6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

カテゴリ:雑記( 21 )

■2001年度-2018年度の個人委嘱作品リスト + 演奏動画リンク

c0050810_19192951.jpg【2001年】
 杉山洋一《嬉遊曲II》[2 pianos](2001年11月初演)
 三宅榛名《御業を待ち望む~オルランド・ディ・ラッソのモテットに基づく(2台ピアノ版)》 [2 pianos](2001年11月初演)

【2002年】
 鷹羽弘晃《H2O》[piano solo](2002年5月初演)
 福井とも子《歩く人は歩かない 踊る人は踊らない》[piano solo](2002年5月初演)

【2003年】
  今堀拓也《サンクロニザシオン》[vn/pf](2003年5月初演)
  大村久美子《ゲルミナツィオン》[vn/pf](2003年5月初演) 
  陳銀淑《トッカータ》[piano solo](東京オペラシティ財団委嘱、大井浩明に献呈/2003年12月初演)
  野村誠《パニック青二才》[2 pianos](京都コンピュータ学院委嘱)(2003年12月初演)

【2004年】
  伊左治直《機械の島の旅(夜明け)》[harpsichord solo](2004年2月初演)
  三宅榛名《Come back to music(チェンバロ版)》[harpsichord solo](2004年2月初演)
  しばてつ《電波梅》[Ondes Martenot + Pianica](2004年3月初演)
  吉田恭《I got rhythm and played tennis with Mr. Schoenberg》[2 pianos](2004年3月初演)

c0050810_18263610.gif【2005年】
 木山光《苦しむ中層雲》[piano solo](公募作品)(2005年3月初演)
 鈴木悦久《クロマティスト》[piano solo]/[Disklavier + computer](公募作品)(2005年3月初演)
 河合拓始《オーガンザ》[organ solo](2005年6月初演)
 木下博史《九重親方のイビキ》[organ solo](2005年6月初演)
 久保田翠《くろきもの わが眼おほへど》[organ solo](2005年10月初演)

【2006年】
  鈴木治行《Eternal Stumbling》《Is This C's Song?》《Smile》[vn/vc/pf](2006年3月初演)
  片岡祐介《工場の場面》《ボクシングの場面》[vn/vc/pf](2006年3月初演)
  鈴木潤《偽牧師のテーマ》[vn/vc/pf]、《マンドリン・セレナーデによるピアノ・エテュード》[piano solo](2006年3月初演)
  寺内大輔《クロッシング・ザ・ダンス・フロア》[vn/vc/pf](2006年3月初演)
  河崎純 《しだれ柳》 [vn/vc/pf]、《ビューティフル・ワンダフル・アイズ》[violin, cello]、 《アイスラー「子供の国歌」によるインプロヴィゼーション・エテュード》 [vn/vc/pf](2006年3月初演)
  足立智美《ブラパンダン Brapandan》[piano solo](2006年9月初演)
  林加奈《好転反応II》[fortepiano solo](2006年10月初演)
  寺内大輔《感情表現のためのエテュード》[soprano, piano](2006年11月初演)

c0050810_1828374.gif【2007年】
  今堀拓也《ヴェリテ》[Ondes Martenot solo](2007年5月初演)
  バッハ=鈴木優人《「フーガの技法」より未完の3重フーガ補筆》[clavichord solo](2007年6月初演)
  神田晋一郎《たばこの煙》[vo, pf](2007年6月初演)
  佐野敏幸《ションディプラカーシュ ~光の境界》[vo, pf](2007年6月初演)
  鈴木淳史《取り引きに、筆写で耐えた》[vo, pf](2007年6月初演)
  岡野勇仁《木々は萌え、そよ風》[vo, pf](2007年6月初演)
  片岡由紀《架空CMソング集 ~「アトラス」「カモメの極上麦茶」「ダチョウの宅急便」》[vo, pf](2007年6月初演)
  工藤あかね《ルグリにリフト》[vo, pf](2007年6月初演)
  野村誠+Hugh Nankivell《体重減らそう》[vo, pf](2007年6月初演)
  河合拓始《アゼィリア、セギディーリャ》[vo, pf](2007年6月初演)
  シェーンベルク=川島素晴《黄金の仔牛の踊り》[piano solo](2007年8月初演)
  川島素晴《ポリポリフォニー》[piano solo] (2007年8月初演)

【2008年】
  安野太郎《ダニエラ》《カナスヴィエイラス》[fortepiano solo](2008年2月初演)
  小出稚子《ヒソップ》[fortepiano solo](2008年4月初演)
  川上統《閻魔斑猫》[fortepiano solo](2008年4月初演)
  鈴木光介《Even Be Hot(ホットこともありえます)》(全7曲)[fortepiano solo](2008年7月初演)
  河村真衣《クロスローズ》[fortepiano solo](2008年7月初演)
  安野太郎《帰って来ないあなた》[fortepiano + mp3](2008年7月初演)
  清水一徹《老人の頭と鯨の髭のためのクオドリベット》[fortepiano solo](2008年10月初演)
  鈴木純明《白蛇、境界をわたる》[fortepiano solo](2008年11月初演)

c0050810_18303255.gif【2009年】
  有馬純寿《琥珀のソナチネ》[fortepiano solo](2009年3月初演)
  福井とも子《夜想曲》(全3曲)[fortepiano solo](2009年3月初演)
  野村誠《ベルハモまつり》[fortepiano solo](2009年3月初演)
  トゥバ伝承曲/等々力政彦編《豊かな森 Bai-la Taigam》~《残忍な領主 Ambïn Noyan》~《子守歌 Öpei Ïrï》[Igil, Xöömei-vo, harpsichord](2009年9月初演)
  佐野敏幸《GRS(ガレサ)》[harpsichord solo](2009年9月初演)
  川上統《花潜(ハナムグリ)》[harpsichord solo](2009年9月初演)

【2010年】
  野村誠《六つの新しいバガテル》[piano solo + film](2010年9月初演)
  山本裕之《東京ダンス》[piano solo](2010年10月初演)
  伊左治直《海獣天国》[piano solo](2010年11月初演)
  伊左治直《ビリバとバンレイシ》[piano+performer](2010年11月初演)
  杉山洋一《間奏曲V》[piano solo](2010年12月初演)

c0050810_1832868.gif【2011年】
  田中吉史《松平頼暁のための傘》[piano solo](2011年1月初演)
  清水卓也《町田のヤンキー》[piano solo](2011年1月初演)
  石川高《何処で私は道を踏みはずしたのか。何を私は行ったのか。なすべきことの何を私は成し遂げないでしまったか。》[sho + organ](2011年3月初演)
  池田拓実《Pearl on Ruby》[organ + live-electronics](2011年3月初演)
  有馬純寿《多色刷りの後奏曲I、II》[organ + live-electronics](2011年3月初演)
  多久潤一朗《オル・ガン・バン・スリング》[microtone flute + organ](2011年3月初演)
  山路敦司《通俗歌曲と舞曲 第一集より》[piano solo](2011年6月初演)
  田村文生《きんこんかん Ding Dong Ding》[piano solo](2011年6月初演)

【2012年】
  片岡祐介《カラス》[piano solo](2012年6月初演)
  副島猛《ホオジロのいる風景》[piano solo](2012年7月初演)
  横島浩《華麗対位法II》[piano solo](2012年8月初演)

【2013年】
  檜垣智也《栞》[piano solo](2013年7月初演)

c0050810_18334238.gif【2014年】
  杉山洋一《スーパー・パッサカリア》[piano solo](2014年2月初演)
  寺内大輔《地層》[piano solo](2014年3月初演)
  福島康晴《楽興の時 I/II/III》[clavichord solo](2014年3月初演)
  喜多敏博《クエリー・レスポンス》[piano solo + live-electronics]《2014年6月初演)
  宮尾幹成《オリヴィエ・メシアンの墓への小品》[piano solo](2014年6月初演)

【2015年】
  三輪眞弘《虹機械 公案-001》[piano solo](2015年1月初演)
  上野耕路《パルティータ》[baroque organ](2015年3月初演)
  福島康晴《モノローグ》[baroque organ](2015年3月初演)
  池田拓実《ジェフスキ「不屈の民」へのカデンツァ》[piano solo](2015年4月初演)
  剣持秀紀《ピンチェ》[piano solo](2015年6月初演)
  川崎弘二《木賊》[piano solo](2015年7月初演)
  湊真一《六花(りっか)のトッカータ》[piano solo](2015年8月初演)

c0050810_1835369.gif【2016年】
  上野耕路《ジェフスキ「不屈の民」へのカデンツァ》[piano solo](2016年3月初演)
  橋本晋哉《ゆたにたゆたに》[piano solo](2016年6月初演)
  小林純生《フーガ》[piano solo](2016年7月初演)
  山本貴嗣《ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」第18変奏への補筆》[piano+orchestra](2016年8月初演)
  中田粥《Pieces of Apparatus I》[piano+electronics](2016年8月初演)
  プロコフィエフ=米沢典剛《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り (1916)》[2 pianos](2016年9月初演)
  シェーンベルク=米沢典剛《室内交響曲第2番変ホ短調 op.38(1906/40)》[piano solo](2016年10月初演)
  見澤ゆかり《Vivo estas ĉiam absurda》[piano solo](2016年10月初演)
  ベルク=米沢典剛《抒情組曲(1926、全6楽章)》[piano solo](2016年11月初演)
  シェーンベルク=米沢典剛《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34 (1930)》[piano solo](2016年11月初演)
  ウェーベルン=米沢典剛《交響曲 Op.21 (1928)》[piano solo](2016年11月初演)
  ウェーベルン=米沢典剛《管弦楽のための変奏曲 Op.30 (1940)》[piano solo](2016年11月初演)
  藤井健介《セレの物語》[piano solo](2016年11月初演)
  東野珠実《星筐(ほしがたみ) IV》[piano solo](2016年12月初演)
  バルトーク=米沢典剛《弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 (1928、全5楽章)》[piano solo](2016年12月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第5番 Sz.102 (1934、全5楽章)》[piano solo](2017年6月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第6番 Sz.114 (1939、全4楽章》[piano solo](2017年6月初演)
  バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24)[2 pianos](2017年4月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936、全4楽章)[2 pianos](2017年4月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943、全5楽章)[2 pianos](2017年4月初演)
  シベリウス=米沢典剛《交響曲第7番 Op.105 (1924)》[piano solo](2017年7月初演)

【2017年】
  大蔵雅彦《where is my》[piano solo](2017年1月初演)
  古川聖《七つのノベレッテ》[piano solo](2017年2月初演)
  バルトーク=米沢典剛《弦楽四重奏曲第1番 イ短調 Op.7 Sz.40》(1909、全3楽章)[piano solo](2017年6月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第2番 Op.17 Sz.67》(1917、全3楽章)[piano solo](2017年6月初演)
  バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第3番 Sz.85》(1927、全4楽章)[piano solo](2017年6月初演)
  シベリウス=米沢典剛《交響曲第6番 Op.104 (1923)》[piano solo](2017年7月初演)
  シベリウス=米沢典剛《交響詩「タピオラ」 Op.112 (1925)》[piano solo](2017年7月初演)
  マーラー=米沢典剛《花の章 (1888)》[piano solo](2017年9月初演)
  ドビュッシー=米沢典剛《フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915、全3楽章)》[piano solo](2017年9月初演)
  バーバー=米沢典剛《弦楽四重奏曲第1番Op.11 第2楽章「モルト・アダージョ」(1936)》[piano solo](2017年9月初演)
  川島素晴《委嘱新作》[piano solo](2017年10月初演)
  水野みか子《委嘱新作》[piano solo](2017年11月初演)
  由雄正恒《委嘱新作》[piano solo](2017年12月初演)

【2018年】
  木山光《委嘱新作》[piano solo](2018年1月初演)
  伊藤謙一郎《委嘱新作》[piano solo](2018年2月初演)
  夏田昌和《委嘱新作》[piano solo](2018年2月初演)





  

[PR]
by ooi_piano | 2016-02-26 16:51 | 雑記 | Comments(0)
●上野耕路のしゃべられ対談 Vol.3 Guest:大井浩明
●『日本アカデミー賞』受賞の鬼才、“たらこ・たらこ・たらこ”生みの親によるめくるめくサントラの世界
●Yahooニュース 

c0050810_6331634.jpg  上野耕路が、5月16日(土)22:00よりWOWOW プライムにてスタートする連続ドラマW「夢を与える」の劇伴を担当。同ドラマのサウンドトラックが5月28日にリリースされる。

  「夢を与える」は綿矢りさの同名小説をドラマ化したもの。美しく健やかに育った主人公が、娘に夢を託す元モデルの母や周囲の人間の欲望の渦に巻き込まれ転落していく様子と、その中で成長していく姿を描く。主演を小松菜奈、菊地凛子の2人が務めるほか、夏帆、浅野和之、オダギリジョーといった俳優陣が出演。監督は犬童一心が務める。

  音楽を手掛けるのは戸川純らとともにゲルニカとして活動しており、近年では「ヘルタースケルター」「のぼうの城」「マエストロ!」といった映画の劇伴でも知られる上野耕路。上野はピアニストの大井浩明とともにスキャンダラスなドラマを盛り上げる。またドラマの主題歌には、菊地成孔プロデュースによる菊地凛子の音楽プロジェクト・Rinbjo produced by N/K a.k.a. 菊地成孔の新曲「dIS de rEAm」が使用される。

  CDリリースに先駆け、5月16日よりiTunes Storeほか各配信サイトではアルバムの配信が順次スタート。さらにmoraではハイレゾ音源の取り扱いも決定している。


c0050810_6521643.jpgガジェット通信

  犬童監督「(ドラマの内容がスキャンダラスだったので)最初は、嫌がられていたんです。ですから、ドラマになると決まった時には、自由にやらせてくれる、飲み込んでくれる方々に、すごく感謝しました。綿矢りささんには、原作が出て映像化をすぐにお願いしました。シナリオを見せて気に入ってもらえて。それからもう6年、やっと出来上がりが見せられるなというのが、また嬉しかったですね。」



-----------------
連続ドラマW「夢を与える」オリジナル・サウンドトラック/上野耕路
先行配信: 2015.5.16/CD: 2015.5.28 on sale
MMRC-002 /¥3,000(taxin)
発売元: music marketing research / BASiLiCA INC.

