カテゴリ:プロメテウスへの道( 21 )

※9年前、アルケミスタ・武田浩之氏のメルマガ用に、《エリフソン》と《ホアイ》の相関関係について書いた記事が長らくリンク切れになっていたのですが、サルヴェージ先を御教唆頂きました。念のためにブログにも転載しておきます。


クセナキスのチェンバロ独奏曲《ホアイ》(1976)と第2ピアノ協奏曲《エリフソン》(1974)の間の素材援用について

c0050810_1595844.jpgつい先日(2004年6月8日夜〜9日昼)、アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと、ヤニス・クセナキスの第2ピアノ協奏曲《エリフソン〜ピアノ独奏と88人の奏者のための》(1974)の世界初録音を行ってきました。私にとっては、2002年5月に収録した「シナファイ」に続く、2枚目のCDとなります。

樹形曲線(樹木や稲妻や血管の枝分かれ)をそのまま音楽におきかえたスコアは非常に「バロック的」であり、また、20世紀チェンバロ作品の最高傑作《ホアイ》(1976)と大変緊密な関連があるので、その話題を少々させて下さい。極小時価での螺旋の微細な絡み具合にじっくり取り組む、フランス・バロックのクラヴサン音楽の経験が非常に役立ったのも、事実です。

【解題と「参考録音」】

c0050810_1282477.gif《エリフソン(エリフソニオス)》(原義は「大地の力」)とは、神話上のアテネ王の名前とされています。アテーナー女神が武器を注文しにヘーパイトスを訪れた時、いきなり強姦されかかり、脚にふりかかったヘーパイトスの精液を女神が毛で拭き取り地に投げ捨てたところ、大地がみごもって生まれたのがエリフソニオスでした。アテーナーは神々に秘して箱の中でエリフソニオスを育てていましたが、ケクロプス王の娘達が好奇心にかられて箱を覗き、蛇の姿をした赤子を見て発狂・投身。長じてエリフソニオスは、ケクロプスの後を襲ってアテネ王となり、水のニンフのプラークシテアーを娶りました。

現在に至るまで、サラベール出版社が頒布している《エリフソン》の唯一の参考録音は、1974年5月21日にヴァンセンヌ植物園でミシェル・タバシュニク指揮ORTF管弦楽団、独奏クロード・エルフェで世界初演されたときのライヴです。スコアの完成が遅れたとは言え、3ヶ月前には到着していた筈の冒頭ページからして完全に滅茶苦茶、というのは、ダグラス・マッジの「シナファイ」LPのほうが遥かに良心的と言えるくらいのレベルです。十数年前に藤田現代音楽資料館でスコアを見ながらこの録音を初めて聞いてみた時には、なにやら轟々としたノイズのみで、作品に全く興味を覚えられなかったのも当然でした。(しかも演奏終了後はブラヴォーの嵐だったりするので大笑いです)。サラベールによる清書譜のクレジットは1974年ですから、数度あったらしいエルフェによる再演では、確実に清書譜を使用している筈なので、「片目の作曲家の譜面が汚くて読みづらい」などという莫迦げた釈明は通用しません。

なお、スコアの遅れ具合についてのエルフェ氏のコメントは、ヨーロッパでのインタビューに比べると、日本人向けのインタビュー(「ミュージック・トゥデイ・クォータリー」)では話が大袈裟に(〜すなわちエルフェ氏に都合が良いように)なっております。現代音楽を得意とする別の仏人演奏家のインタビューでも、似たようなケースを見かけましたが、要は我々は舐められてるんですね。

もっとも、クセナキス関連の日本語文献は、大体そんな程度のものかもしれません。

【日本初演までの経緯】

c0050810_1511403.jpg2001年6月に私がこの《エリフソン》を日本初演したのは、偶然の成り行きでした。

同年2月にクセナキスが死去し、たまたま、その僅か10日後に出光音楽賞受賞の通知を頂き、授賞セレモニーで東京シティ・フィルと数十分、希望曲を演奏することになりました。自分で好きにコンチェルトの選曲を出来る機会など、めったにありません。まずは追悼演奏として、クセナキス《エリフソン》を、それに望月京さんの二重協奏曲《ホメオボックス》の両日本初演を挙げました。望月作品については、ベルリンでの世界初演(2001年3月)の直前の頃の話です。

当初この授賞演奏会で指揮予定であった、選考委員の岩城宏之氏から、「現代音楽のエキスパートと言うけれど、音楽に区別があるなんてオカシイ。ボクは大井さんのモーツァルトが聞きたい」との御意見があり、(因みにその3年前に同賞を受賞した木ノ脇道元氏にも同じ科白を仰ったそうな)、「それだったらシティ・フィルみたいなモダンオケじゃなくて、バッハ・コレギウム・ジャパンか東京バッハ・モーツァルト・オケを雇って、フォルテピアノ・自作即興カデンツァで弾き振りしたい」などと私がゴネておりましたらば、氏は13回目の入院(癌手術)で急遽出演不能になってしまいました。(受賞演奏会自体にはお見えになってました。)

代わりに第1回出光賞受賞者でもある沼尻竜典氏にタクトをお願いすることとなり、また、最終的には望月作品ではなくメシアン「異国の鳥たち」が選ばれました。

クセナキスとメシアンの両作品はオーチャードホールで公開録画され、テレビ朝日系「題名のない音楽会」でその一部が、インタビューや練習風景とともに放映されました。羽田健太郎氏のインタビューで、「大井さんは現代ピアノ音楽のエキスパートでおられるのですが、御自宅ではなんと、チェンバロでバロック音楽を楽しまれることもあるそうです」、とのコメントがあり、「いえ、実は今チェンバロに専念してるんですけど・・・」と申し上げたら、その部分はまるごとカットになりました。


【ルクセンブルク・フィルとクセナキス作品全集】

c0050810_1512184.jpgルクセンブルク・フィルはここ数年、相当数のクセナキス作品を演奏し続けてきたせいで、すっかりこの作曲家の様式に慣れ切っているとはいえ、《エリフソン》収録では、オケの練習をいれても3+3時間のセッションでほぼ録音完了、という異常な速さでした。・・・もっとも、最初から最後までピアノが弾きまくっているような曲ではありましたが。

まず6月8日(火)の夜のセッションで、ひとまず第220小節まで終了(午後6時半〜9時半)。翌日、9日(水)は午前中3時間のセッションで、最後(第385小節)までのテイクを幾つか収録しました。この日の午後に予備のセッション3時間ぶんは確保してありましたが、結局いくつかの小部分の手直し程度で20分間で終了(午後3時)。シェーンベルク「期待」とプーランク「人間の声」で、ジェシー・ノーマンとの来日公演を終えたばかりの、アルトゥーロ・タマヨ氏の棒も、いつもながらに冴えておりました。

かつてタマヨ/ルクセンブルク・フィルのコンビによる、クセナキス「ジョンシェ〜藺の茂る地」(1977)や「リケンヌ〜地衣類」(1983)の凄まじいライヴに接したことがあります。ハジけ切れる打楽器奏者数名を確保出来るなら、あれこそ「小学生のための音楽教室」や、あるいは「1万人の第九」の前座などにピッタリの選曲だと確信しました。

