7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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★8月29日(水)ショパン夜想曲撰+フローベルガー《墓》集&8月31日(金)マーラー《夜の歌》連弾版 感想集 http://togetter.com/li/365879

写真 アルフレド・カゼッラとオットリーノ・レスピーギ(そしてマーラーも傍らに)
http://bokete.jp/odai/148284
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2012年8月31日(金)20時開演 (19時半開場)
カフェ・モンタージュ[京都市中京区夷川通柳馬場北東角]
地下鉄「丸太町」夷川東出口より徒歩5分 http://www.cafe-montage.com/
¥2000(40席限定)
予約/お問い合わせ:tel 075-744-1070 montagekyoto[at]gmail.com

大井浩明+法貴彩子 (ピアノ)

G.マーラー:交響曲第7番ホ短調《夜の歌》(1905) (全5楽章/A.カゼッラによる4手連弾版、日本初演)  [1905年製NYスタインウェイ使用]
第1楽章 Langsam (Adagio) – Allegro risoluto, ma non troppo
第2楽章 Nachtmusik I. Allegro moderato
第3楽章 Scherzo. Schattenhaft
第4楽章 Nachtmusik II. Andante amoroso
第5楽章 Rondo-Finale. Allegro ordinario



※終演後にドリンク付きレセプションあり(無料)
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by ooi_piano | 2012-08-31 09:10 | コンサート情報 | Comments(0)
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チラシpdf http://twitpic.com/aognn8
2012年8月29日(水)20時開演 (19時半開場)
カフェ・モンタージュ[京都市中京区夷川通柳馬場北東角]
地下鉄「丸太町」夷川東出口より徒歩5分 http://www.cafe-montage.com/
¥2000(40席限定)
予約/お問い合わせ:tel 075-744-1070 montagekyoto[at]gmail.com

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《Wybrane Nokturny Chopina, i przy nim był Froberger.》
~ショパン夜想曲撰――フローベルガーもまたそこに~

大井浩明(ピアノ/Steinway)

◆J.J.フローベルガー:ローマ王フェルディナンド4世陛下の崩御を悼む哀歌
  ◇F.F.ショパン:3つのノクターンOp.9 (1831)
◆J.J.フローベルガー:憂鬱をやり過ごすためにロンドンで書かれた嘆き歌
  ◇F.F.ショパン:3つのノクターンOp.15 (1832)
◆J.J.フローベルガー:来たるべき我が死を弔う黙祷
  ◇F.F.ショパン:2つのノクターンOp.27 (1835)
◆J.J.フローベルガー:ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞
  ◇F.F.ショパン:2つのノクターンOp.48 (1841)
◆J.J.フローベルガー:神聖ローマ皇帝フェルディナント3世陛下の痛切なる死に寄せる追悼曲
  ◇F.F.ショパン:2つのノクターンOp.62 (1846)

  [◇ポーランド・ナショナル・エディション最新版(2010年)使用]

※終演後にドリンク付きレセプションあり(無料)

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ヨハン・ヤコプ・フローベルガー
  1616年5月18日ドイツ・シュトゥットガルト生〜1667年5月7日フランス・モンベリャール没。ヴュルテンベルク宮廷楽長の息子として生れ、ウィーンにオルガニストとして赴任したのち、20代前半の数年間ローマでフレスコバルディに学ぶ。ウィーン・ブリュッセルを経て、パリでは若きルイ・クープランやリュート奏者のブランシュロシュ、シャンボニエールらと交友した。当時のイタリア音楽とフランス音楽の諸要素を絶妙に溶け合わせながらも、バッハからモーツァルト・ベートーヴェンに至る18世紀ドイツ音楽、ひいてはショパンさえ予告するような、情熱的な表現も魅力である。
  《来たるべき我が死を弔う黙祷(瞑想)》(跋語/メメント・モリ・フローベルガー)は、 組曲第20番の冒頭・アルマンド楽章として書かれ、彼の同種の標題音楽に倣って、自由なリズムで演奏される。
  《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》は、フローベルガーの親友であり、著名なリュート奏者であったシャルル・フルーリ(ブランシュロシュ卿)がパリの自宅で階段から転落して死去した際、その追悼曲として書かれた。シャルル(「C」harles)の頭文字Cの最低音から開始され、左手で弔鐘が打ち鳴らされる中、ブランシュロシュ(「B」lancheroche)をあらわすBの最高音の悲痛な詠嘆へ到達し、再び最低音Cへ崩れ落ちてゆく。
  リュートを模したチェンバロ表現の可能性はルイ・クープランの「拍節のない前奏曲」等へ受け継がれ、また「トンボー(墓)」と題されるジャンルは、ルクレールのヴァイオリン・ソナタを経て、ラヴェル「クープランの墓」や、デュカス・ルーセル・バルトーク・ファリャ・サティ・ストラヴィンスキー等による「ドビュッシーの墓」、そしてブーレーズ「プリ・スロン・プリ」における「墓(ヴェルレーヌの)」へ至っている。
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by ooi_piano | 2012-08-28 08:15 | コンサート情報 | Comments(0)
第1回公演(6月16日、ケージ「ソナタとインタリュード」+「易の音楽」)感想集 http://togetter.com/li/322182
第2回公演(7月14日、ケージ「南のエチュード」+サティ他)&フェルドマン「バニタ・マーカスのために」感想集 http://togetter.com/li/338525

大井浩明 《ピアノ・アンバイアスト》 第3回公演 ~1980年代のピアノ作品を巡って
Hiroaki OOI - “Piano Unbiased”

2012年8月25日(土)18時開演
山村サロン (JR芦屋駅前)
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301 (ラポルテ本館3階)
  [JR芦屋駅下車、改札を右折、直進して陸橋を渡る。その方向のままラポルテ本館に入り、エスカレーターを1階ぶんのぼった正面。所要時間2~3分]
全自由席 前売り¥2500 当日¥3000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura@y-salon.com

●S.シャリーノ(1947- ):ソナタ第2番(1983)
●高橋悠治(1938- ):光州1980年5月 (1980)
●尹伊桑(ユン・イサン 윤이상)(1917-1995):間奏曲A(1982)
●S.シャリーノ(1947- ):ソナタ第3番(1987)
●姜碩煕(カン・ソッキ 강석희)(1934- ):ソナタ・バッハ (1986)
●B.ファーニホウ(1943- ):レンマ-イコン-エピグラム(1981)

(休憩)

●陳銀淑(チン・ウンスク 진은숙)(1961- ):ピアノのためのエテュード集(1994-2003)(初版+改訂版 ) 
   I.インC (初版+改訂版)、II.連鎖 (初版+改訂版)、III.自由なスケルツォ (初版+改訂版)、IV.音階 (初版+改訂版)、V.トッカータ ~大井浩明のために、VI.粒子 ~P.ブーレーズのために
●横島浩(1961- ):ピアノ独奏のための《華麗対位法Ⅱ Florid Counterpoint II》(2012) 委嘱新作初演
  第1曲「Palestrina」 - 第2曲「Josquin des Prés」


横島浩:《華麗対位法Ⅱ》
c0050810_5561578.gif  ミュージック・セリエルは線的書法でありながらその線が認知されないという弱点を持つ、との意見に対しシュトックハウゼンは分子の集合体が例えば「机」に見えるように「総合的な音響」を聴くべきだと反論した。彼のセリーを私自身よく理解していないが、「聴き手」の心理的動きを前提に刺激が上手く配列されているように感じてならない。そのような操作がトータル・セリーで可能なのか私は興味を持っている。セリーが線的であるとの前提に対する批判はシュトックハウゼンが支配する音響イメージが持つ強烈な「物質的」ともいえる作品を前にしてしまえば脆いように思えるが。
  現代の超絶技巧曲をものともせずに制覇してきたピアニスト・大井浩明氏への挑戦状とも言える難曲を用意した。
  この作品は、完全に「線の音楽」である。しかし、シュトックハウゼンのセリーと同様それを聴き分けられることが不可能に作られ、音の拡散や凝縮が非分別に成り立つよう書かれている。
  二つの曲からなり、両曲とも4段譜で記されている(そうしないことには音符が書き収められないからである)。二曲ともルネサンス対位法の大家であるパレストリーナ(6声)とジョスカン・デュ・プレ(4声)のミサ曲を引用。
 一曲目は1~6順列組み合わせ5040通りからなる配列の番号から、生年→没年→生年と並ぶ番号を選び原曲からどれだけ音高・音強・音価を歪めるのかを決定していった。
 二曲目は音強を統一し原曲に基づく装飾音を先の配列から決定していった。
 音響的なイメージを私自身が持ちつつも、速度が決定できず「任意」としている。おそらくは、そのイメージを凌駕する演奏を大井氏が聴かせてくれるのではないだろうかと恐れを抱いている次第である。

横島浩 Hiroshi YOKOSHIMA, composer
  武蔵野音楽大学大学院修了。1990年作曲家グループ「TEMPUS NOVUM」立ち上げに参加。現音新人賞に二度入選。日本音楽コンクール作曲部門第一位受賞併せて明治安田賞も受賞。2011年全曲初演による個展が開かれる。実質的なデビュー曲となった1988年現音新人賞入選作となった《C.P.E.Times》はシアターピースの形態である。「何かが起きるタイミング」が感情過多様式を代表するエマヌエル・バッハのシンフォニアで起こる「起伏」に求められている。これも一つの引用方法。《情愛のない性格》では原曲を明らかにして暫時変化に耳が行くように作られており、これも一つの引用方法。しかし、「引用」の王道(?)であるパッチワークには私自身関心を持っていない。最近は太宰治の小説「女生徒」に書かれた言葉の配列を音に置き換える「作曲」にハマっている。太宰がつたない少女文体を引用していることに魅力を感じているから?でもなさそう。なんかこの小説が好きなんです。《華麗対位法Ⅱ》を作るに当たって、急にシビアな世界に戻った感じがする。書き始めた途端身体の不調が起こって即入院てこともあったし。

高橋悠治:光州1980年5月 (1980)
  高橋悠治は1938年9月21日鎌倉生れ。1954年〜58年桐朋学園にて柴田南雄と小倉朗に作曲を師事。米フォード財団の助成により1963年〜66年ベルリンにてクセナキスに師事。66年に米ロックフェラー財団によりニューヨークに渡りコンピュータによる作曲に従事、1972年まで米国に滞在。1973年の《メアンデル》以降、アジア伝統音楽や左翼思想に根ざした作品を多く書いている。《光州1980年5月》は、光州事件直後に制作された富山妙子のスライドのために作曲。あらかじめ準備しておいた民衆歌、抵抗歌などの素材を、東京での初演に向かう列車の中で整理した作品と云う。スライド本体の頒価50,000円で、日本国内のみレンタル可(1週間以内 15,000円)との事。

c0050810_5585962.jpg 尹伊桑(ユン・イサン、1917年9月17日 - 1995年11月3日)は、釜山近くの慶尚南道・統営(トンヨン)の出身。15歳で来日、大阪でチェロと音楽理論を学ぶ。21歳で再来日、東京で池内友次郎に3年間師事。戦後、釜山・統営・ソウルで教員として勤めた後、1956年6月に渡欧、パリ音楽院でトニー・オーバンに、翌年からはベルリン音大でヨーゼフ・ルーファー、ボリス・ブラッハーに師事。1963年に北朝鮮を初訪問。ドナウエッシンゲンで初演された管弦楽のための《礼楽(レアク)》(1966)で国際的評価を得る。1967年7月に韓国中央情報部(KCIA)によって逮捕、裁判ののち、1969年2月に釈放。1971年に西ドイツ国籍に帰化、1974年からベルリン音大教授。ハンブルク芸術アカデミーならびにベルリン芸術アカデミー会員。1987年西ドイツ政府大功労十字勲章。細川俊夫、三輪眞弘、嶋津武仁、古川聖ら11名の日本人を含む多くの弟子を育てた。代表作に、オラトリオ《唵麼抳鉢訥銘吽(ああ蓮華の中の宝珠よ)》(1964)、ミュンヘン・オリンピック委嘱の歌劇《沈青》(1973)、《チェロ協奏曲》(1976)、交響詩『光州よ、永遠に!』(1981)、ベルリン・フィル100周年委嘱『交響曲第1番』(1982/83)、サントリーホール杮落委嘱『交響曲第4番 《暗黒の中で歌う》』(1986)、金日成生誕75周年を祝うカンタータ《わが地、わが民族よ!》(1987)等。
  《間奏曲A》(1982)は、1982年5月6日に東京で高橋アキにより初演、同氏に献呈。初演者のファーストネームに由来したと思しきA音が、主要音(ハウプト・トーン)として多様な変容を見せつつ強靭な生命力を持続する。


