあともドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年まで続けられた。1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。翌1919年1月、イグナツィ・パデレフスキ首相/外務相による内閣発足。1920年のポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍の協力により勝利をおさめた。
パデレフスキは1922年に政界を引退してカーネギーホールで復帰リサイタルを開いた。大成功をおさめてアメリカ・ビクター社と契約を結び、たくさんの音盤を世に出すことになった。そして1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。この年の「ポーランド祖国防衛戦争」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年にはロンドンにおけるポーランド亡命政府「ポーランド国家評議会」の指導者になった。80歳のピアニストがポーランド回復基金を発足させ財源確保のために何度も演奏活動を行なった。この演奏旅行の中でパデレフスキは1941年6月29日の午後11時にニューヨーク市で客死した。
彼こそがポーランドだ。ショパンこそがポーランドだったように。
2.
パデレフスキが没したとき、ポーランドはナチス・ドイツ、スロバキア、ソビエト連邦、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。ユダヤ人収容所で何が行われていたかは当時の誰もが知らなかった。ドイツ人さえも。苛烈をきわめた独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていく。1944年8月、レジスタンス・ポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起きた。それはパデレフスキの後をつぐ亡命政府の武装蜂起であったためにソ連軍が加勢せず約20万人が命を落として失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。
1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ナチス・ドイツの悪夢からは解放されたものの戦後はスターリンの圧政と、それを継ぐ後継者たちのソビエト連邦に圧しつぶされていくままになる。1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。レフ・ワレサが第三共和国初代大統領だった。1989年は雪崩を打ってヨーロッパの共産主義政権国家が崩壊した年だった。
ナチス・ドイツとソビエト連邦に圧しひしがれていた時代にもポーランドにはショパンがいた。パデレフスキはショパン生誕100年の1910年、彼の政治演説のはじめにショパンの天才をポーランドの象徴として語った。1918年に独立をかちえるとワジェンキ公園にショパン像を建て、ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラに庭園モニュメントをつくった。そしてピアニストたちが競いあう「ショパン国際ピアノコンクール」と「フリデリク・ショパン研究所」(のちの「フリデリク・ショパン協会」)設立への動きを起こした。
ショパンコンクールは1927年に第1回が開催された。8か国26名が参加した。優勝は19歳のレフ・オボーリン。20歳のドミトリー・ショスタコーヴィチが本選入選名誉ディプロマを得た。コンクールは5年ごとに開くということで第2回は1932年、第3回は1937年に開かれた。1939年から終戦の1945年にワルシャワは戦闘と空爆により焦土に瓦礫が散乱する街になった。その期間には第2次大戦の当事国は国際大会を断念せざるを得なかった。再開されたのは1949年の第4回。その後、第5回を1955年に開いて、以後は5年に一度の催しとして世界の若者が腕を競っている。
3.
ポーランドの人びとは長く続いた苦難の時間を生きてきた。ポーランドには多民族の人びとが暮らす。西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ、ルシン人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族などの人びとが生きてきた。言語はポーランド語。文学はポーランド語だけではなくイディッシュ語で書かれたり英語で書かれたりした。ザメンホフが創造した人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。世界共通語をつくりたかったのだろう。
文化は民族をひとつに結いあげる。民族の文化の表現が他民族にも訴えるものがあるとき、文化は国境をこえて世界の人のものになる。文学ではシェンキェヴィチが日本では戦前から知られていた。太宰治はシェンキェヴィチの長編小説『クオ・ヴァディス』をほめていた。だからそれを読んだ。おもしろかった。息をつかせずに一気に読んだ。人を楽しませる「おはなし」の書き手として太宰治ほどの作家はいない。『ろまん燈篭』がその面での白眉であり『斜陽』『人間失格』は別の文脈での大傑作だ。ポーランドには太宰治がほめたヘンリク・シェンキェヴィチ、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモント、詩人のチェスワフ・ミウォシュと、そして同じく詩人でヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル文学賞受賞者がいる。そういえばスタニスワフ・レムもポーランド人だった。『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって映画化されたことで世界に知られている。ポーランド文学は英訳や独訳からではなく原語からの翻訳書がたくさん出てほしい。
地動説を唱えた天文学者コペルニクスや、物理学者のキュリー夫人、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はいずれも世界の誰もが知っているポーランド人だ。そしてフリデリク・ショパン。彼がいなければ日本ではポーランドの音楽は民謡「森へ行きましょう」と「ポーレチケ」にとどまっていたかもしれない。彼の前にはポーランド固有のリズムと旋律を書いて人々の心に訴える音楽を創造する作曲家はいなかった。だからこそショパンが12歳から師事した作曲の先生、エルスネル自身は古典音楽を目指していたが若いショパンの古典から自由にはばたく独創性を認めていた。1829年、音楽院の卒業試験に与えたエルスネエルの評価は「稀有な才能―音楽の天才」という言葉だった。
エルスネルは若いショパンに将来は宗教曲や歌劇を書くことを求めていた。しかしショパンの才能はそうした大曲を書くことには向いていなかった。少年時代から病弱だったこともあるかもしれない。音楽を創造することができる時間のかぎりを直感していたかもしれない。ショパンはモーツァルトに似た神童とされたけれども、モーツァルトは生来の歌劇作家だったが、ショパンは生来の叙情詩人だった。劇の作家は他者を書くことが得意だ。シェイクスピアもモーツァルトもその作品に端役はなく、どんなに出番が少なくてもどの役も生きていた。ヴェルディも彼らの劇を継いだ天才だった。ヴァーグナーは知らない。あれは劇だろうか。ヴァーグナーの音楽は大好きだけれども。歌劇としては「主人公歌劇」はつまらない。ヴァーグナーは歌劇を模して自分自身を表現する偉大な音楽を書いた。歌劇を書くには魅力ある主人公を立たせるとともに、その周りの人間のすべてを生かさなければならない。ショパンがそうした仕事をするには健康も生きる時間も足りなかった。宗教曲にしても同じようなことが言える。生涯の多くの時間に咳きこみ喀血を繰り返したショパンは、一度ならず「深き淵より、主よ」と祈りを捧げたことがあったにちがいないと思うけれども。彼が切実に作品に生かしたいのはイエス・キリストではなく自分自身だった。
音楽が流れ、爆発する一瞬にショパンはすべてをかけた。少ない音符にきりつめられた短い時間に語りつくす音楽に彼の天才は輝く。1829年、ベートーヴェンの死後わずか2年の年にショパンは「ピアノ協奏曲第2番」作品21を書きはじめ翌1930年に初演した。同年夏には「ピアノ協奏曲第1番」作品11を仕上げて自宅で試演会をして10月にウィーンへ旅立つ前の告別演奏会で公開初演した。曲そのものは絶讃された。しかしピアノ演奏については「音が小さい」と難癖をつけられた。当時の聴衆にはショパンの音楽も演奏技術もそれまでに聴いたことがなかったものだったけれども、この批評には応えることができない。以後、ショパンは大きなホールでの演奏が苦手なものになり、サロンでの少人数の集まりで作品を聴いてもらうことに音楽家としての喜びを見出していくことになった。かつてウィーンで冷遇され、晩年にロンドンで無視されても、彼はパリへ戻った。サロンでの演奏では<つぶやき>や<ささやき>をピアノで歌うことが少ない聴衆の底にまで届いた。人間はほんとうのことを洩らすときにはそうした声になる。自分の内密を明かすときには、ことに。
ジョルジュ・サンドとの出会いと喜びと失望と別れについては、ここでは触れない。書いていけば一冊の本になる分量になるだろう。彼女がいたからショパンの創作は豊かになった。作品はピアノ独奏曲がほとんどを占める。曲集といえるのはエチュード。プレリュード。バラード。スケルツォ。ワルツ。ノクターン。即興曲。ノクターン。そしてポロネーズとマズルカだ。ショパンの傑作はマズルカに多い。外に向けての飾りつけは作品を表に出すときには、芸術家は誰もそれをすることはわかりきったことだが、マズルカには飾りを排した曲がある。裸のショパン。ポーランドについて語るつもりだった。しかし、それはショパンを語ることにほかならなかった。
【公演予告】
〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)
ロンド ハ長調 Op.73 (1826、独奏版)
ソナタ第1番 Op.4 (1828)
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835)
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839)
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841)
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842)
スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832)
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837)
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839)
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842)
〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)
〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)
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3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]
http://ooipiano.exblog.jp/32890788/
2023-03-07T13:14:00+09:00
2023-03-09T02:04:37+09:00
2023-02-08T13:12:08+09:00
ooi_piano
POC2022
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉
●G.リゲティ(1923-2006):《練習曲第15番「白の上の白」》(1995) 3分
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1944):《3つの練習曲》(1914) 14分
I. Affettamente - II. Pianissimo. Con dolce maniera - III. Burlando
■同:《ピアノソナタ第2番》(1916) 12分
Moderato con moto, Allegro moderato - Lento - Moderato - Lento - Allegro moderato
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914):《ピアノソナタ第2番》(1912) 14分
I. Fuga. Lento expressivo - II. Presto
■S.Y.フェインベルク(1890-1962):《ピアノソナタ第3番 Op.3》 (1917) 25分
I. Prelude - II. Funeral March: Lugubre e maestoso - III. Sonata: Allegro appassionato
●J.パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱初演) 10分
(休憩10分)