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《エリフソン》は、『クセナキス管弦楽全集・第4輯』として、《アタ〜89奏者のための》(1989)、《アクラタ〜16管楽器のための》(1964-65)、《シルモス〜36弦楽器のための》(1959)、《クリノイディ〜71奏者のための》(1991)とカップリングされ、パリのTIMPANIレーベルから、今年(2004年)10月にリリース予定です。


【エリフソンとホアイの相関関係について】

c0050810_15132376.jpg《エリフソン》では、絡み合い、枝分かれし、増殖するメロディー線の束(樹形曲線)が、方眼紙上で相似的変換・回転・歪曲を施されたアラベスクを、作曲の基盤としています。バッハの無伴奏ヴァイオリン・チェロ曲では暗示されるだけだったものが、どんどん帰納されて、線的多声法の一般化に至った、と考えれば良いでしょう。それにしても、accel./rit.する同一音の重ね合わせを分配しただけの「シナファイ」同様、シンプルなアイデアで一品作ってしまう力量には脱帽です。

《エリフソン》と《ホアイ》の同一素材箇所を比べてみると、大別して、

(1)…同じグラフから作成したらしく曲線が似ているもの[移高形]
(2)…音高はほぼ同じだが、奏法が同音連打などに変化しているもの
(3)…最終結果の譜面としてもほぼ同一のもの、の3つのタイプに分類されます。


《ホアイ》で想定されている5本ペダル付きのモダン・チェンバロは、ヒストリカル・チェンバロやモダン・ピアノに比べて同音連打が非常に容易であり(和音でも)、また長い音符が良く響かないという特性を持っています。上記の(2)は、ピアノのために書かれた譜面をチェンバロ用に変換したもの、と捉えることが出来るでしょう。(2)や(3)のケースでは、譜面は相当似ているものの、チェンバロとピアノで同じ指使いを使うわけにはいかなくなります。とまれ、素材はバラバラに配置されていることもあり、聴覚上で対応関係を識別するのは非常に困難なはずです。

オルガン独奏のための《グメーオール》(1974)は、《エリフソン》と同じ年に書かれ、ほぼ同一の書法で貫かれているにもかかわらず、全く共通した素材は見られません。してみると、「面白げ」な樹形図パターンが少ないから使い回している、という仮説も成り立たなくなります。

なお、《ホアイ》出版譜の致命的ミスプリントについてユッカ・ティエンスー氏と雑談した際、ソプラノとアンサンブルのための《アカンソス》のピアノ・パートにも《ホアイ》と類似したパッセージが出てくると伺いました(私は未確認)。

余談ながら、ピアノとヴァイオリンのための《ディフサス》(1979)の第124〜131小節は、ピアノ独奏のための《エヴリアリ》(1973)の第143〜150小節の順序を変え、一部音高移動させたものに等しいですし、《ケクロプス》(1986)には、《ミスツ》(1980)とほぼ同一の箇所が現れます。

フランソワ=ベルナール・マーシュの《コルワール》(1971)(チェンバロ+電子音響のための)は、追って書かれたクセナキスの《エヴリアリ》(1973)や《ホアイ》(1976)にそっくりな響きを先取りしています。1958年以来クセナキスの親友だったというマーシュ氏にそのことを申し上げたら、「彼が私から意識的に借用したのは、植木鉢を楽器として使う、というアイデアだけだったと思う。あと、《カッサンドラ》という題の曲を、彼の同じタイトルの曲より私が10年前に書いたくらい。」とのことでした。

【該当箇所・対応表】

c0050810_15145144.jpg以下、《エリフソン》と《ホアイ》の素材が共通している部分を、気づいた範囲で列挙致します。

「E 1-5 / K 176-180」とは、エリフソン(Erikhthon)第1小節〜第5小節が、ホアイ(Khoai)第176小節〜第180小節に対応していることを示しています。各々の箇所について、前者(エリフソン)を基準として簡単な比較も行いました。ここに挙げた以外の短い断片でも、「指の記憶」が呼び起こされるものが幾つかありましたが、今回は対応箇所を見つけることが出来ませんでした。

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E 1-5 (冒頭5小節) / K 176-180
長い音価は同音連打で細分化。《ホアイ》ではこの部分がクライマックス的山場である。

E 22-30 / K 166-173
最初は3全音下の音程で始まるが、最後の8拍分では同一音程。細部で様々な差異がある。

E 37-43 / K 215-221
完全4度ないし5度下へ。細部でリズムに差異。

E 199-204 / K 111-117
2オクターヴ下に。細部での音選択やトレモロによる音価の細分化に、興味深い差異が見られる。

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c0050810_15105471.jpgE 258-259 / K 92-93
上声部の3拍分。以下、《エリフソン》第258小節〜276小節の該当箇所は、いわば《シナファイ》的なトレモロ奏法によっている。

E 263 / K 153
上声部の一部を2オクターヴ下に。

E 264 / K 157
音高も完全に同一。

E 268 / K 95-96
1オクターヴ下に(3拍分)

E 269-270 / K 164-165
4拍半分のうち、最後の1拍分は音域が1オクターヴ下へ変更。

E 270 / K 90-91
上声部の2拍分。

E 271 / K 88
上声部のみを1オクターヴ下に。

E 272-273 / K 163
上声部のみを1オクターヴ下へ。

E 275-276 / K 160
1拍半分。

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E 357-362 / K 82-87
音域は1オクターヴ下に。長い音価はトレモロで同音連打に。

E 371-374 / K 316-319
冒頭の和音はトレモロで細分化。

E 374-378 / K 297-301
1オクターヴ下へ。幾つかの声部の加減が見られる。

E 377-381 / K 309-313
前項(エリフソン第374〜378小節)の部分で未使用だった声部を使用。

E 381-385 (最後の5小節) / K 275-279
ほぼ完全に同一の譜面。


【終わりに】

c0050810_15152518.jpg…などという、愚にもつかない指摘であっても、もっと無内容な音楽学テーズが跋扈する世の中とあっては、お茶請けくらいにはなるでしょうか。

ところで、エリフソンは神話上の人物でもあり、また後世トロイ王の名前でもありました。クセナキス《エリフソン》の追い込み練習中に、アガメムノンの亡霊が数千年の眠りから目覚めて我がコンピュータに侵入、メールの送受信が全く不可能となったことを付記しておきます。
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by ooi_piano | 2013-08-30 15:25 | プロメテウスへの道 | Comments(0)

体は正直ぢゃのう

会田誠 《美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを褒めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。》
Makoto AIDA "In so far as Fine Art, I wonder when and in what way Akira Asada, who harmed the development of Japanese art scene by praising a bunch of crap and diminishing valuables, will take responsibility."(2007)

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月刊新潮2008年5月号《くわしく教えてクラシック》─────────────────────────────
第一回「21世紀のクラシック音楽体験とは?」
中原昌也 × (ゲスト)浅田彰

(前略)
c0050810_13581290.jpg浅田彰: ワーグナーの時代、オーケストラや劇場が巨大化し、観客数も増えたことで、演奏スタイルも変わってくる。とくに出演者がカリスマ性を帯びるにつれ、エモーショナルでうねるような表現になっていった。フルトヴェングラーやカラヤンなんかが典型でしょう。しかし、ベートーヴェンの頃までは、せいぜい二、三十人でやっていた。楽器もピアノなんかはがちゃがちゃしたドライな音だった。で、あまりエモーショナルにならず、一種、機械的に演奏していた、と。その原型に戻ろうという「ピリオド楽器のオリジナル奏法による演奏」というのが、いわばカラヤン以降かなり流行っているんですね。だけど、誰も昔の演奏を聴いたことはないんだから、本当にそうだったかなんてわかんない(笑)

