6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

カテゴリ:POC2016( 13 )

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~バルトーク:弦楽四重奏曲集全6曲(米沢典剛によるピアノ独奏版)
Bartók Béla hat vonósnégyese Zongorára átírta Yonezawa Noritake

大井浩明(ピアノ)

2017年6月4日(日)18時開演(17時半開場)
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
※ご予約はこちらのフォームから https://goo.gl/z4vjZh


c0050810_16553274.png■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第1番 イ短調 Op.7 Sz.40》(1909/2017)(世界初演) 30分
  I. Lento - II. Allegretto - III. Introduzione / Allegro vivace

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第2番 Op.17 Sz.67》(1917/2017)(世界初演) 26分
  I. Moderato - II. Allegro molto capriccioso - III. Lento

  (休憩10分)

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第3番 Sz.85》(1927/2017)(世界初演) 15分
  I. Moderato - II. Allegro - III. Moderato(第1部の再現) - IV. Coda : Allegro molto

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第4番 Sz.91》(1928/2016) 25分
  I. Allegro - II. Prestissimo, con sordino - III. Non troppo lento - IV. Allegretto pizzicato - V. Allegro molto

  (休憩10分)

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第5番 Sz.102》(1934/2016)(世界初演) 30分
  I. Allegro - II. Adagio molto - III. Scherzo: alla bulgarese - IV. Andante - V. Finale: Allegro vivace

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第6番 Sz.114》(1939/2016)(世界初演) 30分
  I. Mesto / Più Mosso, pesante / Vivace - II. Mesto / Marcia - III. Mesto / Burletta - IV. Moderato, Mesto
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バルトークの先に広がる未来(弦楽四重奏曲を中心に)──野々村 禎彦

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 同時代におけるバルトークの評価は、「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だったが、今日では彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる有名作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う。ただし、「3大B」という発想自体が既にドイツ音楽影響圏に特有であり、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が彼に「周縁代表」を仮託した結果がこの位置付けなのだろう。

 《子供のために》(1908-09) と《ミクロコスモス》(1926/32-39) という20世紀を代表するピアノ練習曲集(演奏会用ジャンルではなく、実用的な意味での)を除いても、質量ともに一晩を埋めるピアノ独奏曲を彼は書いた。ピアニストとして活躍するには常に新しいレパートリーが必要であり、ひとつの創作サイクルをピアノ独奏曲で始め弦楽四重奏曲で閉じる、ベートーヴェンのような傾向を彼も持っていた。ただし、彼はなまじピアノが上手かったために、自分の弾ける範囲で発想が閉じてしまった面はあるかもしれない。自身のソロを前提に書いた協奏曲(1926, 1930-31) では、技巧に走らず管弦楽と一体になって突き進む、丁度良いバランスが実現されているのだが。ベートーヴェンの鍵盤作品の充実は、フォルテピアノの発展期に手探りで書いた賜物だったのだろう。

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 その点、弦楽器との距離感は彼の創作にとっては理想的だったように思われる。バルトーク・ピッツィカートをはじめとする苛烈な特殊奏法の数々は、自分の分身ではない楽器だからこそ指定できたのだろう。二度の結婚はティーンエイジャーのピアノの生徒と関係を持った結果だが、恋愛の相手はそれよりは年長のヴァイオリン奏者だったのも象徴的だ。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) と無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) はいずれも代表作、ヴァイオリン二重奏曲集《44の二重奏曲》(1931) も民謡編曲作品としては重要だが、彼が最も力を注いだ編成は弦楽四重奏だった。

 ピアノのための《14のバガテル》(1908) からオペラ《青髯公の城》(1911) まで、オリジナルな作曲を始めてから民謡収集に専念するため作曲を中断するまでの数年間は、ほぼドビュッシーの語法を自分のものにすることに費やされたが、この時期でも弦楽四重奏曲第1番(1908-09) は例外的で、モデルはドビュッシーではなく後期ベートーヴェンである。以下で眺めるのは、20世紀の弦楽四重奏曲の類型はほぼバルトークの6曲で尽くされている(新ウィーン楽派とその他数人を例外として)ことだが、同時代には敬して遠ざけられていたベートーヴェン後期作品が再評価されたのも20世紀を象徴する出来事であり、彼の6曲が「ベートーヴェン第17番」で始まるのは示唆的だ。

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 彼の中では最も素直に「民俗音楽的」な作品のひとつである弦楽四重奏曲第2番(1915-17) は、《青髯公の城》の直後に音楽上の親殺しを意図したピアノ曲《アレグロ・バルバロ》(1911) に始まる時期を締め括る曲だが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などが書かれたこの時期は、ピアノのための《3つの練習曲》(1918) に始まるその次の時期の尖り具合と同列には論じられない。弦楽四重奏曲としても同時期のシマノフスキ第1番(1917) や幾分後のヤナーチェクの2曲(1923, 1928) を凌ぐわけではない。とはいえ、遠くリゲティ第1番(1953-54) にまで影響を及ぼした、民俗音楽の活用という20世紀の豊かな鉱脈を切り拓いた作品なのは疑いない。

 《3つの練習曲》に始まる時期に彼の音楽が急速に無調化したのは、無調以降の新ウィーン楽派の音楽の影響と考えるのが自然だろう。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) では《春の祭典》、2曲のヴァイオリンソナタではシマノフスキ《神話》、《戸外にて》(1926) では後期ドビュッシー、ピアノ協奏曲第1番(1926) では新古典主義期ストラヴィンスキーと、そこに同時代の別系統の潮流を交配しているのが彼の独自性である。特に新ウィーン楽派とストラヴィンスキーやドビュッシーのハイブリッドは、党派的にも政治的にもヨーロッパの中心では考えられず、「周縁」だからこそ可能な方向性だった。イタリアが音楽の中心だった時代の「周縁」の音楽家J.S.バッハのように。

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 この時期を締め括る弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) は、彼のモダニズム路線の頂点に留まらず、戦後前衛時代後期の弦楽四重奏曲のモデルにもなった。戦後前衛時代前期には、この編成は因襲的だとして忌避されたのは、総音列技法の範囲では新ウィーン楽派の達成以上の可能性は見出せなかったことが大きい。だが、戦後前衛時代後期にトーン・クラスター様式が台頭すると、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たちはこの編成にも新たな鉱脈を見出した。ペンデレツキ第1番(1960) は特殊奏法を多用したざっくりした構成、ルトスワフスキ(1964) は縦の線の合い具合を偶然性に委ねた書法がポイントだが、単一楽章で即興的に表情を変えるバルトーク第3番の音世界を部分的に切り出して参照している。他方、この様式のもう一方の雄リゲティの第2番(1968) では、バルトーク第4番のアーチ型の5楽章を対比する構成をそのまま借用し、民謡由来のオスティナートをミニマル音楽に置き換えるなど、同時代の語法で換骨奪胎している。

 長年構想を暖めていた《カンタータ・プロファーナ》(1930) と、ピアノ協奏曲第1番に続く第2番(1930-31) を書き終えると、以後のピアノ独奏曲は《ミクロコスモス》の一部として書かれることになり、創作サイクルも変化する。民謡分析が本業になって再び創作意欲に火が点いた際、真っ先に取り組んだのは弦楽四重奏曲第5番(1934) だった。音楽要素の断片化や空間配置など、無調や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されており、ポスト戦後前衛時代の潮流を先取りしていたようにすら見える。ペンデレツキは第2番(1968) でこの方向性を取り入れようとしたが、バルトークのような豊かな稔りには結びつかず、結局彼は終生の代表作《ルカ受難曲》で試みた前衛書法と三和音の混淆を進め、戦後前衛第一世代で「新ロマン主義」に転向した最初の作曲家の一人になった。

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 モダニズムと民俗音楽の融合をさらに推し進めた《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936) と《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) は、戦後前衛第一世代の作曲家に霊感を与え続けた。リゲティ流トーン・クラスターである「ミクロポリフォニー」書法とは、《弦楽器…》第1楽章を半音階堆積に圧縮したものに他ならない。ブーレーズが活動の中心を指揮に移してからの《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法も、《弦楽器…》に多くを負っている。前期シュトックハウゼンを代表する電子音楽《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノ…》の記憶の賜物である。

 ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38) 以降のヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。亡命先候補は米国・英国・トルコに絞られたが、音楽状況はどこもヨーロッパ大陸よりも保守的だった。この時期を締めくくる弦楽四重奏曲第6番(1939) は、民謡分析の精密化に伴って作曲作品にも導入されるようになった微分音が微妙な陰影を与えているが、モダニズムよりも切実さにおいて記憶される音楽である。だが、この曲も戦後前衛と無縁ではない。前衛の時代はショスタコーヴィチ、ブリテンらが伝統書法を深化させた時代でもあり、彼らの充実が前衛側に緊張感を与えたことは無視できない。彼らの死と新ロマン主義の台頭や戦後前衛第一世代の頽廃が時期を同じくしたことは、偶然ではないだろう。彼らの音楽は60年代に著しく半音階的になり、特にショスタコーヴィチはこの時期に12音技法を導入した。だが彼らが最晩年に再び全音階的音組織に戻った時、参照したのは同じ歩みを辿ったバルトークだった。ショスタコーヴィチ第15番(1974)、ブリテン第3番(1975) ではこの対応は特に顕著である。

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 バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表例であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。「夜の音楽」に象徴される音楽性まで深く共有していたのは、むしろ同国人クルタークだったのかもしれないが、名声を築くためのツールとして使い倒し、大きな成果を収めたのはリゲティだった。

 ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3番(単一楽章で疾走する不定形の音響)・第4番(特殊奏法の古典的秩序化)・第5番(モダニズムの外側の素材の統合)・第6番(微分音に彩られた全音階的な哀歌)のヴァリアントとみなせる。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者にはこのようなことが起こり得る。

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 むしろ、20世紀後半で特筆すべき弦楽四重奏曲の書き手は、バルトークへの紐付けが難しい作曲家に限られる。具体的には、シェルシ(1905-88)、ケージ(1912-92)、フェルドマン(1926-87)、W.リーム(1952-)、ユルク・フライ(1953-) である。シェルシは微分音程のうなり、フライは息音のような摩擦音という、バルトークが用いなかった素材に絞って新たな世界を拓いた。フェルドマンは弦楽四重奏を完全に滑らかな音表面の器として扱い、演奏時間の長さで知られる後期作品の中でも特に長大な2曲を残した。ケージはこの編成の歴史性を全く意識しなかった特異な存在であり、異なる作風を示す3つの時期に1曲ずつ書いた。W.リームはベートーヴェンを強く意識し、数の上でもこの先達に匹敵する弦楽四重奏曲を作曲しているが、バルトークに繋がる書法を注意深く避けているのが最大の特徴である。「似ないように仕上げる」こと自体がコンセプトになり、作品の質に直結する。現代の弦楽四重奏曲におけるバルトークの重要性を、逆説的だがこの上ない形で伝える事例である。



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【ピアノ独奏による弦楽四重奏曲公演】
W.A.モーツァルト:弦楽三重奏/四重奏/五重奏曲集
 ○弦楽五重奏曲第2番ハ短調K.406(516b)(1787)、同第3番ハ長調K.515(1787)、同第4番ト短調K.516(1787)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.5.8] [closed]
 ○弦楽三重奏のためのディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 (1788)[Paul Graf Walderseeによるピアノ独奏版]、弦楽五重奏曲第5番ニ長調K.593(1790)、同第6番変ホ長調K.614(1791)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.6.4] [closed]
 ○弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387 (1782)、同第15番ニ短調K.421(417b) (1783)、同第16番変ホ長調K.428 (1783) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.7.2] [closed]
 ○弦楽四重奏曲第17番変ロ長調K.458『狩』(1784)、同第18番イ長調K.464 (1785)、弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465『不協和音』 (1785) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.9.26] [closed]
 ○弦楽四重奏曲第21番ニ長調K.575 (プロシャ王第1番)(1789)、同第22番変ロ長調K.589 (プロシャ王第2番)(1790)、同第23番ヘ長調K.590 (プロシャ王第3番)(1790) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.10.31] [closed]
 ○弦楽四重奏曲第20番ニ長調K.499 《ホフマイスター》(1786) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.11.26] [closed]

■L.v.ベートーヴェン:弦楽四重奏曲集(ルイ・ヴィンクラー編独奏版)



■【動画】ベートーヴェン:《大フーガ 変ロ長調 Op.133》 (1826/1865、L.ウィンクラーによるピアノ独奏版) 使用楽器:1816年製 J.ブロードウッド(6オクターヴ)




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by ooi_piano | 2017-05-08 12:24 | POC2016 | Comments(0)
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~二台ピアノによるバルトーク傑作集~
Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake

2017年4月28日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
※ご予約はこちらのフォームから https://goo.gl/YkRsny


c0050810_16544963.jpg■バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演) 20分
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演) 30分
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto

  (休憩15分)

■バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演) 40分
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲


浦壁信二 Shinji URAKABE
c0050810_20465920.jpg  1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
  ’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
  ’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
  ‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。 浦壁信二インタビュー



【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 <СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ> http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版



バルトークの創作史を振り返る(管弦楽曲を中心に)──野々村 禎彦

c0050810_05425553.jpg バルトークの伝統的音楽修行の集大成=作品1は《ラプソディ》(1904/05) であり、元々のピアノ独奏曲を協奏曲に編曲してアントン・ルビンシテイン国際コンクール作曲部門に参加した。リスト/ブラームス流の「ジプシー風ハンガリー音楽」を初期R.シュトラウス風に管弦楽化した作品であり、この時点では彼はまだモダニズムにも、本物の「ハンガリー音楽」にも出会っていなかった(ただし保守的なコンクールでは、それでも斬新すぎるとされて奨励賞に留まった)。他方、同コンクールのピアノ部門ではバックハウスと優勝を争い、当代随一の国際コンクール第2位という輝かしい経歴を携えて、1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任した。

 バルトークがバルトークになったのは、終生の盟友コダーイと知り合ってからだった。1906年から彼とハンガリー民謡の収集を始めて「本物の民俗音楽」を発見し、翌年に彼を通じてドビュッシーの音楽と出会った。民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。

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 オリジナル民謡に極力手を加えない合唱曲や器楽曲への編曲と、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点がピアノのための《14のバガテル》(1908) と《10のやさしい小品》(1908) である。これらの作品でドビュッシーのピアノ書法を掴むと、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究し、その成果はオペラ《青髯公の城》(1911) に結実した。

 アイヴズ、ストラヴィンスキー、シマノフスキら、ドビュッシーの音楽と出会って一流の作曲家へ飛躍した作曲家は多いが、バルトークは作曲家としても20世紀前半を代表するピアニストのひとりとしても、終生ドビュッシーをリスペクトし続けた。今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は作曲の契機になったオペラのコンクールには入賞すらできず、同時期にコダーイと始めた「新ハンガリー音楽協会」も成果は上がらず、彼は作曲への意欲を失って数年間は民謡収集に専念した。第一次世界大戦が本格化するとそれも困難になって作曲に復帰したが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などは尖鋭さでは《青髯公の城》に及ばない。

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 だが、《青髯公の城》初演と同年のピアノのための《3つの練習曲》(1918) は、一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し創作に生かした。ハンガリーはヨーロッパの中心からは離れているが、その分同時代の諸潮流を俯瞰的に取り入れることができた。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》の延長線上にある作品であり、同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。

 両曲の間に作曲された《中国の不思議な役人》(1918-19/24) も《練習曲》の路線に連なり、今度はストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験が参照されている。シェーンベルクとストラヴィンスキーの直接のフォロワーたちは党派的に対立関係にあり、ヨーロッパの中心で両者と等距離で接するにはブーレーズくらい世代が下る必要があったが、これが「周縁」ならではの利点である。管弦楽化には時間を要したが、この間にストラヴィンスキーの新古典主義も取り入れ、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、モダニズムの最良の成果が凝縮されている。

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 彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだった。1920年代前半は作曲は低調だったが、収集した民謡資料を分析した重要な論文は主にこの時期に書かれた。《中国の不思議な役人》の管弦楽化が終わり、第一次世界大戦敗戦後の混乱も収まると、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) 、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。

 この時期の作曲の中心はピアノがソロを取る曲だが、いずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた。これは彼のピアニストとしての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している。彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。だが彼は音楽院で作曲を教えたことはなく、同時代の音楽界での位置付けは「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だった。

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 彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年。この年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。ようやく天職が本業になり、弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が作品表に並ぶ。ただしナチスドイツとの関係を深めてゆく政府の真意は、「頽廃音楽を排し、国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 

 弦楽四重奏曲第3番・第4番でモダニズムの頂点に昇りつめた彼は、それ以降の作品では民俗音楽とモダニズムを統合する方向に向かうが、弦楽四重奏曲第5番と《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の解決方法は対照的だった。前者では、音楽要素の断片化や空間配置など、無調性や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されるが、曲の末尾ですべての要素はひとつの素朴な民謡旋律から導かれていたことが明かされる。他方後者では、奇数楽章では半音階的フーガや「夜の音楽」、偶数楽章では民俗音楽的素材による平明な舞曲と、両者は簡単には統合できないことが暗示される。これは彼の心境の変化というよりは、弦楽四重奏と管弦楽というメディアの差異なのだろう。

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 《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》(1939)、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。ナチスドイツに傾斜してゆく政府に彼は早くから絶望していたが、彼の母は祖国を離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。ただし、分析の精密化に伴って旋律の微分音程変化にも着目したことは創作へと反映され、総じて全音階的でも一筋縄では行かない陰影が加わった。

 亡命先に米国を選んだ決め手は、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだのは、ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定していたからだが、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人だった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。また自然を愛し孤独を好む彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後の《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化以後は、作曲は全く進まなかった。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。

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 だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱前渡金として当座の生活費を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) には、ヨーロッパ時代の代表作のような野心的な試みは見られないが、モダンオケの機能を生かしてバロック時代の合奏協奏曲を軽やかに換骨奪胎した手腕は見事で、今日では顧みられる機会が減った新古典主義後期の祝祭的な作品の中では例外的に、現在でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。

 久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。

 弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。


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by ooi_piano | 2017-04-20 02:14 | POC2016 | Comments(0)

大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》

〔ポック[POC]#31〕2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



●古川聖(1959- ):《ノベレッテ第1番 「上と下 Oben und Unten」》(2017)(委嘱新作・世界初演) 2分
カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕 ~ 第一部
 I. 入祭唱 3分
 II. コラール前奏曲 13分
 III. 第一フーガ(四声による) 12分
 IV. ファンタジア 4分
 V.第二フーガ(二重フーガ) 16分

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第2番 「音階 Tonleiter」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第二部
 VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
 VII.第一カデンツァ 5分
 VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
   [第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第3番 「エッシャーへのオマージュ Hommage für Escher」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第三部
 IX. 第二間奏曲 56分
   〔トッカータ (5分) - アダージョ (16分) - 81の変奏によるパッサカリア (35分)〕
 X. 第二カデンツァ 3分
 XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
   [第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
 XII. 終結部(ストレッタ) 8分



古川聖 Kiyoshi FURUKAWA, composer
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  1959年東京生まれ。中学・高校時代に入野義郎氏に師事。高校卒業後渡独、ベルリン、ハンブルクの音楽アカデミーでイサン・ユン、ジェルジ・リゲティのもとで作曲を学ぶ。1991年に米国のスタンフォード大学で客員作曲家。独・カールスルーエのZKM(アート・アンド・メディア・センター)でアーティスト・イン・レジデンス。作品は、新しいメディアと音楽の接点において成立するものが多く、1997年のZKMの新館のオープニングでは委嘱を受け、マルチメディアオペラ『まだ生まれぬ神々へ』を制作・作曲。近年は理化学研究所内で脳波を使った視聴覚表現に関するプロジェクトを行った。社会の中で表現行為が起こる場、新しいアートの形を探して2002年より、新しいメディアを使ったワークショップを世界各国で行っている。東京芸術大学先端芸術表現科教授。 

