6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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~ピリオド楽器によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ全曲シリーズ 最終回~

阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) × 大井浩明(フォルテピアノ)

2012年2月10日(金) 午後7時開演 (午後6時30分開場)¥3,000(全自由席)
淀橋教会 小原記念聖堂 (新宿区百人町1-17-8) http://www.yodobashi-church.com/
[JR総武線・大久保駅下車徒歩1分 JR山手線・新大久保駅下車徒歩3分]

W.A.モーツァルト(1756-1791):
●ソナタ第40番 変ロ長調 K.454 (1784/1784出版)[全3楽章]
Largo/Allegro - Andante - Allegretto
●フランスの歌《羊飼いの娘セリメーヌ》による12の変奏曲 ト長調 K.359(374a) (1781/1786出版)
●ソナタ第41番 変ホ長調 K.481 (1785/1786出版)[全3楽章]
Molto Allegro - Adagio - Allegretto/Allegro

【休憩】

●《泉のほとりで》による6つの変奏曲 ト短調 K.360(374b)(1781/1786出版)
●ソナタ第43番 ヘ長調 K.547 (1788)[全3楽章]
Andantino cantabile - Allegro - Andante
●ソナタ第42番 イ長調 K.526 (1787/1787出版)[全3楽章]
Molto Allegro - Andante - Presto
●ソナタ第39番 ハ長調 K.404(385d)(1782)[全2楽章]
Andante - Allegretto

【ご予約・お問い合わせ】 合同会社opus55 tel 03(3377)4706 (13時~19時、水・木定休)、fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/

[使用楽器]◎クラシカル・ヴァイオリン: 作者不詳 18世紀南ドイツ
◎フォルテピアノ: Johan Lodewijk Dulcken 1795 のレプリカ 太田垣至製作(2010)


c0050810_12393254.jpg  モーツァルト・ヴァイオリンソナタ全曲シリーズ最終回は、変奏曲2曲、ウィーン時代の後期のソナタ5曲を取り上げます。

  K.359/K.360は1781年7月にウィーンで作曲されたものです。ザルツブルクでコロラド大司教と決裂したモーツァルトが父の反対を押し切ってウィーンにやってきた頃の作品で、ウィーン最初の弟子となったド・ルムベーケ伯爵夫人マリー・カロリーネのために書かれたと言われています。おそらくパリ滞在(1778年)の際に出会ったアルバネーズのシャンソン集から、”羊飼いの娘セリーヌ”(歌詞は17世紀のもの。それにつけたアルバネーズの音楽はかなりイタリア風に書かれている)には12の、”泉のほとりで”(歌詞は17世紀、リフレインは16世紀のもの)には6の変奏曲をつけました。

  当時のウィーンはヨーロッパで4番目に大きい都市で、神聖ローマ皇帝のもと各国大使が駐在し、地理的条件も重なって国際交流が非常に盛んでした。他の大都市パリやロンドンとは違い、ウィーンでは1683年にオスマン帝国に包囲されて以来外からの影響にオープンな文化土壌が育ち、その活発な音楽環境は、独立を目指すモーツァルトにとって第一歩を踏み出すにふさわしい条件だったと言えるでしょう。啓蒙主義に傾倒し、様々な改革を試みたヨーゼフ2世は市民にとって身近な存在で(モーツァルトは1788年12月7日付でグルックの後任として宮廷作曲家の称号を承けています)、貴族階級と一般市民の交流も盛んでした。1781年11月にウィーンで出版した”アウエルンハンマーソナタ集”やこの変奏曲などはそうした音楽愛好者を対象とした就職活動の一環と言えます。

  *  *  *  

  クラヴィーアとヴァイオリンのための作品において、1782~83年はモーツァルトにとって模索の時期でした。未完の作品が続く中、1784年4月21日(モーツァルト自作目録による)に変ロ長調K.454が作曲されます。マントヴァ出身の女流ヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキ(1764-1823)のウィーン滞在にあわせて書かれ、ピアノパートが間に合わず本番当日はモーツァルトが即興で演奏したようです。実力派ストリナザッキのためにヴァイオリンとピアノのパートが互角に書かれており、コーダ部分の独立性、形式の拡大は、後のベートーヴェンの作曲技法へとつながって行きます。

  モーツァルトはこの分野での作曲において3つの構成要素(管弦楽的技法 / 室内楽的技法-旋律と伴奏又はバス- / 3声の作曲技法)を用いていました。マンハイム・パリ時代には作品ごとに別個に認められますが、ウィーン時代には作品内でのこの構成要素の融合が計られる様になります。様々な様式・形式が楽曲の構成に統合され、曲ごとに特有のキャラクターを形成、普遍的なスタイルを生み出しました。これは後期ソナタにおける特徴と言えます。

  *  *  *  

c0050810_12411391.jpg  1785年12月12日に作曲された変ホ長調K.481は出版後(1786年)流行を追い過ぎているとの厳しい批評を受けますが(1788年8月13日付”Musikalische Real-Zeitung)、同時に2楽章の多感的な様式(カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ ”専門家と愛好家のためのクラヴィーアソナタ集第2集” Wq56, 1780からの影響?)、異名同音的転調による表現の深さが特筆されます。この作曲技法は後のシューベルトにおいて多く使用されるようになります。

  ソナタイ長調K.526は、アインシュタインが”完全なる調和への達成”と絶賛した様に、この分野における最高峰とも言える内容です。1787年8月24日に作曲されました。”アイネ・クライネ・ナハトムジーク”K.525と”ドン・ジョヴァンニ"K.527の間に位置し、同年5月28日のレオポルドの死との関連も伺えますが、6月20日にロンドンで亡くなったカール・フリードリッヒ・アーベルへの追悼とも言われています。年少の頃のロンドン滞在(1763~66年の演奏旅行)はモーツァルトにとって一生の思い出となっており、ウィーン定住後もイギリス行きを計画する程でした。K.526の3楽章はアーベルのソナタ(クラヴィーア、ヴァイオリン、チェロのためのソナタ作品5-5、フィナーレ ロンド)をアレンジ、発展させたものとなっています。

  ソナタへ長調K.547は”ヴァイオリンを伴う初心者用の小さなクラヴィーアソナタ”とあるように、一転して1764年の原点に戻った様な作品です。おそらく教育的な目的のために書かれたものでしょう。1788年7月10日に作曲されました。自筆は紛失、1805年の初版が原典となっています。3楽章のアンダンテはモーツァルト自身がピアノに改編し(K.54,547b)、2楽章アレグロも他のピアノソナタに編曲されています。

  ハ長調K.404は未完で、2楽章アレグレットの一部のみ自筆が残っています。ケッヘルはコンスタンツェのためのソナタ集の一部としてK.404 (1782)としました。1楽章のアンダンテが”4手のためのアンダンテと5つの変奏曲”(K.501)、”自動オルガンのためのアンダンテ”(K.616)に似ている事から、サンフォアは1788年作のソナタK.547とピアノソナタヘ長調K.546aとの関連を指摘しています。また2つの楽章が別個の成立だったのではという説もあります。(阿部千春)


【モーツァルト:クラヴィアとヴァイオリンのためのソナタ集 全曲シリーズ】
●第1回公演(2009年7月) パリ・ソナタ集 作品1(全六曲)K.301-306 曲目解説
●第2回公演(2010年10月) アウエルンハンマー・ソナタ集 作品2(全六曲)K.296, K.376-380 曲目解説

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阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン)
 5歳よりヴァイオリンを始める。塩川庸子氏、尾島綾子氏、前澤均氏、金倉英男氏、村上和邦氏、菊地俊一氏に師事。 武蔵野音楽大学卒業後、ドイツ・シュトゥットガルト国立音楽大学でスザンネ・ラウテンバッハー氏に師事。その後、トロッシンゲン国立音楽大学古楽科に入学、バロックヴァイオリンをジョルジオ・ファヴァ氏に師事。引き続き同大学院にてフランソワ・フェルナンデス、エンリコ・ガッティ、ジョン・ホロウェイ各氏のもとで研鑽を積む。1999年、ドイツ産業連盟(BDI)主催の”古楽・弦楽器コンクール”にて特別奨励賞を受賞。 2000年同大学院修了後、バーゼル・スコラカントルム(バロックヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ)に在籍、またケルン国立音楽大学(古楽科室内楽専攻)にて国家演奏家資格取得。
 在学中より、オーケストラ/室内楽奏者、ソリストとして欧州各地で数多くの演奏会、CD、各地放送局の録音に参加。2000年秋、ミシェル・コルボ氏の来日公演にて、マタイ受難曲の第2コンサートマスターを務め、コルボ氏の絶賛を受ける。以来、日本にてリサイタル活動も始める。コンチェルト・ケルンにおいて活動。ヴィオラ・ダモーレ奏者としても、テレマン・トリプルコンチェルト、ヨハネ受難曲の他、2009年にはバッハ・チェンバロコンチェルトBWV1055をヴィオラ・ダモーレのために復元し高い評価を得る。 同年、アルテムジークケルンとのCD”ROMA”がリリースされる。ケルン在住。

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by ooi_piano | 2012-01-30 11:24 | コンサート情報 | Comments(0)
【ポック#10】 シュトックハウゼン(1928-2007) 歿後5周年・初期クラヴィア曲集成
2012年1月29日(日) 午後6時開演 (午後5時30分開場) 白寿ホール 
大井浩明(ピアノ) 有馬純寿(電子音響)
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c0050810_15185582.jpgクラヴィア曲 I (1952) 約3分
クラヴィア曲 II (1952) 約2分
クラヴィア曲 III (1952) 約30秒
クラヴィア曲 IV (1952) 約2分
クラヴィア曲 V (1954) 約5分

クラヴィア曲 VI (1954/61) 約25分

クラヴィア曲 VII (1955) 約6分
クラヴィア曲 VIII (1954) 約2分
クラヴィア曲 IX (1954/61) 約10分

--(休憩15分)--

クラヴィア曲 XVIII 《水曜日のフォルメル》~オペラ「光の水曜日」より(2004、日本初演)(シンセサイザー独奏) 約10分
クラヴィア曲 XI (1956) 約12分
クラヴィア曲 X (1954/61) 約25分

〈前売〉 学生2,000円 一般2,500円 〈当日〉 学生2,500円 一般3,000円
【チケット取り扱い】 ローソンチケット 0570-084-003 Lコード:39824
ヴォートルチケットセンター 03-5355-1280 (10:00~18:00土日祝休)
【お問い合わせ】お問い合わせ 株式会社オカムラ&カンパニー
tel 03-6804-7490 (10:00~18:00 土日祝休)
fax 03-6804-7489 info@okamura-co.com

★9月23日クセナキス公演の感想集 http://togetter.com/li/191754
★10月22日リゲティ公演の感想集 http://togetter.com/li/203576
★11月23日ブーレーズ公演の感想集 http://togetter.com/li/217773
★12月23日韓国特集の感想集 http://togetter.com/li/231194
★1月29日シュトックハウゼン公演の感想集 http://togetter.com/li/248993
★POC2011関連のリンク http://ooipiano.exblog.jp/i9/

c0050810_51321100.gif■クラヴィア曲第I/II/III/IV番
  1951年初夏にダルムシュタット講習会で聞いたメシアン《4つのリズム・エチュード》に衝撃を受け、翌年1月にパリへ留学、音楽院のミヨー作曲クラスには不合格であったが、メシアン分析クラスに入学。2月にピアノ曲「A - B」として書き上げたのが、クラヴィア曲第III第IIである。3月に入り、当時26歳のブーレーズと出会う。6月までに第IV第Iを完成。ベルギー人ピアニスト、マルセル・メルスニエに献呈、彼女により1954年8月21日にダルムシュタットで初演。第I曲に於ける、11対10の連符の中にさらに7対5のリズムを押し込める不合理時価の表記法は、当時ブーレーズから手厳しく批判されたが、遠くファーニホウらの新複雑主義の先鞭とも言える。

c0050810_513574.jpg■クラヴィア曲第V/VI/VII/VIII番
  第V~第Xの6曲セットは、1953年末に着想され、翌年第V~第VIIIの4曲の最初のヴァージョン(第I~第IVと同規模)が完成した。アメリカ人ピアニスト、デヴィッド・チューダーに献呈。
  第Vは、太陽と惑星、あるいは惑星の回りの衛星のような、中心音とそれを巡る装飾音の対比のエチュードとして構想された。最終版は、メルスニエにより最初の4曲と併せてダルムシュタットで1954年8月に初演。
  第VIは、1954年5月のヴァージョンでは40秒程度の小品だったが、同年12月の第2ヴァージョンでは20倍以上に増殖、翌年3月の第3ヴァージョンがチューダーにより録音された後、テンポ変化を13段のグラフで併記するという特殊な記譜法の最終改訂版が1961年に完成。
  第VIIは、周期的リズムの再統合を目指した1954年8月の最初のヴァージョンが余りに退嬰的だったため、翌年3~5月に全面改訂が施された(反復モチーフの痕跡は残っている)。ペダルやハーモニクス奏法による響きの探究は、ブーレーズの第3ソナタ(1955/57)を先取りしている。
  第VIIIは、最初のアイデアのまま上手く完結できた稀なケースである。静的な第VIIに対して動的であり、しばしば組み合わせて演奏される。

