7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


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POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

c0050810_1651085.jpg  «L’un des musiciens les plus géniaux et les plus méconnus de la génération actuelle.», disait Michel Foucault de Jean Barraqué. 「ジャン・バラケは、この世代の最も才能豊かで、最も知られていない音楽家の一人だ」(ミシェル・フーコー)

  「(・・・)バラケのソナタの演奏を断念したことについて、心よりお詫びを申し上げます。ニューヨークでお話をしたあと、この曲と格闘して多くの時間を費やしましたが、私が思いつくかぎりのどんな攻略法をもっても、人前に出せるだけの結果を生みだせるには至りませんでした。まったくのところ、先延ばしにするのは最もまずいことだという結論を出さざるをえませんでした――もしかすると、このソナタの音楽のかなりの部分はまだ作曲家の考えのなかにとどまっていて、紙のうえに表現されていないのかもしれないとも考えさせられました。この曲が私を非常にとまどわせるものだとよく認識できるまでに、1年かかりました。この曲の背後には、巨大な構造的思考があり、それは、具現化しようという望みの前につねに横たわっていました。しかし、私がここに投入することのできたあらゆる方策をもってしても、美学的に困難と思われる、という結論しか生み出しませんでした――そこで、私はこの作品にさらに関わり続けるのは愚かであると認めねばならなかったのです。このことが不首尾に終わってしまい、あなたに対してもバラケ氏に対してもひじょうに申し訳なく思います。あなたとバラケ氏をこのように長く失望させつづけてしまったことに、たいへん恥じ入っております。しかし、これほどまでに知的な期待にみちた作品をこれまでには知りませんでしたので、この現実にひじょうに失望しております。私ではなく他に、この曲をもっとうまくできる方が見つかることを心より祈っております。...あなたがフランスの曲をプログラムにのせてほしいと希望されていることは覚えておりますので、バラケのかわりにブーレーズの第2ソナタならご提案できます。もう一つの可能性としては、プッスールの変奏曲1&2もあります。私がフェスティバルの成功を望んでいますことをどうかおわかりいただけますよう! (1957年6月、デヴィッド・チューダーからナント音楽祭監督への手紙) 



c0050810_22541665.png大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第23回公演
ジャン・バラケ 全ピアノ作品 
2015年11月3日(祝)18時
開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


【演奏曲目】

シルヴァーノ・ブッソッティ(1931- ):《クラヴィアのために》(1961) [招待作品]  約25分

ジャン・バラケ(1928-1973):《回帰 Retour》(1947/48、日本初演) 約4分
《ソナタの間奏曲楽章 Intermezzo》(1949、日本初演) 約3分
《二つの断章 Deux morceaux》(1949、日本初演)  約3分
  I. Allegro - II. Mystérieux et angoissé avec de brusques éclats
《小曲 Pièce》(1949、日本初演) 約1分
《主題と変奏 Thème et variations》(1949、日本初演) 約5分

(休憩15分)

《ピアノ・ソナタ Sonate pour piano》(1950/52、新校訂版による日本初演) 約45分
  第一部 Très rapide - 第二部 Lent



c0050810_22551981.jpg  ジャン・バラケは1928年1月17日、オー=ド=セーヌ県ピュトー市生まれ。10代前半よりパリ・ノートルダム寺院聖歌隊員を務めつつ、ピアノを学ぶ。ジャン・ラングレに和声と対位法を師事した後、1948年~51年にオリヴィエ・メシアンの音楽分析クラスを受講。1951年~54年、ピエール・シェフェールの具体音楽研究集団に参加。1963年よりブソッティの友人であるフィレンツェの実業家、アルド・ブルッツィケッリの援助により楽譜を出版。代表的著作に《Debussy: ou l'approche d'une organisation autogène de la composition》(1962)(『ドビュッシー』平島正郎訳/白水社)。メシアンの推挙により1973年6月29日、フランス文化省より芸術文化勲章シュヴァリエを受章。同年8月10日片麻痺に襲われ脳内血腫手術を受けるも、同月17日パリにて永眠。1980年、アンリ・デュティユーを初代会長として、パリにジャン・バラケ協会が設立された。
  ピアノ独奏のための《回帰》は、1947年リセ卒業直後の習作。かつては司祭職をこころざしたこともあり、49年3月に宗教的テクストによる無伴奏合唱曲を書くものの、翌月にはセリエル技法による処女作である「無神論的な」無伴奏ヴァイオリンソナタを作曲。《2つの断章》は同年6月10日完成、第1曲は《弦楽四重奏曲》第2楽章のピアノ版である。《小品》は同年10月17日完成、同じく《弦楽四重奏曲》第1楽章のピアノ版にあたり、「提示-実践-再現-終結」の序言が付されている。《ソナタの間奏曲楽章》も同年の作と推測されるが、他の楽章は発見されておらず、また1950~52年に書かれた「ソナタ」とは無関係の作品である。《主題と変奏》は、《弦楽四重奏曲》の変奏楽章に併行して書かれ、1949年12月5日に完成。これらの未出版作品は、2011年10月5日ストラスブールにてニコラス・ホッジスにより公開初演された。
  長大な《ピアノ・ソナタ》は1950年から52年にかけて作曲され、概して速い第1部(全420小節)、それに連続する概して遅い第2部(全317小節)から成る。1957年10月にイヴォンヌ・ロリオによりLP用に録音された後、1966年に上記ブルッツィケッリにより公刊され、その翌年4月24日にコペンハーゲンで、デンマーク人ピアニスト、エリザベート・クラインによって公開世界初演が行われた。


ヨーロッパ戦後前衛第一世代の光と影(そしてバラケもそこにいる) ───野々村 禎彦

c0050810_22574791.jpg POC第2期で取り上げられた4人の作曲家、クセナキス(1922-2001)、リゲティ(1923-2006)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007)、まさにヨーロッパ戦後前衛第一世代の「光」を代表する存在だった。今回の主役のジャン・バラケ(1928-73) は、彼らに劣らない才能を持ちながら「影」に甘んじて早世した作曲家の代表にあたる。ただし、人生には運不運はつきもの。彼は1964年に自動車事故に遭った。後遺症に悩まされながらも多くの作品を並行して書き進め、1968年には気力を振り絞って2作を完成させたが、この年の暮れに自宅アパートがガス漏れで全焼してしまった。幸い怪我はなく、膨大な草稿も持ち出せたが、それをまとめ上げる気力と体力は彼には残っていなかった。だが、それが不運だけで片付けられるものなのかは検討する余地がある。そこでまず、「光」の4人の歩みを簡単に振り返り、そこから読み取れるものをまとめてみよう。

