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10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会

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ブソッティ《ラーラ・フィルム》 生演奏付き上映会

c0050810_1958386.jpg2015年10月6日(火)19時開演(18時半開場)
渋谷・公演通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5、東京山手教会B1F) 全自由席3000円
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp http://k-classics.net/

日野原秀彦+大井浩明(二台ピアノ)、薬師寺典子(ソプラノ)、恩地元子(プレトーク)
Hidehiko HINOHARA+Hiroaki OOI, pianos / Noriko YAKUSHIJI, soprano / Motoko ONCHI, introduction

シルヴァーノ・ブソッティ(1931- ):《タブロー・ヴィヴァン(「サドによる受難曲」に先行する活人画) Tableaux vivants avant 'La Passion selon Sade'》(1964)〔約15分〕
 (休憩)
●シルヴァーノ・ブソッティ:《ラーラ(フィルム) - 未公表ミュージック・シーケンスによる新編集版 RARA (film), Nuovo montaggio d’inedite sequenze musicali》(1967-69/2007、日本初演)〔約70分〕

  (※)《ラーラ・フィルム》出演者・・・ Laura Betti, Carlo Cecchi, Romano Amidei (=RARA), Anita Masini, Mario Masini, Pippo Masini, Angelica Ippolito, Tono Ancanaro, Dario Bellezza, Dacia Maraini, Luigi Mezzanotte, Franca Valeri, Daria Nicolodi, Giancarlo Nanni, Maria Monti, Cathy Berberian ed altri.

c0050810_6524970.jpg  シルヴァーノ・ブソッティ(Sylvano Bussotti)は、1931年フィレンツェ生まれのイタリアの作曲家。フィレンツェの音楽院で学んだあと、パリでM.ドイッチェに作曲をまなび、ブーレーズと親しく交流し、ケージの偶然性の音楽に大きく影響された。ローマでは武満徹とも親しく交流し、武満より日本に招待され初来日したほか、武満はブソッティの誕生日のためにギターの小品を作曲しているほどだ。幼少にはヴァイオリンを弾いたが、現在はピアノをよく弾く。現在はもっぱら作曲が主だが、過去には、クラシックのオペラやバレエの振り付け、演出をよくし、自身のオペラに自ら出演し歌うこともあった。自らの絵の才能を生かした独特の図形楽譜はよく知られていて、オルセー美術館で、ゴッホの傍らに彼の作品が飾られたことを誇りとする。イタリアの左翼系インテリの筆頭だった時期もあり、現代詩人ブライバンティとひとしくゲイ文化を象徴する存在であり、作品には退廃的で甘美な官能性と肉体性があふれている。ヴェネチア・フェニーチェ劇場、トーレ・デル・ラーゴの芸術監督もつとめた。近年再評価が高く、しばしば演奏される機会が増えてきている。


c0050810_19595733.jpg日野原秀彦 Hidehiko HINOHARA, piano
 1964年熊本生まれ。東京藝術大学作曲科卒業。同大学院在学中、イタリア政府給費留学生としてイタリア・フィレンツェに留学、シルヴァーノ・ブッソッティに師事。1991年、ヴェネチア・ビエンナーレ現代音楽祭でソプラノと8楽器のための《La vecchia del sonno眠りの老婆》を発表、以降イタリアを中心に作曲活動を続けている。ブッキ国際作曲コンクール第1位(ローマ、1993)。トライエットーリエ・ソノーレ国際作曲コンクール第1位(コモ、1995)。2000年、ローマ歌劇場(オペラ座)におけるブソッティのオペラ《ティエステ》世界初演や、2007年ローマにおけるブソッティの室内オペラ《シルヴァーノ・シルヴァーノ》舞台初演等において、独奏ピアニストを務めた。





《ラーラ・フィルム》に関する一文─────

c0050810_372140.jpg Realizzato negli anni 60, R A R A (film) fu girato prevalentemente a Roma, nelle campagne romane, alle foci del Tevere o in riva al mare, è interpretato oltre che dall'autore compositore-regista dai molti amici frequentati allora, vicini di casa, già protagonisti di eventi teatrali e non, che davano vita alle "avanguardie", destinate a trascendere le cronache verso la storia. L'autore si apriva in quel periodo ad espressioni artistiche trascendenti musica, pittura e letteratura, i suoi abituali campi espressivi. Il cinematografo lo si praticava in tanti a bassissimo costo e non ci fu interprete, tecnico, operatori oppure animali di passaggio, che pretendesse il compenso materiale di qualsivoglia natura, vivendo quella rara festività come il gioco reale dell'amicizia. A loro tutti va la mia gratitudine divertita e profonda. A volte la pellicola presentava vistosi difetti che, in luogo di correggere, l'autore accoglieva con gioia. Intitolato mediante le iniziali di nome e cognome del suo compagno di allora, Romano Amidei, diventò una sigla protratta per lungo tempo in partiture musicali eseguite nel mondo e pubblicate allora da un grande editore internazionale. La predilezione è sempre andata alla proiezione muta di quelle immagini e subito ne ebbero luogo numerose, che, da Roma, si propagavano lungo i continui viaggi dell'autore e dei suoi stretti alleati. Passando da Parigi e altre città, furono raggiunti anche gli Stati Uniti d'America, dove una delle protagoniste, Cathy Berberian, iniziava con il compositore-regista un percorso destinato a divenire ben presto mondiale. Seguirono proiezioni con accompagnamento musicale generalmente interpretato al pianoforte - come avveniva per il cinema muto quasi preistorico - allargandosi a volte ad altre presenze non tanto sonore, ma certamente visive di notevole impatto, un esempio fra tutti: l'intera compagnia del Living Theater, protagonista, questa, della prima parte in bianco e nero. Altre avventure cinematografiche seguiranno e il cinematografo ha sempre rappresentato un classico miraggio, ma la composizione di una vera e propria partitura musicale è avvenuta recentissimamente. Allora la formula inventata per sottolineare l'aspetto di eccezione in quelle serate è stata: guardato al pianoforte dall'Autore. Un accompagnamento sonoro che assommi alcune voci, eventuali piccoli cori, strumenti o registrazioni dominati dal violino, che di Bussotti è stato il primissimo e spesso esclusivo strumento armonioso, nasce dunque a Bologna in occasione della proiezione dentro un teatro avvenuta nel 2007. Ritorno al cinema e desiderio dell'immagine con tutto il suo potere in questo caso davvero evocativo, è un aprire le prospettive teatrali come si spalancherebbe la finestra verso cieli futuri. Tornano in mente Ombre rosse dello scrittore fiorentino Piero Santi oppure i cinematografi estivi, che spalancavano nella bella stagione soffitti allo stellato. Le numerose stelle qui ammirabili furono il molteplice incontro che darebbe ragione alla sua nota sentenza: "la musica è un atto in mezzo a tanti, i corpi sono di più".
Sylvano Bussotti