c0050810_5142653.jpg■クラヴィア曲第IX/X/XI番
  第IXと第Xは最終版が1961年に完成、ドイツ人ピアニストのアロイス・コンタルスキーに献呈された。
  第IXは1962年5月21日にケルン放送スタジオでコンタルスキーにより初演。滔々と奏される冒頭の和音連打は、最初の妻の家で後の妻が行った即興演奏に由来する。リズム構造は、自然界に数多く見出されるフィボナッチ数列(1, 2, 3, 5, 8, 13, ...)に基づく。後のスペクトル楽派の始祖的な作品。
  第Xは、最終版の脱稿がコンサートの数日前にずれ込んだため、初演予定者のデヴィッド・チューダーが演奏を拒否(1961年5月)、翌年10月にパレルモでフレデリック・シェフスキーにより初演。手袋を必須とする急速なグリッサンドの交替や、指・拳・掌・手首・下腕・肘で7種類に弾き分けられる目まぐるしいトーン・クラスター(密集和音)の応酬は、フリー・ジャズ等にも決定的な影響を与えた。
  第XIは、献呈者チューダーにより1957年4月22日にニューヨークで初演。縦54cm×横94cmの巨大な紙に19の断片が印刷され、奏者は目に入ったものから順々に弾いてゆく、という、「管理された偶然性」の作品。ただし、演奏順による指定の変化をその都度遵守するのは非常に困難なため、打楽器のための《チクルス》やブーレーズ《第3ソナタ》等と同様、事前にヴァージョンを決定付けておく演奏慣習も、初演直後から黙認されている。「演奏順を奏者が決める新作」を1955年にチューダーに打診した際、フェルドマン《Intermission 6》(1953)やアール・ブラウン《Twenty-five Pages》(1953)の存在を、シュトックハウゼン自身は知らなかったと云う。
  

c0050810_5161274.jpg■クラヴィア曲第XVIII番
  シュトックハウゼンの《鍵盤曲 Klavierstücke》のシリーズは、まず第I番~第XI番(1952-1961)がピアノ独奏のために書かれた。約20年のブランクののち、連作オペラ《光 Licht》の抜粋として、特殊奏法やアクション等をともなったピアノ独奏のための第XII番「試験」(《木曜日》第1幕第3場)(1979/83)、第XIII番「ルシファーの夢」(《土曜日》第1場)(1981)、第XIV番「誕生日のフォルメル」(《月曜日》第2幕第2場)(1984)、そして電子的クラヴィア(elektronisches Klavier)ならびに電子音響のための第XV番「サンティ・フー [シンセ狂]」(《火曜日》第2幕終結部)(1991)、第XVI番(《金曜日》第2幕)(1995)、第XVII番「彗星」(《金曜日》第2幕)(1994/99)、電子的クラヴィア独奏のための第XVIII番「水曜日のフォーミュラ」(《水曜日》より)(2004)、第XIX番(《日曜日》終結部)(2001/2003)が独立曲として切り出された。
  第XV~第XVII番では熾烈な電子音響パートが付随していたが、この第XVIII番では、オペラの基盤となる3つの旋律(フォーミュラ)である「エファ」「ミヒャエル」「ルシファー」が、層を違(たが)えながら淡々と提示されてゆく。
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by ooi_piano | 2012-01-24 05:18 | POC2011 | Comments(0)
シュトックハウゼン素描―――野々村 禎彦


少年時代から修業時代まで

c0050810_42545.jpg シュトックハウゼンは両親とも代々農民で、父が小学校の臨時教員として辛うじて家計を支えており、文学や美術の教養に回す余裕はなかった。やがて母は精神を患ってナチスに処分され、左翼シンパとして秘密警察に監視されていた父も前線に志願して戦死し、孤独な青年時代を送った。音楽大学に進んだのは、家庭内合奏を通じて手品の伴奏で喰い繋げる程度にはピアノを弾けたからにすぎない。作曲家になろうとは夢にも思わず、父に倣って教員を目指していたが、ベルギーの作曲家カレル・フイヴェルツと知り合い、全面的セリー技法という最新の作曲技法に触れて運命は大きく変わった。師範学校では戦争孤児として苛め抜かれ、戦争末期には野戦病院に徴用されて人間と有機物の塊の間には明確な差などないことを五感に叩き込まれて育った彼には、「人間的」な音楽は信じられなかった。あらゆる音楽要素を均質化した絶対零度の響きこそがリアルだった。

c0050810_425292.jpg だが、全面的セリー技法第一作《クロイツシュピール》を作品1とするほど彼は純朴ではなかった。フイヴェルツの背中を追っているうちは自分の作品ではない、という作家意識が既に芽生えていた。次作《フォルメル》ではあえてセリーの旋律的な扱いを試みた。この曲は完成時点では主題的すぎると判断して封印されたが、先例に盲従せず自分で手を動かして考える姿勢が見て取れる。この管弦楽曲は演奏こそ封印したが自己アピールには活用し、ドナウエッシンゲン音楽祭から委嘱を得た。それが、《クロイツシュピール》の音世界を管弦楽に拡大した《シュピール》である。しかし彼は、この作品にもまだ作品番号を振らなかった(作品1から遡った、作品1/2、作品1/3…という便宜的な番号が後に振られるが)。

 彼が作品番号を振るに値すると自認する作品を書くには、パリに留学してブーレーズと出会う必要があった。ブーレーズは、40年代後半の全面的セリー技法以前のヨーロッパ戦後前衛において、12音技法を駆使して歴史に残る傑作を残した唯一の作曲家であり、セリー操作の勘所を熟知していた。全面的セリー技法を厳格に適用した音楽はあまりに静的で均質的すぎる、制限を上手く緩めてダイナミックな偏りを生じさせることが肝要、という先輩の助言は大きなヒントになった。むしろ、音楽性は全く違うふたりだから批評的距離が取れたのかもしれない。文化的教養とエクリチュールに裏打ちされたブーレーズと、ヨーロッパ的教養からは生まれ得ない素朴だが斬新な発想を、強い意志の力で構造化してしまうシュトックハウゼン。

初期の模索(クラヴィア曲を中心に)

c0050810_4254740.jpg 複数の音のグループ=「群」をセリーで管理する発想に、彼は最初にオリジナリティを見出した。作品1の《コントラ=プンクテ》もクラヴィア曲I-IVも、セリーの構成単位が「点」から「群」へと向かう様子が聴き所。だが、全面的セリー技法で厳密に作曲しても、人間が演奏する限り再現精度には限界がある。彼はパリ時代にもミュジック・コンクレートの習作を制作しているが、作品番号付きの電子音楽《習作I/II》で正弦波発振音のみを素材に、全面的セリー技法の厳密な適用を目指した。演奏者を介さない利点を生かし、オクターヴを12の約数以外で分割した「音階」を用いており、黛敏郎や諸井誠の初期電子音楽もこの路線を踏襲している。だが、当時のスタジオの精度はその目的には程遠いことを思い知り、クラヴィア曲V-Xで器楽曲に復帰した。

c0050810_4282452.gif ただし彼は、電子音楽制作を通じてさまざまな啓示を得た。その中でも特に重要なのは、音群の再生テンポを順次上げてゆくと、それが毎秒数十個=最低可聴周波数を超えたところで音群自体がひとつの音として聴こえ始める、すなわち音価と音高は連続的であり、同一の尺度を用いて管理すべきだという発想だった。クラシック音楽の伝統では音高は特に精密に扱われており、1オクターブを対数目盛で12等分する平均律が全面的セリー音楽の基礎になっているが、同様の尺度を音価にも適用すると、基本テンポと倍テンポの間を対数目盛で等分した「テンポのセリー」で音価を制御することになる。彼はこの組曲をテンポのセリーを器楽曲に適用するプロトタイプにしようとした。だが、そもそも五線譜は1音ごとにテンポが変わる音楽の記譜には向かない上、曲想に合わせたテンポの精妙なコントロールは、現代曲においても演奏家の「解釈」の根幹をなす。この組曲の作曲は難航した。

 むしろ、ブーレーズが提唱した「管理された偶然性」をシンプルな「可変形式」で実現したクラヴィア曲XIの方が先に完成した。また、音を詰め込まないアンサンブル作品では、奏者によって音群のテンポが伸び縮みしてもセリーで管理できる。彼はこのような音群を「領域」と呼び、《ツァイトマッセ》で「領域」のセリーを使い始めた。ブーレーズは40年代末からケージと親交を結んだが、シュトックハウゼンと出会った頃からケージへの関心は薄れ、「管理された偶然性」はケージとの訣別宣言とみなせる。逆にシュトックハウゼンは、管理された偶然性を契機にケージに近づき始めたようだ。図形を多用した《ツィクルス》の譜面や透明プラスティック板の可動部を持つ《ルフラン》の譜面には、同時期のケージ作品の直接的な影響が見て取れる。


初期代表作概観

c0050810_4285399.jpg シュトックハウゼンの初期代表作は、クラヴィア曲V-Xの作曲期間に生み出された。なかでも《少年の歌》は、専ら発振音を素材にしてきた狭義の電子音楽と、専ら具体音を素材にしてきたミュジック・コンクレートを止揚した出世作である。発振音と具体音(少年の歌声)の融合に成功したポイントは、声の意味の聴き取りやすさや電子的加工の度合までセリー化し、発振音と同列に扱えるように処理したことにある。またこの作品は5chテープのために制作され、音像の定位と移動方向もセリーで管理した「空間音楽」である。この作品と並行して作曲された管弦楽曲《グルッペン》は、さまざまなテンポのセリーの同時進行を正確に演奏し、聴取するために管弦楽を3群に分割して3人で指揮するように構想されたが、この配置ならば「空間音楽」の手法が効果を発揮すると彼は気付き、その方向で練り直して完成された。このように、ある作品で見出された手法が他作品にも波及し発展してゆく様子が、この時期のシュトックハウゼンの好調な創作活動の証である。

c0050810_4292622.gif 「可変形式」を発展させた「モメンテ形式」は、この時期の彼の発想の集大成である。「可変形式」は個々の断片の規模がほぼ等しく、入れ替え可能であることが前提だったが、「モメンテ形式」では各モメントは内容的なまとまりに過ぎない。実際、この形式を体現した作品《モメンテ》の各モメントの長さは十数秒から数十分まで幅がある。むしろこの形式は、抽象絵画の連作に喩えられる。各モメントは1枚のキャンバスに相当し、内容もサイズもさまざまだが、1枚ごとに内的統一性を持っている。連作の並べ方は展覧会ごとに、会場の規模や形状等に応じて変わる。連作は原理的には無限に作り続けることが可能で、それが向かう先は作者も含め誰にもわからない。このような作品観にも米国実験主義の影が見え隠れするが、その端緒となったのが、電子音楽《コンタクテ》である。素材はあえて発振音に限定し、クラヴィア曲V-Xの出発点になった音楽思考をまとめた論文『…いかに時は過ぎるか…』の論点を具体的な音にしたような魅力的な「瞬間」が続く。テープ作品ではモメントの並び替えはできないが、打楽器とピアノを追加した版が違和感なく作れたのは、モメント間の断絶ゆえだろう。

 このような作曲経験を経て、クラヴィア曲IX/Xは1961年にようやく完成した。結局IXは、一度聴いたら忘れない特徴的な音型(B.A.ツィンマーマン《ユビュ王の食卓の音楽》で盛大に引用されている)と弾きやすいテンポを持つ、「現代弾き」以外にも幅広く取り上げられる(ロマン派の即興的解釈で知られる一方、近現代レパートリーにも意欲的に取り組んでいたチェルカフスキーが、80歳を超えた来日公演で披露していたのが思い出深い)作品に仕上がった。対照的にXは、クラスターに含まれる音符数や音楽のカオス度といったパラメータまでセリーで管理し、テンポのセリーを厳格に指定する部分では譜面を一段増やし、テンポと加減速を同時に示す通常の音符に似せた記号で制御する一方、「領域」概念に基づいて柔軟なテンポを許容する部分も挟んでメリハリをつけている。音楽的にも技術的にも全面的セリー技法の頂点に位置する大作だが、それだけに「現代弾き」を自認するピアニストはこぞって挑戦してきた。


第1のピーク:プロセス作曲と世界音楽

c0050810_4301488.gif 「モメンテ形式」と「領域」概念の先には即興の世界が広がっているが、一見全面的セリー技法の対極にあるだけに、彼は慎重に足元を固めていった。まず《プルス・ミヌス》で、+/ー/= などの記号を用いて音楽の成り行きを奏者の主観的判断に委ねて制御する「プロセス作曲」を提唱した。ラジオの局間ノイズのような音量と持続程度しかパラメータ化できそうにない素材でも、人間の統合的判断力というフィルターを通せば多様な定性的パラメータの設定が可能になり、楽音と同様にセリーで扱える。彼は並行して器楽のエレクトロニクス操作の探求も進めた。《ミクストゥール》では4群の管弦楽を4人のリング変調器奏者(音楽の進行に応じて変調の基準になる正弦波の周波数と音量を刻々変化させる)が操作する。篠原眞はこの作品の浄書と初演の変調操作を担当した。《ミクロフォニーI》は、巨大なタムタムを打楽器奏者とマイクロフォン奏者2組が両側からほぼ交互に擦り、各々の音響をフィルタリングし増幅するエレクトロニクス奏者が各組に1人ずつ付く。タムタムを擦り、音をマイクで拾う操作の指定には、初期フェルドマン風に大雑把な音域やマイクの位置のみ指定した図形楽譜が用いられる。