■S.S.プロコフィエフ(1891-1953):《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分
■N.B.オブーホフ(1892-1954):《2つの喚起》(1916) 12分
I. - II.
■A.-V.ルリエー(1892-1966):《2つの詩曲 Op.8》(1912) 10分
I.「飛翔」- II. 「蹣跚」
■同:《統合 Op.16》(1914) 8分
I. Lent - II. Modérément animé - III. Vite (aigu) - IV. Assez vite, mais toujours mesuré - V. Mesuré
■同:《架空のフォルム》(1915) 9分
I. - II. - III.
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968):《ピアノソナタ第1番 Op.13》(1924) 13分
Concentrato e sostenuto - Poco più tranquillo - Pesante (Meno mosso) - Tempestoso - Lugubre - Maestoso pesante
■A.V.モソロフ(1900-1973):《2つの夜想曲 Op.15》(1926) 7分
I. Elegiaco, poco stentato - II. Adagio
■同:《交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 》(1927/2021) [米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演] 4分
(上段左から)ロスラヴェツ/スタンチンスキー/フェインベルク/オブーホフ
(下段左から)ルリエー/リャトシンスキー/モソロフ
ジョナサン・パウエル Jonathan POWELL, composer
20歳でパーセルホールにデビューしたパウエルは、その後10年間、主に作曲活動(アルディッティ弦楽四重奏団、ロンドン・シンフォニエッタ、ニコラス・ホッジスが彼の作品を演奏している)と音楽学に専念する。ケンブリッジ大学でスクリャービンの後続世代への影響についての学位論文を執筆。その後、スラミタ・アロノフスキーにピアノを師事し、演奏活動に重点を置くようになる。ニューグローヴ音楽・音楽家辞典第2版に、スクリャービンをはじめとする様々なソ連・ロシアの作曲家に関する記事を寄稿した。フィニッシー、デュフール、アンブロジーニ、シュタウト他の多数の新作を初演している。
カイホスルー・ソラブジ作品の最も熱烈な演奏者であり、《オプス・クラウィケンバリスティクム》の現在までの全曲演奏・計22回のうち10回はパウエルによるものである。2020年5月、ソラブジ《 「怒りの日」によるセクエンツィア・シクリカ》の7枚組CD(8時間半)でドイツ・レコード批評家賞を受賞した。近年では、カトヴィツェ、ブルノ、オックスフォード、ロンドン、デンマーク、シアトル、ダルムシュタット等でマスタークラスを開催している。
ロシア・アヴァンギャルド音楽に関するメモ――野々村 禎彦
19世紀末の美学が一段落した20世紀初頭、世界各国(とは言ってもヨーロッパとその文化的影響下にある一部の国々だけだが)で同時多発的に芸術の前衛運動が起こった。ロシア・アヴァンギャルドはそのロシア版であるが、特殊な点がいくつかある。まず、運動の発展期にロシア革命が起こったこと。他国の前衛運動も第一次世界大戦に大きく阻害されたが、大戦は数年で終結し、その結果生じた政治体制の変化は総じて運動の追い風になったのに対し、ロシア革命から生まれたソ連は運動に干渉し続け、最終的には運動を葬った。次に、運動の前段階にあたる象徴主義・原始主義・未来派などの諸傾向が、他国では19世紀後半から数世代かけて進行したのに対し、ロシアではこれらが20世紀初頭の数年間に集約され、一世代で完結したこと。最後に、他国の前衛運動はインターナショナルな性格が強かったのに対し、ロシアではヨーロッパの動向は意識しつつも、自国の固有性への拘りが強かったこと。これらの特徴は、ロシア・アヴァンギャルドの各ジャンルの温度差に繋がった。本稿では、まずそのあたりを眺めてゆく。
芸術の前衛運動は伝統を否定して新たな芸術を創造しようとするものであり、ロシア革命本来の理念との相性は悪くなさそうに思える。多くのジャンルの芸術家たちはそう考えて革命を歓迎し、レーニン時代のソ連共産党もこの運動を擁護した。その時期に国際的に目覚ましい成果を挙げたのが美術だが、これは人的交流にも現れている。モスクワで生まれたワシリー・カンディンスキー(1866-1944) は、1896年にドイツに移住して絵画を学んだ。当初は象徴主義的な作風だったが、年代とともに風景画の輪郭線が曖昧になる一方で色彩は華やかになってゆき、やがて地平線が消えてナメクジのような不定形の形象が現れ(この無意識下での変化を自覚して『即興』シリーズを開始)、1910年には抽象に移行した(創作の中心にあたる『構成』シリーズを開始)。1911年には芸術家集団「青騎士」を結成し、抽象絵画の創始者として国際的に認知された。第一次世界大戦を避けてモスクワに戻り、ソ連成立後は教育人民委員を務めた。マルク・シャガール(1887-1985) は、ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィーチェブスク)で育って美術を学び、1910年にパリに移住して幻想的な作風で人気画家になった。第一次世界大戦を避けてヴィテブスクに戻り、ソ連成立後は同地で美術学校を始めた。作風的にはおよそ相性が良くなさそうなシャガールもソ連に残って運動に貢献しようとするほど、美術ではロシア・アヴァンギャルドは期待されていた。
近代芸術を特徴付ける諸傾向が一時期に圧縮されると、それに乗って爆発的に開花する才能が現れる。美術ではカジミール・マレーヴィチ(1879-1935) がそうだった。ロシア領キエフ(現ウクライナ・キーウ)に生まれ、モスクワで美術を学んだ彼は、ロシア・アヴァンギャルド以前の作品は全く知られていないが、1910年代初頭にまず農民を題材にした原始主義絵画で頭角を現し、次いでこの題材をキュビズムで処理し、さらにそこに未来派の題材を合流させた立体未来派を提唱し…とほぼ1年ごとに新たなコンセプトを打ち出し、しかし以前のコンセプトでも創作を続け、ロシア近代美術の諸潮流の結節点として自らを進化させてゆく。そして1915年に提唱した絶対主義(シュプレマティズム)では、抽象化を徹底させて『黒い正方形』(1915) や『白の上の白』(1918) に代表される、1960年代以降の色面抽象絵画の最も禁欲的な部分を半世紀近く前に先取りした境地に達した。20世紀前半の抽象絵画の大物としてはカンディンスキーの他にピート・モンドリアンやパウル・クレーが挙げられるが、この時期のマレーヴィチの徹底度には誰も及ばない。
ヴィテブスクで美術学校を始めたシャガールは、ロシア・アヴァンギャルドの美術作家たちを講師として招き、その中にはマレーヴィチもいた。すると数ヶ月後には、シャガールに心酔していた学生たちもみなマレーヴィチ流の作風に宗旨替えしてしまった。シャガールは美術学校を1922年まで続けたが、もはやソ連では自分の作風は求められていないと見切りをつけ、1923年からはパリで活動を再開した。カンディンスキーが大戦終結後もソ連に残ったのは、抽象移行後の作風が飽和して新たな方向性を模索していたことに加え、「芸術先進国」の前衛運動を牽引してきた経験を祖国の後進に伝えたいという思いもあった。だがカンディンスキーは、少なくとも美術ではソ連の方が先を行っており、その最先端には自分も付いていけないことに気付いた。ただしマレーヴィチは、『シュプレマティズム』をタイトルに含むシリーズでは、カラフルな四角形・三角形・円・直線などをデザイン的に組み合わせ、シュプレマティズムの代表作よりは幾分親しみやすい方向性を打ち出していた。これは、工業製品のような単純な形象を組み合わせて創作を行う、「構成主義」と総称される傾向との相互浸透から派生したスタイルであり、バウハウスの教授に招聘されて1922年にドイツに戻ったカンディンスキーは、この方向性を自己流にアレンジして新たな創作を始め、講義でも最新の芸術動向として紹介したロシア構成主義は、その後のバウハウスの基盤になった。
ヴィテブスクに大勢現れたマレーヴィチのエピゴーネンたちは、結局誰も画家にはならず、その経験を工業デザインなどに生かした。カンディンスキーでも付いていけなかったものを一般人が身に付けられるはずもなく、同じことはキエフの美術学校やモスクワのヴフテマス(国立高等美術工芸工房)でも繰り返された。スターリンがソ連共産党の指導者になり、ロシア・アヴァンギャルドへの風当たりが強まると、ロシア構成主義の成果を工業デザインなどに応用する生産主義に向かう者が増えたが、マレーヴィチはこの方向性には向かわず、初期の農民画に回帰した。マレーヴィチの凄さは、この方向転換が生き残りのための妥協にはならず作品の強度は落ちなかったことで、一度覚醒した才能には様式は副次的なものなのだと感じさせられる。
