7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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Shadow Piece
Make Shadows - still or moving - of your body or something on the road, wall, floor or anything else.
Catch the shadows by some means.
1963


Boundary Music
Make the faintest possible sound to a boundary condition whether the sound is given birth to as a sound or not. At the performance, instruments, human bodies, electronic apparatus or anything else may be used.
1963


Fluxus Performance Workbook (on web)

37 Short Fluxus Films (1962-1970)(on web)


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プロフィール
  1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成。即興演奏やテープ音楽の制作を試みる。グループ・インプロヴィゼーションは、次第にアクション・ミュージックやイヴェントへと移行し、それは図らずも世界的な傾向と一致していた。1964年ニューヨークへ渡り、フルクサスの活動に参加。同年10月ワシントン・スクエアー・ギャラリーでイヴェント作品によるソロ・リサイタルを開催。65年、郵便によって地球をステージとした遠隔共同パフォーマンス「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始。75年までに9つのイヴェントを行う。一方、イヴェントを舞台上のパフォーマンスとしても発展させ、インターメディア作品へと至る。70年に結婚して大阪へ移住。以後しばらくは、関西を中心に音と詞による室内楽作品を多数発表。
  90年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことを契機に、フルクサスの仲間たちとの交流が再開し、90年代は欧米の数々のフェスティヴァルやグループ展に参加。95年パリ、98年ケルンで個展。同時に国内では、電子テクノロジーに興味を持ち、藤枝守・佐近田展康氏らの協力の下、神戸ジーベックで「メディア・オペラ」、「フルクサス・メディア・オペラ」などのコンサートを企画・演奏。96年には、<東京の夏>音楽祭「世界の女性作曲家」に推薦され、高橋アキ氏の委嘱による「時の戯れ Part II」を自選作として再演。97年神戸国際現代音楽祭では、ブック・オブジェクトから平面作品やパフォーマンスを経て50分の室内楽として作曲した「日食の昼間の偶発的物語#1~#3」を初演。1999年北上市で開催された「「日独ヴィジュアル・ポエトリー展」に参加。以後このジャンルの国内外の展覧会に出品。
  2001年5月国立国際美術館で裁判形式による複合パフォーマンス「フルクサス裁判」を構成・共演。同年11月「日本の作曲・21世紀へのあゆみ:前衛の時代1~ジョン・ケージ上陸」で過去のイヴェント作品を舞台音楽に作曲初演。2004年3月ジーベックにピアニスト井上郷子氏を招き、近藤譲氏との二人展「線の音楽・形の音楽」を企画。同年5月フルクサスの友人ベン・パターソンの来日公演をマネージメント・共演。2005年には、自伝的著書「フルクサスとは何か」をフィルムアート社から出版。一方、うらわ美術館でのフルクサス展を初め、大学などでフルクサスのレクチャーやワークショップを行う。2008年豊田市美術館でのグループ展「不協和音」には、音楽的コンセプトを持つ多数のヴィジュアルな作品を展示。
  2009年より再び作曲に戻り、ピアノ曲や、イヴェント性のあるチェロ、ハープのためのソロ作品を書いて現在に至る。なお、過去の出版物やオブジェクトなどは、ニューヨーク近代美術館を始め、国内外の多数の美術館やアーカイヴに収蔵されている。
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【主要音楽作品】
「ファントーム」1978 
「鳥の辞典」1979 
「もし我々が五角形の記憶装置であったなら」1979 
「午後に 又は 夢の構造」1979 
「草原に夕陽は沈む」1981 
「パラセリー二」1981 
「時の戯れ」1984 
「グロビュールの詩」1988 
「時の戯れ Part Ⅱ」1989 
「ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲」1990 
「ピアニストのための方向の音楽」1990 
「グランド・ピアノのためのフォーリング・イヴェント」1991 
「ピアノの上のビリヤード」1991 
「そして夜鶯は翔んだ」1992 
「時の思索」1992 
「日食の昼間の偶発的物語」1997 
「カスケード」1997
「アンコールの伝言」1998 
「鏡の回廊」1998 
「パラボリック」1998 
「月食の夜の偶話 ・第一話」1999 
「彩られた影」2002 
「架空庭園No.1 – No.3」2009 
「チェロのための6つの小品」2010 
「ハーピストのための方向の音楽」2010
など。


【CDソロ・アルバム】
「フルクサス組曲―80名についての音楽的辞典」2002 Edition Hundertmark
「Satoko Plays Mieko Shiomi」2005 Edition Hundertmark
「音と詞の時空」2010 fontec

『フラクタル・フリーク』について
  フラクタル理論を初めて知ったのは、1995年パリのドンギュイ画廊でインタヴューを受けていた時のことである。フルクサスの過去のイヴェント作品とフラクタル理論との類似性を、あえて探ろうとしていた評論家A氏の解説に、その時は大した興味も持てなかったのだが、それから程なくして「鏡の伝説」という本の中で、思いがけなくその理論に生々しく再会することになった。あらゆるディテールに同じ情報が入っている、言い換えれば、ミクロの世界もマクロの世界も同じ構造で出来ている、というような記述は、私の想像力を、それこそ一粒の原子の中からシダの葉を突き抜けて、宇宙空間へと一気に広げてくれた。この視点のダイナミックな飛躍が、まず衝撃的だった。そして、フラクタル構造を持つ図形をコンピュータ上で作るには、Zの2乗+Cの解をZに反復代入すればよいというくだりでは、自己代入という手法から、音楽的なフレーズがどこまでも増殖し、立体的に伸びていく様を連想した。とりわけ印象的だったのは、海岸線など複雑に入り組んでいる線上の二点間の距離を測るとき、凹凸のどの程度の細かさまで計測するかで、出てくる値はすっかり異なってくるが、それをフラクタル次元で表すと正確に表現できる、という部分だった。この理論は、音楽理論の様々なフェーズに応用できるのではないか!と、とっさに閃いた。なにしろ当時は、一本の樹のようにそれ自体が内包する法則でもって自律している音楽、人間の恣意的な表現を超えた、自然そのもののような音楽を目指している時期だったから。

  四曲からなるこの曲集では、一曲毎に異なった角度から、この理論を応用・発展させた訳だが、それらはあくまで建造物の中の隠れた骨組みのようなものであり、感覚的に聴きとれる場合と、そうでない場合があるだろう。第1番から第3番までは、井上郷子さんからの委嘱で書いた。因みに、タイトルの「フリーク」とは「出来損ない」の意味。フラクタルとしては不完全でも、願わくば、音楽としては出来損ないでないことを!
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No.1カスケード CAsCAde (1997)
  タイトル中の大文字が示すように、様々な音域のCからAへと一定のリズムで下降するフレーズが連なる。それらは繰り返される度に異なった道筋を辿って一音ずつ長くなり、又、響きも単音から次第に複雑な前打音を伴った和音へと厚みを増していく。それは変奏というより、単純な画像が次第にブレて、色彩を伴って多層的に重なっていく、といった視覚的なイメージに近い。全体の構造は、二つの相似形となっているが、最後の単音による下降フレーズは、第3のより大きな相似形の始まりであり、この曲が無限に続いていることを暗示している。

No.2 鏡の回廊 A Mirror Cloister (1998)
  この曲では、同じ情報が次元の異なるあらゆる細部に含まれるという原理を、音程関係と時間に変換してみた。まず、鍵盤上に13個の架空の鏡を等間隔に置いたと仮定すると、13種の音域で、鏡を中心に上下に同じ幅で広がる音列や和音が得られる。すべてのフレーズは、そうした音階のいずれかで出来ている。又、最後の部分では、時間の中に複数の鏡を置くことで、フレーズは何度も折れ曲がって過去に遡る.丁度、鏡張りの回廊を曲がる度に、通り過ぎた風景が逆さまに映し出されるように。

No.3 パラボリック Parabolic (1998)
  パラボリックとは、「放物線の」という意味。タイトルの通り大小の放物線状のパターンが、時にはゆったりと、時にはネズミ花火のように素早く乱舞する。これら一見、乱雑に入れ乱れる放物線の群れも、一つひとつは厳密な音程関係の約束事に従っている。
  即ち、一つの音から次の音へ向かう場合、上向するときは、それ以前の音程と同じかそれよりもさらに狭い音程をとり、下降するなら逆に、同じかより幅広い音程をとる、という非常に単純な原理に。