 この続篇にあたる《ミクロフォニーII》では、4群の混声合唱を4人のリング変調器奏者が変調し、変調の基準となる信号は図形楽譜で書かれたハモンドオルガンの演奏が使われる。「時間窓」と呼ばれる部分でこの音楽は中断され、《少年の歌》等の旧作の音源がステージ後方のスピーカーから再生され、合唱はこれに合わせて囁く、というのがユニークだ。この手法は《行列》に発展的に継承された。この作品の素材はシュトックハウゼンの旧作のみ。4奏者が記憶に頼って演奏し、《プルス・ミヌス》の記号に従って他奏者との反応や素材の変更を制御する。どの曲のどの部分が(しかもうろ覚えで)弾かれるかわからない状況で、協調/中立/破壊等のシンプルで主観的な指示に従って反応するところに妙味があり、即興的要素が強まっている。このような作品では固定メンバーによる演奏が望ましく、《ミクロフォニーI》演奏メンバーを中心にケルン・グループと呼ばれたアンサンブルが結成された。60年代半ばには現代音楽界でも集団即興への関心が高まり、Nuova Consonanza, MEV, New Phonic Art 等のグループが結成された。シュトックハウゼンの即興志向もこの流れの中にある。

c0050810_4313140.gif 1966年にNHK電子音楽スタジオで制作された《テレムジーク》は、リング変調器とフィルターを用いて、日本の雅楽や寺社の儀式の録音をはじめとする世界の民族音楽と正弦波発振音を相互変調した作品。強烈な高周波発振音が降り注ぐ中に民族音楽の断片が浮かんでは消え、世界中の音楽には原型があり、民族や文化の壁を越えた相互浸透の中で理解できる、という彼の「世界音楽」理念を体感させてくれる。《ヒュムネン》では「世界音楽」を世界の国歌同士のリング変調で実現しようとした。国歌/国家の微妙さに無頓着過ぎるが、音響には全く隙がない。そこに日常の中のさまざまな言語素材を投げ込んだ深遠さとポップさが同居した音楽は、彼の意図とは別な意味で、音楽ジャンルの孤立した世界を結ぶ「世界音楽」なのかもしれない。ビートルズがかの《ペッパー軍曹…》のジャケットに彼の写真をコラージュしたのは、彼は当時既に「現代音楽」という記号を代表していたという以上の意味はないが、マイルス・デイヴィスがこの作品を聴いて「プロセス作曲」を理解し、《On the Corner》を作ったという逸話は、この作品ならば信じたくなる。またフランク・ザッパ最晩年の大作《Civilization Phaze III》は、アンサンブル・モデルンとの共同作業やシンクラヴィア打ち込みによるヨーロッパ戦後前衛風の張りつめた音楽と、スタッフらのダラダラしたお喋りが交互に現れる謎めいた構成を持つアルバムだが、この作品へのオマージュと捉えれば腑に落ちる。


直観音楽、そして再び模索の時期

c0050810_4332171.jpg ケルン・グループは、《ヒュムネン》の素材を即興的に変形して音楽的注釈を付ける版でも見事な録音を残しているが、4奏者が短波ラジオを操作し、受信した素材を《プルス・ミヌス》の記号による指示に従って変形・発展させてゆく《短波》の録音も素晴らしい。素材は事前に予測できず、音楽番組から局間ノイズまで幅があり、《行列》よりも即興の難度は格段に高い。同様のコンセプトで1/2/3奏者のための《螺旋》《極》《エキスポ》も作曲され、大阪万博ドイツ館では主にこのシリーズが演奏された。だが、その次の段階にあたる、テキストによる観念的な指示のみで演奏する「直観音楽」は十分な成果を挙げられなかった。このシリーズ最初の作品《7つの日より》の15曲中12曲は、ケルン・グループ+New Phonic Artという現代音楽系即興グループ最強メンバーで1969年に録音され、うち11曲がCD化されているが、AMMやデレク・ベイリーら、既存イディオムの痕跡を極力排除した「自由即興」を目指したジャズ出身の音楽家たちの同時期の録音と比べると微温的で因習的と言わざるを得ない。ただし直観音楽という様式の問題ではないと、ボストンの即興グループThe BSCによる崇高とすら言える数曲の実演に接した筆者は断言したい。後に書かれた《来るべき時代のために》からも数曲が録音されたが、音楽的にはさらに退行してしまった。1971年11月のロンドンにおける講演の質疑応答では、ケルン・グループの数人のメンバーは西洋古典音楽の演奏伝統の限界に囚われており、何年も前から取り替えようと思ってきたと彼は語っており、グループの活動は程なく終わった。

 「プロセス作曲」期のシュトックハウゼンで見落とされがちなのは、この方法論に基づく作品以外では、《別れ》《シュティムンク》や《モメンテ》のi(k)モメント(1969年加筆)等、既に調性回帰が始まっていたことである。むじろ彼は、全面的セリー技法による厳格な縛りがなければ、たちまち調性的旋律に戻ってしまう作曲家なのだろう。「プロセス作曲」作品の録音が全面的セリー技法期の諸作品と変わらない緊張感を保っていたのは、ケルン・グループの解釈の賜物である。ただし、《シュティムンク》を調性回帰の側面のみから捉えるのは一面的だ。この合唱曲はある倍音列の構成音を基音にした倍音唱法のみで構成されており、ホラチウ・ラドゥレスクらの音楽に大きな影響を与えた。すなわち彼は、シェルシと並ぶスペクトル楽派のもうひとつの起源なのだ。なお、この作品で用いられた自作詩は、発情したマッチョな男子高校生の便所の落書きのような内容だが、このような悪趣味な要素を含むことは彼の60年代半ば以降の調性的な作品ではお約束になっており、誤解を生む原因にもなっている。

c0050810_4342686.gif 大阪万博で「プロセス作曲」作品を演奏しながら、彼は2台ピアノのための《マントラ》に着手した。この作品では冒頭数小節の旋律が基本単位になっており、全曲中のイヴェントの配分もすべてこの旋律に由来する。セリーを旋律的に扱う実験を行った初期作品《フォルメル》も同じ構造を持っていたことに気付いた彼は、この旋律を「フォルメル」と呼んだ。全面的セリー技法では極力調性感を持たないセリーを選んでいたのは単なる習慣であり、一見鼻歌のような旋律でも、同等に扱えば同等の複雑な構造を生み出せる。ただし、70年代半ばまでにこの技法で書かれたのは《祈り》《ハルレキン》程度で、次の一歩を迷っていた彼のさまざまな試みのひとつにすぎない。ケルン・グループ活動停止後も直観音楽は諦めず、《イレム》《秋の音楽》を作曲した。《シュティムンク》同様に倍音列上のみで構成した野外音楽《星辰の響き》や夢の情景をそのまま音楽化した《トランス》など、調性回帰として捉えられる作品も多い。また1971年から77年にかけて彼はケルン音楽院教授を務めたが、この間の弟子として名高いのはヴォルフガング・リームやクロード・ヴィヴィエである。すなわち、この時期の彼はむしろ新調性主義の生みの親と看做せる。


《シリウス》と《暦年》をめぐって

c0050810_4354042.jpg シアターピース《おなかの中の音楽》で使うオルゴール用に作曲した《黄道十二宮》の12旋律を全部用い、うち4つに四季を代表させて複雑に変形し、大型シンセサイザーによる電子音楽パートと融合させた《シリウス》から、フォルメル技法が作曲の中心になる。ケルン・グループ活動停止以来特定のアンサンブルと親密な関係を結ぶことを避けていた彼は、この作品の演奏実践を通じて「2人の内妻と子供たち、及び家族同然に暮らす献身的な音楽家たち」の「家庭内合奏」メンバーのみを主要ソリストとする方向性を固めた。この作品は「1年12ヶ月の四季の移ろい」がテーマだったので、次作《光》は「1週間の各曜日」をテーマに、上演に1週間を要する超オペラとなったが、その契機となったのは国立劇場による雅楽《暦年》の委嘱だった(後に《火曜日》第1幕に組み込まれた)。

c0050810_436640.jpg 《シリウス》の来日公演及び《暦年》の世界初演は、少なくとも批評は批判一色だった。70年代前半の迷走の底でようやく進むべき道を見出した2作を、全面的セリー技法期やプロセス作曲期の傑作群と比較したら見劣りするのはやむを得ない。音楽界での評価は創作状況とはタイムラグがあり、全作品がドイチェ・グラモフォン・レーベルで録音される特権的地位を得たのは70年代に入ってからだったことも批判の要因のひとつだろう。だが、それ以外の日本での批判は概ねピント外れだった。「終わった」という判断が早計だったのは言うまでもない。調性化を問題にするのは彼の創作歴への無知であり、ましてや新調性主義は肯定するが彼は否定するのは噴飯もの。「神秘主義」を問題にするならコーネリアス・カーデューのように、《ルフラン》にまで遡って批判するのでなければ筋が通らない。《暦年》を「伝統に反する」と批判するのは、伝統の範囲内でのマイナーチェンジに留まってきた新作雅楽に不満を抱いた木戸敏郎氏が、楽器の根源に立ち返った新作を求めて委嘱した経緯を理解していない。しかも具体的批判は、猿の着ぐるみがオートバイで現れ、少女が「優勝者には百万円!」と誘惑するという類の悪趣味な演出に集中し、緊張感の高いソロ等における音楽的密度は殆ど注目されなかった。


第2のピークへ:《光 LICHT》と《音 KLANG》

c0050810_4384566.gif 《光》に関して詳述する余裕はないが、演奏会での上演では鼻についた悪趣味な要素は、オペラの制度の中では気にならない。単独上演可能な曲のパッチワークを「オペラ」と呼ぶ構成も議論を呼んだが、モメンテ形式の発展とみなせば創作歴中では自然だ。ブライアン・ファーニホウもオペラ《影の時》で同様の構成を採用している。そもそもファーニホウらの「新しい複雑性」のトレードマークである不合理時価の起源は、クラヴィア曲I-IV等のシュトックハウゼン初期作品だと示唆しており、関わりは深い。「新しい複雑性」の次世代を代表するリチャード・バレットも、エレクトロニクス即興を作曲以上に重視しているだけにシュトックハウゼンを深くリスペクトしており、《グルッペン》等の管弦楽による空間音楽と、《マントラ》等の《光》シリーズ以前のフォルメル技法による作品に強い影響を受けたという。《光》に戻ると、デジタルシンセを駆使したポップな宇宙戦争の《火曜日》を経て、重厚な電子音楽に覆われ、オペラの形態は殆ど留めていない白昼夢《金曜日》の頃から音楽的には一層充実してくる(木→土→月→火→金→水→日の順に作曲された)。《火曜日》と《金曜日》の境の1991年は、彼がドイチェ・グラモフォン・レーベル録音の権利を買い取り、ウニヴェルザール社の未出版譜の権利も順次取得して自主出版を始めた年でもある。当初はドン・キホーテ的にも見えた行為だが、大資本の経営悪化と技術革新による小規模出版の容易化を思うと、先見の明のある決断だった。

c0050810_4392167.jpg 《光》に続く未完の遺作《音》シリーズも詳述する余裕はないが、「1日の24時間」がテーマの小編成連作。21曲目まで完成したものの、同一素材で編成のみ変更、電子音楽の一部を取り出してソロパートを加筆といった、かつての彼ならば派生作品として処理したと思われるものも1曲に数えての21曲であり、死期を悟って完成を急いでいたことを窺わせる。ともあれ、電子音楽《宇宙の脈動》は傑作だ。シリーズ共通の24音セリーから導かれ、可聴域をほぼ覆う24層ループ(オルガンのストップをシンセサイザーでシミュレートした比較的穏当な24音色)を順次重ねる一見単純な構造だが、《ヒュムネン》に倣って「追加された要素で前の要素を変調する」操作を加えると、2ch再生でも時空が歪む異様な音世界を体験できる(本来は8ch再生)。原理的にはデジタル操作不要の「究極の初期電子音楽」で創作歴を締め括る鮮やかな引き際は、「音響派」以降の初期電子音楽(そして、その首領の彼)への関心の高まりにふさわしい。なおクラヴィア曲との関連では、「4-6-1-3-5-2 のセリーに基づく全21曲」という当初の構想は、クラヴィア曲が《光》の派生作品になった時点で放棄されたかに見えたが、《光》のピアノ曲が計3曲、《光》のシンセサイザー曲が計5曲、《音》の鍵盤曲はオルガンのための《昇天》とピアノのための《自然の持続時間》で計2曲、と数えると密かに達成されていたあたりにも、彼の執念を感じる。
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by ooi_piano | 2012-01-24 04:20 | POC2011 | Comments(0)
(承前)

五、再構造化された三人称の雅楽


c0050810_18155889.jpg シュトックハウゼンに代表されるダルムシュタット楽派が築いたセリエールともトータルセリエリズムとも呼ばれている理論は、シェーンベルクに代表される新ウイーン楽派のセリーの理論を音高だけでなく、音のあらゆる情報量に敷衍したもので、セリーを音の情報量すべてにあてはめてトータルで機能させる仕組みである。二十世紀の音楽運動の集大成であり、その後のスペクトリズムの基盤ともなった理論である。

