ブログトップ

Blog | Hiroaki Ooi

c0050810_20285360.jpg連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫
山村サロン(JR芦屋駅前)
予約/問い合わせ: 山村サロン http://www.y-salon.com/

【第二回公演】 2015年7月24日(金)19時開演(18時半開場)
ジャチント・シェルシ(1905-1988) ピアノ傑作撰 (生誕110周年)

●G.シェルシ: 組曲第8番《ボト=バ》(1952、日本初演) 〔全6楽章〕 (約30分)
 I. Agitato - II. Non troppo sostenuto - III. - IV. Lento - V. Lento - VI. Lento
●G.シェルシ: 《アクション・ミュージック》(1955) (日本初演) 〔全9楽章〕 (約16分)
 I. - II. Iniziando - III. Lento dolce - IV. Martellato - V. Violento - VI. Brillante - VII. Pesante - VIII. Veloce - IX. Con fuoco
●川崎弘二(1970- ):ピアノ独奏のための《木賊》(2015、委嘱新作初演) (約7分)

(休憩15分)

●G.シェルシ: 組曲第11番(1956、日本初演) 〔全9楽章〕 (約35分)
  I. - II. Lento - III. Intenso e animato - IV. Barbaro - V. Velato - VI. Feroce - VII. Sostenuto - VIII. - IX.
●G.シェルシ: 《アイツィ》(1974、日本初演)  (約6分) [エレクトロニクス/円藤正吾(山村サロン)]


c0050810_20301723.jpg

c0050810_20523931.jpg川崎弘二:ピアノ独奏のための《木賊》(2015、委嘱新作初演) 
  2001年から2003年にかけて、オランダの田舎にある大学にゲストとして滞在していたことがある。昼間は大学でタンパク質の吸着現象を測定し、夜と休日には2006年に刊行されることとなる「日本の電子音楽」という本の原稿を書き進めていたが、どちらもなかなか軌道に乗らず、鬱屈した日々を過ごしていた。数ヶ月経つと、オランダという国はイギリスとドイツとベルギーに囲まれているため、各国のさまざまなビールが手に入りやすいことが分かった。そして、当時のオランダの地ビール協会会長が経営する、フランデレン地域の国歌をもじったDe Vlaamsche Reus(フランデレンの巨人)というすばらしいカフェが近所にあったこともあり、娯楽に乏しい田舎での鬱屈はもっぱらビールで解消することとなっていった。
  その頃、「日本の電子音楽」のために、ある電子音楽の構造を解析していたことがあるのだが、技術的な問題からその解析は途中で放棄してしまっていた。今回、大井浩明さんからピアノ曲のお話しをいただいたとき、咄嗟に思い出したのがこの構造解析のことであった。そこで、音響技師の能美亮士さんの力を借りて14年ぶりに解析を再開し、その結果を転用して楽譜化したのがこの曲である。(川崎弘二)

川崎弘二 Koji KAWASAKI, composer
  1970年大阪生まれ。2006年に「日本の電子音楽」、09年に同書の増補改訂版(以上 愛育社)、11年に「黛敏郎の電子音楽」、12年に「篠原眞の電子音楽」、13年に「日本の電子音楽 続 インタビュー編」(以上 engine books)を上梓。CD「NHK 現代の音楽 アーカイブシリーズ」(ナクソス・ジャパン)における黛敏郎、湯浅譲二、松平頼暁、林光、石井眞木、一柳慧、実験工房の解説をそれぞれ執筆(2011〜13年)。2011年から雑誌「アルテス」にて「武満徹の電子音楽」を連載。2014年にNHK Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校 電子音楽編」に小沼純一、三輪眞弘と出演。 http://kojiks.sakura.ne.jp/



ジャチント・シェルシ覚え書き────野々村 禎彦

c0050810_2054387.gif 今回のシリーズで取り上げられる作曲家は、イタリア戦後前衛音楽を代表する3人である。前衛の時代にピークを迎え、同時代に高く評価されたルチアーノ・ベリオ(1925-2003)、前衛の時代にピークを迎えたが、ポスト前衛の時代に初めて正当に評価されたジャチント・シェルシ(1905-88)、前衛の時代には本領を発揮できず、ポスト前衛の時代にようやく勘所を掴んで高く評価されたフランコ・ドナトーニ(1927-2000)。イタリアの同世代で、彼らと並ぶ作曲家はあと数人挙げられるが、ブルーノ・マデルナ(1920-73) とルイジ・ノーノ(1924-90) にはピアノ曲は少なく、シルヴァーノ・ブソッティ(1931-) とニコロ・カスティリオーニ(1932-96) の作風は極めて特殊(ピアノ曲に限れば、そうは見えないが)なので、まず彼らが選ばれたのだろう。