No.4 彩られた影 Animated Shadows (2002)
  ペダルなしのオクターヴで弾くシンプルな構造体と、その影として投影されるフレーズとの立体的構成。音数・音域共に拡大していくオクターヴの断片は、影によって頻繁に中断されるものの、全体としては一つの大きな構造物であるというイメージのもとに、常に前の断片の最後の音から始まる。丁度、角度をずらせて写真を撮り、それらをつなぎ合わせてパノラマを作る時のように。一方、影として伸びるフレーズは、現実の影が元の物体の形を歪めながらもその特性を保持するように、本体のリズムやパターンの特徴を引き継ぎながら展開する。影は初めのうちこそ平面的・静的であるが、次第に音楽的アニマを得て狂奔し、主客転倒して、遂には本体の断片をもその中に取り込む。
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午後に 又は 夢の構造 (1979)
   60年代の終わり頃、音、光、詞、映像、物体、人体の動きなど、あらゆる素材を用いた大掛かりなインターメディア・アートに邁進した後、再びスリム化を目指して、音と詞だけを対象にしていた頃の作品である。先ずは別紙の対訳をご参照頂きたい。
   この曲では詞と音とは対等な関係にあり、一方が他方を説明したり補足したりするものではない。詞は、夢の中の出来事のように、時には関連性を持ち、また時には無関係に飛躍しながら展開する。さらに、VやPなど同じ子音から始まる単語が連なる部分では、言葉はイメージの乱射の果てに意味を半ば失い、単なる音声としてピアノと対等なリズムを刻む。一方、ピアノのパートには、ゆったりとした幅広い和音、ランダムな分散クラスター、モースル信号のリズム、上向グリッサンドなどいくつかの特徴的なパターンが繰り返し現れ、それらは詞の展開とも連動している。
   この詞のナレーションは、初演ではピアニスト自身が行なった。その後の演奏では、ナレータが脚立の上に腰かけて行なったり、或いは、ピアニストがペダルを踏むことで合成音声がスピーカーから聞こえてくる、というようなシステムを組んで行なったこともある。ナレーターがテキストを朗読する場合には、ピアニストより空間的に高い所に位置した方がよい。何故なら、これはピアニストが弾きながら見ている夢、という設定でもあるから。

シャドウ・ピース+バウンダリー・ミュージック(1963/2010)
  〈Shadow Piece〉・・・「● 路上、壁、床その他任意の場所へ自分の体か他の何かの物体の―それは静止していても動いていてもよいーを作ること。 ● 何かの方法でそのを捕まえること」
  + 〈Boundary Music〉・・・「●自分が演奏する音を、それが音として生まれるか生まれないかの境界の状態にまで、できるだけ微かにすること。演奏に際しては、楽器、人体、電気的装置、その他何を用いてもよい」

  これらは共にフルクサスから出版されているイヴェント作品であるが、当時の作品はインストラクションが単純で、多様な演奏の可能性を秘めているために、現在でもいろんな解釈が試みられている。特に最近は、二つの曲を同時に行ったり、時間を逆行させたりというように、かなりソフィスティケイトされたことも行なわれているという。今回は、〈Boundary Music〉を演奏するピアニストのを、作曲家の伊左治さんが捕まえるのだそうだ。果たして、どのようにして影を捕まえるのだろうか? それは見てのお楽しみ。

(写真提供/塩見允枝子・Xebec Hall)
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by ooi_piano | 2010-10-31 14:42 | コンサート情報 | Comments(0)
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まえがき

  このピアノ組曲は1969年に中部日本放送から”美しい日本”という表題で芸術祭参加のため作曲を委嘱されたものである。

  いうまでもなくこれは川端康成氏がノーベル賞受賞の際に講演した”表題”である。
  しかしこの曲は別段同氏の文学的内容から着想されたわけではない。
  ただ日本の四季おりおりの自然の風景に美を見出すのはわれわれ日本人の共通の伝統的感情のようである。

  この組曲は「前奏曲、わらべ歌、草刈唄、平曲のパラフラーズ、朗詠風な幻想、筝曲風の終曲」からなっている。これらの音楽の素材は季節であり、風景であり、そうしてわれわれの祖先がそれから霊感されて日本の楽器(声も含めて)のために作曲した歴史的背景から間接的に結びついているものである。

  「わらべ唄」および「草刈唄」は名古屋地方のわらべ唄および民謡をもとにした自然への素朴なふれ合いを歌ったものである。
  「平曲のパラフラーズ」は平曲の中の一曲”横笛”に材題を求めたが、仏教的な運命の物語が京都の風景の中に展開する原曲をもとにピアノ曲への転写を試みたものである。
  「朗詠風な幻想」は牽牛と織女をテーマにした詩によるもので平安朝の唄の朗詠の様式から触発されたやや華麗なスタイルになっている。
  「筝曲風の終曲」は四季のながめがうたいこまれている”茶音頭”の筝曲風な奏法をピアノへ移したものである。

  この曲集は1969年の芸術祭参加のため同年の9月に井上二葉氏により録音された。そしてこの初演者により指使い(doigté)が指定されている。
1970.1. 松平頼則


松平頼則《美しい日本》について  ――――――――石塚潤一

  松平頼則は、作曲家であると同時に、一時期ピアニストでもあった。

  1925年、秋、帝国ホテルロビーで行われたフランスのピアニスト:ジル=マルシェックスによる6夜に亘る演奏会が、当時、慶應義塾大学文学部仏文科に学んでいた22歳の青年:松平頼則の転機となったことはよく知られている。

  この一連の演奏会で演奏された63曲には、日本初演曲が実に34曲、さらに世界初演曲が1曲含まれていた。日本では噂ばかりで実演に接することなど叶わなかった、フランス6人組やストラヴィンスキーの作品が、初めてまとまった形でコンサートにかけられたのである。この貴重な機会は、在京の趣味人の興味を惹き付け、後に梶井基次郎はこのコンサートの印象から掌編小説『器楽的幻覚』を書くことになるだろう。また、それはとりもなおさず、当時の日本の音楽家が、遠くヨーロッパで今まさに音楽史が拓かれつつある熱気を、間近で感じるとることに他ならなかった。

  このコンサートを転機としたがゆえに、松平頼則の音楽人生は決まった。創作の最前線を切り開く前衛作曲家としての未来が、この熱気の中で生まれたことは疑いない。同時に松平は、ここでのジル=マルシェックスのように、自らの楽曲はもちろん、ヨーロッパの最新の楽曲を紹介するピアニストとしても活動していくこととなる。後者には、当時の日本人演奏家の殆どは古典的な名曲しか眼中になく、自作の披露やヨーロッパ最新の楽曲の紹介は、自らの演奏で行わなくてはならない、という切実な事情も絡んでいたのだが。

  ピアニストとしての松平頼則は、1931年4月3日(この日は、長男:頼曉誕生の1週間後に当たる)の第1回を皮切りに、1934年11月までに4回のリサイタルを行っており、この中で、イタリアの作曲家:マリピエロの作品の日本初演すら行われている。また、ソロ・リサイタルに限らず、自作室内楽曲の演奏においても、松平自身がピアノを担当する機会は多々あった。自身のピアノによって初演された作品の一つ、フルートとピアノのための≪ソナチネ≫(1936)終楽章、プーランクからの影響が色濃い跳躍音形から、松平が‐当時の技術的水準を考えるなら尚更‐相当の弾き手であったことが見て取れよう。
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  4回のリサイタルを終えた後、松平は「指の回転に限界を感じた」という理由から、ピアニストとしての第一線から退き、作曲に専念することになる。当時、ヨーロッパから輸入される楽譜を筆写することで最新の音楽語法を学んだ松平は、いつしか雅楽と新古典主義的な作曲技法を結びつけることに開眼。以後、雅楽と西欧前衛最先端の結合は彼の終生のテーマとなる。そうした中、ピアノは松平が新時代を切り開くための一番強力なツールであり続けた。1940年代の松平作品を概観するなら、ラヴェルやドビュッシーの残り香が感じられなくもない弦楽器などの書法に比べ、ピアノの書法は図抜けて独創的かつ洗練されていることに気付く。そうした洗練は、新古典期を代表する作品である、≪古今集≫(1939‐45)やピアノのための≪ソナチネ≫(1948)の譜面からも見て取れるはずだ。

  松平頼則が初めて12音技法を取り入れたのも、1951年のピアノと管弦楽のための越天楽による≪主題と変奏≫第3変奏でのことだった。以後、松平は総音列技法、管理された偶然性、という西欧最前衛の技法を、雅楽を仲立ちに噛み砕いて行くが、そこでもピアノが果たした役割は大きい。松平の作品中最もユニークな形式の探求が行われた≪フィギュール・ソノール≫(1956)、一部に不確定性を導入したピアノと管弦楽のための≪3楽章≫(1962)、2台のピアノと打楽器のための≪ポルトレβ≫(1967‐68)など、松平は創作の節目で必ずピアノが主役となる作品をのこしている。

  ならば、松平が急速に戦後前衛へと傾斜するこの時期に、ピアノ・ソロ作品をほとんど残していないことは少々奇妙だ。新古典期末期の≪ピアノ・ソナタ≫(1949)以後のピアノ曲といえば、ツェルボーニ社や全音によって出版された、子供のための平易な作品群が挙げられる程度。おそらく、松平は日々の修練の中でじっと待っていた。雅楽由来の「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」。これを音列技法という、極めて厳格な作法を用いて逆説的に結実させることが、松平の50~60年代の課題であった。ただ、その音世界は、雅楽由来のスライドする音程や笙を模したヴァイオリンのアンサンブル、言い換えればピアノ以外の楽器の力に多くを拠っていたことも事実。そうした楽器のイントネーションによらず、ピアノという、平均律の檻に閉じ込められた、機能的だがそれゆえに融通の利かない楽器「のみ」によって、自らの目指す音世界を表現すること。これが実現したならば、松平の作品は雅楽に取材しながらも、雅楽とは全く似ていない独自の境地へと飛翔するだろう。『美しい日本』が記念碑的な作品となったのは、そうした技術的/美学的課題に決着をつけ、松平が20年ぶりにピアノ・ソロ曲でもって最前衛へと復帰した結果であるからに他ならない。
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*********