以上、ロシア・アヴァンギャルド美術の動向をマレーヴィチを中心に駆け足で振り返ったが、ロシア・アヴァンギャルド音楽では事情が異なる。まず、クラシック音楽の基盤は伝統的レパートリーの演奏による再現であり、それらは教会~王侯貴族~ブルジョアジーのために書かれた作品ばかりで、文学のように虐げられた民衆の苦悩に寄り添ってきたわけではない。新作では伝統を否定しているとはいっても言い訳でしかなく、ロシア革命との相性は最悪。ジャンルごと抹消されてもおかしくない。多くの演奏家たちはそう考え、海外でも生計を立てられる技術と実績を持っている者は我れ先に亡命した。実際にはロシア・アヴァンギャルド音楽すら美術と同じ理屈で擁護されたわけだが、それは砂上の楼閣に過ぎないと亡命し損ねた人々は考え、前衛運動を生贄にして安寧を図ろうとした。ブルジョアジーの断末魔の悲鳴を自ら葬るくらい、我々は革命精神を理解しているというわけだ。ニコライ・ロスラヴェツ(1881-1944) は前衛音楽振興のためにソ連現代音楽協会(ACM) を1923年に設立したが、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM) も同年に設立され、ACMの「ブルジョア的」な「形式主義」の非難を活動の主目的とした。芸術家同士で足を引っ張る音楽に特有の構造には、このような背景がある。スターリン時代のソ連共産党はRAPMの主張を汲む形で1932年にすべての作曲家組織を解散させ、ソ連作曲家同盟に一元化した。
マレーヴィチのように爆発的に開花した才能は、同世代の音楽にも存在した。言うまでもなく、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) である。彼はロシア国内ではなくパリで才能を開花させ、第一次世界大戦に際してもスイスに逃れてロシアには戻らなかった。芸術は統計的には例外的な特異点に過ぎない突出した才能が総取りする分野であり、ロシア・アヴァンギャルド美術と音楽の最大の違いはこれに尽きるのかもしれない。この時期ではストラヴィンスキーに次ぐ才能であるセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) も、活動初期にはロシア・アヴァンギャルドに関わったが、幅広いレパートリーを持つピアニストでもあったため、1918年には日本を経て米国に亡命した。ただし米国社会とは水が合わず、1920年にはパリに移っている。
今回取り上げる作曲家にも、亡命組は少なくない。ニコライ・オブーホフ(1892-1954) はロシア革命直後の1918年にパリに、アルトゥール・ルリエー(1892-1966) も1921年にベルリンに亡命し、翌年からパリに定住した。彼らが亡命後も本領を発揮できていれば、ロシア・アヴァンギャルド音楽の成果であることに変わりはないが、ここで固有性への拘りが問題になってくる。彼らの霊感は自国の外では発揮されないのである。オブーホフの場合は作曲家として知名度が足らず、肉体労働で日銭を稼ぐ必要があったこともあるが、ルリエーはストラヴィンスキーとの交流を通じて新古典主義に転じてからは、ロシア時代の奔放さが影を潜めてしまった。プロコフィエフも亡命後は作曲ペースが落ち、1927年の一時帰国後は帰国を繰り返してソ連からの作品委嘱も受けるようになり(むしろソ連とヨーロッパの親善大使のような役割を果たし)、結局1936年以降はモスクワに定住することになる。亡命組で亡命後も一定の成果を挙げたのはイワン・ヴィシネグラツキー(1893-1979) だけかもしれない。後期スクリャービンの強い影響下にロシア・アヴァンギャルドに加わったが、微分音程の組織的探求を通じて固有性の問題を乗り越えた。ただし微分音に対応した楽器が必要なため、今回の選曲には含まれない。
このような背景もあり、今回の大井セレクションは、ロシア革命以前の作品が中心になっている。作風的には後期スクリャービンの延長線上にある作品が多く、「無調」的な音響をスクリャービンの神秘和音に代わるどのような音組織で得るかが個性のポイントになっている。以下は個々の作曲家への簡単なコメントである(プロコフィエフの知名度は飛び抜けているので省略)。
ロスラヴェツは駅員などを経てモスクワ音楽院に1902年に入学し、1912年に修了した。苦学したため運動関係者の中では年長なこともあり、ACM代表や運動のスポークスマンを務めた。彼をシェーンベルクに喩えた紹介が多いのはこのような役回りに加え、後期スクリャービンに倣った作曲家たちの中では構築感が強いことも理由だろう。ACM設立後はRAPMによる批判の矢面に立たされて消耗し、作風は穏当なものになってゆく。1930年には公職を追放されて自己批判を強いられ、ACM解散後はソ連作曲家同盟加入も認められず、不遇なまま亡くなった。アレクセイ・スタンチンスキー(1888-1914) はモスクワ音楽院でタネーエフに作曲を学び、将来を嘱望されていたが、父の死に接して精神の平衡を崩し、若くして事故死した。良き理解者であるサムイル・フェインベルク(1890-1962) 同様、中期スクリャービン風の濃密な書法から出発したが、ムソルグスキーの影響で平明な全音階書法に移行して個性を確立した。フェインベルクはソ連を代表するピアニストのひとりで、J.S.バッハとスクリャービンを特に得意としていた。作曲家としての作風はピアニストとしての得意レパートリーに由来し、中期スクリャービンを伝統的な対位法で書き直したかのようである。
モスクワ音楽院とペテルブルク音楽院で作曲を学んだオブーホフは後期スクリャービンから出発し、スクリャービン以上の神秘主義者になった。オクターブの12音を均等に出現させる独自のシステム、「音響十字架」というテルミンのような電子楽器の制作、宗教的法悦を表現する非声楽的な発声(叫び、囁き、呻き、口笛等)の探求…そして作曲家人生の大半の時間は《人生の書》という2000ページを超える大作(個人的信仰の対象であり、演奏可能性は副次的と割り切っている)に費やされた。ペテルブルク音楽院でグラズノフに作曲を学んだルリエーも後期スクリャービンから出発し、ロシア時代はさまざまな書法を試みた。今回の選曲では《2つの詩曲》(1912) が原型・《統合》(1914) がオクターブの12音を均等に出現させるシステムの試み・《架空のフォルム》(1915) が小節線も拍節も持たない多くの断片から奏者が音楽を組み立てる試みである。アカデミックな評価を受けて民衆教育省音楽部門人民委員を務めたが、公務に従事するうちにソ連の実態に失望し、ベルリン出張の機会に亡命した。
ボリス・リャトシンスキー(1895-1968) はキエフ(現キーウ)音楽院でグリエールに作曲を学び、ロシア国民楽派の伝統から出発したが、ヨーロッパ前衛の語法を取り入れてロシア・アヴァンギャルドに加わった。社会主義リアリズムの時代を生き延びてソ連国家賞も3回受賞できたのは、初期スクリャービンの無調化という迂遠なスタイルを採用した分、後期スクリャービンから出発した先人たちとは違って巻き戻しが容易だったのだろう。弟子にはヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-) がおり、ある意味師と同じ道を歩んでいる。アレクサンドル・モソロフ(1900-73) はロシア革命に従軍し、モスクワ音楽院に入学してグリエールとミャスコフスキーに作曲を学んだ。徹底したオスティナートに彩られた《鉄工場》(1928) は、同年から始まる第一次五カ年計画で重工業推進に舵を切ったソ連を象徴する音楽として国際的に広く知られるが、ソ連当局はこの暴力的な作風には否定的で、濡れ衣の罪状で白海運河建設の強制労働に送り込まれた。社会主義リアリズムの時代を代表する師ふたりの奔走で辛うじて生還できたが、その後は不遇なまま亡くなった。
ロシア・アヴァンギャルド音楽の作曲家たちの運命を眺めていると鬱々としてくるが、他ジャンルには生前から脚光を浴びた芸術家も少なくない。ロシア未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930) は1923年に芸術左翼戦線(LEF) を結成し、詩・文学・美術・映画にまたがる交流を生んだ。若くして自殺したが、葬儀にはレーニンに匹敵する15万人が参列し、モスクワの凱旋広場はマヤコフスキー広場と改称された。ただし生前の彼は秘密警察に常時監視されており、自殺の背景にはロシア・プロレタリア作家協会(RAPP) の激しい中傷があった。RAPPは1925年に結成されたが、このような対抗組織を作る手法はACMに対するRAPMが悪しき先例となっている。LEFにはセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948) も参加しており、彼への生前からの国際的評価は周知の通り。また映画界からはジガ・ヴェルトフ(1896-1954) も参加しており、『カメラを持った男』(1929) のような尖鋭的な作品がロシア・アヴァンギャルド末期にも作られていた。おそらく、ロシア・アヴァンギャルドは音楽には早すぎたのだろう。その精神が十分な形で音楽に反映されるには、ロシア・フォルマリズム~構造主義~《構造》(ブーレーズ)、ロシア構成主義~バウハウス~『形式化された音楽』(クセナキス)という壮大な迂回路を経る必要があったのかもしれない。
カジミール・マレーヴィチ(1879-1935):《白の上の白》(1918)
[cf.] 連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》
【第1回】 P.I.チャイコフスキー:交響曲第4/5/6番(独奏版) [2022/06/12]
【第2回】 S.V.ラフマニノフ:26の前奏曲集+18の練習曲集 [2022/08/07]
【第3回】 S.S.プロコフィエフ:戦争ソナタ(全3部作) [2022/10/01]
【第4回】 D.D.ショスタコーヴィチ: 24の前奏曲とフーガ Op.87 [2023/01/07]
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●A.N.スクリャービン:ソナタNo.2/3/4/5 + ラフマニノフ:ソナタNo.2 [2019/07/20]、後期全ピアノ曲(ソナタNo.6/7/8/9/10他) [2019/12/20]、交響曲第4番《法悦の詩》 + ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(2台ピアノ版) [2014/09/12]、交響曲第5番《プロメテウス》《ピアノ協奏曲》(2台ピアノ版) [2019/05/31]