 ブーレーズはメシアン初期の弟子たちの中では飛び抜けた優等生で、その技術と12音技法を結び付けた作品群で20歳代前半から将来を嘱望されていた。特に《ピアノソナタ第2番》(1948) は、古典的形式の解体を意図した4楽章構成がベートーヴェンのソナタ29番を思わせる、ヨーロッパ戦後前衛最初の歴史的作品になった。12音技法のセリー書法をすべての音楽要素に拡張した総音列技法は、メシアン門下生のフイヴァールツ(1923-93) が完成した。すべての音楽要素が均質化された音世界はあらゆる伝統から隔絶したものだったが、ブーレーズは《構造I》(1951-52) でこの技法を採用し、直接管理されない音楽要素に偏りを持たせて伝統的なダイナミズムを回復した。代表作《主なき槌》(1953-55) では、ヴェーベルンとストラヴィンスキーの音世界をこの技法が仲介する。彼はケージのプリペアド・ピアノ作品を高く評価し、40年代末から50年代初頭にかけて親交を結んだが、偶然性の音楽の本質がヨーロッパの伝統である音楽的構築の否定だと気付くと、一転して「怠惰による偶然性」と強く非難し、その毒を奏者による断片の選択に矮小化した「管理された偶然性」を提唱した。この新技法とドビュッシーの音色探求を結び付けたのがもうひとつの代表作《プリ・スロン・プリ》(1957-62) だが、彼本来の緊密な構築感を弱める方向に働くこの技法との相性は悪く、この作品を最後に活動の中心を指揮と教育活動に移すことになる。ただし、20世紀前半の美学を盛る器として前衛諸技法を用いる姿勢には限界があり、結果的に絶妙なタイミングで勝ち逃げに成功した。

c0050810_2259116.jpg シュトックハウゼンはブーレーズに代わってヨーロッパ戦後前衛を牽引する立場になってゆくが、彼にはブーレーズのような20世紀前半の美学への愛着はなく、辛い青少年時代を思い出させる伝統的な音楽とは隔絶した、フイヴァールツ流の総音列技法に惹かれて作曲を志した。その後ブーレーズ流のダイナミックな書法に転換するが、彼には伝統を回復する意図はなく、ルールを拡張して新たな音楽要素を管理の対象にすると、音世界が一変する面白さに魅せられたのだろう。彼は総音列技法を拡張する一方で電子音楽にも積極的に取り組み、《少年の歌》(1955-56) で一躍注目を集めた。正弦波発振音の加算合成に拘る狭義の電子音楽の枠を超えて、少年の歌声も素材にしたのがこの作品の新しさだが、セリー概念を拡張して発振音も人声も同列に扱ったことがポイント。《クラヴィア曲X》(1954-61) は彼の総音列技法の総決算になった。彼は「管理された偶然性」をまずブーレーズに倣って取り入れたが、その後本家のケージを研究して思索を深め、音響素材と音楽の成り行きのみを指定する、「管理された即興」と呼べる新様式に至った。この書法とライヴエレクトロニクスを融合させた《ミクロフォニーI》(1964) から、彼は再び旺盛な創作を始めた。以後の彼の歩みは割愛するが、戦後前衛の転換点を乗り越えるには、このくらい大胆に発想を拡張してゆく必要があった。

 メシアンの弟子の中でも、クセナキスは最劣等だったのは疑いない。祖国ギリシアでは戦中戦後とゲリラ闘争に明け暮れた彼の作曲技術は、亡命先のフランスでは嘲笑される水準だった。だがメシアンは彼を温かく励まし、「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に使わないのか?」と助言した。やがて彼は、音楽を周波数と時間の2次元グラフ上の図形と捉えてまず「外骨格」を直観的に作り、内部構造を推計学・集合論・群論などの知識を駆使して埋めてゆく、真に伝統から隔絶した作曲法を編み出した。彼の作曲理論書を読む限り、「使えそうな数式を借用した」程度の理解にも見えるが、重要なのは「最小要素を積み上げて大伽藍を築く」伝統的作曲技法(総音列技法はその極致)と対照的な音楽思考の方で、「高度な数学」自体は劣等生が「俺の理論は奴らよりも高度」だと自信を持って作曲するための呪文で構わない。本来の意味の「前衛音楽」である彼の音楽は聴衆にも批評家にもなかなか理解されなかったが、大指揮者シェルヘン(1891-1966) はその斬新さをいち早く見抜き、デビュー作《メタスタシス》(1953-54) 以来、彼が新作を書き上げるたびに演奏を手配し、多くを初演した。その音響をより伝統的な手法で再現した、ペンデレツキ(1933-) やリゲティの作品の方が世間では早く認められたが、大オーケストラを聴衆の間に分散した《テレテクトール》(1965-66) で評価を確立した。彼くらい隔絶した存在には「戦後前衛の転換点」など関係なかった。

c0050810_2321650.jpg リゲティはハンガリーで生まれ育ち、バルトークを受け継いで無調化をさらに進めたような作品を書いていただけに、ハンガリー動乱以降のソ連支配が強まる中で弾圧を恐れ、着の身着のままで西側に亡命した。ヨーロッパ戦後前衛の本場との圧倒的な格差を目の当たりにした彼が、生き残り戦略として選んだのは、バルトーク流ポリフォニー書法の土台の上に流行の書法を節操なくトッピングする二番煎じ戦略と、総音列技法と偶然性の音楽という「本流」だけは無視して差別化を図る逆張り戦略だった。クセナキス作品の本質的な新しさを同業者として見抜き、その音響を半音階堆積で実現した「ミクロ・ポリフォニー書法」で評価を確立してからも変遷を続け、前衛の時代をトップランナーのひとりとして駆け抜けた。その後、自らの歩みに虚しさを覚えてスランプに陥った時期もあったが、ナンカロウ(1912-97) のポリリズムと出会う「ヴェーベルンとアイヴズ以降で最大の音楽的発見」を契機に創作意欲を取り戻し、《ヴァイオリン協奏曲》(1989-93) を頂点とする、ポリリズムと音律探求(民謡収集に由来する)を融合した作品群に至った。小手先の戦略に頼らない後期作品の充実は彼の音楽的実力を示しているが、そんな彼もかつては小賢しい戦略に頼らざるを得なかったことは、20世紀前半の美学の持ち主が「戦後前衛の転換点」を乗り越える際の困難を示している。

