6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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大井浩明 Portraits of Composers [POC] 第17回公演 近藤譲全ピアノ作品
2014年10月19日(日)18時開演(17時半開場)
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 03(3377)4706 (13時~19時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/

※【京都公演】 2014年11月3日(祝・月)15時開演(14時半開場) 京都 Cafe Montage
近藤譲ピアノ作品集───(ピアノ:大井浩明、お話:近藤譲)

【演奏曲目】  (○はピアノ独奏版)
c0050810_23404156.gif●《クリック・クラック》(1973) (約11分)
○《視覚リズム法》(1975)[全6楽章] (約13分)
○《形は影にしたがう》(1975/2011) (約10分)
○《歩く》(1976) (約6分)
○《撚(よ)り II》(1980) (約13分)
●《記憶術のタンゴ》(1984) (約3分)
●《ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」》(1990) (約7分)
○《早春に》(1993) (約9分)

 ~中入り 約15分~

●《高窓》(1996) (約7分)
●《夏の小舞曲》(1998) (約5分)
●《メタフォネーシス》(2001) (約9分)
●《リトルネッロ》(2005) (約7分)
●《イン・ノミネ <レスニェフスキー風子守唄>》(2006) (約3分)
●《長短賦》(2009) (約5分)
○《テニスン歌集》(2011) (約14分)
  序 - I.子守唄 - II. - III.牧歌
○《ギャマット》(2012) (約1分)
●《観想》(2013) (約1分)



近藤譲 Jo KONDO
c0050810_23241496.jpg  1947年東京生まれ。1972年東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。1977~1978年、ロックフェラー3世財団より奨学金を得、ニューヨークに滞在。1979年カナダ・カウンシルの招きでヴィクトリア大学において客員講師を務める。1986年ブリティッシュ・カウンシル・シニアー・フェローとしてロンドンに滞在。1987年にはアメリカのハートフォード大学コンポーザー・イン・レジデンス。同年、及び2000年にはイギリス・ダーティントン国際夏期講座でも講師を務める。ハーヴァード大学、ニューイングランド音楽院、ヨーク大学、ケルン大学、ハンブルク音楽大学、ハーグ音楽院を始めとして、欧米の多くの大学で自作についての講演を行っている。1980年、現代音楽アンサンブル「ムジカ・プラクティカ」を結成、1991年の解散まで、音楽監督を務めた。作品は英ヨーク大学音楽出版と米C.F.Peters社から出版され、録音はHat Art、ALM、フォンテック、ドイツ・グラモフォン等のレーベルからリリースされている。「パリの秋」(仏)、「アルメイダ国際音楽祭」(英)、「フィレンツェの5月」(伊)を始めとして多くの国際音楽祭において特集が組まれている。著作に『線の音楽』、『音楽の種子』、『耳の思考』、『<音楽>という謎』、『音を投げる--作曲思想の射程』、『聴く人 (homo audiens)』等、翻訳にケージ『音楽の零度』(編訳)、ヒューズ『ヨーロッパ音楽の歴史』(共訳)等。「Contemporary Music Review」編集委員。お茶の水女子大学名誉教授。2012年、アメリカ芸術・文学アカデミー終身名誉会員に選出された。



プログラムノーツ ――― 近藤譲

《クリック・クラック》 Click Crack (1973年)
c0050810_23252763.gif  高橋悠治の委嘱、1974年1月同氏により献呈初演。私の最初のピアノ独奏曲であるこの作品は、1本の旋律線からできており、その旋律線は、奏者がピアノのいくつもの鍵を無音のまま押さえることから生み出されるハーモニックス音の「暈(かさ)」に彩られている。このハーモニックス音の「暈」は、音量が非常に小さく、ほとんどいつも聴こえるか聴こえないかの境目にある。この音楽は、聴衆に向けて演奏されるものであるよりも、むしろ、演奏者自身が演奏しながら聴くための個人的な音楽である、と言ってよいだろう。
  この曲は、アップライト・ピアノを念頭に置いて書かれた。アップライト・ピアノは(少なくとも私の耳には)、演奏会用の大きなグランド・ピアノに比較すると、構造上の弦交差のせいで、より多様なハーモニックス音を生み出し得るように思える。又、縦に張られた弦は、演奏者に距離的に近いので、演奏しながらハーモニックス音を聴くには有利でもある。


c0050810_23262394.gif《視覚リズム法》 Sight Rhythmics (1975年)
  1975年11月横浜で高橋アキにより初演。元々、5楽器(ヴァイオリン、バンジョー、電気ピアノ、スティール・ドラム、チューバ)のための室内楽曲として書かれた。これは、そのピアノ独奏版である。曲全体は、6つの非常に短い楽章から成っている。それらの楽章は、互いに極めて類似しており、一見どの楽章もほとんど同じように感じられるかもしれないが、注意深く聴けば、違いに気付くはずである。このような音楽書法を、私は、「偽反復」と呼んでいる。文字通りの「反復」は、どこにも進行ぜずに滞留するが、それに対して「偽反復」は、ほとんど「反復」の場合のように静止的でありながら、同時に、秘められた変化と動きを表す。動性を秘めたこのような状態を言い表すには、「力動的静止」という、矛盾を孕んだ言葉が適当かも知れない。この音楽での「力動的静止」の体験は、私達の日々の暮らしに喩えることができるだろう。私達の生活はほとんど同じ毎日の繰り返しだが、しかし、今日は決して昨日と同じではないのだから。

《形は影にしたがう》 The Shape Follow Its Shadow (1975/2011年)
  原曲は樋口洋子委嘱による2台ピアノ作品であり、1975年に樋口のリサイタルで高橋アキとのデュオで初演。2011年に編曲されたピアノ独奏版は、2012年12月に独ケルンで井上郷子により録音初演。曲全体は、非常にゆっくりとしたリズムの1本の持続的な線(旋律)から成っている。その線は、比較的厚みのある和音のアタックの後にその尾のように延びて残る薄い音(「影の音」)によって形成されており、つまりこの曲を形付けているのは、よく耳を傾けなければ聴き逃してしまうほど微かなそうした「影の音」である。

《歩く》 Walk (1976年)
c0050810_2326522.gif  1979年1月東京で、樋口洋子により初演。《視覚リズム法》と同じく、この作品も又、室内楽曲のピアノ版である。フルートとピアノのために書かれた原曲は、シンコペーション的なリズムを特徴としているが、そのリズムは、気楽で、しかしやや縺(もつ)れ気味の、私自身の(或いは、他の誰かの)歩行のリズムを想い起こさせるかもしれない。
  私は、こうした《視覚リズム法》や《歩く》のピアノ版を、独立の作品と考えている。勿論、原曲の主な特徴の一つであった音色の多様性は、ピアノ版には最早存在しない。しかし一方、音色の単一性のお蔭で、聴き手の耳は、旋律線と、和声やリズムのテクスチャーに、より容易に集中できるようになる。その結果、ピアノ版では、《視覚リズム法》はより旋律的に、そして《歩く》はより明瞭なリズム的なテクスチャーによってもっとユーモラスに響く。

《撚(よ)り II》 Strands II (1980年)
  1980年12月東京で高橋アキにより初演。この作品は、元々、2台又は3台のピアノが曲全体を通じて全ての音をユニゾンで奏するという演奏形態を前提にして書かれた。私の作品の中で、「ユニゾンの合奏」の系列に属する曲である。「ユニゾンの合奏」とは、簡単に言えば、合奏に参加する全員が同じものを奏するということである。しかし、《撚り II》は、今日の演奏のように、複数のピアノではなく、ピアノ独奏で演奏してもよい。この場合、独奏者は、聴こえない相手と共に合奏していると想像しながら演奏することが望ましい。
  この作品が《撚り II》と題されたのは、この曲で用いられている旋律とリズムの素材のほとんどが、7楽器(フルート、コールアングレ、電気ピアノ、スティール・ドラム、バンジョー、ヴィオラ、コントラバス)のための《撚り I》(1978年)から取られているからである。しかし、同じ素材が用いられているとはいえ、これら2曲は随分と異なっており、《撚り II》が《撚り I》のピアノ版であるわけではない。

c0050810_23412640.gif《記憶術のタンゴ》 Tango Mnemonic (1984年)
  1983年に、アメリカのピアニスト、イヴァ・ミカショフから、彼が計画した「国際タンゴ曲集」に曲を寄せるようにという依頼があった。曲は、3分以内の短いもので、タンゴと何らかの係わりを持つ、というのが条件だった。その依頼を受けて書いた私の「タンゴ」は、オブリガートを伴うコラールで、そのオブリガートは、タンゴのリズムの骨格(又は、残滓)を映している。イヴァ・ミカショフにより1985年4月14日、バッファローの北米現代音楽祭にて献呈初演。


《ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」》 A Dance for Piano “Europeans” (1990年)
  1991年2月東京で、井上郷子により委嘱初演。この作品は、1990年のクリスマスの日に、ほとんど即興的に短時間で作曲された曲で、言わば、鍵盤の上ではなく直接五線紙の上で行なった即興演奏のようなものである。この音楽の気紛れな成り行きは、ある程度までこうした作曲法の結果かもしれない。副題は、私がこれを作曲した折に偶々ヘンリー・ジェイムズの小説『ヨーロッパ人』を読んでいたことに由来する。しかし、その小説とこの音楽の間には、内容の点でも形式の点でも、それ以上の繋がりはない。この作品は、何かしらダンスを想わせるリズム的な特徴を持つ抽象的な音楽である。

《早春に》 In Early Spring (1993年)
c0050810_23415460.gif  マンドリン奏者の川口雅行からの委嘱を受けて、1993年の早春にマンドリン独奏曲を書いた。それが《早春に》である。作曲を終えてから、私は、その曲はそのままピアノで演奏しても充分に効果的であることに気付いた。ピアノ独奏版は同年ケルンで、クリスティ・ベッカーにより初演された。この曲は、1本の旋律線で出来ているが、その旋律を構成する各音が1オクターヴ上又は下の同じ音名の音(私はこれを「影の音」と呼んでいる)を伴っている。これらの「影の音」は、本体の旋律構成音とは同時にではなく、不規則に遅れて現れ、そこからこの音楽偽対位法的なテクスチャーが生じている。