中原昌也: そうなんです。

c0050810_141228.jpg浅田彰: ベートーヴェンは晩年耳が聴こえなくなり、ピアノ・ソナタでも、とくに「ハンマークラヴィーア」以降は、ある意味、ヴァーチュアルな音楽を作曲していた。当時の響きの浅いピアノ・フォルテでは出ないような音を夢想していたかもしれず、その意味では、現代のスタインウェイのグランド・ピアノが後からベートーヴェンの意図を別な形で表現したと言えなくもない。僕はそれが素晴らしい演奏だったら十分なので、ベートーヴェンの時代の響きにこだわっても仕方がないと思うんです。

  小説がそうであるように、クラシックというのは、のちの創造的誤読を生みだすためのプレテクストだと思えばいいんじゃないか。真の古典文学はいくらでも創造的誤読ができる。その意味でいうと、別にベートーヴェンなんか好きじゃない、でもやっぱりその音楽は真の古典音楽だと認めざるをえない。

c0050810_20193824.jpg   僕はピアノが好きなんだけど、昔のピアノ・フォルテによる演奏よりは、グレン・グールドがめちゃくちゃに速くチェンバロみたいにドライに弾いてみせた演奏の方が面白い(というのはむしろモーツァルトの演奏に顕著だけれど)。また逆に、ヴァレリー・アファナシエフやイーヴォ・ポゴレリッチみたいに、次の音が出る前に止まってしまうんじゃないかと観客を凍りつかせるほど創造的に変形できる。しかも、本当にすごいピアニストだと、それで説得力ある演奏をやり抜いちゃうわけですよ。古典音楽というのは、そういうプレテクストとなりうる音楽だと思います。
   (・・・)レコードという複製技術の影響も大きく、カラヤンのような演奏が標準のレコードになってグローバル化した、それをもう一度、古楽の側から再検討して相対化しようとする。いま流行っているのは、そういうリヴィジョニズム(歴史の見直し)でしょう。[2008年3月、話者による加筆校閲済のインタビュー]
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by ooi_piano | 2009-03-30 01:25 | プロメテウスへの道 | Comments(5)

震災への心得

・・・・

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by ooi_piano | 2009-01-21 05:28 | プロメテウスへの道 | Comments(0)

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Youtube貼り付け可能記念・旧記事復活
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by ooi_piano | 2008-09-01 21:10 | プロメテウスへの道 | Comments(0)

(承前)

  《指が回らなくて、もどかしい》シリーズ総括の回です。
  【第1回 2007/03/02(金)】 指が回らないのは、指のせいではない。その原因究明は、自分自身で行ってゆくしかない。〔心構え〕
  【第2回 2007/03/04(日)】 推理小説のように、題材はすべて挙がっている。犯人は驚くべき身近にいる。〔人体・鍵盤・時間の対称性を利用したトラブルシューティング法〕
  【第3回 2007/03/06(火)】 そもそも、「間違い」が発生し得ないような奏法は、有り得るのか否か? 〔全関節を緩めヤジロベエのようにバランスを取ること + 弦楽器的ポジションの援用〕

  なかんずく【第3回】で演繹的に導入された考え方は、かつてこのブログで紹介したグリーペンケルを含めた既存の諸メトードを、否定している部分があります。 それにしても、腐臭立ち籠めるアカデミズムを踏襲しなくていい立場って、ホンット素晴らしいっすね(>水野晴郎風)。 以下、現時点での見解を。

  

×「指の根元はへこんではいけない」

  へっこんでも良い――というよりは、指の根元の硬直が指先の動きを阻害しないように心がけると、凹むまでは行かなくても、少なくとも出っ張りはせず、180度前後の角度に落ち着く、ということです。勿論押し付けすぎは禁物です。
  特に小指については、かつて私も根元からグキッと垂直に鍵盤に突き刺すやり方が良いと思っておりましたが、これは小指の根元の硬直、ひいては肘の硬直を招き、音色や指回りに跳ね返ってくる危険性が高い。
  こういう平べったい手の形――いわば手の甲にコインを乗せても落ちない「クレメンティ」――は、現役奏者でも例えばポリーニ・アムラン・ランラン・レオンハルトらが一時的にそういう体勢を取ることはあり、またオルガニストでは広範に見かけます。(そういえばクレメンティはオルガニストでした。)ヴァイオリンやギターの指板を押える左手にも酷似しています。一説には、故ジェルメール・ムニエ女史が推奨していたとか。
  手首・肘・肩は、君臨すれども統治せずと言おうか、そこには存在するけれども積極的には参加しない――指先の動きにつられて自由にブラブラ揺れている――ため、一見「指だけで」弾いているように見えます。 が、それは誤解です。 手の甲は、あたかも挽肉と玉葱をツナギで合わせた加熱前のハンバーグのような、グニャグニャの状態を保っています。


×打鍵の瞬間だけ力を入れる

  これは、以前にも一度批判したことがあります。この言葉の出拠が知りたい。つねに脱力しているつもりで丁度だと思います。  
  ここで言う脱力とは、力がぬける(weaken)のではなく、ゆるむ(relax)ことです。なぜ緩めるかといえば、指回りや音色のコントロールを邪魔するような、不必要な筋肉の緊張が起きないようにするためです。
  ポリーニや山下和仁の恐るべき指回りは、彼らの強靭な指のおかげと言うよりは、その指が可能たらしめた、極めて高度な脱力法によるものです。そしてその脱力法じたいは、指の弱い我々にも実践可能な筈です。「手が大きいから」「男性は筋肉の付き方が違うから」「西洋人は指が太いから」「小さい頃から猛訓練を積んでるから」「あの人は特別だから」等と、早々にケツを割るのは残念なことです。
  


×指は鍵盤と平行に

  小指や親指は鍵盤と平行である必要はありません。優先すべきなのは、指の根元の脱力です
  右手親指でCを弾いたとき、力を抜いた親指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って人差指側へ回転し、結果としてDの鍵盤の左側面にぶつかって静止する、というモーションは問題ありません。このとき、親指の根元が脱力しているだけではなく、右手の右半分(中指から小指にかけて)がそれを決して邪魔しないことが前提条件となります。同様に、右手小指でGを弾いたとき、力を抜いた小指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って薬指側へ回転し、結果としてFの鍵盤の右側面にぶつかって静止します。右手の左半分(中指から親指にかけて)がそれを邪魔しないこと。
  無論【第3回】で説明したエクササイズは、ある種おおげさな練習であり、弾く前にいちいち手首を「うらめしやあ」式に高くかかげたり、親指を使うごとにグニュグニュ回転させたりするのは本末転倒です。 あらゆる予備練習・予備プロセスは、すみやかに標準形へ戻されなければ、思わぬ悪い癖がつくきっかけにさえなります。 ただ、指先や関節に、わずかでもいいので「アソビ」を設ける余裕は持ちたいところです。
  【第3回】では、硬直を誘引するあらゆる因子を排除したゼロポイントを設定しました。まず手が鍵盤に溶け込むような状態に習熟してから、徐々に鍵盤との距離(articulation)を取っていくべきだと考えます。