●I.F.ストラヴィンスキー:《ピアノソナタ嬰ヘ短調》《「兵士の物語」大組曲》《コンチェルティーノ(ルリエ編)》《八重奏曲(ルリエ編)》他 [2017/01/22]、《スケルツォ》《火の鳥》《ペトルーシュカ》《子供たちのワルツ》《夜鶯の歌》《管楽器のシンフォニー集(ルリエ編)》《5本の指で》他 [2016/08/20]、《詩篇交響曲》《カプリッチョ》《ムーヴメンツ》他(2台ピアノ版) [2018/05/25]、《結婚》《春の祭典》《4つのエチュード》(2台ピアノ版) [2016/09/22]
●N.Y.ミャスコフスキー:《チェロソナタ第1番》《同第2番》 [2015/02/06]
●G.I.ウストヴォリスカヤ:ピアノソナタ全6曲 + ショスタコーヴィチ:ピアノソナタ第1番 [2017/11/04]
【演奏動画】
〇チャイコフスキー編曲集
〇ショスタコーヴィチ編曲集
〇ウクライナ関連プレイリスト
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〇A.グラズノフ: 《ヴォルガの舟歌 Op.97》 [A.ジロティ(1863-1945)による独奏版]
〇チャイコフスキー:《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版] 交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版] 歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版) 《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873) 《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876) 《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版] 《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版] 《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]
〇ラフマニノフ:《徹夜祷》より「今こそ主よ」 Op.37-5 (1915)(作曲者によるピアノ独奏版) 《星条旗》(1918)
〇ストラヴィンスキー:バレエ音楽《狐》より「行進曲」(1916、作曲者編) 舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017) [+浦壁信二(ピアノ)](米沢典剛編2台ピアノ版) 《ヴォルガの舟歌》(1917) 《星条旗》(1941)
〇R.グリエール(フリイェール):《ブリヤート=モンゴル・ソ連社会主義自治共和国のための英雄的行進曲 Op.71》(1936/2022) [米沢典剛編ピアノ独奏版]
〇A.アレクサンドロフ:《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
〇ショスタコーヴィチ:《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918) オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より第2幕間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版] 《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版] オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版) 映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版] [+浦壁信二(pf)] 交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版] [浦壁信二(pf)] 交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版] 《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]
〇P. ドゥゲートゥル(A.ゴリデンヴェイゼル編):《インターナショナル Op.15-1》(1933)
〇P. ドゥゲートゥル(武満徹編):《インターナショナル》(1974)
〇A.ペルト:《アリーナへ》(1976) 《アリヌシカの快復のための変奏曲》(1977)
〇M.スコリク:《メロディ》(1981)
〇V.シルヴェストロフ:《ウクライナへの祈り》(2014)
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2/18(土)ラヴェル傑作集+浦壁信二新作初演 [2023/02/11 update]
http://ooipiano.exblog.jp/32888884/
2023-02-11T15:08:00+09:00
2023-02-11T15:09:41+09:00
2023-02-06T09:29:34+09:00
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POC2022
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【ポック(POC)#50】 2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
■モーリス・ラヴェル(1875-1937):《鐘の鳴る中で》(1897/2023) [米沢典剛による独奏版、初演] 3分
■《水の戯れ》(1901) 6分
■《鏡》(1904/05) 27分
I.夜蛾 - II.悲しい鳥たち - III.海原の小舟 - IV.道化師の朝の歌 - V.鐘の谷
■《夜のガスパール - アロイジュス・ベルトランによるピアノのための三つの詩》(1908) 23分
I.水の精 - II.絞首台 - III.スカルボ
(休憩10分)
●浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演) 7分
■M.ラヴェル:《高雅で感傷的なワルツ》(1911) 15分
I.中庸に - II.かなり緩やかに - III.中庸に - IV.生き生きと - V.ほとんど緩やかに - VI.活発に - VII.やや落ち着いて - VIII.終曲
■《クープランの墓》(1914-17) 25分
I.前奏曲 - II.フーガ - III.フォルラーヌ - IV.リゴードン - V.メヌエット - VI.トッカータ
■《ドビュッシーの墓》(1920/2020) [米沢典剛による独奏版、初演] 4分
■《ロンサールの墓》(1924) 2分
■《スペイン狂詩曲》(1908/1923) [カイホスルー・ソラブジによる独奏版、初演] 17分
I. 夜への前奏曲 - II. マラゲーニャ - III. ハバネラ - IV. 祭り
〔使用エディション: ロジャー・ニコルス校訂による原典版(Edition Peters, 1991/2008)〕
浦壁信二:《断想 - 墓》(2023、委嘱初演)
大井浩明氏と2台ピアノをご一緒させて頂くようになって、もう10年近くになる。大井氏は常に膨大な情報を頭の中に携えていて私のような少ない情報を何とか回して目の前の予定を乗り切ろうとし続ける人間にはない発想があり、ここ数回のピアノ弾きに作曲の依頼をするというアイディアもその中の一つ。何故自分にお話しを頂いた時に99%の困惑の中で僅かばかり"面白がって"しまったのか…未だに自分でも分からない。高校生の頃は曲がりなりにも作曲科に在籍しながら、その後わずかな例外を除いて創作から身を退こうと決意した頃の記憶が新鮮味を持って蘇ってきた。時間の経過は苦い想い出も懐しさにすり替える…。(浦壁信二)
浦壁信二 Shinji URAKABE, composer
1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。
モーリス・ラヴェル素描――野々村 禎彦
モーリス・ラヴェル(1875-1937) の創作歴は、《マ・メール・ロワ》(1908-10/11-12) とオペラ《子供と魔法》(1917-25) で大きく3つに区切られる。どちらも子供の夢の世界を描いた作品なのは偶然ではないだろう。《マ・メール・ロワ》以前はクロード・ドビュッシー(1862-1918) と競い合って「印象主義」の語法を発展させた時期、《子供と魔法》以降はイゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) が「スイスの時計職人」と評した管弦楽法の技術それ自体が音楽の主目的になる時期であり、彼らしさが最も表れているのは両者の中間の時期である。だが、彼の代表作と広く看做されている作品は専らその前後の時期に書かれており、このような受容のあり方が彼の素顔が見えにくくなっている大きな要因と言えるだろう。
彼はドビュッシー同様、まずパリ音楽院のピアノ科に入学した。ドビュッシーは一等賞は取れそうにないと早々に諦めて作曲科に移り、作風が固まる前の22歳でローマ賞を受賞したが、彼はなまじ一等賞を取ったため、同世代のリカルド・ビニェス(1875-1943) やアルフレッド・コルトー(1877-1962) に演奏では敵わないと見切りをつけるまでピアノを学び続けた。後に管弦楽化する《古風なメヌエット》(1895) や《ハバネラ》(1895) を書いた時点でも彼はまだピアノ科に在籍しており、結局1897年に作曲科に入り直してガブリエル・フォーレ(1845-1924) に師事した。2台ピアノのための《ハバネラ》と《鐘が鳴る中で》(1897)(組曲《耳で聴く風景》として出版)で作曲家デビュー、管弦楽のための《シェヘラザード序曲》(1898) を自ら指揮して国民音楽協会デビューと、滑り出しは順調。また、《ハバネラ》の書法に興味を示したドビュッシーに譜面を貸したのが、長い因縁の始まりになった。
