6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


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  ただいま発売中/配布中の、「音楽の友」9月号、「音楽現代」9月号、タワーレコード「intoxicate」第93号に、今月から開始されるリサイタルシリーズ《POC》関連のインタビューが掲載されております。また、8/28(月)朝日新聞夕刊、ならびに8/29(火)日本経済新聞朝刊でも御紹介頂きました。

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c0050810_10173494.jpg日仏会館レクチャー・コンサート) エリック・サティの創作と思想(Ⅰ)
Pensée et création d’Erik Satie (I) : réminiscences et mysticisme     
日時: 2011年9月16日(金)18 :30(開場 18:00)
会場: 日仏会館ホール - 東京都渋谷区恵比寿3-9-25 
(JR山手線・恵比寿駅東口下車徒歩10分、東京メトロ日比谷線恵比寿駅1番出口徒歩12分)
講師: 片山 杜秀 KATAYAMA Morihide / ピアノ演奏: 大井 浩明 OOI Hiroaki
日仏会館会員/無料 (一般/1,000円、学生/500円) 定員120名

♪ 演奏曲目 ♪
■ジムノペディ第1番・第2番・第3番
■ジュ・トゥ・ヴ
■グノシェンヌ第1番・第3番・第5番
■ヴェクサシオン(部分)
■薔薇十字教団の最も大切な思想
■(犬のための)無気力な本当の前奏曲
■ソクラテス(部分)+J.ケージ:チープ・イミテーション(部分)
■シネマ (「本日休演」のための交響的間奏曲) 

要事前登録: 日仏会館ウェブサイトのトップページの「イベント参加登録」からアカウントを作成し、事前申し込みをお願いいたします。インターネットを利用していない方は、FAX(03-5424-1200)または電話(03-5424-1141)で参加登録をお願いいたします。

  エリック・サティは1866年に生まれ、1925年に逝きました。多感な若き日は世紀末のマラルメやヴェルレーヌの時代。晩年は第一次世界大戦後の機械文明の時代。世の中は激変しました。その中でサティは他の多くの才能ある芸術家のように現在の権威、いま定評あるものに反発し続けました。
  現在への反発は過去や未来の理想化につながりがちです。とはいえサティのそれはかなり過激でした。過去への憧れは同時代人のドビュッシーよりも、未来への憧れは同時代人のラヴェルよりも、奇矯で激烈でした。そのせいでサティは同時代的にみればかなりずれた音楽家でした。しかし、そのずれ方が魅力であり、21世紀になってなおいっそう、サティに存在感を与えているのです。
  1回目にはサティと過去の問題、2回目(12月の予定)にはサティと未来の問題に比重をかけてお話しさせていただく予定です。1回目にはピアノ曲、2回目には歌曲の演奏もお楽しみいただきます。


◆片山 杜秀 (かたやま・もりひで)
音楽評論家、思想史研究者。1963年生まれ。慶應義塾大学法学部准教授(歴史、政治文化論、仏書講読等を担当)、東京藝術大学音楽学部非常勤講師(音楽美学講義を担当)。音楽関係の著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』など、共著書に『戦後日本音楽史』など。2008年にサントリー学芸賞と吉田秀和賞を受ける。
Conférence en japonais sans traduction
毎日新聞 8月24日(水)夕刊 紹介記事
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by ooi_piano | 2011-08-30 10:20 | コンサート情報 | Comments(0)
●3月25日オルガン・リサイタル 感想まとめ
●6月18日ピアノリサイタル(山路・田村・夏田・望月他) 感想まとめ その2
●7月16日ピアノリサイタル(シュトックハウゼン日本初演) 感想まとめ
●8月27日ピアノリサイタル(塩見+リゲティ) 感想まとめ