 姜碩煕(カン・ソッキ、カン・スキ、カン・ソクヒ、1934年10月22日- )は、ソウル生まれ。ソウル工科専門学校で学んだ後、ソウル音大作曲科を1960年に卒業。1969年にパン・ミュージック・フェスティヴァルを創設。1970年に渡独、ハノーファーで尹伊桑に、ベルリン音大でボリス・ブラッハーに師事。1975年からソウル大講師、1982年~2000年ソウル大教授。1985年~1990年ISCM副委員長に就任(アジア人初)、のちに名誉会員。日本へは尚美学園大学客員教授として定期的に来日。代表作に管弦楽のための《カテナ》(1974~75)、フルート独奏と合奏のための《萬波》(1982)、ソウル・オリンピック開会式と閉会式のための電子音楽《プロメテウスの到来》(1988)、カンタータ《緑輝く地球上の平和》(1992)、東京室内歌劇場委嘱の歌劇《超越》(1995)、仏プレザンス音楽祭のクセナキス特集の一環で初演された《ピアノ協奏曲》(1998)、大關嶺音楽祭委嘱のヴァイオリン独奏と14弦楽器のための《平昌(ピョンチャン)- 四季》(2006)等。
  《ソナタ・バッハ》(1986)は、J.S.バッハ歿後300年記念年における、ベルリン・ホリゾント音楽祭の委嘱作品《サクセッション》のピアノ独奏版。パク・ウニ夫人(Eunhee Park)に献呈。B-A-C-Hの音名象徴を、4部から成る全体構成や倍音列システムにまで織り込んである。 

  陳銀淑(チン・ウンスク Unsuk Chin 1961年7月14日- )は、ソウル生まれ。ソウル大学で姜碩煕に師事。在学中の1985年、3台のチェロのための《スペクトラ》でガウデアムス国際作曲賞第1位(アジア人初)。独政府給費DAAD留学生として渡欧、ハンブルク音大でジェルジ・リゲティに師事(1985-88)。ポスト・セリエル書法で書かれた当時の作品を、時代遅れだとリゲティに非難され、3年間作曲が出来なくなる。1988年にベルリンへ居を移し、ベルリン工科大学電子音楽スタジオにて、8台ピアノのための《無限への階梯》(1989)をはじめとする7作品を制作。ソプラノとアンサンブルのための《折句―言葉遊び》(1991)で国際的知名度を得る。1995年にブージー・アンド・ホークス社と契約、全作品の楽譜を同社より出版。1999年以降ケント・ナガノと交流を深め、バイエルン国立歌劇場でのオペラ《不思議の国のアリス》(2007)を含めて、5作品が彼によって初演されている。ヴィヴィアネ・ハークナーとナガノによって初演されたヴァイオリン協奏曲(2002)はグロマイヤー作曲賞を受賞、テツラフ/ラトル/ベルリン・フィル(2005)を含めた全世界のオーケストラにより再演されている。他に、IRCAM委嘱作品《ザイ Xi(種/核)》によりブルージュ電子音楽国際コンクール第1位(1999)、A.シェーンベルク賞(2005)、ハイデルベルク女性作曲家賞(2007)等。韓国民俗音楽を含めた特定の文化と自作との関連性を否定している。
  ピアノのための練習曲集は全12曲が予定され、現在までに6曲が完成している。そのうち4曲は、2003年に簡易版(改訂版)が作成され、現在取り上げられるのはもっぱらこのヴァージョンである。第1番《インC》は、1998年バリ島滞在中でのガムラン体験に触発されたもの。バッハ平均律、ショパン・ドビュッシー練習曲集と同様に、曲集の劈頭を「ハ調」が飾る。第2番~第4番は米ウォッシュバーン大学(Washburn University)からの委嘱作品。東京オペラシティ財団委嘱の第5番《トッカータ》は、第1番同様、C音の倍音列に基づく。英サウス・バンク・センターでのブーレーズ生誕75周年記念コンサートのために書かれた第6番《粒子》は、波形合成の一方式である「グラニュラー・シンセシス(微粒合成)」の翻案。
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by ooi_piano | 2012-08-24 05:59 | コンサート情報 | Comments(0)
(つづき)
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イタリア、正確に言えばミラノに住み始めて暫くすると、現代音楽界でのドナトーニの位置が少しずつ見えてきた。
毎年世界の何処かで彼のフェスティヴァルが催され、クラシックだけでなく、ジャズの演奏家までもが彼の作品を好んで取り上げている事も知った。
日本から見えるドナトーニは、かなたの星雲の中心に煌めく一等星のようなもので、周りには目に見えぬ無数の星が引力を受け巡行していた。
近距離から見れば、圧巻な光景であって、その中心で彼は無邪気に光り続けていた。

彼を崇拝する一連の作曲家の中でも、特に若い世代の一派があって、どうにも好きになれなかった。
殆ど同世代だが、共に集っては似たような作品ばかりを書き合い、揃って大金持ちの息子だったりするので始末が悪い。
そんな人種の醸し出す退廃的な臭いが充満していた。
ヨーロッパ文化の裏側を何千年も培ってきた、独特の黴臭さか。
そんな重苦しさが耐え難かった時期があって、何もする気がおきなかった。
音楽とは何なのか、誰か答えて欲しいと叫び続けていた。

この、しっとりと肌に染みる、地面を這う霧のような空気は、音楽ではないだろう。
何度も自問自答を繰り返していて、暫くドナトーニにも会えなかった。
併し、ヨーロッパ人の音楽とは、その空気だったのかも知れない。
違う文化に生れ育った人間は、まずその空気を認識する術を学ばなければならなかった。何かはっきりしないものが、自分の裡で軋み合っていて、毎日をやり切れない思いで過ごした。
ドナトーニの意味が自分の中で見えなくなっていた。

論理とか理屈は、一度信じてしまうと宗教の働きすら醸し出すもので、その許しなしに人は事象を眺められなくなってしまう。
その向こうに音楽があるに違いない。
それが分かれば分かる程、葛藤は茨の垣根のように立ちはだかり、行く手を拒んだ。
「そこまで自分で納得出来たのだから」
或る時、ふと思った。
「少しずつ茨を払ってゆこう」
何時か向こう側に抜けられるかも知れない。
98.03.08


必要な旅支度を一応終え、部屋を簡単に掃除する。
明日の朝六時十五分にタクシーを呼んであって、フランコを拾ってリナーテ空港から飛ぶ予定になっている。
あたふたと準備に追われたこの一月は飛ぶように過ぎ、夢を見ているようだった。
その間に桜は散り始め、目の前には葉桜の青が映えている。
儚い桜の花を追うように、きらめく春に向かう。
妙な心地だ。
日本に帰ったどの時とも違う感覚に少し戸惑っている。
結局茨の垣根を抜けたのか。
自問自答を繰り返してみるが、答など返ってこない。
透明な気体を、すうっと躯が吸い込んだ気がした。
98.03.某日
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この六月九日にドナトーニが71歳の誕生日を迎える。
色々個人的に感謝している事もあり、彼の誕生日祝に「フランコII」を書き手渡して来た。作曲も終盤に入ってくるとまるで長旅の伴侶との別れを惜しむかの気分に陥り、音にも少し寂しさが混じる。
ドナトーニが何時も作曲を旅程に喩えていたのを思い出していた。

四月上旬から三週間、日本でドナトーニと共に過ごした。
二月にロンドンから帰って来ると疲労と自己健康管理能力の悪さから持病の糖尿が悪化して寝たきりになっていて、実はこの四月の訪日は実現不可能と思われていた。
部屋を訪ねると室内はむっとした病人の臭いが鼻を付き、書きかけのスコアの音符は殆ど崩れかけ臨時記号もどの音符に付いているのか判読不能な程で思わず泣きそうになった。ずっとベッドに寝たきりで、手土産のケーキは台所で切り分け差し出した。
ふと見ると彼はもう寝息を立てていて、強い薬の副作用なのだった。
何度となく彼を訪ねるうち、門番の老夫婦と言葉を交わすようになった。
誰か訪ねて来ないのかと聞くと、毎朝医者と看護婦が検診に来て、時たま彼女やミラノに住んでいる下の息子が見舞う程度だと聞き意外だと思った。

ある友人にその話をすると、最近彼は昔のように社交的ではなくなって、周囲も余り近付きたがらなくなったと少し寂しそうに語った。
歳を取って自分の作曲だけで満足するようになったのだろう。
そう言われて殆ど戸惑っていた。
出発まで後一月を切っても、彼の容態は変わらず一日寝たきりの生活をしていて、とても苦しかった。
日本側と講習や演奏会の準備云々に毎日のように連絡を取り合っていて、彼がどれだけ日本で楽しみにされているか痛感していたし、周囲が説得しても彼は旅行を止める事に納得しなかった。
もし今回取り止めたら彼が又日本にゆける機会があるのか。
だったら今回無理しても連れてゆくべきなのか。
毎日迷い続けていた。
出発の三週間程に日本側に全てを話し延期の可能性を打診して貰ってから、意を決し「秋に延期しよう」と提案した。

インターネットで毎日糖尿病に関する資料を漁っていた。
特に食生活の管理について一体何が食べられて、何を食べさせてはいけないのか、何も知らない私は必死になっていた。
もし彼が日本で倒れたら責任は当然私や招聘側に来るのは必至で、それより世界から愛されている作曲家にかけられる責は自分の想像を遥かに超えるものがあった。
胃薬を呑んでみても食欲はなく、夜も眠れなくなった。
「とんでもない。秋は秋で忙しいし、絶対今日本にゆくよ」
日本の招聘元からも殆ど困惑の表情が受けとられた。
そこまで言うのなら、腹を決めよう。
裸のまま寝息を立て、訪ねて行った事すら知らない作曲家を眺めながらそう思った。

日本側にはもしもの事態に備え糖尿に強い医師に渡りをつけておいて貰い、こちらのかかりつけの医師からは詳しい診断書と、与えられている数多くの薬などの指示を書きつけて貰った。
当然普段必要なインシュリンのケースなどに関する説明を聞く事も忘れなかった。
友人の看護婦に話すと「爆弾抱えて旅行するようなものね」と慰められ、毎日アドルノや彼に関する難解な書物を読み漁りながら過ごしていた。
すっかりドナトーニが何を考えていたのか忘れていた自分にとって、彼のレッスンを助けるのは大役以外の何ものでもなかった。
演奏のように教師が弾いて聴かせる事が出来ない替わりに、作曲のレッスンは言葉でのコミュニケーションが全てだ。
楽譜を見て単純にどこが良いどこが悪いというのではなく、何故そうなるのかという互いの基本理念の確認作業からレッスンの方向性が生まれる。

色々な事に焦りを覚えながら、日本へ発つ数日前から毎夜彼が日本で発狂する夢に魘されて、いつも夜中に飛び起きていた。
出発の朝早く、タクシーで迎えにゆくと、彼は既にすっかり準備を整えて待っていた。
タクシーに乗って、先ず朝のインシュリンを打ったかどうか確かめた後、
「こうなったからには、互いにこの旅行を楽しまなきゃね」
そう言いつつ殆ど自分を奮い立たせていた。
98.06.09
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この春にドナトーニと広島を訪れた。
日本へ向う機内から彼は戦時中の話を繰返していた。
「昨日の事のようだ」
ムッソリーニは、日本やドイツに比べ随分早くアメリカ軍に倒れた。
第二次世界大戦末期、ナチスは北イタリアで子供を中心に人さらいをしていて、子供だったドナトーニも、住んでいたヴェローナがドイツ軍に包囲された事がある。
その時の母親の「早く教会に逃げて」と言う叫び声は忘れられないと苦しそうに話した。
「連れてゆかれた子供は、もう見つからないんだ」
だからどうしてもドイツにだけは住めないのと言う。
「アメリカの兵士は恰好良かった。車上からガムやスパゲッティを配ってね。皆こぞって貰ったものだ。何しろパリッと糊の良く効いた軍服なんて見た事がなかった。その頃は母さんと婆さんがアメリカ軍の軍服を洗濯して日銭を稼いでいたよ。食べるものもない位貧しかったからね」

広島を訪れる事は、色々思う処があったに違いない。
原爆の恐ろしさを何度となく口にして資料館を見たがった。
朝、資料館の前の記念公園に着くと鳥肌が立った。
彼は何も話さず黙って資料館を巡り、最後に、
「すごく悲しい」
ぼそりと言った。

案内をしてくれた人は困った顔で言った。
「これを見てしまうと、誰も観光しようなんて気分ではなくなってしまうんです」
だから結局広島は、原爆を常に背負ってゆかなければならない。
「長崎のような歴史的な文化体系もなかったですし」
原爆を素材に数え切れない文学や絵画、音楽作品が生まれた。
「結局その檻の中に縛られてしまうのです」
原爆を最初に発明したイタリア人天才物理学者は、その後発狂して行方知れずになったと言う。
98.08.06


梯子を借りに門番のMの処に顔を出した。
ふと横を見ると金閣寺の絵端書が飾ってある。

山門から金閣寺まで、足が不自由な老人には随分長い道程だ。
休みながら中学の修学旅行生に混じってゆっくり歩く。
半時間はたっぷり掛かっただろう。
それまで手を後ろで組み俯き加減に歩いていたドナトーニが、池に映る寺を認めて立ち止まった。
じっと寺に見入っていて、私も黙っていた。