 3人にもう少し触れると、ベリオはブーレーズ(1925-) やペンデレツキ(1933-) のような、専ら50年代から60年代初頭のストイックな作品で前衛作曲家として記憶されているタイプではなく、マデルナや武満徹(1930-96) のように、60年代半ばから70年代半ばの豊穣な作品群で記憶されている。シェルシは、あまりに特殊なので突き抜けて普遍性に至った、クセナキス(1922-2001) に比肩する唯一の存在である。ルイジ・ダラピッコラ(1904-75) やゴフレード・ペトラッシ(1904-2003) と同世代の長老に見えるが、絶頂期はベリオと変わらない。ただし、松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012) のように、ポスト前衛の時代まで旺盛な創作を続けたわけではない。前衛の時代のドナトーニは国内ではある程度知られていたがそれ以上ではなく、作曲を諦めるべきか悩み続けたが、「この年をもって、私は《ドナトーニ》になった」と自認する1977年以降はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947-) と並んで長らくイタリア作曲界を牽引し、(作風まで瓜二つの)弟子も多い。

             ******************

c0050810_212458.gif シェルシは北イタリア沿岸の小都市ラ・スペツィアの貴族の家に生まれ、教育は専ら個人教授で身に着けた。一家でローマに移った後、彼はまず文学に興味を持って詩作に没頭し、ヨーロッパ各地を旅してジャン・コクトー、ヴァージニア・ウルフらと親交を結んだ。その後作曲も行うようになり、1930年頃から作品を発表し始める。当初は未来派の影響が強かったが、やがてスクリャービン流の作曲法を学び、30年代半ばから末にかけて、後期スクリャービン風の膨大なピアノ独奏曲を残した。この時期の作品から戦後の独自の作風の萌芽を探すのも興味深いが、本日は時間的制約の関係で取り上げない。これと並行してベルクの弟子から12音技法を学び、イタリア最初のセリー主義者になる。またペトラッシらと共同でドイツ、フランス、ソ連等のモダニズムの最先端を積極的に紹介するが、元々は未来派などの前衛的な音楽を支持していたファシスト政権が、ナチスとの関係を深めるうちにユダヤ系作曲家排斥などを通じて前衛的な音楽を抑圧し始めたため、彼の心はイタリア音楽界から離れ、第二次世界大戦勃発を機にスイスに移住した。

 スイス時代の彼はイギリス人女性と幸福な結婚生活を送ったが、作曲ペースは落ちた。祖国を離れて自らの創作を客観的に眺めると、後期スクリャービン風の即興的な素材に、音列操作で無調の衣をまとわせた程度の曲では満足できなくなったのだろう。ムッソリーニ政権は1943年7月の連合国軍侵攻でたちまち瓦解したが、今度はドイツ軍が侵攻してムッソリーニを奪還し、傀儡政権は北部山岳地帯でヒトラー自殺直前まで抵抗を続けた。ローマは1944年6月に解放され、シェルシも帰国して作曲活動を再開したが、この時彼は貴族の趣味にふさわしい決断を下した。自分ひとりで書き上げる作品に限界があるならば、自ら選ぶのは素材やイメージに留めて緻密な構成はプロに任せればよい。腕利きの演奏家を雇って試演させ、仕上がりを確認して手を入れれば、「代筆」ではなく「共同作曲」だ――このようにして作られた最初の作品が《弦楽四重奏曲第1番》(1944) であり、確かにこの曲から突然、バルトーク1番を無調にしたような密度の高い音楽に変貌している。1947年から作曲アシスタントはヴィエリ・トサッティ(1920-99) に交替し、ふたりの共同作業は20年近く続いた。

c0050810_20565391.gif これが単なる「趣味の作曲」ならば何の問題もないが、イタリア作曲界を超えて注目される存在になるとそうもいかない。トサッティとの最初の代表作、カンタータ《言葉の誕生》(1948) はISCM大会で初演され、ブーレーズとケージの往復書簡がこの作品への論評で始まるほど、国際的にも注目されていた。ただし彼らの評価は手厳しく、録音を聴いた限りでは筆者も同意見だ。12音技法自体は珍しいものではなく、共同作曲のメリットは乏しい。合唱とオーケストラという大編成になると、試演によるチェックにも限界があり、そもそもトサッティ自身の作風は極めて保守的(Youtube上の音源を聴く限り、マリピエロ(1882-1973) やカゼッラ(1883-1947) の方がまだ進歩的に思えてしまう)である。もちろん共同作曲の事実は公にはされなかったが、イタリア作曲界では既に「公然の秘密」であり、初演を指揮したデゾルミエールが《言葉の誕生》を褒めたことは、業界では嘲笑されていたという。彼はこの初演から程なく、「12音技法と自らの作風が相容れない」ために精神の平衡を崩し、精神病院で療養に入ったとされるが、主な要因はそれよりも、共同作曲に対する業界の態度と、スイス時代の妻がイタリア帰国に同意せず別れたことに由来する心労の方ではないか。

