感想集 http://togetter.com/li/761909

カフェ・モンタージュ(京都) (地下鉄「丸太町」徒歩5分)
〔お問い合わせ〕 カフェ・モンタージュ 075-744-1070 montagekyoto[at]gmail.com 
〔予約フォーム〕 http://www.cafe-montage.com/mail/mail.html
入場料:2000円(全自由席) ※公演終了後にワイン付レセプションあり(無料)
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c0050810_139030.jpgすべては過ぎ去っていく、戻ってくることはない
人生は急ぎ行く、一瞬の間に
かつて私たちが聞いた言葉の響きはどこなのだ?
かつて私たちを照らした暁の光はどこなのだ?
花は咲き、明日には枯れる
炎がきらめき、すぐに消え去る
波が来ても、次の波に飲み込まれる
私は陽気な歌など歌えない (ダニル・ラートガウス)


Проходит всё, и нет к нему возврата.
Жизнь мчится вдаль, мгновения быстрей.
Где звуки слов, звучавших нам когда-то?
Где свет зари нас озарявших дней?
Расцвел цветок, а завтра он увянет,
Горит огонь, чтоб вскоре отгореть…
Идет волна, над ней другая встанет…
Я не могу веселых песен петь! (Даниил Ратгауз)



2015年2月6日(金) 午後8時開演
《ノスタルギア Ностальгия ― ニコラーイ・ミャスコーフスキィ》
 チェロ:上森祥平   ピアノ:大井浩明

N.ミャスコフスキー(1881-1950):
チェロソナタ第1番 ニ長調 作品12 (1911) [全2楽章]
  I.Adagio /Andante - II.Allegro passonato
チェロソナタ第2番 イ短調 作品81 (1948) [全3楽章]
  I.Allegro moderato - II.Andante cantabile - III.Allegro con spirito
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感想集 http://togetter.com/li/760105

●ルチアーナ・ガリアーノ氏による西村朗個展@京都批評 Hiroaki Ōi interpreta Akira Nishimura -- Sonorità multiformi nelle opere del compositore giapponese, conosciuto anche in Europa grazie alle registrazioni del Quartetto Arditti. Un concerto maratona a Kyoto ha illustrato alcune opere pianistiche (di Luciana Galliano)

c0050810_14385691.jpg2015年2月8日(日)午後3時開演
西村朗ピアノ作品撰集
 トーク:西村朗  ピアノ:大井浩明 

【第1部】
西村朗(1953- ):
《炎の書》(2010)  約10分
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【第2部】
 〔西村氏トーク〕
《神秘の鐘》(2006) 約15分
《薔薇の変容》(2005) 約9分
《カラヴィンカ》(2006) 約10分
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【第3部】
 〔西村氏トーク〕
《オパール光のソナタ》(1998)  約10分
《タンゴ》(1998) 約4分
《アリラン幻想曲》(2002) 約6分
《三つの幻影》(1994) 約16分


c0050810_14394485.jpg西村朗 Akira NISHIMURA, composer
  1953年9月8日、大阪市に生まれる。1973年~80年、東京藝術大学卒業、同大学院修了。西洋の現代作曲法を学ぶ一方で、在学中よりアジアの伝統音楽、宗教、美学、宇宙観などに強い関心を抱き、そこから導いたヘテロフォニーなどのコンセプトにより、今日まで多数の作品を発表している。
  日本音楽コンクール(1974)、エリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞(1977,ブリュッセル)、ルイジ・ダルラピッコラ作曲賞(1977,ミラノ)、尾高賞(1988,1992,1993,2008,2011)、中島健蔵音楽賞(1990)、京都音楽賞「実践部門」(1991)、日本現代芸術振興賞(1994)、エクソンモービル音楽賞(2001)、別宮賞(2002)、サントリー音楽賞(2005)、毎日芸術賞(2005)、ミュージック・ペンクラブ音楽賞(2008)、紫綬褒章(2013)、第51回レコード・アカデミー賞「現代曲部門」等を受賞。1993年~94年、オーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザー・イン・レジデンス。1994年~97年、東京交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。2010年~、山形交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。
  近年、海外においては、ウルティマ現代音楽祭(オスロ)、「ノルマンディーの10月」現代音楽祭(ルーアン)、アルディッティ弦楽四重奏団、クロノス・カルテット、ELISION、ハノーヴァー現代音楽協会、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団、ラジオ・フランス等から新作の委嘱を受け、ヴィーン・モデルン音楽祭、「ワルシャワの秋」現代音楽祭、MUSICA・ストラスブール音楽祭、ブリスベン音楽祭等において作品が演奏されている。2002年度にはCD作品集「エイヴィアン」(カメラータ・トウキョウ)が、文化庁芸術祭大賞を受賞した。
  現在、東京音楽大学教授。いずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督。2010年より草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督。


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c0050810_14404367.jpg炎の書 Flames Calligraphy (2010)
 2010年夏に作曲、翌年1月10日、東京にて中嶋香により委嘱初演。曲の構想に入った当初は、古代の非特定の宗教儀式における聖句の朗唱、すなわちカンティレーションのように、強く唱え訴えかける曲想を考えた。それは「歌う」より、むしろ「語る」ような主導的フレーズが断続的に連なるもので、さらにそれに副次的に、ヘテロフォニックな対奏声部が絡むというものであった。その後、実際に作曲に入り、ピアノを様々に打ち鳴らし、イメージを強め育て上げるなかで、曲想は当初の構想の延長において、人間の肉声的イメージから飛躍して転じ、舞い踊る炎のようなものとなった。それは密教の護摩業の火炎のイメージに近く、密教の火炎文字ごとくに、中空に様々な炎の文字を描き出す。そしてそうした文字が、うねり輝くピアノの音響となって断続的に響きわたる。そのような曲にしたいと思うようになった。その過程で、タイトルを《炎の書》とすることにした。ソステヌート・ペダルによるやや特別な効果の設定は見られるが、内部奏法は一切用いられていない。