  ピアノ組曲≪美しい日本≫の作曲は1969年、中部日本放送の芸術祭参加番組のために委嘱された。題名は言うまでもなく、川端康成のノーベル賞受賞講演:『美しい日本の私』より採られたもので、委嘱者側の注文による。ゆえに、作品の着想は川端の講演内容とは無関係である。初演は1969年9月、井上二葉による放送用の録音で、レコードになった形跡はない。井上による指遣いが付けられた譜面が、その翌年、全音楽譜出版社より出版されている。しかしながら、全曲が舞台初演されたという記録は(少なくとも今回調査した範囲では)残っておらず、今回の演奏が全曲の舞台初演となる可能性もある。

  組曲は、『前奏曲』『朗詠風な幻想(七夕)』『わらべ歌』『草刈歌』『平曲のパラフレーズ(横笛)』『筝曲風の終曲(茶音頭)』の6曲からなる。作曲者による出版譜前書きから推察するに、当初は演奏順が異なり、『朗詠風な幻想』は最後から2番目に配置されていたようだ。『わらべ歌』『草刈歌』の2曲では、委嘱元を意識してか名古屋地方のわらべ歌と民謡より題材がとられ、新古典的な手法によってまとめられている。チェレプニンが認めた初期作品≪前奏曲二調≫(1934)の頃より、松平は増四度の音程関係を偏愛し、これは五音音階の旋法性と12音音楽を橋渡しする鍵として、前衛期の松平の作品にも頻出することになるのだが、『わらべ歌』では常にこの増4度関係にある音が旋律線へとまとわりつき、密集した音域で4声がストレッタ的に重なる『草刈歌』でも、各声部の関係に増4度が紛れ込んでいる。
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  『前奏曲』『朗詠風な幻想(七夕)』『平曲のパラフレーズ(横笛)』『筝曲風の終曲(茶音頭)』は、装飾音が入り組み西洋的な拍節を曖昧化する、前衛期の松平のスタイルで書かれている。ただし、素材となる日本の伝統音楽は時代背景からして様々である。

  朗詠は日本の古代歌謡の一つで、『和漢朗詠集』などに収録された漢詩の詞章に節をつけ、雅楽器の伴奏で自由なリズムで歌われるもの。ここで題材となっている牽牛と織姫をテーマにした詩による朗詠といえば、小野美材の漢詩「二星適逢 未叙別緒依々之恨 五更将明 頻驚涼風颯々之声」による『二星』に他ならない。松平は、1966年にこの素材をもとに声と11楽器のための≪二星≫を書き、のちに奈良ゆみのためにも同名の歌曲を作曲している。作曲者によれば、「平安朝の頃の朗詠の様式から触発されたやや華麗なスタイルになっている」とのこと。
 
  平曲とは、盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られる「平家物語」のこと。「横笛」はその巻十の一部、平維盛(たいらのこれもり)が高野山に逃げて落ちた際に逢った、滝口入道の回想が述べられている箇所で、横笛とは回想に登場する女性の名前である。『平曲のパラフレーズ』では、琵琶による爪弾きと、琵琶法師の朗誦が交互に出現する平曲の形式を踏襲すると同時に(爪弾きと朗誦の出現回数、その持続も「横笛」のそれに倣っている)、「口説(くどき)」、琵琶による間奏部分を経ての「三重」、「下げ」、と大まかに3部からなる「横笛」の構成も、そのままピアノ曲へと置き換えられている。

  茶音頭は文化文政期に京都で活躍した菊岡検校が作曲、八重崎検校が箏の手付をした地歌曲で、手事と呼ばれる歌と歌とを繋ぐ長い器楽部分を含む。『筝曲風の終曲(茶音頭)』では、茶音頭の箏の奏法がピアノへと移し変えられ、拍観念の希薄な『朗詠風な幻想』『平曲のパラフレーズ』とは一転して、(頻出する装飾音がこれを曖昧にする傾向があるものの)4分の2拍子が最後まで貫かれている。
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by ooi_piano | 2010-10-17 14:34 | コンサート情報 | Comments(0)

曖昧な明晰/明晰な曖昧:山本裕之試論 ――――――――――田中吉史

関連リンク: ken-hongouさんによる、「山本裕之のまぢめないたづら」 その1 その2 その3
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 「曖昧」は山本裕之の音楽を語る時のキーワードの一つだが、彼と会話していて気付くのは、彼は割と断定的な言い方が好きだ、ということだ。その余りに決然とした様子に時々唖然とするわけだが、振り返ってみると、彼の作品にはこういう彼の話しぶりを思い起こさせるところがある。

 山本が「曖昧」に焦点を当て始めた最初期の「ソニトゥス・アンビグースII」(1996)では、ゆったりした女声にまとわりつくようにユラユラと音程の定かでないサックスが薄く漂い、そこにピアノが時折密集した和音を打ち込んでいく。この2種類の響きの対比は鮮やかだ。続く弦楽四重奏のための「Eve I」(1997)やオーケストラ曲「カンティクム・トレムルムI」(1998)では、フォルティッシモの短い音型の背後からトリルやグリッサンド、ハーモニクスを多用した動きが立ちのぼる。後者の細やかな響きは、繰り返し現れる前者の鋭い響きによって分節され、その度に同じ場所に引き戻されるような感覚を味わう。この反復によって累積された情報がある瞬間に飽和して転換し、それまで目立たなかった響きが前面に現れて、全く違った風景(「Eve I」ではピチカートの下降グリッサンド、「カンティクム...」では分厚いグリッサンドの応酬)が広がっていく。

 こうした明快な対比は、彼が「曖昧」に着目するようになる前の作品(今となっては「初期」のこれらの作品は、Webサイト「音ヲ遊ブ」の作品リストには殆ど載せられていない)においても見られる。ピアノ曲「東京コンチェルト」(1993)では、片手が3度や4度、オクターブといったシンプルな音程の2音、もう片方がクラスター状の密集和音という2声の対比が作品全体を貫いている。
 モノディ様式に移行してからの作品では、これまでのような明確なコントラストはあまり目立たなくなった。彼のモノディ作品を聴くとき、我々の耳はオクターブやそれに近い音程で重ねられた線をたどっていく。このような分厚い響きはこれまでの作品の中にもたびたび現れていたが、モノディ様式では主役の座をつとめるようになったとも言える。核になる線を中心に書いていくという手法は、モノディ様式以前にも散見される(例えば声楽アンサンブルのための「賢治祭」(2004)では、高低2音で等拍で淡々と歌われる俵万智の短歌に、そこから派生したグリッサンドその他の曖昧な響きが絡んで行く)が、モノディ様式になってからは、核となる線そのもののあり方に焦点があてられている。例えば、「輪郭主義I」(2010)では、四分音ずれたチューバとピアノが時々つまずきながら歩んで行く様子をつぶさに観察することが要求される。
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 こうして振り返ってみると、多くの場合、山本作品は冒頭からそれがどのような曲なのかが明示されていることに気付く。非常に明確な特徴を持つ素材が限定されて用いられ、曲の最初から終わりまで徹底される。「曖昧さ」が意図されていても、もっとマクロなレベルから見てみると、素材やその構成には常にある種の明快さが見て取れる。すべてが最初から開かれていて、秘密めかしたところはない。そう、そのあっけらかんとした様子は、やはり彼の好む思い切りのいい言い方とどこか共通している。

 このような明快さ、明晰さは山本の音楽を良い意味で親しみやすく、うちとけやすいものにしている。くっきりとしたコンセプトが与えられると、我々の耳はそれに沿って音楽を聴いていく。はっきりした図式が見つかれば、それに従って、聞こえるものを整理していけばよい。だが、もしそのような図式化された表現が重要ならば、何故彼はそこまで「曖昧さ」にこだわるのか?