【CD】
●オフィシャル通販サイト (5/28発売開始)
●Amazon (6/4発売開始)

【配信】
iTunes (worldwide)
Music.jp
●Tapnow
Spotify (worldwide※日本以外)
●Amazon Music (worldwide)
●レコチョクオリコンミュージックストア
mora (ハイレゾ音源も取り扱い)
●oricon

c0050810_6531146.jpg収録曲
01. 嵐の朝への前奏曲 (☆)
02. 奈落
03. 時の経過 #1 (☆)
04. 幸せの幻影 (☆)
05. 屋根の上の空 (☆)
06. 幼いワルツ (★)
07. ガールタイム #1 (☆)
08. メイビー・イッツ・ユー (☆)
09. ガールタイム #2 (☆)
10. 喧噪のワルツ (★)
11. 蛇
12. 大切な思い出~メイビー・イッツ・ユー (☆)
13. 時の経過 #2 (★)
14. 濁ったワルツ (★)
15. おうまれだイエスさまが
16. メインテーマ
17. クリスマスソング
18. モノローグ
19. チェイス
20. 彼方からの眼差し (☆)
21. 後奏曲 (☆)
22. スターチーズCM
23. スターチーズ・サウンド・ロゴ

(★) ピアノ独奏/重奏
(☆) ピアノ/フェンダーローズ伴奏

WOWOWプライム 連続ドラマW「夢を与える」
毎週土曜日22:00~23:00(全4話)
※初回放送は5月16日
[PR]
by ooi_piano | 2015-05-21 06:38 | 雑記 | Comments(0)
  ピアノ/チェンバロのレッスンを随時行っておりますので、御案内申し上げます。

  主にレッスン場所は京王新線・幡ヶ谷駅徒歩6分のスタジオ です(新宿駅から2駅目・約3分)。YAMAHAのグランドピアノ、ならびに久保田彰工房のフレミッシュ2段チェンバロが入っています。いわゆる「紹介者」は不要です。
  プロフィールはこちら、奏法論記事一覧はこちら、演奏動画はこちら、最近のコンサートの感想集はこちら、レッスン余聞はこちらです。

  お問い合わせ・お申し込みは、こちらのメールフォームからどうぞ。
c0050810_923160.jpg

[PR]
by ooi_piano | 2013-11-08 07:08 | 雑記 | Comments(0)
※9年前、アルケミスタ・武田浩之氏のメルマガ用に執筆した、リサイタル紹介文のサルヴェージ第2弾です(未改訂)。
大井浩明 チェンバロ・リサイタル 《天使は励ましの御言葉もて》

2004年6月30日(水)午後7時開演(6時半開場)
池袋・自由学園明日館 東京都豊島区西池袋2-31-3

【第1部〜中全音律のイタリアン・チェンバロで】
フローベルガー《来たるべき我が死を弔う黙祷》
三宅榛名《カム・バック・トゥ・ミュージック〜チェンバロ版(2004)》(委嘱作品/東京初演) 
ジェズアルド《王のシャンソン》 
ダングルベール《パッサカリア》
ボールドウィン《天使は励ましの御言葉もて》
ロッシ《第七トッカータ》 
ブル《主の御名に於いて 第IX》
フレスコバルディ《パッサカリアによる100のパルティータ》

【第2部〜ジャーマン・チェンバロで】
伊左治直《機械の島の旅(夜明け)(2004)》(委嘱新作/東京初演)
ムファト《パッサカリア》
高橋悠治《糸車打令》
バード《パヴァンとガリアード第5番》
ナンカロウ《自動ピアノのためのスタディ 第6番「カウボーイ」&第15番「カノンX」》
フローベルガー《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》

【使用楽器】ジャーマン・チェンバロ(J.Kalsbeek 2000年作/オランダ、ミートケモデル)、イタリアン・チェンバロ(A.Anselm/Umeoka 1999年作、17世紀タイプ)

CD批評・インタビュー集成は、木下健一氏のサイトにアップロード中  http://perso.wanadoo.fr/kinoken2/intv/intv_contents/ooi_menu.html
【京都公演(2004年3月)の批評2篇】

c0050810_1595143.gif●『音楽の友』2004年5月号 p.182
 こんなに刺激的で痛快なチェンバロの時空があるのだった。
 現代ピアノ曲のCDでも海外で話題を集める大井浩明の、チェンバロを存分に聴けた夜だが、委嘱新作の世界初演1曲、日本初演2曲を含む全18曲という濃密で驚くべき内容。
 すべてに触れる紙幅は与えられていないが、時代を縦横に行き来する曲並べ、ジャーマンとイタリアン両楽器の弾き分けは鮮烈。ここでは16世紀から21世紀までの作品が、ごく自然に顔を合わせ談笑している。
 フローベルガーの品格と厳正なテンポ感、三宅榛名《カム・バック・トゥ・ミュージック》のチェンバロ版初演の淡々と気負いのない表現、エレディアのトッカータ風作品では眼も眩む恐るべき技巧を炸裂させ、バッハでは骨格を捉え構造を細密画で描き出して切れ味抜群、ナンカロウの自動ピアノのための作品で無機質に敷かれた音の軌道上に鄙びた情景を漂わせる絵心、ティエンスーの《ファン・タンゴ》の言葉遊びと洒落た音空間に気合で立ち向かうツバ迫り合いの妙。その他どれもこれも聴き手をゾクゾクさせる時間が続く。次回帰国時の京都ではピアノでまたも奇抜な企みがあるという。眼と耳が離せない。 (3月14日・青山音楽記念館バロックザール) 【響敏也】

c0050810_15103654.gif●『関西音楽新聞』623号 平成16(2004)年5月1日
 「古典と新作の同居 モダニズム精神鮮やかに——大井浩明チェンバロ・リサイタル」
 チェンバロは、歴史に精通した専門家の楽器と思われがちだが、古楽復興の出発点は、ロマン派への反発という、二十世紀のモダニズムだったはず。二台の楽器を使い、古典と新作を混ぜて弾く大井浩明は、そんなパイオニア精神を、鮮烈に思い出させてくれた。
 全十九曲は、一応、前半が、楽器の可能性を試すトッカータ集、後半が舞曲集だが、どちらも、いわば「バロック的」な過剰と歪みの精神で、常識から逸脱してゆく。三宅榛名「カム・バック・トゥ・ミュージック」(日本初演)が、イタリアン・チェンバロから繊細な共鳴を引きだしたかと思うと、ジャーマン・スタイルの二段鍵盤をフル活用するために、ムファト「パッサカリア」やバッハ「六声(!)のリチェルカーレ」(「音楽の捧げ物」)へ遡る。後半でも、ジョン・ブルの変拍子(「主の御名に於いてIX」)と、ナンカロウ「自動ピアノのスタディ」(第6、15番)、ティエンスー「ファン・タンゴ」(日本初演)が、平然と同居していた。
 また、ダングルベール「パッサカリア」の華麗な装飾音を、タイプライターのように連打するのは、チェンバロを「からくり楽器」と形容する伊左治直(「機械の鳥の旅“夜明け”」委嘱作初演)の発想に呼応しているのだと思う。
 現代曲で名を馳せた大井の猛烈なヴァイタリティは、スイスで絶妙の企画力を身につけて、着実にパワーアップしていた。(3月14日、青山音楽記念館バロックザール) 【白石知雄】

●作品解説

【第1部】

c0050810_15112976.pngヨハン・ヤコプ・フローベルガー  《来たるべき我が死を弔う黙祷》
1616年5月18日ドイツ・シュトゥットガルト生〜1667年5月7日フランス・モンベリャール没。ヴュルテンベルク宮廷楽長の息子として生れ、ウィーンにオルガニストとして赴任したのち、20代前半の数年間ローマでフレスコバルディに学ぶ。ウィーン・ブリュッセルを経て、パリでは若きルイ・クープランやリュート奏者のブランシュロシュ、シャンボニエールらと交友した。当時のイタリア音楽とフランス音楽の諸要素を絶妙に溶け合わせながらも、バッハからモーツァルト・ベートーヴェンに至る18世紀ドイツ音楽、ひいてはショパンさえ予告するような、情熱的な表現も魅力である。この 《来たるべき我が死を弔う黙祷(瞑想)》(跋語/メメント・モリ・フローベルガー)は、 組曲第20番の冒頭・アルマンド楽章として書かれ、彼の同種の標題音楽に倣って、自由なリズムで演奏される。

三宅榛名 《カム・バック・トゥ・ミュージック (チェンバロ版)》 委嘱作品/東京初演(2004)
中学在学時に東響とモーツァルトの協奏曲でピアニストとしてデビューしたのち、ジュリアード音楽院にて作曲をパーシケッティに師事。〈弦楽オーケストラの詩曲〉でエドワード・ベンジャミン賞。リンカーンセンターの新ホールこけら落し(1970)に作品委嘱されるなど、NYで作曲家のキャリアをはじめる。近作に〈憂愁の時——ダブル・コンチェルト〉、〈スノウ・ヴォイス〉(東京の夏音楽祭委嘱 '96)、〈滅びた世界から〉(国立劇場・声明公演委嘱 '97)など。『オリジナルはピアノ曲。'70年代に〈Why not, my baby?〉シリーズの1曲として作曲。古代の琵琶の音色を幻のように思い浮かべることで、この曲の最初の1行が始まった。今回のチェンバロ版は、大井浩明さんの演奏会のために、構成や音域等を含め、かなり書きかえた。全体を通して、5度の音程を中心としたノスタルジックなひびきが、くり返し形をかえてあらわれる。(三宅榛名)』

c0050810_15115160.jpgカルロ・ジェズアルド 《王のシャンソン》
1566年3月8日イタリア・ヴェノーザ生〜1613年9月8日没。シェイクスピアやカラヴァッジョとほぼ同世代にあたる。ヴェノーザの大公=王(プリンチペ)ならびにコンサ伯爵であり、不貞を犯した最初の妻を殺害したことでも有名。非常に裕福な大貴族であったため、音楽家が召使の身分であった時代に、誰憚ることなく大胆な不協和音や半音階技法など、やりたい放題の表現を試みることが出来た。保険会社社長であったチャールズ・アイヴスのケースを思い起こさせる。最晩年のストラヴィンスキーがジェズアルドに入れ込み、生誕400年を記念してマドリガーレ3曲を小管弦楽用に編曲している。カンツォン・フランチェーゼ(フランス風の歌、シャンソン)と付題されたこの鍵盤曲は、元は4声部コンソートとして構想されたらしい。突如現れる半音階的ディミニューションが極めて特徴的である。

c0050810_1512984.jpgジャン=アンリ・ダングルベール 《パッサカリア》
1629年4月1日バル・ル・デュクにて受洗〜1691年4月23日パリ没。前半生は判然としないが、30歳頃にしばらくパリでオルガニストを勤めたのち、前任者シャンボニエールと取引し1662年にルイ14世付き宮廷チェンバリストに就任する。それ以前から、リュリ(映画『王は踊る』の主人公)との友情は厚かったらしい。何と言っても特徴的なのは、入念に書き込まれた渦巻くような装飾音で、ラモーやフランソワ・クープラン、そしてJ.S.バッハらが装飾法の規範とした。

ジョン・ボールドウィン 《天使は励ましの御言葉もて(セルモーネ・ブランドー)》
1560年以前に出生〜1615年8月28日ロンドン没。75年にウィンザー城・聖ジョージ礼拝堂のテノール要員、94年からロンドンの王室礼拝堂付きとなり、98年に正隊員に指名された。エリザベス1世の葬儀やジェームズ1世の戴冠式に、恐らくジョン・ブルとともに、聖歌隊メンバーとして参加した。ウィリアム・バード《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》の筆写者として知られている。1586年から1591年(1606年に補筆)にかけて書き溜められた、いわゆる「ボールドウィン備忘録(手写本)」所収のこの3声部のファンタジアは、ミラーノ大司教・聖アンブロシウス(4世紀)の賛歌『暁の光は赤く染まり』の後半、《御使は女等に慰め[励まし]の御告げを授けぬ/ 汝ら軈てガリラヤの地にて主に謁ゆるを得ん・・・》に始まる、福音書終盤の場面に基づいている。2:10:9、5:15:4といったポリリズム/ポリテンポが現れる箇所など、ムーシカ・スペクラーティーワ(思弁的音楽)の面目躍如である。

ミケランジェロ・ロッシ 《第七トッカータ》
1601年(あるいは02年)イタリア・ジェノヴァ生〜1656年7月7日ローマ没。作曲家、オルガニスト、そして「ヴァイオリンのミケランジェロ」と異名を取るほどヴァイオリニストとして高名であった。フレスコバルディの「後継者」とされることが多いが、同じローマの教会オルガニスト仲間として「同僚」と称すべきであろう。《試し弾き、投企、査問》を意味する動詞に由来した「トッカータ」というジャンルにふさわしく、うねりながら上昇下降を繰り返す有名な半音階パッセージが棹尾に現れるが、これは当時ベルニーニによって建立されたばかりのサンピエトロ大伽藍の螺旋柱を模している、とも言われる。

