ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン(没後30周年)ピアノ作品集
大井浩明(ピアノ独奏)

JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html
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●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演) 23分  [シュテファン・ヴォルペ協会版(デヴィッド・テュードア校閲)]
  I. Quasi presto - II. Molto sostenuto - III. Con moto ma non troppo, Risoluto - IV. Vivo - V. Moderato - VI. Con Brio - VII. Allegro non troppo
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)  15分
 《変奏曲》(1951)  6分
 《交点 2》(1951)  8分
 《ピアノ曲》(1952)  3分
 《外延 3》(1952)  6分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《合間 1~6》(1950/53)  15分
 《交点 3》(1953)  2分
 《三つの小曲》(1954)  5分
 《ピアノ曲》(1955)  1分
 《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)  4分
 《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)  10分
 《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)  4分
 《垂直の思考 4》(1963)  2分
 《ピアノ曲》(1964)  7分
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演) 12分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《ピアノ》(1977)  27分
 《マリの宮殿》(1986)  20分


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【公演予告】
2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
モートン・フェルドマン (1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 80分
同:《バニタ・マーカスのために》(1985) 70分



由雄正恒:ピアノ独奏のための《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作) 

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東北での大きな地震の影響で、昨年とは違い浮きだった様子もないゴールデンウィークも明けて間もない水曜日。
珍しく仕事が早く終えたこともあり、無意識のまま帰路とは逆の都心に向かうホームに立つ。
とりわけ急ぐ理由もないのだが次に来る特急の空席が目に入り、券売機で特急券を購入してロマンスカーに乗り込んだ。
車内は閑散としていて隣の席に座る者もいない。
悠然と体を広げ、足を伸ばす。
終点まではたった数十分ほどの乗車ではあるが、疲れもあったのかついウトウトと眠りについてしまった。

感覚としてはほんの一瞬の眠りで夢か現実か朦朧としていたかと思う。
耳元で艶かしい声が聞こえる。
駅員は男性であると思い込んでいたためか、意外なサウンドによる短い睡眠からの目覚めは多少気分が良いものだ。
ここからどこに向かうかも決めてはいないが、自然と歓楽街のある東口へと足を進める。
兎角何時に来ても人の多さに翻弄されてしまうが、今日は週の中日で足元も悪くまだ時間も早いのか幾分往来する人は少ないように感じた。
それにしても、まだ夕方の早い時間にもかかわらず、普段より増して調子の良い兄さんからの客引きが目立つものだ。
目的がないまま歩いていると、以前通った時は目に入らなかった店の看板に引き寄せられていく。

“Bar セルゲー -今宵あなた様を生と死の審判に誘います- Dies irae”
この時代に到底つけることはないであろう、胡散臭げなキャッチコピーに釣られる客の顔が見てみたいと自ずと扉を開ける。
カウンターにはナチュラル・マスタッシュが印象的なバーテンと見る限り三十路に入ったばかりかと思われる女の客がいるのみ。
離れて座るにも客は他におらず、せっかくなので声をかけ女の隣に座る。
女の名は“エリコ”、数年前に上京してからというもの毎週通っている常連客だ。
関西訛りがあるので聞いたところ関西でも但馬地方の出身で、同じ兵庫県同郷とあってすぐに意気投合することができた。
彼女からの包容的な空気感が漂うがためか、六甲山から見る夜景、ハチ北高原でのスキー(彼女にはハチ北はダメらしい)など同郷話、日々の喧騒の愚痴からどうでも良いアホな話まで、何故か色々と話が進む。

そんな中、彼女の村にだけにある、習わしやしきたりの不思議な話を聞いた。
一つに、とある年に生まれた者は、男女問わず親族間や村で行われる催事は決められた年の月日で行うこととされ、他の年生まれの者とは別格な扱いをされるそうだ。
例えば誕生日は毎年来るものではなく、限られた年に年齢が一つ進む。
聞くところ、彼女の現年齢は5歳でありそれ以上の歳は取らないという。
また、結婚できる相手の生まれ年も限られていて、僕が後1年遅く生まれていたらエリコの相手候補者になれたらしい。
ただ、生まれ年が合っていても、特別な“愛の言葉 - Los requiebros - ”を共に歌いあって互いに感情を共感して同調させる儀式のようなものを成功させることが必要になるという。

その特別な歌は、数あそびのような歌で、100までの中の特別な数字を選び、選ばれた数字の中からさらに特定された2つの組み、3つの組み、4つの組み、5つの組みとグループを作り、その数字に可能な音域内で音程と緩急の調子をつけ、それらを連結することで一つの歌になるという。
また、求愛の儀式以外においては、この歌の旋律とリズムを混合させて編曲し、いろんな楽器で演奏しても良いとなっているそうだ。
説明を聞いただけでは難解で、どんなものなのか歌って聞かせて欲しいとお願いはしたが、特別な歌のため容易に人前で歌うことは出来ないという。
あっという間に時間は過ぎ、終電の時間も近づき、つい明日の仕事の現実が脳裏によぎり、また会う約束をしてその日は別れた。

それ以来、時間に余裕もない日々が続き、この日のことはすっかり記憶から失われていた。
ここ数年ゴールデンウィークもなく連日出勤が続いていたが、明けた今日は久しぶりに早く仕事を切り上げることができた。
今日は偶然にも同じ日で、ふと、6年前の出来事を想い出し、早々に店があった通りに足を向ける。
都会というものは入れ替わりが激しい。
すでに、あの日訪れたBarは別のものに変わっていた。
そういえば、今度会う時には例の歌のピアノ編曲版を一緒に聴こうと、約束していたのだが。
(由雄正恒)

由雄正恒 Masatsune YOSHIO, composer
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  神戸出身。作曲家、メディアマスターNo.75。コンピュータによる芸術作品の創作を専門とし、アルゴリズミック・コンポジション、音響合成、ライブエレクトロニクス、メディア表現を題材にした創作研究を行っている。電子音響作品は、国内外(ICMC-国際コンピュータ音楽会議、Contemporary Computer Music Concert, FUJI acousmatic music festival, MUSICACOUSTICA-BEIJIN, Festival FUTURA等)において演奏される。
  昭和音楽大学作曲学科、IAMASアートアンドメディア・ラボ科を卒業。三輪眞弘に師事。MOTUS夏期アトリエ・パリ2006にてドゥニ・デュフール氏などからアクースマティック音楽作曲法とアクースモニウム演奏法の指導を受ける。日本作曲家協議会、日本音楽即興学会、情報処理学会音楽情報科学研究会会員、先端芸術音楽創作学会運営委員、日本電子音楽協会理事、昭和音楽大学准教授。 http://masatsu.net




ニューヨーク楽派の中のフェルドマン―――野々村 禎彦

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 モートン・フェルドマン(1926-87) の創作歴は、二つの大きな出来事を境に大きく3つに分かれる。1950年、ケージと出会い抽象表現主義の画家たちと親交を結ぶ中で、音楽史上最初に図形楽譜を提唱し、ケージを中心とする「ニューヨーク楽派」の一員として、広く不確定性を導入した作曲を行う。1970年、抽象表現主義の画家たちとの別れと生活環境の変化を契機に、以後は不確定性を排除した作曲を行った。ただし、譜面の各ページのグリッド(ないし小節線)の数はその中の記号(ないし音符)の数によらず常に一定、という譜面の根本的な構造は、不確定性の採否によらず変わっていない。

 1950-69年の「前期」は専ら図形楽譜の使用で知られるが、このタイプの譜面を用いた曲は実はあまり多くなく、それ以外の曲の作曲様式でさらに二つに分かれる。1956年までの図形楽譜によらない曲は伝統的な確定譜面で書かれ、ピアノ独奏曲で図形楽譜を用いているのは《Intersection 2》(1951)、《Intersection 3》(1953) の2曲のみ、いずれもチューダーの演奏を前提に書かれた。1957年以降は「グリッド内の音符の音高のみ指定する」記譜法が作曲の中心になり、ピアノ独奏曲はすべてこの書法で書かれている。

 1970年以降、確定譜面に戻ってからの時期は、「楽器編成=タイトル」でストイックに統一し、自ら「ベケットの時代」と称する「中期」と、少数の素材を不規則に反復し、規格外の長時間曲が多い「後期」に分かれる。中期は大編成の曲が多く、無調的な音色の精妙な変化に焦点を絞るが、後期は小編成の曲が多く、記憶に引っ掛かりやすい調性的な素材が中心、と特徴を箇条書きにすると対照的に見えるが、変化は連続的で行きつ戻りつしていた。あえて境界を決めるならば、代表作のひとつ《Violin and Orchestra》(1979) は管弦楽は中期、独奏ヴァイオリンは後期の特徴を強く持ち、分水嶺にふさわしい。

 中期のクライマックスはベケットに台本を依頼したオペラ《Neither》(1977) であり、この直後に唯一のピアノ独奏曲《PIano》(1977) を書いた。後期で特に重要な楽器は弦楽四重奏とピアノであり、大半の曲はどちらかを含む編成を持つ。弦楽四重奏はアタックのない平滑な表面を得るために多用され、ピアノを含む曲は高橋アキの解釈を基準に書かれている。ピアノ独奏曲としては長大な《三和音の記憶》(1981) と《バニータ・マーカスのために》(1985) の2曲と、最晩年の境地を伝える《マリの宮殿》(1986) がある。

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 ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始めたが、最も関心があるのは読書で、近視の進行も厭わず終生の趣味にした。作曲は学校ではなく個人教授で学び、最初の教師はWallingford Riegger(1885-1961)、シェーンベルクに学んだ米国セリー主義の草分けの一人だが、彼が教わったのは西洋古典音楽の伝統的な書法までだった。大学受験生の雰囲気に嫌気がさして入試は棄権し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。1970年に音楽大学で教え始めるまではこれが生業だった。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。門下生にはフェルドマンやチューダーの他に、米国セリー主義を代表するウォーリネン(1938-)、ジャズ界の理論派ギル・エヴァンズやジョージ・ラッセルもおり、音楽教師としてはフランスにおけるメシアンに相当する重要人物である。

 ベルリン時代のヴォルペは12音技法を身に付ける一方、社会主義者として実用音楽の理念にも共鳴し、大衆音楽を積極的に取り入れてアイスラー(1898-1962) と並び称された。ユダヤ人=左翼=「頽廃音楽家」だけにナチスが権力を掌握すると真っ先に亡命し、まずオーストリアに潜んでヴェーベルンに学び、翌年にはパレスチナのキブツに脱出して実用音楽を実践した。芸術的欲求との齟齬が大きくなると1938年にはニューヨークに渡り、音楽教師として生計を立てながら12音技法による創作を続け、後にダルムシュタット国際現代音楽夏季講習でも教えている。フェルドマンはヴォルペを「どんな書法も受け入れ、どんな書法も押し付けない良い教師」と回想しているが、ヴォルペから見たフェルドマンは「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。結局この時期で後世に残ったのは、《Only》(1947) のような素朴な旋律を持つ曲だけだった。やがてレッスンは芸術談義の時間になり、ある日フェルドマンが「もうレッスン料はいらないのでは?」と切り出すと、ヴォルペはヴァレーズを紹介した。ただし芸術談義を交わす友人としての関係は、フェルドマンがニューヨークを離れるまで20年以上続いた。

 ヴァレーズは彼を作曲の生徒とは認めなかったが、1949年中は彼をたびたび自宅に招いて作曲家としての心得を伝えた。この経験がなければ私は作曲家にはなっていなかった、と彼は語っている。なかでも強い影響を与えたのは、「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」という教えだった。極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる特異な作風は、この教えの彼なりの解釈に他ならない。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは、「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」が持論だった。以後の彼は、家業で暮らすアマチュア作曲家と謗られても意に介さなくなった。

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 翌1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演を聴きに行った際に、彼はケージと出会った。当時のケージはブーレーズと文通を始めており、第2ソナタの米国初演を企画していたが適当なピアニストが見当たらなかった。彼は同門のチューダーを紹介し、同じアパートに夫婦で移って親密な関係が始まった。やがてケージは、ピアニストの友人グレート・サルタン(30年近く後に、《南のエチュード》を初演することになる)から、当時16歳のクリスチャン・ウォルフ(1934-) に作曲を教えるよう頼まれ、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。ユダヤ系出版社の家庭に生まれたウォルフは最初のレッスンで、新刊の『易経』の英訳をケージにプレゼントした。

 この4人は行動を共にすることが多かった。1950年暮れ、チューダーによるブーレーズ第2ソナタの米国初演後にケージのアパートに集まり、ケージの料理を待っていた時に、フェルドマンに図形楽譜のアイディアが降ってきた。紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定しなくても音楽的持続が生まれるではないか! ケージの料理ができるまで3人が代わる代わるピアノで弾いたこのスケッチが、音楽史上最初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。

 ただし、何から何まで彼の独創というわけではない。後に五線譜化することを前提に、グラフでスケッチを行う手法はシリンガー・システム(後にバークリー音楽大学になる、シリンガー・ハウスで教えられた作曲手法)の一部であり、ケージが楽派に伝えていた。グリッドを切ってリズム構造を決め、そこに音符をはめ込む作曲法はケージが1930年代末に打楽器作品のために開発し、この時期にも魔法陣に基づく作曲で使っていた。だが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。

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 彼がこの発想に至った背景として、ケージに導かれて美術へも関心を広げていたことは見逃せない。翌1951年1月に、ケージは彼を抽象表現主義の画家たちの交流会に誘った。チューダーとウォルフは美術には全く興味を示さず、ケージ自身も社交目的で時々顔を出すだけだったが、フェルドマンはこの会合に欠かさず参加し、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。またケージは、彼の図形楽譜では不確定な音高や音価を易経で決めればこの発想を五線譜に引き戻せると気付いて《易の音楽》(1950-51) のスケッチを始めた。ウォルフもこの流れに沿って作曲を行い、チューダーは不確定性を含む譜面を読み解いて演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎した。

 1951年秋からウォルフはハーヴァード大学文学部に進み、代わって翌1952年からボストン出身のアール・ブラウン(1926-2002) が加わった。元々は電子回路技師だった彼は第二次世界大戦末期に空軍に召集され、基地のジャズバンドに加わって音楽に目覚めた。除隊後はシリンガー・ハウスでジャズを学び、デンバーでポピュラー音楽理論を教えた。彼は、妻キャロラインがマース・カニンガム舞踏団に入団したのを契機に楽派に加わったが、ケージの興味は彼の音楽歴よりも電子回路技師としての技術にあり、ケージ《ウィリアムズ・ミックス》(1951-53) など、楽派初期の電子音楽は彼に多くを負っている。

 《易の音楽》以降、ケージは専ら「偶然性の音楽」の理念に基づいた作曲を行ったが、フェルドマンにとって図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。彼の前期前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされる。最初のスケッチからの進展は、グリッド内に数字を書き込むようになったこと。《Projection》シリーズではグリッドは発音の最初と最後、数字は同時に鳴らす音の数を示すが、《Intersection》シリーズでは「あるグリッドの時間枠内でこの数の音を出す」というより自由度の高い指定になった。