しかし、1900年から応募し始めたローマ賞には縁がなかった。1905年まで5回応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリ音楽院入学以前から親交を結んでいたスペイン人ピアニスト、ビニェスが「アパッシュ(=ごろつき)」と名付けた芸術家集団の中心人物だったことも、審査員の心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェヘラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査体制が誤っている証拠だという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれた(ラヴェル事件)。フォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現した。彼にとっても受賞以上の「実績」になった。
当時のパリで「進歩的」なピアノ曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《水の戯れ》はドビュッシー《ピアノのために》(1901) の3ヶ月後に初演され、ドビュッシーが10年余り慣れ親しんできた書法を過去のものにした。《映像第1集》初稿(1901) の〈水の反映〉では《水の戯れ》の流動するフォルムに太刀打ちできないので撤回し、新たなピアノ書法を模索した結果が《版画》(1903) だった。アルベニス作品を中心に手持ちの素材を寄せ集めており、その中には彼から借りた《ハバネラ》の、このキューバ生まれの舞曲の本質は固定音の使用だと捉えた着想も含まれる。だが、彼はこれを参照ではなく盗用だと受け取り、ドビュッシーは仰ぎ見る先輩から乗り越えるべきライバルになった。
《水の戯れ》は《亡き王女のためのパヴァーヌ》(1899) と同じ演奏会で初演され、大半の批評家や聴衆は聴きやすい《パヴァーヌ》の方を支持した。この時《水の戯れ》を称賛した数少ない批評家が、ドビュッシーを熱烈に支持してきたピエール・ラロ(1866-1943, 《スペイン交響曲》のエドゥアール・ラロの息子) だった。しかし彼は、ラロが《版画》の書法の新しさを絶賛した時、「私は《水の戯れ》を1901年に書いたが、ドビュッシーが同年に書いた《ピアノのために》にはそのような新しさは何もなく、先駆者は私だ」という書簡を送って抗議した。この一件以来、ラロは彼を敵視して執拗に批判するようになる。なお、ここで問題になっている「新しさ」とはあくまで「印象主義的」な書法のことで、レイヤー書法のことではない。伝統的な対位法では処理できない不均質な素材も、複数のレイヤーに配置して時間軸上で重ね合わせれば処理できる、というアルベニスの民俗音楽素材の処理手法を拡張したこの書法が《版画》以降のドビュッシーの本質だが、あまりに斬新で同時代には理解されなかった(ラヴェルにも、その後の大半の演奏家にも)。
この後もビニェスがふたりの作品を交互に初演する状況は続き、彼はドビュッシーに粘着し続けた。《鏡》(1904-05) の5曲はそれぞれ「アパッシュ」のメンバーに捧げられているが、《ピアノのために》以降にドビュッシーが書いた《版画》・《仮面》(1904)・《喜びの島》(1904) の5曲に対応し、特に固定音を参照した〈グラナダの夕暮れ〉と〈道化師の朝の歌〉・この5曲中で最も華やかな《喜びの島》と〈海原の小舟〉の対応は明確で、この2曲は後に管弦楽化されている。また《版画》・《映像第1集》(1901-05)・《映像第2集》(1907) で繰り返された3曲セットの性格対比(エキゾティックな旋法で特徴付けられる第1曲・アルカイックで内省的な第2曲・名技的な反復運動で特徴付けられる第3曲)は《夜のガスパール》(1908) でも踏襲され、因縁の固定音の魅力を生かした〈絞首台〉をはじめ、コンサートピースとしてのポピュラリティではドビュッシーを乗り越えた。他方、この時期の彼のピアノ曲で最も彼らしいのは擬古典的な《ソナチネ》(1903-05) であり、ドビュッシーを強く意識した創作は彼のピアノ曲の質も大幅に引き上げた。
《夜のガスパール》の前年には初のオペラ《スペインの時》(1907) と初の本格的な管弦楽曲《スペイン狂詩曲》(1907, 因縁の《ハバネラ》の管弦楽版を含む) も書き上げており、彼は波に乗っていた。そんな時、バレエ・リュスを立ち上げたばかりのセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929) から委嘱が舞い込む。振付師ミハイル・フォーキン(1880-1942) の台本による《ダフニスとクロエ》である。バレエ・リュスの総力を注ぎ込み、1910年シーズン最大の呼び物になるはずだった。いよいよ管弦楽曲でもドビュッシーを乗り越える時が訪れたと見て、彼は《夜想曲》(1897-99) の2台ピアノ編曲を1909年、《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) の連弾編曲を1910年に行い、その管弦楽法を身に付けようとした。さらに彼は1910年に、設立者フランクの死後はダンディらが仕切って保守化した国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、フランスにおける「進歩派代表」の地歩を固めてゆく。
だが、《ダフニス》の作曲は予定通りには進まなかった。彼とフォーキンの思い入れを乗せて、4管編成に合唱も加わった編成で1時間近い大曲になり、完成は1912年シーズンにずれ込んだ。この2年は決定的で、《ダフニス》に代わってストラヴィンスキーの《火の鳥》(1909-10) が1910年シーズンの話題をさらい、翌シーズンも《ペトルーシュカ》(1910-11) が好評で、このロシアの新進作曲家はたちまち時代の寵児になった。ドビュッシーもストラヴィンスキーの才能に魅せられて親交を結び、バレエ・リュスとの距離も縮まった。《ダフニスとクロエ》(1909-12) がようやく初演された1912年シーズンにはディアギレフはこの作品に興味を失っており、公演の目玉はドビュッシーの旧作を用いた《牧神の午後》になっていた。ニジンスキーのスキャンダラスな振付で完売した《牧神》の追加公演のために《ダフニス》の上演回数は削られ、憤慨したフォーキンはこの公演を最後にバレエ・リュスを去った。
バレエ音楽としての《ダフニス》は幸福な運命を辿らなかったが、したたかなラヴェルは第1組曲(1911)・第2組曲(1912) という抜粋管弦楽曲もまとめており、特に第2組曲は今日でも演奏機会が多い。ともあれ、「旋律と伴奏」として理解できて古典的楽曲分析に収まる、様式化・標準化が可能な範囲の(すなわち、《海》(1903-05) 以前の)ドビュッシーの管弦楽法を集大成して乗り越えるという目論見は《ダフニス》で果たされ、今日の商業音楽教程の最終段階にあたる映画音楽の管弦楽法で「印象主義」とされるのは、この時に完成されたラヴェルの管弦楽法に他ならない。《ダフニス》の作曲の遅れのために時系列は前後しているが、彼にとって「ドビュッシーを乗り越えた」ことで因縁は一段落し、彼の創作歴は新しいフェーズに入る。
《マ・メール・ロワ》連弾版(1908-10) は、独立音楽協会第1回演奏会で初演された。ドビュッシー《子供の領分》(1906-08) は幼い娘に捧げたわかりやすいピアノ曲集というコンセプトだったが、さらに徹底して子供でも弾ける技術水準でまとめた曲集であり、実際に子供ふたりが初演した(当初の予定では幼児ふたりによる初演だったが、さすがに無理で急遽交替)。この曲には管弦楽版(1911)・バレエ音楽版(1911-12) もあり、極めてシンプルな原曲が管弦楽法の妙で味わいを増すところまでコンセプトになっている。チェリビダッケやブーレーズのようなうるさ方も好んで取り上げているのは、連弾版で素材を絞り込む過程で彼の音楽の核になる要素だけが抽出され、広大な余白が管弦楽法の技術の格好の展示場になった相乗効果の結果である。
《高雅で感傷的なワルツ》ピアノ版(1911) は、独立音楽協会の作曲者当てクイズ企画のために書かれた。企画意図に沿って個性を隠した書法は、玄人の多い客層の受けはいまひとつだったが、管弦楽版(1912) で個性が見えてくるあたりもコンセプトのうちだろう。《マ・メール・ロワ》同様、管弦楽化を前提にしたピアノ曲というあり方は、《前奏曲集》(1909-10/11-13) でピアノでなければ表現できない音世界に向かったドビュッシーとは対照的で、この後もふたりの距離はさらに開いてゆく。ただし《マラルメの3つの詩》(1913) は、シェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の影響下に書かれたストラヴィンスキー《日本の3つの抒情詩》(1912-13) の影響下に書かれ、独自ルートでヴェーベルンを思わせる境地に達したドビュッシー《マラルメの3つの詩》(1913) の音世界と再び交錯した。全く独立に選んだ詩も3曲目以外は一致しており、実はふたりの芸術嗜好は近いことを窺わせる。
《ピアノ三重奏曲》(1914) は、古典的形式にモダンな和声を盛り込む彼らしさ全開の代表作。その路線で《ソナチネ》の水準に留まらなかったのは、ドビュッシーと競い合った数年間で彼の音楽が底上げされた賜物である。作曲中に第一次世界大戦が始まり、志願するために短期間で集中して書き上げたことも、作品の質に寄与しているかもしれない。空軍のパイロットに志願したが叶わず、翌1915年から陸軍のトラック輸送兵として従軍した。塹壕戦移行後の戦線は膠着し、主な攻撃対象は輸送部隊という状況下で心身は消耗し、アメーバ赤痢や凍傷にも苦しみ、従軍中は作曲は全くできなかった。健康を損ねた彼は手術を受けるために1916年秋にパリに移送されたが、術後療養中の1917年1月に母を亡くすと深い悲しみに沈み、春には除隊した。
