7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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c0050810_18543645.jpgフィンランド独立100周年~シベリウス没後60周年記念

日本シベリウス協会 Japanin Sibelius Seura
《ピアノで紡ぐシベリウスの管弦楽の世界》
2017年7月2日(日) 14時
開演(13時30分開場)
マルシャリンホール(飯野病院7F 調布駅東口すぐ)

大井浩明(ピアノ独奏)    
新田ユリ(お話/指揮者・日本シベリウス協会会長)

シベリウス協会会員 1000円/一般 2000円
申込み: info[at]sib-jp.org (6月20日締切)



c0050810_18562452.jpg吉松隆:タピオラ幻景 Tapiola Visions Op.92 (2004) ピアノ(左手)のために──舘野泉に捧ぐ(約20分)
 I.光のヴィネット Vignette in Twilight - II.森のジーグ Gigue of Forest - III.水のパヴァーヌ Pavane for Water - IV.鳥たちのコンマ Commas of Birds - V.風のトッカータ Toccata in the Wind

●J.シベリウス(米沢典剛編曲):交響曲第6番 ニ短調 Op.104 (1923/2017、世界初演) (約30分)
 I.Allegro molto moderato - II.Allegretto moderato - III.Poco vivace - IV.Allegro molto

  (休憩15分)

●J.シベリウス(米沢典剛編曲):交響曲第7番 ハ長調 Op.105 (1924/2016、世界初演) (約20分)
 Adagio - Vivacissimo - Adagio - Allegro molto moderato - Allegro moderato - Presto - Adagio - Largamente molto - Affettuoso

●J.シベリウス(米沢典剛編曲):交響詩「タピオラ」 Op.112 (1925/2017、世界初演) (約18分)
 Largamente - Allegro moderato - Allegro


協会ページ  FBページ



《一筆書きの先は・・・》───新田ユリ

c0050810_19231264.jpg 同じ瞬間は二度とない・・・音の現場の真実。録音媒体などなかった昔は、聴衆の記憶により深く刻まれる工夫を作曲家たちは様式の中で行っていた。実際その昔、拍手喝采になった作品や楽章はその場で繰り返し演奏された。“同じことの繰り返し”これは、とても人工的なこと。自然界にはそれはあり得ない。

 交響曲第7番、弦楽器が全員で登りゆく音階の階段、その始まりは耳に届いてくるチェロの音ではない。耳を澄まし聞こえてくるティンパニが奏でる一つの音、“ト音―ソ”。そして続くラーシードーレーミーファーソ・・・遅れて半拍のズレを持って同様に階段を上るコントラバスが消えかけるころ、冒頭で確信的な“ソ”を奏でたティンパニがもう一度“ソ”を提示。前世紀の作品であれば迷いなく次は“ハ音―ド”にゆき、「弦楽器御一行様お疲れ様でした。到着駅“ド”でございます~このハ長調の街は・・」などと、やおらバチを拡声器に持ち替え喉を鳴らすティンパニ奏者の姿が目に浮かぶ。しかし、旅はそう簡単ではない。音階は穏やかなハ長調から逸脱し、さらに上り到着点は“変ホ音―ミ♭”。ハ長調の世界には通常存在しない音・・・これは曲が始まってわずかに3小節の時間の出来事。そしてその25分ほど後には、全員で“ド”の音に解決。C-Dur ハ長調の完成。無事にハ長調の街に到着。

 このシンプルな音の旅は途切れることなく、まるでフィンランド鉄道の車窓を見るかのように 変わらぬ風景の中いつの間にか目的地にたどり着く。列車シベリウス号の旅としようか・・・。

  ─・─・─

c0050810_19244615.jpg 交響曲の最後の三曲、第5番、第6番、第7番は着想が同じ時期と言われる。作曲のスケッチを調べるとその軌跡が残る。シベリウスを支え続けたカルペラン男爵が病の床に会った1918年、すでに第5番を書き上げたシベリウスは、その恩人を励ますために「新しい作品の構想がある」「それは人生の喜びと活力に満ちている」「ギリシャ風(Hellenic)ロンドを持つ」そんな未来への夢を記した手紙を送っている。ギリシャ風HellenicとはCarl Snoilsky(1841-1903)の詩、ギリシャ神話を基にしたSteropeに書いた歌を指す。そのスケッチ譜にはこの第7番につながるモチーフが登場。歌のスケッチも長い階段を上り下りしている。

 そして第7番を構築している間に、第8番の姿がそのスケッチに記されているという。しかし“シベリウス号”は、第8番にはたどり着かなかった。 

 最後の停車地はもう一つの路線、“交響詩”の終着、“タピオラ―森の神の棲むところ”となった。

 そこは人の手の届かぬ原始の森。

  ─・─・─

 「友など持たぬ方が賢明だ・・・人皆一人で死んでゆく・・・酒だけが唯一の友・・」1924年の11月、シベリウスがコペンハーゲンで第7番の演奏会を指揮し大成功を収めてまもなくの作曲家自身の言葉。

 60歳になろうとするシベリウス、後世の我々はこの後“30年の沈黙”の入り口に向かうことを知っているが、その事実の内側を知ることは許してもらえるだろうか・・・。

  ─・─・─

c0050810_19252651.jpg 1924年、第7番がストックホルムで3月24日に初演された時、この荘厳な究極の交響曲を指揮するマエストロ・シベリウスの心中はまったく穏やかならぬもの。この旅は愛妻アイノの最後通告ともとれるメッセージを受け取った後、一人旅となっていた。当時の夫シベリウスは手の震えを抑えるための飲酒が様々な悪影響を及ぼしていた。そして性格の弱さと飲酒癖という大作曲家が抱えていた大問題は第7番の完成にも時間を要することになり、“あなたの人生の伴侶”という署名を持って嘆願書のごとくシベリウスに改心を求めたアイノ夫人の行動は胸をうつものがある。しかしそれは第三者の意見、当事者の夫は、愛妻賢妻アイノの言葉に打ちのめされてしまった。それに加え、シベリウスより三歳若い作曲家、オスカル・メリカントが2月17日に亡くなった。メリカントはシベリウスの作品に親近感を持ち評価をしていた。この出来事もシベリウスに大きなダメージを与えた。

 それでも何とか3月2日にこの作品を完成させ、ストックホルムに渡った。かの地での成功を持って帰国したシベリウス。ところがヤルヴェンパーの地に帰るや否や「私の人生はまもなく終わる・・恐ろしい不安の始まり・・」などの言葉が記された。作曲の霊感が消えてゆくこと、体力の衰え、手の震えの問題、アイノ夫人との擦れ違い。

 そんな状況でも作曲家シベリウスを求める外からの声は増えてゆく。9月23日に、再びアイノ夫人は同行せず、シベリウスは一人でコペンハーゲンへ。そこではシャンパンだけを飲み、美食の楽しみもあったようだ。新たな交流も生まれ、やや上流志向のあるシベリウスにとっては居心地が良い旅の面もあった。コペンハーゲンでも大成功。しかし交響曲第7番を自ら指揮すること、それがシベリウスを疲労困憊させた。医師の勧めもありしばらく指揮活動は休止。再びシベリウスの魂は閉じこもり「酒が唯一の友達」この言葉が綴られることとなる。

  ─・─・─

 人生の一本道、立ち止まってしまったシベリウス。

 時折昔の作品を振り返りながらも、もう一歩踏み出した。そこが“タピオラ”森の神の棲むところ。

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c0050810_19272315.jpg 最後の交響曲-第7番、そして最後の交響詩―タピオラ。

 この二つの作品のどちらも、初めの一音と最後の一音が多くを語る。

 “ト音―ソ”で始まり、ハ長調の世界を明朗な気分で清潔な大気の中を歩むはずが、たった一音の踏み外しからその先、一本道を多くの困難を体験しながら、停まることはあっても決して道を戻らず、楽器がまるでお互いに手を差し伸べつなぎ受け継ぐような見事な一筆書きの音符の先に、全員が“ハ音―ド”にたどり着く。

 一方の“タピオラ”も、やはりティンパニの一音が森の言葉を告げる。それは“ロ音―シ”。清冽で明解なハ長調は人の思考の整理を感じる。しかし“ロ音-シ”で始まり、最後にロ長調-H durの弦楽の響きが悠久の時間を描くとき、そこは人が完全には理解できない、そして踏み入ってはいけないもう一つの神秘の道が続いていることを気づかせてくれる。

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 タピオラの森に姿が見えなくなったシベリウス号は、走り続けたのだろうか。

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c0050810_19290100.jpg 見てないもの、聞いていないものが自分の周りにあふれている昨今。撮りダメした番組、とりあえずアイポッドに入れておいた無数の音楽、体験していない他人の情報の山。作品の人格がもし自立していたらいったい彼らはなんと発言しただろう・・・。

 一期一会のもの、その慣用句をヒト社会はあたたかく使う。しかし二度と会えないもの、二度と同じ状況がないことの連続の先に何があるのか・・・一筆書きの先・・・そこには厳しい自然の、命の掟がみえる。



初出/アイノラ交響楽団第10回定期演奏会プログラム
参考文献/Andrew Barnett "Sibelius"(2007, Yale University Press), Jean Sibelius Sämtliche Werke [JSW] Kritischer Bericht (Breitkopf und Härtel)






ラハティ地方の風景(写真/新田ユリ)
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【ピアノ独奏による交響曲/管弦楽曲公演】

■J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV 244 (S.ヤダスゾーン編独奏版) [2011.03.31] [closed]

■F.J.ハイドン:交響曲第100番 ト長調 『軍隊 Militärsinfonie』 (1793/94)、第101番 ニ長調 『時計 Die Uhr』 (1793/94)、第103番 変ホ長調 『太鼓連打 Mit dem Paukenwirbel』 (1793/94)、第104番 ニ長調 『ロンドン Londoner Symphonie』 (1795) [2013.05.07] [closed]

■W.A.モーツァルト:交響曲集
 ○交響曲第23番 ニ長調 K.181(162b) (1773)、第26番 変ホ長調 K.184(161a) (1773)、第31番 ニ長調『パリ』 K.297(300a) (1778)、第32番 ト長調『序曲』 K.318 (1779) [F.ブゾーニ編独奏版]、第33番 変ロ長調 K.319 (1779)、第34番 ハ長調 K.338 (1780) [2013.03.11] [closed]
 ○交響曲第25番 ト短調 K.183(173dB) (1773)、第29番 イ長調 K.201(186a) (1774) [2012.11.26] [closed]
 ○交響曲第35番ニ長調 《ハフナー》 KV 385 (1782)、第36番ハ長調 《リンツ》 KV 425 (1783) 、第38番ニ長調 《プラハ》 KV 504 (1786)(A.ホルン編独奏版) [2009.12.12] [closed]
 ○交響曲第39番変ホ長調 KV 543 (1788)、第40番ト短調 KV 550 (1788)、第41番ハ長調 《ジュピター》 KV 551 (1788) (A.ホルン編曲独奏版) [2009.11.21] [closed]
 ○セレナード第7番ニ長調K.250(248b) 『ハフナー・セレナード』 (1776) より第1/5/6/7/8楽章、セレナーデ第9番 ニ長調 K.320 『ポストホルン・セレナーデ』 (1779)、セレナーデ第13番『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ト長調 K.525 (1787) [2012.11.26] [closed]
 ○レクイエム ニ短調 K. 626 (1791) (Brissler編独奏版)、クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 (1789)(P.Wagner編独奏版) [2011.02.14] [closed]
 ○二台ピアノのための協奏曲(第10番)変ホ長調 K.365/316a (1779)(フンメル編独奏版)、ピアノ四重奏曲第1番ト短調 K.478 (1785)(独奏版)、《エジプト王ターモス》K.345/366a より終曲「そなたら塵芥の子らよ」(1779)(アルカン編独奏版)、ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466 (1785)第1/第3楽章(アルカン編独奏版/アルカンによるカデンツァ付) [2013.04.08] [closed]
 ○歌劇《イドメネオ》K.366 (E.F.リヒター編独奏版) [2010.10.28]、歌劇《後宮からの誘拐》K.384 (R.メッツドルフ編独奏版) [2010.07.23]、オペラ・ブッファ《フィガロの結婚》K.492 (ピアノ独奏版) [2010.04.26]、歌劇≪ドン・ジョヴァンニ≫K.527 (ピアノ独奏版) [2010.06.22]、オペラ・ブッファ《女はみなこうしたもの》K.588 (R.メッツドルフ編独奏版) [2010.08.20]、歌芝居《魔笛》K.620 (ピアノ独奏版) [2010.05.31]、歌劇《皇帝ティトゥスの慈悲》K.621 (ピアノ独奏版) [2010.11.29] [closed]

■L.v.ベートーヴェン:交響曲集(F.リスト編)
 ○交響曲第1番ハ長調Op.21(1799/1800) R 128/1, SW 464/1、第2番ニ長調Op.36(1800/02) R 128/2, SW 464/2(使用楽器:1846年製ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー) [2008.07.31]
 ○第9番ニ短調Op.125「合唱(Choral)」(1815/24) R 129/9, SW 464/9(使用楽器:1852年製エラール)[2009.03.25]


■R.ワーグナー:《神々の黄昏》第3幕「ジークフリートの葬送行進曲」(ブゾーニ編独奏版) [2012.12.23]、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲(タウジッヒ編連弾版) [2012.08.31]

■J.ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68 (1876)+第2番ニ長調 Op.73 (1877) (O.ジンガー編独奏版)+《大学祝典序曲 Op.80》(R.ケラー編独奏版) [2013.12.22]、交響曲第3番ヘ長調 Op.90 (1883)+交響曲第4番 ホ短調 Op.98 (1884/85) (O.ジンガー編独奏版)+《悲劇的序曲 Op.81》(R.ケラー編独奏版)[2013.12.29]

■A.ブルックナー:交響曲第7番(作曲者+ヒュナイス編独奏版)[2012.12.23]、交響曲第8番(シャルク編連弾版)[2015.04.05]、交響曲第9番(F.レーヴェ編独奏版)(その1その2) [2015.11.23]

■G.マーラー:交響曲第1番《巨人》(ステルヌ編独奏版) [2015.4.26]《花の章》(米沢典剛編独奏版) [2017.6.7]交響曲第2番《復活》(ベーン編二台ピアノ版) [2015.5.22]、交響曲第3番第2楽章(フリードマン編独奏版)/第3楽章(ヴェス編連弾版)/第4楽章(ステルヌ編独奏版)/第5楽章(ヴェス編連弾版)/第6楽章(ステルヌ編独奏版) [2015.01.17 / 2015.04.05 / 2015.04.26 / 2015.05.22]、交響曲第4番(ヴェス編連弾版) [2014.3.2]、交響曲第5番(ジンガー編独奏版/第4楽章杉山洋一編) [2014.12.21]、交響曲第6番《悲劇的》(ツェムリンスキー編連弾版) [2014.3.2]、交響曲第7番《夜の歌》(カゼッラ編連弾版) [2012.8.31]、交響曲第8番《千人の交響曲》(ヴェス編連弾版) [2015.04.05]、交響曲第9番(ブライアー編独奏版) [2015.7.12]、交響曲《大地の歌》《亡き子をしのぶ歌》《リュッケルト歌曲集》(作曲者編ピアノ伴奏版)(その1その2) [2015.12.13]、交響曲第10番(アダージョ)(スティーヴンソン編独奏版) [2015.4.26]

■C.ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(1891/94)(L.Borwick編独奏版)[2014.08.27]、舞踊詩「遊戯」(1912/13)(作曲者編独奏版)[2016.06.18]

■R.シュトラウス:《薔薇の騎士》終幕二重唱(1910)(グレインジャー編独奏版)[2016.04.17]、《サロメ》最終場面(1905)(ソラブジ編独奏版)+《4つの最期の歌》(1949)(作曲者編ピアノ伴奏版)[2016.06.17]、交響詩《ドン・ファン》(1888)(O.ジンガー編二台ピアノ版)[2004.03.06]

■A.シェーンベルク:《浄められた夜 Op.4》(1899)(ゲシュテール編独奏版)+室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)(シュトイアーマン編独奏版)+室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/39)(米沢典剛編独奏版)[2016.10.10]、《管弦楽のための変奏曲 Op.31》(1928)(アンゾリーニ編独奏版)+《モーゼとアーロン》より「黄金の仔牛の踊り」(1932)(川島素晴編独奏版) [2015.10.25]、《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34》(1930)(米沢典剛編独奏版) [2016.11.16]、《月に憑かれたピエロ Op.21》(1912)(E.シュタイン編ピアノ伴奏版) [2010.07.31]、《ペトラルカのソネット Op.24-4》(1922/23)(F.グライスレ編ピアノ伴奏版)+《ワルシャワの生き残り》作品46 (1947) (K.フレデリック編ピアノ伴奏版) [2007.06.10]

■M.ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲(1909/12)(L.ロック編連弾版)+舞踊詩「ラ・ヴァルス」(1919/20)(A.イハレフ編独奏版)[2016.07.16]




■A.ウェーベルン:管弦楽のための《パッサカリア Op.1》(1908)(杉山洋一編独奏版)[2014.02.23]、《交響曲 Op.21》(1928)(米沢典剛編独奏版)[2016.11.16]


A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(ショスタコーヴィチ編二台ピアノ版)交響的断章「パシフィック231」(1923)(キングマン編二台ピアノ版) [2015.03.13]

D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(作曲者編二台ピアノ版)[2014.9.12]、交響曲第5番第4楽章(L.アトフミヤン編連弾版)[2014.03.02]

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【動画】 ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄(Eroica)」(1802/03) R 128/3, SW 464/3 より 第1楽章 Allegro con brio /使用楽器: ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー (1846年ウィーン製) 85鍵(AAA~a4) アングロジャーマン・アクション




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by ooi_piano | 2017-06-08 14:22 | コンサート情報 | Comments(0)
c0050810_14332910.jpg──朗読、バロックバイオリン、通奏低音の演奏で辿る聖母マリアの秘蹟──
H.I.F.v.ビーバー(1644-1704):《ロザリオのソナタ》(全16曲、1674) [二夜連続公演]
2016年12月28日(水)&29日(木) 18時30分開演(18時開場)
横浜・末吉町教会 (横浜市中区末吉町1丁目13)
 [京急線・日ノ出町駅出口から徒歩約4分/黄金町駅出口から徒歩約7分/ブルーライン伊勢佐木長者町駅6B出口から徒歩約8分]

[第一夜 12月28日(水)18時30分開演]
 〈キリストの誕生〉 - 喜びの神秘 Der freudenreiche Rosenkranz -
 第1番「お告げ」 - 第2番「訪問」 - 第3番「降誕」 - 第4番「キリストの神殿への拝謁」 - 第5番「神殿における12歳のイエス
 〈受難〉 - 哀しみの神秘 Der schmerzhafte Rosenkranz -
 第6番「オリーヴ山での苦しみ」 - 第7番「むち打ち」 - 第8番「いばらの冠」

[第二夜 12月29日(木)18時30分開演]
 第9番「十字架を背負うイエス」 - 第10番「イエスのはりつけと死
 〈復活〉 - 栄光の神秘 Der glorreiche Rosenkranz -
 第11番「復活」 - 第12番「昇天」 - 第13番「聖霊降臨」 - 第14番「聖母マリアの被昇天」 - 第15番「聖母マリアの戴冠」 - 終曲「守護天使」





c0050810_6592793.jpg【出演】
朗読:濱田壮久神父
バロックバイオリン:阿部千春
オルガン:大井浩明
テオルボ:蓮見岳人


【チケット】全自由席 一回券 5000円 一般通し券 8000円/学生券一回券 4000円 学生通し券 7000円
【申し込み・問い合わせ】 03-6411-1997 yurikaviolin[at]kvj.biglobe.ne.jp (辻)