三分程立ち尽くしていて、
「帰ろう」
私に声を掛けた。
「もっと近くから観たくないの」
「この手のは、遠くから眺めるから素敵なんだ」
そう言うと、ゆっくり歩き始めた。

ドナトーニがどこか出掛ける度に絵端書を書く相手がいた。
彼の主治医だ。
「可哀そうに。忙しくて何処にも旅行に出掛けられないから、こうして書いてやるのさ」
東京、京都、広島と計三通、自分のサインがのたくっただけの絵端書を書いた。

広島のホテルで朝食を摂りながら、彼の家族や女友達にも絵端書を出そうと提案した。
「イタリアに戻ればどうせすぐ会うから必要ないよ」
そういうものではないと説得すると、差し出した絵端書を見比べながらどれを誰に出そうか、などとまんざらでもない様子だった。
爺さんが生きていたら、こんな風に付き合えたか。
目の前の老人を不思議な気分で見つめながら、ぼんやりと思った。

ミラノに戻って暫くして、様子を伺おうと電話をすると、
「お前に礼を言おうと思っていた矢先だったよ。絵端書どうも有難う」
嬉しそうな声が応えた。
「そら見た事か」
電話口で思わず北叟笑んだ。
98.08.某日
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ドナトーニと二人でY先生の茶室に招かれた時の事を思い出した。
純和風造りの家は彼には驚きの連続だった。
糖尿で足が悪く、ドナトーニは特殊な靴を履いている。
靴底が柔らかくなっているのだと思う。
室内履きも特別なサンダルを常用していた。

家には上がるのに靴を脱がなければならず、三和土から玄関へ上るのに何時も非常に苦労した。
実際、玄関に腰掛けさせるのも一苦労だったのだから。
当然、腰掛けてしまえば靴は脱げない。
意外に玄関は高かったのだ。
甲斐甲斐しく靴紐を解き脱がせていたりするのを見て、Y先生のお母様曰く、
「昔の書生さんのよう」
端から見ていれば近いものがあっただろう。

男二人がかりで玄関から引き上げてみると、さて掴まる処がない。
彼は人前で肩を貸されるのを厭がった。
玄関でのやりとりも、いたたまれない思いだったに違いない。
よろめいて障子に凭れようとしても、細木の障子が役に立つわけもなく、応接間に辿り着く前に、彼の顔には薄く諦めに似た表情が浮んだ。

応接間に通されると今度は座椅子に坐らなくてはならない。
またしても男二人で抱え込んで何とか事なきを得た。
彼にも漸く安堵の様子が見えた。
「こんな家に住んでみたかった」
しばらく鴨居や柱を目で追ってから、軽く頷いた。
「ミラノのアパートも、こんな造りにしたかったのだけれど」

和式の家には憧れがある。
梁のうねりの大胆さと細木の繊細さが複雑な流れを生み出す。
たゆたうような時間に絡め込まれるのは、日本が培って来た文化の深さを表しているのだろう。

「対照性に内包された非対照性」
ドナトーニが絶えず口にする言葉だ。
対照性がある全体機能を約束し、保証された世界の中で自由を求める。
キリスト教の発想と無縁ではないのは明らかだが、目の前を縦横無尽に走る梁の木目の美しさを、彼は同じ言葉で形容した。
一見自由に流れて見える梁の中心にさりげなく掛けられた書が、全体を引き締めていると言う。
書の世界から外へ発想を広げるのではなく、箱の認識から内容を検証する辺り、実にヨーロッパ人らしい。

厄介を繰り返して小さな茶室に彼を通した。
まるで子供の様にまんじりともせず奥さんの立てるお茶の作法に見入っている。
一つ一つ作法の説明をするのだが、彼が表情を替えたのは、目の前に乾菓子と生菓子を並べられた時だけだった。その後彼は繰り返し作法の精確さと洗練度を讃えていた。
ミラノに戻ってからも、事ある度に金閣寺と茶室の出来事を引き合いに出した。
一々説明しながらお茶を受けるのは、個人的には余り気の乗る体験ではなかったのだが。
気が付くと茶室はすっかり夕暮れ色に染まっていて、炉の炭の赤が美しく映えていた。
98.9.某日

パドヴァの仕事を終え帰宅すると、深夜三時を回っていた。
疲れ果てていて車に乗るとすぐに眠り込んだが、マリアの「雪よ」と言う声に思わず目を醒ました。
ヴェローナを過ぎた辺りから深い雪が降り続き、家に着いて外の温度計を見ると零下二度でいつもより幾分暖かい気がした。
ここ数日ミラノは冷え込んでいて、朝晩零下五度以下まで下がっていた。
真っ赤な朝焼けに一面霜床の真っ白な風景がきらきら輝くのも美しかった。

ドナトーニがまた病院に戻ったとサンドロから聞き、小さな花束を携えて病院を訪れた。
幾分ふっくらした顔のフランコは、横臥して透析を受けていた。
下の息子のレナートがいて、ミラノまで送って貰う。
「結局自分の躯の老化を認めたくないんだよ」
少し困ったような、誇りの滲む口調で呟いた。
98.11.某日

ドナトーニを聖ラファエル病院のリハビリ病棟に訪ねると、相変わらずマリゼルラが甲斐甲斐しく世話をやいていた。
表情は非常に硬く、皺が驚くほど増えている。
「日本で美しかったのは黄金色の寺。醜かったのは日本の男」
ぶっきらぼうに呟いた。

以前嫌がっていた車椅子に腰掛け、昼食が遅いと苛立っていて、窓から差し込む外の光は、思いがけなく眩しかった。
マリゼルラにナプキンを掛けて貰い二人で食卓を準備するや否や、老作曲家は食事にむしゃぶりついた。
「あなたの好きなオレンジもあって、良かったわね」
病室の扉には、クリスマスの飾りが付けてあった。
98.12.23
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by ooi_piano | 2012-08-21 00:29 | 雑記 | Comments(0)
水牛「しもた屋之噺」より
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親しく交わっていたドナトーニの死も、自分にとって大きな契機となりました。長年重度の糖尿を患い、数年前に自分で身の回りの世話が出来なくなった時点で、これ以上生きるのは虚しいと明言したにも関わらず、我々周りの人間が、何とか彼を生きさせ作曲させるべく、策を巡らせていたのでした。肺に水が溜り入院した夏の盛り、突然ぱったりと食事を拒否し、そのまま衰弱して息を引き取りました。生きる事を拒絶する人を目の当たりにして、生が何を意味するのか考えさせられました。生はすなわち死を理解する事であり、死は逆に生を理解する事なのかも知れない、とその時思いました。

…マリゼルラから電話。「フランコ、死んでしまったわ」と言われた時、初め全く内容を理解していなかった。文章を何度か反芻して漸く内容が理解できると今度は愕然とした。心の中で「まさか。嘘でしょう」と叫んでいて、マリゼルラは泣いていた。
霊安室に駆けつけた。死体安置礼拝所に並んで、霊安室は病院の外れにあった。入口には、ただ「お入り下さい」とだけ書いてあって、空恐ろしかった。辺りには人気がなく、びくびくしながら天井の高いがらんとした建物の廊下を、誰かいないかさまよった。
門番の憲兵が、呼鈴を鳴らせば人が出て来ると教えてくれ、その通りにする。目の前には遺族らしい10人程の人が泣き崩れていた。果して白衣を来た男性が現れると、「地下1階7番の部屋です」、手短に言われ、独りで階段を降りた。ダンテの神曲で、地獄に降りる気分とはこんなものかしらと考える。
霊安室は形容し難い、壮絶な処だった。広間に面して幾つもの個室が単純に並び、幾つかのドアは開け放たれており、ベッドに人が横臥している姿も見えたし、或る部屋には遺族らしき人々が集まり亡骸を囲んでいる様が、厭がおうにも伺われた。
こわごわ7号室を探し、ノックした。中には誰か居ると思った。失礼します、と言って恐る恐るドアを開けると、シーツにくるまれた足の先が見えた。ひんやりとした奇妙な雰囲気の部屋に入ると、4畳程の白タイル張りの殺風景な小部屋にフランコが横たわっていて、他には誰も居なかった。自分が異物に感じられ、落ち着くまで時間が掛かった。顎から頭にかけて、包帯でしっかり留められていたが、落ち着いた顔だった。土色とは言え、普段から顔色が悪かったので、死んでいる事すら分らなかった。換気扇がまるで彼の寝息の様な音を立てていて、喉に挿入されていたチューブやカテーテルを外されたフランコはこざっぱりとして、長かった葛藤から漸く解放されたと思う。目は閉じられていて、右側から見るとただ寝ている様に見えたが、逆から見ると目は微かに開いていて、宙を見ている様にも、又目の奥がじろと僕を覗いた気もして、どきりとした。屍に触れるのは初め抵抗があったが、軽く髪を撫でると、いつものフランコで安心した。冷たくなってはいたがきっと彼も近くに居るに違いない、この様子を飄々と眺めているだろうと思うと愉快にさえ感じられたが、不思議な事に、呆然としているだけで何の感情も湧かなかった。
もうそろそろ帰ろうと思った時、ふと我に返って当惑した。今までは「又、近い内に」と声をかけ、フランコが「じゃあね、ヨーイチ」と答えるのが常だったが、霊安室では何と声を掛ければ良いのか。こういう時に「Addio(永遠の別離の挨拶)」と言うのかと思った途端、涙が溢れた。額にお別れのキスをして、後ろ髪を引かれる思いで外に出た。(2000年8月の日記より)
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57
先月の猛暑が嘘のように、8月の声を聞いた途端、ミラノは秋の気配に包まれました。結局今月は譜読みと作曲を続けているうちに過ぎてしまった感があります。今は連日の合わせが終わり、エルナンデスの詩で合唱を書きながら、秋にロサンジェルスで演奏するドナトーニの「最後の夜」を勉強しています。思い返せば、高校のころ、篠崎先生のお宅で、「最後の夜」のヴァイオリンのパート譜を見せてもらったのが、ドナトーニとの最初の出会いで、あれから20年近くたって、漸く自分で演奏する機会が巡ってきました。久しぶりに一つ一つ音符を追いながら勉強して痛感したのは、言葉で表現できないドナトーニの凄さです。彼の亜流とか弟子たちの作品でよく書けているものはたびたび見かけますが、楽譜を勉強して改めて感じるのは、ドナトーニの素晴らしさは作曲の技術でも書法でもなくて、彼自身の音楽性によるのだという至極当然の事実でした。

「最後の夜」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ぺッソアのテクストを、タブッキが伊訳した断片からなっています。こうして譜読みを粗方終えて、ふと、納戸にしまいこんであったエンツォ・レスターニョのインタビュー記事を読み返してみたくなりました。
「1980年に書いた、<最後の夜>という、フェルナンド・ぺッソアの詩による女声と五楽器のための叙情的な短い断片集があるだろう。君とぺッソアとの出会いというのは、誰もの興味をそそるところだと思うのだがね」
「いや、あれは実は偶然なんだ。それまでぺッソアは全く読んだことがなかったんだけれども、あの年の夏、マリゼッラ・デ・カルリが<たった一つの多性>を読み始めてみて、絶対僕にぴったりだと確信して、渡してくれてね。ぺッソアが色々なペンネームを使って、さまざまな人格に成りすました例のエピソードに魅了されたんだ。だから、あちらこちらから断片を集めて、ちょうど書かなければならなかったフランス放送の委嘱新作を書いたというわけさ。1980年の10月から12月までかかってスコアを仕上げた。あの頃、また新たな欝病の症状に呑みこまれつつあったところだった。直後の1981年の初めから、結局精神分析にかかって、なんとかあの状況から脱しようと試みるんだ」
こう答えたあと、エンツォは、欝病に悩まされる人間が、ぺッソアのような絶望的で暗い世界を読むのは到底良いとは思えないが、と続いてゆきます。

この年の春、ドナトーニはチェロ協奏曲「階段の上の小川」を作曲しました。この曲は「最後の夜」とともにこの時期の傑作として双璧を成していますが、「階段の上の小川」の44頁を作曲中、ドナトーニは精神病の発作が起きて作曲を中断せざるを得ませんでした。作曲にあたり下書きを用意せず、いつも直接清書をしていたドナトーニの精神状況は、この44頁の長いフェルマータの前後で大きく変化するのが、聴くものの心を穿ちます。そして、まさにその直後に書かれた「最後の夜」のために、ドナトーニが選んだぺッソアの断片は次のようなものでした。