 50年代初頭、療養中のシェルシはピアノのひとつの音を何時間も弾き続け、響きの世界に分け入ることを通じて精神の平衡を取り戻したという。禅やヨガなどの東洋思想に傾倒したのもこの時期で、その影響は音楽の素材にも及んだ。作曲活動復帰第1作が《組曲第8番》(1952) であり、本日のプログラムは病気療養からのリハビリを思わせる執拗な同音反復のシンプルな音楽から始まる。彼のこの時期の「作曲」とは、ピアノの即興演奏を録音し、採譜のプロが細かく譜面に起こし、最後にトサッティがまとめたもの。その後のピアノ独奏曲ではピアニスティックなフレーズが増え、自ら譜面を書いていた30年代を思わせる瞬間もしばしば。即興演奏の記憶に基づいた作曲は鍵盤楽器の歴史とともに始まるが、シェルシ作品の特徴は即興演奏をまず録音し、記憶を介した抽象化では削ぎ落とされてしまうニュアンスまで取り込んだところにある。また膨大な同工異曲を書いた30年代とは違って、ピアノ独奏曲の作曲が安定すると、今度は管楽器弦楽器の独奏曲も同じ方法論で作り始めた。もちろん楽器が違えばピアノの手癖は通用せず、音響特性を踏まえて慎重に素材を準備する必要がある。この変化はピアノ独奏曲にもフィードバックされ、作曲作品らしい構築性が加わってくる。シェルシにとっては自分で手を動かしていないから、トサッティにとっては自分が書きたい音楽とは全く違うからこそ、素材の可能性を引き出すことに集中し、汲み尽くすたびに作曲の難度を上げて新たな可能性に挑んでゆく、客観的でシステマティックなアプローチが実現したのだろう。本日、「シェルシらしいシェルシ」が始まる曲の次に取り上げるのは、断片的でダイナミックな方向性の頂点《アクション・ミュージック》(1955) と、《組曲第8番》以降の総括を意図し、特に旋律的で瞑想的な方向性が光る《組曲第11番》(1956) であり、彼はこの2曲でピアノ独奏曲はひとまず打ち止めにした。

c0050810_20574282.gif さらにチェロ独奏曲《トリフォーン》(1956)・《ディトーメ》(1957) やピッコロとオーボエのための《リュック・ディ・グック》(1957) などを経て、ピアノ即興を素材とする作曲の可能性は極めたと見ると、彼は即興演奏の楽器をオンディオーラ(微分音を出せる電気オルガン)に切り替えた。《弦楽三重奏曲》(1958)、9金管楽器と打楽器のための《前兆》(1958)、クラリネットと7楽器のための《キャ》(1959) と、1音の微分音的なゆらぎを顕微鏡的に拡大する革新的なコンセプトを編成を拡大しながら深化させてゆく。このコンセプトを純化した、室内オーケストラのための《1音に基づく4つの小品》(1959) の豊かさの前では、同時代に一世を風靡したペンデレツキ、リゲティ、ツェルハらの音群音楽すら、児戯に思えてくる。オネゲルとマルティヌーの網羅的研究の他、スペクトル楽派(特にラドゥレスク、ドゥミトレスクら「裏楽派」)の研究でも名高いベルギーの音楽学者ハリー・ハルブライヒが「現代音楽の歴史はすべて書き直さなければならない:いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」とまで主張したのは、まさにこの時期の作品に由来する。

 特に、後述する平山美智子(1923-) のための声楽曲の作曲が軌道に乗ってから数年間の作品群:《弦楽四重奏曲第3番》(1963)、大オーケストラのための《ヒュムノス》(1963)、ヴァイオリン独奏曲《クノイビス》(1964)、《弦楽四重奏曲第4番》(1964)、女声合唱のための《イリアム》(1964)、チェロ独奏曲《イグール》(1965)、ヴァイオリンと18楽器のための《アナイ》(1965)、4人の独唱、オンド・マルトノ、混声合唱、オーケストラのための《ウアクサクタム》(1966) は、各々20世紀の該当編成を代表する傑作だ。例えば《クノイビス》は、当たり前のように1弦1段の3段譜で書かれ、ある弦の持続音に別な弦が微分音で上下行してまとわりつくような、楽器の常識を超えた難度の場面が続く。しかもそれは技巧のための技巧には終わらず、緊張感に満ちた音空間を生み出す不可欠な要素として鳴り響く。この水準の奏法を全楽器に要求して譜面は最大13段に達する《弦楽四重奏曲第4番》は、彼の特異な弦楽器書法の集大成である。これらに匹敵するヴァイオリン独奏に牽引されたアンサンブルが、彗星の尾のようにゆらめく《アナイ》は、それまでの緊張の塊のような音世界に深い瞑想性も加わった、一段上のステージの作品。また合唱曲は彼にしては比較的穏当な作品が多かったが、《イリアム》はこの時期の作品の中でも見劣りしないラディカルな書法を持つ。