×手首や肘を使ってたっぷりと

  ソプラノの故伊藤叔女史が福田進一氏に感嘆して曰く、「こんなにギター弾けたら、気持ちいいだろうなぁ・・・まるで左手が生き物のように動くのよね」。福田氏つっ込んで曰く、「俺は生き物だって!」。
  そう、我々は生き物なので、指と手首と肘と肩は一心同体です。 肘を「使う」ことと肘を硬直させることは別物ですし、肘や手首を使っていることを演奏中にわざわざ見せびらかす必要はありません(※)。
  肘が不必要に外側に突き出たり、あるいは不必要に内側へ引き付けられている場合は、外から見て硬直が推測されます。しかし、押し付けすぎ、あるいは浮かせ過ぎ、そして「特定のポジションで」一時的に硬直が発生するケースは、他人はおろか、自分でも非常に気付きにくいものです。
  一方、指先の硬直/不如意は、視覚的にも認知しやすい。 〈指が上にピンと立ってしまって硬直 ⇔ 指が内側へ畳み込まれて硬直〉、あるいは、〈指が鍵盤の底までいかず中途半端に浮く ⇔ 指が鍵盤の底を不必要に押し付けてしまう〉、等。 こういう癖があっても、日本人のカタカナ英語が「通じる」が如く、「弾けてしまう」ぶんには幸せな人生が送れます。 が、【第1回】で先述しましたように、意識されない筋肉のこわばりは、意識されない透明な壁を自分の回りに張り巡らすことに直結します。

  これも以前に申し上げましたが、理想的に素晴らしく良い耳と、充分に良い楽器があれば、場合によっては自分自身でテクニックを矯正出来るのかもしれません。 が、何が良い音色なのか、という価値判断じたい、日本の環境下では存外に困難でしょう。

  (※)指先・手首・肘のどこに意識の焦点があるか、をあえて言うならば、「手の平の『肉球』」の部分です。肉球をぷよぷよとバウンドさせている感じ。



×解剖学的・物理学的うんぬん

  【第2回】【第3回】では、あえて筋肉の名称などは一切使いませんでした。筋肉のと機能、その結合の仕方は、余りにも各人各様であり、しかもその筋肉に指令を出す人間の脳は、現在でも仕組みがほとんど解明出来ていないブラックボックスだからです。
  アスリートの優劣を決するのは、筋肉の量ではなく質です。 そして、筋肉の質は、訓練により、ある程度は変化させることが出来る。 コルトーの映像を見て、コルトーの身体を物真似するのは簡単ですが、しかし決してコルトーの音色は出せない。 当たり前のことです。
  もちろん、低レベルの範囲では、テーブルの上でピアノを弾く仕草をしてもらえれば、その人の音色がおおよそ分別可能ではあります。テーブルの上の時点で、既に手の使い方が変だからです。


×美しい手の形うんぬん

  【第3回】では、不必要な力が入る要素を極力排除するために、「手の形を整える」という指標を一旦放棄しました。
  関節がしっかりしていない学習者の手の形が崩れた際、脱力を優先した結果そのようになっているのかどうかを、注意深く見極める必要があります。なぜなら、目先の音量・指回りのために、無垢な脱力法(=音色)を犠牲にすると、角を矯めて牛を殺すことになりかねないからです。「健康のためなら死んでも良い」というような様式美を生徒に押し付けるのは、未必の故意として指弾されるでしょう。



×奏法には色々考え方・流儀がある

  グラスハーモニカやオンド・マルトノの奏法文献を紐解くと、そのいきあたりばったりな記述に苦笑せざるを得ませんが、よく考えると、ピアノ奏法指南書も似たようなものです。

  【弾けてしまう子の場合】・・・・・弾けてしまう子はしばしば、教師の言うことを聞きません。 3割先生、7割自分。 先生側も、好きにさせておくことが多い。
  さて、こういう子が教える立場になると、なにせ、いつのまにか弾けてしまうので、「どうして弾けるのか」を省察・言語化していることは稀です。ですので、なぜ生徒の指が回らないのか理解出来ない。ムカデに歩き方を尋ねるようなもので、善意でのアドヴァイスも生徒の混乱を招いたり、表層的な効果を狙うだけになりがちです。

  【弾けない子の場合】・・・・・・弾けない子はしばしば、教師の言うことに振り回されます。 7割先生、3割自分。 教師側も、まさか自分の言ったことが、生徒の可能性を凋めているとは夢にも思っていません。
  さて、こういう子が教える立場になると、さらに話はややこしい。 ピアノを20数年誰かに師事して、ピアノは弾けるようにならなかったが、ピアノを「教える」ことは出来るようになった。なんとなれば、20数年間耳にタコが出来るほど聞かされた言葉を、自分で理解も納得も実践もすることなく、適当に復唱していれば商売になるからです。 いわく、「もっと力を抜いて」。 (→振り出しに戻る→)


  はたして、パウリ効果の寄せ集めのようなシロモノ(「下手糞の現象学」とでも)が、ピアノ奏法虎の巻として上梓される運びとなります。もっとも私見では、「悪い先生はいない。悪い生徒がいるだけだ」。
  生徒としての良し悪しは、ある情報が目の前を通過していった際に、その後ろ髪を毟り取るべく手を伸ばすか伸ばさないか、で明暗が分かれます。「こういうムズカシイ説明がしてある本(or授業)は分からない」と尻込みするのも困り物だけれど、「これなら知っている」と早合点するのはそれより遥かに危険です

  生徒は先生とどう付き合うべきか、先生は生徒をどう見守るべきか、については、また別の機会に。 (この項終了)

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by ooi_piano | 2007-03-08 13:24 | プロメテウスへの道 | Comments(0)


(承前)
  意識されない筋肉のこわばりを防ぐために、筋肉がもっとも緩められた状態での打鍵の可能性を考えてみます。
  お題は、《もっとも完璧に音階やアルペジオを弾くには》。私見では、これは《親指の位置が変化したときに、手首や肘に緊張が走らないこと》と、ほぼ等価だと考えます。それが非常に難しい。

  指の筋肉がもっとも緩められた場合、水が方円の器に随うように、指は鍵盤の形状や質量(抗力・弾性)に寄り添い、溶け込んでいく筈です。指主体ではなく、対象(鍵盤)主体、という発想は、チェンバロ・フォルテピアノ・クラヴィコード・オルガン・グラスハーモニカといった、諸々の古楽器体験から導き出されました(あと、オンドマルトノのリボン奏法とトゥッシュ)。結果的に、既存のピアノ教授法で語られる言葉の幾つかを全否定するに到ります。
  取り合えず文字説明ばかりになりますが、追って実施例のドガログ動画を貼り付ける予定です。

  以下に延々と説明させて頂くのは、「緩められた手を鍵盤上へ置きに行って、元に戻す(引き上げる)」、という一モーションの詳細です。「置いて、離す」以外は、出来る限り何も足さない引かない、というのが特長です。腋の下をコチョコチョくすぐられると、ついヘナヘナと力が抜けてしまう瞬間がありますが、あの状態のままでピアノを弾く、ということです。出来ます。可能です。


