Blog | Hiroaki Ooi


8/25(金) ソラブジ《オープス》& 古川聖《ノベレッテ集》完演
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8/31(日)17時 メシアン《鳥のカタログ》+バロックの鳥たち

c0050810_8392055.jpg感想まとめ http://togetter.com/li/683198

大井浩明リサイタル・シリーズ《時を得たメシアン Meantime Messiaen》
山村サロン(JR芦屋駅前) 全自由席 当日¥3000 (前売り¥2500)
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com

「五線譜という鳥籠――メシアン《鳥のカタログ》をめぐって」(平野貴俊) その1その2その3

c0050810_15224495.jpg第3回 2014年8月31日(日)午後5時開演(午後4半開場)
【第一部】
●O.メシアン(1908-1992):《鳥のカタログ》(1956/58)より《I.黄嘴鴉》 約8分
○F.クープラン(1668-1733):《恋する小夜啼鳥》(1722)
●O.メシアン:《II.西高麗鶯》 約8分
○F.クープラン:《おじけた紅鶸》(1722)
●O.メシアン:《III.磯鵯》 約13分
---
○F.クープラン:《嘆く頬白》(1722)
●O.メシアン:《IV.顔黒砂漠鶲》 約15分
○F.クープラン:《勝ち誇る小夜啼鳥》(1722)
●O.メシアン:《V.森梟》 約7分
---
○F.クープラン:《お人好しの郭公》(1722)
●O.メシアン:《VI.森雲雀》 約7分


――――(休憩)――――

c0050810_1848549.jpg【第二部】
○C.ジャヌカン(1485-1558):《鳥の歌》(1529)
●O.メシアン:《VII.葭切》 約30分
---
○J.P.ラモー(1683-1764):《鳥の囀り》(1724)
●O.メシアン:《VIII.姫告天子》 約5分
○J.P.ラモー:《雌鶏》(1728)
●O.メシアン:《IX.欧羅巴鶯》 約11分

――――(休憩)――――

【第三部】
○J.J.F.ダンドリュー(1682-1738):《鳥のコンセール》(1724)
●O.メシアン:《X.腰白磯鵯》 約18分
---
○L.C.ダカン(1694-1772):《燕》(1735)
●O.メシアン:《XI.鵟》 約10分
○L.C.ダカン:《郭公》(1735)
●O.メシアン:《XII.黒砂漠鶲》 約8分
○J.デュフリ(1715-1789):《鳩》(1748)
●O.メシアン:《XIII.大杓鷸》 約8分
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〈煉獄のメシアン〉 ―――木下健一
Messiaen en peine --- Ken'ichi KINOSHITA (2002)

c0050810_18485773.jpg  メシアンが信奉していたカトリック教では人間誰しも、死ぬと煉獄というところに入れられる。つまりあなたが天国へ行けるか、それとも地獄に堕とされるか、神様が判決を下す間仮拘留される「清めの場」(“purgatoire”)で、生涯パリの三位一体教会のオルガン弾きとして神様に仕え、その作品の大部分を神様に捧げているかにみえるオリヴィエ・メシアンの場合でも、カトリックならこれだけは避けるわけにはいかない宿命である。否、「メシアン君、君は私に断りもせず、勝手に私の名を使って随分妙な音楽を書いているではないか。けしからん!あのヴェーベルン君を見習ったらどうだ。君の《昇天》はなんで〈交響曲作品番号xx番〉であってはいかんのだ?・・・。《トゥランガリラ交響曲》などという異教徒の音楽を作った君が《そして私は死者たちの復活を待ちわびる》もへったくれもないではないか!」。善人だって往生するのだから、悪人もってをや・・・といみじくも言ったのは我が親鸞和尚さんで、キリストさんが、天国目当てに身を摺り寄せてくる偽善者の群にそう寛容とは思えない。ひょっとすると、メシアン先生は神様のこのような非難に答えつつ、天上でもコツコツ新作を準備しているかも知れぬ。
  ・・・てなことを考えさせられるのは、没後~もう!~10年。本国ではさぞかしメシアン回顧特集の大騒ぎと思いきや、これまたウソじゃないかと思うくらい・・・何もないのである。ただ独り、晩年のメシアンから並々ならぬ寵愛を一身に受けていたチョン・ミョンフンが律儀に3度にわたる特集コンサートを準備しているくらい。生前それこそ10年毎にお誕生コンサートの類を企画し続け、御大が亡くなるや、こことぞばかりメシアンを採り上げまくっていた人たちが揃いも揃って知らぬ狸を決め込んでいる。
  確かに、本国でメシアンは、生前から現代の作曲家の中では最も採り上げられる頻度の高い人、それも、現代音楽専門の団体のみならず、通常のメジャー団体が競ってプログラムに載せていた作曲家でもあり、管弦楽曲など通常のレパートリーとさして変わりない扱いを受けていたわけで、なにを今さら!というところが、確かに・・・ないこともない。現代音楽専門団体の間では、今同じように煉獄で呻吟しているらしい作曲家ではモーリス・オアナやヤニス・クセナキスなど、生前メシアンほど優遇されていなかったから、もう名声の確立しているメシアンよりは・・・と考えたとしても不思議ではあるまい。
c0050810_18495019.jpg  とはいうものの、作曲家の死後、メシアン演奏のあり方が随分変わってきていることも確かなのである。
  周知の通り、メシアンという作曲家は自作が演奏される機会に、リハーサルの段階から、それこそマニアックなくらい綿密に自作演奏の場に付き合っていた人である。彼の要求はただ一つ、楽譜に忠実であること。とはいうものの、メシアンの場合自らを作曲家=創造者とみなす意識は稀薄だったはずで、あくまで天にまつわる神様=創造者が、天と地上との媒介の役割を果たす鳥の声などを通じ、地上における受容器(“réceptacle”)たるメシアンに下位した音たちの収集者として自らを位置づけていたことだろう。神様の音たちだからこそ、演奏者は作曲者のサイフならぬ「採譜」に極度に忠実でなくてはならぬわけで、それはロマン主義譲りの肥大した自意識、そして自作に対する所有権の主張とは一線を画すべきものである。
  ただ、だからこそ、メシアンの作品が作曲者を離れ、独り歩きをし始めるのは作曲家の死を待たねばならなかった。事実、チョン・ミョンフンが作曲家の検閲の下にメシアンを振った演奏会と、自らの全責任の下に行ったレコード録音での演奏とは水と油のように異なるのが常だったし、エサ・ペッカ・サロネンが《トゥランガリラ交響曲》を採り上げ、シルヴァン・カンブルランやケント・ナガノが《アッシジの聖フランチェスコ》を振ると、メシアン自身があれほど愛情を持ち、あの刺激的な音が私たちの耳を逆撫でするのを好んだオンド・マルトノなど、管弦楽の背後でいとも奥ゆかしく鳴りを潜めるようになった。小澤征爾に振らせると、あれだけ野蛮で派手派手しかった音楽が、やたらスマートで均斉の取れた現代的な軽快さに装いを改める。
  今、メシアンの音楽が、作曲家とその取り巻き連中の軛(くびき)を離れ自らの生を生き始めようとしている。メシアンが死んで10年。Vive Messiaen! (2002年8月5日)


木下健一(1951~2011)/東京生まれ。1971年より2006年までパリ在住。パリ第10大学修士(哲学)、同第3大学博士課程修了(演劇学)。1980年代半ばより演劇および音楽部門におけるジャーナリスト、評論活動。1990年代末よりハイテク、メディア・ジャーナリスト。訳書に「デュティユーとの対話」(法政大学出版局)他。

