7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第22回~第26回公演
大井浩明(ピアノ+笙)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


c0050810_1721383.jpg【ポック[POC]#25】 2016年1月24日(日)18時開演(17時30分開場)   カーゲル全ピアノ作品
ヴィンコ・グロボカール(1934- ):一人のピアニストのための《音符(ノーツ)》(1972、日本初演) [招待作品]
ブライアン・ファーニホウ(1943- ):《クヮール - 自己相似リズムによる練習曲》(2011/13、日本初演) [招待作品]
マウリシオ・カーゲル(1931-2008):《4つの小品》(1954、日本初演)、《メタピース - 擬態》(1961)、《MM51 - 映画音楽の小品》(1967)、《鍵盤で - 練習曲》(1977)、《Rrrrrrr...》(1980/81)より「ラーガ」「ラグタイム-ワルツ」「ロンデーニャ」、《ヒポクラテスの誓詞》(1984)、《複合過去 - 狂詩曲》(1992/93、日本初演)、《二本の手で - 即興曲》(1995、日本初演)、《即興曲第2番》(1998、日本初演)


c0050810_1721182.jpg【ポック[POC]#26】 2016年2月21日(日)18時開演(17時30分開場)  一柳慧 主要ピアノ曲
一柳慧(1933- ):《ピアノ音楽第1》(1959)、《ピアノ・メディア》(1972)、《タイム・シークエンス》(1976)、《星の輪》~独奏笙のための(1983)、《雲の表情》(1984-99)(全10曲) [雲の表情I、II、III、IV『雲の澪』、V『雲霓(うんげい)』、VI『雲の瀑』、VII『雲の錦』、VIII『久毛波那礼(くもばなれ)』、IX『雲の潮』、X『雲・空間』]《ピアノ音楽第9》(2015、世界初演)



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【プレ・イヴェント】

c0050810_17231187.jpg■原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート
2015年9月23日(水/祝)19時
 渋谷・公演通りクラシックス
甲斐史子(ヴァイオリン)+大井浩明(ピアノ)
甲斐説宗(1938-1978):《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅰ》(1967/74)、《ヴァイオリンとピアノのための音楽Ⅱ》(1978)、《ピアノのための音楽Ⅰ》(1974)、《ピアノのための音楽Ⅱ》(1976)、ベラ・バルトーク:《ヴァイオリン・ソナタ第1番 Sz.75》(1921)、《ヴァイオリン・ソナタ第2番 Sz.76》(1922)、ヤニス・クセナキス:《ディフサス Διχθάς》(1979)


c0050810_17235529.jpg■ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会
2015年10月6日(火)19時
 渋谷・公演通りクラシックス
日野原秀彦+大井浩明(二台ピアノ)、薬師寺典子(ソプラノ)、恩地元子(プレトーク)
シルヴァーノ・ブソッティ(1931- ):《タブロー・ヴィヴァン(「サドによる受難曲」に先行する活人画) Tableaux vivants avant 'La Passion selon Sade'》(1964)〔約15分〕、同:《ラーラ(フィルム) - 未公表ミュージック・シーケンスによる新編集版 RARA (film), Nuovo montaggio d’inedite sequenze musicali》(1967-69/2007、日本初演)〔約70分〕



c0050810_17201494.jpg【ポック[POC]#22】 2015年10月11日(日)18時開演(17時30分開場) ドナトーニ(歿後15周年)全ピアノ作品
フランコ・ドナトーニ(1927-2000):《四楽章の作品》(1955、日本初演)、《三つの即興》(1957)、《抜刷》(1969)、《韻(リーマ)》(1983)、 《フランソワーズへ》(1983)、《フランソワーズ変奏曲(1~49)》(1983/96)、《レンゾとマルチェラへ》(1990、日本初演)、《レオンカヴァッロ》(1996、日本初演)


c0050810_1720292.jpg【ポック[POC]#23】 2015年11月3日(祝)18時開演(17時30分開場)  バラケ全ピアノ作品
●シルヴァーノ・ブッソッティ(1931- ):《クラヴィアのために》(1961、日本初演) [招待作品]
ジャン・バラケ(1928-1973):《回帰》(1947/48、日本初演)、《ソナタの間奏曲》(1949、日本初演)、《小曲》(1949、日本初演)、《二つの断章》(1949、日本初演)、《主題と変奏》(1949、日本初演)、《ピアノ・ソナタ》(1950/52、新校訂版による日本初演)