  1960年代に制作された《ラーラ・フィルム》は、主にローマにおいて撮影された。舞台は、ローマ近郊の田園や、テヴェレ川の河口、そして海岸線。出演者は作者自身、そして当時親交を結んでいた大勢の友人達や隣人達。中には演劇界で既に脚光を浴びている者もいた。皆、慣習を超越し後に歴史を作ることとなる「前衛芸術」に命を捧げていた者ばかりである。
  シルヴァーノ・ブソッティは、当時、音楽・絵画・文学といった彼の馴れ親しんだ表現領域を超越した芸術表現へと向かっていた。
  当時は沢山の人が、本当に少ない予算で映画を作っていた。そこでは出演者であれ、技術者であれ、裏方であれ、また通りすがりの動物ですら、誰一人として物質的報酬を要求するものはいなかった。皆、友情の高尚な戯れとして、この稀に見るお祭り騒ぎを謳歌していたのである。彼ら全員に、私の浮立つ心からの深い感謝の意を表する。
  撮影に使用されたフィルムは、時に明らかな傷や汚れを呈していることがあったが、編集するにあたって、作者は敢えてその傷や汚れをそのまま映像の中に取り入れた。作者の当時のパートナー、ロマーノ・アミデイ(Romano Amidei)の姓と名の頭文字をとってつけられた題名は、その後長きにわたり国際的大出版社によって出版され、世界中で演奏されることとなる音楽作品群の表題となる。
c0050810_39922.jpg  この映像作品の上映にあたって、ブソッティは無音による上映を好んだ。撮影後すぐ、数々の上映会が催されるが、それはローマから、「マエストロ」や彼の親密な協力者達の絶え間ない旅行と共に拡がっていく。パリそしてヨーロッパ各地を通り、遂にはアメリカ合州国にまで辿り着くこととなる。アメリカでは、この映画の主人公の一人であるキャシー・バーベリアンが、「シルヴァーノ」と共に、或る活動の第一歩をしるしていた。(その活動は、それからすぐに世界的な広がりを持つこととなる。)次いで、往年の無声映画で行われていたように、ピアノの生演奏を伴った上映会が催されるが、時には、そこに他の出演者が加わることもあった。それは、音響的な存在というよりは視覚的に強烈なインパクトを与えるようなものであった。その顕著な例を一つ挙げるならば、白黒で撮られた前半部分の主役であるリビング・シアター全劇団員の生出演であろう。
  この後映像作品への挑戦はまだまだ続くが、映画芸術は言ってみれば常に蜃気楼のようなものであった。一方、本当の意味での楽曲スコアの作曲は、近年になって初めて行われた。かつての上映会において、その特殊性を明示すために提言された上映形式は、「ピアノに座った作者から見た」と表現されていた。数人の歌手、任意の小規模な合唱、複数の楽器、または録音テープ、それら全てを統括するヴァイオリン(ブソッティにとって初めての、そして唯一の調和的楽器)を含む付随音楽が生まれるのは、2007年、ボローニャの劇場で催された上映会のことである。映画への回帰、そして触発し喚起する威力を十全に発揮する映像への希求、それは劇場空間への可能性を全開するということでもあった。大きな窓を未来の空へ向けて開け放つように。夏休み、天気の良い日には、映画館の天井が満天の星空へ向けて開いた記憶が蘇ってくる。
  この映画でその姿を見せる多くのスターたち、彼らはブソッティにとって多様な出会いの集合体であった。それは、まるで彼のよく言う次のようなフレーズを具現しているようでもある。「音楽は数多の行動の中のただ一つである。肉体はもっと存在する。」

 SYLVANO BUSSOTTI (翻訳/日野原秀彦)



【2008年ブソッティ来日時の杉山洋一エッセイ】

2007年11月28日   

c0050810_201053.jpg拙宅のあるロサルバ・カッリエーラ通り向かいの停留所から、郊外に4駅ほど、ものの3、4分ほど路面電車に乗ったところ目の前の、茶色い目新しい高層アパート最上階に住んでいるのが、1月東京にゆくシルヴァーノ・ブソッティです。メゾネットと呼べばいいのか、エレベータで最上階までゆき、そこから更に階段でもう一階上がったところにシルヴァーノの玄関があります。中に入ると、イタリアらしくとても整頓された部屋に、来客用のソファーと机でできた8畳ほどのスペースがあって、クローゼットで仕切られた向こうに、アップライトピアノと大きな仕事机のある15畳ほどの仕事部屋になっています。窓の代わりに天窓があって、この部屋が大きな屋根裏のスペースを利用したものであることがわかります。1階下に住む連合いロッコ・クヮーイアの部屋とは、玄関脇の螺旋階段でつながっています。

部屋が全体にこざっぱりした印象を与えるのは、シルヴァーノ自身がものすごく几帳面で、彼「神経質なほどの整頓癖」のため、全てきっちりとアルファベット順に整理してあるからだと思います。同じようにいつも整頓されていた薄暗いランブラーテのドナトーニの仕事部屋を思い出します。シルヴァーノの部屋の違うところは、部屋中いたるところに絵や彫刻が飾られていて、それら殆どが男性器か男性の肉体美をモティーフにしたものであることです。ドナトーニは仕事部屋向いの台所の食卓前に、3、4枚ほど、女性の臀部のステッカーをペタペタ貼っていて、これを眺めてフランコは食事を摂るのかと納得すると微笑ましかった記憶がありますが、シルヴァーノの部屋はずいぶん違って、一種耽美的ともいえますが、美術品以外はこざっぱりしているので、すこし違う気もします。

客間のスペースと仕事部屋を分けるつい立て代わりのクローゼットには、彼の楽譜やレコードなどが、それは奇麗にぎっしりと整理されているのですが、木製のクローゼットの表面全体には、無数の男性の裸体の写真の切り抜きが、ぺたぺた貼られていて、その上改めて全体を彩色してあったかもしれません。「ぼくが作ったんだよ。どうだい、ちょっとした美術品だろう」と偉くお気に入りでした。

年代ものの木製の大きな仕事机も、一面に数え切れない裸体や局部の写真がひしめきあっていて、これを見ながら作曲しているのかと思うと、彼の音楽がよくわかるような気もするし、これでよく仕事ができるものだと感心もさせられます。歩いても出かけられる程の近所で気軽に遊びにゆけそうだけれど、結局日々の忙しさにかまけて、なかなか実現できません。ただ1月に日本でやる演奏会のため、シルヴァーノの音楽や楽譜を勉強している時間はかなりあって、いつも彼の部屋が頭に浮かんできます。

c0050810_20254669.jpgブソッティのマドリガルを東京で演奏するにあたり、歌手の皆さんが各自効率よく勉強できて、譜面を読みやすく合わせ易くするため、結局2曲ほど全部書き直すことにしました。オリジナルの楽譜は、譜表そのものがオブジェか絵のように扱われていて、たとえば「愛の曲がり角」など、まったく実用的ではないのです。自分ですべて書き直すまで、どんな曲なのか見当がつきませんでした。誰がどこを歌い次にどう繋がるのか理解出来なかったのです。正直に告白すれば、果たして楽曲として本当に魅力ある作品なのか、ただ美術品の価値のみの作品なのか、判断しかねていました。

ですから、全て書き直してゆくプロセスは、自分にとって目から鱗が落ちるような経験で、驚きと発見の連続でした。この絵にしか見えない楽譜が、どれだけ精巧に、緻密に計画され組み合わされて、丹念に書き込まれているのか、よく分かったからです。高校のころから慣れ親しんだ「ラーラ・レクイエム」など、イタリアの現代音楽に於いて将来に名を残す傑作中の傑作の一つだと思うし、彼の才能を疑ったことはなかったけれど、でもこれだけの響きのヴァラエティや音色の魅力がこの絵に詰まっているとは、想像もしませんでした。