               **********

c0050810_233155.jpg ここでようやくバラケだが、本日演奏されるピアノ独奏曲は初期の習作と作品1にあたる《ピアノソナタ》(1950-52) のみなので、ことさらに伝記的細部には触れない。彼が終生偏愛した作曲家はベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ドビュッシー。20世紀前半で好んだのはヴェーベルンら数名、新古典主義は総じて好まず、ストラヴィンスキーはもちろんラヴェルも苦手だったという。彼は《ピアノソナタ》を、ブーレーズの《第2ソナタ》を横目で見ながら精緻な12音技法で書いた。元々ベートーヴェンを偏愛する彼が、ベートーヴェンを意識した先輩の曲を参照して書き上げたら、おのずとベートーヴェン的になる。長大な演奏時間から29番と比較されることが多いが、ブーレーズ作品にも共通するJ.S.バッハの衣鉢を継ぐポリフォニーはバラケ作品にはない。急緩の2楽章構成という点からも、比較すべきは32番だろう。ただし第2楽章の佇まいは対照的。天上に昇りつめてゆくベートーヴェン作品に対し、バラケ作品では音楽は徐々に希薄になり、虚無の奈落に堕ちてゆく。

c0050810_2342445.jpg ソナタと並行してソプラノとアンサンブルのための《セカンス》(1950-55) を書き始め、ソナタを完成するとGRMスタジオに通ってミュジック・コンクレートの《習作》(1952-53) を制作し、《セカンス》が完成するとソプラノ、合唱、管弦楽のための《復元された時間》(1956-57/67-68) の草稿を書き上げ、続けて声と4群のアンサンブルのための《…偶然の彼方に》(1958-59) を完成した。彼は寡作な作曲家とされるが、この時期の生産性は同時期のブーレーズと比べてもさほど見劣りしない。違いがあるとすれば、ブーレーズは作品がある程度まとまった時点でまず発表し、その後加筆改訂することが多かったのに対し、バラケは完成まで発表することはなく、またブーレーズはいったん発表後撤回した作品も少なくないのに対し、バラケにはそのような中途半端な姿勢はない。

 《復元された時間》以降に書かれた作品はみなヘルマン・ブロッホの小説『ヴェルギリウスの死』に基づいている。彼は1952年から55年まで後の大哲学者フーコーと恋愛関係にあり、別れ際に手渡されたのがこの小説だった。彼はしばしば、不当に低く評価されてきた作曲家として言及されるが、60年代以降発表した作品は《復元された時間》の完成稿の他には声、ピアノ、打楽器アンサンブルのための《歌に次ぐ歌》(1966) とクラリネット、ヴィブラフォン、6群のアンサンブルのための《コンチェルト》(1962-68) に留まり、同時期に自由なセリー技法を用いていた作曲家たち:松平頼則、篠原眞、スペインのアルフテルとパブロ、旧ソ連のデニソフらの作品よりも歴然と見劣りする。だが《ピアノソナタ》の録音だけでも生前に3種類も発売されており、むしろ十分な関心を集めていた。フーコーが別離後も折に触れて彼を賞賛し続けたことも、そのひとつの要因だろう。

 《…偶然の彼方に》以降の彼の仕事で特筆すべきは、むしろ独自のドビュッシー観の提示である。従来の見方では、全音音階などの非調性的な音組織の導入がドビュッシーの業績であり、音組織の面ではバロック回帰した晩年の作品群は新古典主義の端緒とされてきた。だが彼は、伝統的な動機労作に依らず「既存の鋳型の助けを借りることなく、それ自身によって推進してゆく」《開かれた形式》こそがドビュッシーの音楽の本質であり、それが全面的に開花したのが晩年の作品群だと主張した。この主張に基づいて《海》を分析した論文で音楽博士号を取得し、ドビュッシーの評伝(1962, 邦訳あり) も執筆した。この論文準備中に書き上げた《…偶然の彼方に》から採用した、セリーをDNAの組み換えのように《増殖》させる手法は、「それ自身によって推進してゆく」発想に由来している。また最後の作品《コンチェルト》ではセリー書法による部分と明確な調性を持つ部分が交替するが、それを「異質な要素の対比」ではなく、ひと続きの推移としてまとめているのも、この音楽観の帰結だろう。ただし、彼の発想は「既存の要素の並べ方の工夫」に留まり、シュトックハウゼンのような大胆な概念の拡張には至らなかった。ガムラン音楽に「これと比べたら、パレストリーナなど児戯に等しい」《対位法》を聴き取る、ドビュッシーの域に達することはできなかった。

c0050810_2361866.gif 彼の「低評価」の要因として、総音列技法とは異なる形でセリー技法を用いていたこともしばしば挙げられるが、クセナキスやリゲティと比べたら差異は小さい。《セカンス》も《…偶然の彼方に》もブーレーズが主宰するドメーヌ・ミュジカルで初演された。技法の僅かな差異を理由に主流派から冷遇された、とは考えにくい。結局、彼が「光」の側には入れなかったのは、60年代初頭の「戦後前衛の転換点」を乗り越えられなかったからだ。彼のような20世紀前半までの美学の持ち主にはこのハードルは高く、リゲティのように戦略的に立ち回るか、ブーレーズのように他分野で記憶されて名声を維持するか。総音列技法の開発者の座を同門の後輩ブーレーズに奪われたフイヴァールツは、雌伏の後ミニマル書法を習得してしぶとく復活したが、バラケは自らの美学と心中する道を選んだ。『ヴェルギリウスの死』は実はそういう話だが、そもそも《ソナタ》の音楽的成り行きが彼の歩みを予言していた。そのような意味でも、《ソナタ》は彼のデビュー作にして代表作なのである。
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by ooi_piano | 2015-10-29 15:58 | POC2015 | Comments(0)
感想集 http://togetter.com/li/809779

日本アルバン・ベルク協会創立30周年記念シンポジウム&コンサート
2015年10月25日(日) 汐留ホール (大江戸線「汐留」駅徒歩1分)
  17時~(シンポジウム)/18時20分~(コンサート)

チラシ

c0050810_6124444.jpg  日本アルバン・ベルク協会は、作曲家アルバン・ベルク(1885-1935)の生誕100年を記念して、作曲家の諸井誠や指揮者の若杉弘などが発起人となり、1985年秋に設立されました。ベルク作品の研究普及活動のみならず、広く「20~21世紀の音楽」を対象にして知識を深め、愛好者の交流を計ることを目的にしています。 「同時代音楽の普及」という主旨に賛同するピエール・ブーレーズを名誉会長に迎え、同じく同時代音楽に造詣の深い末松謙一・三井住友銀行名誉顧問を名誉特別顧問、そして作曲家の一柳慧を会長に擁して、さまざまな活動を行っています。
   今年2015年は、アルバン・ベルク生誕130周年・歿後80周年、そして日本アルバン・ベルク協会創立30周年にあたり、これを記念してシンポジウム「新ウィーン楽派再考」とコンサートを開催致します。
  本イベントは通常の総会と親睦会に加え、協会の中心を担う5人の音楽学者によるシンポジウム、そしてピアニスト大井浩明氏と一柳慧会長による演奏会と、充実の内容となっております。会員の皆様は、ぜひ全編を通してご参加ください。
  なお、シンポジウム(17:00~)と演奏会(18:20~)は公開イベントとなっておりますので、非会員の方もご参加いただけます。




【プログラム】

15:45 総会(会員および関係者のみ)

17:00 シンポジウム「新ウィーン楽派再考」(一般公開)

 パネリスト:石田一志、佐野光司、長木誠司、樋口隆一、沼野雄司(司会)

18:20 大井浩明&一柳慧 ピアノ演奏会(一般公開)