ヨーロッパ戦後前衛音楽の「演奏実践(パフォーマンス・プラクティス)」再考―――野々村 禎彦

c0050810_1533839.jpg 90年代前半、知る人ぞ知る独学のピアニストだった頃から、大井のスタンスは一貫している。まず、歴史に残るべき作品を「古典」に引き上げること。ヨーロッパ戦後前衛を代表する作曲家を中心に、それも曲目を絞って磨き上げた演奏を提示するのではなく、多少荒削りでも全作品演奏にこだわって作曲家の全体像を捉えようとしてきた。そして、新作委嘱を通じて新たな才能を世に出すこと。例えば、木ノ脇道元と結成したデュオで朝日現代音楽賞を受賞した時の受賞記念リサイタルは、全曲委嘱新作だった。しかもそこに並んでいたのは、いまや日本作曲界を支える中堅(当時の若手)作曲家たちで、彼らの創作歴の転回点になった作品も少なくない。

 独学時代の意欲的な活動が評価され、数々の受賞歴を経てヨーロッパ留学が決まった時、彼はベルン芸術大学でブルーノ・カニーノに師事した。音楽史に造詣が深く室内楽奏者として高名なカニーノは、クラシックレパートリーと音色のコントロールを高い水準で修得するという当初の目的にかなうことに加え、前衛の時代にはアロイス・コンタルスキーと並ぶ前衛レパートリーのチャンピオンだった。大井の選択にはブレがない。また師は、古楽奏法の重要性を認識して自らの演奏にも取り入れ、チェンバロも弾く。大井も留学の機会にピアノの祖先にあたる楽器を網羅的に学び、独自の考察を加えて自らの音楽をさらなる高みへと導いた。

c0050810_1553271.jpg ここ10年ほどの大井の活動では古楽器演奏が相対的に目立っていたが、昨年度のPOCシリーズ第1期で現代音楽への変わらぬ情熱を示した。「歴史に残すべき作品を《古典》に引き上げる」という基本姿勢は、オール日本人プログラムでも手加減はない。松下眞一・松平頼則・塩見允枝子・平義久・松平頼暁という、いまだ実力に見合った評価を得ていない戦後前衛・実験音楽の「大家」たちを、野村誠・山本裕之・伊左治直・杉山洋一・田中吉史という、かつて新作を委嘱し、その後も期待に応えて現代ピアノ曲のレパートリーを広げ続けている(それも、ヨーロッパや日本の「主流」とは一味違う形で)同世代の作曲家たちと組み合わせた。では、大井の青春の記念碑を並べたかのような今年度のプログラムは、今日においてどのような意味を持つのだろうか?

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 初回(9/23)のクセナキスは、まさに大井の名刺代わりのレパートリー。難曲として名高い《シナファイ》を独学時代に征服し、渡欧後はピアノ、チェンバロ、オルガンのための全作品をひとりで弾いてヨーロッパ現代音楽界の度肝を抜いた。《シナファイ》の実況録音はやがて作曲者にも激賞され、タマヨ/ルクセンブルク・フィルによる管弦楽作品の系統的録音でピアノソロを担当することになる。クセナキスは、数学や統計学の知識からインスピレーションを得たわけだが、楽器の演奏伝統にこだわらない姿勢は結果的に、ルネサンス時代に広まったがその後淘汰された奏法や、さらに源流にあたる民族楽器の奏法の記憶を呼び起こしていた。この発見を経て大井は、サラベール社の歿後10年記念冊子『クセナキスに挑む Oser Xenakis』に、指揮のタバシュニクやヴァイオリンのアルディッティらと並んで、「ピアニスト代表」として寄稿している。

 今回のクセナキス・プログラムはチェンバロ曲の比重が高いが、この楽器の一般的イメージのかそけき響きを期待すると、完膚無く裏切られるだろう。鋼鉄製のフレームを持つモダンチェンバロをさらに電気増幅した、最凶の高周波ノイズ発生器がそこにある。このパンクなノイズの絨毯爆撃を打楽器がサポートするデュオ2曲は、さらに興味深い。《コンボイ》は同時期の《テトラス》と並ぶ原初的なエネルギーが噴出し続ける音楽、《オーファー》は最晩年のクセナキスを特徴付ける無時間的な謎めいた沈黙の音楽。打楽器の神田佳子は、クセナキス作品を含む幅広いレパートリーを持ち、ポピュラー音楽との境界領域にも意欲的に取り組んでいる。