ジョン・ブル 《主の御名に於いて 第IX》
1562年(あるいは63年)英ウェールズ生〜1628年3月12日(あるいは13日)アントワープ没。当時を代表する鍵盤ヴィルトゥオーゾであるのみならず、オルガン建造家としても名を成した。ヘレフォード主教座聖堂オルガニストを経て、1586年1月王室礼拝堂楽員に指名。宗教上のスキャンダルで1613年にブリュッセルへ出奔、晩年の11年間はアントワープ主教座聖堂オルガニストを務めた。《主の御名に於いて(イン・ノミネ) 第IX》では、ジョン・タヴァナーのミサ曲からの定旋律低声部の上に、4分の11拍子の変奏が展開され、終わり近くには4分の16+1/2拍子のガリアードが現れる。

c0050810_15123894.jpgジロラモ・フレスコバルディ 《パッサカリアによる100のパルティータ》
1583年9月9日イタリア・フェラーラ生〜1643年3月1日ローマ没。初期バロック音楽を代表する大作曲家。25歳から死去するまでローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストを、またマントヴァやフィレンツェの宮廷オルガニストも勤めた。この作品におけるパルティータとは、よく知られた低音進行による変奏曲群を指す。1つのパルティータはおおよそ4秒〜8秒程度の断片であり、「パッサカリア」のみならず「コレンテ」「チャコーナ」といった舞曲、また旋法や表向きのテンポ感をめまぐるしく移行しながら、碗コ蕎麦のように120余りの変奏を行う。今回は、当時の拍節法理論から導かれた、統一テンポによる解釈を試みる。


【第2部】

伊左治直 《機械の島の旅(夜明け)》 委嘱作品/東京初演(2004)
1995年東京音大大学院修士課程修了。在学中、作曲を西村朗氏に、音楽学(中世西洋音楽史)を金澤正剛氏に師事。日本音楽コンクール第1位、第5回芥川作曲賞、第8回出光音楽賞等、受賞多数。00年、ラジオオペラ「密室音響劇《血の婚礼》」(F・ガルシア・ロルカ原作)製作。01年、「音楽の前衛?〜ジョン・ケージ上陸」にてアートディレクター。02年、「南蛮夜会-伊左治直 個展」開催。03年、Music from Japan委嘱作品初演(NY)。ジャック・タチ監督映画「プレイタイム」70mm版プレミア上映会にてプレ・コンサートを開催。『大井浩明氏の委嘱により作曲。5月に初演されたバロック・オルガン曲「機械の島の旅(黄昏)」と対になっている。南米やギリシャのロードムービーへの興味が、タイトルに繋がっている。勿論「機械の島」には『からくり楽器』としてのチェンバロそのもののイメージもある。また、タイトルとは別に、かねてより興味のある安土桃山文化、特に、南蛮様式を取り入れた幻の城、安土城の様々な復元案にも触発されている。曲中現れるバラードはJohannes Olivierの「Si concy gist」のスタイルをそのまま踏襲している。(伊左治直)』

c0050810_1513034.jpgゲオルク・ムファト 《パッサカリア》
1653年6月1日フランス・メジェーヴで受洗〜1704年2月23日ドイツ・パッサウ没。スコットランド人を祖先に持ち、フランスに生まれ育ったが、自身はドイツ人であるとしていた。10代の6年間、パリにてリュリに師事。20代の終りには、ローマにてパスクィーニに師事、またコレッリと交友を結ぶ。ストラスブール、ウィーン、プラハ、ザルツブルクでオルガニストを勤めた。フランス風ロンド形式とイタリア風自由変奏曲を組み合わせたこの《パッサカリア》は、18〜19世紀には人口に膾炙していたらしく、その後のドイツ音楽の様々な種子を見出すことが出来る。

高橋悠治 《糸車打令》 (1978)
1938年9月21日鎌倉生れ。1954年〜58年桐朋学園にて柴田南雄と小倉朗に作曲を師事。米フォード財団の助成により1963年〜66年ベルリンにてクセナキスに師事。66年に米ロックフェラー財団によりニューヨークに渡りコンピュータによる作曲に従事、1972年まで米国に滞在。1973年の「メアンデル」以降、アジア伝統音楽や左翼思想に根ざした作品を多く書いている。「糸車打令(Mullae Taryong=まわれまわれ糸車)」は、朝鮮半島の平安道と全羅道につたわる綿紡ぎ歌に基づく。12拍子のチュンモリ・チャンダン(長短 = 歌や踊りにおける時間の流れの伸縮、調子)を基にしながら、自由リズムの変奏と即興によって綴られている。
 「糸車よ 糸車よ ウィンウィン廻れ /ウォリロン スォリロン よく廻るね /三合糸を抜いて ソクセ布を織ろうか /一本糸を抜いて ポルム布を織ろうか」。

c0050810_15132323.jpgウィリアム・バード 《パヴァンとガリアード第5番》
1543年頃英リンカーン生〜1623年7月4日エセックス没。イギリス・ルネサンス期を代表する作曲家。20歳でリンカーン主教座聖堂オルガニスト、29歳で王室礼拝堂オルガニストに任命される。1575年には師トマス・タリスとともに楽譜の印刷・販売独占権の許可を得るなど、エリザベス1世から手厚い庇護を受けた。パヴァン(パヴァーヌ)は2拍子系の荘重な宮廷舞曲。3つの部分に分かれ、それぞれが主部とその変奏となっている。男女のペアによる踊り手の行列が、ゆったりと舞踏会場を周回する。一方、ガリアード(ガリアルド)は3拍子系の快活なダンス。剣と帽子をはずし、かかとをあげて片足で飛び跳ねる。《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》に収録された一品。

コンロン・ナンカロウ 《自動ピアノのためのスタディ第6番「カウボーイ」&第15番「カノンX」》 (1950s)
1912年10月27日アメリカ・テクサカナ生、1997年8月10日メキシコ・シティ没。生地の市長をしていた父の希望により、技術者となるべくヴァンダービルト大学で学んだのち、シンシナティ音楽院在籍中の18歳のときにストラヴィンスキー「春の祭典」と出会い、その複雑なリズムに魅了される。また、アート・テイタム、アール・ハインズといったジャズ・ピアニストや中世イソリズム技法、インドのターラ等にも影響を受けた。共産党員としてスペイン市民戦争に参加、リンカーン部隊で九死に一生を得る。帰国したのち、赤狩りを逃れてメキシコに移住した。「複雑なポリリズムを実現するには、自動ピアノを用いれば良い」とのカウエル《新音楽の源泉》の記述にヒントを得、ニューヨークで購入したパンチ・ロール式自動ピアノ(チェンバロ的な、非常に短く乾いた音がする)のための「Study」シリーズを、生涯を通じて作曲し続けた。70歳を迎えた頃から欧米で高く評価され始め、1983年にジョン・マッカーサー財団から「Genius賞」(副賞30万ドル)を受賞。スタディ第6番では、4分の3拍子の呑気なメロディに、8分の4拍子と8分の5拍子を組み合わせた伴奏音型が絡む。スタディ第15番では、ひとつの声部が徐々に加速していき、他方は徐々に減速していく、という、「カノンX」のシンプルな形を採っている。

ヨハン・ヤコプ・フローベルガー 《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》
フローベルガーの親友であり、著名なリュート奏者であったシャルル・フルーリ(ブランシュロシュ卿)がパリの自宅で階段から転落して死去した際、その追悼曲として書かれた。シャルル(「C」harles)の頭文字Cの最低音から開始され、左手で弔鐘が打ち鳴らされる中、ブランシュロシュ(「B」lancheroche)をあらわすBの最高音の悲痛な詠嘆へ到達し、再び最低音Cへ崩れ落ちてゆく。リュートを模したチェンバロ表現の可能性はルイ・クープランの「小節線のない前奏曲」等へ受け継がれ、また「トンボー(墓)」と題されるジャンルは、ルクレールのヴァイオリン・ソナタを経て、ラヴェル「クープランの墓」や、デュカス・ルーセル・バルトーク・ファリャ・サティ・ストラヴィンスキー等による「ドビュッシーの墓」、そしてブーレーズ「プリ・スロン・プリ」における「墓(ヴェルレーヌの)」へ至っている。
[PR]
by ooi_piano | 2013-09-04 23:05 | 雑記 | Comments(0)
大変素晴らしい企画にも関わらず、びっくりするくらい告知が出来ていないようなので、御案内。
c0050810_4384411.jpg

電子音楽のスタディーズ (全10回)
http://koji.music.coocan.jp/ems.html
I. 4月27日 (土)18時30分
《楽器とエレクトロニクス -シュトックハウゼンからライブ・エレクトロニクスまで-》
講師:有馬純寿、川崎弘二、檜垣智也


2013年4月〜2014年3月 毎月最終土曜日(8、12月は除く)
開始:18時30分
場所:MEDIA SHOP [京都市中京区河原町三条下る一筋目東入る大黒町44VOXビル1F]
入場料:1,000円 学生500円 10回通し券5,000円
お問い合わせ・ご予約:090-8208-9291(川崎) ks-koji (a) nifty.com

チラシのダウンロード→ http://bit.ly/X7nhiW
檜垣智也のアクースモニウムの実演映像 その1http://www.youtube.com/watch?v=yukStpK2oCs その2http://www.youtube.com/watch?v=od_H9Npjklc

─────────
電子音楽とは何か? シュトックハウゼンのような現代音楽における電子音楽、あるいはテクノ、エレクトロニカ、ライブ・エレクトロニクス、コンピュータ・ミュージック、メディア・アートにおける音の要素、Perfumeのようなテクノ・ポップなどなど、いわゆる多彩な「ジャンル」が想起される。現在流通する音楽がコンピュータをベースとした録音再生技術や電気/電子的増幅というテクノロジーに支えられていることを考えると、今や電子音楽とは透明化した上であまねく遍在する亡霊的存在であり、電子音楽を一言で捉えることはもはや不可能である。これは電子音楽が曖昧な存在と化したことを示しているのではなく、あらゆる領域と接続可能な、極めてフレキシビリティの高いマルチプリシティを獲得したプラットフォームであることの証左なのではないだろうか。こうした現状を踏まえ、現代音楽分野の電子音楽を中心とした過去から未来に亘るパースペクティプを、ワークショップ/トーク/リスニングの3つを柱にさまざまな切り口からスタディ(勉強、研究、考察、調査、観察、検討……)してみたい。中心的なテーマとして本シリーズは電子音楽をキーワードに掲げてはいるものの、それは「音楽」そのものを「スタディ」することになるものと考えている。

─────────
◉スケジュールと各回のテーマ
I. 4月27日 (土)
楽器とエレクトロニクス
 -シュトックハウゼンからライブ・エレクトロニクスまで-

II. 5月25日 (土)
 武満徹の電子音楽
 -雑誌「アルテス」同名連載、作品上演付きレクチャ-

III. 6月29日 (土)
 オープンリールによる電子音楽制作ワークショップ
 -テープによるコラージュ、ループなどの技法を体験する-
【関連公演】 2013年7月13日(土)18時 芦屋・山村サロン 大井浩明(ピアノ)+有馬純寿(電子音響)
H.ホリガー:《パルティータ》(1999)、H.ラッヘンマン:《エコー・アンダンテ》(1961/62)、《セリナーデ》(1997/98)、L.ノーノ:《苦悩に満ちながらも晴朗な波》(1976)、細川俊夫:《メロディアII》(1977)、《夜の響き》(1994/96)、《ピエール・ブーレーズのための俳句》(2000)、《舞 - 日本の古代の舞楽》(2012)、《エチュード I/II》(2011/13)、檜垣智也:《栞》(2013) 委嘱新作初演

IV. 7月27日 (土)
 電子音楽におけるノイズ
 -ミュジック・コンクレートやクセナキス、ノイズ・ミュージックまで-

V. 9月28日 (土)
 アメリカ実験音楽における電子音楽
 -柿沼敏江氏を迎えて-

以下予定

VI. 10月26日 (土)
 「ことばと電子音楽(仮)」ゲスト:松井茂
【関連公演】 10月27日(日)15時開演 カフェ・モンタージュ [京都市中京区夷川通柳馬場北東角]
湯浅譲二全ピアノ曲個展 大井浩明(ピアノ)+有馬純寿(電子音響) 
二つのパストラール (1952)/スリー・スコア・セット (1953)/セレナード[ド]のうた (1954)/内触覚的宇宙 (1957)/プロジェクション・トポロジク (1959)/プロジェクション・エセンプラスティック(1962)/オン・ザ・キーボード (1972)/「夜半日頭」に向かいて(1984)/内触覚的宇宙 II ~トランスフィギュレーション~ (1986)/サブリミナル・ヘイ・J (1990)/メロディーズ (1997)/バレエ音楽《サーカス・バリエーション》より「ワルツ」(2012)

VII. 11月30日 (土)
 ワークショップ「電子音楽を分析する」

VIII. 2014年1月25日 (土)
 長編電子音楽のリスニング

IX. 2月22日 (土)
 ライブ・エレクトロニクスの実践的講座

X. 3月29日 (土)
 シンセサイザーの歴史とその未来
c0050810_4483769.gifc0050810_449363.gifc0050810_4492082.gifc0050810_449362.gifc0050810_449511.gifc0050810_4501753.gifc0050810_4504090.gifc0050810_451018.gifc0050810_4511538.gifc0050810_4513439.gifc0050810_4515266.gifc0050810_4523646.gifc0050810_4524961.gifc0050810_453492.gifc0050810_4555875.gif
[PR]
by ooi_piano | 2013-04-26 04:46 | 雑記 | Comments(0)
(つづき)
c0050810_21381327.jpg

イタリア、正確に言えばミラノに住み始めて暫くすると、現代音楽界でのドナトーニの位置が少しずつ見えてきた。
毎年世界の何処かで彼のフェスティヴァルが催され、クラシックだけでなく、ジャズの演奏家までもが彼の作品を好んで取り上げている事も知った。
日本から見えるドナトーニは、かなたの星雲の中心に煌めく一等星のようなもので、周りには目に見えぬ無数の星が引力を受け巡行していた。
近距離から見れば、圧巻な光景であって、その中心で彼は無邪気に光り続けていた。