c0050810_20582798.gif 以上の要素がすべて注ぎ込まれたのが、彼の終生の代表作《ウアクサクタム》である。《アナイ》のアンサンブル書法と《イリアム》の合唱書法の上でオンド・マルトノが弦楽器ソロの役割を果たす(元々の素材は微分音電気オルガンである)、と図式的にはまとめられるが、マヤ文明の伝説という格好のモティーフのもと、過剰なはずの諸要素のバランスが奇跡的に取れて本作は生まれた。編成的にもモティーフ的にも、ヴァレーズ終生の代表作《エクアトリアル》(1932-34) の現代版という位置付けがふさわしい。シェルシ作品の素材になった即興の録音は、現在はある程度公開されているが、私的録音の限界はあるにせよ、その即興と最終的な作品の密度や情報量の落差は大きい。この録音を渡されてあの編成を思いつくことはまず不可能で、たとえ自分で譜面を書くことはなくても、編成を含む音楽のイメージはシェルシのものに違いない。また、いくら編成やイメージは指定されていたとしても、この素材からあの音響を引き出すことは誰にでもできることではなく、20年近く共同作業を積み重ねたトサッティならではの仕事である。実際、トサッティの作品表を眺めると、シェルシのピークにあたる時期は如実に創作ペースが落ちている(数年かけてコツコツ書く類の大作はあるが、霊感に任せて一気に書き上げる類の作品がパタッと途絶えている)。《ウアクサクタム》の達成は、トサッティにとってもひとつの区切りになり、この曲をもってアシスタントを退任した。(つづく
[PR]
by ooi_piano | 2015-07-18 20:30 | All'Italiana2015 | Comments(0)

(承前)

c0050810_2142316.png この時期のシェルシには、もうひとつの大きな出来事があった。声楽家・平山との出会いである。イタリアに移住し《蝶々夫人》役で生計を立てていた彼女は、1957年にはシェルシと面識があったというが、管楽器ソロ曲を声楽用に編曲した、ひたすら持続音が続く譜面を渡されて途方に暮れていた。だが、彼の音楽の秘密は微分音オルガンによる即興だと耳にして、好奇心旺盛な彼女はそれを聴いて判断しようと思い立つ。共同作曲の秘密が漏れることを怖れていたシェルシは、周囲が寝静まった深夜に即興を録音していたが、彼女は真冬のアパートの玄関先で毛布にくるまって徹夜で聴き、彼の音楽は本物だと確信した。彼女は次の面会の機会に、あの日の即興を思い出して譜面に囚われずに歌った。自分の音楽の最初の理解者を前にして彼の創作意欲は燃え上がり、彼女の歌唱を前提にした《ホー》(1960) に始まる声楽曲群を書き始めた。ソプラノ、ホルン、弦楽四重奏、打楽器のための《クーム》(1962)、ソプラノと12楽器のための《プラーナムI》(1972)、そしてもうひとつの終生の代表作である、1時間近い連作《山羊座の歌》(1962-72)。

 彼女は作曲上の秘密をある程度(まず素材は即興の録音だということを、後には彼が譜面を書いていないことまで)知っている協力者なので作曲の方法論も変わり、打ち合せに基づいた彼女の即興をシェルシが録音し、それを素材に譜面化が行われた。特に《山羊座の歌》では大半の曲が彼女のソロなので、やがて彼は精密な譜面化にも拘らなくなり、彼女が譜面を修正し自由に解釈するところまで認めるようになった。さまざまな特殊唱法を駆使した声のための作品は、まさに《山羊座の歌》の作曲時期でもある前衛後期に多く書かれた。バーベリアンの歌唱を前提にしたベリオの作品群はその代表であるが、唸り声や叫び声を含む地声の魅力を追求し、音楽が制度化される以前の呪術性を強く持った、平山の歌唱を前提にしたシェルシの作品群は、その中でも特異な位置を占めている。シェルシ終生の代表作に本質的に貢献した、ふたりの協力者は対照的だ。トサッティは彼の音楽には全く共感していなかったおかげで、中途半端な思い込みで彼の意図を歪めることなく、特異な音楽をそのまま譜面化することができた。平山は彼の音楽に深く共感し、通常の演奏家の領分を超えて、即興で素材を生み出し試演時に譜面に手を入れる、他の曲ではシェルシが果たした役割まで担った。