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c0050810_14412810.jpg神秘の鐘 [薄明光/間奏曲/霧の河] Mystic Bells (Twilight glow/Interlude/Misty River) (2006)
  2006年5月11日、碇山典子によりCD収録初演。この作曲における「鐘」のイメージは多分に宗教的であるが、仏教やキリスト教等、特定の宗教と結び付いたものではない。さまざまな「鐘音」は時間の流れの輝きの瞬間のようであり、また時空を超えた世界、たとえば異界や死後の世界にまでも届くシグナルのようでもある。さらに言えば、人心の深淵を照らす光のようであり、遠い異界からの光のようでもある。
  I. 薄明光 ── 太陽が沈んだ直後、赤き残光はなお上空にとどまり、山の樹々の風に揺らぐ葉や、雪の高き峰を輝かせる。生から死へと向うゾーン、トワイライト・ゾーンの大気を震わせる鐘である。
  II. 間奏曲 ── これは重い弔鐘が深々と奏されるインターリュードである。弔鐘に乗って、ゆっくりと歌い奏されるのは一種の「子守歌」。孤独な悲しい歌である。
  III. 霧の河 ── 夜の霧の大河にうごめく様々な「存在」の気配。それらはなまめかしい水流の香気と交じり合い解け合って、異界から断続的に出現する不思議なオーロラのような鐘の響きを生みつづける。むろんそれは幻聴。神秘の鐘の音である。

薔薇の変容 Roses Metamorphosis (2005)
  2005年5月24日、碇山典子によりCD収録・献呈初演。作曲イメージの発端に薔薇があった。私は薔薇に、女性原理に通じるような、肉体的・精神的な神秘を感じる。その姿は生命を生む官能の海の珊瑚の森のようであり、その香りは珊瑚の森に触れる波の吐息の香気のようである。ピアノの響きと音色のテクスチュアが持つ触感のエロティシズムに感応したいとの思いで作曲した。静かな夜、ひとりピアノに向って音を探っているとき、その「エロティシズム」には、避け難いタナトスの誘惑が秘められていると感じた。

c0050810_14415745.jpgカラヴィンカ Kalavinka (2006)
  2006年8月20日ザルツブルクで小菅優により献呈初演。タイトルのカラヴィンカ(kalaviṅka)は、日本では〈迦陵頻伽〉(かりょうびんが)と音写されており、それは仏教の阿弥陀経において、極楽に住むとされる特別な姿の鳥である。この鳥は人間の顔を持ち、体は鳥姿で、美しい声を持っている。カラヴィンカは、その美しい声によって仏陀の言葉を歌い、人々の魂を救済する。この曲は、カラヴィンカのイメージによって発想されたものであり、カラヴィンカの住む極楽のイメージは、京都の東寺に伝わる「胎蔵界マンダラ」から得ている。そのマンダラ宇宙は、母の胎内のようであり、様々な色彩の光や霊妙かつ官能的な香気にあふれている。そしてそこには、桃色の初々しい肌を持つ童児のような大日如来を中心に、やわらかで艶やかな御体の仏たちが集まっている。神秘的で豊満なエロティシズムに満たされた極楽宇宙である。カラヴィンカはそこに舞い、苦の現世に生きるわれわれに歌いかける。

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c0050810_14421648.jpgオパール光(こう)のソナタ Opalesque Sonata (1998)
 ドイツ人ピアニスト、クリスティ・ベッカーの1998年10月22日の誕生日のために作曲、同氏によりルートヴィヒスハーフェンにて献呈初演。10月の誕生石オパールが様々な輝きを放つように、人生もまた様々な光に満ちている。初秋の美しい太陽光のもと、そうしたことを思いつつ作曲した。「様々な光の輝き」というテーマにそって、多様な楽案が一つの人生のようなタペストリーを織りあげる、そういった趣きのピアノ曲にしたいと願い、それを織り成す音色の糸や輝きの光の生地も多彩でありたいと思った。

タンゴ Tango (1998)
  1998年12月17日、東京・草月ホールにて高橋アキにより委嘱献呈初演。曲の構成はタンゴのリズム・パターンを織り込んだ4つの音楽素材に基づく一種のロンド形式。主調はロ短調だが曲中にはめまぐるしい転調を含んでいる。テンポは一貫してアレグロで、演奏上、やや技巧的なピアノ小品となったとは言えるかもしれない。こうしたタイプの曲を書いたのは初めてで、私にとっては新鮮で楽しい体験となった。

アリラン幻想曲 Arirang Fantasy (2002)
  2002年6月14日東京にて寺嶋陸也により初演。作曲家林光さんらが中心になって企画された、東京での「アリラン」を特集した演奏会のために作曲したもの。タイトルが示すとおり、有名なアリランの旋律にもとづく自由な構成の幻想曲。このノスタルジックな東洋的旋律を知ったのがいつだったのかまったく思い出せないが、大阪での少年時代、10歳以前であることは間違いない。子供心にもしみ入る名旋律だと思う。

c0050810_14425337.jpg三つの幻影 [水・炎・祈祷] Three Visions (Aqua/Flame/Invoker) (1994)
 高橋アキにより1994年東京で献呈初演。1994年の春、私はインドを旅行し、その際、ガンジス河流域にあるヒンドゥー教の聖地バラナシに数日間滞在した。〈水〉、〈炎〉、〈祈祷〉の三曲より成るこの作品は、その時の体験にインスピレーションを得て作曲したものである。しかしこれはその体験を物語的に描写したものではない。三つの曲はそれぞれに独立した内容を持っており、個々に単独に演奏されることも可能である。


東京公演感想集 http://togetter.com/li/760105
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by ooi_piano | 2015-01-30 13:13 | POC2014 | Comments(0)

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c0050810_1146836.jpg大井浩明 Portraits of Composers [POC]
第20回公演 細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集
2015年1月25日(日)18時開演(17時半開場)
両国門天ホール


【演奏曲目】

○三輪眞弘:《3つの小品》 (1976、世界初演)
●細川俊夫:《メロディアII》(1977/78)
○三輪眞弘:《レット・イット・ビー アジア旅行》(1990)
●細川俊夫:《夜の響き》(1994/96)
●細川俊夫:《ピエール・ブーレーズのための俳句》(2000/03)
○三輪眞弘:《虹機械第2番「七つの照射」》(2008)

──休憩(15分)──

●細川俊夫:《舞い》(2012)
●細川俊夫:《エチュード集》(2011/13)
○三輪眞弘:《虹機械 公案-001》(2015、委嘱新作・世界初演)