 2回目のリゲティ(10/22)も、大井のキャリアでは特別なレパートリー。今日では「現代弾き」を志す音大生の必修科目の感がある《練習曲集》だが、まださほど注目されていなかった90年代前半から取り組んできた。1993年、ある作曲コンクールの審査員として来日したリゲティが演奏審査での大井の解釈を絶賛して以来、作曲者と直接連絡を取り、未出版の新曲の自筆譜を取り寄せては日本初演してきた。リゲティは古今東西のクラシックレパートリーに通暁していたが、チェンバロ曲はもちろんピアノ曲にも、バロック時代の鍵盤音楽から借用した発想が詰め込まれている。古楽奏法のメスの切れ味を試すには格好の素材である。

c0050810_15114688.jpg 3回目のブーレーズ全曲演奏(11/23)は、メシアンの弟子にふさわしい《ノタシオン》、シェーンベルクの使徒にふさわしい第1ソナタ、ヨーロッパ戦後前衛の最初の金字塔である第2ソナタ、ケージとの出会いと訣別が刻印された第3ソナタ、その後数10年の指揮者や音楽行政官としてのキャリアの結実(あるいは成れの果て)としての近作という、作曲家としての個人史を見事に辿る内容だが、第1ソナタから第2ソナタへの飛躍は、J.S.バッハ《オルガン・ミサ》や《フーガの技法》の分析の賜物であり、これらの作品も手中に収めた大井による解釈が楽しみだ。なお、上記の変遷の中で最も大きなギャップは《ノタシオン》と第1ソナタの間にあるが、そこを繋ぐ《ソナチネ》も含めた選曲は抜かりない。フルートの寺本義明は、現在都響首席奏者を務めているが、高校・大学の学内オーケストラでの大井の先輩でもある。

 4回目の韓国プログラム(12/23)も大井ならでは。尹・姜・朴・陳という、韓国の現代音楽を代表する4世代の巨頭のピアノソロ曲を網羅し、辛うじて一夜に詰め込んだ。ヨーロッパ時代の大井は、「東アジア代表」という意識で日本以外の東アジアの作品も積極的に弾いていたが、特にとは縁が深く、練習曲第1番を世界初演し、練習曲第5番を委嘱した際に前4曲の改訂版も併せて世界初演している。日本の場合と同じく、韓国の現代作曲家たちにとっても伝統音楽との距離の取り方は大きな課題だった。4世代を代表する4人の作品を作曲当時の滞在国や韓国の政治状況と見比べながら聴くと、多くの示唆が得られるだろう。また韓国の場合、ドイツに定住するのが国際的評価を得る定番コースになっており、ドイツ留学・滞在を10余年で切り上げてソウル大学に戻ったの動向は、ヨーロッパ経由のルートでは見えにくかった。80年代の大作を含む今回の一挙紹介は、再評価の良い機会になるだろう。重量級のプログラムが並ぶ今期でも群を抜くボリュームの回、心して臨まれたい。

c0050810_1519157.gif 最終回のシュトックハウゼン(2012/1/29)も大井の重要なレパートリーである。鍵盤曲シリーズの日本初演歴を眺めると、ヨーロッパ戦後前衛ピアノ曲のアイコンとも言える1番~11番はコンタルスキー、オペラ《光》から抜粋されたピアノ曲の12番~14番はヴァムバッハ、《光》からの抜粋だが、ピアノソロへのこだわりも捨てた15番《サンティ・フー》(シンセサイザーと電子音響)・16番(ピアノと電子音響)・17番《彗星》(電気鍵盤楽器と電子音響)は大井と、「現代弾き」3世代の代表が並ぶ。《光》シリーズ完成後、次なる《KLANG》シリーズの途中でシュトックハウゼンは亡くなったが、死の前年に完成し、このシリーズに属するピアノソロの大曲《自然の持続時間》の紹介も大井は積極的に行っており、部分初演・全曲初演とも日本では彼が担当した。