チラシpdf  FB公式ページ  FBイベントページ



c0050810_12511257.jpg濱田壮久神父 (朗読)
  逗子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、東京カトリック神学院に入学。2007年司祭叙階。横浜司教館、千代田・八幡・静岡教会助任を経て2011年5月、ザンクトゲオルゲン哲学・神学大学大学院(ドイツ・フランクフルト)に留学。留学中、ケルン大司教区ケルン日本人共同体、デュセルドルフ日本人共同体、リンブルク教区フランクフルト日本人共同体、マインツ教区バード・ナウハイムフィリピン人共同体を司牧。2015年7月、松本カトリック教会協力司祭。2016年4月より港南カトリック教会、末吉町カトリック教会主任司祭、聖母幼稚園宗教主事。


c0050810_1251524.jpg阿部千春  (バロックヴァイオリン)
  塩川庸子氏、尾島綾子氏、前澤均氏、金倉英男氏、村上和邦氏、菊地俊一氏に師事。武蔵野音楽大学卒業後、ドイツ・シュツットガルト国立音楽大学でスザンネ・ラウテンバッハー氏に師事。在日中より菊地俊一氏、永田仁氏を通して古楽に関心を持っており、1994年トロッシンゲン国立音楽大学古楽科に入学、バロックヴァイオリンをジョルジオ・ファヴァ氏に師事。ディプロム終了後、同大学院にてフランソワ・フェルナンデス、エンリコ・ガッティ、ジョン・ホロウェイ各氏のもとで研鑽を積む。
  1999年、ドイツ産業連盟・ドイツ財界文化部主催の”古楽・弦楽器コンクール”にて特別奨励賞を受賞。大学院修了後、スコラカントルム・バジリエンスィス(バロックヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ)、ケルン国立音楽大学(古楽科室内楽専攻)に在籍。在学中より、オーケストラ/室内楽奏者、ソリストとして数多くの演奏会、CD、各地放送局の録音に参加、ヨーロッパ各国に活動範囲を広げる。現在、ドイツ・ケルンに在住。ヴィオラ・ダモーレ奏者としても活動。コンチェルトケルンでは演奏の他、資料研究も担当。国内においては2009年から2012年にかけて大井浩明氏とのモーツァルト・ヴァイオリンソナタ全曲シリーズを完結。2013年にはバッハのヴァイオリン無伴奏全曲演奏会を開催する。


c0050810_1253398.jpg蓮見岳人  (リュート・テオルボ )
  奈良生まれ。京都大学文学部史学科卒業後、リュートを佐々木政嗣氏に師事。 1991年、ドイツに移り、ケルン音楽大学に入学、コンラート・ユングヘーネルに師事。 1997年首席卒業後、フランクフルト音楽大学で今村泰典氏に師事。さらに、ロルフ・リースルヴァント、ロバート・スペンサー、ロバート・バルトー各氏の講習会に参加。 室内楽をシェティル・ハウグザンド、ライナー・ツィッパリン、ミヒャエル・ショッパー、ミヒャエル・シュナイダーに師事。その後再びケルン音楽大学で歴史的室内楽の課程を修了、国家演奏家の資格を取得。
  西南ドイツ放送局交響楽団、ケルン・ギュルツェニヒ交響楽団、カールスルーエ・ヘンデルフェスティヴァル・オーケストラ、オランダ・ヒルヴェルスム放送室内管弦楽団(フランス・ブリュッヘン)、フローニンヘン・北オランダ交響楽団、アムステルダム歌劇場オーケストラ(ロイ・グッドマン)、エンスヘデ・オランダ交響楽団、オペラ・ネーデルランス、ケルン室内管弦楽団、コンチェルト・ケルンなどとこれまで共演。 ソロおよび通奏低音奏者として主にドイツ、オランダ、日本で幅広く活動している。



【使用楽器】
ヴァイオリン
作者不詳 南ドイツ 1700年頃
作者不詳 ブレシア? 1690年?
作者不詳 ブレシア/北イタリア 17世紀前半
作者不詳 ドイツ 1800年頃 (辻有里香氏所蔵)
テオルボ
M. Tieffenbrucker (1620年頃)モデル、2004年 Andreas von Holst 製作
バロックテオルボ(ニ短調調弦)として使用。
ポジティフオルガン
   ガルニエ社制作、1999年


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ハインリヒ・イグナツ・フォン・ビーバー:《ロザリオのソナタ集》
Heinrich Ignaz Franz von Biber: Rosenkranzsonaten


【第一夜】 12月28日(水)

「キリストの誕生」− 喜びの神秘 −
Der freudenreiche Rosenkranz

c0050810_6412089.jpg第1番 お告げ ニ短調
Die Verkündigungd-Moll
スコルダトゥーラなし senza scordatura : g - d' - a' - e"
Praeludium – Variatio / Aria allegro /Variatio / Adagio – Finale


c0050810_6413560.jpg第2番 訪問 イ長調
Die HeimsuchungA-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : a - e' - a' - e"
Sonata (– Presto) – Allaman(de) – Presto          


c0050810_6415367.jpg第3番 降誕 ロ短調
Geburt Christih-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : h - fis' - h' - d"
Sonata (– Presto – Adagio) – Courente / Double – Adagio


c0050810_642830.jpg第4番 キリストの神殿への拝謁 ニ短調
Darstellung im Tempel d-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : a - d' - a' - d"
Ciacona ( /Adagio / Presto / Adagio )


c0050810_6423026.jpg第5番 神殿における12歳のイエス イ長調
Auffindung im TempelA-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : a - e' - a' - cis"
Praeludium (– Presto ) – Allaman(de) - Guigue – Saraban(de) / Double




「受難」− 哀しみの神秘 −
Der schmerzhafte Rosenkranz

c0050810_6424714.jpg第6番 オリーヴ山での苦しみ ハ短調
Jesus am Ölberg c-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : as - es' - g' - d"
Lamento


c0050810_643035.jpg第7番 むち打ち ヘ長調
Geißelung Christi F-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : c' - f' - a' - c"
Allamanda / Variatio – Sarab(ande) / Variatio


c0050810_6431775.jpg第8番 いばらの冠 変ロ長調
Krönung Christi mit der DornenkroneB-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : d' - f' - b' - d"
Sonata. Adagio (– Presto) – Guigue / Double. Presto / Double 2



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12月29日(木)
「受難」− 哀しみの神秘 − (続)
Der schmerzhafte Rosenkranz

c0050810_6433466.jpg第9番 十字架を背負うイエス イ短調
Die Kreuztragung a-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : c' - e' - a' - e"
Sonata – Courente / Double – Finale


c0050810_6434625.jpg第10番 イエスのはりつけと死 ト短調
Die Kreuzigung g-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : g - d' - a' - d"
Praeludium – Aria / Variatio (– Adagio)




「復活」− 栄光の神秘 −
 Der glorreiche Rosenkranz

c0050810_644182.jpg第11番 復活 ト長調
Auferstehung Christi G-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : g - g' - d' - d"
Sonata – Adagio – Surexit Christus hodie (Choralpartita) − Adagio


c0050810_644137.jpg第12番 昇天 ハ長調
Himmelfahrt Christi C-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : c' - e' - g' - c"
Intrada – Aria Tubicinum – Allamanda – Courente / Double


c0050810_6443187.jpg第13番 聖霊降臨 ニ短調
Sendung des Heiligen Geistes d-Moll
スコルダトゥーラ scordatura : a - e' - cis" - e"
Sonata – Gavott(e) – Guigue – Sarabanda


c0050810_6444519.jpg第14番 聖母マリアの被昇天 ニ長調
Himmelfahrt Mariä D-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : a - e' - a' - d"
(表示なし) – Grave / Adagio – Aria – Aria – Guigue


c0050810_645232.jpg第15番 聖母マリアの戴冠 ハ長調
Krönung Mariä im Himmel C-Dur
スコルダトゥーラ scordatura : g - c' - g' - d"
Sonata – Aria – Canzon – Sarabanda


c0050810_6452413.jpg終曲 パッサカリア 守護天使 ト短調
Passagalia Der Schutzengel g-Moll
スコルダトゥーラなし senza scordatura : g - d' - a' - e"
Passagalia



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 15のロザリオの秘跡をテーマにしたこのソナタ集は(16曲のソナタからなっています)音楽史上特異な位置を占める作品です。現在唯一残っている原典はドイツ・ミュンヘンのバイエルン州立図書館に保存されており、1905年に現代譜として出版されるまで忘れ去られていました。

 ハインリッヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644 〜 1704) は、ヨハン・ハインリッヒ・シュメルツァー、ヨハン・ヤコブ・ワルター、ヨハン・パウル・ヴェストホーフに並ぶ17世紀のヴァイオリンの巨匠です。北ボヘミアのヴァルテンブルク (現チェコ) に生まれました。シュメルツァーの元で研鑽を積んだと言われ、1668年から1670年の間クロムニェジーシュ のカール・リヒテンシュタイン−カステルコルノ公に仕えていました。公の注文した楽器を受け取りに、当時一番とされていたヴァイオリン製作家シュタイナーの工房へ出発した彼は、そのまま無断でザルツブルクに向かいそこの宮廷楽団の仕事を得ます。作曲家としても活躍した彼は、宮廷のみならず教会のためにも作品を残しています。大司教庁1100年記念の1682年に書かれた53声部のザルツブルク大聖堂祝典ミサ曲は、イタリア建築様式の大聖堂の構造を生かしたヴェネチア・複合唱様式の傑作です。

 大司教の街ザルツブルクは地理的・政治的特殊性を生かし、文化の中心のひとつとして賑わっていました。前任者の絶対君主制を引き継いだ大司教マクシミリアン・ガンドルフ・フォン・クーエンブルク公の元では、権力の象徴としてレベルの高い楽団が結成されていました。ビーバーやムファットといった音楽家がそれぞれの持ち味を生かし活躍します。大司教は消防法や衛生法を作り市民生活の向上を図る一方、警察国家的な監視統制を敷いていました。1678年には109人が魔女狩りの犠牲として処刑され、1684年には1000人ものプロテスタント信者がザルツブルクから追放されました。
 富と権力への執着がエスカレートしていたローマ・カトリック教会への批判が高まる中、16世紀のキリスト教世界には宗教改革の波が押し寄せます。カトリック教会内においても、1534年のイエズス会の設立など、教会本来の宗教生活を取り戻そうとする運動が起こります。17世紀には反宗教改革の運動が盛んになり、その一環としてロザリオ信心会の設立が相次ぎました。
 ロザリオの祈りは13世紀に形がまとまり、初の信心会がドイツ・ケルンで1474年に結成されました。ザルツブルクでは1631年に設立され、大司教マクシミリアン・ガンドルフは1674年にそのメンバーとなります。イエズス会のギムナジウムで学んだビーバー自身も信仰熱心だったと思われ、1678年副楽長就任の際にその感謝の印としてロザリオのソナタ集を公に献呈したのではと推測されます。
 2008年、ザルツブルク大司教庁図書館でひとつの印刷物が発見されました。ロザリオ信心会入会の心得が記されている案内のようなもので、ビーバーがソナタ集に用いた15の秘跡の絵がそこにあります。長い間議論されてきたソナタ集の成立年も、この印刷物の発行年と同じ1678年とみられます。


 ロザリオの祈りは、カトリック教会において、天使祝詞「アヴェ・マリア」を繰り返し唱えながら福音書に記されているイエス・キリストの生涯などの信仰箇条を黙想していく祈りです。この信仰箇条を神秘 (玄義) と呼び、これは喜び・苦しみ・栄えの神秘と分けられています。2002年には教皇ヨハネ・パウロ2世によって「光の神秘」が付け加えられました。

 〈喜びの神秘〉 1. お告げ(受胎告知) 2. エリザベト訪問 3. 降誕 4. 主の奉献 5. 神殿にて

 〈苦しみの神秘〉 1. ゲッセマネの苦しみ 2. むち打ち 3. いばらの冠 4. 十字架 5. はりつけと死

 〈栄えの神秘〉 1. 復活 2. 昇天 3. 聖霊降臨 4. 聖母マリアの被昇天 5. 聖母マリアの戴冠 

 〈光の神秘〉 1. キリストの洗礼 2. カナの婚礼 3. 宣教のはじめ 4. 主の変容 5. 聖体の制定


 ヨハネ・パウロ2世教皇が2002年に公布した使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』によって、月・土曜日に「喜び」、火・金曜日に「苦しみ」、木曜日に「光」、日、水曜日に「栄え」の神秘が黙想されロザリオの祈りが捧げられるようになるまでは、月・木曜日は「喜び」、火・金曜日は「苦しみ」、日、水、土曜日は「栄え」の神秘が一週間ごとに各曜日に振り分けて黙想され、ロザリオの祈りが捧げられてきました。

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楽曲について

 このソナタ集は儀式に用いられる典礼音楽ではなく、私的な信心を目的にしたもので、17世紀における標題音楽の一例です。テーマとなる各神秘に関連した調性、形式、音型を用いて具体的・間接的にその情景を表しています。
 絵画的・直接的な描写は、例えば12番「昇天」冒頭のファンファーレ音型、7番「むち打ち」終わりの叩くような音型に見られます。特定のメロディー・形式の使用による情景推測の手法は、11番「復活」における復活祭賛歌「今日キリストは蘇られた」(surexit christus hodie)や、6番「オリーヴ山での苦しみ」冒頭の「ラメント」(Lamento)において使われています。3番「降誕」には9番「はりつけ」に出てくるモチーフの引用があり、誕生における”死への暗示”とも解せられます。1番「お告げ」の冒頭の音型は天使の到来を思い起こさせ、11番「復活」冒頭におけるモチーフの音高を変えての使用は天使との会話を暗示しています。

 チクルスの調性を見てみると、1番〜5番「喜びの神秘」、11番〜15番「栄えの神秘」にはシャープ系の調性が使用されています。ニ短調 (1番、4番、13番) は教会旋法のドリア調にあたり、伝統的な書法により調号は書かれていません (現在はフラットひとつで記されます) 。6番〜10番「苦しみの神秘」ではフラット系の調性が使用されています。イ短調で書かれている9番では、Finaleで属音による持続低音(ホ長調主和音) が使われています。これは教会旋法のフリギア調で哀しみ・苦しみの調として使われていました。

 特別な技法として、スコルダトゥーラ (変則調弦) が1番と16番を除く14曲に指定されています。

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 ヴィオラ・ダ・ガンバにも通じていたビーバーは、調弦法の変更には慣れていたと思われます。この技巧により、普通の調弦法 ( g - d'- a'- e" ソ、レ、ラ、ミ) では得ることのできない独特な響きを実現することができます。
 曲の調性に合わせた調弦法では開放弦が共鳴し楽器の鳴りがよくなります。また6番のような調弦法では共鳴しにくい抑えられた響きとなります。11番においては、4本の弦のうち真ん中の2本を駒の手前とペグボックスの中で交差させ、十字架の象徴としています。この調弦法によって隣り合わせの2本がオクターブとなり、メロディーのオクターヴでの演奏が簡単になります。

 またこのソナタ集には様々な形式の混合が見られます。アタナシウス・キルヒャーが言うところの「スティルス・ファンタスティクス」(Musurgia universalis 普遍音楽、1650年) による即興的なプレリュード (1番、5番、10番、14番) 、バリエーション形式の舞曲 (4番のシャコンヌ、16番のパッサカリア)。典礼を前提としていなかったのもあり、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、ガヴォットといった舞曲を多く取り入れ、当時ドイツ語圏で組曲という意味としても使われた"Partia"の形をとっています。これらの舞曲には変奏 (Variatio, Double) がついているものもあります。また、アリアとそれに続く変奏もあり、11番は復活祭賛歌"surexit christus hodie"をテーマとしています。

 15の神秘の最後に付け加えられているパッサカリアには守護天使の絵がついています。g-f-es-d ( ソ、ファ、ミ♭、レ ) の4つの音をオスティナートバスとしての( 65回繰り返されます ) 変奏曲ですが、この4つの音から成るテトラコードには守護天使への賛歌 "Einen Engel Gott mir gegeben" (ケルン、1666年) や、賛美歌 " Süßer Jesus, süßer Christus " ("dolcis christe" グランチーニ作曲、1646年) との関連を見ることができます。
 1571年10月にレパントの海戦においてトルコ軍に対して勝利を収めたことを記念し、教皇ピオ5世が10月7日をロザリオの祝日と定めました ( 10月はロザリオの月とされています)。また1670年クレメンス10世が守護天使の祝日を10月2日とし、ロザリオの祝日と守護天使の祝日を一緒に祝う習慣があったと言われます。ビーバーはこの習慣に従い、最後に守護天使のパッサカリアを付け加えたのではと推測されます。(阿部千春)


本日の演奏について

 ピッチは時代・地域により異なっていました。1939年ロンドンでの国際会議で、a'=440Hzと定められ、現在では442〜443Hzがよく使われています。
  ビーバーの時代のハプスブルク圏では教会においてヴェネチアの高ピッチ、宮廷などその他でそれよりも半音低いピッチが使われることが多かったのですが、ザルツブルクにおいては高ピッチ(約465Hz) が一貫して使われていたようです(ブルース・ヘインズ著 "A history of performing pitch" より)。 本日の演奏ではこのピッチを採用しています。
 また使用するヴァイオリンには当時のセッティングと同様、金属の巻線なしでのガット弦、弓はザルツブルク大聖堂で発見された17世紀の弓のコピーを用い、当時に近い響きを想定しています。


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【過去の公演】
2015年9月7日 《17世紀イタリア・ヴァイオリン音楽の精華》
阿部千春(バロック・ヴァイオリン)+大井浩明(チェンバロ)

●ビアージョ・マリーニ (1594-1663):ヴァイオリンのための変奏ソナタ第3番 (1629)
●ジョバンニ・バッティスタ・フォンターナ (1589?-1631):ソナタ第6番 (1641)
●カルロ・ファリーナ (c.1600-1639):ソナタ “ラ・デスペラータ”(1628)
●マルコ・ウッチェリーニ (c.1610-1680):ソナタ第3番 “ラ・エブレア・マリナータ”(1645)
●ジョバンニ・アントニオ・パンドルフィ・メアッリ(1624-c.1687):ソナタ “ラ・クレメンテ” 作品3-5 (1660)
  (休憩)
●アンジェロ・ベラルディ (c.1636-1694):カンツォーネ第1番作品7 (1670)
●アレッサンドロ・ストラデッラ (1639-1682):シンフォニア第6番(1670s)
●カルロ・アンブロジオ・ロナーティ (c.1645-c.1712):ソナタ第5番(1701)
●アルカンジェロ・コレッリ (1653-1713):ソナタ作品5-10 (1700)


2009年7月25日 W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのパリ・ソナタ集 (全6曲、1778)
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)

●ト長調K.301 (293a) 全2楽章
●変ホ長調K.302 (293b) 全2楽章
●ハ長調 K.303 (293c) 全2楽章
 (休憩)
●ホ短調 K.304 (300c) 全2楽章
●イ長調 K.305 (293d) 全2楽章
●ニ長調 K.306 (300l) 全3楽章


2010年10月13日 W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのアウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲) (1778/81)
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)

●ヘ長調K.376(374d) 
●ハ長調K.296
●ヘ長調K.377 (374e)
 (休憩)
●変ロ長調K.378 (317d)
●ト長調 K.379 (373a)
●変ホ長調 K.380 (374f)