(1) 「うらめしや」のポーズにおける弛緩確認

  (a) まずテーブルの側に立ちます。頭が上から引っ張られているような、いわゆる正しい姿勢です。首は肩の上に乗っており、顔は真正面を向いています(これは、肘に余計な緊張が走るのを防ぐためです)。両腕は糸の切れたマリオネットのように、脱臼した状態でだらんとブラ下がっています。
  ノンレム催眠時と同様にリラックス、というのは無理にしても、一番落ち着ける場所(寝室、風呂場、神社・教会etc)、落ち着く時間(深夜、早朝etc)、落ち着くセッティング(家族と一緒、香を焚くetc)を選ぶのがポイントでしょう。

  (b) 利き腕が右手なら、左手から始めたほうが良いかもしれません。利き腕より脱力しやすいと思います。
  左手首を、上から操り人形の糸で引っ張られているように、(a)の状態から高い位置へと持ち上げていきます。いわゆる幽霊の「うらめしやあ」のポーズ(※)になります。指先は下へ垂れたまま。「糸」は手首だけについており、肘や肩は手首の動きに後からブラブラと従うだけです。
  誰かに手首を引っ張り上げてもらうのがベストでしょう。箸や棒で下から持ち上げてもらっても構いません。
  他人に手首を触られた瞬間に、下腕や指先がリキんでしまうケースもあります。その場合は、「触りますよ、あと10cm、あと5cm、触りました、つまみますよ、つまみました、ゆっくり持ち上げます」、などと言ってもらい、徐々に慣らしていくと良いでしょう。
  もちろん、自分のもう片方の手(この場合、右手)で持ち上げていっても構いません。 が、持ち上げる手(右手)にいつのまにかこわばりが発生し、それが持ち上げられる手(左手)の脱力に影響してしまう危険性があります。
  (※)・・・両手での「うらめしや」の手首をさらに高い位置にあげ、腕を少し横に広げると、フォーサイスやベジャール(「ボレロ」)等でお馴染みのポーズになります。

  (c) つまみ上げた手首を、ゆっくり元の位置(腰の横)へ戻します。 また持ち上げます。これを数回繰り返します。肘や指先はダランと垂れたままです。

  (d) ほどほどの高さまで持ち上げた手首を、パッと離します。 力が抜けていれば、糸の切れたマリオネットのように、腕全体が落下して、いくらかの減衰振動ののち、元の位置に戻るはずです。
  いきなり離されると、びっくりしてついリキんでしまう、という場合は、これもあらかじめ、「さぁ今から手を離しますよ・・・3、2、1、はい離しました」、などと言ってもらった方が良いでしょう。

  (e) つまみ上げた手首を、空中で小刻みに上下、左右へ軽く振ってもらいます。 各部の力が抜けていれば、まるで手首が「中身の詰まった手袋」のように左右に触れると同時に、肘や二の腕(上腕の肉)がプルプル震えるはずです。 振る、止める、振る、止める、を数回繰り返します。
  そして、(d)のように手首をパッと離し、落下するのを確認しましょう。 脱力している筈の手首を左右に振られただけで、いつの間にか肘がこわばってしまい、腕がストンと下へ落ちていかないことが、往々にして発生します(ここ非常に重要)。

  (f) つまみ上げた手首を、今度は小刻みではなく、前後・左右に大きく20cm~30cmほど往復させてもらいます。 ゆっくりで良いです。 そして、パッと離して、落下確認。

  (g) 今まで指先は、ノンレム催眠時のようにダランと垂れ下がっていました。ここで初めて、わずかに(1cm程度)折り曲げてみて下さい。 そして、(e)のように手首を小刻みに振ってもらい、落下確認。

  (h) 指先をわずかに折り曲げても脱力状態が維持出来るようでしたら、折り曲げる度合いを増やしていきましょう。
  そして今度は、任意の2本の指を交替でゆっくり折り曲げるモーションを行いつつ、(e)の「小刻み」「落下確認」、そして(f)の「横移動」「落下確認」をして下さい。

  (i) 「5本の指先をひとところに集める(長3度のトーンクラスターの位置)」、「人差し指から小指までは不動で、親指だけを広げる(離す)モーション」を、同じ条件下でやってみて下さい。
  どこかで壁にぶつかったら、後戻りするか、条件を甘くして再試行してみましょう。指先を折り曲げるだけだったら大丈夫だったのに、左右に20cm動かされたら駄目だった等、色々な事態が発生することでしょう。 一般に、幾つかのモーションを組み合わせるに従い、硬直も起こりやすくなります。脱力したまま親指を横へ広げるのは大変難しいので、適当に切り上げて下さい。

  (j) 5本指を、幾つかの段階に分けて徐々に放射状に広げてゆき(指先は不動)、それぞれで「小刻み」「落下確認」etcを行って下さい。 
  オクターヴ位置まで広げたところで、肘etcを脱力したまま(e)のように上下に小刻みに揺らすことが出来、またその状態が(f)のように左右10cmの往復運動を組み合わせても崩れないのならば、《ハンガリー狂詩曲第6番》《英雄ポロネーズ》《チャイコフスキー第1協奏曲》《リスト・ソナタ》等のオクターヴ連打は、楽々可能だと思います。


(2)テーブルの上に手を置きに行って、引き上げる

  (a) つまみあげた手首を、非常にゆっくりとテーブルの上へ下ろしていきます。指先はダランと下に垂れたままです。
  まず、中指~薬指あたりの指先がテーブル表面に触れるでしょう。触った瞬間に、手首にピクッと緊張が走らないように注意しましょう。手は何もしません。あくまで柔らかい棒としてオブジェ化しており、されるがままになっています。 

  (b) 手を下ろしていくに従い、指の第1関節、そして第2関節が徐々に曲がり始めます。それに抵抗しないこと。指の力を抜いていれば、そののち指の根元が凹んで来るでしょう。手首が凹むのもオッケーです。錆止め錆落とし潤滑剤スプレーをあらゆる関節に吹き付けて、ヌルヌルさせているイメージ。指が折れ曲がってゆくのは、あくまで指先がテーブルに触れてから後の出来事です。超スローモーション、レガーティシモ、ピアニシモの雰囲気で。

  (c) 最終的に、手が招き猫の「グー」のような形で、テーブル表面に置かれた状態に到ります。肘はリラックス出来ているでしょうか。 手はテーブルの上に置かれているだけで、決して余計な圧力を加えたり、押さえ込みにかからないこと。

  (d) さて、今度は手首を元の位置まで、ゆっくりと引き上げていきます。
  まず手首が上にあがってゆきます。そののち、それに引き摺られるようにして、指がテーブルから引き剥がされていきます。 指先は納豆の糸、あるいはチューインガムのように、テーブルに未練がましく接触していることでしょう。 習字の筆先が、硯の墨汁のなかへドボンと沈んで、墨汁を吸い取ってヌチョッと持ち上げられたときの感覚にも似ています。

  (e)手首が元の位置まで引き上げられたら、当初と全く同じように、「うらめしやあ」の脱力状態へ戻っていることを確認しましょう。しばしば、ここまでのプロセスの途中でリキみが発生しがちです。 テーブルに手を置くだけではなく、それを引き上げて、一つのプロセスが終了します。 初めのうちは、この「引き剥がし」作業で、手首の脱力を一回一回確認するのがベターです。
  手をテーブルに置くモーション(前半)と、テーブルから離すモーション(後半)が、正確にビデオの逆回しになるように心がけて下さい。繰り返しますが、これは死体あるいは人形の手首を持ち上げ、そののち下げるのと一緒の動きです。手首から先(=指)、手首から手前(肘や肩)は、能動的には何も行いません。