古川聖:《Novelletten 1、2、3》(2017、委嘱新作初演)
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  私が大井氏から作品の依頼を受けた時、なにか新しい、変わった試みをいくつも並べるような作品構成とノヴェレッテンという言葉がすぐに脳裏にうかんだ。シューマンの8つのノヴェレッテンに限りない憧憬を持ちつつも、私がノヴェレッテという言葉から着想したのは幻想的な物語集ではなく、NOVELという言葉の本来の意味である、新しい種類の、新手の、奇抜な、いままでに無いといったよう作品の特徴である。(そして、もちろん大井氏になら書いても許されるようなピアノ音楽を書ける、何か特別なの機会をいただいたような気がした。)
  Novellettenは全部で7つ書く予定で、7作品分の基本的な着想はあったのだが、諸々の事情で、今回は最初の3曲の初演ということでお許しいただきたい。
  これらの作品は広い意味ではアルゴリズムコンポジション、つまり、音符の形で楽譜が直接書かれるのではなく、楽譜のなかに書かれる音がどのように生成されるのかをまずプログラムで記述し、そのプロセスの後に音符が生成され楽譜として定着されるような種類の音楽である。しかし今回は、私が以前行った複雑系の構造の自己組織化プロセスや現在も行っている脳波からの生理データの音構造へのマッピングなどの手法は使っていない。ノヴェレッテンでは一曲ごとに、7~10個音からなるモティーフを音楽の出発点として準備し、それらを複製し、拡大縮小し、分割し、重ね、移調し、縦に横にひっくり返し組み合わせるという比較的伝統的な音楽の変形手法を、伝統的作曲では行われなかったほど、多重にかさね作品として構築した。その意味で常にモティーフと曲全体は一本の糸で繋がっているといえる。そしてこれらの変形、マニュピュレーション、手法、方法の根底にあるのが、私の興味の中心にある音楽認知プロセスからの音楽生成である。音の認知、グルーピング、階層化と抽象化、記憶と予測、評価とそれらのプロセスから脳内に記憶の糸をたぐり、連想として染み出していく、音楽の内実である情動への共鳴などである。
  Novellette1には “Oben und Unten”「上と下」というドイツ語の副題をつけたが、ここではモティーフが連ねられ形成された、大きく上下する音型が潰され、のばされ、こねくり回される。
  Novellette2は “Tonleiter”「音階」という副題をもつ。音階の順次進行からなるモティーフが組み合わされ、様々な展開をとげる。
  Novellette3の副題は “Hommage für Escher”「エッシャーへのオマージュ」。今までに何度も音楽におけるエッシャー的なものを試みてきたが、今回は二つのモティーフからなるテーマのようなものを協和音程的な制約の中でどのようにうまく組み合わせるかという技法的なソリューションを探した。主要部分ではテーマは調を移され多重に重ねられるが、それらは完全な相似形になっている。
  そしてこれらのマニュピュレーションを可能とする作曲ツールがGESTALT-EDITORというグラフィックプログラミング環境である。現在のVersionは古川聖、藤井晴行、濵野峻行、小林祐貴により開発されている。(古川聖)




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c0050810_11441940.jpg  《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ――たった二単語、九音節であるが、最も果敢なピアニストが恐れをなすに充分である。ラテン語でいかめしく見える曲題は、単に「鍵盤作品」という拍子抜けする意味でありながら、まさに前例の無い規模と熱意を備えた、現代のピアノのための巨大な投企である。
  ソラブジの受けた早期音楽教育はいささか異例である。10代後半と20代初期に数回、ロンドンでチャールズ・トルー(1854-1929)に和声・対位法・形式論のレッスンを受講した以外は、アルノルト・シェーンベルクと同様にほぼ独学であった。20世紀の最初の10年間、彼は最先端のヨーロッパとロシアの音楽への熱意を育んだ。このことが、彼の混ざり合った血筋と同様に、多くの同時代者から隔絶させたようである。彼を最も興奮させたのは当時の現代音楽であった。彼の生まれ育ったエドワード朝の英国のいささか退嬰的な風土では、その大半がほぼ知られず演奏されなかった、さまざまな新潮流に共感を寄せた。周囲でほぼ振り返られなかった、バルトーク、スクリャービン、ドビュッシー、ラフマニノフ、レーガー、シェーンベルク、ラヴェル、マーラー等に彼は傾倒した。その興奮を、戸惑う知人たちにも懸命に伝道しようとしたらしい。
c0050810_11441090.jpg  一方、意外にもこれらの活動はソラブジを作曲行為へとは駆り出さなかった。天才少年ではなかったので、現在知られる最初の作品の日付は1915年であり、そのとき彼は既に22歳であった。(もっとも、ベートーヴェンでさえ、幼少時より相当量の作曲を行なっていたにも関わらず、20代前半になるまで出版作品は限られたものだった。)
 20代半ばに至っても、ソラブジは作曲家よりもむしろ音楽評論家として身を立てることを考えていたようである。いったん創造の水門が開放されると、彼の音楽はつづく半世紀のあいだ、雪崩のように溢れ出した。1960年代末に作曲をやめようと一旦決意するも、80歳代には壮大な二つの《ピアノ交響曲》を含む十数の作品を生み出すに至った。
  作曲家として歩みを進めるかたわら、作家・批評家としての活動も併行させ、少なくとも第二次大戦末期までは精力的かつ恒常的に取り組んだ。


c0050810_11434453.jpg  ピアノという楽器には、明らかに初期から変わらぬ愛着を持っていた。ほぼ70年に及ぶ作曲活動において、ほとんど全ての作品がピアノのために書かれた。おおよそ100時間以上に及ぶピアノ音楽は、メシアンと並んで20世紀における最も意義ある貢献の一つとなっている。
  ソラブジはピアニストとしても身を立てる事も目論んだが、自らの不本意な演奏に悩み、その活動は驚くほど限定的なものに終わった。1920年代にロンドン・パリ・ウィーンで行なった数公演は常に自作のみであり、演奏家として最も前向きだった1930年にロンドンBBCでピアノのための詩曲《匂える園》(1923)を放送、4回連続公演の第1回をグラスゴーで行い、1936年のその最終公演の後、演奏活動からは身を引いた。
  《オープス・クラウィケンバリスティクム》、そしてピアニストとしてのソラブジについては、注目すべき作曲家・ピアニスト・オルガニスト・教師・講師・指揮者・作家・あらゆる芸術の博学者であるスコットランド人、エリック・チザム(1904-1965)を措いては語れない。チザムの作品は近年やっと知られるようになった。ソラブジとスコットランドとのかかわりは1920年頃に遡り、まずは作曲家フランシス・ジョージ・スコット(1880-1958)の知遇を得、その後、ほぼ同時期を生きた詩人ヒュー・マクダーミッド(1892-1978、本名クリストファー・マレー・グリーヴ)とも交友した。ソラブジとチザムがどうやって知り合ったかは不明だが、文通は1926年に始まっており、その友情はチザムの61歳の早すぎる他界まで続いた。
c0050810_11432615.jpg  このスコットランドの三人組は、ソラブジの音楽と文章を絶賛したため、ソラブジは新たな創造の高みへと大いに鼓舞された。チザムは三人の中ではぐっと年少が、間違いなくスコットランドが輩出したもっとも野心的な音楽家の一人であった。ソラブジの公開演奏を尻込みさせることなく、1930年代の活動を成功裡に乗り切らせたのは、顕揚に価する。終始忍耐強くまた決然と、現代音楽普及協会を立ち上げ、1929年から1937年まで意義深い連続公演を組織し、ヨーロッパの主要作曲家をグラスゴーに招いて、彼らの作品を演奏し意見を交わした。その中にはバルトーク、シマノフスキ、ヒンデミット、メットネルら名士も含まれた。不思議なことに、ソラブジは他のどの作曲家よりも多く演奏を行い、3作品の初演を含む4公演が特集された。1930年の最初の登場で、ソラブジは2時間以上かかる彼の第4ソナタを弾き、聴衆の耳目を集めた(再演は2002年のジョナサン・パウエルまで無かった)。当時、彼は最も野心的な作品である《オルガン交響曲第二番》に取りかかっていた。ソラブジの演奏家としての活躍を今一度担保し、スコットランドの聴衆にその音楽の真価を知らしめるために、チザムはさらに充実した作品を書くようソラブジを励ました。1929年9月、ソラブジは《オルガン交響曲第二番》をいったん中断し、多楽章のピアノ独奏曲を書き始めた。当初はOpus Sequentialeと呼ばれたその作品は、筆を進めるつれOpus Clavicembalisticum (以下OC)と改題された。わずか9ヶ月で脱稿したにも関わらず、その時点で彼の最長のピアノ曲であり、作曲人生の里程標となった。


c0050810_11433516.jpg  OCの初演計画はただちに実行され、1930年12月、グラスゴーでソラブジは全曲を演奏した。聴衆の反応が賛否両論であったことは避けがたかった。その演奏時間の長さ、付き合いがたさ、語法の難解さは、聴衆の注意をはね付けるものの、確かに一つの偉業であると論評された。ソラブジは自筆譜を見ながら演奏した。浄書出版はその翌年で、爾後OCの全曲あるいは抜粋演奏は、すべてこの1931年の浄書譜によるものである。目下、新しい校訂譜が準備中である。
  2度目の再演は部分的なもので、1936年ロンドンにてジョン・トビン(1891-1980)が第一部のみを取り上げた。衆目の一致するところ、この善意のピアニストは曲に立ち向かうには甚だ力不足だった。演奏はソラブジの許可なく行なわれ、作曲家をいたく失望させた。この出来事は、公開演奏に対するソラブジの態度に影響したと思われる。それは、しばしば言われる全面的な拒絶ではなく、自作を誤解から守りたいという至極真っ当な希望であり、安心して許諾を与えられる奏者にのみ未来の公開演奏を明確に限定するものに他ならなかった。
  この異例で果敢な措置の最も早い一例は、ソラブジが非常に尊敬していたピアニスト、エゴン・ペトリ(1881-1962)との文通で確認出来る。ブゾーニの愛弟子であり、その壮大な協奏曲を師の指揮下で演奏したペトリとの関わりは、1920年代にロンドンでの演奏に対するソラブジの熱のこもった批評記事に発した。彼らの友情は終生続いた。ソラブジはペトリに、いつでもどこでも望む通りにOCを演奏する許諾を与えた。ただ残念ながら、ペトリはそれに立ち向かうことは無かった。準備に専心し、他の仕事を数年犠牲にするのは困難と感じたからに違いない。
c0050810_11440172.jpg  作曲家ピーター・マクスウェル・デイヴィス(1934-2016)は、1955年頃にOCの最初の2つの楽章を管弦楽用に編曲したが、不幸にもその所在は不明である。ピアニスト、ジョン・オグドン(1937-1989)は、1950年代半ばにデイヴィスからOCの存在を知らされ、生涯を通じて魅了され続けた。50年代末にバーゼルでオグドンはエオン・ペトリに師事した。オグドンとペトリがOCについて議論したかどうかはっきりしないのは無念だが、ソラブジが述懐するところでは、ペトリはオグドンがかつて教えた中で最も才能のある弟子であると保証し、できるだけ早く演奏を聴くように促したと云う。1959年、スコットランドの作曲家・ピアニスト、ロナルド・スティーヴンソン(1928-2015)の私邸で、オグドンはOCを試演し、その際の数少ない聴衆にはスティーヴンソンの他、被献呈者ヒュー・マクダーミッドも含まれていた。その翌年、ロンドンでオグドンは初めて、そしてただ一度、ソラブジに会うことになる。
  オグドンは1962年、モスクワのチャイコフスキー・コンクールでウラディーミル・アシュケナージと並んで優勝し、一挙にスターダムに駆け上った。1960年代半ば、見紛うことなくEMIの花形アーチストとなったオグドンは、EMI側に二度、OCの録音を打診したが、丁重に断られた。しかしこのことによって、OCを録音・演奏しようとする彼の熱意は、いささかも減じることは無かった。
  同じ頃、ピアニスト、ロナルド・スミス(1922-2004)はOCの演奏に興味を示し、準備作業を始めていたらしい。ただ彼は視力が悪く、長らく暗譜での演奏を余儀なくされていたため、OCには不向きであった。実のところ、暗譜での全曲演奏は今まで無かったし、これからも無いだろう。オグドンのCDに寄せた、ロナルド・スティーヴンソンのOC概説は、分析の傑作であり傑作の分析であるが、恐らくペトリと同じ理由で、一方ならぬ時間OCを練習しながらも、スティーヴンソンは部分的でさえ公開演奏を行わなかった。


c0050810_11430772.jpg  1980年、オーストラリア人ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジが、移住先のオランダで4公演にわたって最初の2つの楽章を演奏した後、1982年にオランダ・フェスティヴァルの一環としてユトレヒトで全曲を通奏した。初演から半世紀を経た最初の公開上演は、3部の間の休憩を含めてすべてラジオで生放送され(!)、深夜の天気予報を1時間遅延させた。最終番組の代わりに、OCの第二カデンツァ、第四フーガ、終結部 - ストレッタと盛大な拍手を聞かされたリスナーの反応は不詳である。この演奏は、今は無きオランダRCSレーベルから、4枚組LPとして発行された。
  幾つかの抜粋演奏に加え、マッジはボン・シカゴ(1983)、モントリオール(1984)、パリ(1988)、ベルリン(2002)で全曲演奏を行った。シカゴ公演は1999年、スウェーデンBISレーベルから5枚組CDとしてリリースされた。
  1984年、当時英国を拠点としていたAltarusレーベルが、所属アーチストであるロナルド・スティーヴンソンに、OCの録音を打診した。OCは演奏しないことに決めていたスティーヴンソンはこれを残念ながら辞退したが、是非ジョン・オグドンを説得するよう、賢明にもAltarusに勧めた。オグドンは喜んで申し出を受け入れ、ただちに企画を進め、1985年と86年に全曲を録音したのだった。
  1988年、ロンドンのサウス・バンク・センターのクイーン・エリザベス・ホールにて、パークレーン・グループの協賛のもと、オグドンはOC全曲の歴史的なイギリス初演を行なった。96歳で存命だったソラブジは、意識は明晰だったが車椅子から離れることが出来ず、この素晴らしい公演に臨席はかなわなかった。悲しむべきことに、その3ヵ月後、ソラブジはこの世を去った。その直後、オグドンは作曲者を追悼して、ロンドンで再度の全曲演奏を行った。オグドンの録音は、60頁を超えるA5サイズの冊子を合わせた4枚組CDボックスとして1989年にリリースされ、批評家から絶賛を博した(後に、通常の5枚組CDとして再発された)。このとき、パークレーン・グループはオグドンのOC演奏旅行を起案しており、オグドン自身も《100の超絶技巧練習曲集》の録音と演奏を準備し始めていた。これらの計画は、その年の夏、オグドンが享年52で他界することにより頓挫した。
c0050810_11431711.jpg  この作品の全曲演奏に挑んだ4番目のピアニストはジョナサン・パウエル(1969- )である。現在まで4回を数えるその演奏の第1回は、パークレーン・グループに協賛され、サウス・バンクセンターのパーセルルームで行なわれた。パウエルはそれまでに、Altarusレーベルにソラブジの様々なピアノ作品の録音を手がけていた。他の同僚を大きく引き離して、パウエルは多くのソラブジ作品を演奏・録音しており、また彼はその浄書作業にも従事している。
  2009年、ベルギー人ピアニスト、ダーン・ファンデヴァレはOCのスペイン初演を行い、「クラヴィチェンバリスト」の放列に5番目に加わった。彼はベルリンでも再演した。
   ペトリとスティーヴンソンの先例に見られるように、OCを含むソラブジの真に大規模な鍵盤独奏曲は、奏者に過大な負担がかかり、通常の練習日程では準備をこなせないため、畢竟計画を長期化するしか解決法は無い。これはまさに、この作品を演奏した全てのピアニストに降りかかった事である(作曲者自身を除いて!)。ジョン・オグドンは公開演奏する前に30年余りを作品と過ごした。ジェフリー・ダグラス・マッジは初演へ向けて相応の時間を間歇的に費やした。ジョナサン・パウエルは最初の演奏時までの人生の半分以上を、じっくりと準備に向き合っていた。


c0050810_11425523.jpg  《オルガン交響曲第一番》(1923-24)をもって、ソラブジはこの種の多楽章の大規模作品の嚆矢と成し、そのジャンルに半世紀後の《ピアノ交響曲第6番》まで拘り続けた。同曲を完成するまでに、彼は《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》(1923-26)となる作品も併行していた(1940年代後半に書かれ、エゴン・ペトリに献呈された同じく「怒りの日」による、より大規模な《Sequentia Cyclica》とは別作品である)。この変奏曲は、彼のヒーローであるブゾーニに捧げるつもりだったが、作曲中にブゾーニが他界したため、彼を追悼する曲となった。これら二つの作品で、長大な変奏と大胆なフーガ書法へのソラブジの偏愛が初めて表明された。この傾向はほぼ終生変わることなく、彼の代表的な鍵盤作品の多くを特徴付けている。
  ソラブジの巨大な作品は大抵それだけでリサイタル一晩を占めるように意図されているが、多楽章形式を探求する2番目の作品は1928年に完成されたピアノ独創のための《トッカータ第一番》である。75分を所要するものの、彼の最長の作品の一つでは決してなく、2011年ロンドンでジョナサン・パウエルが初演した際はコンサート後半に置かれ、前半はブゾーニ《対位法的幻想曲》が取り上げられた。ある意味、《トッカータ第一番》は、その終結部の嬰ト短調の調性の点を含めて、OCの先駆的作品と言えよう。《トッカータ第一番》と《対位法的幻想曲》と組み合わせるパウエルの発案は、偶然にも《トッカータ》を完成した年のうちに、《対位法的幻想曲》と最も接近し関連付けられるOCの作曲を開始していた事実と、予期せぬ偶合をもたらした。
c0050810_11423093.jpg  ソラブジとブゾーニは1919年ロンドンで出会った。このイタリアの作曲家はソラブジを招いて近作を弾くよう促した。ブゾーニに《ピアノソナタ第一番》(1919)を披露したのは、ソラブジにとって明らかに決定的な体験だった。直後にブゾーニ自身のピアノ演奏を耳にし、そのピアニズムと作品にすっかり釘付けになった(特に印象付けられたのはブゾーニ《トッカータ》だった)。疑いなく、これらの出来事を経てブゾーニの存在が彼の心を占めるようになった。
   特に《オルガン交響曲第一番》《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》《トッカータ第一番》《OC》といった作品群は、バッハ自身やレーガー(1873-1916)の作品に加えて、作曲家でありバッハ研究家/編曲家であったブゾーニの影響下にあり、ソラブジの音楽に独特の過剰性をもたらした。
  先述のように、生涯を通じてソラブジはフーガ形式を偏愛したにも関わらず、OCは彼の全作品の中でも特異な位置を占める。この作品は実に、規模・語法・主題数を徐々に増加させる合計4つのフーガによって句読点を付けられている。OCの高度に労作され錯綜した対位法書法と自由なファンタジア楽章の結合は、《対位法的幻想曲》とのもう一つの重要な共通項となっている。


