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Blog | Hiroaki Ooi

c0050810_15572311.jpg2015年9月7日(月)18時半開演(18時開場)
スタジオSKホール(東京都杉並区梅里1-7-7、丸の内線「新高円寺」駅南口徒歩1分) 全自由席/5000円
お問い合わせ tel.03-3992-7256 (菊地)

阿部千春(バロック・ヴァイオリン)+大井浩明(チェンバロ)


●ビアージョ・マリーニ (1594-1663):ヴァイオリンのための変奏ソナタ第3番 (1629)
●ジョバンニ・バッティスタ・フォンターナ (1589?-1631):ソナタ第6番 (1641)
●カルロ・ファリーナ (c.1600-1639):ソナタ “ラ・デスペラータ”(1628)
●マルコ・ウッチェリーニ (c.1610-1680):ソナタ第3番 “ラ・エブレア・マリナータ”(1645)
●ジョバンニ・アントニオ・パンドルフィ・メアッリ(1624-c.1687):ソナタ “ラ・クレメンテ” 作品3-5 (1660)
  (休憩)
●アンジェロ・ベラルディ (c.1636-1694):カンツォーネ第1番作品7 (1670)
   Adagio – Allegro – Presto – Adagio – Canzone Allegro – Presto assai
●アレッサンドロ・ストラデッラ (1639-1682):シンフォニア第6番(1670s)
●カルロ・アンブロジオ・ロナーティ (c.1645-c.1712):ソナタ第5番(1701)
   Largo/Allegro/Largo - Vivace - Largo - Spiritoso - Allegro
●アルカンジェロ・コレッリ (1653-1713):ソナタ作品5-10 (1700)
   Preludio Adagio - Allemanda Allegro - Sarabanda Largo - Gavotta Allegro - Giga Allegro


【使用楽器】
ヴァイオリン:作者不詳 南ドイツ 1700年ごろ
弓     :ハンス・ライナー製作/ザルツブルクの大聖堂で発見された17世紀後半のオリジナルのコピー 
         ラトゥール製作/コレッリモデルのバロック弓
チェンバロ :クラヴサン工房アダチ 2005年製作イタリアン・モデル/ジョヴァンニ・バッティスタ・ジュースティに基づくコピー [提供:石井賢]



プログラムに寄せて──────阿部千春

c0050810_16121769.jpg 17世紀は西洋音楽史上、器楽曲が独立したジャンルを確立していった過程を見る上で興味深い時代である。出版業・楽器製作が盛んであったイタリアは17世紀前半に音楽上の革新の源となる。芸術・宗教・政治の最先端をいく憧れの地イタリアは多くの人々を惹きつけ、旅行ブームが起こる。アルプス以北との交流が盛んになり、音楽家、楽器がヨーロッパ中の教会、宮廷に広まっていった時代でもある。楽譜印刷は貿易産業として国際的に重要で、これは17世紀後半に入るとアントワープ、アムステルダムに中心が移っていくこととなる。

 1600年ごろ、”第2の作法” モノディー様式が、各声部が対等に扱われるルネサンス後期のポリフォニーに代わり全く新しい芸術としてもてはやされるようになる。”言葉 (歌詞)に忠実なしもべ”としての、より劇的な表現を追求した初期モノディーは、対位法的な興味を全て犠牲にしたものだったが、1650年ごろになると過剰な表現を抑制/体系化する動きが強くなる。19世紀終わりにまで渡っての作曲の基盤となる和声システムの発展と並行して、17世紀終わりには様式の均等化の試みが見られ、旋法的ポリフォニーが次第に和声的対位法に溶け込んでいく。のちにジャン・ジャック・ルソーが ”和声が混乱し、転調と不協和音で満たされている”(音楽事典、1768年)と評したように、様々な試みがなされた多様でワイルドな時代であった。

c0050810_18171571.jpg この”発明された”モノディー様式と共に、バロック音楽における特色の一つである通奏低音の慣習も17世紀を通して体系化されていく。16世紀後半に、マドリガルやモテットの演奏の際、欠けている声部や弱い声部を補う伴奏法が広まった。対位法の最上部は独唱として劇的で表情豊かに演奏されるようになり、他のパートは器楽奏者(オルガン、チェンバロ、アーチリュート等)が受け持つようになる。こうして、数字付き低音という簡略化されたシステムが確立した。数字付き低音(バッソ・コンティヌオ)が記された最初のものは1600年の出版だが、実際のところは歌手の伴奏の慣習として、宮廷や教会の音楽家によく知られていたのである。
通奏低音は1680年ごろにはヨーロッパ中に広まり、バロック時代のみならず、特に教会音楽においては19世紀まで使用された。

 最新のイタリアのスタイル”モノディー様式”と並行して、古いスタイルである厳格な対位法”スティレ・アンティコ”  -パレストリーナ様式- は、生きた伝統として現代にまで重要視されている。この二つの様式から、特に器楽曲で発展した調的対位法が17世紀に現れる。通奏低音の和声的なテクスチャー、長・短調システム、不協和音のさらに自由な使用法、フィグレーション(音型の使用による旋律・和声進行の装飾)などによって、調的対位法は整えられていった。コレッリの後期ソナタに見られるような、調性に根ざしたフーガ的な書法がここに成立する。