木下健一氏による大井インタビュー(2002年5月)
c0050810_024047.gif  H.O. 「イヴォンヌ・ロリオ審査委員長から、直々に「解釈についての苦情メモ一覧」を頂戴いたしました。それを唯々諾々と受け入れようなんて夢にも思わないところが、これまた私の度し難さ(笑)」
  K.K.「あっはっは!…それは、メシアン一家らしい。だいたい、小澤征爾が世界初演した《アシジの聖フランチェスコ》の時だって、御大がしゃしゃり出てきて、なんだかんだと演出に口を挟んでくるわけよ。天使登場の場面 は豆電球かなんかでチカチカいかなくちゃならない、とかね。ところがね。あれが初演になったパリの旧歌劇場ガルニエ宮の裏手はギャルリー・ラファイエットだとかル・プランタンのあるデパート街なんだよ。それでこのオペラが世界初演された12月というのはクリスマス・年末大バーゲンセールであっちじゃ、ネオンサインが派手ばでしくチカチカやってるわけ。それが舞台の真後ろくらいにあることことをお客さんは誰でも知ってるから、豆電球チカチカで天使が登場すると、これはもう大爆笑なわけよ。特に、メシアンが抱いている天使のイメージってのは、牧歌的なフラ・アンジェリコみたいな天使じゃないでしょ。もう極彩 色で金管なんかがぎゃあぎゃあ鳴りわたる派手派手しい天使でしょうが…。だから、僕らはあの後ろでやってるクリスマス・バーゲンセールを想像しちゃって、これはもう…可笑しい(笑)。これは、お呼びでないところで作曲家が所有権を主張してしゃしゃり出てきたおかげで、そうなるべきではないところで期せずして「吉本大漫才」が始まっちゃった例。そうではなく最初から「吉本しゃべくり漫才路線」でいくと、そうはならないんだよ。最初から、あの後ろでデパートがバーゲンセールをやってるのを演出家が知ってて、舞台奥が開くと、あっちではギャルリー・ラファイエットのイルミネーションの切れっ端がセットしてあってチカチカ始まる(笑)。これはダニエル・メスギッシュ演出版リゲッティの《ル・グラン・マカーブル》の一場面。」
c0050810_3463253.jpg  H.O.「メシアンがクリスマス・バーゲンセールなら、リゲティは『死霊の盆踊り』だったりして」
  K.K.「…ところが、ちょっとマシな演出家の手にかかると、そんなのにならないから面白い(笑)。マルクス兄弟総出演で、オペラ座の模型に火を点けたりたりして、あの阿呆くさい話を攪乱してまわる。リゲッティ自身もそいつに加担しちゃって、初演日に途中でプイと帰っちゃったんだ。さあ、狂喜したのが批評家連中で、早速「作曲家を裏切る演出家」なんてやっちゃったわけ。そしたら二日目からは、カーテンコールにリゲッティとメスギッシュが抱き合って、大満悦で登場してる!…。皆、あの二人にいっぱい喰わされたんだ(笑)。いっぱい喰わされなかったのは『ル・モンド』紙のジャック・ロンシャンくらい。「確かに、メスギッシュはリゲッティを裏切ったかも知れない。しかしながら私には舞台のこの充実ぶりを否定することはできない」なんて書いてたよね」
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by ooi_piano | 2014-08-28 08:14 | Chiersance2014 | Comments(0)

8/31(日)公演 平野貴俊氏寄稿(その1)

「五線譜という鳥籠――メシアン《鳥のカタログ》をめぐって」  (平野貴俊)

その1その2その3) 8/31公演・演奏曲目
「《まなざし》をめぐるもうひとつの聖三位一体――メシアン、トエスカ、ドン・コルンバ・マルミオン」
平野貴俊
 +脚注

c0050810_717116.jpg  鳥の歌への関心を学術的なレヴェルで最初に示したのは、18世紀フランス百科全書派の博物学だった。博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール別名ビュフォン伯爵(1707-1788)は、『一般と個別の博物誌』(註1)の第16巻から第24巻をなす『鳥類博物誌』(1770-1783)で、アトリの歌を次のように説明している。「アトリはとても快活な鳥である。[…]その歌を分析するのは面白い。前奏のあと速くなり、終止音がある」(註2)。興味深いことに、メシアンもこれとよく似た言葉でアトリの歌を説明する。「アトリの歌は活気に満ち、だんだん速くなり、それぞれの個体は固有のコデッタをもつ」(註3)。フランスで鳥の歌を記譜する試みが学術的なレヴェルで始まったのは、1917年、総合心理学学会によって『音楽との関連における鳥の声と歌の研究への一考察』が公刊されて以降である(註4)。ここではズグロムシクイの声のアルファベットによる表記、サヨナキドリの声の記譜が掲載され、これがきっかけとなって「鳥類旋律図示学 ornithomélographie」という研究分野が生まれた(註5)。ただ、作曲家がその成果を援用することができる段階まで研究が進展した形跡はない。

c0050810_3133340.gif  西洋芸術音楽におけるいわゆる「鳥の音楽」の系譜は、14世紀のジャン・ヴァイヤン(1360-90ころ活動)、ジャクマン・ド・サンレーシュ(1382-3ころ活動)によるヴィルレー(註6)、16世紀のクレマン・ジャヌカン(1485-1558)らのシャンソンとマドリガルにまでさかのぼる(註7)。チェルニーによれば、ベートーヴェン《交響曲第5番「運命」》冒頭の4音はキアオジ(《鳥のカタログ》第7巻第11曲〈ヨーロッパノスリ〉に登場)の歌を下敷きにしている。鳥の歌が単発的に使用された作品は無数に存在するが、メシアンの周辺をたどっていくと、同世代のジョン・ケージにライヴ・エレクトロニクス作品《電話と鳥》(1977)があり、メシアンの教え子ミカエル・レヴィナス(1949-)にはオペラ《鳥の会議》(1985)、同じくメシアンの弟子フランソワ=ベルナール・マーシュ(1935-)の《ソピアナ》(1980)がある。《ソピアナ》はフルート、ピアノ、鳥の歌を録音したテープのための作品で、マーシュはメシアンの関心を受け継ぐかたちで動物音楽学 zoo musicologyを提唱するに至っている。シュトックハウゼンの《クラヴィーア作品第14番「誕生日のフォルメル」》(1984)は、ブーレーズの生誕60年を記念した作品で、《リヒト》でセキセイインコを演じたピエール=ロラン・エマールが初演している。ブーレーズ、エマールの師ロリオはともにメシアンの弟子である。日本の作曲家も鳥を愛用してきた。メシアンに師事した吉田進は、蝉の声を用いた《カナカナ》(1976)と《空蝉》(1979)を発表し、それらを聴いたメシアンは吉田に賛辞を送っている。20世紀の邦人作曲家の作品のタイトルに頻出する語を調査した沼野雄司によれば、「鳥」は「時」に次いでもっとも頻繁に用いられているという(註8)。メシアンが鳥をインスピレーションの中心的な源に据えていなかったら、武満徹、吉松隆、西村朗はこれほど「鳥」にこだわっていたであろうか(註10)。

