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Blog | Hiroaki Ooi


c0050810_3211497.jpgピアノによるマーラー交響曲集
Mahlers Sinfonien am Klavier vorgetragen


【第三回公演】
2015年6月23日(火)18時半開演(18時開場)
 法貴彩子+大井浩明/ピアノ四手連弾

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp


■G.マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》(1903/04) [全4楽章]  約80分
 A.v.ツェムリンスキー(1871-1942)による四手連弾版(1906) (東京初演)
第1楽章 Allegro energico, ma non troppo. Heftig, aber markig
第2楽章 Scherzo: Wuchtig
第3楽章 Andante moderato
第4楽章 Finale: Sostenuto - Allegro moderato - Allegro energico

(休憩10分)

■G.マーラー:交響曲第7番ホ短調《夜の歌》(1904/06) [全5楽章]  約80分
 A.カゼッラ(1883-1947)による四手連弾版(1910) (東京初演)
第1楽章 Langsam (Adagio) – Allegro risoluto, ma non troppo
第2楽章 Nachtmusik I. Allegro moderato
第3楽章 Scherzo. Schattenhaft
第4楽章 Nachtmusik II. Andante amoroso
第5楽章 Rondo-Finale. Allegro ordinario



c0050810_3222667.jpg  作曲家としても、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督としても、また私生活においても充実した幸福な時期にグスタフ・マーラー(1860-1911)は『交響曲第6番イ短調』と『交響曲第7番』を作曲した。『第6番』は1903年と1904年との夏休暇中に、『第7番』は『第6番』の第四楽章に続いて1904年の夏に第二楽章と第四楽章を書き、残りを1905年の夏に作曲した。マーラーは普段は歌劇場の仕事や指揮者としての活動に忙しく、創作活動はもっぱら夏休暇中にマイアーニヒにある作曲小屋で行っていた。足かけ3年のうち実際作曲にあてた時間合わせて半年余りで、これらの大作2曲を書き上げたことになる。

  『交響曲第6番イ短調』はスコアには書かれていないが、「悲劇的 (Tragische)」という副題付で呼ばれることがある。1907年のウィーン初演時にはプログラムに記載され、作曲家本人もそう呼んでいたとワルターが回想しているが、マーラーが付けたものかどうかは不明である。マーラーの妻アルマは第四楽章における3回のハンマーの打撃が、作曲家を襲うその後の不幸な人生(娘の死、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督の辞任そして自身の心臓病の発覚)を暗示していたと述懐している。ハンマーの回数は作曲中から増減変遷を経ており、最終的には2回となったため、アルマの話は後付けの解釈としてそのまますべて受け入れることはできないが、この曲には「悲劇的」もしくはそれを超えるカタストロフィーを感じさせるものがあることは間違いない。マーラーはこの交響曲について「これまでの5曲の交響曲を受け止め理解した世代の人々だけが解くことのできる可能性のある謎であり続けるだろう」と手紙に残している。精緻なオーケストレーションで大編成の管弦楽を用い、伝統的な四楽章構成やイ短調で始まりイ短調で終わるという調性の一貫性がありながら、一つひとつの楽章は大規模に拡大されており、その構成や純器楽様式の扱いと内容とにおいて、これまでの総決算的な野心作品といえるだろう。

c0050810_3232756.jpg  マーラー『交響曲第6番イ短調』をピアノ連弾版に編曲したアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1872-1942)はウィーン生まれの作曲家・指揮者である。『抒情交響曲』や交響詩『人魚姫』、オペラ『フィレンツェの悲劇』『小人』などが代表作として挙げられる。マーラーの妻となるアルマ・シントラーやのちに義理の弟になるアルノルト・シェーンベルクらの音楽教師でもあった。アルマとは、彼女が画家グスタフ・クリムトと別れてからは、教師以上の非常に親しい仲に発展した。当初は互いの気持ちは同じだったようだが、アルマは親を含め周囲から交際を反対され、結局1902年にマーラーと結婚する。ツェムリンスキーはマーラーの死後1920年ごろに『幸福な王子』や『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』で有名なオスカー・ワイルドの童話集『ザクロの家』より『スペイン王女の誕生日』を題材とするオペラ『小人』を作曲している。そのストーリーは自分の醜い姿を知らずに、王女にひたすら媚び、王女に愛されているとさえ信じる小人が、あるとき鏡に映る自分の姿を見て、真実を知り絶望死するというものである。