17世紀におけるヴァイオリン音楽と楽曲形式の発展

c0050810_18182872.jpg モノディー様式の誕生と共にルネサンス後期から独立したジャンルとして認められ始めた器楽音楽は、17世紀にさらに発展し、独自の音楽形式を築いていく。17世紀初頭において、ソナタという言葉はカンツォーナ、シンフォニア、カプリッチョ、コンチェルトといった言葉と同様、器楽曲という意味で用いられていた。この頃のソナタは性格の違う幾つかの部分からなる、単一楽章形式である。

 ヴェネチアはそのサンマルコ大聖堂を中心とした音楽活動で、また楽譜出版業や楽器製作において、17世紀前半までにおけるヨーロッパ音楽界の最先端をいく街であった。この時期に出版されたヴェネチアの作品には、多数のオルガン音楽、そして合奏のための”独立した”器楽曲(ソナタやカンツォーナといった曲も含まれる)がある。これらはおそらく教会儀式で、前奏曲あるいは後奏曲として使用されたと思われる。音楽家たちは至る所で行われる特別行事のため、また宗教奉仕団体(スクオーラ)での様々な行事において、高度な演奏を要求された。
  ビアージョ・マリーニの作品8、ジョバンニ・バッティスタ・フォンターナの1641年に出版された器楽曲集、マルコ・ウッチェリーニの作品4はこのような背景におけるヴェネチアでの出版である。

c0050810_18203253.jpg ビアージョ・マリーニ(1594-1663)はヴェネチアにおけるヴァイオリン奏者の第一人者であった。ブレシア出身のマリーニは叔父から教育を受け、フォンターナの弟子でもあったと言われる。モンテヴェルディが1615年にヴェネチアのサンマルコ大聖堂の楽長に就任した際、まず雇ったのがマリーニであった。同様にブレシア生まれのジョバンニ・バッティスタ・フォンターナ(1589-1631)はヴァイオリンのヴィルトゥオーゾとしてヴェネチア、ローマ、パドゥアで活躍する。現在残っている唯一の作品集(1641年)には様々な編成による18曲の器楽曲が収められているが、特に独奏楽器のために書かれたソナタは、マリーニの作品と並んでソロパートを通奏低音の土台の上に自由に展開したソナタ発展上の最初の試みとして注目される。
 マルコ・ウッチェリーニ(c.1610-1680)はフォルリンポポリで生まれ、1639年までにすでに2冊の作品集を出版。モデナのエステ家宮廷、大聖堂で活躍後パルマに移り、器楽曲の他に劇音楽も作曲、マリーニ、フォンターナといった先人たちの作風から、さらに表現豊かなスタイルを確立する。3オクターブに至る音域、カノン技法、遠隔への転調、半音階技法の使用でヴァイオリン音楽の可能性を広めた。
 マントヴァ出身のカルロ・ファリーナ(c.1600-1639)は1625年、ハインリヒ・シュッツ率いる独・ドレスデンの宮廷楽団に迎えられる。記録では1628年まではドレスデンに滞在したようであるが、この間に計5冊の作品集を出版する。その後、ドイツ、イタリアの宮廷を転々とし、1639年にウィーンで没する。マントヴァ/ゴンザーガ家の宮廷は小さいながら当時のイタリアのなかで最も進んだ音楽都市のひとつとして名高く、ルネサンス時代から最良の音楽家を採用していた。クラウディオ・モンテヴェルディは1601年から1612年までここの宮廷楽長を務めている。こうした音楽的伝統を受け継ぎながらドイツの様式も取り入れた彼の作曲技法はヴァイオリンソナタにもよく現れている。重音奏法、音域のさらなる拡張、音の跳躍や素早いポジション移動といった技巧、また標題音楽の書法は、アルプス以北のヨハン・ショップ、ハインリヒ・シュメルツァー、ハインリヒ・イグナーツ・ビーバー、ヨハン・ヤコブ・ヴァルター、ヨハン・パウル・ヴェストホーフといった一流のヴァイオリニスト達に大きな影響を与える。
c0050810_1826111.jpg 1624年にイタリア・トスカーナ地方のモンテプルチアーノに生まれたジョバンニ・アントニオ・パンドルフィ・メアーリ(1624-c.1687)の名は、1660年インスブルックに見られる。領主フェルディナンド・カール・フォン・エスターライヒ夫妻はドイツ語圏で最初のオペラ劇場を作ったほどの音楽愛好家であり、数多くの音楽家が作品を献呈している。高名なヴァイオリン製作者ヤコブ・シュタイナーも1658年から宮廷に仕えていた。メアーリはそこで1665年までヴァイオリニストとして活躍したようで、作品3、4(1660)はインスブルックでの出版であった。表現に富んだ作風には明らかに”Stylus Phantasticus"(スティルス・ファンタスティクス:器楽の劇的な即興様式。17世紀初頭にイタリアで使用され、のちにドイツ語圏にも広まる。半音階技法、不協和音の効果的な使用、トッカータなどに見られる即興的パッセージの使用など。バッハの半音階的幻想曲もその一例である。)の概念が見られる。

c0050810_18275433.jpg 17世紀半ばになるとソナタは単楽章形式から複楽章に分かれていき、室内ソナタ、教会ソナタという2種の形態を取るようになる。緩-急-緩-急という構成をとる教会ソナタに対して、室内ソナタはフランスの組曲形式からの影響を受け、前奏の後に舞踏形式が続くと定義される。しかし、音楽が奏された場所、状況によってはその区別は曖昧である。