自然、鳥の歌! 私はそれらを愛してやみません。それはまた心の糧です。暗い時分、私は突然自分の無能さに気づいてはっとします。古典派、異国、古代、現代、超現代、あらゆる種類の音楽言語は、忍耐強い探究の結果として出てきた立派な成果にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。音の背後には、それだけの労苦を正当化してくれるものなど何ひとつありません。森や田園、山々や海辺、鳥たちに囲まれたどこかある場所に、その忘れられた姿を見いだすほかないではありませんか。私にとって、音楽があるのはまさにそこなのです(オリヴィエ・メシアン)(註11)


c0050810_3134627.gif  メシアンが20代で作曲した《昇天》(管弦楽版は1932-1933、オルガン版は1933-1934)の第2楽章〈天を希求する魂の穏やかなアレルヤ〉、オルガン曲集《主の降誕》(1935)にはすでに鳥の歌が現れているが、スコアには鳥の種類が記されていない。鳥の名が現れる最初の作品は《時の終わりへの四重奏曲》(1940)で、その第1楽章では「クロウタドリとサヨナキドリが即興で」歌っているとされる(註11)。ただしこの時期の作品には、《鳥のカタログ》に見られるようなスコアへの仔細な書き込みがまだ存在しない。イヴォンヌ・ロリオ(1924-2010)との出会いに触発されて書かれた「演奏会用典礼三部作」(《アーメンの幻影》〔1943〕、《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》〔1944〕、《神の臨在の3つの小典礼曲》〔1943-1944〕)、人間同士の愛を扱った「トリスタン三部作」(《ハラウィ》〔1945〕、《トゥランガリラ交響曲》〔1946-1948〕、《5つのルシャン》〔1948-1949〕)を経て、1940年代の創作を締めくくったのは、かの有名な〈音価と強度のモード〉を含む《4つのリズム・エテュード》(1949-1950)であった。まもなくブーレーズは、〈音価と強度のモード〉に触発された《構造I》(1952)や挑発的な著述を通して、トータル・セリーこそ現代音楽の採るべき唯一の道であると喧伝した。しかしメシアンは、1952年にシェフェールのもとでミュジック・コンクレートを試しはしたものの(《音色‐持続》)、トータル・セリーと録音媒体を使った音楽のいずれにも十全な可能性を見いだせずにいた。
  こうした状況下で転機となったのが、ピアノと管弦楽のための《鳥たちの目ざめ》(1953)である。これはメシアンに野鳥観察の手ほどきをした鳥類学者、ジャック・ドラマン(1874-1953)の領地で書き記された38の鳥の歌「のみ」からなる作品であり、初演は失敗に終わったものの、これによってメシアンに新たな分野の開拓を続けることを決意した。メシアンはこの決心に至った過程を詳しく述べていないが、彼を鳥の時代へと導いた要因はひとつではないだろう。むしろその選択は、当時の「前衛」の潮流を背景として理解されねばならない。鳥の歌は、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、シェフェールといった現代音楽界の新たな主役のなかで、メシアンがみずからの立ち位置を明確に主張するための強力な切り札として提出された。シュトックハウゼンが電子音楽の創作を通して、トータル・セリーにおけるパラメーターの制御を究極的な精度で実現しようと試みたことは周知の通りである。これと同様にメシアンは、鳥の歌の採譜と加工という作業によって記譜の精緻化を推し進めることができた。パリ音楽院のエクリチュールを知悉するメシアンにとって、頭のなかに鳴り響く音、すなわち内的に聴こえる音を記譜することはきわめてたやすい作業だった。加えてメシアンは、パリ音楽院で彼に学んだ弟子たちが口をそろえて証言する通り、西洋・非西洋を問わずあらゆる音楽伝統のエッセンスを抽き出すことに長けていた。メシアンのまなざしは、こうして人間界には存在しない音響に向けられるようになったのである。この点でメシアンの選択はケージのそれに通じる。「あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです」(傍点ケージ)。自然界の音の導入はまた、ミュジック・コンクレートの実践とも共通する。メシアンは、パリ音楽院の授業で《鳥のカタログ》第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ〉を扱ったとき、クロジョウビタキの鳴き声を「紙をくしゃくしゃとしたときの音」にたとえ、ミュジック・コンクレートにおいてはきわめて効果的な素材となるだろうと述べる(註13)。加えて鳥は、予想されるように、「生まれながらにして信仰者」であることを標榜するメシアンにとって、神と作曲家を仲介する一種の使者の役割をも担った。「聖フランチェスコが鳥に説教するように、メシアンは鳥の説教に耳を傾ける」(註14)。鳥はまた、1940年代末のメシアン個人の信条を象徴する生物であるともいわれる(註15)。メシアンはしばしば戦争や核の使用に対して憂慮を表明しているが、1948年にはフランス初の核連鎖反応が実施され、1949年にはプルトニウムが初めて抽出された。当時の首相ヴァンサン・オリオルは、この進歩がフランスの栄光に寄与するだろうと誇らしげに語っている。このような状況を背景として、フランスでは1940年代にカトリックの復権を唱える書物が多く刊行された。1940年代末に書かれたオルガン曲集《聖霊降臨祭のミサ》(1949-1950)は、全体の24%が鳥の歌で構成されている。メシアンは鳥の歌が自由の象徴であるとしばしば語っており、1940年代末に同じくパリで活動していたピカソとダリも、やはり自由の象徴として鳥を自作に登場させている。メシアンとダリは、シュルレアリスムを高く評価しカトリックを信奉しているという点で共通しており、ダリとピカソはメシアンお気に入りの画家であった(註16)。
c0050810_718392.png  ブーレーズ率いるドメーヌ・ミュジカルのために書かれた《異国の鳥たち》(1955-1956)は、北南米を含む世界各地の鳥の寄せ集めであるが、メシアンはこれらの歌を実地で聴いたわけではなく、1942年にコーネル大学が製作したレコードを利用している(註17)。またこの作品では「調および旋法の枠に当てはまらない」和音、「色彩‐和音 accords-couleurs」(7-10音からなる音の複合体)が用いられている(註18)。こうしてメシアンは、調および旋法に代わりうるものとして「色彩」の概念を導入し、かつて『わが音楽語法』(1941)で定式化した「移調の限られた旋法 modes à transposition limitée」という軛からみずからの和声語法を解放したのである(註19)。《鳥のカタログ》の作曲を通してピアノにおける鳥の歌を探究したメシアンは、アルブレイシュが「鳥の10年 décade oiseau」(註20)とよぶこの転換期(1953-1963)の締めくくりとして、《クロノクロミー》(1959-1960)、《7つの俳諧》(1962)、《天の都の色彩》(1963)を作曲した。鳥の歌の洗練化と和声語法の深化の末に生み出された《天の都の色彩》は、《神の臨在の3つの小典礼曲》以来約20年ぶりに信仰がテーマとなった作品であり(註21)、メシアンはこの時点までに、鳥の歌と信仰の真理を同じ作品のなかで扱うことは矛盾しないという結論に達していた。20余年前の典礼三部作と鳥を結びつける構想が実現されたことで、これまでいくたびかの変転を経てきたメシアンの探究はひとつの円環を閉じるに至ったのである。

生まれながらの鳥類学者!......オリヴィエ・メシアンの母であり詩人のセシル・ソヴァージュは、1910年春アヴィニョンで、14か月の幼いオリヴィエを乳母車に乗せて歩いていた。オリヴィエはその小さな手で哺乳瓶をしっかりと握って飲んでいた。すると彼は、哺乳瓶を放して目を空のほうへ向けた。セシルも空を見つめたけれど、息子の幸福そうな微笑のほかには何も目に入らなかった。オリヴィエがじっと聴き入っていたのは、一羽の鳥の楽しげな歌だったのだ......彼の最初の先生が何の鳥だったのか、いまでは知る由もないけれど!......(イヴォンヌ・ロリオ)(註22)