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c0050810_15202966.jpg 「演奏実践」と訳される、Aufführungspraxis / performance practice という音楽学用語がある。一般的には、特定の音楽様式に対応する特定の演奏様式を指す。言うまでもなく、この概念は古楽において特に重要だった。レパートリー拡大の要求から、「古楽復興」は19世紀から何度も唱えられてきたが、演奏実践への配慮を伴わない運動は、ロマン主義的演奏伝統の汚染拡大を意味する。モダンチェンバロのような楽器もその過程で作られた。結局、演奏実践の音楽学的研究と複製古楽器制作技術の発展を受け、ロマン主義的演奏伝統の除染を経て古楽奏法が確立されたのは、1970~80年代のことである。演奏実践の音楽学的研究は作曲におけるモダニズムと並行して19世紀末に始まったが、ヨーロッパ戦後前衛の達成に勝るとも劣らないゼロ地点からの革命だった古楽奏法に至るまでには、四半世紀を余分に要した。「除染」の手間のためだろう。

 だが、ヨーロッパ戦後前衛の演奏実践は、果たして自明なのだろうか。「現代弾き」が作曲者の監修のもとで演奏を繰り返し、録音や録画も行われているから確立している、と考えるのはナイーヴ過ぎる。演奏実践=作曲当時の演奏様式という図式が成り立つのは、作品も演奏様式も同時代限りで消え去る場合に限られる。古楽をも強く汚染したロマン主義的演奏伝統が、モダニズム以降の音楽に影響を及ぼさないはずがない。「現代弾き」がクラシックレパートリーを弾く時、カニーノのように演奏実践に配慮することはむしろ稀である。古楽奏法の衝撃は時を経ても衰えず、現代楽器の演奏様式すら根こそぎ変えつつあるのに対し、ヨーロッパ戦後前衛の衝撃は限定的で、オイルショック程度の外的要因で簡単に薄れ、主導した作曲家たちの多くはその姿勢を自ら捨てた。これらは、ヨーロッパ戦後前衛は演奏実践を伴わない中途半端な運動だったことの何よりの証拠ではないか?

c0050810_361814.jpg ヨーロッパ戦後前衛はシステマティックな作曲を旨とするため、作曲者も自らの作品の真価を知らないという事態は十分に考えられる。その場合、演奏実践によって作品の真価を引き出せる可能性があるのは、クラシックレパートリーの真価を古楽奏法を通じて引き出した経験を持つ奏者ということになるだろう。つまり、こういうことだ。POCシリーズ第2期は一見、ヨーロッパ戦後前衛を「古典」の塔に収める儀式の場に見えるかもしれないが、「ヨーロッパ戦後前衛は実はまだ始まってすらいなかった、真の衝撃はここから始まる」という、驚愕の第二部の開始宣言なのかもしれない。
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by ooi_piano | 2011-08-27 13:49 | POC2011 | Comments(0)
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by ooi_piano | 2011-08-24 20:40 | コンサート情報 | Comments(0)

野村誠氏関連(その2)

  ※松下眞一作品の解説については、こちらを御参照下さい(ただし半年前の京都公演のためのものです):http://ooipiano.exblog.jp/12896328/