「暗がりで、自ら解さないままに独りごちた。遥か彼方、神が忘却の都市を築いた砂漠を、今日わたしはこの手で知る」
「あたかも一日が死にゆくような風景の、旧く静かな夜に立ち戻るために」
「(風。戸外のあちらに)」
「皆、死んだ赤ん坊を抱いて、あやそうではないか」
「どこでもそうであるように、ここでも異邦人だ」
「静かなる夜よ。わたしにとって、どうか母性であってくれ」
「闇の些細な羽音、さもなければ葉のかすれる音に、際立つ沈黙」
「病人。翻る旗のまにまに、滅びゆく剣の刃の夕暮れは、王国の最後の夜が焔に包まれて」
全体がシンメトリーの8章の歌曲集は、歌詞もまたシンメトリーになっていて、冒頭と終章は、同じ詩集から採られています。原詩にはかなり長大なものもありますが、ここではどうやら詩の前後の脈絡なしに、作曲者の一定の視点に沿って切り出されたようです。
ドナトーニが欝に呑み込まれそうになりながら編んだ言葉は、果てしない闇のなか音もなく燃えあがる崩れかけた彼自身の姿を彷彿とさせます。様々な人物に自在に変容しながら紡がれるぺッソアの言葉は、底なし沼に足をすくわれかけていたドナトーニにシンパシーを呼び覚ますものだったに違いありません。
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「最後の夜」が書かれた1980年、ドナトーニは2冊目のエッセイ「Antecedente X 作曲の困難について」を出版します。「Antecedente X」は、難解で有名なドナトーニの本のなかでも特に理解が難しいと言われますが、多くは精神科の医師の勧めに従い夢をそのまま書き留めたもので、幻想的で怪奇な情景が続くものです。
「最後の夜」には、こうした当時の作曲者の精神状態がはっきりと刻印されているように思います。どんなに音が交ざり合って混濁しきっていても、感情は空虚で、絶対に濁らないのです。虚無感にも通じるような、この感情不在の不安感が浮かび上がらせる夜の風景は、どこまでも透明で、人間的な触感が極力排除されているようです。そしてこれらのファクター全てが、ぺッソアの言葉と結びついて、強烈な個性を放つことになります。ぺッソアのように、直接自己を露呈せずに借り物の他者に言葉を託す姿勢が、当時のドナトーニにそっくり当てはまるからかも知れません。

とにかく楽譜を勉強してゆくうち、この透明感、虚無感にすっかり魅せられてしまいました。そして、ああまたこの色だ、この暗い、くすんだ茶色のような色調が、イタリアのリアリズムの色だと妙に納得するのです。ミラノ中央駅のくたびれた色の剥き出しの鉄骨のような、ダルラピッコラの肌触りのような、イタリアン・リアリズムの白黒映画のような、暗くて鈍い色が、ここにも一面に塗りたくられているように思います。でも、そこから全ての感情を抜き去ってしまったような超越感があって、まるで剥製になったピエロ・リュネールのような按配です。編成から鑑みても、何箇所かの女声の扱いを見ても、ドナトーニがピエロ・リュネールを意識していたのは間違いありません。

4曲目の歌詞に出てくる「死んだ赤ん坊をあやす」という下りで、原語では「男の子の赤ん坊」と書かれています。これを読んだとき、ドナトーニには一人幼くして死んでしまったマルコという男の子がいたのを思い出しました。「Antecedente X」の前書「Questo」をマルコに捧げるほど、彼はいつもマルコのことを心に留めていました。この歌詞を選んだとき、ドナトーニがマルコを意識していたかどうか分かりませんが、「死んだ赤ん坊を、figlio morto...」とこの曲を 結ぶところで、「死んだ morto」という言葉を最後まで言い切らずに「mor....」だけで二重線が引かれているのが印象に残っています。

6曲目の「わたしにとって、どうか母性であってくれ」という部分では、ドナトー二は曲の最後を「どうか母性で」で終わらずに、また延々と「静かなる夜よ」と繰り返し、最後に「hahahahahahaha」という女声の奇怪な笑い声だけで終わります。この意味はぺッソアの原詩「Passagem das Horas」を読んでみてもよく分かりませんでした。一人っ子だったドナトーニにとって、母親はとても強い存在だったのは良く知っています。たびたび話に登場しましたし、彼の家の玄関に、ドナトーニそっくりのお母さんの写真がいつも飾られていたのを思い出します。

この曲がマリゼルラに捧げられているのは、もちろん最初にぺッソアの本を渡してくれたからですが、1980年なら、まだ彼らが付き合いだして3、4年というところではないでしょうか。前の奥さんや子供たちとの関係も一番複雑だった頃だと思います。
マリゼルラと二人、トリノ近郊のモンテウという山村に住んでいた、前妻のスージー宅を訪れたことが何度もあって、2000年頃リハビリを兼ねてドナトーニはずっとこの家に滞在していました。巨体のドナトーニが、本当に小さな、目のつぶれた子猫をそれは可愛がっていました。当時、スージーとマリゼルラは表向きまるで家族のような付き合いをしていましたが、それでも一人でモンテウを訪ねるより、誰か同行者が欲しかったのでしょう。よくマリゼルラから誘いの電話をもらいました。ピエモンテの田園風景に車を走らせながら、その昔、確執が激しかったころの話をしてくれたのが、今となってはとても懐かしい気がします。

当時からアルコール漬けで身体を壊していたスージーは、ドナトーニの死んだあと、しばらくミラノの子供たちのもとで治療を続けていましたが、去年やはり肝臓を壊して亡くなったとマリゼルラから電話をもらいました。久しぶりの電話でうちの子供の誕生を喜んだあと、ところで、と声を落として話してくれました。彼女も、長年お母さんと住んでいたローディ通りの家を売り払って、もう少し中央に小さなアパートに引越して、新居に遊びにゆくよと言いながら、互いに忙しさにかまけてそれきりになっているのが、ずっと気にかかっています。
(8月28日モンツァにて)
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by ooi_piano | 2012-08-21 00:29 | 雑記 | Comments(0)
●杉山洋一「ミラノ日記」(1997年3月~98年12月末日/初出 Yominet、文芸フォーラム yomiuri lane) [.tzzファイル]
  →.tzzファイルを読むためのT-Time5.5ダウンロード
●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~2004年11月/初出 サイト「水牛」)[.tzzファイル]
●杉山洋一「しもた屋之噺」(2001年12月~現在)



ミラノ日記より
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サンドロのクラスでドナトーニの話になる。
彼は、最初に頭の中で十秒位、次の部分をどう書こうか考える。それから三日間位は全く何も考えず、ただ音符だけを書いてゆく。こうした作業を突き詰めてゆくと、単調な作業が神秘的な様相を帯びてくる。
或る午後、ドナトーニの帽子だらけのアパートを訪ねた。
壁中至る処に、世界中から贈られた帽子が掛かっている。
話尽きる事がなく、気が付くと、地下鉄のストライキで家に帰れなくなってしまった。
ドナトーニは家まで送って上げると言い、お気に入りの日本車を出してくれたが、 話を続け運転をしているうち、二人とも道に迷ってしまった。
仕方がない、タクシーでも拾って家まで帰りなさい。
彼がいつも胸に吊している財布から、五万リラ札を抜き取って手渡してくれた。
この処ドナトーニに会っていないが、もう車の運転は出来なくなったと聞いた。
97.06.01


ドナトーニの楽譜には無数の間違いがあるが、古いステンドグラスに紛れ込んだ不純物が反って美しさを引き立てるように、間違いは間違いのままで良いような気がする。
97.06.08


ピアノのマリアグラツィアの演奏会にゆく。ゴルリが来日した折、アンサンブルのピアノを務めた、理知的な雰囲気の漂う女性だ。
演奏会の前半、ドナトーニのフランソワーズ変奏曲という四十九曲の長大な作品を淡々と弾いた。
耳が飽和状態になり、音の美しさだけが際立つ。
ドナトーニとひたむきに対峙する姿は、美しかった。
最前列の作曲者がじっと顔をうつむき聴き入る姿とあいまって、自分の裡に何かが刻み込まれた。この作品は十年以上かかって仕上げられたが、聴きながらドナトーニはその時間を噛みしめていたのかも知れない。
静的な空間に包まれ、響きに人生を捧げた二人の出逢いが、聴き手に染みる。
高校で作曲科に入学するまで、ヴァイオリンを弾いていた。
ヴァイオリンの師匠が現代音楽と縁が深かったお陰で、今もこんな文章を書いている。
師匠の関わっていたアンサンブルが、当時知られていなかったイタリア現代音楽を取り上げ演奏会をした際、ドナトーニやシャリーノの名を知った。
書込みだらけのパート譜を見せて貰い、胸がときめいた。
シャリーノの「ソナチネ」、そしてドナトーニの「最後の夜」だった。

譜面には、ハーモニックスの菱形の音符ばかり並んでいた気がする。
今から思えば、「最後の夜」はハーモニックスが多用される作品ではないのだが、曲中、確かに弦楽器がハーモニックスを鏤める部分があって、そこに惹きつけられたのだろう。

指定の速度で演奏不可能だからドナトーニに電話をしてみたら、出来る早さで弾いて下さいですって、とさも可笑しそうに笑ったのが印象に残った。
そうか凄いな、電話なんてしてしまうのか。

譜面から、乾いた音質と、乾いているのだけれど、どこか神秘的な一人の男性を思い浮かべた。当時、師匠の家に赤茶に日焼けしたカーテンが掛かっていて、そこに夕日が映える姿は、正にドナトーニだった。

どこかへ埋もれてしまったと思うけれど、演奏会のプログラムの解説も思春期の心を捉えた。今から思えば、解説を書いている本人も相手がどんな人物か良く分からず、想像を膨らませて書いていたという処だろう。
それが良かった。
マルコポーロの東方見聞録を読むような驚きに満ちていて、何度と無く読み返した。”“

何年か過ぎ、音楽高校に辛うじて入学し、アカデミズムの中で生きる事を学ばなければいけなかった。
一人で好き勝手に音楽をしていた者にとって、それまでの習慣を捨てるに等しく、慌ただしい時間の中ドナトーニの名前も忘れかけていた。
思い出してはいけないと、どこかで自分を戒めていたのかも知れない。

併し、元来の不真面目な性格が祟って、禁欲生活にも破綻をきたし、精神的放浪生活に身を任せるようになった。
周りが似たような作品ばかり書いている事が疑問でならなかった。
真似をしているのか、それとも同じ事が心に湧いて来るのか。
湧いて来ない自分は何なのか。

自問自答の日々をやり過ごしている時、学校の図書館で久木山さんに会った。
彼は一世代上の作曲家で、当時はまだ研究生として学校に籍を残されていたかも知れない。
九段下のイタリア文化会館の図書館に、昔文化会館で催された現代音楽の資料が残っているかも知れない、と声を潜めて助言を受けた。
98.02.16
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イタリアの現代音楽か、昔好きだったな。
ふらりと出掛けたイタリア文化会館は、不思議な空間に見えた。
蔦の絡まる古い洋館は、イタリアそのものだった。
ニスのてかる木の廊下の奥に図書館があって、痩せた女性が一人タイプに向かっていた。
東京である事すら忘れていたせいか、女性がどうにもイタリア人に見えて仕方がなく、どう声を掛けたものか窮していると、彼女の方からさっぱりした声で、何かお探しですかと尋ねてくれた。
確かに、数本のカセットに録音された演奏会の様子が残されていたが、録音に興味を持った人はいないという話だった。
一冊のプログラムと一緒にカセットを貸りて、繰返し耳を傾けた。
明らかに安いテレコで録音されたとおぼしきカセットは、自分が描いていたイタリア音楽の神秘的なイメージにぴったりで、昔のときめきが蘇ってくるには充分だった。
へろへろで雑音だらけの録音は、蓄音機に耳をそばだてるような手触りがあった。

ブソッティ、ベリオ、ドナトーニ、シャリーノ、カスティリオーニ、ゴルリ。
妙な名前が並んでいるだけで、澁澤のマニエリスムに鳥肌を立てる少年には刺激的で、それらが生身のイタリア人の音で聴こえて来た時にはどうしようかと思った。

プログラムは今から思い出しても素晴らしい内容だったし、演奏家も今は引退した音楽界の寵児ばかり名を連ねていた。
モジリアニを思わせる図書館の女性と話が弾み、演奏会には数える程の客しかいなかった事も知った。
98.02.16


数日間催された演奏会のうちの一晩が、ドナトーニとベリオの作品集だった。
ドナトーニの作品は覚えている処で、ギターの為の「アルゴ」、ピアノの為の「韻」、ソプラノとピアノの為の「そして誰かがノックした」等だったような気がする。

果たして、思った通りかさかさした乾いた音が並んでいた。
音が乾いていると言うより、寧ろ感性が空気に晒されている感触であって、感情の起伏があるのかないのか、不思議な心地に襲われた。
今から思えばそれは演奏の趣味にも因るのであって、イタリア人が彼の作品を演奏すると、そんな乾いた土壌を連想させるものがある。

それを期にイタリアの現代作品を漁る日々は何年も続き、イタリアへの憧憬は時間と共に膨らんでいった。
ヤマハで艶のある白地に赤のリコルディ社の楽譜を見つけると、中身がどうであれ買おうとしたし、小遣いの殆どは楽譜に費やされた。
溜りに溜った楽譜は今でも実家に山積みされていて、ドナトーニの作品も数多く含まれている。