彼を崇拝する一連の作曲家の中でも、特に若い世代の一派があって、どうにも好きになれなかった。
殆ど同世代だが、共に集っては似たような作品ばかりを書き合い、揃って大金持ちの息子だったりするので始末が悪い。
そんな人種の醸し出す退廃的な臭いが充満していた。
ヨーロッパ文化の裏側を何千年も培ってきた、独特の黴臭さか。
そんな重苦しさが耐え難かった時期があって、何もする気がおきなかった。
音楽とは何なのか、誰か答えて欲しいと叫び続けていた。

この、しっとりと肌に染みる、地面を這う霧のような空気は、音楽ではないだろう。
何度も自問自答を繰り返していて、暫くドナトーニにも会えなかった。
併し、ヨーロッパ人の音楽とは、その空気だったのかも知れない。
違う文化に生れ育った人間は、まずその空気を認識する術を学ばなければならなかった。何かはっきりしないものが、自分の裡で軋み合っていて、毎日をやり切れない思いで過ごした。
ドナトーニの意味が自分の中で見えなくなっていた。

論理とか理屈は、一度信じてしまうと宗教の働きすら醸し出すもので、その許しなしに人は事象を眺められなくなってしまう。
その向こうに音楽があるに違いない。
それが分かれば分かる程、葛藤は茨の垣根のように立ちはだかり、行く手を拒んだ。
「そこまで自分で納得出来たのだから」
或る時、ふと思った。
「少しずつ茨を払ってゆこう」
何時か向こう側に抜けられるかも知れない。
98.03.08


必要な旅支度を一応終え、部屋を簡単に掃除する。
明日の朝六時十五分にタクシーを呼んであって、フランコを拾ってリナーテ空港から飛ぶ予定になっている。
あたふたと準備に追われたこの一月は飛ぶように過ぎ、夢を見ているようだった。
その間に桜は散り始め、目の前には葉桜の青が映えている。
儚い桜の花を追うように、きらめく春に向かう。
妙な心地だ。
日本に帰ったどの時とも違う感覚に少し戸惑っている。
結局茨の垣根を抜けたのか。
自問自答を繰り返してみるが、答など返ってこない。
透明な気体を、すうっと躯が吸い込んだ気がした。
98.03.某日
c0050810_2139587.jpg

この六月九日にドナトーニが71歳の誕生日を迎える。
色々個人的に感謝している事もあり、彼の誕生日祝に「フランコII」を書き手渡して来た。作曲も終盤に入ってくるとまるで長旅の伴侶との別れを惜しむかの気分に陥り、音にも少し寂しさが混じる。
ドナトーニが何時も作曲を旅程に喩えていたのを思い出していた。

四月上旬から三週間、日本でドナトーニと共に過ごした。
二月にロンドンから帰って来ると疲労と自己健康管理能力の悪さから持病の糖尿が悪化して寝たきりになっていて、実はこの四月の訪日は実現不可能と思われていた。
部屋を訪ねると室内はむっとした病人の臭いが鼻を付き、書きかけのスコアの音符は殆ど崩れかけ臨時記号もどの音符に付いているのか判読不能な程で思わず泣きそうになった。ずっとベッドに寝たきりで、手土産のケーキは台所で切り分け差し出した。
ふと見ると彼はもう寝息を立てていて、強い薬の副作用なのだった。
何度となく彼を訪ねるうち、門番の老夫婦と言葉を交わすようになった。
誰か訪ねて来ないのかと聞くと、毎朝医者と看護婦が検診に来て、時たま彼女やミラノに住んでいる下の息子が見舞う程度だと聞き意外だと思った。

ある友人にその話をすると、最近彼は昔のように社交的ではなくなって、周囲も余り近付きたがらなくなったと少し寂しそうに語った。
歳を取って自分の作曲だけで満足するようになったのだろう。
そう言われて殆ど戸惑っていた。
出発まで後一月を切っても、彼の容態は変わらず一日寝たきりの生活をしていて、とても苦しかった。
日本側と講習や演奏会の準備云々に毎日のように連絡を取り合っていて、彼がどれだけ日本で楽しみにされているか痛感していたし、周囲が説得しても彼は旅行を止める事に納得しなかった。
もし今回取り止めたら彼が又日本にゆける機会があるのか。
だったら今回無理しても連れてゆくべきなのか。
毎日迷い続けていた。
出発の三週間程に日本側に全てを話し延期の可能性を打診して貰ってから、意を決し「秋に延期しよう」と提案した。

インターネットで毎日糖尿病に関する資料を漁っていた。
特に食生活の管理について一体何が食べられて、何を食べさせてはいけないのか、何も知らない私は必死になっていた。
もし彼が日本で倒れたら責任は当然私や招聘側に来るのは必至で、それより世界から愛されている作曲家にかけられる責は自分の想像を遥かに超えるものがあった。
胃薬を呑んでみても食欲はなく、夜も眠れなくなった。
「とんでもない。秋は秋で忙しいし、絶対今日本にゆくよ」
日本の招聘元からも殆ど困惑の表情が受けとられた。
そこまで言うのなら、腹を決めよう。
裸のまま寝息を立て、訪ねて行った事すら知らない作曲家を眺めながらそう思った。

日本側にはもしもの事態に備え糖尿に強い医師に渡りをつけておいて貰い、こちらのかかりつけの医師からは詳しい診断書と、与えられている数多くの薬などの指示を書きつけて貰った。
当然普段必要なインシュリンのケースなどに関する説明を聞く事も忘れなかった。
友人の看護婦に話すと「爆弾抱えて旅行するようなものね」と慰められ、毎日アドルノや彼に関する難解な書物を読み漁りながら過ごしていた。
すっかりドナトーニが何を考えていたのか忘れていた自分にとって、彼のレッスンを助けるのは大役以外の何ものでもなかった。
演奏のように教師が弾いて聴かせる事が出来ない替わりに、作曲のレッスンは言葉でのコミュニケーションが全てだ。
楽譜を見て単純にどこが良いどこが悪いというのではなく、何故そうなるのかという互いの基本理念の確認作業からレッスンの方向性が生まれる。

色々な事に焦りを覚えながら、日本へ発つ数日前から毎夜彼が日本で発狂する夢に魘されて、いつも夜中に飛び起きていた。
出発の朝早く、タクシーで迎えにゆくと、彼は既にすっかり準備を整えて待っていた。
タクシーに乗って、先ず朝のインシュリンを打ったかどうか確かめた後、
「こうなったからには、互いにこの旅行を楽しまなきゃね」
そう言いつつ殆ど自分を奮い立たせていた。
98.06.09
c0050810_21393968.jpg

この春にドナトーニと広島を訪れた。
日本へ向う機内から彼は戦時中の話を繰返していた。
「昨日の事のようだ」
ムッソリーニは、日本やドイツに比べ随分早くアメリカ軍に倒れた。
第二次世界大戦末期、ナチスは北イタリアで子供を中心に人さらいをしていて、子供だったドナトーニも、住んでいたヴェローナがドイツ軍に包囲された事がある。
その時の母親の「早く教会に逃げて」と言う叫び声は忘れられないと苦しそうに話した。
「連れてゆかれた子供は、もう見つからないんだ」
だからどうしてもドイツにだけは住めないのと言う。
「アメリカの兵士は恰好良かった。車上からガムやスパゲッティを配ってね。皆こぞって貰ったものだ。何しろパリッと糊の良く効いた軍服なんて見た事がなかった。その頃は母さんと婆さんがアメリカ軍の軍服を洗濯して日銭を稼いでいたよ。食べるものもない位貧しかったからね」

広島を訪れる事は、色々思う処があったに違いない。
原爆の恐ろしさを何度となく口にして資料館を見たがった。
朝、資料館の前の記念公園に着くと鳥肌が立った。
彼は何も話さず黙って資料館を巡り、最後に、
「すごく悲しい」
ぼそりと言った。

案内をしてくれた人は困った顔で言った。
「これを見てしまうと、誰も観光しようなんて気分ではなくなってしまうんです」
だから結局広島は、原爆を常に背負ってゆかなければならない。
「長崎のような歴史的な文化体系もなかったですし」
原爆を素材に数え切れない文学や絵画、音楽作品が生まれた。
「結局その檻の中に縛られてしまうのです」
原爆を最初に発明したイタリア人天才物理学者は、その後発狂して行方知れずになったと言う。
98.08.06


梯子を借りに門番のMの処に顔を出した。
ふと横を見ると金閣寺の絵端書が飾ってある。

山門から金閣寺まで、足が不自由な老人には随分長い道程だ。
休みながら中学の修学旅行生に混じってゆっくり歩く。
半時間はたっぷり掛かっただろう。
それまで手を後ろで組み俯き加減に歩いていたドナトーニが、池に映る寺を認めて立ち止まった。
じっと寺に見入っていて、私も黙っていた。

三分程立ち尽くしていて、
「帰ろう」
私に声を掛けた。
「もっと近くから観たくないの」
「この手のは、遠くから眺めるから素敵なんだ」
そう言うと、ゆっくり歩き始めた。

ドナトーニがどこか出掛ける度に絵端書を書く相手がいた。
彼の主治医だ。
「可哀そうに。忙しくて何処にも旅行に出掛けられないから、こうして書いてやるのさ」
東京、京都、広島と計三通、自分のサインがのたくっただけの絵端書を書いた。

広島のホテルで朝食を摂りながら、彼の家族や女友達にも絵端書を出そうと提案した。
「イタリアに戻ればどうせすぐ会うから必要ないよ」
そういうものではないと説得すると、差し出した絵端書を見比べながらどれを誰に出そうか、などとまんざらでもない様子だった。
爺さんが生きていたら、こんな風に付き合えたか。
目の前の老人を不思議な気分で見つめながら、ぼんやりと思った。

ミラノに戻って暫くして、様子を伺おうと電話をすると、
「お前に礼を言おうと思っていた矢先だったよ。絵端書どうも有難う」
嬉しそうな声が応えた。
「そら見た事か」
電話口で思わず北叟笑んだ。
98.08.某日
c0050810_21402925.jpg

ドナトーニと二人でY先生の茶室に招かれた時の事を思い出した。
純和風造りの家は彼には驚きの連続だった。
糖尿で足が悪く、ドナトーニは特殊な靴を履いている。
靴底が柔らかくなっているのだと思う。
室内履きも特別なサンダルを常用していた。

家には上がるのに靴を脱がなければならず、三和土から玄関へ上るのに何時も非常に苦労した。
実際、玄関に腰掛けさせるのも一苦労だったのだから。
当然、腰掛けてしまえば靴は脱げない。
意外に玄関は高かったのだ。
甲斐甲斐しく靴紐を解き脱がせていたりするのを見て、Y先生のお母様曰く、
「昔の書生さんのよう」
端から見ていれば近いものがあっただろう。

男二人がかりで玄関から引き上げてみると、さて掴まる処がない。
彼は人前で肩を貸されるのを厭がった。
玄関でのやりとりも、いたたまれない思いだったに違いない。
よろめいて障子に凭れようとしても、細木の障子が役に立つわけもなく、応接間に辿り着く前に、彼の顔には薄く諦めに似た表情が浮んだ。

応接間に通されると今度は座椅子に坐らなくてはならない。
またしても男二人で抱え込んで何とか事なきを得た。
彼にも漸く安堵の様子が見えた。
「こんな家に住んでみたかった」
しばらく鴨居や柱を目で追ってから、軽く頷いた。
「ミラノのアパートも、こんな造りにしたかったのだけれど」

和式の家には憧れがある。
梁のうねりの大胆さと細木の繊細さが複雑な流れを生み出す。
たゆたうような時間に絡め込まれるのは、日本が培って来た文化の深さを表しているのだろう。

「対照性に内包された非対照性」
ドナトーニが絶えず口にする言葉だ。
対照性がある全体機能を約束し、保証された世界の中で自由を求める。
キリスト教の発想と無縁ではないのは明らかだが、目の前を縦横無尽に走る梁の木目の美しさを、彼は同じ言葉で形容した。
一見自由に流れて見える梁の中心にさりげなく掛けられた書が、全体を引き締めていると言う。
書の世界から外へ発想を広げるのではなく、箱の認識から内容を検証する辺り、実にヨーロッパ人らしい。

厄介を繰り返して小さな茶室に彼を通した。
まるで子供の様にまんじりともせず奥さんの立てるお茶の作法に見入っている。
一つ一つ作法の説明をするのだが、彼が表情を替えたのは、目の前に乾菓子と生菓子を並べられた時だけだった。その後彼は繰り返し作法の精確さと洗練度を讃えていた。
ミラノに戻ってからも、事ある度に金閣寺と茶室の出来事を引き合いに出した。
一々説明しながらお茶を受けるのは、個人的には余り気の乗る体験ではなかったのだが。
気が付くと茶室はすっかり夕暮れ色に染まっていて、炉の炭の赤が美しく映えていた。
98.9.某日

パドヴァの仕事を終え帰宅すると、深夜三時を回っていた。
疲れ果てていて車に乗るとすぐに眠り込んだが、マリアの「雪よ」と言う声に思わず目を醒ました。
ヴェローナを過ぎた辺りから深い雪が降り続き、家に着いて外の温度計を見ると零下二度でいつもより幾分暖かい気がした。
ここ数日ミラノは冷え込んでいて、朝晩零下五度以下まで下がっていた。
真っ赤な朝焼けに一面霜床の真っ白な風景がきらきら輝くのも美しかった。

ドナトーニがまた病院に戻ったとサンドロから聞き、小さな花束を携えて病院を訪れた。
幾分ふっくらした顔のフランコは、横臥して透析を受けていた。
下の息子のレナートがいて、ミラノまで送って貰う。
「結局自分の躯の老化を認めたくないんだよ」
少し困ったような、誇りの滲む口調で呟いた。
98.11.某日