  本公演についての野村氏インタビュー (firestorageへのリンク) http://bit.ly/dteozQ http://bit.ly/b7OqSE

■野村誠: ロシアンたんぽぽ/誰といますか?
c0050810_7375289.gif  自作のピアノソロ作品は、高校以前の習作時代を除けば、「Away From Home With Eggs」(2000)、「DVがなくなる日のためのインテルメッツォ」(2001)、「福岡市美術館」(2009)の3作品しかない。大井浩明からは、異なった年代の作品をプログラムに入れたい、という要望があり、2002年から2008年の作品スコアの中から、ピアノで演奏可能な作品を検討した結果、アコーディオン独奏のための2曲が選択された。どちらも、2004年に御喜美江さんの委嘱で書いたものである。
  2004年は、片岡祐介さんと「即興演奏ってどうやるの」(あおぞら音楽社)というCD付の本を書いた年で、片岡さんの即興演奏と音楽療法について言語化/楽譜化することがテーマだった。そうした時期に書いたこの2作品は、少なからず、その影響がある。
  「ロシアンたんぽぽ」は、時間がない時期の委嘱だったこともあり、2日間で一気に譜面を書いた即興演奏のような作品。できるだけ刹那的に、瞬間瞬間を楽しみながら、進行する。しかし、行き当たりばったりの即興演奏も、ドキュメントし分析すれば、そこに意味やストーリーが解釈できる。御喜美江さんが、どのような解釈をして、どんな音楽が立ち上がってくるかを楽しみに書いた。
c0050810_738549.jpg  「即興演奏ってどうやるの」の第1章は、「なんちゃって音楽」と言い、「なんちゃって癒し系」、「なんちゃってモーツァルト」、「なんちゃって坂本龍一」、「なんちゃってフィリップ・グラス」など、様々な「なんちゃって」を書いた。「誰といますか?」を作曲する時も、そうした「なんちゃって」の影響があり、複数の様式の「なんちゃって」を組み込みたいと思った。「なんちゃってソナタ」として、二つの主題のある音楽を書いてみようと思った。第1主題をハ長調から始まる「なんちゃって調性音楽」で、第2主題を「なんちゃって無調音楽」と構想した。
  第2主題は、第1主題とのコントラストがある方が良い。これについては、音楽療法士の石村真紀さんからのインスピレーションが大きい。「即興演奏ってどうやるの」を発表することで、音楽療法士の石村さんと出会ったのがこの時期だった。彼女の障害児との音楽療法は、無調による即興演奏によるコミュニケーションをベースとしていた。音楽療法士のほとんどが、古典的な調性音楽での音楽療法を行っている中で異彩を放っていた。音楽療法における無調は、セラピストが調性的な和声感を排除することで、クライアントが臆することなく楽器を演奏できることが特長で、行われるやりとりは、シンプルなリズムの模倣などが多い。第2主題を音楽療法の即興風の無調にして、ソナタ形式で呈示部、展開部と書き進めた。が、書いていくうちに、ソナタ形式からは脱し、再現部は訪れずに、曲はコーダに到る。


■野村誠: べルハモまつり
http://ooipiano.exblog.jp/11154017/


■野村誠: DVがなくなる日のためのインテルメッツォ
   2001年10月21日に開催されたイベント《DV(ドメスティック・バイオレンス)鎮魂の会》のために、草柳和之氏の委嘱で作曲。被害者の方々や草柳氏と何度も話し合いの場を持ち、たくさんの作曲のヒントをいただいた。そのとき受け止めた「祈り」や「思い」を何とか音楽で伝えようと必死に作曲した。この曲は、演奏時の著作権はキャンセルされており、どのような機会でも自由に演奏することができる。弾きにくい場合は、最初の1ページ、あるいは最後の2ページあたりだけ等、できる範囲内で気に入ったところを弾いてみて欲しい。タイトルは、DVがなくなる日までの間に演奏する曲、間奏曲にあたる「インテルメッツォ」である。ぼくもDVがなくなる日まで、この曲を弾き続けていこう、と思う。


■野村誠: 6つの新しいバガテル
c0050810_7401856.jpg  松下眞一が構想した「12のバガテル」は、7〜12番は、タイトルのみ発見されている。大井浩明から、この6つのタイトルでの作曲を委嘱された時、まず、1〜6番の譜面を読むところから始めようと思った。ところが、大井は、1〜6曲目を知らない状態で、タイトルだけから作曲するように提案してきた。松下眞一が書いたであろう音楽を想像して作曲するのではなく、松下眞一の遺したタイトルにインスピレーションを得て、野村誠の音楽を生み出すことが、今回の企画の趣旨だ。ぼくは、6つのタイトルと格闘することになる。
  まず、「バガテル」ということなので、ぼく自身の通常の音楽活動の中でこぼれ落ちてしまうようなものを集めて、一つの曲集にしようと考えた。