ドナトーニ作品で初めて取り寄せた楽譜は、アンサンブルの為の「スピーリ」ではなかったか。
冒頭のオーボエとヴァイオリンの快活な絡みは、今でもすっかり頭にこびりついている。
迸るようなリズムと心地よい和音の質感にすっかり魅了されたし、うねうねと続く装飾音の束が鮮やかな模様に見えた。
当時、何度注文しても届かないイタリアの楽譜に半ば呆れつつ、併し半ばそれを愉しみながら待ち暮らした。

初めてドナトーニに習おうと思ったのは、大学三年の春だった。
彼はシエナのキジアーナ音楽院で夏季二ヵ月間の講座を持っている。
七月初めから八月終わりまでの期間中、七月半ばまで大学での試験があり参加出来なかった。
遅れて参加する旨のファックスは送っておいたが、行き違いにでもなったのか、講座が始まって暫くして、音楽院から参加しないのかとドナトーニが言っていると書いてよこした。
慌てて、これこれしかじか遅れて参加させて頂きます云々、自習書の例文と辞書片手に馬鹿丁寧な拙いイタリア語のファックスを送り、肝を冷やしながらイタリアへと出掛けた。
98.02.18
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イタリア語も覚束ないまま、どうやってシエナに辿り着けたのか、今考えると不思議で仕方がない。
飛行機で知り合った親父さん一行にローマから車に乗せてもらい、どこかの駅で下ろされた。
駅でシエナに行きたいと言うと、今日はもう電車がないと言われた。
とにかく早く着かなければという一心で色々掛け合い、どうにかシエナに着いた。
石畳を歩いていると、買ったばかりのスーツケースのコロは、焼けただれて動かなくなった。

シエナは宝石のような中世の街並を残していて、音楽院はその街の中心にあった。
煩い程にバロック風な内装の、絨毯敷きの廊下を歩いてゆくと、一番奥の長方形の大部屋の扉に「作曲教室・ドナトーニ」と書いてあった。
確か夕方だったと思う。
大部屋には二十人位の生徒が犇めいていて、銘々が煙草を燻らせている。
部屋は殆ど霞んで見えた。
突然水と数個のケーキを抱えた大柄の老人が入って来て、やれやれと椅子に腰掛けた。
寧ろ、巨体という言葉が的確かも知れない。
煙の向こうの、さっぱりした白髪、髭をたくわえ吊りズボンを引っ張ったアンバランスな風貌の老人がドナトーニだった。
どことなく可笑しい服装と裏腹に、顔つきは精悍に見えた。
98.02.21


すぐこちらに気が付いた彼は、
「あのど偉いファックスをよこした日本人がやって来たぞ」
そんな事を言うと、周りの生徒が一斉に爆笑した。
後でファックスを読み返してみると丁寧というより時代錯誤的な文章で、戦時中の日本語で書かれた手紙を想像して貰えば良いだろう。
参考にした例文も戦前のものだった。

挨拶をし曲を見せていると、妙齢が入って来て親しげに彼の頬にキスをした。
ドナトーニは愛敬たっぷりに彼女の臀部を叩いて喜んでいる。
驚いた。この一語に尽きる。
作曲家と言えば、気難しく難解な言葉を操る芸術家と理解していたし、日本の周りの作曲家や先生方が煙の中にケーキとコーヒを持って現れたりしないし、授業中に妙齢の尻など触れば告訴されかねない。

当時想像していたドナトーニは、難解な著作を何冊も著し、名作と呼ばれる作品を数多く残す、今世紀の偉大な作曲家の一人であり、世界で最も演奏頻度の高い作曲家の一人であり、同時に厳しい教育者の筈だった。
一体どうした事か。唖然としたり訝しいとさえ思ったが、実際のドナトーニはそんな人物だった。
毎日どんよりした煙の中でたゆたうように時間が過ぎた。
生徒の楽譜を読む時だけは、信じられない位深く光る眼差しになって、これが作曲家の目なのかと思った。
98.02.26


イタリア語も覚束ず、彼の隠喩たっぷりの小噺も分からない。
ぼんやり周りの流れを見つめていたが、或る日、教室に入ってゆくと、これを食べなさいと悪戯っぽくケーキを目の前に差し出した。
食べないとレッスンしないと言うので、おそるおそる口に運ぶと、それは不味いシエナの伝統ケーキだった。
そうして和気あいあいとレッスンが終わると、ドナトーニは卓上のコップを自分で片付けゆっくりと去って行くのだった。

レッスンでは特に何かを教えられた記憶はない。
生徒が作品について説明をし、代わる代わる楽譜を眺める。

そんな時、ドナトーニがもの凄い勢いで楽譜を読むのでびっくりしたが、彼が自分の考えを押し付ける事は一度もなかった。

彼らの雰囲気に馴れてくると、生徒の作品もドナトーニの亜流ばかりが並んでいる事に気が付き、やはり何処にいても結局同じなのかな、とぼんやり思ったりした。
生徒達は音列や数列を説明し、和音構造やリズム構造へと話を進める。
彼らにとって音楽は何なのか、といつも漠然と思っていた。
そう尋ねた処で自分の語学力では理解出来ないだろうと思い、結局そのままになってしまった。それまで日本でのレッスンは、この音は何処から来たのか、何を表現したいのか、この一つの音に込められた意味は何かといった、抽象的な観念論に終始していた。
だから、そんな数学談義は音楽ではないと感じたのだろう。
ただ、何を教わった訳でもないのだけれど、同じ時間を共有しているだけで伝わってくる感動があった。
素晴らしい人物とはそんな存在なのかも知れない。

98.02.26


そうして二ヵ月を共に過ごし、彼と共に書いた自分の作品も夏の終わりに演奏された。何やら意味も分からぬまま賞まで頂いた。
演奏会前のリハーサルに撮った録音に偶然彼の声が入っていて、
「ヨウイチはイタリア人じゃないんだ」
と誰かに嬉しそうに話していたが、これは今でもどういう意味なのか良く分からない。
最後の夜にクラスの連中とドナトーニでトスカーナの田舎のレストランにゆき、大いに羽目を外した。
言葉が分からぬまま何となく生活していると、これは現実ではないのではとの錯覚を覚える事があるが、あの頃はそんな夢心地に酔っていた。

日本に戻り、先ずイタリアで書いた作品を元にして「夕日」という作品を書いた。続いて「フランコ」という作品も仕上げた。
彼に楽譜とテープを贈ると、暫くして短いお礼の手紙が届いた。
「相変わらず仕事ばかりしています」

これは勿論「フランコ・ドナトーニ」へのオマージュとして作曲した訳だが、実はその頃ドナトーニと自分との距離を計りかねてもいた。
あの生徒達のように、彼の作品の真似事になるのではないかと、畏怖にも近い感触を覚えた。
確かに彼の作品や存在には、カリスマ性と明快な論理が同居している。
論理が明快だと生徒も簡単に納得し、免罪符を貰った気分になるのかも知れない。
イタリア政府給費を受ける事にして、師匠としてドナトーニではなく、彼の高弟であるゴルリを選んだのは、ドナトーニの影響からゴルリがどのように自らを発芽させたのか、大いに興味を覚えたからに他ならない。
シエナから戻って四年後、再びイタリアに戻った。
98.02.26
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ミラノに住み始めて暫くの間、何故かドナトーニに連絡が取れなかった。
何となく後ろめたいものがあって、背後には常にドナトーニ楽派への不信感が張り付いていた。
もやもやしたものが躯に広がっていて、半年ほど経って、思い立って電話をした。
電話口の思いがけない明るい声と、少しちぐはぐな会話を交わし、その後すぐに会いに出掛けた。

地下鉄のピオラ駅からランブラーテ方面へ七分ほど歩く。
付近は灰色の味気ないアパート群で、取り立てて雰囲気の良い界隈ではないのが印象的だった。
色味に欠ける風景にオレンジ色のトロリーバスが映えて見える。
そんな事を思いながら、数個目の信号脇にへばり付いている、何の変哲もないくすんだアパートにドナトーニは住んでいた。

呼び鈴を鳴らしながら少し戸惑っていた。
落ち着いた風景の中、悠々と暮らす作曲家を描いていたのであって、こんな雑踏の中で彼が仕事しているとは思えなかった。
「三階だよ」
独特の頭に抜けた高い声が応えた。中は古く陰気な趣があって、いよいよ困惑しながら左手奥のエレベータで三階のボタンを押した。

三階に着くと、四年ぶりに見るドナトーニがエレベータの前で微笑んでいて、思わず抱きついた。
数年前に作曲のコースが終わる頃、彼しかいないがらんとした教室で、同じように感激して抱きついた事を思い出した。
あの時より少し痩せたように見えたが、例の吊りズボンの出で立ちは変わっていなかった。

部屋に通されると、壁を埋め尽くす数々の帽子に圧倒された。
小さなアパートだった。よく片付いていたが、余り陽は入らないように見えた。
細長い六畳程の仕事部屋は薄暗く、客人用と思しき二客の簡単なソファーの向こうに大きな机が窓に面していて、書きかけの大きな譜面がきちんと整理され置いてある。

ソファーに坐ると、目の前壁一面に造りつけられた書棚が目に飛び込んできた。ケージやベルクなど作曲家が書いた本もあったけれど、夥しい本の大半が文学書のようだった。
無意識に目が彼の楽譜を探していたが見あたらなかった。
ピアノも置いていない普通の仕事部屋であった。
そこまで納得した後、妙な感動が胸に押し寄せてきた。
ここで彼が音を紡ぐ実感が、感じられたからかも知れない。
ごく質素な空間で、てらいなど微塵もなかったが、実直に音楽に捧げられた時間が流れていた。

何を話したか覚えていないが、拙作の「フランコ」を喜んでくれた事だけが記憶に残っている。
緊帳と興奮で話らしい話もしていなかったのではないか。
暫く話してから、奥の食堂でコーヒーを振舞ってくれた。
壁に寄せられた食卓の前には、何枚か妙齢のヌードのシールが貼ってあった。
子供のようではないか、と微笑ましい気がした。
その横には錠剤の山が整頓して置いてあって、晒されている臀部には不釣り合い見えた。
98.03.04


その頃彼は、隔週末、車で一時間程離れたブレッシャまで教えに出掛けていて、何度か連れていって貰った。
朝の七時半きっかりに彼の家の前で待つ為に、朝六時半の地下鉄に乗り、ピオーラの場末のバールで躯を温めながら時間をやり過ごした。
七時半きっかり、髪を綺麗にとかし、整った身だしなみのドナトーニがさっぱりと現れた。

彼の自家用車は、当時珍しかった日本車で、燃費の良いのが自慢だった。
ダッシュボードには硬貨が溜めてあって、信号で少年が物乞いに来ると、決まって某か小銭を持たせるのが印象的だった。
高速を暫く走った所に、彼が決まって朝食を摂るドライブインがあって、チーズを挟んだトーストと冷たい牛乳を頼んだ。
日曜早朝の、人気の無い店内で、なかなか出来ないトーストを黙って待っていた。
ぼうっと一人で考えに耽るように見える時があって、トーストを待ちつつ立ち尽くす姿はその典型だった。
 車中、互いの仕事の話をし、ここ数日忙しくて筆が進まない等と巨匠の口から聞かされると、恐れ多いなと思いつつ、少し安心した。

車窓を走る風景は、ミラノを離れるとすぐに田園風景に変わる。
朝ぼらけの中、左景の奥から山並みが近付いてきて、教会の屋根がクーポラから尖塔になって来るとブレッシャは近い。
少し靄の湧いた無人の高速を、滑るように走った。
道を覚えるのが苦手で、一度で音楽院の通りに抜けられると
「おい、凄いじゃないか」
満足そうに呟いた。

尤も、道を間違え何度も旧市街を巡っても、何故か時間通りには音楽院の前に着いているのが不思議だった。
細いへろへろの路地に張り付いた、妙に堅牢な造りの建物がそれで、傍の小さな木扉をくぐって中に入った。
だだっ広い部屋にコーヒーと水を運んでくれる、田舎っぽい風貌の歯の不揃いな女性に贈り物も忘れなかった。
そんな時、暖かいものが染み通る心地がした。レッスンはシエナのクラスと代わり映えなく、生徒の作品も似たようなものばかりで、安心したような、裏切られたような、割り方を間違えたアルコールの味わいがあって、何時も少しだけ苦かった。
レッスンと言ってもそっけないもので、曲が良ければ良し、悪ければこれでは仕方ないだろうで終わってしまう。
「音楽は常に展開すべきもので」
と彼が始める時、決って話題にのぼるのはモーツァルトやベートヴェンであって、自身の作曲技法について何も触れなかった。

なのに、何故生徒は似たような作品ばかり書くのだろう。
確かにドナトーニは一時期、個性の表出を極端に押えた「否定的作曲」と呼ばれる技法を確立した時期があったが、結局それが彼の強烈な個性となって我々に迫ってきた。
この生徒達にとって音楽とは自己否定の手段なのか訝しく思った事も一度ではない。
そんな事を繰り返すうち、殆ど迷宮に足を踏み込んでいた。