 ※曲目の一部に変更が御座います。ご了承下さい。

c0050810_11475039.jpg●細川俊夫 Toshio HOSOKAWA, composer
 1955年広島生まれ。1976年渡独、ベルリン芸術大学で尹伊桑に、フライブルク音楽大学でクラウス・フーバーに師事。日本を代表する作曲家として、欧米の主要なオーケストラ、音楽祭、オペラ劇場等から次々と委嘱を受け、国際的に高い評価を得ている。2004年エクサンプロヴァンス音楽祭の委嘱による2作目のオペラ《班女》(演出=A.T.d.ケースマイケル)、2005年ザルツブルク音楽祭委嘱のオーケストラ作品《循環する海》(世界初演=ウィーン・フィル)、ベルリン・フィルとバービカン・センター、コンセルトヘボウの共同委嘱による《ホルン協奏曲─開花の時─》といった作品は、大野和士、V.ゲルギエフ、F.ウェルザー=メスト、S.ラトルなど、世界一流の指揮者たちによって演奏されている。2001年ベルリン芸術アカデミー会員に、2012年バイエルン芸術アカデミーの会員に選出。現在、武生国際音楽祭音楽監督、東京音楽大学およびエリザベト音楽大学客員教授。

c0050810_11485440.jpg  《メロディア II》(1977/78)は、ベルリン芸大時代に尹伊桑クラスで、調性的な要素を用いる、という課題の元に作曲された初期の習作。1977年同大学生コンサートで発表され、翌年に改訂、フランクフルトのアルテ・オパーにおけるゲオルク・フリードリッヒ・シェンクのリサイタルで1979年4月20日に初演。
  《夜の響き》(1994/96)は、師クラウス・フーバーの70歳を記念して、彩の国さいたま芸術劇場委嘱により同劇場オープニング公演のための作曲。1994年10月15日野平一郎により初演。1996年に改訂、同年4月13日に同じく野平により初演。「曲は、短い俳句のような部分が6つ、連句のように連ねられている。ヴェーベルンの歌曲(作品17の第Ⅱ番)の音列を基礎として、それを独自の方法で変奏させた。本歌のなかのひとつの要素を、次の歌の構成要素として、展開し変奏させていく。私は、音が響き聴こえてくる世界と共に、聴こえない、余白の世界(間の部分)をほんの少しでも変化させたいと思う」。
  《ピエール・ブーレーズのための俳句 ―75歳の誕生日に―》(2000/03)は、ロンドン・サウスバンク・センターでおこなわれた、ブーレーズ生誕75周年記念コンサートのために作曲され、ベリオ《インテルリネア》・カーター《ルトゥルヴァイユ》・リンドベルイ《ジュビリー》・陳銀淑《粒子》等とともに、2000年3月26日ロルフ・ハインドにより初演。2003年改訂、同年4月11日ルツェルンにて、ピエール=ロラン・エマールにより初演。
c0050810_11494672.jpg  《舞い》(2012)は、ショット出版社社長ペーター・ハンザー=シュトレッカー博士の70歳を記念して、26ヶ国・70人の所属作曲家に「我々の時代の舞曲」をテーマに新作ピアノ曲を委嘱した、《ペトルーシュカ・プロジェクト》の一環として作曲。「日本の古代の舞楽(ダンス)音楽、『青海波』(せいがいは)は、源氏物語の中でも描写される名曲で、波のうねりを表現するシンプルなメロディーと、その背景に最初から最後まで同じリズムの伴奏が、時のサイクルの象徴のように繰り返される。まるでミニマルミュージックのような単調な繰り返しが特徴的な舞いの音楽である。このピアノ曲は、左手の伴奏に打楽器のリズムを模倣したリズムパターンが刻まれ、右手は、装飾音の多い雅楽的なメロディーが反復される」。

c0050810_11453046.gif  《エチュードI -2つの線-》(2011/12)は、エルンスト・フォン・ジーメンス音楽財団の助成により、ブゾーニ国際ピアノコンクール(伊ボルツァーノ)の本選課題曲として作曲、2011年8月27日及び28日にファイナリスト達によって初演された。翌年最終部を補作、2012年4月29日伊藤恵により東京にて献呈初演。「《2つの線》という題名は、私の音楽の特徴である音の書道(カリグラフィー)をピアノの旋律のラインで描こうとしたことに由来する。右手と左手の2つの線は、陰と陽(影と光、女性原理と男性原理)のように、互いに補完しあいながら、独自の音の宇宙を形成していく」。
  《エチュードII -点と線-》(2012)は、中電不動産株式会社の委嘱、2013年2月8日名古屋にて小菅優により献呈初演。「本来線的な形態を持ったもの、二つの線(メロディー)を解体して、それを点として提示する。その点は、装飾音を持ちながら、あたかも線香花火が一つの中心から静かにその周辺に破裂して点滅するように、音のコスモスが形成される。その点の元々の線は、自由なカノンのように、時間を様々にずらして重層されていく。そうした点的な部分と、線的なメロディーが静かに余韻として重なり合い、ハーモニーを形成していく部分が、交互に提示される。夜の闇に静かに破裂する線香花火のような孤独な音たち。」「IIはIと対となって、演奏されることが望ましい」。
  《エチュード第III番~第VI番》(2013)は、ルツェルン音楽祭・東京オペラシティ文化財団・ウィグモアホール(スイス・ホフマン財団助成)による共同委嘱で書かれ、2013年11月23日にルツェルン音楽祭で、児玉桃により献呈初演。
  《エチュードIII -書(カリグラフィー)、俳句、1つの線-》:「強い和音の断続音によって空間と時間を断ち切り、その後、1つの音がエコーとして引き延ばされる。常に時間を垂直的に切っていき、そこに影のように残るエコー音を聴こうとする音楽。短く簡潔に、しかしその背後には大きな世界が響いてくるように」。
  《エチュードIV -あやとり、2つの手による魔法(呪術)、3つの線-》: 「2つの手が、1つの紐から様々な形態を生み出しては、再び1つの紐に還っていく。小さな2つの手が、思いもかけない複雑な形を生み出していく手の魔術(呪術)。この曲では、2つの手が、最初は2つの絡み合う線を描き、それが、やがて3つの線となり、その線たちが激しく絡み合い、力強い世界を生み出していく」。
  《エチュードV -怒り-》:「誰かへの、何かへの具体的な対象への『怒り』ではなく、人間のここにあることへの根源的な怒りのような感情を表現してみたかった。低音部は、常に鍵盤を音を出さずに押していく奏法で(サイレントキー)、その弦が共鳴されてエコーが生まれていく」。
  《エチュードVI -歌、リート-》:「優しさ、愛情のうた。世界への愛情に満ちた眼差しのうた。メロディーが、和音、単音と様々な距離感を持って、歌われる」。