c0050810_11414698.jpg  OC冒頭の《入祭唱》《コラール前奏曲》では見まがうことなくブゾーニ的な雰囲気が漂い、その鍵盤書法のみならず、彼の舞台作品に見られる独特で両義的な和声法をソラブジが吸収していたことが伺える。これらの楽章では、あらかじめ作品全体に関わる幾つかの予告を行なっている。OCの多くの箇所で輝かしく音符がばらまかれるのに対し、冒頭部における硬直した単音の恐るべき下降は、黙示録第11章第5節の第七のラッパを思わせ、「終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり」(コリント第15章52節)という感覚を示唆するよりむしろ、14世紀初期のダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』の地獄の門口の銘文、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を想起させる。ソラブジのアルカンへのほとんど狂信的な献身を考えると、OCの一世紀前に書かれたアルカン:ヴァイオリンとピアノのための《協奏的大二重奏曲 Op.21》の中間楽章「地獄」を念頭に置いていたのかもしれない。この楽章は「闇深い深淵の、極めて荒涼とし強靭な音楽的幻視をもたらす」と評されているが、興味深いことに、19世紀末に書かれたブゾーニ:ヴァイオリンソナタ第2番の冒頭部との符合が見られる。
c0050810_12010685.jpg  《入祭唱》はOC最短の楽章である。続く《コラール前奏曲》は、ブゾーニによってピアノ用に編曲されたバッハ風コラール前奏曲に範を取っている。
  《コラール前奏曲》は、続く第一フーガを暗示して締め括られる。4つのフーガのうち最初のものは、単一主題で最も簡潔に書かれ、むしろ《トッカータ第一番》の書法と同種である。
  嬰ト短調で決然と終結した《第一フーガ》は、そのままアルカンとリストを回想するような急速で動的な技巧走句で満たされる《ファンタジア》へ続く。憤怒の抗議の身振りにも似た、破壊的な複調による終止を経て、対照的な二つの主題による《第二フーガ》では、《第一フーガ》を特徴付ける硬直した厳格さの中に、叙情的要素も加味される。この楽章も嬰ト短調で閉じられるが、この調性と嬰ハ長調がこの独自な楽章を土台として支えている。


c0050810_11415968.jpg  かくして第一部は終わり、代わって、第二部はゆったりとした塊状和音による主題により開始され、嬰ハ長調で終止する。ここから極めて対照的な性格を持つ49の変奏が生成される。最後から二番目の変奏(第46変奏)が両手の和音の猛攻で畳み掛けられ、最後の和音が霧散するまで放置された後、優美にさりげなく、豊饒たる繊細さの極みにむせかえる夜想曲(ソラブジが雄弁たるもう一つの側面)へ移行する。温室でまどろむような雰囲気は一転、とぐろを巻いていた蛇が突如鎌首をもたげ毒牙を剥き出すかのように、荒れ狂う結末を迎える。
  続く《第一カデンツァ》は、第一部の《ファンタジア》とは異なった、早口の走句の速射で特色付けられる。この短い楽章の次に来る《第三フーガ》は、《第一フーガ》と《第二フーガ》の性格を合体させ、拡張し、極限の強度へ到達する。この楽章も嬰ハ長調で終止し、かくして第二部は閉じられる。


c0050810_11413052.jpg   巨大な楽章である《第二間奏曲》は、トッカータ、アダージョ、パッサカリアの3つの部分から成っている。トッカータは、お察しの通り、偏執的な走句による金銀線細工の発展形である。意外にもニ短調で終わる。アダージョは、この種のソラブジ作品の中でも際立って静謐な夜想曲であり、全曲の中でも情緒的な核心部と言えよう。もっとも、先行作品の《主題と変奏》のように、その永続的な静穏さは、嬰ハ長調の持続低音上の最弱音に始まり圧倒的な最強音へ至る塊状和音の下降によって打ち切られる。この楽章の最終部分の主動機は、伝統的な3拍子のパッサカリア形式を下敷きにしながらも、それは貫徹されない。(《オルガン交響曲第一番》第1楽章の主部であるパッサカリアと同様で、こちらも81の変奏を含む。)再び、雰囲気・質感・性格のさらなる対比が全編を通して労作され、最終変奏では鍵盤全域に及ぶ激烈で多層的な最強音が噴出し、決然と嬰ハ長調で結論付けられるが、《主題と変奏》や「アダージョ」と異なり、その嵐のような最終和音が徐々に死に絶えてゆくかのような、非常に緩やかな締め口上(Epilogo)が、ppで始まりmpまで至るが最後はほとんど聴こえないppppへ沈むように後書きされる。
   引き続く《第二カデンツァ》は、全曲が持続低音Aの上に展開される。(持続低音はソラブジの大好物である。)《入祭唱》と同じく、非常に短い楽章であり、4分音符の和音の連射ののち、複調へ雪崩れ込む。
  《第四フーガ》の四つのフーガ主題は、先行する二つのフーガに比べてもより互いの対比が図られている。OCの4つのフーガのうちで最長であり、進行するにつれOCのほかの動機を組み合わせつつ、最終楽章《終結部 (ストレッタ)》へ導いてゆく。
c0050810_11411663.jpg  この最終節の目指すところは、前例の無いレベルまで対位法を錯綜させることで表現と質感を引き上げ、全曲を焼け付くような終末へ牽引し、レーガーのオルガン・フーガの最も気宇雄大な終結部のごとく、まさに津波のように破壊的な和音の物量をもって、その嬰ハ長調の決定的な勝利の爆発へ到達する事である。
  しかし全てはまだ終わっていない・・・最後の2ページは嬰ハ長調を含む幾つかの調性を通過しつつ、燃え盛る凱歌をあげるどころか、全曲劈頭《入祭唱》の地獄門へと回帰するのである。稲妻の炸裂が嬰ト短調で完了し、低音部の抗うような雷鳴は右手の房状和音とそれを支える左手の嬰ト短調の和音を包含する。エリック・チザムへの手紙で、ゲーテ《ファウスト》を引用しつつ、「私は常に否定するところの霊である(メフィストフェレス)」と、作曲者はこの箇所を説明している。
  OCはガリアのように3つの領分に分けられ、通常休憩が差し挟まれる。ジョナサン・パウエルの4回の全曲演奏のうち2回目・3回目・4回目では、最初の休憩を省略し、第一部と第二部を連結させた。(私の予想に反して、この方法は非常に効果的であった。もしピアニストがパウエルのように体力があるのならば!) 1930年のソラブジ自身による初演fでは2回の休憩を差し挟んだが、それらは非常に短いもので、集中力の強度が失われるのを恐れるかのように迅速にピアノへ戻り演奏を再開し、それでもなお魅了されていた聴衆の有り得べき身体的不快感を度外視したと云う。


  今夜の上演はOCの16回目の全曲通奏であり、日本初演、そして今夜のピアニストである大井浩明による最初の演奏である。 (アリステア・ヒントン/英ソラブジ・アーカイヴ)



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補足:ソラブジの戦後前衛への影響? ──野々村 禎彦

c0050810_11404974.jpg ソラブジ協会のヒントン氏による詳細な作品/作曲家解説に、「戦後前衛との関連」に関する補足を依頼されたが、ソラブジ作品から戦後前衛への、通常の意味での影響関係は皆無としか言いようがない。氏の解説にもある通り、1936年に《オプス…》の悲惨な演奏を聴いて自作の公開演奏を禁止して以来、この禁止は1976年まで解かれることはなかったのだから、影響などあろうはずがない。

 技術水準のみを問題にするならば、ジョン・オグドンはチャイコフスキー・コンクールで優勝する以前からソラブジ作品に取り組んでおり、彼でも不満はなかったはずだ。彼はヴィルトゥオーゾ志向の作曲家でもあり、ソラブジ作品に強く共感していた。それにもかかわらず、ソラブジが自作の公開演奏を禁止し続けたのは、前衛の時代には自作が正当に評価されないことを見越していたのだろう。実際オグドンはこの時代に、ピアニストとしての評価に比べて作曲家としての評価が低いことに悩むうちに精神の平衡を崩し、1973年には演奏活動を休止して療養生活に入った。

c0050810_11394797.jpg 現代音楽界で「新ロマン主義」が脚光を浴びたのは1974年だった。1976年はこの傾向が一過性の流行ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家たちの多くも巻き込んだ潮流になることが見え始めた年であり、結局ソラブジの音楽は戦後前衛とは相容れないものだった…という単純な話でもなかった。彼は自作演奏を再び許可したものの、当時取り組んでいたピアニストに満足していたわけではなく、措置は暫定的なものだった。この措置が永続的なものになるにあたっては、ジョフリー・ダグラス・マッジが《オプス…》に取り組み始めたことが大きな役割を果たした。

 大井はクセナキス《シナファイ》の録音で国際的に注目されたが、この難曲を最初に録音したのが他ならぬマッジである。主にオランダでクセナキス作品など現代弾きとして鳴らした彼は、戦後前衛が曲がり角を迎えるとクシェネック、スカルコッタスら、1900年前後に生まれた忘れられた作曲家たちにレパートリーを広げる中で《オプス…》に出会った。彼の解釈をソラブジは高く評価し、彼は《オプス…》を最初に録音した。すなわち、ソラブジは自作が後期ロマン派の超絶技巧探求の延長線上で解釈されることに満足できず、現代音楽の演奏経験を踏まえたモダンな解釈を望んでいた。

 《オプス…》演奏史で次に大きな位置を占めるのは、マッジにはまだ残っていた後期ロマン派的な身振りを削ぎ落としたジョナサン・パウエルだが、彼もフィニスィー《英国田舎唄》(1977/82-85) 改訂版の全曲演奏でデビューした生粋の現代弾きである。マッジは《オプス…》を繰り返し全曲演奏している以外はソラブジ作品にはあまり深く関わってはいないが、パウエルは中期・後期のより錯綜した作品群までレパートリーにしており、ソラブジの難読手稿譜を浄書して演奏のハードルを下げるプロジェクトの中心人物のひとりでもある(ただし、《オプス…》の作業は担当していない)。

c0050810_03005260.jpg ソラブジの音楽は前衛の時代に評価されるような音楽ではないが、その反動としての後期ロマン派回帰で済まされる音楽でもなかった。その立ち位置は、マイケル・フィニスィー(1946-) の音楽にも通じるものがある。フィニスィーはファーニホウと並ぶ、英国での「新しい複雑性」の創始者だが、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の失地回復を目指したファーニホウとは異なり、J.シュトラウス二世やヴェルディ作品の「編曲」を前衛の時代末期から試み始めた、ヴィルトゥオーゾ志向の持ち主だった。彼もソラブジ同様、作曲家=ピアニストである。ただし原曲の面影を残しているのは輪郭のみで、個々の音符はセリー操作で変換され、「新ロマン主義」とも明白に異質である。

 英国ならではの中庸を行く姿勢はソラブジからフィニスィーに受け継がれ、演奏実践から見ても、パウエル以降のソラブジ演奏はフィニスィー体験が基盤になっている…という傾向はなくもないが、フィニスィーのスタンスはそこまで独特でもない。米国実験音楽第二世代のフレデリック・ジェフスキー(1938-) の立ち位置も、極めて近い。前衛の時代にはシュトックハウゼン作品などの演奏で鳴らした彼は、MEVでの集団即興を経て前衛の時代末期にはミニマル手法を用いた政治参加の音楽に取り組んだ。前衛の時代が終わると民衆歌や抵抗歌を素材に、即興経験を生かして複雑に変奏する作品群で自己を確立した(《「不屈の民」変奏曲》(1975)、《北米バラード》(1978-79) など)。

c0050810_11501842.jpg ただしジェフスキーのこのような方向性は、英国実験音楽を代表する作曲家=ピアニストのコーネリアス・カーデュー(1936-81) の活動をモデルにしている。シュトックハウゼンの助手としてセリー音楽を書き始めたが、ニューヨーク楽派の音楽に接して自由度の高い図形楽譜に移行し、AMMでの集団即興を経てアマチュア音楽家集団スクラッチ・オーケストラを結成し、やがて毛沢東主義に傾倒してそれまでの活動をブルジョア的だと自己批判し、自動車事故による早逝までは民衆歌や抵抗歌を民衆に馴染み深い様式=後期ロマン派風の変奏曲として処理する書法に落ち着いた。ジェフスキーの歩みは、短い生涯を生き急いだカーデューの人生を緩やかに辿り直したものだった。

 もはやソラブジとは何の関係もない話に見えるかもしれないが、彼らのその後に及んでようやく、ソラブジとの糸が繋がってくる。ソラブジ作品の最も特異な点は、常識外れの長大な演奏時間を持ちながら、小品集という伝統的な形態には収まっていないことだが、死後も衰えないソラブジの名声をなぞるかのように、彼らも20世紀末から21世紀初頭にかけて、《オプス…》すら凌ぐ長大なピアノ独奏曲を書いた。フィニスィー《音で辿る写真の歴史》(1995-2001) は6時間、ジェフスキー《道》(1995-2003) は10時間を全曲演奏に要し、彼らの創作史の総括にもなっている。



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by ooi_piano | 2017-02-08 01:38 | POC2016 | Comments(0)
c0050810_15225432.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)




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c0050810_811861.jpg【ポック[POC]#31】
2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場) 松涛サロン(渋谷区)

古川聖(1959- ):《七つのノベレッテン》(2017)(委嘱新作・世界初演)
カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕(約4時間)

 【第一部】 (50分)
I. 入祭唱 3分
II. コラール前奏曲 13分
III. 第一フーガ(四声による) 12分
IV. ファンタジア 4分
V.第二フーガ(二重フーガ) 16分

 (休憩10分)

【第二部】 (1時間半)
VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
VII.第一カデンツァ 5分
VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
   [第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]

 (休憩10分)

【第三部】 (1時間40分)
IX. 第二間奏曲 56分
   [トッカータ 5分 - アダージョ16分 - 81の変奏によるパッサカリア 35分]
X. 第二カデンツァ 3分
XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
   [第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
XII. 終結部(ストレッタ) 8分




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c0050810_15215530.jpg【ポストイベント】 ~二台ピアノによるバルトーク傑作集~
Bartók Béla zenekari mesterművei
két zongorára átírta Yonezawa Noritake


2017年4月28日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
チラシpdf


■バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
  導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
  I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto

■バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲


(終了)÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━
c0050810_855583.jpg【プレイベント】 2016年9月22日(木・祝) 19時開演(18時半開場) 公園通りクラシックス(渋谷区) 
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):《4つのエテュード》(1917)、舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)、舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913) (共演/浦壁信二)


c0050810_863877.jpg【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●アルノルト・シェーンベルク(1874-1951):浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演)、室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)]、三つのピアノ曲 Op.11(1909)、六つのピアノ小品 Op.19(1911)、五つのピアノ曲 Op.23(1920/23)、ピアノ組曲 Op.25(1921/23)、ピアノ曲 Op.33a(1928)、ピアノ曲 Op.33b(1931)、室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/40)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演)


c0050810_873735.jpg【関連公演】 2016年11月16日(水)18時20分開演(17時50分開場) 静岡文化芸術大学・講堂(浜松市)
●アルバン・ベルク=米沢典剛:《抒情組曲》〔全6楽章〕(1926/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アルノルト・シェーンベルク=米沢典剛:《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34》(1930/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アントン・ウェーベルン=米沢典剛:《交響曲 Op.21》(1928/2016、ピアノ独奏版・世界初演)


c0050810_883180.jpg【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●藤井健介(1979- ):《セレの物語》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905)、ピアノソナタ第1番(1902/09) 〔全5楽章〕、ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ・コンコード》(1909/15) 〔全4楽章〕





c0050810_891668.jpg【ポック[POC]#29】
2016年12月23日(金・祝)18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章](1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)[Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]





c0050810_810105.jpg【ポック[POC]#30】 2017年1月22日(日)18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971): ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演)、4つのエチュード Op.7 (1908)、ペトルーシュカからの3楽章(1911/21)、11楽器のラグタイム(1917/18)[作曲者による独奏版]、交響詩《夜鶯の歌》(1917)[作曲者による独奏版]、《兵士の物語》による大組曲(1918)[作曲者による独奏版](日本初演)、ピアノ・ラグ・ミュージック (1919)、管楽器のシンフォニー集(1920)[A.ルリエと作曲者による独奏版]、コンチェルティーノ(1920)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、八重奏曲(1923)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、ピアノ・ソナタ(1924)〔全3楽章〕、イ調のセレナード(1925)〔全4楽章〕、タンゴ(1940)、仔象のためのサーカス・ポルカ(1943)







POC2016:戦後前衛の源流を求めて────野々村禎彦

c0050810_21303021.gif POCシリーズも今年度で6期目。今回の特集作曲家はみな19世紀生まれであり、このシリーズでは従来試みられなかった、若手/中堅作曲家(特集作曲家ではない)への新作委嘱も毎回行っている。昨年度のシリーズも、60年代以降に生まれた作曲家の特集ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家の補遺であり、いよいよネタ切れ…と思う向きもあるかもしれない。だが、このシリーズは近年の大井の活動の中ではむしろ特異な位置にある。彼の普段の活動の中心は、新作委嘱と古典を組み合わせたプログラムであり、委嘱先も現代音楽業界での常連ではなく、アウトサイダーや境界領域で活動する音楽家(や非音楽家!)が主体。今回のプログラムの方が大井の本来の姿なのである。

 もちろん、19世紀後半に生まれ、主に20世紀前半に活動した作曲家を漫然と並べているわけではない。戦後前衛に焦点を絞ったシリーズにふさわしく、戦後前衛(第一世代に限らない)に直接的な影響を与えた作曲家に限られ、すると1874年生まれのシェーンベルクとアイヴズが最初になる。この戦後前衛の源流にあたる作曲家たちに大きな影響を与えた、「源流の源流」のドビュッシーは対象外である。ストラヴィンスキーの新古典主義とバルトークの「夜の音楽」への影響は言うに及ばず、アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、彼の音楽がなければ有り得なかった。彼の音楽とは無関係でいられたのは、シェーンベルクとソラブジくらいかもしれない。

c0050810_21312484.gif 生年だけ見ればラヴェルは1875年であり、シャリーノを筆頭に、彼の直接的な影響下にある戦後前衛の作曲家も少なくないが、彼もまた「源流の源流」に他ならない。作曲家としては遅咲きだったドビュッシーと早熟なラヴェルは、影響を与え合うライバルだった(《版画》―《鏡》―《映像》―《夜のガスパール》―《前奏曲集》という時系列)。ラヴェルの影から解放されたドビュッシーは、今度はストラヴィンスキーを意識し、《白と黒で》《練習曲集》で彼の進むべき道を示した。

 シェーンベルクを「戦後前衛の源流」のひとりに数えるのは今日では自然だが、前衛の時代には決してそうではなかった。特に戦後前衛第一世代にとっては、新ウィーン楽派でモデルになった作曲家はまずヴェーベルンであり(管理された偶然性以降の時代にベルクも加わった)、シェーンベルクは「12音技法と引き換えに新古典主義に退行した反動」にすぎない。またヴェーベルンベルクは、《浄夜》や《室内交響曲第1番》の後期ロマン派を佃煮にしたような作曲家を、「別な惑星の大気」を感じさせる清々しい無調音楽の作曲家に変貌させた、「源流の源流」とみなすことも可能だ。

c0050810_2132418.gif 紆余曲折を経て、シェーンベルクが「戦後前衛の源流」として見直された背景はふたつある。前衛の時代を代表するドイツの作曲家は、電子音楽の体現者シュトックハウゼンと、視覚的要素を重視しヨーロッパの伝統に疑義を突きつけたカーゲル(及びその縮小再生産版のシュネーベル)程度だったが、前衛の時代以降に頭角を現したラッヘンマンファーニホウ(英国を早々に見限った)は、当初こそ「伝統の異化」を標榜していたものの、しだいに伝統主義者の側面を露わにし、そこでモデルになったのはブラームスマーラーとの連続性が明確なシェーンベルクだったことがひとつ。カーゲルやシュネーベルすら、いつの間にかドイツ音楽の伝統の再利用を創作の中心に移していた。