最も基本的な音の定着は、素朴な12音に従っているようだけれど、それを膨らませるプロセスは、安易な方法論に陥らないし、とびきりのファンタジーと遊び心に満ちていて、その表面を大げさなほど飾り立てながら、元来置かれていた音の意義そのものを全く別な次元へと変容させるかのようです。それが素晴らしいと思いました。
だから、「愛の曲がり角」を例のとれば、幾ら演奏し易くても、どんなに理解し易くても、彼の書いた絵の楽譜の意義は絶対的にあって、演奏者、少なくとも指揮者は、たとえ演奏用スコアを別に作ったとしても、原曲があの美しい楽譜であることは忘れてはならないのでしょう。

これが生産的な芸術かどうか考えるのは、あまり意味があるとは思いません。単純に音楽を理解するため必要とされる煩瑣な手続きを、演奏者が実際喜ぶかどうかも別問題です。ただ、イタリアが連綿と継承してきた「マニエリスム」という言葉を思い出すとき、シルヴァーノに勝る存在はいないと合点が行くし、それだけ意味ある存在なのだと実感させられるのです。挑発的で遊び心に満ちた、でもどこか合理的な奇矯な部屋も、彼の音楽と同じだとに気がつきます。


(つづく)
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by ooi_piano | 2015-09-24 19:53 | All'Italiana2015 | Comments(0)

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)


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2007年12月29日  

c0050810_20262663.jpgここ数日、朝晩の冷えこみは本当に酷く、零度どころではありません。今朝ブソッティ宅での打合せが終わり帰宅すると、この寒さにやられたのでしょう、いつも来ていたオレンジ色の口ばしの愛らしい黒い鳥が、庭先で硬くなって息絶えていました。ずっとこの庭に遊びにきてくれていたし、猫やネズミに穿られては忍びないと、出来るだけ深く庭の端に穴を掘って埋めました。いつもつがいで来ていたので、片割れがどうしているか気になって空を見上げてみましたが、雲ひとつない澄んだ青空が続くばかりでした。

帰りしな、思いがけなくブソッティが、「これはうちに残っている数少ないトーノ・ザンカナーロのリトグラフだ。君にプレゼントしよう」と言って、鉛筆で、「ヨーイチに。2007年12月29日友なるシルヴァーノより」と書き付けてくれました。1967年のパドヴァの街角を描いたリトグラフで、左手に小さなアーケードのある建物が描かれています。「ここには、その昔子供のころ通った恐いピアノ教師の家があってね。あの頃は厭で仕方がなかったんだ」と笑いました。

来月、東京からミラノに戻る道中を共にする2歳半になる息子が、「ドンキホーテ」のバレーと「アルジェのイタリア女」が好きでね、と話すと、ブソッティも「ああパッパターチ、ムスタファね!」とおどけてみせて、「子供のころ大好きだったな。あれは楽しいものね」、と大喜びしました。「その昔、まだ子供だったころ、子供向けの移動オペラ劇場みたいなものがあってね。今から思えば、簡略なものだったろうけれど、本当によく見に行ったな。すごくわくわくしてね」。傍らで話を聞いていたロッコも、「ドンキホーテ」はいいじゃない、もっと色々見せたらいい、と声を弾ませました。

実は内心、この様子に少しほっとしていました。その少し前まで、ブソッティの演奏スタイルについて話していて、「旋律が好きなんだよ。旋律のない音楽が嫌いでね。現代音楽はたいてい旋律がないから嫌いなんだ。自分の音楽も現代音楽じゃないと思っている。旋律があるからね。どんなにプッチーニが好きか、よく知っているだろう」という話から脱線して、「ブーレーズの音楽をみんな勘違いしている。彼の音楽の原点もやっぱり劇場なんだよ。有名になるずっと前、ピエールは素晴らしい役者たちの出る演劇の伴奏でオンドマルトノを弾いていたんだ。そして、その劇団と一緒に各地を周っていたんだからね。その体験から彼の音楽がどんどん広がっていった、ということを忘れてはいけないと思う。彼の音楽の原点を履き違えているものばかりだ」と言ったあと、「シュトックハウゼンだって同じだ。彼と劇場だってどうやっても切り離すことはできないだろう」、と言った途端、みるみるうちに目がうるんで、言葉に詰まってしまいました。

c0050810_20273450.jpg今から10日ほど前、友人の建築家宅で、クリスマスのホームコンサートがありました。毎年クリスマスに小説家や詩人などを招いて、「クリスマスのお話」をしてもらう慣わしですが、今年はブソッティを招いて、彼の曲とお話を一緒にたのしみました。
「今日はクリスマスにちなんだお話をするつもりでしたが、どうしても話さずにはいられない出来事がありました。親しい友人で、恩人でもあるシュトックハウゼンの死です」。
客席には、ルチアーナ・ペスタロッツァやミンマ・グアストーニなど、その昔リコルディを切り盛りしていた錚々たる女性陣が顔を揃えていましたが、ブソッティがこう切り出すと、客席から長いため息が洩れました。

「フルートとピアノためのクープル(一対)という曲を聴いていただきましたが、これ作品など特にシュトックハウゼンと切っても切れない縁があるんです。最初ダルムシュタットの夏期講習会で演奏されたのですが、当時講習会を仕切っていたのがシュトックハウゼンでした。その頃、自分はフィレンツェで、五線紙の切れ端に模様のような落書きを書いたりしていたのですが、それを見た友人が、ダルムシュタットに送ってみたらどうかと話してくれたのです。夢のような話でしたが、でも郵便局から楽譜を送ってみて暫くすると、思いがけなくシュトックハウゼンから、ずいぶん厳しい返事が届きました。<貴君はこの楽譜が何を意味するのか、何をしたいのか説明もせずに、ただ唐突に送りつけてきたわけだが、もし音楽というものを本当に知りたいなら、学費を出すから来るがよい>。当時、ダルムシュタットに行き勉強するお金なんてどこにもありませんでしたから、奨学生として勉強するのが唯一の可能性でした・・・。そこから思いがけなく自分の音楽人生が始まったのです。ですからシュトックハウゼンに負うところが沢山あるのです。シュトックハウゼンの死を最初に伝えきいたとき、自分の耳を疑いました。初めてニュースを聞いてから、詳しい状況を知るまで3日かかりましたが、死が真実だったと知った時は、丸一日何も考えられませんでした。ケージが死んだときは、余りの悲しみに3日3晩涙が止まりませんでした。あれから自分も歳を取り、今回もう涙は涸れてしまっていましたが、悲しみの深さは変わりません」。

人を喜ばせるのが好きなブソッティは、少し場を盛り上げようと、こんな話もしてくれました。
「ところで、クープルを何度も演奏してくれた素晴らしいフルーティスト、今は亡きセヴィリーノ・ガッゼッローニの愉快な逸話をご紹介しましょう。セヴェリーノがクープルを録音してくれたのですが、今お聴き頂いたように、この曲は最初に独奏フルートの長音で始まりますね。セヴェリーノは本当に素晴らしいフルーティストで、それはもう寸分の揺れもなく最初の音を吹いてくれました。ところが大変残念なことに、出来あがったレコードを聴きましたら最初の1音がありません。詳しく話を聞いてみましたら、実は余りに完璧な長音だったため、録音テスト用の信号音と勘違いして編集の際に消されてしまったということです」。