c0050810_1150281.jpg○三輪眞弘 Masahiro MIWA, composer
 1958年東京に生まれる。1974年東京都立国立高校入学以来、友人と共に結成したロックバンドを中心に音楽活動を始め、1978年渡独。ベルリン芸術大学で尹伊桑に、ロベルト・シューマン音楽大学(デュッセルドルフ)でギュンター・ベッカーに師事。1980年代後半からコンピュータを用いた作曲の可能性を探求し、特にアルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる手法で数多くの作品を発表。1989年第10回入野賞第1位、2004年芥川作曲賞、2007年プリ・アルスエレクトロニカでグランプリ(ゴールデン・ニカ)、2010年芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。近著「三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇」出版、2012年9月にリリースされた新譜CD「村松ギヤ(春の祭典)」などをはじめ、活動は多岐にわたる。旧「方法主義」同人。「フォルマント兄弟」の兄。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授。


c0050810_1151143.jpg《3つの小品》(1976)
 高校時代、ロックバンドで様々な曲をコピーしている間に自分達のオリジナル作品を作りたいという欲求が高まり、また、音楽以外に人生でやりたいことは何もないと思い詰めてぼくは音楽理論やピアノなどを個人的に習うようになった。その頃、あるピアノ教室の発表会が開かれることになり、そこで自作品を書いて発表することを勧められて作ったのがこの曲である。ぼくにとっては一応記譜された、そして(課題ではなく)自由に作曲した人生初めての作品で、当時は音楽の知識もそれほどなかったので「どうやって作曲したらいいんだ?」などと考え込むこともあまりなく、耳で探りながら音を楽譜に移していった。ただし、自分で演奏しなくてはならなかったため、ぼく自身の演奏能力の限界が作品にも大きく影響している・・だけでなく、それでも発表会では演奏を間違えてしまい、本来の形でこの曲が演奏されるのは39年を経た今回が初めてとなる。
 全音音階をベースに、ディープパープルからコピーしたキメの不協和音(おそらく“Strange kind of Woman”)を取り入れ、さらに今回の新作同様、ポップスではお馴染みでも、クラシック音楽ではまず考えられない手動フェードアウトで終わる第一楽章。第二楽章は、どうしていいかわからなくて最後まで楽譜ができず、いくつかの和音やモチーフを手がかりに即興で弾いたが、当然その結果に自分でも満足できず、また楽譜も残っていない。ピアノ演奏に「手拍子」という特殊奏法を取り入れ、最後はピアニスト自身が楽譜に書かれているとおりに拍手する第三楽章・・という構成で「三つ子の魂百まで」という言葉が脳裏をよぎる。(三輪眞弘)


c0050810_11512883.jpg《レット・イット・ビー アジア旅行》(1990)
 高橋アキにより委嘱録音初演。CD「ハイパー・ビートルズ」シリーズのために世界中の名だたる作曲家に並んで依頼を受け、緊張しながら作曲(編曲)した作品である。個人的妄想では「コンサート・ツアーでアジア諸国をまわっていたビートルズのジョンとポールが次第に5音音階音楽の魅力に冒されていく様子」を描いたものである。当時ぼくは柴田南雄氏の「音楽の骸骨のはなし」という著作に魅了され、その理論に基づく独自の5音音階アルゴリズム開発に腐心しており、この曲もまた氏の提唱する「骸骨図」に基づく「転調」によって、オリジナルの白鍵のみのハ長調から始まり黒鍵のみの5音音階で終わる。また、そのアルゴリズムの集大成として、1992年に高橋アキさんに委嘱初演された、2台のピアノとひとりのピアニストのための《東の唄》は生まれた。(三輪眞弘)


《虹機械第2番「七つの照射」》(2008)
 2009年10月17日、東京ワンダーサイト本郷にて田中翼により初演。三輪は2008年より「新調性主義」というコンセプトを提唱しており、今回の曲はそのコンセプトの下での第2作目である。ピアノソロのための単旋律という形式をとっており、変ホ短調の「調性」をもつ。演奏者による「さっ」という7回の掛け声で隔てられた8つの部分からなる。「新調性主義」とは無調音楽でも既存の三和音に基づく調性音楽でもない、独自の調性音楽の理論体系を構築し、音楽生成アルゴリズムとして表現しようという試みである。この曲のアルゴリズムは、五度サークル上の音の移動の仕方を規定するものであり、中心音への引力(調性音楽の力学)が表現されている。16分音符12個が一小節をなし、この一小節のそれぞれの音の高さが決まると、次の一小節が規則から一意的に導かれる(ただし同音が続いた場合発音されない)。これを次々と反復して音楽が生成される。つまり、最初の一小節(初期値)が決まれば自動的に全体が決まる。この反復は、数学的には離散力学系となっている。一般に力学系はどのような初期値から始めても、アトラクタと呼ばれる集合へと引き込まれていくのだが、三輪はこの数学的な運動を、調性音楽の「中心音への引力」として解釈することで「調性」というものを形式化しているのである。7回の「さっ」という掛け声は、アトラクタに引き込まれて音楽がもはや進行しなくなった瞬間に、16分音符が一つ人為的にずらされ、力学系の軌道がそれるという合図である。ここから音楽の新たな進行が始まる。あたかも宇宙線の照射(radiation)によって遺伝子の突然変異が起こり、生物種の停滞が打ち破られるかのように。(田中翼)