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c0050810_23423925.gif《高窓》 High Window (1996年)
  委嘱者・井上郷子により、1996年2月東京にて献呈初演。《高窓》は、非常に静的な和音の連続に終始する一種のコラールである。これは、私自身の作曲様式に適した和音の組成と和音進行──即ち、「和声法」──を例証する試みの一つであった。


《夏の小舞曲》 Short Summer Dance (1998年)
  委嘱者・井上郷子により、1999年2月東京にて献呈初演。1998年の夏、井上がヘッセン放送協会(フランクフルト)のスタジオで、その時までに私が作曲していた9曲のピアノ作品のCDアルバムの収録を行った。その機会のための新作として書かれたのが、この作品である。この曲は、《ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」》と同様に、ほとんど即興的な仕方で作曲された(但し、今回の作曲は1日では終わらず、数日間を費やすことになった)。これら2つの曲は、ダンス的なリズムとテクスチャー、そして、気紛れな音楽的成り行きの点で、或る程度まで共通している。尤も、《夏の小舞曲》では、更に高度な演奏技術が要求されている。

《メタフォネーシス》 Metaphonesis (2001年)
c0050810_23431627.gif  カナダ人ピアニスト、イヴ・エゴヤンならびにカナダ芸術評議会の委嘱、2003年2月トロントで同氏により献呈初演。「メタフォネーシス」(「メタ音化」とでも訳せばよいのだろうか)は、私自身が1970年代半ば頃に初期の「線の音楽」を説明するに当たって使った用語である。それは、音楽を聴取する場合にも作曲する場合にも、音自体よりも音相互間の関係性に着目するという姿勢を表している。当時の「線の音楽」連作の諸作品がその名の通り非常に線的な音楽であったのに対して、近年の私の音楽は響きが厚くなり、和音の連鎖とでも言い得るような形のものになってきた。しかし、そうした違いにも拘らず、私の関心は相変わらず音相互間の関係性(この場合は、和音相互間の関係性)にある。私がこのピアノ独奏曲を「メタフォネーシス」と名付けることにしたのは、そのためである。


《リトルネッロ》 Ritornello (2005年)
  2006年2月東京で、井上郷子により委嘱初演。《リトルネッロ》は、或る程度まで《夏の小舞曲》の書法を引き継いでいるが、同時に、私の最近の作曲全般に表れている和音書法とブロック的な構成──即ち、比較的厚い響き、そして、諸構成部分の対比的な配置──という傾向を、端的に反映している。そして、曲題が示している通り、同一の(或いは、極めて類似した)楽句が曲中何度も再帰する。

c0050810_2344193.gif《イン・ノミネ(レスニェフスキー風子守唄)》 In Nomine (Berceuse a la Lesniewski) (2006年)
  後期ルネッサンス以来、バロック時代を中心として、多くの作曲家達が《イン・ノミネ》と題する曲を作曲した。それは、グレゴリオ聖歌の《Gloria Tibi Trinitas》を定旋律として用いた器楽曲である。その伝統を現代に蘇らせようと、ドイツのアンサンブル・ルシェルシュは、現代の何人もの作曲家に新しい《イン・ノミネ》の作曲を依頼している。その委嘱を受けて書いた私の《イン・ノミネ》は、和声的な性質のピアノ独奏曲で、この和声は、定旋律の構成音一音一音に和音による色彩付けを行うことから生じたものである。副題にある「レスニェフスキー」とは、ポーランドの論理学者スタニスラフ・レスニェフスキー(1886-1939)で、彼は、「メレオロジー」と称する、「部分と全体」に関する理論を提唱した。私は、音楽(或いは、曲)の構造は──特に私の音楽の構造は──、当の曲を構成する諸音のメレオロジー的総体に外ならないと考えている。初演は2006年6月、独フライブルクでジャン=ピエール・コローによる。


《長短賦》 Trochaic Thought (2009年)
  2009年3月、井上郷子により委嘱初演。この作品は、‘metre’ を素材として作曲されている。‘metre’ は、音楽用語としては「拍子」だが、しかし、この作曲の場合のそれは、その詩作法の用語としての意味、即ち、「詩脚の配列形式」である。西洋古典詩の基本的な詩脚の一つである長短格(トロカイオス)に準えて、長-短の2音の組み合わせを一単位とし、そこに生じるリズムを基礎素材にして曲全体が作られている。

《テニスン歌集》 Tennyson Songbook (2011年)
c0050810_23444321.gif  英バーミンガム現代音楽グループの委嘱によるソプラノと7楽器のための《テニスンが詠った歌三篇 Three Songs Tennyson Sung》は、19世紀イギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスン卿の長編詩『王女』The Princessの中に鏤められている「歌」cantoを歌詞とする作品で、短い器楽の「前口上」Avant-proposと、3つの歌(‘Sweet and low’, ‘Ask me no more’, ‘The splendour falls’)から成っている。これはそのピアノ独奏版であり、2011年3月東京にて、井上郷子により委嘱初演された。
  私の1990年以前のピアノ曲の多く、そして、今夜の演奏曲の中の《早春に》は、元々ピアノ以外の媒体のために書かれた曲のピアノ版だが、私はこの《テニスン歌集》で、再びそのようなピアノ曲の可能性を試みたいと思った。というのも、このような作曲プロセスは、最初からピアノのために作曲する場合とは異なったピアノ書法を齎すことがあるからである。このピアノ曲は、「序」に続いて、3つの「歌」から成り立っており、第1歌は「子守唄」Lullaby、第3歌は「牧歌」Idyllという副題を持っている。この曲は、原曲の構造をほぼそのまま保っているが、とはいえ、原曲との繋がりに捉われずに抽象的な器楽の歌として聴かれることを前提としている。

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c0050810_4465878.gif第1曲《やさしく しずかに》‘Sweet and low’

やさしく しずかに、 やさしく しずかに、
  西の海から 吹きくる風よ、
しずかに しずかに 流れて吹けよ、
  西の海から 吹きくる風よ!
逆巻く波越え 吹きゆけよ、
沈みゆく月の涯(はて)より 吹いてきて
  再びあの夫(ひと)を わたしに吹き戻せ、
可愛い坊やの眠る間に、可愛い坊やの眠る間に。

お眠り おやすみ、 お眠り おやすみ、
  やがて父さん 坊やのもとに戻るでしょう。
おやすみ おやすみ、 母さんの胸で、
  やがて父さん 坊やのもとに戻るでしょう。
ベッドに眠る 坊やのもとに戻るでしょう。
銀(しろがね)の帆船(ほぶね)は 西の涯から現れる
  銀(しろがね)の月の光の照る下を
お眠り 坊や、 お眠り 坊や、 おやすみなさい。


第2曲《もうこれ以上きかないで》‘Ask me no more’

もうこれ以上きかないで。月は海を引き寄せることができ、
   雲は大空から下りてきて七重(ななえ)八重(やえ)に
                        折り重なり、
   山や岬の形をとることもできるでしょう。
でも、なんて虫がいいの、私がハイの返事もせぬものを?
               もうこれ以上きかないで。

もうこれ以上きかないで。どんな返事をすればいいの?
   私、落ち込んだ頬や窪(くぼ)んだ眼なんていやなの。
   でもね、あなた、私、あなたに死なれたくないの。
これ以上きかないで、生きて欲しいと命じても困るので。
               もうこれ以上きかないで。

もうこれ以上きかないで。二人の定めは堅く決まってるの。
   流れに逆らって抗(あらが)っても、すべてすっかり無駄でした。
   大河が私を大海に運ぶままにして欲しいの。
もうきかないで、あなた。触れられれば参ってしまいます。
               もうこれ以上きかないで。


c0050810_444688.gif第3曲《夕べの光は照り映える》‘The splendour falls’

    夕べの光は照り映える
  城の壁にも歴史に古い雪の嶺にも。
    長く差し込む光は湖面に揺れて、
     轟きわたる瀑布(ばくふ)の飛沫(しぶき)は落下して光と躍る。
吹けよ角笛(bugle)、奔放の木霊(こだま)を渡りゆかせよ、
吹けよ角笛、答えよ木霊、幽(かす)かに、幽かに消え逝(ゆ)く木霊。

    おお聞けよ、聞け! かそけく、澄んで、
     もっとかそけく、澄んで、もっと遥かに響く木霊!
    おおやさしく、断崖絶壁から遥か彼方に
     妖精の国の角笛は幽かに鳴りわたる!
吹けよ角笛、紫こむる渓谷が木霊を返すのを聞こう。
吹けよ角笛、答えよ木霊、幽かに、幽かに消え逝く木霊。

    恋人よ、木霊は彼方の豊かな大空に消えて逝く。
     丘辺(おかべ)、野面(のづら)、川面に幽かに消えて逝く。
    われらが木霊は魂から魂へと渡りゆく。
     そして永久(とわ)に、永久に鳴り響く。