  1904年にツェムリンスキーはシェーンベルクとともに「創造的音楽芸術家協会」を設立し、その名誉会長にマーラーの就任を依頼した。ツェムリンスキーと面識があり、すでにシェーンベルクの『浄夜』を聴いて高く才能を評価していたマーラーはこの要請を快く受けた。マーラーは自分より若い世代の音楽家たちに共感を寄せており、さまざまな面で彼らを支援していくことになる。ツェムリンスキーとシェーンベルクはしばしばマーラーの家を訪ね、熱く音楽について語り合った。ときに意見の行き違いでマーラーを激昂させることもあったが、マーラーは彼らの訪問を楽しみにしていたようだ。

c0050810_3242675.png  『第6番』は中間楽章の順番、つまり第二楽章にアンダンテ、第三楽章にスケルツォとするか、その逆にするかという問題を孕む。1903年の夏に第一楽章から第三楽章を、翌年の夏に第四楽章を作曲している。1906年初演に先立ってスコアが出版され、そこでは第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテの順番になっているが、初演ではアンダンテ-スケルツォの順で演奏された。作曲中にも迷った跡が見受けられるが、初演後の改訂版スコアでは初演時の並びが採用され、以後その順序でほぼ定着していた。1960年代に国際マーラー協会によるクリティカル・エディションの出版が始まり、その中で『第6番』に対しては、アルマの「証言」を根拠に第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテの順が作曲家の考えとして採用された。2003年に同協会は旧エディションの見解を翻し、マーラーの実際の演奏順であるアンダンテ―スケルツォこそが最終的な判断とした。最新版ではアンダンテ―スケルツォで出版されている。

  ツェムリンスキーがピアノ連弾版を編曲したのは初版が出てすぐあとである。実際には『交響曲第6番』のオーケストラ譜が出版されたのは1906年3月か4月に出版され、オーケストラ初演は5月27日である。ツェムリンスキーが初版をもとに編曲し、シェーンベルクとともにマーラー宅を訪れて、マーラーとの連弾で演奏したのが4月17日であった。当然、このピアノ連弾編曲版の中間楽章の順番は初版と同じ第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテである。オーケストラとのリハーサルを通して、この交響曲の理想的な形をギリギリまで模索していたマーラーにとって、ツェムリンスキーの連弾編曲は、喜びとともに、よい判断材料となったであろう。楽章の順序を逡巡したのはなにもマーラーだけにかぎらない。ベートーヴェンも大作『ハンマークラヴィアソナタ』においてロンドン初版では中間楽章の順序が入れ替わっており、第二楽章に長大なアンダンテが位置していた。変わったところではブルックナーの交響曲第8番の初版を準備した弟子ヨーゼフ・シャルクがピアノ連弾版を編曲した時には中間楽章の順番をアンダンテ―スケルツォと、オーケストラ版とは逆の配置にしている。なお、本日はツェムリンスキーのスコア通り、スケルツォ―アンダンテの順で演奏される。

c0050810_3252596.jpg  『交響曲第7番』はアウトラインを決めてから作曲するマーラーには珍しく、まず「夜の音楽Nachtmusik」と題された第二楽章と第四楽章とができあがった。その残りの楽章を早く作曲したいと休暇を待ち望んでいたが、いざ作曲小屋のあるマイアーニヒについてみると、筆が進まぬまま数日が過ぎた。気分転換に小旅行に行き、それでも曲想が思い浮かばず、あきらめて帰ろうと、湖でボートを漕ぎ始めようとしたとき、第一楽章の導入部の主題(リズムと形式)が閃いたという。そのあと4週間で第一、三、五楽章を矢継ぎ早に完成させた。インスピレーションを得て、その昂揚感のまま一気に作品を完成させるのは、次の大作『交響曲第8番変ホ長調』も同様であり、マーラーの創作の神秘に触れるエピソードである。第三楽章スケルツォを中心とする対称的な5楽章構成で、内容的にも調性や声部の扱いに心を砕いており、前作『第6番』で印象的に使われたカウベルをはじめとする多種の打楽器やそれに加えてギターやマンドリン、テナーホルンが使用され、内容と音響ともにさらなる充実が図られている。ペータース社主宛てにこの作品について「明るく、ユーモラスな内容」という旨の手紙を書いているが、実際は明暗複雑な曲想が絡み合っており、突如としてハッピーエンドとして現れるフィナーレを思想家のテオドール・W・アドルノが確信犯的な「失敗作」と論じたり、指揮者のサイモン・ラトルが「もっとも悲劇的なハ長調の音楽」と評したりと、いまなお議論が尽きない。