同年末に、従軍前に書き溜めた素材をまとめたのが《クープランの墓》ピアノ版(1914-17) である。フランス・バロック鍵盤音楽に立ち返った方向性は新古典主義期のドビュッシーと共通する。「墓」なのは6曲それぞれが大戦で戦死した友人たちに捧げられているからである。管弦楽版(1919) が作られたのは4曲に留まり、この曲集は管弦楽化を前提に書かれたわけではなさそうだ。彼が母の死から立ち直るにはさらに数年を要した。本格的復帰作となったのは、「ウィンナ・ワルツによるバレエ音楽」という1917年のディアギレフの委嘱にようやく応えた《ラ・ヴァルス》(1919-20) である。だがディアギレフは「バレエ向きの音楽ではない」として受け取りを拒否し、ふたりは決裂した。以後は会っても握手も交わさない間柄になったという。
彼はこの頃から急速に半音階的書法に傾斜した。例えば2台ピアノ5手のための《口絵》(1918) は、調性感の希薄なカオスの提示に終始し、同時期のロシア・アヴァンギャルド作品と言われた方がしっくり来る(ただし新ウィーン楽派の影響を間接的に受けた《マラルメの3つの詩》という先行作がある)。彼のこの変化の由来は、師フォーレが《ヴァイオリンソナタ第2番》(1916-17) 以降、一貫して半音階的書法を用い続けたことである。師を終生リスペクトし続けた弟子が、70歳を過ぎて荒波に漕ぎ出した師の挑戦の影響を受けないはずがない。しかもこの方向性はモダニズムの時代様式とも合致している。《ラ・ヴァルス》冒頭、カオスの中からウィンナ・ワルツが生まれてくるような表現にもこの書法は応用されており、彼の音楽の幅は大きく広がった。
この半音階的書法は《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》(1920-22) で頂点に達した。元々《ドビュッシーの墓》(1920) として書かれた小品を第1楽章とし、残る3楽章を書き足した。この編成はコダーイ・ゾルターン(1882-1967)の《ヴァイオリンとチェロのためのデュオ》(1914) を意識しており、ハンガリー民謡を思わせる主題を持つが、コダーイ作品にはない半音階的な軋みがこの編成に適合し、古典的対位法にぎりぎり収まる綱渡りがスリリングである。当時の批評家には全く理解されなかった厳しい書法はこれ以降影を潜めるが、ジプシー・ヴァイオリンの妙技をフィーチャーした《ツィガーヌ》(1922-24)・名技的なパッセージが連続し中間楽章ではジャズ・ブルースをフィーチャーする《ヴァイオリンソナタ》(1923-27) と、平均律に収まらない旋律線が魅力になっているポピュラー音楽を参照する際に、その経験は活かされている。いずれもこの編成を代表する名作である。
この時期には管弦楽編曲にも、ムソルグスキー/ラヴェル《展覧会の絵》(1874/1922) という代表作がある。「ドビュッシーが歌曲を偏愛した、ロシア五人組の謎の素人作曲家」が19世紀後半を代表する作曲家のひとりまで上り詰めるのに、この編曲が果たした役割は大きい。ニジンスキーが企画したオペラ《ホヴァーンシチナ》(1872-80) の蘇演(1913) に際し、アイヴズ並みに上演までの距離があった未完の譜面をストラヴィンスキーと共同で整備した経験も生かされている。今日では、彼の編曲は性格付けが西欧的で原曲のロシア的魅力を生かしきれていないという批判もあり、さまざまな管弦楽編曲も行われているが、そのような議論を可能にする「標準的解釈」を提示したのも、原曲をクラシック音楽屈指の人気レパートリーまで引き上げたのも、みな彼の編曲である。実はアルベニス《イベリア》(1905-08) にも彼による管弦楽編曲が企画されたことがあり、実現しなかったのが惜しまれる。
そして、これらの要素をすべて詰め込んだこの時期の代表作が、オペラ《子供と魔法》(1917-25) である。与えられたミッションを素早くこなし、過去の仕事には拘らない職人肌の作曲を信条にしていた彼が、ひとつの作品にこれだけ長期間取り組んだ例は他になく、並々ならぬ拘りがまず窺える。《マ・メール・ロワ》は美しい夢の世界だけを描いていたが、この作品ではそこにも厳しい現実があることまで描かれ、半音階的書法がそのためのアクセントとして大いに活用されている。この時期を締め括るのが《マダガスカル島民の歌》(1925-26) である。フルート・チェロ・ピアノ伴奏歌曲という編成は委嘱者クーリッジ夫人(モダニズム作曲家への多くの委嘱で知られる米国のパトロン)の要望だが、それを島民の生活を想像したパルニーのエキゾティックな詩と合わせたのは彼の発想である。声を器楽と対等な一声部として扱う姿勢は《マラルメの3つの詩》を受け継ぎ、半音階的書法にふさわしい。
彼の作風はここで大きく変わる。《ボレロ》(1928) のコンセプトは周知の通り特殊なので措くとしても、《左手のためのピアノ協奏曲》(1929-30) と《ピアノ協奏曲》(1929-31) が問題だ。どちらも外面的効果に終始し、常套句と自己模倣の塊のような楽想を管弦楽法の技術だけで形にしている。時期的には、4ヶ月で25都市を巡演し記録的成功を収めた1928年の北米演奏旅行後の出来事であり、米国の物質文化に接して音楽性まで変わったという穿った見方もできる。だが明らかな影響は、本場のジャズやラグタイムを聴いてこれらの要素の扱いが格段に進歩したことだけで、本命なのは1927年頃から失語症の兆候が現れ始めたという脳機能障害の影響だろう。1932年に交通事故に遭ってから症状は急速に進行し、自分の名前すら書けなくなってしまうが、彼の場合は失語症に留まらず、脳内で音楽は鳴っているが音符にはできないという症状もあった。音楽性のような高度な部分には、さらに早くから影響が出ていてもおかしくない。むしろ問題なのは、この変化は一般的人気にはプラスに働き、これ以前の真の代表作を覆い隠してしまったことである。
Aloysius Bertrand (1807-1841): "Gaspard de la nuit" -- Fantaisies à la manière de Rembrandt et de Callot (1836)
夜のガスパール [1842年初版ファクシミリ]
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8600227w/f103.item
《オンディーヌ》(p.143)、《絞首台》(p.307)、《スカルボ》(p.311)
夜のガスパアル (ベルトラン・詩)I オンヂイヌ ・・・朧朧(おぼおぼ)しき調べ吾が仮寝(うたたね)を惑はし、
哀しく嫋(なよよ)かに途絶へし歌聲(うたごへ)と聞き紛ふ囁(さゝめ)き、
吾が枕邊に飄(たゞよ)ひたる心地こそせしか。
シアルル・ブリユノー ― 二人精(みたま)―いで― ―聽かれてよ―其(そ)は妾(わ)ぞ、 オンヂイヌぞ、欝(いぶ)せき月影映す汝(なれ)が窓をしも玉の水滴(しづく)もて音(ね)を鳴かしむるは。瞻(み)よ、館宇(しろ)の御令室(おんかた)は波文様(なみあや)の裳裾曳き星辰(ほしぼし)抱く麗はしの夜と熟睡(うまゐ)する瀛湖(うみ)をぞ凝眸(まも)りおはしたる。波てふ波は 流(せ)に游(およ)ぐオンヂイヌぞ、流てふ流は 妾が幽宮(おくつき)へ迂(くね)り導(ゆ)く小径(みち)、妾が幽宮こそは 火と土(ち)と氣(け)のなす三角(みすみ)なれ水底(みなそこ)揺蕩(たゆた)ふ陽炎の如(ごと)。―いで― ―聽かれてよ―妾が御父(おんちゝ)は瑞枝(みづえ)もて擲(う)ち 飛沫(しぶき)揚げ給ふ。妾が姉妹(はらから)は 若草萌え睡蓮(はちす)咲き 唐菖蒲(とうせうぶ)寓(やど)る島嶼(しまじま)を泡沫(うたかた)の臀(かひな)もて愛撫(め)で 漁(いざ)り釣る髭長の絲柳をぞ戯(あざ)けたる。妓(をんな)は囁(さゝめ)き歌ひつ。妓は指環を褒寶(かづけ)にて乞ふ、吾が夫(せ)となりて彼(か)の幽宮にて瀛湖の王(あるじ)たらんことを。然(さ)るを吾が現身(うつそみ)の女(をんな)を愛するを聞きて魍魎(あやかし)の妓 ―あな憂(う)たて― と、暫時(つと) 涕(なんだ)垂れ・・・忽焉(たちまち) 哄(わら)ひさざめき蒼冴(あをざ)めし吾が窓邊に雨と流れて消えにけり。II 絞縊架(くびつりだい) 彼(か)の絞縊架が邊(あた)りを蠕(うごめ)けるを何とぞ見る (フアウスト)そも 何の音ぞも。終夜(よただ) 咆吼(ほ)ゆる凩(こがらし)か、将(は)た 吊られたる者の洩らす愁息(ためいき)か。樹(たちき)の憫(あは)れを頼みて纏はりたる 石女(うまずめ)の蔦蘿(つたかづら)と苔の中(うち)なる蟋蟀(こおろぎ)の挽歌(うたごえ)か。聾(しひ)たる耳の邊(へ)を勝鬨擧げ 獲物(さち)漁り飛ぶ羽蟲が角聲(つのぶえ)か。あくがれ翔びて 禿頭(かむろ)より血に塗(まみ)れし髪(くし)抜く甲蟲か。将たは二尺なる毛氈(かも)を刺繍(かが)り縊(くく)られたる首に飾らんとする土蜘蛛か。其(そ)は 地の涯の都城(みやこ)の塁壁(ついぢ)より來たる梵鐘(かね)の音なり。夕さりて殷紅(あか)みゆく縊れたる者の骸(なきがら)。III スカルボ 牀(とこ)の下、爐(ひをけ)の中(うち)、厨子の中にも、見えざりき―誰(たれ)も。