 もうひとつは、ブーレーズが「怠惰による偶然性」と非難したケージ及びニューヨーク楽派の音楽が、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたこと。彼らの音楽は、実は米国実験音楽としては異端であり、その源流は若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生最も影響を受けた人物のひとりとしてリスペクトしていたことに由来する。即興の可能性を疑い、理念を厳格に形にする姿勢は、師シェーンベルクが体現した精神の深いレベルでの継承に他ならない。ケージらの音楽の性格は、米国実験音楽の多数派の「大らかさ」とは全く異なっている。

c0050810_21334169.gif このようなシェーンベルクの位置付けを前提にすると、なぜアイヴズが今回取り上げられたのかも見えてくる。「米国実験音楽の源流はアイヴズであり、彼は奇しくもシェーンベルクと同年生まれ」という単純な話では決してないのだ。非アカデミックな「アメリカ音楽」(中南米も含む)を包括的に内外で紹介し、文字通りの「日曜作曲家」アイヴズを見出して最初に出版したカウエルこそ「米国実験音楽の源流」にふさわしい。ピアノ独奏曲も一晩に余るくらい書いている。だが彼の「実験」は「戦後前衛」とは接点がないタイプのものであり、POCシリーズにはふさわしくない。

 もちろん、アイヴズの音楽も「戦後前衛」との直接の接点はない。シェーンベルクのテニス仲間であり、ベルクのオペラを参照して《ポーギーとベス》を書き上げたガーシュウィンの方が、まだ近いかもしれない。「トーン・クラスターの使用」「微分音調律」「音楽の空間性の探求」といった要素に切り分けて、アイヴズの音楽の「前衛性」が喧伝された時期もあるが、このような要素への分解を徹底すれば、セリー主義以外の「戦後前衛」の構成要素の大半は19世紀までの音楽に見出せる。

c0050810_21343028.gif アイヴズの音楽の本質的な特徴は、今回の曲目で言えば第2ソナタの第3楽章のような素朴な調性と、第4楽章のような深遠な無調が全く矛盾なく並んでいるところにある。これは戦後前衛における「引用」や「異化」とは性格を異にし、対立する美学を折衷主義に陥らずに受け止める、真の多文化主義と呼べる。これこそが、米国実験音楽の大らかな多数派に欠けている美質であり、ニューヨーク楽派(及びチューダー、オリヴェロス、テニー、初期ミニマル音楽)以降で体現しているのは、フランク・ザッパやジョン・ゾーンをはじめ、実験的ポピュラー音楽の最も先鋭的な音楽家たちである。これがアイヴズを「源流」とみなす意味であり、今回の委嘱作曲家の人選にも反映されている。

 1880年代前半に生まれたストラヴィンスキーとバルトークを「源流」とみなすことは、シェーンベルクとアイヴズの場合よりも議論の余地は少ない。ストラヴィンスキーは、第一次世界大戦後から戦後前衛が歴史的地位を確立するまで、「芸術音楽」のマジョリティであり続けた新古典主義の中心人物であり、アンチ新古典主義は戦後前衛勃興期の活動の原動力だったという意味でも、「源流」とみなせる。そもそも、アンチ意識は似た者同士だからこそ生まれる。新古典主義も戦後前衛も、同じ新即物主義の土壌から生まれた。美学は共有するが素材や技法だけが違うから、内ゲバになる。

c0050810_21354191.gif バルトークは、民謡収集で得られた素材を作曲に持ち込んだ、というレベルではヨーロッパ周縁部(中南米やアジアも含む一般的な概念)の多くの作曲家のひとりに留まるが、それを抽象化・普遍化する姿勢において突出していた。特に、クラシックの伝統における抽象化の頂点である弦楽四重奏においてその美質は発揮された。ペンデレツキやリゲティらの前衛の時代の作例は言うに及ばず、その影響はポスト前衛の時代まで及んでいる。クセナキス《テトラス》、ラッヘンマン《精霊の踊り》、グロボカール《ディスクールVI》、シュニトケ《弦楽四重奏曲第4番》という、80年代のこの編成を代表する多様な作品ですら、各々バルトークの3・4・5・6番のマイナーチェンジとみなせる。

 ただしピアノ独奏曲に限ると、ふたりの独自性は十分に発揮されているとは言い難い。ストラヴィンスキーの新古典主義は、原素材の編成やコンテクストを置き換える過程が面白いが、抽象度の高いこの編成では十分に機能しない。彼は最終的に、戦後前衛の点描書法まで取り扱うようになったが、この編成で扱った対象ははるかに狭いことが傍証になる。バルトークの場合も、ピアノの打楽器書法ではカウエルら、「夜の音楽」ではドビュッシーらとの本質的な差異は見出せない。こちらはストラヴィンスキーの場合とは反対に、元々抽象的な素材では「抽象化力」が発揮されないのだろう。

c0050810_2137586.gif だが、彼らがモダニズムに目覚める以前の最初期の作品から、従来は副次的だと顧みられなかった作品まで、一晩で網羅的かつ年代順に聴き進めることで、新たに見えてくるものがあるのではないだろうか? POCシリーズの全曲演奏主義にはそのような狙いがあり、戦後前衛を代表する作曲家たちの場合には大きな成果を挙げてきた。今回のプログラムでは、ストラヴィンスキーとバルトークに関して、このシリーズならではの発見が特に期待される。

 最後に、誰にとっても意外であろう、ソラブジ《オプス・クラヴィチェンバリスティクム》全曲。前衛の時代が過ぎた後、かつての「前衛弾き」たちが続々と挑んだことも手伝って、アルカン作品やゴドフスキ編曲版など、所謂「体育会系」ピアノ曲愛好家たちの間でカルト的な人気を集めている。ただし、この5時間近い規模ですら、このピアニスト=作曲家の創作歴の中では、「中程度の長さのまとまりの良い曲」なのだが。

c0050810_2138154.gif この作品が、直接的に「戦後前衛の源流」のひとつとみなせるのかどうかは疑わしい面もあるが、ピアニスト=作曲家が、退嬰的とまでは言えないが前衛的とも言えない、演奏家として慣れ親しんだ語法で即興的な手癖を交えて長大かつヴィルトゥオジックな作品を量産することは、戦後前衛を経たポスト前衛の時代の見慣れた風景ではある。ジェフスキしかり、フィニスィーしかり。大井は最近、ジェフスキ《「不屈の民」変奏曲》もレパートリーに加え、「源流」に挑む良い時期ではある。

 ただしソラブジは、ブゾーニの薫陶を受けたJ.S.バッハをリスペクトする作曲家であり、この作品の表題は『チェンバロ風の鍵盤作品』を意味することは、ピアニスト=ソラブジの後期ロマン派的な手癖も手伝って、必要以上に忘れられていたのかもしれない。作曲家=ソラブジがこの作品で意図していたのは、新即物主義を背景にしたモダニズム版《フーガの技法》だったのではないだろうか? POCシリーズの目的は、古楽奏法を通じてクラシックレパートリーの真価を引き出した体験を通じて、作曲家自身も気付いていない現代作品の真価を引き出すことだったのを、いま一度思い出そう。
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by ooi_piano | 2017-01-29 15:01 | POC2016 | Comments(0)
c0050810_7485570.jpg【ポック[POC]#30】
2017年1月22日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 
合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



c0050810_3141715.jpgイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):
ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演) 28分
  I.Allegro - II. Scherzo, Vivo - III.Andante - IV.Finale. Allegro
四つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、東京初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気

 (10分休憩)

大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 4分
イーゴリ・ストラヴィンスキー:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
《兵士の物語》による大組曲(1918)(作曲者による独奏版、日本初演) 25分
  I.兵士の行進 - II.兵士のヴァイオリン - III.王の行進曲 - IV.小コンセール - V.3つの舞曲(タンゴ/ワルツ/ラグタイム) - VI.悪魔の踊り - VII.コラール - VIII.悪魔の勝利の行進曲
ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、東京初演) 8分
コンチェルティーノ(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 6分

 (10分休憩)

八重奏曲(1923)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 16分
  I.シンフォニア - II.主題と変奏 - III.終曲
ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
タンゴ(1940) 3分
仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分




大蔵雅彦:《where is my》 (2016、委嘱新作)
  本作はかつて現実に存在した音のみを使って生成された現実に重ねあわせるためのCメジャーペンタトニックスケールとその派生物からなるブルース尺度構造物であり、習慣的動作=手癖を取り除くためにMIDIシーケンサー上でステップ入力により作曲された。いくつかのパートではX軸とY軸の入れ替えと混同の手法が使用されている。(大蔵雅彦)

c0050810_315399.jpg大蔵雅彦  Masahiko OKURA, composer
  リード奏者、作曲家。1966年生まれ。1993年より中里丈人とのテクノイズ/ダブユニットDub Sonic Warriorで都内のクラブ、ライブハウスを中心に演奏活動を開始。以降アルトサックス、クラリネット類、自作楽器での即興演奏の他、Gnu(1998~ Reeds+Bassx2+Drumsx2編成のパズルジャズ/ファンク/ロックバンド)、室内楽コンサート(2006~2011 杉本拓、宇波拓との共同企画による作曲シリーズ)、 石川高、ジャン=リュック・ギオネとの即興トリオ(2007~)、Active Recovering Music (2013~ スライドホイッスルアンサンブル)、They Live(2016~ 宇波拓とのダークアンビエントデュオ)などで活動。USBメモリーレーベルNo Schools Recordings主宰(2015~ )。 https://soundcloud.com/masahiko-okura https://soundcloud.com/no-schools-recordings



ストラヴィンスキーの全体像───野々村 禎彦

c0050810_317031.jpg イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) はサンクトペテルブルクを代表するオペラ歌手を父とし、少年時代からピアノ演奏を中心に音楽に親しみ、同地の芸術サークルに加わった。帝政ロシアはフランス文化圏に属し、アカデミズムはフランス同様保守的だったが、民間芸術サークルを通じてフランクやドビュッシーの小編成作品には触れることができた。在野の運動として始まったロシア五人組もこの時期にはアカデミズムの一翼を担っており、彼はむしろチャイコフスキーを好んだ。ただし、両親は息子が堅実な人生を歩むことを望み、サンクトペテルブルク大学法学部に進ませた。

 だが、彼の音楽への情熱は止まず、独学で作曲を始めると、友人を通じてリムスキー=コルサコフと知り合い、ピアノソナタ(1903-04) から本格的に指導を受けるようになった。師は音楽院の教授だったが、年長で独立心旺盛な(対位法を独学で身に着けるほどの)彼は音楽院には向かないと判断し、1908年に世を去るまで個人指導を続けた。泰西名曲や自作のピアノ草稿を管弦楽化させ、自分の仕上げと比較して玄人芸を学ばせる独特な教授法も水に合い、交響曲第1番(1905-07) を作品1と定めるまでに成長した。《花火》(1908) や《4つの練習曲》(1908) は修業時代を締め括る作品という位置付けになるが、ディアギレフは《花火》の初演に接してこの新進作曲家に注目し、立ち上げたばかりのバレエ・リュスの新作として《火の鳥》(1909) を委嘱した。

c0050810_3182612.jpg 《火の鳥》の成功は、ロシア民謡に取材した素材の新鮮さも理由のひとつだが、彼はバルトークのような組織的・科学的収集を行ったわけではない。この路線を継いで《ペトルーシュカ》(1910-11) を書いたが、両作の間の飛躍は大きい。複調の使用や不協和音の多用といった書法レベルでの変化もあるが、それ以上に持続の作り方が土台から変わっている。この飛躍の契機はドビュッシーとの直接の出会いだった。ロシアはバルトークのハンガリーよりは文化的に進んでおり、彼はドビュッシーの音楽を修業時代から知ってはいたが、《火の鳥》初演の晩にドビュッシーの方から彼を訪れ、新作を最初に見せて作曲の背景や秘密まで共有する、親密な個人的交流が終生続いた。

 《ペトルーシュカ》はドビュッシーにも刺激を与え、バレエ・リュスの委嘱で《遊戯》(1912) が生まれた。この曲の全面的な形式の自由は同時代には理解されず、約50年後に総音列技法が行き詰まり、ヨーロッパ戦後前衛の作曲家たちが打開策を探る中でようやくドビュッシーの真意が理解されたわけだが、同じシリーズの次の演目が《春の祭典》(1910-13) だったために、そのインパクトの陰に埋もれてしまったことも大きい。不協和音を一見不規則なリズムで打楽器的に叩き付ける書法は強烈で、前期ストラヴィンスキーの作風はしばしば「原始主義」と呼ばれてきた。

c0050810_3185887.jpg 彼は《春の祭典》と並行して、ふたつの実験的な作品を書いた。極めて無調的なカンタータ《星の王》(1911-12) を献呈されたドビュッシーは衝撃を受け、「プラトンの言う『永遠なる天体のハルモニア』のような非凡な音楽……我々の住む星ではまだ地の深みに埋まったままだろう」と返信した(実際、初演は1939年)。またシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の初演を聴いて、《3つの日本の抒情詩》(1912-13) で応えた(この試演を聴いたラヴェルは《マラルメの3つの詩》(1913) を書き、声と小アンサンブルという編成は小ブームになった)。いずれも「原始主義」とは程遠い音楽であり、この呼称の浅薄さは明白だ。なおブーレーズは「ストラヴィンスキーは生きている」という論文(1953) で、《春の祭典》はリズム細胞の精緻な(一見不規則に見えるほど複雑な)操作に基づいて書かれていると解き明かした。実は「原始主義」の対極の音楽だったのである。

 《春の祭典》初演の騒動は、ニジンスキーの振付によるバレエの異様さも大きな要因だったとされる。翌年の演奏会形式による上演は絶賛され、「原始主義」という誤解は長く残ったがオーケストラのレパートリーとして定着した(ただしドビュッシーは初演時点で、自身の《海》や《管弦楽のための映像》における試みを発展させた音楽だと冷静に受け止めた)。初演後程なく、私的な理由でニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されたこともあり、バレエの再演は1920年まで行われなかった。第一次世界大戦後の資金難の中、ココ・シャネルの多額の援助で実現したマシーンの振付による上演は大成功を収め、バレエのレパートリーとしても定着した。その後も多くの振付が生まれている。

c0050810_320050.jpg 《春の祭典》を経たストラヴィンスキーは、第一幕を書いた後はバレエ・リュスの委嘱を優先して放置していたオペラ《夜鶯》(1908-09/13-14) をまず仕上げた。第一幕と第二幕の間にストーリー的にも断絶があり、音楽様式が大きく変化しても不自然ではない、という判断だった。後にディアギレフがこのオペラのバレエ化を打診すると、彼は第二幕以降の素材を交響詩《夜鶯の歌》(1917) として再構成し、バレエもそれに基づいて上演された。バレエ・リュスから毎年のように委嘱を受けるようになると、彼は大半の時間をヨーロッパ各地で過ごしていたが、《夜鶯》の初演後に久々にロシアに戻り、《結婚》(1914-17/23) のテキストとして民衆詩集を大量に買い求めたのが、祖国との長い別れになった。スイスの仕事場に戻った2週間後に、第一次世界大戦が勃発した。

 その後数年は、この時買い集めたテキストを用いた小編成アンサンブルを伴う声楽曲が創作の中心になる。その背景には亡命生活を強いられる中での望郷の念があるのは言うまでもない。《プリバウトキ》(1914)、《猫の子守唄》(1915-16)、《狐》(1916) と続く一連の作品は、ヴェーベルンの同時期の声楽曲と比肩し得る凝縮の美学を持つが(《プリバウトキ》と《猫の子守唄》はウィーンで初演され、立ち会ったヴェーベルンは彼の才能に驚嘆した)、大戦中は大編成作品の上演は困難だったという事情も大きい。この時期はバレエ・リュスも開店休業状態で、新作上演はサティ《パラード》(1916-17) のみ。ディアギレフに依頼され《結婚》もピアノ譜までは完成したが、上演の目処は立たなかった。ストラヴィンスキーは個人的な委嘱と祖国からの送金で細々と食い繫「でいたが、1917年にロシア革命が起こると祖国に残した全財産は没収され、経済的苦境に陥った。

c0050810_321591.jpg そこで彼とスイスの仲間たちが発案したのは、楽器を持ち運べる小アンサンブルのための音楽劇を作り、旅芸人のように演奏旅行することだった。ロシア民話に基づく音楽劇《兵士の物語》(1918) は3人の朗読・ヴァイオリン・コントラバス・クラリネット・ファゴット・コルネット・トロンボーン・打楽器という編成で書き上げられ、大戦末期の同年9月に初演されたが、折悪しくスペイン風邪が流行し、音楽家もスタッフもみな感染して巡業は行われなかった。彼は翌年、この企画を援助したスイスの実業家に感謝の印として《クラリネットのための3つの小品》(1919) を献呈したが、このパトロンはこの曲に加えて、《プリバウトキ》、《猫の子守唄》、《兵士の物語》トリオ版(1919) などからなる、スイス時代の彼の仕事を俯瞰する個展をスイス各地で主催することで応えた。

 《兵士の物語》は、旅芸人一座よろしく既成曲の断片の寄せ集めという体裁を持ち、まさにロシア民衆歌の時代と新古典主義の時代を繫ョ作品だが、寄せ集めた素材には当時流行していたラグタイムも含まれる。ロシア民謡を素材にした作品群で名を挙げ、スペインの酒場で耳にしたアラブ風音楽を素材に、自動ピアノのための《マドリッド》(1917) を作った作曲家だけに、黒人音楽の要素が強い新大陸発の民衆音楽には強く惹かれ、まず11楽器のための《ラグタイム》(1917-18) に取りかかり(完成は《兵士の物語》よりも後、《狐》に続くツィンバロムの使用は、ホンキートンク・ピアノの効果を模したのだろう)、アルトゥール・ルビンシュタインから名技的なピアノ曲を委嘱された機会に《ピアノ・ラグ・ミュージック》(1919) を書き、この音楽の王道編成も制覇した。

c0050810_3215012.jpg 《兵士の物語》を新古典主義の始まりと看做すかどうかは意見が分かれる。この潮流の理論的始祖はブゾーニ、音楽的始祖はドビュッシーであり、《白と黒で》(1915)、《練習曲集》(1915)、3つの室内楽ソナタ(1915/1915/1916-17) はストラヴィンスキーも通暁していたはずだ。この潮流がヨーロッパの主流になった背景は、普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発であり、後期ロマン派~表現主義の複雑な和声を排した「古典回帰」が旗印になった。ドビュッシーの場合には、ラモーやクープランらフランスのバロック音楽への回帰だった。ドビュッシー追悼曲の拡大版である《管楽器のシンフォニー集》(1920) ではドビュッシー最晩年のこのような傾向は当然意識されている。ラグタイムやジャズのような民衆音楽を含むパッチワーク的構成も新古典主義の特徴である。それにもかかわらず、《兵士の物語》は新古典主義には含めないとする場合には、弦楽四重奏のための《コンチェルティーノ》(1920) が弦楽四重奏のための《3つの小品》(1914) と変わらぬ尖鋭的な書法を保っていることが大きな根拠になる。