1) フーリエ変換
c0050810_7434471.jpg  30代まで、ぼくは、駄洒落をあまり肯定的に自分の作品に取り入れようとは、考えていなかった。40代になり、身の回りの友人たちが、次々に「おやじギャグ」を連発するようになり、冷たい視線を浴びているのを目撃するうちに、駄洒落は、非常に日本語的な優れた文化なのではないか、と思うようになった。そして、「駄洒落作曲」という作曲法を始めた。
  例えば、2009年に作曲した吹奏楽のための「福岡トリエンナーレ」という曲は、駄洒落のみで構成した曲で、「福=吹く(一音をロングトーンで)」、「岡=おかしい音を出す(特殊奏法など)」、「トリ=トリル」、「エン=楽器で円を描きながら演奏」、「ナ=名前をもとにフレーズを作って演奏する」、「アレ=あれっという感じで終わる」という6つの合図の組み合わせで演奏する曲だった。
  そこで、「駄洒落作曲」的なアプローチで、「フーリエ変換」というタイトルに向き合ってみることにした。すると、「フーリ」=「振り」と見えてきた。そこから、ぼくがHugh Nankivellと行っている「Keyboard Choreography Collection(以下KCC)」というプロジェクトのことが連想された。
  2009年1月にえずこホール主催で開始したKCCは、幼児のデタラメ演奏からピアノ奏法を学び、それを振付として記述するというプロジェクトだ。まず、幼児に自由気ままにピアノを弾いてもらい、その様子をビデオに記録する。その映像を作曲家と振付家で分析し、そこから、可能な限り多くのピアノ奏法を抽出し、音楽用語ではなく、振付として記述する。
  「フーリエ変換」は、このKCCによる作品にしようと考え、奏法のリストを吟味しているうちに、「フーリエ」が「フーリコ」と見えてきて、「フリコ」と見えた。「フーリエ」が変換されて、「フリコ」になる。ジャワ舞踊家の佐久間新さんが偏愛したKCC48(振り子奏法)が想起された。佐久間さんは舞踊家であるが、この振り子奏法で、真に美しい運動をし、その運動は美しい音色をもたらすのだ。

2)アンダルシアに
c0050810_7443450.jpg  葛飾北斎は、「北斎漫画」に、木琴、尺八、胡弓、箏の四重奏の絵を残している。「江戸時代に木琴」、ということ自体が、ぼくの江戸の音楽への先入観を打ち砕いたのだが、調べていくと、江戸末期に、木琴は大流行したらしく、どうやら、その木琴は、インドネシアのガムラン音楽のガンバンを模しているらしいのだ。では、江戸の人は、インドネシアの音楽を演奏したのであろうか?
  そうした興味から開始した「野村誠×北斎」(アサヒ・アートスクエア主催)では、実際に北斎が聞いたであろう音楽を調査するのではなく、北斎の絵から想像される音楽を新たに創造することになった。ぼくは違ったスタイルの10曲を作曲したが、そのうちの1曲「南の北斎」は、インドネシアの音楽を模した音楽を、お箏の雲井調子で合奏している、という想定で書いた。
  インドネシアから伝わって変形された江戸の四重奏が、さらに、何らかの経緯でアンダルシアに伝わったらどんな音楽になるだろう、という興味で書いたのが、「アンダルシアに」だ。ジャワ・ガムランの香りは微かに残り、邦楽の匂いも若干は残っているかもしれない架空のスペインの音楽。

3)月の光
c0050810_7465082.jpg  小学生の時に、「月の光」というタイトルで作品を書いたことがある。だから、「月の光」からぼくが最初に連想したのは、小学生だった。2010年7月、北九州芸術文化振興財団の委嘱で、小学校で作曲のワークショップをすることになった時、ぼくはワークショップの成果を「6つの新しいバガテル」に採用することを、主催者、学校、子どもたちに確認し、許諾をとった。2つの学校の4つのワークショップでは、子どもたちは独自のモードを作り、「C,D,E,F#,G,A」、「C,D#,E,G,A,B♭」、「C,D#,E,F#,G,A」、「C,C#,D,E♭,A,B♭」という4つのモードが生まれた。子どもたちが作ったメロディーを変形せずに、シンプルに提示した。