c0050810_2151287.png トサッティ退任後は彼の弟子数人が作曲アシスタントを引き継いだが、誰も彼の代わりにはなれなかった。《ウアクサクタム》の次にあたる作品が即興の録音ほぼそのままのギター独奏曲《コ・タ》(1967) なのは象徴的だが、トサッティ後期には大編成作品が並んでいたシェルシの作品表は、突然小編成作品中心になる。混声合唱と大オーケストラのための《コンクス・オム・パクス》(1968) や《プファット》(1974) のような曲もあるが、楽章ごとに使用楽器を一変させ、クライマックスで突如大量の楽器を投入したりと、平板な曲想に物量攻撃で辛うじてコントラストを付けているに過ぎず、微分音のゆらぎを積み重ねたトサッティ時代の精緻な音楽はもはやない。ただし、トサッティ時代の作風は同時代の音群音楽の上位互換版に過ぎず、この時期の「誰もやらなかったバカな音楽」こそが代表作という見方もある。軽妙でユーモラスな男声合唱曲《TKRDG》(1968) やハープ、タムタム、コントラバスという編成が命の《オカナゴン》(1968)、戦前にも書かなかったような素朴な調性的声楽曲《3つのラテン語の祈り》(1970)・《応唱》(1970) など、従来とは異質な傾向がこの時期に一挙に現れるのは、中の人が頻繁に入れ替わっていたからだと捉えるのが自然である。

 ただし、9楽器のための《プラーナムII》(1973)、チェロとコントラバスのための《さあ、今度はあなたの番です》(1974)、電気オルガン独奏曲《イン・ノミネ・ルーキス》(1974) など、病気療養直後の作品群を思わせるシンプルな持続音に最小限のゆらぎをまとわせた創作末期の作品群は、ヨーロッパ戦後前衛とは別系統の米国実験音楽に通じる深みを持っている。イタリア作曲界では孤立していた彼の音楽を理解して発表の場を与えたのは、〈新しい響き Nuova Consonanza〉音楽祭を主催し同名の集団即興グループも主宰したフランコ・エヴァンジェリスティ(1926-80) だけだったが、この音楽祭や最晩年の作風を通じて、ケージ、フェルドマン、アール・ブラウン、ジェフスキ、アルヴィン・カランら米国実験音楽の作曲家たちと親交を結んだ。本日取り上げる《アイツィ》(1974) もこの作品群に属し、この曲は後に《弦楽四重奏曲第5番》(1984) としてまとめ直される。

c0050810_2155197.jpg 彼の旺盛な創作は、演奏時間10分に満たないが全作品中最大の編成を持つ《プファット》(1974) で一段落し、以後は自作のプロモーションが活動の中心になった。ローマの現代音楽の演奏会に足を運び、目をつけた演奏家を自宅に招いて、録音を流して譜面を見せる地道な活動だが、そうして密接な協力者になったのは、アンサンブル2e2mを主宰するメファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった(目鼻立ちの整った女性奏者が多いのは、古稀を迎えた程度ではイタリア人男性の脂は抜けないのだろう)。イタリア在住のアルヴィン・カランと協力して自作録音のLP化も70年代末から80年代初頭にかけて行い、平山による声楽作品集を2枚、ウィッティによるチェロ独奏《三部作》全曲、アルディッティ弦楽四重奏団による最初の全集(当時は第4番まで)をリリースした。

 この流れの中で、パフ/アンサンブル2e2mによる作品集(曲目は《キャ》《1音に基づく4つの小品》《オカナゴン》《プラーナムII》)が1982年にリリースされたのを契機に、「シェルシ・ルネサンス」が始まった。良き理解者による、アンサンブル編成の作曲家紹介としてベストの選曲だが、時代的条件も揃っていた。ミュライユ&グリゼーとシェルシの出会いから始まったスペクトル楽派がIRCAMの研究プログラムに選ばれ、彼らのルーツに位置する謎の作曲家への関心も高まっていた。コアな現代音楽の探求者ならば、ポスト戦後前衛の諸潮流(スペクトル楽派、新しい複雑性、ドイツ音響作曲など)が曲がり角を迎え、ラディカルな初期衝動から伝統との折り合いを付ける段階に入ったこと、米国実験主義はオリヴェロス(1932-)、テニー(1934-2006) らよりも下の世代には受け継がれず、頼みの綱のミニマル音楽も、和声進行を利用する「ポストミニマル」の段階に入って変わってしまったことなどに気付いており、閉塞感が溜まっていた。ポストモダンの潮流の中で、東洋思想の影響を標榜する即興的な音楽もブームになっていたが、戦後前衛と米国実験音楽双方の本質を踏まえた上で、「私は作曲家ではなく仲介者だ」と語るシェルシには、彼らと一線を画する圧倒的な「本物感」が漂っていた。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習での二度の特集(1982, 84)の間にドイツの音楽学論文集Musik-Konzepteでも、現代作曲家としてはシュネーベル、ノーノ、メシアンに次いで取り上げられた(1983)。彼が地道に築いてきた協力者のネットワークを通じて網羅的な演奏が行われ、最後に残った合唱とオーケストラのための3作品の初演(ISCMケルン大会, 1987)は本公演もゲネプロも完売し、終演後はスタンディングオベーションが果てしなく続く伝説的な成功を収めた。この3作品を含むオーケストラ曲全集はヨーロッパの数あるレコード賞を独占した。