 30年戦争(1618-1648)、度重なるペストの流行(前述のファリーナはペストに罹患し没している)の影響を受けず勢力を維持し続けたのは、キリスト教会である。その中心ローマは、ヨーロッパ随一の芸術の都として栄えた。教皇、ヴァチカン、他の教会/信心会のみならず、貴族、他国からの王族(スウェーデンのクリスティーナ女王、ポーランドのマリア・カジミエシュ女王)がパトロンとなり、活発な音楽活動が展開される。
 特にヴァチカンはその絶対的権力をもって時には個人の音楽生活をも支配し、”背徳と道徳的混乱の温床である” オペラの上演を禁止することも度々であった。

c0050810_18285737.jpg 教会音楽家、オルガニスト、理論家として活躍したアンジェロ・ベラルディ(c.1636-1694)は数多くの理論書、教会音楽を残しているが、現存している器楽音楽は1670年にボローニャで出版された作品集作品7のみである。メアーリのソナタと同様、カンツォーネ、シンフォニアと題された彼の器楽曲は様々な性格の部分が繋がった形式である。各部分にはしかし明確なテンポ/曲想の表示があり、旋法と調性の融合、新旧の技法を組み合わせる試みが見られる。
 アレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682)、カルロ・アンブロジオ・ロナーティ(c.1645-c.1712)はローマで活躍した、コレッリの一世代前の音楽家達である。早くに父親を亡くしたストラデッラは、兄弟とともに母に連れられてローマにやってくる。そこで音楽教育を受け、次第に作曲家として知られるようになる。1655年にローマに到着し、以来高度な文化サロン(アッカデミア)を主催していたスウェーデン女王クリスティーナのもとで、ストラデッラはロナーティと出会う。ナポリで歌手、ヴァイオリニストとして活動していたロナーティは1668年ごろローマにやってきたが、遅くとも1673年にはこの女王に仕えるようになり、”Il Gobbo della Regina "(女王のせむし男)というあだ名で呼ばれていた。
c0050810_18343534.jpg 1675年、教皇クレメンス10世はすべての劇場活動の禁止令を出すが、ストラデッラは今度はオラトリオ、カンタータなどの教会音楽作曲で名声を得る。1676年、ストラデッラはスキャンダル発覚でローマを余儀なく去ることになり、まずヴェネチアに向かう。そこで歌の生徒と駆け落ち、2人でトリノに逃げるが刺客に狙われ、さらにジェノバへ向かうことになる。ジェノバの貴族達の歓待を受け、ここの劇場に1677年から働いていたロナーティと再会、ローマ以来の親密な関係がつづく。が、ストラデッラは1681年に暗殺される。その後ロナーティはミラノにその死まで滞在した。
 ストラデッラは当時としては例外的にフリーランス音楽家として、多方面に渡る創作活動を続けた。そこには新しいスタイルに常に挑戦する姿勢が見られる。例えば、コレッリに先立って独奏と合奏のコントラストを手段とするコンチェルト・グロッソの様式を取り入れた。
 現存する12曲のヴァイオリンと通奏低音のためのシンフォニアは、教会ソナタ形式を取っている。4楽章形式が多いが、舞曲の楽章を加えたものも多い。楽章は切り離されていないが、テンポ・拍子によってはっきり区別されている。
 一方ジェミニアーニの師であったとも言われるロナーティの1701年のソナタ集は、彼のヴァイオリニストとしての活動の集大成ともいえよう。ドイツ・オーストリアの高度なヴァイオリン技法を取り入れた書法で、のちにフランチェスコ・ヴェラチーニは”今世紀一のヴァイオリニスト”と褒め称えている。彼のソナタでは各楽章の区分がはっきり記されている。

c0050810_1840544.jpg アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、当時ヨーロッパ全土に名を馳せた巨匠である。1670年ごろにボローニャのアカデミア・フィルハルモニカのメンバーになり、ボローニャ楽派に属する著名なヴァイオリニスト達のもとで研鑽を積む。1675年にローマにやってきた彼は、オペラ禁止令の中で盛んであった教会音楽にまず参加。教会や各宗教団体、また枢機卿(コロンナ、オットボーニ、パンフィーリ)、貴族(ルスポーリ公)、他国からの王族(スウェーデン女王クリスティーナ、ポーランド女王マリア・カジミエシュ)といった個人の音楽保護者のもとでの、ローマ特有の”聖”と”俗”の音楽活動における、中心的存在となっていく。1677年にはスウェーデン女王クリスティーナにロナーティの後任として仕え、そこでアレッサンドロ・スカルラッティと知り合う。また1690年から1713年にかけてはオットボーニ卿に指揮者として雇われていた。
 彼の出版物は6つの曲集のみと極めて少ないが、12のヴァイオリンソナタ集作品5(1700)はイタリア、パリ、アムステルダム、ロンドンで急速に発展した出版産業を通してヨーロッパ各地にベストセラーとして広まる。それまでに確立されていた形式に従いながら、声楽的なベルカント旋律や、不協和音を効果的に用いた対位法による厚い響きは、生前に15もの版を出すほどのヒットとなる。18世紀中にはまた様々なアレンジも出版された。弟子ジェミニアーニによるコンチェルト・グロッソへの編曲もそのひとつである。当時の音楽家達がソロパートに装飾を施したものも多数残っている。音楽が産業として成り立っていたロンドンにおいては、ジェミニアーニ、ヨハン・ヘルミク・ルーマン、またヘンデルのメサイア初演でコンサートマスターを務めたアイルランド・ダブリンのデゥボーグといったヴァイオリニスト達の装飾版が残されている。