c0050810_11514655.jpg《虹機械 公案-001(コウアンマイナスゼロゼロイチ)》(2015、委嘱新作初演)
 「虹機械」というタイトルの作品は2008年に、甲斐史子(vn)+大須賀かおり(pf)のユニット、ROSCOに演奏を依頼した3部からなる「ふたりの奏者のための単旋律」、かつての四谷アート・ステュディウムでぼくが担当していた授業で知り合った田中翼さんの要望に応えて書かれた第二番「7つの照射」がある。今回の「公案-001」もまた両作品と同様の意気込み(概説を参照)とアルゴリズムで書かれた3作目であるが、それはこの題名で作品をシリーズ化することを意図したわけではなく、前2作のどちらにも作品としていろいろな意味でまだ何か「もの足りない」ところを感じていたからだ。つまり今回、大井浩明さんに演奏してもらえるという前提のもとでぼくは「虹機械」という2008年のアイデアを十全に「成就」させるべく再度挑戦したのである。
 また今回は前作の第二番「7つの照射」も再演されるので、新作がそれととてもよく似ていることがわかるだろう。どちらもアルゴリズムによって自動生成される単旋律が(おそらく)調性の明瞭度などに影響されながら刻々と音楽的「気分」を変えていく。しかしその「気分」の起源が、変化を続ける音型パターンに鋭敏に、そして「機械のように」反応するしかないぼくたち人間の方にあることは言うまでもない。(三輪眞弘)
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「虹機械」概説 ─── 三輪眞弘

c0050810_11522971.gif 今回、ぼくは伝統的な西洋音楽の楽譜や演奏会形式などを全面的に踏襲することにした。しかし、見かけは100年前とそっくりでも本質的な違いがある。
それは何より、100年前からまったく変わらなかった近・現代人の音楽に対する「信仰」の問題である。音楽とは「作家個人の内面(精神世界)を描いたものである」という信仰、要するに音楽は作家の思想を媒介するメディアなのだという暗黙の了解である。この信仰はまた「現代音楽」のみならず「時間的商品」であるポップスなど他の音楽ジャンルにおいてもまったく変わるところがない。しかし、グレゴリア聖歌どころか、例えばJ.S.バッハでさえ、心の内面を吐露すべく作曲したわけではないことをぼくらは知っているのだ。そうであるにも拘わらず「現代音楽」が調性や楽音をはじめとするあらゆる音楽の前提を放棄してもまだ、この信仰だけは疑うことがなかったし、まさにそうだったからこそ西洋音楽は「思弁の音響化」という風変わりなジャンルに変質していかざるを得なかったのだろうとぼくは考えている。

c0050810_115315100.gif ならば、作家の精神性なるものを一切排除したところで作曲/音楽はどうしたら可能なのか?・・ぼくの答えは、コンピュータによってアルゴリズムを定義し、作家自身が直接個々の「音符」を選ばない「作曲」法だった。別の言い方をすれば、予測のつかない数列を生成するアルゴリズムを考え、その結果を作家自身が事後的に受け入れる、ということだ。(もちろん、実際は受け入れがたい結果が生まれることがほとんどなのだが)そこで重要なのは、ある意図した結果を得るためにアルゴリズムが決められたのではなく、アルゴリズム自体が自己目的化している点だろう。なぜなら、もしある目的のために作家がアルゴリズムを決めたとすれば、それは再び作者の意図の下に置かれ、「道具化」してしまうからである。逆に「それそのものとして」アルゴリズムを扱うということは、論理学的宇宙に向き合うということなである。アルゴリズムにはひとつの偶然や気まぐれもあり得ず、それが論理的である限り、なんらかの数学的な構造があり、生成される数列はしかるべき「ふるまい」を生み出し、「アルゴリズムとその初期値を定義した人」としての「作者」は存在する一方で、奏でられるすべての音の根拠は、作家の個性とは無縁な、この論理学的宇宙に属するものになるだろう。

c0050810_1153418.gif しかし、アルゴリズムという「自動機械」によって選ばれた音の集まりは一体、音楽と呼べるのか?・・そう問うよりも、ぼくは逆に「音楽とは規則に従って選ばれた音を人間の身体を使って発音することである」と新たに定義しようと考える。それはアルゴリズム、即ち論理機械であるコンピュータに書き込まれたプログラム・コードの、人力によるリアライゼーションであり、演奏家は音符というフォーマットに変換されたデジタルな演算結果を読み取り、アナログ次元(現実空間)で発音する「D/A変換器」ということになる・・・「それではまるで人間が機械の奴隷ではないか?」、そう感じる人がいるかもしれないが、まず何より人間の演奏家が従っているのはコンピュータという物体ではなく、コンピュータを使って「発見」された、人間の理性でしか感知できない論理学的宇宙での出来事なのである。また、もともと楽譜というもの自体が「命令」としての暴力的な本質を持っているわけだが、その権威は、J.S.バッハの時代までは神が、そしてロマン派からは(神になった?)人間/作曲家が保証してきたのだろう。しかし人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってそれはいまのところこの論理学的宇宙以外にはない。何より人間が、自由ではなく、人間の都合ではどうにもならない「途方もないもの」に徹底的に従うところに、音楽/芸術は成立してきたのだ。ただし、徹底的に従うのは演奏家だけではない。作曲家もまた、無限にあり得るアルゴリズムから手探りでそのいくつかを選び取り、組合せ、プログラムし、(その結果は人間には予測不可能だから)検証する作業をいつ終わるという保証もなく繰り返し続けることになる。もちろん作曲家はアルゴリズムをいくらでも書き直すことができるが、その(計算)結果に対しては徹頭徹尾受け身でしかなく、作曲家は奇跡のようなアルゴリズムや初期値との出会いを求め続ける修行者のような存在となる。それはまるで、アボリジニの通過儀礼のように少年が自分の歌を探しにひとりで旅に出るのと似ている・・というのはあまりに「ロマンチック」だろうか?

c0050810_11542024.gif 12平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン主義の亡霊」が消え去るまでには100年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じている。 (「洪水」2009年冬号、特集「三輪眞弘の方法」”「虹機械」作曲ノート”より抜粋改訂)
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by ooi_piano | 2015-01-11 11:43 | POC2014 | Comments(0)


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Hiroaki OOI - "Bach, ripieno di Pianoforte"
リサイタル・シリーズ 《ピアノで弾くバッハ》第8回(最終回)公演
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c0050810_23112799.jpg2015年1月17日(土)15時開演 (14時半開場)
タカギクラヴィア松濤サロン (東京都渋谷区松濤1-26-4 Tel. 03-3770-9611)
最寄駅/JR・東横線・地下鉄「渋谷駅」より徒歩10分、京王井の頭線「神泉駅」より徒歩3分
全席自由 前売3500円/当日4000円
使用楽器:NYスタインウェイ



c0050810_95641.jpg●J.S.バッハ:《音楽の捧げ物》 BWV1079 (1747) より
《王の主題によるカノン的労作》  ~ 無窮カノン - 二声のカノン〈求めよ、さらば与えられん〉 - 四声のためのカノン - 二声の蟹行カノン - 二声の反行カノン - 二声の拡大・反行カノン〈音価が増す如く王の幸いもいや増さんことを〉 - 二声の螺旋カノン - 二声の同度カノン - 上五度のカノン的フーガ