  アルフレード・カゼッラ(1883-1947)はイタリア・トリノ出身の作曲家・ピアニストで、20世紀前半のイタリア楽壇を牽引した。チェリストを父に、ピアニストを母にもち、祖父がパガニーニと友人であったという音楽一族に生まれた彼は、1896年にパリ音楽院に入学、ピアノをルイ・ディエメ、作曲をガブリエル・フォーレに学んだ。パリ滞在中にはラヴェルやドビュッシー、ストラヴィンスキーやデ・ファリャらと知遇を得た。第一次世界大戦中にイタリアに帰国し、1917年にレスピーギやピツェッティらとともに「国民音楽協会」を設立、ヨーロッパ各地の最新の音楽情報の紹介とイタリア民族的・近代的な音楽の刷新に尽力した。作風は後期ロマン派、無調音楽、新古典主義と変遷し、それまでのイタリアの作曲家と違ってオペラではなく器楽曲に作品が集中している。ピアノの腕に長け、パリではコルトーのアシスタントを務めた。後年、ベートーヴェンのピアノソナタ全集をはじめとする多数の校訂を行っている。またアントニオ・ヴィヴァルディの音楽の再興にも尽力し、現在のヴィヴァルディ受容の嚆矢となった。

c0050810_3264374.jpg  マーラーは『第7番』初演翌年の1909年、『交響曲第2番《復活》』の公演のためにパリを訪れた際、カゼッラと出会った。カゼッラがマーラーの『交響曲第7番』のピアノ連弾版を編曲した明確な動機はわかっていない。直接会った頃やその後の手紙でも、作曲家や出版社と相談した形跡は見られず、改訂されたオーケストラ総譜に基づいて独自に編曲を行ったようだ。この連弾用編曲はスコアをできるだけ忠実に再現したものであり、マーラー交響曲の編曲のなかでも内声部の充実性や音響効果が高い。シェーンベルクが主宰する「私的音楽協会」で繰り返し演奏され、当時から多くの専門家や愛好家から賞賛を得ている。

  シェーンベルクは「私的音楽協会」のシリーズで、マーラーの『交響曲第6番イ短調』『交響曲第7番』のピアノ連弾編曲を繰り返し取り上げた。エドゥアルト・シュトイアーマンとアーンスト・バーハリヒとをピアニストに迎え、30回に及ぶ入念なリハーサルに付き合ったと云う。マーラー死去の2年後、プラハで行った講演でシェーンベルクは、マーラーの音楽に対して以前は批判的だったことを、使徒パウロがまだキリスト教の迫害者だったころのサウルという名前を引き合いに出し自省し、いまではマーラー最大の理解者となったと告白している。(小畑祐介)
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by ooi_piano | 2015-06-19 03:17 | コンサート情報 | Comments(0)

連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫@芦屋

芦屋・山村サロン(JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階)
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com
http://www.y-salon.com/


c0050810_13185763.gif【第一回公演】 2015年6月14日(日)18時開演(17時半開場)
ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)全ピアノ作品 (生誕90周年)

●《小組曲》(1947)[全5曲] 約10分
  ~ 前奏曲 - 小エール第1 - ガヴォット - 小エール第2 - ジーグ
●《5つの変奏》(1953/66) 約8分
●《循環(ラウンド)》(1965/67) 約4分
●《水のピアノ》(1965) 約2分
●《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966) 約11分
●《土のピアノ - 田園曲》(1969) 約2分
○剣持秀紀(1967- ):ピアノ独奏のための《ピンチェ》(2015、委嘱新作初演)

 (休憩 15分)