 シュトックハウゼンは雅楽の古典を脱構造して得た雅楽の音の伝統を、トータルセリエリズムで再構造化して ヤーレスラウフ アウス リヒト(歴年――ひかりより)という作品を作り出した。国立劇場の委嘱は開場十周年を記念する作品であって、僅か十年でも歴史である。歴史は時間に抽象され、古典を脱構造して得られた音の情報量は時価(タイムヴァリュー)に特化された。時価とは音の持続である。
 この作品は1977という初演年の四桁の数字がモティーフである。まず、雅楽の楽器を四桁の時価の順にサンプリングする。


笙    音が延々と持続するから               千年の位
龍笛   肺活量にさほど負担はなく、比較的音の持続が続くから 百年の位
篳篥   肺活量に負担が大きく、ブレスによって持続が短いから 十年の位
琵琶・筝 撥絃楽器で音は瞬間的であるから           一年の位

1977の数字が大きく描かれたステージの上にそれぞれの位を表す舞人を割り当て、その背後に四桁の位取りを表す前記の楽器をレイアウトし、各楽器の時価の差を1・9・7・7の数字をパラメータ(媒介変数)にして補正しながら全体の楽器の演奏を統合する。舞人はそれぞれを担当する楽器の演奏と連動する。即ち、

一年の位の舞人が7の数字の上を七回移動する間に、十年の位の舞人は7の数字の上を一回移動する。
十年の位の舞人が7の数字の上を七回移動する間に、百年の位の舞人は9の数字の上を一回移動する。
百年の位の舞人が9の数字の上を九回移動する間に、千年の位の舞人は1の数字の上を一回移動する。
千年の位の舞人が1の数字の上を一回移動した時点で、この作品の演奏は終了する。

途中三度、歴史の流れを中断してソロまたはデュオが各楽器の特色を存分に活かして挿入される。

最初に   百年の舞人のための龍笛のソロ
二度目は  一年の舞人のための琵琶と筝のデュオ
三度目が  十年の舞人のための篳篥のソロ

この三つのソロまたはデュオを抜粋して組曲仕立てにして京都芸術劇場春秋座で再演したのであった。

 雅楽の楽器の各々の異なる時価を1977という初演年の数字をパラメータにして一つに統合するメカニズムはようやく二十一世紀に入って実現したEU圏内の各国の経済事情の差をパラメータで調節して、単一通貨ユーロで統合したメカニズムにそっくりである。然も二十五年も早く時代を先取りしたものであった。何よりも調性で統一するのではなく多様な情報量をパラメータで統合したものであったことに二十一世紀を予感させるものがあった。更に、ソロまたはデュオは通貨統合のパラメータによる規制から開放されたEUカルチャルキャピタルシティの創設に相当するもの、といえよう。然し、二十世紀第四四半期の日本では理解されることはなかった。(別稿 ベルク年報2009参照


六、方法論としての「リヒト」

 公演が終ってシュトックハウゼンが帰国する前日、私達がお別れの挨拶を交わした際、私は色紙を用意しておいて彼にサインをお願いした。この大仕事を協力して完遂した思い出として、是非とも残しておきたい記念品である。私は鳩居堂の一番上等な色紙を用意した。色紙の表は白い画仙紙、裏はやや茶色がかった紙に僅かに金箔の屑を散らして、縁を表裏まとめて狭く金箔で縁取っている。

 シュトックハウゼンは渡された色紙を手にとって丁寧に吟味していた。白い画仙紙の面と金箔を散らした面とを何度も見比べていたが、結局箔を散らした面を選んだ。色紙の常識からすれば裏である。色紙は独自の黄金分割による穏やかな矩形であり、その縦位置がいわゆる色紙型である。然し、彼はこれを横倒しにして、横位置で使うことにした。彼は鞄からサインペンを取り出した。これが黒ではなく青だったことが興味深い。親愛の意を視覚的に表したハート型の図形を交え、1977とHIKARIは大文字の楷書体、あとは筆記体である。

 いま、私はこの色紙を軸装の色紙掛けに掛けて和室の床に飾っている。軸装の色紙賭けは色紙の慣例どおり縦位置にしか掛けられないから、横位置にして横書きにした色紙を縦位置にすると、洋書の背表紙と同じで文字は横倒しになり、筆記体の左から右へ流れるように進むエネルギーは下から上へ立ち上がる勢いに変わった。これまで見たこともないレタリングである。

 以上のプロセスはヤーレスラウフの作曲のプロセスに共通していて大変興味深い。そのメカニズムを構造主義に準拠して分析してみよう。一般的な構造主義では脱構築と言い習わしているが、私は再構造化と対称をなす概念としてこれに平仄を合わせるためにあえて脱構造という語を使っている。また、「ポイエティック」と名付けられた方法論を援用して伝統と創造のメカニズムを解析することも有効だと思う。ポイエティックはギリシャ語のポイエシス=創造にちなんだ用語で創造学とでも言うべき方法論。プレポイエティック、ポイエティック、ポストポイエティックの三段階に別れている。フランスのC.N.R.S(国立科学研究所)を中心に研究が進められてきた伝統と創造に関するメカニズムである。

 第一の段階 色紙の場合、金箔を撒いた面を表としたことは古典的な色紙の概念の脱構造であった。料紙の情報量という点からいえば、確かにこの方が豊富である。ヤーレスラウフの場合、私が雅楽の音をサンプリングして送った資料は、雅楽の古典作品は脱構造されていたが、雅楽の音から出られないでいた。彼はこれを稽古場で実際の音を聞きながら修正して、雅楽の楽器の音へ脱構造した。プレポイエティックがこれである。

 第二の段階 脱構造して得た情報 ―― これが伝統である。―― を目的に合わせて再構造化することである。これこそ真の創造である。色紙の場合、彼は矩形の形を横倒しにして、横位置に使った。ドイツ語が横書きだからこうしたのである。また青いサインペンを使ったのは万年筆のインキが青いからだ。日本人なら黒を使うだろう。それは毛筆の墨が黒いからだ。状況に合わせて再構造化すると、こうなる。ヤーレスラウフの場合、開場十周年記念というテーマにあわせ、脱構造した音の情報量を時価に特化して、その差のばらつきを1977という初演年の数字をパラメータにして調節しながら全体を統合した。この辺がトータルセリエリズムを駆使するシュトックハウゼンのすごさである。古典を脱構造して得られた伝統を現代の状況に応じて再構造化したもの、トランスフォーメイションである。この部分がポイエティックだ。

 第三の段階 ポストポイエティックに相当する。第二段階で再構造化された作品をまたしても脱構造して次なる再構造化へ繋げる作業である。色紙の場合、横位置で左から右へ書き進められたレタリングを、色紙本来の在り方に準拠して縦位置に飾ること、これこそ第二次の創造活動である。ヤーレスラウフの場合は洋楽器ヴァージョンがこれに当たる。雅楽の音楽から必然的に出る音の情報量を洋楽器でトランスクリプトした音は洋楽器にとっては不条理な構造の音である。ここに意外な地平が拓けてくる。かつてドビュッシーが笙の合竹をトランスクリプトした近代和声もこれであった。そして、リヒト連作の棹尾を飾る「リヒトビルダー」では四桁の舞人が四人のソリストにトランスフォーメイションされて登場。また、遺作となった「ナチュアリッヒ ダウエルン(自然の持続時間)」は時価というテーマをピアノに応用したもので、いずれもヤーレスラウフのポストポイエティイクである。


七、古人の跡を求めず、古人の求めたる処を求めよ

 或る古典作品を規範として、これに準拠し、お手本として創作活動をする場合、二つの態度がある。一つは規範とする作品から直接的に学びながら製作する方法。吉川の想い描いている伝統の継承と称するものがこれである。然し、これではトランスクリプション(模写)でしかない。トランスクリプトされたものがお手本と同じ様子に仕上がっていればコピー、型をなぞれば形骸化するのは当然だ。お手本とは別の形のものに仕上がっていれば古典のうら成りというべきだ。もう一つは規範とする作品をいったん言葉に変換して、ということはいったん概念化して、その概念に準拠して製作する方法。概念化することで伝承は脱構造されて伝統が抽象される。これによる制作はトランスフォーメイション(伝統)となる。私が想定する伝統に準拠した創造とはこのようなことである。

 具体例を挙げて説明しよう。ニューヨーク・メトロポリタン美術館のサッカラーウイングは古代エジプト神殿を現代建築でトランスフォーメイションした傑作である。アスワンハイダムで水没する文化財を救済する目的の莫大な寄付金と引き換えに、巧みな交渉の末にアメリカが譲り受けた古代エジプトの小さい神殿をニューヨークに移築、その収納施設としてメトロポリタン美術館に増築したのがサッカラーウイングである。美術館の本館は古風な美術館であるが、サッカラーウイングは外壁が透明なガラス張りで、内部に移築された古代エジプトの神殿と全面透明ガラスの外壁を透して眺められる外のニューヨークのビル街とを同じ視野の内に把えることができる。

 注目すべきはガラスの壁面が垂直ではなく、下の方がやや外に押し出されて斜めに傾斜していることだ。この傾斜の角度は神殿の梯形をした外壁の傾斜角度を踏襲しており、この同じ傾斜角度を共有することによって古代エジプトの神殿と現代建築との間に共通項が成立しガラスの壁が無化され、神殿とビル群が並び立つことになる。この場合傾斜に特化したことが概念化に相当する。ニューヨークのビル群をパラディグム(連関要因)として引用できることで、この新王朝末期のさほどでもない小建築は鮮やかに異化される。そのシニフィケイション(意味作用)は強烈である。恐らく、サッカラーに在った頃、この神殿はこれほど輝いてはいなかっただろう。

 平泉中尊寺の金色堂は一九六二年から解体修理が始まり六八年に完成、この時鎌倉時代に架けられた木造の覆屋を別の場所へ移築して元の場所に鉄筋コンクリートの新しい覆屋が建てられ、現在金色堂はこの中に再建されている。文字通り「屋上屋を架する」とはこのことか、とでも言いたくなる状態で、オリジナルの金色堂の形をそっくりそのまま模倣したコンクリートの建物で、トランスクリプションの標本のような建築である。中に入るとそのお手本となった本物の金色堂が在るが、同じ形の大と小で、本物の金色堂が実際以上に小さく感じられる以外は何も語りかけてこない。相互に何の対話もなく、また我々に何も語りかけて来ない。模倣とはこんなものだ。世界遺産登録に躓いたのもこんなことが影響しているのではないか。
 「古人の跡を求めず、古人の求めたる処を求めよ」(古人の結果を真似るのではなく、古人の方法論に学べ)と言ったのはたしか道元だった、と思う。

★クリックすると拡大表示されます↓★

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by ooi_piano | 2012-01-18 06:19 | POC2011 | Comments(0)
  木戸敏郎氏によるエッセイ「三人称の雅楽《リヒト》」(京都造形芸術大学紀要「GENESIS」第13号、2009年)を以下に転載致します。
  転載を御快諾頂いた木戸敏郎先生、ならびにpdfファイルをご提供下さった京都造形芸術大学様に厚く御礼申し上げます。

 
 ※【参考資料】 柴田南雄(朝日新聞)、広瀬量平(讀賣新聞)、芸術新潮(黛敏郎)その他の有象無象による《暦年》初演(1977)酷評の一例:
 ――(・・・)これは音楽の不毛、これこそ耳目をおおうばかりの退廃ではないか。少しも楽器の機能を生かしていない無機的な音の貧弱なひびき、幼稚な構想の涸渇した創造力を糊塗するための下品な手段。そしてこのような仕事の背後にひそむ黒々とした思考。(・・・)開演中、憤然と席を立ってかえる女性、終わったとき「くだらないぞ」「引っ込め」と叫ぶ人達。多くの人が怒りの中に居たが、私はその人達に共感する、少なくともこのような独善と無能の延長に未来はない。(・・・) =広瀬量平(讀賣新聞評)――


三人称の雅楽「リヒト」
―― 伝承(トランスクリプション)を伝統(トランスフォーメイション)に変えるには ――

木戸敏郎


一、再演までに三十年を要したオリジナルヴァージョンの「リヒト」

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 昨年(二〇〇八)十一月七日、京都造形芸術大学の付属機構である舞台芸術研究センターの主催で、同大学の付属機関である京都芸術劇場春秋座に於いて、私が企画・構成して公演したコンサートジェネシスIIIで一昨年十二月急逝したシュトックハウゼンを追悼して

  カールハインツ・シュトックハウゼン作曲
  雅楽の楽器のための
  「三つの断章」
  ―― ヤーレスラウフ アウス リヒト 1977 より

を演奏した。
 この形による演奏は初演であったが、実体は同じ作曲家の作品である

  雅楽の楽器と四人の舞人のための
  「ヤーレスラウフ(歴年) アウス リヒト(ひかりより)」1977

のソロとデュオ部分三箇所の抜粋を打物で伴奏する組曲に仕立たもので、一九七七年に初演された作品の抜粋による再演であった。原曲となった作品に「雅楽の楽器と四人の舞人のための」とあるとおり、この作品は雅楽の楽器のために作曲された作品である。有職文化としては尊敬されながら音楽的には形骸化していた雅楽を活性化すべく、国立劇場開場十周年を記念してシュトックハウゼンに作曲を委嘱した私の国立劇場プロデューサー時代の仕事で、あくまでも雅楽の楽器を前提とした作品である。