 素材を限定し、殆ど図式的なほど音楽を単純化することが、かえって響きの質感を際だたせることがある。近藤譲、スティーヴ・ライヒ、あるいはモートン・フェルドマンの作品の中にそうした例を見いだすことができる。山本作品にも、これらの作曲家の作品と根底の部分で共通したものがあるように感じられる。「曖昧」以前の山本作品は、通常の楽器の奏法に限定され、シンプルな素材とその扱いが、近藤やフェルドマンとの強い類縁性を感じ取ることがあった。「曖昧」を導入した頃から山本の音楽は見かけ上大きく変貌した。特殊奏法やノイズが盛んに使われ、また近藤やフェルドマンと比べものにならないほど多くの音が描き込まれるようになった。しかし、そうした表層的な変化に関わらず、彼の思い切りのいい話しぶりそのもののような明快さはそのまま変わらない。山本は大きな枠を設定することで、その中に彼が聴き出した響きの細部を詳述しやすくしているのかも知れない。表面的な類似性は見られなくなった分、逆にこれらの作曲家と深いところで共有された問題意識に気付かされる。

 そう考えると、山本作品はその取っつきやすさとは裏腹に、なかなか気むずかしい音楽でもある。一見わかりやすい構図にしたがって聞き流していると、実は色々なものを取りこぼしている。全体に気を取られると細部は見落とされがちである。これは聴き手にとって大きな罠である。彼の音楽が要求するのは、私たちの耳が即座に捉えることのできる特徴を手がかりに、次々と現れる響きの中を泳ぎながら、その細部を聴きとっていくこと。山本の音楽を聴くことは、実はなかなかチャレンジングなことなのかも知れない。
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by ooi_piano | 2010-10-14 20:25 | コンサート情報 | Comments(0)
山本裕之(やまもと・ひろゆき/作曲家)
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  1967年山形市生まれ、主に神奈川県で育つ。1992年東京芸術大学大学院作曲専攻修了。在学中、作曲を近藤讓、松下功の両氏に師事。これまでに第58回日本音楽コンクール第3位(1989)、現音作曲新人賞(1996)、BMW musica viva作曲賞第3位(ドイツ/1998)、武満徹作曲賞第1位(2002)、第13回芥川作曲賞(2003)を受賞。またフォーラム91(カナダ/1991)、ガウデアムス国際音楽週間'94(オランダ/1994)、ISCM世界音楽の日々(ルクセンブルク/2000、横浜/2001)など、様々な音楽祭に入選している。作品はLe Nouvel Ensemble Moderne、Ensemble Contemporain de Montréal、Trio Fibonacci(以上モントリオール)、Nieuw Ensemble、Calefax Reed Quintet(以上アムステルダム)、バイエルン放送交響楽団(ミュンヘン)、ルクセンブルク管弦楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、東京シンフォニエッタ、ヴォクスマーナなど、各地の演奏団体等により演奏され、またラジオで放送されている。演奏家や演奏団体、放送局等からの委嘱を受けて作曲を行っている。
  作曲家鈴木治行に誘われて1990年より作曲家集団『TEMPUS NOVUM』に田中吉史、横島浩、田村文生(1994年より)とともに参加、「実験・修行の場」とする。1996年より日本の若手作曲家を紹介するサイト『音ヲ遊ブ』を立ち上げ、現在に至る(http://japanesecomposers.info)。2002年ピアニスト中村和枝氏とピアノ+作曲ユニット『claviarea』を立ち上げ、コンサートの企画などを行う(現在に至る)。2003年、ポートレートCD『カンティクム・トレムルム』(fontec/FOCD2555)をリリース。最近は「秋吉台世代」(1989年より1998年まで開かれた「秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバル」に参加し、その後日本の現代音楽シーンにおいて重要な役割を果たしている作曲家諸氏)の一人として見られることが多いが、秋吉台に行ったのは高校時代の修学旅行だけである。
  2002年第51回神奈川文化賞未来賞受賞。同姓同名のテノール歌手は別人。2003年から2009年まで盛岡市の岩手大学に勤めた後、現在愛知県立芸術大学准教授。NPO Glovill、Ensemble Contemporary αメンバー。名古屋市在住。

【主な作品リスト】(ピアノ・ソロ曲を除く)
ソニトゥス・アンビグースII Female-Vo.,Sax.,P./1996
インテグメントゥム Sop-Sax.,Cowbells/1996
北回帰線 Alt-Fl.,Bn.,Tp.,Perc.,Vn.,Va.,Db./1997
Eve I String-Quart./1997
カンティクム・トレムルムI Orch./1998
パルラータI~IV Tp./1999~2010
私に触れてはいけません Sax.&9-instruments/2000
無伴奏モノ・オペラ《想像風景》 Female-Vo=Performer (with Mobile-Phone & Flexatone)/2000
彼方と此方 Vn.,Vc.,P./2001
カンティクム・トレムルムII Orch./2001
マタイ受難曲受難 Musique Concrete/2002
層 Orch./2003
日本海モノディ Tp.,Vn./2004
チャムパの花 2-Mix-Cho.,P./2004
カッシーニ間隙 Gagaku/2005
モノディ協同体 Orch./2005
水の音 Vocal-Ens./2006
バビロンの流れを変えよ Wind-Orch./2007
カヤグムとオルガン Kayagum,Org./2008
イポメア・アルバ Euph.,P./2009
浜辺にて Sop.,Euph.,Hp.,Mute-P./2009
輪郭主義I Tuba,P./2010
インケルタエ・セディス String-Orch./2010

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  ピアノソロ曲は1993年以来8曲書いているわけだから、ピアノは私にとって重要な、もしくは縁のある楽器ということになる。今回の数年おきに書かれているピアノ曲のラインナップをみると、その時々で私が何に興味を持って作曲していたのかがよくわかる。まるで日記をひもとくようなものだ。以下のノートは、その日記を自分以外にも判るように翻訳したようなものといえる。なおそれぞれ記録的意味を込めて、「作曲年月日、初演日時・場所、委嘱者・献呈者」を付記しておくが、作曲年月日は私の場合スケッチが終わった日付であり、実際にはその後修正と浄書を経て演奏者に渡されるのが常である。

●東京コンチェルト Tokyo Concerto(1993)
作曲当時、私はまだ習作期を脱してなく(芸術大学を出たばかりのぺーぺーであった)、自作品リストに載せてあるこの時期の数少ない曲の1つである。作曲時にバロックコンチェルトの、特に協奏や競争ではなくソロとグロッソの音密度の対比について興味を持っていたことから、それをテーマとした作品をいくつか書いていた。タイトルはJ.S.バッハの《イタリア協奏曲》から拝借しているが、リトルネロ形式にはなっていない。初演時のプログラム・ノートから。「『協奏曲』という名を冠して、楽器の数ではなく一人のピアニストの手によって密度の対比が語られることも、充分有り得て良いのではないだろうか。」その対比は、右手の協和音程と左手の不協和音程によって表現されている。1993年5月4日作曲、同年7月4日初演・榎坂スタジオ(東京都港区)、大井浩明氏委嘱初演・同氏に献呈。

(1995年より現在に至るまで、私は「音は曖昧である、だから音楽は曖昧である」という考え方により曲を作り続けているが、もちろん時期によってその作曲への反映の仕方は変わっている。)

●フォールマ Forma(1996)
古典的な四和音のアルペジオとその断片がまくしたてられるように弾かれるが、それらは粒として聴かれる余地をだんだん奪われ、集合し融合し、新しく「曖昧な楽音」として形成される(ちなみにタイトルはラテン語で「成り立ち」を意味する)。この「素早いアルペジオ」は、「楽音の不明瞭化」のための手法のひとつとして、この作品を機に数年間使いまわし続けた。本作品で第13回現音作曲新人賞を受賞、その後中村和枝氏が自身のCD『to you from...』(fontec, FOCD2555)に収録している。1996年8月12日作曲、同年11月21日初演・上野学園エオリアンホール(東京都台東区)、渋谷淑子氏初演。

●月の役割 Pars lunae(1999)
細かい音符群で構成されている点はFormaと同じだが、音の最小構成単位が「音符」ではなく、ペダルでひとまとめにした「音響」と定義する意識がより強い(ちなみにFormaはペダルを用いない)。音はそもそも曖昧な存在なのだから、音符というデジタル記号を基本構成要素と考える根拠はない、という粋がった考えで書いた。1999年12月31日作曲、2000年9月29日初演・すみだトリフォニー小ホール(東京都墨田区)、中村和枝氏委嘱初演・同氏に献呈。

●テレプシコーレ舞踏者 Saltatrix e Terpsichore(2000)
井上郷子氏の委嘱。タイトルは曲が完成した後に考えられたものなので、音楽との直接の関連はない。ただし舞曲として書いたつもりはなくとも、この曲がわれわれが知る文化の外にある舞踏にフィットする音楽の候補たりえるのではないか、という空想の遊びは可能である。その「たとえ」として17世紀にM.プレトリウスが作曲・編纂した舞曲集からタイトルを借用した(もちろん17世紀独逸の舞曲がこういうものだったはずはない)。2000年10月30日作曲、2001年2月17日初演・バリオホール(東京都文京区)、井上郷子氏委嘱初演・同氏に献呈。
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(このあと、私は中村和枝氏と「claviarea」というユニット活動に入り、現在に至るまで幾つかのピアノリサイタルを企画することになる。その中で発表した何曲かの作品は、ちょうど私の音楽的スタイルの変化に沿ってそれまでとは少し違う顔を見せている。)

●足の起源 I Origo pedum I(2002)
●足の起源II Origo pedum II(2004)