===演奏曲目===

大井浩明(ピアノ) Hiroaki Ooi, piano

【21世紀から見る新ウィーン楽派 ~ピアノ独奏用編曲を通して】
The Second Viennese School a hundred years on: in solo piano transcriptions


c0050810_6135476.jpgA.ウェーベルン(杉山洋一編):《管弦楽のためのパッサカリア 作品1》 (1908/2014)
Anton Webern/Yoichi Sugiyama (1969- ) : "Super-Passacaglia" (Intermezzo IX) for piano, dedicated to Hiroaki Ooi

A.ベルク(R.スティーヴンソン編):オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985、日本初演)
Alban Berg/Ronald Stevenson (1928-2015): Cradle Song, from the opera "Wozzeck", Act I, Scene 3 (Japanese premiere)

A.ベルク(Y.ミカショフ編):オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987、日本初演)
Alban Berg/Yvar Mikhashoff (1941-1993): Tavern Garden Waltz, from the opera "Wozzeck", Act II, Scene 4 (Japanese premiere)

A.シェーンベルク(D.アンゾリーニ編):《管弦楽のための変奏曲 作品31》(1928/2001)
〔序奏 - 変奏I - 変奏II - 変奏III - 変奏IV - 変奏V - 変奏VI - 変奏VII - 変奏VIII - 変奏IX - 終曲〕
Arnold Schönberg/Dante Anzolini (1959- ): Variations for Orchestra Op.31

A.シェーンベルク(川島素晴編):オペラ《モーゼとアーロン》第2幕第3場より「黄金の仔牛の踊り」(1932/2007)
Arnold Schönberg/Motoharu Kawashima (1972- ): The Dance around the Golden Calf, from the opera "Moses and Aaron", Act II, Scene 3

A.ベルク(M.ウォルフサル編):オペラ《ルル》に基づく幻想曲 (1935/2008、日本初演)
〔ルルとアルヴァ二重唱(第2幕1場) - ラグタイムその1(第1幕3場) - 切り裂きジャックと死の絶叫(第3幕2場) - サイレント映画の音楽(第2幕間奏曲) - メロドラマ(第2幕2場) - ルルとアルヴァ二重唱(第2幕2場) - ラグタイムその2(第1幕3場) - アルヴァのルル賛歌(第2幕2場) - ルルのアリア(第2幕1場)〕
Alban Berg/Marvin Wolfthal (1947- ): "Lulu Fantasy", dedicated to Elliott Carter (Japanese premiere)

********
一柳慧(ピアノ/日本アルバン・ベルク協会会長) Toshi Ichiyanagi, piano

P.ブーレーズ(日本アルバン・ベルク協会名誉会長):ピアノソナタ第3番 - 抜粋 - (1956/57)
Pierre Boulez (1925- ): Piano sonata No.3

********
一柳慧&大井浩明(ピアノ四手連弾) Toshi Ichiyanagi & Hiroaki Ooi, piano 4 hands

A.ベルク(H.E.アポステル編):オペラ《ルル》第3幕第1場より「変奏曲」(1935/1985)
Alban Berg/Hans Erich Apostel (1901-1972): Variations from the opera "Lulu", Act III, Scene 1


20:00 親睦会  
(会員および関係者のみ、於:グランディーバ・カフェ 日テレプラザ店



c0050810_615082.jpg【会費】
 会員
   シンポジウム+ピアノ演奏会:無料
   親睦会:5000円

 非会員(当日入会も可能です)
   シンポジウム+ピアノ演奏会:
     一般 2500円(当日:3000円)、学生1500円 (当日券御座います)
   親睦会:会員および関係者のみ

【会場案内】
 総会、シンポジウム、演奏会:
  汐留ホール
  地下鉄大江戸線汐留駅7・8番出口すぐ/JR新橋駅烏森口徒歩7分
  港区東新橋1-7-2 汐留メディアタワーアネックス1F  TEL:03-6255-4104
  
 親睦会:
  グランディーバ・カフェ 日テレプラザ店
  JR新橋駅汐留口徒歩3分/地下鉄大江戸線汐留駅徒歩1分
  /ゆりかもめ汐留駅徒歩5分
  港区東新橋1-6-1日本テレビタワー1F TEL:03-5537-1255


c0050810_6155911.jpg【お問い合わせ】
 日本アルバン・ベルク協会    
  E-mail: aberggj1985アットmb.infoweb.ne.jp(担当:石井)


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by ooi_piano | 2015-10-20 20:02 | Comments(0)
c0050810_22594220.jpgMedia Project Vol.13
2015年 10月16日(金) 19時
開演(18時半開場)
すみだトリフォニー小ホール 入場無料
【問い合わせ】 Tel. 03-5284-5569 Fax. 03-5284-5697 mp[at]mlab.im.dendai.ac.jp
http://www.srl.im.dendai.ac.jp/events/Media_Project/V13/index.html
           
●柴山拓郎:《Imaginary Universe for eight speakers》 (2014)
●喜多敏博:クエリー・レスポンス - ピアノとライヴ・エレクトロニクスのための》(2014)(改訂版初演)
          ピアノ 大井浩明
●小坂 直敏:《ハイブリッド・コラージュ - ピアノと電子音響のための》(2015)(世界初演)
          ピアノ 大井浩明
●高岡 明 (音楽)+田中 敬一 (光アート):《Vanishing Trajectories》(2015)(世界初演)
●古川 聖:《かたちをめぐるものがたり》(2015)(世界初演)
          クラリネット 川越 あさみ, ピアノ 大井 浩明, プログラミング 濱野 峻行
●莱 孝之:《ルーセント・アクウァレル - ハープとコンピュータのための》(2001)
          ハープ  堀米綾

主催 東京電機大学 未来科学部
後援 先端芸術音楽創作学会 (JSSA),日本電子音楽協会 (JSEM)



c0050810_2303581.gif■小坂 直敏:《ハイブリッド・コラージュ ― ピアノと電子音響のための》(2015)(世界初演)
Naotoshi Osaka Hybridization Collage for piano and electroacoustics