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《ギャマット》 Gamut (2012年)
  2012年12月、井上郷子は、私のピアノ作品集CD第2集(HatHutから発売予定)の録音を、ドイツの西部放送協会(ケルン)のスタジオで行った。その機会のための新作として書かれたのが、この作品である。この短い作品は、《テニスン歌集》と同様に、歌曲のピアノ独奏版である。原曲は、メゾソプラノと4楽器(アルト・フルート、ヴィオラ、エレクトリック・ギター、打楽器)のための《ルイス・ズコフスキーの4つの短詩》(2006年)の第4曲 <ギャマット>である。原曲の歌詞は、“Much ado about trees lichen / hugs alga and fungus live / off each other hoe does / dear owe dear earth terrace / money Sunday coffee poorjoe snow”。


c0050810_23452445.gif《観想》 A Contemplation (2013年)
  2013年11月東京にて、井上郷子により初演。長年の親しい友人であるドイツの作曲家ハウケ・ハーダーの50歳の誕生日の贈り物として書かれた曲。彼自身の極めてスタティックで繊細な音楽への、一種のオマージュでもある。低音の保続音の上で、ごく短い和声的なフレーズが、ほとんど変化なしに3度ずつ上昇しながら繰り返されて、1オクターヴ上の高さまで至る。
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by ooi_piano | 2014-09-30 23:57 | POC2014 | Comments(0)
日本の戦後前衛第二世代について:あえて近藤譲を中心に ――野々村 禎彦

c0050810_04449.gif ヨーロッパの戦後前衛第二世代の作曲家は大きくふたつのタイプに分かれる。1番目は、戦後前衛第一世代を強く意識し、批判的に乗り越えようとした作曲家たち。本シリーズで取り上げたラッヘンマンとホリガーはその典型である。2番目は、ケージらニューヨーク楽派の米国実験音楽を批判的に乗り越えようとした作曲家たち。彼らの多くは、60年代後半にピークを迎えた集団即興グループに参加していた。New Phonic Artにはグロボカール、AMMにはカーデュー、Musica Electronica Vivaにはジェフスキとアルヴィン・カランと、この世代の重要人物が並ぶ。

 日本の場合、1番目のタイプに属するのは主にヨーロッパに留学した作曲家たちである。石井眞木(1936-2003) と甲斐説宗(1938-78) は、ベルリン音楽大学(現・ベルリン芸術大学)でルーファー(1893-1985、シェーンベルクの助手だった12音技法の教師) とブラッハー(1903-75) に学んだ。石井が留学した1958-62年には、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習が最先端を学ぶ唯一の場であり、ドイツでの人脈作りと日本観の把握が主な成果だった。前者は現代音楽祭の企画構成に生かされ、後者は和太鼓・横笛・声明等を用いてエキゾティックに「和」を表現する姿勢に結びついた。他方、甲斐が留学した1966-69年には既に道はひとつではない。彼はブラッハーと共同作曲を行うほどの親交を結ぶ一方、リゲティ《レクイエム》(1963-65) の初演後直ちにレッスンを受け、グレツキも参照し…と軽やかに最先端を吸収していった。彼は最終的にそれとは対照的な切り詰められた音楽に向かったが、与えられた/決まりきったものの先を探求する姿勢は一貫している。

c0050810_045789.gif 日本のアカデミズムは元々フランス系が強く、優等生はフランスに留学することが多い。この世代を代表する平義久(1937-2005) は1966年にパリ音楽院に留学し、ジョリヴェ/デュティユに作曲を学んだ。当時のデュティユは《メタボール》(1964) から《遥かなる遠い国へ》(1970) へ、アカデミックな書法の半音階化の果てに緊密な無調に到る歩みの途上にあった。感覚を研ぎ澄まし、慣れ親しんだ語法を拡張して得たものはブレない。エコール・ノルマル音楽院教授としてパリに居を定めた彼も師に続き、70年代と90年代の二度の大きな調性化の潮流の中でも揺るがない強靭な個人語法を手にした。アカデミズムの異端者、八村義夫(1938-85) にも触れたい。浄瑠璃やスクリャービンの表現主義に惹かれ、全盛期の松村禎三や三善晃をリスペクトする一方、ブーレーズ《主なき槌》やオーネット・コールマンのフリージャズにも惹かれた彼は、この矛盾した嗜好を統合する存在としてブソッティ(1931-) を指標に創作を続けた。また平とは互いに影響を与え合う仲だった。

 日本で2番目のタイプを代表するのは、「グループ・音楽」として1958-62年頃に活動した(この名称で公式に活動したのは1960-61年)作曲家たちである。水野修孝(1934-)、小杉武久(1936-)、塩見允枝子(1938-) ら東京藝大楽理科出身者を中心に、水野が千葉大学在学時に親交を結んだ刀根康尚(1935-) も加わった。帰国後の一柳と当時のパートナー小野洋子も彼らに合流した。一柳を通じてジョージ・マチューナス(1931-78、1962年にフルクサスを設立) ら米国の前衛芸術家たちとの接点が生まれ、ケージらの情報も得られるようになったが、彼らはそれ以前から海外の実験音楽の動向とは無関係に活動を行っていた。特定のイディオムに依らない集団即興がヨーロッパの現代音楽界で始まったのは1964年頃(エヴァンジェリスティ、モリコーネらのNuova Consonanza、シュトックハウゼンの通称ケルン・アンサンブル)なので、「グループ・音楽」の活動ははるかに早い。米国では彼らと同時期にラ=モンテ・ヤング(1935-) のテキスト作曲《Compositions 1960》シリーズなど、後のフルクサスにつながる音楽活動が始まっているが、ヤングが常設即興グループ The Theter of Eternal Music を始めたのも1964年であり、やはり彼らの先駆性は際立っている。

c0050810_052559.gif 彼らはその後も、海外(主に米国)の動向を見据えた活動を続けた。最初に日本を離れたのは塩見で、1964年に渡米しフルクサスに参加している。私的な事情で翌年に帰国し、以後は日本で活動を続けているが、視覚的コンセプトを基本に据えた作風は一貫している。また現在でも、日本におけるフルクサス紹介の中心人物である。小杉は内外のフルクサスの拠点を渡り歩いて活動を続けた。音楽活動初期からのヴァイオリン即興に加えて高周波発振音のヘテロダイン干渉で得られる電子音響を見出し、基本素材が出揃った。1969年に結成した「タージ・マハル旅行団」は、ヒッピー文化の影響を強く受けたドローンベースの集団即興グループであり、現代音楽を背景に持つ集団即興が停滞してきた時期に新たな可能性を開拓したグループとして国際的に注目された。彼はこのグループが活動を休止した翌年の1977年に米国移住を表明し、以後はマース・カニングハム舞踏団の音楽監督のひとりとして活動する。その後も基本的な方向性には変化はないが、ヒッピー文化の影響を脱しアナログ発振音の清冷な魅力を取り戻したのは80年代以降である。現代音楽界では非イディオム的集団即興の伝統はほぼ失われ、小杉の活動もサウンド・インスタレーションの比重が高まった。

 刀根も小杉と同時期にフルクサスに参加したが、元々美術畑との縁が深く、ハイレッド・センターなどイヴェント=直接行動志向の美術作家との活動が多かった。フルクサスの限界も早い段階で見切り、60年代は国内で活動を続けたが、意匠よりも原理を重視する批評性の高いスタンスと日本社会との相性は良くなく、1972年に渡米するとそのまま米国に定住した。刀根が音楽に回帰するのは80年代以降、デジタル技術が彼の発想に追いついてからである。CDの盤面に細切れのセロテープを貼り、プレイヤーのトラッキングエラーを音楽として提示した《Music for 2 CD players》(1985)、漢字をスキャンした画像データを音響データとして再生し、苛烈なデジタルノイズを音楽として提示した《Musica Iconologos》(1990-92) が代表作。水野はフルクサス的イヴェントには向かわず、集団即興を図形楽譜で制御する《オートノミー》シリーズ(1963-72) や3時間を超える大作《交響的変容》(1961-87) で知られる。また彼は1973-74年の米国滞在中にメジャーポピュラー音楽の力を再認識し、帰国後はオペラ《天守物語》(1977) をはじめ、新ロマン主義に舵を切った。1977-78年に米国に滞在した八村が、専ら実験的ポピュラー音楽に可能性を見出したのとは対照的だ。

c0050810_055234.gif 高橋悠治(1938-) はピアニストとしてクセナキス《ヘルマ》(1960-61) 委嘱初演や《エオンタ》(1963-64) 世界初演を行い、作曲家としてもクセナキスに作曲技法を学び、コンピュータ支援作曲を通じて実践した。結局、クセナキスの音楽は彼の個性に由来し、作曲技法に由来するのではないと結論付けて60年代末には直接的な技法参照を止めた。ただしアルゴリズム思考は受け継ぎ、かつて柴田南雄に学んだ「配分法」と組み合わせて民族音楽の素材を再構成するようになった。この時期から著述も積極的に行うようになり、左翼的な立場を鮮明にした攻撃的な論調は強い影響力を持った。「政治参加」は60年代後半から70年代半ばにかけての世界的潮流だったが、彼はむしろ70年代後半から政治参加を強め、1978-85年には民衆歌のバンド「水牛楽団」で活動した。80年代は邦楽器作品を中心に、パソコンとサンプラーを組み合わせた小回りの利くコンピュータ音楽にも取り組み、当時は高円寺に住んでいたジョン・ゾーン(1953-) の企画する異ジャンル共演にもしばしば参加した。この時期は三宅榛名(1942-) とのピアノデュオも多い。ジュリアード音楽院で身に着けた堅実な書法を土台にしたポピュラー音楽との様式混合は一世を風靡した。90年代に入ると、高橋の音楽思考は三味線奏者・高田和子(1951-2007) との共同作業を通じて大きく変わった。身体運動から発想し、ピアニストの運指のみ図形楽譜で記した《指灯明》(1995) は特にラディカルな例だ。