c0050810_191878.jpg【ポック[POC]#24】 2015年12月20日(日)18時開演(17時30分開場)  篠原眞 全ピアノ作品
篠原眞(1931- )《組曲》(1950、世界初演)、《4つのピアノ曲》(1951/53)、《ロンド》(ピアノ独奏版)(1953)、《ピアノ曲》(1956、世界初演)、《タンダンス(傾向)》(1969)、《アンデュレーションA(波状A)》(1996)、《ブレヴィティーズ(簡潔)》(2010/15、世界初演) [1. Decrease - 2. Articulations - 3. Dispersion - 4. Fluctuating stability - 5. Extension - 6. Instability - 7. Movement - 8. High tones - 9. Echoes - 10. Progression - 11. Arpeggios - 12. Reflection - 13. Accel Rit - 14. Low tones - 15. Instant - 16. Changes - 17. Motions - 18. Superimposed divided values - 19. Distribution - 20. Clusters 21. Dissolution-Coagulation - 22. Contrasted values - 23. Regular Irregular - 24. Superimposed dynamics]






POC2015:2周目の戦後前衛第一世代 ───野々村 禎彦

c0050810_1926717.jpg POCシリーズも今年度で5期目。「現代音楽」の歴史を鍵盤曲の全曲演奏で振り返るシリーズは、「戦後前衛第一世代から自身の同世代(60年代後半生まれ)まで、日本の作曲家をまず押さえる」(第1期)、「彼らと同時代の海外の作曲家も、厳選した上で網羅する」(第2期・第3期)という基本方針のもと、第4期で戦後生まれ世代を集中的に取り上げたことで、一通り完結した。第3期と第4期の間は、フォルテピアノによるベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏東京公演を挟んで1年空いたが、大井にとっては両公演の意味は等価だという。ベートーヴェンの32曲の出来には凸凹があるが、全曲通奏に本質的な意義があるならば、「現代音楽」でも事情は同じはず、ということだ。クセナキスとリゲティはチェンバロ曲、ミュライユはオンド・マルトノ曲まで含めた全曲演奏だが、こんなことは世界中で彼にしかできない。日本人作品でも、演奏機会が多いものよりも正当な評価を受けていないものを重視するのが基本姿勢。実験工房同人よりも松下眞一や平義久を先に取り上げ、実験工房でも福島和夫にスポットを当てた。海外作品を中心に日本初演が多いが、松平頼則《美しい日本》全曲もこれが公開初演。三輪眞弘《虹機械:公案001》など、新作初演も少なくない。

 今期の位置付けは過去4期の補遺。単純に空白地帯を探すと、ケージ以外の英語圏の実験音楽と、海外の60年代生まれの世代ということになる。海外でW.リーム以降の50年代生まれ世代には、少なくとも鍵盤曲では重要な作曲家はいない。50年代生まれ世代と60年代生まれ世代の間には、実験的ポピュラー音楽が台頭し「現代音楽」と本質的な区別ができなくなったという大きな出来事があり、以後の世代の優れた作曲家は、あえて「現代音楽」という様式を選ぶ理由を考えている点が前世代とは違う。ただし、今期の作曲家選択で大井が主張しているのは、戦後前衛第一世代をさらに取り上げる方が重要だ、海外はクセナキス、リゲティ、ブーレーズ、シュトックハウゼンの超大物4人だけでは全然足らず、日本も松平父子、松下、実験工房同人だけでは不十分だということである。

c0050810_1959356.jpg 演奏会は作曲家の生年順に行われるが、本稿では主要作品の時代様式順に触れてゆく。すると最初はバラケ。この回の中心になる《ピアノ・ソナタ》(1950-52) は、ブーレーズの第2ソナタ(1948)、シュトックハウゼンのクラヴィア曲X(1956-62) と並べて、「戦後前衛三大ピアノ曲」と呼ぶにふさわしい大曲。戦後前衛の20年は、基本フォーマットに忠実な最初の10年と、個性的な逸脱が本質的な次の10年に大きく分かれ、どちらの時代にも大きな成果を挙げた作曲家は少ない。この3人でも、次の10年も進み続けたのは、即興性とライヴエレクトロニクスを全面的に導入したシュトックハウゼンのみ。ブーレーズは指揮者=音楽教育者としての名声で作曲委嘱を受け続けたに過ぎず、バラケは交通事故の影響もあって元々寡作だった創作ペースはますます落ち、未完成作品を多数抱えて早世した。1947-49年のピアノ小品群が最近発見され、一挙日本初演と合わせて一晩が埋まった。