  (f) 立ってテーブルの側で出来るようになったら、今度はピアノの閉めた蓋の上に手を置く作業をします。最初は立って、次に座って。

  (g) 誰かの手を借りてやる → 自分のもう片方の手で持ち上げる → 利き腕だけで「うらめしや」体勢に入る、 とプロセスを踏みましょう。
  手の指は糸コンニャクかモップの先の毛糸のようなもので、それを下腕の「骨(=モップの取っ手)」で、テーブルに押し付け/もたれかけさせている感じです。



(3) 鍵盤の上に手を置きに行って、引き上げる (音高は狙わない)

   フタを開けた鍵盤上の任意の場所に、手を置きに行きます。モーションは(2)と全く同じです。(2)の(f)で、既にピアノの前に座っていて、「うらめしやあ」ポーズで手を置きにいくところまで出来ている筈です。
   鍵盤には、音が出ないくらいスローモーションで手を置いていきます。 キーがカタンと押し下がる抗力を、手全体で感じましょう。熟柿を押し潰しているような感覚です。 音高は決して狙わないで下さい。 まず指先が鍵盤に触れ、手首が下がるに従って、諸関節が折り曲げられてゆく。
   このとき、手首の上げ下げに応じて、肘の位置は微妙に前後左右、上下しています。左手首でここまで出来るようになったら、今度は右手首で同様の練習をします。



(4) 鍵盤の上に手を置きに行って、引き上げる (音高を狙う)

   (a) 出来る限り(1)~(3)で行ってきた脱力状態を維持したまま、打鍵に入りましょう。以下、右手首(CDEFG=12345)で考えます。
   まず、中指をE音へ着地させる練習です。ダランと垂れ下がった中指の先端が鍵盤にタッチし、手首の位置が下がるつれてキーが押され、同時に第1関節・第2関節が徐々に折り曲がり始めます。指の根元が少し凹み気味になったあたりで静止します。手の甲から先はショック・アブソーバーとなっています。指の根元を決して硬く(出っ張らせたままに)しないこと。鍵盤へ着地させる前に、一度中指の先端を、ツンツンつついて関節をへこませていくのも良いでしょう。 引き上げるときは、ビデオの逆回しです。
   ポイントは、中指を中心/対称線として手の右側(薬指・小指)と左側(親指・人差指)が、やじろべえのようにバランスを取っていることです。

  (b) 次に、小指→薬指→中指の順番で鍵盤に触れていくエクササイズです。 触れた指は、そのまま鍵盤を底まで押し下げ、静止します(音を切らない)。 最終的に、E-F-Gの3音を全て押し下げたところで終了。 小指は「鍵盤と平行になる」必要はありません。 親指・人差し指は何もしません。 この5→4→3のモーションでむしろ意識すべきは、使用されていない親指の脱力です。 小指の指先が鍵盤に触れた途端、親指が突っ張ってしまっていては、元も子もありません。 これを防ぐには、(a)で述べたように、「中指を中心/対称線として、手の右側(薬指・小指)と左側(親指・人差指)が、やじろべえのようにバランスを取っている」イメージを崩さないことです。左半分使用時に、右半分の脱力が崩れないように「バランス」を意識すると、手首や肘の思わぬ硬直を回避出来ます。

  (c) 次に、中指→人差指→親指を、(b)と同様に押さえ込んでいきます。 不必要な圧力を加えるのは避けましょう。
  このとき非常に重要なのは、親指の挙動です。 関節がグニュウと曲がりつつ、手の内側(人差指側)へ向かって指先が回転していきます。回転してOKです。親指がツッパラ無いためには、他の4指、特に小指の脱力が条件となります。

  (d) 同様に、中指→薬指→小指、ならびに親指→人差指→中指で、(c)と同様に落下練習します。前者では親指の脱力を、後者では小指の脱力を意識しましょう。

  (e) ここまで出来たら、(b)、(c)、(d)のエクササイズで、鍵盤をそのまま押さえ込むこと無しに、順次離鍵していくようにします。

  (f) そののちに、「小指→薬指→中指」と「中指→人差指→親指」を合体させて、「小指→薬指→中指→人差指→親指」をワン・モーションで行う練習をします。 どうしてわざわざ2分割して、辛気臭い脱力エクササイズを推奨するかといえば、そこに硬直が発生しやすいからです

  (g) 同様に、「親指→人差指→中指」と「中指→薬指→小指」を合体させて、「親指→人差指→中指→薬指→小指」をワン・モーションで行う練習をします。手首の高さは、慣れてくればどんどん下げていって結構です。弾いたあとに手首を元の高さへ戻すのは、単に手首の脱力確認に過ぎません。

  人間は生き物であるので、それぞれの指を使用していく際の、関節ごとの軸の捻れを、いつのまにか連続的に微調整しています。指の諸関節、手首、肘etcの角度調整α+β+γ+δ・・・の総和によって、そのときどきに最も指先にとって都合よいポジションが取られます。この小さな微調整の一部が上手く働いていないと、それが全体に波及し破綻が訪れます。 
  すなわち、指先だけに意識を集中(一指頭禅)するのは、かえって良くありません。鰯の頭も信心からと申しますが、崆峒花架拳も西野式呼吸法も、何かに硬直を起こさせるのなら意味がありません。

  
(5) 音階とアルペッジョへ

  (4)では、右手を親指側と小指側に2分割した上での弛緩法を試みました。 ここで、ヴァイオリンやギターにおける「指板ポジション」の考え方を導入したいと思います。
  これは、基本的に手を完全5度以上には広げず、あとは指と指との拡張を繰り返して脱力を図るやり方です。ポイントは2つ、〈n番目の鍵盤からn+1番目の鍵盤へ行く動きが、n+2番目の鍵盤の位置に影響されないこと〉、〈n+1番目の鍵盤を押えるために曲げ伸ばしするのは、n番目の鍵盤を押えている指であること(=n番目の鍵盤を押えるための圧力がそれを阻害しないこと)〉。

  例えば、ホ長調の音階(E-Fis-Gis-A-H-Cis-Dis-e)を右手(1-2-3-1-2-3-4-5)で演奏するプロセスの詳細は、以下のようになります。

  (a) 右手親指がE音を打鍵する際、残りの4本の指(2-3-4-5)は全て白鍵上(F-G-A-H)にある。
  (b) Fの上にあった人差指を、ゆっくりFisまで持ち上げる。これは、親指を曲げ伸ばしして行う(人差指は何もしない)。人差指が黒鍵Fisに到着すると同時に、中指・薬指はGis-Aisの位置へのぼり、親指・小指もそれに対応した、黒鍵表面の高さへ持ち上がる。
  (c) 中指でGisを打鍵。
  (d) DisとFisの中間上空にあった親指を、Aまで下ろしてくる。この運搬作業は、Gisを押えている中指の曲げ伸ばしで行う。親指がAに到着すると同時に、残り4本の指(2-3-4-5)は全て白鍵上(H-C-D-E)へ移動する。黒鍵の位置エネルギーを利用する。
  (e) 人差指でHを打鍵。
  以下同様。

  こういったプロセス分化を経たのち、各部のモーションを結合していきます。アルペジオも同様です。


  (この項続く)
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by ooi_piano | 2007-03-06 20:37 | プロメテウスへの道 | Comments(0)