 以上が、ヨーロッパでの戦後前衛第二世代に相当する世代の日本の主な作曲家だが、ヨーロッパの戦後前衛第一世代を強く意識した作曲家たちは、甲斐と八村は夭折、平はヨーロッパで活動した先行世代の松下眞一、篠原眞ら同様日本では十分認知されていない。米国実験音楽のニューヨーク楽派を強く意識した作曲家たちのうち、「グループ・音楽」出身の小杉と刀根は既に「日本」にも「現代音楽」にも見切りをつけており、辛うじて高橋が、現代音楽という制度を厳しく批判しながらも、「日本の現代音楽」の周辺に留まって「生き延びたカーデュー」の役割を担ってきた。百花繚乱の日本の戦後前衛第一世代と比べると寂しい状況だが、ここに今回の主役である近藤譲(1947-)、および同世代の佐藤聰明(1947-) と平石博一(1948-) を加えると風景が大きく変わる。米国実験音楽にもニューヨーク楽派を批判的に継承した第二世代が存在し、彼らはまさにそれに相当する役割を担った。

c0050810_072951.gif 近藤は新しい複雑性・スペクトル楽派など、ポスト戦後前衛の諸潮流の最初の世代と同年代に生まれているが、現代音楽界で知られたのははるかに早い。「新しい複雑性」という呼称は、70年代半ばに勃興した新ロマン主義=「新しい単純性」という呼称の普及後に生まれた。1979年執筆・81年刊行の論文が初出の「スペクトル楽派」という呼称が普及したのも、彼らの音楽はそれ以前は認知されていなかったことの裏返しである。他方、近藤作品は70年代初頭から注目され、秋山邦晴は後に『日本の作曲家たち』としてまとめられた1971-73年の雑誌連載で、戦後生まれでは唯一彼を取り上げた。その後近藤は「線の音楽」と名付けた独自語法に至り、初期作品を集めたLP《線の音楽》を1974年にリリースし(ライナー日英併記で海外にも頒布し)、1979年には音楽思考や作曲技法をまとめた同名書籍を出版した(どちらも2014年に復刻)。

 「線の音楽」以前の作品では、集団即興など戦後前衛第二世代に共通する問題が扱われているが、ほぼ全作品をカバーするヨーク大学音楽出版のカタログには含まれず、実質的に撤回作扱いである。「線の音楽」で近藤が問題にしたのは、機能和声音楽における豊かな連接がセリー音楽では失われたことである。セリーによる音楽要素の「厳格な管理」は、聴覚的にはその要素の「連接感の欠如」に他ならず、管理対象を増やすほど、耳の関心はそれ以外の音楽要素に向かう。全面的セリー技法では唯一残されたテクスチュアの推移が聴き所だが、テクスチュアを直接対象にする音群的音楽の登場でその連接の豊かさすら失われ、音群の新奇な音響とは裏腹の直観的な単純さ(クセナキス等)や伝統への回帰(ペンデレツキ等)に陥った。安直な「機能和声の復活」以外の解決策はないだろうか? 彼がプロトタイプとして提案したのは、協和音程を組み合わせたセリーからランダムに音を選び、能動的な聴取を通じて疑似調性が浮かんでは消える「線」を生成するシステムだった。そこにユニゾンのズレ・グリッサンド・噪音等を隠し味として加えたのが《線の音楽》所収の作品群である。

c0050810_08077.gif 《視覚リズム法》(1975) 以降、「線の音楽」の構造を直観的に書けるようになると、近藤は複雑化に向かう。一本の線を細分化し音色が極端に異なる楽器に配分する「散奏」、線の構成音を和音に拡張した「和声研究」。《時の形》(1980) や《忍冬》(1984) を生んだ80年代前半はひとつの頂点である。この時期までの作品の連接は、専ら初期「線の音楽」以来の疑似調性に依っていたが、これ以降は調性感の希薄な連接を試みるようになる。80年代後半は模索の時期で、特に80年代末は複雑なポリリズムを持つ作品が多い。90年代初頭には和声の基本を短二度や増四度のような不協和度の高いものにして無調的な連接のストレスを相対的に下げる発想を、90年代末には曲中で異物として機能する調性感の強いフレーズを用いて同様の効果を得る発想も導入した。「線の音楽」は音群的音楽の個人言語化を克服する試みとして提唱されたが、ここまで来るともはや個人言語の一種だろう。とはいえ、新しい発想で一定の成果を挙げたらそこに安住せず、さらに新しい発想を求める姿勢こそ「前衛」の態度であり、「最後の前衛作曲家」という近藤の自己規定は正確だ。また彼の場合、このような新しい発想はまず「即興的に書かれた」ピアノ独奏曲として現れるのも興味深い。

 佐藤と平石の位置付けは明白で、日本におけるミニマル音楽第一世代にあたる。ピアノのトレモロにディレイをかけて堆積した佐藤の70年代の作品群は、ライリー(1935-) や初期グラス(1937-) の陶酔的な音楽に相当し、平石の作品群はライヒ(1936-) の覚醒的な音楽に相当する。80年代以降の佐藤は瞑想的な旋律をミニマルパターンで彩る作風に転換し、平石も年代が下るとポップな素材を用いるようになるが、あくまで素材の多様化の一環である。また彼は「空間音楽」を、マルチチャンネル電子音楽や奏者の空間配置を通じて真摯に探究している。いまや「ミニマル音楽の作曲家」の大半がこの語法を表現素材として用いているに過ぎない中、平石はこの語法の原理的な探求を続けている世界で唯一の作曲家である。なお、70年代の一柳のミニマル音楽的な作品群は、同時期のリゲティがミニマル音楽を参照した作品群に相当し、実験音楽としてのミニマル音楽ではない。

c0050810_093821.gif 近藤の位置付けは、米国実験音楽第二世代ではテニー(1934-2006) に最も近い。音楽史に対する深い洞察、原理的な音楽思考とそれを反映させた実作を並行して行う姿勢。ただし、コンセプトが剥き出しのいかにも実験音楽らしいテニー作品と、ひと味付けてコーダも付け、「音楽作品」の体裁を整えた近藤作品の違いも小さくはない。また、テニーの「米国実験音楽の統合」には、ポピュラー音楽との境界領域で様式混合を行ったジョン・ゾーンのような音楽も含まれるのに対し、近藤はこの種の音楽には総じて冷淡である。ただし、「線の音楽」以前の近藤の試みの中にはゾーンのような方向性も含まれていた。「線の音楽」はヨーロッパ戦後前衛と同様の「絶対零度からの第一歩」であり、一度美学的に切り捨てたものはもはや無批判には取り込めない、という潔癖さなのだろう。
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by ooi_piano | 2014-09-30 23:18 | POC2014 | Comments(0)
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c0050810_136509.jpg大井浩明 Portraits of Composers [POC] 第16回公演 
トリスタン・ミュライユ全鍵盤作品
2014年9月21日(日)18時開演
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分、大江戸線「両国」駅A4・A5出口から徒歩10分

大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ)
長谷綾子(ピアノ+オンド・マルトノ)(※)(助演)

協力 尾茂直之 (ASADEN)


【演奏曲目】

●《夢が吊るし磨いた目のように》(1967) 約6分

○《マッハ2.5》(1971/72) (オンド二重奏) 約9分 (※)

○《展かれし鏡》(1971/73) (オンド+ピアノ) 約9分 (※)
  第1曲「舫いの喧騒に」 - 第2曲「展かれし鏡」 - 第3曲「満ち来る熱き潮を断ち」

●《河口》(1971/72)  約10分
  第1曲「河岸で」 - 第2曲「汽水域で」

○《ガラスの虎》(1974) (オンド+ピアノ) 約7分 (※)

●《忘却の領土》(1977) 約30分

・・・・・・(休憩 20分)・・・・・・

○《南極征服》(1982) (オンド独奏) 約9分

●《告別の鐘と微笑み ~O.メシアンの追憶に》(1992) 約3分

●《マンドラゴラ》(1993) 約10分

●《仕事と日々》(2002)  約30分
  I. - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.



c0050810_1381134.jpg  トリスタン・ミュライユは、1947年3月11日、仏ル・アーヴル生まれ。1966年、パリ・スコラ・カントルムのオンド・マルトノ・クラスに入学し、ジャンヌ・ロリオに師事。その演奏を聴いたメシアンから、作曲クラスの試験を受けることを勧められる。翌年、パリ国立高等音楽院作曲科に入学。1969/70年度は同音楽院オンドマルトノ科(モーリス・マルトノが教えた最終年度)にて第2メダルを、翌70/71年度はジャンヌ・ロリオが着任したクラスで第1メダルを獲得。1971年に作曲科を一等賞で卒業すると同時に、メディチ荘賞(旧・ローマ大賞)を受賞。クセナキス、シェルシ、そして何よりリゲティに私淑していた。音楽と並行して、フランス国立東洋言語文化研究所にて古典アラブ語および北アフリカ系アラブ語を、パリ政治学院にて経済科学も専攻する。1973年、ミカエル・レヴィナス、ロジェ・テシエと共に音楽家集団《旅程(イティネレール)》を設立。1980年よりIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)にて研究を始め、1991年~97年は作曲を教えると同時に作曲援用プログラム《Patchwork》の開発にも従事。1997年~2011年、米コロンビア大学音楽学部教授。主な作品に、《大陸移動》(1973)、《マゼランの雲》(1973)、《記憶/侵食》(1975/76)、《ゴンドワナ》(1980)、《崩壊》(1982/83)、《セレンディブ》(1991/92) 、《流体力学》(1990/91)、《水の分断》(1995)、《冬の断章》(2000)、《都市伝説》(2006)、《残酷物語》(2007)、《七つの言葉》(2010)、ピアノ協奏曲《世界の幻滅》(2012)等。


●《夢が吊るし磨いた目のように》(1967)
  1967年パリ音楽院入学試験のために作曲。36年後の2003年に出版、同年3月11日にニューヨーク・ミラー劇場でマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは作曲者の父である詩人、ジェラール・ミュライユ(1925-2010)の詩の一節から採られた。

c0050810_1384892.jpg○《マッハ2.5》(1971/72) (オンド二重奏)
  1971年出版、1972年2月2日パリ・サルコルトーでフランソワーズ・ペリエと作曲者により初演。声やサクソフォンの代用、ハリウッド映画の効果音ではなく、高性能な電子音響の発生器としてのオンドマルトノの可能性を追求するため、メシアン《三つの小典礼》等に頻出する「シロップのような」旋律的リボン奏法は封じられた。衝撃波(Onde de Choc)を生むコンコルド機が1970年11月4日にマッハ2を記録したのに因んだ原題《マッハ2》は、仏著作権協会から登録済み名称として却下されたため、《マッハ2.5》と命名された。ジャンヌ・ロリオ六重奏団のための六台オンド用拡大ヴァージョンも存在する(1975)。