 ところが、シュトックハウゼンは作曲の時点でヨーロッパで演奏することも想定し、雅楽の楽器の音の情報量を洋楽器でトランスクリプトすることを計画していて、楽譜は全く変更せずそのままで、楽器をすべて洋楽器で代替して演奏することも可能なことになっていた。私は雅楽の楽器による演奏をオリジナルヴァージョンと呼び、洋楽器でトランスクリプトされた演奏を洋楽器ヴァージョンと呼んでいるが、ヴァージョン(版)とは言っても楽譜は全く同じである。この一卵性双生児はその後日本とヨーロッパというそれぞれの土壌で数奇な運命を辿ることになる。

 洋楽器ヴァージョンはオリジナルヴァージョンが東京で初演された年の翌年(一九七八)にケルンでまずコンサート形式で再演された。私はその演奏を録音で聞いてオリジナルヴァージョンそっくりの音であるのに驚いた。トランスクリプションの正確さを示しているものといえよう。これの好評を受けてその翌年の一九七九年にパリでシアターピース形式の完全な形で再演され大成功を収めている。この公演でコスチュームを担当したのがケンゾー・タカタであった。パリの成功はヨーロッパ各都市に喧伝されそれぞれの劇場に合せて美術や演出を変更しながら再演を続けると共に、新しく姉妹編も続々と作曲され、やがて全曲の上演に一週間を要する一大連作に成長し、二〇〇三年に「リヒトビルダー」で完結する。

 その嚆矢となったのが、一九七七年に東京で行われたオリジナルヴァージョンの初演であった。ところが肝心の日本に於いては京都造形芸術大学舞台芸術研究センターの抜粋再演まで三十年間、遂に再演の機会はなかった。オリジナルヴァージョンの初演そのものはヴィデオに記録されている通り、作品の質といい演奏の出来栄えといい聴衆の反応も含めて、それらすべてに大きな成功を収めたが、事後に日本の楽壇からの激しい拒絶と伝統主義者からのきびしい反発を受けることになる。この辺の事情は同時代の日本人でも特殊な世界と関わりのない人には理解しがたいものである。本稿は楽壇については別稿にゆずり、伝統を守ると称する人びととの関わり合いについて論考する。


二、二十世紀第四四半期の日本社会の良識

c0050810_1433646.jpg 現在独立行政法人の国立劇場は一九七七年当時は特殊法人であった。国が出資した資産の運営を法人が行うシステムで公共性が求められ、さまざまな形でチェックする機関の一つに著名な役者や関係団体の役員、学識者などによる評議員会が年に二回開かれていた。オリジナルヴァージョン初演後初の評議員会では当然ながらこの作品の初演が議題にのぼった。ところが評議員の殆んどは招待されても劇場に足を運ばないからこの作品の実態について知らない。然し、評議員の中でただ一人、すべての公演に足を運んで文字通りチェックしている人が居た。東洋音楽学会会長の吉川英史氏である。特に私が企画・制作する公演はマークしてすべてを一つ漏らさず聞いていた。だから当然、彼はこの初演についてひと言もふた言もあるはずだ。案の定彼はいつもの演説口調で
  「この企画は雅楽の伝統を破壊する行為である。国立劇場は日本の伝統を保存するための機関であるはずであり、このような企画は断じて許しておくわけにはゆかない。今後、このような公演は一切行うべきではない。」
と主張した。この種の論調は彼の持論である。まるで錦の御旗のように、すぐに伝統という言葉を持ち出す。然し彼の言う伝統の概念は甚だ曖昧で伝承と伝統のけじめが付いていない。彼が言う伝統の実態の多くは伝承であることが多い。東洋音楽学会もおおむねこれに同調しており、この概念の混乱が伝統音楽の形骸化の原因であるのだ。だから私は同学会に加入していなかった。会員ではないから制約を受けないで自由に仕事をすることができた。

 然し彼が国立劇場評議員という立場で発言するときは事情が変ってくる。評議員会はその都度座長を選んで、座長の取り纏めによって進行する。このときの座長は永年朝日新聞の天声人語を担当してきた荒垣秀雄氏であったが、彼も初演を聞いていなかった。他の委員も同様であった。そこで新聞などの批評記事を手掛りに評議員会の意見をまとめることになった。朝日新聞(柴田南雄)、読売新聞(広瀬量平)などすべて日本の楽壇の利害を代表した評であるが、大新聞の記事としてオーソライズされると社会通念として一人歩きを始める。荒垣氏は吉川英史の主張を採り上げ、世間の良識として、この作品は再演しないことを国立劇場に約束して欲しいと要望することを提案し、他の委員も異議は無く評議員会の要望事項となって提出された。世間の良識とはこんなものである。評議員会は諮問機関であって決議機関ではないから決定権はないが、評議員会の総意としてオーソライズされるとその要望は尊重しなければいけない。国立劇場は約束させられた形になってしまった。

 私はしばらくヤーレスラウフから離れざるを得なかった。然し雅楽の伝統と創造をテーマにした音楽運動は正倉院の楽器の復元と演奏や舞楽法会の構成・演出などに形を変えながら継続した。その中で私が最も留意したことは伝承からいかにして伝統を抽象するか、ということであり、そのことをプログラムノートで力説した。吉川はこれも見逃さなかった。以後の評議会でも私の名前を名指しであげ、
  「木戸さんは伝承と伝統とは違うものだと主張していますが、それは屁理屈です。伝承と伝統とは同じものです。」
と明言している。彼の伝統という語に対する概念がややはっきりした。漠然と混乱しているのではなく同じものと認識している、ということがはっきりした。

 ソシュールによれば、言葉は概念を表すもので言葉が違えば概念も変わる。『羊を英語ではシープ、フランス語ではムートンというが、シープとムートンは同じ概念ではない。それは、シープにはマトンという羊肉を意味する語が隣接していて、シープは生きた羊しか意味しないが、ムートンにはそれがないからである。言葉の概念は決定的に存在するものではなく、隣接する第二項の存在によって欠性的に決まるものである。つまり、シープはマトンではなく、マトンはシープではない。』この言説に従えば『伝承は伝統ではなく、伝統は伝承ではない。』ということになる。

 吉川英史にはかつてこれと同じような言動があった。『芸大邦楽科事件』と呼ばれている芸大音楽学部で学長の小宮豊隆と教授の吉川英史や平井澄子との対立である。結局双方共に辞職することになったが世間では吉川側の主張しか流布していない。明治以来の通弊であるが東京音楽学校は洋学偏重の教育機関であった。戦後東京美術学校と合併して東京藝術大学となりその音楽学部として出発する際、邦楽も含まれることになったが、その過程で学長の小宮豊隆が反対する立場をとったという。上原六四郎をはじめとする邦楽は野卑だという見解は訂正されなければいけない、と抗議して吉川は辞表を提出、平井もこれに同調した、と一般には言われている。

 然し、私は小宮豊隆本人から直接に別のことを聞いている。国立劇場設立準備協議会で仕事をしていた時期に駆け出しだった私は同協議会の会長小宮豊隆の送迎の役目で車に同乗して荻窪と虎ノ門の間を往復することが何度もあった。遠距離で当時の東京は道路事情が悪く、長時間いろいろな話を伺うことができたが、その中に『芸大邦楽科事件』も含まれていた。

  「キッカワ ナニガシという男は私が芸大に邦楽科を設けることに反対した、といっているが事実とは違う」
といった。『洋楽の教育では音楽理論は分析的に研究され、実技も聴音やソルフェージュ、教則本もいろいろあってカリキュラムが確立している。ところが邦楽の教育は師匠が示してくれるお手本を弟子が真似ることを原則としていて、まだカリキュラムが確立していない。(伝承が伝統に止揚されていない。)このような状態で洋楽と邦楽を同列に扱えば混乱を来たすから、まず邦楽の教授法を確立することから始めるべきだ。と主張したのをキッカワ ナニガシが邦楽は芸大で扱うに値しないといったと言い換えてしまった。』と語った。


三、シュトックハウゼンという触媒

 シュトックハウゼンがヤーレスラウフを作曲したプロセスに添って、彼の作曲の手法の跡をたどる。そのプロセスの中で伝承と伝統の違いが自ずと明らかになってくる。
 彼は作曲のための資料として、雅楽のすべての楽器の音を低い音から高い音へ、テープによる録音と五線譜に採譜した楽譜とを要求した。私はその通りのものを作成して彼に送った。彼はその資料に則って冒頭部分のスコア数ページを作曲、それを携えて公演の約一ヶ月前に来日して実際の演奏に携わる宮内庁楽部の楽師に試演してもらい、その音の効果を確認したうえで残りの部分を京都で作曲する手筈だった。

 国立劇場大稽古場で宮内庁楽部と初顔合せの練習を始める際、シュトックハウゼンは鞄から冒頭部分のスコアを取り出して
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料は大変役に立った。」
といって、上機嫌だった。ところが練習が終った後で、彼は散らばったスコアを揃えながらやや不機嫌な様子で
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料は、充分なものではなかった。」
とつい先刻とは違うことを言った。
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料には無い音も今日聞いた楽器から出ているではないか。これまで作曲した部分は資料に則って作曲してきたが、これから作曲する部分は今日聞いて修正した音に則って作曲する。その方がずっと面白いものになるだろう。」
という。私は最初は何のことか解らなかったが、やがて彼の言っていることが理解できた。しまった、盲点を突かれた、と恥じ入る思いだった。

 私が整えて送った雅楽の音に関する資料は宮内庁楽部の楽師に協力していただいて作成したもので、各楽器毎に、音域や音列を録音と五線譜で記録したものであった。これで雅楽の六種類の調性に使われているすべての音が網羅されているはずである。盲点だったのはこの点である。すべての音を網羅していると思ったすべての音とは、現行雅楽のすべての音である。然し、雅楽の楽器からはこれ以外の音でも出す気になれば出すことが出来る。その音を認めるか否かが問題だ。雅楽の演奏家は実際の演奏に入る準備段階で楽器の状態を整えるためにチューニングを行う。彼はこの段階で資料には含まれていない音も楽器から出ていることを聞き漏らさなかったのだ。

 琵琶は四絃で柱(フレット)が四つ、従って4×4=16となり、これに開放絃を加えると20の音が出る。然し現行雅楽ではこの半分にも満たない音しか使っていない。私が整えて送った資料は後者の方だったが彼が欲しかったのは前者の方だったのだ。言葉を換えて言えば、私は伝承された古典の音をサンプリングして送ったが、彼が欲しかったのは音楽の音ではなく楽器の音だったのだ。正倉院の琵琶はハードとしては現行雅楽の琵琶と殆んど変りがないが、捍撥に残っている使用痕は現行雅楽の琵琶の使用痕とは明らかに異質でソフトとすればアルペジオ奏法(分散和音)ではなかったことが判り、使用した音も現行雅楽とは違うものであったことが伺われる。琵琶の音を現行雅楽の音に限定すれば伝承であり、正倉院の琵琶(天平時代の音楽)も視野に入れて楽器の音すべてに拡大して把握すれば伝統となる。構造主義的に言えば伝承された雅楽の古典を脱構造して古典の中に埋没している楽器の音を発掘したものが伝統である。私が作成して彼に送った資料は雅楽の古典作品を脱構造してはいたが、雅楽の六調子をそのまま踏襲しており、伝承を曳きずった不徹底なものであった。恥じ入る思いだったのはこの点である。
 雅楽という音楽の音と雅楽の楽器の音との違いを、私は気に止めていなかった、このことに気付かされたことは、この仕事を行ったことで得た私の最大の収穫だった。


四、伝承された古典の脱構造

 国立劇場大稽古場で彼が持ってきた楽譜が試演された際、彼は私にいくつか意外なことを言った。
  「琵琶の音が聞えないのはどうしてか。」
おかしなことを言う人だ。実際には琵琶の音はちゃんと聞えていた。私は
  「聞えているではないか。私には聞えている。」
というと彼は
  「絃が振動する音は聞えるが、楽器が響鳴する音が聞えない。」
といった。なるほどこの人はこんな風に楽器の音を聞いているのか、とちょっと驚いた。

 雅楽の楽器の中でも琵琶は異常である。まず弾く際の作法がひどくめんどくさい。まるで茶道のお手前のように美しい動きであるが、演奏は単純なアルペジオである。しかもその音たるや前記のとおり響鳴胴が機能していない。響鳴しないはずだ。胴の内刳が浅く、空洞の容積が小さい。槽は殆んど厚い板の状態で、従って絃楽器でありながら非常に重い。御遊に於いて、琵琶は天子の楽器であった。御遊は天子を中心に廷臣達が各々の身分に応じた場所にばらばらに居てそれぞれの楽器を演奏した。左大臣や右大臣は天子の側で筝を、それに続いて大納言や中納言が笙や龍笛を、離れるにつれて音の大きい楽器になる。篳篥は更に離れた所、打物(鞨鼓、太鼓、鉦鼓)は階である。こんな状態であるから音のバランスが良かったはずはない。が、その中で最もバランスの採れている場所が一ヶ所だけ有った。それが天子の位置である。従って琵琶の音は天子一人に聞えればよい。だからわざと響きを押えて作られているものだと思う。良くも悪くも歴史が培った伝承の様相である。このことを手短に説明するのは容易なことではない。
  「この楽器の音はこういう音だ」
と答えておいた。彼は他にもやるべきことが多く、このことに何時までも関ってもいられなかったからこの問題はこれでおしまいになった。然し私は、この人はごまかせないと、少し怖ろしくなった。似たようなことが筝についても言える。現在雅楽の筝は右手だけで演奏している。元々有った左手の奏法は応仁乱で廃絶、江戸初期に古譜によって復活が計画されたこともあったが、時の天子に右手だけでも危なかしいのに左手まで使うとは楽しみだとからかわれて沙汰止みになり、今に至るまで右手だけである。こうして伝承はしばしばジリ貧になっていく。然し、彼が作曲した筝のパートは両手で弾くことになっていた。