  この作品は、既存楽器とコンピュータ音(電子音響)を混合させる、コンピュータ音楽の一形態で、ピアノ音は拡声するが、特に加工はしていない。電子音響では、作者が取り組んでいる「構造的音色」の一環としてのサウンド・ハイブリッド音を組み込んでいる。構造的音色とは、一つの音から別の音まで徐々に移り行く「サウンド・モーフィング」、ひとつの音の中に別の音が入れ子になっている「音の音」、二つ以上の音の特徴を持ち寄って、これらを掛け合わせてひとつの音を造る「サウンド・ハイブリッド」の三本立てからなる合成音技術の総称である。これらの合成音は現実にはない音であるため、既聴感のない新たな音色として、また、ひいては新たな楽音としての期待につながる。
  また、このような音は、一つの音と聞こえるか複数の音と聞こえるかの中間の合成音で、ぎりぎり一つの音といえる範囲を狙っている。
  本作品の中では、いくつかのサウンド・ハイブリッドを行っている。本年6月に収録した鳥(ヒタキ類)の鳴き声と正弦波の掛け合わせ音の他、水音、金属打撃音などを電子音と掛け合わせた。最も主要なハイブリッド音は、昨年のオーケストラ作品「音の音」の弦楽器のテーマを引用した。これは、作者がいろは歌を朗読し、そのピッチを機械分析し、これを旋律として和声付けしたものであるが、この弦の音にさらに、朗読した「いろは歌」の音韻をも付与して、弦楽器に喋らせる、ということを技術課題とした。弦楽器に喋らせると、弦楽器でなくなってしまうのか(弦楽器の特徴が損なわれるのか)、しわがれ声のようなつまらない音になってしまうのか、声と弦楽器が二つとも聞こえるだけなのか、という問いに、否、魅力的な一つの楽音である、と答えたいのが合成音の製作意図、ひいては作品の創作意図である。
  いろは歌の音韻は以下に読み上げた。
  「いろわにおえどちりぬるを、わがよたれぞつねならむ。ういのおくやまきょうこえて、あさきゆめみじえいもせず」


小坂直敏  Naotoshi OSAKA
  1978年早大電気工学科修士了。同年電電公社(現NTT)入社。以来さまざまな音響研究に従事する。作曲を故甲斐説宗氏、田鎖大志郎氏に師事。1990年以降、自身の音合成研究の成果を生かして、モーフィング音を用いた音楽や、音楽制作ソフト「おっきんしゃい」を用いての音楽の創作を行う。代表作は「ピアノと二台のコンピュータのための「音の織物」(1998)、オーケストラとコンピュータのための「驥尾焚き火…」(2009)、オーケストラのための「音の音」(2014)など。NTTコンピュータ音楽シンポジウム(’97、’01)、けいはんなメディアフェスティバル(’01-’04)、Media Project(’07-)他、コンピュータ音楽企画を多数実施。ICMC 1993および2003参加。2002-2009年までICMA(国際コンピュータ音楽連盟)アジアオセアニア地区理事。博士(工学)。2003年より東京電機大学教授。先端芸術音楽創作学会(JSSA)会長。




c0050810_232035.gif■古川 聖:《かたちをめぐるものがたり》(2015)(世界初演)
Kiyoshi Furukawa Narrative around form (Premiere)

  数的な構造のような直接には音楽とは関係のない音楽外構造、または既存の音楽をモデルとした構造など、いろいろなアルゴリズムを使い作曲を行ってきたが、音楽という現象とは聴覚を通した音イベントの構造認知であり、音楽、音楽作品とはつまるところ、脳の外在化、脳の認知機能が外側に飛び出たものであることに思い至った。認知論的音楽と言うと大げさだが、私たちの音楽体験自体、音楽の聴覚を通した認知の文法をアルゴリズム化することを考えた。音楽において私たちは音と音の関係を知覚し、グループ化し、抽象化し記憶する、そしてそのように作られたその記憶同士が再びが比較され、関係付けられ、組み合わされて次のレベルのグループが形成され、抽象化され記憶される…。このような様相をプログラミングすることを試みてきた。作曲家でプログラマーでもある濵野峻行と音楽という曖昧かつ、深遠な現象を知識表現することに悪戦苦闘しながら「ゲシュタルトエディター」(※)というアプリケーションとして道具化した。
  《かたちをめぐるものがたり》ではこのアプリケーションを概念の望遠鏡、つまり、単体であれば確実に認知可能な音楽的操作を自由な複雑度で敷衍、組み合わせ、認知可能性の限界、あたらしい認知の地平までをも探るための道具として使い、「聴くこと」と「書くこと」の間を行ったり来たりしながら作曲を行った。音楽という体験の不可思議さはその入り口、きっかけは単に音の形態認知なのだが、その関係性の複雑度により認知がすぐに”認知一般”ともいうべき音楽というというモダリティーに限定されないレベルに入りこんでしまうことに原因がある。つまり、私たちが考え、感じ、体に指令する脳、全的な体験、知性、記憶が蓄えてあるその脳で、同時に音楽の形態認知を行うために音楽がかくも情動的かつ深遠な体験となるのだろう。私たちの中に音楽が起こってくるとき、その始まりは音でもなく感情ともいえないほどの未分化な何かの衝動だと思う。本作品では12の音からなる長音階の中の5度関係にある音に記憶素として、短三和音を形成する音に形質素としての印をつけたりしながら音楽のモティーフをつくり、それらを全体のプロセスのなかで線的な表現の可能なクラリネットや集合音も扱うピアノへと織り込んで行った。
 (※)「ゲシュタルトエディター」は2008年以来、古川が藤井晴行、木村亮太、大村英史、濱野貴之らと開発を続けている作曲プログラムである。

古川聖 Kiyoshi FURUKAWA
  1959 年東京生まれ.ベルリン芸術大学、ハンブルク音楽大学にて尹伊桑、ジェルジ・リゲティのもとで作曲を学ぶ。スタンフォード大学で客員作曲家、ハンブルク音楽大学で助手、講師を経て、ドイツのカールスルーエのZKMでアーティスト研究員。作品は、新しいメディアや科学と音楽の接点において成立するものが多く、1997 年のZKMの新館のオープニングでは委嘱をうけて,マルチメディアオペラ『まだ生まれぬ神々へ』を制作・作曲.2009年~14年、理化学研究所客員独立主幹研究員として音楽と情動の研究を行う。2000年より東京芸術大学・先端芸術表現科教授、東京芸術大学芸術情報センター長。




c0050810_233231.jpg■喜多敏博:《クエリー・レスポンス ― ピアノとライヴ・エレクトロニクスのための》(2014)(改訂版初演)
Toshihiro Kita Query response for piano and live electronics (2014) Rev.2

  クエリー(問い合わせ)と、レスポンス(答え)は、日々の生活、社会の中で、毎日のように繰り返される。
  人から人へ、人からコンピュータへ、コンピュータからコンピュータへ。空気を介して、電気信号として、回路の中をデジタルデータが伝搬し、戻ってくる。通常は素直なレスポンスを期待しているが、時には意外な答えをもらうのも悪くない。
  本作品を設計する際、ピアノ演奏だけでも成立し、ピアノの音とそれに応える電子音響(エレクトロニクス)とがなるべく乖離しない作品にと願い設計した。エレクトロニクスにはCsoundを用いている。
  本作品は、喜多の京大電気工学科での同級生でもある大井浩明氏からの委嘱で作成したもので、2014年6月15日に大井氏により初演された。
  今回も演奏会場では、大井君の演奏に対峙して、自分のスマートフォンで電子音響用コンピュータを遠隔操作してレスポンスを引き出そうと苦闘する私がいることでしょう。