4)シャンソン
  福岡市文化芸術振興財団主催の「野村誠の左手の法則」では、演劇、ダンス、音楽、アーツマネジメントのワークショップを出発点として、交差ジャンル的な作品創作が行われた。ぼくは、吉野さつきさんの企画プレゼンをするワークショップを見学した時に、プレゼンの言葉は歌であり、身振りはダンスだと感じ、ワークショップの映像を素材に作曲しようと考えた。全5曲から成る映像とピアノのための「福岡市博物館REMIX」の第2曲「Arts Management」として、2010年7月に、福岡アジア美術館にて、世界初演。
  「シャンソン」とは、フランス語で「歌」の意味なので、まさに、この「Arts Management」の映像を題材にし、ピアノパートを書き直した。映像のルバートに合わせて、ピアニストが見事に伴奏をすることで、言葉が活き活きと浮かび上がってくる。映像撮影は、泉山朗土、編集は上田謙太郎。

5)語れや、君、そも若き折、何をかなせし
c0050810_7481788.jpg  かつて、大井浩明が三輪眞弘作曲の「東の唄」を演奏するのを聴いたことがある。生ピアノを自動ピアノが感知して模したり変形したりして共演していくことで成立する音楽なのだが、この時の大井の演奏は圧巻だった。大井は機械的な演奏を意識的に排して(いるようにぼくには聞こえた)、人間の最高水準の精度の演奏(ニュアンス、揺らぎなど)で、自動ピアノの精度の粗さを浮き彫りにしていたのだ。機械と人間が対峙するこの演奏に、ぼくは少なからぬ感動を覚えた。
  人間の機械的でない不均等さ、ちょっとした揺らぎやニュアンスで、三輪作品の深みを見せてくれた大井の演奏から、だったら、このピアニストを、思いっきり揺らぎのあるニュアンスの塊のような演奏と対峙させてみたら、どんな演奏が味わえるだろう、と考え、お年寄りの演奏と大井の共演を思いついた。
  ぼく自身、1999年より、特別養護老人ホーム「さくら苑」でお年寄りと未完成な共同作曲を継続している(この活動については、野村誠+大沢久子著「老人ホームに音楽がひびく」(晶文社)を参照して下さい)。そこで生まれている独特な音楽を、どのような形でアウトプットしていくかについて、考えてきたのだが、なかなか良い方法が思いつかないまま11年の月日が流れた。
  そうした中で、お年寄りの演奏する映像に、ぼくがピアノで共演する形で新作を発表しようと考えつき、今年の3月、Arts Commission Yokohamaの助成、BankART NYKの協力を得て、「老人ホーム・REMIX #1」という公演を行った。今回、大井浩明との共演に選ばれたのは、「たどたどピアノ組曲」の第4曲で、ピアノパートを新たに書き直し、「語れや、君、そも若き折、何をかなせし」とした。
  お年寄りがたどたどしく弾くピアノと、大井浩明のピアノの間には、大きな距離/溝がある。大井浩明のピアノが、映像のピアノ演奏に寄り添い、模倣しながら、しかし、微妙に距離を保ちながら、どのような共演が可能になるのか、非常に興味深い。
  映像は、上田謙太郎。

6)主よ、主よ、そは現し世なり
c0050810_7493296.jpg  1999年に開始した共同作曲の方法に「しょうぎ作曲」というものがある。これは、「うーむ、その手で来たのか」と、相手に意表をつかれたり、裏をかいたりするところが、将棋などと似ていることからの命名だが、実際の将棋のルールに関係するところは、特にない。
  「現し世」という言葉から、駒の損得や王様を先にとる方が勝ちという明確な実利を競う将棋というゲームのことが思いつき、将棋の棋譜をもとに作曲をすることを思いついた。今回は、羽生善治と谷川浩司による歴史的な棋譜を素材にした。こちらが勝手に決めたルールで音楽にしているにも関わらず、自分のネット対局時等の棋譜に比べ、羽生の駒の動かし方は、断然、良い音楽になったからである。
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by ooi_piano | 2011-08-21 20:59 | POC2010 | Comments(0)