 彼は笙をタンギングで奏するとどうなるか、龍笛にアタックやヴィブラートが付けられるか、など、私が予想もしていなかったことを次々と試みていた。宮内庁の楽師もそれに応えてやってみればいろいろの効果を発揮する。こうして雅楽の楽器から思いもかけない効果を次々と引き出していった。「十操記」によれば龍笛に十種類の特殊奏法が有ったことが解る。アタックやヴィブラートのようなものだったらしい。それらを列記して、やりすぎると下品になるから慎むようにといましめている。このせいで、今日では全く行われていない。

 彼はこの後約三週間京都に滞在して全曲を書き上げた。確かに、後の部分には雅楽の音の情報量だけでなく、雅楽の楽器の音の情報量も盛り込まれている。特に篳篥が彼の前作(ハレルキン・イノリ・マントラ)から引用したメロディーをソロで演奏する部分は雅楽音階では不可能なことだ。(つづく)
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by ooi_piano | 2012-01-18 06:15 | POC2011 | Comments(0)
(承前)

5  オペレーション(1) 合奏

パラメータ(媒介変数)
 舞台デザインにサンプリングした音をインプットしてオペレーションすると作品の本質が現れる。
 古典の舞楽では舞台が正方形であるから舞人は四人,これが賽の四つ目のように正方形の上に位置して同じ舞をユニゾンで揃って舞う。正方形の舞台からくる必然の結果である。左方と右方が一つの舞台で交互に演じる順番は,天体の運行に準じて,まず左方が先行し次に右方が演じる。この一組を番(つがい)といい,五番演じるのが原則である。このことで東西という方位は昼夜や春秋の交代にトランスフォーメイションされて,空間から時間がたち現れる。
 ヤーレスラウフでは四桁の数字の平面プランの上に割り当てられた四人の舞人が動き出し,その動きが四つの時価の落差がある楽器の音に変換されると,四種類の密度が違う音の塊が同時進行しながらトータルで一つに統合された音楽となって現れてくる。

 一年の位の舞人が一年の位の数字7の上をすばやく移動して折り返す度にタイマーとして太鼓が打たれ,それを目安に琵琶と箏のデュオが奏でられる。太鼓が打たれる度に背後の窓枠に1から7までの数字がデジタル風に現れ,7で終わるとまた1から繰り返される。

 十年の位の舞人は,一年の位の舞人が一年の位の数字7の上を7回折り返す間に,十年の位の数字7の上をやや早い動きで1回移動し,折り返す度にタイマーとして鞨鼓が打たれ,それを目安に三本の篳篥がグリッサンドしながら和音を奏でる。鞨鼓が打たれる度に背後の窓枠に1から7までの数字がデジタル風に現れ,7で終わるとまた1から繰り返される。

 百年の位の舞人は,十年の位の舞人が十年の位の数字の上を7回折り返す間に,百年の位の数字9の上を1回移動し,折り返す度にタイマーとして鉦鼓が打たれ,それを目安に三本の龍笛が初めは音の点,次第に点と点を結んで旋律の状態になって大きなうねりを形成する。鉦鼓が打たれる度に背後の窓枠に1から9までの数字がデジタル表記ではあるがゆっくりしたアナログ的な動きで現れ,9で終わるとまた1から繰り返される。

 千年の位の舞人は,百年の位の舞人が百年の位の数字9の上を9回移動する間に,千年の位の数字1の上を非常に静かな動きで1回だけ移動する。その間三口の笙が他の音に比べると遙かにゆっくりとしたテンポであるがそれでも他の音と同じように徐々に高くなってゆく。背後の窓枠の数字は1のみである。

 時価によって分類された各グループの時価の落差はパラメータによって補正され,統合される。この場合,1・9・7・7という年紀の数字がパラメータに引用されている。この辺がニクイところだ。

アウトプット  密度の階層と集積
 オペレーションの結果,時間の四つの密度がアウトプットされる。即ち
  一年の舞人が441回(1×9×7×7=441)7という数字の上を移動する間に,千年の舞人は1回1という数字の上を移動するだけである。その関係は441対1。
  十年の舞人が63回(1×9×7=63)移動する間に千年は1回。即ち63対1。
  百年の舞人が9回(1×9=9)9という数字の上を往復する間に千年の舞人は1という数字の上を1回。即ち9対1。
である。
 『このヤーレスラウフの中で一番大切なのは時間の四つの層である。』と,彼はプログラムノートに書いている。舞人は一の位が最も激しく動き,十,百と逓減して千の位が最も静かである。これで釣り合っているということは千の位の時間が最も密度が濃く,百,十と逓減して一の位の時間は希薄であるということだ。
 四つの層はそれぞれ,初めはその楽器の音域で低音を,進行するにつれて高音へ移行し,最高音で終結する。また音の形は,初めは点の状態,やがて点と点は結ばれて旋律になり,最後は束ねられて群になる。シェーンベルクからアルバン・ベルクを経て,シュトックハウゼンに至るセリーの歴史を追体験しているようだ。
 こうして空間と時間を掛け合わせて,アウトプットされてくるものはガソリンスタンドのメーターのようなメカニズムによって刻々と蓄積されてゆく形而上の密度の集積である。オペレーションによる物理的な時間は約40分,しかし,観念的には1977年という時間が凝縮されてアウトプットされる。
 このオペレーションで指揮者の役割を果しているのが舞人である。そして4人の舞人の中で最も重要なのが一年の位の舞人である。
 一年の位の舞人の動きの7回分が十年の位の舞人の1回であり,十年の7回分が百年の1回,百年の9回分が千年の1回となる。つまり一年の位の舞人の動きで他の舞人も動くのであって,もし一年の舞人が途中で疲れて動きが遅くなれば,作品全体のテンポが遅くなる。その効果は実際に上演においても表れていて,彼はそれがよい効果だと言っていた。だから一見無機的に見えるこのメカニズムがオペレーションによって有機的な表現に変換されるのだ。
 

6  オペレーション(2) ソロまたはデュオ

楽器の個性(構造と奏法)
 ヤーレスラウフの時の流れを中断して途中に三度,龍笛のソロ,琵琶と箏のデュオ,篳篥のソロが各々にタイマーとして寄り添っている打楽器を伴って登場する。ここで合奏では充分に発揮することが出来ない各々の楽器の特色を存分に聞かせることになる。

 最初に登場するのが龍笛のソロと百年の舞人である。鉦鼓の一打と龍笛の第一奏者が奏でる甲高い音が他の楽器の演奏を休止させる。笙だけは殆んど動きのない千年の位の舞人の動きに合せて,小さい音で演奏を続ける。他は耳を澄まして見守る。ソロはやがて龍笛全員による高音でのトリルとなる。
 この部分は龍笛のエアリードの管楽器と言う特性を活かして,ヴィブラートやアタックなどの特殊奏法が要求されている。これらの特殊奏法は龍笛という楽器の機能からすれば無理がなく,やる気であれば可能であるが,雅楽の古典では禁じられている奏法である。然し,「十換記」や「長秋竹譜」(平安時代の楽書)によれば古くはこれに類する特殊奏法が行われていたことが知られる。これらの奏法は演奏を活きいきとさせるが「十換記」には品のない奏法として戒めており,雅楽の古典はこのような奏法を削ぎ落として今日の上品な様相を培ってきたのだ。

 次に登場するのが琵琶と箏のデュオと一年の舞人の舞で,太鼓が拍子をとり分節する。この間も笙は静かに演奏を続け千年の舞人も殆んど動かない舞を続ける。琵琶と箏のデュオがいよいよ入り組んで頂点に達した時,他の楽器も全員が演奏を再開しデュオが続く中,篳篥や龍笛のグリッサンドがクラスター状に重なって激しいパッセージとなる。
 この部分では楽器を演奏する奏者の人間工学がクローズアップされる。琵琶は腕で撥を動かし,箏は指で爪を動かす。腕より指のほうが細かい動きをするので,箏の二拍を琵琶の一拍に数えて音を重ねている。また箏の奏法は両手で弾くことが要求されており,楽譜で見るとハープのようだ。楽器の構造と人間工学からいえばこれは極く自然なことであるが,雅楽の古典では右手だけで演奏して左手を使うことは禁じられている。然し,古い楽書によれば左手が押し手に使われていたことが知られる。この手法は応仁乱で途絶えて右手だけの演奏になった。江戸初期に左手の復活が計画されたことが有ったが,時の天子に,右手だけでも危なっかしいのに左手まで使うとは楽しみだ,とからかわれ怖気付いて沙汰止みになったといういきさつが有り,今日に至るまで右手だけである。

 最後のソロは篳篥で鞨鼓が伴奏し,十年の舞人が舞う。ここでは篳篥の第一奏者がシュトックハウゼンのハルレキン・イノリ・マントラの三作品から引用した主旋律を結び合わせたソロを奏し,鞨鼓がリズムのきっかけを与え,輝くような笙の高い和音と柔かい低
音の龍笛の和音が伴奏,太鼓と琵琶,箏は沈黙。
 シュトックハウゼンは冒頭部分数ページをキュルテンで作曲して来日し,国立劇場の大稽古場で実際の楽器による効果を確認した際,特に篳篥が事前に私が作成して送った音のデータ(雅楽の楽器の音ではなく雅楽という音楽の音階を収録・採譜していたことに彼は不満を漏らした)には無い音も自由に出していることに注目した。その後の京都で作曲した部分では雅楽の音階には無いが楽器としては可能な音も使って作曲している。ハルレキン・イノリ・マントラから引用した旋律は雅楽音階では演奏できるはずがない。

アウトプット  両義性の出現

 合奏で時価が異なる各楽器がパラメータで補正されながら一つに統合されている様子は,キュルテンの彼の自邸で住人が異なる各部屋が,コアとの関係で一つに統合されていることに似ている。そして,ソロやデュオは,庭に散在しているコテージが単独であることによって,それぞれの有り様のままに存在していることに似ていた。
 また,このソロ(デュオ)の箇所は合奏で時価の差をパラメータで調整しながら統合している部分を21世紀になって登場した単一通貨ユーロによるEU の通貨統合に譬えるなら,EU 域内の各都市の個性を尊重して順次交替で開催しているフェスティバルのカルチャル・キャピタルシティーに譬えられるだろう。通貨統合ではさまざまの制約を課せられている各国は,文化面では遠慮なく自らのアイデンティティーを主張してバランスをとっている。
 この作品から両義性という大きな問題が現れてくる。この他に,演劇的な要素も含まれていたが,本稿は音楽誌に寄稿する論考であるから省略する。