喜多敏博 Toshihiro KITA
  1967年に奈良に生まれる。京都大学大学院工学研究科博士後期課程研究指導認定退学,熊本大学工学部助手,総合情報基盤センター准教授,eラーニング推進機構教授,現在に至る。工学博士(名古屋大学,2005年)。eラーニングシステム,LMS/VLE,非線形システム,電子音楽に興味を持つ。先端芸術音楽創作学会(JSSA) 運営委員。
  ACMP(Asia Computer Music Project) 2012(台北、台湾)および NIME(New Interfaces for Musical Expression)2013(大田、韓国)にて、Webアプリケーションのアクセスログデータを実時間音響化するデモを実施。2013年8月に熊本市現代美術館ミュージックウェーブ071「ラップトップミュージックコンサート&ワークショップ」を実施。Csound Conference 2013 (Boston, USA) および 第18回JSSA研究会(東京)にて、専用アプリ不要の聴衆参加型作品"Audience's Smartphone Jam Session" を発表。"Audience's Smartphone Jam Session" の改訂版を Web Audio Conference 2015 (IRCAM & Mozilla Paris, France) と EMSAN/JSSA Day 2015 (岐阜)で発表。
  ウェブサイト http://tkita.net/


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cf.
c0050810_22143862.jpg日本電子音楽協会第10回演奏会
2004年3月10日(水) すみだトリフォニーホール小ホール

水野みか子:《醒める河で》
由雄正恒:《連.弾.指.》 ~MIDIピアノとMAX/MSPによる一人のピアノ奏者のための 
●門脇治:《ペンローズタイル》
●しばてつ:《電波梅》 ~オンド・マルトノと鍵盤ハーモニカのための


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by ooi_piano | 2015-10-13 04:35 | コンサート情報 | Comments(0)
POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第22回公演
フランコ・ドナトーニ(歿後15周年)全ピアノ作品 
2015年10月11日(日)18時
開演(17時半開場)
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松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/

c0050810_7194451.jpgドナトーニ(1927-2000):
《四楽章の作品 Composizione in quattro movimenti》(1955、日本初演) 約15分
《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957)(東京初演) 約20分
《抜刷 Estratto》(1969) 約2分
《韻(リーマ)~2つの小品 Rima》(1983) 約10分

(休憩15分)

《フランソワーズへ A Françoise》(1983、東京初演)
《フランソワーズ変奏曲(1~49) Françoise Variationen》(1983/96)(東京初演) 約40分
《レンゾとマルチェラへ A renzo e marcella》(1990、日本初演) 約1分
《レオンカヴァッロ Leoncavallo》(1996、日本初演) 約1分



c0050810_7204029.jpg  フランコ・ドナトーニは1927年6月9日ヴェローナ生まれ。7歳でヴァイオリンを始め、10代半ばから作曲を志す。ミラノ・ヴェルディ音楽院、ボローニャ・マルティーニ音楽院作曲科卒業後、ローマ・サンタチェチリア音楽院在籍時にゴッフレド・ペトラッシに兄事する。ブルーノ・マデルノと出会い、1954、1956、1958、1961の各年にダルムシュタット夏季講習会に参加。ボローニャ、トリノ、ミラノ、ローマ、シエナ等で教鞭を執り、P.デュサパン、G.シノーポリ、M.リンドベルイ、E.-P.サロネン、A.ソルビアーティ、S.ゴルリ、F.ロミテッリ、杉山洋一ら多くの優れた弟子を育てた。2000年8月17日ミラノにて歿。
  最初期作の《四楽章の作品》は1955年作曲、献辞無し、1957年ショット社(ロンドン)刊。《3つの即興》は1957年作曲、マリオ・マリーニ博士に献呈、1958年ショット社刊。晩年のドナトニの回想では、前者は「ダラピッコラから借りた擬似ウェーベルン」であり、後者は「ブーレーズ第2ソナタの醜悪なコピー」と評される。
  《抜刷》(1969)は、1970年2月29日トリエステにて、アントニオ・バリスタにより献呈初演。「雀の鼓動」のような極めて軽い有音部と、「骸骨蛾の羽ばたき」のようなほぼ無音部の間を滑走する。《韻(リーマ)》(1983)は、1983年7月9日コルトーナでマリア・イザベラ・デ・カルリにより献呈初演。ほぼ連続して演奏される2つの小品から成る。
c0050810_7214342.jpg  《韻》の世界初演に臨席したローマの映画評論家アルド・タッソーネから、妻フランソワーズ・ペリのために撮影用の1頁の小品を書いてくれ、と冗談で言われ生まれたのが、《フランソワーズへ》(1983)である。これは5年後に、ペトラッシ・ブソッティ・マンゾーニ・カスティリオーニら13人の現代イタリア人作曲家の小品を集めたリコルディ社のアンソロジーに所収された。事実上この小品を主題として連作されたのが《フランソワーズ変奏曲(1~49)》である(他にも多くの自作の源泉となったと云う)。自筆譜で1ページ(出版譜で2ページ)、1分前後の短い変奏曲7曲の7セットからなる。出先のホテルで空き時間に日記のように作曲した、ということになっており、自己と自作への内省とともに新たな実験の場でもあった。短い胚珠が永続的に省察・屈折・装飾を重ねられてゆく。
  第I部(第1~第7変奏、1983)は上記タッソーネに献呈、1983年12月6日アヴィニョンでアルマン・レノーにより初演。第II部(第8~第14変奏、1987)はマッシミリアーノ・ダメリーニに献呈、第III部(第8~第21変奏、1987)はマリア・イザベラ・デ・カルリに献呈、計14曲は1987年7月4日マチェラータでマッシミリアーノ・ダメリーニにより初演。第IV部(第22~28変奏、1989)はデリア・ピッツァルディに献呈、1989年11月28日ミラノでエンリコ・ポンピリにより初演。第V部(第29~35変奏、1994)は「レンゾとマルチェラ」へ献呈、1995年9月17日ペーザロでマリア・イザベラ・デ・カルリにより初演。第VI部(第36~42変奏、1995)はジュゼッペ・スコテーゼに献呈、第VII部(第43~49変奏、1996)はマリア・グラツィア・ベロッキョに献呈。全49変奏による通奏初演は、1997年6月19日ラティーナでマリア・イザベラ・デ・カルリによって行われた。
  この間に、同じ主題による小品として、《レンゾとマルチェラへ》(1990)と《レオンカヴァッロ》(1996)が遺された(どちらも未出版)。1989年12月中旬に交通事故で足を怪我し、新年はヴェローナ郊外、ガルダ湖畔のサン・ゼーノ・ディ・モンターニャにある、幼少時代からの友人レンゾ・ボニッツァート(Renzo Bonizzato、ヴェローナ音楽院教授)の邸宅で過ごした。このとき新しいシリーズのきっかけとなる変奏曲として書いた小品が、ボニッツァート夫妻に献呈された《レンゾとマルチェラへ》であったが、ほどなくしてドナトニはそれを忘れてしまった。《レオンカヴァッロ》はミラノにある共産党系の若者の溜まり場の名前である。そもそも《フランソワーズへ》《フランソワーズ変奏曲》でさえ連続演奏の例は見られず、これら2つの遺作も完全に別作品として扱われている。ドナトニ自身は《フランソワーズへ》を「主題」とはついに認めず、むしろ変奏曲の後に弾くのもいい、などと呟いていたと云う。自作の扱いについては寛容かつ磊落であった、という証言もあるので、今回は敢えて作曲年代順に、いわば主題+51の変奏として通奏を試みる。