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 また、グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、この記譜法の一般的なイメージ――特徴的な図形を何らかの手続きで読み解き、伝統的な譜面に変換する――とは様相を異にするが、このイメージはブラウンの《Folio》(1952-53) に由来する。シリンガー・システムを学んだ彼はグラフ記譜法も知っており、自ら図形楽譜に到達した。60年代までヨーロッパを訪ねたことがなかったフェルドマンとは対照的に、ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴き、ダルムシュタットでの講義等を通じて自身の図形楽譜を伝えた。ケージとチューダーのヨーロッパ演奏旅行では「偶然性の音楽」の一種としてブラウンの図形楽譜も注目され、模倣された。ブソッティやロゴスティスらの「即興演奏にインスピレーションを与える絵画」としての図形楽譜も、ここから派生した。

 先に述べた通り、図形楽譜2曲以外の1956年までのピアノ独奏曲は確定譜面で書かれ、自演が前提のこれらの曲の方が彼の素の姿だ。チューダーを想定した《Intersection》2曲は彼には例外的に音数が多い。チューダーの解釈では読譜に基づいて伝統的記譜法による演奏譜を作るが、図形楽譜をリアルタイムで読んで「音高に囚われず自由に動き回る」演奏を望んでいたフェルドマンの理念とは必ずしも相容れない(ただしチューダーの録音ほど「自由に動き回る」演奏はその後も現れていない)。彼の理念と演奏実態の齟齬は、当初から大きかった。なお1956年は、最初の結婚が破綻し、二番目の妻シンシアと再婚した年であり、抽象表現主義最大のスターだったポロックが交通事故死した年でもある。彼の創作史では、私生活の転機と作風の転機がシンクロしていることが多い。

 1957年、彼はピアノ連弾や複数のピアノのための作品に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を試みた。以後60年代末まで、この書法が彼の作曲の中心になった(ピアノ独奏曲も全てこの書法)。同様の書法はヨーロッパの「管理された偶然性」でも見られ、演奏実態にも即していた。クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れ、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになる経験を経て、彼は現実的な書法に至った。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、アンサンブルはトゥッティと沈黙が交代する進行、グリッド内の数字は殆ど1にして、「旋律的なソロ」がなるべく生じないように工夫した。緩やかな偶然性で特徴付けられる新しい書法は軌道に乗り、ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) は、彼の最初のピークになった。

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 この時期にニューヨーク楽派の状況は大きく変わった。ケージとチューダーの1958年のヨーロッパ演奏旅行は熱狂的に受け入れられ、米国実験主義のヨーロッパにおける受容は新たな段階を迎えた。ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版した。だがこの頃からチューダーは、自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随して、マルチメディア・パフォーマンスに移行する。ハーヴァード大学で学んでいたウォルフは、西洋古典学で博士号を取得し、1970年までは同大学、以後はダートマス大学という東海岸の名門大学で西洋古典学と文学の教鞭を執り、音楽と無関係に安定した生活を手に入れた。すると彼は音楽では、自身のピアノ即興や政治参加を中心に据えた自由な活動を展開する。

 このようにケージ、チューダー、ウォルフは1960年頃から、クラシックに通じる「現代音楽」の世界から離れる方向で活動を展開した。すると相対的に、この世界ではフェルドマンの存在がクローズアップされることになる。作品集もいくつかリリースされ、管弦楽のための図形楽譜作品《…Out of Last Pieces》(1961) は1964年に、バーンスタイン/NYPの定期演奏会で取り上げられた。だが、彼の上り調子もここまで。新奇なコンセプトの提唱よりも、漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は、「現代音楽」が決して根付いてはいない米国では十分には受け入れられなかった。この頃から服飾業界の寡占化のために家業は傾き、生計も苦しくなっていった。図形楽譜による最後の作品《オーケストレーションを探して》(1967) は自信作だったが、演奏には恵まれなかった。

 生計の悪化とともに二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。この年は、抽象表現主義の生き残りのマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで逝去し、フィリップ・ガストンとの親交も、毒々しい具象画に作風を急転換したことで終わった。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた結果、恣意的な解釈に悩まされながら不確定性を含む作品を書き続ける気力も失われた。楽譜出版社をウニヴェルザール社に変更したタイミングで、彼は再び伝統的な確定譜面に戻ることに決めた。この様式による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) は、新恋人カレン・フィリップスを独奏者に想定した(従ってViolaには定冠詞が付く)連作である(女性関係はマメな人だ)。ロスコ作品で埋め尽くされた私設美術館の開館記念作として委嘱され、追悼作になった《ロスコ・チャペル》(1970-71) の初演でも、ソリスト的な扱いのヴィオラはフィリップスが担当した。

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 ヴィオラへの偏愛は、フィリップスとの関係とともに終わったが、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は、70年代にわたって続いた。トゥッティと沈黙が交代する展開で、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末に再び図形楽譜を使い始めた時期から受け継いできた方向性だが(不確定性を排除したことで音色のコントロールはより繊細になり、この側面が近藤譲の音楽に最も影響を与えた部分である)、そこに旋律的な独奏楽器が加わったのがこの時期の特徴である。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力控えてきたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ不確定性を含む時期との差別化のために積極的に導入したのだろう。

 この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。オーストリアのウニヴェルザール社に出版社を代えたのも、そのあたりの事情を見越していたのだろう。1970年に家業を諦めて教職を探し始めた彼は、ニューヨーク州立大学バッファロー校に常勤職を得て(彼の要望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」として)同地に移住した。

 読書家としてベケットに親しんできた彼が「ベケットの時代」の総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書くのは、自然な成り行きではある。《Orchestra》(1976)、《初歩的手法》(1976)、《型通りの探求》(1976) という音響プロトタイプ3曲を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。中期のその後は、やり残したことを探すモードに入る。《PIano》(1977) もそのひとつ。ピアノ独奏曲は小品か組曲ばかりだった彼とっては初の大曲であり、素材の多彩さでも表現の振れ幅の大きさでも、期待に違わぬ内容を持っている。

 《Violin and Orchestra》(1979) が中期と後期の分水嶺にあたる理由をもう少し説明すると、この曲は中期を代表する独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置する一方、独奏パートに現れる旋律素材は、以後の曲で使われているものが多いことが挙げられる。中期作品としても後期作品としても「総集編」なのである。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復して演奏時間は1時間半を超える、後期作品のプロトタイプである。彼の弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成で3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期では弦楽四重奏に入れ替わった格好になっている。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに期待するのは非現実的という実際的な理由に加えて、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は、理想的な表現媒体だった。

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 また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。ピアノは彼が自分で弾ける楽器として、前期作品では大きな役割を担っていたが、中期は独奏曲自体が少ない上、アンサンブル曲の中での役割も限られている。これは前期のチューダーに匹敵するピアニストに出会えなかったことが大きいが、1980年に知り合った高橋アキの真摯なアプローチに接して、《三和音の記憶》(1981) を彼女に献呈した。彼女の「絶対的に静止した」タッチは、後期作品には理想的だと彼は感じ、以後の作曲も彼女の演奏が基準になった。弦楽四重奏を含まない後期アンサンブル作品は、フルート、弦楽四重奏の構成楽器、打楽器のいくつかとピアノという編成を持ち、ピアノは不可欠な存在である。

 既に触れた《三和音の記憶》と《For Bunita Marcus》は、いずれも演奏時間1時間半前後の典型的な後期作品だが、最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) の演奏時間は30分を切っており、後期としては凝縮された部類の作品。長時間作品では数種類の素材の登場周期を変えて不規則に繰り返すのが基本戦略だったが、この曲では本質的に1種類の素材を、反復ごとに扱い方(どの箇所を切り取るか、和音かアルペジオか)と音価の配分を微妙に変え、モノトーンと多様性を両立させている。このような書法は《コプトの光》(1985) や《For Samuel Beckett》(1987) でも見られ、最晩年の新境地である。

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 作曲家バニータ・マーカス(1952-) は1976年に大学院生として彼の研究室に加わり、彼女が博士号を取得した1981年に彼は結婚を申し込んだ。彼女は拒絶してニューヨークに移ったが、その後も彼との関係は続き、《For Bunita Marcus》を献呈された。《マリの宮殿》を委嘱したのも彼女である。ネット上の彼女の曲を聴く限りは、彼が惚れ込んだのは果たして彼女の才能なのかは疑わしいが、ミニマル音楽第一世代以外の調性的な現代音楽に付きまとう、復古主義的な重苦しさとは確かに無縁で、調性的素材の導入を躊躇していた彼の背中を、彼女の音楽が押したことは想像に難くない。1987年9月、彼は61歳で膵臓癌で亡くなった。同年6月には生徒のバーバラ・モンクと三度目の結婚をしたが、葬儀で弔辞を読んだのは長年親密な関係にあったバニータ・マーカスだった。

 彼の音楽はW.ツィンマーマンらを中心に特にドイツで深く研究され、ヨーロッパでの名声はケージに勝るとも劣らなかった。しかし米国では総じて冷遇され、《コプトの光》のシュラー/NYPによる米国初演の新聞評は、「音楽史上最も退屈な作曲家」という惨憺たる扱いだったという。彼は、ニューヨーク楽派の作曲家の中では最初に亡くなった。現在はウォルフ以外は世を去り、大半のメンバーは晩年に大きく作風を変えることはなかったが、ケージは彼の死に合わせたかのように作風を大きく変え、彼の前期後半の書法によく似た「タイムブラケット書法」を導入した。この最晩年の試みによってケージのヨーロッパでの評価はさらに上がり、ヴァンデルヴァイザー楽派の結成にも結びついたが、「ケージの弟子」と見做されることを嫌ってあえて批判的姿勢を取ることもあった彼にとって、死後にケージに影響を与えたことは大きな誇りだろう。死の直前に病室を訪れたケージに彼は「私たちは良い人生を送った、思い残すことはない」と語ったという。






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by ooi_piano | 2017-12-03 20:59 | POC2017 | Comments(0)


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ヤニス・クセナキス『形式化された音楽』
野々村禎彦監訳/冨永星訳(筑摩書房
2017年9月25日発売 本体6,500円 A5判上製440頁 ISBN978-4-480-87393-4


 二十世紀を代表するギリシア系作曲家クセナキスの理論的主著、ついに邦訳!
 音楽を「人間の手」から解放するために――。数学的手法を駆使して作曲をおこなったクセナキスの全容が初めて明かされる!
 数式だらけで一見ギョッとする内容ですが、野々村禎彦さんの監訳者解説に各章の概説が書かれています。工藤強勝さん・勝田亜加里さんデザインの装丁もカッコイイです。ぜひ書店で実物をご覧ください。


ヤニス・クセナキス Iannis Xenakis (1922-2001)
 ルーマニア生まれのギリシア系作曲家。アテネ工科大学で建築と数学を学ぶかたわら、ナチスドイツ(第二次世界大戦中)と英国(戦後)の占領軍へのレジスタンス活動を行う。捕縛の危機が及ぶと1947年にパリへ亡命。ル・コルビュジエの建築スタジオに雇われ、ブリュッセル万国博覧会(1958)のフィリップス館の建設などに関わる。一方、メシアンの助言で数学を用いた作曲を始め、代表作として《テルレテクトール》(1965-66)、《ペルセポリス》(1971)、《テトラス》(1983)など。受賞歴は1997年京都賞など多数。

野々村 禎彦 Yoshihiko Nonomura (監訳)
 東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。博士(理学)。現在は国立研究開発法人物質・材料研究機構主幹研究員。一方、第1回柴田南雄音楽評論賞奨励賞を受賞し、音楽批評活動を続ける。川崎弘二編著『日本の電子音楽 増補改訂版』(愛育社)、ユリイカ誌『特集:大友良英』(青土社)などに寄稿。

冨永 星 Hoshi Tominaga (訳)
 京都生まれ。京都大学理学部数理科学系卒業。自由の森学園の教員などを経て、現在は翻訳業。マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(新潮文庫)、ブライアン・ヘイズ『ベッドルームで群論を』(みすず書房)など訳書多数。


〈目次〉
序文
フランス語原版の序文
英語版(ペンドラゴン版)の序文
第1章 拘束のない推計学的音楽全般について
第2章 マルコフ連鎖を用いた推計学的音楽――その理論
第3章 マルコフ連鎖を用いた推計学的音楽――その応用
第4章 音楽における戦略――戦略、線型計画法、そして作曲
第5章 計算機を用いた拘束のない推計学的音楽
第6章 記号論的音楽
第1章から第6章までの結論と拡張
第7章 メタ音楽に向けて
第8章 音楽の哲学に向けて
第9章 微細音響構造に関する新たな提案
第10章 時間と空間と音楽について
第11章 ふるい
第12章 「ふるい」のユーザーズガイド
第13章 ダイナミックな推計学的合成
第14章 さらに徹底した推計学的音楽
補遺Ⅰ 連続確率の二つの法則
補遺Ⅱ
補遺Ⅲ 新しいUPICシステム
参考文献
監訳者解説
訳者あとがき
索引


 >監訳者解説に本書の書誌情報が詳しく書かれています。「本書は彼〔クセナキス〕自身による作曲技法の解説書だが、元々は独立な論文をほぼ執筆年代順に並べて一冊にまとめたものであり、刊行年代に応じて複数の版が存在する」。以下に、本書の先行する版についての監訳者による解説を図式的に転記しておきます。
 1)仏語版初版『Musiques formelles』(Richard-Masse, 1963)・・・当訳書の底本(英語版増補版)との対応:第1章~第6章(第2章と第3章は分割されていない)、補遺ⅠおよびⅡ、あとがき(底本では「第1章から第6章までの結論と拡張」)。
 2)英語版初版『Formalized Music』(Indiana University Press, 1971)・・・当訳書の底本との対応:第1章~第6章および、第7章と第8章の仏語論文の英訳、そして第9章(書き下ろし)。
 >留意点として、今回の訳書では、英訳の読みにくさのために、仏語原文があるものは仏語から訳したとのことです。なお『音楽と建築』(高橋悠治訳、全音楽譜出版社、1975年;新編新訳版、河出書房新社、2017年7月)との違いについては次のように書かれています。『形式化された音楽』英語版増補版の「第1章から第6章の要約(に相当する短い論文や講演原稿)及び第7章・第8章原文と若干の建築に関するメモ(現行版〔すなわち英語版増補版〕第1章に含まれるフィリップス・パビリオンのプランの説明など)からなり、英語版初版の仏語による簡易版とみなせる。刊行時点では〔・・・〕内容が重複しないように配慮したのだろう」。



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【野々村禎彦・POC寄稿集】


POC2012:


 マウリシオ・カーゲル覚書 (前半後半音源リンク付





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by ooi_piano | 2017-11-20 08:43 | POC2017 | Comments(0)

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Portraits of Composers(POC) 第32~第36回公演

大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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【ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン主要ピアノ作品
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演)
●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演)
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)、《変奏曲》(1951)、《交点 2》(1951)、《ピアノ曲》(1952)、《外延 3》(1952)、《合間 1~6》(1950/53)、《交点 3》(1953)、《三つの小曲》(1954)、《ピアノ曲》(1955)、《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)、《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)、《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)、《垂直の思考 4》(1963)、《ピアノ曲》(1964)、《ピアノ》(1977)、《マリの宮殿》(1986)