○《展かれし鏡》(1971/73) (オンド+ピアノ)
  1975年7月、米タングルウッド音楽祭にて、ジャンヌ・ロリオとイヴォンヌ・ロリオにより初演。作品1にあたる15楽器のための《海の色彩》(1969)の2年後に、共通の素材を使って作曲。父ジェラール・ミュライユの詩集《羅針儀海図》から採られた、「舫(もや)いの喧騒に」「展(ひら)かれし鏡」「満ち来る熱き潮を断ち」の3つの小品から成る。最新の作品リストからは撤回されているようである。

●《河口》(1971/72)
  1972年出版、1974年5月15日ラジオ・フランスの生放送でマリー=セシル・ミランにより初演。セリエリズムの美学の元に、形容しがたい不定形・不確定さを描こうとした過渡的な試みであり、20世紀の作曲家よりはむしろフランツ・リストの書法に影響されたと云う。「河岸で」「汽水域で」の2部から成る。

○《ガラスの虎》(1974) (オンド+ピアノ)
c0050810_1392870.jpg  1974年出版、同年パリ国立高等音楽院試験曲として学生たちにより初演。タイトルは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの幻想奇譚「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(『伝奇集』所収)の一節による。棕櫚型(パルム)・スピーカーに張られた共鳴弦を、全曲を支配するA音の倍音列に調律するよう指定されている。


●《忘却の領土》(1977)
  1977年出版、1978年5月22日ローマの楽友協会(アカデミア・フィラルモニカ)にて、ミカエル・レヴィナスにより献呈初演。ピアノを打楽器ではなく、「共鳴による残響ならびにハンマーの直接のアクションにより振動する弦の集合体」として扱うため、打鍵音は連続体の中に点滅する瘢痕に過ぎず、作品の主眼はあくまで共鳴する響きの変遷にある。《その響きは連続した「領土」を描き、それらは消滅する周波数という「忘却」によって縁どられる》。

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○《南極征服》(1982) (オンド独奏)
c0050810_1310280.jpg  1982年出版、1984年3月2日パリ・シテ・デザールにてフランソワーズ・ペリエにより初演。冒頭の持続低音Disのスペクトル(微分音を含む)の変容がほぼ全曲を覆う。《マッハ2.5》と同様、「シロップ中毒の解毒剤」として、また作曲者によるレクチャー・コンサートやプレトークでの効率的な楽器紹介も念頭に置いて書かれた。タイトルは、オンド・マルトノをはじめとする様々な電子楽器が開発され、R.ドローネー、F.レジェ、R.デュフィら屈託ないモダニズムが花開いた1920年~30年代への諷喩と云う。

●《告別の鐘と微笑み~O.メシアンの追憶に》(1992)
  1992年4月27日に死去した師メシアンを偲び、ドイチュラント放送(旧ベルリンRIAS)の委嘱によりムジークテクステ誌のメシアン追悼号のために作曲。同年6月出版、7月14日ヴィレヌーヴ・レ・ザヴィニョンにてドミニク・ミーにより初演。作曲者が愛用してきた鐘の響きが、メシアン晩年作品に現れる微笑むような階調に応答された後、早世した母を悼むメシアンの前奏曲《苦悩の鐘と告別の涙》(1929)の引用で締め括られる。

●《マンドラゴラ》(1993)
c0050810_13103367.jpg  矢沢朋子とフランス文化省の共同委嘱、1993年出版、同年11月27日東京文化会館で初演。マンドラゴラは中世に魔術・錬金術で用いられた不老不死の薬効を持つ植物で、ホムンクルス(人造人間)の形をした根茎を持つ。罪人が吊るされた絞首台の下に芽吹き、月が満ちた真夜中に摘み取らなければならない。曲はラヴェル《絞首台》を下敷きにしている。漫画「のだめカンタービレ」でパリ留学中の主人公が練習したことで有名になった。


●《仕事と日々》(2002)
c0050810_13105940.jpg  ハーバード大学・フロム音楽財団の委嘱、2002年出版、2003年3月11日ニューヨーク・ミラー劇場にてマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは、紀元前7世紀のギリシアの吟遊詩人、ヘシオドスの詩篇による。細部で関与し合う9つの断章から成る。《忘却の領土》にも現れたB-Cの9度音程のトレモロを中心に展開されるが、この共鳴を支える低音Fは最後まで登場せず、その結果、あたかも微分音調律を施されたような特殊な効果が発生する。


■長谷綾子 Ayako HASE ondes-martenot / piano (助演)
c0050810_13115788.jpg新潟市出身。5歳よりピアノを始める。新潟大学教育学部大学院修了、ロンドン王立音楽院(RAM)で学ぶ。ピアノを佐藤辰夫、フランク・ウィボーに、作曲・音楽理論をロイ・ティード、マシュー・テイラーに、音楽学を横坂康彦に師事。2000年、風呂本佳苗とのピアノドゥオ公演を東京・名古屋・神戸・長岡で開催、翌年、英ジャパン・フェスティヴァルに参加、イギリス4都市にて公演。
1999年、オンド・マルトノに出会い、原田節に師事。2001年よりオンドマルトノ独奏・重奏のほか、ピアノや声、サンプラー、ダンス、朗読等との共演を展開している。2005年、米良美一が武満徹を歌ったアルバム《ノスタルジア》に参加。2006年~2010年、インド・デリーに滞在し、ガザル歌手サティッシュ・バッバルよりインド古典音楽を学ぶ一方、CD《詩人ミルザ・ガーリブへの我が発現》等の作品では協働作業も行った。近年では、岡田千香子(声)や一ノ瀬トニカ(ピアノ)と共演し、一ノ瀬トニカ《PRANA》(2007)、同:《Electric Trail》(2014)等を演奏している。公式サイト:http://ayako-ondes.com



「スペクトル楽派」概観─────野々村 禎彦

c0050810_13335126.jpg 作曲家メシアンの位置付けは人によって相当なばらつきがあるが、音楽教師メシアンの重要性は、衆目の一致するところである。戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) をはじめ、メシアン門下生の系譜をフランス現代音楽の歴史とみなしても大きな違いはない。この系譜が、シャリーノ(1947-)、近藤譲(1947-) らを輩出したベビーブーム世代まで下ったところで登場するのが「スペクトル楽派」第一世代の作曲家たち、ジェラール・グリゼー(1946-98)、トリスタン・ミュライユ(1947-)、ミカエル・レヴィナス(1949-) である。彼らの世代になると、既にパリ音楽院の教授陣でも古株になり始めたメシアンの位置は「時代から超然とした老大家」に変化している。あえてそのような作曲家に師事するのは作風に惚れ込んでいるからであり、師の影響からいかに抜け出すかが大きな課題になる。

 1971年にはミュライユ、1972年にはグリゼーがローマ賞(正確にはパリ五月革命で廃止され、メディチ荘留学制度として実質的に復活したもの)を受賞し、2年間のローマ留学の間に現代音楽史の特異点と言えるシェルシ(1905-88) の音楽に出会ったことが、ふたりが師の影から羽ばたく契機になった。ひとつの音を果てしなく繰り返し、倍音構造に没入する即興演奏から素材を得るのがシェルシの「作曲」の特徴だが、師メシアンと同じく反復と音色探求を基調に、東洋趣味の強さまで共通していても、師とは似ても似つかない異様な音楽が生まれることは啓示だった。方法論さえ徹底すれば、感性まで取り替える必要はないはずだ。シェルシの即興をスペクトル分析や音響合成などの科学的アプローチに置き換え、リゲティ、シュトックハウゼン、クセナキスら「分析可能」な先人の書法を参照して「スペクトル楽派」の音楽は生まれた。ブレイクスルーにはシェルシの強烈な音楽が欠かせなかったが、「分析不可能」なので深入りはしない、という姿勢も優等生らしい。実際、楽派確立後の1975年にローマ賞を得たレヴィナスは、もはやシェルシのもとを訪れてはいない。

c0050810_13344737.jpg 楽派成立当時の現代音楽の主流とは相当に隔たった音楽であり、スペクトル分析結果を加算合成で再現するためには自然倍音列に基づいた微分音調律も必要になるため、通常の現代音楽アンサンブルは彼らの音楽をなかなか取り上げなかった。そこで彼らは1973年に「アンサンブル・イティネレール」を自ら結成した。アンサンブル設立に関わり、今日でも広く知られているのは上記3人とユグ・デュフール(1943-) であり、彼らがスペクトル楽派の第一世代にあたる。ミュライユの父は詩人、レヴィナスの父はかの哲学者エマニュエル・レヴィナスであり、フランス知識層の人文学的伝統を受け継いでいるのもこの楽派の特徴だ。その中で、やや年長で哲学者でもあるデュフールが、楽派のスポークスマン的役割を担ったのは必然だった。「スペクトル楽派」という呼称も、デュフールが1979年の論文で使い始めたとされる。ただし、楽派の作曲家たちは、この呼称をあまり好んではいない。スペクトル分析の器楽曲への応用は、楽派結成当時でももはや目新しいアプローチではなく(彼らが《涅槃交響曲》(1957-58) など黛敏郎の先駆的作品を知っていたとは思えないが、チャウニングやリセのコンピュータ音楽草創期の試みは意識していたはずだ)、音響合成から視覚的要素の導入まで広がる、楽派の幅広い関心が矮小化されかねない。特にミュライユは、コンピュータ支援作曲ソフトウェア「パッチワーク」の開発にも携わった技術者肌の職人なので、この呼称を忌み嫌った。彼の電子音楽へのスタンスは、「我々の世代はシェフェール(1910-95、ミュジック・コンクレートの創始者) よりもピンク・フロイドに多くを負っている」というものだけになおさら。