「次に聴いていただいた<友人のための音楽>というピアノ曲のお話もしましょう。わたしは裕福な家庭に育ったわけではありません。その反対だったと言ってよいと思います。父はフィレンツェの市役所で登記係をしていて、五線紙一枚手に入れるのにも苦労しました。そんな中、フィレンツェの音楽院で音楽を学び始めたわけですが、そこで当時、どうしようもない、とんでもない、と言われていた教師二人と親しく交流するようになりました。その一人が和声のRoberto Lupiで、もう一人が作曲のルイジ・ダルラピッコラでした。ダルラピッコラは当時家庭の事情で、父の処に足繁く通っては登記の書換えなどしていたため、そのうち二人はクリスマス・カードなど交換するほど親しくなりました。父が手書きの美しいカードを贈ると、ダルラピッコラは手書きの五線に音列など書いたカードを返してくれました。そうして、いつしかわたしも音列に親しんでいったのです。当時は誰もが貧しくて録音など誰も持っていませんでした。ですから、夜な夜なダルラピッコラのところに集まり、彼の持っている録音に黙って耳をじっと傾けたのです。<友人のための音楽>の友人とは、一緒に音楽に耳を傾けた仲間たちのことなのです」。
とても温かい拍手が客席から沸きあがりました。素敵なクリスマスのお話をどうも有難う、そんな気持ちがこもった拍手です。

「ところで、今朝は行きつけのパン屋さんで、パパですかって」。
ブソッティがロッコのお父さんと勘違いされたと言って、大笑いしました。どことなく顔つきも似ている上に、二人は何度も声色と話し方の癖がよく似ていて、電話でも勘違いしたくらいですから、無理もない話です。
「長年一緒に暮らしていると、しゃべり方も似てくるんだ」。
「それで何て答えたんだい、シルヴァーノ」。
「もうパパって呼ばれるのは馴れっこだからね」。

「じゃあ今度会うのは、もう東京か。不思議なもので、何だかあっという間だ。もうすぐだけど、良いお年を迎えるんだよ。奥さんとあの可愛い坊ちゃんによろしくね」。


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2008年1月25日 

c0050810_2030876.jpgリハーサルが終わり、ボローニャ市立劇場脇の安宿に戻ってきました。一週間前の今頃、まだ東京でブソッティと一緒に演奏会をしていたのが信じられません。大学街らしく、ボローニャは夜の帳が降りても若者たちの活気に溢れて、街を行き交う人の表情も活き活きしています。もう何年も通っているのに、未だ方向感覚がつかめない、不思議な街ですが、その昔、まだイタリアに住み始める前に来たことがあって、夜、街に巡らされたアーケードを歩きながら、ショーウィンドウの美しさにびっくりしたのを覚えています。

大学の3年生だった頃、シエナで作曲の夏期講習を受講したとき、ドナトーニの助手を務めていたマニャネンシがボローニャ出身で、当時知合った作曲家たちがボローニャに住んでいて、この街との付合いが始まりました。こうして現在仕事に呼んでくれているのも、結局は当時知合った作曲家たちで、思えば随分長く世話になっているものです。

今月、折につけ繰り返し思い出していたのは、ブーメランのように、目に見えないほど遠くに投げたものが、長い時間を経て手元へ戻ってくる感覚です。

大学に入学後すぐに桐朋の当時の別館ホールで演奏した作品がブソッティの「3人で」で、演劇科の女優3人が30分ほどあえぎ続けて頂点を迎える構成でした。あれから何年か、作曲や演奏科の友人たちと、学内、学外で色々な作品を演奏しましたが、まさかブソッティ本人と一緒に同じ場所で、同じ仲間と演奏をすることになるとは夢にも思いませんでした。今回10年ぶりに再会し、当時の仲間と久しぶりに練習を始めると、不思議に時間の隔たりなど、たちまち消えてしまうのです。自分はあれから変っていないのかと考え込んでしまうほど、自然に練習ができました。違うのは、一回り以上も若い学生さんたちが、とても誠実に一緒に演奏してくれたことで、当時自分たちより若い演奏者はいませんでしたから。

そうして練習が終わると、昔通った小料理屋で昔と同じ定食とモツ煮込みを熱燗で流し込み、恐らく同じような会話をし、同じように電車に乗って帰りました。それこそブソッティの楽譜を借りるため足繁く通った桐朋の図書館で司書だったTさんや、作曲のM先生やY先生が何度も顔を出して下さったのも嬉しく、こんな風に、よく分からぬまま手探りで過ごしていた時間の本質を知りたくて、思わず皆が同じ場所に戻ってきた、今回の企画はそんなところがありました。ブソッティと触れ合う中で、溜まっていたわだかまりのようなものが、ほんの少し解けた気もします。

同時にブソッティを通して、たくさんの新しい出会いもありました。マドリガルを歌ってくださった皆さんとの練習は、最初から最後まで、とても気持ちのよいもので、本番もブソッティの魅力を、余すところなく伝えてくださいましたし、演奏会に際してお世話になった、桐朋や明治学院でお世話になった先生方や裏方の皆さん、イタリア文化会館の職員の皆さん、ブソッティの訪日の意味を理解して下さり、無理に時間を作りお手伝いくださった録音技師の皆さん、広報をお手伝いくださった皆さんにも何とお礼を申し上げてよいか。

c0050810_20311368.jpgさて、桐朋の歓迎会で、ブソッティは学生が寄せ書きした色紙のお返しに、自身も色紙を贈りました。適宜金銀の和紙が散らされて薄い染みに見える色紙で、一緒に色鉛筆とサインペンを渡されたブソッティは、まず染みを色鉛筆で一つずつ丸く塗りつぶしてゆき、色とりどりの丸が散らされると、上方の丸二つを選び瞼を縁取り、少し下の丸の周りに唇を書いて、それぞれの丸を線で繋いで、キュビズムのアルルカンの衣装のような輪郭を与えてゆきました。アルルカンが手をからげて踊る姿になったところで、踊りと学校名を漢字で書きたいと言うことで、「踊」と「桐朋」という文字を書き入れて、絵を完成させました。

このちょっとした出来事は彼のアプローチを理解する上で、とても勉強になりました。偶然の閃きを切掛けに、その閃きを後天的に意味づけし具現化するため、周りに事象を加筆してゆくうち、自然と形が生まれてくる。まるでヨーロッパ人たちが、前置詞や冠詞まで感覚的に話し、少し間を開けて文法的に見合う言葉で埋めて、前述した前置詞や冠詞を正当化してゆくのに似ていますが、普通「私はかく思いき、ついては何某」、と指針を明快にしてから、話を展開させるのに対し、ブソッティは結論も、指針も与えず、「何某で、何某で、何某」と即興的、直感的に並列してゆきます。

最後に「だから何某」と結論を述べるかと思いきや肩透かしにあったりして、訳してゆくと、終りがいきなり尻切れトンボになることがありました。何が言いたくてこう言っているのか教えてくれと言っても、「今言っている通り訳せばいいから」と笑うばかりで、ちゃんと話の辻褄が合うように祈りながら訳すこともしばしばで、文字通りの五里霧中でした。そんな風に、ブソッティ自身からは、どんなに話題が展開、逸脱しても、どこかで本題に帰結させることが出来る、纏め上げられる自信を感じました。

作曲でもレクチャーでも全く同じです。16日イタリア文化会館でのレクチャーで、ケージが図形楽譜の読み方を厳密に規定するのに対し、ブソッティは大変自由だが、必ずしも作曲者の意図が演奏に反映されなくてもいいのか、という質問がありました。今回、幾つかブソッティの図形楽譜を勉強して個人的に感じたのは、どこまでも逸脱しても、本題、つまり自らの個性、音楽性に帰結させられる自信や信念があってこそ可能だった、実にユニークな作品群だということです。