●《空気のピアノ》(1985) 約3分
●《火のピアノ》(1989) 約3分
●《塵》(1990) 約2分
●《葉》(1990) 約1分
●《ソナタ》(2001) 約25分


c0050810_1320277.gif  《小組曲》(全5楽章)は1947年作曲、翌年にコモ(イタリア)で初演された。1975年に祖父エルネスト・ベリオ(1847-1942)、父アドルフォ・ベリオ(1883-1966)の作品とともにウニヴェルザル社から「ベリオ一家のアルバム」として出版。ガヴォットの中間部にミュゼットが差し挟まれるのは、シェーンベルク《組曲Op.25》(1921/23)の模倣というよりは、その元ネタであるバッハ《イギリス組曲第3番BWV808》の有名なト短調ガヴォットを直接的に参照している。
  《五つの変奏》は1952~53年に作曲、同年ミラノで作曲者自身により初演された後、出版にあたって1966年に大幅に改訂された。被献呈者であるイタリア人作曲家、ルイージ・ダッラピッコラ(1904-1975)のオペラ《囚われ人》(1948)で、看守が囚人に「兄弟よ」と呼びかけ、フェリペ2世に対するフランドル蜂起を伝える3音の動機(F-E-Cis)に基づく、5つの変奏と終結部から成る。後年ルイジ・ノーノも、打楽器アンサンブルとライヴエレクトロニクスのための《ルイジ・ダラピッコラとともに》(1979)で、このモチーフを援用した。
c0050810_1321278.gif  《循環(ラウンド)》は、まずモダンチェンバロ作品として1965年に作曲され、同年アントワネッテ・ヴィッシャーによりバーゼル(スイス)で初演。2年後にピアノ版へ改作され、指揮者マルチェロ・パンニに献呈、ジョエル・スピーゲルマンにより1968年ニューヨークで初演。第1部の譜面をひっくり返したものが第2部であり(変位記号はそのまま)、その後第1部がダカーポされる。「際限なく混淆され分岐する声部と音色の妙技」(ベリオ)。
  《続唱(セクエンツァ)第4番》は、ワシントン大学(セントルイス)の委嘱で、ブラジル人ピアニスト、ジョシー・デ・オリヴェイラ(カルヴァリョ)のために1965/66年作曲、同年同地で初演。1993年に改訂。《続唱》は独奏/独唱のための技巧的な作品のシリーズであり、全14曲(編曲を含めると19曲)を数える。その幾つかは協奏曲シリーズ《道(シュマン)》(全11曲)へと発展した。
c0050810_1323058.jpg  《水のピアノ》は1965年作曲、1970年にブレシア(イタリア)でアントニオ・バリスタにより献呈初演。ブラームスのロ短調間奏曲Op.119-1やシューベルトのヘ短調幻想曲D940についてNYの友人達と雑談したことに着想を得たと云う。《土のピアノ》(1969)は米人批評家トーマス・ウィリスに献呈、1970年にベルガモでアントニオ・バリスタにより初演。《空気のピアノ》は、ピアノ協奏曲第2番《谺する曲線》(1988/89)のスケッチとして1985年作曲、翌年1月27日にフィレンツェでグレゴリオ・ナルディにより初演。当時21歳だったナルディが、《水》《土》に続く連作をベリオに手紙で問い合わせたのがきっかけらしい。《火のピアノ》は1989年作曲、同年NYでピーター・ゼルキンにより献呈初演。《塵》(1990)は、仏人ピアニスト、ミシェル・ウダル(1960-1993)に献呈。ウダル自身の録音が残っているので、早世したウダルへの追悼作品では無い。《葉》は、1989年に亡くなったロンドン・シンフォニエッタ音楽監督、マイケル・ヴァイナーの追憶に捧げられ、1990年5月6日ロンドンでポール・クロスリーにより初演。(ヴァイナー追悼作品としては、他にH.W.ヘンツェ《レクイエム》、武満徹《リタニー》《マイ・ウェイ・オブ・ライフ》、P.M.デイヴィス《単旋聖歌による葬送曲》、H.グレツキ《おやすみ》、O.ナッセン《密かな賛美歌》等がある。)1990年に『六つのアンコール曲』としてまとめて出版された際の楽章順は、《塵》-《葉》-《水》-《土》-《空気》-《火》、である。
  《ソナタ》は、チューリヒ音楽祭委嘱により2001年に作曲、ドイツ人音楽学者ラインホルト・ブリンクマンに献呈。2001年7月22日チューリヒ・トンハレにてアンドレア・ルケシーニにより初演。他界する2年前に書かれた、ベリオ最後にして最長のピアノ曲である。「古今のソナタに見られる二項対立については、統語論的に対手としていない」(ベリオ)。


c0050810_13235076.jpg剣持秀紀: ピアノ独奏のための《ピンチェ》(2015)