当時の音高について            

c0050810_18521452.jpg ピッチ(音高。現在では1939年に国際会議で定められたa´=440Hzが基準として使われることが多い。)は、社会的・政治的背景を反映したものであった。当時製作されたオルガン、管楽器などの音高や残されている記述から、その変動の歴史が研究されている。
 17世紀前半の楽器製作の中心であったヴェネチアでは464Hz前後と現在よりも約半音高いものであった。このピッチはイタリアの楽器、音楽家が各国に広まるにつれ、先方の教会、宮廷に導入される。例えばシュッツが率いるドレスデンの宮廷においてもこの高いピッチが使われていた。
しかし歌手にとってこのピッチは高すぎることが多く、”tuono corista“と呼ばれる器楽より一音低いピッチも同時に存在していた。
 イタリアの中でもピッチは地方によって様々で、ローマでは390Hz~394Hzと現在より一音低い一方で、ミラノのオルガンのピッチは495Hzであった(器楽ではヴェネチアと同じく464Hz前後であった)。1670年ごろからフランスの国際的な台頭に従ってフランス音楽文化がヨーロッパに急速に広まり、弦、管楽器にフランスの低ピッチ(380Hz~392Hz)を用いる宮廷が増える。
 イギリスではピッチにおいて独自のシステムが存在した。18世紀前半の、例えばヘンデルのオーケストラのピッチは423Hzだったという。
本日の演奏プログラムは、前半は17世紀前半のヴェネチア/またその影響下にあった作品、後半は17世紀後半のローマを中心とした作品を、またコレッリの演奏例として、18世紀前半のデゥボーグの装飾(1725年ごろ)を取り上げた。複数の楽器での実現が困難なため、”妥協” として415Hzでの演奏である。(阿部千春)

阿部千春(バロックヴァイオリン) Chiharu ABE, baroque violin
c0050810_18551591.jpg  5歳よりヴァイオリンを始める。塩川庸子氏、尾島綾子氏、前澤均氏、金倉英男氏、村上和邦氏、菊地俊一氏に師事。武蔵野音楽大学卒業後、ドイツ・シュツットガルト国立音楽大学でスザンネ・ラウテンバッハー氏に師事。在日中より菊地俊一氏、永田仁氏を通して古楽に関心を持っており、1994年トロッシンゲン国立音楽大学古楽科に入学、バロックヴァイオリンをジョルジオ・ファヴァ氏に師事。ディプロム終了後、同大学院にてフランソワ・フェルナンデス、エンリコ・ガッティ、ジョン・ホロウェイ各氏のもとで研鑽を積む。1999年、ドイツ産業連盟・ドイツ財界文化部主催の”古楽・弦楽器コンクール”にて特別奨励賞を受賞。2000年、大学院修了後、スコラカントルム・バジリエンスィス(バロックヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ)、ケルン国立音楽大学(古楽科室内楽専攻)に在籍。在学中より、オーケストラ/室内楽奏者、ソリストとして数多くの演奏会、CD、各地放送局の録音に参加、ヨーロッパ各国に活動範囲を広げる。2000年秋、ミシェル・コルボ氏の来日公演にて、マタイ受難曲の第2コンサートマスターを努めコルボ氏の絶賛を受ける。以来、日本にてリサイタル活動も始める。現在、ドイツ・ケルンに在住。コンチェルトケルン他において活動。ヴィオラ・ダモーレ奏者としても活動。国内においては2009年から2012年にかけて大井浩明氏とのモーツァルト・ヴァイオリンソナタ全曲シリーズを完結。 Foto: (C) Yamato Hasumi


cf.モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集(阿部千春+大井浩明) (クラシカル・ヴァイオリンとフォルテピアノによる全曲チクルス) 第一回(パリ・ソナタ集 K.301-306) [2009.07.25]、 第二回(アウエルンハンマー・ソナタ集 K.296, K.376-380) [2010.10.13]、 第三回(K.359/360/404/454/481/526/547) [2012.2.10]

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by ooi_piano | 2015-08-29 08:38 | All'Italiana2015 | Comments(0)

c0050810_3384751.jpg≪All'Italiana 2015≫シリーズ感想集
http://togetter.com/li/810311



大井浩明 連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫
山村サロン(JR芦屋駅前)
予約/問い合わせ: 山村サロン http://www.y-salon.com/

【第三回公演】 2015年8月28日(金)19時開演(18時半開場)
フランコ・ドナトーニ ピアノ作品集 (歿後15周年)

ドナトーニ(1927-2000):《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957)(日本初演) 約20分
同:《抜刷 Estratto》(1969) 約2分
同:《韻~2つの小品 Rima》(1983) 約10分
湊真一(1965- ):ピアノ独奏のための《六花(りっか)のトッカータ 第1024番 [Toccata ricca No.1024] 》(2015、委嘱新作初演)  約5分