7  ヨーロッパで,洋楽器ヴァージョンが

 初演のステージの様子はビデオに記録されて国立劇場に保存されている。確か10月31日に上演したものの記録だと記憶している。練習では中々うまくゆかなかった箇所も本番ではきちんと出来ている。宮内庁の楽師達もさすがにプロの演奏家だ。終演後の大きな拍手やブラボーの叫び声も収録されており,それに応えるべくステージに現れたシュトックハウゼンの服装が晩年の服装と同じであることが印象的だ。この初演が作品は画期的であり演奏も完璧で大きな舞台成果を上げ,聴衆からも大いに喜ばれたことの証拠物件である。
 ところが,数日後の新聞や週刊誌などに掲載された音楽批評家(その中には作曲家も多く含まれていた)の批評はすべて悪評ばかりであった。中には罵倒に近いもの,或いは終演後に拍手が殆んど無かったという虚偽の報道もある。批評家は音楽のプロであるはずでアマチュアの一般聴衆が気が付かない作品の仕組みを専門知識でもって解説することが批評の役割のはずであるが,この作品をトータルセリエリズムの理論で分析し,その是非を論じた解説は皆無であった。好き嫌いを言うだけである。今ではインターネットで昔の新聞を読むことが出来るから興味のある方は朝日新聞(柴田南雄)や読売新聞(広瀬量平)など大新聞だけでも生の資料に当たって,当時の音楽批評がどんなものであったかを確認していただくと面白いと思う。後年,雅楽の楽器のための委嘱作品を書いたジャン・クロード・エロアはこのビデオを見て,「作品は素晴らしいし,演奏も立派なのにどうしてこれが不評だったのか。」としきりにいぶかしがっていた。
 批評は批評家の理解力や主観を表明したものであり,作品はそんな批評とは無関係な存在で別物である。然し,そんな批評がひとたびジャーナリズムに現れるとロラン・バルトの言う神話化作用(デマゴーグ)を引き起こす。国立劇場には運営に関する諸々の提言をする有識者による評議員会が設けられており,殆んどの評議員はリヒトの初演を聞いていなかったにもかかわらず,神話化された批評が一人歩きをして,今後この種の公演は行わないように要請された。良識とはこんなものだろう。こんな状況の中で再演はおろか,音楽雑誌から依頼された原稿の中で少しでもリヒトを擁護することを書けば編集者から削除を要求されたりした。こうして日本ではリヒトは逼塞状態におちいっていった。私は当分の間,楽器の音の情報量の再開発(始原楽器の復元と演奏)に向かうことにした。
 然し,この作品は作曲の時点で雅楽の楽器を洋楽の楽器にトランスクリプトすることが計画されていて,楽譜はそのままで洋楽器でも演奏できるようになっていた。トランスクリプトする根拠は楽器学的に同属へトランスクリプトするのではなく,音の情報量を接点にしてトランスクリプトしている。篳篥は普通ならオーボエとするだろうがソプラノサキソフォン。箏は普通ならツィターだろうがチェンバロ。傑作なのは鉦鼓でアンボスになっている。こんな楽器は知らない。字書で調べると鍛冶屋の金床であった。この作品はあくまでも雅楽の音の情報量を尊重した作品である。
 この洋楽器ヴァージョンによって,リヒトはヨーロッパで大きな展開をとげることになる。東京に於ける世界初演の翌年(1978)にケルンで洋楽器ヴァージョンがコンサート形式でヨーロッパ初演され,その翌年(1979)にはパリのオペラコミックの舞台機構の中で完全なシアターピースの形のヨーロッパ初演が行われて大きな成功を収めている。この時衣装デザインを担当したのがケンゾー・タカタで,東京のオリジナルヴァージョンでは省略した千年の位は古代の服飾を,百年の位は中世,十年の位は近世,一年の位は現代の
服飾をトランスフォーメイションしたものとするシュトックハウゼンのアイディアが実現している。パリでの成功の話題はヨーロッパ各地に伝えられ,以後続々と各都市でそれぞれの劇場に応じた形で再演されると共に,ヤーレスラウフの姉妹編が次々と作曲されてリヒトは全曲の演奏に1週間を要する大作として,彼の畢生の代表作に生長してゆくことになった。
 シュトックハウゼンは古典の雅楽が内包している音の情報量をジェネシスのままに尊重して,古典のヘテロフォニーというメカニズムを脱構築し,トータルセリエリズムという違うメカニズムの元で再構造化したのである。それはアカデミックな音楽概念では扱いきれず,噪音とみなされている音素材を整然と秩序付け,或いは伸び伸びと羽ばたかせたコペルニクス的展開であった。この状態で雅楽の音はもはや噪音ではない。私が目論んでいた音楽の中のエントロピーをネゲントロピーに逆転することに成功している。
 これを洋楽器でトランスクリプトした洋楽器ヴァージョンは,私は録音でしか聴いていないが,疑いもなく雅楽の楽器の音の情報量のままである。オリジナルヴァージョンと比較するとおかしくなるくらい雅楽の音の情報量を正確にトランスクリプトしている。作品が雅楽の音の情報量を前提にしたものであるからこのことは必要条件であったのだ。この作品がヨーロッパの音楽関係者に理解されたということは,雅楽の音の情報量の理解でもあった。これこそ雅楽の伝統である。1900年パリ万博で雅楽の笙の合竹のメカニズムがドビュッシーによって近代和声にトランスフォーメイションされてから80年後のことである。雅楽はこれに対処する方法論が適切であればいまも世界の音楽に影響を与え続けていく伝統である。

 本稿を7章仕立てにして書いたのはリヒト連作の7日間になぞらえたもので,私のシュトックハウゼンに対するオマージュである。

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by ooi_piano | 2012-01-14 11:02 | POC2011 | Comments(0)
  木戸敏郎氏によるエッセイ「1977年東京で――《暦年》世界初演」(ベルク年報2008)を以下に転載致します。
  転載を御快諾頂いた木戸敏郎先生、ならびにpdfファイルをご提供下さった日本アルバン・ベルク協会様に厚く御礼申し上げます。


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《一九七七年に,東京で》

カールハインツ・シュトックハウゼン作曲
雅楽の楽器と四人の舞人のための
ヤーレスラウフ(歴年)―― リヒト(ひかり)より
オリジナルヴァージョンの世界初演


木戸敏郎


1  大阪万博,ドイツ館で

 1960年代すでにシュトックハウゼンの作品は日本でもよく知られていた。然し,私が彼の作品そのものに直接触れることができたのは70年の大阪万博ドイツ館に於いてであった。この時,ドイツ館の中にはシュトックハウゼンの指示通りの音響空間が設けられ,この空間のために特別に編成されたアンサンブルを率いて彼自身が来日して長期滞在しながら自身の作品の連続コンサートを開催していた。彼の意図が浸透した生演奏である。これまで録音や日本の演奏家による演奏で聞いていた難解なものと違って,リアリティーがある演奏から音楽の仕組みがありありと表れてくるではないか。後にトータルセリエリズムの理論として理解することになる彼の作曲手法を,この時は音楽の実態として直感的に把握することができた。これだ,この人なら雅楽の楽器の音にまっとうに対峙することができるだろう,と直感的に感じた。
 「雅楽の音は噪音以外の何物でもない。」
と日本と西洋の音楽をめぐる或るシンポジュームで洋楽関係のパネラーが発言して,同じくパネラーとして出席していた宮内庁楽部の辻寿男氏を激怒させたことがあったが,これは当時のアカデミックな音楽(洋楽)関係者の常識的な考え方であった。噪音(騒)とは楽音の反対概念であり,楽音については音楽事典にも明瞭に定義されている客観的な現行音楽(洋楽)の基礎概念である。楽音と認められるにはいくつかの条件を満たしていなければならない。一つは各楽器の音高が共通の周波数によって制度化されていること,また周波数だけが特化されて他の情報量(音圧や音色など)は極力抑制されていること,等々の条件を満たしている音が楽音である。そしてこれに当てはまらない音は噪音と呼ばれて音楽から排除されることになっている。
 この規準に照らして言えば,雅楽の楽器の音は疑いもなく噪音であろう。古来,楽家で守られてきた『他管に触れず』と言う,自分の持ち楽器以外の楽器については口を出さないしきたりと関係することであるが,雅楽ではまず楽器毎に記譜法(文字譜)が違っている。また,同じ文字でも楽器によって読み方が違っていたりする。例えば六は龍笛ではロク,篳篥ではリクと読む。こんな状態だからスコアはなく各楽器毎のタブラチュアだけである。更に同じ調の音階の音であっても楽器によって音の高さが微妙に違う箇所もある。また楽器の構造上音色が違うしブレスの箇所もまちまちである。同じ旋律を同時に演奏していてピッチに違いのあることをスレるといい,ブレスに違いがあることをズレるという。笙の合竹は和音ではなく不協和音である。このような状態で,笙,篳篥,龍笛が同時に同じ旋律を合奏している。雅楽は音組織の部分々々の独立を容認した上で,全体を共通の旋律で統合する音楽でヘテロフォニーという言い方が適当であろう。これは見事な調和であるが,旋律や拍節に違いはあってもオーケストレーションが同じであればどの曲も同じように聞こえるという欠点がある。雅楽に限らず有職文化として伝承されるとマンネリ化は避けられない。この弊害に対処すべく,私は国立劇場で雅楽の伝統を甦らせるための委嘱をすでに始めていた。
 雅楽の楽器の音を素材として新しい作品を創作するという課題に,真向から立ちはだかる問題が,この「噪音」という概念であった。アカデミックな作曲法は十二平均律という制度化された音を前提として編み出されたものであるから雅楽の楽器の音にはなじまない。和音も作れないし転調もできない。無理に和音を作ろうとすると汚い音になる。それは油彩で赤と青を混ぜると紫になるのに,岩彩で同じことをすると紫にはならないで赤と青が混じった汚い色になるのと同じである。大正時代の京都画壇で土田麦僊が「汚い絵」と呼んだ一群の日本画がこれであった。雅楽の楽器を無理強いして十二平均律に近付けようとする作曲家がいたし,今もいる。洋楽器と合奏するためにはそうせざるを得ないだろうが,これでは音色だけが雅楽で,音のシステムは洋楽の下手なまがいものになる。日本でも平均律がスタンダードグローバリゼーションになったいま,雅楽のアイデンティティーにこだわれば音楽の中の噪音というエントロピーとして,有職文化としては尊敬されながら芸術音楽としては軽蔑されていた。
 ドイツ館で聞いたシュトックハウゼンの手法はそんな偏見に悩まされていた私にとって思いもかけない福音だった。彼の音楽は洋楽の楽器という制度化された道具の音を音素材に使っても,その音の中から制度化されていない情報量を選び出してアカデミックな作曲法とは違う手法で構造化していた。彼の指導による生演奏でそのメカニズムがレントゲン写真を見るように見えてきたのには驚いた。この手法なら,雅楽の噪音と罵られている音のエントロピーを逆転して一気にネゲントロピーに転換することができるだろう,と判断。私はその場で彼に雅楽の楽器のための作曲について打診,彼の委嘱があれば作曲しようという答えを得て,この時は後日を期して別れた。


2  キュルテン,シュトックハウゼン邸で

 1974年,聲明のヨーロッパ公演ツアーで渡航した際,私はケルン近郊の小村キュルテンに在るシュトックハウゼンの自邸を訪問した。先年(1970)大阪できっかけを作っていた雅楽の楽器による委嘱を具体化するためである。
 山の斜面に腰掛けたように建っているかなり大きい家である。外観は不整形で仕組みがよく解らない。中に入ると平面プランに一つの理念があって,その平面を立体化したのが外観であることが納得された。シュトックハウゼン自身の基本設計であるという。私がその構造に興味を示すと彼は家の内部や外観を案内しながら説明してくれた。玄関,サロン,書斎,書庫や共同で使用するバス,トイレなどの設備は一ヶ所にまとめてコアとしての役割をなし,その周囲に家族それぞれの個人として使用する部屋が独立して設けられていて,各部屋は他の部屋を経由しないでコアと直接連結されていた。そして各部屋には庭ヘ出られる出入り口が設けられていて,殆んど雑木林のままの広い庭に家族はそれぞれ自分専用のコテージを持っており,母屋の自分の部屋からいつなんどきでも家族共同の出入り口を経由しないで直接コテージへ往き来することができるようになっていた。その各コテージの窓は互いのコテージが見えない方向に開かれていて,プライバシーが保たれると共に自分ひとりが林の中で孤独になれる仕組みになっていた。
 このそれぞれの部屋が自らのアイデンティティーを保ちながらコアと関連している母屋や,相互に邪魔にならない状態になっていながら自らは自由に存在しているコテージの在りようが彼の音楽そっくりであることに気が付いた。音の情報量を音高だけに特化せず,時価,音圧,音量,音色も含めて平等に情報量と認め,それらをトータルにパラメータでコントロールしながら統合(統一ではない)するシステムはヨーロッパの伝統には無かった新しいメカニズムである。
 ヨーロッパのアカデミックな音楽は,本来的には歴史も構造も違う各種楽器をコンソートシステムという近代の音楽概念のもとに改良して音高だけを特化し,個々の音は全体を構成するパーツでしかなく,その頂点にあるオーケストラは独裁者のような指揮者のもと強引に一つに統一するファシズムである。シュトックハウゼンのトータルセリエリズムはその対極にあるもの,60年代のドイツでまだ濃く残っていたナチの記憶に対する強い反省はさまざまの形で芸術運動に現れていた。例えばラッヘンマンの感情に訴えない冷ややかな音楽はかつてヒトラーの演説に熱狂した過去に対する反省の表れだ,と聞いている。トータルセリエリズムが音高以外の音の情報もすべてをトータルに情報量として評価してパラメータでコントロールしながら統一ではなく統合するのも,ファシズムに対する反省の傾向の一つと見ることができよう,と思う。
 雑木林のような庭を散策したあと母屋に戻り,ダイニングルームでドイツケーキと紅茶が出された。そのテーブルは分厚い板が相当使い込まれて磨滅していた。日本の寿司屋などの桧の分厚いカウンターが閉店後に翌日の客を真新しい装いで迎えるために,その日の汚れをタワシでごしごし洗い流す,それが永年続いた板は節などの堅い部分を残しながら磨耗して波打っている,丁度あんな状態になっていた。ドイツではタワシでなくサンドペーパーを使うそうだ。イタリアの〈アルテ・ポーヴェラー〉の彫刻家ジュゼッペ・ペノーネの作品に酷似していた。「彫刻とは砂に埋もれている石を掘り出すようなものだ。」と言ったミケランジェロの言葉を思い出した。テーブルの周囲に並んでいた木の椅子も同じ状態のものであった。
 この部屋の窓に掛けてあったカーテンも異様なものであった。カーテン仕立てのヒダもない白一色の一枚の布,それが継ぎはぎだらけである。傷んだ箇所に布を当てて補強したものが更に傷んだ箇所を切り取って別の布に替えて繕ったりしている。それも一度や二度ではない。その都度いろいろな布が使用されているが白一色であることは統一されていて,然も真っ白く洗濯されている。ある作品を初演するために演奏家達とシシリー島で合宿練習していた際,近所の農家の洗濯物干場で見つけたシーツが余りに美しかったので,真新しいシーツを持って行って交換してもらったものだという。そういえば傷んだ部分は人間の体に則した有機的な痕跡であった。シーツに隠されていた情報の発見である。20世紀の終わり頃になって世に知られるようになったフランスの〈シュポート・シュルファース〉という芸術運動の作品にこんなものが有る。
 私はシュトックハウゼンの邸のたたずまいを見て,彼なら雅楽の楽器の音に未知の情報を発見して新しい作品を再構造化することが可能だ,と確信した。