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【ポック[POC]#35】 2018年1月27日(土)18時開演(17時半開場) フィニッシー自選ピアノ代表作集
●木山光(1983- ):《ピアノ・ソナタ》(2017、委嘱新作初演)
●マイケル・フィニッシー(1946- ):《英吉利俚謡(イングリッシュ・カントリー・チューンズ)》(1977/1985)〔全8楽章 /I.緑なす草場 II.夏の盛りの朝ぼらけ III.花飾を君に贈ろう IV.5月と12月 V.嘘と奇蹟 VI.シーズ・オブ・ラヴ VII.愛おしい人 VIII.打てよ太鼓、吹けよ横笛〕、《ヴェルディ編曲集》(1972-2005)より「合唱付き七重唱: 見よ、この殿方はいかにして [エルナーニ]」 「ロマンツァ: 私はさまよい歩くみなしごに [運命の力]」、《音で辿る写真の歴史》(1995–2001)より終曲「陽光の食刻」(日本初演)、《「テレーズ・ラカン」から五つの断章》(1993/2005、日本初演)、《第三の政策課題(イギリスのEU離脱に抗して)》(2016、日本初演)、《ミュコノス》(2017、世界初演)



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【ポック[POC]#36】 2018年2月24日(土)18時開演(17時半開場) 知命作曲家特集
●山口恭子(1969- ):《zwölf》(2001、日本初演)
●望月京(1969-):《メビウス・リング》(2003)
●原田敬子(1968- ):《NACH BACH》(2004)より抜粋
●田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011、委嘱作・東京初演)
●山路敦司(1968- ):《通俗歌曲と舞曲 第一集》(2011、委嘱作・東京初演)
●木下正道(1969- ):《「すべて」の執拗さのなかで、ついに再び「無」になること II 》(2011)
●西風満紀子(1968- ):《wander-piano II (harmony go!) 》(2015、日本初演)
●夏田昌和(1968- ):《ガムラフォニー II》(2009)、《センターポジション》(2018、委嘱新作初演)
●伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018、委嘱新作初演)


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2017年9月20日(水)19時開演 東音ホール(巣鴨) 浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)

●ストラヴィンスキー(1882-1971):《結婚(儀礼)》(1917)
●一柳慧(1933- ):《二つの存在》(1981)
●西村朗(1953- ):《波うつ鏡》(1985)
●篠原眞(1931- ):《波状 B》(1997)
●南聡(1955- ):《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10)
●湯浅譲二(1929- ):《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
●西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III》(2014/15、世界初演)
(終了)




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●川島素晴(1972- ):《アクション・ミュージック》(2017、委嘱新作初演)
●アレッシオ・シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、世界初演)
●ジャチント・シェルシ(1905-1988):《組曲第8番「ボト=バ」》(1952、東京初演)〔全6楽章〕、《アクション・ミュージック》(1955、東京初演)〔全9楽章〕、《組曲第11番》(1956、東京初演)〔全9楽章〕
(終了)


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【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演)
●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926)
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947)、ピアノ・ソナタ第2番 (1949)、ピアノ・ソナタ第3番 (1952)、ピアノ・ソナタ第4番 (1957)、ピアノ・ソナタ第5番 (1986)、ピアノ・ソナタ第6番 (1988) (終了)




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POC2017:戦後前衛の裏側に踏み込む────野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で7期目。前年度は19世紀生誕のモダニスト特集だったこともあり、もう「現代音楽」には戻ってこないのではないか? と不安だった方も少なくないだろうが、そんなことはない。ただし、何から何まで元通りではなく、若手・中堅作曲家への委嘱と組み合わせるスタイルは前年度を踏襲している。そして特集作曲家も戦後前衛の落ち穂拾いではなく、その枠組みを引っくり返した異能者揃い。戦後前衛の全貌をその前史も含めて辿ってきたのは、〈歓喜の歌〉よろしく、今年度のためだったのだ! 逆に、戦後前衛に物申せるのはこのレベルのアウトサイダーに限られ、チンケな折衷主義者の出る幕ではない、ということでもある。



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 まずはシェルシ。ダッラピッコラやペトラッシと同世代のイタリアの作曲家であり、マリピエロやカゼッラらとノーノやベリオらとの狭間の世代の存在と見る向きもありそうだが、とんでもない! 彼の音楽が広く知られるようになったのは1980年代に入ってからだが、微分音程のうなりに焦点を絞った誰にも似ていない音楽はその後数年で爆発的に演奏されてゆき、1988年に死を迎えた時点で「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」と評価されるまでになっていた。「メディチ荘で過ごしていると、変な老人が寄ってくるから気をつけろ」というローマ賞の先輩たちの忠告を守らなかったグリゼーとミュライユは、彼の音楽に導かれてスペクトル楽派の活動を始め、楽屋を訪れた「変な老人」の音楽に心酔して80年代の「シェルシ・ルネサンス」を牽引したのは、アンサンブル2e2mの主宰者メファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった。

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 彼の死後程なく「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するインタビューが音楽学雑誌に掲載され、1940年代半ば以降の彼の「作曲」は、即興演奏(の録音)を助手が譜面化したものだったと明かされたが、シェルシ名義の作品の評価が揺らぐことはなかった。その核心は微分音オルガンによる即興の録音を素材とする《1音に基づく4つの小品》(1959) 以降の作品であり、ピアノ独奏曲はその前史に位置付けられるが、これまで日本で主に取り上げられていたのは後期スクリャービンの面影が強い中庸を行く作品だった。ピアノのひとつの音を何時間も弾き続けて倍音構造に聴き入ることを通じて精神の平衡を取り戻した、というエピソードそのものの作曲復帰作《ピアノ組曲第8番》と、暴力性と瞑想性の両極を体現してピアノ独奏曲の時代を締め括る2曲《アクション・ミュージック》《ピアノ組曲第11番》という選曲は、彼の凄味をこの編成で体験するには最もふさわしい。

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 続くはウストヴォリスカヤ。ショスタコーヴィチが高く評価していた弟子の女流作曲家という扱いだったが、彼女の真価が知られるようになったのはシェルシよりも遅く、1990年代に入ってからである。シェルシの音楽の評価ポイントは、戦後前衛の音群音楽の抜本的アップグレードという、クセナキスの音楽と対をなすものだったが、ウストヴォリスカヤの根幹はあくまで調性音楽だった。だがそれは師の再生産に留まるものではなく、調性音楽の始源――後期モンテヴェルディがルネサンス音楽から訣別した瞬間に匹敵する暴力性を体現していた。旧ソ連の崩壊過程でグバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルトらの演奏機会は増えたが、程なく新ロマン主義に飲み込まれて牙を抜かれていった。その中で、真のラスボスである「ハンマーを持った聖女」への関心が徐々に高まっていった。

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 シェルシのピークは1950年代末から1970年代初頭まで、戦後前衛の音群音楽のピークと時期は同じで、今回取り上げられるピアノ曲はその直前の姿を伝える。他方、ウストヴォリスカヤのピークは《コンポジション》3曲(1971, 1973, 1975) と交響曲第2番(1979)・第3番(1983) に絞られる。いずれもポスト前衛時代に書かれた特異な編成(例えば《コンポジション》第2番は、コントラバス8挺、ピアノ、巨大な木材とハンマー)のアンサンブル曲であり、「私の音楽は、生死を問わず誰の影響も受けていない」という言葉通りの音楽である。だが、彼女のピアノソナタ6曲が書かれたのは1947-57年と1986-88年、習作期を脱した直後と最晩年(交響曲第5番(1989-90) が彼女の最後の作品)であり、彼女のピークを想像するには少々物足りない。そこで、師ショスタコーヴィチが最も尖っていた時期のピアノソナタ第1番(1926) と並べて、彼女の異才を照らし出す形を取った。

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 そしてフェルドマン。ケージと並ぶニューヨーク楽派を代表する作曲家だが、「ケージは窓を開けた、私は少し閉めた」という言葉が、彼のスタンスを象徴している。ケージが易経に基づく偶然性の音楽を始めた1951年は、彼が図形楽譜に基づく作曲を始めた年でもあり、このふたつの手法が楽派の基本的語彙になった、ただし「偶然性」の理念は楽派で共有されても、ケージの音選択手法を採用したのはケージ自身のみで、他メンバーは専ら図形楽譜を採用した。ブラウンはジャズ畑出身、ウォルフも即興が得意なピアニストで、一音ごとに易を立てる家事労働のような地味な作業に耐えられたのはケージだけだった。フェルドマン以外は図形楽譜の自由度を高め続け、後にケージも可動プラスティック板に図形を描く「天才的発明家」らしい発想で参戦した。だがフェルドマンは1960年代まで、自由度を上げ下げする試行を地道に続けた。チューダーのような「図形楽譜解釈の専門家」以外にも弾いてほしかったからだが、この歩みを全曲演奏で追体験するのがPOC流である。

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 だが1970年代に入ると、彼は図形楽譜に限界を感じて五線譜に回帰する。ただしこれは米国実験主義からの「転向」ではなく、彼がイメージする音世界を図形楽譜を用いずに実現する書法を見つけた、と捉えるべきだろう。編成=タイトルで統一されているこの時期は、自ら「ベケットの時代」と呼ぶあたりからも想像される通り、無時間的な持続の微妙なテクスチャーの変化に的を絞った、極めて内省的な作風の時期である。この時期の中心は独奏楽器とアンサンブル(しばしばオーケストラ、彼に言わせれば「ペダルのないピアノ」)のための作品群だが、多くのピアノ曲を自ら初演してきた彼の出発点は引き続きピアノであり、アンサンブルを用いる意味は色彩を豊かにすることではなく、アタックの立ち上がりを消して滑らかな音表面を得ることだった。この時期を締め括る《ピアノ》は、いよいよ満を持して出発点に帰ってきた、このプログラムのクライマックスである。

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 ここで彼は作風を再び転換し、今度はペルシャ絨毯のような、少数の素材を果てしなく繰り返すが細部はその都度微妙に変化する、「記憶と忘却の対位法」の時期を迎える。数時間に及ぶ長大な作品も珍しくなくなり、編成は総じて小さくなる。記憶への引っかかりを重視すると、必然的に調性的な素材が用いられる。ピアノ曲にも《三和音の記憶》と《バニータ・マーカスのために》という大曲があり、近年は演奏機会も増えているが、今回取り上げられるのは《マリの宮殿》、長時間化から再び凝縮に向かい始めた最晩年の境地である。これで彼の全人生を辿った…ことにはならない。ケージと出会って図形楽譜を使い始める以前、ウォルペに師事していた時期が抜けている。今回はこの時期の素朴な調性音楽の代わりに、ウォルペの代表作《バトル・ピース》を日本初演する。12音技法による濃密な大曲であり、チューダーがブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンの前衛時代の鍵盤曲を軒並み米国初演できたのは、このウォルペ作品で鍛えられていたからだった。

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 20世紀後半を代表する3人の次はフィニッシー。英国でファーニホウとともに「新しい複雑性」を始めた作曲家と紹介されがちだが、二人のスタンスは大きく異なる。ファーニホウが目指したのは、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の音楽を蘇らせることで、英国の保守性を早々に見限ってドイツで一時代を築いた。「新しい複雑性」の次世代を代表するバレットも英国を離れ、独自の活動をオランダで続けている。しかしフィニッシーは英国に残り、その保守性と折り合いながら活動を続ける道を選んだ。それが可能だったのは、彼が優れたピアニストだったことが大きい。保守的な同僚たちとは演奏家として関わり、創作では馴れ合わなかった。ピアノ曲を創作の中心に据えれば自分で演奏すれば良いので、演奏会企画でも馴れ合わずに済む。「新しい複雑性」とは言ってもピアニストらしくヴルトゥオーゾ志向が強いが、「英国音楽」の悪弊には染まらずに筋を通してきた。

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 今回は彼の自選プログラムだが、まず大井がプログラム案を送り、その改良案として選曲された。彼には全曲演奏すれば2時間ないし6時間という大曲がいくつもあり、昨年度のソラブジ回のようにそれ1曲という選択も有り得た。だが大井が求めたのは、代表作の《英国田舎唄》を中心に創作史を俯瞰するプログラムだった。彼のピアノ曲の一つの軸である「編曲もの」の代表として《ヴェルディ編曲集》抜粋、民衆音楽を素材にした最初の曲《テレーズ・ラカン》抜粋、全6時間の集大成的大作《音で辿る写真の歴史》の終曲、彼の知られざる軸である、政治参加の側面を代表する《政策課題》シリーズの最新作、この日のための新作。彼の全貌を体験できるまたとない機会である。

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 そして最後は大井の同年代アンソロジー。そもそもPOCの第1期は、戦後前衛世代と同世代の日本の作曲家を組み合わせるコンセプトだったが、この回はさらに細かく、同学年(1968年4月~1969年3月生)に限定した。当初は内外半々程度を想定していたが、曲を比較検討するうちに日本国内に絞った方が稔りが多いという結論に達した。現代音楽界において、日本が依然アウトサイダーなのは否めない。録音や委嘱に至るまで欧米の楽譜出版社中心に回っているこの業界で、この構造に組み込まれている日本の作曲家は一握りである。だがそれは、新自由主義の進行に伴う地盤沈下に巻き込まれずに済むということでもあった。今期のテーマは、形を変えながらどの回にも通底している。



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by ooi_piano | 2017-11-15 11:49 | POC2017 | Comments(0)


【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926) 13分
  Allegro -Meno mosso - Allegro - Adagio - Lento - Allegro - Meno mosso - Moderato - Allegro
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947) 9分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第2番 (1949) 11分
  I. - II.
同:ピアノ・ソナタ第3番 (1952) 17分
  Tempo I. - Tempo II. Meno Mosso - Tempo III.
 (休憩 10分)
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演) 10分
  I. Arnica - II. トゥーランドットの庭 - III. 土の音
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ:ピアノ・ソナタ第4番 (1957) 11分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第5番 (1986) 16分
  1. Espressivissimo - 2. - 3. Espressivo - 4. Espressivo - 5. Espressivo - 6. Espressivo - 7. - 8. A punto, aspro - 9. - 10. Espressivissimo
同:ピアノ・ソナタ第6番 (1988) 7分



水野みか子:《植物が決める時》
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  大井さんから委嘱のお話をいただいたとき、植物に関係する作品の第三弾を考えた。十年以上前に管弦楽のための《緑の波》を作曲したときには、豊かに実る穀物の畑をイメージしていた。第二弾、昨年作曲した《ピアノとエレクトロニクスのための リポクローム》は人参のカロチノイドにあるような黄色い色素に関係させた。
  本日初演していただく作品のタイトル《植物が決める時 tempus planta》は、 1557年に書かれたとされる「自然哲学」の書にヒントを得て作成したフレーズである。
  植物は行動しない。光、水、土などに反応することはあっても意志をもって次の動きを決めるということはなく、行動せずに根を張っていく。植物の魂によって決定される、底力ある「時間」は、人間意志に左右されずにどっしりした生命力で包んでくれるように思う。本作は、<Arnica>、<トゥーランドットの庭>、<土の音>の三曲で構成される。(水野みか子)

水野みか子 Mikako Mizuno, composer
  東京大学、愛知県立芸術大学卒業。同大学院音楽研究科修了。工学博士。作曲と音楽学の分野で活動を展開。名古屋市立大学芸術工学部芸術工学研究科・情報環境デザイン学科教授。2016年パリ・ソルボンヌ大学招聘研究員。近作に、《尺八、箏とオーケストラのための「レオダマイア」》(2012)、視聴覚同期プログラムIanniXのための《Trace the City 》(2014)、三人の演奏者のための《かげきじゃないかげき》(2015)などがある。2016年5月、伊交流コンサート(ベネチア、トレヴィーソ)にてソプラノとピアノのための《Per acqua chiare》(2016)他を発表。同年9月アジア・コンピュータ音楽会議においてヴァイオリニスト木村まりによって初演された《ヴァイオリンとエレクトロニクスのための「行き交う光束」》はICMC2017において再演された。2016年6月より国際音楽学研究組織IReMusメンバーとして電子音響音楽研究を推進している。先端芸術創作学会JSSA運営委員、日本電子音楽協会 JSEM会長。EMS2017実行委員長。
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ウストヴォリスカヤと旧ソ連の戦後前衛―――野々村 禎彦
(※音源リンク付)