●J.S.バッハ:《フーガの技法》 BWV1080 (1742/50) より
  コントラープンクトゥス・プリームス(対位第一) - コントラープンクトゥス・セクンドゥス(対位第二) - コントラープンクトゥス・テルティウス(対位第三) - コントラープンクトゥス・クァールトゥス(対位第四) - コントラープンクトゥス・クィーントゥス(対位第五) - コントラープンクトゥス・セクゥストゥス ア・クヮットロ イン・スティーロ・フランチェーゼ(対位第六、四声、フランス風) - コントラープンクトゥス・セプティムス ア・クヮットロ ペル・アウグメンターティオーネム・エト・ディーミヌーティオーネム(対位第七、四声、拡大と縮小による) - コントラープンクトゥス・オクターウス ア・トレ(対位第八、三声) - コントラープンクトゥス・ノーヌス ア・クヮットロ アッラ・デゥオデキマ(対位第九、四声、12度による) - コントラープンクトゥス・デキムス ア・クヮットロ アッラ・デキマ(対位第十、四声、10度による) - コントラープンクトゥス・ウンデキムス ア・クヮットロ(対位第十一、四声)

c0050810_2324249.jpg○杉山洋一:《間奏曲第IX番「スーペル・パッサカリア」》
 ~ウェーベルン:管弦楽のための《パッサカリア(主題と23の変奏) ニ短調》作品1に基づく/大井浩明に献呈 (1908/2013、委嘱作品・東京初演)


  (休憩15分)

●J.S.バッハ:《音楽の捧げ物》 BWV1079 (1747) より
《三声のリチェルカーレ》+《六声のリチェルカーレ》

●J.S.バッハ:《フーガの技法》 BWV 1080  (1742/50) より
  コントラープンクトゥス・インウェルスス・ドゥオデキムス ア・クヮットロ フォールマ・インウェルサ(転回対位第十二、四声、倒立形)~フォールマ・レクタ(同、正立形) - コントラープンクトゥス・インウェルスス ア・トレ フォールマ・レクタ(転回対位、三声、正立形)~フォールマ・インウェルサ(同、倒立形) - カノーネ・ペル・アウグメンターティオーネム・イン・コントラーリオー・モートゥー(拡大反行のカノン) - カノーネ・アッラ・オッターヴァ(8度のカノン) - カノーネ・アッラ・デキマ イン・コントラプント・アッラ・テルツァ(10度のカノン、3度の対位による) - カノーネ・アッラ・デゥオデキマ イン・コントラプント・アッラ・クィンタ(12度のカノン、5度の対位による) - フガ・ア・トレ・ソッジェッティ(三主題のフーガ)

お問い合わせ/(株)オカムラ&カンパニー tel 03-6804-7490(10:00~18:00 土日祝休)
info@okamura-co.com http://okamura-co.com/ja/events/piano-axis/
※タカギクラヴィアに直接チケットを申し込むと、隣接のカフェ
http://www.cafetakagiklavier.com/cafe_f.html)のドリンク券がつきます。




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c0050810_9582028.jpg  「ピアノでバッハをどう弾くか」については、前回(第7回)のプログラムノーツ(http://ooipiano.exblog.jp/22307449/)でほぼ言い尽くしました。モダン側と古楽側は、結局は別々に棲み分けるのが大人の現実でしょう。モダン側の歩み寄りに期待しても、どうやら百年河清を俟つが如し。以下、本シリーズを終えるにあたり、下世話に噛み砕いたQ&Aなど。

■リサイタル・シリーズ 《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》
 第一回 2012年4月21日(土)平均律クラヴィア曲集第1巻(全24曲)
 第二回 2012年7月28日(土)平均律クラヴィア曲集第2巻(全24曲)
 番外編 2012年11月3日(土)シュトックハウゼン:自然の持続時間(全24曲、東京初演)
 第三回 2013年4月20日(土)パルティータ全6曲
 第四回 2013年7月27日(土)ゴルトベルク変奏曲、フランス序曲、イタリア協奏曲
 第五回 2014年1月25日(土)イギリス組曲全6曲
 第六回 2014月4月19日(土)フランス組曲全6曲
 第七回 2014月7月19日(土)インヴェンションとシンフォニア(全曲)、最愛の兄へのカプリッチョ、半音階的幻想曲とフーガ、4つのデュエット他
 第八回 2015年1月17日(土)フーガの技法(全曲)、音楽の捧げ物



c0050810_9594666.jpgQ. チェンバロって聴いてて面白くない。表現力がある楽器とは思えない。淘汰されて当然。

A. まずは、チェンバロのフタの中に頭を突っ込んで、超至近距離で聞いてみましょう。勿論、そこそこ上手い奏者にお願いしなければなりません。
  演奏者数の裾野が比較にならないほど広いぶん、「面白げな演奏する人がいる」ことでは、ピアノがチェンバロに圧勝するのは当然です。もしかして、チェンバロ界から超絶イケメンの天才的スターが2~3人輩出したら、一気に膾炙が進むかもしれません。
  表現力・・に関しては、なにせ聴き手が21世紀の人なので、水掛け論になります。敢えて公平に言うならば、「チェンバロによる平均律の演奏は、ピアノによる平均律の演奏と同じ程度につまらない」(それぞれ理由が違う)。ピアノによるバッハ演奏を聞く気が起こらない主な理由は、「ピアニストが弾いてるから」です。ピアノが弾ける古楽器奏者の演奏なら、聞く気は多少起こるかもしれません。
  インヴェンションとコラール・パルティータ(BWV 767)をモダンピアノで弾いてみて、前者は平気なのに後者では吐きそうな嫌悪感を覚えました。これは、「ピアノによるインヴェンションの演奏」をたまたま聞き慣れていたためであり、一方コラール・パルティータはオルガンでしか弾いた(聴いた)ことが無かったからだと、あとで気付きました。慣れとは恐ろしい。
  「危うく淘汰されかかった」名曲は枚挙にいとまが無いので(例:マタイ受難曲)、淘汰されたから駄目、という話ではありませんね。
  

c0050810_1002870.jpgQ. モダン楽器より古楽器のほうが良いに決まってる、と上から目線で言われてムカつく。古楽奏者なんて負け組のくせに。どうせ就職用か論文用に齧ってるだけでしょ。