ドナトーニを聖ラファエル病院のリハビリ病棟に訪ねると、相変わらずマリゼルラが甲斐甲斐しく世話をやいていた。
表情は非常に硬く、皺が驚くほど増えている。
「日本で美しかったのは黄金色の寺。醜かったのは日本の男」
ぶっきらぼうに呟いた。

以前嫌がっていた車椅子に腰掛け、昼食が遅いと苛立っていて、窓から差し込む外の光は、思いがけなく眩しかった。
マリゼルラにナプキンを掛けて貰い二人で食卓を準備するや否や、老作曲家は食事にむしゃぶりついた。
「あなたの好きなオレンジもあって、良かったわね」
病室の扉には、クリスマスの飾りが付けてあった。
98.12.23
[PR]
by ooi_piano | 2012-08-21 00:29 | 雑記 | Comments(0)
水牛「しもた屋之噺」より
c0050810_21421182.jpg

親しく交わっていたドナトーニの死も、自分にとって大きな契機となりました。長年重度の糖尿を患い、数年前に自分で身の回りの世話が出来なくなった時点で、これ以上生きるのは虚しいと明言したにも関わらず、我々周りの人間が、何とか彼を生きさせ作曲させるべく、策を巡らせていたのでした。肺に水が溜り入院した夏の盛り、突然ぱったりと食事を拒否し、そのまま衰弱して息を引き取りました。生きる事を拒絶する人を目の当たりにして、生が何を意味するのか考えさせられました。生はすなわち死を理解する事であり、死は逆に生を理解する事なのかも知れない、とその時思いました。

…マリゼルラから電話。「フランコ、死んでしまったわ」と言われた時、初め全く内容を理解していなかった。文章を何度か反芻して漸く内容が理解できると今度は愕然とした。心の中で「まさか。嘘でしょう」と叫んでいて、マリゼルラは泣いていた。
霊安室に駆けつけた。死体安置礼拝所に並んで、霊安室は病院の外れにあった。入口には、ただ「お入り下さい」とだけ書いてあって、空恐ろしかった。辺りには人気がなく、びくびくしながら天井の高いがらんとした建物の廊下を、誰かいないかさまよった。
門番の憲兵が、呼鈴を鳴らせば人が出て来ると教えてくれ、その通りにする。目の前には遺族らしい10人程の人が泣き崩れていた。果して白衣を来た男性が現れると、「地下1階7番の部屋です」、手短に言われ、独りで階段を降りた。ダンテの神曲で、地獄に降りる気分とはこんなものかしらと考える。
霊安室は形容し難い、壮絶な処だった。広間に面して幾つもの個室が単純に並び、幾つかのドアは開け放たれており、ベッドに人が横臥している姿も見えたし、或る部屋には遺族らしき人々が集まり亡骸を囲んでいる様が、厭がおうにも伺われた。
こわごわ7号室を探し、ノックした。中には誰か居ると思った。失礼します、と言って恐る恐るドアを開けると、シーツにくるまれた足の先が見えた。ひんやりとした奇妙な雰囲気の部屋に入ると、4畳程の白タイル張りの殺風景な小部屋にフランコが横たわっていて、他には誰も居なかった。自分が異物に感じられ、落ち着くまで時間が掛かった。顎から頭にかけて、包帯でしっかり留められていたが、落ち着いた顔だった。土色とは言え、普段から顔色が悪かったので、死んでいる事すら分らなかった。換気扇がまるで彼の寝息の様な音を立てていて、喉に挿入されていたチューブやカテーテルを外されたフランコはこざっぱりとして、長かった葛藤から漸く解放されたと思う。目は閉じられていて、右側から見るとただ寝ている様に見えたが、逆から見ると目は微かに開いていて、宙を見ている様にも、又目の奥がじろと僕を覗いた気もして、どきりとした。屍に触れるのは初め抵抗があったが、軽く髪を撫でると、いつものフランコで安心した。冷たくなってはいたがきっと彼も近くに居るに違いない、この様子を飄々と眺めているだろうと思うと愉快にさえ感じられたが、不思議な事に、呆然としているだけで何の感情も湧かなかった。
もうそろそろ帰ろうと思った時、ふと我に返って当惑した。今までは「又、近い内に」と声をかけ、フランコが「じゃあね、ヨーイチ」と答えるのが常だったが、霊安室では何と声を掛ければ良いのか。こういう時に「Addio(永遠の別離の挨拶)」と言うのかと思った途端、涙が溢れた。額にお別れのキスをして、後ろ髪を引かれる思いで外に出た。(2000年8月の日記より)
c0050810_2143941.jpg

57
先月の猛暑が嘘のように、8月の声を聞いた途端、ミラノは秋の気配に包まれました。結局今月は譜読みと作曲を続けているうちに過ぎてしまった感があります。今は連日の合わせが終わり、エルナンデスの詩で合唱を書きながら、秋にロサンジェルスで演奏するドナトーニの「最後の夜」を勉強しています。思い返せば、高校のころ、篠崎先生のお宅で、「最後の夜」のヴァイオリンのパート譜を見せてもらったのが、ドナトーニとの最初の出会いで、あれから20年近くたって、漸く自分で演奏する機会が巡ってきました。久しぶりに一つ一つ音符を追いながら勉強して痛感したのは、言葉で表現できないドナトーニの凄さです。彼の亜流とか弟子たちの作品でよく書けているものはたびたび見かけますが、楽譜を勉強して改めて感じるのは、ドナトーニの素晴らしさは作曲の技術でも書法でもなくて、彼自身の音楽性によるのだという至極当然の事実でした。

「最後の夜」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ぺッソアのテクストを、タブッキが伊訳した断片からなっています。こうして譜読みを粗方終えて、ふと、納戸にしまいこんであったエンツォ・レスターニョのインタビュー記事を読み返してみたくなりました。
「1980年に書いた、<最後の夜>という、フェルナンド・ぺッソアの詩による女声と五楽器のための叙情的な短い断片集があるだろう。君とぺッソアとの出会いというのは、誰もの興味をそそるところだと思うのだがね」
「いや、あれは実は偶然なんだ。それまでぺッソアは全く読んだことがなかったんだけれども、あの年の夏、マリゼッラ・デ・カルリが<たった一つの多性>を読み始めてみて、絶対僕にぴったりだと確信して、渡してくれてね。ぺッソアが色々なペンネームを使って、さまざまな人格に成りすました例のエピソードに魅了されたんだ。だから、あちらこちらから断片を集めて、ちょうど書かなければならなかったフランス放送の委嘱新作を書いたというわけさ。1980年の10月から12月までかかってスコアを仕上げた。あの頃、また新たな欝病の症状に呑みこまれつつあったところだった。直後の1981年の初めから、結局精神分析にかかって、なんとかあの状況から脱しようと試みるんだ」
こう答えたあと、エンツォは、欝病に悩まされる人間が、ぺッソアのような絶望的で暗い世界を読むのは到底良いとは思えないが、と続いてゆきます。

この年の春、ドナトーニはチェロ協奏曲「階段の上の小川」を作曲しました。この曲は「最後の夜」とともにこの時期の傑作として双璧を成していますが、「階段の上の小川」の44頁を作曲中、ドナトーニは精神病の発作が起きて作曲を中断せざるを得ませんでした。作曲にあたり下書きを用意せず、いつも直接清書をしていたドナトーニの精神状況は、この44頁の長いフェルマータの前後で大きく変化するのが、聴くものの心を穿ちます。そして、まさにその直後に書かれた「最後の夜」のために、ドナトーニが選んだぺッソアの断片は次のようなものでした。

「暗がりで、自ら解さないままに独りごちた。遥か彼方、神が忘却の都市を築いた砂漠を、今日わたしはこの手で知る」
「あたかも一日が死にゆくような風景の、旧く静かな夜に立ち戻るために」
「(風。戸外のあちらに)」
「皆、死んだ赤ん坊を抱いて、あやそうではないか」
「どこでもそうであるように、ここでも異邦人だ」
「静かなる夜よ。わたしにとって、どうか母性であってくれ」
「闇の些細な羽音、さもなければ葉のかすれる音に、際立つ沈黙」
「病人。翻る旗のまにまに、滅びゆく剣の刃の夕暮れは、王国の最後の夜が焔に包まれて」
全体がシンメトリーの8章の歌曲集は、歌詞もまたシンメトリーになっていて、冒頭と終章は、同じ詩集から採られています。原詩にはかなり長大なものもありますが、ここではどうやら詩の前後の脈絡なしに、作曲者の一定の視点に沿って切り出されたようです。
ドナトーニが欝に呑み込まれそうになりながら編んだ言葉は、果てしない闇のなか音もなく燃えあがる崩れかけた彼自身の姿を彷彿とさせます。様々な人物に自在に変容しながら紡がれるぺッソアの言葉は、底なし沼に足をすくわれかけていたドナトーニにシンパシーを呼び覚ますものだったに違いありません。
c0050810_21444782.jpg

「最後の夜」が書かれた1980年、ドナトーニは2冊目のエッセイ「Antecedente X 作曲の困難について」を出版します。「Antecedente X」は、難解で有名なドナトーニの本のなかでも特に理解が難しいと言われますが、多くは精神科の医師の勧めに従い夢をそのまま書き留めたもので、幻想的で怪奇な情景が続くものです。
「最後の夜」には、こうした当時の作曲者の精神状態がはっきりと刻印されているように思います。どんなに音が交ざり合って混濁しきっていても、感情は空虚で、絶対に濁らないのです。虚無感にも通じるような、この感情不在の不安感が浮かび上がらせる夜の風景は、どこまでも透明で、人間的な触感が極力排除されているようです。そしてこれらのファクター全てが、ぺッソアの言葉と結びついて、強烈な個性を放つことになります。ぺッソアのように、直接自己を露呈せずに借り物の他者に言葉を託す姿勢が、当時のドナトーニにそっくり当てはまるからかも知れません。

とにかく楽譜を勉強してゆくうち、この透明感、虚無感にすっかり魅せられてしまいました。そして、ああまたこの色だ、この暗い、くすんだ茶色のような色調が、イタリアのリアリズムの色だと妙に納得するのです。ミラノ中央駅のくたびれた色の剥き出しの鉄骨のような、ダルラピッコラの肌触りのような、イタリアン・リアリズムの白黒映画のような、暗くて鈍い色が、ここにも一面に塗りたくられているように思います。でも、そこから全ての感情を抜き去ってしまったような超越感があって、まるで剥製になったピエロ・リュネールのような按配です。編成から鑑みても、何箇所かの女声の扱いを見ても、ドナトーニがピエロ・リュネールを意識していたのは間違いありません。

4曲目の歌詞に出てくる「死んだ赤ん坊をあやす」という下りで、原語では「男の子の赤ん坊」と書かれています。これを読んだとき、ドナトーニには一人幼くして死んでしまったマルコという男の子がいたのを思い出しました。「Antecedente X」の前書「Questo」をマルコに捧げるほど、彼はいつもマルコのことを心に留めていました。この歌詞を選んだとき、ドナトーニがマルコを意識していたかどうか分かりませんが、「死んだ赤ん坊を、figlio morto...」とこの曲を 結ぶところで、「死んだ morto」という言葉を最後まで言い切らずに「mor....」だけで二重線が引かれているのが印象に残っています。

6曲目の「わたしにとって、どうか母性であってくれ」という部分では、ドナトー二は曲の最後を「どうか母性で」で終わらずに、また延々と「静かなる夜よ」と繰り返し、最後に「hahahahahahaha」という女声の奇怪な笑い声だけで終わります。この意味はぺッソアの原詩「Passagem das Horas」を読んでみてもよく分かりませんでした。一人っ子だったドナトーニにとって、母親はとても強い存在だったのは良く知っています。たびたび話に登場しましたし、彼の家の玄関に、ドナトーニそっくりのお母さんの写真がいつも飾られていたのを思い出します。

この曲がマリゼルラに捧げられているのは、もちろん最初にぺッソアの本を渡してくれたからですが、1980年なら、まだ彼らが付き合いだして3、4年というところではないでしょうか。前の奥さんや子供たちとの関係も一番複雑だった頃だと思います。
マリゼルラと二人、トリノ近郊のモンテウという山村に住んでいた、前妻のスージー宅を訪れたことが何度もあって、2000年頃リハビリを兼ねてドナトーニはずっとこの家に滞在していました。巨体のドナトーニが、本当に小さな、目のつぶれた子猫をそれは可愛がっていました。当時、スージーとマリゼルラは表向きまるで家族のような付き合いをしていましたが、それでも一人でモンテウを訪ねるより、誰か同行者が欲しかったのでしょう。よくマリゼルラから誘いの電話をもらいました。ピエモンテの田園風景に車を走らせながら、その昔、確執が激しかったころの話をしてくれたのが、今となってはとても懐かしい気がします。

当時からアルコール漬けで身体を壊していたスージーは、ドナトーニの死んだあと、しばらくミラノの子供たちのもとで治療を続けていましたが、去年やはり肝臓を壊して亡くなったとマリゼルラから電話をもらいました。久しぶりの電話でうちの子供の誕生を喜んだあと、ところで、と声を落として話してくれました。彼女も、長年お母さんと住んでいたローディ通りの家を売り払って、もう少し中央に小さなアパートに引越して、新居に遊びにゆくよと言いながら、互いに忙しさにかまけてそれきりになっているのが、ずっと気にかかっています。
(8月28日モンツァにて)
[PR]
by ooi_piano | 2012-08-21 00:29 | 雑記 | Comments(0)
●杉山洋一「ミラノ日記」(1997年3月~98年12月末日/初出 Yominet、文芸フォーラム yomiuri lane) [.tzzファイル]
  →.tzzファイルを読むためのT-Time5.5ダウンロード
●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~2004年11月/初出 サイト「水牛」)[.tzzファイル]
●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~現在)