c0050810_2163853.jpg 人生の最後に最大級の賞賛に包まれて、彼は1988年に亡くなった。「シェルシ・ルネサンス」の中心地はドイツやフランスで、イタリア作曲界での「公然の秘密」は伝わっていなかった。彼の死の直後に「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するトサッティへのインタビューが音楽学雑誌に掲載され、共同作曲の秘密は公になったが、佐村河内守の一件のようなスキャンダルに発展することはなく、シェルシ作品の演奏や研究は現在でも続いている。むしろ、シェルシ作品の受容を通じて、「芸術音楽」側の意識は変わった。譜面化を経ない「録音メディア上での作曲」と共同作曲が、芸術音楽とポピュラー音楽を長年分かってきたが、電子音楽とシェルシ作品の受容を通じてこの溝は乗り越えられ、今日では現代音楽と実験的ポピュラー音楽の最前線に本質的な区別はない。ハルブライヒの意図すら超えて、「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」。
[PR]
by ooi_piano | 2015-07-17 20:47 | All'Italiana2015 | Comments(0)


ピアノによるマーラー交響曲集
Mahlers Sinfonien am Klavier vorgetragen

c0050810_21572667.jpg【第四回公演】
2015年7月12日(日)19時
開演(18時半開場) Sunday, July 12, 2015, 7 PM
 大井浩明/ピアノ独奏 Hiroaki OOI, piano solo

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp


■A.シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲 作品31 (1926/28) 約25分
 Arnold Schönberg - Dante Anzolini: Variations for Orchestra Op.31 arranged for piano solo (World premiere)
 D.アンゾリーニ(1959- )によるピアノ独奏版(2001) (世界初演)
  Introduktion - Thema - Var.I - Var.II - Var.III - Var.IV - Var.V - Var.VI - Var.VI - Var.VII - Var.VIII - Var.IX - Finale

(休憩10分)

■G.マーラー:交響曲第9番ニ長調(1909/10) [全4楽章]  約80分
 Gustav Mahler - Albert Breier: Symphony No.9 arranged for piano solo (World premiere)
 A.ブライアー(1961- )によるピアノ独奏版(1993) (全曲による世界初演)
第1楽章 Andante comodo
第2楽章 Im Tempo eines gemächlichen Ländlers
第3楽章 Rondo-Burleske
第4楽章 Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend



シェーンベルクが観たマーラーの《交響曲第9番》 ~シェーンベルクの未完の理論書に基づく考察~
      ─────────佐野旭司(音楽学)


c0050810_2158990.jpg  シェーンベルクは1917年にマーラーの《交響曲第9番》に関する理論書の執筆を試みた。その手書きの草稿は現在ウィーンのシェーンベルクセンターに所蔵されている。この理論書は未完に終わっているが、シェーンベルクが書き残したメモの内容は、彼がマーラーの《第9》をどのように考えていたのかを考察する手掛りとなる。ここではシェーンベルクのメモの内容から、彼が考えていたマーラーの《第9》の特徴とはどのようなものだったのか、そしてシェーンベルクにとってこの交響曲がどのような意味を持っていたのかを探っていきたい。



手稿の内容とシェーンベルクのマーラー観

c0050810_21583287.jpg  この手稿は4ページからなっており、そのうち最初のページが表紙で残りの3ページが本文である。そして本文は11項目のメモと、結論部分からなっており、メモは2、3ページ目に、結論は4ページ目にそれぞれ書かれている。その中でも特に内容の核心をなす文章の一部を以下に紹介しよう。