  私は、1996年から1999年にかけて仕事の関係でベルギーの西フランデレン州のPoperinge(ポペリンゲ)という町に滞在したことがある。そこで、音声合成の技術開発を行っていわゆる「音声屋」となり、その時の経験が後のVOCALOID開発につながった。その時のベルギー滞在は出張ベースではあったが、トータルの滞在期間は1年半ほどに及び、定宿にしていた小さなホテルを経営していたご家族とは今でも交流がある。私の結婚式のために来日して下さったほどである。
  さて、ベルギーという国は面白い国で、北半分のフランデレン(Vlaanderen、英語だとFlanders)地域ではオランダ語圏、南半分のワロン(Wallonne、英語だとWalloon)地域ではフランス語圏である。建国以来オランダ語系住民とフランス語圏住民は対立が続き、1993年にベルギーはフランデレン地域、ワロン地域、そしてブリュッセル首都圏の区分の連邦制となった。そして、フランデレン地域の「国歌」が "De Vlaamse leeuw”(フランデレンの獅子)である。複符点に特長がある。歌詞と意味は以下の通り。(Wikipediaをもとに修正)

 Zij zullen hem niet temmen, de fiere Vlaamse Leeuw,
 Al dreigen zij zijn vrijheid met kluisters en geschreeuw.
 Zij zullen hem niet temmen, zolang een Vlaming leeft,
 Zolang de Leeuw kan klauwen, zolang hij tanden heeft.

 誇り高きフランデレンの獅子は何者にも服従しない
 たとえ彼の自由が足枷と叫び声で脅されても
 フランデレンの獅子が生きている限り何者も彼を飼いならすことは出来ない
 獅子が引っ掻く限り、彼が歯を持つ限り

  私が滞在していたポペリンゲはフランスの国境まで自転車で20分なのにオランダ語圏であった。どうもオランダ語の中でも「ズーズー弁」の地域らしい。それはさておき、ポペリンゲはホップの産地であり、初秋には収穫期を迎えた見事なホップの蔓があちこちで見られる。3年に一度「ホップ祭り」(Hoppestoet)なるお祭りも開催される。そんなことも思い出しながら作曲してみた。(剣持秀紀)


剣持秀紀 | KENMOCHI Hideki
  1967年静岡市清水区(旧清水市)生まれ。1993年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。同年ヤマハ(株)入社。消音装置の開発など音響技術系の事業に従事。1996年エル・アンド・エイチ・ジャパン(株)に出向、音声合成に関する研究を開始。1999年ヤマハ(株)復職。2000年3月、研究チームのリーダーとして「ボーカロイド」の開発を始め、04年に初の製品を発売。12年、同社yamaha+推進室VOCALOIDプロジェクトリーダー。現在、(株)YAMAHA事業開発部ニューバリュー推進室室長。



ルチアーノ・ベリオ覚え書き───────野々村 禎彦

c0050810_13244261.jpg 今回のシリーズで取り上げられる作曲家は、イタリア戦後前衛音楽を代表する3人である。前衛の時代にピークを迎え、同時代に高く評価されたルチアーノ・ベリオ(1925-2003)、前衛の時代にピークを迎えたが、ポスト前衛の時代に初めて正当に評価されたジャチント・シェルシ(1905-88)、前衛の時代には本領を発揮できず、ポスト前衛の時代にようやく勘所を掴んで高く評価されたフランコ・ドナトーニ(1927-2000)。イタリアの同世代で、彼らと並ぶ作曲家はあと数人挙げられるが、ブルーノ・マデルナ(1920-73) とルイジ・ノーノ(1924-90) にはピアノ曲は少なく、シルヴァーノ・ブソッティ(1931-) とニコロ・カスティリオーニ(1932-96) の作風は極めて特殊(ピアノ曲に限れば、そうは見えないが)なので、まず彼らが選ばれたのだろう。