 《狐》《兵士の物語》と、大戦中は自分の手の届かないところで仕事を得ていた彼にディアギレフは嫉妬していたが、新作上演が困難な中でもD.スカルラッティ/トマシーニ《上機嫌な夫人たち》、ロッシーニ/レスピーギ《風変わりな店》と、イタリアの有名作曲家の未出版曲を再構成したバレエが当たりを取ったことを踏まえ、ペルゴレージの素材を図書館で集め(ただし夭折の作曲家には偽作も多く、今日の研究ではその少なからぬ部分は同時代の他の作曲家のものだった)、それらを再構成したバレエの作曲を彼に打診した。ロシア民謡を素材にする際も、原曲を尊重するバルトークのスタンスとは対照的な、原曲を切り刻む再構成が身上だった彼にとって、かねてから関心があった後期バロックの作曲家と自由に戯れるのは魅力的な提案で、《プルチネルラ》(1919-20) が生まれた。

c0050810_3224140.jpg ディアギレフの指定通りの大管弦楽ではなく、アンサンブルを独奏者の集合体=合奏協奏曲として扱うスイス時代に慣れ親しんだ編成を用い、単なる編曲の域を超えて不協和音や複調を忍び込ませ、原素材を批評的に再構成する、新古典主義の出発点にふさわしい作品になった。彼はその後30年にわたりこの様式の延長線上で作曲したが、それ以前よりも作品の質にばらつきが出たことは否定できない。例えば、敬愛するチャイコフスキーの音楽を素材にしたオペラ《マヴラ》(1922) やバレエ曲《妖精の口づけ》(1928) は、《プルチネルラ》や盛期バロックの作曲家リュリの音楽を素材にしたバレエ・リュスのための最後のバレエ曲《ミューズを導くアポロ》(1927-28) ほどには成功していない。彼が考えていたよりも、この様式は素材を選ぶように思われる。

 個々の曲の優劣を語るのは総説としては不毛なので止めるが、総じて言えば特定の編成への最初の取り組みが最も成功しており、経験を重ねるほどにマンネリ化する傾向がこの様式では目立つ。積み重ねによる深化が期待できない、マンガで言えばギャグマンガのような様式であり、クラシック音楽の常識は通用しない。《プルチネルラ》の初演直後にフランスに移住した彼は、1939年9月にハーヴァード大学客員教授着任を機に第二次世界大戦勃発直前のヨーロッパを離れ、そのまま米国に亡命した。この際の講義録は『音楽の詩学』としてまとめられており、そこで強調されているのは対位法の重要性とロマン主義(ヴァーグナーに仮託された)の不純さへの非難だが、この理念と彼の新古典主義のあり方には齟齬があるのではないか。彼の新古典主義における対位法は、即興的な機知を発揮する枠組として機能し、ロマン主義的な素材はこの速度に感情の錘を付けるためにそぐわない。

c0050810_3233648.jpg 特に米国亡命後の作品ではこの矛盾が露わになる。大編成の「代表作」ほど音楽は堅苦しくなり、彼の創造性は、《サーカス・ポルカ》(1942)、《オード》(1944)、《エボニー協奏曲》(1945) のような作品表の隙間を埋めているかに見える小品に専ら表れている。ただし、彼の新古典主義の時期を真に代表するのは、フランス時代は《詩篇交響曲》(1930)、米国時代は《ミサ曲》(1944-48) という、同時期の他作品とは隔絶した宗教曲である。これらの作品は、『音楽の詩学』で示された理念との矛盾はないが、新古典主義に拘る必然性も感じさせない。彼の法的な身分ははスイスに亡命した1914年から米国市民権を得た1945年まで、フランス市民権を得た1934年以降数年以外は常に亡命ロシア人であり、著作権法的に不利な立場にあったので当座の生活費が必要だったという理由付けも可能かもしれないが、それだけでは困窮していたスイス時代の作品の質の高さは説明できない。

 新古典主義時代を締め括る大規模なオペラ《蕩児の遍歴》(1948-51) を書き上げると、彼はこの様式ではこれ以上書き続けられないと判断し、『音楽の詩学』の理念をより純粋に実現すべく、ルネサンス音楽の対位法を研究し始めた。程なくシェーンベルクが逝去し、個人的な確執から遠ざかってきた12音技法を忌避する理由もなくなった。1948年から助手を務めた指揮者のロバート・クラフトは、当時の米国における現代音楽の伝道師であり、彼を通じて新ウィーン楽派の作品を多く知った。なかでもヴェーベルンの音楽は、表現主義の身振りを残すシェーンベルクとも後期ロマン派的素材を新古典主義的に処理したベルクとも違い、ルネサンス音楽の対位法に根ざした、彼の理念を体現した音楽だった。当時の米国にはバビットのような独自のセリー主義者が現れ、カーターやセッションズも新古典主義から12音技法に転じ、コープランドまで12音技法を使い始めていた。

c0050810_3263011.jpg ただし彼は、同時代の流行として性急に12音技法を取り入れるのではなく、《ミサ曲》より先に進むための手段として、ゆっくりと身に着けていった。まず《カンタータ》(1951-52) では主題をセリーのように扱い、《ディラン・トマス追悼》(1954) では旋法的5音音列でセリー操作を行い、《カンティクム・サクルム》(1955) でようやく12音音列を用いた。彼が求めたのは厳格な対位法であり、オクターブの12音を均等に扱って調性感を消すことは目的ではなかった。最終的に12音音列に落ち着いたのは、6×2、4×3などのより細かいグループ化が可能で、構造化に都合が良かったからである(この点もヴェーベルンに倣っている)。この意味で、バレエ曲《アゴン》(1953-57) には特に注目したい。作曲年代から想像される通り、新古典主義的な素材と12音音列に基づいた素材が混在しているが、両者は全く矛盾なく一体化しており、12音技法は彼の血肉の一部になった。

 米国実験音楽は彼の眼中にはなく、ブーレーズやシュトックハウゼンとしばしば会って戦後前衛の動向を知ろうとした。ピアノと管弦楽のための《ムーヴメンツ》(1958-59) は、彼のテクスチュアが最も戦後前衛に近づいた瞬間である。同時期の作品表には宗教的作品が並び、静的な対位法構造を着実に築き上げた。だが彼はそれだけでは満足せず、TV用オペラ《洪水》(1961-62) で《アゴン》のダイナミズムを取り戻すと、管弦楽のための《変奏曲》(1963-64) では12声部の対位法の極致と彼らしい運動性が交錯する「20世紀で最も密度の高い音楽」(フェルドマン)を実現した。最後の大曲《レクイエム・カンティクルス》(1965-66) はもう少し落ち着いた調子で、セリー時代の創作を総括している。70歳から新しい語法に取り組み、創作歴の最後がピークになるのは並大抵のことではない。「彼の晩年は、ブラームスのように豊かだった」(シュトックハウゼン)。

c0050810_3272797.jpg 彼の歩みは20世紀音楽の歴史そのものであり、彼の「後世への影響」を議論することには意味がない。彼の後半生の理念を彼以上に体現した作曲家がヴェーベルンであり、戦後前衛の歴史はヴェーベルンの先に続いている。彼が米国実験音楽には全く関心を示さなかったのは、20世紀音楽の歴史を彼とケージに集約する上ではむしろ都合が良い。複数の音楽様式にまたがって活動を続ける中で、50年以上世界の第一線に留まった作曲家は、20世紀ではこのふたりだけである。



【関連公演】
СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ ~二台ピアノによるストラヴィンスキー傑作集~
2016年9月22日(祝・木) 浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)ストラヴィンスキー:魔王カスチェイの邪悪な踊り
プロコフィエフ:邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り
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by ooi_piano | 2017-01-05 00:02 | POC2016 | Comments(0)
c0050810_425386.jpg

【ポック[POC]#29】
2016年12月23日(金・祝)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) 
[三公演パスポート8000円] 12/23(バルトーク)+1/22(ストラヴィンスキー)+2/19(ソラブジ)


【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



ベラ・バルトーク(1881-1945):
ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904) 21分
  Mesto/Adagio - Piùvivo - Presto
14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908) 24分
  I.Molto sostenuto - II.Allegro giocoso - III.Andante - IV.Grave 〈俺が駆け出しの牛飼いだった頃...〉 - V.Vivo 〈ああ、家の前で...〉 - VI.Lento - VII.Allegretto molto capriccioso - VIII.Andante sostenuto - IX.Allegretto grazioso - X.Allegro - XI.Allegretto molto rubato - XII.Rubato - XIII.Lento funebre 〈彼女は死んだ...〉 - XIV.Valse, Presto 〈恋人が踊っている...〉

 (休憩10分)

東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
ベラ・バルトーク:アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911) 3分
3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918) 8分
  I.Allegro molto - II.Andante sostenuto - III.Rubato/Tempo giusto
舞踏組曲 Sz.77 (1925) 17分
  I.Moderato - II.Allegro molto - III.Allegro vivace - IV.Molto tranquillo - V.Comodo - VI.Finale; Allegro

 (休憩10分)

c0050810_6203012.jpgピアノ・ソナタ Sz.80 (1926) 13分
  I.Allegro moderato - II.Sostenuto e pesante - III.Allegro molto
戸外にて Sz.81 (1926) 15分
  I.笛と太鼓で - II.舟歌 - III.ミュゼット - IV.夜の音楽 - V.狩
弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)  23分
  I.Allegro - II.Prestissimo, con sordino - III.Non troppo lento - IV.Allegretto pizzicato - V.Allegro molto

 [Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]




東野珠実:《星筐IV Hoshigatami IV –Tokyo 2016.12.21.19:44 for Piano》 (2016、委嘱新作初演)
c0050810_4315165.jpg 音楽の楽しみは、響きの宇宙に星座を見いだす歓びではないか、と私は考えます。『星筐』(ほしがたみ)は、このコンセプトをもとに創作した雅楽合奏のための作品にはじまり(平成十三年度国立劇場作曲コンクール第一位・文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞)、以後、連作として様々な形態の表現を模索しています。
 今回、大井浩明氏のピアノソロコンサートプロジェクト”POC”の第29回公演タイトルにちなんで、「先駆的」という創作のリクエストをいただき、古今東西の楽譜というメディアについて思考を巡らし、私なりに当代のアプローチを行うこととしました。
 さて、先に“響の星座”という言葉を用いましたが、奈良で発掘されたキトラ古墳に記される星宿のように、古来、人々は無数の星々に意図的な縁を読み取り、天と人とのつながりに特別な思いを抱いています。かく言う私は古代より宇宙を表す音楽である雅楽の世界におりますが、本作のアイデアは、雅楽に出会うずっと以前、幼少期の記憶にさかのぼります。それは、まだ文字も書けない頃に初めて覚えた五線譜という記号の世界、そして、父の運転する自動車の窓から仰ぎ見る星空にいつも掛かっていた電線です。(身長100cmの視線は車窓を仰いで常に天空に向かっているのです (^_^)。すなわち、星空に向かって初めて覚えた“見立て”の技と、思考のフィルターを重ねて物事を観る楽しさ、喜びの感覚です。こんなことは皆が経験する些細な遊びですが、本作では、その遊びを当代のメディアに載せ替えて楽しんでみようという趣向です。
c0050810_4325525.jpg そこで、本年の冬至にあたる日時の星図に五線譜を重ね、大小の星々が音符として浮かぶよう作譜をし、《星座譜》と名付けました。複数の五線譜を重ね、透過して重なる音符の影をもって音の空間的な奥行きを表記する試みは笙と竽フためのMobius Link 1.1(1992年)という作品ですでに行っており、雅楽の文字譜に従って五線譜を縦に進行するルールなども指示しておりますが、当時、トレーシングペーパーなどを用いた透過表記の手法も、今や、コンピュータの画像処理によって簡単に実現することができます。もちろん、スタンダードな白黒の紙媒体の楽譜に落とし込むことを念頭にしつつも、現実の星々が夜空に色彩をもって大小に輝く姿も重要な演奏情報として取り入れることを意図し、CG画像表示メディア(iPad等)の併用を試み、表現方法の異なるレイヤーを行き来しながら演奏解釈のテーマ性、自由度を拡張させることを考えました。また、今回の星座譜においては、あえて譜表やテンポの指示もせず、多様な“見立て”が可能なよう、最低限のルールを配することとしました。
 演奏とは、一種、奏者による音響情報処理の結果です。しかし、それは客観的に数値化された事象を処理する機械的な作業とはまるで異なり、奏者の技量や経験、思考によって常に新たに生み出される時間の造形です。一般に楽譜という時系列に基づいたスクロール系の表記法に対して、一面の地図を広げて冒険に乗り出すような、さらには宇宙のように、図上にまだ表されていないような発見のチャンスを期待させるような楽譜があったらとの思いを巡らせます。
 さて、星図で設定した冬至は、天文学上は太陽黄経が270度になる瞬間を表し、いうまでもなく古代より様々な民族が重要視する暦の起点です。奏者が見出す音の星座を聴覚で観察し、時を満たす音の宇宙のなかで、おのおの“こころの筐(かたみ)に星をあつめて”いただければ幸いです。(東野珠実)



東野珠実 Tamami TONO, composer
c0050810_4333350.jpg  国立音楽大学作曲学科首席卒業。慶應義塾大学大学院政策メディア研究科修了・義塾長賞受賞。ISCM、ICMC、国立劇場作曲コンクール第一位/文化庁舞台芸術創作奨励特別賞等受賞。雅楽を芝 祐靖、豊 英秋、宮田まゆみらに師事し、90年より笙奏者として国立劇場公演はじめ、タングルウッド音楽祭、ウィーンモデルン等、国内外の公演に参加。 Yo-Yo MA、坂本龍一らに招聘されるなど、創作・演奏を通じ国内外で多彩な活動を展開。雅楽演奏団体伶楽舎、現代邦楽作曲家連盟所属。
  代表作:雅楽のための『星筺(ほしがたみ)』、国立劇場委嘱『月香楽』、JAXA宇宙文化プロジェクト『飛天』、東京国際フォーラム開館記念創作ミュージカル『モモ』、石川県白山市立白嶺小中学校校歌『水と光と大地』、浄土真宗本願寺派伝灯奉告法要音楽等。
  CD『祝賀の雅楽』、『Breathing Media ~調子~』、雅楽古典曲笙調子全曲録音(平成23年度文化庁芸術祭参加作品)、John Cage『Two3,Two4』世界初全曲録音ほか。





音楽史の中のバルトーク ~後世への影響を中心に ───野々村 禎彦

c0050810_639874.gif バルトーク・ベーラ(1881-1945) は農業学校校長で音楽愛好家の父とピアノ教師の母の間に生まれ、幼時から音楽に親しんだ。父は32歳で早逝したが、母はピアノの才能に恵まれた息子を「天才少年」として売り出して生計を立てようなどとはせず、通常の教育を受けさせた。バランスの取れた教養を身に着けたことで、彼は多面的な人生を歩むことになった。

 今日の視点からは、彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる(ハンガリー語の姓名の順は日本語と同じ)有名な作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う、ということだ。ただし、「3大B」という発想自体がドイツ音楽影響圏に特有のものであり、このような見方は、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が、彼に「周縁代表」を仮託した結果なのだろう。

c0050810_640769.gif だが、同時代におけるバルトークは、まずハンガリーを代表するピアニスト=ピアノ教師であり、次いで民謡研究で名高い音楽学者であり、知る人ぞ知る作曲家だった。本日最初の曲《ラプソディ》(1904) は、彼の伝統的な作曲修行の集大成=作品1であり、そのピアノ協奏曲版(1905) を携えて同年のアントン・ルビンシテイン国際コンクールに参加した。作曲部門は奨励賞に留まったが(この曲ですら斬新すぎるとされる、19世紀後半を代表するヴィルトゥオーゾが始めたコンクールらしい基準)、ピアノ部門ではバックハウスと優勝を争った。当代随一の国際コンクール2位という輝かしい経歴を携えて、彼は1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任し、リリー・クラウス、シャーンドル・ジェルジ、アンダ・ゲーザ、フリッツ・ライナー、アンタル・ドラティらを輩出した。自作演奏とシゲティの伴奏を中心とするCD数枚分の録音を聴いても、「作曲家としては」という但し書きを全く必要としない、ラフマニノフに匹敵する20世紀前半を代表するピアニストだったことがわかる。

 ただし、彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。1934年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。その真意は、ナチスドイツの「頽廃音楽を排し国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で、不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 彼は祖国とナチスドイツとの関係が強まるにつれて亡命を考え始め、1939年に母を看取ってから亡命先に米国を選ぶ決め手になったのは、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。

                  *********

c0050810_6405938.gif 彼が独自性の高い作曲を始める契機になったのは、1906年からコダーイ・ゾルタン(1882-1967) と民謡収集を本格的に始めたことだった。翌年にコダーイ経由でドビュッシーの音楽を知り、民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。オリジナル民謡に極力手を加えずに合唱曲や器楽曲に編曲することと、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点が《14のバガテル》(1908) である。後者の作曲時点で彼が参照できたのは《版画》《映像》までのはずだが、この曲集には《子供の領分》《前奏曲集》を思わせる曲も含まれており、「その後のドビュッシー」をシミュレーションできるほど彼の理解は深かった。この曲集と《10のやさしい小品》(1908) でピアノ書法を掴むと、素材は民謡だが「ベートーヴェン第17番」のように響く弦楽四重奏曲第1番(1908-09) を挟んで、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究した。その成果が結実したオペラ《青髯公の城》(1911) の直後に書いた《アレグロ・バルバロ》(1911) は、音楽上の親殺しに他ならない。彼はドビュッシーを終生リスペクトし、《前奏曲集》全曲はピアニストとしてのレパートリーだった。米国議会図書館でのシゲティとのリサイタルでも、自作とともにドビュッシーのソナタを取り上げている。

 今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は、作曲の動機となったオペラのコンクールには入賞すらできず、コダーイと始めた新ハンガリー音楽協会のコンサートも、演奏水準も聴衆の反応も惨憺たるもので、早々に活動を休止した。失意の連続に作曲への意欲は失われ、ピアノ演奏と教授以外の時間は民謡収集と分析に専念する日々が続く。民謡研究を進めるうち、ハンガリー周縁部に残るルーマニア民謡やスロヴァキア民謡の方が、学問的にも音楽的にも興味深いことに気付き、あくまでハンガリー民謡に研究対象を絞ろうとするコダーイとの違いが鮮明になってきた。多地域の民謡の比較を進める中で,、1913年にはアルジェリアまで足を伸ばしている。だが、このような調査は第一次世界大戦が始まると困難になり(さらに大戦が終わると、ハンガリーは周縁部の領土の大半を失ったためより困難になり)、彼は作曲に復帰する。

 《青髯公の城》は彼の創作史では突出して尖鋭的な作品のひとつで、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916)、弦楽四重奏曲第2番(1915-17) 等よりも後の作品にすら聴こえる。だが、《青髯公の城》初演と同年の《3つの練習曲》(1918) は一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し、創作に生かした。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) は《練習曲》の延長線上にストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、この時期のモダニズムの最良の成果が凝縮されている。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》に連なる作品だが、今度は同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。このソナタ第1番のパリ初演にはラヴェル、シマノフスキ、ストラヴィンスキー、ミヨー、オネゲル、プーランクらが顔を揃え、バルトークも彼らと並ぶヨーロッパを代表する作曲家のひとりだと認知された。

c0050810_6415421.gif 《舞踏組曲》(1923/25) はブダペスト市制50周年記念式典の祝典曲であり、この時期には異質な民謡素材を素で用いた平明な組曲だが、彼が研究してきたハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、アラブの民謡を対等に並べ、右派ナショナリズムを掲げる当時の政権に異を唱えている。難航していた《中国の不思議な役人》の管弦楽化も済ませると(この際にストラヴィンスキーの新古典主義を研究した)ピアノ曲に集中的に取り組み、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。それまでの作品は、民謡素材と同時代の音楽語法を融合する手腕が聴き所だったが、この時期からは「バルトークがどのような語法を生み出したか」が聴き所になっている。また、弦楽四重奏曲第4番は抽象性では彼の頂点と看做される作品でもあり、ピアノ編曲は特に興味深い。