ケージの透徹な感受性は、自動書記と呼ばれていた頃の、ある種のドナトーニの作曲法によほど近い気がします。結果的に鳴る音は全く違いますが、どんな音の風景を紡ぐか脳裏の奥底で一瞬考え、後はひたすら写経をするように音を写してゆく。神秘的ですらある作曲の作業です。揃って「自己」の介在を否定し、音楽をあるがままの姿で再現しようとするアプローチが共通しています。

ブソッティは正反対で、甚だ大きな主観(エゴ)の塊のようなブソッティの芸術というものがまずあって、どんなことを企んでも、結局は彼の塊に収斂されてしまう、そんな印象を持ちました。例えば、「自動トーノ」の絵のような楽譜(絵文字譜と呼んでいましたが)にしても、実際演奏してみて分かったのは、単なる絵ではなく演奏に適した「楽譜」だということ。不思議に演奏に入りやすい楽譜で、いつもそれなりの音が鳴って、しっかり楽譜の用を成すべく書かれていることに、感心させられました。悠治さんと美恵さんが、「自動トーノ」の楽譜を見て、「やっぱり五線紙に書くわけね」と言ってらしたけれど、案外これは演奏しやすい「絵」を企む上で、重要なファクターだったのかも知れません。その辺りのテクニックはちょっと分かりかねますが。

先日、「自動トーノ」の演奏に参加してくれた、桐朋の学生さんから、嬉しい電子メールを頂きました。何でも、「自動トーノ」の演奏会の後、ダンスカンパニーの演奏のオーディションがあり、自動トーノで学んだ即興が思いがけず役に立った、というお礼がしたためられていました。こうして、ブソッティとの出会いが、今回関わってくださった皆さんの心のどこかに、何かを残してゆけたのなら良いのですが。


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2008年2月25日 

c0050810_20322611.jpgスイスから帰ってきて数日して、ブソッティの未初演のオペラの楽譜を読みに出かけました。近所だからと気を許して読んでいると、時間が経つのも忘れて、朝10時過ぎから午後の5時くらいまで、さまざまな大きさの黄ばんだ紙にインクでていねいに書かれた、手書きの原譜を読み続けました。

そのうちの一つ、実に壮大なメロドラマ「悲しみの父 Patre doloroso」は、ルネッサンスの画家、ルカ・シニョレッリについて美術史家のヴァザーリが書いた伝記に想を得ていると言います。シニョレッリは、構図の性別に関わらず常に自分の息子にモデルをしてもらっており、女性の場合は、後から体型を加筆したのだそうですが、言うまでもなくシニョレッリにとって息子はとても大切な存在だったわけです。その息子が他界してしまったとき、シニョレッリは三日三晩その息子を惜しんで絵を書きなぐった、という逸話に基づいています。

「パリのスタジオ。写真家・ルカ・シニョーリが、息子を使ってその昔ルカ・シニョレッリが書いた壁画を写真で再現しているところに、今度トウキョウで執り行われる皇太子の納采の儀(婚約の儀)の写真を撮ることを許された唯一の西洋人写真家だと告げられ、神秘のベールに包まれた街、トウキョウへ向かう。ところが、その仕事の最中、パリから息子セデリック急逝の知らせが入る。仰天した父親は、すぐさまパリに戻り、その昔ルカ・シニョレッリがしたように、美しい息子の姿三日三晩一心不乱に写真に撮り続ける。そして、まばゆい光に輝く霊安室に亡骸を運び、最後は、ブソッティのパートナー・ロッコの故郷にある、海辺の墓地へ埋葬される」。

居間のソファーで楽譜に夢中になっている傍らで、ブソッティは大きなロッキング・チェアーに身を沈めていて、奥の台所では、ロッコがかいがいしくご飯の用意をしていました。小説を読むようにひき込まれながら読んでいると、「どうだ、とても宗教的だろう」、と誇らしげにつぶやきました。

左の筆頭のような同性愛者のインテリが、宗教的という言葉を使うのに時の流れを感じ、思わず感慨をおぼえました。読み進みながら、確かに彼の父性の強さが心を打ち、センチメンタリズムとも違う、息子に対するまなざしは、文字通り父親そのものだと独りごちました。これは何だろう、因襲的な家族という形態とブソッティは遠い存在だと思い込んでいたのは、自分の誤りだったと悟りました。

ロッコが作ってくれた野菜のパスタに舌鼓をうちながら、最近彼らが関わったオペラの演奏について話していました。大凡気に入らないことが多かったようで、演奏よりもむしろ演出の話に花が咲きます。
「指揮者は頑張っていたんだよ。演奏はだからさほど悪くはなかった。でも、やっぱり演出が気に食わない。何しろ劇場支配人が、ぼくとロッコを使わずに、お抱えの演出家を使ってしまったからね。その演出家も若いながら、頑張ってはいたんだよ。でも自分が思い描いていたものとは違うんだ、なあロッコ、そう思わないか」。
ふと、耳を傾けながら、神経が研ぎ澄まされる気がして、思わず息をのみました。

「ぼくとロッコにとって、これが子供だから。どの家族も子供に自らの軌跡を託してゆく。ぼくらにとって、作品は子供と同じなんだ」。
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by ooi_piano | 2015-09-24 17:55 | All'Italiana2015 | Comments(0)

原田力男(1939-1995) ポートレート写真(撮影/青柳聡)

原田力男(1939-1995) ポートレート写真(撮影/青柳聡)
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by ooi_piano | 2015-09-21 09:46 | POC2015 | Comments(0)

9/23(祝) 原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート

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〈原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート〉

2015年9月23日(水/祝) 19時開演(18時半開場) 
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp

甲斐史子(ヴァイオリン)+大井浩明(ピアノ)

甲斐説宗(1938-1978):《ピアノのための音楽Ⅰ》(1974)
甲斐説宗:《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅰ》(1967/74)
ベラ・バルトーク(1881-1945):《ヴァイオリン・ソナタ第1番 Sz.75》(1921) [ペーテル・バルトーク校訂版(1991)による]
  I. Allegro appasionato - II. Adagio - III. Allegro
  (休憩15分)
甲斐説宗:《ピアノのための音楽Ⅱ》(1976)
甲斐説宗:《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》(1978)
ベラ・バルトーク:《ヴァイオリン・ソナタ第2番 Sz.76》(1922) [ペーテル・バルトーク校訂版(1991)による]
  I. Molto moderato - II. Allegretto
ヤニス・クセナキス(1922-2001):《ディフサス》(1979)

Memorial concert commemorating the 20th anniversary of the death of Isao Harada (1939-1995)
Koen-Dori Classics, Shibuya
Wednesday, September 23, 2015, 7 PM
Fumiko KAI (vn) + Hiroaki OOI (pf)

Sesshu KAI: Music for Violin and Piano I (1967/74), Music for Violin and Piano II (1978), Music for Piano I (1974), Music for Piano II (1976)
Béla BARTOK: Violin Sonata No.1 Sz.75 (1921), Violin Sonata No.2 Sz.76 (1922)
Iannis XENAKIS: Dikhthas - Διχθάς for piano and violin (1979)


c0050810_8561648.jpg甲斐 史子 Fumiko KAI, violin
桐朋学園音楽大学卒業。同大学研究科修了。第3回江藤俊哉ヴァイオリンコンクール第1位入賞。デュオROSCOとして、現代音楽演奏コンクール〈競楽V〉第1位入賞。第12回朝日現代音楽賞受賞。2003年度青山バロックザール賞受賞。ドイツ・ダルムシュタット夏季講習会にて、クラーニッヒ・シュタイナー賞受賞。アンサンブル・ノマドメンバーとして、第2回佐治敬三賞受賞。桐朋学園オーケストラ、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、日本フィルハーモニー管弦楽団等と共演。オランダ・ガウデアムス音楽祭、英国ハダース・フィールド音楽祭、メキシコ・グアナファト音楽祭、ベネズエラ・アテンポ・音楽祭等、国内外の音楽祭に出演するほか、数々の新作初演、録音を行っている。2008年3月、一柳慧率いるアンサンブル・オリジンメンバーとして、カーネギーホールにて演奏。北京中央音学院、国家大劇場、上海音楽院など、中国においても日中現代作品を中心にリサイタル公演、レクチャーを重ねている。ジパングレーベルより2枚のCDをリリース。これまでに江藤俊哉、江藤アンジェラ、水野佐知香の各氏に師事。神奈川県立弥栄高校及び東京藝術大学非常勤講師。