2012年2月10日 ピリオド楽器によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ全曲シリーズ 最終回
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)

●ソナタ第40番 変ロ長調 K.454 (1784/1784出版)[全3楽章] Largo/Allegro - Andante - Allegretto
●フランスの歌《羊飼いの娘セリメーヌ》による12の変奏曲 ト長調 K.359(374a) (1781/1786出版)
●ソナタ第41番 変ホ長調 K.481 (1785/1786出版)[全3楽章]
 (休憩)
●《泉のほとりで》による6つの変奏曲 ト短調 K.360(374b)(1781/1786出版)
●ソナタ第43番 ヘ長調 K.547 (1788)[全3楽章]
●ソナタ第42番 イ長調 K.526 (1787/1787出版)[全3楽章]
●ソナタ第39番 ハ長調 K.404(385d)(1782)[全2楽章]
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by ooi_piano | 2016-12-24 14:34 | コンサート情報 | Comments(0)
連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)


c0050810_10102442.jpg【第三回】2016年8月20日(土)午後6時開演 (午後5時半開場)

●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):スケルツォ(1902) 2分
:4つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
:バレエ音楽「火の鳥」より3つの場面(1910)〔グイド・アゴスティ(1901-1989)による独奏版〕 12分
  魔王カスチェイの凶悪な踊り - 子守歌 - 終曲
:ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
:ドイツ人の行進曲の思い出(1915) 1分
:3つの易しい小品(1915) 4分
  行進曲 - ワルツ - ポルカ
:子供達のワルツ(1917)  1分


  (休憩10分)

●イーゴリ・ストラヴィンスキー:交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、日本初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気
:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
●モデスト・ムソルグスキー(1839-1881):《ボリス・ゴドノフ》序幕より民衆の合唱「なぜ我らを見捨てられるのか、我らが父よ!」(1869/1918)(ストラヴィンスキーによる独奏版、日本初演) 1分
●イーゴリ・ストラヴィンスキー:ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
:管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、日本初演) 8分

  (休憩10分)

●中田粥(1980- ):ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱新作初演)  10分
●イーゴリ・ストラヴィンスキー:5本の指で(1921) 8分
  I. Andantino - II. Allegro - III. Allegretto - IV. Larghetto - V. Moderato - VI. Lento - VII. Vivo - VIII. Pesante
:ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
:イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
:タンゴ(1940) 3分
:仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分


c0050810_10114396.jpg中田粥:ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱初演)
  この作品ではピアノを、振動を発生させる装置と捉え直す。楽器とはそもそも振動を聴覚化させる装置であって、音楽は振動が聴覚化した一つの現象にすぎない。そして譜面とはその現象を再現するためのものであるが、実際の演奏で再現されること自体は確率の問題である。この作品は楽器を装置と捉え直すことによって音楽の持つ、振動する現象という部分のみを抉り出す試みである。


c0050810_10122692.jpg中田粥 Kayu NAKADA, composer
  1980年東京生まれ。2006年洗足学園音楽大学音楽学部作曲科卒業。作曲作品に、交響曲《チッポのなぞなぞ》、室内楽《チッポのなぞなぞの答え》、木管五重奏曲《太陽とりさん》、《クールなカメレオンは自転車を想像する》、ヴァイオリン・フルート・ドラム・ギターのための《クールなカメレオンは自転車を想像する Ⅱ》等。舞台音楽の作曲、ミュージカルのバックバンド、即興演奏活動などを経て2013年、サーキットベンディングの一種、電子楽器数台分の剥き出しにされた回路基板を用い、「バグシンセ」「bugsynthesizer」と名付けてリアルタイムに電子回路をショートさせる方法で演奏活動を開始。参加グループ:《《》》(metsu)、相ieトtナ(略)、zzzt、そばうどん。 公式サイト: http://www.kayunakada.com




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ディアギレフと三人の作曲家たち
<ストラヴィンスキーをめぐって> もうひとりのwith Diaghilev賛 ─────山村雅治


Мы за все твои сироты Беззащитные, Ах да мы тебя-то Просим, молим со сле зами, Со горучими.
 われらは皆みなし児、よるべなきみなし児。ああ、われらは汝に願う、祈る、涙とともに、熱い涙とともに。     (ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)


1

c0050810_8251939.gif  稀代の興行師・ディアギレフという呼び名にはいささかの抵抗がある。彼は興行師にはちがいないけれども、バレエ・リュスの公演を打つ年ごとに「あたらしい」ものを展開した興行師としては、彼はいつも金がなかった。公演に資金を出してくれるロシアの王族や貴族たちに絶えず無心していた。その名の通りの「興行師」なら、濡れ手に粟のぼろ儲けをしなければならない。しかし、かつて彼は一度も儲けたためしがなく、無一文のうちに生を閉じた。金があったのは生涯でただ一度、生後3ヶ月で亡くなった母の遺産を受け継いだときであり、一部を使えるようになった1891年からの学生時代であり、それも乳母を養い、義弟たちを育てるために費やさなければならなかった。
  1895年の夏、翌年から美術批評を書き、芸術に関わる仕事を始めることになる、まだ23歳だった彼は義母に手紙を書いている。そこには醒めた自己分析がある。「まず、僕は大ペテン師です。ただし天才的な。第二に、強力な誘惑者です。第三に、度胸があります。第四に、かなり理屈っぽいですが、主義主張はほとんどありません。第五に、才能はないみたいです。でも、僕は真の天職を見つけました。芸術家のパトロンになることです。いろいろ恵まれています。無いのは金だけです。Mais ça viendra (でも、いずれはいってくるでしょう)」。
  バレエ・リュスを率いることになったのちも、この楽天性は生涯かわらなかった。セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は「生活、そんなものは家来にまかせておけ」という芸術家の気質を生涯もっていた。そして、いつも金がない興行師であるよりも、「偉大な総合芸術の企画者・制作者」だった。

c0050810_8263620.jpg  バレエ・リュスのパリでの公演は1909年にはじまり、ディアギレフが没する1929年まで続いた。ディアギレフの熱い旋風が巻き込んでいった美術家は、初期のバクストやブノワから、やがてアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、モーリス・ユトリロ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、マリー・ローランサン、ココ・シャネルら、当時の絵画とファッションの前衛たちの名が並ぶ。
  また、作曲家・編曲家にはチャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、チェレプニン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらロシアの作曲家のほか、ドビュッシー、ラヴェル、アーン、シュミット、フォーレ、サティらフランスの作曲家、ドイツの作曲家の音楽ではリヒャルト・シュトラウス、スペインのファリャも音楽を書いた。ディアギレフはシェーンベルクにもバレエ音楽を委嘱しようとしたが、これは果たせなかった。Diaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照)。

  バレエの振付は、まず古典バレエを基礎にしたフォーキン。そしてニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)が「牧神の午後への前奏曲」で革命を起こした。ニジンスキーが去ってから加入したレオニード・マシーンは団の解散後「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」で活躍し、ジョージ・バランシンも同じくモンテカルロで活動。その後アメリカに渡りバレエ学校を設立し、現在の「ニューヨーク・シティ・バレエ団」を設立した。彼らのほかにも活動の場所をアジアに定めたダンサーたちもいる。上海バレエ・リュスには、やがて小牧正英が参加し、プリンシパルとして踊った。


2

c0050810_8273161.jpg  ディアギレフと彼に関わった芸術家たちとの関係のありかたはさまざまだった。
  ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)の生理は、バレエ曲の新作を依頼した初対面のディアギレフを受け付けなかった。1909年7月、楽譜出版社のデュランに宛てて、手紙を書いている。「頼まれているバレエ曲が書けない。大体、18世紀イタリアを舞台にしたバレエをロシア人ダンサーが踊るなんて、ばかげているとしか思えない」。「ディアギレフはフランス語がよくできないので、会話はどこかぎくしゃくしたものになった」。また1912年、『遊戯』の制作過程でも「ニジンスキーと彼の子守り(ディアギレフ)がやってきた。すでに書いた部分を聞かせてくれと頼まれたが、断った。野蛮人どもが私の感性を嗅ぎ回るのは不愉快だ」。その名作をディアギレフの「数小節延ばした方がいい」という助言を受け入れて「格段に華麗に」仕上げることができても、なおドビュッシーは最後までロシア人への不信感を捨てなかった。ディアギレフのことを「石をも躍らせる恐ろしいが魅力ある男」といった彼でさえ。また、ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)は『ダフニスとクロエ』をようやくのこと上演したあと、『ラ・ヴァルス』を書いたがディアギレフにバレエ作品としての上演を却下されて、その後は関係が悪化した。

  ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)は残った。1910年の『火の鳥』から、ディアギレフが没してバレエ・リュスが終焉を迎える前年の1928年の『アポロ』まで、作品を書き続けた。それだけでなく、バランシンのバレエ団のために『カルタ遊び』(1937)、『アゴン』(1957)を書き続けた。
  1909年、バレエ・リュスを旗揚げしたあと、ディアギレフの最大の課題は、新しいロシアのバレエを創りあげることだった。ロシアの歴史、民話や伝説を題材にしての作品。アレクサンドル・アファナシエフの民話集をもとにした『火の鳥』の台本を、デイアギレフ、フォーキンらでつくりあげた台本を得て、まずリャードフに依頼したが、仕事が進まないのですぐに諦めた。イーゴリ・ストラヴィンスキーを思い出した。1909年春に、ペテルブルクの音楽院で管弦楽曲『花火』を、バレエ・リュスの振付師、主役ダンサーだったフォーキンとともに聴いて、彼を認めた。ディアギレフは深い感銘を受けた。「新しく、独創的だ。あの音づかいは大衆を驚愕させるだろう」と語っている。
  数年前からその名を知り、父・フョードル・ストラヴィンスキーはマリインスキー劇場のバス歌手であり、ディアギレフはその劇場につとめていたので親しみもあったのだろう。まもなく、イーゴリのもとにディアギレフの使いが訪れた。

  1910年6月25日 パリ、オペラ座『火の鳥』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/ピエルネ
  美術(装置・衣装)/ゴロヴィン、バクスト 
  振付/フォーキン 
  出演/カルサヴィナ、フィキーナ、フォーキン、ブルガコフ

c0050810_8283983.jpg  パリでの2回目のバレエ・リュスの演目は『謝肉祭』(シューマン)、『ジゼル』(アダン)、『シェエラザード』(リムスキー=コルサコフ)、『オリエンタル』(ロシアと北欧の音楽)に、誇らしい新作としてストラヴィンスキーの『火の鳥』が上演された。話題作はニジンスキーが踊り、バクストの美術が賞賛された『シェエラザード』だった。『火の鳥』の音楽は当時、「メロディがない。まったく音楽に聞こえない」と失笑する人もいたし、稽古中のダンサーたちには、ストラヴィンスキーが「ピアノを弾いているというよりは、壊している」ように見えた。しかし、初演時の観衆には熱狂的に迎えられ、ゴロヴィンの美術も当時のロシアの舞台美術の頂点といわれた。バレエにおいても音楽においても、バレエ・リュスは前衛芸術の世界に属していることが認められた。
  ドビュッシーも賞賛した。「完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。ときどき、まったく聞いたことのないリズムの組み合わせが聞こえます。フランスのダンサーたちは、こんな音楽に合わせて踊るのは拒むでしょう。なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です」。やはり楽譜商デュランへの手紙で。 (つづく
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by ooi_piano | 2016-08-04 10:13 | コンサート情報 | Comments(0)
つづき

3

  1911年6月13日 パリ、シャトレ座『ペトルーシュカ』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー 
  美術/ブノワ
  振付/フォーキン
  出演/カルサヴィナ、ニジンスキー、フォーキン、オルロフ、チェケッティ、ショラール

c0050810_8583415.jpg  1911年1月、ニジンスキーが帝室マリインスキー劇場を解雇され、バレエ・リュスは夏休みだけではなく一年中公演できる体制になった。すでにパリだけではなく、前年にはベルリンで、この年はモンテカルロとロンドンでも開催。4月19日のモンテカルロ公演ではニジンスキーが初めての主役を『薔薇の精』(ウェーバーの音楽「舞踏への勧誘」)で踊り喝采を博した。これはニジンスキーに「その並外れた跳躍力を披露する機会をたっぷり与える」ために構想された作品で、以後、看板作品のひとつになった。
  5月からはローマ公演。6月の『ペトルーシュカ』の稽古も同時に進められていく。しかし、振付師フォーキンは、リズムが複雑でなかなか振付ができない。ストラヴィンスキーも朝から晩までピアノの前に座り作曲を続けている。指揮者のモントゥーは「他には誰もいなかった」という理由で選ばれたのだが「その曲と作曲家にすっかり魅了されていた」。
  本番の日が来た。ニジンスキーは、いよいよ大作の主役になって『ペトルーシュカ』を踊った。フォーキンの振付の源泉はスタニスラフスキー模倣的演劇技法であり、脇役の一人ひとりに至るまでの略歴を書き「役になりきり人物を生き返らせろ」と指示した。人形芝居小屋の人形ペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人が、小屋の主である老魔術師に生命を吹き込まれる。ペトルーシュカのバレリーナへの恋心、男盛りのムーア人はむき出しの男性性をもってバレリーナの目を奪う。ペトルーシュカの嫉妬。ムーア人は邪魔者のペトルーシュカを追い回し、ついに刀で斬り殺す。魔術師は彼を修理しようとするが、とつぜん芝居小屋の上にペトルーシュカの幽霊が現われる。魔術師にむかってこぶしを振り上げると魔術師は逃げ出してしまった。ニジンスキーに与えられた振付にはほとんど跳躍はなく、自分の役者としての才能だけが頼りだった。そして見事に成功した。


4

  1913年5月29日 パリ、シャンゼリゼ劇場『春の祭典』
  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー
  振付/ニジンスキー
  美術/レーリッヒ
  出演/ピルツ

c0050810_8591983.jpg  『火の鳥』を書いているさなかに、ストラヴィンスキーは幻を見た。
  「サンクトペテルブルクで『火の鳥』の最後のページを仕上げていた頃のある日、束の間の幻をみた。私は他のことで頭がいっぱいだったので、その幻の出現には仰天した。空想の中で、私は荘厳な異教の儀式をみた。輪になって座った老賢者たちが、若い娘が死ぬまで踊るのをみていた。春の神を喜ばせるために、彼らは娘を生贄にしていたのだ」。(『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳)。引用元の書物には同じ内容の言葉に続いて「『春の祭典』の主題だった」。と付け加えられる。(Chroniques de ma vie by Igor Stravinsky , Éditions Denoël et Steele, 1935 。邦訳は『私の人生の年代記』イーゴリ・ストラヴィンスキー著 笠羽映子訳。スヘイエンはこの書をスティーヴン・ウォルシュが書いたとしている)。
  この幻を、彼はニコライ・レーリヒとともに新しいバレエ作品として構想しはじめた。ディアギレフも夢中になった。『ペトルーシュカ』から2年を経て、1913年に初演の日を迎えた。指揮者のモントゥーは、曲の完成(1912.11.17)後にディアギレフに呼ばれ、ストラヴィンスキーがピアノで弾くのを聴いた。
  「古いアップライト・ピアノはがたがた揺れ続けていた」「このままでは彼は爆発するか、失神してしまうだろう」「私自身も猛烈な頭痛がした」「この気の狂ったロシア人の曲なんか音楽じゃない」「とにかく部屋を逃げ出して、どこか静かな場所へ行き、痛む頭を休ませたかった。そのとき団長が私のほうを振り返って、にっこり笑った。『これは大傑作だ、モントゥー君、この曲は音楽に一大革命を起こし、君を有名にするだろう。だって君が指揮するんだからね』。むろん、私は指揮をした」。(『ディアギレフ』前掲書)。
  初演の夜に起きたのは、まさしく暴動だった。ストラヴィンスキーは回想する。
  「前奏曲の冒頭で、早くも嘲笑が起きた。私はむかついて席を立った。最初はまばらだった示威行為がしだいに客席全体に広がり、それが反対の示威行為を誘い、瞬く間に劇場全体が怒号に包まれた。公演の間じゅう、私は舞台袖のニジンスキーの横にいた。彼は椅子の上に仁王立ちになって、「16、17、18」と叫んでいた。ダンサーには独特の拍子の取り方があるのだ。当然ながら、あわれなダンサーたちは、客席からの騒音と、自分たちの足踏みの音で、何も聞こえないのだった」。「公演の後、私たちは興奮し、怒り、憤慨し、そして幸福だった。ディアギレフ、ニジンスキーとレストランに行った。ディアギレフの感想はただ、『私の狙い通りだ』」。

c0050810_902726.jpg  音楽について、ドビュッシーはすでに『ペトルーシュカ』について「この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。それを理解しているのは、これまでのところ、きみだけです。きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です」と賛辞を送っていた。『春の祭典』についても「ラロワ邸でいっしょにきみの『春の祭典』を弾いたことを今でもよく覚えています。あのときの思い出は美しい悪夢のように頭にこびりついています。あのときに受けた衝撃をなんとか甦らせようとするのですが、なかなかできません」。
  『春の祭典』は、同時代の音楽家に深刻な影響を与えた点で『トリスタンとイゾルデ』以降の最も重大な事件だった。

  振付はニジンスキー。彼の振付作品として『牧神の午後への前奏曲』『遊戯』に続いての三作目になった。『牧神』を成功させた後もニジンスキーはマラルメの詩を読んでいなかったし、詩人の名前も知らなかった。『春の祭典』を振り付けるときにも、総譜を読めず楽器も演奏できないニジンスキーに、ストラヴィンスキーは「まず彼に音楽の初歩、つまり音価、拍子、テンポ、リズム以下もろもろの手ほどきから始めなければならなかった。稽古は難渋をきわめた。主役は妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツが代役となった。ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の振付は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかった。
  完成した作品は前2作と同じく、古典的なバレエとはまったく異なるものだった。いくつもの群舞の独自の動きが全体として不調和な舞台を創る。これは古典的なバレエを期待した人は戸惑う。作曲者にさえ理解を超えるものだった。
  1909年以来、バレエ・リュスとニジンスキーに魅了されていたハリー・ケスラー(ドイツの外交官で国際的に有名な芸術愛好家)は、この作品に圧倒された。「突然、まったく新しい光景が出現した。これまで一度も見たことのないような、心を鷲づかみにし、納得させる光景が。芸術における新しい野蛮性と、反芸術性とが、一度にやってきたのだ。すべての形式は破壊され、その混沌から新しい形式が突然に出現する」。
  ニジンスキーの振付には『牧神』とちがってエロティックな身振りはなかった。透けない生地の衣装もダンサーの体を覆い、肌も体の線も見せない。そして、ダンサーたちは舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がる。


5

c0050810_913855.jpg  上演後の8月15日、一座は座長ディアギレフだけをのこしてブエノス・アイレスに出航する。到着後の9月10日、ディアギレフへの嫌悪が頂点に達していたニジンスキーはバレリーナのロモラ・ド・プルスキーと結婚式を挙げた。この知らせを聞いたディアギレフは激怒する。同性愛者の男性は、若い青年の愛人が異性とつきあうことを許さない。道を女性とともに歩くこと、仲よさげに女性と喋ることすら許せない。いつも、いつまでも自分の「女」として仕えなければならない。ニジンスキーは掟を踏みにじったのだ。彼は即座にバレエ・リュスからの解雇を決断。その後、ニジンスキーは自分のバレエ団を結成して公演するが、当然のことながらディアギレフのマネジメントの能力はなく、惨憺たる失敗に終わった。バレエ・リュスには興行上の理由で1916年の北米ツアーで復帰して、ニジンスキーは『ティル・オイレンシュピーゲル』(リヒャルト・シュトラウス/音楽)に振付をして、踊った。シュトラウスはバレエ・リュスの作品として『ヨゼフの伝説』を1914年5月17日に初演) の振付をし、上演。しかし、すでに彼の精神は病魔に襲われはじめていた。自ら書きつけた舞踏譜は『牧神の午後への前奏曲』の一作だけだった。