(休憩15分)

ドナトーニ:《フランソワーズへ A Françoise》(1983)(日本初演) 約1分
同:《フランソワーズ変奏曲(1~49) Françoise Variationen》(1983/96)(日本初演) 約40分


湊真一 Shin-ichi MINATO, composer
c0050810_8551914.jpg  北海道大学大学院情報科学研究科 教授。大規模離散構造データの表現と処理アルゴリズムの研究・教育に従事。京都大学大学院 博士課程修了。博士(工学)。1990年度より2003年度までNTT研究所に勤務。1997年 米国スタンフォード大学 客員研究員(1年間)。2004年4月 北海道大学 助教授、2010年10月より同教授。著書 "Binary Decision Diagrams and Applications for VLSI CAD" (Kluwer, 1995年) 他。2012年8月~2013年4月 日本科学未来館メディアラボ第11期展示「フカシギの数え方」出展。電子情報通信学会シニア会員、情報処理学会シニア会員、IEEE、人工知能学会 各会員。 http://art.ist.hokudai.ac.jp/~minato/index-j.html


湊真一《六花(りっか)のトッカータ 第1024番》(2015、委嘱新作初演) 
c0050810_3412850.jpg  札幌の夏と言えば、爽やかな風が吹き抜ける大通公園の芝生の上で、新鮮な生ビールで乾杯、というイメージを持たれる方も多いだろう。当地に移り住んで12年目になるので、もう身体が慣れてしまって、ちょっと暑いと文句を言ってしまうが、夏場に東京や関西に出張すると、札幌で暑いと言っていては罰が当たるなと思う今日この頃である。
  さて、今回初演される《六花のトッカータ 第1024番》は、私が以前に監修した日本科学未来館のYouTube動画「フカシギの数え方」(再生回数167万回)と深い関わりがある。この動画は、おねえさんが子供たちに「同じところを2度通らない経路の数」を教えようとして25万年の時が流れてしまうという、想像を絶する物語である。
  3つの音素を組み合わせる最も基本的な和音として、長三和音と短三和音およびそれぞれの転回形を考えると、例えばCを基音とした和音はCEG/CEA/CEsG/CEsAs/CFAs/CFAの6通り存在するので、12平均律で計72通りの三和音を作ることが出来る。ここで、3つの音のうち1音だけをずらして別の和音に移動できるとき、それらの和音は隣接していると呼ぶことにする。72個の和音の隣接関係を図にすると、六角形の雪の結晶(六花とも呼ばれる)に似た美しい幾何学模様が構成される。
  この図の中で、白鍵だけの和音049(CEA)と047(CEG)を、それぞれスタートとゴールに決めたとき、同じところを2度通らない経路(和音のシーケンス)は157億0282万1337通り存在する。さらに72個の和音すべてをちょうど1回ずつ通る経路が可能かどうか調べたところ、20464通りだけ存在することがわかった。(これらの計算には最先端のアルゴリズム技術を要する。)その中の1つ、1024番目の解を使って構成したのが《六花のトッカータ 第1024番》である。ひたすらに経路を数える「フカシギおねえさん」の執念を感じていただければ幸いである。初演を楽しみにしている。(湊真一)

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ドナトーニ歿後15周年に寄せて───杉山洋一

c0050810_3451729.gif  北イタリアはヴェローナの有名なアレーナがある旧市街の中心からアディジェ河を越え3キロ程ゆくと、サンタクローチェと呼ばれる地区があって、通りに音楽家の名が冠された一角がある。プッチーニ通り、ペルゴレージ通り、アレッサンドロ・スカルラッティ通りといったオペラ作曲家の界隈の向こうに、ノルマ通りやトスカ通り、ヴェローナだからリゴレット通りも勿論ある。マリア・カラス通りなど、歌手の名を冠した一角まであり、アレーナありきのヴェローナらしい。こうした通りはどの街にもあるわけではない。

  その音楽家界隈の中心を東西に延びるのがヴェルディ通りで、一本南を短いポンキュエルリ通りが並走する。こう書くとどんなに美しい界隈を想像するか知れないが、実際は薄茶色か黄土色に塗られた5、6階建てのありきたりのマンションが並ぶ、変哲も色味もない郊外の新興住宅地の一つに過ぎない。こうした住宅地にはしばしば子供たちが遊ぶための緑地帯があって、ベンチが数台、水のみ場とパステルカラーの小さな滑り台やら、ゴム製のブランコなどが人口芝の上に味気なく置いてある。

  ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りの間にあるこの典型的な緑地帯が、ヴェローナ市によって「フランコ・ドナトーニ遊園 Parco Giochi Franco Donatoni」と名付けられたのは、2年前の秋2013年11月のことだった。興味があればグーグルマップでVia Amilcare Ponchielli 12, Veronaと検索してみると良い。アスファルト敷きの駐車場の傍らに「ドナトーニ遊園」がささやかに眺められる筈だ。この余りにありふれた緑地帯がドナトーニらしい。わざわざ小雨のなか、関係者を集めて命名式まで執り行われ、次男のレナートが謝辞を述べた。

c0050810_3471653.gif  遡ること更に2年2011年7月、ヴェローナ市は、ヴェローナの記念墓地にある「Ingenio Claris-類まれなるものたち」霊廟の石碑に、ドナトーニの名を加える決定をした。これは霊廟に入ってすぐ目の前に鎮座する高さ2メートルほどの白い石碑で、ヴェローナに所縁があり記念墓地に埋葬された功労者たちの名が、生没年と共に連綿と刻まれている。ドナトーニと同時に刻印の決定がなされたのが、1967年に没した歴史学者アントニオ・アヴェーナや、1世紀以上前の1860年に没した爬虫類学者のアブラモ・マッサロンゴなのを鑑みれば、2000年没のドナトーニが早々に功労者合祀霊廟に奉られる意味の重さが伺われる。