何處(いづこ)より入りて、何處よりか出(い)でたりつる。 (ホフマン―夜話)嗟呼(あゝ)、吾(われ) 幾度(いくたび)か邂逅(まみ)えし、スカルボと。月影鮮(さや)かなる 彼(か)の夜半(よは)ぞ、黄金(こがね)の群蜂(むらばち)鏤(ちりば)めし碧(あを)き旛(はたもの)の上なる白銀(しろがね)の貨(ぜに)の如(ごと)。吾 幾度か聞きし、吾が冥(をぐら)き閨房(ねや)に戰(そよ)ぎわたる 彼(か)の嗤(わら)ひを吾が羅(きぬ)の几帳(とばり)を引き掻く 彼の爪を。吾 幾度か見し、彼の者 牀下(ゆか)に降り立ち片脚(かたし)にて仙女(まこ)の紡錘(をだまき)さながら吾が寝齋(むろ)に旋廻(くるめ)き渡るを。彼(か)の時 吾 彼の者消ゆと思ひたりしか。彼の侏儒(こびと) 月影浴び吾が眼前(まへ)に巨(おほ)きに成り成りて伽藍(みてら)の鐘楼(たかどの)と見ゆ、其の尖帽(かうぶり)に黄金の鈴揺れて。須臾(やがて) その體(からだ) かの貌(かほばせ) 倶(とも)に蒼冴め燭(そく)の涙と透けゆき 色喪(う)せゆき、然(さ)りて 彼の者 突如(うちつけ)に 見えずなりたりけり。 (安田 毅 ・ 譯)
ロンサアル 彼の魂に
魂緒(たまのお)や ロンサアルや
愛(め)ぐしきや 優なりや
斯くもいとほし我が身の宿主(あるじ)
汝(なれ)は降り往く、幽(かそ)けくも
蒼(あ)をく 窶(やつ)れて 亡骸(なきもの)の
凍てつく國へと 唯獨(ひと)り
まこと慎(つま)しく 殺生や
毒や 怨みの悔やみなく
ひとの羨望(うら)やむ世の覚え
また蓄えを侮(あなど)りて
身罷る我は告げたりし
汝の宿世(さだめ)に從へと
我が憩い禦(さまた)ぐなかれ
われこそ眠れ
[訳・安田毅]
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Ronsard à son âme
Amelette Ronsardelette,
Mignonnelette doucelette,
Treschere hostesse de mon corps,
Tu descens là bas foiblelette,
Pasle, maigrelette, seulette,
Dans le froid Royaume des mors :
Toutesfois simple, sans remors
De meurtre, poison, et rancune,
Mesprisant faveurs et tresors
Tant enviez par la commune.
Passant, j'ay dit, suy ta fortune
Ne trouble mon repos, je dors.
[Pierre de Ronsard (1524-1585)]
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POC 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》(2022/03/02 update)
http://ooipiano.exblog.jp/32755653/
2023-02-06T04:19:00+09:00
2023-03-02T19:53:43+09:00
2022-09-14T23:01:41+09:00
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POC2022
大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
チラシpdf(表・裏)
【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉
●ジョナサン・パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱新作初演)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
〔終了]【ポック(POC)#47】2022年11月11日(金)19時開演(18時半開演)〈アルベニス「イベリア」〉
●平野弦(1968- ):委嘱新作初演(2022)
●ルーク・ヴァース(1965- ):委嘱新作初演(2022)
●フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演)
■イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリアーー12の新しい「印象」》(1905/08、全12曲)
〔終了〕【ポック(POC)#48】2022年12月2日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その1〉
●永野英樹(1968- ):《瞬(めまじろき)》(委嘱初演、2022)
●ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番(怒りの日?) 》(委嘱初演、2022)
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905)、《同 第2集》(1907)、《24の前奏曲集》(1909/13)
〔終了〕【関連公演】《時は脱ぎけりその衣を ~ドビュッシー生誕160周年》
2022年12月15日(木)19時開演(18時半開場) 東音ホール(「巣鴨駅」南口徒歩1分)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
電話予約 03-3944-1538(全日本ピアノ指導者協会)、ウェブ予約
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《交響的素描「海」》(1905/09) [A.カプレによる2台ピアノ版]、《映像 第3集(ジーグ/イベリア/春のロンド)》 [A.カプレによる2台ピアノ版]、《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [J.E.バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演]、《白と黒で》(1915)
チラシpdf
〔終了〕【ポック(POC)#49】2023年1月27日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その2〉
●野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「ジャズの彼方へ》(2008/2023、改訂版初演)
●ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタなB》(1973、日本初演)
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903)、《仮面》(1904)、《喜びの島》(1904)、《子供の領分》(1906/08)、《12のエテュード集》(1913/15)
〔終了〕【ポック(POC)#50】2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
●浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演)
●モーリス・ラヴェル(1875-1937):《水の戯れ》(1901)、《鏡》(1904/05)、《夜のガスパール》(1908)、《高雅で感傷的なワルツ》(1911)、《クープランの墓》(1914-17)、《スペイン狂詩曲》(1908/1923)[K.ソラブジ編独奏版、世界初演]
■POC [Portraits of Composers] 演奏曲目一覧
第1回~第21回公演(2010年9月~2015年2月)
第22回~第36回公演(2015年10月~2018年2月)
第37回~第46回公演(2018年10月~2020年2月)
■野々村禎彦POC寄稿リンク(POC2011~POC2019)
POC2022:戦後前衛の「源流の源流」と向き合う―――野々村禎彦
POCシリーズも今年度で12期目。直近2期はロマン派まで遡った選曲であり、もう20世紀以降で取り上げるべき曲はなくなったと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそうではない。少なくとも20世紀初頭には最重要のゴッドファーザーがいる。ドビュッシーである。彼の音楽を要素に切り刻むと、19世紀までに音楽史に登場しなかったものは何ひとつなく、これが彼の位置付けを難しくしている。それに乗じて彼を「最後のロマン派」に祀り上げて、その後音楽史は誤った方向に進んだと称する言説すらある。このような皮相な見方を網羅的な作品演奏で打ち砕いてゆくのがPOCシリーズの基本スタンスであり、今期は彼がピアノ独奏曲の作曲家として自己を確立した《版画》以降の主要作品全曲に加えて、作品を通じて彼を生涯にわたって導き続けたアルベニスの《イベリア》全曲と、「印象主義」の作曲家として彼と並走していたラヴェルの主要作品を取り上げる。POC第6期で扱った「戦後前衛の源流」アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを導いた「源流の源流」に、いよいよ正面から挑む時が来た。また大井は、ウクライナ戦争以降ロシア音楽を忌避する風潮に抗して積極的に演奏会企画を行っており、その一環として今期の作品群と同時代のロシア・アヴァンギャルドも取り上げる。
まずは、イサーク・アルベニス(1860-1909) とドビュッシーの関係について。スペインの国力は、中南米の植民地からの貴金属の収奪が「主要産業」になった16世紀にピークに達し、強大な海軍力でヨーロッパの覇権を握ったが、この時期はモラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボという後期ルネサンスを代表する作曲家を輩出した最初のクラシック音楽黄金時代でもあった。その後、新興新教国との競争の中で国力が衰えてゆくにつれてクラシック音楽も下火になったが、キリスト教文化とイスラーム文化、ヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っていた。19世紀後半、スペインはこの資産を使って国民楽派運動の波に乗る。ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽のエキゾティックな衣を被せたヴィルトゥオーゾたちがこの運動を牽引したが、ピアノのアルベニスもそのひとりとして登場した。