ドナトーニ歿後15周年に寄せて───杉山洋一

c0050810_7224673.gif  北イタリアはヴェローナの有名なアレーナがある旧市街の中心からアディジェ河を越え3キロ程ゆくと、サンタクローチェと呼ばれる地区があって、通りに音楽家の名が冠された一角がある。プッチーニ通り、ペルゴレージ通り、アレッサンドロ・スカルラッティ通りといったオペラ作曲家の界隈の向こうに、ノルマ通りやトスカ通り、ヴェローナだからリゴレット通りも勿論ある。マリア・カラス通りなど、歌手の名を冠した一角まであり、アレーナありきのヴェローナらしい。こうした通りはどの街にもあるわけではない。

  その音楽家界隈の中心を東西に延びるのがヴェルディ通りで、一本南を短いポンキュエルリ通りが並走する。こう書くとどんなに美しい界隈を想像するか知れないが、実際は薄茶色か黄土色に塗られた5、6階建てのありきたりのマンションが並ぶ、変哲も色味もない郊外の新興住宅地の一つに過ぎない。こうした住宅地にはしばしば子供たちが遊ぶための緑地帯があって、ベンチが数台、水のみ場とパステルカラーの小さな滑り台やら、ゴム製のブランコなどが人口芝の上に味気なく置いてある。

  ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りの間にあるこの典型的な緑地帯が、ヴェローナ市によって「フランコ・ドナトーニ遊園 Parco Giochi Franco Donatoni」と名付けられたのは、2年前の秋2013年11月のことだった。興味があればグーグルマップでVia Amilcare Ponchielli 12, Veronaと検索してみると良い。アスファルト敷きの駐車場の傍らに「ドナトーニ遊園」がささやかに眺められる筈だ。この余りにありふれた緑地帯がドナトーニらしい。わざわざ小雨のなか、関係者を集めて命名式まで執り行われ、次男のレナートが謝辞を述べた。

  遡ること更に2年2011年7月、ヴェローナ市は、ヴェローナの記念墓地にある「Ingenio Claris-類まれなるものたち」霊廟の石碑に、ドナトーニの名を加える決定をした。これは霊廟に入ってすぐ目の前に鎮座する高さ2メートルほどの白い石碑で、ヴェローナに所縁があり記念墓地に埋葬された功労者たちの名が、生没年と共に連綿と刻まれている。ドナトーニと同時に刻印の決定がなされたのが、1967年に没した歴史学者アントニオ・アヴェーナや、1世紀以上前の1860年に没した爬虫類学者のアブラモ・マッサロンゴなのを鑑みれば、2000年没のドナトーニが早々に功労者合祀霊廟に奉られる意味の重さが伺われる。

c0050810_7235119.jpg  生前ドナトーニはさも愉快そうに、没後2年程の間にかつて無いほど演奏されるのは有名だった証拠、没後5年で回顧展なら先ず先ず、没後10年で未だ演奏されるなら本物、没後20年で演奏されれば天才、没後50年で演奏されれば天才中の天才、没後100年で演奏されれば神掛かり、と繰返していたから、没後15年の遠く離れた日本で彼のピアノの回顧展に、満足げに北叟笑んでいるに違いない。昨年ミラノでは彼の室内楽を半年かけ相当数演奏する試みが行われたし、パルマ国立音楽院でドナトーニの大規模な学会が催されたりと、没後10年の声を聞いて彼の作品の再評価に繋がった感がある。平板な言い草だが、先入観や固定概念抜きで漸く音楽を素直に受け入れる土壌が生まれたのだろうか。

  不思議な彼の苗字Dona-toni、ラテン語風なら「明快な声を与える人」とでもなるこの苗字と矛盾するように、生涯、自らの存在を音楽から払拭しようと試みた。ドナトーニは折につけ、音符の裏には何もない存在しないと断言して憚らなかった。彼に情念という概念があったか定かではないが、音に情念を込めることはなく、端から見ていて特に愉しく書いていると感じたこともなかった。

  淡々とバランスや誤りに気をつけながら音を並べる。丁寧に縦を揃えて書くのは、几帳面に整頓された彼の仕事部屋や、服装に頓着しないドナトーニが髪だけは毎朝丁寧に撫で付けていたのに似ている。ルーティンは本来否定的に用いられる言葉だが、自らの存在否定によってのみ人生を肯定できる人間にとって、それは否定的な意味にはなり得ない。

  そうして身嗜みを整え颯爽と愛車のトヨタを走らせると、方向感覚がなくて路頭に迷った。最近は「ワルキューレの騎行」をかけながら作曲するのが好き、と笑っていたと思えば、数分後には助手席の私に地図を見て欲しいと懇願することも屡だったが、そんな出来事すら作曲の授業に於いては、所定の路程を走らせ時間通りに着くのと、道に迷いつつ面白い発見や美食に舌鼓を打ち、何時しか目的地に到着するのではどちらが良いか、といった薀蓄に昇華された。生徒たちは当然ながら道に迷って発見と美食を嗜みたいと応えるので、彼は何時まで経ってもあの音楽院への道を覚えなかった。当時携帯電話もカーナビもなかったけれど、開始がいつも少し遅れる以外別段問題にはならなかった。

c0050810_7245280.jpg  作曲であれ人生であれ、ドナトーニは自らより大きな存在、神か運命か定かではないが、その存在に自分が導かれるのを受容し信じていて、その存在に拮抗したり対峙することはなかった。尤もそれは今だから理解されるのであって、本人は生前常に苛まれながら人生を歩んでいたに違いない。彼は無神論者だったが、不可視の何某の価値を無意識に信じ、自らはぺトラッシやバルトーク、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンのような天才ではない、という出発点に立ち、彼らのように自らを道を開拓して、自らの世界をそこに築き上げる人生観とはまるで正反対に、ドナトークと揶揄されてもぺトラッシやバルトークに心酔し、ダルムシュタットでシュトックハウゼンに、ミラノのベリオ宅では奇妙なケージの奔放さにそのまま靡(なび)いた。音列技法や偶然性を導入し、自己否定と自己放擲に押し潰されながら、気がつくと意図せず今の場所に辿り着いていた。それがドナトーニの音楽であり、人生だった。