ピアノのメカニックな側面を意識した作品。ペダルの作り出す軋みや機械的ノイズは、弦の残響操作など音色を多彩にするペダル本来の目的と二律背反の関係にある。ペダルノイズは建前としてはない方が良いので、一般的には楽音として認識されることもなく「裏の音」としての地位に甘んじているわけだが、その立場を少しだけ上げてみようというのがこの曲の趣旨。ペダルノイズの中にはかなり小さいものもあるので、理想的にはピアノのすぐ近くで聴くのがよい。《足の起源 I》は2002年6月19日作曲、同年7月20日初演・門仲天井ホール(東京都江東区)、中村和枝氏初演。《足の起源 II》は2004年6月29日作曲、同年7月25日初演・門仲天井ホール(東京都江東区)、中村和枝氏初演。

●ハウス・カスヤのための音楽 Musique pour Haus Kasuya(2005)
横須賀にあるカスヤの森現代美術館(ハウス・カスヤ)でclaviareaの公演を行ったときに書き下ろした作品。美術館には今でもこの楽譜が飾ってある(と思う)。この頃からは私の現在の作曲法である、一つの線に様々なリズムやずれたピッチが施されることにより、焦点が曖昧になっていく手法(これを私は『モノディ』と呼んでいる)を用いているが、この曲もそのように書かれている。わずか2ページの短い音楽である。2005年3月11日作曲、同年4月23日初演・カスヤの森現代美術館(神奈川県横須賀市)、中村和枝氏初演・カスヤの森現代美術館に献呈。

●東京舞曲 Tokyo Dance(2010)
チラシ印刷の都合からアイデアよりタイトルが先に決まったので、「舞曲」をキーワードに作曲を進めた。その中で私が意識したことは「舞曲らしくところどころ印象的な時間を作る」ことと「印象的な部分を不明瞭にする」ことだった。その結果、なんとも説明しにくい作品に仕上がった。フォルテはまったく出てこない。2010年9月15日作曲、同年10月16日初演・門仲天井ホール(東京都江東区)、17年の時を経て再び大井浩明氏委嘱初演・同氏に献呈。
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by ooi_piano | 2010-10-14 05:55 | コンサート情報 | Comments(0)
《松平頼則が遺したもの》 -------- 石塚潤一
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  一九二五年、秋。フランスのピアニスト、ジル=マルシェックスは、帝国ホテルロビーにおいて、六夜に渡る連続演奏会を挙行した。日本楽壇のメインストリームはドイツ音楽へ目を向けており、フランス音楽など噂ばかりで稀にしか聴けなかった頃の話である。ドビュッシー、サティ、六人組の作品を中心に、実に三十三曲もの日本初演曲を含んだプログラムは、音楽専門家だけではなく、在京の趣味人の興味をも惹きつけ、後に梶井基次郎は、これらの演奏会の印象をもとに、小説「器楽的幻覚」を書くことになる。さて、これら一連の演奏会を聴いたことを機に音楽家への道を歩み始めた青年がいる。彼は、ほぼ独学の末に作曲家となり、フランス近代音楽の和声法から、総音列技法、アレアトリーに至る西欧最先端の音楽語法を、確実に自分のものとして行った。その姿は、あたかも日本の洋楽受容史を体現しているかのようである。しかしながら、真に重要なことは、彼が新しい技法を次々と習得したことではない。単に新しい技法を導入しただけでなく、それを自分だけのやり方で運用するに至ったこと。それゆえに、彼は日本洋楽受容史の体現者と呼ばれるに相応しい。

  この青年、松平頼則は、一九〇七年五月五日、旧石岡藩主の流れを汲む松平頼孝子爵の長男として生まれた。ジル=マルシェックスによる演奏会が開かれた当時は、慶應義塾大学仏文科に在学する学生であった。音楽への意思を固めた松平は、上野の音楽学校で指揮を教えていたラウルトルップにピアノを習い始め、ドイツ出身のチェリスト、ヴェルクマイスターには、作曲と機能和声とを師事することになる。ただし、松平自身によれば、作曲のレッスンは「すごくオーソドックスで、ほとんど何のプラスにもならなかった」と手厳しい。パリ音楽院でダンディらに師事した小松耕輔の下で作曲を学んだこともあったが、作曲のレッスンよりも、同門の清瀬保二との議論を繰り返すうちに月日は過ぎていった。そのような事情により、プロフィールには「ほぼ独学で作曲を学ぶ」と記載されることもある。

  そうした修行時代を経て、一九三〇年、松平は箕作秋吉や清瀬保二、菅原明朗、橋本國彦らと共に新興作曲家連盟の設立に参画する。これよって、ドイツを規範とした旧来の作曲界とは違う指向を持った作曲家達が、ようやく日本音楽史の表舞台に立ち始めることとなった。当時の日本のモダニズムもまた、アカデミックな場ではなく、そうした在野での活動の中に花開いた。橋本は四分音を用いた日本民謡の研究に勤しみ、箕作はシェーンベルクがその著書「和声学」で用いた分析法を日本音階の研究へと応用した。西欧音楽の単なる模倣より脱し、オリジナルな作品を創造することで自らの存在をアピールすること。それこそが新興作曲家連盟の身上であった。故に、自らのオリジナリティの基盤を日本的音楽要素の中へと求め、それらを西欧的な音楽語法の中に構成することによって、自らの表現の核を形成しようと考えたのであった。このような野心的な活動と平行して、彼らは、当時の現代音楽であるラヴェルや六人組の作品を毎月のように取り寄せ、それらを書き写すことで西欧の新しい音楽語法を吸収することも忘れなかった。松平は一九三一年から三四年にかけて、ピアニストとして四回のリサイタルを行い、フランス近代音楽の紹介に貢献してもいる。しかしながら、ピアニストとしての技術的限界を悟った彼は、一九三四年以降作曲へと専念し、ピアニストとしての経験は、新たな音楽語法の習得と自らの作品の作曲とへ反映させられて行く。

  松平による新たな音楽語法の習得は、情報が限られた時代に行われたにも拘らず、極めて精緻な分析を伴ったものだった。そして、そうした分析の果てに、西欧音楽を構築するシステムを自在に運用するという明確な目的があった。のちに、「調子のひょうひょうとした捉えどころのない音の群、なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序が好き」と語った松平は、プーランクに代表されるフランス新古典主義の乾いた叙情と、作品の至るところに豊かな揺らぎを配したドビュッシーの作品に深く傾倒し、徹底的な分析の対象としている。その分析の結果は、一九三九年から四五年にかけて作曲された歌曲集「古今集」に代表される四十年代の作品群へと結実し、松平の調性音楽の書き手としての実力を裏付けている。
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  松平が、後の創作の拠りどころとする雅楽と出会うのも「古今集」の作曲中であった。その生涯を通じて、泥臭い情念的な表現を嫌悪し続けた松平は、雅楽という極めて洗練された様式美を持つ表現に心を奪われることとなる。松平と雅楽との関わりについては、この頃、東宝映画に映画音楽作曲家として入社し、上京を果たしていた楽友、早坂文雄からの触発も無視出来ないだろう。早坂の作品「左方の舞と右方の舞」(一九四一)もまた、現在とは違い、宮廷音楽であった雅楽が公開の場で演奏されることが少なかった時代にあって、数少ない演奏機会に取材して作曲された作品のうちの一つである。ただし、早坂は直感にて雅楽へと接近したが、松平はここでもより分析的なスタンスをとった。そのスタンスの違いが、両者の無調への接近の方法にも現れてくる。松平の分析的なスタンスは、十二音技法への共感を伴って、後にはその第三変奏にこの技法を適用した「ピアノと管弦楽のための越天楽による主題と変奏」(以下、「主題と変奏」と略記)(一九五一)へと結実することになる。

  フランス近代音楽を精緻に分析し、その結果を日本的な音楽要素と結び付けることに執心していた松平であったが、そうした創作の過程で実感したのは、日本的な旋法と六全音音階に重きを置くドビュッシーらの語法との間に生じる齟齬であったという。そこで、松平は、自らが拠りどころとする新たなシステムを模索しはじめ、その結果出合ったものこそが十二音技法であった。松平が「主題と変奏」を作曲した一九五一年は、入野義郎(後の義朗)が「音楽芸術」誌に「十二音技法とは何か」と題した十二音音楽入門記事を寄稿し、日本に住む一般の作曲家へも、この技法に関する情報が公開された年でもあった。

  一方、早坂文雄はと言えば、汎東洋主義(パン・エイシャニズム)を標榜し、東洋的「無の感性」を音楽作品として結晶化するには、作品は無調へと向かわざるを得ない、と考え始める。ただし、早坂の考える無調とは、十二音技法や総音列技法といった論理的構成によるものではなく、作曲家が純粋に東洋的感性へと浸り切った時に、感性的に導き出すべきものであった。早坂のそうした指向は、一九五五年に発表された交響的組曲「ユーカラ」における、拍節感の希薄な緩徐楽章へと最終的に結実する。しかしながら、「ユーカラ」の発表後わずか四ヶ月で早坂は病死し、早坂が目指した新しい音楽の行く末は、次世代の作曲家達に託されることとなった。