3) この最後の作品は、あらゆる観点において最も円熟した状態を示している。
4) その熟達さは次の点で分かる。
 a) 内容において。
 b) 表現方法(様式、形式、etc.)において。
5) 音楽において、内容の比較は困難である。何故ならそれは比較しようのないものであるからだ。
6) これに対して、表現方法(形式、様式、etc.)はより簡単に判断できる。
7) マーラーの第9交響曲のような作品、彼の最後の作品に分け入ろうとするならば、技法の最高点という特徴を、正しく探求するであろう。
8) その特徴が何であるのかを、まず考えてみるのがよいだろう。
9) 全体として、次のように言うことができよう。
より少ない言葉でなす者はより多くを語る。ゆえに表現の簡潔さと精密さが本質的な特徴となる。


c0050810_2159374.jpg  この手稿は、その分量の少なさからも彼がこの時点で思いついたことをメモ程度にまとめたものと考えられる。しかし1917年という時期にシェーンベルクがこの曲に着目していたということは興味深い事実である。では彼はマーラーの《交響曲第9番》をどのように見ていたのだろうか。
  上記の文章のうち5)~7)の内容から、シェーンベルクはマーラーのこの曲の作曲技法について述べようとしていたことが分かる。そして9)の中でマーラーの《第9》の技法的特徴について「少ない言葉で多くを語る」、「表現の簡潔さと精密さ」と述べている。
  ではこの「少ない言葉で多くを語る」、「表現の簡潔さと精密さ」という言葉はマーラーの《第9》のどのような技法的特徴を指しているのか。シェーンベルクが1912年に行ったマーラーについての講演の原稿には、類似した内容の発言が見られる。彼はこのとき、「マーラーがほんの2、3の音から空想と芸術性と豊かな変化によって果てしない旋律を作り上げていくのを観察すれば[中略]、マーラーの主題は高度な意味において独創的であるといえる」(A.Schönberg Stil und Gedanke / Aufsätze zur Musik. ed. by Ivan Votèch : S. Fischer, 1976)と述べている。この発言は「少ない言葉で多くを語る」、「簡潔さと精密さ」という言葉とほぼ同義であろう。シェーンベルクはここで、音楽は主題そのものが重要なのではなく、その主題から音楽全体をどのように作るか、すなわち主題を如何に徹底して労作させるかが問題であると述べることによりマーラーを称賛している。つまりシェーンベルクはマーラーの動機労作の手法が如何に優れているかを語っているのである。
  この言葉は《交響曲第9番》に限定したものではなく、むしろ彼の作品全般に対するものである。しかしシェーンベルクはこの発言をした時点ですでにマーラーの《第9》を知っており、この曲の楽譜も入手できる状況にあったことを考えれば、この発言も《第9》の様式を知った上で述べていると考えられる。さらに、もしそうであるならばこの曲はシェーンベルクが1912年の時点で最も新しく知ったマーラーの作品ということになる。
  そしてこの発言と《第9》についてのメモの内容を合わせて考えると、シェーンベルクは限られた音から大きな構造を作るという構成法を、マーラーの《第9》の特徴の1つと見做していたと考えられよう。


マーラーの《交響曲第9番》の技法的特徴

c0050810_21593839.jpg  実際にマーラーの《交響曲第9番》を見ると、シェーンベルクの言葉通り簡潔かつ精密な構造であることが分かる。
  まずこの交響曲の構成上の特徴としては、4つの楽章がいずれも2つの主題の交替によって作られており、さらに曲中の主要主題がいずれも第1楽章の第1主題の冒頭動機と関連性を持っている。
まず第1楽章の第1主題は2度下行の音形で始まるが、この2度音程は交響曲全体にとって重要な意味を持っている。まず第1主題の内部ではこの2度下行音形が多様に変形する。一方第2主題には2度の要素は見られないが、その音形は第1主題の部分動機から派生していることが分かる。
  第2~4楽章はいずれもABABAという形式であるが、第2楽章と第3楽章ではそれぞれ、AとBの両主題において2度音程の要素が明瞭に表れている。また第3楽章のA主題は楽章内で変形するが、それは第4楽章のA主題となる。一方第4楽章のB主題は、その主旋律は既出の動機との関連性がほとんど見られない。しかしこの主題の対声部には2度下行音形が用いられることにより他楽章の主題との関連性が保たれている。
  以上のように、各楽章とも2つの主題のみにより構成されており、それらの主題が第1楽章の第1主題と何らかの形(主に2度音程の要素)で関連していることから、この曲は限られた素材や音によって構成されているといえよう。このような曲のあり方は、「少ない言葉で多くを語る」というシェーンベルクの言葉にまさに相応しい。
  さらに、第1楽章の第1主題冒頭のわずか2音の動機が徹底して労作されるところに、シェーンベルクの言う「表現の簡潔さと精密さ」という特徴を見ることができる。