ミラノ日記より
c0050810_21333827.jpg

サンドロのクラスでドナトーニの話になる。
彼は、最初に頭の中で十秒位、次の部分をどう書こうか考える。それから三日間位は全く何も考えず、ただ音符だけを書いてゆく。こうした作業を突き詰めてゆくと、単調な作業が神秘的な様相を帯びてくる。
或る午後、ドナトーニの帽子だらけのアパートを訪ねた。
壁中至る処に、世界中から贈られた帽子が掛かっている。
話尽きる事がなく、気が付くと、地下鉄のストライキで家に帰れなくなってしまった。
ドナトーニは家まで送って上げると言い、お気に入りの日本車を出してくれたが、 話を続け運転をしているうち、二人とも道に迷ってしまった。
仕方がない、タクシーでも拾って家まで帰りなさい。
彼がいつも胸に吊している財布から、五万リラ札を抜き取って手渡してくれた。
この処ドナトーニに会っていないが、もう車の運転は出来なくなったと聞いた。
97.06.01


ドナトーニの楽譜には無数の間違いがあるが、古いステンドグラスに紛れ込んだ不純物が反って美しさを引き立てるように、間違いは間違いのままで良いような気がする。
97.06.08


ピアノのマリアグラツィアの演奏会にゆく。ゴルリが来日した折、アンサンブルのピアノを務めた、理知的な雰囲気の漂う女性だ。
演奏会の前半、ドナトーニのフランソワーズ変奏曲という四十九曲の長大な作品を淡々と弾いた。
耳が飽和状態になり、音の美しさだけが際立つ。
ドナトーニとひたむきに対峙する姿は、美しかった。
最前列の作曲者がじっと顔をうつむき聴き入る姿とあいまって、自分の裡に何かが刻み込まれた。この作品は十年以上かかって仕上げられたが、聴きながらドナトーニはその時間を噛みしめていたのかも知れない。
静的な空間に包まれ、響きに人生を捧げた二人の出逢いが、聴き手に染みる。
高校で作曲科に入学するまで、ヴァイオリンを弾いていた。
ヴァイオリンの師匠が現代音楽と縁が深かったお陰で、今もこんな文章を書いている。
師匠の関わっていたアンサンブルが、当時知られていなかったイタリア現代音楽を取り上げ演奏会をした際、ドナトーニやシャリーノの名を知った。
書込みだらけのパート譜を見せて貰い、胸がときめいた。
シャリーノの「ソナチネ」、そしてドナトーニの「最後の夜」だった。

譜面には、ハーモニックスの菱形の音符ばかり並んでいた気がする。
今から思えば、「最後の夜」はハーモニックスが多用される作品ではないのだが、曲中、確かに弦楽器がハーモニックスを鏤める部分があって、そこに惹きつけられたのだろう。

指定の速度で演奏不可能だからドナトーニに電話をしてみたら、出来る早さで弾いて下さいですって、とさも可笑しそうに笑ったのが印象に残った。
そうか凄いな、電話なんてしてしまうのか。

譜面から、乾いた音質と、乾いているのだけれど、どこか神秘的な一人の男性を思い浮かべた。当時、師匠の家に赤茶に日焼けしたカーテンが掛かっていて、そこに夕日が映える姿は、正にドナトーニだった。

どこかへ埋もれてしまったと思うけれど、演奏会のプログラムの解説も思春期の心を捉えた。今から思えば、解説を書いている本人も相手がどんな人物か良く分からず、想像を膨らませて書いていたという処だろう。
それが良かった。
マルコポーロの東方見聞録を読むような驚きに満ちていて、何度と無く読み返した。”“

何年か過ぎ、音楽高校に辛うじて入学し、アカデミズムの中で生きる事を学ばなければいけなかった。
一人で好き勝手に音楽をしていた者にとって、それまでの習慣を捨てるに等しく、慌ただしい時間の中ドナトーニの名前も忘れかけていた。
思い出してはいけないと、どこかで自分を戒めていたのかも知れない。

併し、元来の不真面目な性格が祟って、禁欲生活にも破綻をきたし、精神的放浪生活に身を任せるようになった。
周りが似たような作品ばかり書いている事が疑問でならなかった。
真似をしているのか、それとも同じ事が心に湧いて来るのか。
湧いて来ない自分は何なのか。

自問自答の日々をやり過ごしている時、学校の図書館で久木山さんに会った。
彼は一世代上の作曲家で、当時はまだ研究生として学校に籍を残されていたかも知れない。
九段下のイタリア文化会館の図書館に、昔文化会館で催された現代音楽の資料が残っているかも知れない、と声を潜めて助言を受けた。
98.02.16
c0050810_21342119.jpg

イタリアの現代音楽か、昔好きだったな。
ふらりと出掛けたイタリア文化会館は、不思議な空間に見えた。
蔦の絡まる古い洋館は、イタリアそのものだった。
ニスのてかる木の廊下の奥に図書館があって、痩せた女性が一人タイプに向かっていた。
東京である事すら忘れていたせいか、女性がどうにもイタリア人に見えて仕方がなく、どう声を掛けたものか窮していると、彼女の方からさっぱりした声で、何かお探しですかと尋ねてくれた。
確かに、数本のカセットに録音された演奏会の様子が残されていたが、録音に興味を持った人はいないという話だった。
一冊のプログラムと一緒にカセットを貸りて、繰返し耳を傾けた。
明らかに安いテレコで録音されたとおぼしきカセットは、自分が描いていたイタリア音楽の神秘的なイメージにぴったりで、昔のときめきが蘇ってくるには充分だった。
へろへろで雑音だらけの録音は、蓄音機に耳をそばだてるような手触りがあった。

ブソッティ、ベリオ、ドナトーニ、シャリーノ、カスティリオーニ、ゴルリ。
妙な名前が並んでいるだけで、澁澤のマニエリスムに鳥肌を立てる少年には刺激的で、それらが生身のイタリア人の音で聴こえて来た時にはどうしようかと思った。

プログラムは今から思い出しても素晴らしい内容だったし、演奏家も今は引退した音楽界の寵児ばかり名を連ねていた。
モジリアニを思わせる図書館の女性と話が弾み、演奏会には数える程の客しかいなかった事も知った。
98.02.16


数日間催された演奏会のうちの一晩が、ドナトーニとベリオの作品集だった。
ドナトーニの作品は覚えている処で、ギターの為の「アルゴ」、ピアノの為の「韻」、ソプラノとピアノの為の「そして誰かがノックした」等だったような気がする。

果たして、思った通りかさかさした乾いた音が並んでいた。
音が乾いていると言うより、寧ろ感性が空気に晒されている感触であって、感情の起伏があるのかないのか、不思議な心地に襲われた。
今から思えばそれは演奏の趣味にも因るのであって、イタリア人が彼の作品を演奏すると、そんな乾いた土壌を連想させるものがある。

それを期にイタリアの現代作品を漁る日々は何年も続き、イタリアへの憧憬は時間と共に膨らんでいった。
ヤマハで艶のある白地に赤のリコルディ社の楽譜を見つけると、中身がどうであれ買おうとしたし、小遣いの殆どは楽譜に費やされた。
溜りに溜った楽譜は今でも実家に山積みされていて、ドナトーニの作品も数多く含まれている。

ドナトーニ作品で初めて取り寄せた楽譜は、アンサンブルの為の「スピーリ」ではなかったか。
冒頭のオーボエとヴァイオリンの快活な絡みは、今でもすっかり頭にこびりついている。
迸るようなリズムと心地よい和音の質感にすっかり魅了されたし、うねうねと続く装飾音の束が鮮やかな模様に見えた。
当時、何度注文しても届かないイタリアの楽譜に半ば呆れつつ、併し半ばそれを愉しみながら待ち暮らした。

初めてドナトーニに習おうと思ったのは、大学三年の春だった。
彼はシエナのキジアーナ音楽院で夏季二ヵ月間の講座を持っている。
七月初めから八月終わりまでの期間中、七月半ばまで大学での試験があり参加出来なかった。
遅れて参加する旨のファックスは送っておいたが、行き違いにでもなったのか、講座が始まって暫くして、音楽院から参加しないのかとドナトーニが言っていると書いてよこした。
慌てて、これこれしかじか遅れて参加させて頂きます云々、自習書の例文と辞書片手に馬鹿丁寧な拙いイタリア語のファックスを送り、肝を冷やしながらイタリアへと出掛けた。
98.02.18
c0050810_2135221.jpg

イタリア語も覚束ないまま、どうやってシエナに辿り着けたのか、今考えると不思議で仕方がない。
飛行機で知り合った親父さん一行にローマから車に乗せてもらい、どこかの駅で下ろされた。
駅でシエナに行きたいと言うと、今日はもう電車がないと言われた。
とにかく早く着かなければという一心で色々掛け合い、どうにかシエナに着いた。
石畳を歩いていると、買ったばかりのスーツケースのコロは、焼けただれて動かなくなった。

シエナは宝石のような中世の街並を残していて、音楽院はその街の中心にあった。
煩い程にバロック風な内装の、絨毯敷きの廊下を歩いてゆくと、一番奥の長方形の大部屋の扉に「作曲教室・ドナトーニ」と書いてあった。
確か夕方だったと思う。
大部屋には二十人位の生徒が犇めいていて、銘々が煙草を燻らせている。
部屋は殆ど霞んで見えた。
突然水と数個のケーキを抱えた大柄の老人が入って来て、やれやれと椅子に腰掛けた。
寧ろ、巨体という言葉が的確かも知れない。
煙の向こうの、さっぱりした白髪、髭をたくわえ吊りズボンを引っ張ったアンバランスな風貌の老人がドナトーニだった。
どことなく可笑しい服装と裏腹に、顔つきは精悍に見えた。
98.02.21


すぐこちらに気が付いた彼は、
「あのど偉いファックスをよこした日本人がやって来たぞ」
そんな事を言うと、周りの生徒が一斉に爆笑した。
後でファックスを読み返してみると丁寧というより時代錯誤的な文章で、戦時中の日本語で書かれた手紙を想像して貰えば良いだろう。
参考にした例文も戦前のものだった。

挨拶をし曲を見せていると、妙齢が入って来て親しげに彼の頬にキスをした。
ドナトーニは愛敬たっぷりに彼女の臀部を叩いて喜んでいる。
驚いた。この一語に尽きる。
作曲家と言えば、気難しく難解な言葉を操る芸術家と理解していたし、日本の周りの作曲家や先生方が煙の中にケーキとコーヒを持って現れたりしないし、授業中に妙齢の尻など触れば告訴されかねない。

当時想像していたドナトーニは、難解な著作を何冊も著し、名作と呼ばれる作品を数多く残す、今世紀の偉大な作曲家の一人であり、世界で最も演奏頻度の高い作曲家の一人であり、同時に厳しい教育者の筈だった。
一体どうした事か。唖然としたり訝しいとさえ思ったが、実際のドナトーニはそんな人物だった。
毎日どんよりした煙の中でたゆたうように時間が過ぎた。
生徒の楽譜を読む時だけは、信じられない位深く光る眼差しになって、これが作曲家の目なのかと思った。
98.02.26


イタリア語も覚束ず、彼の隠喩たっぷりの小噺も分からない。
ぼんやり周りの流れを見つめていたが、或る日、教室に入ってゆくと、これを食べなさいと悪戯っぽくケーキを目の前に差し出した。
食べないとレッスンしないと言うので、おそるおそる口に運ぶと、それは不味いシエナの伝統ケーキだった。
そうして和気あいあいとレッスンが終わると、ドナトーニは卓上のコップを自分で片付けゆっくりと去って行くのだった。

レッスンでは特に何かを教えられた記憶はない。
生徒が作品について説明をし、代わる代わる楽譜を眺める。

そんな時、ドナトーニがもの凄い勢いで楽譜を読むのでびっくりしたが、彼が自分の考えを押し付ける事は一度もなかった。

彼らの雰囲気に馴れてくると、生徒の作品もドナトーニの亜流ばかりが並んでいる事に気が付き、やはり何処にいても結局同じなのかな、とぼんやり思ったりした。
生徒達は音列や数列を説明し、和音構造やリズム構造へと話を進める。
彼らにとって音楽は何なのか、といつも漠然と思っていた。
そう尋ねた処で自分の語学力では理解出来ないだろうと思い、結局そのままになってしまった。それまで日本でのレッスンは、この音は何処から来たのか、何を表現したいのか、この一つの音に込められた意味は何かといった、抽象的な観念論に終始していた。
だから、そんな数学談義は音楽ではないと感じたのだろう。
ただ、何を教わった訳でもないのだけれど、同じ時間を共有しているだけで伝わってくる感動があった。
素晴らしい人物とはそんな存在なのかも知れない。

98.02.26


そうして二ヵ月を共に過ごし、彼と共に書いた自分の作品も夏の終わりに演奏された。何やら意味も分からぬまま賞まで頂いた。
演奏会前のリハーサルに撮った録音に偶然彼の声が入っていて、
「ヨウイチはイタリア人じゃないんだ」
と誰かに嬉しそうに話していたが、これは今でもどういう意味なのか良く分からない。
最後の夜にクラスの連中とドナトーニでトスカーナの田舎のレストランにゆき、大いに羽目を外した。
言葉が分からぬまま何となく生活していると、これは現実ではないのではとの錯覚を覚える事があるが、あの頃はそんな夢心地に酔っていた。

日本に戻り、先ずイタリアで書いた作品を元にして「夕日」という作品を書いた。続いて「フランコ」という作品も仕上げた。
彼に楽譜とテープを贈ると、暫くして短いお礼の手紙が届いた。
「相変わらず仕事ばかりしています」