  生前ドナトーニはさも愉快そうに、没後2年程の間にかつて無いほど演奏されるのは有名だった証拠、没後5年で回顧展なら先ず先ず、没後10年で未だ演奏されるなら本物、没後20年で演奏されれば天才、没後50年で演奏されれば天才中の天才、没後100年で演奏されれば神掛かり、と繰返していたから、没後15年の遠く離れた日本で彼のピアノの回顧展に、満足げに北叟笑んでいるに違いない。昨年ミラノでは彼の室内楽を半年かけ相当数演奏する試みが行われたし、パルマ国立音楽院でドナトーニの大規模な学会が催されたりと、没後10年の声を聞いて彼の作品の再評価に繋がった感がある。平板な言い草だが、先入観や固定概念抜きで漸く音楽を素直に受け入れる土壌が生まれたのだろうか。

c0050810_3491233.gif  不思議な彼の苗字Dona-toni、ラテン語風なら「明快な声を与える人」とでもなるこの苗字と矛盾するように、生涯、自らの存在を音楽から払拭しようと試みた。ドナトーニは折につけ、音符の裏には何もない存在しないと断言して憚らなかった。彼に情念という概念があったか定かではないが、音に情念を込めることはなく、端から見ていて特に愉しく書いていると感じたこともなかった。

  淡々とバランスや誤りに気をつけながら音を並べる。丁寧に縦を揃えて書くのは、几帳面に整頓された彼の仕事部屋や、服装に頓着しないドナトーニが髪だけは毎朝丁寧に撫で付けていたのに似ている。ルーティンは本来否定的に用いられる言葉だが、自らの存在否定によってのみ人生を肯定できる人間にとって、それは否定的な意味にはなり得ない。

  そうして身嗜みを整え颯爽と愛車のトヨタを走らせると、方向感覚がなくて路頭に迷った。最近は「ワルキューレの騎行」をかけながら作曲するのが好き、と笑っていたと思えば、数分後には助手席の私に地図を見て欲しいと懇願することも屡だったが、そんな出来事すら作曲の授業に於いては、所定の路程を走らせ時間通りに着くのと、道に迷いつつ面白い発見や美食に舌鼓を打ち、何時しか目的地に到着するのではどちらが良いか、といった薀蓄に昇華された。生徒たちは当然ながら道に迷って発見と美食を嗜みたいと応えるので、彼は何時まで経ってもあの音楽院への道を覚えなかった。当時携帯電話もカーナビもなかったけれど、開始がいつも少し遅れる以外別段問題にはならなかった。

c0050810_3504231.gif  作曲であれ人生であれ、ドナトーニは自らより大きな存在、神か運命か定かではないが、その存在に自分が導かれるのを受容し信じていて、その存在に拮抗したり対峙することはなかった。尤もそれは今だから理解されるのであって、本人は生前常に苛まれながら人生を歩んでいたに違いない。彼は無神論者だったが、不可視の何某の価値を無意識に信じ、自らはぺトラッシやバルトーク、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンのような天才ではない、という出発点に立ち、彼らのように自らを道を開拓して、自らの世界をそこに築き上げる人生観とはまるで正反対に、ドナトークと揶揄されてもぺトラッシやバルトークに心酔し、ダルムシュタットでシュトックハウゼンに、ミラノのベリオ宅では奇妙なケージの奔放さにそのまま靡(なび)いた。音列技法や偶然性を導入し、自己否定と自己放擲に押し潰されながら、気がつくと意図せず今の場所に辿り着いていた。それがドナトーニの音楽であり、人生だった。

  ドナトーニが長年住んだミラーニ通りの小さなアパートは、陽が差さない裏通りに面した部屋が仕事部屋で、いつも薄いカーテンが掛かっていたから昼間でも薄暗く、書架には無数の哲学書が整理され並んでいた。小さな廊下を跨いで反対側、表通りに面して小さなダイニングキッチンがあって、窓が大きかった為かそこはいつも明るかった。小さく質素な食卓脇には見事な臀部を晒した妙齢のピンナップが4、5枚壁に留めてあって、何時も彼女たちに目をやりつつ一緒にコーヒーを飲んだ。当時、そんな生活の一端一つ一つが内包する、途轍もない渇きや不条理観など分かるはずもなく、振り返ってこちらに微笑む、麦藁帽子の妙齢の背中を眺めていただけだった。

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c0050810_3521155.gif  何年か前に東京で彼の個展をサントリーで催した際、休憩中に舞台で岡部さんからインタビューを受けた。ドナトーニから何を学びましたかと尋ねられ、「音の意味ではないでしょうか、音楽の意味でなく、彼にとって音そのものが持つ意味を、学んだ気がします」と答えた。