c0050810_3142226.gif  メシアンが鳥の歌を初めて書き記したのは1927年、パリとバーゼルの中間辺りに位置するオーブ県フュリニーの叔母の家に滞在していたときだった(註23)。この年の8月にメシアンは母セシル・ソヴァージュ(1883-1927)を亡くしているが、《鳥のカタログ》の全曲初演が行われてちょうど1週間後の1959年4月22日には、最初の妻クレール・デルボス(1906-1959)がパリ近郊の療養所で亡くなっている(註24)。また、《鳥のカタログ》〈コシジロイソヒヨドリ〉の素材となる歌を収集するため、南仏エロー県に滞在していた最中の1957年6月、父ピエールがパリで亡くなった。このような事情を知ると、鳥の発見を通した語法の拡充は、皮肉な偶然によってメシアン個人の苦境と重なっているようにも思える(註25)。
  だが、1950年代以降の旺盛な採譜活動は、まもなく(2番目の、そして生涯の)伴侶となるロリオの助けを抜きにしてはあり得なかった。1950年代半ば、車の運転ができなかったメシアンのために、ロリオはルノーの小型車を購入して運転を覚え、デルボスへの見舞いにメシアンを連れて行くようになった。同時にこの慣行は、ヴァカンスを利用してフランス各地で野鳥観察の旅を行うことをも可能にした。鉛筆と五線紙を携え、ベレー帽を被って森のなかにたたずむメシアンの姿は有名だが、その背後にはテープレコーダーを携えたロリオの姿があったのだ。ロリオがメシアンの採譜に忠実に付き添っていたことは、ロリオがインタヴューや著述で採譜旅行のエピソードを好んで引き合いに出すことからも明らかである(註26)。「私たちが結婚する前のことです。私はメシアンを小さな車に乗せてよく田舎へ行きました。彼は明け方の合唱を聴くために、干し草の山や納屋のなかで夜を過ごしていたんです」(註27)。2人が結婚したのは1961年4月。フランス各地を周遊した採譜旅行を一通り終え、ロリオが《鳥のカタログ》全曲初演を行ってから約2年が経っていた。鳥はメシアンにとって、親族の喪失という痛ましい出来事を想起させる存在である同時に、ロリオというミューズから受け取る新たなインスピレーションの象徴でもあった。メシアンがとりわけ好んだ鳥のひとつ、ニシコウライウグイスのフランス語名がロリオ(Loriod)と一字違いの Loriot であるというのは何という偶然だろうか。

c0050810_3151776.gif  メシアンの採譜は基本的に実地で行われたが、屋内で録音を聴きながら丁寧に書き写すこともめずらしくなかった。同時に多数の鳥の声が聞こえるときは、一度にすべての歌を書き留めることは不可能なので、何日かに分けて一種類ずつ書き記したという(註28)。メシアンは「科学的で精確な鳥の歌の記譜を行った最初の作曲家」をもって自任していたが(註29)、その功績は録音機器によって支えられてもいたのだ。しかし、採譜を始めてまもないころは録音機器を使っていなかったためか、メシアン研究の先鞭を付けたジョンソンやアルブレイシュは(註30)、採譜は耳だけをたよりに行われていたと伝えている。ブーレーズでさえ、メシアン生誕100年に際したオマージュのなかで「メシアンの耳の鋭さを考えれば、彼は実地で鳥の歌を採譜したのだろう」と言っている(註31)。メシアンは採譜を本格的に開始した当初、素早く書き留めるためのメモ帳と清書用のノートを分けて使っていた。ノートは全部で200余りにおよぶが、現在その一部はフランス国立図書館に所蔵されている。
  メシアンが記譜の「忠実さ」を重視したことは、録音機器を使用していた事実からも明らかであるが、典拠となったレコードが判明している《異国の鳥たち》のような場合を除き、その記譜がオリジナルに果たしてどれほど「忠実」であるのかを疑う人も少なくない。イギリスの作曲家トレヴァー・ホールド(1939-2004)は、早くも1971年にその忠実性に疑問を呈し、録音された鳥の歌のスペクトログラムをメシアンの記譜と対比しながら、メシアンが鳥の声をいかに歪曲しているかを示している(註32)。「鳥の歌のモデルに忠実たらんとすれば、ピアノほどその目的に適さない楽器が選ばれるはずはない」(註33)、メシアンは「鳥を自由に歌わせるのではなく、籠のなかに閉じ込めることに成功したのだ」(註34)。メシアンもその限界は承知していた。「鳥のことをほんとうに知っている人のなかにも、私の音楽を聴いて何の鳥が使われているのかわからないと言う人がいます。ですから私は間違えているのかもしれません。しかしそれでも、そこには真実しかないと断言できます。聴いたのはあくまで私なのです。何か私なりのもの、私自身の歌の聴き方、書き取り方がそこに入り込んでしまっているのでしょう」(註35)。

c0050810_752432.gif  客観性と恣意性とのアンビヴァレンスは、鳥の記譜のみならず、メシアンの大著『リズム、色彩、鳥類学の総説』(1949-1992、7巻8冊〔鳥の歌を扱った5巻は2冊に分かれている〕、全3289ページ)にも現れている。本書の分析と例示がくどいまでに冗長なのは、その目的が紛れもなく読者を啓蒙することにあるからだ。しかし同時に、学術的とよぶにはほど遠い詩的な独白が頻出することも確かである。鳥の歌の扱いについても同様のことがいえる。鳥の歌は1940年代の作品で早くも様式化されているが(註35)、この時期の鳥の歌はあくまで「鳥の歌風」のフレーズにすぎず、実地で書き取られた歌はそこには含まれていない。その後、実地踏査する「鳥類学者メシアン」の誕生に伴って、これらの鳥は緻密な分類・整理の対象となったのである。「カタログ化」は、メシアンがみずからの音楽語法を確立するうえでの常套手段だった。実質上の処女作《前奏曲集》(1928-1929)から一貫して用いられてきた「移調の限られた旋法」は、1941年の『わが音楽語法』において初めて定式化された。インスピレーションの導きに従うなかで頻出した要素は、一定の期間を経たあとで言語化、体系化を被る。この手続きによってメシアンは、みずからをドビュッシーら音楽史上重要な作曲家のいわば後継 héritier として位置づけようとした。若いころのメシアンが、あらゆる機会をとらえて自作の解説を披露しようとしたことはよく知られている。これはとりもなおさず、メシアンが20世紀フランスを代表する作曲家として音楽史に名を刻むための戦略だった。
  語法のカタログ化は、しかしながら、鳥の時代以降メシアンが語法をラディカルに刷新することを妨げはしなかっただろうか。『リズム、色彩、鳥類学総説』というタイトルは、メシアンが鳥の時代たる1950年代までに発展させた概念が、死去する1992年まで主要な役割を演じ続けたことを物語っている。1965年、文化相マルローから直々に委嘱を受け、翌年にはパリ音楽院作曲クラス教授に就任、その翌年にはフランス学士院メンバーに選ばれ、パリ音楽院のクラスにミュライユが入学する。『総説』の刊行がもたらした反響が思いのほか小さく、現時点で英語とドイツ語の部分訳しか存在しないのは、メシアンの自閉性、すなわち1960年代までに言語化しえた要素に執拗に立ち返り続ける姿勢のためであり、それは現在メシアンを好む音楽家が必ずしも多くないこととも無関係ではない。 (つづく)
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by ooi_piano | 2014-08-28 08:13 | Chiersance2014 | Comments(0)

8/31(日)公演 平野貴俊氏寄稿(その2)