  ニジンスキーは現代バレエを切り拓いた先駆者だった。のみならず、彼の古典バレエの約束を打ち破る踊りは、現代日本の「舞踏」にまで及んでいる。舞踏家、笠井叡は「ニジンスキーも『牧神の午後』以降は完全に舞踏です」と発言している。(『土方巽の舞踏』慶應義塾大学出版会刊)。そして「Butō」の研究家、アリクス・ド・モランは、土方巽の『疱瘡譚』を語るなかでニジンスキーにも触れている。「ニジンスキーの課題は、調和のとれた動きに基いたクラシックの語彙と手を切ることであった。ニジンスキーは足を内に向ける姿勢によって不具の醜くなった身体性を浮上させ、グロテスクの印を焼き付けることに成功したのだ」。(横山義志訳 同書)。


6

c0050810_923178.jpg  ニジンスキーを失った1914年の新作は、5月17日のリヒャルト・シュトラウスの音楽によるバレエ『ヨゼフの伝説』と、ストラヴィンスキーのオペラ『ナイチンゲール』(夜鶯)だった。ディアギレフがニジンスキーに代わる主役を踊る男性バレエ・ダンサーとして新しく加入させたのは、やはり同性愛の愛人にしたレオニード・マシーンだった。
  シュトラウスの新作はさほど評判を呼ばず、一座の命運はオペラにかかった。リムスキー=コルサコフの『金鶏』をオペラ・バレエとしてフォーキンが振り付けた作品が、もうひとつのオペラだった。
  舞踊劇の形をとった『ナイチンゲール』(夜鶯)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話にもとづくオペラ・バレエ。曲の一部は『火の鳥』以前に書かれ、残りは『春の祭典』以後に書いた。ストラヴィンスキーは作風の変化が速い。少し長い曲なので、繋ぎ目がわかってしまう。しかし、素晴らしい部分の繊細な音色感は美しく、フランス音楽(もちろんドビュッシーとラヴェル)から得た成果が聴きとれる。
  この年1914年に始まった第一次大戦は1918年まで終結せず、バレエ・リュスを構成していた人たちは、これまで通りには芸術活動ができにくくなる。また、ロシア革命が1917年に起きる。ディアギレフらは故国に帰ることができなくなった。

c0050810_934869.jpg  この間、ストラヴィンスキーのバレエ・リュス上演作は、1915年の『花火』。これは旧作を舞台作品に仕上げたもの。それだけだった。『ナイチンゲール』のバレエ改作版、『ナイチンゲールの歌』(夜鶯の歌)は、1916年に企画されて、公演が実現したのは1920年だった。アンリ・マティスが美術を担当した。振付はマシーン。音楽は20分程度に圧縮したもので、東洋の音階が魅力的だ。ストラヴィンスキーは1959年に来日し、この曲を演奏した。曲に自信があったのだろう。原作の童話は中国の皇帝の御殿と庭園が舞台になり、訪れる人が夜鶯(さよなきどり、ともいう)の声を賞賛し、皇帝も聞いて感動した。ある日、日本の皇帝から細工物の夜鶯が贈られる。宝石で飾られた夜鶯はいつも同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか本物の夜鶯はいなくなってしまう……

  バレエ作品『プルチネルラ』も1920年の初演。ピカソが美術を受け持った。伝ペルゴレージの手稿や印刷譜からの18曲をストラヴィンスキーが編曲した。もう1913年ははるか昔に過ぎ去り、作風の変容は、編曲時1919年のストラヴィンスキーを先駆者ではなくしてしまっていた。この頃から1950年までの作風を、それまでの「原始主義」にかわる「新古典主義」と名付けられ、それ以後、若い友人で彼の仕事の協力者だったロバート・クラフトの示唆によってシェーンベルクの「十二音技法」を採り入れて、さらに「セリー主義」へと歩みを進めた。クラフトは書いている。「1952年3月8日。彼は遠回しにシェーンベルクの七重奏曲(作品29)に触れ、それが彼に強烈な印象を与えたという。40年ものあいだシェーンベルクを『実験的』『理論的』『時代遅れ』と片付けてきたので、シェーンベルクの音楽が実質的には自分自身の音楽よりもより豊かであるという認識に、衝撃を受けている」。(Stravinsky: Chronicle of a Friendship by Robrt Craft, Vanderbilt Univ. Pr. 1994 邦訳は『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。


7

c0050810_943890.jpg  バレエ・リュスの歩みを振り返ってみよう。1915年はリムスキー=コルサコフの旧作『雪娘』。1916年はフォーレの『ラス・メニナス』、そして、ンジンスキーの最後の『ティル』。1917年にはストラヴィンスキーの旧作『花火』。そしてディアギレフが最後に見出した若い才能、イーゴル・マルケヴィッチが評価してやまなかったサティの『バラード』。1918年に
  1921年、プロコフィエフの『道化師』が初演。ファリャ編曲による『クァドロ・フラメンコ』とともに。1922年はストラヴィンスキーの2作品。ニジンスカが踊ったバレエ『狐』とオペラ『マヴラ』。
  1923年6月23日に上演された新作バレエ・カンタータ『結婚』は、歌手を伴った作品で、これはしかし、往年の創造力が舞い戻ってきたかのような傑作のひとつになった。それもそのはずだ。構想は1912年には芽生えていて、1914年に着手された。1915年にはディアギレフに2場までの音楽を聴いてもらっていた。振付はソ連を亡命して1年足らずのブロニスラヴァ・ニジンスカ。美術と衣装はナターリヤ・ゴンチャローワ、指揮はエルネスト・アンセルメ。
  翌1924年は多くの作品が上演されたが、新しいものはミヨーの『青列車』。この舞台で新しく前年に入団したセルジュ・リファールが踊った。幕をピカソが描き、衣装はココ・シャネルだ。1925年は振付家にバランシンが入り、リエーティ作曲の『バラボー』が上演されるなど。1926年にはニジンスカとバランシンの振付作品。サテイ作曲・ミヨー編曲の「びっくり箱」も。1927年には、ストラヴィンスキーが復帰する。オペラ『オイディプス王』。サティの『メルキュール』、プロコフィエフの『鋼鉄の歩み』、ともにマシーンの振付で上演された。1928年、ストラヴィンスキーの『ミューズを導くアポロ』。1929年5月21日、プロコフィエフの『放蕩息子』をバレエ・リュスとしての最後の上演を果たした後、8月19日にディアギレフはベニスで生涯を閉じた。看取ったのは看護していたセルジュ・リファール、そして16日、晩年の忠実な秘書だったボリス・コフノが駆けつける。二人ともディアギレフが愛した青年だった。18日にはミシア・セールとココ・シャネルも最後の病床に間に合った。


8

c0050810_954973.jpg  ディアギレフが8月12日、病床で口ずさんだのは『トリスタン』と『悲愴交響曲』の一節だった。ストラヴィンスキーは8月21日に知らせを聞いて愕然とした。ここ数か月の冷えた関係に胸がかきむしられた。26日になってから、ようやくヌーヴェリに手紙を書いた。「手紙を書くのは辛いのです。沈黙したままでいたいと思います。それでも手紙を書けば、愛するセリョジャを突然に失って私が感じている鋭い痛みが、あなたにもわかってもらえるでしょう」……。ストラヴィンスキーの妻、ヴェラは「年齢とアメリカがストラヴィンスキーの性格を変える以前、あの人はディアギレフにしか心を開きませんでしたわ。そして留意した批評は、ディアギレフのものだけでした」と言った。((『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。

  ストラヴィンスキーにも世に別れを告げる時が来る。1971年3月31日、クラフトは「ラズモフスキー四重奏曲」と「悲愴交響曲」のレコードをかけ、ストラヴィンスキーは「チャイコフスキーの最高の音楽だ」と言って喜んだ。4月4日、重い病床の枕もとでクラフトは「悲愴交響曲」の最終楽章を流した。それがストラヴィンスキーが聴いただろう最後の音楽になった。4月6日に巨星は墜ちた。 

Да здравствует ! уж как на небе солнцу красному, Слава ! cлава !
 万歳! 空にはすでにかくも赤き太陽! 栄えあれ! 栄えあれ!
(ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)

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by ooi_piano | 2016-08-04 07:23 | コンサート情報 | Comments(0)
連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

c0050810_1753814.jpg山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000 3回通しパスポート¥7000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)



【第三回】2016年8月20日(土)午後6時開演 (午後5時半開場)
●中田粥(1980- ):ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱新作初演)
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):スケルツォ(1902)、4つのエチュード Op.7 (1908)、バレエ音楽「火の鳥」より3つの場面(1910)(G.アゴスティによる独奏版)、ペトルーシュカからの3楽章(1911/21)、ドイツ人の行進曲の思い出(1915)、3つの易しい小品(1915)(独奏版)、ムソルグスキー《ボリス・ゴドノフ》序幕より民衆の合唱「なぜ我らを見捨てられるのか、我らが父よ!」(1917)(ストラヴィンスキーによる独奏版、日本初演)、交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、日本初演)、11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版)、ピアノ・ラグ・ミュージック(1919)、管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーを悼んで(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、日本初演)、5本の指で(1921)、子供のワルツ(1922)、ピアノ・ソナタ(1924)、イ調のセレナード(1925)、タンゴ(1940)、仔象のためのサーカス・ポルカ(1943)




【第一回】2016年6月18日(土)午後6時開演 (午後5時半開場) 〔終了〕
●橋本晋哉(1971- ):ピアノ独奏のための《ゆたにたゆたに》(2016、委嘱新作初演)
●クロード・ドビュッシー(1862-1918):2つのアラベスク(1888/91)、スティリー風タランテラ(舞曲)(1890)、ベルガマスク組曲(1890/1901)、ピアノのために(1896)、版画(1903)、仮面(1904)、喜びの島(1904)、映像 第1集(1905)、同第2集(1907)、子供の領分(1906/08)、舞踊詩「遊戯」(1912/13)(作曲者による独奏版/日本初演)、12のエチュード集(1913/15)
 


【第二回】2016年7月16日(土)午後6時開演 (午後5時半開場) 〔終了〕
  [※] ・・・水本明莉(助演)
●小林純生(1982- ):ピアノ独奏のための《フーガ》(2016、委嘱新作初演)
●モーリス・ラヴェル(1875-1937):グロテスクなセレナード(1893)、古風なメヌエット(1895)、亡き王女のためのパヴァーヌ(1899)、水の戯れ(1901)、ソナチネ(1903/05)、鏡(1904/05)、夜のガスパール(1908)、ハイドンの名によるメヌエット(1909)、マ・メール・ロワ(1908/10)[※]、高雅で感傷的なワルツ(1911)、ダフニスとクロエ 第2組曲(1909/12)(L.ロックによる連弾版、日本初演)[※]、 …風に(1913)、クープランの墓(1914-17)、舞踏詩「ラ・ヴァルス」(1919/20)(作曲者による独奏版)



水本明莉 Akari MIZUMOTO (助演/7月公演)
c0050810_1754337.jpg  1993年生まれ。ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会にてB級銀賞、E級金賞、F級ベスト賞、Jr.G級銀賞、G級銀賞受賞。第65回全日本学生音楽コンクール高校の部大阪大会第1位。第8回堺国際コンクール高校の部第1位。第21回宝塚ベガ音楽コンクールピアノ部門第3位。第15回いしかわミュージックアカデミーIMA音楽賞受賞。第13・14回浜松国際ピアノアカデミーに参加。第18回松方ホール音楽賞奨励賞受賞。第8回エトリンゲン青少年国際ピアノコンクール(ドイツ)特別賞受賞。第1回アジアピアノコンペティション第1位(マレーシア)。第5回メトロポリタン国際ピアノコンクール ドビュッシー賞受賞。リベイラン・プレート交響楽団(ブラジル)、ニューフィルハーモニック大阪、大阪チェンバーオーケストラと共演。2009年度ヤマハ音楽振興会音楽奨学支援奨学生。ピアノを永島香、クラウディオ・ソアレス、武田真理、服部久美子、チュンモ・カンの各氏に、作曲を大久保みどり氏に師事。現在、ニューヨークのジュリアード音楽院に在籍し、ジュリアン・マーティン氏に師事。



橋本晋哉 Shinya HASHIMOTO (委嘱作曲/6月公演)
c0050810_1755134.jpg  1971年生まれ。エリザベト音大博士課程を経てパリ国立高等音楽院修了。2002年アヴァン・セーヌ(フランス)第1位、日本現代音楽協会演奏コンクール第2位、2003年ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール特別賞、「東京現音計画」のメンバーとして第13回佐治敬三賞受賞。アンサンブル・イクトゥス、ミュージック・ファブリック、アンサンブル・アンテルコンタンポラン等での演奏、アゴラ音楽祭、レゾナンス音楽祭(IRCAM)への出演等。秋山和慶指揮東響とのB.シュテルンのテューバ協奏曲《生贄》日本初演、飯森範親指揮東響とのH.ラッヘンマンのテューバ協奏曲《ハルモニカ》日本初演、杉山洋一指揮都響とのM.スモルカのテューバ協奏曲《テューバのある静物画》日本初演など、テューバの超絶的ヴィルトゥオーソとして確固たる評価を得ている。16世紀フランス由来の古楽器「セルパン」を用いての古楽分野での活動も多い。作曲作品に、独唱のための《夜想曲》(2006)、フルート四重奏とセルパンのための《グリモワール》(2007)、バリトンとチューバのための《海峡》(2010)等。公式サイト: http://shinyahashimoto.net



小林純生 Sumio KOBAYASHI  (委嘱作曲/7月公演)
c0050810_1756664.jpg  1982年三重県菰野町生まれ。作曲を伊藤弘之と湯浅譲二に師事。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011)、 インターナショナル・ミュージック・トーナメント (2010)、 ICOMS国際作曲コンクール (2011)、 シンテルミア国際作曲コンクール (2012)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015)、サン・リバー賞(2015)、 ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)等に入賞・入選。ルーマニアのアイコン・アーツ現代音楽際 (2013) 、武生国際音楽祭 (2010、 2013、 2014)、韓国の統営市国際音楽祭 (2015) 、スロバキアのメロス・エトス国際現代音楽祭(2015)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、イデー・フィクス・アンサンブル、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、ネクスト・マッシュルーム・プロモーション等により作品が演奏されている。現在は英国カンタベリーに在住、ケント大学博士課程で韻律論の研究に従事。公式サイト: http://sumiokobayashi.com/



中田粥 Kayu NAKADA  (委嘱作曲/8月公演)
c0050810_1757639.jpg  1980年東京生まれ。2006年洗足学園音楽大学音楽学部作曲科卒業。作曲作品に、交響曲《チッポのなぞなぞ》、室内楽《チッポのなぞなぞの答え》、木管五重奏曲《太陽とりさん》、《クールなカメレオンは自転車を想像する》、ヴァイオリン・フルート・ドラム・ギターのための《クールなカメレオンは自転車を想像する Ⅱ》等。舞台音楽の作曲、ミュージカルのバックバンド、即興演奏活動などを経て2013年、サーキットベンディングの一種、電子楽器数台分の剥き出しにされた回路基板を用い、「バグシンセ」「bugsynthesizer」と名付けてリアルタイムに電子回路をショートさせる方法で演奏活動を開始。参加グループ:《《》》(metsu)、相ieトtナ(略)、zzzt、そばうどん。 公式サイト: http://www.kayunakada.com


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by ooi_piano | 2016-07-26 00:32 | コンサート情報 | Comments(0)
洛星交響楽団楽友会演奏会
https://www.rakusei.gr.jp/blog/4472/ 
2016月8日14(日)14時開演(13時開場)
京都コンサートホール大ホール (自由席)
一般 1500円/高校生以下 500円
指 揮:山本貴嗣 Takashi Yamamoto
ピアノ:大井浩明 Hiroaki Ooi

●ロッシーニ/ウィリアム・テル序曲
  〔指揮:西尾望 演奏:洛星交響楽団(現役中学・高校生演奏)〕
●ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調
●プロコフィエフ/交響曲第5番 変ロ長調 作品100

【主催】 洛星交響楽団楽友会(洛星中学・高等学校オーケストラ部OB) https://www.facebook.com/rakuseioborchestra
【問い合わせ】 080-4238-2016(担当:吉川)  rakuseiobconcert2016[at]gmail.com

c0050810_11332264.jpg山本貴嗣 Takashi Yamamoto, conductor
  洛星30期生。大阪大学人間科学部卒。幼少よりピアノとソルフェージュを学ぶ。洛星交響楽団でコントラバスを演奏、大阪外国語大学管弦楽団で学生指揮をつとめた。1995年〜2001年 けいはんなフィルハーモニー管弦楽団音楽監督。この間、同楽団のすべての演奏会とバレエ公演を指 揮。ザ・シンフォ ニーホールでの特別公演ではベルリオーズ、ラヴェル、イベールの作品を取り上げ好評を博した。2003年より長岡京市 民管弦楽団アドヴァイザリー・コンダクターとして、現在に至るまで数多くの演奏会を指揮してきており、長岡京音楽祭 「国民文化祭記念コンサート」にも2012年、2015年の二度に亘って登場した。一方、バレエ指揮ではプロのダンサーや演出家からの信頼が厚い。近年では「淡路島舞台芸術祭」でチャイコフスキー「白鳥の湖」全幕、兵庫県芸術文化センターでプロコフィエフ「ロミオとジュリエット」全幕の各公演を成功させた。合奏トレーナーとしても数々の楽団で活動しており、前回(2013年)の洛星交響楽団楽友会演奏会でもトレーナーを務めた。


c0050810_1134214.jpg西尾望 Nozomi Nishio, conductor
  相愛大学音楽学部卒業。森純子、斉藤建寛の諸氏に師事。卒業後、フリーのチェロ奏者としてオーケストラや室内楽等で活動を展開する傍ら、相愛大学オーケストラ指導教員、大阪芸術大学オーケストラ奏者を兼務する。2000年4月より洛星中学・高等学校に赴任、部創立者・小笠原義明氏の後任として洛星交響楽団常任指揮者となり、的確かつ情熱的な指導で高い評価を得ている。毎年4月に開催されるチャリティーコンサートでは、ショスタコーヴィチ:交響曲第5番《革命》、リムスキー=コルサコフ:交響組曲《シェヘラザード》、チャイコフスキー:交響曲第4番、シューベルト:交響曲第8番《グレート》等の大曲・難曲にも取り組んでいる。学外での活動としては、NPO法人オペラプラザ京都第9回公演においてモーツァルト:オペラ「魔笛」全二幕を指揮、一昨年8月京都コンサートホールにて行われたエルサレム・ユース・コーラス招聘コンサート、ならびに今年5月のロームシアター京都メインホール(旧京都会館第1ホール)での京都男声合唱団定期公演では、京都フィロムジカ管弦楽団と洛星交響楽団他の合同オーケストラも指揮し、絶賛を博した。
 〈ココロコミュ〉サイトでのロングインタビュー:http://www.cocorocom.com/labo/interview/nishio.php



c0050810_11355178.jpg洛星交響楽団楽友会
  洛星交響楽団楽友会は、洛星中学・高等学校オーケストラ部のOB会であり、3年に一度、会員であるオーケストラ部OBを中心にその家族や活動の趣旨に賛同するメンバーを集めて演奏会を開催している。今回は現役オーケストラ部の部員も数名参加しての演奏となる。
  1957年に洛星中学・高等学校オーケストラ部が小笠原義明先生を中心に有志で創設されて59年、OBには、佐々木真氏(3期生 元・東京交響楽団首席フルート奏者、日本フルート協会会長、日本演奏連盟理事)、 寺本義明氏(26期生 東京都交響楽団首席フルート奏者)、大井浩明氏(30期生 ピアニスト)、中田延亮氏(36期生 指揮者)など、数多くの演奏家を輩出している。
  演奏家のほかにも、故安井敏雄氏(5期生 元相愛大学音楽学部音楽マネジメント学科長)、中川真氏(大阪市立大学文学研究科教授、国際センター所長(音楽学))、岡田暁生氏(21期生 京都大学人文科学研究所教授(音楽学))、山田治生氏(25期生 音楽評論家)、故吉村渓氏(25期生 音楽評論家)、荒木源氏(26期生 小説家)(映画「オケ老人!」原作者)など、音楽の世界で活躍しているOBも数多い。
  1997年に 最初の演奏会を開催して以来、今回は7回目の演奏会となる。当初は、学校や同窓会の記念行事に合わせて不定期に演奏会を開催していたが、近年では概ね3年に一度の頻度で定期的に演奏会を開催しており、「第九」(2002年)、「巨人」(2010年)、「英雄の生涯」(2013年)など大曲にも取り組んでいる。
 

c0050810_11365255.jpgコンサートホールのアクセス
■電車でお越しの場合
  京都市営地下鉄烏丸線北山駅下車1番または3番出口 南へ徒歩5分
■車でお越しの場合
  北大路通から下鴨中通(府立大学前交差点)を北上、もしくは北山通りから下鴨中通(北山駅前交差点)を南下
  駐車場利用可:8:00~23:00、約100 台収容可能、30 分ごとに250 円、車高制限2.1m
■バスでお越しの場合 
  京都市バス、4系統もしくは北8系統で北山駅前バス停下車 南へ徒歩5分
  京都バス 京都コンサートホール前バス停下車
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by ooi_piano | 2016-07-10 10:34 | コンサート情報 | Comments(0)
ディアギレフと三人の作曲家たち
<ラヴェルをめぐって> 神の道化スカルボ讃 ―――山村雅治