  早坂が論理的構成と切り捨てた十二音技法ではあるが、この技法は、感性と対立する論理のゲームなどでは決してない。これもまた、多くの作曲技法がそうであるように、作曲家の感性を引き出すための手段と考えられるべきものである。十二音技法以前にも、シェーンベルクを含む多くの作曲家が、感覚的に無調の作品を作曲してはいる。しかしながら、旧来の調感覚から離れて作曲をすることが、作曲家へさらなる自由をもたらすかといえば、必ずしもそうではなかった。譬えて言うなら、樹海を散策するとき、どこへ行くことも可能なように思えても、実際には同じ場所を周回していることが多いように、無調を採用することによって得られる自由を余さず作品へと結実させることは、伝統的な調性原理の中で育ったものには極めて難しい。それ故に、楽曲に付随するテキスト等の力を借りず、大規模な無調による音の構造物を作曲するには限界が生じる。そこで、十二音技法というシステム、つまり、十二音列を対位法的に構成する方法論を導入することが必要となる。作曲上のイメージをより効率的に実現し、作品を豊かなものとするために、自らを束縛する規則の中へと敢えて踏み込むこと。そうした作曲の姿勢は、松平の創作の作法にも通じるものであった。

  合竹と呼ばれる不協和な和音の力によって、調性感が希薄なものとなっていた雅楽。それ故に、無調音楽を対位法的に組織するシステムである十二音技法は、雅楽的音楽要素を組織化するシステムとしても機能し得た。音列を構成する十二の音を雅楽の旋律線に沿って選択し、その音列を用いて十二音技法を行使してみる。この技法に身を任せることによって、松平はフランス音楽と雅楽との結びつけに生じていた齟齬を乗り越え、新たなる創作の段階へと入ることができたのだった。

  「主題と変奏」は、一九五二年のISCMのコンクールに初入賞し、松平の国際的な意味でのデビュー作となる。「主題と変奏」が松平の出世作と呼ぶに相応しい素晴らしい作品であることは確かである、が、プロコフィエフのような小気味よい、揺らぎのない時間感覚に満ちたこの曲は、松平のキャリア上、極めて特異な作品でもある。この作品に、松平が志向する「調子のひょうひょうとした捉えどころの無い音の群」は存在せず、第五変奏には当時流行していたブギ・ウギのリズムさえ現れる。作品に一般的な意味での親しみやすさを持たせようとしたが故のことであったが、このような創作のあり方は、楽友である早坂より批判され、以後、松平は自らがイメージする音風景を、極めて抽象的な佇まいのうちに実現することのみに集中することとなる。

  「主題と変奏」以降、松平は、十二音技法から総音列技法へと移行していた当時の西欧音楽の流れを、猛烈な勢いで追いかけていくことになる。だがそれは、単なる西欧の後追いと評価されるべきものでは決してない。「主題と変奏」では実現出来なかった「捉えどころの無い音の群」を、松平は総音列技法によって作品をつくるなかで確実に実現してゆく。音高、ダイナミクス、リズムまでも徹底してパラメータ化して組み合わせる総音列技法。この技法が目指した地平は、作曲の自動化などというものでは、決して、ない。確かに、作曲における自由度を制限する手法ではある。しかしながら、音楽を形成する要素の幾つかに制限を加え、徹底的な管理下に置くことは、管理の外にある要素を浮かび上がらすことに繋がり得る。高度にシステマティックな方法論を自らに課すことで、自己の音楽性を、情念を排した様式化された美として結晶化することを目指す松平にとって、総音列技法という方法論こそが、一九五〇年代の音楽状況の中にあって、最も共感できるシステムだったことは疑いない。
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  松平が目指した「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」。こうした松平の志向を実現するための素材として、雅楽はこの上ないものであったと言える。メシアンは東洋、主にインドのリズムを、西欧的な確固とした拍子感を持つスクウェアなリズムに、異物を付加することで構築しようと試みた。しかしながら、メシアン自身が指摘しているように、東洋のリズムはスクウェアなリズムから派生して作られたものではない。日本人のリズム感にある、西欧的なリズムの周期に当てはまらない擬周期性。それはより自然発生的な側面を持つものだ。例えば、鹿おどし(ししおどし)。竹筒の中に一定量の水が溜まると同時に、間歇的に音を打つ、旧家の庭などに置いてあるあの仕掛け。この竹筒へと流れ込んでくる水の流量は一定ではないため、音が鳴る間隔も完全に同一ではない。とは言っても、竹筒の中に水が一定量溜まるまでの時間には、そう大きな違いが出るわけではないので、その間隔は周期的と言えなくもないものとなる。自然が持つ豊かな揺らぎを、単純な仕掛けをもって引き出す恐るべき知恵。そうした揺らぎの豊かさを愛でる感性が、日本人が持つ擬周期的で大らかなリズム感へと結実し、伝統音楽におけるヘテロフォニー的な音の佇まいに、より一層のリアリティを与えていたのではなかったか。

  松平が雅楽から取り込み、総音列技法での作曲へともたらしたものは、何よりもそうした音楽の流れにおける揺らぎである。まず、そのような揺らぎは多用される前打音によって作品へと導入される。「催馬楽によるメタモルフォーズ」(一九五三、五八)を聴いてみよう。強拍に付けられる前打音が、西欧的な拍子感を曖昧にし、音楽の流れにある確固たる周期性を解体してゆく様を聴き取ることが出来よう。西欧音楽において、前打音は常に拍子感の明らかな音楽の流れを前提とし、その装飾として付加されていたが、松平作品においては、それらはもはや装飾ではなく、作品の本質と不可分な重みを持ったものとなる。

  総音列技法に対する批判の一因にもなった対位法的な複雑さは、不可避的に複雑なリズム構造をも作品へともたらすことになるが、そうした複雑なリズムのあり方もまた、松平の作品においては擬周期的な揺らぎを持つ音楽の流れを実現するための武器となる。松平の作品が飄々と時空を漂うかのような印象を聴く者へともたらすのは、個々の音列を総音列技法での厳格な構成によって配置しながらも、単位時間当たりの音密度の変化が擬周期的なものになるように構築されているからでもある。そうしたコンセプトの下で、リズム構造の複雑さは、作品へより精妙な揺らぎをもたらすことに貢献する。また、松平は雅楽の塩梅に由来するスライドしていく音程を、作品の中へと導入する。近藤譲の指摘にあるように、このことは総音列技法という技法が持つ論理的堅牢性を揺るがすものである。しかしながら、聴覚的には無機的な印象を与えがちな総音列技法での作曲に、微妙な表情を加えるスパイスとなる。時にそれは、音列の中の音を連結して特定の声部を強調し、また、ある時は、前打音のように音楽の拍子感を曖昧にして行く。後に松平は、こうしたグリッサンドの扱いを雅楽における墨譜という記譜法と結合させる。墨譜とは、雅楽の一ジャンルである朗詠で用いられる、微分音程をうつろう声の抑揚をグラフ的に書き示す譜面のこと。この記譜法を応用することで、松平によるグリッサンドの扱いは、より厳密かつ表現力豊かな形へと突き詰められたのだった。

  このような方法によって、松平は自身が求めるイメージを確実に作品へと昇華していった。ここで注意すべきは、「主題と変奏」によって幕を開けた松平の五十年代は、松平が雅楽へと取材しつつ、雅楽からの直接的な引用から離れていく過程でもあったことである。松平が目標としたものは、西洋楽器を使っての今様雅楽の作曲ではない。松平の目的は、あくまで自らが好む「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」を作品として具体化することにあり、雅楽は、創造におけるインスピレーションの源として参照されているに過ぎない。また、松平は、総音列技法特有の緊張感と、自らが志向する揺らぎをもった音世界とを結び付けようとする。そこに生じる違和感を練達の技でねじ伏せ、奇跡的なバランスの上に両者を共存させていることも、松平作品の独自性を一層際立たせる理由となっている。

  六〇年代に入ると、松平の創作に新たな要素が入ることになる。それが、一九五一年、ケージが「易の音楽」によって音楽史へと導入した偶然性であった。「易の音楽」以降、ケージは、コインを投げたり、五線紙についた滲みを音符に見立てたり、といった無意図的な要素を、大胆に音楽へと導入して行く。しかしながら、ケージが行ったことは作曲家としての責任の放棄では、決して、ない。ケージは「易の音楽」の作曲において、単位時間当たりの音密度を極めて薄いものとするように心を配っている。これによって、確率的な事象の持つ揺らぎが聴き手に知覚させるレベルで表現され、作品のどこを聴いても同じ、という不毛な聴覚体験から聴き手を解放することが出来る。作品の音密度に気を配るが、音密度以外の要素については偶然が選択した結果を受け入る。それによって、西欧的な拍観念からも自由で、しかも豊かな揺らぎを取り込んだ音楽をケージは作曲することができた。このことを契機にブーレーズがケージから離反したことは有名であるが、一九五八年には、ケージがヨーロッパ前衛の総本山であるダルムシュタットで講義を行うに至り、ヨーロッパの作曲家の中にも、偶然性という概念を独自に消化しようという試みが始まる。彼らは、偶然性という新しい概念を、西欧音楽におけるテンポ選択の自由度のように、より作曲者の意思に引き寄せたものとして扱おうとしたのだった。ここに管理された偶然性という概念が生まれる。これは、賭けを意味するフランス語:Aleaにちなんでアレアトリーとも呼ばれる。