その頃からドナトーニは日本を訪れてみたいと繰り返していた。
日本の文化は自分に強い影響を与えたから、というのがその理由だった。
普通なら水の滴る音は一定の筈だが、日本のそれは竹筒にひたひたと溜ってゆき、かたりという音とともに、或る瞬間不意に零される。
その覚束ない時間の流れに魅了されたと言うのだ。
彼の音楽は拍感が明快で一定だと思いがちだが、実はそうではなくて、拍感の中でたゆたう彼の息遣いが、そこに微妙な揺らぎを許しているのだった。暖かい触感に何だか救われた。
何かを渇望する自分の裡は、そうして音楽の本質を掠ったり遠のいたりを繰り返していて、小さく震えていた。
98.03.08
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by ooi_piano | 2012-08-21 00:27 | 雑記 | Comments(0)


フランコ・ドナトーニ ドキュメンタリー・ヴィデオ 概訳

2'30''
変身(ミラノ市立音楽院に残されている授業風景の録音より)


変身は音楽の基本なんだ。自然だってそうでしょう。
その昔住んでいたヴェローナのパリオ門の外の辺りは当時はかなり田舎で、シルクをとる白いカイコがとれた。カイコは桑の葉を食べるでしょう。
シスターと一緒に子供たちが桑の実採りに行くと、カイコが葉っぱを食べていたりして。
5月か6月くらい、窓は開け放してあった。ある朝起きて外を見ると、カイコの姿が消えて丸い玉だけがあった。
「カイコはどこに行ったの?」
「どこに行ったって、そりゃあの玉の中さ」。
「どうやってこのなかに入っているの?」
「カイコが絹糸を吐いて繭だまを作ったのさ」。
次の日、繭玉まだあったけれども、そこには小さな穴が開いていてね。
「この穴はいったいどうしたの?」
そう、いつの間にか、カイコは蝶になって、繭玉に穴を開けて飛んでいったのさ。

これが僕の作曲の方法の原点だと思うんだ。つまり、すべては何も変形しない。
山ですら、少しずつ崩れて削れた石が滑り落ちていったりするけれど、形は変わらないでしょう。
波の満ち欠けも止まることはない。
自然界では、何ものも不動ではいられないのさ。
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4'48'
対称と非対称について


戦後(ナチスに破壊された)ヴェローナのカステルヴェッキオ橋(Ponte Scaligero)を建てなおすとき、
古いレンガをあつめてくるか、新しいレンガに機械で砂をふきつけ表面を削って古く見えるようにしなければならなかったんだ。
あちこちに開いている銃を構えるための銃眼も、非対称にならんでいるし、
道路わきに這う細い通路も道路に対して平行ではなく、
少し高かったり低かったりするでしょう。
古代から現代まで、世界中どこの伝統においても、非対称は存在するんだ。

有名な禅寺の庭師の話だけれど、
あるとき庭師が禅寺の庭の掃除する命をうけたときのこと。
禅寺の庭には、2本の飛び石がのびていて、白砂利がしきつめてあった。
庭師は、草を刈り、垣根を直し、きれいに掃いて、白砂利も直して、表面が白くうつくしくなるように足りないところには白砂利を加えたりしたんだ。
秋の声をきいて、柳の枝から垂れる葉は、赤く色づいていた。
すべてが、完全なシンメトリーをなしていた。
だけれども、庭師には何か納得がいかなかった。
それから庭師は柳に近づき、柳の枝をゆすると、
はらはらと葉があたりに散り、ようやく庭師は満足したという。

だから非対称というのは、対称形(シンメトリー)の中に存在していて
決してその反対ではないのさ。
さもなければ、単なる無秩序に陥ってしまう。
常に礎は対称形を形作る必要があって、
その上に非対称物が乗せられるわけさ。
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8分24秒
フィギュア(姿)とジェスチャー(身振り)


フィギュアは何か認識可能なものが、水平もしくは水平と垂直に広がる連続体、シークエンスなんだ。
つまり、フィギュアは顔なのさ。だから、分析するまでもなく、誰であるかをすぐに認識することが可能になる。
たとえば金髪や赤栗毛の女の子の鼻の形はどうで口の形がどう、髪型はどうかなどと分析する必要はないでしょう。
一目見てすぐに誰だかわかるし、完全で完結している理解なのさ。
これがフィギュアなんだ。

フィギュアは変化させられて、たとえば髪を染めたり、目に化粧したり、口紅をつけたり、悲しいかな老けることだってある。
同じフィギュアを20年後に見れば、同じアイデンティティを持っていたとしても、少し違うこともあるかも知れない。
ところが、ジェスチャーは変化させられないんだ。
ジェスチャーはこれさ(と何かしぐさをする)。
これはもう変えられないでしょう。だってほら、こうすると別な意味にになってしまう。
だからバリエーションにはフィギュアは含まれるけれど、ジェスチャーはそこには含まれないのさ。


11分9秒


これに関しては、人生ずっと付きまとわれているわけなんだけれど、
例えば、朝初めて見かけた車のナンバープレートの番号から、
その日の運勢を占ったりするわけさ。
例えば、574097…
57…ううん、どうもツキがなさそうな感じ…。
58! これはいい! 良い一日になりそうだ!
何と言ったって58は5+8で13だもの。
例えば61だったら…。ううん、どうも1日運に見放された感じ。
これが63だったなら、なんとなく1日の始まりにも希望が見えてくるね。何しろ7X9だから!

僕と数との関係は数量が意味を持つのではなくて、
数の持つ質感なのだと思う。
どの数字も数字ごとの顔をもっているのさ。

どんなに好感の持てる数かと思うこともあれば
とても感じの悪い数もあるし、特に良くも悪くもない数もあるんだ。
だから数にもそれぞれの顔つきがあって
僕は21には親しみを感じるけれど、29には全く好感が持てなかったりするし、
それに比べれば31はまだいい。ああでも33の方が言うまでもなくずっと感じがいい。
37…は、まあまあか。
しかし39はとてもいいね。何しろ13の3倍だし!
僕と数とはこんな付き合いなわけだよ。まあ少々常軌を逸しているのだけれども。



13分44秒
ブルーノ


マデルナは本当に偉大な人物だった。
彼の器の大きさで比較に値するのは、おそらく19世紀のシューマンくらいじゃないかな。
いつでも他人に対して甘んじて道を譲り、自らはいつもしんがりをつとめ
それは、たとえ相手が取るに足らないような人物であろうとも変わらなかったんだ。
彼の音楽性ときたら、それは素晴らしいものだった。
彼ほど全ての才能が端から端まで揃った人なぞ見たこともない。
全てが聴こえていてね。
1ヴェローナのアレーナを12歳で指揮していたころから
全ての音が聴こえていたんだ。
「フランコ、そのためには聞き分け能力が必要なのさ」
「聞き分け能力ってなんだい?」
「オーケストラを聴くとき、全部の音を聞いちゃだめだ。
たとえば2番オーボエだけの音を聞いて見るのさ。そうしたら間違えているかどうかがわかるだろう?」
「一体オーケストラが全員で弾いているとき、どうやって2番オーボエの音だけ聞き分けることなんて出来るのかい!」


16分17秒
敢えていえば:


聴覚は注意であって学習ではない。
聴覚は音に関して起きる事象の証言であって
音を通して起きる事象の理解ではないのだ。

つまり:
音とは、ある絶対の存在であって
それが発されることから、啓示を築く。
聴覚は会話体の理解に達する行為ではなく
形式的意識の単位において、多様性を仲介し、多様性に到達する瞬間なのだ。
聴覚は直接的経験であり、そこでは意識は行為に符合する。
聴覚は、自己鍛錬なのだ。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)


17分12秒
若者とともに (シエナ・キジアーナ音楽院夏期講習会の教室にて)


見てお分かりの通り、名前でお互いを呼び合っているし
少なくとも苗字で呼び合うなんです。
ここで僕のことをマエストロ・ドナトーニ先生と呼ぶ生徒はいません。
これはテレビの前でも同じです。
大事なことは、互いに信頼関係があって、対等であることです。
もちろん年齢も違いますから、文字通りの対等というのはあり得ないかもしれませんが。
ですが、それを除けば、それぞれ経験が違い、年齢も違い、立場も違うけれど、
皆それぞれ黒板の前に立ってプレゼンテーションをし、
それぞれが授業をしてくれるわけです。
(女の子が通り過ぎる)
ええと、何を話していたっけ?
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18分55秒
ここは美人の女流作曲家の宝庫だね!
君は何歳?20歳?ワーオ!


19分30秒
非対称は対称の中に書かれているんです。
なぜなら、無秩序は秩序のなかにあるんです。反対になってはいけません。
上手な花屋が花束を用意するとき、それらをよく理解しています。
みなさん上手な花屋を見かけたらよく観察してみてください
例えばバラを手にとって、花束を用意するとき、
それぞれのバラの高さや茎の長さを均一にならないよう留意しながら、
花束をつくりますね。


20分50秒
若い作曲家に必要なのはジェスチャーが明確でドラスティックであることです。
例えば引っ込み思案だったりすると、こんな風になります。
(外からドアをノックするジェスチャー)
これは若い作曲家に対しても同じです。
フォームが明確でなくて、
こんな感じでは、わからないですよ。


23分24秒
その後に残るのは、ただ贈り物の話のみ。
自らの作品について話し、失敗は語り継がれる。
しかし贈り物は見せられることなく、4月25日についてもみな口をとざす。
そこでは子供は友達や知り合いに贈り物を見せている。
なぜなら、それは受け取った贈り物だから。
でも、贈り物に値しない不完全な作品は見せない。
そこには不完全な作品しかない。
なぜなら、完結した作品は贈り物であって、作品ではないから。
その昔は、子供たちにこう教えていた。
贈り物を欲しがってはいけないし、望んでもいけない。
買ってもらってもいけないし、利益をあげてもいけない。
新しい贈り物は、年長者から無償で提供されたときのみ受け取ることができた。
その昔、子供たちにたくさんのことを教えていた。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)
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by ooi_piano | 2012-08-19 03:52 | 雑記 | Comments(0)
(つづき)
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・・・否定性・・・

  ぺトラッシとマデルナとの出会いの後、ドナトーニに影響を与えたのは、シュトックハウゼンやアドルノを翻訳しイタリア紹介した音楽評論家マリオ・ボルトロット(1927-)だった。
  ボルトロットはドナトーニに、シモーヌ・ヴェイユ、アドルノ、エレミール・ゾラの著作を紹介したが、特に1960年代、カフカ、ロベルト・ムージル、ゴットフリート・ベン、サミュエル・ベケットの著作は、ドナトーニの創作の規範となった。
  どれも否定的傾向をもつ当時流行した著作だが、ドナトーニにとってそれらは自分で気づいていなかった部分を開眼させるものであった。
  自らの手で自らの人生をつき動かす必要を痛感し、自己の内面を甦らせるべく、意志の否定と魂や思考、記憶の停止を求めたのだ。

  直接的に言えばカフカとムージルの著作が不確定性へと向かわせることになったのは、彼らがドナトーニに素材と素材変容間の分離の必要性に気づかせたからだった。
  素材はドとレの音をさすのではなく、ドとレの間に存在する相関関係、ドとレの音を変容させるためドナトーニがもちいる作曲規則を意味する。
  たとえば1962年に作曲されドナトーニ自身の指揮で初演された「オーケストラのためにPer Orchestra」は、音楽素材はただ譜面の紙切れに過ぎず、素材の変容は作曲者からもたらされるのではなく、そのつど素材から霊感をえて変化させる奏者一人ひとりに委ねられるため、
結果としてそこに立ち上るものは定着された形式ではなく、気化した形式となった。
  形式は、今となっては消滅しているが、演奏の瞬間には確かに存在していたので「開かれた音楽」とは一線を画すという。
  「オーケストラのために」で気化形式を活かせるのは、指揮者のジェスチャー以外のなにものでもなかった。

  同じような例として、1964年クラウディオ・シモーネのために書いた弦楽合奏のための「アザールAsar」を、クラウディオ・シモーネが日本で演奏したときの逸話が残っている。
  「アザール」には指揮者は登場せず、演奏者は各自自分で決めた聴衆を舞台上から観察し、聴衆のしぐさに反応しつつ演奏するよう指示されている。
  しぐさの大きさは本来演奏の強弱に影響を与えるはずなのだが、これを日本で演奏した際の日本の聴衆は微動だにしなかったそうである。
  このため演奏者は大いに当惑し、結果的に最初から最後まですべてピアニッシモで演奏された。
  このように、否定性の時期のドナトーニ作品は演奏にあたって偶発性が取り込まれてはいるが、これは偶然性ではなく、素材と素材の変容間の分離だとドナトーニは強調する。