これは勿論「フランコ・ドナトーニ」へのオマージュとして作曲した訳だが、実はその頃ドナトーニと自分との距離を計りかねてもいた。
あの生徒達のように、彼の作品の真似事になるのではないかと、畏怖にも近い感触を覚えた。
確かに彼の作品や存在には、カリスマ性と明快な論理が同居している。
論理が明快だと生徒も簡単に納得し、免罪符を貰った気分になるのかも知れない。
イタリア政府給費を受ける事にして、師匠としてドナトーニではなく、彼の高弟であるゴルリを選んだのは、ドナトーニの影響からゴルリがどのように自らを発芽させたのか、大いに興味を覚えたからに他ならない。
シエナから戻って四年後、再びイタリアに戻った。
98.02.26
c0050810_21355339.jpg

ミラノに住み始めて暫くの間、何故かドナトーニに連絡が取れなかった。
何となく後ろめたいものがあって、背後には常にドナトーニ楽派への不信感が張り付いていた。
もやもやしたものが躯に広がっていて、半年ほど経って、思い立って電話をした。
電話口の思いがけない明るい声と、少しちぐはぐな会話を交わし、その後すぐに会いに出掛けた。

地下鉄のピオラ駅からランブラーテ方面へ七分ほど歩く。
付近は灰色の味気ないアパート群で、取り立てて雰囲気の良い界隈ではないのが印象的だった。
色味に欠ける風景にオレンジ色のトロリーバスが映えて見える。
そんな事を思いながら、数個目の信号脇にへばり付いている、何の変哲もないくすんだアパートにドナトーニは住んでいた。

呼び鈴を鳴らしながら少し戸惑っていた。
落ち着いた風景の中、悠々と暮らす作曲家を描いていたのであって、こんな雑踏の中で彼が仕事しているとは思えなかった。
「三階だよ」
独特の頭に抜けた高い声が応えた。中は古く陰気な趣があって、いよいよ困惑しながら左手奥のエレベータで三階のボタンを押した。

三階に着くと、四年ぶりに見るドナトーニがエレベータの前で微笑んでいて、思わず抱きついた。
数年前に作曲のコースが終わる頃、彼しかいないがらんとした教室で、同じように感激して抱きついた事を思い出した。
あの時より少し痩せたように見えたが、例の吊りズボンの出で立ちは変わっていなかった。

部屋に通されると、壁を埋め尽くす数々の帽子に圧倒された。
小さなアパートだった。よく片付いていたが、余り陽は入らないように見えた。
細長い六畳程の仕事部屋は薄暗く、客人用と思しき二客の簡単なソファーの向こうに大きな机が窓に面していて、書きかけの大きな譜面がきちんと整理され置いてある。

ソファーに坐ると、目の前壁一面に造りつけられた書棚が目に飛び込んできた。ケージやベルクなど作曲家が書いた本もあったけれど、夥しい本の大半が文学書のようだった。
無意識に目が彼の楽譜を探していたが見あたらなかった。
ピアノも置いていない普通の仕事部屋であった。
そこまで納得した後、妙な感動が胸に押し寄せてきた。
ここで彼が音を紡ぐ実感が、感じられたからかも知れない。
ごく質素な空間で、てらいなど微塵もなかったが、実直に音楽に捧げられた時間が流れていた。

何を話したか覚えていないが、拙作の「フランコ」を喜んでくれた事だけが記憶に残っている。
緊帳と興奮で話らしい話もしていなかったのではないか。
暫く話してから、奥の食堂でコーヒーを振舞ってくれた。
壁に寄せられた食卓の前には、何枚か妙齢のヌードのシールが貼ってあった。
子供のようではないか、と微笑ましい気がした。
その横には錠剤の山が整頓して置いてあって、晒されている臀部には不釣り合い見えた。
98.03.04


その頃彼は、隔週末、車で一時間程離れたブレッシャまで教えに出掛けていて、何度か連れていって貰った。
朝の七時半きっかりに彼の家の前で待つ為に、朝六時半の地下鉄に乗り、ピオーラの場末のバールで躯を温めながら時間をやり過ごした。
七時半きっかり、髪を綺麗にとかし、整った身だしなみのドナトーニがさっぱりと現れた。

彼の自家用車は、当時珍しかった日本車で、燃費の良いのが自慢だった。
ダッシュボードには硬貨が溜めてあって、信号で少年が物乞いに来ると、決まって某か小銭を持たせるのが印象的だった。
高速を暫く走った所に、彼が決まって朝食を摂るドライブインがあって、チーズを挟んだトーストと冷たい牛乳を頼んだ。
日曜早朝の、人気の無い店内で、なかなか出来ないトーストを黙って待っていた。
ぼうっと一人で考えに耽るように見える時があって、トーストを待ちつつ立ち尽くす姿はその典型だった。
 車中、互いの仕事の話をし、ここ数日忙しくて筆が進まない等と巨匠の口から聞かされると、恐れ多いなと思いつつ、少し安心した。

車窓を走る風景は、ミラノを離れるとすぐに田園風景に変わる。
朝ぼらけの中、左景の奥から山並みが近付いてきて、教会の屋根がクーポラから尖塔になって来るとブレッシャは近い。
少し靄の湧いた無人の高速を、滑るように走った。
道を覚えるのが苦手で、一度で音楽院の通りに抜けられると
「おい、凄いじゃないか」
満足そうに呟いた。

尤も、道を間違え何度も旧市街を巡っても、何故か時間通りには音楽院の前に着いているのが不思議だった。
細いへろへろの路地に張り付いた、妙に堅牢な造りの建物がそれで、傍の小さな木扉をくぐって中に入った。
だだっ広い部屋にコーヒーと水を運んでくれる、田舎っぽい風貌の歯の不揃いな女性に贈り物も忘れなかった。
そんな時、暖かいものが染み通る心地がした。レッスンはシエナのクラスと代わり映えなく、生徒の作品も似たようなものばかりで、安心したような、裏切られたような、割り方を間違えたアルコールの味わいがあって、何時も少しだけ苦かった。
レッスンと言ってもそっけないもので、曲が良ければ良し、悪ければこれでは仕方ないだろうで終わってしまう。
「音楽は常に展開すべきもので」
と彼が始める時、決って話題にのぼるのはモーツァルトやベートヴェンであって、自身の作曲技法について何も触れなかった。

なのに、何故生徒は似たような作品ばかり書くのだろう。
確かにドナトーニは一時期、個性の表出を極端に押えた「否定的作曲」と呼ばれる技法を確立した時期があったが、結局それが彼の強烈な個性となって我々に迫ってきた。
この生徒達にとって音楽とは自己否定の手段なのか訝しく思った事も一度ではない。
そんな事を繰り返すうち、殆ど迷宮に足を踏み込んでいた。

その頃からドナトーニは日本を訪れてみたいと繰り返していた。
日本の文化は自分に強い影響を与えたから、というのがその理由だった。
普通なら水の滴る音は一定の筈だが、日本のそれは竹筒にひたひたと溜ってゆき、かたりという音とともに、或る瞬間不意に零される。
その覚束ない時間の流れに魅了されたと言うのだ。
彼の音楽は拍感が明快で一定だと思いがちだが、実はそうではなくて、拍感の中でたゆたう彼の息遣いが、そこに微妙な揺らぎを許しているのだった。暖かい触感に何だか救われた。
何かを渇望する自分の裡は、そうして音楽の本質を掠ったり遠のいたりを繰り返していて、小さく震えていた。
98.03.08
[PR]
by ooi_piano | 2012-08-21 00:27 | 雑記 | Comments(0)


フランコ・ドナトーニ ドキュメンタリー・ヴィデオ 概訳

2'30''
変身(ミラノ市立音楽院に残されている授業風景の録音より)


変身は音楽の基本なんだ。自然だってそうでしょう。
その昔住んでいたヴェローナのパリオ門の外の辺りは当時はかなり田舎で、シルクをとる白いカイコがとれた。カイコは桑の葉を食べるでしょう。
シスターと一緒に子供たちが桑の実採りに行くと、カイコが葉っぱを食べていたりして。
5月か6月くらい、窓は開け放してあった。ある朝起きて外を見ると、カイコの姿が消えて丸い玉だけがあった。
「カイコはどこに行ったの?」
「どこに行ったって、そりゃあの玉の中さ」。
「どうやってこのなかに入っているの?」
「カイコが絹糸を吐いて繭だまを作ったのさ」。
次の日、繭玉まだあったけれども、そこには小さな穴が開いていてね。
「この穴はいったいどうしたの?」
そう、いつの間にか、カイコは蝶になって、繭玉に穴を開けて飛んでいったのさ。

これが僕の作曲の方法の原点だと思うんだ。つまり、すべては何も変形しない。
山ですら、少しずつ崩れて削れた石が滑り落ちていったりするけれど、形は変わらないでしょう。
波の満ち欠けも止まることはない。
自然界では、何ものも不動ではいられないのさ。
c0050810_416126.jpg

4'48'
対称と非対称について


戦後(ナチスに破壊された)ヴェローナのカステルヴェッキオ橋(Ponte Scaligero)を建てなおすとき、
古いレンガをあつめてくるか、新しいレンガに機械で砂をふきつけ表面を削って古く見えるようにしなければならなかったんだ。
あちこちに開いている銃を構えるための銃眼も、非対称にならんでいるし、
道路わきに這う細い通路も道路に対して平行ではなく、
少し高かったり低かったりするでしょう。
古代から現代まで、世界中どこの伝統においても、非対称は存在するんだ。

有名な禅寺の庭師の話だけれど、
あるとき庭師が禅寺の庭の掃除する命をうけたときのこと。
禅寺の庭には、2本の飛び石がのびていて、白砂利がしきつめてあった。
庭師は、草を刈り、垣根を直し、きれいに掃いて、白砂利も直して、表面が白くうつくしくなるように足りないところには白砂利を加えたりしたんだ。
秋の声をきいて、柳の枝から垂れる葉は、赤く色づいていた。
すべてが、完全なシンメトリーをなしていた。
だけれども、庭師には何か納得がいかなかった。
それから庭師は柳に近づき、柳の枝をゆすると、
はらはらと葉があたりに散り、ようやく庭師は満足したという。

だから非対称というのは、対称形(シンメトリー)の中に存在していて
決してその反対ではないのさ。
さもなければ、単なる無秩序に陥ってしまう。
常に礎は対称形を形作る必要があって、
その上に非対称物が乗せられるわけさ。
c0050810_4164744.jpg


8分24秒
フィギュア(姿)とジェスチャー(身振り)


フィギュアは何か認識可能なものが、水平もしくは水平と垂直に広がる連続体、シークエンスなんだ。
つまり、フィギュアは顔なのさ。だから、分析するまでもなく、誰であるかをすぐに認識することが可能になる。
たとえば金髪や赤栗毛の女の子の鼻の形はどうで口の形がどう、髪型はどうかなどと分析する必要はないでしょう。
一目見てすぐに誰だかわかるし、完全で完結している理解なのさ。
これがフィギュアなんだ。

フィギュアは変化させられて、たとえば髪を染めたり、目に化粧したり、口紅をつけたり、悲しいかな老けることだってある。
同じフィギュアを20年後に見れば、同じアイデンティティを持っていたとしても、少し違うこともあるかも知れない。
ところが、ジェスチャーは変化させられないんだ。
ジェスチャーはこれさ(と何かしぐさをする)。
これはもう変えられないでしょう。だってほら、こうすると別な意味にになってしまう。
だからバリエーションにはフィギュアは含まれるけれど、ジェスチャーはそこには含まれないのさ。


11分9秒


これに関しては、人生ずっと付きまとわれているわけなんだけれど、
例えば、朝初めて見かけた車のナンバープレートの番号から、
その日の運勢を占ったりするわけさ。
例えば、574097…
57…ううん、どうもツキがなさそうな感じ…。
58! これはいい! 良い一日になりそうだ!
何と言ったって58は5+8で13だもの。
例えば61だったら…。ううん、どうも1日運に見放された感じ。
これが63だったなら、なんとなく1日の始まりにも希望が見えてくるね。何しろ7X9だから!

僕と数との関係は数量が意味を持つのではなくて、
数の持つ質感なのだと思う。
どの数字も数字ごとの顔をもっているのさ。

どんなに好感の持てる数かと思うこともあれば
とても感じの悪い数もあるし、特に良くも悪くもない数もあるんだ。
だから数にもそれぞれの顔つきがあって
僕は21には親しみを感じるけれど、29には全く好感が持てなかったりするし、
それに比べれば31はまだいい。ああでも33の方が言うまでもなくずっと感じがいい。
37…は、まあまあか。
しかし39はとてもいいね。何しろ13の3倍だし!
僕と数とはこんな付き合いなわけだよ。まあ少々常軌を逸しているのだけれども。



13分44秒
ブルーノ


マデルナは本当に偉大な人物だった。
彼の器の大きさで比較に値するのは、おそらく19世紀のシューマンくらいじゃないかな。
いつでも他人に対して甘んじて道を譲り、自らはいつもしんがりをつとめ
それは、たとえ相手が取るに足らないような人物であろうとも変わらなかったんだ。
彼の音楽性ときたら、それは素晴らしいものだった。
彼ほど全ての才能が端から端まで揃った人なぞ見たこともない。
全てが聴こえていてね。
1ヴェローナのアレーナを12歳で指揮していたころから
全ての音が聴こえていたんだ。
「フランコ、そのためには聞き分け能力が必要なのさ」
「聞き分け能力ってなんだい?」
「オーケストラを聴くとき、全部の音を聞いちゃだめだ。
たとえば2番オーボエだけの音を聞いて見るのさ。そうしたら間違えているかどうかがわかるだろう?」
「一体オーケストラが全員で弾いているとき、どうやって2番オーボエの音だけ聞き分けることなんて出来るのかい!」


16分17秒
敢えていえば:


聴覚は注意であって学習ではない。
聴覚は音に関して起きる事象の証言であって
音を通して起きる事象の理解ではないのだ。

つまり:
音とは、ある絶対の存在であって
それが発されることから、啓示を築く。
聴覚は会話体の理解に達する行為ではなく
形式的意識の単位において、多様性を仲介し、多様性に到達する瞬間なのだ。
聴覚は直接的経験であり、そこでは意識は行為に符合する。
聴覚は、自己鍛錬なのだ。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)


17分12秒
若者とともに (シエナ・キジアーナ音楽院夏期講習会の教室にて)


見てお分かりの通り、名前でお互いを呼び合っているし
少なくとも苗字で呼び合うなんです。
ここで僕のことをマエストロ・ドナトーニ先生と呼ぶ生徒はいません。
これはテレビの前でも同じです。
大事なことは、互いに信頼関係があって、対等であることです。
もちろん年齢も違いますから、文字通りの対等というのはあり得ないかもしれませんが。
ですが、それを除けば、それぞれ経験が違い、年齢も違い、立場も違うけれど、
皆それぞれ黒板の前に立ってプレゼンテーションをし、
それぞれが授業をしてくれるわけです。
(女の子が通り過ぎる)
ええと、何を話していたっけ?
c0050810_21224357.jpg

18分55秒
ここは美人の女流作曲家の宝庫だね!
君は何歳?20歳?ワーオ!