その1その2その3) 8/31公演・演奏曲目

(つづき)
c0050810_3181488.gif  メシアンがグレゴリオ聖歌や「デシ・ターラ」(インド音楽のリズム型)に好んで言及したことはよく知られている。これらは彼にとって時代を超越した不変=普遍の要素であり、鳥の歌もまたその一角をなしていた。メシアンは創作、教育、執筆という3つの活動を通して、これらの遺産をたえず言語化、体系化しようと試みた。パリ音楽院での約30年にわたる教育活動(和声、音楽美学および音楽哲学、分析そして作曲の教授として)、40年余りをかけて執筆された『総説』は、終生メシアンがその整理にどれほど情熱を傾けたかを物語っている。ここにみられる網羅性は、まさしく18世紀フランスの百科全書派が目ざしたものである。実際、メシアンはみずからをリズム研究家 rythmicien そして鳥類学者 ornithologue、いうなれば一種の音楽博物学者と定義した(註36)。『総説』の冗長な叙述は、メシアンと関心を共有しない者を排除するような秘教性すら具えている。たとえば、日本の鳥には約110ページが割かれているが(註37)、ウグイスの鳴き声「ホー、ホケキョ」で「ホケキョ」に当たる部分は、メシアンによれば「トルクルス」というネウマに相当するという。1962年夏に日本を訪れたメシアンは、軽井沢で別宮貞雄を通訳、端山貢明を虫除けスプレー散布係に随えて採譜を行っているが、このときメシアンが聴いたウグイスは「ホケキョ」の部分をヴァリアントで歌っていた。メシアンいわく、トルクルスが「スキャンディクス・フレクスス」および「ポルレクトゥス・フレクスス」になっていたのである(註38)。メシアンは鳥一つひとつについて、以上のような分析を丹念に行っている。
  メシアンの作品に登場する鳥の種類は全部で357あり、登場する箇所をすべて数えると757になる(《鳥たちの目ざめ》以前の作品に現れる、特定されていない鳥の歌を除く)。メシアンが用いた鳥は、世界中に存在する種全体の3.6%、科では38%、目では47%に相当する。好んで用いられた鳥とその登場回数は、クロウタドリ(28)、ニワムシクイ(22)、サヨナキドリ(20)が挙げられる(註39)。鳥類学者は、世界中に存在するおよそ1万の種を、美しく歌う鳥、歌があまり美しくない鳥、歌わない鳥(カモメ、ダチョウ、ワシなど)の3つに大別しているが、メシアンの作品には歌わない鳥も登場する。《鳥のカタログ》第1巻第1曲〈キバシガラス(黄嘴鴉)〉に登場するイヌワシ、《ニワムシクイ》におけるツバメがその例である。前者では、次第に狭くなる音程によって、イヌワシが大空へ飛翔する様子が描写されている。また《鳥のカタログ》第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ(腰白磯鵯)〉では、ワシミミズクの雌雄が描き分けられている。雄は下行する和音とグリッサンドで表され、雌は低音の反復音型によって描かれる(註40)。先に触れた通り、《鳥のカタログ》は鳥だけでなく、鳥を含む生息地の景観全体を扱っているが、冒頭の〈キバシガラス〉では鳥よりも峻険な山並みが中心となっており、最後の〈ダイシャクシギ〉では同名の鳥が冒頭と末尾にしか登場しない。なお《アッシジの聖フランチェスコ》(1975-1983)には、ウグイス、ホトトギス(第6場でオンド・マルトノ3台によって奏される)、フクロウなど、オペラの題材とは直接関係のない日本の鳥が登場する。メシアンの採譜旅行は、1960年代以後はもはやロリオのルノーを必要としなくなり、その代わりメシアンはフランスを代表する作曲家として、各国で丁重なもてなしを受けるようになった。ヨーロッパ以外では、日本(1962、1978)、アルゼンチン(1963)、アメリカ(1972)、ニューカレドニア(1975)、ギリシャ(1976)、イスラエル(1983、1984)、オーストラリア(1988)で採譜を行った。ニューカレドニアでの採譜は、《アッシジの聖フランチェスコ》で天使を扱う際の歌を探すという目的で行われた。これは、純粋に採譜だけを目的とする訪問という点で例外的な旅であり、それ以外の国では演奏会への臨席、講演や作曲講座、受賞式への出席などを並行して行っている。鳥類学者という肩書があくまで自称にすぎないことは、採譜地の選択がこのように場当たり的なものであること、論文および研究発表という媒体で鳥の歌の研究を発表したことが一度もないことから明らかである。

c0050810_3202939.gif  《鳥のカタログ》は、最初から明確な全体像を念頭において構想された作品ではない。フランス各地で採譜旅行を行い、種々の鳥をみずからの音楽に取り込んだ結果、演奏所要時間約2時間45分という過去に例をみない規模の大作が完成した。その意味で、本作はある種の長大な映画ないし紀行文学にたとえられる。採譜地はしかしフランスの辺境に限られない。1952年にドラマンのもとで最初の本格的な採譜を行ってから、メシアンはパリ近郊サン=ジェルマン=アン=レの近くにあるオルジュヴァルの森に通った。1952年と1953年には、ダルムシュタットの講習会の合間に時間を見つけて採譜した。パリ19区の自宅から聴こえる鳥も活用された。1953年10月にバーデン=バーデンの黒い森で行われたスケッチには、「ピアノ用」という見出しのもと、鳥の名が長々と列挙されている。《カタログ》の構想はこのころから徐々に練られていったものと思われる。全13曲が7つの巻 Livre に割り振られるという構成は、メシアンが素数を好んだことと無関係ではない(註41)。ひとつの巻に含まれる曲の数は3-1-2-1-2-1-3、すなわち第4巻を中心として対称的に配分されている。第1曲と第13曲が自然の険しさを描くのに対して、第2曲と第12曲はやや開放的で明るい情景を扱うというように、第7曲を軸とする曲のペアは共通の性質を具えている。第1曲、第5曲、第11曲はいずれもフランス南東部ドーフィネ地方を舞台とするが、ドーフィネに近いグルノーブルは、メシアンが4歳のころから5年間過ごした思い出の地である(註43)。またメシアンは1936年から最晩年(1991)まで毎年、アルプスの山々を望むドーフィネ地方プティシェの別荘でヴァカンスを過ごした。メシアンとロリオの墓は現在その別荘の近くにある。