  松平の作品に偶然性が導入され始めたのは、フルート・ソロのための「蘇莫者」(一九六一)でのこと。当時、一柳慧がアメリカより持ち帰ったケージという事件に、日本中が沸いていた中、ヨーロッパ流のアレアトリーに拘ったことは、反骨の人、松平の面目を新たにしている。しかしながら、六〇年代に松平によって行われていたアレアトリーの実践は、作品を多数のパーツへ分割して、演奏者に演奏順を選択させたり、スコアの中の特定のパートに演奏法の選択肢を設けたり、といった程度のもので、松平以外の作曲家によって既に実現されていたことだったともいえる。「室内管弦楽のための舞楽」(一九六二)、「ピアノと管弦楽のための三楽章」(一九六二)といった作品で、偶然性を部分的に導入しつつ、より精妙に飄々とした音世界を実現してきた松平であったが、松平によるアレアトリーの適用が、余人の追随を許さない独自性を獲得するには、七〇年代まで待たなくてはならない。

  一九七一年に作曲された「二群のオーケストラのための循環する楽章」は、アレアトリーが、松平のいう「なにか創造されようとする前の期待にみちた素材の未整理なままの秩序」を実現するための、必要不可欠な要素として適用された記念すべき作品といえる。松平のアレアトリー受容の仲立ちになったのもまた、彼が長年インスピレーションの源としていた雅楽であった。雅楽には、吹渡しと呼ばれる二つの曲をシステマティックに結び付ける方法がある。この方法を応用することで、二群の管弦楽が要素を互いに受け渡しつつ、緊張と弛緩とを、あたかも自発的に繰り返すかのような作品を作曲することが可能となった。この作品に聴くことができる、飄々と、そして明白な意思を以ってその相貌を変えていく音風景は、松平自身が追い求め、ついに行き着いた到達点というに相応しい。
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  七十年代中頃に松平を襲った大病が彼の創作へと与えた影響は大きく、松平は一貫して追い求めてきた飄々とした音のイメージを捨て去り、張り詰めた緊張感が常に持続する作品を書き始める。アレアトリーは、そうした緊張感を作品へと呼び込む仕掛けとしても機能した。CDで聴くことが出来る数少ない晩年の松平作品である「神聖な舞踏による三つの楽章のための変奏曲(振鉾三節による変奏曲)」(一九七八~七九)では、アレアトリーは雅楽における退吹き(おめりぶき)という技法と結び付けられる。退吹きとは、西欧音楽におけるカノンに似た技法で、複数の奏者が順次同じフレーズを吹いて行くものであるが、西欧のカノンと違い、個々の声部の入りが各奏者の勘に任されていて、「縦の線を合わせる」という共時性が規定されていない。松平は、その旋律の入りの自由度をアレアトリーへと結び付ける。しかしながら、松平が目指したものは、雅楽において退吹きが実現する音世界とは全く異なったものだった。松平は、装飾が多く、幅広い音程的跳躍を含むフレーズをカノンで演奏させる。その結果実現されるのは、静と動が極めて短い間に交錯する緊密な音楽である。奏者は、自ら入りのタイミングを決め、先行する奏者の音を追い越すことさえなければ、テンポを揺らすことも自由である。そこにアンサンブルの予定調和は無く、偶然性の導入に基づく空間と時間との混乱が入り込む。だからこそ、奏者は極限まで耳を澄ませ、お互いの音に聴き入り、混乱の中で自らの立ち位置を確保するべく努力しなくてはならない。この仕掛けによって、松平は、西欧の音楽が決して実現出来なかった真剣勝負の緊張感を作品へと組み入れることが出来た。西欧のクラシックの伝統が培ったものとは異なった耳の獲得を、奏者へと要請するシステムとしてのアレアトリー。ケージは、この作品を聴き、「かれの音楽はひじょうに力強い。たとえ十二音音楽や日本の宮廷音楽に結び付いているにせよ、私はこのような音楽を未だかつて聞いたことがない」と激賞した。ケージが指摘した作品のオリジナリティ、その強靭さも賞賛に値するものであるが、そうした豊かな成果を、かくも単純な方法で実現し得た音楽的思考もまた驚異である。音楽的思惟と技法の運用とを分かちがたく結び付けたこと。松平が、アレアトリーの運用に当たっても、唯一無二の存在と成り得た理由がここにある。

  さて、小論では西欧前衛音楽の諸潮流と松平頼則の歩みを併置しつつ、松平頼則という作曲家の独自性について思考してきた。そこでは、松平に関する伝記的な記述につきものの、コンクール入賞歴、叙勲、作品の演奏歴等には敢えて触れなかった。終生アカデミズムを嫌い、「楽聖などといって音楽をやたらと有り難たる。それが日本人の一番悪いところだと思うな」と語っていた松平にとって、権威付けなど迷惑以外の何物でもないと思うが故だ。松平は偉大な作曲家なのかもしれない。しかしながら、その理由を権威づけの中に見出すことは不可能だろう。何故なら、最も尊敬すべき松平の資質とは、そうした自身にまつわる権威を惜しげもなく捨て去ることが出来る高潔さであるからだ。九十年代に入って、松平は、楽器についてまわる歴史や伝統という意味性故に、それまで一貫して使用を避けていた邦楽器を取り入れた作品を書くようになる。それは、変節や転向と考えられるべきものではない。この作曲家は、自身が求めるイメージを追い求めて、過去の拘りやスキルや実績など簡単に捨て去り、走り出してしまう。そうした高潔さこそが、松平の創作を常に瑞々しいままに保ったとも言えよう。かくも純粋な作曲家を、権威主義の文脈で捉えることにどれ程の意味があるのだろう。

  また、松平の人生から、芸術至上主義者の悲愴なる物語を読み取ることも、もう、やめるべきだろう。作曲を志し、封建的な家から放り出された松平の人生に、常に経済的な困難がついて廻ったのは事実である。しかしそれは、映画音楽で成功することも、アカデミズムの中枢へ収まることも自在だったはずの高度な技術を持っていた作曲家が、敢えて選んだ困難だったことを忘れるべきではない。だからこそ、その人生から読み取られるべきは、齢七十を超えても自己の殻を破り作曲活動を続けることができた、幸福な作曲家の物語でなくてはならない。かくも幸福な二十世紀の作曲家を、筆者は他にストラヴィンスキーしか知らない。もし、松平の人生に悲劇的な側面があるとしたら、それは作品の演奏が十分でなく、相当数の作品が、未だに演奏すらされずに放置されているという状況の内に見つけられよう。松平は、八十歳を過ぎても、一曲を作曲する経験からフィードバックを得て、さらなる新境地へと飛躍することが出来た作曲家であった。そのことを思い出す時、松平が八十六歳になってコンクールへ応募したことの、本当の理由も明らかになる。

  松平頼則は、自身が愛した音風景のごとく、飄々と音と戯れながら作曲を続け、二〇〇一年十月二十五日、ついに帰らぬ人となった。松平が去った後には、二十世紀音楽の諸潮流を見事に手中に収め、全く独自の方法へと再構成することで作曲された、膨大な、そして掛け替えのない作品群が遺された。松平が遺した作品を演奏し、耳を傾けること。それは、二十世紀音楽史の大切な、知られざる側面を明らかにすることでもある。そうした喪の作業を経て、我々はようやく二十一世紀音楽史のスタートラインへと立つことが出来る。
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by ooi_piano | 2010-10-13 02:10 | コンサート情報 | Comments(0)
W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのアウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲) (1778~81)
(通し番号で第24番・第32番~第36番)

2010年10月13日(水)午後6時30分開演(午後6時00分開場)¥3,000(全自由席)
近江楽堂(東京オペラシティ3F) 京王新線・初台駅下車

ご予約・お問い合わせ/合同会社opus55 tel 03(3377)4706 (13時~19時)、fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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●ヘ長調K.376(374d) 
  Allegro - Andante - Allegretto grazioso
●ハ長調K.296 
  Allegro vivace - Andante sostenuto - RONDEAU /Allegro
●ヘ長調K.377 (374e)
Allegro - Andante(主題と6つの変奏)- Tempo di Menuetto

【休憩】

●変ロ長調K.378 (317d) 
  Allegro moderato - Andante sostenuto e cantabile - RONDEAU /Allegro
●ト長調 K.379 (373a) 
  Adagio/Allegro - Andantino cantabile(主題と6つの変奏)
●変ホ長調 K.380 (374f)
  Allegro – Andante con moto – RONDEAU /Allegro

[使用楽器]
◎クラシカル・ヴァイオリン: Model " Ysaÿe" Guarneri del Gesú - Christian Sager によるコピー楽器(2003)
◎フォルテピアノ: Johan Lodewijk Dulcken 1795 のレプリカ 太田垣至製作(2010)