 また、アンサンブル・イティネレールを自ら創設するところからも想像される通り、作曲家=演奏家が少なくないのもこの楽派の特徴である。《忘却の領土》を初演したレヴィナスは、自作や楽派の作品のみならず、古典から現代まで幅広いレペートリーを持ち、フルタイムで活動するピアニストである。ミュライユも、ジャンヌ・ロリオの次世代を代表するオンド・マルトノ奏者であり、この楽器のための作品も多い。メシアン《トゥーランガリーラ交響曲》の録音を眺めると、まずロリオ姉妹、次いでピアノが当時の若手(最初のメシアンコンクールの入賞者たち)に代わり、ラトルやサロネンの世代になるとオンド・マルトノもミュライユに代わっている。野平一郎(1953-) は、スペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりであり、日本人では最初の楽派のメンバーとして、パリ音楽院留学中の1981年にピアニストとしてアンサンブル・イティネレールに入団している。楽派第一世代はメシアン周辺のフランスの作曲家のみだが、第二世代になるとフランスのユレル(1955-)、ルルー(1959-)、ダルバヴィ(1961-) らに加え、イタリアのフェデーレ(1953-)、カスタニョーリ(1958-)、ストロッパ(1959-)、ロミテッリ(1963-2004) ら、フィンランドのサーリアホ(1952-) やリンドベルイ(1958-)、オーストリアのハース(1953-)、スイスのジャレル(1958-)、英国のベンジャミン(1960-)、日本の野平や田中カレン(1961-) と、一挙に国際化した。楽派の研究活動が、ブーレーズが創設した音響・音楽研究所IRCAMのプログラムになったことが変化の大きな要因である。

c0050810_13353674.gif ここまで表・スペクトル楽派の歴史を眺めてきたが、その第一世代の同世代には、裏・スペクトル楽派と呼ぶべき作曲家たちも活躍し、この潮流をさらに豊かなものにした。まずは、ルーマニア出身のラドゥレスク(1942-2008) とドミトレスク(1944-)。ルーマニア民族音楽やビザンチン宗教音楽の倍音唱法をバックグラウンドに持ち、ラドゥレスクの場合は自然倍音列上の倍音唱法で構成されたシュトックハウゼン《シュティムンク》(1968) との出会い、ドミトレスクの場合はシェルシの音楽との出会いが決定的な契機となり、倍音構造に着目した作曲を始めた。表楽派は自然倍音列の比較的低次をアルペジオに開き、フランスの伝統に則した透明な書法を採るが、ふたりは自然倍音列のはるか高次にあたる、不均等調律された微分音がうごめく異様な音楽に辿り着いた。ラドゥレスクは70年代初頭にメシアンに師事して知遇を得、80年代初頭にはIRCAMのクラスに参加するなど、表楽派に近いところで活動して自らの音楽を広めようとしたが、ドミトレスクは表楽派初期のDIY精神を専ら参照し、1976年にはハイペリオン・アンサンブルを結成して独自路線を邁進した(結局、ラドゥレスクも1983年にルチェロ・アンサンブルを結成して同じ道に踏み込んだ)。ドミトレスクの慧眼はCDも自主制作し、実験的ポピュラー音楽のネットワークに乗せて頒布したことで、現代音楽業界よりもノイズ・ミュージック界隈で強く支持され、20枚を超えるCDで全貌を把握できる。

 もうひとつは、ケルンのフィードバック・スタジオを拠点とする作曲家たち。創設者のフリッチュ(1941-2010、ドイツ)は、シュトックハウゼンの即興性の強い作品を演奏する通称ケルン・アンサンブルに草創期からエレクトロニクス奏者として参加し、共同創設者のD.C.ジョンソン(1940-、米国) とゲールハール(1943-、米国) もシュトックハウゼンの助手を経てアンサンブルに参加した。《マントラ》(1970) 以降、シュトックハウゼンの関心の中心が緻密な作曲に回帰したことを受け、エレクトロニクス即興の伝統を守るために彼らはこのスタジオを始めた。アナログ回路による即興で用いられる音響効果は倍音構造のコントロールに他ならず、探求の方向はスペクトル楽派におのずと近づく。マイグアシュカ(1938-、エクアドル) やバーロウ(1945-、インド) ら即興時代のシュトックハウゼンに導かれて集まった作曲家たちは出身国も幅広い。またハーヴェイ(1939-2012、英国) やヴィヴィエ(1948-83、カナダ) がしばしばスペクトル楽派の作曲家として扱われるのは、エレクトロニクス即興への関心や1970年前後にシュトックハウゼンに師事した経歴など、フィードバック・グループとの関連に由来している。表楽派の歴史でシュトックハウゼンの名前が挙がるのは、《グルッペン》《カレ》など「空間音楽」のオーケストレーションを通じてだが、裏楽派におけるシュトックハウゼンは、表楽派でのシェルシ以上に本質的な位置を占めている。

c0050810_133733.jpg 裏楽派の音楽は、世代を超えて受け継がれることは殆どなかった。ドミトレスクの弟子を経て妻となり、夫のバックアップコピーのような作品を量産しているアヴラム(1961-) は特異な例外であり、フリッチュ門下からはC.J.ワルター(1964-) のような繊細な音色感覚を持つ作曲家も現れたが、その美学はスペクトル楽派とは程遠い。これに対し、表楽派の音楽は世代を超えて受け継がれたが、その後の展開は芳しいものではなかった。近藤譲も指摘している通り、スペクトル楽派には音楽の時間発展を制御する理論が存在しない。スペクトル音響がまだ珍しかった時期には、絵巻物のような併置で十分だったが(ミュライユの最初のピークにあたる《忘却の領土》や《夕暮れの13の階調》(1978) はまさにそういう音楽だが)、やがてそれでは済まなくなる。《音響空間》シリーズ(1976-85) でいち早く視覚的要素を導入し、《時の渦》(1994-96) ではラヴェルの楽曲をスペクトル分析の素材にする裏技まで用いたグリゼーはこの問題点を意識して克服しようとしていたが、最後の作品《限界を超えるための4つの歌》(1997-98) で採用したのは結局、伝統的な旋律だった。

 自然倍音列の低次で現れるのは、最初に平均律から大きく外れる第7倍音以前は長三和音の構成音であり、そもそもスペクトル語法と調性は極めて相性が良い。契機は人それぞれだが(例えばリンドベルイの場合は、急逝したルトスワフスキに代わってサントリーホール国際作曲委嘱シリーズのために1時間近い大曲《Aura》(1994) を数ヶ月で仕上げたこと)、90年代半ばの数年間に表楽派の大半の作曲家は急速に調性的な方向に向かった。元々標題音楽やオペラへの指向が強かったH.デュフールの場合は自然な変化にも見えるが、第一世代でもひときわノイズ指向の強かったレヴィナスですらそうだった。野平のようにアカデミックな風格に向かったのはむしろ幸運な例で、印象派風映画音楽の出来損ないになってしまった者も少なくない(なまじスペクトル語法は保っている意識がある分、歯止めが利かない)。この傾向は年長世代の特徴というわけでもなく、むしろアンダーソン(1967-)、タンギー(1968-) ら世代が下るほど顕著だった。スペクトル楽派第二世代以降の金太郎飴的な傾向を批判し、アンビエントテクノにならった持続を取り入れるなど意欲的な試みを行った望月京(1969-) は例外的存在だ。裏楽派でもラドゥレスクはこの時期に顕著に調性に向かった。ただしこれは、彼の音楽的理想を体現したピアニスト、シュトゥーマーと出会って微分音が自由に出せない楽器のための表現を探求した結果であり、弦楽四重奏などの編成では従来通り微分音の探求を続けた。

c0050810_13373999.jpg ミュライユは、表楽派で調性に向かわなかったほぼ唯一の作曲家だが、これは彼の意識が高かったからではない。彼は《崩壊》(1982-83) 以降情報理論を積極的に取り入れ、コンピュータ支援作曲による時間構造の自動生成に向かったので、悩む必要がなかったからにすぎない。全盛期の瑞々しい音世界が無味乾燥な机上の空論に浸食されてゆく様子は痛々しいが、そのおかげで十数年後のより深刻な危機を回避できたのだから、人間何が幸いするかわからない。そんな彼の転機になったのが、1997年に米国コロンビア大学に移ったことだった。ポスト戦後前衛の二大潮流「新しい複雑性」とスペクトル楽派を代表するファーニホウとミュライユは、米国に落ち着いてかつての輝きを取り戻した。フェルドマンとケージが相次いで世を去り、新自由主義が広がる中で米国実験主義の基盤は急速に失われていったが、その荒野ではヨーロッパ戦後前衛音楽への関心が静かに広がっていた…と書くと何やら詩的だが、「前衛音楽未開の地」米国では「ヨーロッパの二大潮流」という意識はなく、「OpenMusic(パッチワークの後継ソフトウェア)を用いる作曲家」としてファーニホウやマヌリー(1952-、IRCAMの重鎮) と横並びで扱われるのでかえって吹っ切れた、という身も蓋もない見方も可能だ。いずれにせよ、ミュライユの場合はグリゼー追悼音楽《冬の断章》(2000) あたりが分水嶺になっており、《仕事と日々》の充実は第二のピークと呼べそうだ。

 「新しい複雑性」を概観したPOC#13のプログラムノートでは、今日におけるこの様式の可能性を米国の若い世代に見たが、スペクトル楽派に関しても同じ結論になりそうだ。スタンフォード大学でファーニホウのもとで学びながら「スペクトル音楽」を探求しているトルコ出身のトゥルグート・エルチェティン Turgut Erçetin (1983-) はその代表である。時間発展の理論を持たないスペクトル楽派の問題点は、新しい複雑性を参照すれば伝統的調性に頼らなくても解決できる。彼の鮮烈な音世界には今のところ、soundcloudyoutubeで触れることができる。
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by ooi_piano | 2014-09-14 11:25 | POC2014 | Comments(0)
関連ツイート+批評記事 http://togetter.com/li/724725

c0050810_1956424.jpg浦壁信二(pf) × 大井浩明(pf)