  それは自己抑制の姿であり、能動性と受動性という二元性の意識化であり、自身の知性と意志の作者であり続ける不可能性を現した。
  二元性とはこの場合、行為を完遂するか、完遂される行為なのかという部分にあたるが、本来であれば二つの言葉をいれかえても何ら変化は生じないはずであった。
  ぼくがドアを開けるのと、ドアはぼくによって開けられることに違いはないようだが、当時明らかに受動的傾向に傾いていたドナトーニは、あるとき、これら二つの間に根本的な相違を認めてしまう。
  当時、こうした思索の後押ししていたのは、他ならない彼の錬金術的な視点であり、錬金術的な実験であった。
  そのなかで彼が理解を努めたのは、分離すること、その相違を見分けることにあった。


・・・自動書記・・・

  ケージとの出会いが生むことになったこれら偶発性の作品群を経て、1966年ドナトーニはフルートのオーケストラのための「人形芝居2 Puppenspiel2」をもって古典的な作曲姿勢に回帰する。
  5年から6年間、古典的な作曲姿勢から遠ざかっていたのは、思えば随分長い時間だった。
  「特に秘密の理由があったわけではない。単に自分自身がまだ書けるかどうか試してみたかっただけなんだ。ピアニストが何年もピアノに触らなければ間違いなく弾けなくなるだろう。作曲においては発想が技術の全てだから、君が発想や思考や意志を殺めていたならば、それは自殺行為に等しいわけさ。もちろん実際に死ぬわけではないけれども。だったらこの際、この作曲の自殺行為を証明してはどうかと思ったわけさ。そうでなければ何の意味もないじゃないか。実のところ、本当の目的は否定性を否定だったんだ。二重否定を通して否定性を肯定するのではなく、完全な虚構をもって完結させたいと思ったのさ。全て問題なく収まっていて、全てが正しく、しかし全てが虚構なのさ。その裏にはいつも自分を生まれ変わらせたい欲求が常に根本にあったのだけれど」。

  「人形芝居2」は、冒頭オーケストラがハ音上の長3和音を全員で奏し、それが次第に分化してゆく。
  この長3和音の第3音へ音を中心とし、3度ずつ開いた音程関係を出発点に作曲を進めたのだが、ドナトーニはそもそも長3和音という「擬似素材」から出発したことが大きな誤りだったと記している。抽象的でない具体的な素材がそこには必要であった。
  同じハ音の長3和音でも、それがベートーヴェンであったり、ブラームスであったり、デュボアの和声教本であったりすれば、素材と変容の間に相違が生じたのかもしれない。ただの長3和音そのものは余りに無味乾燥として抽象的な素材であった。

  そのため、つづく1967年に書いた5楽器のための「ひそやかに」ではシェーンベルクの断片を、15楽器のための「おみやげSouvenir」ではシュトックハウゼン自身の断片から出発し、彼が「自動規則(codici automatici)」とよぶ作曲技法が、またさかんに用いられるようになる。
  上記のパネル作法の項で触れた「ひそやかに」に戻ってきたのである。
  ドナトーニ自身はこの「自動規則」について、現在ではごく当たり前に誰でもコンピュータが行っている作業だという。
  規則をそのつど直感で決めてゆくことそのものには、時間はほんの一瞬しかかからないが、それを実行し仕上げるためには、時には一週間かかることもあると述べている。
  例えば、F#を手に入れようと、ある音列に規則を決めて「フィルター」をかけるときに、音列がF#を含まれない場合など「自動規則」が用いられる。
  規則そのものは「魔法の公式」のように、特別な機能をもっているわけではない。
  それは解剖学から分離させられた生理学のようなもので、カフカのいう「肺なしでの笑い」のようなもの。乾いた枯葉のさざめく音や、口を使わずに大笑いするようなものだという。

  「自動規則」のみならず、「準規則(sotto codice)」や規則の「改変(emendamento)」が用いられることもあり、例えば「自動規則」によって得られたF#を選択の後、この音列から「擬似」全音階(正全音階ではない)を排除すると決めれば、当然そこから短2度、短3度、減5度などの音程のみ抽出して使うことになる。これが「準規則」にあたる。
  これらは前以て決められるのではなく、筆を進めつつそのつど発案され、改変されるべきもので、そのつど細心の注意をはらう訓練であってプログラミングする訓練ではない。こうして直感が磨かれてゆくと、あてはめられる規則はよりラディカルで実験的な様相を帯びてくる。
  なぜならそこから何が起こるか時として予測できない場合さえあるからだ。
  いつも使っている規則を別の素材にあてはめれば、結果はまったく違ったものになるかもしれないが、ある程度の予測は可能である。
  よく知っている素材に違う規則をあてはめるなら、結果は実験的なものにならざるを得ない。なぜならこれらの規則がどのような結果をもたらすか、当初は明確でないからだ。
  もちろん、規則が元来もつ特質と、素材が元来もつ特質の間に保つべき一定のバランス感覚が必要になる。
  直感による選択の結果は、往々にして想像していた形式をくつがえす傾向にある。そして自動書記は、これはリゲティが用いる仕組み=メカニズムとは根本的に違うものだという。そこにはどのようなルールを課すこともできるが、常に何らかの発明が必要だとドナトーニは述べている。

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・・・灰・・・

  数字を偏愛していたドナトーニ曰く、この当時、運命のいたずらのように7年周期で危機が襲ったという。
1970年ドナトーニは、もはや彼には無関係だったはずの偶然性を用いて、室内オーケストラのための「アールに(To Earl)」を書き、これは何の役にも立たない失敗作だと回想している。その直後、生涯で最大の危機がドナトーニをおそった。
  「毎日16時間の作業をのべ16ヶ月もかけて作った自分の人生中もっとも自虐的で痛恨極まりない作品が、1971-1972年に書いたオーケストラのための「アールに第2番(To Earl Two)」だ。1作目はほんの小さなスコアから充分大きな音を得られたのに、2作目は巨大なスコアで細密に書き込まれていながら全く何の効果もあらわさなかった。音のカオスが聴こえるだけで、書き込まれているはずの全ての形式はカオスにかき消され、自動書記で作業し、充分結果を理解していたはずのカオスの渦に、飲み込まれてしまった。これが自身の意志を殺して、限りなく作品に服従した結果なのだ。
  思い出すだけでも恐怖にかられる」とドナトーニは書き残した。

  「アールに第2番」の失敗を経て、同じく1972年に書いた13楽器のための「歌Lied」では従来の自動書記や作曲規則はより自由になり、1972-73年に書かれたオーケストラのための「声Voci」からは、以前のような厳格で被虐的な自動書記法とは一線を画すようになった。
  この自動書記の時代の最期に書かれた傑作が、1974-75年に書かれたオーケストラのための「ブルーノのための二重性Duo pour Bruno」である。

  「ブルーノのための二重性」を書いたドナトーニは、自分が来るところまで来たことと悟り作曲をやめることに決意する。
  2月のある日、きれいなアンティークスタイルの黒い自転車を購入し、仕事部屋も払ってしまった。右手は引き攣りを起こしていたので、鉛筆は持てなかった。
  こうしてスヴィーニ・ツェルボーニ社の校訂の仕事に携わることにし、他の社員と同じように朝自転車で出勤し、他の社員と一緒に自転車で帰宅する生活を数ヶ月続けていたが、一つだけ委嘱がまだ残っていた。
  夏のキジアーナ音楽院の講習会からのもので引き受けるかどうかずっと迷っていると、あるときスージーが言った。
  「もうどうせ作曲をやめるのだから、もはやあなた自身でなにも拘泥する必要はないし、自分自身で背負う責任もないでしょう」。
  その言葉に説得されて、ドナトーニは「灰Ash」という作品を書くことになった。

  「灰」という表題は自身の終焉を意味していたが、とくに何も決めず気の向くままに書いたこの作品こそ、思いがけず彼を甦らせる結果となった。
  「この曲はどうやっても分析することができない。冒頭何がしか意識化されたものを推測できるかもしれないが、その先は何も証明できない。
  ここで用いた全ての作業は自動書記的な音列作法に基づくが、連続的に変化しつづける「規則」を使い、
必要とされるさまざまな選択は経験によって磨かれた直感に従った」。世界的に認められるドナトーニの音楽が、ここに確立されることになった。
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by ooi_piano | 2012-08-16 11:14 | 雑記 | Comments(0)
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  フランコ・ドナトーニ(1927-2000)の総領弟子である杉山洋一氏が、師から補筆完成を任された作品を含むオーケストラ個展を開催なさいますので、御案内致します。
  2001年の日本=イタリア国際交流年に於けるブルーノ・カニーノと私の二台ピアノ公演では、カニーノがドナトーニ《リマ》を独奏し、私がカニーノ作曲《ラグを書くには良い日和》を演奏した後、杉山氏への委嘱新作《ディヴェルティメント第2番》(世界初演ライヴ録音)を共演する、という、師弟たすき掛けプログラムでした。(ドナトーニはミラノ・ヴェルディ音楽院作曲科教授、カニーノは同音楽院ピアノ科教授の間柄。)

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル 2012
<MUSIC TODAY 21>
《フランコ・ドナトーニ 〜 生誕85年記念》
2012年8月22日(水)19:00開演サントリーホール
フランコ・ドナトーニ(1927-2000):
イン・カウダ(行きはよいよい帰りは怖い)II(1993-1994)
イン・カウダ(行きはよいよい帰りは怖い)III(1996)
エサ(イン・カウダV)(2000)
プロム(1999)
ブルーノのための二重性(1974-1975)
(全曲日本初演)
指揮:杉山洋一 東京フィルハーモニー交響楽団
S席=4,000円 A席=3,000円 B席=2,000円
【お問合せ】東京コンサーツ TEL03(3226)9755 FAX 03(3226)9882


●杉山洋一プロフィール&作品リスト
●伊左治直による杉山洋一作品論
●杉山洋一《間奏曲V》(2010、大井委嘱作) 演奏動画
●水牛サイト・関連エッセイ (2012年8月1日)
●杉山作品音源集@YouTube


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フランコ・ドナトーニについて (杉山洋一)

  フランコ・ドナトーニは、ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)やルイジ・ノーノ(1924-1990)、シルヴァーノ・ブッソッティ(1931-)と同じ世代のイタリア人作曲家で、1927年6月9日に北イタリア・ヴェローナに生まれ、
2000年8月17日にミラノの二グアルダ病院で逝去している。


・・・幼少期・・・


  彼の父はヴェローナの市職員で、彼は一人っ子。決して裕福な家庭ではなかった。ただ祖父はヴェルディとロッシーニが大好きで、父親がプッチーニ好きだったこともあって、1934年7歳のときに両親に勧められヴァイオリンを始める。冗談のようだが、大人になったら昼は銀行員として働き、夜はアレーナのオーケストラでアルバイトをして家計を支えられるように、という両親の真面目な配慮によるものだったという。
  7歳のドナトーニは国語が苦手で、大きくなっても文系高校への進学は無理だと諦めていたのと、万が一文系高校へ進学すると今度は大学までやらなければならず23歳か24歳まで食べさせる余裕は到底ないからと、両親の方で手っ取り早く会計士の資格を取らせることに決めてしまった。
  こんな風にユーモアを交えてにあけすけに話すところがドナトーニらしいが、当時はとても内向的で友達は近所に住む憲兵の息子「マリェート」だけだった。
  しかしそのマリェートも程なくして父が亡くなり、母親の故郷レコアーロに去ってしまった。こうして彼は人生最初の喪失感を味わったとインタヴューで答えている。

  その頃は、夏に家族でアレーナへオペラを見に行くのが一大イヴェントで、アイーダ、椿姫、トロヴァトーレ、ボエーム、アフリカーナ(マイヤベーア)、メティストーフェレ(ボイート)など沢山のオペラに触れた。特にメティストーフェレが大好きだったのは、悪魔的なものへの興味が当時からあったに違いないと語っている。
  毎日曜には街のブラスバンドを見に行くのも大好きで一番前の席を陣取っていた。一番大きな楽器だからという理由でトロンボーンが特にお気に入りだったが、実際それはバッソ・チューバと呼ばれることを随分後になって知った。反対に小さくて軽い楽器はやや嫌悪の対象だったそうで、特にフリコルニーニ(小フリューゲルホーン)は嫌いだった。当時からヴァイオリンは習っていたが、実際は箸にも棒にもかからない出来だったと告白している。
  それどこか、音楽そのものに全く才能がなく、実際大戦直前の38年か39年、11歳か12歳の頃にヴェローナの音楽学校で受けた初めてのソルフェージュ試験に落第したそうだ。
  ソルフェージュを習っていたカッティーニ先生のご主人がアレーナの第一ヴァイオリンで、彼からヴァイオリンの手ほどきを受けていた。
  20歳までは続けたものの、音楽院の中期修了試験すら合格することないまま終わってしまったのは、パガニーニの奇想曲は自分にはむつかしすぎたからだと語っている。