  作品2と名付けられたこのソナタ集は、1781年11月にウィーンのアルタリア社から出版されました。ウィーンでの弟子(父宛に「見かけは化け物みたいだがよく弾ける」と書き送っている)のジョゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢に献呈されました。出版前に校訂を一緒に行なったほど、信頼されていた弟子だったようです。

c0050810_1456445.gif  初版のタイトルには“Six sonatas pour le clavecin ou pianoforte avec l’accompagnement d’un violon“(ヴァイオリン伴奏付きのクラヴィーアまたはピアノフォルテのための6曲のソナタ)とあります。
   バロック・クラヴィーアソナタから古典派ピアノソナタへと形式的、美学的に発展し様々な作曲家が手がけてきたこのジャンルは、のちのロマン派ヴァイオリンソナタへと変遷していきます。年少のころ、すでにモーツアルトはカール・フィリップ・エマニュエル・バッハやヨハン・クリスティアン・バッハのこのジャンルの作品に触れ、自身も作曲を試みていました。1777?78年にかけて彼は母を伴ってのマンハイム・パリ旅行に出ますが、ヨゼフ・ショスターやヨハン・ショーベルトの同様の編成でのソナタと出会い、彼自身パリで作品1を出版します。その後ザルツブルクで宮廷オルガニストとして就職したモーツアルトは、雇用主のコロラド卿との関係悪化の中、1781年に父親の反対を押し切ってウィーンでフリーの音楽家としての活動を始めました。1781年5月19日の手紙の中で父親にこのソナタ集作品2の出版予約について触れ、収入の可能性を強調しています。年少の頃からヨーロッパ各地を巡り様々な作曲スタイルを身につけていたモーツアルトは、特定の書法を模倣する事が得意でした。この作品2は、ウィーンでの成功、就職を狙っていた彼がウィーンの趣味を考慮して出版した野心作と言えるのです。

  元来ヴァイオリン伴奏無しでもピアノソナタとして演奏可能だった作曲技法は(1733年に最初の作品がみられる)、次第にヴァイオリンパートが重視され、ピアノパートと対等に扱う様に発展してきました。モーツァルトは、それまでの技法を踏襲しながら、心理描写的、修辞法的なドイツの”ソナタ形式”における美学(全曲を通した曲想のアイデアと構成)と、イタリアオペラ的なメロディーとを巧みに組み合わせ、2つの楽器を対話させる事に成功しています。
  当時の音楽雑誌として有名なハンブルクの“Magazin der Musik”(1783年4月)に、「このソナタ集はこの種の中で突出したもの」との記事があり、「新しい楽想」「輝かしい曲想」「作曲者の偉大な天分」を高く評価しています。当時から盛んだった美学的見地からのソナタ論に見られる様に、モーツアルトにおいては、和声・形式的な作曲技法の完成度と、音の心描画としての表現性が一体となって、聞く人に迫ります。

c0050810_14575215.jpg  また、楽曲形式の発展に大きく関わったのがピアノフォルテという楽器の開発・改良です。1777年10月、アウグスブルクでシュタインのピアノフォルテに出会ったモーツアルトは、すぐには購入出来ず、1781年ウィーンに移住した際トゥーン伯爵夫人から借用しました。おそらく1782年前半に、モーツアルトは同じ撥ね上げ式メカニックを持ち、より力強いヴァルターの楽器を手に入れます(Siegbert Rampe 著:Mozarts Claviermusik 参照)。ウィーンは当時ピアノフォルテ制作のひとつの拠点で、メカニックの改良は音楽表現の自由と多様性をもたらし、楽曲の発展に大きな影響を与えました。

  作品2の6曲中、2曲はウィーン時代以前に書かれたものです。ハ長調K.296は1778年3月に弟子のテレーゼ・ピエロン嬢のために書かれた若々しいソナタです。変ロ長調K.378は1779年初頭にザルツブルクで成立しました。エネルギッシュな1楽章に、2楽章は楽器間での情感あふれる対話、快活なロンドの3楽章が続きます。
  ウィーンで書かれた他の4曲のうち、ギャラント様式が伺えるヘ長調K.376と躍動感あふれる冒頭に続きメランコリックな変奏、メヌエットと続くヘ長調K.377は、1781年夏に書かれました。ト長調K.379はオペラを思い起こさせる壮大なアダージョとそれに続くト短調の情熱的なアレグロ、2楽章は打って変わって晴れやかなテーマでの変奏曲となります。曲集最後の変ホ長調K.380は1781年4月7日の夜、翌日の演奏のために1時間で書き上げられ、ピアノパートはモーツアルト自身が記憶のみで演奏したとあります。スケールの大きなこのソナタで、曲集は締めくくられます。(阿部千春)
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by ooi_piano | 2010-10-08 14:59 | コンサート情報 | Comments(0)
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[チラシfullサイズ・表] http://twitpic.com/29u85s/full
[チラシfullサイズ・裏] http://twitpic.com/29u8ew/full

  昨年7月の同仁教会での「第1回」に引き続き、コンチェルト・ケルンで活躍なさっている阿部千春さん(バロック・ヴァイオリン)との、モーツァルト・ヴァイオリンソナタ続編です。今回が、上編・中編・下編の「中」にあたります(残るのは後期のKV454~KV547の4曲のみ)。
  前回は「作品1」の6曲セットでしたが、今回は初版では「作品2」と題された通称アウエルンハンマー・ソナタ集全6曲(通し番号で第24番・第32番~第36番に相当)を取り上げます。ハ長調KV 296、変ロ長調KV378、ヘ長調KV377あたりは超有名曲ですので、お耳にされた方も多いかと存じます
  前回は、梅岡楽器さん新入荷のドゥルケン・フォルテピアノのお披露目をさせて頂きましたが、奇しくも今回は、前回第1部の調律・運搬を担当して下さった、製作家・太田垣至氏の新作フォルテピアノ、Johan Lodewijk Dulcken 1795 のレプリカのお披露目公演となります。


~若き天才作曲家による、渾身の「作品2」~
《モーツァルト:アウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲)》


阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) × 大井浩明(フォルテピアノ)

2010年10月13日(水)午後6時30分開演(午後6時00分開場)¥3,000(全自由席)
近江楽堂(東京オペラシティ3F) 京王新線・初台駅下車

ご予約・お問い合わせ/合同会社opus55 tel 03(3377)4706 (13時~19時)、fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのアウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲) (1778~81)
(通し番号で第24番・第32番~第36番)


●ヘ長調K.376(374d) ●ハ長調K.296 ●ヘ長調K.377 (374e)
【休憩】
●変ロ長調K.378 (317d) ●ト長調 K.379 (373a) ●変ホ長調 K.380 (374f)


[使用楽器]◎クラシカル・ヴァイオリン: Model " Ysaÿe" Guarneri del Gesú - Christian Sager によるコピー楽器(2003)
◎フォルテピアノ: Johan Lodewijk Dulcken 1795 のレプリカ 太田垣至製作(2010)


阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン)
5歳よりヴァイオリンを始める。塩川庸子氏、尾島綾子氏、前澤均氏、金倉英男氏、村上和邦氏、菊地俊一氏に師事。 武蔵野音楽大学卒業後、ドイツ・シュトゥットガルト国立音楽大学でスザンネ・ラウテンバッハー氏に師事。
在日中より菊地俊一氏、永田仁氏を通して古楽に関心を持っており、1994年トロッシンゲン国立音楽大学古楽科に入学、バロックヴァイオリンをジョルジオ・ファヴァ氏に師事。ディプロム終了後、同大学院にてフランソワ・フェルナンデス、エンリコ・ガッティ、ジョン・ホロウェイ各氏のもとで研鑽を積む。1999年、ドイツ産業連盟・ドイツ財界文化部主催の”古楽・弦楽器コンクール”にて特別奨励賞を受賞。 2000年、大学院修了後、スコラカントルム・バジリエンスィス(バロックヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ)に在籍、ケルン国立音楽大学(古楽科室内楽専攻)にて国家演奏家資格取得。
在学中より、オーケストラ/室内楽奏者、ソリストとして数多くの演奏会、CD、各地放送局の録音に参加。ドイツはもとより、ヨーロッパ各国に活動範囲を広げる。2000年秋、ミシェル・コルボ氏の来日公演にて、マタイ受難曲の第2コンサートマスターを努めコルボ氏の絶賛を受ける。以来、日本にてリサイタル活動も始める。
現在、ドイツ/ケルンに在住。コンチェルトケルンにおいて活動。ヴィオラ・ダモーレ奏者としても、テレマン・トリプルコンチェルト、ヨハネ受難曲の他、2009年にはバッハ・チェンバロコンチェルトBWV1055をヴィオラ・ダモーレのために復元し好評を得る。 同年、ケルンの古楽アンサンブル・アルテムジークケルンとのCD”ROMA”がリリースされる。
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by ooi_piano | 2010-10-08 14:30 | コンサート情報 | Comments(1)