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 ガリーナ・ウストヴォリスカヤは1919年にペトログラード(1924年からソ連崩壊まではレニングラード、現在はサンクトペテルブルク)に生まれ、1939年にレニングラード音楽院に入学してショスタコーヴィチに師事した。レニングラードは独ソ戦における包囲戦の舞台であり、疎開を挟んで卒業は1947年までずれ込んだ。同年に大学院に進んで教鞭を執り始めたが(1977年まで続けた生業)ショスタコーヴィチには師事しなかったのは、文学の世界では1946年に進歩的な作家への批判が始まっており、翌1948年のジダーノフ批判を予期して、優秀な弟子は遠ざけておいたのだろう。彼女も活動初期には体制に順応し、ピアノソナタ第1・2番(1947, 1949) や社会主義リアリズム路線のカンタータ《ステファン・ラージンの夢》(1949) を書いた。この間もショスタコーヴィチは彼女に新作の草稿を見せ、彼女のヴァイオリン・クラリネット・ピアノのための三重奏曲(1949) 終楽章の主題を弦楽四重奏曲第5番(1952) や《ミケランジェロの詩による組曲》(1974) に引用している

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 だが1950年に大学院を修了すると、以後は独自の道を歩み始める。2オーボエ、4ヴァイオリン、ティンパニ、ピアノのための《八重奏曲》(1949-50) を書いた時点で既に一般的ではない編成への指向は明白で、この作品も「思想的に狭量」と批判されて1970年にようやく初演された。ただし、敬虔な正教徒でもある彼女は世俗的な成功や評価は望んでいなかった。ショスタコーヴィチのように激烈な批判を受けることはない代わりに、ひたすら無視された。それでも50年代は比較的多作で、ピアノソナタ第3・4番(1952, 1957)、ピアノ独奏曲《12の前奏曲》(1953)、交響曲第1番(1955) など10曲を書いた。しかし、チェロとピアノのための《大二重奏曲》(1959) から彼女は変わった。もはや師の面影は微塵もなく、彼女だけの強靭な持続が生まれた。この変化は彼女も自覚していたのか、次作はヴァイオリンとピアノのための《二重奏曲》(1964) まで空き、これが彼女の60年代唯一の作品になった。彼女は「生活のために書いた不本意な曲」(例えば《詩曲》第1番(1958)・第2番(1959))は作品表から抹消しているが、それも50年代に限られる。

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 彼女の沈黙の背景には、ソ連の音楽状況の変化もあった。ショスタコーヴィチは《アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲》(1967) から半音階的書法への傾斜を強め、弦楽四重奏曲第12番(1968)・交響曲第14番(1969)・弦楽四重奏曲第13番(1970)・交響曲第15番(1971) では部分的に12音技法も用いているが、その背景にはこの時期に戦後前衛世代の作曲家たちがセリー書法を導入して成果を挙げたことがある(また、自己を確立したウストヴォリスカヤは彼の作風を嫌悪するようになったのとは対照的に、この時期の彼は彼女の旧作を参照して音楽的持続を作っており、その旨を彼女に私信で伝えている)。その急先鋒はエディソン・デニソフ(1929-96) であり、彼がモデルにしたのはブーレーズだった。ソプラノと9楽器のための《インカの太陽》(1964) はブーレーズに献呈され、西側でもたびたび演奏されて彼の国際的名声の出発点になったが、音楽的にはあからさまにブーレーズ《主なき槌》(1952-55/57) を換骨奪胎したものである。

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 この「国際的成功」でデニソフは当局に危険視されたが、ショスタコーヴィチのように教職を追われることもなく、ドミトリ・スミルノフ(1948-) やエレーナ・フィルソワ(1950-) をはじめ、旧ソ連のポスト戦後前衛世代を代表する作曲家たちを門下から輩出した背景には、ノーノの存在が大きい。前衛の時代のイタリア共産党はソ連と友好関係を結び、党員のノーノは文化使節としてソ連をしばしば訪れていた。ナチスドイツに抵抗した共産主義者や、北ベトナムなどのソ連に支援された民族解放闘争を讃える音楽をセリー書法で生み出し続ける彼の手前、ソ連でこの方向性を代表するデニソフを冷遇するわけにもいかない。彼もホリガーと同じく、この書法をブーレーズの枠を超えて柔軟に発展させ、ピアノ三重奏曲(1971) とソプラノと6楽器のための《赤い生活》(1973) で頂点に達した。

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 同世代の作曲家たちも同様の書法から出発したが、その路線ではデニソフに伍することは難しく、独自の道を歩み始めた中で最初に頭角を現したのはアルフレート・シュニトケ(1934-98) だった。彼はアンドレイ・フルジャノフスキー監督(1939-) の実験アニメ『グラスハーモニカ』の音楽を担当したが、監督一人で寓話的な切り絵アニメを制作するのと並行して、先の見えない状況でシークエンスごとに音楽を付けて行くと、おのずと泰西名曲や大衆音楽の断片を表層的に切り貼りした、神経症的なカットアップ音楽になる。この音楽をほぼ転用したヴァイオリンソナタ第2番(1967-68) で独自の書法を確立すると、この路線を過激化させてゆく。チャイコフスキーと自身の映画音楽を混淆してジョン・ゾーンの音楽を予言したような交響曲第1番(1969-72) は画期的な成果だが、強烈な音楽は強烈な批判も招き、結局彼は教職を追われて長らく映画音楽で生計を立てることになる。

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 シュニトケの覚醒は短期的には彼に困難をもたらしたが、西欧の戦後前衛の後追いとは異なる道を示し、同世代への刺激になった。イタリア共産党が1973年にユーロコミュニズムに転換し、ノーノの庇護を失ったデニソフがピアノ協奏曲(1974) でジャズとの混淆に転じたのは象徴的である。ただしデニソフはこの様式に長居はせず、セリー書法と後期ショスタコーヴィチを折衷した(すなわち、間接的にウストヴォリスカヤに影響された)繊細で穏健な様式に落ち着いた。シュニトケは、ピアノ五重奏曲(1972-76) や合奏協奏曲第1番(1977) のような端正な多様式書法で西側に知られるようになったが、彼の本領は様式混淆を極めた合奏協奏曲第2番(1981-82) や宗教的緊張感を極めた交響曲第4番(1984) のような、テンションを振り切った音楽にあることは強調しておきたい。

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 この時期に新たに覚醒したのはアルヴォ・ペルト(1935-) だった。彼は60年代末までは多作で、セリー書法や多様式書法を試みていたが限界を感じ、交響曲第3番(1972) で中世・ルネサンス音楽に鉱脈を見出していったん作曲を中断した。1976年にルネサンス・ポリフォニーと三度和声を融合する新たな発想を得て作曲を再開し、繰り返される三和音と全音階の順次進行をシステマティックに重ねる「鈴鳴らし」様式を提唱した。調性的動機をミニマルに反復する見かけの類似から、70年代以降のヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010) やジョン・タヴナー(1944-2013) らと「聖なるミニマリズム」と総称されることもあるが、新ロマン主義や神秘主義の文脈で調性に向かった彼らと、戦後前衛のシステム思考は保っていたこの時点のペルトの音楽の密度の差は明白である。

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 戦後前衛の後追いから解放されてウストヴォリスカヤも創作力を取り戻し、まず3曲の《コンポジション》(1971/73/75:編成はピッコロ、チューバ、ピアノ / 8コントラバス、ピアノ、巨大な木製ブロックとハンマー / 4フルート、4ファゴット、ピアノ) を書いた。いずれも高音楽器と低音楽器をピアノが結ぶ極端な編成であり、ピアノの役割も両者を和声的に繋ぐのではなく、強烈なクラスターで一拍子を刻むことである。彼女がセリー音楽を受け入れなかったのは「前衛的すぎる」からではなく、近代西洋音楽の残滓を引きずって穏健すぎるからだった。この3曲はミサ通常文に由来する副題「我らに平和を与え給え」「怒りの日」「来たる者を讃えよ」を持つが、このキリスト教的な側面も保守主義と結びつくものではなく、クセナキスのビザンチン音楽理解と共通する、東方正教の汎理性主義と超越指向の音楽(ただしペルトとは対照的に極めて暴力的な)を結びつけている。この路線を継承して声を含むより大きな編成(特定楽器群のみ増強した、ピアノと打楽器を含む室内管弦楽)に拡大したのが交響曲第2番(1979)・第3番(1983) であり、この5曲が彼女の創作の頂点をなす。

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 ただし、彼女の充実は同時代の評価には直結しなかった。1985年にゴルバチョフがソ連書記長に就任して文化開放路線に転じるのと前後して、音楽の世界ではCDが普及し、この機に乗じて一挙に認知されたレーベルが幾つかある。そのひとつスウェーデンBISはシュニトケの全曲録音を現代音楽部門の看板にし(この録音シリーズは穏健な曲目から始まったが、これを受けてソ連国営Melodiyaレーベルがテンションを振り切った作品群の未発表録音をCD化して西側に販売し)、ヨーロッパの静謐なジャズを紹介してきたECMレーベルはクラシック部門開設にあたり、その方向性を象徴する作曲家としてペルトに白羽の矢を立てた。この方向性はペレストロイカ/グラスノスチ以降のロシア文化ブームを受けたものだが、彼らが選ばれたのは1980年にソ連から西側に亡命した世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947-) が彼らを積極的に取り上げていたことが大きい。むしろ、彼らとは比べるべくもないがクレーメルとは親交があった数人の作曲家も、前世紀末には頻繁に取り上げられていたことに、クレーメルの影響力の大きさを見るべきだろう。

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 シュニトケは1985年に脳梗塞で倒れた後も作曲を続けたが、全盛期の振り切ったテンションは戻らなかった。ペルトはクレーメルと同じく1980年に西側に亡命したが代表作は専らそれ以前、名声の高まりと共に新ロマン主義に飲み込まれ、後期ブリテンの音楽に共鳴し「鈴鳴らし様式」に至った時期の純粋さは失われれた。だが、彼らが峠を越えると今度はソフィア・グバイドゥーリナ(1931-) が注目された。敬虔なキリスト教徒の女性作曲家という表面的な部分では彼女とウストヴォリスカヤは被っており、ウストヴォリスカヤへの注目はまたもや遅れた。彼女の特徴は非主題的かつ無時間的な即興演奏に強い関心を持ち、旧ソ連の前衛的な作曲家の中では電子音響に関心が強かったことで、1975年にはヴァチェスラフ・アルチョーモフ(1940-)、ヴィクトル・ススリン(1942-2012) と即興演奏グループ「アストレイヤ」を結成した。この不定形の魅力は70年代の作曲作品にも共通する。

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 ただし彼女は70年代末から、宗教的な作品では内的プログラム(J.S.バッハの数の象徴のような、譜面には明示されない構成原理)を用いるようになり、80年代初頭からはフィボナッチ数列に基づいたセクション分割も行うようになり、局所的には無時間的でも大域的な流れは明確な、幾らか理解されやすい方向に変化した。この時期に、《音楽の捧げ物》の主題を用いた彼女の作品の中でも特にわかりやすいヴァイオリン協奏曲《オッフェルトリウム》(1980/82-86) をクレーメルが初演以降もたびたび取り上げたことで国際的認知も進んだ。《7つの言葉》(1982)、《声…沈黙…》(1986)、弦楽四重奏曲第2番第3番(1987) と代表作も次々と生まれ、民族解放闘争の時代以降の共産主義国に失望して政治性は薄く即興性の強い作風に変化した晩年のノーノに強く支持され(W.リームと並び称され)、クレーメルのためのヴァイオリン曲の録音パート制作を任されたこともあった。

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 彼らもシステム思考に支えられた戦後前衛の末裔ではあり、方法論をアップデートし続けなければ10年程度で古びて行く。デニソフは一度アップデートして《パウル・クレーの3つの絵》(1985) やヴィオラ協奏曲(1986) あたりまで、シュニトケも一度アップデートして弦楽四重奏曲第4番(1989) あたりまでは保たせたが、ペルトは高々80年代末まで、グバイドゥーリナも同じ頃に行き詰まった感がある(ノーノが1990年に亡くなり、ソ連崩壊後の混乱を避けて1992年にドイツに移住したのが分岐点になってしまった)。年下の「先輩」(西側での認知という点において)たちが峠を越え、Sikorski社と全作品の出版契約を結び、いよいよウストヴォリスカヤの時代が訪れたのだが…



c0050810_00313887.jpg 交響曲第3番以降の作品でまず注目すべきは、ピアノソナタ第5番(1986)・第6番(1988) である。クラスター絨毯爆撃の苛烈さは全盛期の諸作品すら凌ぐが、そこにアンバランスな楽器群を重ねて得た多様性はもはや見られない。彼女は編成に応じて書法を柔軟に変える器用な作曲家ではなかった。交響曲第4番(1985-87)・第5番(1989-90) も書いたが、実態は声と3-5楽器のための室内楽小品であり、極限的なテンションを広いキャンバスで持続させる、全盛期の筆力は既に残っていなかった。むしろ彼女の非凡さは、ここで筆を置いた(宣言したわけではなく、結果的にではあるが)ことだ。3大Bのように死の直前まで創作を続け、それが傑作に数えられる人生は幸福だが、政治力は得ても霊感は失い、晩節を汚す大作を量産してしまう大家は多い(戦後前衛世代では、Bで始まる作曲家に多いのは皮肉だ)。旧ソ連の戦後前衛世代は全盛期に当局に抑圧された反動なのか、霊感を失っても創作にしがみつく作曲家が多いだけに、彼女の潔い引き際はひときわ鮮やかだった。

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 しかし彼女は隠遁生活を続けたわけではなく、国際的な評価の高まりに応じて彼女の作品を特集する音楽祭やワークショップが増えると積極的に立ち会い、自作をあるべき姿で後世に残そうとした。特に、旧ソ連時代から彼女の作品に献身的に取り組んだ地元サンクトペテルブルクのピアニスト=指揮者オレグ・マーロフと、彼女の国際的認知に大きな役割を果たした指揮者=ピアニストのラインベルト・デ=レーウとは関係が深い(ただしマーロフへの評価は微妙だが、終生デ=レーウを高く評価し、実験主義ベースの解釈も支持)。彼女の作品でまず知られたのは編成的にも扱いやすいピアノ独奏曲であり、90年代にはマーロフ盤をはじめソナタの全曲録音が5種類リリースされたが、その演奏者の中にはシェルシ作品やフェルドマン作品も数多く録音しているマリアンヌ・シュレーダーとマルクス・ヒンターホイザーが含まれるのは、今年度のPOCの作曲家選択の裏付けにもなっている。

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by ooi_piano | 2017-11-03 14:28 | POC2017 | Comments(0)

【ポック[POC]#32】 2017年10月6日(金)19時開演(18時半開場)
シェルシ中期傑作集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html



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●A.シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、世界初演) 3分
●G.シェルシ(1905-1988):組曲第8番《ボト=バ》(1952、東京初演) 〔全6楽章〕 30分
 I. Agitato - II. Non troppo sostenuto - III. - IV. Lento - V. Lento - VI. Lento
●G.シェルシ: 《アクション・ミュージック》(1955) (東京初演) 〔全9楽章〕 16分
 I. - II. Iniziando - III. Lento dolce - IV. Martellato - V. Violento - VI. Brillante - VII. Pesante - VIII. Veloce - IX. Con fuoco

 (休憩10分)

●川島素晴(1972- ): 《アクション・ミュージック》(2017、世界初演) 〔全9楽章〕 30分
 I.隣接する5本指 - II.少音程12音和音によるアルペジョ - III.各音域での両手和音 - IV.影のあるグリッサンド - V.複数弦によるホケット - VI.手移り - VII.ジャンプ - VIII.ポリル - IX.マルシュ・リュネール
●G.シェルシ: 組曲第11番(1956、東京初演) 〔全9楽章〕 35分
  I. - II. Lento - III. Intenso e animato - IV. Barbaro - V. Velato - VI. Feroce - VII. Sostenuto - VIII. - IX.