c0050810_321109.jpg  第1巻第1曲〈キバシガラス〉(黄嘴鴉、〔仏〕ル・ショカール・デ・ザルプ(アルプスのチャフ)、〔羅〕ピュッロコラクス・グラクルス(ベニハシガラス=コクマルガラス))(註44)は、鳥よりもむしろその生息する山々の険しさを描いており、《まなざし》にも用いられたリズム人物 personnages rythmiques(註45)が現れる。
  第1巻第2曲〈ニシコウライウグイス〉(西高麗鶯、〔仏〕ル・ロリオ(コウライウグイス)、〔羅〕オリオルス・オリオルス(黄金色の小さな鳥))は、頭や腹が黄色、羽と尾が黒色の鳥で、その歌は下行9度を2回続けて繰り返す点に特徴がある。
  第1巻第3曲〈イソヒヨドリ〉(磯鵯、〔仏〕ル・メルル・ブル(青いツグミ)、〔羅〕モンティコラ・ソリタリウス(孤独な山の民))は全身がもっぱら青の鳥で、ここでは南仏の地中海の海の青が同時に喚起され、青紫(第2旋法第1転回形)、青と緑(第3旋法第3転回形)などが使われる。地中海に面した丘を舞台とする。
  第2巻第4曲〈カオグロサバクヒタキ〉(顔黒砂漠鶲、〔仏〕ル・トゥラケ・スタパザン(スタパザンのサバクヒタキ)、〔羅〕オエナンテ・ヒスパニカ(スペインのオエナンテ〔註46〕))も地中海に面したワイン畑が舞台である。その歌はごつごつとして乾いた感じであるが、ここではむしろメジロモリムシクイが主役を演じている。
  第3巻第5曲〈モリフクロウ〉(森梟、〔仏〕ル・シュエット・ユロット(鳴くフクロウ)、〔羅〕ストリクス・アルコ(フクロウ=ミミズク)は、メシアンにとって夜の闇の恐ろしさを喚起する鳥であり、その叫びは同音反復と下行3度の組み合わせからなる。この曲集では唯一セリー的な書法に依拠した作品である。
  第3巻第6曲〈モリヒバリ〉(森雲雀、〔仏〕ラルエット・リュリュ(ルルと鳴くヒバリ)、〔羅〕ルッルラ・アルボレア(木のルル鳴き鳥))は、透明感のある高い声で下行音程を繰り返す。フランス語名は、その歌が「ルル、ルル……」と聞こえることに由来する。
c0050810_3222629.jpg  30分近い演奏時間を要する第4巻第7曲〈ヨーロッパヨシキリ〉(葭切、〔仏〕ラ・ルスロル・エファルヴァット(ヨシキリ)、〔羅〕アクロケファルス・スキルパケウス(頭蓋骨の出っ張ったスキルパケウス))は、午前0時から翌朝午前3時までの池のほとりを扱っている。メシアンはこの鳥を聴くために、ソローニュ地方の私有地を特別に借り切ったという。
  第5巻第8曲〈ヒメコウテンシ〉(姫告天子、〔仏〕ラルエット・カランドレル(コウテンシヒバリ)、〔羅〕カランドレッラ・ブラキダクティラ(短指のヒバリ))は、プロヴァンスの暑く乾いた砂漠のような土地で、突如として短い歌を聴いたメシアン自身の経験にもとづく。途中、9度の音程を特徴とするカンムリヒバリとの二重唱が聴かれる。
  第5巻第9曲〈ヨーロッパウグイス〉(鶯、〔仏〕ラ・ブスカルル(茂みを好む鳥)、〔羅〕ケッティア・ケッティ〔註47〕)の声は金属的で、時の流れを止めるほどの威力をもつとメシアンは言う。ここには《まなざし》でも用いられたリズム・カノン canon rythmique が出てくる。
  第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ〉(腰白磯鵯、〔仏〕ル・メルル・ドゥ・ロシュ(岩のツグミ)、モンティコラ・サクサティリス(岩間の山の民))は切り立った崖の上で歌う青とオレンジの美しい鳥。中央部では、32の半音階の持続を置換した経過的な和音が現れるが、これらは死んだ女性を運ぶ幽霊たちの行列を表しており、メシアンはここでマックス・エルンストの作品を想起している。
  第7巻第11曲〈ヨーロッパノスリ〉(鵟、〔仏〕ラ・ビューズ・ヴァリアブル(さまざまな色のノスリ)、〔羅〕ブテオ・ブテオ(ノスリ=ノスリ))はタカの一種で、ドーフィネの山々の上を円を描いて飛ぶ様がレントのピアニシモで表される。
  第7巻第12曲〈クロサバクヒタキ〉(黒砂漠鶲、〔仏〕ル・トゥラケ・リウール(笑うサバクヒタキ)、〔羅〕オエナンテ・レウクラ(白い尾のオエナンテ))は崖の上で輝かしく愉快な歌を聴かせる。歓喜の爆発で曲を終えるというメシアンの慣行はこの作品に現れている。
  曲集を締めくくる第7巻第13曲〈ダイシャクシギ〉(大杓鷸、〔仏〕ル・クルリ・サンドレ(灰白色のダイシャクシギ)、〔羅〕ヌメニウス・アルクアタ(弧形の新月))の舞台はヨーロッパ最西端に位置するブルターニュのウェサン島。半音を主とするグリッサンドのような鳴き声は悲哀に満ちているとメシアンは言う。

c0050810_3225258.jpg  部分初演は1957年3月30日、サル・ガヴォーで開かれたドメーヌ・ミュジカルの演奏会でロリオによって行われた。このとき演奏されたのは、演奏順に第1曲〈キバシガラス〉、第6曲〈モリヒバリ〉、第5曲〈モリフクロウ〉、第2曲〈ニシコウライウグイス〉、第8曲〈ヒメコウテンシ〉、第13曲〈ダイシャクシギ〉である。第7曲〈ヨーロッパヨシキリ〉はこのときすでに完成しており、プログラムにも載っていたが、演奏は行われなかった。当初演奏時間17分だった本作品は、1957年夏に全面的な書き換えが行われ、当初のほぼ2倍におよぶ長さとなった。6月に行われた地中海沿岸での採譜は、第3曲〈イソヒヨドリ〉、第4曲〈カオグロサバクヒタキ〉、第12曲〈クロサバクヒタキ〉の素材を提供した。1958年1月25日には〈ヨーロッパヨシキリ〉第2稿が初演され、1959年4月15日、同じくドメーヌ・ミュジカルのメシアン生誕50周年記念演奏会で、ロリオが全曲初演(休憩1回、合計約3時間)を行った。出版は、それまでメシアンの主要作品を出版してきたデュランではなくルデュックから行われた。デュランは、《鳥たちの目ざめ》の初演が不評に終わったことから、鳥をテーマとする作品の出版に慎重な姿勢をとっていた。1957年、メシアンはついにデュランとの契約を破棄し、以後はもっぱらルデュックに出版を委ねるようになる(註48)。


■《鳥のカタログ》に登場する鳥の名称一覧 (クリックすると拡大表示されます)
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by ooi_piano | 2014-08-28 08:11 | Chiersance2014 | Comments(0)

8/31(日)公演 平野貴俊氏寄稿(その3)

その1その2その3)  8/31公演・演奏曲目

(つづき)

c0050810_326059.jpg(註1)Georges-Louis Leclerc comte de Buffon, Histoire naturelle, générale et particuliére avec la description du Cabinet du roy, Paris, Imprimerie royale, 1749-1804. フランス国立科学研究センターのビュフォン・アーカイヴ(http://www.buffon.cnrs.fr/)、フランス国立図書館デジタル・アーカイヴ「ガリカ」(http://gallica.bnf.fr/)、京都大学医学図書館ビュフォン・コレクションhttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b16/buffon_cont.html)の各ウェブサイトで全文を閲覧できる。

(註2)Olivier Messiaen, Traité de rythme, de couleur, et d’ornithologie (1949-1992) Tome V 1er volume, Paris, Alphonse Leduc, 1999, p. 113.

(註3)Ibid., p. 471.

(註4)Ferdinand de Fénis, Contribution à l'étude des cris et du chant des oiseaux dans ses rapports avec la musique, Paris, Institut général psychologique, 1917.

(註5)Alain Louvier, Messiaen et le concert de la nature, Paris, Cité de la Musique, 2012, p. 133.

(註6)ヴィルレー virelai は、バラード ballade、ロンドー rondeau と並んで、14-15世紀のフランスの詩および歌で多用された定型。ABBAの形式をとることが多い。

(註7)Maria Anna Harley, « Birdsong », Grove Music Online. Oxford Music Online. Oxford University Press, consulté le 18 août, 2014, http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/03123.

c0050810_782677.gif(註8)沼野雄司「音楽評論家の舞台うら:音楽は「時」「鳥」「風」........」、毎日新聞夕刊、2014年8月19日、4面。

(註9)武満は1954年『フィルハーモニー』に発表した文章で、デュカ(メシアンの作曲の師)の「小鳥の声に耳を傾けよ、彼らは巨匠である」という言葉に重要性を与えている。「このデュカの言葉に秘む思想は深く芸術の本質に言及している。[…]作家は、表面的なもの、一時的なものには無関心に、只事実にのみ心を潜めなければならない。デュカが、「小鳥の声……」から語るのは、このことであり、物質界、精神界の総ての事物、すべての状況から、直ちに音楽的プランの上に、彼が移す実体に就いてではないであろうか。」武満徹「ポール・デュカ」、『武満徹著作集5』、新潮社、2000年、219~220ページ。

(註10)Olivier Messiaen, « La Nature, les chants d’oiseaux », Guide de concert, 3 avril 1959, p. 1093-1094.

(註11)ヴァイオリンがサヨナキドリを奏し、クラリネットがサヨナキドリとクロウタドリの両方を受け持っていると推測される。なお、クラリネットの独奏による第3楽章は「鳥たちの深淵」と題されている。

(註12)ジョン・ケージ、ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(John Cage, Pour les oiseaux : entretiens avec Daniel Charles, Paris, Belfond, 1976.) 青山マミ訳、青土社、1982年、40ページ。

(註13)Jean Boivin, La classe de Messiaen, Paris, Christian Bourgois, 1995, p. 331.

(註14)François-Bernard Mâche, « Messiaen ornithologue », Anik Lesure et Claude Samuel dir., Olivier Messiaen : le livre du centenaire, Paris, Symétrie en collaboration avec France Musique, 2008 p. 183.