 続けてヴァイオリンとピアノのための《ラプソディ》2曲(1928)、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) を書いたが、長年構想を暖めていた《カンタータ》以外はいずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた(2曲のヴァイオリンソナタは技術的にも内容的にも高度で演奏者もプログラムも選ぶため、アンコールでも取り上げられる程度の曲が必要だった)。これは彼のピアニスト=作曲家としての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している(ピアノ協奏曲の初演はいずれもフランクフルトで、第1番はフルトヴェングラー指揮、第2番はロスバウト指揮)。また民謡編曲によるヴァイオリン二重奏練習曲集《44の二重奏曲》(1931) もこの時期に書かれ、《ミクロコスモス》の作曲も1932年から再開した、

 彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだが、だからこそコツコツ積み上げる民謡分析の作業とは相補的で相性が良かった。彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年、晴れてピアノ科教授を辞して民謡分析が本業になった時だ。弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が並ぶ。特に後2作を(後に《ディヴェルティメント》(1939) も)委嘱したパウル・ザッハーは、この時期の彼の創作を支えた人物である。ただしこの背景には、ナチスドイツが「頽廃音楽」の排斥を進めたため、中立国スイスでバーゼル室内管弦楽団を率いるザッハーからの委嘱の比重が相対的に高まったことがある。

c0050810_703453.gif 《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。彼の母はハンガリーを離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後に《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化を行った他は、作曲は全く進まなかった。ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定して、学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだものの、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人であった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。

 だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱の前渡金として当座の資金を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) は、顧みられることが減った新古典主義後期の華やかな作品群中では例外的に、今日でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。

c0050810_712328.gif 弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。 (つづく)


   
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by ooi_piano | 2016-12-13 04:13 | POC2016 | Comments(0)
承前

c0050810_6424469.gif 最も本質的な「先駆者」は、その音楽に触れた途端に後継者たちの音楽が一変し、一流の作曲家が誕生するような存在だろう。20世紀においてドビュッシーはまさにそのような位置にあり、今回のPOCシリーズは、アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを通じてそれを確認する場でもある。そのような奇跡が、存命中にほぼリアルタイムで相次いで起こったのは凄まじい。これは機能和声の限界が露わになった時代に、音組織の革新がただちに啓示を与えたということだが、死後半世紀近くを経て総音列技法の限界が露わになった時代に、今度は音色の漸進的変化を推進力にした形式の自由という側面が注目され、トーン・クラスターに基づく直観的構成という新たな潮流を生んだ。

 バルトークの影響はそこまで即時的ではなく、広範な影響は専ら彼の死後に現れたが、これは彼が作曲家として活躍した時期は戦間期の享楽主義がファシズムの台頭で一変した(両者はコインの裏表であり、世界大恐慌を契機に反転したに過ぎない)時期だったという時代背景も大きい。第二次世界大戦終結までは、新たな音楽的探求が行われる余裕はなかった。また、揺籃期には新しい動きは即座に注目されるが、安定期にはわかりやすい看板がないと認知には時間がかかる。ドビュッシーの場合も、彼のより本質的な特徴が周知されるまでには半世紀近い時間を必要とした。

c0050810_64401.gif バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。

 このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。ハンガリー時代の《ムジカ・リチェルカータ》(1951-53) と《ミクロコスモス》、弦楽四重奏曲第1番(1953-54) とバルトークの第2番の関連は既に明らかだが、西側亡命後は置き換えと組み合わせの妙を駆使して、バルトークの音楽を前衛の最前線に生まれ変わらせた。《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の第1楽章を半音階堆積に圧縮したのが、リゲティ流トーン・クラスターの「ミクロポリフォニー」書法であり、バルトークの弦楽四重奏曲第4番をミニマル音楽などの同時代の語法を導入して換骨奪胎したのが、リゲティの第2番(1968) である(全5楽章の性格まで対応している)。後期バルトークは民謡分析を精密化する過程で、自作でも微分音程を使うようになったが、《マジャール・エチュード》(1983) 以降のリゲティも、米国実験音楽の純正律探求も横目に見ながら音律探求を深めていった。

c0050810_64533.gif 総音列技法が特権的な地位を占めていた戦後前衛前半には、弦楽四重奏のような「因襲的な編成」は忌避されたが、トーン・クラスター様式の台頭とともにこの傾向も見直され、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たち=ペンデレツキ(1960, 1968) やルトスワフスキ(1964) が弦楽四重奏曲でモデルにしたのもバルトークだった。またポール・グリフィスがバルトーク伝で指摘する通り、一見バルトークと縁遠そうな総音列技法を代表する作曲家たちも例外ではない。シュトックハウゼンの前期代表作《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の記憶の賜物であり、ブーレーズが活動の中心を作曲から指揮に移した後の《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法は、指揮者ブーレーズの重要レパートリー《中国の不思議な役人》や《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の子孫である。

 ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3・4・5・6番のヴァリアントとみなせる。あるいは、80年代を代表する弦楽四重奏曲でバルトークへの紐付けが難しいのは、フェルドマン第2番(1983) とW.リーム第6番(1984) 程度である。

c0050810_6455854.gif この種の議論はアナロジーの罠にすぎないかもしれないが、前衛の時代を代表するピアノ曲であるブーレーズの第2ソナタをベートーヴェンのソナタ第29番に、バラケのソナタを第32番に結びつける議論が可能ならば、バルトークの弦楽四重奏曲でも同様の議論は可能だろう。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者には、ジャンルによらずこのようなことは起こり得る。この側面からも、バルトークを「3大B」のひとりに数えることには本質的な意味がある。




クルターグ+リゲティ/バルトーク:三人の作曲家の生地を巡る(注1)───伊東信宏

c0050810_6251269.jpg  最初に、タイトルに挙げた三人の作曲家の生没年を確認してみよう。クルターグ・ジェルジ Kurtág Györgyは一九二六年生まれで現在フランス在住、リゲティ・ジェルジLigeti Györgyは一九二三年生まれで二〇〇六年にウィーンで亡くなり、そして一世代上のバルトーク・ベーラBartók Bélaは一八八一年生まれで一九四五年にアメリカで亡くなっている。三人とも各々の世代において世界的に見ても十本の指に入るくらい重要な作曲家であった、と言ってよい。クルターグとリゲティは第二次世界大戦後、バルトークに師事したくてブダペストのリスト音楽院の作曲科を目指したのだが、ちょうど彼らの入学試験の日にバルトークがアメリカで亡くなったという報せがハンガリーに届き、音楽院には弔旗が掲げられていた、というから、この三人が一堂に会したことはない。ただしバルトークが、この二人の作曲家に与えた影響は計り知れない。それはたとえばリゲティが学生時代に書いた「行進曲」という連弾曲を一瞥するだけでも明らかだろう。この曲は、バルトークの『ミクロコスモス』第六巻第一四七番「行進曲」に不気味なほど(注2)似ている。クルターグも事情は似たようなもので、彼の初期の大作、ヴィオラ協奏曲などは、バルトークの管弦楽曲そっくりの響きがする。パーソナリティの点では、あるいはクルターグの方こそバルトークにより親和性があり、より決定的な影響を受けたと言えるかもしれない。しかもクルターグとリゲティは、学生時代以来、無二の親友だった。彼ら相互の影響も大きい(注3)。この三人の音楽的影響関係というのは、一冊の本のテーマにもなるような問題であり、今ここで深く立ち入ることはできない。ただ三人ともハンガリー語を母語とし、同じブダペストの音楽院出身であり、二〇世紀ハンガリーを代表する作曲家ということになっているのに、その生地はハンガリーではなく、現在の地図で言えばルーマニアにある。ここで述べようとしているのは、その三つの生地を巡った旅(二〇一〇年の夏)に関する雑記である。
  三カ所ともルーマニアの北西部にあり、それほど離れていない。まずは筆者にとってもなじみのあるハンガリーのブダペストに入り、東駅発のECで国境を超えてトランシルヴァニアの中心都市、クルージ・ナポカへ。そこで案内をお願いしたT君(彼は当時ブカレスト大学の学生だった)の車で、東からトゥルナヴェニ(リゲティの生地)、ルゴジ(クルターグの生地)、そしてサンニコラウマレ(バルトークの生地)と回って、オラデアでまたブダペスト行きの列車を捕まえる、という旅である。


1 リゲティの生地:トゥルナヴェニ(ディチョーセントマールトン)

  リゲティの生地トゥルナヴェニは、クルージから見ると南東の方向に約百キロほど。リゲティが生まれる数年前まではハンガリー王国(正確に言うと、オーストリー=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国側)の領土であり、ハンガリー語ではディチョーセントマールトンと呼ばれていた。街と言っても人口2万6千人。メインストリート1本とそれに交差する何本かの道で終わってしまう、小さな町だ。
  実は、リゲティの生まれた家が正確にどこにあるかについては、あまり情報がなかった。ほとんど唯一の手がかりは、以前に見た「ジェルジ・リゲティ・ポートレート」(M・フォラン監督、一九九三年)という映画である。この映画の中で、リゲティが自分の生まれた場所を撮ってきた映像を見入る、というシーンがある。そこに、たしかシナゴーグらしき建物が写っていたのだが、とりあえずそれだけをたよりに町を探ってみよう、というのが出発前のいい加減な方針だった。クルージからは、車で行けば1時間ほどで着いてしまう。
c0050810_452433.jpg  さて、町に着いたが、どうしよう?実は、リゲティほどの世界的人物なのだから、いくらユダヤ系でハンガリー語が母語であった(つまりルーマニア側ではなくハンガリー側の人間だった)とはいえ、この町が生んだ人物として、記念館とは言わないまでも多少は顕彰したりしているか、と思っていたら、これはほとんど見込みがなさそうだ。町行く人に尋ねてみるが、反応が悪い。現代音楽の作曲家のことなんて知るわけないじゃないか、という顔をされる。やはり手がかりはシナゴーグしかない。と思って、今度はかつてこの町にシナゴーグがあった場所を知らないか、と聞いてみる。何人目かのおばさんが、ああ古い教会ならその建物の陰にあるわよ、と車を停めたすぐ向かい側のビルを指す。通りに面して建っているのは殺風景なアパートみたいな建物だが、その開口部から向こう側を見ると、確かになにやらそれらしき建物がある。だが、偶然車を停めた場所のすぐ前だなんて、トランシルヴァニアでそんなに調子の良く話が進むはずがない、と思って半信半疑でそのいわくありげな建物の方に近寄って行くと、今まさにその門を閉めて、そこから帰ろうとしているおじさんがいる。そのおじさんに、この建物は昔のシナゴーグか、と聞くと「イエス」。それではこの近くにリゲティという作曲家が生まれた家があるのではないか、というと、ちょっと目の色が変わってきて「そのとおり」。実は日本から、そのリゲティの生家を見たいと思って来たのだ、というと、おおそれならこの建物の中に少し資料があるから一度入って見て行きなさい、と言っておじさんは改めて鍵を開けてくれた。おじさんは、この建物の管理者で、草刈りをすませて、今まさに帰ろうとしていたところだった。幸運だった。
c0050810_4533087.jpg  さて、そのおじさんにしたがって、薄暗い建物に入れてもらい、二階のバルコニーのようなところに登ると、壁一面に古びた新聞記事や写真が貼ってあり、そして民族衣装や古い道具などが置いてある。それから祭壇らしきものが一揃いあって、これはこの建物がかつて教会として使われていたときには一階にしつらえてあった、とのこと。今は文化会館のようなものとして使われているので、祭壇は今のところここに置いてあるらしい。いつかちゃんと復元したいと思って置いてあるのだそうだが、このうらぶれた建物を見ていると、そういう日が来るのかどうか、ちょっと心もとない。
  しばらくおじさんの演説を聞く。すぐそばに居て聞いているのに、おじさんは建物中に響き渡る大声で説明してくれる。が、ルーマニア語なので、T君が小さな声で英語に訳してくれる。T君が訳し終わるのを待ちきれずに、おじさんはますます大きな声で大汗をかきながら説明してくれる。そのやりとりの方が面白くて話はあんまり頭に入ってこない。
  町には、世紀転換期には八〇〇ものユダヤ人の家族が住んでいたらしい。一九一〇年当時のこの町の人口は4千4百人程度、というから、そこから考えるとかなりの比率である。先にも述べたように、その頃、トランシルヴァニアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側に属していたから、人口はハンガリー系、ルーマニア系、ゲルマン系、ユダヤ系などの人々から成っていたはずだが、町の中心部の商店はほとんどすべてユダヤ人たちが経営していた。リゲティのお父さんは、銀行の支店長だったのだから、こういう商人たちを相手にしていた、ということになる。
  その後、第一次大戦を境に町はルーマニア領となり、その後のユダヤ人迫害で町のユダヤ人社会もほぼ壊滅し、一九八五年、ついに最後の四人のユダヤ人達が町を去って、この町のユダヤ人人口はゼロとなった。おじさんは、そのことを伝える新聞記事を見せてくれる。だからおじさん本人はユダヤ教徒ではない。この建物の前に建っている殺風景なビルは、社会主義時代のもので、シナゴーグを大通りから見えなくするために建てられた、とのことだ。ちなみにリゲティ自身は、六歳までこの街に暮らし、その後クルージに引っ越している。
c0050810_4544066.jpg  リゲティの生家は、このシナゴーグの隣の隣。今は別の人が住んでいるらしい。それが分かったからといって、どうというわけではないのだが、ただ彼自身の主張を鵜呑みにして、彼の幼年時代がユダヤ教やユダヤ文化と全く無縁だった、と言って良いのかどうか、ちょっと疑わしくなった。
  帰り道、この町のかつての住人だったユダヤ人たちのお墓がある、というので町の墓地を探してみる。人口数万の町の墓地にしてはやけに広大である。いろんな人にたずねて、T君と汗だくになって、墓地を駆け回るが見つからない。あまり手入れする人もないらしく、道もついていないし、やけに高低差がある。墓石を踏み台にして(バチ当たりなことだけれど)、ほとんど道なき道をよじ登ったが、ついにユダヤ教徒の墓地は見つからなかった。



2 クルターグの生地:ルゴジ

  続いてクルターグの生地ルゴジ。ここもかつてのハンガリー領で、その頃の名はルゴシュ。クルージから、今度は西の方向に約二七〇キロ。車で4時間以上かかる。ちなみにドラキュラを演じて有名になったベラ・ルゴシは、この街に生まれたハンガリー系の俳優で、苗字ルゴシは街の名から取られた芸名である。
c0050810_4554545.jpg  今回は、降矢美彌子さんの紹介で、案内してくれるコンスタンティン・スタンさんが居るので、生家を探したりする必要はない。街の中心部で、スタンさんと落ち合う。会った途端、まずは街の歴史的建物を案内しよう、とスタンさんは先に立って歩き出す。エネスクが客演したという劇場、由緒正しいホテル・ダキアなど。街の中央にティミシュ川が流れていて、かつてその右岸はルーマニア側ルゴジ、左岸はドイツ側ルゴジと呼ばれた。二〇世紀はじめには街の人口はルーマニア系、ハンガリー系、ゲルマン系がほぼ三分していたが、第一次大戦後はルーマニア領となって、ルーマニア系が優勢になり(クルターグが生まれたのはこの頃である)、現在では3万8千人の人口の9割近くをルーマニア系が占めている。川にかかる橋の両側には綺麗に花が植えられており、なかなか瀟酒な街だ。街並は、前述のトゥルナヴェニに比べるとずっとしっかりしており、十八、十九世紀頃の建物に混ざって、世紀末のアールヌーヴォー風の建物も見える。
c0050810_457712.jpg  次に向かったのが、クルターグの生家。今は人手に渡っていて中は見られなかったが、門の上には扇型の模様が彫られており、メノーラー(七枝燭台)を表しているようだ。つまり、この家がかつて、ユダヤ教徒の手によって建てられたものであることははっきりしている。後でクルターク家の墓も見せてもらったが、この墓地は門にダビデの星が描いてあるかなり本格的なユダヤ人墓地であり、墓にもヘブライ文字が彫られていた。ちなみにクルターグ本人は、子供の頃に将来を慮った両親によってキリスト教に改宗しており、ユダヤ教徒ではない。
  その後、クルターグ家が移り住んだ家も見せてもらった。こちらも人手に渡っているのだが、スタンさんがあらかじめ連絡してくれていたので、中にも入れてもらえた。中庭のある立派な家で、なかなかの資産家だったようにも思われる。
c0050810_4575728.jpg  この街でとりわけ美しい邸宅(日本で言えば、最近流行のゲストハウス式の結婚式場のような華美な建物)は、最近ロマの所有になった、とのこと。ロマの中には経済的に成功して、こういう邸宅を購入する人たちがいるらしい。またこの街に来る途中の街道沿いに、突然大阪城のような不思議な大建造物が現れて驚いたのだが、これもロマの持ち家なのだ、とか。これは一部では有名で、ネットで調べてみると中に入れてもらった日本人のレポートなども見ることができる。ただ、こういう建物について説明するルーマニア人たちは極めて冷淡で、奴らは何で稼いだかわからないような金であんな綺麗な建物を買って、裏にテントを張って暮らしてるんだ、というようなことを平気で言う。ルーマニアのロマ問題は、今も深刻である。