 3人にもう少し触れると、ベリオはブーレーズ(1925-) やペンデレツキ(1933-) のような、専ら50年代から60年代初頭のストイックな作品で前衛作曲家として記憶されているタイプではなく、マデルナや武満徹(1930-96) のように、60年代半ばから70年代半ばの豊穣な作品群で記憶されている。シェルシは、あまりに特殊なので突き抜けて普遍性に至った、クセナキス(1922-2001) に比肩する唯一の存在である。ルイジ・ダラピッコラ(1904-75) やゴフレード・ペトラッシ(1904-2003) と同世代の長老に見えるが、絶頂期はベリオと変わらない。ただし、松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012) のように、ポスト前衛の時代まで旺盛な創作を続けたわけではない。前衛の時代のドナトーニは国内ではある程度知られていたがそれ以上ではなく、作曲を諦めるべきか悩み続けたが、「この年をもって、私は《ドナトーニ》になった」と自認する1977年以降はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947-) と並んで長らくイタリア作曲界を牽引し、(作風まで瓜二つの)弟子も多い。

             ******************

c0050810_13254759.png ベリオは、日本で最もよく知られた戦後前衛第一世代の現代作曲家のひとりであり、デュティユ(1916-2013)、リゲティ(1923-2006) とともに、武満自身が指名した武満徹作曲賞審査員だった。武満《ノヴェンバー・ステップス》と一緒にニューヨーク・フィル創立125周年記念作品として委嘱され、マーラー《復活》(当時の音楽監督バーンスタインの十八番)の第3楽章を泰西名曲の引用で装飾した楽章を含む《シンフォニア》(1967-68) は、器楽ソロのための《セクエンツァ》シリーズと並んで日本での演奏機会も多い。デヴィッド・オズモンド=スミス『ベリオ:現代音楽の航海者』(青土社, 1991/98) という評伝も松平頼暁による邦訳で読める現在、彼の伝記的な記述や作曲技法の詳細を本稿で繰り返す意味はないだろう。本稿の目的は彼の音楽の全体像を俯瞰することであり、その本質的な部分は以下の3点に集約できる:

    (1) 元々作曲家志望ではなく職人的な音楽観の持ち主だが、米国移住の刺激で開花

    (2) 声楽家キャシー・バーベリアンとの出会いと共同作業が、音楽の核を形成した

    (3) 電子音楽制作を通じて、既存素材を加工する技にアイデンティティを見出した

             ******************

c0050810_13264210.jpg ベリオはオルガニストを輩出した音楽家一家に生まれ、ピアニストを目指して音楽を学び始めた。しかし、第二次世界大戦で徴兵された際に銃の暴発で右手を傷めたため、やむなく作曲家に転じた。ただしピアノ演奏はその後も続け、ミラノ音楽院に留学してきたアルメニア系米国人のバーベリアンとは伴奏を通じて親密になり、同い年のふたりは1950年に結婚した。当時の彼は心ならずも作曲家になっただけに、戦後前衛同世代の強い進歩主義には共鳴せず、新古典主義的な堅実な作風だった。だが、タングルウッドの講習会でダラピッコラに学び、後期ヴェーベルンに傾倒していた師の影響でセリー音楽に興味を持ったことで、彼の歩みは大きく変わった。この運命の岐路にも、バーベリアンの存在は無視できない。イタリアは敗戦国とはいえ、クラシック音楽の本場ミラノからわざわざマサチューセッツ州郊外に学びに行くことは、妻の出身地でなければ有り得なかったはずだ。

 ヨーロッパ戦後前衛の中心地ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加したベリオは、最新の流行を貪欲に吸収してゆく。全面的セリー技法と管理された偶然性という戦後前衛の基本的な語法に加え、マデルナとイタリア国営放送(RAI)電子音楽スタジオを1955年に設立し、アンサンブルの空間配置なども試みた。5楽器群のための《アレルヤII》(1957-58) に至る作品群によって、彼は戦後前衛を代表する作曲家のひとりとみなされるようになったが、彼が示したのはブーレーズやシュトックハウゼン(1928-2007) のような開拓者精神ではなく、誕生間もない語法ですら職人的洗練の対象として扱えることだった。なお、バーベリアンは活動初期から現代音楽に積極的に取り組んでいたわけではなく、ジョイスの詩によるベリオ《室内楽》(1953) の初演後数年は育児に専念した。