しかしアルベニスは、先人たちの枠には収まらなかった。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家ペドレルと1883年に出会って薫陶を受けた。ホモフォニーの表現性を重視するスペインのルネサンス音楽と民俗音楽との相性は悪くない。ペドレルが求めた「国民楽派」は、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。アルベニスの作品に師の意図が反映されるまでには時間を要したが、作曲の腕を磨くためにウィーンと並ぶクラシック音楽の中心地パリに1894年に居を移すと成果が現れ始めた。アルハンブラ宮殿を描写した《ラ・ベガ》(1897) を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。
ピアノ伴奏付き歌曲《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) と、ドビュッシーは19世紀末には既にさまざまな編成で時代の先端を行っていたが、ピアノ独奏曲だけは進むべき道を見出せなかった。1901年になってもまだ、《ピアノのために》の水準に留まっていた。時代の中心にして最前衛だったショパンの影から抜け出せずにもがいていた時、ドビュッシーはアルベニスと出会った。その音楽の核心は「古楽と民俗音楽の融合」であり、ドビュッシーも「古楽」としてはクープランやラモーを研究し、「民俗音楽」としては1889年パリ万博でジャワのガムランと出会って音階を用いていたが、まだ本質を捉えていなかった。その後アルベニスの音楽を知り、1900年パリ万博で再びガムランを聴き、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) 初演を経てようやく、《版画》(1903) でピアノ独奏曲の新たな道に踏み出す。
《版画》の第1曲〈パゴダ〉はガムラン、第2曲〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニス、第3曲〈雨の庭〉(《忘れられた映像》(1894) の1曲のリライト)はフランスバロック鍵盤音楽と、各曲の参照点は明白だが、問題は何を参照しているかである。20世紀初頭にガムランを真摯に参照する時点で十分進歩的だが、参照点が音階に留まる限りは全音音階や教会旋法など、同時代にドビュッシーの特徴とみなされてきたリストに新たな1頁が加わったに過ぎない。だが1900年のドビュッシーはガムランに、「それと比べればパレストリーナすら児戯に過ぎない精妙な対位法」を聴き取った。この拡張された対位法の感覚こそが、ドビュッシーが見出したアルベニスの音楽の真髄であり、〈グラナダの夕暮れ〉では参照点を明示して敬意を表している。
その後のドビュッシーは、ラヴェルと競い合いながらピアノ独奏曲の書法を発展させてゆくが、アルベニスは腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復する療養生活の中で、アルベニスは《イベリア》(1905-08)を書き上げた。全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」は20世紀スペイン音楽の金字塔だが、ドビュッシーにも新たな啓示を与え、《前奏曲集》第1巻(1909-10)・第2巻(1911-13) が生まれた。《前奏曲集》の作曲中もその後も、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。アルベニスは仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで1909年に亡くなったが、ドビュッシーを生涯にわたって導き続けた「戦後前衛の源流の源流の源流」なのである。
続いて、モーリス・ラヴェル(1875-1937) とドビュッシーの関係について。ラヴェルは「旋律と伴奏」からなる伝統的な音楽様式を終生保ち続けたが、フランスでは長らく「進歩派代表」を務める巡り合わせになった。パリ音楽院でフォーレに師事したラヴェルは、1900年から1905年にかけて5回ローマ賞に応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリで活躍したスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスが「アパッシュ」と名付けた芸術家集団の中心人物としてドビュッシーを強く支持していたことも、審査員たちの心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査の方が誤っていたという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれてフォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現する。さらにそれまで「進歩派代表」だったドビュッシーは1904年に銀行家バルダックの妻エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。拳銃自殺を図り一命を取り留めたリリーに世論は同情し、多くの友人を失ったドビュッシーは「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。
当時のパリで「進歩的」なピアノ独奏曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《ピアノのために》ー《水の戯れ》ー《版画》・《喜びの島》(1903-04) ー《鏡》(1904-05) ー《映像》第1集(1901-05)・第2集(1907) ー《夜のガスパール》(1908) と、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。《ピアノのために》の3ヶ月後に《水の戯れ》で先を行かれたことは、《版画》でドビュッシーが飛躍する契機になった。ラヴェルはさらに明確に意識している。内省的な曲が多い《鏡》に〈海原の小舟〉のようなコンサートピースが混じっているのは、この曲集で《喜びの島》も参照したからだし、《映像》で繰り返された3曲の性格対比を《夜のガスパール》は完全に踏襲している。ドビュッシーが愛娘クロード=エンマに捧げた《子供の領分》(1906-08) は、平易な書法の範囲でもピアノ独奏曲の本質は保たれると示した野心作だが、ラヴェルはこの方向性にも敏感に反応し、子供でも弾ける水準の書法のみを用いた連弾組曲《マ・メール・ロワ》(1908-10) で応えた。
《マ・メール・ロワ》は、ラヴェルが中心になって立ち上げた独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。国民音楽協会はフランクが中心になって立ち上げた由緒ある団体だが、フランク没後はダンディら保守派が牛耳り、進歩派は冷遇されていた。ビニェスのリサイタルを後援していたのは、ピアノ独奏曲は当時の花形ジャンルではなく、費用もかからなかったからにすぎない。進歩派の管弦楽曲が取り上げられる機会は稀で、ドビュッシーの主要作品でも《牧神》だけだった。シェーンベルクが無調に向かい、ストラヴィンスキーが鮮烈にデビューした機を捉え、彼らも評議委員に名を連ねる進歩的な団体として出発した。《マ・メール・ロワ》も《高雅で感傷的なワルツ》(1911) も《クープランの墓》(1914-17) も、その後のラヴェルの主要ピアノ曲は専ら管弦楽編曲を前提に書かれており、ピアノでなければ表現し得ない領域を探求するドビュッシーとの距離は開いてゆくばかりだった。
最後に、あらためてクロード・ドビュッシー(1862-1918) について。彼とラヴェルの音楽は大雑把に「印象主義」と括られてきた。この分類は、商業音楽教程の最終段階に相当する、映画音楽の管弦楽法で特に重要になるが、その実体はラヴェルの管弦楽法に他ならない。これに限らず、ドビュッシーの音楽で様式化・標準化が可能な部分は、軒並みラヴェルが形にしてきた。だが、そこから零れ落ちたものは決して少なくない。アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、バルトークの「夜の音楽」も、ストラヴィンスキーの批評的な新古典主義も、みなドビュッシーに由来する。超一流の作曲家たちが彼の音楽に向き合った時、各々全く違うものを持ち帰っているのは驚くべきことだ。
しかもドビュッシーの影響は直下の世代に留まらない。《チェロソナタ》(1915) は彼が度々参照してきたミュージック・ホールの音楽の集大成だが、彼の想像力は遠く時代を飛び越えてビバップのアンサンブルを予見している。シュトックハウゼンの「モメンテ形式」の発想の源泉を、後期ドビュッシーの音楽の不連続性に見る向きは多い。調性的な旋律はホワイトノイズや正弦波発振音のような非和声的なテクスチュアの中で本領を発揮するという発見は90年代の「音響派」の核心だが、その起源を遡ると《前奏曲集》第2巻の〈霧〉に辿り着く。もちろんこれらは一例にすぎない。ドビュッシーの音楽は、その後の音楽の可能性をすべて含んだ混沌のスープだった。その可能性は、今日でもまだ汲み尽くされていないのかもしれない。
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