アレッシオ・シルヴェストリン:《凍れる音楽》(2015)
  ピアノ独奏のための《凍れる音楽》は、法隆寺東塔の建築設計上の比率に想を得て作曲された。塔の高さ122尺(34メートル)、そして裳階を伴う三重の屋根に基づき、曲の速度は56、84、112と加速する。34メートルの高さ、10メートルの相輪(先端部)、1から始まり34に至るフィボナッチ数列(パスカルの三角形)などに関連付けられつつ、ピアノ全音域を3分割する音群、リズム・拍節構造が操作される。Audible Cities作曲コンクール(サンフランシスコ)第1位受賞作品。

アレッシオ・シルヴェストリン Alessio Silvestrin, composer
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  1973年イタリア生まれ。モンテカルロ市グレース王妃ダンスクラシック・アカデミーを卒業後、スイス・ローザンヌのルードラ・ベジャール学校にて学ぶ。その後ベジャール・バレエ・ローザンヌ、リヨンオペラ座バレエ団にてダンサーおよび振付家として活躍。1999 年よりウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団に所属。退団後もフォーサイスカンパニーのゲストアーティストとして活躍。建築家 安藤忠雄氏が手がけた「21_21 Design Sight」のオープニングプログラムにて、ウィリアム・ フォーサイスのインスタレーション作品「Additive Inverse」でパフォーマンスを披露。その他にも、コロンブスのウェクスナー・芸術センター、バーゼルのバイエラー美術館、ロンドンのサドラーズウェルズやテートモダン等にて、ウィリアム・フォーサイスの作品でパフォーマンスを披露。
  2003 年より日本を拠点にフリーランスアーティストとして活動を始め、日本国内および海外の国々で様々な活動に関わる。愛知芸術文化センターによるダンスオペラ「青ひげ城の扉」にて、演出・振付・映像・美術を担当し、自身も出演。Noism05「Triple Bill」委嘱による「DOOR INDOOR」を発表。新国立劇場コンテンポラリーダンス「ダンスプラネット No. 18」では、音楽をトム・ヴィレムが担当した作品「noon afternoon」をマイケル・シューマッハと共演。山口情報芸術センターによる「混舞(Dance mix)」プロジェクトにて振付を担当、また、自作のビジュアル・アートを展示。ブラジルのダンス・カンパニー “Sao Paulo Conpanhia de Danca” から委託を受け、「Poligono」の振付・演出を担当する。当作品はJ.S. バッハの「音楽の捧げものの」に基づき、カンパニーのオープニング・プログラムのために創作されたもので、ブリュッセルの室内楽グループ “Het Collectief” によって再演された。新国立劇場にて、ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番に基づく「Opus 131」を発表。
  また、ヴィチェンツァ市の音楽学校およびモンテカルロ市のアカデミー音楽学校ラニエール III にて音楽も学ぶ。作曲家フランチェスコ・ヴァルダンブリーニの指導のもと、トリコルダーレ (Tricordale) 音楽という新楽派に加わり、フィボナッチ数列等を用いて拡張されたセリー体系に基づく音楽は自身の振付作品にも使用している。イタリア・ヴェネチア・ダンスビエンナーレからの招聘で、能楽師・ 津村禮次郎とともに「Ritrovare/Derivare」を自作の曲を使用し上演。セルリアンタワー能楽堂にて、プラトンの対話篇「パイドン」に基づく「かけことば」を自作のヴァージナル曲の自演とともに上演。Noism「OTHERLAND」では、日本の伝統文化に対する独自の切り口で「折り目の上」を発表し、ピアノ、フルートそれぞれのためのソロ作品を同作品のために、能楽に着想を得て作曲。イタリア文化会館で上演されたソロパフォーマンス「星座と星群」では、デル・ブオーノ(16~17世紀)、シュトックハウゼン、コデクス・ファエンツァ117(15世紀)、自作「17の俳句」をチェンバロやトイピアノ、日本の伝統打楽器で演奏し、自作の映像も駆使して、時代や文化、芸術領域を横断する世界を表現。ロワイヨモン財団の委嘱で、モデュラ計算や魔法陣を用いて作曲された「三つの渦」を発表。アンサンブル室町の委嘱で、魔法陣・トリコルド・素数配列等によって短歌の韻律を拡張した「31の短歌」を発表。 http://alessiosilvestrin.com/



川島素晴:ピアノ独奏のための《アクション・ミュージック》(2017)

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 大井浩明とは、1992年の「秋吉台国際作曲セミナー&フェスティバル」のときに同室者の一人だった。そこで出会って以来、ピアノ曲《静寂なる癈癲の淵へ》(1992)、四重奏曲《ポリプロソポス I 》(1995)、《クセナキス「シナファイ」のためのカデンツァ》(1996)、《ピアノのためのポリエチュード「ポリスマン/トランポリン」》(2001)、ピアノ編曲《シェーンベルク「黄金の仔牛の踊り」》(2007)、《ピアノのためのポリエチュード「ポリポリフォニー」》(2007)、といった作品を初演して頂いた。出会って15年の間にしては比較的多くの作品を協働してきたが、気付けばそれ以来はご無沙汰しており、今回は10年ぶりの初演機会となる。

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 私は普段、自作品の創作姿勢として「演じる音楽」(演奏行為の連接から音楽を構築する)という理念を掲げている。1994年から言い始めたこの語は、師である近藤譲の「線の音楽」の影響から、独自の音楽論を導くにあたり採った「◯◯音楽」という標語で、「Action Music」なる英訳は2000年に作品集CDを制作した際に後付であてがったものである。この英訳を考えるにあたり、当然、ジャクソン・ポロックらが1940年代から行いハロルド・ローゼンバーグが1952年に用い始めた「Action Painting」なる絵画技法の名称を意識したわけだが、シェルシに《Action Music》(1955)なる同名作品があることも、松平頼暁の1980年代の著作に「アクション・ミュージック」なる語が登場することも、当時はあまり意識していなかったと思う。特に、1990年代はシェルシ再評価と研究がようやく進みつつある時代で、当該作品の2001年の録音音源が発売されたのが2004年であるため、2000年時点ではシェルシの《Action Music》は知る人ぞ知る存在だったはずである。私自身はもちろん、シェルシにせよ松平頼暁にせよ、「Action Msuic」なる語は「Action Painting」の音楽方面への転用ではないかと思うが、シェルシのそれが1955年のピアノ作品として極めて独創的で且つ完成度の高いものであること(たとえそれが彼自身の即興演奏に基づく書き起こしであろうとも)を踏まえると、シェルシの評価が生前から正当になされ、本作が周知のものとなっていたら、私自身が、少なくとも英語で「Action Music」なる語を標榜することはやりにくかったであろう。

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 今回、10年ぶりの協働に際し大井浩明が私に課したお題は、《Action Music》という題名でのピアノ新作、つまり、シェルシの名曲《Action Music》への文字通りの対峙であった。それは、シェルシが62年前に成し遂げていた「ピアノ音楽の新しい可能性」をいかに乗り越えるか、そして今日、私自身が「ピアノ音楽の新しい可能性」をいかに提示可能か、という命題に他ならない。シェルシに同名作品があることを知ったのは確かヴァンバッハの録音がリリースされた2004年当時だったはずだが、それ以来、まさかこのような題名で、それもピアノ曲を書こうとは思いもよらなかった。しかし、今回は敢えてその命題に応えることとした。
 シェルシのそれが9章から成るため、私も9曲の連作を構想した。そのうち何曲が完成し、何曲が初演されることになるかは現時点では不明であるが、ここにその構想を示しておく。


◆第1曲「隣接する5本指」
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 シェルシの《Action Music》は、ほぼ全面的にクラスターの使用が見られる。従って本作ではクラスターの使用は控えるべき、との考えと同時に、その事実へのリスペクトを示すことを両立させることを考えた結果、5本指を隣接させることで弾ける白鍵クラスターの5種の形態、即ち、「ドレミファソ」「レミファソラ」「ミファソラシ」「ファソラシド」「シドレミファ」(「ソラシドレ」「ラシドレミ」はそれぞれ同じ音程のものがあるので除かれる)を用い、これら5種の音程に紐付けたキャクターを維持しつつ、その音程を踏襲する移高型をも駆使する作品となった。例えば、「ドレミファソ」と「シドレミファ」は、同じ白鍵クラスターであっても、全く異なる表情を持つ。本作は、そのような、白鍵クラスターの表情の差異を聴くことを出発点としている。

◆第2曲「少音程12音和音によるアルペジョ」
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 ここでは、「アクション・ミュージック」という語を1980年代より定義していた松平頼暁へのオマージュを構想した。松平頼暁と言えば、1980年代から全音程和音を用いた「ピッチ・インターヴァル技法」を実践していることで知られる。全音程和音とは、短2度から長7度まで、全ての音程を含む12音音列(全音程音列)を、低音から高音に積み上げることによって得られる和音である。それをそのまま踏襲するわけにはいかないので、ここでは、逆に「なるべく少ない種類の音程によって得られる12音音列」を下から積み上げることによって得られる和音(例えば完全5度を重ねていく響きも12音を重複なく重ねることが可能である)、即ち「少音程12音和音」を用い、そのアルペジョによって構成している。

◆第3曲「各音域での両手和音」
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 ここでは、私の作品におけるピアノ書法としてしばしば用いている、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番冒頭における、低音域、中音域、高音域のそれぞれで、両手で和音を弾く型を用いている。私は、2台ピアノ協奏曲《Manic-Depressive III》(1999)にて初めてこの型を用いたが、そこではチャイコフスキーそのもの(変ニ長調のコード)を奏でる瞬間もある。しかし今回、大井浩明によるお題の中に、「クラシック名曲の引用禁止」という条項もあったため、ここではチャイコフスキーの当該作に登場する和音そのものは用いられていない。(それにしても、このような型で和音を奏でるだけで、充分にチャイコフスキーのそれと認知し得てしまうとは、この大胆なアイデアの威力には感服する他はない。)

◆第4曲「影のあるグリッサンド」
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 ソステヌート・ペダルによるピアノの残響効果については、ラッヘンマンの諸作品など、先行例は多数ある。ここでは、無音で押さえた和音をソステヌート・ペダルで用意した上でグリッサンドを行う奏法による残響効果を探求している。(この効果自体は、私自身《ピアノのためのポリエチュード「トランポリン」》他で実践しているものである。)そしてそれを、内部弦のグリッサンドでも行う効果へと転用している。これについては、カウエル《エオリアン・ハープ》における効果そのものであるが、本作ではこれらの効果をシームレスに接続する試みがなされている。

◆第5曲「複数弦によるホケット」
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 ピアノの弦に触れ倍音を出す効果は、さして目新しいものではないが、ここでは、複数弦によって異なる倍音を出しつつ一つの旋律を奏でる。ホケットとは、中世の技法で複数声部が一つの旋律を交互に奏でる効果であるが、ここでは複数の弦がホケットを実践する。シュパーリンガーの作品など、倍音奏法の究極的な実践例は枚挙にいとまがないが、ここでは旋律線を実行するために、想定される音をはずせないというハードルが課せられる。大井浩明のお題にあった「クラシック名曲の引用禁止」は、クラシック音楽以外には適用されていないため、ここではリトアニア民謡(といっても、それを引用して有名になってしまったクラシックの名曲があるが)を引用している。

◆第6曲「手移り」
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 大井浩明は、笙も演奏する。笙も演奏するピアニストのための作品として、笙の合竹(和音)の移行に伴う「手移り」のかたちを、ピアノの和音に適用したらどうなるか、ということを構想した。そのような実践を行っていけば、必然的に雅楽の構造を参照することになる。時折きかれる腕のクラスターは、雅楽において打ち込まれる楽太鼓の役割と近似する。
 一方で大井浩明は、オルガンも演奏する。オルガン独特の効果として「スウェルボックス」の開閉がある。ここでは、その効果に相当する効果をピアニズムとしても要求している。


◆第7曲「ジャンプ」
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 ピアノの全音域にわたる演奏は、ときにハードな全身運動となる。「演じる音楽」の理念としては、そのような「演奏行為の共有体験化」を引き起こし易い演奏内容こそ、最も求められる種類のものである。だから、一般的な意味でのヴィルトゥオーゾの演奏は、それ自体が「演じる音楽」なのであり、事実、私自身はそのような演奏を好む。しかし一方で、それをそのまま実践するのであれば、既成のヴィルトゥオーゾ作品には叶わないであろう。そこでここでは、聴覚的な印象と、実際の演奏行為との間に齟齬があるような内容を探求することとした。第3曲「各音域での両手和音」におけるような、聴覚的な印象がそのまま身体的な状況と合致するタイプの作品とは真逆の効果を生む方法として、極めて激しい跳躍運動を行わなければ演奏不可能な楽想だが、そのような激しさを伴う聴覚的な印象にはならないような奏法となっている。

◆第8曲「ポリル」
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 前述のように、大井浩明のために作曲した作品の系譜に《ポリエチュード》というものがあり、現在「ポリスマン」「トランポリン」「ポリポリフォニー」「ノンポリ」の4曲が作曲されているが、そのうち最初の3曲は大井浩明により初演されている。本作の中に包括されつつも、《ポリエチュード》の第5曲としても位置付けられる作品を、と検討した結果、様々なトリル奏法をパラレルに演奏するアイデアを得た。層状のトリルという意味を示す「ポリトリル(Poli Trill)」、略して「ポリル(Porill)」である。


◆第9曲「マルシュ・リュネール」
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 本年(2017年)6月、ラッヘンマンのピアノ新作《マルシュ・ファタル》が初演された。満を持しての新作、しかも日本での世界初演ということで、現代音楽業界最注目の作品であったが、一聴するとロマン派スタイルのキッチュなマーチそのものである本作は、賛否両論を巻き起こした。私には、ピアノのアコースティックの可能性に関する新しい註釈を見いだせたため、やはりラッヘンマンは常に新しい表現の可能性を探求している、と理解した。しかし一方で、同じマーチをテーマにしても、更に新しい可能性があり得るのではないか、との夢想も捨て難かった。そこで、「魔性のマーチ」に対抗して「月に憑かれたマーチ」とし、ラッヘンマンとは異なる視点でマーチに新しい光をあてたいと考えた。(川島素晴)