c0050810_13282474.jpg バーベリアンの最初の本格的な仕事は1958年、ウンベルト・エーコとベリオが企画したラジオ番組で朗読を担当したことだった。この際のジョイス『ユリシーズ』の朗読の録音を徹底的に加工して生まれたのが、彼の電子音楽の代表作《テーマ》(1958) である。RAIスタジオでは国外の作曲家への新作委嘱も行っており、ケージは《フォンタナ・ミックス》(1958) 制作中に《アリア》(1958) をバーベリアンのために書いた。そして「現代音楽の歌姫」は覚醒した。この曲を通じて彼女の現代音楽解釈能力は広く知られるようになり、内外から作品献呈が相次いだ。ベリオも彼女の歌唱に刺激されて声楽書法を研究し、前衛前期を代表する《サークルス》(1960) や《主の顕現》(1959-61) を彼女の演奏を前提に書いた(あるいは、彼女の演奏がこれらの曲を彼の代表作にした)。

 ベリオの電子音楽のもうひとつの代表作《》(1960-61) も、バーベリアンの声が素材である。シュトックハウゼンや湯浅譲二(1929-) のように、正弦波発振音やホワイトノイズから未知の音響を作り出す志向は彼は持っておらず、既存の素材の精緻な加工が、彼にとっての電子音楽制作だった。この作品では特定のテキストを用いずに彼女の声のニュアンスを活かそうとした。それに応えて狂気の淵まで降りた彼女の表現は凄まじく、さすがのベリオも収録中に耐えられなくなってスタジオから逃げ出したというが、この時期の作品中でもインパクトの強さは飛び抜けている。ただし、声の魔力に目覚めてしまった彼女は、私生活のパートナーとしては強烈すぎる存在になっていた。

c0050810_13292345.jpg 彼は1962年からオークランドのミルズ・カレッジで教え始める。当初は長期休暇を取るミヨーの代役という形だったが、その前年にはRAIスタジオを辞しており、そのまま米国移住する予定だったものと思われる。バーベリアンと距離を取って新生活を始めることが、大きな動機だったのだろう。ヨーロッパ時代の集大成《パッサジオ》(1961-62) の後、《セクエンツァII》(1963) から《見出される曲線上の点》(1974) までの、米国での音楽経験が色濃く反映された前衛後期の作品群こそが、作曲家ベリオのピークにあたる。彼は渡米後程なく、後に高名な心理学者となるスーザン・オヤマと暮らし始め、彼女と結婚するためにバーベリアンと正式に離婚するが、その年に現代音楽では屈指の人気曲となる民謡編曲集《フォーク・ソングス》(1964) を彼女のために書き(彼女が採譜したアルメニア民謡も含まれる)、ふたりはその後も音楽上の重要なパートナーであり続けた。彼女のキャリアはここからが本番で、《ビートルズ・アリア》(1967)、モンテヴェルディから自作まで取り上げた《マニフィキャシー》(1971) などのアルバムでクラシック音楽界を超えて知られるようになった。なお、大井の師ブルーノ・カニーノ(1935-) は、彼女の伴奏者としても名高い。

 彼が自ら手を動かして電子音楽制作に打ち込んだのはRAIスタジオ時代までだが、むしろスタジオを離れたことで、その経験は創作全体に広がった。《セクエンツァ》シリーズでは、《サークルス》と一緒に最初のソロアルバム(WERGO, 1967) に収録された I (1958) / III (1965-66) / V (1966) が特に有名だが、各々ニコレ/バーベリアン/グロボカールが録音したことも手伝って、超絶技巧がテーマだと思われがちだ。だが、真の狙いは持続音の和声の精妙な制御にあり、テープ上で音色と残響を加工する操作の器楽曲への応用に他ならない。ソステヌート・ペダルを駆使したIV (1965-66) の実演は、それを体感する良い機会になるだろう。また、IIIのその意味での本質を伝えるのは、実は初音ミクによるリアリゼーションである。なお、和声や対位法の拡張とコンテクストの置換を通じて小編成旧作を大編成に拡大する「注釈技法」は、《セクエンツァ》シリーズを《シュマン》シリーズに発展させるところから始まったが、これもテープ加工操作の器楽曲への応用とみなせる。