  当時ヴェローナの音楽院で和声と音楽史を教えていたピエーロ・ボッタジーズィオの手ほどきを受け、ヴェローナからほど近いボルツァーノ国立音楽院の作曲科受験の準備がはじまった。
  両親からとても過保護に育てられ、毎日お決まりの「午後のお昼寝」をしなければならず、「お昼寝」の後は母親や祖母に手を引かれ長い散歩にでかけるのが日課となっていたが、身内に特に音楽家がいたのでもないのに、散歩の間中ずっと頭のなかで長いシンフォニーなどを想像していたという。
  ドナトーニを身ごもって3ヶ月のクリスマスに、彼の母親がヴェローナの聖ルカ教会で「どうかこの子だけはうちの家族と違って生まれてきますように」と熱心に祈ったことと、その年の冬、父親が同じ市役所の婚姻窓口で働く友人からヴェローナのテアトロ・ヌオーヴォ(劇場)の無料チケットを度々もらって、何度となく夫婦でオペレッタに出かけたのが、案外息子の将来に役立ったのだろうと話している。

  1942年15歳になって作曲の勉強をボッタジーズィオの下で始めることになり、彼の家で丸一日ピアノを弾きながら、ブーレやプレリュードなど、大量の曲を書きなぐった。
  1944年17歳の頃はナチス親衛隊が街をうろついているので外出もままならなくなり、学校にも週にせいぜい1度か2度通える程度になってしまったため、家にこもって勉強を続け、ヴァイオリンをさらっていた。
大戦末期、実際ヴェローナとても危険な地域だった。すぐ近くにムッソリーニが作った傀儡政権、サロ共和国があり、パルチザンとの内戦は非常に激しかった。
  第二次世界大戦当時の記憶を、ドナトーにはずっと引きずっていて、度々話にのぼった。1998年に日本を訪れる機中でもずっとナチス親衛隊の話をしていたし、日本ではどうしても原爆記念館に行くといって譲らなかった。
  そうして45年18歳になる頃には本格的に作曲を勉強しようと決めていたという。
  ボルツァーノの音楽院で作曲の中期試験(第4年)を終えたとき、ディオニーズィやボッタジーズィオの助言もあり、ミラノ音楽院に移ることになった。
  ミラノではエットレ・デスデーリについて対位法とフーガを習うことになったが、当時デスデーリはまだムッソリーニに協力した罪で起訴されている最中で落着いて教えられる状況ではなく、無意味な時間を過ごしたと語っているが、そんな中、次第に作曲が自分の天職だと思えるようになる。

  1948年、21歳になったとき、ディオニーズィの助言に従いボローニャの音楽院に移ると、全てが別世界のように楽しく友人にも恵まれる。
  その頃はヴェローナのナイトクラブで夜9時から朝5時までピアノを弾き、昼間はコンクールに出品するためカルテットの浄書に勤しむ生活であったが、最初の大きな精神衰弱におそわれたとも語っている。
  尤も、ノイローゼの傾向は小学1年生の頃から認められていたそうで、ようやく字が書けるようになったばかりの頃には、いつでも記録簿を手放さず、目に入るものをすべて記録せずにはいられなかったそうである。
時間を確認するためしばしば教室を出て、何時に何回教科書を触ったか、朝はカフェラッテを何口啜り、お昼に食べたオレンジにいくつ種が入っていたか、全て書かずにはいられなかったという。
  ボローニャ時代、そうした神経衰弱状態に陥り医者に掛りながら、テアトロ・コムナーレのアシスタント・ピアニストが友人だったお陰で、いつもリハーサルに立ち会ったりして、生活は愉しかった。
  こうしてドナトーニはブラスバンド作曲と楽器法、合唱指揮などのディプロマをとり、51年にはアドーネ・ゼッキ、リーノ・リヴィアベッッラの指導の下、作曲のディプロマをとった。

  それから、かねてから憧れていたぺトラッシに会いにローマへ出かけた。
  最初ぺトラッシは「それではまず僕の話をしよう」と言って、小麦やぶどう満載の荷車に乗って田舎からローマへ出てきた話や、教会で合唱隊をしていた話、音楽関係の専門店で店員をして暮らした話などをし、それからおもむろに「では、何か聴かせてください」と水を向けてきた。
  そこでドナトーニは、当時書いたぺトラッシスタイルの「オーケストラのための協奏曲」を、楽譜を出さずにピアノで弾いてきかせたが、1楽章終わったところでぺトラッシは「わかりました。でもあなたは、このぺトラッシズムから遠ざからなければいけません」と言い、机上のスイス製葉巻を勧めてから話を続けた。
  「ところで先生、僕が作曲を続ける価値はあるでしょうか」、とドナトーニが尋ねると、ぺトラッシは「その価値はあると思います」と答えた。
  「サンタ・チェチリアのアカデミーに登録されてはどうでしょう。ピッツェッティのクラスはさほど興味を引かないかもしれないが、奨学金が貰えるはずです。あなたはローマに住むことができますし、いつでもあなたが望むときにわたしに会えますから」。

  その言葉通りドナトーニはサンタ・チェチリアに入学し、ローマに住み、足しげくぺトラッシのもとを訪れては、長い時間を過ごすことになった。
  このときのぺトラッシの優しさは、後年作曲教師としてのドナトーニにそのまま受け継がれ、世界各地彼を慕う生徒がたくさん生まれることになる。
  「弦楽と金管楽器とティンパニのための小協奏曲」がルクセンブルグ・ラジオのコンクールで優勝したと伝えてくれたのも、他ならぬぺトラッシだった。
  当時ドナトーニは、ミケランジェロ’・アントニオーニ監督の映画音楽で知られるジョヴァンニ・フスコのところで「明日までに10分分カセッラ風の曲を書いてきて!明日までに中世決闘劇用に10分分レスピーギ風古代舞曲を書いてきて!」という具合に、商業音楽でモグリのアルバイトをしながら暮らしていた。


・・・ダルムシュタット夏期講習会・・・

c0050810_11533645.jpg  1953年、ドナトーニはサンタ・チェチリアのアカデミーを修了し、ボローニャ音楽院で和声と対位法を教え始める。このころ初めてマデルナと出会う。
  当時ドナトーニが交際していたアレーナのハーピストを通し、テレーザ・ランパッツィの音楽家懇親会でマデルナを紹介されたのだ。
  ドナトーニはルクセンブルグ・ラジオのコンクールの褒賞でヨーゼフ・シゲッティのためにヴァイオリン協奏曲を書いたのだが、サンタ・チェチリアの同級生から「ドナトーク」とからかわれる程バルトークに似ていたので、演奏してもらえなかった。
  めっきり落ち込んでいるところに、マデルナが全く知らないマーラーやウェーベルン、シェーンベルグについて嬉々として話すのを聞きながら、それまでドナトーニが持っていた信念に大きな亀裂が入った。

  自分が変わらなければならない自覚はあったが、音列作法などまるで知らなかったし、ラジオで耳にしたシェーンベルグなど耳障りで切ってしまったほどだったから、マデルナの話が当時ドナトーニの理解の範疇を軽く越していたことは確かだろう。
  それでもドナトーニは、マデルナからダルムシュタットにはガッゼローニやコンタルスキーなど沢山の仲間がいると説得され、54年初めてダルムシュタットに参加している。
  納得して参加したというより、自分の信じる音楽が既に過去のものだと自覚していて、何か新しい道を見出せないか必死で模索していた。
  だから、マデルナをはじめブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼン、ベリオなど、当時ドナトーニより先を歩んでいた作曲家から少なからず影響を受け、クシェネックやレイボヴィッツのセミナーで12音作法を学び、何ヶ月も家で4色の色鉛筆片手にシェーンベルグの作品31を分析した。
  シュトックハウゼンの「コントラプンクテ」やブーレーズのソナタなど、当時のドナトーニにとってはまるで神が書いた作品で、好き嫌い関係なく「とにかくこのように作曲しなければいけない」と感じたという。
  そのため構造主義を学んで、御託を並べるより先に、とにかくそうしようと努めた。

  何年か経つと、今度は誰もが「不確定」を採用しなければならない時代が到来する。
  1956年、ケージは初めてダルムシュタットに現れた。このアメリカ人作曲家に対し、当時みなとても興味を持っていたが、結局彼の意図は誰もあまり理解できなかった。
  その後ケージは59年にダルムシュタットを訪れたが、このときドナトーニは講習に参加しておらず、その年の終わり、ミラノのベリオ宅に寓居していたケージに会いに出かけている。
  当時ケージは「フォンタナ・ミックス」を制作中で、ミラノのあちらこちらを歩きまわり、路面電車に乗ったりしながら、何でもかんでも録音し、そのリールの山を二週間かけて切り刻んではつないでと編集に勤しんでいた。

  ベリオ宅でのケージは、まったく何も言わないか大笑いしていたそうで、一度などある婦人が肘かけに指が一本突き出ているのをみて叫び声をあげるまで、何時間もじっとソファーの後ろに隠れていたという。
  これらの奇行は特別な独創性として受け入れられていたが、ドナトーニにはそれが理解できなかった。ケージの禅への執着やケージの行動はドナトーニをいら立たせたのは、ケージによって音楽が崩壊するのを感じたからだという。
  ただドナトーニが何かを憎むときは、結局自分がそこにとりこまれてしまうのだといい、果たしてその言葉通りになった。
  そしてドナトーニは、ケージ自身は一切否定的な表現を用いていない、彼を否定的なデモンストレーションだと解釈したのは、他ならぬヨーロッパのインテリだったと認めている。
  戦後のあの時代に否定が必要とされたからであって、ケージ自身は単なるカリフォルニアの音楽家で、単なるひょうきんものだった。


・・・パネル作法・・・

  59年から60年にかけて、ドナトーニは書き続けていた室内楽から離れて、大規模なオーケストラ作品を二つ作曲した。
  一つは「ストロッフェ(詩節)Strophes」で、もう一つは「グルッペン」を手本にして書かれた大オーケストラのための「セツィオーニ(部分)Sezioni」である。
  「ストロッフェ」では、後年彼が盛んに使用するパネル作法が既に「まだ馴れない手つきながら」使われていて、シュトックハウゼンのモメント形式が受け継がれている。
  アナログ時計が止まることのない時間の流れを示しているのなら、デジタル時計はそれを短く区切りながら堰き止めたものを、時間の流れのなかに置いてゆく。
  モメント形式は後者の考え方にあたり、瞬間つまり永遠のヒュポスタシス=本質は、ストラヴィンスキーやシュトックハウゼン、ボリス・ゴドノフの戴冠式のようなパネルに相当するというのだが、ドナトーニは形式が詩的概念まで背負い込むべきとは考えていない。

  たとえば「ストロッフェ」では従来の音楽観における「発展」という観念は否定されている。
  ドナトーニ曰く発展と成長は別であり、たとえば子供が成長して大男になったとしても中身が子供のまま未熟で間抜けなら、それを発展とは呼ばないそうだ。
  彼にとって素材の提示は、タロット占いでカードを開示するようなもので、開示そのものにはそれ以上でもそれ以下の意味もない。
  しかし、鉱物を原材料のままで保存できないように、一度提示された原素材は、自然界の摂理に則って、有機的に変化させてから保存すべきだという。
  これらミクロ次元おける素材の発展は、構造主義のマクロとミクロとの対応とは無関係で、クレーの絵のように求心感覚を失い、ウェーベルンのように瞬間の連続のどこにでも中心が存在し得るものに準じている。

  ドナトーニはパネル作法とはつまり円状の時間で、角度の微妙にずれから生ずる永遠のらせん運動だと説明する。
  後年1967年に書くことになる「Etwas Ruhiger im Ausdruck(ひそやかに)」は、シェーンベルクのピアノ曲から引用された断片が繰り返されることで構成されている。
  そこでは素材は更なる選択を受け、音域の制限を解かれ、時間軸に変化がもたらされた上に、別の作曲規則を当てはめるか否かをそのつど順次選択してゆく。
  何度となく繰り返されるなか、緩やかに歪み続けるのは、毎年やって来る春が一度たりとも同じでないのに等しい。
  この頃、アイルランド出身で当時イギリス系テレビ局で働いていたスージーと、精神分裂症患者の絵画の展覧会で知合い、数ヵ月後に結婚している。
  59年の女声と16楽器のための「セレナータ」は、スージーが長男ロベルトを身ごもっているときに、当時の厭世観を拒否して、長男のために書かれた。

  「ストロッフェ」の時代、ドナトーニはこれらの作品を、先駆者たちの書法を学んで消化し、自身の足で立つために書き、そして作品を書くことを通して、漸く自分もそこに身を置くことが出来るようになった。
  これらオーケストラ作品に続いてチェンバロのマリオリーナ・デ・ロベルティスのために「ドゥーブルdoubles」を書いたとき、作品をみたシュトックハウゼンは興奮して、是非自分で研究したいしブーレーズにも見せたいのでコピーが欲しいとドナトーニに頼んだ。61年、3度目のダルムシュタット訪問のことで、この年ドナトーニはミラノ国立音楽院の作曲科教授に任命されている。(つづく)
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by ooi_piano | 2012-08-16 11:10 | 雑記 | Comments(0)