3 バルトークの生家:スンニコラウマーレ

  そしてバルトークの生地、スンニコラウマーレ。バルトークが生まれた一八八一年当時には、ハンガリー領で、ナジセントミクローシュという名だった。このハンガリー名も、そして当時人口の4割を占めていたゲルマン系によるグロス・ザンクト・ニコラウスという名も、現在のルーマニア名も聖ニコラウス、つまりサンタクロースを指している(この街で見つかった聖ニコラウスの秘宝に由来するらしい)。ゲルマン系というのは、いわゆるドナウシュヴァーベンと呼ばれた人々で、十八世紀末にハプスブルク宮廷が奨励して、この地域に移動させた農民たちの末裔である。第一次大戦までの人口構成はゲルマン系4割、ルーマニア系3割、ハンガリー系1割といった比率だったが、上記二つの都市と同じく、ルーマニア領になってからはルーマニア系が漸増し、現在では1万2千人ほどの人口のうち、ルーマニア系が8割近くを占めるようになり、ゲルマン系はほとんど居なくなった(ハンガリー系は変わらず1割程度)。今回巡った三つの街の中では一番人口が少ないのだが、インフラはずいぶん大掛かりで、少なくとも最初のトゥルナヴェニよりは大きな街、という印象がある。人口推移からすると、先ほども述べたように、トゥルナヴェニの一九一二年における人口が4千4百人だったのに対し、ルゴジは一九二〇年で2万1千人、スンニコラウマーレは同年で1万2千人と古くから今とあまり変わらない人口を持っていた。トゥルナヴェニはこれらの中では新興都市だということがよくわかる。
c0050810_4583852.jpg  さすがにバルトークともなると、ハンガリー系であるとはいっても、いくつか記念碑めいたものがある。まず町外れにある塑像。抽象的な造形の上に、バルトークの頭部が載っており、足下にはルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語でバルトークの生没年などが記されている。
  また生家の建っていた場所には、プレートがあって、これはルーマニア語とハンガリー語でバルトークの生家がこの場所に建っていたことが記されている。そして街の博物館には、バルトーク記念室という常設展示があって、一応彼の事蹟を辿ることができる。彼の両親の写真からはじまり、生家の写真、学校の成績表などが掲げられている。少し面白かったのは、この地域でバルトークが行った民謡調査に関する資料で、どの村で調査を行なった、とか、どんなノートをとったか、といったことが紹介されている。しかし、概してあまり徹底性はない。ブダペストのバルトーク資料館(科学アカデミー音楽学研究所に付設されている)や記念館(彼が最後に住んでいた家)における、最先端の研究を反映したやる気満々の展示には比べるべくもない。この温度差は、もちろんこれ自体研究に値する問題だろう。
c0050810_4593668.jpg  ちなみにバルトークの父親は、この地の農業学校の校長だったのだが、バルトークが八歳の頃に若くしてなくなり、以後はやはり教師だった母親が一家の収入を支えた。彼女は条件の良い職場を求めて、当時のハンガリー王国の周辺部を点々としており、幼いバルトークも(そして彼の母親代わりとなった祖母や叔母たちも)これに伴って様々な地方都市に移り住んだ。バルトークがここに住んだのは、だから九歳の頃までのことである。
*   *   *
  これら三人の作曲家が、こういう土地で生まれ、こういう家に育った、という背景は直接何かを明らかにしてくれるわけではないけれど、彼らの創作の跡を辿っているときに彼らが「やりそうなこと」と「やりそうもないこと」との区別を判断する材料にはなってくれそうな気がする。筆者が旅しているときにアテにしていたのは、それくらいのたよりないメリットだ。彼らの作品同士の相互作用については、いつかまた稿を改めて。〔初出/『アリーナ』第16号、2013年、中部大学/風媒社、pp.302-308〕 (脚注
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by ooi_piano | 2016-12-12 17:48 | POC2016 | Comments(0)
承前


c0050810_832549.jpg (注1)この文章は小島亮さんがいよいよ『アリーナ』編集からも引退される、と聞いて、一も二もなくお引き受けし、準備したものである。筆者が小島さんに出会ったのは、ハンガリー留学中の二十年前のことだ。その日以来、小島さんがブダペストを離れるまでの数ヶ月間、三日と空けずどこかでお会いし、強烈な印象を持った。あまりに強烈すぎて、小島さんが去った後、ブダペストが空っぽになったような気がして淋しくて仕方なかった。筆者が留学から帰ってからも、奈良で、あるいは一時小島さんが住んでいた東京の不思議なアパートで、あるいは学会で、そして予期せぬところで偶然に、お会いして、その度に硬直した日常を粉々に打ち砕くような話を聞き、心の底から楽しんだ。思えば筆者が初めて出した著作も小島さんが単身(半ズボンで)出版社に乗り込んで、話を付けて来てくれたものだった。小島さんの著作はもちろん読むたびに刺激を与えてくれた。とりわけ「セント・ラースロー病院の日々」(『ハンガリー知識史の風景』風媒社、二〇〇〇年に所収)は、一種の闘病記なのだが、それを超えてなぜかあのブダペストの空や風を思い出させてくれて、おもわずハンガリーに帰りたくなる。稀代の名エッセイだと思う。書きたいことが溢れてきて、文脈が乱れているが、それほど筆者は小島さんに魅せられ、影響を受けたのだ、と思っていただきたい。そしてそういう経緯があるにも関わらず、このような小論しか準備できなかったことを恥じるばかりである。小島さんが、今後もますます縦横無尽に活躍されますように。
 なおこの雑記のうち、リゲティに関する部分については、すでに雑誌『奏』や『コンフリクトのなかの芸術と表現:文化的ダイナミズムの地平』(大阪大学出版会、2012年)に発表した文章と重複していることをお断りしておく。

 (注2) 「不気味なほど」というのは、リゲティがバルトークの作品を知らずに書いた、と述べているからである。つまり、若い頃のリゲティはあまりにもバルトークの書法を自らのものとしていたので、自分の作品として書いたはずのものが、バルトークの未知の曲そっくりだった、ということを後から知って驚いた、というのだ。György Ligeti, Gesammelte Schriften, Band 2(Veröffentlichungen der Paul Sacher Stiftung Band 10,2) , hrsg. Monika Lichtenfeld, Schott, 2007, S.141.

 (注3)この事情については、クルターグがリゲティとの思い出について書いた次の小文が絶好の案内となろう。György Kurtág, ”Mementos of a Friendship: György Kurtág on György Ligeti”, in György Kurtág: three interviews and Ligeti homages, ed. by Bálint A. Várga, University of Rochester Press, 2009, pp.89-114.

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by ooi_piano | 2016-12-10 16:48 | POC2016 | Comments(0)
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c0050810_723323.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)


【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン

■チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905) 約8分
  Allegro moderato - Andante - Adagio - Allegro / March time

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第1番(1902/09)  約45分
  第1楽章 Adagio con moto - Andante con moto
  第2楽章 Allegro moderato (第1節 [IIa]) - Allegro 「宿の中で」(第2節 [IIb])
  第3楽章 Largo - Allegro
  第4楽章 (Allegro) [IVa] - Allegro/Presto [IVb]
  第5楽章 Andante maestoso - Allegro
  
 (休憩15分)

■藤井健介(1979- ):《セレ Sèlèh》 (2016)(委嘱新作・世界初演)  約4分

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード 1840~1860年》(1909-15) 約45分
  第1楽章 〈エマスン〉
  第2楽章 〈ホーソーン〉
  第3楽章 〈オルコット親娘〉
  第4楽章 〈ソロー〉


藤井健介:《セレ Sèlèh》 (2016)
c0050810_12121846.jpg  アンサンブルのための近作で私は、自律的に動く複数の線をまずは同居させ、それから衝突を調整し、全体の辻褄が合う道を探るという作曲方法を試している。具体的には、独奏曲のように1つの声部を始めから終わりまで作り、終われば次の声部を別個に作り、重ね、調整する、という方法である。ある声部を作る際にはコンピュータでループレコーディングを行いながら、実際のテンポで鍵盤を弾き、「納得のいく動きが作れるまで」MIDIデータの録音を行う。これは、ある“調子”や“節”を共有する人々による架空の民族音楽をトレースするような作曲方法かもしれない。
  本作もその作曲の延長線上にあるが、「トレース」に、より重きが置かれている。特に本作では、記譜されることのない民族音楽的なリズムの揺れを五線上の音価として定量的に記譜することで、そのグルーヴに再現性を与えることを試みた。曲中の各フレーズのリズムは、ジャワガムランのなかでも形式が同じ数曲の音源をコンピュータで解析して音のアタックを検出し、得られた特徴的な連なりを抽出・再構成することで作られている。つまり本作はガムランにおけるある奏法の「訛り」の標本化でもある。西洋式記譜のグラフ上にマッピングされたそれらは視認し難く、演奏困難だが、正確であればあるほど、Tempo rubato や Senza tempo よりも複雑かつ自然な揺れとズレが聴こえてくるだろう。
  セレ Sèlèh とはガムランにおいて、4拍ごとに形成される小節のような時間単位の最終拍(4拍目)の音を意味する用語だが、今回は「辻褄合わせ」を象徴する語句として題に戴いた。ヘテロフォニーとされるガムランの音響は、1本の線から分岐した変奏の集合にも聴こえるが、実際のところ、もともと自律した異なる線がそれぞれセレへの方向感をもつことによって、最大公約数のような太い線が現れる様子に近い。(藤井健介)

藤井健介 Kensuke FUJII, composer
c0050810_12124165.jpg  1979年生。器楽の作曲、音源制作、ラップトップによる電子音即興、ジャワガムラン演奏を行う。東京音楽大学作曲科卒業、作曲を伊左治直に、ジャワガムランを佐藤まり子に師事。近作に、《Dubbing Dance Steps》(2010, vn/va/vc)、《Daphne and Violet》(2012、va/viola da gamba/cb/pf)、《Apple Symbols ttf CPY》(2015、ラップトップ即興のためのプログラム)等。演出家・小池博史とパパ・タラフマラ以来これまで長く協働し、そのパフォーミング・アーツ作品に多数参加。近年では《注文の多い料理店》《銀河鉄道》《マハーバーラタ Part 1〜3》等で作曲を担当。エレクトロ・アコースティック作品《Varfix》がジョグジャカルタ現代音楽祭の招聘作品となる。映像作家・田中廣太郎との協働によるミュージック・ヴィデオ『Varfix』でDOTMOV2010入選。「Contemporary Conversations 04」「電力音楽奉納演奏会」などでラップトップ演奏を行う。ガムラングループ「ランバンサリ」所属。邪伝説バンド「平和ボケ」ラップトップ担当。




アイヴズは、どの「戦後前衛」の先駆者だったのか ───野々村 禎彦

c0050810_12172068.jpg チャールズ・アイヴズ(1874-1954) が正式な音楽教育を受けたのは、1894年にイェール大学に入学してからだが、基礎的な教育は同年に逝去した父親のジョージ・アイヴズから受けていた。南北戦争で北軍軍楽隊の隊長を務めた父は、その後もアマチュア吹奏楽団を率い、彼は父の楽団の打楽器奏者として音楽を始めた。13歳から教会のオルガン奏者を務め、最初の作品はオルガン独奏のための《アメリカ変奏曲》(1891) である。当時の米国国歌(英国国歌《女王陛下万歳》に独自歌詞を付けたもの)に基づく変奏曲であり、賛美歌・フォスターなどの民衆歌・クラシックの泰西名曲の旋律を素材とする、彼のその後の創作の出発点でもある。

 賛美歌の伴奏がオルガン奏者の仕事、民衆歌や泰西名曲は父の趣味ということだが、,彼が父から受けた影響は大きかった。近所の吹奏楽団を集め、調もテンポも違う曲を広場のあちこちで演奏して複調・ポリテンポ・音響の空間配置等を試みていたことは名高いが、これに限らず「前衛的」とされるアイヴズの試みはすべて父譲りだという。大学で和声規則を学んで困惑する息子に「気に入らなければ守る必要はない」とすら教えた。こんな父のもとで育った彼にはアカデミズムは保守的すぎた。交響曲第1番(1898-1901) は大学卒業作品に手を加えたものだが、この程度の穏健な曲でも悪ガキ扱いされる現実を前に、「不協和音で飢えるのはご免だ」と、保険業界を生業に選んだ。

c0050810_12174287.jpg ファイ・ベータ・カッパに属する優秀なアイビーリーガーだった彼は、生業でも才能を発揮した。1907年に後輩と起業した保険会社では、1930年に引退するまで副社長を務めた。生命保険特約のセット販売相続税節税計画の設計という、現在でも保険会社のドル箱の商品を開発し、1918年には業界の古典とされる指南書も書いている。社長は後輩に任せて表舞台には立たなかったのは、起業前に心臓発作を起こした健康上の理由もあるが、天職である作曲に時間を割くためだろう。安息日の仕事である教会オルガン奏者も続け、東部諸州から呼ばれる腕前になっていたが、起業翌年に結婚(パートナーの名前はハーモニー)すると生活のリズムは一変し、オルガン奏者は引退した。

 弦楽四重奏曲第1番(1901-02) の終楽章では初めてポリテンポを試み、交響曲第2番(1897-1902) は盛大な不協和音で終結するが、それ以外の部分は大学時代の作風を引きずった後期ロマン派的なもので、これら初期作品は父の域にも達しているとは言えない、交響曲第3番(1901-04) は賛美歌に基づくオルガン曲のオーケストラ版であり、室内管弦楽のための3楽章20分程度の規模も手伝って4曲の交響曲の中では最初に初演され(それでも1946年)、翌年にピュリツァー賞を受賞したが、本領を発揮した曲ではないため演奏には立ち会わず、賞金も初演の実現に尽力し指揮も行ったルー・ハリソン(西海岸時代のケージの盟友)に手渡した。交響曲第2番は1951年にバーンスタイン/NYPが初演したが、この時も隣家でラジオ中継を聴いただけだという。

c0050810_1219283.jpg 《スリー・ページ・ソナタ》(1905) は、自ら「甘やかされた坊やを閉じこもった箱から引きずり出し、軟弱な耳を叩き出すためのジョーク」と述べており、アイヴズがアイヴズになった最初の作品と言えるだろう。旋律素材こそ初期作品と共通するが、不協和音やポリリズムの大胆さが桁違いだ。彼の作品は管弦楽曲から知られていったが、譜面の細部は矛盾の山だった。文字通りの日曜作曲家が演奏を前提とせずに書き溜めた譜面なので当然とも言えるが、全体像をソルフェージュして書いたのではなく、ピアノで一音一音探りながら書き進められたのは明らかだ(このような素人っぽさは必ずしも欠点ではなく、演奏してみなければわからないような後期作品のカオスが結果的に実現した)。その意味でも、ピアノ独奏曲にこそ彼の音楽の本質は純粋な形で表現されているはずだ。

 ブレイクスルーの後は、《宵闇のセントラルパーク》(1906)、《答えのない質問》(1908) など、彼らしい曲が次々と生まれ始める。この時期の作品では、タイトルから連想される出来事やコンセプトが極めて直接的に音楽に変換されるが、あまりに直接的であるが故に音楽的コンテクストすら剥ぎ取られ、賛美歌や民衆歌を素材にした描写音楽のはずなのに、最終結果はむしろ後期ヴェーベルンに近いような、奇妙な音楽的平衡状態が得られる。ピアノソナタ第1番(1902-09) は、この時期の特徴を煮詰めた作品。楽章ごとにひとつのコンセプトが繰り返し提示され、旋律素材は純粋な素材にすぎない(クラシックのような動機としての関連も、前衛音楽における引用のような意味付けもない)。

c0050810_1219462.jpg ピアノソナタ第1番に代表される時期と第2番(1904-15) に代表される時期(組織的・体系的な作曲を行わなかったアイヴズの場合、音楽の特徴は概ね作曲終了年代で決まる)の過渡的な性格を持つ(彼自身がそのように位置付けている)作品が、《ロバート・ブラウニング序曲》(1908-12) である。ブラウニングの他、エマーソンやホイットマンらの名を冠した序曲が並ぶ《文学者たち》という大作を構想したが、結局完成したのはこの曲だけだった。文学者の肖像を音楽で描く意図と、素材の意味性に頼らず単一コンセプトで押し通す姿勢は折り合いが悪く、強烈な不協和音があてどなく積み重なる、表現主義期シェーンベルクが錯乱したような、奇怪極まりない音楽が果てしなく続く。作曲年代は次の大作《交響曲:ニューイングランドの祝日》(1887-1904/09-13) と重なっており、新たな様式を固めて行く中で、かつての無意識の選択を意識的に振り返って完成に漕ぎ着けた。

 《ニューイングランドの祝日》は、〈ワシントン誕生日〉(1909-13)、〈戦没将兵追悼記念日〉(1909-12)、〈独立記念日〉(1911-12)、〈感謝祭と清教徒上陸記念日〉(1887-1904) の4曲からなる。幼年時代の祝日の思い出を描いた3曲に、賛美歌による若書きオルガン曲(教会オルガン奏者を始めた時期の曲)を管弦楽化した初期作品を付け加えた構成だが、各曲が伝統的な意味でのストーリーを持っているのが前の時期との大きな違いで、それに沿った形で素材の意味性を活用し、素材を変形して象徴的な意味を持たせたりしている。結果的に音楽の成り行きは伝統的なあり方に近づき、初期作品を組み込んで対比を強調することも可能になった。

c0050810_12203382.jpg この特徴は、《ニューイングランドの3つの場所》(1903-14/29)、ピアノソナタ第2番、交響曲第4番(1910-24) など、他の同時期の作品にも当てはまる。アイヴズ最晩年の再評価は初期作品に留まっていたが、大指揮者ストコフスキーは交響曲第4番こそが「アイヴズ問題の核心」であると見抜き、演奏譜の準備と練習に多くの時間と費用をかけて1965年に初演と録音を実現し、アイヴズ像を一新した。結果的に、初演がこの年までずれ込んだことが、この作品にとってはプラスになった。戦後前衛が最初の曲がり角を通過し、B.A.ツィンマーマン《軍人たち》(1957-64) やベリオ《迷宮II》(1963-65) など、重層的な引用で特徴付けられる作品が最先端とされる時期に初演されたことで、「ヨーロッパの最先端を半世紀前に先取りしていた前衛作曲家」として見直されることになった。

 当時のアイヴズ受容は、作品を要素に切り分け、トーンクラスターの使用、微分音の使用、ポリテンポやポリリズムの使用、音響の空間配置といった「前衛的な要素」のみを評価し、素朴な調性的旋律が素材の中心だという明白な事実は「時代的な限界」として見ないことにするという、これはこれで歪んだものだった。また、再評価の原点が交響曲第4番だったことで、伝統的構成感こそが音楽的成熟の結果と看做され、専らこの時期の作品が「代表作」として扱われることにもつながった。

c0050810_1221881.jpg この時期の作品でアイヴズ自身がとりわけ重要視していたのが、ピアノソナタ第2番である。超越主義を信奉していた彼だけに、主導者エマーソンを第1楽章、超越主義に強く影響された文学者たちをそれ以降の楽章:第2楽章で純文学代表のホーソーン(『緋文字』)、第3楽章で大衆文学代表のオルコット(『若草物語』)、第4楽章でエッセイ代表のソロー(『森の生活』)の名を掲げ、未完に終わった《エマーソン序曲》の素材を活用し、《文学者たち》の構想も形を変えて実現した。

 この作品の自費出版に先立ち、彼は「あるソナタの前のエッセイ」という長文の自作解説を書いているが、そこでの「エマーソンとソローの印象派風の絵画であり、オルコット家(作家とその父)のスケッチであり、ホーソーンの軽妙な部分を反映したスケルツォである」という言葉が作品の狙いを端的に示している。すなわち、両端楽章はドビュッシーの音楽の強い影響を受けており(作品全体で引用されるベートーヴェンに並ぶ頻度で言及され、意識しているのは明白だ)、第3楽章は初期作品使用枠であり、第2楽章はホーソーンがバイロン『天路歴程』のパロディとして発表した短編『天国列車』に基づくプログラム音楽に他ならない(素材の意味性を利用するこの時期ならではの趣向)。

c0050810_12215217.jpg 1918年に再び心臓発作を起こした後の彼は、初期から最新の歌曲までをまとめた《114の歌曲》を1922年に自費出版するなど、出版を目指して自作を整理する方に重きを置き始める。これ以降の作品で重要なのは《四分音ピアノのための3つの小品》(1923-24) であり、この創作経験に基づいてピアノソナタ第2番の第2楽章を管弦楽化し、四分音パッセージ等をさらに堆積させて副指揮者2人を要する難曲にまとめたのが、交響曲第4番の第2楽章である。1926年に最後の曲を書いた後は、それ以外の方法で自作を世に問おうとした。例えば1929年にスロニムスキー/ボストン室内管から委嘱を受けると、《ニューイングランドの3つの場所》の縮小編曲で応え、国内初演に加えてヨーロッパツアーを提案し、費用は自らの寄付で賄った。この時は初演にも立ち会っており、代表作と初期作品では意気込みが違うが、生前に代表作を音にする機会は限られていた。


                ***********

c0050810_12235621.jpg POCシリーズは「戦後前衛に焦点を絞った企画」だとたびたび紹介してきたが、「戦後前衛」が指し示す範囲は通常よりも広く、米国実験主義を代表するケージとその後継者としての近藤譲、及び「ポスト戦後前衛」を代表する作曲家は一通り取り上げられている。だがアイヴズは、彼らの同僚まで範囲を広げても、誰の先駆者でもない。今回のシリーズでは異端に見えるソラブジでも、ピアニストとしての手癖を交えつつ、前衛的でも退嬰的でもないが超絶技巧を駆使した作品を量産する作曲家という意味では、米国実験主義第二世代のジェフスキ(1938-) や、ファーニホウと並ぶ「新しい複雑性」の祖にあたるフィニスィー(1946-) らの先駆者と看做せなくもないのだが。