c0050810_1330177.jpg ダンテ生誕700年記念曲《迷宮II》(1963-65) はベリオ終生の代表作になった。ダンテ作品と関連作品を再構成したテキスト+アンサンブルに大編成フリージャズ、合唱にスキャットを全面的に導入+サイケデリックな電子音の背景という構成は、ヨーロッパの伝統と米国の同時代が交錯する、前衛後期の豊かな時代様式の最良のサンプルだ。これに匹敵する作品は、B.A.ツィンマーマン(1918-70) 終生の代表作《ある若き詩人のためのレクイエム》(1967-69) くらいだろう。ミシェル・ポルタル(クラリネット)、ジャン=フランシス・ジェニー=クラーク(コントラバス)、ジャン=ピエール・ドゥルーエ(打楽器)ら、現代音楽とヨーロッパ・フリージャズ双方で活動する初演メンバーがリードする祝祭的な自演録音も面白いが、ジョン・ゾーンとの共演歴も長いロックヴォーカリストのマイク・パットンが、あえて現代音楽的な音色の複雑さと間に焦点を合わせたIctusアンサンブルの精緻な音世界を達者な語りで引っ張る、パットンの個人レーベルからリリースされた2010年ライヴは、リーマンショック後の陰鬱な世界を反映した、今日の音楽に生まれ変わっている。

 1965年からジュリアード音楽院で教え始めたベリオは教育にも力を入れ、翌年にジュリアード・アンサンブルを結成した。ミルズ・カレッジではスティーヴ・ライヒ(1936-) やフィル・レッシュ(1940-, グレイトフル・デッドのベーシスト)、同時期に欧州ではルイ・アンドリーセン(1939-) らを教えた。すなわち彼は、ある意味では「ミニマル音楽の父」にあたる。また、1972年の帰国後の代表作である、《2台ピアノのための協奏曲》(1972-73) や《見出される曲線上の点》を特徴付ける反復書法は、米国でのミニマル音楽の記憶の反映とみなせる。彼はイタリア帰国の理由を、国際的な委嘱で忙殺されホテル暮らしが常態になった中で、祖国での日常生活への郷愁が芽生えたと説明するが、その前年にはジュリアード音楽院を辞してオヤマとも別れており、米国移住時と同様のパターンと推察される。その中で1974年からはIRCAM電子音響部門ディレクターに就任し、ホテル暮らしは続いたが、1977年の最後の結婚を機にシエナ近郊の農村ラディコンドリに居を構えた。

c0050810_1331133.jpg 合唱とオーケストラのための《合唱》(1975-76)、チェロとアンサンブルのための《夢への回帰》(1976-77) からヴィオラ協奏曲《》(1984) に至る、彼のポスト前衛時代の最初の10年の作品群を特徴付けるのは、民謡素材への強い関心である。一般にはこの時期の代表作とされる、イタロ・カルヴィーノのテキストによる音楽劇《真実の物語》(1977-81) と《聞き耳を立てる王》(1979-84) も、この傾向の一翼をなす。彼はIRCAMのディレクターを1980年まで務め、この間に電子音響部門では音響合成システム4Xを開発したが、クラリネットとの相互反応の実験(器楽パートのみ《セクエンツァIX》(1980) として発表し破棄)など、成果はいくつかの試作に留まった。バーベリアンは1983年に世を去り、彼は追悼音楽《レクイエス》(1984-85) を書いた。私見では、これがベリオが輝いていた最後の作品であり、彼の作曲家としての生涯はまさに彼女とともにあった。

 その後の歩みで特筆すべきは、IRCAMディレクター時代の探求を引き継いだ、実用性を重視した音響合成システムを開発する研究所「テンポ・レアール」を1987年にフィレンツェに設立し、自作にも積極的に応用し始めたことだが、肝心の音楽の魂が抜けた状態で、オーケストラのリアルタイム音像移動を行っても… 彼の「注釈技法」は、多作な作曲家の生産性を支える秘訣としてW.リームらにも参照されたが、この時期になると《見出される曲線上の点》のオーケストラ版《協奏曲II:谺する曲線》(1988-89)、《主の顕現》のオーケストラ版《エピファニーズ》(1991-92) など、アンサンブルの代表曲まで再加工の対象にした。だがそれらは、弦楽四重奏の魅力が弦楽合奏に編曲した途端に失われる、クラシック音楽でも馴染み深い失敗の再生産にすぎなかった。なおこの時期には、シューベルトのニ長調交響曲の補筆完成版《修復》(1989-90) など、クラシック音楽の創造的編曲にも取り組んだ。戦後前衛とは一線を画した音楽職人にふさわしい終の住処だった。
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by ooi_piano | 2015-06-07 23:03 | All'Italiana2015 | Comments(0)