Oh ! que de fois je l'ai entendu et vu, Scarbo, lorsqu’à minuit la lune brille dans le ciel comme un écu d’argent sur une bannière d’azur semée d’abeilles d’or !
 嗟呼、吾 幾度か邂逅えし、スカルボと。月影鮮かなる 彼の夜半ぞ、黄金の群蜂鏤めし碧き旛の上なる白銀の貨の如。 (ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 安田毅・訳)


1

c0050810_16534981.gif  バレエ・リュスの総帥、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は彼の芸術活動をバレエ公演から始めたわけではなかった。芸術に広範な興味を抱き、音楽を学ぶ法学生だった1897年2月、ペテルブルグのシュティーグリッツ美術館で「イギリス・ドイツ水彩画展」を開催したのが最初に手がけた催しだった。ロシア以外の美術を紹介した展覧会としては、史上もっとも重要なものだった。その後、彼は美術を展示するために奔走するが、すでに18歳のペテルブルグ大学入学後に、のちにバレエ・リュスの美術を担当することになるレオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワらと親しくなっていた。
  翌1898年、雑誌『芸術世界』を発行。彼は理念を述べる。「この雑誌はわが国の芸術界に、そして国民の間に、革命をもたらすでしょう」。「芸術に対するわれわれの姿勢のすべては、独立と自由という前提の上に立っている」。「われわれの出発点は、唯一自由な存在である人間そのものなのである」。
  そして民族主義高揚運動については、「民族主義的芸術家になりたいという願望ほど破壊的なものが他にあろうか。唯一可能な民族主義とは血の中にある無意識的民族主義であり」、「われわれは神々のように自由でなければならない」、「われわれは美の中に調和の偉大な正当性を、個人の中にその最も高尚な具現を探し求めなくてはならない」。
  その後、28歳の1900年、ディアギレフは「帝室劇場運営特任要員」に任命され「帝室劇場年鑑」の編集に携わる。そして浮沈の激しい2年間が過ぎ、1902年12月20日、ペテルブルグで開かれた「現代音楽の夕べ」第1回が開催された。若いピアニストとしてストラヴィンスキーが出演し、この音楽会の活動を通じて当時のロシアにドビュッシー、ラヴェル、シュトラウス、マーラー、シェーンベルクらの音楽が紹介されたのだ。

c0050810_16544298.jpg  ディアギレフは止まらない。1905年1月22日、ペテルブルグで「血の日曜日」事件が起こった翌年、1906年10月、34歳の彼はパリのサロン・ドートンヌでロシア美術展を開催。さらに1907年5月にはパリ・オペラ座で5回のロシア音楽演奏会を開催し、シャリアピンを出演させた。そして1908年5月19日、国際的なバス歌手だったシャリアピンを主役に迎えたムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を、パリ・オペラ座で公演。この年の秋、ディアギレフはニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)と親しくなった。
  バレエ・リュスの旗揚げは1909年。収支はともかく公演は大成功だった。ディアギレフのプロデュース、フォーキンの振付、踊り手のニジンスキー、美術のブノワ、バクストらの「あらゆる細部に注ぎ込んだ愛情と真摯さと献身的努力」が讃えられた。終わるやいなや、デァギレフは次のシーズンの準備に取りかかる。彼は決断をした。第一に、毎年かならず新作を複数上演する。第二は、ロシア人以外の、おもにフランス人の画家や音楽家の才能を採り入れること。
  ディアギレフは、音楽家では、48歳のドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)。そして34歳だったラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいた。そのとき依頼したバレエ音楽はドビュッシーには『マスクとベルガマスク』と呼ばれるもの、ラヴェルには『ダフニスとクロエ』であり、ドビュッシーはその曲をついに完成させることがなかった。ラヴェルの方も完成させるまでには時間がかかった。
  1910年のめざましい初演作品は、ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)の「火の鳥」だけに終った。カルサヴィナとフォーキンが踊り、ニジンスキーは「シェエラザード」「ジゼル」「謝肉祭」「オリエンタル」など他のすべての演目に出演。「牧神の午後への前奏曲」の振付に取りかかり始めた。 1911年のシーズンの初演作は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。ニジンスキーはこの年、初めて主演を踊った。短篇「薔薇の精」と併せて。


2

c0050810_16553677.jpg  ラヴェルの「ダフニスとクロエ」は、翌1912年6月8日になってようやく上演されることになる。
  劇場はパリ・シャトレ座。指揮はピエール・モントゥー。
  ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)。フォーキン(振付)、レオン・バクスト(美術・衣装)。ヴァーツラフ・ニジンスキー(ダフニス)、タマーラ・カルサヴィナ(クロエ)ほか。

  しかし、この年の最大の話題の中心はニジンスキーが振付けて主演したドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』だった。わずか10分ほどのこの作品を完成させるためには大変な回数の稽古が必要だったために、フォーキンが振り付けた50分ほどの大作の完成が遅れに遅れたのだ。初演の後、フォーキンはディアギレフを「私のバレエには無関心だ」と批判する。ニジンスキーは「僕かフォーキンか、どちらかが出て行かなくてはならないだろう」と洩らした。フォーキンが辞任した。

  『ダフニスとクロエ』は、にもかかわらず、ラヴェルが残した音楽のなかで最も親しまれている作品の一つになった。原作は2世紀末から3世紀初頭にかけてロンゴスが古代ギリシア語で書いた作品。少年・少女の恋物語が、恋敵とのいさかい、海賊の襲撃、ポリス間の戦さなどの逸話をからめて、詩情豊かに描かれている。フォーキンは1904年からこの作品をバレエにすることを考えていた。1909年6月にはラヴェルと台本についての打ち合せが始められた。ラヴェルは遅筆だった。その間、ロシア語とギリシャ語両方に詳しい友人に訊ねている。「またガニュメデスの同胞にかんする問題なのだが、僕はパン(牧神)の笛の名前を忘れてしまった」と。おもしろいのはダフニスを、美少年ゆえに神に誘拐されたガニュメデスの仲間にしていることだ。ガニュメデスは「同性愛者」と同義であり、主役を踊るニジンスキーとディアギレフの性的関係はよく知られていた。
  さらに原作をフランス語訳で読んだラヴェルは、バレエには登場しない怪異なサテュロスにダフニスが結婚を申し込まれるという、いかにも同性愛そのものの挿話があったことを知った。サテュロスは、ギリシャ神話に登場する半人半獣の自然の精霊。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシャの牧羊神パンとしばしば同一視された。「自然の豊穣の化身、欲情の塊」として表わされる。その名前の由来を男根に求める説がある。

c0050810_16564537.jpg  レスボス島。一群の羊飼いたち。ダフニスとドルコンはクロエの接吻を争うダンスを踊る。勝ったダフニスは報酬を受け、喜びに失神する。すると海賊が島を襲い、クロエはさらわれる。ダフニスは打ちひしがれるがニンフ像が祭壇からおりてきて、巨大な岩へみちびく。岩は牧神に姿を変える。ダフニスは牧神にひれ伏す。クロエをさらった海賊たちは彼女を踊らせる。とつぜん牧神があらわれ、畏れた海賊たちは逃げさる。最終の場面では、ダフニスとクロエが牧神とシランクスの愛を讃えて踊り、高揚した「全員の踊り」に締めくくられる。

  バレエ作品としての《ダフニスとクロエ》初演は、延期になったために2回しかおこなわれず、一般の評判こそ《牧神》に奪われたが、ストラヴィンスキーは「フランス音楽で最もすてきな作品の一つ」と評した。踊り手で評価を得たのは置いた羊飼い役のエンリコ・チェケッティのみ。稽古の回数もままならなかったフォーキンは初演前にディアギレフを糾弾していた。「私は彼とニジンスキーの関係をはっきりと申し上げよう。このバレエ団は、洗練された芸術から倒錯したセックスに変質してしまったのだ」と。稽古の段階から振付師フォーキンとの確執があったニジンスキーは、ダフニスに「牧神」をからかう振付をされるなどの嫌がらせを受けていた。以後、ニジンスキーはダフニスを踊ることはなかった。

  この舞台上のバレエ団はフォーキン派とディアギレフ=ニジンスキー派に分裂するおそれがあった。誰もがヒステリックになっていた。ピエール・モントゥーの指揮は、しかし冷静であり、オーケストラの楽員の誰もがラヴェルのもっとも偉大な作品だと理解していたという。ラヴェルは感情をあらわにしない。ただうっとりとしているようにしか見えなかった。「ラヴェルはニジンスキーの舞踏と、ドビュッシーの《牧神の午後》のスコアを賞賛し、ディアギレフがこの公演に好意的であることにも嫉妬しようとしなかった。彼は常々、もしも死ぬときが来たらドビュッシーの音楽を聴きたいと言っていた」。
  ラヴェルはニジンスキーの「牧神」の踊りを理解していたのだ。


3

c0050810_16574248.jpg  『ダフニスとクロエ』について「ラヴェルを終生夢中にさせたパン神的(パニック)なテーマを立脚点としたバレエ」であると、ベンジャミン・イヴリーは指摘する。<パン神>は<牧神>と同義であり、牧羊神、半獣神とも訳されている。パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ。
  イヴリーは「牧神(パン)という概念は、ラヴェルの作品において、若書きの《古風なメヌエット》から《ダフニスとクロエ》を経て、以後も継承されていく」と書いた。「芸術における古代ギリシアのイメージは、デカダンスの世代にとって、性の自由を含む理想郷(アルカディア)伝説の復活を意味していた。理想郷では、牧神が音楽を通じて激烈な性衝動を表現した。古代ギリシアでは男性の同性愛行為を意味するのに『牧神を讃える』という表現を使い、牧神的(パニック)な愛は、恐慌的(パニック)な恐怖と同様、激烈で、急激で、予期しがたかった」。「神話的伝承が深く浸透したラヴェルの作品は、しばしば牧神的(パニック)な理想が具象化されている」。

  「牧神的」(パニック)な音楽の始まりだった『古風なメヌエット』1895は、ラヴェルの作品目録では『愛に死せる女王のバラード』(ピアノ独奏曲)、『グロテスクなセレナード』(ピアノ独奏曲。その名の通りグロテスクで、悲劇と喜劇が混ざり合った、恋人の役を不器用にこなす人物が描かれるという。ラヴェルの自画像か。シャブリエの影響があると作曲者は言っている)、『暗く果てない眠り』(ヴェルレーヌ詩によるバスのための歌曲)に次いで4番目に挙げられるが、記念すべき初めての出版作品だった。典雅に見えて、内部にはエロスが踊っている。牧神の舞踏の地面に打ちつけるリズム。

c0050810_16583871.jpg  そして『鏡』1904/5は《蛾》《悲しげな鳥たち》《海原の小舟》《道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)」、そして《鐘の谷》の5曲からなる。
  牧神が踊るのは第4曲《道化師の朝の歌》だ。この訳語についての異論を読んだことがある。「道化師」ではなくて「放蕩者」と訳すべきだと。夜を徹して遊びはてたあげくの放蕩者の朝帰りの歌なのだ、と。その異論は現在に至るまで一般には浸透しなかった。道化師って?アルレッキーノのこと? じつは高校生の頃、そんな疑問を抱いていた。アルルカン、ピエロがその服装のまま、朝の街を歩くの? なるほど「放蕩者」かあ、と一人住まいを始めた大学生になって新宿で夜遊びし、夜明かしして朝帰りしてからひとりごちた。
  しかし、異論はやはり異論だった。Graciosoはスペインの17世紀の芝居のキャラクターで「道化師」に他ならなかった。「彼は糞尿愛好的、好色的、反女性的」「で、粗雑にして反英雄的な風刺をおこなうのによく利用される」。「彼はたいてい召使いで」「あらゆる猥褻行為を許されたおどけ者たる道化師は、」「多くの場合において自らを半陰半陽者、同性愛者、去勢男子などと宣言し、エロティシズムを茶番化する」。
  《道化師の朝の歌》の中で、「ラヴェルは自らを道化師とも、また恋愛物語(ロマンス)の反英雄とも見立て、さらには、鏡に映る逆像の異性愛を眺める外部の傍観者として描いたのだった」。(前掲書)。

  道化。この言葉はニジンスキーも書いた。
  ニジンスキーは「私は神の道化だから、冗談が好きだ」と文字に刻みつけた。(『ニジンスキーの手記』鈴木晶訳 新書館)。「私は言いたい、愛のあるところが道化の本来の場所だ。愛のない道化は神ではない。神は道化である。私は神である」。

c0050810_16592927.jpg  ニジンスキーはいつも「人間ではない」役を踊って喝采を博してきた。バレエ・リュス初期の『アルミードの館』、『クレオパトラ』『シェエラザード』での奴隷は、人間以下の存在として。このころディアギレフの友人ヌーヴェリは『シェエラザード』でもニジンスキーは奴隷を踊ることになったことについて、「彼はいつも奴隷じゃないか。ねえ、セリョージャ、そろそろ解放してやったらどうだい」と皮肉を飛ばしている。『薔薇の精』では妖精。この作品では両性具有性がきわだつ。『青神』では神。『牧神の午後への前奏曲』では牧神。振付は革命だった。そして、次に主役を踊るだろう『ペトルーシュカ』は人形なのだ。もっといえば、魔術師である人形一座の座長の奴隷。ニジンスキーは、舞台を離れてもディアギレフの奴隷であるといえた。だから舞台では実人生をこえて、さらに人間を離れた凄まじい存在になった。
  フォーキンは言う。ニジンスキーには「男っぽさが欠けていて」「その特徴ゆえに黒人の奴隷の役にはぴったりだった。原始的な野蛮人みたいだった」。「半分人間で、半分は猫科の獣になったかのように、音を立てずに大きく跳躍したかと思うと、今度は種馬に」なった。
  ブノワは言う。「半分は猫で半分は蛇だ。悪魔のようにすばしこく、女性的だが、背筋が寒くなるような恐ろしさを秘めている」。
  ヴォドワイエは言う。「彼はぎらぎら光り、のたくっていた。爬虫類のように」。
  ブロニスラヴァ・ニジンスカは言う。「最初は蛇、次いで豹になった」。(『ニジンスキー 神の道化』鈴木晶 新書館)。


4

c0050810_1702177.jpg  ラヴェルもまた「人間以外」の存在を書かせれば、そこにラヴェル自身が現われた。完成させるまでに時間はかかったが、最高に楽しく仕上がったのはオペラ『子供と魔法』1924だろう。ファンタジー・リリックと作曲家が名付けたオペラとバレエを融合させた、彼の独創が輝くおとぎ話だ。主役は子供。ほかに母親、王女、羊飼いの娘、お姫様、数を数える小さな老人、羊飼いの男が出てくる、あとは雌猫、安楽椅子、火、ナイチンゲール、こうもり、ふくろう、、うぐいす、雨蛙、中国の茶器、カップ、とんぼ、ソファー、大時計、雄猫、木などが声を出して歌うのだ。
  ピアノ連弾で聴ける曲にもある。管弦楽曲に編曲された『マ・メール・ロワ』1908/9だ。英語で歌われてきた伝承童謡「マザー・グース」(がちょう婆さん)の仏語訳。《眠れる森の美女のパヴァーヌ》、《親指小僧》、《パゴダの女王レドロネット》、《美女と野獣の対話》、《妖精の園》の5曲からなる。原作はシャルル・ペロー、ドロノワ夫人とルプランス・ド・ボーモン夫人。
  おとぎ話には、しばしば生々しい大人の感情がこめられている。人間以外の場所にしか生きられない悲しさを、たとえばハンス・クリスティアン・アンデルセンは童話の姿で表現した。「かたわもの」や「みにくいあひるの子」がそうだが、《おやゆび小僧》《美女と野獣の対話》のラヴェルも同じことをしている。とても小さな体に生まれついたおやゆび小僧は、親に捨てられて森の中で迷ってしまう。心のやさしさを知り、野獣の醜さを受け入れる姫だが、それだけでは足りない。なによりも性的な魅力は欠けたままだ。ここに肉体に魔術がかかり、グリッサンドが野獣から美貌の王子への変身が遂げられる。
  『マ・メール・ロワ』は、のちに管弦楽に編曲され、新たに書き加えられた部分とともにバレエ音楽として上演された。テアトル・デザール(芸術劇場)の支配人、ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)からの依頼により、1911年から翌1912年初頭にかけて編曲。初演は1912年1月28日、ラヴェル自身の台本、ジャンヌ・ユガール夫人の振付、ガブリエル・グロヴレーズの指揮による。
  1916年になってから、9月にディアギレフは『マ・メール・ロワ』を舞台にかける意欲を示した。しかしラヴェルの楽譜を専属で出版するデュランが反対した。ロシアバレエ団、「彼らに攻撃された作品は異常に輝きますが、その輝きは放火の輝きです」。「このささやかな幻想は、アジア的豪奢のなかで燃えさかるというよりも、むしろより尊敬される、息の長い、もっと地味な運命をたどるべきなのです」。
 
c0050810_1711976.jpg  1914年に着手し、1917年に完成した『クープランの墓』は、ピアノ独奏曲としての最後の大作になった。《プレリュード》《フーガ》《フォルラーヌ》《リゴードン》《メヌエット》《トッカータ》の6曲からなる。1919年に4つの曲が管弦楽に編曲され1920年初演。同年にバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によって「フォルラーヌ」、「メヌエット」、「リゴードン」の3曲がバレエ化され、11月8日にシャンゼリゼ劇場で初演された(指揮:デジレ=エミール・アンゲルブレシュト)。バレエ版は好評であり、1923年にはラヴェルが100回目の公演を指揮した。