 私が提示した委嘱の条件は次の二つであった。

1 雅楽(管絃)の楽器だけを使うこと。あれこれ選択しないですべての種類を使用し,編成も古典の三管通りに準じること。そして,雅楽以外の楽器は一切持ち込まないこと。――雅楽の楽器だけを使用したとしてもいずれかの楽器に偏った編成にすれば音の情報量は変質する。また洋楽の楽器と混成されると肝心の箇所は洋楽器が活躍して雅楽の楽器は音色効果程度の使用になることを恐れて釘をさしたのである。洋楽の楽器の活躍の場となっては雅楽の再生を目指す委嘱の意味は無い。


もう一つの条件は,

2 国立劇場開場十周年記念作品としての委嘱であること。1966年に開場した国立劇場が10周年を迎える1976年に初演するスケジュールで作曲すること。――然し,実際には彼がアメリカ建国200年記念を祝福してドイツ政府がアメリカに贈るシリウスの作曲のために時間をとられ,1年遅れの1977年初演となった。アメリカ建国200年と日本の国立劇場10年とではケンカにならない。


 10周年記念という条件を出したついでに,雅楽の古典では管絃の渡物(季節に合せて移調)や舞楽の番舞(左方と右方の交代を昼夜とみなす)など時間の経過がテーマであることを説明した。これがヤーレスラウフのヒントになったのではないか,と私は思っている。初演当日のプログラムノート冒頭に,『国立劇場の木戸敏郎氏より雅楽の管絃と舞のための作品の作曲を委嘱されたとき,私は音楽によるヤーレスラウフのヴィジョンが浮かんだ。』と,シュトックハウゼンは書いている。

 シュトックハウゼンからは作曲のために次のような資料が要求された。

1 雅楽(管絃)のすべての楽器について,その音を低音から高音へ,一音ずつ4~5秒程度に録音したテープによる資料
2 この資料の音を五線譜で採譜した楽譜による資料

の二点であった。


3  東京,国立劇場で

 資料は帰国後演奏者に予定していた宮内庁楽部の楽師と私のアシスタントをしていた茂手木潔子さん(現上越教育大学教授)とに協力していただいて作成し,送った。彼とはその後も何度も手紙で連絡を取り続けた。彼はこの作曲は非常に困難であると言って,一度はキャンセルを申し出てきたが私は受け入れなかった。すると今度は舞を伴った作品にすることを提案してきた。私は雅楽(唐楽)の楽器のすべてを使うことを条件としていて,すべての楽器が含まれるのは管絃の編成であり,現行の舞楽では絃楽器は除外されているので私が提案した楽器編成に舞を伴うということは,現行の雅楽ではあり得ない。然し,歴史的には管絃舞楽という舞が存在したから雅楽の伝統に反することではない。委嘱のねらいは雅楽の古典に埋没している伝統を掘り起こして新しい音楽概念で再構造化することであるからあくまでも雅楽の古典作品に埋没している音の情報量だけに則して再構造化することであるが,管絃舞楽の歴史的事実に照らせば平舞(四人舞)の情報量が含まれてもいい,と判断した。私は舞を伴う作品でもいいが,ダンスではなく舞楽の舞人四人による平舞であること,という条件で了承した。
 1977年,先年私が送った作曲のための音素材に則って作曲した作品のスコアの冒頭部分数ページが送られてきて,来日早々に実際の楽器の演奏でその効果を確認したいから事前に演奏家に渡して欲しい,という。私はコピーを作って宮内庁式部職楽部の楽師に渡した。同年9月来日,久し振りに来日して東京の空気が汚くなっていることに驚いていた。目から涙が出て止まらないという。バブル時代の東京は今の北京のようなものだったのであろう。私は平気だった。国立劇場大劇場のステージを下見するため楽屋の廊下を通り抜けていた時,タタミの匂いがする,と言った。夏の休館している時期を利用して楽屋の畳替えをしたばかりであった。作品がシアターピースとなったことで大道具が必要となったが,彼の基本プランはステージの床にデザインをするものである。ヨーロッパのオペラ劇場は前傾したランプステージになっているから,何の問題も無いだろうが,歌舞伎を上演する国立劇場のステージは平床で客席一階の椅子に腰を下ろすと舞台の床面は見えない。これを見せるためにはステージの上に前傾した平台を組まなければいけない。彼の基本プランを尊重しながら,劇場側のスタッフが実施設計を作ることにした。
 国立劇場大稽古場で宮内庁の楽師と初顔合わせの日のことであった。先年私が送った作曲のための雅楽の楽器の音のデータは非常に役に立った,と上機嫌だった。練習に入る前,楽師達はそれぞれ自分の楽器の調律を始める。種別毎に演奏家が集合して,笙は電気コンロで暖めながら,篳篥は逆に湯呑のお茶で簧を湿らせて音を作る。箏は柱を立てて音階を作り,琵琶は転軫で絃のテンションを調節して音階を整える。それぞれの都合でばらばらに音を出している全員の音が一緒になったクラスター状の音をシュトックハウゼンは注意深く聞いていたが突然隣にいた私に
「琵琶の音が聞こえない。どうしたのか。」
と言った。おかしなことを言うものだ,琵琶の音はちゃんと聞こえていた。
「聞こえているではないか。私にははっきり聞こえている。」
と言うと
「絃が振動する音は聞こえるが,楽器の響鳴する音が聞こえない。」
と言った。確かに雅楽の楽器の中で琵琶だけは異常である。アルペジオ風に掻撥で演奏されることが多いが,便宜上アルペジオ(分散和音)と言うことにしているが正確には和音ではなく不協和音であるから音が濁ると汚くなるので分離していることが望ましい。そのせいで意図的に胴の内刳りを浅くして響鳴を押えて残響を短くしているものだと思う。然し,こんなことを説明している余裕はない。
「この楽器の音はこういう音だ。」
と答えた。それで納得したのかどうか判らないが,この問題はこれですんだ。然し,私はこの人は音をこんな風に分析的に聞いているんだ,と,ちょっと驚いた。
 ドイツで作曲してきた楽譜の,楽譜を見ただけでは解らない彼が工夫した特殊奏法(一種のタンギングやフラッターなど)による演奏について楽器毎に一音一音確認してゆく進め方であった。曲の姿はまだ見えてこないが音の様子は明らかになった。楽器の機能としてはやれば可能な奏法であるが現行の雅楽の古典には行われていない奏法である。約2時間程度で彼は必要なことは確認できた様子であった。
終わった後,彼は私に
「あなたが送ってくれた楽器の音のデータは充分ではなかった。あの資料にない音も,雅楽の楽器から出ているではないか。これから作曲する部分ではその音も使って作曲する。その部分がずっと面白いものになるだろう。」
と言った。これは私の認識の甘さであった。雅楽の音階の音と雅楽の楽器の音との区別を認識していなかった。雅楽には六調子有ってそれぞれの音階を構成する音が決まっている。これらは雅楽と言うシステムの中で制度化された音である。然し雅楽の楽器からはこれ以外の音も出す気になれば出る。特にダブルリードの篳篥は音程が不安定な楽器で,ということは音域内の音であればどんな微分音でも出せる,ということだ。彼が欲しかったのはそのような音も含めたデータだったのだ。雅楽の古典を脱構造してこそ伝統を抽象することが可能であり,これが不徹底であれば伝統の概念があいまいになり,ひいては創造も中途半端なものとなろう。この仕事を通じて私が学んだ最も大きな教訓であった。
 彼は修正した音のデータを持って京都へ行き,都ホテルに滞在して残りの部分を書き上げた。京都には京都1200年の歴史プラス東洋何千年もの文化が堆積している,と言い,続けて東京には戦後40年の堆積しかない,と付け加えた。舞台の実施設計がまとまると私はその道具帳を持って京都を訪ね了承をとった。彼は観光客が多くなっていることに驚いていた。しかし,空気はきれいだという。涙は止まっていた。窓を開けて風を入れると蚊が入るので,渦巻き蚊取り線香を焚いていた。これが気に入ってキュルテンへも持って帰った。山のそばだから蚊がいるのだろう。
 作品を完成して再び東京に戻り,国立劇場の大稽古場で本格的な練習に入る。このプロセスは彼にとっても宮内庁の楽師にとっても妥協の出来ない修羅場であった。彼の作品と対峙することで雅楽は自らの拠り所にしている伝統と称するものがさまざまな形で試されることになったが,シュトックハウゼンについて論じる本稿のテーマと反れるので省略する。


4  プログラミング

カールハインツ・シュトックハウゼン作曲
雅楽の楽器と四人の舞人のための
ヤーレスラウフ(歴年)――リヒト(ひかり)より

 曲名のヤーレスラウフはヤーレス(年)とラウヘン(走る)という二つの語の合成語であり,字書にはない。国立劇場開場十周年記念委嘱作品であることにちなみ,僅か10年でも歴史的成果であり,時の流れをテーマとしている。
 1977年10月31日,11月1日の2日間,東京の国立劇場大劇場で世界初演された出演は宮内庁式部職楽部の楽師であったが,古典作品でない作品の上演ということで雅楽紫絃会という任意団体を装って出演した。当時は古典以外の雅楽作品は創作であれ復曲であれ異端視されていた。伝承された古典の制度化された形式美が伝統と考えられていたのである。
 入り組んだ作品の構造を判りやすくするためにコンピュータのプログラミングになぞらえて説明する。

レイアウト  舞台のデザイン
 制度化された古典では,舞台は四間四方の高舞台の上に三間四方の平台を置いて地布で覆う。正方形であるが,南面する天子に対するものとして北を正面とする。楽屋(管方の居る所)は左方と右方に分かれるが,北向きの舞台の左方が東,右方は西である。
 然し,ヤーレスラウフの舞台は国立劇場大劇場の歌舞伎のための横に長い舞台に合せてデザインされていてアクティングエリアは矩形である。この平舞台に前傾したランプステージを設け床面に大きく1977の数字が描かれている。言うまでもなく初演された年の年紀である。この数字はその後ヨーロッパで再演される度にその年の年紀に変更されている。背景の大道具には四桁の数字それぞれの真後に窓孔が開けられていて,数字がデジタルで表示される仕組みになっている。(その他いろいろの仕掛けが有ったが音楽に直接かかわる事項についてのみ触れ,他は省略)

サンプリング  楽器のグループ分け
 制度化された古典では雅楽(管絃)の楽器の種類を三管,両絃,三鼓と呼んでいる。
  三管とは三種類の管楽器  笙,篳篥,龍笛
  両絃とは二種類の絃楽器  琵琶,箏
  三鼓とは三種類の打楽器  鞨鼓,太鼓,鉦鼓
で,三管が音のテクスチャーを,両絃と三鼓が拍子を作る。即ち,音が持続する笙がいわば盆のようにモノを載せる台の役割を果し,その上に音が大きい篳篥が主旋律を,細かい動きをする龍笛が装飾音を施しながら全体がヘテロフォニーの合奏。拍子は音が大きい太鼓と音が鋭い鉦鼓を同時に打って大まかな拍子をとり,拍子と拍子の中間で鞨鼓と琵琶・箏が細かい指示をする。新しく作曲される多くの雅楽楽器のための創作も概ねこのシステムに則っている。
 ヤーレスラウフではこの制度化されたシステムを脱構築して,テーマが歴史であることにちなんで時価(持続)という音の情報量に特化して時価の順に楽器を組み替えるという独自のシステムで四つのグループに分類した。
  一番時価が長い楽器
   笙は吹いても吸っても音が出る,もし希望するなら延々と音を持続させることも可能である。即ち雅楽の楽器の中で最も時価が長い。
  二番目に時価が長い楽器
   龍笛はブレスの必要があるが,比較的長く持続することができる。比較的とはもう一つの管楽器篳篥と比較して,と言うことだ。
  三番目に時価が長い楽器
   篳篥は肺に負担のかかる楽器である。当然ブレスをする回数も多く,従って,雅楽の三種類の管楽器の中で最も時価が短い。
  時価が最も短い楽器
   琵琶と箏の二種類の絃楽器はいずれも撥絃楽器であって音は撥絃した瞬間だけ存在してすぐ消滅する。即ち時価は最も短い。
 もう一つの拍子を作る打楽器は音高(音の高さ)という情報量を特化して高さの順に
  高い音   鉦鼓  小さい金属製の体鳴楽器で音高は最も高い
  中間の音  鞨鼓  小さい皮張りの膜鳴楽器で音高は中間音
  低い音   太鼓  大きい皮張りの膜鳴楽器で音高は最も低い
と三段階に分けた。


インプット  舞人と管方の配置
 古典の舞楽では左方の楽屋には唐楽,右方の楽屋には高麗楽が当てられる。左方の舞人は左方の楽屋から,右方の舞人は右方の楽屋から登場する。
 ヤーレスラウフの舞人はステージ床の四桁の数字,千,百,十,一の各位の数字の上に四人の舞人が一人ずつ割り当てられる。
 また各舞人の後方に,各舞人のための音楽を奏する楽器が位取りに応じて時価の順に割り当てられる。即ち
 千の位には時価が最も長い        笙
 百の位には時価が二番目に長い      龍笛
 十の位には時価が三番目に長い      篳篥
一の位には時価が最も短い         琵琶と箏
となる
そして四桁の数字の中間三箇所に三種類の打楽器を位取りの高さに応じて音高の順に配置している。
 千の位と百の位の中間に音高の高い    鉦鼓
 百の位と十の位の中間に音高が中庸の   鞨鼓
 十の位と一の位の中間に音高が最も低い  太鼓
とした。 (つづく)
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by ooi_piano | 2012-01-14 05:23 | POC2011 | Comments(0)