 一般には、アイヴズは米国実験主義の先駆者だと看做されているが、実際には誰とも異質である。ケージらニューヨーク楽派の本質は、理念を厳格に形にして即興性を排除する(彼らの図形楽譜は、五線譜への慣れを排除する手段である)シェーンベルク譲りの姿勢にあり、アイヴズの経験主義とは相容れない。米国実験主義の反対側を代表し、アイヴズの支援者でもあったカウエルやハリソンは、折衷主義的な姿勢においてアイヴズとは相容れない。彼が賛美歌や民衆歌を終生素材として用いたのは、それを通じて作品に社会的意味を与えるためではなく、純粋に愛していたからだった。唯一接点があるとすればナンカロウだが、アイヴズと同程度に隔絶した存在である。かつてリゲティは20世紀で真に突出した作曲家はアイヴズとヴェーベルンであり、ナンカロウは彼らに匹敵する作曲家だと主張したが、これはもうひとりは自分だと暗示するためのポジショントークに他ならない。

c0050810_12245123.jpg だが「戦後前衛」の範囲をもう少し広げ、フランク・ザッパ(1940-93) やジョン・ゾーン(1953-) のような実験的ポピュラー音楽も含めるならば、アイヴズはまさに彼らの先駆者である。彼らの音楽は多様式の混淆で特徴付けられるが、アイヴズが「前衛的」な諸語法と民衆歌をともに愛したようにザッパはヴァレーズやヴェーベルンとR&Bをともに愛し、ゾーンはカーゲルやウォーリネンとハードバップをともに愛した。彼らはみな折衷主義とは無縁だった。演奏家を通じても、アイヴズの理解者だったスロニムスキーは晩年にザッパと親交を結び、アイヴズ作品に積極的に取り組んでいるアンサンブル・モデルンはザッパ作品にも真摯に取り組んでいる。ピアニストとしてはアイヴズの権威のひとりであるステファン・ドゥルリーは、指揮者としてはゾーンのアンサンブル作品の権威でもある。POCシリーズで彼らが取り上げられていないのは、「一晩を埋める程度の鍵盤作品を書いている」という条件の問題にすぎない。今回のシリーズや芦屋での関連公演の委嘱作曲家に大蔵雅彦や中田粥が含まれているのは、このような背景があるからである。



次回予告─────────────────────────────
【ポック[POC]#29】 2016年12月23日(金・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
  ●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
  ●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)
  [以上、Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]
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by ooi_piano | 2016-11-14 12:04 | POC2016 | Comments(0)
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コンコード散策の記───武田将明

  (・・・)昨日(2016年2月29日)はボストンから少し足を伸ばしてコンコードに行ってきた。ごく簡単に覚書を残しておく。

  ボストンからコンコードには鉄道で比較的簡単にアクセスできる。Harvard Squareから一駅のPorter SquareまでRed Lineに乗り、そこからFitchburg行きのcommuter railに乗り換れば、およそ30分でConcord駅に着く。commuter railの切符は片道8.5ドル。駅から町の中心部までは徒歩で10分〜15分くらい。最初に目に入るのはthe Concord Free Public Libraryという立派で趣きのある図書館(写真001)。そこから少し進んで左に入るとVisitor Centerがあるが、冬は閉まっている。ただし公衆トイレは利用できるので、サイクリストたちが休憩をしていた。町の中心部には景観を配慮した瀟洒な店舗や宿屋が並ぶ(写真002)。スターバックスやダンキンドーナッツまで、観光地仕様の色調になっていた。南北戦争の戦没者を追悼するモニュメントが大通りの中心にあり、ここが観光の基点となる。
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(※写真はクリックすると拡大表示されます。)

  今回の主要な目的はソロー関係の場所を訪ねることなので、まずはあのウォールデン湖(英語だとWalden Pondなのでウォールデン池とも訳せるが、やはり湖でないと気分が出ない)に向かう。途中、ソローの盟友(というか世話人?)のエマソンの旧家があり、いまは記念館となっているのだがやはり冬場はお休み(写真003)。ちなみに徒歩では遠いので行かなかったソローの生家跡もこの季節は中に入れない(もっともメールや電話で連絡すれば開けてくれるようだ)。それに対し、『若草物語』のオルコットの旧家は年中無休(写真004)。これは時間の関係で外から見学するに留めたが、周りには車が多く停まっていた。さすがの人気ぶり。
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  話を戻すとエマソンの家のあたりからウォールデン湖まではEmerson-Thoreau Ambleと名づけられた森の中の小道をたどって行くことができる。この道でなければ、交通量が多く、歩道もないような道路を歩かねばならないので、徒歩でウォールデン湖に向かう場合にはお勧めする。ただし、水辺は板や橋で整備しているとはいえ、途中にはぬかるんだ道もあるので濡れても大丈夫な靴で行くべき。このEmerson-Thoreau Amble、実際にこのふたりが通っていた道を再現したものらしく、気持ちのよい自然を満喫できる。きっと草木生い茂る夏場であれば、さらに愉快だろう。まあ、こんな季節にわざわざ徒歩で観光する人間はわたしくらいだったようで、ロマン派的寂寥感を味わうには最高の時期だったのかもしれない。特に往路では、時間が比較的早かったこともあり、1.6マイルほどをそぞろ歩くあいだほとんど人に会わなかった。

  (写真005-017)はAmbleの途中の写真。(写真5)Emerson Houseの裏手にある入口(空地の奥なので少し分かりにくい)。(写真009)途中、フェアリーランド池と呼ばれる場所があるが、これはウォールデン湖ではない。このあたりはソローがオルコット家の娘たちとベリー摘みを楽しんだ場所だという。(写真010)この近くに住んでいた解放奴隷の名にちなんで「ブリスターの湧き水」と呼ばれている場所。地下から水が湧いているらしいが、観察してもよく分からなかった。なお、この標識はとても小さくて分かりにくい。わたしは一度素通りしてしまった。(写真011)途中、「ソローの小路」なる別の散歩道の案内もあった。1マイルくらいの丘をのぼる道らしいが、ウォールデン湖まであと少しなので寄り道はしない。(写真012)途中、車道を渡ることもある。(写真013)しかしすぐにまた森に入る。車の音に包まれながら森林散策するのは不思議な感覚だ。(写真014)『ウォールデン』にも登場するソローの豆畑の跡。豆は一粒もなかった。(写真015)いよいよ湖が見えてきたが、いったん向きを変えてソローの小屋の跡地をみる。(写真016, 017)ソローが自給自足の生活を試みた小屋の跡。もっとも町から歩いて行ける場所なので、よくエマソンなどの友人と会ってはいたようだ。
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  (写真018-028)はウォールデン湖とその周辺。『ウォールデン』にも書いてある通り、湖面の色は場所によって緑や青に変化する。湖岸は細かい白砂か砂利に覆われている。砂浜のような場所もあり、夏には湖水浴を楽しむ人もいるようだ。小屋の跡地から湖をはさんだ対岸には鉄道の線路が敷かれている。脱文明の「聖地」には似つかわしくないが、実はソローがウォールデン湖に住む前年から同じ場所を鉄道が走っていた。そしてこの線路を通ってわたしもコンコードに来たことになる。湖岸を散歩していると、ときおり通過する電車によって静寂が破られた。ソローの小屋のレプリカは、湖から道路をわたった駐車場のとなりにあるので、徒歩で湖を訪ねる人はうっかりすると行きそびれるかもしれない。再現された小屋の近くにはvisitor centerがあるのだが、いまは改修中。近々"Thoreau"ly renewedされるというダジャレが湖岸の空気をさらに寒くしていたが、きっと夏にはにぎわうだろう。
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  空腹になったが、プレハブ小屋の売店にあった食べ物は3ドル50セントのチョコレートのみ。しかし徒歩圏内で売っている食べ物はこれしかなさそうだったので購入し、湖面を眺めながらハックルベリー風味のチョコという、なぜかマーク・トウェイン風?の貧しい食事をすます。

  帰路もEmerson-Thoreau Ambleを通る。Fairyland Pondで往路とは違う岸辺をたどったほかは、基本的に同じ行程。ただ、湧き水の名前の由来となった解放奴隷のブリスターが住んでいた家の跡を示す碑に立ち寄った。ウォールデン湖を出て車道をわたり、Ambleの道に入ってすぐ、左に折れる小路がある。そこを入ると間もなく、素朴な石の碑が立っていた。
  この時点で午後2時くらい。5時45分の電車で帰る予定なので、まだまだ観光できそうだ。

  Emerson-Thoreau Ambleを名前の通りのんびり歩き、またEmerson Houseの前に戻った。そこからLexington Roadを町外れの方に歩いて行くとLouisa May Alcott's Orchard House(写真101, 102)。季節外れでもここだけは車が何台も停まっているのですぐに分かる。ガイドつきツアーで中を見学できるが今回はパス。この季節に唯一開いている記念館をわざわざ外したのは、別に『若草物語』に含むところがあるわけではなく(まあ、特別好きとは言えないけれども──『ガラスの仮面』で北島マヤが演じた場面は脳裏に焼き付いているが──なんて言うとファンの方から顰蹙を買いそう)、他にいくつも回りたいところがあるからだ。
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  Orchard Houseの隣家を見学する人は当然のように誰もいないが、実はこのThe Waysideという建物も文学愛好者には見逃せない場所だ(写真103, 104)。Orchard Houseより前にオルコット家が住んでいただけでなく(そのころはHillsideと呼ばれていた)、オルコット家が一時期コンコードを去ると今度はThe Scarlet Letter(『緋文字』)の著者ナサニエル・ホーソーンも居住した家なのだ。ここは現在改修中。そもそも冬場は閉館だったはずだが。きっと観光シーズンまでには工事も終わるだろう。
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  ちなみにLexington Roadという名前からアメリカ独立戦争を連想した人は正しくて、まさにここコンコードとその近隣のレキシントンにおいて、アメリカ植民地軍とイギリス軍とが最初の戦火を交えている。1775年4月19日の出来事だった。
  それはさておき、Lexington Roadを引き返して三たび閉館中のEmerson Houseの横をすぎ(近所の人からは時代を超えたエマソンのストーカーと疑われたかも知れないが)、その道路の向かいにあるコンコード美術館に立ち寄った。大人は10ドル。小さいながらも煉瓦作りの建物も美しく(いい写真がなくて残念)、館内の説明も丁寧で、時間があればぜひ訪問すべき場所である。私の目当てはエマソンとソローの書斎を実際の調度品を用いて復元した展示だが、それ以外にも18世紀と19世紀を中心にしたアメリカの市民生活に関する展示や、先述のレキシントン・コンコードの戦いでイギリス軍の接近を警告するのに使われた伝説のランプなど、興味深いものを見ることができる。それから、この美術館の外にもソローの小屋のレプリカが作られていた(写真105)。ウォールデン湖のものと変わらないが、こっちの方が少し年代を感じさせた。
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  さて、目当てのエマソンとソローの書斎だが、自分としてはこれを見るだけで10ドルの価値は十分すぎるほどにあったと思う。エマソンの書斎は家族や友人との交流を感じさせ、彼の著作がまさに活発な議論から吹き出すようにあふれたものだと想像させる(写真106)。彼はいつも揺り椅子に座りながら膝の上で原稿を書き、子どもたちが周りで遊んでいても気にしなかったという。これに対してソローの「書斎」として展示してあるのは緑色の小さな机と椅子だけ(写真107)。さすがにある程度本は持っていただろうが、例のウォールデン湖の小屋にもこの机と椅子を運んで執筆していたらしい。また、家には鍵をかけないのに、この机の鍵だけはかならず閉め、他人に書き物を見られないように注意していたようだ(鍵穴の周りの塗装が剥げているのがその証拠ということだ)。この二人が無二の友人だったというのだから、ワーズワースとコールリッジの組み合わせにも匹敵する、最高の二人組ではなかろうか。そしてアメリカ文化の素人として無責任に言わせてもらうならば、このふたつの書斎の対比のうちに、アメリカ文化の美質が凝縮されているように思える。家庭と社交を重視し、親密な対話のなかから新しいものを創造する気持ちのよい自由と、余計なものを省き、独力で生の本質を摑もうとする厳しくも激しい探究心(これが本を積み上げた「書斎」で思索に耽溺するものとは異なり、外界との風通しが意外によい──家に鍵をかけない──のも重要だろう。ソローの偏屈さにはスティーヴ・ジョブズを思わせるところがある)。明らかに矛盾するようだが、これが両立できたことによって、アメリカという「交通」と「自然」(ただしこれは文明と未開の対比とは似て非なるものだ。ソローの著作には、ネイティブ・アメリカンや解放奴隷に対する共感が率直に示されている)を空前の規模で抱え持つ人工国家はひとつの新しい文明を築くことができたのだ。

  といったあやしげな文明論を妄想しながら美術館を後にして、エマソン、ソロー、ホーソーン(ちなみに彼は立ったまま執筆していたらしい)、オルコットの眠るスリーピー・ホロウ墓地へと向かう。時刻は午後4時。帰りの電車が気になりはじめるが、いったん町の中心に向かってLexington Roadをさらに引き返し、別の通りに入ると間もなく「スリーピー・ホロウ墓地」と書かれた看板が目に入った(写真108)。実は墓地に到着する前、iPadで地図を見ながら歩いている私を見た地元の人が「Authors' Ridgeは墓地の奥だよ」と声をかけてくれていたので、「奥」を目指して進む。ところがこの墓地、あまりに広すぎてどこが本当の「奥」なのかよく分からない。間違えてまだまだ手前のところで丘を上がったりしながら、ようやくAuthors' Ridgeの標識を発見した(写真109)。「作家の丘」とでも訳せるこの言葉から分かるように、上記の文筆家たちの墓はすべて小高い丘にある。
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  丘を上がってすぐ目に入るのが、向かい合ったソローとホーソーンの墓。ソローの墓は、比較的大きな家族の墓標のまわりに、それこそiPadくらいの大きさしかない個人の墓標が並んでいる(写真110, 111)。それも"Father"と"Mother"という個人名のないものまで。ホーソーンの墓も家族と一緒だが、(私の確認不足でなければ)Nathanielと明記された墓標はなかった(写真112)。また、(これもいつできたのかは知らないが)なぜかホーソーン家の墓には鎖がめぐらされていて、足を踏み入れるのがためらわれた(写真113)。謎めいた『緋文字』の作者らしい墓地と言えばそうなのだが。ソロー家の墓からひとつふたつ隔てたとなりにオルコット家の墓がある。こちらも大きな墓標のまわりに個人の墓標が並び、あのルイーザ・M・オルコットの墓標はこれもなぜか二種類あり、いずれも大作家らしからぬ慎ましさだった(写真114-116)。一輪の花の周りに何本もの鉛筆が供えられているのが微笑ましい。エマソン家の墓はすこし先、Ridgeのなかでも一等地にあり、ここはいまでも子孫の墓標が増え続けている様子で、墓場でさえも賑やかな印象を受けた(写真117, 118)。エマソン個人の墓はひときわ大きく、また特別な石を使ったもので、実は裏手に回らないと墓標と分からなかった(写真119)。
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  迷ったこともあり、時刻は午後4時45分。帰りの電車までちょうど1時間。これまでチョコレートだけでさんざん歩き回ったことを思うとそろそろ駅前にもどってコーヒーでも(あるいはビールでも)飲みながら電車を待つのが賢明かと思ったが、コンコードといえば見なければならないものがもうひとつあるので、早足でそこに向かう。また一度町の方面に戻り、そこからMonument Streetを北上すると、15分くらいで(かなり急いだので、普通の徒歩だと20分くらいか)The Old Manseという建物に到着する(写真120)。ここはエマソンの祖父の代からエマソン家が住んでいた場所で、後にはホーソーンも住むことになる(先述のThe Waysideよりも前である)。当然のごとくここも休館なのだが、入口には"Closed"という看板の下に"Welcome!"と書かれた黒板があった(写真121)。これはニューイングランド風のアイロニーだろうか。どこかホーソーンっぽい感じがする。さて、このOld Manse、とてもよさそうな建物だったので、観光シーズンにコンコードを訪ねる人は、少し足を伸ばしてぜひ見学すべきだろう(写真122)。近くには川が流れており、ボートを出すための小屋もいい感じで保存されている(写真123)。ちょうど夕暮れを迎え、うらぶれたボート小屋の向こうから差す夕陽が川べりを彩りはじめた(写真124)。
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  このボート小屋のとなりにある桟橋からはOld North Bridgeが見える(写真125, 126; 写真127は逆にOld North Bridgeからボート小屋を見たもの)。この橋こそ、件のレキシントン・コンコードの戦いで植民地軍がイギリス軍に発砲し、撤退に追い込んだ場所である(写真128-131)。ここで放たれた数発の銃声が、結果的には世界史を変えたことになる。エマソンの祖父と父は、Old Manseからその戦闘を目撃したという。だから、先ほどエマソンとソローの書斎を見て、アメリカ文明の縮図のようだと妄想したが、それは歴史的に見てまったく無根拠な話でもないらしい。ここコンコードはTranscendentalismの文化的中心となる前に、アメリカ独立の発端ともなっていたし、このふたつはOld ManseとNorth Bridgeという形で物理的に隣接さえしていたのである。エマソンを賢者と呼び、ソローを隠者と呼ぶのは必ずしも間違いではないが、その呼称によって彼らの活動の背景に広がっていた歴史のうねりが見えなくなってはいけないだろう。
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  これでざっくりとしたコンコードの報告を終える。どうにか早足で駅に戻り、ほとんど待たずに帰宅の電車に乗った。どうしてもビールが飲みたくなり、ケンブリッジ(もちろんイギリスではなくマサチューセッツ州の方)に戻ってから入ったパブの名前がなぜかPeople’s Republic(写真132)。オーナーが共産主義者というわけでもなさそうだが(ちなみにカード不可)、これがジョークとして受け容れられるのは、ここがアメリカでも特にリベラルな町だからだろう(そういえばコンコードにはバーニー・サンダースを応援する看板がちらほら見られた──と書いてから、今日(2016年3月1日)の大統領選挙の候補者争いの結果をみたら、マサチューセッツ州で共和党はトランプが圧勝。。。民主党はクリントンとサンダースがかなり熾烈な争いを繰り広げた末に、前者が勝利した)。現金の持ち合わせがなく、ATMで下ろすのも面倒(もう歩きたくない)だったので、一番安いフレンチフライとギネスを注文(しかしすごい食生活だな)。黙々と食べはじめたらとなりに座っていた人から「ポテトだけ食べるの!?」と驚かれた。それからなぜか1時間ほど話したが、南部の高校を出て学年でひとりだけ地元を離れてMITに入り、いまはここでスピーカーを作っている人だという。ギネスが好きなようで、私を同好の士と認めてくれたらしい。いろいろと楽しい話を聞いたが、それはまた何かの機会に。「ここは俺が持つから好きなだけ飲んでくれ」と言ってくれて、ギネスを3杯飲むことになった。私のグラスが空くと、こちらが何を言わずとも「彼にギネスを」と注文してくれた。おかげで大量のフライドポテトとギネスという、おそらく今後経験できないようなジャンクなディナーを楽しませていただいた。もっとも、彼自身は2杯目からバーボンと水の組み合わせに移行していたのが少し解せなかったけれども。(たけだ・まさあき、英文学)
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by ooi_piano | 2016-11-14 11:57 | POC2016 | Comments(0)