(註15)Robert Fallon, « Birds, Beasts, Bombs in Messiaen’s Cold War Mass », The Journal of Musicology, Vol. 26 No. 2 (Spring 2009), p. 175-204.

(註16)Messiaen, Traité Tome I, 1994, p. 68.

(註17)Albert R. Brand Bird Song Foundation, Laboratory of Ornithology, Cornell University, American Bird Songs (six 78 rpm records), Ithaka, NY, Comstock Publishing, 1942.

c0050810_792956.gif(註18)François-Bernard Mâche, op. cit., p. 86. マーシュはこの論文で、ドビュッシーとスペクトル楽派を橋渡しする重要な語法として「色彩‐和音」を位置づけている。またミュライユの音楽に詳しいピアニスト、マリリン・ノンケンによれば、鳥の時代でメシアンが試みた和音の扱いがミュライユ初期のピアノ曲にも現れているという。ミュライユはメシアンに師事する前、《聖霊降臨祭のミサ》や《異国の鳥たち》を弾いてその語法を独学した。Marilyn Nonken, « Messiaen and the Spectralists », Christopher Dingle et Robert Fallon dir., Messiaen Perspectives 2 : Technique, Influence and Reception, Aldershot, Ashgate, 2013, p. 229.

(註19)メシアンは、1986年に行われたクロード・サミュエルによる2度目のインタヴューで次のように述べている。「意表を突く言い方かもしれませんが、私は「調的」、「旋法的」、「セリー的」という概念、あるいはこれに類するその他の言葉は、見せかけのものでしかないと考えています。それらを使っていると主張しても、それは嘘にしかならないのです。[…]私の旋法にはトニックもフィナリスもありません。それらは色彩です。古典的な和音は引力と解決を前提としています。私の和音は色彩です。それらは知的な色彩を生むのであり、その色彩は和音とともに発展していくのです」Claude Samuel, Permanences d’Olivier Messiaen, Arles, Actes Sud, 1999, p. 76, 97. メシアンはかつて色彩を「移調の限られた旋法」に関連させ、旋法の転回形はそれぞれ固有の複雑な色彩をもっていると述べていたが、上でメシアンが言う「色彩」はもはや具体的な色の組み合わせを指示するものではない。メシアンによれば色彩は音色、すなわち音色 timbre は文字通り音=色 son-couleur なのである。この観方がスペクトル楽派によって受け継がれたと考えることも可能である。上の恣意的な関係づけから色彩が実際何を意味するのかを読みとることはむずかしいが、十二音音楽を含むセリー音楽が十把一からげに無色もしくは灰色とみなされていたことに鑑みて、色彩とは調と旋法の一種のアマルガムであると推測することは不可能ではないだろう。

(註20)Harry Halbreich, Olivier Messiaen, Paris, Fayard, SACEM, 1980, p. 83.

(註21)ただし、オルガン曲集《聖霊降臨祭のミサ》(1950-1951)と《オルガンの書》(1951-1952)にはいずれも鳥の歌が用いられている。また、1951年にはパリ音楽院の試験課題曲として《クロウタドリ》が書かれている。

(註22)Yvonne Loriod-Messiaen, « Fioretti », Anik Lesure et Claude Samuel dir., Olivier Messiaen : le livre du centenaire, Paris, Symétrie en collaboration avec France Musique, 2008, p. 239.

c0050810_3274873.jpg(註23)Messiaen, Traité Tome V 1er volume, p. 585. このとき書き取られたニシヒバリの歌は、《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》第8曲〈いと高きところのまなざし〉と《神の臨在の3つの小典礼曲》第1楽章半ばの第1ヴァイオリンのソロに用いられている。《まなざし》では、このほか第5曲〈子にそそぐ子のまなざし〉、第14曲〈天使たちのまなざし〉でも鳥の歌が用いられている。

(註24)クレール・デルボスはヴァイオリニスト、作曲家。ソルボンヌの高名な哲学科教授を父に持ち、スコラ・カントルムで学んだ。作曲家としては、メシアンの母である詩人セシル・ソヴァージュの代表作《芽ばえる魂》にもとづくソプラノのための歌曲集(1937)を作曲している。第2次世界大戦中は息子パスカルとともに実家で暮らし、当時捕虜だったメシアンとたびたび文通した。戦後はパリでメシアンと同居していたが、1943年までには身体に不調をきたすようになった。ロリオとメシアンが出会ったのは1941年5月7日、パリ音楽院でメシアンが初めて授業を行った日である。ただしヒル=シメオンによれば、《ミのための詩》(1936)のみならず、《ハラウィ》(1945)もデルボスに対する愛を謳ったものである(Peter Hill et Nigel Simeone, Messiaen, New Haven et Londres, Yale University Press, 2005, p. 182)。しかし、《トゥランガリラ交響曲》で描かれる愛がロリオとの関係を示唆しているのかどうかは定かではないが、本作品の完成直後からデルボスの容態はますます悪化した。《5つのルシャン》(1948-1949)で表される情欲がロリオに向けられたものであることは疑いないとアントワーヌ・ゴレアは推測している(Antoine Goléa, Rencontres avec Olivier Messiaen, Paris, René Julliard, 1960, p. 150.)1949年2月、演奏旅行で忙しいメシアンに代わってメシアンの父ピエールがデルボスの世話を見はじめ、デルボスは実家に戻りパリには出てこなくなかった。その後デルボスはたびたび不審な行動を起こしたため、いくつかの施設を転々とした。メシアンは毎日曜教会でオルガンを演奏したあと、ロリオと一緒にデルボスを見舞うという生活を続けていた。彼女は精神的な疾患を抱えていたといわれるが、1952年にはまだ作曲を続けており、会話することは死の直前まで可能だったようだ。メシアンはデルボスが亡くなった2日後、ロリオとの結婚に踏み切る決意をし、葬儀が行われた日の夜、ドイツから帰ってきたばかりのロリオとパリ東駅で落ち合い、結婚を申し込んだ。メシアンは後年、みずからの音楽を「官能的 sensuel」と評されることを強く嫌い、弟子ミシェル・ルヴェルディの《5つのルシャン》の分析からエロスにかんする記述を削除させているが、こうした姿勢は上記の事情と無関係ではないだろう。

c0050810_710290.gif(註25)《鳥のカタログ》の作曲を準備していたころ、メシアンは意気消沈した様子を見せることがよくあった。これは身内の不幸が重なったためとも、ブーレーズ、シュトックハウゼンら一部の弟子が新たな道を開拓しはじめたことに焦りを感じていたためとも考えられる。1955-1956年にパリ音楽院でメシアンの授業を受けたアレクサンダー・ゲーアによれば、メシアンは学生と口論を戦わせると、弱気になってたびたび涙を見せた。また、インタヴューのためメシアンの自宅を訪れたゴレアは、メシアンは室内の手入れを行う余裕がないと嘆いていたと語っている。Hill et Simeone, op. cit., p. 214. Goléa, op. cit., p. 17.

(註26)メシアンが《鳥のカタログ》を準備していた1958年7月3日、南仏モンペリエの北に位置するロゼール県での採譜の途中、ロリオはダイシャクシギの声を聞いた。ロリオはその声を直接聞いたことはなかったが、《鳥のカタログ》の第7巻第13曲〈ダイシャクシギ(大杓鷸)〉を演奏したことがあったため、その鳴き声には聞き覚えがあったのである(1957年3月30日、ロリオはドメーヌ・ミュジカルの演奏会で《鳥のカタログ》の6曲を抜粋初演している)。ロリオは200メートル先にいるメシアンにそっと近づき、ダイシャクシギの声が聞こえたと伝えると、「そんなはずはない。ここは生息地ではないのだから」とメシアンは答えたが、まもなくメシアンもダイシャクシギがいることに気づいた。メシアンはロリオの耳が正しかったことを認め、2人は互いに褒め合ったという。Messiaen, op. cit. Tome V 2e volume, p. 627.(このエピソードはメシアンではなくロリオが執筆している)同じエピソードは、ピーター・ヒルによるインタヴューでも語られている。Peter Hill, « Interview with Yvonne Loriod », Peter Hill dir., Messiaen Companion, London, Faber and Faber, 1995, p. 298-299.