A. 私が尊敬するモダン楽器奏者(や指揮者)でも、古楽器に手を出さない(あるいは否定的な)方は一定数おられますので、これは音楽的才能の多寡とは関係ありません。例えばブーレーズ。
  古楽奏者側にちらほら訊いてみると、自分たちの「センス」をモダン側に誇示する気も無いし批判しようとも思わない、ただ、揚げ足取りをされたり政治的圧力をじんわりかけてくるのが面倒臭い、という程度の無関心のようです。
  ピアノに対するチェンバロの音色の絶対的優位を私が確信したのは、チェンバロに本腰を入れてから5年後でした。これは、クセナキスの真っ黒な譜面を平気で練習し続けられるようになるのに要した期間とほぼ同じです。いきなりそれらが出来る方々もいらっしゃいますが、私には無理でした。あたらしもん好きの直感が肉体的生理と結びつくのに、それくらいの時間がかかる場合もある、という事です。


c0050810_1013849.jpgQ. 今までモダン楽器で慣れ親しんできた奏法も全否定されてムカつく。

A. モダン奏法と古楽奏法の音楽作りの手立ては80%くらいは重なっています。モダン奏法でも「第1拍が最も重要」という原則は共有されている筈ですが、これを徹底するのが古楽奏法の第一歩です。モダン奏法の中でも、「ロシアの人たちはクレッシェンドをデクレッシェンドに、デクレッシェンドをクレッシェンドにしたがるからねえw」、と云った、下衆な演出法への揶揄は存在します。
 全否定・・というのは、クラシック音楽の故郷であるバッハとモーツァルトを古楽側が占領しかけているからでしょう。曰く、「あたくしはあたくしのバッハを弾きますから!」。そうは言っても、古楽器側だって「どうしてもグールドのテンポで弾きたい」とゴルトベルクで自爆する事もあるわけですから、お互い様ですね。



c0050810_1022876.jpgQ. 昔の演奏が本当はどうだったかなんて誰にも分からないし、しょせん想像上のものに過ぎないのに偉そうに言うな。歴史修正主義だ。

A. もしロラン・バルトがあと3年ほど長生きして、「グレン・グールドは死んだ、古楽器万歳!」なる短文でも遺していれば、このような「耳を疑う」言説は前世紀のうちに消尽していた事でしょう。近代批判をしたいんだったら、まずモダンピアノを弾くのをやめましょう。
  300年前どころか、つい50年前のことさえ「修正」は余儀なく起こるものです。シュトックハウゼン曰く、「私の作業部屋には古いグロトリアン・シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)のグランドピアノがありました。その楽器のサウンドには莫大な共鳴音が、特に高音域にありました。たまに私は頭を弦の上にとても近づけて、そしてグランドピアノの内側で聴いたものを幾つかの作品に作曲しました。後に、そのような作品が普通のスタインウェイ(Steinway)のグランドでコンサート・ホールで演奏されたとき、私が作曲しながら聴いていたものはもはや少しも聴こえませんでした。私の聴いた信じられないほどに美しい倍音は、古いシュタインヴェークよりも弦がきっちりと締められたコンサート・スタインウェイからはもう出てこないのです。現在のグランドピアノは大ホールのために造られているため、アタックが硬くて、高音域での共鳴音が充分に長くはありません」。 (http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/linerNotes/CD42/Klaviermusik1992.html


c0050810_1032872.jpgQ. チェンバロ・オルガン・クラヴィコードを弾きたいが、どうやって始めれば良いか分からない。買うと高そうだし置く場所も無いし。チェンバロやフォルテピアノっつったって、色んな種類があるんでしょ。今更やってられない。

A. 所沢市民文化センターミューズの市民向けオルガン教室(http://www.muse-tokorozawa.or.jp/news/boshu/museschoo/)のような場がもっと広がれば良いなと思います。
  お近くのチェンバロ工房を検索して、レンタル楽器を問い合わせてみましょう。都内の工房でも、全国に出張することもあるようです。ヨーロッパの音大ならタダで弾き放題・習い放題ですが、日本だとある程度の出費と時間を覚悟しなければなりません。あと10年ほど生きる予定があり、バッハとモーツァルトが好きならば、まずはクラヴィコードをお勧めします。調律はスマホのアプリで十分です。
  チェンバロの響きに少し親しんだあと、最終的にピアノに戻る、ということなら、YAMAHAクラヴィノーヴァのチェンバロ(やオルガン)の音色でも、何がしかを学べると思います。電子チェンバロでさえ、タッチで明瞭に「音色」は変えられます。電子楽器だと、調律法も簡単に色々試せるのは捨て難い長所です。



Q. チェンバロを始めるなら、ピアノには2年間触るなと言われた。やってらんない。

A. バッハの時代でも、非常に重い鍵盤のパイプオルガンの練習を、非常に軽い鍵盤のクラヴィコードで行っていたわけですから、必ずしもピアノを中断する必要はありません。


c0050810_10452.jpgQ. 何かお勧めの入門書とかありますか。

A. 18世紀音楽の奏法に関する三大教科書は、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ《正しいクラヴィーア奏法》、レオポルト・モーツァルト《バイオリン奏法》、ならびにヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ《フルート奏法試論》(それぞれ邦訳あり)ですが、これらを熟読しても、そうすんなりと実践へは移せません。ギーゼキングやコルトーの奏法本を眺めただけでは、ピアノがすらすら弾けるようにはならないのと同様です。こういったテクストは数百年前から存在し不易であるにもかかわらず、古楽演奏の現場ではおおよそ五年毎のヴァージョンアップ(試行錯誤)が重ねられています。
  現代日本の特にモダン楽器奏者にとって、様々な文献の記述を項目別に整理した橋本英二「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」(音楽之友社)(http://www.amazon.co.jp/dp/4276140307)は、入門書として最適でしょう。これを少しずつ読み進めながら、チェンバロやオルガンで目の前で実演してもらうのを盗むのが、一番手っ取り早いアプローチ法だと思います。幾つかのスタイル(試行例)に慣れたら、あとは自分で自由に開拓してゆけば宜しい。
  古楽といえば、作品の成立経緯や使用楽器・エディション、調律法といったトピックに興味が集まりがちですけれども、バロック以降のすべての音楽に刺身包丁として利用出来るのが、いわゆる音楽修辞学(Rhetorik)です。トラヴェルソ奏者・有田正広氏のDVD「17~18世紀のついて音楽演奏法について」(全10巻、(株)村松楽器販売)(http://www.muramatsuflute.com/news/201008arita.html)は語り口も洒脱で、ピアニストが見ても全く飽きません。