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原田力男没後20年に寄せて ───高久暁

c0050810_1212023.jpg 今年2015年は、ピアノ調律師でコンサート制作者として知られていた原田力男(はらだ いさお、1939年3月1日山口県防府~1995年3月22日東京)没後20年の年である。大井浩明さんは、9月23日に行われる甲斐史子さんと共演する演奏会を原田力男追悼の催しとされている。生前の原田と縁のあった者として、原田とそのプロデュース活動について記しておく。

 原田は地元の高校を卒業後、浜松の日本楽器で徒弟制度的な環境のもとでピアノ調律の訓練を受けた。1961年に勤め先の防府の楽器店から「夜逃げ同然」に上京、日本有数の調律師が経営していた杉並区のピアノ販売会社に入社した。高度経済成長のただ中でピアノは売れに売れた。会社で調律の担当者を割り振っていた原田は、顧客のなかから興味の持てそうな家庭を見つけると調律に出かけていた。法政大学の二部に入学して日本文学を学ぼうとしたが、多忙で中退せざるを得なかった。

c0050810_1225826.jpg 1966年8月、武満徹の依頼を受けてピアノ調律に赴いたのが、原田と武満との最初の出会いだった。1969年以降、原田は武満から継続的にピアノ調律の依頼を受けるようになり、家の引っ越しを手伝い雑用を買って出る打ち解けた間柄になっていった。原田は黛敏郎が武満に送り与えたことで知られるスピネット・ピアノ(原田によれば「ボロピアノ」)や、《For Away》が作曲されたエラール・ピアノを調律、高橋悠治が弾いたこのピアノ曲の録音セッションにも立ち会った。のちに原田はこのエラール・ピアノを武満から買い取った。現在このピアノは修復を経て浜松楽器博物館に所蔵されている。

 武満の活動に多大な関心を抱いた原田は、武満に関する資料や情報を収集、1973年から始まった「Music Today」ではステージ・マネージャーやキャシー・バーベリアンほかの来日演奏家のアテンドを行い、武満周辺の音楽家たちのコンサートのチケット販売を手伝った。当時武満と同じマンションに住んでいた湯浅譲二や一柳慧はもとより、松村禎三や高橋悠治や林光など、作曲家の知人は次々と増えていった。ピアノ調律師としての原田は卓越した事務能力が評価され、調律師の団体が法人格を得るための組織に最年少で参加するほどの業界を主導しうる人物となっていたが、現代音楽の現場に関わることに意義を見出すようになった。

c0050810_1235736.jpg 「プライヴェート・コンサート」は武満との雑談から得た着想とされる。少人数の聞き手を集めて私的な場で行われる音楽会ほどの意味だ。この言葉の歴史を筆者は知らないが、19世紀後半のドイツ語圏の音楽文献にすでにPrivatkonzertという語が現れる。武満は体験的に「プライヴェート・コンサート」なるものを理解していたと思われるが、原田はそれをシェーンベルクの「私的演奏協会」と結びつけ、後年は「ぼくの方法論」―武満の「私の方法」からの影響―と呼んだ。

 原田は1975年から1988年までに53回のコンサートを制作した。意図や方向性は最初の一年余に行われた5回のコンサートに内包されている。原田の選んだ演奏家による、制作者の意図を汲んだプログラミングのリサイタル、実験工房など過去の芸術運動や特定の音楽家を取り上げたコンサート、アマチュア音楽家を起用した演奏会など。しかしコンサート・プロデューサーとしての原田の名声の源泉となったのは、作曲家志望の学生などおよそ20名に「高橋アキさんが初演することをあらかじめ想定したピアノ曲」の作曲を呼びかけ、集まった作品から高橋アキが6作を選んで初演を行った「高橋アキの夕べ(1976年3月1日)」だった。今ではおよそ信じられないことだろうが、東京芸大の作曲専攻学生たちが企画した演奏会を教官たちが中止させたことに原田は義憤を感じたのだった。作品が演奏された6人の新人作曲家のなかに坂本龍一がいた。藤枝守、吉川和夫、大石泰もいた。吉松隆は選に漏れたが、のちに原田の制作した演奏会で作品が初演されて脚光を浴びることになった。武満は新聞に連載したコラムで演奏会の前宣伝を行い、学部学生だった吉川の作品は『音楽芸術』の付録楽譜として出版された。原田には「坂本龍一の発見(発掘)者」というフレーズが付きまとい、新人作曲家の「デビューあるいはデビュー同然の作品」を紹介するコンサートを独力で、私費を投じて開催する特異なコンサート・プロデューサーとして知られるようになった。

c0050810_1261449.jpg 53回のコンサートで、31人の作曲家の作曲した委嘱作品51作が初演された。特筆すべきは例えば甲斐説宗との関係だろう。原田の演奏会に傑作《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》ほかの作品を提供した甲斐は1979年に39歳で急逝、原田は追悼演奏会を三度開催して甲斐作品の演奏の保持に努めた。原田の制作したコンサートに出演した演奏家の多くは、新人・中堅を問わず原田の見込んだ極めて優れた奏者たちだった。

 しかし原田は数年で作曲の「新人発掘」に限界を覚えるようになった。原田のプロデュース活動は、恰好の場を提供したいわさきちひろ絵本美術館(現、ちひろ美術館・東京)ほかでの演奏家のリサイタルや、アマチュアをも起用したニーチェの音楽作品の演奏会、篠原眞や細川俊夫など国外で活動を行っていた作曲家のセミナーや作品個展へと幅を広げていった。

c0050810_12733.jpg 原田のコンサート活動を特徴づけたのが、ガリ版こと謄写版で印刷された手書きの個人誌『プライヴェート・コンサート通信』だった。調律の仕事などで毎日首都圏を自動車で往来した原田は、主要な街道沿いに住むコンサートの来場者や知人の家に立ち寄り、ポストにホチキスで綴じた「通信」の束を投げ込み、挨拶や雑談をしてゆくのだった。「通信」には原田の文章だけでなく、コンサートのアンケートや関連記事の転載、第三者による連載記事など、編集者としての原田の奇想が遺憾なく発揮されていた。また、原田のコンサートは、プログラム・パンフレットやちらしやチケットに至るまで、原田とデザイナーの意識が反映された「作品」と言えるものだった。

 「高橋アキの夕べ」制作の背景がそうだったように、原田は生来ある種の反骨精神の持ち主だった。それは東京芸大や武満へと向けられた。1980年に武満が芸術院賞を受賞すると原田は激怒し、1981年に発覚したいわゆる「芸大事件」では、新聞への投書に始まって公判の傍聴記を「通信」や雑誌に執筆・掲載、追及の手を休めなかった。

c0050810_1274918.jpg 1984年には私的勉強会「零の会」が発足した。「Private Concert周辺の、シーリアス音楽をめぐる交友…、ほかにも、さまざまな立場にある若者たちがつどって作ったごく私的な同人勉強会」だった。同人の発表もあれば夏には合宿もあり、大庭みな子、戸口幸策、小川圭治、佐藤慶次郎らが講演を行うこともあった。