2014年9月12日(金)19時開演(18時半開場)
公園通りクラシックス
全自由席 3,000円  チラシpdf

■ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
■スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版、日本初演)[単一楽章、約20分]

■FBイベントページ



浦壁信二 Shinji URAKABE
c0050810_2011146.jpg  1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
  ’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
  ’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集」(第4・第5・第7ソナタ《白ミサ》、2つの詩曲Op.32、8つのエチュード集Op.42、3つの小品Op.52、アルバムの一葉Op.58、2つの詩曲Op.71)をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
  ‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。 浦壁信二インタビュー http://psta.jp/topics/interview/index7.html

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ショスタコーヴィチ:交響曲第4番「二台ピアノ版」をめぐって ――工藤庸介

【ショスタコーヴィチの音楽に内在する三層構造】

c0050810_2023396.gif  ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)の名が、とりわけその15曲に及ぶ交響曲によって、20世紀の音楽史に燦然と刻まれることに異論はないだろう。近年では演奏会で取り上げられる頻度も高く、紛れもなく現代の人気作曲家の一人と言ってよい。
  ドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』などの文学作品と同様に、ショスタコーヴィチの作品の多くは「象徴層-物語層-自伝層」の三層構造を有している。一見つながりのなさそうな素材や、個々に完結しているように思われる楽句を、相互に関連させつつ統一感を持たせて構成することに長けていたショスタコーヴィチは、ソナタ形式をはじめとする楽曲形式を使いこなすことで、劇的かつ具体的な物語性を持った作品の数々を創り出した。そこで呈示される、ときに視覚的なイメージすら喚起する明解なプロットは、その明解さゆえに国や時代の枠を超えた普遍的な想念を象徴する。今日ショスタコーヴィチが世界中で広く受容されているのは、この「象徴層-物語層」が現代の聴衆に対しても強い訴求力を持つことの証左であろう。
  とはいえ、この二層についてだけ言えば、多分に個性的ではあるものの、ショスタコーヴィチだけに固有な構造ではない。ショスタコーヴィチを特別な存在たらしめるのは、これらと全く異なる次元で展開する個人的な体験の独白である「自伝層」である。熱心なファンにとっては、作品に潜在する自伝的要素を解読することこそがショスタコーヴィチを聴く醍醐味なのだが、一方でそれが強調されるあまりに作品が歪んで理解されることも少なくない。
  交響曲第4番は、作曲の過程や初演に至るまでの謎に満ちた紆余曲折にショスタコーヴィチの生きた時代と社会が色濃く刻印されているという点で、この「自伝層」が過大にクローズアップされてきた作品の一つである。そこで本稿では作曲の経緯を時系列で辿り、この交響曲がどのような状況下で書かれたのかを整理することから、作品の理解、解釈を図りたい。また、作曲者自身による二台ピアノ用編曲の意義についても考察する。


【作曲の経緯】

c0050810_204319.jpg  交響曲第4番についてショスタコーヴィチが公的に初めて言及したのは、1934年11月5日に発表された記事においてである:「交響曲第4番の第1楽章に着手したが、一時的に中断している」(当該記事は『ショスタコーヴィチ自伝』に収録されているものの、そこではこの一文は省略されている)。さらに年末(12月28日)には、次のように述べている:「わたしは(中略)来年の自分の基本的な仕事となるだろう第四交響曲に思考と『野心』を集中することができればと思っている。これは大きな思考力と大きな情熱とを要する記念碑的な、標題楽である。したがって、大きな責任を負っている。多年わたしはその構想をねってきたが、まだその型式と『技術』には手をそめなかった。これまでの準備とデッサンに満足できなかったからである。あらためてそれに取りかからなければならない」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.55)。
  翌35年はじめ(1月14日)にも「第四交響曲との大きな仕事に集中したいと思っている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.58)と繰り返し表明しており、ショスタコーヴィチにとっては初めて自発的に作曲に着手する本格的な交響曲(第1番は音楽院の卒業作品、第2番は革命10周年を記念する委嘱作品)に対する、並々ならぬ意欲を窺うことができる。
  2月には親友のソレルチンスキイが「現在ショスタコーヴィチが作曲中の交響曲」に対する期待を語ったりしているものの、4月の時点ではまだ「わたしは、自分の仕事の一種のクレード(綱領)となるような第四交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしているところだ」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.61)、「いまやわたしは第四交響曲という大きな仕事にとりくんでいる。このところ、バレーや映画音楽のために、交響曲の分野ではおくれをとった感じがしている。交響曲は作曲家のなかでは一番むずかしい、一番重要なものである。(中略)この交響曲のこと、その性格やテーマについては、まだ何もいうことができない。これまであたためてきた音楽的材料は、この作品のためには一つも使われず、まったく新らしく書きはじめている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.64)、といった発言に留まっており、実質的には作曲が進捗していないことがわかる。
  現在知られている交響曲の形にまとまるまでに、様々な試行錯誤があったことを裏付けるように、現在知られている交響曲とは全く異なる素材のスケッチが遺されており、その中にはオーケストレイションまで施された冒頭部分の断片(1934年11月5日の日付があり、作品番号も別のものが与えられている)もある。これら一連のスケッチは、ロジェストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省交響楽団によるLP(Melodiya A10 00319 000)の余白に収録された、同氏による成立過程のレクチャーで聴くことができる他、冒頭部分の断片にはロストロポーヴィチ/ロンドン交響楽団によるライヴ録音CD(Andante SC-AN-4090)も存在する。
c0050810_2051781.gif  結局、ショスタコーヴィチが第1楽章に着手するのは1935年9月13日のことである。10月末には展開部までが出来上がり、12月初めに第1楽章が完成したと伝えられている。ソレルチンスキイに宛てた1936年1月6日の手紙には、数日前に第2楽章が完成したと記されている。歌劇「ムツェンスク群のマクベス夫人」作品29に対する論説「音楽の代わりに荒唐無稽」(同年1月28日)、そしてバレエ「明るい小川」作品39に対する論説「バレエの偽善」(2月6日)がプラウダ紙に掲載された(いわゆる「プラウダ批判」)のは、この後のことである。すなわち、第1楽章に着手してから第2楽章が完成するまでの間に、楽曲の内容を左右するほどショスタコーヴィチ自身に影響を及ぼしたと思われる出来事は、何も起こっていない。強いて言うならば、1934年12月1日にレニングラード・ソビエト議長を務めていたキーロフが暗殺され、実行犯は年末までに処刑されているが、これも第1楽章がほぼ完成してからのことである。
  プラウダ批判にショスタコーヴィチが煩わされたのは確かなようだが、後年のジダーノフ批判とは異なり、公衆の面前で批判されるような集会の場に参加することはなかったため、交響曲の作曲にはそれほど影響しなかったようである。第3楽章の完成は4月26日頃と考えられている(友人のチェロ奏者クバツキイに宛てた手紙より)。
  5月30日には、ロシアへ演奏旅行で訪れていた指揮者のクレンペラーと会い、その際に自身のピアノ演奏(この時点で二台ピアノ用編曲は仕上がっていなかったと思われる)によって交響曲が披露された。親友ソレルチンスキイの他、指揮者のシュティードリやガウク、ピアニストのオボーリンらがその場に居合わせたと伝えられている。この日の未明、長女ガリーナが生まれた。


【初演の撤回】

c0050810_2054982.gif  交響曲の完成後、すぐに初演の準備が進められ、シュティードリ指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団による初演が1936年12月11日に予定された(DSCH社刊の作品全集第19巻の解説では11月21日とされている)。1933年にヒトラーから逃れてソ連に亡命してきたウィーン生まれのシュティードリが、どのようにこの作品に取り組んだのか、今となってははっきりと分からない。ヴォルコフ著の『ショスタコーヴィチの証言』では相当投げやりなリハーサルを行なったように書かれているが、シュティードリはマーラーと知己があっただけにこの作品を大変気に入ったという説もある。はっきりしているのは、2回目のリハーサルの後、ショスタコーヴィチが初演の中止を決定したということである。
  現在では、党あるいは作曲家同盟から圧力を受けたレニングラード・フィルハーモニーの責任者レンジンの説得によって、ショスタコーヴィチが不本意ながらも初演を撤回したという説が有力である。第1回モスクワ裁判は1936年8月に行われており、「形式主義がぎっしり詰まった、とてつもなく難解な交響曲を書いたという噂」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.127)が広まっている中で初演を強行することに、ショスタコーヴィチが身の危険を感じたとしても不思議ではない。シュティードリは1937年にソ連を去ったため、不自然な初演撤回の理由に、そのリハーサルの混乱が利用されたようだ。
  後述するように、ショスタコーヴィチ自身の手による二台ピアノ用編曲で交響曲自体は既に広く知られていたため、その存在までが抹殺されることはなく、1937年末に初演された次の交響曲は「第5番」とされた。


【25年後の初演】

c0050810_2091620.jpg  スターリン死後の1956年にショスタコーヴィチは、さりげなく「第四交響曲も失敗で、オーケストラで演奏もされなかった。わたし自身は、それでもなお、この総譜のなかのあちこちが気にいっている」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.260)と述べている。初演撤回後も、機会がある毎に初演の可能性を求めて奔走していたという話もあり、少なくともショスタコーヴィチ自身にこの交響曲をお蔵入りにする意思はなかったようだ。実際、右手の不調で入院していた時にグリークマンへ送った1958年9月19日の手紙では「この間、自作のオペラ『マクベス夫人』や、交響曲第四番のことばかり考えています。どんなにかこの耳で聴きたいものか、そう思っては心の耳でこれらの曲を通しで演奏しています。(中略)交響曲第四番の演奏は成功するものと確信しています」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.280)と述べている。
  この「幻の交響曲」に転機が訪れたのは、1960年頃のことである。モスクワ・フィルハーモニーの芸術監督グリンベルグが、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になったばかりのコンドラシンに「まだ一度も演奏が行なわれていないショスタコーヴィチの交響曲第4番を取り上げてみないか」と話を持ちかけた。この時点で既にスコアは紛失していたが、アトヴミャーンが残されたパート譜からスコアを復元し、ピアノ連弾用の編曲を作成していた。コンドラシンはこの連弾譜で作品に目を通した上で、初演を引き受ける決心をした。この楽譜は印刷が不鮮明な上に表情記号や速度記号がかなり欠落した粗悪なものだったようだが、コンドラシンによる初演にショスタコーヴィチが同意した際、ショスタコーヴィチ自身による二台ピアノ用編曲の楽譜を手渡されたと、コンドラシンは回想している。
  そして1961年12月30日、モスクワ音楽院大ホールでついに初演が行われた。初演は大成功を収めたと伝えられている。初演撤回から、実に25年の歳月が流れていた。