19分30秒
非対称は対称の中に書かれているんです。
なぜなら、無秩序は秩序のなかにあるんです。反対になってはいけません。
上手な花屋が花束を用意するとき、それらをよく理解しています。
みなさん上手な花屋を見かけたらよく観察してみてください
例えばバラを手にとって、花束を用意するとき、
それぞれのバラの高さや茎の長さを均一にならないよう留意しながら、
花束をつくりますね。


20分50秒
若い作曲家に必要なのはジェスチャーが明確でドラスティックであることです。
例えば引っ込み思案だったりすると、こんな風になります。
(外からドアをノックするジェスチャー)
これは若い作曲家に対しても同じです。
フォームが明確でなくて、
こんな感じでは、わからないですよ。


23分24秒
その後に残るのは、ただ贈り物の話のみ。
自らの作品について話し、失敗は語り継がれる。
しかし贈り物は見せられることなく、4月25日についてもみな口をとざす。
そこでは子供は友達や知り合いに贈り物を見せている。
なぜなら、それは受け取った贈り物だから。
でも、贈り物に値しない不完全な作品は見せない。
そこには不完全な作品しかない。
なぜなら、完結した作品は贈り物であって、作品ではないから。
その昔は、子供たちにこう教えていた。
贈り物を欲しがってはいけないし、望んでもいけない。
買ってもらってもいけないし、利益をあげてもいけない。
新しい贈り物は、年長者から無償で提供されたときのみ受け取ることができた。
その昔、子供たちにたくさんのことを教えていた。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)
[PR]
by ooi_piano | 2012-08-19 03:52 | 雑記 | Comments(0)
(つづき)
c0050810_1150562.jpg

・・・否定性・・・

  ぺトラッシとマデルナとの出会いの後、ドナトーニに影響を与えたのは、シュトックハウゼンやアドルノを翻訳しイタリア紹介した音楽評論家マリオ・ボルトロット(1927-)だった。
  ボルトロットはドナトーニに、シモーヌ・ヴェイユ、アドルノ、エレミール・ゾラの著作を紹介したが、特に1960年代、カフカ、ロベルト・ムージル、ゴットフリート・ベン、サミュエル・ベケットの著作は、ドナトーニの創作の規範となった。
  どれも否定的傾向をもつ当時流行した著作だが、ドナトーニにとってそれらは自分で気づいていなかった部分を開眼させるものであった。
  自らの手で自らの人生をつき動かす必要を痛感し、自己の内面を甦らせるべく、意志の否定と魂や思考、記憶の停止を求めたのだ。

  直接的に言えばカフカとムージルの著作が不確定性へと向かわせることになったのは、彼らがドナトーニに素材と素材変容間の分離の必要性に気づかせたからだった。
  素材はドとレの音をさすのではなく、ドとレの間に存在する相関関係、ドとレの音を変容させるためドナトーニがもちいる作曲規則を意味する。
  たとえば1962年に作曲されドナトーニ自身の指揮で初演された「オーケストラのためにPer Orchestra」は、音楽素材はただ譜面の紙切れに過ぎず、素材の変容は作曲者からもたらされるのではなく、そのつど素材から霊感をえて変化させる奏者一人ひとりに委ねられるため、
結果としてそこに立ち上るものは定着された形式ではなく、気化した形式となった。
  形式は、今となっては消滅しているが、演奏の瞬間には確かに存在していたので「開かれた音楽」とは一線を画すという。
  「オーケストラのために」で気化形式を活かせるのは、指揮者のジェスチャー以外のなにものでもなかった。

  同じような例として、1964年クラウディオ・シモーネのために書いた弦楽合奏のための「アザールAsar」を、クラウディオ・シモーネが日本で演奏したときの逸話が残っている。
  「アザール」には指揮者は登場せず、演奏者は各自自分で決めた聴衆を舞台上から観察し、聴衆のしぐさに反応しつつ演奏するよう指示されている。
  しぐさの大きさは本来演奏の強弱に影響を与えるはずなのだが、これを日本で演奏した際の日本の聴衆は微動だにしなかったそうである。
  このため演奏者は大いに当惑し、結果的に最初から最後まですべてピアニッシモで演奏された。
  このように、否定性の時期のドナトーニ作品は演奏にあたって偶発性が取り込まれてはいるが、これは偶然性ではなく、素材と素材の変容間の分離だとドナトーニは強調する。

  それは自己抑制の姿であり、能動性と受動性という二元性の意識化であり、自身の知性と意志の作者であり続ける不可能性を現した。
  二元性とはこの場合、行為を完遂するか、完遂される行為なのかという部分にあたるが、本来であれば二つの言葉をいれかえても何ら変化は生じないはずであった。
  ぼくがドアを開けるのと、ドアはぼくによって開けられることに違いはないようだが、当時明らかに受動的傾向に傾いていたドナトーニは、あるとき、これら二つの間に根本的な相違を認めてしまう。
  当時、こうした思索の後押ししていたのは、他ならない彼の錬金術的な視点であり、錬金術的な実験であった。
  そのなかで彼が理解を努めたのは、分離すること、その相違を見分けることにあった。


・・・自動書記・・・

  ケージとの出会いが生むことになったこれら偶発性の作品群を経て、1966年ドナトーニはフルートのオーケストラのための「人形芝居2 Puppenspiel2」をもって古典的な作曲姿勢に回帰する。
  5年から6年間、古典的な作曲姿勢から遠ざかっていたのは、思えば随分長い時間だった。
  「特に秘密の理由があったわけではない。単に自分自身がまだ書けるかどうか試してみたかっただけなんだ。ピアニストが何年もピアノに触らなければ間違いなく弾けなくなるだろう。作曲においては発想が技術の全てだから、君が発想や思考や意志を殺めていたならば、それは自殺行為に等しいわけさ。もちろん実際に死ぬわけではないけれども。だったらこの際、この作曲の自殺行為を証明してはどうかと思ったわけさ。そうでなければ何の意味もないじゃないか。実のところ、本当の目的は否定性を否定だったんだ。二重否定を通して否定性を肯定するのではなく、完全な虚構をもって完結させたいと思ったのさ。全て問題なく収まっていて、全てが正しく、しかし全てが虚構なのさ。その裏にはいつも自分を生まれ変わらせたい欲求が常に根本にあったのだけれど」。

  「人形芝居2」は、冒頭オーケストラがハ音上の長3和音を全員で奏し、それが次第に分化してゆく。
  この長3和音の第3音へ音を中心とし、3度ずつ開いた音程関係を出発点に作曲を進めたのだが、ドナトーニはそもそも長3和音という「擬似素材」から出発したことが大きな誤りだったと記している。抽象的でない具体的な素材がそこには必要であった。
  同じハ音の長3和音でも、それがベートーヴェンであったり、ブラームスであったり、デュボアの和声教本であったりすれば、素材と変容の間に相違が生じたのかもしれない。ただの長3和音そのものは余りに無味乾燥として抽象的な素材であった。

  そのため、つづく1967年に書いた5楽器のための「ひそやかに」ではシェーンベルクの断片を、15楽器のための「おみやげSouvenir」ではシュトックハウゼン自身の断片から出発し、彼が「自動規則(codici automatici)」とよぶ作曲技法が、またさかんに用いられるようになる。
  上記のパネル作法の項で触れた「ひそやかに」に戻ってきたのである。
  ドナトーニ自身はこの「自動規則」について、現在ではごく当たり前に誰でもコンピュータが行っている作業だという。
  規則をそのつど直感で決めてゆくことそのものには、時間はほんの一瞬しかかからないが、それを実行し仕上げるためには、時には一週間かかることもあると述べている。
  例えば、F#を手に入れようと、ある音列に規則を決めて「フィルター」をかけるときに、音列がF#を含まれない場合など「自動規則」が用いられる。
  規則そのものは「魔法の公式」のように、特別な機能をもっているわけではない。
  それは解剖学から分離させられた生理学のようなもので、カフカのいう「肺なしでの笑い」のようなもの。乾いた枯葉のさざめく音や、口を使わずに大笑いするようなものだという。

  「自動規則」のみならず、「準規則(sotto codice)」や規則の「改変(emendamento)」が用いられることもあり、例えば「自動規則」によって得られたF#を選択の後、この音列から「擬似」全音階(正全音階ではない)を排除すると決めれば、当然そこから短2度、短3度、減5度などの音程のみ抽出して使うことになる。これが「準規則」にあたる。
  これらは前以て決められるのではなく、筆を進めつつそのつど発案され、改変されるべきもので、そのつど細心の注意をはらう訓練であってプログラミングする訓練ではない。こうして直感が磨かれてゆくと、あてはめられる規則はよりラディカルで実験的な様相を帯びてくる。
  なぜならそこから何が起こるか時として予測できない場合さえあるからだ。
  いつも使っている規則を別の素材にあてはめれば、結果はまったく違ったものになるかもしれないが、ある程度の予測は可能である。
  よく知っている素材に違う規則をあてはめるなら、結果は実験的なものにならざるを得ない。なぜならこれらの規則がどのような結果をもたらすか、当初は明確でないからだ。
  もちろん、規則が元来もつ特質と、素材が元来もつ特質の間に保つべき一定のバランス感覚が必要になる。
  直感による選択の結果は、往々にして想像していた形式をくつがえす傾向にある。そして自動書記は、これはリゲティが用いる仕組み=メカニズムとは根本的に違うものだという。そこにはどのようなルールを課すこともできるが、常に何らかの発明が必要だとドナトーニは述べている。

c0050810_11513987.jpg

・・・灰・・・

  数字を偏愛していたドナトーニ曰く、この当時、運命のいたずらのように7年周期で危機が襲ったという。
1970年ドナトーニは、もはや彼には無関係だったはずの偶然性を用いて、室内オーケストラのための「アールに(To Earl)」を書き、これは何の役にも立たない失敗作だと回想している。その直後、生涯で最大の危機がドナトーニをおそった。
  「毎日16時間の作業をのべ16ヶ月もかけて作った自分の人生中もっとも自虐的で痛恨極まりない作品が、1971-1972年に書いたオーケストラのための「アールに第2番(To Earl Two)」だ。1作目はほんの小さなスコアから充分大きな音を得られたのに、2作目は巨大なスコアで細密に書き込まれていながら全く何の効果もあらわさなかった。音のカオスが聴こえるだけで、書き込まれているはずの全ての形式はカオスにかき消され、自動書記で作業し、充分結果を理解していたはずのカオスの渦に、飲み込まれてしまった。これが自身の意志を殺して、限りなく作品に服従した結果なのだ。
  思い出すだけでも恐怖にかられる」とドナトーニは書き残した。

  「アールに第2番」の失敗を経て、同じく1972年に書いた13楽器のための「歌Lied」では従来の自動書記や作曲規則はより自由になり、1972-73年に書かれたオーケストラのための「声Voci」からは、以前のような厳格で被虐的な自動書記法とは一線を画すようになった。
  この自動書記の時代の最期に書かれた傑作が、1974-75年に書かれたオーケストラのための「ブルーノのための二重性Duo pour Bruno」である。

  「ブルーノのための二重性」を書いたドナトーニは、自分が来るところまで来たことと悟り作曲をやめることに決意する。
  2月のある日、きれいなアンティークスタイルの黒い自転車を購入し、仕事部屋も払ってしまった。右手は引き攣りを起こしていたので、鉛筆は持てなかった。
  こうしてスヴィーニ・ツェルボーニ社の校訂の仕事に携わることにし、他の社員と同じように朝自転車で出勤し、他の社員と一緒に自転車で帰宅する生活を数ヶ月続けていたが、一つだけ委嘱がまだ残っていた。
  夏のキジアーナ音楽院の講習会からのもので引き受けるかどうかずっと迷っていると、あるときスージーが言った。
  「もうどうせ作曲をやめるのだから、もはやあなた自身でなにも拘泥する必要はないし、自分自身で背負う責任もないでしょう」。
  その言葉に説得されて、ドナトーニは「灰Ash」という作品を書くことになった。

  「灰」という表題は自身の終焉を意味していたが、とくに何も決めず気の向くままに書いたこの作品こそ、思いがけず彼を甦らせる結果となった。
  「この曲はどうやっても分析することができない。冒頭何がしか意識化されたものを推測できるかもしれないが、その先は何も証明できない。
  ここで用いた全ての作業は自動書記的な音列作法に基づくが、連続的に変化しつづける「規則」を使い、
必要とされるさまざまな選択は経験によって磨かれた直感に従った」。世界的に認められるドナトーニの音楽が、ここに確立されることになった。
[PR]
by ooi_piano | 2012-08-16 11:14 | 雑記 | Comments(0)