 独身者の原田はプロデュース事業に文字通り心血を注ぎ命を削った。1980年代半ばに糖尿病を、88年以降はがんを患い、以後は闘病生活のなかでセミナーや「零の会」を続け、会う者や見舞い客にワープロで作成した「日記」を配布した。「零の会」は原田の没した4週間前の1995年2月まで63回開催された。長い闘病の年月にプロデュース活動を振り返った原田は、本を執筆する構想を持っていたが、構成案を残しただけで没してしまった。それを踏まえて2002年に私家版の著作『青春の音楽 原田力男の仕事』が刊行され、主に原田の葬儀に参列した人々に向けて配布された。 

*  *  *

c0050810_1284579.jpg 以上が原田の生涯と活動の概要である。なるべく冷静に、いくらか詳しく書いたのは、原田を直接知らない世代の音楽関係者が増えたからである。現在40代後半以降の年代で、首都圏で現代音楽に何らかのかたちで関わった者であれば、原田を知らないことはほぼあり得ないだろう。原田は決して忘れられたわけではないだろう。それにもかかわらず今日原田について話がほぼ出なくなったことが、「小柄なセールスマン・タイプで甲高い声でよくしゃべる」(吉松隆)原田の逆説的な存在感を物語っている。ごく最近見かけた表現を用いて事態をごく単純化して言えば、文化資本をほとんど持たずに音楽の世界に参入した「一般国民」の原田とその振る舞いに、割り切れない思いを持った「上級国民」を装いたい音楽関係者もいたにちがいない。しかし出来事は歴史に組み込まれる。先年行われた『実験工房展』では、1976年10月に開催された「鈴木博義作品の夕べ」の意匠を凝らしたチケットが展示されていた。原田の業績はその逆説を凌駕するのだろう。

 筆者が初めて「プライヴェート・コンサート」に行き、原田と会ったのは中学二年生だった1977年3月、森田利明の出演した「Gemini Concert Ⅰ」だった。20代に入って原田と親しく付き合うようになり、遺言でプライヴェート・コンサート関係の資料を管理し、原田の著作の著作権を譲り受けたことになっている。原田の残した他の資料の調査も相応に行い、『青春の音楽』の執筆に加わった。原田のプロデュース活動にも、それを彩った人々にも、また筆者自身についても、筆者の見解はさまざまにあり、時間とともに変化した(小文でそれに言及するのは控える)。

c0050810_1292573.jpg 原田の「ぼくの方法論」は武満の影響から始まったが、今日そのプロデュース活動は自立したものと見なされよう。谷川俊太郎は晩年の原田にそのような趣旨のことを述べて、故人をいたく感激させた。興味を持つ者がいればの話ではあるが、原田のプロデュース活動は、結果的に1970年代後半の首都圏に存在した現代音楽のひとつの状況を克明に知らせる記録となっている。また原田はコンサートに来た聴衆について詳細な記録を残した。これも分析に値する。しかしそれは恐らくは生前の原田を知らない者がなすべき仕事だろう。「原田アーカイヴ」のアーキヴィストといった役回りの筆者は、今のところその機会に向けて原田の残した資料を整理管理することに徹している。

 大井浩明さんを最晩年の原田に引き合わせたのは筆者だった。原田は病気を押して東京で行なわれた大井さんのリサイタルを聞き、原田一流の毒舌で「日記」に記して配布した。世の中、誰が追悼を表明しつづけることになるのかわからない。原田の没後10年の2005年に、ちひろ美術館・東京の厚意を得て追悼演奏会を提案・企画したのは大井さんだった。甲斐史子さんと渡邊理恵さんの共演を得て、原田が楽譜を持ったまま演奏されていなかった大石泰作品の初演やアナラポスの復元制作を行った。そして没後20年。大井浩明さんに心からの感謝と敬意を表したい。(たかく・さとる/日本大学芸術学部教授、文中一部敬称略)
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by ooi_piano | 2015-09-05 00:00 | POC2015 | Comments(0)

9/23(祝) 原田力男・関連資料

■吉松隆「死んでは花見が出来ないし、さよならだけが人生さ」(1995年)
大井浩明「原田力男没後10周年演奏会に寄せて」(2005年)
原田力男「大井浩明・東京デビューリサイタル批評」(1993年)
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《Portraits of Composers / 甲斐説宗個展》
1995年(平成7年)7月7日午後7時開演 青山音楽記念館バロックザール(京都)
大井浩明(ピアノ/指揮)、甲斐史子(ヴァイオリン)、鈴木昭男(アナラポス)、武村美穂子・三宅由紀・今給黎麻紀・森本英希(フルート)、吹田朝美(打楽器)
甲斐説宗(1938-1978):《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅰ》(1967/74)、《ヴァイオリンとピアノのための音楽II》(1978)、《アナラポスのためのインターアクティヴィティ》(1977)、《ピアノのための音楽Ⅰ》(1974)、《ピアノのための音楽Ⅱ》(1976)、《4人のフルート奏者と1人の打楽器奏者のための音楽》(1972/73)


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《原田力男 没後10周年追悼演奏会》 Isao HARADA In MEMORIAM
2005年3月12日(土)午後5時30分開演
ちひろ美術館・東京 多目的展示ホール
大井浩明/ピアノ、甲斐史子/ヴァイオリン、渡邉理恵/打楽器・アナラポス

F.シューベルト  即興曲ハ短調 D.899-1(1827)
鈴木悦久(1975-) 《クロマティスト》~ピアノ独奏(2004)(公募招待作品)*
木山光(1983- )  《苦しむ中層雲》~ピアノ独奏(2004)(公募招待作品)*
吉松隆(1953- )  《シリウスの伴星に寄せる 作品1》~ピアノ独奏(1974)**
吉川和夫(1954- ) 《シークエンスIII》(1985)~ヴァイオリンとジャズ・ドラム
甲斐説宗(1938-1978) 《アナラポスのためのインターアクティヴィティ》(1977)
甲斐説宗(1938-1978) 《ヴァイオリンとピアノのための音楽II》(1978)
大石泰(1951- )   《ピアニストと打楽器奏者のための音楽》(1979)*
(*)・・・世界初演 (**)・・・公開世界初演


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「原田力男プライヴェート・コンサート通信」を所蔵する図書館
国立音楽大学附属図書館
明治学院大学図書館付属日本近代音楽館


原田力男の仕事について書かれた文献
「青春の音楽」原田力男著作集 編集委員会・編『青春の音楽 原田力男の仕事』(2002、私家版)

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原田力男・委嘱作品一覧
  原田力男が晩年にまとめた自身によるプロデュース活動の一覧から、原田が委嘱作品と見なした作品を抜粋した。数字は原田によって付された「Private Concert委嘱作品番号」である。作品名は初演当時のものを採用、初演された演奏会の名称と日時を記した(高久暁)。

第2回Private Concert
高橋アキの夕べ~六人の若い作曲家のピアノへの捧げもの(1976年3月1日、東邦生命ホール)