川島素晴 Motoharu Kawashima, composer
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 1972年東京生れ。東京芸術大学および同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、2017年一柳慧コンテンポラリー賞等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。自作の演奏を中心に、指揮やパフォーマンス等の演奏活動も行う。いずみシンフォニエッタ大阪プログラムアドバイザー等、現代音楽の企画・解説に数多く携わり、2016年9月にはテレビ朝日「タモリ倶楽部」の現代音楽特集にて解説者として登壇、タモリとシュネーベル作品で共演した。また執筆活動も多く、自作論、現代音楽、新ウィーン楽派、トリスタン和音等、多岐にわたる論考のほか、曲目解説、コラム、エッセイ等も多数発表している。日本作曲家協議会理事。国立音楽大学准教授、東京音楽大学および尚美学園大学講師。



ジャチント・シェルシ覚え書き────野々村 禎彦
(*筆者による推薦音源リンク付)

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 シェルシは北イタリア沿岸の小都市ラ・スペツィアの貴族の家に生まれ、教育は専ら個人教授で身に着けた。一家でローマに移った後、彼はまず文学に興味を持って詩作に没頭し、ヨーロッパ各地を旅してジャン・コクトー、ヴァージニア・ウルフらと親交を結んだ。その後作曲も行うようになり、1930年頃から作品を発表し始める。当初は未来派の影響が強かったが、やがてスクリャービン流の作曲法を学び、30年代半ばから末にかけて、後期スクリャービン風の膨大なピアノ独奏曲を残した。この時期の作品から戦後の独自の作風の萌芽を探すのも興味深いが、本日は時間的制約の関係で取り上げない。これと並行してベルクの弟子から12音技法を学び、イタリア最初のセリー主義者になる。またペトラッシらと共同でドイツ、フランス、ソ連等のモダニズムの最先端を積極的に紹介するが、元々は未来派などの前衛的な音楽を支持していたファシスト政権がナチスとの関係を深めるうちにユダヤ系作曲家排斥などを通じて前衛的な音楽を抑圧し始めたため、彼の心はイタリア音楽界から離れ、第二次世界大戦勃発を機にスイスに移住した。

 スイス時代の彼はイギリス人女性と幸福な結婚生活を送ったが、作曲ペースは落ちた。祖国を離れて自らの創作を客観的に眺めると、後期スクリャービン風の即興的な素材に、音列操作で無調の衣をまとわせた程度の曲では満足できなくなったのだろう。ムッソリーニ政権は1943年7月の連合国軍侵攻でたちまち瓦解したが、今度はドイツ軍が侵攻してムッソリーニを奪還し、傀儡政権は北部山岳地帯でヒトラー自殺直前まで抵抗を続けた。ローマは1944年6月に解放され、シェルシも帰国して作曲活動を再開したが、この時彼は貴族の趣味にふさわしい決断を下した。自分ひとりで書き上げる作品に限界があるならば、自ら選ぶのは素材やイメージに留めて緻密な構成はプロに任せればよい。腕利きの演奏家を雇って試演させ、仕上がりを確認して手を入れれば、「代筆」ではなく「共同作曲」だ——このようにして作られた最初の作品が《弦楽四重奏曲第1番》(1944) であり、確かにこの曲から突然、バルトーク1番を無調にしたような密度の高い音楽に変貌している。1947年から作曲アシスタントはヴィエリ・トサッティ(1920-99) に交替し、ふたりの共同作業は20年近く続いた。

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 これが単なる「趣味の作曲」ならば何の問題もないが、イタリア作曲界を超えて注目される存在になるとそうもいかない。トサッティとの最初の代表作、カンタータ《言葉の誕生》(1948) はISCM大会で初演され、ブーレーズとケージの往復書簡集がこの作品への論評で始まるほど、国際的にも注目されていた。ただし彼らの評価は手厳しく、録音を聴いた限りでは筆者も同意見だ。12音技法自体は珍しいものではなく、共同作曲のメリットは乏しい。合唱とオーケストラという大編成になると、試演によるチェックにも限界があり、そもそもトサッティ自身の作風は極めて保守的(Youtube上の音源を聴く限り、マリピエロ(1882-1973) やカゼッラ(1883-1947) の方がまだ進歩的に思えてしまう)である。もちろん共同作曲の事実は公にはされなかったが、イタリア作曲界では既に「公然の秘密」であり、初演を指揮したデゾルミエールは《言葉の誕生》を称賛したが、業界では嘲笑されていたという。彼はこの初演から程なく、「12音技法と自らの作風が相容れない」ために精神の平衡を崩し、精神病院で療養に入ったとされるが、主な要因はそれよりも、共同作曲に対する業界の態度と、スイス時代の妻がイタリア帰国に同意せず別れたことに由来する心労の方ではないか。

 50年代初頭、療養中のシェルシはピアノのひとつの音を何時間も弾き続け、響きの世界に分け入ることを通じて精神の平衡を取り戻したという。禅やヨガなどの東洋思想に傾倒したのもこの時期で、その影響は音楽の素材にも及んだ。作曲活動復帰第1作が《組曲第8番》(1952) であり、本日のプログラムは病気療養からのリハビリを思わせる執拗な同音反復のシンプルな音楽から始まる。彼のこの時期の「作曲」とは、ピアノの即興演奏を録音し、採譜のプロが細かく譜面に起こし、最後にトサッティがまとめたもの。その後のピアノ独奏曲ではピアニスティックなフレーズが増え、自ら譜面を書いていた30年代を思わせる瞬間もしばしば。即興演奏の記憶に基づいた作曲は鍵盤楽器の歴史とともに始まるが、シェルシ作品の特徴は即興演奏をまず録音し、記憶を介した抽象化では削ぎ落とされてしまうニュアンスまで取り込んだところにある。また膨大な同工異曲を書いた30年代とは違って、ピアノ独奏曲の作曲が安定すると、今度は管楽器弦楽器の独奏曲も同じ方法論で作り始めた。もちろん楽器が違えばピアノの手癖は通用せず、音響特性を踏まえて慎重に素材を準備する必要がある。この変化はピアノ独奏曲にもフィードバックされ、作曲作品らしい構築性が加わってくる。シェルシにとっては自分で手を動かしていないから、トサッティにとっては自分が書きたい音楽とは全く違うからこそ、素材の可能性を引き出すことに集中し、汲み尽くすたびに作曲の難度を上げて新たな可能性に挑んでゆく、客観的でシステマティックなアプローチが実現したのだろう。本日、「シェルシらしいシェルシ」が始まる曲の次に取り上げるのは、断片的でダイナミックな方向性の頂点《アクション・ミュージック》(1955) と、《組曲第8番》以降の総括を意図し、特に旋律的で瞑想的な方向性が光る《組曲第11番》(1956) であり、彼はこの2曲でピアノ独奏曲はひとまず打ち止めにした。

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 さらにチェロ独奏曲《トリフォーン》(1956)・《ディトーメ》(1957) やピッコロとオーボエのための《リュック・ディ・グック》(1957) などを経て、ピアノ即興を素材とする作曲の可能性は極めたと見ると、彼は即興演奏の楽器をオンディオーラ微分音を出せる電気オルガン)に切り替えた。《弦楽三重奏曲》(1958)、9金管楽器と打楽器のための《前兆》(1958)、クラリネットと7楽器のための《キャ》(1959) と、1音の微分音的なゆらぎを顕微鏡的に拡大する革新的なコンセプトを編成を拡大しながら深化させてゆく。このコンセプトを純化した、室内オーケストラのための《1音に基づく4つの小品》(1959) の豊かさの前では、同時代に一世を風靡したペンデレツキ、リゲティ、ツェルハらの音群音楽すら、児戯に思えてくる。オネゲルとマルティヌーの網羅的研究の他、スペクトル楽派(特にラドゥレスク、ドゥミトレスクら「裏楽派」)の研究でも名高いベルギーの音楽学者ハリー・ハルブライヒが「現代音楽の歴史はすべて書き直さなければならない:いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられないとまで主張したのは、まさにこの時期の作品に由来する。

 特に、後述する平山美智子(1923-) のための声楽曲の作曲が軌道に乗ってから数年間の作品群:《弦楽四重奏曲第3番》(1963)、大オーケストラのための《ヒュムノス》(1963)、ヴァイオリン独奏曲《クノイビス》(1964)、《弦楽四重奏曲第4番》(1964)、女声合唱のための《イリアム》(1964)、チェロ独奏曲《イグール》(1965)、ヴァイオリンと18楽器のための《アナイ(1965)、4人の独唱、オンド・マルトノ、混声合唱、オーケストラのための《ウアクサクタム》(1966) は、各々20世紀の該当編成を代表する傑作だ。例えば《クノイビス》は、当たり前のように1弦1段の3段譜で書かれ、ある弦の持続音に別な弦が微分音で上下行してまとわりつくような、楽器の常識を超えた難度の場面が続く。しかもそれは技巧のための技巧には終わらず、緊張感に満ちた音空間を生み出す不可欠な要素として鳴り響く。この水準の奏法を全楽器に要求して譜面は最大13段に達する《弦楽四重奏曲第4番》は、彼の特異な弦楽器書法の集大成である。これらに匹敵するヴァイオリン独奏に牽引されたアンサンブルが、彗星の尾のようにゆらめく《アナイ》は、それまでの緊張の塊のような音世界に深い瞑想性も加わった、一段上のステージの作品。また合唱曲は彼にしては比較的穏当な作品が多かったが、《イリアム》はこの時期の作品の中でも見劣りしないラディカルな書法を持つ。

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 以上の要素がすべて注ぎ込まれたのが、彼の終生の代表作《ウアクサクタム》である。《アナイ》のアンサンブル書法と《イリアム》の合唱書法の上でオンド・マルトノが弦楽器ソロの役割を果たす(元々の素材は微分音電気オルガンである)、と図式的にはまとめられるが、マヤ文明の伝説という格好のモティーフのもと、過剰なはずの諸要素のバランスが奇跡的に取れて本作は生まれた。編成的にもモティーフ的にも、ヴァレーズ終生の代表作《エクアトリアル》(1932-34) の現代版という位置付けがふさわしい。シェルシ作品の素材になった即興の録音は、現在はある程度公開されているが、私的録音の限界はあるにせよ、その即興と最終的な作品の密度や情報量の落差は大きいこの録音を渡されてあの編成を思いつくことはまず不可能で、たとえ自分で譜面を書くことはなくても、編成を含む音楽のイメージはシェルシのものに違いない。また、いくら編成やイメージは指定されていたとしても、この素材からあの音響を引き出すことは誰にでもできることではなく、20年近く共同作業を積み重ねたトサッティならではの仕事である。実際、トサッティの作品表を眺めると、シェルシのピークにあたる時期は如実に創作ペースが落ちている(数年かけてコツコツ書く類の大作はあるが、霊感に任せて一気に書き上げる類の作品がパタッと途絶えている)。《ウアクサクタム》の達成は、トサッティにとってもひとつの区切りになり、この曲をもってアシスタントを退任した。

 この時期のシェルシには、もうひとつの大きな出来事があった。声楽家・平山との出会いである。イタリアに移住し《蝶々夫人》役で生計を立てていた彼女は、1957年にはシェルシと面識があったというが、管楽器ソロ曲を声楽用に編曲した、ひたすら持続音が続く譜面を渡されて途方に暮れていた。だが、彼の音楽の秘密は微分音オルガンによる即興だと耳にして、好奇心旺盛な彼女はそれを聴いて判断しようと思い立つ。共同作曲の秘密が漏れることを怖れていたシェルシは、周囲が寝静まった深夜に即興を録音していたが、彼女は真冬のアパートの玄関先で毛布にくるまって徹夜で聴き、彼の音楽は本物だと確信した。彼女は次の面会の機会に、あの日の即興を思い出して譜面に囚われずに歌った。自分の音楽の最初の理解者を前にして彼の創作意欲は燃え上がり、彼女の歌唱を前提にした《ホー》(1960) に始まる声楽曲群を書き始めた。ソプラノ、ホルン、弦楽四重奏、打楽器のための《クーム》(1962)、ソプラノと12楽器のための《プラーナムI》(1972)、そしてもうひとつの終生の代表作である、1時間近い連作《山羊座の歌》(1962-72)。
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 彼女は作曲上の秘密をある程度(まず素材は即興の録音だということを、後には彼が譜面を書いていないことまで)知っている協力者なので作曲の方法論も変わり、打ち合せに基づいた彼女の即興をシェルシが録音し、それを素材に譜面化が行われた。特に《山羊座の歌》では大半の曲が彼女のソロなので、やがて彼は精密な譜面化にも拘らなくなり、彼女が譜面を修正し自由に解釈するところまで認めるようになった。さまざまな特殊唱法を駆使した声のための作品は、まさに《山羊座の歌》の作曲時期でもある前衛後期に多く書かれた。バーベリアンの歌唱を前提にしたベリオの作品群はその代表であるが、唸り声や叫び声を含む地声の魅力を追求し、音楽が制度化される以前の呪術性を強く持った、平山の歌唱を前提にしたシェルシの作品群は、その中でも特異な位置を占めている。シェルシ終生の代表作に本質的に貢献した、ふたりの協力者は対照的だ。トサッティは彼の音楽には全く共感していなかったおかげで、中途半端な思い込みで彼の意図を歪めることなく、特異な音楽をそのまま譜面化することができた。平山は彼の音楽に深く共感し、通常の演奏家の領分を超えて、即興で素材を生み出し試演時に譜面に手を入れる、他の曲ではシェルシが果たした役割まで担った。

 トサッティ退任後は彼の弟子数人が作曲アシスタントを引き継いだが、誰も彼の代わりにはなれなかった。《ウアクサクタム》の次にあたる作品が即興の録音ほぼそのままのギター独奏曲《コ・》(1967) なのは象徴的だが、トサッティ後期には大編成作品が並んでいたシェルシの作品表は、突然小編成作品中心になる。混声合唱と大オーケストラのための《コンクス・オム・パクス》(1968) や《プファット》(1974) のような曲もあるが、楽章ごとに使用楽器を一変させ、クライマックスで突如大量の楽器を投入したりと、平板な曲想に物量攻撃で辛うじてコントラストを付けているに過ぎず、微分音のゆらぎを積み重ねたトサッティ時代の精緻な音楽はもはやない。ただし、トサッティ時代の作風は同時代の音群音楽の上位互換版に過ぎず、この時期の「誰もやらなかったバカな音楽」こそが代表作という見方もある。軽妙でユーモラスな男声合唱曲《TKRDG》(1968) やハープ、タムタム、コントラバスという編成が命の《オカナゴン》(1968)、戦前にも書かなかったような素朴な調性的声楽曲《3つのラテン語の祈り》(1970)・《応唱》(1970) など、従来とは異質な傾向がこの時期に一挙に現れるのは、中の人が頻繁に入れ替わっていたからだと捉えるのが自然である。
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 ただし、9楽器のための《プラーナムII》(1973)、チェロとコントラバスのための《さあ、今度はあなたの番です》(1974)、電気オルガン独奏曲《イン・ノミネ・ルーキス》(1974) など、病気療養直後の作品群を思わせるシンプルな持続音に最小限のゆらをまとわせた創作末期の作品群は、ヨーロッパ戦後前衛とは別系統の米国実験音楽に通じる深みを持っている。イタリア作曲界では孤立していた彼の音楽を理解して発表の場を与えたのは、〈新しい響き Nuova Consonanza〉音楽祭を主催し同名の集団即興グループ主宰したフランコ・エヴァンジェリスティ(1926-80) だけだったが、この音楽祭や最晩年の作風を通じて、ケージ、フェルドマン、アール・ブラウン、ジェフスキ、アルヴィン・カランら米国実験音楽の作曲家たちと親交を結んだ。