(註27)Ibid., p. 298.

(註28)Samuel, op. cit., p. 137-138.

(註29)Ibid., p. 141.

(註30)Robert Sherlaw Johnson, Messiaen, London, Dent & Sons, 1975. Halbreich, op. cit.

c0050810_7103564.gif(註31)Pierre Boulez, « Une sorte de principe d’incertitude... », Anik Lesure et Claude Samuel dir., Olivier Messiaen : le livre du centenaire, Paris, Symétrie en collaboration avec France Musique, 2008, p. 51. ブーレーズは同じ年に発表した別のオマージュで、シューマンのピアノ曲にちなんでメシアンを「予言の鳥 l’Oiseau Prophète」と評している。Pierre Boulez, [article sans titre], Messiaen 2008, Anne Bongrain dir., Paris, Conservatoire national supérieur de musique et de danse de Paris, 2008, p. 190.

(註32)Trevor Hold, « Messiaen’s Birds », Music & Letters, Vol. 52, No. 2 (April 1971), p. 115, 122. 同様の研究は、メシアンと自然との関係を専門とするアメリカの音楽学者、ロバート・ファロン(カーネギーメロン大学准教授)によっても行われている。Robert Fallon, « The Record of Realism in Messiaen’s Bird Style », Christopher Dingle and Nigel Simeone dir., Olivier Messiaen : Music, Art and Literature, Aldershot, Ashgate, 2007, p. 115–36. 以下のホームページで、実際の鳥の歌のスペクトログラムと、メシアンの作品中に登場する鳥の歌と実際の鳥の歌両方の音声ファイルにアクセスできる(http://oliviermessiaen.org/birdsongs/)。

(註33)Hold, op. cit., p. 115.

(註34)Ibid., op. 122.

(註35)Samuel, op. cit., p. 137.

(註36)《ハラウィ》の第2曲「おはよう、緑の鳩」の冒頭は、鳥の歌という表記こそ見られないものの、その書法は鳥の歌にもとづいている。《トゥランガリラ交響曲》第6楽章「愛の眠りの庭」ではピアノがサヨナキドリの歌を弾くが、これは実際の歌を純粋に再現したものとも、様式化された歌とも解釈することができる。Peter Hill et Nigel Simeone, Oiseaux exotiques, Aldershot, Ashgate, 2007, p. 3.

c0050810_711936.gif(註37)《鳥のカタログ》のための採譜に同行した鳥類学者ジャック・ペノは、メシアンへのオマージュのなかで、メシアンが「鳥類家 ornithologiste」ではなく敢えて「鳥類学者 ornithologue」と自己定義したことに注目している。ペノによれば、前者は鳥類愛好家であり(ペノも自身は鳥類家だと言っている)、専門的な知識を一般の人々に広めることに関心をもつが、後者はより学術的で専門性の高い研究に取り組む学者を指すという。Jacques Penot, « Olivier Messiaen ornithologue », Catherine Massip dir., Portrait(s) d’Olivier Messiaen, Paris, Bibliothèque nationale de France, 1996, p. 71-72. メシアンは、ジャズを含むポピュラー音楽全般に対してまったく関心をもたず、むしろそれらに対する嫌悪を顕わにしていたが、このことは彼があくまで「知的音楽 musique savante」の音楽家として振る舞ったことを示している。

(註38)メシアンは小林桂助『原色日本鳥類図鑑』(1956、保育社)の英訳を参照していた。Keisuke Kobayashi, Birds of Japan in Natural Colours, Osaka, Hoikusha, 1956. ピーター・ヒルは1986年、《鳥のカタログ》の解釈についてメシアン自身からアドヴァイスを受けたが、このときメシアンが手にしていた図鑑は「やや失礼ながら、子どもにプレゼントするような初歩的な本」だったという。ヒルは次の面会時に、ヴィクトリア朝のイギリスで刊行された鳥類図鑑をメシアンに手渡すと、メシアンはたいそう満足そうにページを繰っていた。それを受けて、以後ヒルはメシアンと会うたびに鳥の本をプレゼントした。Peter Hill, « Les archives entrouvertes », Anik Lesure et Claude Samuel dir., Olivier Messiaen : le livre du centenaire, Paris, Symétrie en collaboration avec France Musique, 2008, p. 247.

(註39)Messiaen, Traité Tome V 1er volume, p. 5.

c0050810_711492.gif(註40)Robert Fallon, « A Catalogue of Messiaen’s Birds », Messiaen Perspectives 2, p. 115-116. 本論文は、国際鳥類学会議 International Ornithologists’ Union (IOU) が1980年代半ば以降行っている鳥名表記法の整理に従い、メシアンの作品に登場する鳥の名をラテン語(学名)、フランス語、英語でリストアップしている。各国語の鳥名の表記は随時更新されており、最新版はhttp://www.worldbirdnames.orgで確認することができる。本解説では、上記ウェブサイトに載っている日本語表記を採用している。

(註41)ただしメシアンは、「雌の鳥は巣作りや子育てに傾注するため、ほとんど歌うことがなく、羽色はたいてい地味である」と述べており、雌を音楽で扱うことはめったになかった。Messiaen, Traité Tome V 1er volume, p. XXV.

(註42)メシアンは、2、4、6、8といった従来多用されてきた拍数の代わりに、素数を用いて音価を柔軟に操作することを好んだ。1939年のテクスト「ストラヴィンスキーにおけるリズム」でメシアンは、リムスキー=コルサコフがストラヴィンスキーに先がけて素数の拍子を好んだこと(《サトコ》には4分の11拍子の箇所がある)に触れている。Olivier Messiaen, « Le Rythme chez Stravinsky », La Revue musicale, mai, no 191, p. 91-92.

(註43)メシアンが音楽に開眼したのもグルノーブルにおいてであり、7歳半のときにはグルック《オルフェオのエウリディーチェ》のスコアを買ってもらったという。

(註44)IOUのリストによれば、現在の正式なフランス語の名称は Chocard à bec jaune(ショカール・ア・ベック・ジョーヌ〔黄色い嘴のチャフ〕)。

c0050810_7122961.gif(註45)メシアンが分析・創作で用いた独自のリズム技法のひとつ。一定の仕方で漸次的に増大および減少する音価を、それとは異なる規則で増大および減少を被る(もしくは変化しない)別の音価と対応させる技法。メシアンはこのシステムを、演劇における登場人物の動きになぞらえ、ストラヴィンスキー《春の祭典》、とりわけそのなかの〈いけにえの踊り〉の分析で援用している。由来として、ダンディによるベートーヴェンの分析における「主題の拡大と省略 l’amplification et l’élimination du thème」、インドのリズム「シムハヴィクリーディタ Simhavikrìdita」が挙げられている。Messiaen, Traité Tome II, 1995, p. 91-399.

(註46)「ブドウの実るころに現れる鳥」の意。

(註47)イタリアの自然学者フランチェスコ・チェッティ(1726-1778)に由来するが、学名自体にとくに意味はない。

(註48)ただし《鳥たちの目ざめ》はデュランから出版されている。メシアンが文化相アンドレ・マルローの委嘱を受けて《われ死者の復活を待ち望む》(1964)を書いたとき、デュランは出版に意欲をみせたが、メシアンはこの提案を拒絶した。
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by ooi_piano | 2014-08-25 02:46 | Chiersance2014 | Comments(0)