c0050810_1045192.jpgQ. 古楽器なんて時間もカネもかかりすぎるし、商売に使えるようになるとも思えないし、今さら古楽の連中などに頭を下げるのは真っ平だ。もっとお手軽に、すぐピアノ演奏に役立つ、ソレっぽいアドバイスが欲しい。アーティキュレーションってどうやって決めてんの?

A. 声に出して歌ってみて確認、というのが原則です。跳躍があるなら自然と少し切れるし、順次進行ならつながる。我々が口でしゃべっているリズムは等速のようにみえて不規則な緩急があるし、声の大きさも微妙に変化しています。完全にべたべたのレガートや、全部ばらばらのスタッカートでしゃべる人がいないように、その中間の「ノン・レガート」には無限の階梯がある。それを鍵盤上で真似てみる事。スタッカート(点)とレガート(棒)のみの順列はモールス信号です。上記の音楽修辞学から導かれる、当時のお約束パターンも活用出来ます。



c0050810_1053775.jpgQ. ペダルは踏んでいいの?

A. 本シリーズ全8回でバッハ主要作品は一通りチェックしましたが、ペダルが無いと弾けない箇所はありませんでした。
  ペダルについては、幾つかの複合的な要因が絡み合っています。まず、上記アーティキュレーション法に慣れ親しむと、「レガートの指使い」は不必要であり、よってフレーズ毎に連続親指あるいは連続小指等などを頻用しても問題ない事に気付きます。これが第一段階(音楽上の問題)。指使いはシンプルになり、よって弾き易くなりますが、モダンピアノではついつい重い鍵盤を上から押さえ込んでしまい、ポジション移動時などに「鍵盤から指を引っぺがす」ために、不用意なアクセントが付きがちです。これが第二段階(技術上の問題)。打鍵と離鍵の相即相容については、チェンバロやクラヴィコードのような軽い鍵盤である程度慣れてからでないと、やりにくいかもしれません。
  べったりペダルを使ってバッハを弾く若者に、「流石に21世紀でそこまでべったりな人っているかなあ?」と恐る恐る訊いたところ、ポリーニ、と即答されて絶句しました。ポリーニ様は果たして、イタリア語では余程ざあます調のモルト・レガートでしゃべるのだろうか。あれほど素晴らしいピアニシモのコントロールが出来る天才が、ザルツブルクでチェンバロを3台も破壊したのはなにゆえか。


Q. トリルは上から?

A. 上からもさることながら、寸詰まりの痙攣になるくらいなら、装飾は全部カットしても構いません。「電気的に速く弾くな、色々変えろ」、とはモダンピアノの教本でも見かけましたよ。


c0050810_106287.gifQ. フーガとかのテーマはどれくらい大きく弾くの?

A. チェンバロと違ってクラヴィコードでは音量が変えられる、と言っても、モダンピアノに比べればその幅は微々たるものです。要するに音数と音量が比例しているわけです(cf.BWV867)。また、チェンバロ・クラヴィコードともに、高音域にくらべて低音域は豊かな音色と音量を誇ります。
  テーマは「そこにある」事が頭で分かっていれば、ことさらに音量差をつけなくても聴き手には伝わると思います。モダンピアノ奏者ながら、私のイタリア人師匠は「全ての声部が聞こえる事」が好きでした。低音を薄く弾かないと上手いと思ってもらえない、という呪縛は、彼と無縁でした。曰く、「マウリツィオのバッハはソプラノ声部しか聞こえてませんでしたよ」。
  減衰の早いチェンバロやクラヴィコードでは、全体の風景がすっきりと見渡しやすいのに対し、中音域で込み入った複音楽(平均律など)はピアノには不向きでしょう。先だって久々に聴いたマラ5自作自演のピアノロールで、「バッハ好き」を標榜するカペルマイスター氏が、少なくともピアノ演奏中は3声さえ聞き分けられていないのには愕然としました。
  強弱表現、という点では、バッハの譜面をやたらと「管弦楽化」したがる(=退屈さを恐れている)のも、蛇を画きて足を添うが如し。例えばゴルトベルク変奏曲で、「1段鍵盤で」「2段鍵盤で」「1段あるいは2段鍵盤で」という注釈と、各々の曲想はどう連関しているか。


c0050810_107672.gifQ. バッハを弾く際に、お勧めの録音を教えて下さい。

A. ありません。
  「アルゲリッチのシューマン《幻想曲》のテンポルバートの良さを理解して真似してる俺って凄くね?」というアマチュア大学生に、プロなら鼻白むでしょうが、世のバッハ演奏はそのたぐいのグールド劣化コピー版あるいはレオンハルト物真似版が多過ぎる。
  21世紀の「意識の高い」ピアニストが大昔のレオンハルトの録音を真似する奇態はさておき、若手チェンバリストまでが下駄の雪に甘んじているのは如何なものか。パルティータ4番のアルマンドやらコントラプンクトゥス第10番をやたら遅く弾く奴がいるのはレオンハルトの録音由来、とは、レオンハルト弟子から教えてもらいました。レオンハルト自身は日々進歩を続けたのに、師事した弟子、あるいは録音をお手本にする若手は、ある時点で凝固したままであると。
  ついでながら、先駆者としての氏には満腔の尊崇を捧げるものですが、個人的にはチェンバロでもオルガンでも氏の演奏を面白いと思ったことは一度もありません。恐惶謹言。


Q. 最後に何か一言・・

A. 短調で音符の少ないパッセージを、おセンチにめろめろ葬式みたいに弾いてる御前! ああ感受性豊かね、って褒めて欲しいか~?(遠藤ミチロウ)


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by ooi_piano | 2015-01-08 21:07 | クラヴィコード様への五体投地 | Comments(0)