 彼の旺盛な創作は、演奏時間10分に満たないが全作品中最大の編成を持つ《プファット》(1974) で一段落し、以後は自作のプロモーションが活動の中心になった。ローマの現代音楽の演奏会に足を運び、目をつけた演奏家を自宅に招いて、録音を流して譜面を見せる地道な活動だが、そうして密接な協力者になったのは、アンサンブル2e2mを主宰するメファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった(目鼻立ちの整った女性奏者が多いのは、古稀を迎えた程度ではイタリア人男性の脂は抜けないのだろう)。イタリア在住のアルヴィン・カランと協力して自作録音のLP化も70年代末から80年代初頭にかけて行い、平山による声楽作品集を2枚、ウィッティによるチェロ独奏《三部作》全曲、アルディッティ弦楽四重奏団による最初の全集(当時は第4番まで)をリリースした。
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 この流れの中で、パフ/アンサンブル2e2mによる作品集(曲目は《キャ》《1音に基づく4つの小品》《オカナゴン》《プラーナムII》)が1982年にリリースされたのを契機に、「シェルシ・ルネサンス」が始まった。良き理解者による、アンサンブル編成の作曲家紹介としてベストの選曲だが、時代的条件も揃っていた。ミュライユ&グリゼーとシェルシの出会いから始まったスペクトル楽派がIRCAMの研究プログラムに選ばれ、彼らのルーツに位置する謎の作曲家への関心も高まっていた。コアな現代音楽の探求者ならば、ポスト戦後前衛の諸潮流(スペクトル楽派、新しい複雑性、ドイツ音響作曲など)が曲がり角を迎え、ラディカルな初期衝動から伝統との折り合いを付ける段階に入ったこと、米国実験主義はオリヴェロス(1932-)、テニー(1934-2006) らよりも下の世代には受け継がれず、頼みの綱のミニマル音楽も、和声進行を利用する「ポストミニマル」の段階に入って変わってしまったことなどに気付いており、閉塞感が溜まっていた。ポストモダンの潮流の中で、東洋思想の影響を標榜する即興的な音楽もブームになっていたが、戦後前衛と米国実験音楽双方の本質を踏まえた上で、「私は作曲家ではなく仲介者だ」と語るシェルシには、彼らと一線を画する圧倒的な「本物感」が漂っていた。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習での二度の特集(1982, 84)の間にドイツの音楽学論文集Musik-Konzepteでも、現代作曲家としてはシュネーベル、ノーノ、メシアンに次いで取り上げられた(1983)。彼が地道に築いてきた協力者のネットワークを通じて網羅的な演奏が行われ、最後に残った合唱とオーケストラのための3作品の初演(ISCMケルン大会, 1987)は本公演もゲネプロも完売し、終演後はスタンディングオベーションが果てしなく続く伝説的な成功を収めた。この3作品を含むオーケストラ曲全集はヨーロッパの数あるレコード賞を独占した。

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 人生の最後に最大級の賞賛に包まれて、彼は1988年に亡くなった。「シェルシ・ルネサンス」の中心地はドイツやフランスで、イタリア作曲界での「公然の秘密」は伝わっていなかった。彼の死の直後に「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するトサッティへのインタビューが音楽学雑誌に掲載され、共同作曲の秘密は公になったが、佐村河内守の一件のようなスキャンダルに発展することはなく、シェルシ作品の演奏や研究は現在でも続いている。むしろ、シェルシ作品の受容を通じて、「芸術音楽」側の意識は変わった。譜面化を経ない「録音メディア上での作曲」と共同作曲が、芸術音楽とポピュラー音楽を長年分かってきたが、電子音楽とシェルシ作品の受容を通じてこの溝は乗り越えられ、今日では現代音楽と実験的ポピュラー音楽の最前線に本質的な区別はない。ハルブライヒの意図すら超えて、「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」。

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by ooi_piano | 2017-09-28 04:33 | POC2017 | Comments(0)

c0050810_09075884.jpg名録音誕生を応援するチケットレス・後払い方式のコンサート

ピティナ・ピアノ曲事典 公開録音コンサート
2017年9月20日(水) 19:00 開演(18:30開場)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)

入場料:後払い方式(※)
c0050810_09230354.jpg東音ホール 
(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838
予約フォーム  チラシpdf

【演奏曲目】
■I.ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1914/17)  24分  歌詞邦訳全文
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
○西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I 》(2014、世界初演) 9分
■一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980) 7分
○西風満紀子(1968- ):《melodia-piano II 》(2014、世界初演) 9分
■西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985) 7分
 (休憩10分)
■篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997) 11分
■湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)  7分
■南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演) 22分
○西風満紀子(1968- ):《melodia-piano III 》(2015、世界初演) 6分
(※)入場料:後払い方式・・・コンサート後に、好きな額を当日お配りする封筒にいれて頂きます。そのお金は演奏者ならびにピティナ・ピアノ曲事典への寄付金として大切に使わせて頂きます。 公開録音について


□浦壁信二 Shinji Urakabe, piano
  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

□大井浩明 Hiroaki Ooi, piano
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに31公演を数える。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/



【曲目解説】

c0050810_09112107.jpg●ストラヴィンスキー:舞踏カンタータ《結婚(儀礼)》
  Igor Stravinsky LES NOCES / La tresse - Chez le marié - Le départ de la mariée - Le repas de noces
  イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882 - 1971)は、帝政ロシアの俗福な家庭に生まれた。父はサンクト・ペテルブルグの王立マリインスキー歌劇場のバス歌手で、1893年にこの街でチャイコフスキーが没したとき、その死の床にかけつけたリムスキー=コルサコフ、グラズノフといった音楽家の中に、イーゴリの父、フョードル・ストラヴィンスキーもいたと記録されている。
  ストラヴィンスキーは革命の3年前、1914年に家族とともにロシアを出ている。その後ヨーロッパで興行師ディアギレフと組んで作曲・編曲活動に拍車がかかる。その点、1917年に同じくロシアを出たラフマニノフがその後アメリカに渡ったあと創造活動が委縮してしまったのとは対照的だ。
  ストラヴィンスキーはロシアを捨てたあと、純粋な望郷の念にかられただけの理由で曲を書いたとは思えない。《結婚(儀礼)》はロシアの古い婚礼の儀式を題材としているけれど、たとえばチャイコフスキーやムソルクスキーのように古いロシアの旋律をそのまま持ってきている、というものではない。全音階、アンヘミトニー(無半音)が通常のロシアの民族音楽よりもはるかに多用されている。おそらく当時の一般のロシア人が聴いても「なんやこれは」と違和感を覚えたはずだ。19世紀後半にロシアのインテリ家庭で育った人間として、またあのやや人をおちょくったような風貌からしても、この20世紀を代表する作曲家の屈折した発想と構想は、現代の我々にそう易々と覗き込めるものではなかろう。
  《結婚(儀礼) Les noces(仏), Свадебка(露)》は、作曲家自身によるいくつかの異なる楽器編成によるドラフトがあるが、1923年の最終ヴァージョンは、4台のピアノ、打楽器、声楽(ソロと合唱)という編成である。この20分強の曲は4つの場面から成り立っており、連続して演奏される。
 - (婚礼に出かける前の)花嫁の家で。原タイトルは「おさげ髪, Коса(露)」
 - (同じく)花婿の家で。
 - 花嫁の出発。
 - 婚礼の祝宴。原タイトルは「美しい食卓、Красный Стол (露)」

  曲名が示すとおり、扱われているのは「結婚儀礼」、つまり「しきたり」であり、花嫁、花婿がどういう人間であるかということは全く問題にされていない。古いロシアでは、若い結婚前の女性は髪を三つ編み(коса)にして、一本の長く垂れたおさげをこしらえ、処女の象徴とした。この一本おさげ髪が嫁入り前に花嫁の家において解かれ、人妻の象徴である二本のおさげに結い直され、これがプラトーク(ネッカチーフ)で覆われて、婚礼の祝典に出発する。革命後、このкосаという言葉・象徴性は共産主義の思想に合わず鳴りを潜めていたようだが、ソ連邦崩壊後(当のストラヴィンスキーは知るよしもない)、今度はファッション用語として使われ始めた。この場合、三つ編みは長く垂れなくてもよい。美人の首相と一時期脚光を浴びたウクライナのユリヤ・チモシェンコのあの髪型もкосаである。もちろん垂れた一本おさげを編んでいる女性と処女性は現代のロシアにおいて全く関係は無い。
  「婚礼の祝宴」の儀式は、日本の昔の嫁入り儀式、つまり殆どなんの会話もしない花嫁・花婿が仲人に挟まれて座敷の中心に置物のように座らされ、親戚一同が回りで飲めや歌え踊れのドンチャン騒ぎをしている光景に似ているかもしれない。面白いのは、その祝宴のさ中に新郎新婦の寝床に先にはいって床を温めている係りの別夫婦がいて、祝宴が続いている間に新郎新婦は「ゴーリカ!ゴーリカ!(苦いぞ、苦いぞ。酒がまだ苦いから、もっとキスをして甘くしろ)」という回りの掛け声に促されて、半ば強制的に温められた寝床に急き立てられる、という場面。なお結婚披露宴で客たちが「ゴーリカ!ゴーリカ!」と叫んで新郎新婦にその場でキスを迫る風習は、現代のロシアの結婚式でもよく見られる。
  ストラヴィンスキーはその育ちからしてこのようなロシアの田舎の古い慣習を日常として経験したことはあまりないはずで、こういった民俗的な結婚儀礼を原始的な生活への回帰というテーマとして書いたのか、あるいは曲を献呈しているディアギレフ率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の増収増益を促すネタとして商業的にこのテーマを選んだのか、あるいはその両方なのか、これはいろいろな見方があろう。(大塚健夫)



c0050810_09254258.jpg●西風満紀子:《melodia-piano I, II, III》
 Makiko Nishikaze: melodia-piano I/II/III
 melodiaシリーズはソロ楽器のための作品集であるが、melodia-pianoはそのシリーズに含まれる作品としてピアノ2台のために作曲。
 現代の音楽にはなぜすぐ覚えられるようなメロディーがないのか、とよく質問される。
 メロディー、旋律 - 音の横のつながり。
 音楽には聴き知ったメロディーを再確認するという鑑賞の仕方がある。しかし、未知なるメロディーに出逢った時、予期せぬ音の流れについて行く、というような味わい方もできるのではないか。聴衆が受け身的に音を待つのでなく、今、立ち上がる音と共に歩むように聴く、そのような聴き方を促せるような作品を創作していきたい。その課題を追求するために、旋律楽器のための作品に取り組んでいる。
 ピアノは横の旋律と縦の音の重なりを演奏することができるが、melodiaシリーズの一環として、より複雑な旋律を2台のピアノで紡ぎだすことを試みた。ドイツ語で音の色(Klangfarbe)を創るという表現が使われるが、創るというよりむしろ発見していく、という意識を持って創作している。(西風満紀子)

□西風満紀子  Makiko Shinikaze, composer
  和歌山県出身。ベルリン在住。作曲家、ピアニスト、サウンドパフォーマー。愛知県立芸術大学卒業後、ミルズカレッジ大学院(カリフォルニア)を経てベルリン芸術大学大学院修士課程修了。これまでヨーロッパ、南米アメリカなど世界各地の音楽祭で作品が演奏されている。
  様々な楽器や声のための作品のほか、最近は特殊な空間で上演する大掛かりなプロジェクトに取り組むことが多い (spatial music/ Räumliche Musik)。ppt (2013), morepianos I, II (2014) vi-ta, wanderlied (2015) など実験的なパフォーマンスを作品の中に取り入れ、通常のコンサートの枠を超えた表現方法を追及している。
  またピアノ、クラヴィコード、チェンバロなど鍵盤楽器の自作自演も活動の中心である。古い鍵盤楽器のために特殊な新しい演奏技術を取り入れるのではなく、楽器そのものの特性を生かしつつ多様な音色を引き出せるような作品作りを目指す。ドイツ語の“musizieren”- 音楽すること、という言葉をモットーに、作曲と演奏・パフォーマンスを合わせた独自の創作活動を行っている。公式サイト: http://www.makiko-nishikaze.de/


c0050810_09144906.jpg●一柳慧: 《二つの存在》 ~2台のピアノのための
 Toshi Ichiyanagi: Two Existence for 2 pianos
  曲はそれぞれの奏者が、相手の存在に対してかかわりあうかたちで進行する。それはあるときは谺のように、あるときは水紋のように、また、あるときは対話するように、そして、あますことなく写し出す鏡のように、さまざまな反応を示しながら共鳴しあう。聴き終わったとき、2台のピアノが一つの音響体となって、音の残像が人びとの耳にとどまるように。初演は1980年6月、第三回東京音楽芸術祭(イイノホール)で高橋悠治と作曲者により行われた。(一柳慧)


□一柳慧 Toshi Ichiyanagi, composer
  神戸出身。作曲家、ピアニスト。10代二度毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門第1位受賞。19歳で渡米、ニューヨークでジョン・ケージらと実験的音楽活動を展開し、1961年に帰国。偶然性の導入や図形楽譜を用いた作品で、様々な分野に強い影響を与える。これまでに尾高賞を5回、フランス文化勲章、毎日芸術賞、京都音楽大賞、サントリー音楽賞、紫綬褒章、旭日小綬章、文化功労者、日本芸術院賞恩賜賞など受賞多数。作品は文化庁委嘱のオペラ「モモ」(1995)や、新国立劇場委嘱オペラ「光」(2003)、神奈川県文化財団委嘱オペラ「愛の白夜」(2006)の他、10曲の交響曲、室内楽作品、特に「往還楽」「雪の岸、風の根」「邂逅」などの雅楽、声明を中心とした大型の伝統音楽など多岐にわたっており、音楽の空間性を追求した独自の作風による作品を発表し続けている。作品は国内のオーケストラはもとより、フランス・ナショナル、イギリス・BBC、スイス・トーンハレ、ノルウェー・オスロフィルなどのより世界各国で演奏されている。現在、財団法人神奈川芸術文化財団芸術監督。また、正倉院や古代中国ペルシャの復元楽器を中心としたアンサンブル「千年の響き」の芸術監督。



c0050810_09153607.jpg●西村朗:《波うつ鏡》
 Akira Nishimura: Vibrancy Mirrors for 2 pianos
  全体を通し二台のピアノは全く同じ音域内で、トレモロ、メロディー、アルペッジョ等を奏しつづけます。両奏者が流動し波うつ響きの鏡を作り、その鏡の上に点病的なメロディー・ラインを映し出してゆく、というのが作曲の基本的なアイデアでした。白鍵上の明るい旋法(モード)を基調としてのリズミカルな曲である。(西村朗)