  ドナトーニが長年住んだミラーニ通りの小さなアパートは、陽が差さない裏通りに面した部屋が仕事部屋で、いつも薄いカーテンが掛かっていたから昼間でも薄暗く、書架には無数の哲学書が整理され並んでいた。小さな廊下を跨いで反対側、表通りに面して小さなダイニングキッチンがあって、窓が大きかった為かそこはいつも明るかった。小さく質素な食卓脇には見事な臀部を晒した妙齢のピンナップが4、5枚壁に留めてあって、何時も彼女たちに目をやりつつ一緒にコーヒーを飲んだ。当時、そんな生活の一端一つ一つが内包する、途轍もない渇きや不条理観など分かるはずもなく、振り返ってこちらに微笑む、麦藁帽子の妙齢の背中を眺めていただけだった。

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c0050810_7253484.jpg  何年か前に東京で彼の個展をサントリーで催した際、休憩中に舞台で岡部さんからインタビューを受けた。ドナトーニから何を学びましたかと尋ねられ、「音の意味ではないでしょうか、音楽の意味でなく、彼にとって音そのものが持つ意味を、学んだ気がします」と答えた。

  自己否定を受容する際の虚無感と孤独は、音楽を信じられぬ程強固に、凶暴とすら呼べる程までの高みに引き上げる。恐ろしくもあったが、そこには人間の感情を異様に掻き乱す魅力がある。それについて彼に何か説明を求めても、ドナトーニ自身には、特に何の特別の感情もなく、何かを受容れ淡々と書いているに過ぎないので、書いてしまった音に対して、通り一遍の技法の説明以外は何も語る事はなかった。それを霊感と呼ぶべきものかどうかもよく解らない。

  没後15年経って見えてきたのは、正にその部分だ。ドナトーニの書法が彼の音楽の魅力だという偏見は、流石に淘汰されつつある。謂うまでもなく、彼の書法はそのものは実に単純で、その部分のみを説明するのは、近代西洋言語の多くがSVOと並んでいると説明するに等しく、ほぼ意味を成さない。

  ヴェローナのヴェルディ通りの端まで辿り着くと、ロータリーでメフィストーフェレ通りにぶつかる。このメフィストーフェレ通りは思いがけなく長く、北へ北へ田園地帯を延びる。幼少期、ドナトーニがアレーナのオペラを愉しみにしていた頃、特にボーイトの「メフィストーフェレ」を気に入っていたという逸話が、ささくれの様に妙に心に残った。

  「ファウストの死」の最後でファウストが天に召される壮大な舞台、天使たちの歌声、悪魔が口笛を吹いて去ってゆく姿など、どんな子供にとっても心躍る、圧巻で魅惑に満ちた体験に違いない。ただ、ドナトーニ少年が熱狂した厳めしいオーケストレーションや、どこか押し殺したような旋律、悪魔の視点から眺めた無常観に支配された舞台といい、後年のドナトーニの音楽に通じる気がする。ボーイトはワーグナーの音楽に強く影響を受けた作曲家で、ドナトーニがワルキューレをかけながら作曲していると聞いたから尚更なのだろう。ドナトーニ少年の家族は寧ろプッチーニやヴェルディを好んだ。

c0050810_7263337.gif  指揮のポマーリコとドナトーニの音楽について話した際、演奏不可能な程早い速度指定の「In Cauda II」のテンポ設定について、ポマーリコはディオニュソス的狂気が聴こえてこなければならないから、多少の犠牲を払っても極限まで早く弾くべきだと主張し、私は全ての音が明確に聴こえなければ、恐ろしさが伝わらないと応えた。彼は初めから終わりまで駆り立てられて鬩ぎつつ演奏すべきだと云い、私は少しずつ饗宴は高潮してゆき、遂には狂気に呑み込まれるべきだと応えた。メフィストーフェレとワルキューレが、ディオニュソスとは正格には対応しないだろうが、その辺りにドナトーニの音楽の本質が浮かび上るのは確かだろう。明らかに破綻した何か。自らから引き剥がされ、理知的ではない何某かが作用した結果もたらされる、原始的で直截な音。

  「プロム」の補完の際、リコルディのマッツォッリーニが送ってきた楽譜は、今も丁寧に仕舞ってある。「蚯蚓がのたくったような」と昔は思っていたけれど、実際に自分でその楽譜を演奏して初めて、その崩れた筆跡の奥で彼を突き動かしていた何かこそが、ドナトーニの音楽の本質だと理解した。発作後覚束ない手で書き留められた、目に見えないディオニュソス的な衝動こそ、この作品の演奏に於いて表現されるものだと悟った。

  再構成を試みた当時は、その音符一つ一つを徒に検証し、如何に論理的な解決点を見出せるかしか考えていなかった。それは間違っていなかったかも知れないが、当時自分が探して求めていたものは、音楽の本質ではなかった。

  各音符はアルファベットに過ぎず、因って文章を組立てるためには一定の規則に則りそれらを並べる必要はある。アルファベットで書かれた文章を理解するなら、当然文字配列の分析で終る筈ばなく、その先の深い考察が必要だった。「プロム」の楽譜を受け取った当時20代最後の年で、その重圧に耐えるだけで精一杯だった。藁にもすがる思いで、各音符を読み取るべく躍起になるばかりで、その傍らで彼の音楽に巣食う大きな闇がぽっかりと口を空けている様など、想像も及ばなかった。

c0050810_727381.jpg  彼は生前、繰り返し書いているうちに手が規則を覚え、手が規則になると語ったけれど、今となってはそれが少し解る。自動書記的な彼の作法は、ある時から規則ではなく、古代の預言者たちが発した言葉を、誰か第三者が書き留めるような姿に変化していた。端から見れば、何も以前と何も違わないように見えただろうけれども、ここで彼の音楽の本質は自己欠如そのものであって、彼の音楽の強靭で超人間的な響きは、文字通りのディオニュソスであった。

  大量の抗糖尿病と時に精神安定剤がゴムで束ねられ、ピンナップ写真の丁度臀部の前辺りに雑然と積んである。ドナトーニの音楽に明るさや軽さを見出すとき、それは恐らく自然な発露の結果とは呼べないかも知れない。メフェストーフェレに誂えてもらった張りぼての至福かもしれないし、向精神薬で笑わされた喜びなき笑いかもしれない。

  ドナトーニが没してから我々が少しずつ理解してきたのは、そんな彼と音楽との絶望的な距離感ではなかったか。皮肉なことに、その距離感こそが彼の音楽を際立たせ、虚無の音符の裏側に、無限に広がる果てしない宇宙を映し出す。

  彼の音に気持ちを込めてはならない。彼はそれを望んでいなかった。彼は目の前で音楽が紡がれてゆくのを、預言者のように無条件に受容れ、じっと観察していたに過ぎない。そして我々は、誰にも帰属しない音符の持つ恐ろしい程の意志の強さを、等しく受け留めなければならぬ。彼は確かに音楽に「明快な声を与える」ことに成功し、それを書き残すことに成功した。

  時間には僅かな重さがあって、目に見えぬほど少しずつ、ただ永遠に積り続ける。
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by ooi_piano | 2015-10-04 06:38 | POC2015 | Comments(0)