  ディアギレフは1913年の夏、『春の祭典』初演後の頃にはニジンスキーとの関係を終えていた。8月15日、バレエ・リュス一座はブエノス・アイレスに向けて出発した。ディアギレフ不在の旅先で、ニジンスキーはロモラ・ド・プルスキーと結婚した。激怒したディアギレフはニジンスキーを解雇した。ニジンスキーは自分の一座を立ち上げなければならなくなった。かつての仲間は除名を恐れてその一座に加わらない。しかし、ラヴェルは救いの手を差しのべた。1914年3月のロンドン公演のためにシューマン『謝肉祭』とショパン『シルフィード』のオーケストレーションを大急ぎで改訂した。
  そんなことを根に持っていたのかどうかは判らない。1920年になって、ラヴェルは『ラ・ヴァルス』の2台ピアノ版をディアギレフに聞かせた。ディアギレフはその場で、バレエ・リュスの舞台にのせることを却下した。「名曲ではあるが、これはバレエの真似事だ。バレエそのものではない」と。しかし『ラ・ヴァルス』は他のバレエ一座によって上演される。1928年10月の時点ではアントワープの劇場とイダ・ルビンシュタインの舞踊団が、そして後代の1951年、ジョージ・バランシン振付によって偉大なバレエ作品になった。

  『ボレロ』の場合もそうだ。初めからバレエ曲として、イダ・ルビンシュタインが委嘱した。初演は1928年11月22日にパリ・オペラ座において、ワルテル・ストララム(フランス語版)(Walther Straram)の指揮、イダ・ルビンシュタインのバレエ団(振付:ブロニスラヴァ・ニジンスカ)によって行なわれた。ディアギレフはこの公演を見て、1928年11月23日付のセルジュ・リファール宛の手紙に「ラヴェルの曲も、単調なリズムが延々14分も続く」と、こきおろしている。
  ディアギレフが関わらなかったバレエ曲としては、『ダフニスとクロエ』初演の年、1912年に『高雅で感傷的なワルツ』が、ロシアのバレリーナ、ナターシャ・トルハノフからの依頼を受けて、バレエ『アデライード、または花言葉』のための音楽として作られた。初演は同年4月22日にシャトレ座において、ナターシャ・トルハノフのバレエ団、作曲家本人が指揮するラムルー管弦楽団によって行われた。


5

c0050810_1724997.jpg  ラヴェルがディアギレフに会ったのは、バレエ・リュスが初めてパリ公演にやってきた1909年のことだった。「ディアギレフ以前」のラヴェルの作品には、『鏡』もそうだったが、多感なモーリス少年の資質が包み隠されることなく表現されている。愛読書はリラダンの『未来のイヴ』、ユイスマンスの『さかしま』、そしてボードレールの仏語訳『エドガー・アラン・ポー全集』だ。ラヴェルは12歳のときに、ピアニストのリカルド・ヴィニェスとめぐりあい、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』を借りた。その頃のラヴェルをヴィニェスはこう書いている。「前髪をたらしたフィレンツェの小姓がしゃちほこばっているみたいな子供で……優美でほっそりとした繊細なバスク顔が、狭い肩と細い首の上にのっていた」。
  『夜のガスパール』1908は3曲からなる。
  《オンディーヌ》。人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る。
  《絞首台》。葬送の鐘。遅く重いテンポは変更されないが、それとは裏腹に拍子はめまぐるしく変化を重ねる(鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か……)。死は不可避だ。
  《スカルボ》。自由に飛び回る悪鬼スカルボ。不吉な和音と炸裂する走句。まがまがしい跳躍の舞踏。ついに悪のエロティックな勝利。
 ラヴェルは1908年7月、イダ・ゴデブスカへの手紙の中で書いている。「終わりかたが悪魔じみているのは、『彼』が作者であることからして当然です」。

 Mais bientôt son corps bleuissait, diaphane comme la cire d’une bougie, son visage
blêmissait comme la cire d’un lumignon, — et soudain il s’éteignait.
 須臾 その體 かの貌 倶に蒼冴め 燭の涙と透けゆき 色喪せゆき、
 然りて 彼の者 突如に 見えずなりたりけり。(ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 安田毅・訳)

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by ooi_piano | 2016-07-03 15:51 | コンサート情報 | Comments(0)
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(《ハラウィ》の一節が刻まれたメシアンの墓碑銘)


渋谷・公演通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5、東京山手教会B1F) 全自由席3000円
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp http://goo.gl/FaEVmk


〈Messiaen en peine 煉獄のメシアン〉第三回公演
2016年6月26日(日) 午後6時開演(午後5時半開場)

伊藤晴(ソプラノ)+大井浩明(ピアノ)

O.メシアン:《前奏曲集》(全8曲、1929) 約34分
 I.鳩 II.悲しい風景のなかの恍惚の歌 III.軽快な数 IV.過ぎ去った時 V.夢のなかのかすかな音 VI.苦悩の鐘と告別の涙 VII.静かな嘆き VIII.風のなかの反映

O.メシアン:《天と地の歌》(全6曲、1938) 約28分
 I.ミとの時間(私の妻のために) - II.沈黙の先唱句(守護天使の日のために) - III.人形ピリュールの踊り(私の幼いパスカルのために) - IV.穢れなき虹(私の幼いパスカルのために) - V.真夜中の裏表(死のために) - VI.復活(復活祭の日のために)

  (休憩15分)

O.メシアン:《ハラウィ - 愛と死の歌》(全12曲、1945) 約57分
 I.お前、眠っていた街よ II.こんにちは、お前、緑の鳩よ III.山々 IV.ドゥンドゥ・チル V.ピルーチャの愛 VI.惑星の反復 VII.さようなら VIII.音節 IX.階段は繰り返し言う、太陽の身振り X.愛の星鳥 XI.星のカチカチ XII.闇のなかに


伊藤晴 (ソプラノ) Hare ITO, soprano
c0050810_199358.jpg  武蔵野音楽大学大学院修了。(公財)日本オペラ振興会オペラ歌手育成部第25期修了。第9回藤沢オペラコンクール第2位、第82回日本音楽コンクール入選。パリ地方国立音楽院(CRR)コンサーティスト・ディプロマ課程修了。日本オペラ連盟文化庁新人育成公演《修道女アンジェリカ》アンジェリカ、 武蔵野音楽大学本公演《コジ・ファン・トゥッテ》フィオルディリージ、 文化庁次代を担う子供の文化芸術体験事業《魔笛》パミーナ、山形交響楽団《ヘンゼルとグレーテル》グレーテル、藤原歌劇団創立80周年記念公演《ラ・ボエーム》ムゼッタ、小澤征爾音楽塾IIIV子どものためのオペラ《子供と魔法》安楽椅子&こうもり、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ《フィガロの結婚》スザンナ、コンヴィチュニー・演出アカデミーinびわ湖《ラ・ボエーム》ムゼッタ等の他、現代オペラでは丹波明《白峯》待賢門院、石黒晶《みすゞ》タイトルロール、水野修孝《天守物語》亀姫等に出演。昨年(2015年)はセイジ・オザワ松本フェスティバル子どものための音楽会《第九》ソリストに抜擢され、ロームシアター京都竣工式において同ソリストを小澤征爾指揮の下務める。藤原歌劇団団員。公式サイト http://www.hareito.com/





メシアンの三人のミューズ ~ソヴァージュ/デルボス/ロリオ ──甲斐貴也


「聖母」セシル・ソヴァージュ

  c0050810_9561587.jpg私はあなたの周りにいる
  乳色の実を覆う緑のアーモンドのように
  絹のような幼い種を包む
  綿毛のある柔らかい鞘のように
    (セシル・ソヴァージュ「私の子、蒼い胎児…」より)



c0050810_9571858.gif  メシアンは1908年12月10日、シェイクスピア作品の仏訳で知られる英語教師の父ピエール・メシアンと、詩人の母セシル・ソヴァージュの間に生まれた。セシルが懐妊中から出産後にかけて書いた全20篇の詩集『芽ばえる魂』には、胎児と肉体的につながっている一体感の幸福と、出産による別れの悲しみ、荒んだ外界に送り出すことへの罪の意識、生を受けた者にやがて必ず訪れる死の予感など、様々な母の思いが詠われている。その中で胎児が男子であると直感し、音楽、自然、東洋、鳥といった後のメシアンが関心を向けるものが詩句のなかに見られることを、メシアンは予言的と受け取り、自らを音楽家の道に導いたのは母セシルであると考えていた。「母は私にとって聖なるものである。それは聖マリアへの敬愛に似ている。」
  はたして幼少から音楽の才を現したメシアンは11歳でパリ音楽院に入学する。だがあまりに繊細な心を蝕まれたのか次第に鬱状態が募っていった最愛の母は、メシアン19歳の1927年8月26日に突然病没してしまう。その悲しみの大きさは想像するに余りあるが、メシアンは母の愛に報いるために発奮し、音楽院で多数の一等を受賞し、聖トリニテ教会の主任オルガニストに就任するなど、一人前の音楽家としての道を歩み始める。「私にとって母の死は、私のキャリアの一つの出発点ともなった」と語るメシアンは、どのようにしてそれを乗り越えたのだろうか。両親は信仰者でなかったにもかかわらず、「生まれながらの信仰者」を自任していたメシアンが、実際に聖書を読んだのは20歳前後であることが近年知られるようになったが、それが母の死の時期に重なることは注目されるだろう。亡き母の霊魂の不滅を信じることで深い喪失感から立ち直ることができたのならば、メシアンの最大のテーマである信仰も、母セシルが自らの命と引き換えに与えたと言えるかもしれない。


前奏曲集 Préludes (1929)

c0050810_9581232.jpg  母の死の2年後、パリ音楽院在学末期の1929年に作曲されたピアノ曲『前奏曲集』は、メシアンの実質的な処女作品と言える。各曲につけられた詩的なタイトルはもちろん、印象派風の色彩には、ドビュッシーの影響を作曲家自身も認めているが、ドビュッシーが目立って使っておらず、その後メシアン自身が「移調の限られた旋法第2番」と名付けた8音音階を効果的に用い、独自性を主張している。
 メシアンはこの曲の色彩が、教会のステンドグラスの青を基調とするとし、「私はこれらの曲を青い和音の刺しゅう、青い和音のペダル音、青い和音の房や軽快な滝のような心づもりで扱った」、と語った。1930年初演のピアニスト、アンリエット・ピュイグ=ロジェは、メシアンに「白やバラ色のドレスは着ないで欲しい。明るいブルーか青緑色のドレスにして欲しい。それは水の色、葉の色、空の色のイメージだから。」と言われたと証言している。
  ところが、後年にメシアン自身が執筆した同曲のレコード解説には、作品全体を支配する色を紫色、オレンジ色、緋色とし、各曲個別の色彩を列挙している。メシアンは前奏曲集作曲後の1931年、スイスの画家ブラン・ガッティの影響により、「音と色との間に存在する調性とニュアンスとの交感を設定し」ていたが、その時もこの関係にさほどの重要性を認めておらず、1941年の「寒さと飢えに苦しんだ捕虜生活中に「視覚連想」(色彩と聴音との内的同時性)を獲得したとされるので、この色彩設定は後付けということになる。
  「当時私は20歳だった。私はまだ、私の人生を変えてしまうことになるリズムの研究には手をつけていなかった。私は鳥を熱愛していたが、まだ鳥の歌声をどのように記譜したらよいのかわからなかった。けれども私はすでに音 ― 色彩の音楽家だった。(中略)『前奏曲』の標題の裏には色彩の研究が秘められている。」

c0050810_9592716.jpg1. 鳩 / "La colombe"
(すみれ色の木目模様のついたオレンジ色)
2. 悲しい風景のなかの恍惚の歌 / "Chant d'extase dans un paysage triste"
 (冒頭と末尾はねずみ色、薄紫色、プロシャ・ブルー。中間部はダイアモンドのようにきらめき、銀色。)
3. 軽快な数 / "Le nombre léger"
 (紫色の木目模様のついたオレンジ色。)
4. 過ぎ去った時 / "Instants défunts"
 (ビロードの光沢をもったねずみ色。薄紫と緑色の反射光。)
5. 夢のなかのかすかな音 / "Les sons impalpables du rêve"
 (和音を連続させるブルー・オレンジの旋法が、紫、緋色の旋法と重なり合う。)
6. 苦悩の鐘と告別の涙 / "Cloches d'angoissse et larmes d'adeu"
 (鐘の部分では多数の旋法が混じり合い、 いくつもの鐘の「ウーン」という結合音とすべての上方倍音がきらめく振動と化す。別れは緋色、オレンジ色、紫色である。)
7. 静かな嘆き / "Plainte calme"
 (ビロードの光沢をもったねずみ色。薄紫色と緑色の反射光。)
8. 風のなかの反映 / "Un reflet dans le vent"
 (緑色の木目模様のついたオレンジ色といくつかの黒い斑紋とが交互に現れる。第2主題は最初の提示でブルー・オレンジ、2回目の提示ではグリーン・オレンジの色を帯びる。


「ミ」の女 ~クレール・デルボスとの神聖な結婚生活

c0050810_103511.jpg  母セシルの没後ほどなく、父ピエールは、母を失ったメシアン家の面倒を何くれなく見てくれていた元学友のマルグリットと再婚し、1930年にはその子、シャルル=マリーが新たな弟として生まれた。この父に対してどのような思いがあったのか、メシアンはほとんど語っていない。そして腹違いの弟の誕生とほぼ時を同じくして、メシアンの前に新たなるミューズが現れることになる。
  『前奏曲集』と1930年音楽院卒業作品の『3つの歌曲』(自作の詩2編と母セシルの詩1編による、失った母に寄せた内容)、管弦楽曲『忘れられた捧げもの』という初期の傑作をものして、作曲家としての道を歩み始めたメシアンは、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに師事した作曲家でヴァイオリニストのクレール・デルボスと出会う。彼女のヴァイオリン演奏に魅せられ、意気投合したメシアンは、クレールのヴァイオリンと自身のピアノによる演奏活動を始め、クレール、ジョリヴェ、ミゴー、レジュールらと、フランスに限らない各国の現代音楽作品を紹介する室内楽演奏会を主催する音楽グループ「スピラール(螺旋)」を結成する。新作の初演と共に、重要な作品を繰り返し上演することを重視する趣旨がその名に込められているという。翌年にはジョリヴェらと、新作の管弦楽作品を上演するための作曲家グループ「若きフランス」も結成している。 
  1932年に二人は結婚し、メシアンはヴァイオリンとピアノのための『主題と変奏』を作曲し、結婚の贈り物として彼女に献呈した。
c0050810_103581.jpg  休日に二人でオーベルニュ地方の小村ヌサルグ=モワサックにクレールの家族が所有する館で過ごした折の写真が残されているが、この「シャトー・ブノワ」という旧館でメシアンは管弦楽曲『昇天 L’Ascension』(1933)を作曲した。今も当時のまま残るこの館は眼前に小さなカトリック教会があり、往時の愛と信仰と音楽に満たされた結婚生活が偲ばれる。そして1935年の全9曲からなるオルガン曲の大作『主の降誕 La Nativité du Seigneur』は、インド、ギリシャなどの多様なリズム技法が用いられ、メシアン創作活動の第2期の始まりとされる。
  同年にクレールは、メシアンの亡き母セシルの『芽ばえる魂』からの5編に歌曲を作曲している。長男パスカルを身ごもった時には、再度『芽ばえる魂』から8編を選んだ歌曲集『芽ばえる魂』を作曲した。メシアンはクレールとの結婚生活と信仰を歌う自作詩9編による歌曲集『ミのための詩』(同じ曲数の『主の降誕』の第1曲と同じモチーフが、同じく第1曲に用いられている)を作曲してクレールに捧げ、この2つの歌曲集は1937年4月28日に「スピラール」主催の演奏会で、ドラマティック・ソプラノのマルセル・ビュンレとメシアンのピアノにより同時に初演され、両曲共に出版された。そして3か月後の7月14日、待望の第一子が誕生し、「過越(パスク)の祝日」にちなみパスカルと命名される。
  『ミのための詩 Poem pur Mi』の「ミ」とは、メシアンがクレールにつけた愛称で、ヴァイオリンの第1弦(E線)のことであり、艶やかな美音を奏でるものの隠喩であるという。夫妻は作曲にあたりお互いに意見を出し合ったと言うが、当時の二人は、ロベルトとクララのシューマン夫妻以来とも言える、幸福で優れた音楽夫妻であったと言えるだろう。
  『ミのための詩』初演におけるビュンレの歌唱に感銘を受けたメシアンは、翌年に完成したその管弦楽版の出版譜に「ドラマティック・ソプラノのための」と但し書きをつけた。ビュンレはバイロイトでイゾルデとクンドリーを歌い、ブリュンヒルデ、エレクトラも得意とした当時フランス随一のワーグナー歌手である。少年時代より『ニーベルングの指輪』四部作を熱愛し、『トリスタンとイゾルデ』『パルシファル』を愛好していたメシアンが、広大な声域と長いブレスを必要とする『ミのための詩』を書いたのは、当初よりワーグナー的歌唱を想定していたと考えられる。
c0050810_105763.jpg  メシアンの歌曲はメシアン自身によれば「しばしばその規模や性格からいって、劇場的場面の縮図のおもむきを呈することさえある」のであり、こうしたワーグナー風のオペラティックな性格と、ブリュンヒルデの「ワルキューレの騎行」でのそれを思わせるオノマトペの多用に加え、グレゴリオ聖歌のメリスマに影響を受けた母音唱法、詩篇の朗誦風のレシタティーフ、メシアンが独自性を自負ずる「移調の限られた旋法」の使用、第2期の特徴となるエキゾティックなリズムの導入など、他のフランス歌曲には類を見ない様式となっており、ここにも作曲家としての独自性を確保しようとする強い意思が感じられる。
  ワーグナー楽劇とグレゴリオ聖歌の混淆という、メシアン歌曲の一種異様な性格はまた、敬虔な信仰への過剰なまでの希求と、相反するようにも思われるエロティシズムが読み取れる、メシアン自作の歌詞に見事に適合している。男性の、夫が妻に対して歌う詩を女声に託すのもまたユニークであると言えるだろう。

 行け、聖霊が君を導くところへ!
 神が結んだものを誰も引き離せない
 行け、聖霊が君を導くところへ!
 妻は夫の延長
 行け、聖霊が君を導くところへ!
 教会がキリストの延長であるように
  (『ミのための詩』~「妻」)

 朝の冷気と結ばれる湾曲した風景
 ああ僕の首飾り! ああ僕の首飾り!
 君の両腕が僕の首に絡みつくこの朝
  (『ミのための詩』~「首飾り」)

 
  著書『わが音楽語法』(1944)でメシアンは歌曲を自らの最重要ジャンルと位置付けており、その時点で完成していたメシアンの作品中で、歌曲は実に3分の1を占めている。クレールとの結婚生活の間、メシアンは歌曲作家であった。そしてクレールの作品もまた、メシアンの母セシルの詩による歌曲の他は、メシアンの主要な楽器であるオルガン曲がほとんどであり、夫メシアンへの献身的な愛情が伺われる。その夫妻の幸福な生活の頂点となる作品が、妻と、わが子パスカルへの愛を歌った歌曲集『天と地の歌』(1938)である。