□西村朗 Akira Nishimura, composer
  大阪市に生まれる。東京芸術大学卒業。同大学院終了。西洋の現代作曲技法を学ぶ一方で、在学中よりアジアの伝統音楽、宗教、美学、宇宙観等に強い関心を抱き、そこから導いたヘテロフォニーなどのコンセプトにより、今日まで多数の作品を発表。
  日本音楽コンクール作曲部門第1位(1974)、エリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞(1977・ブリュッセル)、ルイジ・ダルッラピッコラ作曲賞(1977・ミラノ)、尾高賞(1988・1992・1993・2008・2011)、中島健蔵音楽賞(1990)、京都音楽賞[実践部門賞](1991)、日本現代芸術振興賞(1994)、エクソンモービル音楽賞(2001)、第3回別宮賞(2002)、第36回(2004年度)サントリー音楽賞、第47回毎日芸術賞(2005)等を受賞し、2013年紫綬褒章を授与される。この他に、02年度芸術祭大賞に「アルディッティSQプレイズ西村朗『西村朗作品集5』」が、05年度芸術祭優秀賞に「メタモルフォーシス・西村朗室内交響曲」が選ばれる。
  1993~94年、オーケストラ・アンサンブル金沢、1994~97年、東京交響楽団の各コンポーザー・イン・レジデンス。2000年よりいずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督を務める他、2010年草津夏期国際フェスティヴァルの音楽監督に就任。2007年東京オペラシティ「コンポジアム2007」のテーマ作曲家となり、ピアノ、室内楽、管弦楽作品が演奏され、武満徹作曲賞の審査委員を務め話題となる。放送の分野でも活躍の場を広げ、2003年よりNHK-FM「現代の音楽」の解説を6年間、2009年よりNHK-Eテレ「N響アワー」の司会を3年間務める。また、2015年4月からは、再度NHK-FM「現代の音楽」の解説を務める。
  近年海外においては、ウルティマ現代音楽祭(オスロ)、「ノルマンディの10月」音楽祭(ルーアン)、アルディッティ弦楽四重奏団、クロノス・カルテット、ELISION、ハノーヴァー現代音楽協会、ラジオ・フランス等から新作の委嘱を受ける他、ウィーン・モデルン音楽祭、「ワルシャワの秋」現代音楽祭、MUSICA・ストラスブール音楽祭、ブリスベイン音楽祭等において作品が演奏されている。この他、2009年ガウディアムス(アムステルダム)国際作曲コンクールの審査委員を務め、音楽週間において作品が演奏される。現在、東京音楽大学教授。



c0050810_09162861.jpg●湯浅譲二:《2台のピアノのためのプロジェクション》
  Joji Yuasa: Projection fro Two Pianos
  2004年10月に開催された、木村かをりと野平一郎によるピアノ曲9曲(1952年処女作から1997年まで)のコンサートのために書かれた。
  私はここで、2台のピアノを掌を組み合わせる形で、鍵盤を二倍に拡大する、これまでの2台のピアノ曲ではなく、2つのピアノがはなれて向かい合うと言う、ステレオフォニックな音楽、ピアノAとBが呼応し、融合するという空間的な運動性を生かした曲を構想した。
  曲は性格の異なる五つの部分とコーダで成り立っている。指によるミュートが単に音色の変化のみではなく音の遠近感の表出に大きな役割を果たしている。二人のピアニスト、2台のピアノでこそ初めて実現出来る音楽をイメージし、構想したのである。(湯浅譲二)

□湯浅譲二 Joji Yuasa, composer
  1929年8月12日、福島県郡山市に生まれる。作曲は独学。慶応大学医学部進学コース在学中より音楽活動に興味を覚えるようになり、やがて芸術家グループ<実験工房>に参加、作曲に専念する(1952)。以来、オーケストラ、室内楽、合唱、劇場用音楽、インターメディア、電子音楽、コンピュータ音楽など、幅広い作曲分野で活躍している。
  これまで彼の音楽は、映画や放送のための音楽を含めて、ベルリン映画祭審査特別賞(1961)、1966年および67年のイタリア賞、サン・マルコ金獅子賞(1967)、尾高賞(1972、88、97、2003)、日本芸術祭大賞(1973、83)、飛騨古川音楽大賞(1995)、京都音楽賞大賞(1995)、サントリー音楽賞(1996)、芸術選奨文部大臣賞(1997)、紫綬褒章(1997)、芸術院賞恩賜賞(1999)、日本芸術院賞(1999)、旭日小綬章(2007)など、数多くの賞を受けている。
  ニューヨークのジャパン・ソサエティ(1968–69)をはじめ、実験音楽センターUCSDの招待作曲家(1976)、DAADのベルリン芸術家計画(1976–77)、シドニーのニュー・サウス・ウェールズ音楽院(1980)、トロント大学(1981)、フランス国立音響音楽研究所(IRCAM; 1987)など、内外数多くの給付招聘を受けている。また、ハワイにおける今世紀の芸術祭(1970)、トロントのニュー・ミュージック・コンサート(1980)、香港のアジア作曲家会議(1981)、ブリティッシュ・カウンシル主催の現代音楽巡回演奏会(1981)、ニュージーランドのアジア太平洋祭(1984)、アムステルダムの作曲家講習会(1984、87)、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会(1988)、レーケンボー音楽祭(1986、88)、パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル太平洋作曲家会議(1990)、東京オペラシティのコンポージアム2002、ルーマニア現代音楽祭(2009)、アンサンブル・モデルン・アカデミー(2009)、スタンフォード大学(2009)などに、ゲスト作曲家、講師、審査員として参加している。
  クーセヴィツキー音楽財団によるオーケストラ曲の委嘱をはじめ、ザールラント放送交響楽団、ヘルシンキ・フィルハーモニー交響楽団、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、カナダ・カウンシル、サントリー音楽財団、IRCAM、米国国立芸術基金などから、オーケストラ、室内楽、合唱、電子音楽など、多数の委嘱を受けている。1995年には第二次世界大戦終結50周年記念としてシュトゥットガルトの国際バッハアカデミーの委嘱による《和解のレクイエム》のレスポンソリウムを作曲、初演された。
  1981年より94年まで、カリフォルニア大学サン・ディエゴ校(UCSD)教授として、教育と研究の場でも活躍。現在、UCSD名誉教授、国際現代音楽協会(ISCM)名誉会員。


c0050810_09173192.jpg●篠原眞: 二台ピアノのための《アンデュレーションB [波状]》
 Makoto Shinohara: Undulation B for 2 pianos
  この作品は、12の半音を辿るメロディックな線の提示とその11の返送より成る計12の部分 - それらは人間の様々な心理とその現れとしての行動を暗示する - とそれらの繰り返し - それぞれ一回ずつ、但し最初の部分は二回 - すなわち総計25の部分より成っています。
  この繰り返しは個々の部分の継続的展開か、いろいろな変奏、或いは異なってはいるが類似したもの、などです。
  一部分からその部分への移行に際しては、それぞれ一つ前の部分の繰り返しが間に挟まれます。このことから作品には丁度引いては寄せる波の動きのようなフォームが与えられます。
  演奏は鍵盤だけに限られていますが、通常の奏法に加えて音量ペダルの少しの押し下げによって生じる短い余韻の音、無音で押し下げられた鍵の弦の共鳴による長い余韻の音、第三ペダルの使用による保持音と保持されていない音の重ね合わせ、等の奏法が用いられています。
  音は二台のピアノに配分され、これら二台ピアノは聴衆の前方左右に配置されます。こうしてステレオ次元も加わった空間音楽が聞かれるのです。1998年1月10日ミデルブルフ(オランダ)にて、向井山朋子と大井浩明により初演。(篠原眞)

□篠原眞 Makoto Shinohara, composer
 大阪市出身。東京藝術大学音楽学部(作曲:池内友次郎)、パリ国立高等音楽院(作曲・音楽哲学:オリヴィエ・メシアン、理論、指揮)、フランス放送局音楽探求グループ、ケルン国立音楽大学(作曲:ベルント・アロイス・ツィマーマン、電子音楽:ゴットフリート・ミハエル・ケゥーニッヒ)、ケルン市立音楽院(作曲:カールハインツ・シュトックハウゼン)に在学。マッギル大学音楽部(モントリオール)客員教授(1978)。パリ(フランス政府給費)、ミュンヘン(バイエルン政府給費)、ケルン(国立音楽大学給費)、ベルリン(ドイツ学術交流局助成)、ローマ(イタリア政府給費)、ニューヨーク(ロックフェラー3世財団助成)、モントリオール(カナダ芸術評議会助成)、ユトレヒト(ソノロジー研究所勤務)に滞在。作品は器楽(洋楽器、邦楽器)(ソロ、室内楽、オーケストラ)、声楽(ソロ、合唱)、電子音楽(電子音、具体音)(テープ、ライヴ)の範囲におよび、個々の作品で奏法の開拓、雑音の融合化、空間化(スピーカー、音源移動)、視覚化(奏者移動、マイム、スライド)の探求を行う。オランダ祭のテーマ作曲家(1983)。個展を国内(東京、名古屋、草津)で計7回、国外(ドイツ、オーストリア、オランダ、ポルトガル、ポーランド、アメリカ合衆国で計12回開催。国内(音楽之友社、全音楽譜出版社)、国外(ルデュック、ショット、リコルディ)より27作品出版。国内10社(カメラータ、フォンテック等)、国外(ドイツ、フランス、オランダ、スイス、デンマーク、スウェーデン、アメリカ合衆国)12社より23作品LP/CDに収録。 篠原眞作品リスト/録音・初演データ一覧(リンク)


c0050810_09181973.jpg●南聡:《異議申し立て》反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲 ~石井真木の思い出に Op.57
 Satoshi Minami: The Lodgement an Objection Op.57 - Concerto for 2 Pianos about Repetition and Phase : in Memory of Maki Ishii
  あいまいな記憶によるが、2003年当時(前年だったかもしれない)、3人の女性のピアニストが務めている大学にあらたに赴任してきた。彼女らは3人でひとつのコンサートを開いた、その折に作曲の依頼を受け書いたのがこの曲である。彼女らのうちの二人、松永加也子と二宮英美歌によって札幌で初演された。
  この作品を作曲する前に石井真木が世を去った。彼との付き合いは主に卓球であった。大体東京に出ると彼らと卓球に興じたし、はてはベルリンまで行っても卓球を楽しんだ。彼は豪放磊落でありつつもなかなかお茶目な性格で、とても魅力的な人物であった。
  作曲活動は、2000年を越えたころから失語症的マンネリを避けるため、作曲の方向性の間口を広げようと模索の段階に入っていった。この作品もその範疇で、石井真木のように荒くダイナミックな太いオスティナートの持続感を、僕自身における可能性として模索することから産み落とされた。
  さすがに旋律的音型のオスティナートの使用は抵抗感があったので、単音や和音の「反復」の持続を基本に置くことにした。その結果としてのこの曲の石井真木へのトリビュート的性格を明確化するため、彼の初期の全く点描的で断片的な小品《アフォリスメンⅠ》より一部引用をおこなった。彼の作品から彼の個性が未成熟のこの曲を選んだのは、僕の本質的な立ち位置をも明確にしたいという意図もあったからだ。
  副題の「反復と位相」のうち、「位相」のほうは直接的には、2台のピアノの間で、拍頭のずれがあるような錯覚がしばしば設けられている程度で、「反復」に比べると曲中での直接的な発展に乏しい。それでも2人の奏者が、せめぎ合い、かつ切り込みあうように前景楽想と後景楽想の役割を、交代させつつ「協奏」していく構成は、「位相」の発想の発展結果でもある。これをCDでは「ポジとネガの絡み合い」とも表現した。
  また、「反復」を主体にした持続は、感覚的持続感よりやや長く設定してある。このことによって、聴衆が、平凡な時間体験ではない、この曲の固有性を主張する時間体験を感受されることを願った。
  タイトルは、曲を素直に進行させない楽想の存在に由来するが、作曲当時、務める大学組織の改編時期でもあり、自身札幌校から岩見沢校への異動を余儀なく受けざるを得なかったことも、記憶の中では、気分としてタイトル決定の契機になったかもしれないと思う。
  もともとこの曲は《調和の習作》とその周辺の諸作op.50(2003-)の中の1曲であったが、2010年に56小節追加して、独立した作品に変更した。そして、全体が357小節に1小節足りない、ということが、この作品のサインとして重要になった。この改訂は、初演後の構想を、前年に大病をしたことで、自作の整理として始めたことによる。
  改訂版の初演は2011年福岡であった。そのあとすぐに札幌で再演した。演奏家は同じ二人である。ピアノソナタ5番op.46(2000)以降書いた最も重要なピアノのための作品だったが、誰もその後演奏していない。したがって今回が初めて本州での演奏になるし、初演者の手を離れての初めての演奏でもある。
  浦壁さん大井さんのデュオ、大変楽しみにしております。(南聡)

□南聡 Satoshi Minami, composer
  1955年東京生まれ。東京芸術大学大学院修了。在学中作曲を野田暉行、故黛敏郎両氏に師事。
  1983年ころより中川俊郎、久木山直、内藤明美ら故八村義夫周辺に集まった若手作曲家同人「三年結社」による作品発表やヴォーカル・パフォーマー内田房江、彫刻家金沢健一、コンポザー・パフォーマー鶴田睦夫、岩崎真、日舞家花柳かしほ等とコラボレートした「南極劇場」等のライヴ・パフォーマンス活動を東京周辺にて展開。
  1986年北海道に移住。同年独奏ハープを伴う管弦楽のための《譬えれば…の注解》op.14-3を日本音楽コンクールに提出するも落選。
  北海道教育大学札幌校に採用され勤務。
  1990年環太平洋作曲家会議に参加。
  1991年管弦楽のための《彩色計画Ⅴ》op.17-5が評価されて村松賞受賞。
  1992年《歓ばしき知識の花園Ⅰb》op.15-5で文化庁舞台芸術奨励賞佳作。同年、ケルンでの日本音楽週間92に招待され、アンサンブルのための《昼Ⅱ》op.24-2が委嘱初演される。以降約10年間は最も活発に作曲活動を展開。
  2001年と2002年はISCMの国際音楽祭に《帯/一体なにを思いついた?》op.39《日本製ロッシニョール》op.29が入選、2003年にはアジア音楽祭に《譬えれば…の注解》が作曲後17年越しで入選。
  2001年慢性脳硬膜下血腫で手術受ける。
  2003年には初のCD作品集「ジグザグ・バッハ」をリリース。
  2005年岩見沢コロ・フェスタで四群の合唱、増幅された口琴群、フルート、打楽器のための《モビールのように》op.51委嘱初演。
  2007年北海道教育大岩見沢校准教授に配置替えになる。
  2009年大動脈解離で手術受ける。
  2012年CD作品集「昼」が第50回日本レコード・アカデミー賞を現代音楽部門受賞した。同年札幌コンサートホール・キタラでの初めての個展。
  2015年ベートーヴェンの《大フーガ》を吹奏楽に編曲、スーパー・ウィンズにて初演。
  現在、北海道教育大学岩見沢校教授、荒井記念美術館評議員、札幌コンサートホール・キタラ企画運営委員、北海道芸術学会会長、日本現代音楽協会会員、北海道作曲家協会会員、21世紀音楽の会会員ほか。
  近作(作品番号を付しているもののみ): 管弦楽のための《昼Ⅴ》op.53(2006)、クラリネットとピアノのための《11の顔》op.54(2007)、二面の二十絃筝のための《昼Ⅵ(断章)》op.55(2008)、《鳥籠の中の変貌/室内協奏曲》op.56(2008-)、2台のピアノのための《異議申し立て》op.57(2003/10)、《昼Ⅶ/ほとんど協奏ソナタ》op.58(1992-2010)、5楽器のための曲集《波はささやき》op.59(2011-)、スネアを伴うクラリネットと紙をプリペアードされたハープのための《音響版画》op.60(2012)、弦楽四重奏のための《第2アリア…》op.61(2015-16)、3楽器のための《昼Ⅷ》op.62(2011-17)、《工房より》op.63(2016-)



【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)


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by ooi_piano | 2017-09-17 18:56 | POC2017 | Comments(0)