1勝間田裕子《暮雲》
2堀越隆一《Corrosion―by Pianist》
3藤枝 守《Plastic Music for Piano》
4吉川和夫《Postlude for Piano》
5大石 泰《Etude》
6坂本龍一《…分散・境界・砂…》
第6回Private Concert
森田利明と六人の若い作曲家~クラリネットのための現代作品の夕べ Gemini Concert Ⅰ(1977年3月1日、東京文化会館小ホール)

7  吉川和夫《Sea of Pericles》
8 宮沢和人《Lied Ⅲ》
9  北爪道夫《Shadows Ⅳ》
10 田中 賢《Isomerie für Klarinette》
11 大石 泰《”Yodel” Study》
12 鈴木行一《Reversed Reverberation for Cl. solo》
第7回Private Concert
森田利明クラリネット・リサイタル Gemini Concert Ⅱ(1977年3月17日、東京文化会館小ホール)

13 一柳 慧《Dissimulation》
第10回Private Concert
相互作用Ⅰ~甲斐説宗と鈴木昭男のばあいは…~いわさきちひろ絵本美術館・開館記念 2(1977年12月17日、いわさきちひろ絵本美術館)

14 甲斐説宗《Analaposのためのインターアクティヴィティ》
15 鈴木昭男《うつろい》
第12回Private Concert
相互作用Ⅱ~甲斐説宗と鈴木昭男のインターアクティヴィティ(1978年1月5日、高輪・鈴木昭男スタジオ)

16 鈴木昭男《Play たどり》
第13回Private Concert
崎元 讓ハーモニカ・リサイタル~作品募集のためのレクチュア・コンサート(1978年2月5日、いわさきちひろ絵本美術館)

17 菅原明朗《無伴奏ハーモニカのための3つのノクターン》
第15回Private Concert
丸山 亮・音の絵本(1978年4月14日、いわさきちひろ絵本美術館)

18 丸山 亮 イヴェント『音の絵本』
第17回Private Concert
小林健次+一柳 慧による「ヴァイオリン現代作品の現在」(1978年6月17日、第一生命ホール)

19 吉川和夫《ソナタ第2番》
20 大石 泰《Axis for solo violin》
21 甲斐説宗《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》
第18回Private Concert
崎元 讓ソロ・ハーモニカの夕べ~オリジナル作品展Ⅰ(1978年11月24日、いわさきちひろ絵本美術館)

22 小藤隆志《追想(Remembrance Ⅰ)》
23 安部高樹《The Respiratory Organ for mouth organ》
24 大石 泰《Piece for Solo》
25 河野敦朗《RIM (minus one)》
第19回Private Concert
崎元 讓 室内楽の夕べ~オリジナル作品展Ⅱ(1978年11月28日、いわさきちひろ絵本美術館)

26 上脇克己《「私と私」と「私の私」の入り口で》
27 芦川 聡《Wrinkle》
28 吉松 隆《忘れっぽい天使 Ⅰ》
第24回Private Concert
岩亀裕子フルート・リサイタル~演奏表現の新しい地平 1(1979年1月20日、いわさきちひろ絵本美術館)

29 吉川和夫《ソロフルートのためのプレリュード》
第25回Private Concert
御喜美江アコーディオン・ソロリサイタル~演奏表現の新しい地平 2(1979年4月7日、いわさきちひろ絵本美術館)

30 細川俊夫《"At midnight in the kitchen, I wanted to tell you…”―鍵盤楽器のための》
第27回Private Concert
甲斐説宗追悼演奏会 1~木之下晃『甲斐説宗~内なる熟成』併催(1979年6月12日、健保会館ホール)

31 伊藤祐二《振り返り Ⅲ》
32 坪能克裕《ギターソロのための音楽》
33 松平頼暁《墓碑銘―甲斐説宗のために》
第29回Private Concert
平尾はるなピアノ・リサイタル~ピアノ現代作品の現在 有賀誠門 特別出演(1979年7月3日、イイノホール)

34 吉松 隆《レグルス回路・ピアノソナタ Ⅱ》
35 佐藤 稔《球面三角 Self and Others》
36 鈴木静哉《ピアノソナタ》
37 小藤隆志《Sometimes》
38 戸島美喜夫《冬のロンド》
39 一柳 慧《Music for Piano and Percussion》
第32回Private Concert
香津美 イン ちひろスペースⅡ~演奏表現の新しい地平 6(1980年4月28日、いわさきちひろ絵本美術館)

40 渡辺香津美 カントリー・ジャム
第35回Private Concert
山下和仁ギター・リサイタル 2~演奏表現の新しい地平 7(1980年10月21日、いわさきちひろ絵本美術館)

41 吉松 隆《リトマス・ディスタンス》
42 渡辺香津美《Astral Flakes》
第36回Private Concert
野口 龍フルート・リサイタル~フルート現代作品の現在(1980年11月8日、東京文化会館小ホール)

43 吉川和夫《”Poo-Tee-Weet” Postlude for Flute》
44 藤原 豊《二本のフルートのためのラプソディー》
45 篠原 眞《Passage バス・フルートとステレオ増幅のための》
第39回Private Concert
清水高師ヴァイオリン・リサイタル~演奏表現の新しい地平 8(1982年2月16日、第一生命ホール)

46 吉川和夫《シークエンスⅠ~3つの村の情景》
第40回Private Concert
フリードリッヒ・ニーチェ その青春の音楽~総集編コンサート(1983年3月31日、東京文化会館小ホール)

47 吉川和夫《ニーチェの動機による変奏曲》
第44回Private Concert
清水高師ヴァイオリン・リサイタル~演奏表現の新しい地平 9(1984年7月21日、ちひろスペース100)

48 藤原 豊《縹(Hanada)》
第47回Private Concert
清水高師・吉川和夫 二人展~Takashi Shimizu ヴァイオリン演奏表現の現在 1(1985年7月11日、東京文化会館小ホール)

49 吉川和夫《シークエンス Ⅱ~3つの村の情景》
50 吉川和夫《シークエンス Ⅲ~3つの村の情景》
第51回Private Concert
篠原 眞・作品個展~1958年以降の器楽曲(1987年1月20日、東京文化会館小ホール)

51 篠原 眞《Evolution for Cello》


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原田力男が制作した演奏会に出演した主な演奏家(演奏を行った作曲家を含む、順不同)

ピアノ:高橋アキ、高橋悠治、一柳慧、中川敏郎、藤井一興、平尾はるな、谷川賢作、三ツ石潤司、久元祐子、堀江真理子、原田英代、戸口純、薗智子、松谷翠、柳井修、斉木隆、太田戸紫子、武沢洋、江端伸昭、武見由美子、神谷都志、南木十和、原成子
ヴァイオリン:小林健次、清水高師、清水厚師、甲斐史子
チェロ:北本秀樹
コントラバス:溝入敬三
フルート:野口 龍、小泉浩、甲斐道雄、岩亀裕子
オーボエ:辻功
クラリネット:森田利明
ファゴット:岡崎耕治
ギター:佐藤紀雄、山下和仁、渡辺香津美
ハーモニカ:崎元讓
アコーディオン:御喜美江
打楽器:有賀誠門、グループ3マリンバ(岡田真理子、菅原淳、種谷睦子)、日野元彦
:菊地悌子、篠原眞
:水野賢司、小泉恵子、清水菜穂子、竹前文美子


原田力男の制作したレコード
清水高師ヴァイオリン・リサイタル~演奏表現の新しい地平
ALM Records, LM-1435
フリードリッヒ・ニーチェ全歌曲集~その青春の音楽
ALM Records, LM-1500
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by ooi_piano | 2015-09-04 00:37 | POC2015 | Comments(0)