  自己否定を受容する際の虚無感と孤独は、音楽を信じられぬ程強固に、凶暴とすら呼べる程までの高みに引き上げる。恐ろしくもあったが、そこには人間の感情を異様に掻き乱す魅力がある。それについて彼に何か説明を求めても、ドナトーニ自身には、特に何の特別の感情もなく、何かを受容れ淡々と書いているに過ぎないので、書いてしまった音に対して、通り一遍の技法の説明以外は何も語る事はなかった。それを霊感と呼ぶべきものかどうかもよく解らない。

  没後15年経って見えてきたのは、正にその部分だ。ドナトーニの書法が彼の音楽の魅力だという偏見は、流石に淘汰されつつある。謂うまでもなく、彼の書法はそのものは実に単純で、その部分のみを説明するのは、近代西洋言語の多くがSVOと並んでいると説明するに等しく、ほぼ意味を成さない。

c0050810_3532650.gif  ヴェローナのヴェルディ通りの端まで辿り着くと、ロータリーでメフィストーフェレ通りにぶつかる。このメフィストーフェレ通りは思いがけなく長く、北へ北へ田園地帯を延びる。幼少期、ドナトーニがアレーナのオペラを愉しみにしていた頃、特にボーイトの「メフィストーフェレ」を気に入っていたという逸話が、ささくれの様に妙に心に残った。

  「ファウストの死」の最後でファウストが天に召される壮大な舞台、天使たちの歌声、悪魔が口笛を吹いて去ってゆく姿など、どんな子供にとっても心躍る、圧巻で魅惑に満ちた体験に違いない。ただ、ドナトーニ少年が熱狂した厳めしいオーケストレーションや、どこか押し殺したような旋律、悪魔の視点から眺めた無常観に支配された舞台といい、後年のドナトーニの音楽に通じる気がする。ボーイトはワーグナーの音楽に強く影響を受けた作曲家で、ドナトーニがワルキューレをかけながら作曲していると聞いたから尚更なのだろう。ドナトーニ少年の家族は寧ろプッチーニやヴェルディを好んだ。

  指揮のポマーリコとドナトーニの音楽について話した際、演奏不可能な程早い速度指定の「In Cauda II」のテンポ設定について、ポマーリコはディオニュソス的狂気が聴こえてこなければならないから、多少の犠牲を払っても極限まで早く弾くべきだと主張し、私は全ての音が明確に聴こえなければ、恐ろしさが伝わらないと応えた。彼は初めから終わりまで駆り立てられて鬩ぎつつ演奏すべきだと云い、私は少しずつ饗宴は高潮してゆき、遂には狂気に呑み込まれるべきだと応えた。メフィストーフェレとワルキューレが、ディオニュソスとは正格には対応しないだろうが、その辺りにドナトーニの音楽の本質が浮かび上るのは確かだろう。明らかに破綻した何か。自らから引き剥がされ、理知的ではない何某かが作用した結果もたらされる、原始的で直截な音。

c0050810_3544556.gif  「プロム」の補完の際、リコルディのマッツォッリーニが送ってきた楽譜は、今も丁寧に仕舞ってある。「蚯蚓がのたくったような」と昔は思っていたけれど、実際に自分でその楽譜を演奏して初めて、その崩れた筆跡の奥で彼を突き動かしていた何かこそが、ドナトーニの音楽の本質だと理解した。発作後覚束ない手で書き留められた、目に見えないディオニュソス的な衝動こそ、この作品の演奏に於いて表現されるものだと悟った。

  再構成を試みた当時は、その音符一つ一つを徒に検証し、如何に論理的な解決点を見出せるかしか考えていなかった。それは間違っていなかったかも知れないが、当時自分が探して求めていたものは、音楽の本質ではなかった。

  各音符はアルファベットに過ぎず、因って文章を組立てるためには一定の規則に則りそれらを並べる必要はある。アルファベットで書かれた文章を理解するなら、当然文字配列の分析で終る筈ばなく、その先の深い考察が必要だった。「プロム」の楽譜を受け取った当時20代最後の年で、その重圧に耐えるだけで精一杯だった。藁にもすがる思いで、各音符を読み取るべく躍起になるばかりで、その傍らで彼の音楽に巣食う大きな闇がぽっかりと口を空けている様など、想像も及ばなかった。

  彼は生前、繰り返し書いているうちに手が規則を覚え、手が規則になると語ったけれど、今となってはそれが少し解る。自動書記的な彼の作法は、ある時から規則ではなく、古代の預言者たちが発した言葉を、誰か第三者が書き留めるような姿に変化していた。端から見れば、何も以前と何も違わないように見えただろうけれども、ここで彼の音楽の本質は自己欠如そのものであって、彼の音楽の強靭で超人間的な響きは、文字通りのディオニュソスであった。

c0050810_3571094.gif  大量の抗糖尿病と時に精神安定剤がゴムで束ねられ、ピンナップ写真の丁度臀部の前辺りに雑然と積んである。ドナトーニの音楽に明るさや軽さを見出すとき、それは恐らく自然な発露の結果とは呼べないかも知れない。メフェストーフェレに誂えてもらった張りぼての至福かもしれないし、向精神薬で笑わされた喜びなき笑いかもしれない。