マーラーとシェーンベルクの交流と音楽上の影響関係
 
c0050810_2202033.jpg  マーラーは1901年末から1902年の初め頃、おそらくシェーンベルクと出会う以前に、シェーンベルクの《浄夜》の楽譜を見る機会があり、この曲に感銘を受けたという。そして1905年に書かれた《交響曲第7番》では動機労作の手法が《浄夜》と類似している。そしてマーラーは《交響曲第8番》(1906)において動機労作をさらに徹底させ、単一の主題を発展させることで曲全体を作るという手法を確立した。そしてシェーンベルクも同年に、《室内交響曲第1番》において初めて単一主題による手法を用いている。
  マーラーとシェーンベルクがいつ出会ったかについては先行研究の間で諸説あるが、現存の資料からは1903年秋から「創造的音楽家協会」※が発足する1904年4月までの間と推察できよう。彼らはこの団体の活動を通して互いの曲を深く知る機会があり、またマーラーの妻アルマは、当時2人は頻繁に専門的な議論を交わしていたと述べている(アルマ・マーラー『グスタフ・マーラー――回想と手紙』酒田健一訳、白水社、1973年)。このことから、当時マーラーとシェーンベルクの間で如何に親密な音楽的交流があったかが分かるだろう。さらに1905年2月3日のウェーベルンの日記によれば、創造的芸術家協会での演奏会の後、シェーンベルクや彼の弟子たちがマーラーと食事をしている際に、マーラーは「音楽において大きな構造は、後に現れる全ての素材の胚芽を含む単一の動機から発展させられるべきである」と語ったという(F. Wildgans “Gustav Mahler und Anton von Webern” in Osterreichsche Musikzeitschrift, 15 Jahrgang, Heft 6. 1960)。
  このように、マーラーの《交響曲第7番》と《浄夜》や同時期に作られたマーラーの《交響曲第8番》とシェーンベルクの《室内交響曲第1番》の間に手法上の共通性が見られることと、この時期に2人が音楽を通じて密接な交流をしていたことを合わせて見ると、単一主題とその発展による手法は、マーラーとシェーンベルクの相互の影響関係により生まれたと考えることができよう。
  そしてマーラーは《交響曲第9番》においてこの手法をさらに徹底させた。彼の《第8》では冒頭主題の全体が動機労作に用いられるのに対し、《第9》は第1楽章第1主題の冒頭の2音が曲全体の主要動機の素となっている。それにより《第9》はより一層統一性が与えられているのである。つまり《第9》の方が、「少ない言葉で多くを語る」、「表現の簡潔さと精密さ」というシェーンベルクの言葉に当てはまるだろう。


シェーンベルクがマーラーの《交響曲第9番》に着目した背景

c0050810_2215238.jpg  ではなぜシェーンベルクは1917年という時期にマーラーの《第9》に着目したのだろうか。シェーンベルクはこの年にオラトリオ《ヤコブの梯子》の作曲に取りかかった。この曲は6音の集合体により構成されている。つまり6つの音(嬰ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・変イ)を自由に並べ替えることにより諸動機を作るという手法である。曲の構成原理は根本的に異なるものの、「限られた音により曲全体を作る」という方法は、マーラーの《第9》における手法をさらに押し進めたものといえる。
  のみならず《ヤコブの梯子》は徹底した動機労作を突き詰めた1つの帰結点ともいえよう。前述のようにシェーンベルクはマーラーとの相互影響により単一主題による手法を確立した。そして彼は《室内交響曲第1番》以降、音列作法を用いる以前の無調の作品において動機労作をさらに徹底させる。そしてその手法を極限まで推し進めた結果が《ヤコブの梯子》に見られる6音の集合体による作法である。
  つまりシェーンベルクはこの曲によって新たな世界に入った。それは続く12音技法の先駆ともいえる。そのような時期だからこそ自らのそれまでの手法を顧みようとしたのではないだろうか。つまりシェーンベルクはマーラーの《交響曲第9番》の中に、自らがそれまでに行ってきたことの共通点を見出したのだろう。シェーンベルクがマーラーの《第9》に着目した背景にはシェーンベルクのこのような様式変遷の過程があったといえる。
  以上のことから考えて、マーラーの《交響曲第9番》は、シェーンベルクが作曲技法の理論書を書くための材料として理想的なものであったと推察できよう。そしてそれが未完の草稿の中に見られる「あらゆる観点において最も円熟した状態を示している」、「技法の最高点」という言葉に表れているのではないだろうか。

c0050810_22123967.jpg

Arnold Schönberg: Portrait von Gustav Mahler, 1910
c0050810_207274.jpg

c0050810_2073415.jpg

c0050810_2075452.jpg

c0050810_2081275.jpg

[PR]
by ooi_piano | 2015-07-09 21:52 | コンサート情報 | Comments(0)