歌曲集『天と地の歌』 Chants de Terre et de Ciel

c0050810_106855.jpg 1937年の内に『ミのための詩』の管弦楽版を完成したメシアンは、翌1938年、『ミのための詩』の続編とも言うべき、クレールとの結婚生活に加えてパスカルへの愛を歌う歌曲集『プリズム』(全6曲)を完成する。作風としては前作の延長線上にあるが、母音唱法の拡大とオノマトペ(擬音語)の導入がなされ、ピアノパートもより充実したものになっている。前作同様自作の歌詞には聖書の言葉が引用される。同年3月マルセル・ビュンレの歌唱と作曲者のピアノによって初演され、出版時に『天と地の歌』に改題された。

1. ミとの契り
  直訳すると「ミとの賃貸借契約」となるのが奇妙なためか、原題から離れた邦訳も見られるが、キリスト教における「結婚は神からの信頼を得て貸し出された状態、という理解による」。二人が神によって土から造られたことが繰り返される。

2. 沈黙の讃美歌
  グレゴリオ聖歌風の長大なメリスマによる讃歌が輝かしく歌われる。

3. 可愛いピリュールの踊り
  第3曲と第4曲はパスカルに捧げられている。この曲は遊んでいるパスカルが描かれ、赤子に呼びかけるオノマトペとしてメシアンが創作した「マロンランレンヌ」が多用される。

4. 無邪気な虹
  第4曲では眠るパスカルへの父の思いを描く。

5. 真夜中の表裏
  無垢な乳児に比した大人の罪深さに父親はおののく。エリュアール、ルヴェルディらの詩を模したシュールレアリズム風。

6. 復活
  キリストの復活を高らかに歌う。

c0050810_1072860.jpg  非リート的にドラマティックな歌唱による全6曲の歌曲集であることと、題名の類似からマーラーの『大地の歌』を連想もさせるが、仮に関連があるとしたら、それはマーラーへのオマージュではなくアンチテーゼとしてであろう。信仰を失った「神の死んだ世界」に生きる現代人のペシミスティックな死生観を歌う『大地の歌』に比べて、メシアンの『天と地の歌』は、まるで中世の宗教原理主義の時代に逆戻りしたかのような、天国と復活を信じる楽天的な確信に満ちている。それが、メシアン作品の音楽的魅力は認めつつも、今日より多くの人に強い共感を持たせることを困難にしているのだろう。

  こうして幸福の頂点にあったメシアン夫妻だが、いたましくもその直後から大きな不幸が忍び寄ってくる。クレールが出産後に体調を崩し始め、ついには記憶障害など脳に変調を来して、正常な家庭生活が営めなくなってしまうのである。病の妻に代わって男手一つでパスカルを育てるメシアンに、さらに戦火の暗雲が迫る。1939年の第2次世界大戦勃発である。 (つづく
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by ooi_piano | 2016-06-22 08:55 | コンサート情報 | Comments(0)
つづき

鳥の名の女 イヴォンヌ・ロリオの献身

c0050810_10114411.jpg  ドイツの宣戦布告に伴い招集されたメシアンは、強度の近視のため衛生兵として従軍することになった。1940年6月、ドイツ軍の電撃作戦によりフランス軍は潰走するが、自転車で逃げようとしたメシアンはパンクしてドイツ軍の捕虜になってしまう。その捕虜収容所で同年、食糧難に苦しみながらも作曲し、捕虜の音楽家によるアンサンブルで初演したのが名高い『時の終わりのための四重奏曲』である。
  ドイツに降伏したフランスはペタン元帥が首相となり、かろうじて国家の存続が決まって、安堵した国民はペタンを熱狂的に支持した。占領下でドイツに協力的であった人々の中には、著名なピアニストでエコールド・ノルマルの院長アルフレッド・コルトーがおり、捕虜となった音楽家の釈放に尽力したとされるが、そうしたこともあってか、メシアンの捕虜生活は翌年には終わり、パリに戻ってパリ音楽院の和声クラス教授に就任する。1941年5月7日のメシアン最初の講義を受けた学生のひとりイヴォンヌ・ロリオは深い感銘を受け、メシアンを「天から降りてきた先生」と形容したという。
  14歳でバッハの平均律と、ベートーヴェンの全ソナタを弾きこなしたというロリオをメシアンは「単にピアノ書法のみならず、様式、世界の見方、思考方式をも変えた、唯一の、気高い、天才的な演奏者」とまで賛美する。以後ロリオの協力により、『前奏曲集』以来、クレールとの家庭生活時代に本格的には絶えていたピアノ音楽が、管弦楽作品と共にメシアンの主要な創作ジャンルに浮上することとなる。1943年から1944年にかけての『アーメンの幻影』、『幼児イエスへの二十の眼差し』という大作は、メシアン曰く、イヴォンヌの「前代未聞の超絶的名人技」を想定して書かれ、彼女に献呈されており、上演時の騒動が話題になった、ピアノ、オンドマルトノ、合唱と管弦楽のための『神の現存のための三つの小典礼』でもピアノが大きな役割を果たしている。
  代わってメシアンの創作から後退したのが、クレールの楽器であったヴァイオリンの独奏曲と、メシアンの自作、バッハ、クレールの作品というプログラムを組むこともあったオルガン作品、そして歌曲であった。ヴァイオリン独奏曲は全く姿を消し、オルガン作品も主要なものはクレール時代に集中しており、歌曲は1945年の歌曲集『ハラウィ』が最後で最新の作品となったのである。
 
c0050810_10151429.jpg  『ミのための詩』、『天と地の歌』と『ハラウィ』はメシアンの三大歌曲作品と呼ばれるが、これまで見てきたように前二者がクレールとの「神聖な結婚生活」を描いていたのに対し、『ハラウィ』では全く様相を異にする異教徒のしかも不倫の愛が主題になっており、全二作であれほど希求された厳格な信仰と罪の恐れは影もなく、そこで控え目に描かれていた男女の愛と、その行き着く先の死が中心主題となっている。
  メシアンは『ハラウィ』を、続く超大作『トゥーランガリラ交響曲』と無伴奏合唱曲『5つのルシャン』とあわせて「トリスタンとイゾルデの三部作」と称し、『ハラウィ』はその1曲目だと繰り返し発言している。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、さらにはそれに連なり独自の世界を築いたドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』は、メシアンが早くから熱愛していた作品であったが、その愛は音楽のみならず、死もモラルも超えた大恋愛という主題にも向けられていたようである。メシアンはアルバン・ベルクの『ヴォツェック』も高く評価していたが、ベルクの作品で一番好きなのは『抒情組曲』であるとし、その理由に、近年明らかにされた、ベルクが自分と愛人ハンナのイニシャル(A.B.とH.F.)を曲中に散りばめていた事実を挙げているのに至っては、いささか無邪気な印象さえ受ける。こうしたことは、「生まれながらの信仰者」を標榜するメシアンにしては奇妙な嗜好に思えるが、そうした指摘に対してメシアンは、大恋愛とは真実の愛、つまり神の愛の反映なのだと反論している。
c0050810_1016287.gif  キリスト教の信仰を持たないものにとって、この議論はさほど興味をひかないものだが、現代における信仰者の作曲家としてメシアンを位置づける者には大きな問題のようである。カトリック信者であるパトリック・カヴァノー:『大作曲家の信仰と音楽』という、バッハに始まり現代に至る大作曲家たちの信仰について書かれた本のメシアンの項は驚くべきものだ。そこではクレール・デルボスとの結婚と、『ミのための詩』と『天と地の歌』を紹介しながら、イヴォンヌ・ロリオの名が一切出てこないのである。さらに『ハラウイ』はもちろん高名な『トゥランガリラ交響曲』の名も省かれ、ひたすら敬虔なカトリック信仰者としての作曲家の姿が美化されて描かれている。不倫の愛もまた神の愛の反映だ、などという強弁は、ここに採用しかねたということであろう。
  こうした歌曲の作風の変化は、作品発表当時も様々な憶測を招いたようで、音楽評論家アントワーヌ・ゴレアは、1957年(クレール存命時)のメシアンへのインタビューからまとめた著書『オリヴィエ・メシアンとの出会い』において、「トリスタンとイゾルデの伝説を思わせる、強く、深い恋愛、ワーグナーとマチルデ・ヴェーゼンドンクの情熱を語っているような恋愛に動揺しながらも、メシアンは彼の情熱を長い間ひたすら音楽に傾けたのであった」などと、メシアンとロリオの恋愛関係を示唆する記述をしている。
c0050810_10163620.jpg  これにロリオは相当遺恨を持っていたようで、メシアン死去の直前、1992年のインタビューでゴレアを名指しで批判しているが、自らの存在がメシアンの『ハラウィ』に何らかの影響を与えたかという質問への答えは『確かに(certainement)』であるとし、こう述べている。
  「私は『ハラウィ』を地上的な愛を表現した曲、それ以前の歌曲集を神に捧げた崇高な愛という様には分けたくない。なぜならメシアンは生涯を通じていつでもカトリック信仰に満ちた人であったからである。私は愛には様々な形、姿があり、どちらが上であるとか高低をつける必要はないと思う。」
  ロリオは『ハラウィ』のどこに影響を与えたのか明確に答えてはいないが、ピアノ書法にロリオの存在が影響していることは間違いない。そしてロリオが第11曲「星の愛鳥"Amour oiseau d'etoile"」の自筆譜から「あらゆる星の鳥たち"Tous les oiseaux des etoiles,"」の箇所を、ピアノパートごとメシアンの墓石に刻ませたのは、その公式的な言葉とは裏腹に、作曲家メシアンの半生を支えた最大の功労者であり妻であるロリオの、大切な愛の思い出であった故ではないだろうか。


 
歌曲集『ハラウィ』 Harawi

c0050810_10173849.jpg  前作に比べ、オノマトペの使用が飛躍的に増大して歌詞の主要部分を占める曲すらあり、エキゾティックなリズムの多用に加えてペルー民謡の導入もなされ、異教的、土俗的様相を呈する。『アーメンの幻影』『幼児イエスへの二十の眼差し』で培われたピアノ書法の高度化も生かされ、ピアノパートは前2作に比べて飛躍的に複雑化し、独立性を高めている。
  メシアンは、ベラクール・ダルクール夫妻によるアンデス地方の民謡集を読み、ペルー民謡の美しさに夢中になり、『ハラウィ』に取り入れたが、単に旋律を取っただけで、旋法は原曲の五音階を「移調の限られた旋法」に変え、リズムも独自のものを用いている。
  歌詞はペルーの古詩に使われているクチョワ語のオノマトペを交えたものを、当時メシアンが愛好していたピエール・ルヴェルディ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトンらのシュールレアリズム詩のスタイルで書いた。メシアン自身によれば、「題名の『ハラウィ』という言葉は、クチョワ語であり(中略)、ペルーの民謡の中にたくさん出てくる「愛と死の歌」を意味している。つまり不幸な、抵抗しがたい恋愛を指しており、2人の恋人たちは死に至る。トリスタンとイゾルデの物語とほぼ同一のものである。ここではイゾルデはピルーチャという名である」。
  歌は前作までと同じく、マルセル・ビュンレの歌唱を想定して書かれ、ピアノパートは「大変難しく、オーケストラ以上にオーケストラ的、つまり多種多様な色彩を持っていると言える」と語っている。

c0050810_10185393.jpg1. 眠っていた街 おまえ
  歌曲集の序の性格を持つ。眠りからの目覚め、愛の目覚めが歌われる。

2. こんにちは、お前、緑の鳩よ
  ペルーで恋人を象徴する緑の鳩に向けて歌う。第7曲、第11曲で再び現れる息の長い主旋律はペルー民謡のものである。ピアノパートには鳥の歌が現れる。

3. 山
  低い音に当てられる「黒」の語は死を象徴する。

4. ドゥンドゥ チル
  「ドゥンドゥ チル」はペルーの愛の儀式舞踊において、踊り手の足首につける鈴の音の擬声語であるという説と、『アメリカインディアンの民謡集』所収のエクアドル民謡の囃子言葉だという説がある。ペルーとエクアドルは隣国であるから両説に矛盾はないかもしれない。 

5. ピルーチャの恋
  若い娘の歌う「トゥング」はおそらく鳩の鳴き声の擬声語。若い男は早くも「僕の首を切り取ってくれ」「愛、そして死」などと濃厚な愛の死の予感に高揚しているようだ。

6. 惑星の反復
  オノマトペが多用され、シュールレアリズム風の奇抜な空想的詩句を用いる。

c0050810_10192868.jpg7. さらば
  第2曲の旋律が循環主題として再び現れる。第2曲が「こんにちは」であったのに対し、第7曲は「別れAdieu」、つまり永遠の別れが歌われる。

8. シラブル
  緑の鳩が再び現れ、オノマトペが多用される。これは猿の声の擬声語であり、猿の声の警告によって危機を脱したインカの王子を記念する「猿の踊り」を模したものと云う。

9. 階段が復唱する、太陽の仕草
  歌詞にトリスタンとイゾルデの「媚薬」のモチーフが現れ、愛による死後の世界がシュールレアリズム的に描かれる。

10. 星の愛鳥
  シュールレアリズムのイギリス人画家、ロラン・ペンローズの絵画から発想したとされる。星空から下向きに突き出た巨大な女の頭から垂れる髪に、下から男の手が伸びるという、『ぺレアスとメリザンド』の一場面を思わせなくもないが奇妙な絵である。メシアンはこの絵を『ハラウィ』全体を象徴するものとしている。

11. カチカチ 星たち
  再びオノマトペが多用され、ピアノに鳥の歌が現れる。

12. 暗闇のなかに
  暗闇の死の世界で再び冒頭の「眠っている街」が現れ、円環構造を示唆するが、そこに「おまえ」はもういない。そして自らも闇の中に消え去ってゆく。

c0050810_10203469.gif  「ミ」のための2部作とも言える『ミのための詩』と『天と地の歌』の、神を敬い罪を恐れる歌詞とはあまりにも違う『ハラウィ』を、病床のクレールはどのように受け取ったのだろうか。その後、「トリスタンとイゾルデ3部作」の第二部に当たる、ボストン交響楽団から委嘱された異形の大作『トゥーランガリラ交響曲』が初演される頃には、クレールの病状は更に悪化していったという。最後の作曲は1951年。その後サナトリウムに収容される。
  同じころロリオは運転免許を取得し、運転のできないメシアンを乗せてクレールの見舞いに連れて行ったり、鳥の鳴き声の採譜のために郊外へ共に行くのが常となったという。そして1959年、クレール・デルボスはサナトリウムでこの世を去る。死後2日目に執り行われた葬儀に、演奏旅行先から駆け付けたロリオをメシアンは駅で出迎え、結婚を申し込んだ。そして3年後の1962年に二人は結婚する。「20年間、2人はこの時を待っていたと言える」。
  その後のロリオのメシアンへの、その没後にまで及ぶ献身ぶりは広く知られている。晩年の大作オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』に至る多くの作品の創作も、20世紀の大作曲家として確固たる名声の確立も、ロリオの尽力なくしては考えられない。
  ロリオの名Loriodは、メシアンがロリオの協力のもとに書きあげた高名なピアノ曲集『鳥のカタログ』の第2曲「ニシコウライウグイス Loriot」と一字違いであり、発音が全く同じ同じである。メシアンは、ロリオ夫人の名前について特に言及を残していないと言うが、自称鳥類学者のメシアンが何事か思わぬはずもないだろう。この鳥は鮮やかな黄色をしているが、面白いことに色彩への強いこだわりのあるメシアンは、黄色は好きでないという。にもかかわらず、『鳥のカタログ』のロリオによる世界初録音のLPジャケットには、Loriotの絵が飾られている。これは鳥の名と演奏者の名をかけたデザインにまず違いなく、おそらくはメシアンの意向によるものと思われる。
 
c0050810_03415431.jpg  ロリオと結婚後、メシアンは公式にはクレール・デルボスについてほとんど言及しておらず、『天と地の歌』で歌われたパスカルについても、その後高校のロシア語教師になったということ以外のことはあまり知られていない。そうしたメシアンに対し人柄を冷淡と見る向きもあったが、おそらくは献身的な後妻ロリオへの遠慮もあったのだろう。近年明らかになったところでは、ロリオと結婚後も、メシアンの仕事場の机上にはクレールの写真が飾られ続けていたといい、パスカルとはその妻ジョゼットと共にしばしば食事をしていたそうである。





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by ooi_piano | 2016-06-22 07:55 | コンサート情報 | Comments(0)
連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000 3回通しパスポート¥7000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com


【第一回】 2016年6月18日(土)午後6時開演 (午後5時半開場)

●クロード・ドビュッシー(1862-1918):2つのアラベスク(1888/91) 8分
  第1番ホ長調 - 第2番ト長調
:シュタイヤーマルク風タランテラ(舞曲)(1890) 5分
:ベルガモ組曲(1890/1901) 16分
  I.前奏曲 - II.メヌエット - III.月の光 - IV.パスピエ
:ピアノのために(1896) 12分
  I.前奏曲 - II.サラバンド - III.トッカータ
:版画(1903) 14分
  I.塔 - II.グラナダの夕べ・・・ - III.雨の庭
●橋本晋哉(1971- ):ピアノ独奏のための《ゆたにたゆたに》(2016、委嘱新作初演)  4分

 (休憩10分)

●クロード・ドビュッシー:仮面(1904) 5分
:喜びの島(1904) 5分
:映像 第1集(1905) 15分
  I.水の反映 - II.ラモーを讃えて - III.運動
:映像 第2集(1907) 14分
  I.葉ずえを渡る鐘の音 - II.そして月は廃寺に落ちる - III.金色の魚
:子供の領分(1906/08) 16分
  I.グラドゥス・アド・パルナッスム博士 - II.象の子守唄 - III.人形のセレナード - IV.雪は踊っている - V.小さな羊飼い - VI.ゴリウォーグのケークウォーク

(休憩10分)

●クロード・ドビュッシー:舞踊詩「遊戯」(1912/13)(作曲者による独奏版/日本初演) 17分
:12のエチュード集(1913/15)   45分
  I.五本の指のために(チェルニー氏による) - II.三度のために - III.四度のために - IV.六度のために - V.八度のために - VI.八本の指のために - VII.半音階のために - VIII.装飾音のために - IX.反復音のために - X.対比された響きのために - XI.組み合わされたアルペジオのために - XII.和音のために


使用エディション/デュラン社新全集版(2004/07)




●橋本晋哉:ピアノのための《ゆたにたゆたに》(2016)
  大井浩明さんの委嘱により作曲。タイトルの「ゆたにたゆたに」とは、ゆらゆらと漂い動くさまの意。万葉集に詠まれた、《我が情(こころ) ゆたにたゆたに 浮蓴(うきぬなは) 辺(へ)にも奥(おき)にも 寄りかつましじ》(作者未詳 万葉集 巻7-1352)に依っている(最初は「うきぬな」=「じゅんさい」が詠まれていることに興味を持ったのだが......)。曲はギヨーム・ド・マショー(1300-1377)のバラード《ご婦人よ、見つめないで下さい(Dame, ne regardes pas)》が基になっており、全体を通じてその構造は保ちつつも、多くの変形したモチーフによって修飾され、それらは原曲との間を行きつ戻りつする。(橋本晋哉)