(承前)
《Aという場合で筋肉にこわばりが発生する一方、似たようなA’では余りこわばらず、さらに発展させたA’’だと全くこわばらない。考えられる要素を変奏させて、癌(クレーブス)を見つけ出すこと。》

  この変奏法の一つに、原型を時間的に、あるいは空間的に変形(反転・拡大・縮小・部分改変など)させて比較衡量するやり方があります。

c0050810_5384341.gif【時間軸上の逆行形】
  原形が「レ・ミ・ファ#・ソ・ラ・シ・ド#・レ」(右手指使い:12312345)を時間的に反行させると、「レ・ド#・シ・ラ・ソ・ファ#・ミ・レ」(右手指使い:54321321)となります。ニ長調の上昇音階に比べて下降音階が弾き易いならば、いったい何が違っているのか。
  「ミ・ファ#・ソ・ラ」(指使い2312)の部分を取り出し、それをビデオのスローモーション逆回しのつもりで「ラ・ソ・ファ#・ミ」(指使い2132)と弾いてみる。もし、「ミ・ファ#・ソ・ラ」と弾いた際の筋肉の使い方を、完全に逆回しに出来たとしたら、両者の難易度は同じ筈である。下降にくらべて上昇時には、何か余計な肘の緊張や、不適切な親指のモーションが発生していないかどうか。

  ※上昇時に、ソを弾く親指が硬くなってそこに断層が発生しがちなのは、往々にして人差し指が脱力出来ていないからです。ミを弾いた人差し指は、中指がファ#を押えている頃にはファ・ナチュラルあたりを茫然と漂っているべきで、それは、その前後では一切使用されていない筈の小指の脱力によって助けられるでしょう。

【空間的変形の例】
  これがニ長調ではなくニ短調だと、中指が黒鍵ではなく白鍵に来る、という違いが発生します。この程度の違いでも、弾き易さにちょっとした変化が現れます。
  「レ・ミ・ファ#・ソ・ラ・シ・ド#・レ」を、「・ミ・ファ#・ソ・ラ・シ・ド#・レ」や「ド・ミ♭・ファ#・ソ・ラ・シ・ド#・レ」(指使いは一緒)に変形したら、親指くぐりはラクになるかどうか。もしラクになるのだとしたら、何が原因なのか。


【時間軸上の拡大・縮小】
  「拡大」は、いわゆるスローモーションです。スローモーション練習では、一つの動きのプロセスを出来るだけ細分化すること(0.1秒単位のコマ送りなどをイメージ)、そしてそれを出来るだけ滑らかにつなげてゆくことを心がけます。音は出なくても構いません。チェンバロやオルガンでは無音練習が可能ですが、ピアノだと多少苛立たされるので、電子ピアノの電源を切るくらいしか方策がありません。
  「縮小」とは、逆に動きを「早回し」にすることです。ある複雑なパッセージについて、細部に拘泥することなく、それが軽やかな「ワンモーション」により快刀乱麻されるような指の回りを想像します。鍵盤上ではなく、テーブル等の上でイメトレするほうが良いでしょう。指/手首と、肘の動きの位相がズレている(ズレるべきである)ことに気付くためには、この早回し練習が有用です(弦楽器のボーイングしかり)。
  テンポを速くしたら弾けなくなる、というのは、その弾けなくなる箇所そのものではなく、直前・直後の「何がしか」がネックになっていることも多いです。「バス・ガス爆発」だと言いにくいのに、「バスが酢爆発」だとちょっとラク、等。


c0050810_68798.jpg【空間上の反行形】
  右手では指パッチンが鳴らせるのに、左手ではスカってしまう場合の練習方法を考えてみます。
  まず左手を、右手の完全な対称形(鏡に映った形)に構えます。それから、各々の指にかける圧力、滑らせるときのスピード等の諸要素を、全く同一に設定します。 そうすると必ず鳴るようになります。

  右利きの人が左手で字を書く練習のプロセスを考えてみましょう。
  鉛筆を持つ右手と全く同じ(鏡に映った形)で、左手に鉛筆を持ちます。そして、左手で「N」を書きたかったらまず右手で「И」を、左手で「R」を書くときにはまず右手で「Я」を書き、その右手の動きを左手で対称にコピーします。左手での最終的な書き順を考えて、右手で「И」を書く際、「(i)右側縦線→(ii)斜め線→(iii)左側縦線」と、わざわざ通常とは逆方向から書いていきます。(ii)の斜め線や、(i)から(ii)へ移るモーションなどが、右手による予備練習段階で既に容易ではないことが判明します。

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  さて、ピアノの黒鍵は2つ、3つ、2つ、3つと規則的に並んでいます。この2つの黒鍵の真ん中(Dの音)にを置くと、鏡の向こうには、こちら側から連続した、全く同じ鍵盤の並びが見えます。3つの黒鍵の中間(A♭の音)に鏡を置いても同様です。
  人間の体は左右対称ですので、この「鏡の世界」を利用した練習法が考えられます。
  右手で弾かれた「レ・ミ・ファ#・ソ・ラ・シ・ド#・レ」(指使い:12312345)を鏡に映すと、左手で弾かれた「レ・ド・シ♭・ラ・ソ・ファ・ミ♭・レ」(指使い;12312345)となります。(体の中心線をDかA♭の鍵盤位置に合わせましょう。)
  この「変換(変奏)」は、幾つか譜例を書き出してみれば、あっけないほど単純な原則に基づいていることが分かるでしょう。
D→D / A♭→A♭ (この2音は不変)、 
{C→E、 E→C}
{B→F、 F→B}
{A→G、 G→A}
{C#→E♭、 E♭→C#}
{F#→B♭、 B♭→F#}

●長3度+短3度が、短3度+長3度に逆転するため、長調は短調に、短調は長調に変換される。
●調号は、#が♭に変わる(調号の数は一緒)。たとえば「イ長調(#3つ)」は「ハ短調(♭3つ)」になる。
●本位記号(ナチュラル)はそのまま。
●重変位記号は、#が♭に変わる(ダブルシャープはダブルフラットになる)。
●上昇音型は下降音型に、下降音型は上昇音型になる。指使いは常に同じである。

右手「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」(指使い:12312345) ⇔ 左手「ミ・レ・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ」(指使い:12312345)
右手「シ♭・ド・レ・ミ♭・ファ・ソ・ラ・シ♭」(指使い:21231234) ⇔ 左手「ファ#・ミ・レ・ド#・シ・ラ・ソ・ファ#」(指使い:21231234)
右手「ソ#・ラ・ソ#・ソ#・ラ・ソ#・ソ#・ラ」(指使い:45445445) ⇔ 左手「シ♭・ラ・シ♭・シ♭・ラ・シ♭・シ♭・ラ」(指使い:45445445)

  右手が利き腕の場合、この「鏡像」練習によって、不器用な左手が器用な右手に叱咤される一方、妙な癖の付いてしまった右手が朴訥な左手から教えられることも多々あります。左右同時に対称形を弾きながら、非常な細部まで完璧に徹底比較すること。
  例えば、弾き終わった直後の指が、どういう軌跡を描いて次のポジションへ移動していくか。指の形(曲げ伸ばし具合)、そして音量や音質(アタック)の差異の発生、手首・下腕・肘・上腕の筋肉がどのように動いているか、等。