【交響曲第4番 ハ短調 作品43】

c0050810_2094819.jpg  ここまで整理してきたように、この交響曲の作曲期間中に起こった政治的な事件は、第1楽章完成後のキーロフ暗殺と第2楽章完成後のプラウダ批判だけである。前者については「セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフの卑しくも汚らわしい殺人は私だけでなく、ほかのすべての作曲家たちに、彼の記憶にふさわしい作品を書くことを強いる」(亀山郁夫『磔のロシア』, p.223)という型通りの文言はあるものの、これに相当するような作品をショスタコーヴィチは遺していない。また、プラウダ批判を受けてショスタコーヴィチは芸術問題委員会(のちの文化省)に出頭し、その時のやり取りはスターリンへ極秘に報告もされたが、後年のジダーノフ批判とは異なって公然とショスタコーヴィチを擁護する著名人もおり、少なくとも社会的に抹殺されるような状況ではなかった。
  ちなみに、ショスタコーヴィチのパトロンでもあったトゥハチェフスキイ元帥が逮捕・処刑されたのは1937年6月のことで、大粛清のピークも1937年から翌38年にかけてである。
  したがって、1936年末に予定されていた初演の撤回の背景にソ連社会の不穏な空気を読み取ることは故無しとしないが、交響曲の少なくとも第2楽章までの内容にその種の社会的事象をことさらに反映させて解釈することは適切でないと筆者は考える。

c0050810_20112550.jpg  虚心坦懐にこの交響曲を聴けば、「自分の仕事の一種のクレード(綱領)」というショスタコーヴィチの言葉通り、これまでに彼が培ってきた音楽的な嗜好が総括され、以後の創作の根幹を成す大規模な楽曲を構成する手法が確立されていることがわかる。
  嗜好という点では、ショスタコーヴィチの初期作品に顕著である前衛的な響きへの傾倒とポルカやワルツのような通俗的な音楽の多用が、当時熱中していたといわれるマーラー風な体裁の中に詰め込まれている。マーラーからの影響は、第1楽章コーダの「郭公の動機」や第2楽章トリオのレントラー舞曲、第3楽章冒頭の葬送行進曲などの形で、直接的に仄めかされている。この交響曲の作曲中、ショスタコーヴィチの手元にはマーラーの第3番や第7番の楽譜が置かれていたとも伝えられる。楽曲形式上は両端楽章に比べるとはるかに簡素な第2楽章が、響きやリズムの面白さの追求という点で徹底しており、後の交響曲第6番 作品54の第2楽章や交響曲第9番 作品70の第3楽章などに通じる。
  楽曲構成の点では、特にソナタ形式の巧みな扱いが注目に値する。第1楽章は、ほぼ型通りのソナタ形式だが、展開部に挿入される猛烈なフーガは異質な素材(ただし、フーガ主題は第1主題から派生している)であるだけに楽曲の様相を一変させ、巨大なクライマックスを築く。展開部への異質な音楽の挿入は、交響曲第7番 作品60の第1楽章をはじめとする後年の交響曲の数々でショスタコーヴィチが好んで用いた手法である。第3楽章もソナタ形式の延長で捉えることができる。冒頭の葬送行進曲(第1主題)に続いてスケルツォ風の音楽(第2主題)がクライマックスを迎えると、第1楽章のような展開部を期待する聴き手に肩透かしを食らわせるかのように突如としてバレエのディヴェルテスマン風のメドレーが繰り広げられる。これは、交響曲第3番 作品20で実験的に用いられた、同じ旋律を繰り返し用いることなく、ひたすらわかりやすい旋律を次から次へと並べていく手法を発展させたものと考えられる。その後、気分に変化がないまま第2主題が再現され、壮大なコラールの中で第1主題が再現される。再現部で主題提示の順序が逆転するアーチ型のソナタ形式は、ショスタコーヴィチが得意とした手法である。結尾部はチャイコフスキイの「悲愴」終楽章コーダと同じ形のバッソ・オスティナートに導かれ、不思議な余韻を残しつつ消えるように終わる。

c0050810_20114823.jpg  この第3楽章コーダについてだけは、ここまで意図的に避けてきた文学的な解釈の可能性を記しておきたい。
  一つ目は、筆者が指揮者の井上道義氏から示唆していただいた、練習番号255、256、259の3カ所に現れる「H-A-C」音型である。この音型は全曲を通して登場する様々な動機とは無関係にもかかわらず、全曲の終わりになって突如として意味ありげに現れる。この3文字をロシア語読みすると「われら(主格はмыで、насは生格/対格)」という意味になる。これをザミャーチンの『われら(Мы)』(1921年)と関係づけるか、あるいは『ショスタコーヴィチの証言』の第4章、アメリカ訪問のくだりで出てくる「彼(スターリン)は『われわれ』というように自分のことを呼んでいた」(中公文庫版, p.263)という一節と関係づけるか、いずれにせよプラウダ批判に対する何らかのメッセージと考えることも可能だろう。
  二つ目は、最後にチェレスタが静かに奏でる「A-D」の2音である。交響曲第5番の終楽章コーダでは強奏でA音が連呼された後、D音のユニゾンで曲が閉じられる。指揮者のハイキンはショスタコーヴィチが「この交響曲(筆者注:第5番のこと)の最後は、フォルティッシモで長調にしました。誰もがそれを楽天的で、人生を肯定する交響曲だと言っています。でも、もし短調のピアニッシモで終えたら、みんな、どう言うのでしょうね」(ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』, p.137)と語ったことを回想しているが、ピアニッシモ/フォルティッシモ、短調/長調の違いだけで、第4番と第5番が同じ音名象徴で終えられていると考えるならば、第5番と同様の私小説的な解釈が第4番でも成立し得ることになる。それは、1934年から翌年にかけてのショスタコーヴィチの道ならぬ恋である。妻ニーナとは離婚の危機を迎えたが、1935年秋にニーナの妊娠が判明したことで、この不倫関係は清算された。これは交響曲第4番に着手する直前のことである。翌36年はじめに密告によって、不倫相手の女性が投獄される。「音楽の代わりに荒唐無稽」が掲載された1月28日に、ショスタコーヴィチは彼女の不幸について手紙の中で言及している。この不倫相手の愛称が「リャーリャ(Ляля)」であることからA音=ラ(Ля)が彼女を象徴しているという説を採ると、D音をDmitryだとすれば、「A-D」音型にはこの実を結ぶことのなかった恋が象徴されていると考えることも可能だろう。


【作曲者による二台ピアノ用編曲】

c0050810_20123511.jpg  上述した第3楽章の完成を伝えるクバツキイ宛ての手紙で、ショスタコーヴィチは交響曲の二台ピアノ用編曲に直ちに取り掛かる旨を記している。いつ完成したのかは定かでないものの、初演撤回後も著名な作曲家達がこの編曲で交響曲を知ったという記録が残っている。たとえばミャスコフスキイが1936年12月22日の日記に音楽学者のラムとこの交響曲を試奏した際の感想を記しているし、指揮者のハイキンは1937年の交響曲第5番の初演直後に交響曲第4番を(おそらくこの編曲で)聴いたと回想している。1945年には仲間内で初演の可能性を探る過程で、ショスタコーヴィチ自身が友人の作曲家ヴァインベルグとこの編曲を演奏したことも知られている。
  このように、二台ピアノ用編曲は交響曲第4番を幻の作品として埋もれさせないための重要な役割を果たした。しかしながら一般にこの編曲が流布する機会には恵まれず、1946年に写真製版で限定的に出版された(編曲者名は表記されず)ものの、直後の1948年に起こったジダーノフ批判に伴って回収・破棄の憂き目にあった。ショスタコーヴィチの遺族が中心となって設立されたDSCH社によって出版されたのは、2004年のことである。出版と同時にハイルディノフとストーンのデュオで世界初録音がなされた(Chandos CHAN 10296)。

c0050810_20151024.jpg  オーケストラ・スコアの自筆譜が紛失しているため(自筆譜を入れた旅行鞄をガウクが紛失したと伝えられているが、1961年の時点ではガウクの手元にあった可能性も指摘されている。いずれにせよ、現時点で自筆譜の存在は確認されていない)、1961年の初演時に復元されたスコアと二台ピアノ用編曲との間には、メトロノーム表示を中心にいくつかの齟齬がある。本日の演奏で用いられるDSCH社刊の作品全集第19巻では、これらの差異について一定の整合が図られているが、音符そのものはショスタコーヴィチが書き記したものが尊重されている。
  作曲に際してピアノを使わなかったといわれるショスタコーヴィチにとって、ピアノ用の編曲というのは基本的にデモ・テープのような意味合いが強い。しかし、幻となってしまった気鋭の作曲家による最先端の交響曲を知る唯一の手段が、四半世紀に渡って二台ピアノ用の編曲しかなかったこの交響曲の場合は、むしろこの編曲こそが作曲当時の熱気を現代に伝えるフォーマットとも言えるのではないだろうか。
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by ooi_piano | 2014-09-02 01:50 | コンサート情報 | Comments(0)