●橋本晋哉 Shinya HASHIMOTO, composer
c0050810_7185841.jpg  1971年生まれ。エリザベト音大博士課程を経てパリ国立高等音楽院修了。2002年アヴァン・セーヌ(フランス)第1位、日本現代音楽協会演奏コンクール第2位、2003年ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール特別賞、「東京現音計画」のメンバーとして第13回佐治敬三賞受賞。アンサンブル・イクトゥス、ミュージック・ファブリック、アンサンブル・アンテルコンタンポラン等での演奏、アゴラ音楽祭、レゾナンス音楽祭(IRCAM)への出演等。秋山和慶指揮東響とのB.シュテルンのテューバ協奏曲《生贄》日本初演、飯森範親指揮東響とのH.ラッヘンマンのテューバ協奏曲《ハルモニカ》日本初演、杉山洋一指揮都響とのM.スモルカのテューバ協奏曲《テューバのある静物画》日本初演など、テューバの超絶的ヴィルトゥオーソとして確固たる評価を得ている。16世紀フランス由来の古楽器「セルパン」を用いての古楽分野での活動も多い。作曲作品に、独唱のための《夜想曲》(2006)、フルート四重奏とセルパンのための《グリモワール》(2007)、バリトンとチューバのための《海峡》(2010)等。公式サイト: http://shinyahashimoto.net




ディアギレフと三人の作曲家たち(1) ───────山村雅治
<ドビュッシーをめぐって> 不在の牧神のための頌歌



Je tiens la reine !         われは女神を抱く。
…O sûr châtiment...          おお 重き罪科……
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳) 
  

1

  ニジンスキーは悲しい。彼の手記を読みはじめると冒頭の「人々は、ニジンスキーが悪いことをして気狂いの真似をしているといっている」から鷲掴みにされ、「私はニーチェが好きだ。彼ならば私を理解しただろう」を経て「私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」に至ると、訳もなく涙があふれだした。口絵に見る彼の姿が映された写真も、舞台衣装であれ日常の服装であれ、どれもたまらなく悲しい。

  1971年初版の『ニジンスキーの手記』(市川雅訳。現代思潮社刊)を手にしたとき、私は18歳だった。頭の中には『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉と、『地獄の季節』のランボオの詩だけが渦巻いていた。ニジンスキーとニーチェは精神に変調をきたした。超越は尋常ならざる代償を伴う。習慣と常識に覆われた日常の表皮は分厚く、飛翔すればたちまち空気が薄くなってしまう。そして、ランボオとニジンスキーはともに年長の男性と交わり「感覚の錯乱」を体験した。行為において性別が破壊され、日常に規範も意味もなくなった。母音に色が見えたランボオは「酔いどれ船」に乗り詩を旅した。存在とは何かを、もはや問わない。存在そのものになったとき、人間が人間でなくなる。神になり気が狂う。脱け出すことができたランボオは21歳で筆を折り商人になった。ニジンスキーの手記は1918年から1919年にかけて、舞台から降りざるを得なくなった失意と絶望のなかで書かれた。いや、書かれたというよりは、言葉の槌で刻み付けられ、生命の火花が飛び散るようだ。29歳の1919年に幻覚がはじまり、以後60歳の1950年に死を迎えるまで、30年間を狂気のままに生きていた。

  ニジンスキーの「手記」の完全版なるものが世に出されたのは後年のこと。私の読んだ「手記」は1936年に未亡人のロモラ・ニジンスキーが出したもので、彼女が1978年に世を去ったのちに1995年、「無削除版」の仏語訳が突如出版された。ロモラが出したものは「抜粋版」で、「完全版」は1998年に邦訳された。(『ニジンスキーの手記 完全版』 ヴァーツラフ・ニジンスキー著 鈴木晶訳 新書館刊。英訳は The Diary of Vaslav Nijinsky  by Vaslav Nijinsky (Author), Joan Acocella (Editor)  University of Illinois Press; Unexpurgated ed. Edition)。
  ロモラが編んだ「抜粋版」には「完全版」に記されていた、性に関することや卑猥な表現が削られていた。ロモラへの悪口、フレンケル医師に関する記述もなかった。ニジンスキーが書き刻んだ言葉の全貌には再び圧倒された。全体は『セルゲイ・ディアギレフへの手紙 男に』で結ばれる。「男から男に ヴァーツラフ・ニジンスキー」が最後の一行だった。別れてもなお、心身を喪失しつつあってもなお、ニジンスキーはディアギレフへ言葉を書かなければならなかった。ディアギレフは「残酷な神」のようにニジンスキーを支配し続けたのか。



2

  ニジンスキーが踊る姿は記録されていない。しかし、現代のパリのバレエの関係者たちが総力を挙げて「バレエ・リュス 100年」に当時の舞台を蘇らせた映像がある。2010年2月19日(金) NHK教育テレビ「芸術劇場」で放映されたものだ。作品と人名の表記は当時のNHKにしたがう。

パリ・オペラ座バレエ『バレエ・リュス・プログラム』
・バレエ「ばらの精」Le Spectre de la Rose (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:ウェーバー作曲/ベルリオーズ編曲
 美術:レオン・バクスト
 主演:マチアス・エイマン、イザベル・シアラヴォラ

・バレエ「牧神の午後」L'Apres du Midi d'un Faune  (1912初演)
 振付:ワツラフ・ニジンスキー
 音楽:クロード・ドビュッシー
 美術:レオン・バクスト
 主演:ニコラ・ル・リッシュ、エミリー・コゼット

・バレエ「三角帽子」Le Tricone  (1919初演)
 振付:レオニード・マシーン
 音楽:マヌエル・デ・ファリャ
 美術:パブロ・ピカソ
 主演:ジョゼ・マルティネズ、マリ・アニエス・ジロ

・バレエ「ペトルーシカ」Petroushka  (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
 美術:アレクサンドル・ブノワ
 主演:バンジャマン・ペッシュ、クレールマリ・オスタ、ヤン・ブリダール、ステファン・ファヴォラン

<出演>パリ・オペラ座バレエ団
<指揮>ヴェロ・パーン
<管弦楽>パリ・オペラ座管弦楽団
<収録>2009年12月 パリ・オペラ座 ガルニエ宮

  100年祭に選ばれたプログラムは「三角帽子」のほかは、すべてニジンスキーが踊ったものだ。なかでも「牧神の午後への前奏曲」は彼の振付師としての第一作。もちろん主役の牧神として踊った。ディアギレフの発案だった。美術はバクストで、彼とニジンスキーはギリシアのレリーフに心酔していた。バレエ・リュスは、いままで人が見たことがない作品を創造しなければならない。はたして1912年5月29日の初演後、熱狂した喝采と野次と怒号が同時に耳をつんざいた。もちろんドビュッシーの音楽に対してではない。ニジンスキーの振付と踊りに対しての反応だった。終わりの部分でニジンスキーはニンフから奪ったヴェールの上に腹ばいになって腰を上下に動かし、性行為を暗示していたのだ。

  翌朝の新聞で「フィガロ」紙はガストン・カルメット編集長が、あしざまにこきおろす。――あれは美しい田園詩でも、深遠な意味をもった作品でもない。あの好色な牧神のエロティックな動きは猥褻かつ下品で、その身振りは露骨で淫らである。――
  絶賛したのは「ル・マタン」紙だ。――ニジンスキーの最近の役柄のなかで、これほど傑出したものは他にない。もはや跳躍はなく(…)、彼の肉体はその内の精神を余すことなく表現している。(…)クライマックスで、彼はニンフから奪ったヴェールの上にうずくまり、接吻し、抱きしめ、熱情的な忘我に至る。この衝動ほど印象的なものがあろうか。――
  この絶賛は彫刻家オーギュスト・ロダンの署名記事だったが、ロダンは一行も書かなかった。そのことが問題になった後でも、ロダンは「記事の一言一句も」取り下げるつもりはないと言い切った。(このあたりはDiaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照している)。
  真っ二つに割れた評価のなかで、2回目の公演が5月31日に開かれた。「牧神はヴェールのなかに股を挿入することはなく、跪いたまま終わる。この改訂版がは喝采と『アンコール』の声に迎えられる」。(前掲書)。

  2009年のパリ・オペラ座公演での「牧神」は、ニコラ・ル・リッシュが踊った。細身とはいえない筋肉質な体型はニジンスキーを髣髴とさせた。秀逸なバクストの美術を背にして、舞踊家の能力を誇らしげに展示する跳躍は封じられ、この上なく優雅にダンサーたちが横切っていく。初演の振付が再現された。あれから100年の歳月が経ちなんの違和感もなく、すばらしいものを見た。この作品こそが旧来のバレエに対する革命だった。バレエ・リュスの新しい時代がここに始まったのだ。



3

  ヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)は、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)が創設したロシア・バレエ団(バレエ・リュス Ballets Russes 1909-1929)でヨーロッパを震撼させた男性バレエ・ダンサーだ。
  ディアギレフはリムスキー=コルサコフに「作曲の才能がない」と指摘され、芸術家になることをあきらめた青年だった。彼の才能は芸術を紹介することに向けられ、1897年、手始めに帝政ロシア国内で絵の展覧会を企画した。以降6回の展覧会を経て、1905年にサンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿で開かれた「ロシア歴史肖像画展」を開き、それが最後の彼の国内での活動になった。1905年は「血の日曜日」「ロシア第一革命」の年だ。日露戦争の戦況もかんばしくない。「西欧にロシア芸術を紹介する」ことに舵を切ったのは、そこにしか行く道がなかったからだ。
  1906年、パリのプチ・パレでロシア画家の展覧会を成功させたのを皮切りに、1907年にはパリ・オペラ座で5日間にわたるロシア音楽の演奏会を開いた。ラフマニノフ、スクリャービン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフらが自作を演奏し、シャリアピンがボロディンの『イーゴリ公』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアを歌った。さらにはニキシュがチャイコフスキーを指揮した。これで大成功しないわけがない。歩みは続く。翌1908年、シャリアピンを主役にパリ・オペラ座で『ボリス・ゴドゥノフ』を全幕上演。大成功だ。

  1909年。彼の興業に、オペラに加えてようやくバレエが発案される。しかし企画段階のさなかにディアギレフの最大の資金援助者だったヴラジーミル大公が亡くなった。海外で成功すれば国内では誹謗中傷に巻き込まれる。帝室からの援助はない。帝室劇場の道具を貸し出してもらえない。リハーサル会場さえ使うことができなくなった。莫大な経費がかかるオペラをあきらめてバレエだけにした。
  成果はパリ・シャトレ座、1909年5月19日に開かれた「セゾン・リュス」(ロシアの季節)は、

『アルミードの館』(音楽:チェレプニン)
『韃靼人の踊り』(音楽:ボロディン)
『レ・シルフィード』(音楽:ショパン作曲/ストラヴィンスキー、グラズノフ、タネーエフ、リャードフ、ソコロフ編曲)
『クレオパトラ』(ロシア音楽メドレー:アレンスキー、タネーエフ、ムソルグスキー、チェレプニン、グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ)
『饗宴』(ロシア・バレエ音楽メドレー:グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー)

  これらの作品が演目に上がった。振付師ミハイル・フォーキン、ダンサーにアンナ・パヴロワやヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナらがいて、これを事実上の「バレエ・リュス」旗揚げと見なすこともできるだろう。ディアギレフの舞台へのニジンスキーのデビュー公演でもあった。

 ニジンスキーはディアギレフに出会う前からバレエ界では知られていた。17歳の頃、彼を採り上げた最初の批 評から「静止しているような跳躍」が絶賛され「稀に見る天才」が出現したと書かれている。ディアギレフに近かった批評家、ワレリアン・スヴェトロフは「彼のダンスの芸術的な特質は並外れているが、同時に、天才的な役者であることを示した」、と。
  『ディアギレフ』(シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房)にはダンサーとパトロンについての記述がある。要約して引用する。
  ――1907年、17歳当時、ニジンスキーにはパーヴェル・リヴォフ公爵という後援者がいた。当時、男性女性にかかわらず、バレエ・ダンサーがパトロンの「世話になる」ことはきわめて自然で、パトロンは、性的関係と引き換えに、ダンサーたちを経済的に援助し、上流階級に紹介した。暗黙の階級制があり、しばしば仲介業者を通じて、最も優れた、あるいは最も美しいダンサーは最も裕福なパトロンに囲われた。――
  1907年から1908年にかけての冬に、ディアギレフはニジンスキー、リヴォフと青年時代からの友であるヌーヴェリと三度食卓を囲んでいる。ニジンスキーの方がディアギレフに熱心だったという。そして1908年秋、彼ら二人は親密になった。以後5年にわたり、ディアギレフのバレエ団はニジンスキーを軸に恐ろしいほどの勢いで回転していく。

  1909年の公演を見たハリー・ケスラー公爵は、ホフマンスタールに手紙を書いた。ニジンスキーは蝶のようだが、同時に男らしさや若さの象徴でもある。バレリーナも劣らず美しいが、彼が登場すれば霞んでしまう、と。そして翌日再び
  ――これほど美しく、これほど洗練され、劇場で上演されてきたありとあらゆるものをはるかに超越した「模倣芸術」がこの世にあるとは、夢にも思いませんでした。不思議ですが、本当です。女性たちも、ニジンスキーと何人かの男たち、というより少年たちも、生きた若い神と女神として、もっと高い、より美しい別世界から降りてきたようでした。私たちはまさに新しい芸術の誕生を目撃しているのです。――(前掲書)。
  このときまでに用いられた音楽は、まだ新しい響きがする音楽はなかった。翌1910年、『火の鳥』でストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)がバレエ・リュスにデビューするまでは。



4

  ディアギレフは1909年公演が終わると、翌年以降の方向について二つの決定をした。ひとつは毎年必ず新作を複数上演すること。もうひとつは、ロシア人以外の才能を発掘することで、フランス人の作曲家のクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)とモーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいていった。
  ドビュッシーは、バレエ・リュスの1910年6月23日のパリ・オペラ座公演の『火の鳥』初演を見ていた。作曲はイーゴリ・ストラヴィンスキーというロシアの若い作曲家。ニジンスキーは主役ではなく「金の奴隷」を踊っていた。ドビュッシーはジャック・デュランに書き送っている。――『火の鳥』は完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。(…)なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です。――
  1911年6月13日、パリ・シャトレ座で『ペトルーシュカ』が初演された。ニジンスキーが主役を踊った。ドビュッシーはロベール・ゴデに書いた。――ストラヴィンスキーは、色彩とリズムに関して本能的な才能をもっています。子供っぽいと同時に、野性的です。それでいて、全体の構成はじつに繊細です。――
  その後、ストラヴィンスキーから『ペトルーシュカ』の楽譜を贈られたドビュッシーは「どうもありがとう」と礼状を書く。――この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。(…)きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です。――

  ドビュッシーはこれらのバレエ・リュスとニジンスキーの踊りを見たあと、1912年5月29日の自作『牧神の午後への前奏曲』のニジンスキー振付デビュー作にして主役を踊る舞台を目の当たりにする。
  1911年10月26日、ディアギレフからこの曲をバレエに使いたいと打診を受け、ドビュッシーは許可した。10分あまりの作品の振付の稽古の数は100回を超えたという。
  ドビュッシーは、しかしニジンスキーの振付を批判した。――ニジンスキーが私の作品にどのような類の振付を考えたか、私にはまったく想像もつきませんでした。悪い予感がしていたのは本当です。(…)舞台の上で、ニンフや牧神たちが、まるで操り人形ででもあるかのように、あるいはむしろダンボール製の人形ででもあるかのように、しかも、つねに横向きで、いかつく、角ばって、また古風かつグロテスクに様式化された身振りで動くのを見て感じた恐怖については、お話するのをあきらめますよ!――
  「カーブした旋律線に溢れ、揺れ動く、揺りかごのような動きの音楽」と、ニジンスキーの振付が「耐え難い不調和」だと嘆く。(Claude Debussy: Biographie Critique by Francois Lesure , Klincksieck 『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳 音楽之友社刊)。
  一方、ニジンスキーはニジンスキーで、この音楽が必ずしも彼の理想のものではなかったという資料もある。色彩を評価しつつも「自分の構想した動きのためには、あまりにもぼんやりとし、あまりにも甘美だ」と考えていて、「耳障りなところがないという点を除いて、あらゆる点で満足していたのだ」。(前掲書)。

  このように作曲家と振付・舞踊家は互いに違和を感じあっていた。にもかかわらず、ドビュッシーはバレエ作品『遊戯』の契約をディアギレフと1912年6月8日に結んだ。テーマは当時の「未来派」というべきか、1920年の近未来に設定され、飛行機あるいは飛行船ツェッペリンが空に浮かぶという背景に、登場人物はテニスウェアを着た三人の踊り手だけ、というのが草案だった。

  ニジンスキーは「手記」のなかで書いている。
  ――私がこのバレエを作った当時、私はディアギレフとの「生活」の感化を受けていた(…)。『牧神』は私であり、『遊戯』はディアギレフが夢想した生活である。彼は恋人として二人の少年を所有していたかったのだ。彼はよくそう話したが、私は拒否した。ディアギレフは同時に二人の少年と寝たかった。そして、少年達に愛撫してもらいたかった。バレエの中では、二人の少女が二人の少年のかわりをしていて、若者はディアギレフである。三人の男の恋愛関係は舞台上では表現できないので、役柄を変えた。私はこの邪悪な愛の着想を嫌悪していたが、観客にも嫌悪してもらいたかった。だが、私はこのバレエを完成し得なかったのだ。ドビュッシーもまた、この物語を好んでいなかった(…)――(『ニジンスキーの手記』市川雅訳 現代思潮社刊)。

  『遊戯』の初演は1913年5月15日、パリ・シャンゼリゼ劇場。失敗だった。ただし、不成功はバレエに関してのことであり、音楽に関してではない。ディアギレフは『遊戯』をドビュッシーの最高傑作のひとつであると認めていた。ニジンスキーはバクストが作った衣装を着けたが「黒いベルベットで縁取られ、緑のズボン吊りのついた、白いショートパンツ」は、かなり女性的だった。ディアギレフは三人の男女ができるだけ同一に見えるような化粧をすることと、男であるニジンスキーが女性ダンサーしかしない爪先立ちで踊ることを要求した。性別の認識をぼかす、ということだ。これもまた、100年後の現代を先取りしたものだったといえる。



5

  先取りといえば、当時のバレエ界では男性ダンサーが主役を務めるのはニジンスキーが初めてだった。近年ではモーリス・ベジャールが率いた20世紀バレエ団がその伝統を受け継いでいた。また1910年、ニジンスキーは帝室マリインスキー劇場から解雇されたが、その理由は『ジゼル』(音楽:アダン)を踊るのに6月18日にディアギレフのバレエ団でのパリ公演で使った衣装を着けたからだ。それまでの伝統的な衣装は上着が長く、膝あたりまでが隠された。美術家ブノワが作った衣装はタイツが肌にぴったりで、上着はベルト付きの短いチュニック。腰回りの体の線がはっきりと見えた。この衣装が「猥褻」という理由で帝室劇場から解雇され、めでたくニジンスキーはディアギレフ・バレエ団のダンサーに専念できることになった。現代の男性バレエ・ダンサーの舞台衣装の「常識」はニジンスキーが切り拓いたものだった。

いな、されど
言葉の空なる霊も 重く疲れし肉体も、
真昼の驕れる深閑に 終に 打負け臥転ぶ。
そのまま寐ねよ 冒瀆の癡言を忘れ、喉は乾き、
真砂の上に仆れ伏して、葡萄の美酒にあらかたの
あまづたふ日に、口をひらくは われのこよなき逸楽ぞ。

さらばよ、水波女、移り変りしなが幻影をわれは眺めむ。

(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)

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by ooi_piano | 2016-06-10 18:17 | コンサート情報 | Comments(0)