  先述の【空間的変形の例】のように一部の音高を変えてみたり、あるいはレガートをポルタートにしてみたり、といった変奏と組み合わせてみた際、苦手なほうの手がその変化について行けなくなる---と、問題をさらに顕在化出来ます。こういうリフレクション作業は一回で済まされるものではなく、試行錯誤が付き物です。
  概して、物をやわらかく撫でる等、手首から先の脱力については右手(利き腕)が優れ、肩から肘にかけては左手が脱力に優れる傾向にあるようです。


c0050810_631618.jpg  回文に代表される数々の言葉遊びのように、原型を時間的・空間的に変形させて眺めるのは、西洋音楽では古来マショー・バッハ等数多く行われてきました。調性応答を無視した反行・蟹行(symmetrische Umkehrung)は、シカゴのベルンハルト・ツィーンによって発想され、マーラー死去直前の1910年にブゾーニによってベルリンへ持ち帰られて、ブゾーニ門下のピアノ練習法のみならず、シェーンベルクらの作曲法にも有形無形の影響を与えたと思われます。
  上述のような「鏡像形」を両手で同時に弾くアイデアは、調性枠ではウェーバーやショパンに先例が見られるものの、厳密に実施した場合、かなり珍妙な(しかも余り魅力的でも無い)複調を引き起こすため、ブゾーニ《第2ソナチネ》《対位法的幻想曲》以降、パーシケッティやカプースチン、あるいはフルクサス・イヴェントに数例が見出されるだけとなっています。これらをさらに折句(アクロスティック/縦読み)にしたり、強度や音価にまで広げたものが、総音列主義です。
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by ooi_piano | 2007-03-04 22:42 | プロメテウスへの道 | Comments(0)

  #最初に申し上げます。この数ヶ月で鍵盤奏法に関する考え方がかなり変わってしまい、グリーペンケルを完全肯定することにも、シャンドール本をボロカスにこきおろすことにも、疑義が発生しました(後者が酷い本だという基本的態度はブレておりません)。2006年以前に書いた奏法論は、順次改訂をして行く所存です。


c0050810_382427.jpg  「ピアノ 指 緊張 こわばり」等の検索語で、このブログへいらっしゃる方が多いようです(>ネームカードのアクセス解析)。
  初心者が16分音符で指がもつれるのも、上級者が重音技巧に手を焼いたり腱鞘炎やジストニア(書痙・跳ね指)で往生するのも、傍目には似たような現象に見えますし、「もどかしさ」という点では両者に差は無いでしょう。運動神経や才能の多寡は、この際クリティカルではありません。

  なぜ「もどかしい」のか、なぜ神経細胞を活動電位が効率的に伝わっていってくれないのか、と言えば、「意識されない」筋肉のこわばりが邪魔をしているからです。どうやったら、その元凶を白日の元に照らし出すことが出来るか、について、取り急ぎ幾つかの原則的指針を挙げてみます。


c0050810_5201325.jpg◆原因は別の場所にある
  指が回らない(=音が出ない)のは、指のせいではありません。末端の現象にこだわると、大きくコトを見誤ります。
  (i)指の根元の硬直(使用中でない指も含む) (ii)手首の硬直 (iii)肘の硬直 (iv)肩の硬直  ・・・といった、一見無関係な箇所が、指先の動きを妨害している筈です。(ii)は(i)の原因になりえますし、(iii)は(ii)を、(ii)は(iii)を、(iv)は(iii)を誘発します。そして(i)は(iv)へと還流する。
   場所さえ特定出来れば、上達・回復のプロセスは半分終了しているも同然です。氷を溶かすように、ひもをほどくように、瓶のキャップをゆるめるように、筋肉の硬直を取り除いてゆく。 じっと待っていれば、必ず指は勝手に回り出してくれます。我々の脳や体は、そういうふうに出来ています。

◆人頼みでは無理
   「どの筋肉が邪魔しているか」を外から判断するのは、まず不可能です。 ですので、善意の他人(=ピアノ教師や医者など)のトンチンカンな意見は、混乱を招くだけです。こればっかりは、自分自身でじっくりチェックしてゆくしかない。それを覚悟しましょう。
  いままで習い親しんできたピアノ「奏法」の数々を、いったん完全に無視することも、プロセスとしては有用です。この世に完璧無比なメトードなど存在せず、よってあらゆる奏者は爆弾を抱えながら楽器に向かうことを余儀なくされているからです。

c0050810_5213658.gif◆答えは目の前(=体の中)にある 
 こわばりを見つけるには、こわばってない部分あるいはこわばらない場合と比較するのが一番です。
  ピアノの鍵盤はDあるいはA♭を境界として、線対称です。右手のパッセージを、鏡の世界の中で左手で置き換え、両者のあらゆるパラメーターを厳密に比較してみる。
  あるいは、時間軸を逆行(拡大/縮小)させることも有用です。一般に、右手上昇音階は下降音階より弾きにくい、とされますが、なぜそんなことが起こってしまうのか。
  Aという場合にはこわばりが発生し、似たようなA’では余りこわばらず、さらに発展させたA’’だと全くこわばらない等、考えられる要素を変奏させてトラブルシューティングすること。

c0050810_5292570.jpg◆「見苦しいオーヴァーアクション」に学んでみる
  ピアノ教師が脱力のプロセスとして教えた(筈の)モーションが、舞台上でも後生大事に行われているのは滑稽なことです。しかし、学ぶべき点もあります。
  (a)天井を見る・・・・・・首を真上へ向けることは不必要ですが、やってみる価値はあります。いわゆる正しい姿勢、すなわち、譜面台や鍵盤ではなく「まっ正面」を見る姿勢(=頭が上から引っ張られている/肩の上に首が乗っている状態)は、丹田→肩→肘の脱力を容易にします。
  (b)口パクパク・・・・・・打鍵直前に息を吸い込み、打鍵と同時に声を出して歌ってみると、体全体がリラックス出来ることがあります。目は半開きが宜しいようです。
  (c)肘クネクネ・・・・・・自覚しにくい硬直の筆頭が、肘のこわばり(押し付けを含む)です。基本的に肘は肩からぶら下がったままですが、指先の動きに応じて最適のポジションを取る必要はあります。あくまで指と連動しており、また揺れの振れ幅は僅かなものです。
  (d)手首「のの字」・・・・・・ポジション移動時などに、手首の位置を高くして回転させたりするのは、親指や小指の脱力--ひいては肘の脱力--につながることがあります。和音を弾く毎に手首をこれでもかと低くするのも、プロセスとしては悪くありません。勿論、傍目にほぼ不動な状態で脱力は可能です。
  (e)指先ウニウニ・・・・・・鍵盤を押えてしまった後で、ヴァイオリンのヴィブラートのようにウニウニ揉み込んでいるのは、指の第1関節・第2関節の脱力確認をしているのでしょう。指先はkeyに引っ付けたまま、関節を曲げ伸ばししてみるのは、「最適な指のポジション」探しには有用です。


具体例の詳細は、書き出すと本一冊を超えそうな勢いですが、要諦は追って続編にて。
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by ooi_piano | 2007-03-03 11:10 | プロメテウスへの道 | Comments(0)

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by ooi_piano | 2006-12-08 21:15 | プロメテウスへの道 | Comments(3)

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by ooi_piano | 2006-12-03 10:18 | プロメテウスへの道 | Comments(4)