  ドナトーニが没してから我々が少しずつ理解してきたのは、そんな彼と音楽との絶望的な距離感ではなかったか。皮肉なことに、その距離感こそが彼の音楽を際立たせ、虚無の音符の裏側に、無限に広がる果てしない宇宙を映し出す。

  彼の音に気持ちを込めてはならない。彼はそれを望んでいなかった。彼は目の前で音楽が紡がれてゆくのを、預言者のように無条件に受容れ、じっと観察していたに過ぎない。そして我々は、誰にも帰属しない音符の持つ恐ろしい程の意志の強さを、等しく受け留めなければならぬ。彼は確かに音楽に「明快な声を与える」ことに成功し、それを書き残すことに成功した。

  時間には僅かな重さがあって、目に見えぬほど少しずつ、ただ永遠に積り続ける。

  (2015年7月25日ミラノ 杉山洋一)



「フランコ・ドナトーニについて」(杉山洋一) その1 その2 その3 その4 その5 その6

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by ooi_piano | 2015-08-28 01:21 | All'Italiana2015 | Comments(0)

連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫@芦屋

山村サロン(JR芦屋駅前)
予約/問い合わせ: 山村サロン http://www.y-salon.com/

【第一回公演】 2015年6月14日(日)18時開演
c0050810_433922.jpgルチアーノ・ベリオ 全ピアノ作品 (生誕90周年)
ルチアーノ・ベリオ(1925-2003):《小組曲》(1947)、《5つの変奏曲》(1953/66)、《水のピアノ》(1965)、《セクエンツァIV》(1966)、《土のピアノ》(1969)、《巡回(ラウンズ)》(1965/67)、《大気のピアノ》(1985)、《火のピアノ》(1989)、《ソナタ》(2001)
剣持秀紀(1967- ):ピアノ独奏のための《ピンチェ》(2015)


c0050810_456914.jpg剣持秀紀 | KENMOCHI Hideki
  1967年静岡市清水区(旧清水市)生まれ。1993年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。同年ヤマハ(株)入社。消音装置の開発など音響技術系の事業に従事。1996年エル・アンド・エイチ・ジャパン(株)に出向、音声合成に関する研究を開始。1999年ヤマハ(株)復職。2000年3月、研究チームのリーダーとして「ボーカロイド」の開発を始め、04年に初の製品を発売。12年、同社yamaha+推進室VOCALOIDプロジェクトリーダー。現在、(株)YAMAHA事業開発部ニューバリュー推進室室長。


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c0050810_4333526.jpg【第二回公演】 2015年7月24日(金)19時開演
ジャチント・シェルシ ピアノ傑作撰 (生誕110周年)
ジャチント・シェルシ(1905-1988): 組曲第8番《ボト=バ》(1952)、《アクション・ミュージック》(1955)、組曲第11番(1956)、《アイツィ》(1974)
川崎弘二(1970- ):ピアノ独奏のための《木賊》(2015)


c0050810_4593938.png川崎 弘二 | KAWASAKI Koji
  1970年大阪生まれ。2006年に「日本の電子音楽」、09年に同書の増補改訂版(以上 愛育社)、11年に「黛敏郎の電子音楽」、12年に「篠原眞の電子音楽」、13年に「日本の電子音楽 続 インタビュー編」(以上 engine books)を上梓。CD「NHK 現代の音楽 アーカイブシリーズ」(ナクソス・ジャパン)における黛敏郎、湯浅譲二、松平頼暁、林光、石井眞木、一柳慧、実験工房の解説をそれぞれ執筆(2011〜13年)。2011年から雑誌「アルテス」にて「武満徹の電子音楽」を連載。2014年にNHK Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校 電子音楽編」に小沼純一、三輪眞弘と出演。


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c0050810_4343668.jpg【第三回公演】 2015年8月28日(金)19時開演
フランコ・ドナトーニ 主要ピアノ曲集 (没後15周年)
フランコ・ドナトーニ(1927-2000):《3つの即興》(1957)、《抜刷》(1969)、《韻》(1983)、《フランソワーズ変奏曲》(1983/96)、《フランソワーズへ》(1988)
湊真一(1965- ):ピアノ独奏のための《六花(りっか)のトッカータ》(2015)


c0050810_544580.jpg湊真一 | MINAO Shin'ichi
  北海道大学大学院情報科学研究科アルゴリズム研究室 教授。科学技術振興機構(JST) ERATO湊離散構造処理系プロジェクト研究総括(兼務)。大規模離散構造データの表現と処理アルゴリズムの研究・教育に従事。京都大学大学院博士課程修了。工学博士。1990年度より2003年度までNTT研究所に勤務。2000年 情報処理学会山下記念研究賞、2005年度および2008年度人工知能学会研究会優秀賞、2010年電子情報通信学会情報・システムソサイエティ論文賞(先見論文)。著書 "Binary Decision Diagrams and Applications for VLSI CAD" (Kluwer, 1995年)。2012年8月~2013年4月 日本科学未来館メディアラボ第11期展示「フカシギの数え方」出展。



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川崎弘二「日本の電子音楽」http://www.amazon.co.jp/dp/4750003549
湊真一「組み合わせ爆発おねえさん」 https://www.youtube.com/watch?v=Q4gTV4r0zRs
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by ooi_piano | 2015-08-03 08:26 | All'Italiana2015 | Comments(0)