 日本の戦後前衛第一世代を代表するセリー主義者は、第1期で取り上げた3人の他にふたりいる。ひとりは黛敏郎(1929-96) と共に戦後前衛最初の10年を支えた諸井誠(1930-2013)、もうひとりが篠原。彼は池内門下の逸材としてパリ音楽院に留学したが保守的な教育に飽き足らず、まずGRMに出入りしてフェラーリからミュジック・コンクレートを学び、B.A.ツィンマーマンを経てシュトックハウゼンに師事し、基本的な前衛語法を身に着けた。管理された偶然性による打楽器アンサンブル曲《アルテルナンス》(1962) でデビューすると同時に高く評価され、ストラスブール打楽器合奏団による録音がある。続いてシュトックハウゼンの助手としてライヴエレクトロニクス作品の浄書や音響操作を担当し、ヨーロッパ戦後前衛の転換期を心臓部の内側から体験した。ユトレヒトのソノロジー研究所に職を得た後は、フェラーリに劣らずユニークなミュジック・コンクレートを制作する傍ら、《エガリザシオン》(1975) など充実したアンサンブル作品を書いた。前衛の時代以降はエキゾティシズムに依らない和楽器と洋楽器の融合という新たな発想を得て、《コゥオペレーション》(1990) など旺盛な創作を続けた。今回のメインは8月に完成したばかりの最新作《プレヴィティーズ》。

c0050810_200629.jpg その次はカーゲル。アルゼンチンの劇場演出畑出身ながら戦後前衛の中心地ケルンに移住した二重のアウトサイダーは程なく、ヨーロッパ中心主義・芸術至上主義など、戦後前衛が無批判に継承した伝統を、視覚表現を駆使して批判し始めた。彼のような根源的な批判者を、だからこそ内部に取り込もうとしたのが、ヨーロッパ戦後前衛の懐の深さである。だが、彼の音楽は日本にはなかなか伝わらなかった。ドイツ音楽の精神性に連なるべく戦後前衛に向かった松下眞一は彼のスタンスを嫌悪し、海外の動向の紹介に大きな影響力を持った武満徹も彼を完全に無視した。彼の本格的な紹介は90年代に入ってから、海外情報の扱いに慣れた若い世代によって行われたが、彼らの理解も「親切にオチまで付けた寒い笑い」に留まりがちだった。「あまりの不条理さにまず唖然とし、その意味を考えるうちに毒が回り始める」彼の表現の受容は、今日でも依然不十分なのかもしれない。また、彼のスタンスもJ.S.バッハ生誕300周年記念作《聖バッハ受難曲》(1981-85) の頃から変わり始め、近藤譲は「自分をドイツ音楽史に連なる偉大な作曲家と看做し始めてからの彼はつまらない」と述べている。カーゲル作品を数多く初演したカニーノ(実は批判的だったそうだが、だからこそ適任者!)に師事した大井による全曲演奏は、彼の音楽の真実を各自の耳で問い直すまたとない機会だろう。

 そして一柳。高校時代に日本音楽コンクールに連続入選してジュリアード音楽院に留学した彼は、その数年後にはケージに師事して最初の図形楽譜作品《ピアノ音楽第1》を書いた。60年代の彼はケージ直系の厳格な図形楽譜に専念し、ケージとチューダーの日本公演をプロデュースして「ジョン・ケージ・ショック」をもたらした。雑多な素材をポップに混合した60年代末のテープ音楽を境に、70年代はミニマル書法に傾倒し、80年代以降は伝統回帰を強めて尾高賞の常連になった。ただし、ケージから「自我の放棄」を学び、企画側に回ることも多かった彼のスタンスは、委嘱者の意図になるべく応えることだった。日本のピアノ曲を1曲に絞るならば《ピアノ・メディア》以外有り得ないと公言する大井が、80年代以降の代表作である《雲の表情》全曲を中心に、《星の輪》では笙まで吹いて届けようとするのは、安易な図式化の先にある、この作曲家の全体像に他ならない。この日のために準備されている最新作《ピアノ音楽第9》は、再び厳格な図形楽譜で書かれている。

c0050810_2005293.jpg 最後はドナトーニ。前衛の時代に大きな成果を挙げた他の作曲家たちとは異なり、この時代の彼は苦しんだ。セリー時代には個性を発揮するには至らなかった。ケージの音楽に衝撃を受けて編み出した、素材の個性をオートマティックに消す「自己否定」書法は一定の成果を挙げたが、入力する断片がシェーンベルク作品でも自作でも、出力されるのは似たり寄ったりの灰色の線ならば、作曲を続ける意味はあるのだろうか?悩んだ末、筆を折ることを決意した彼は、最後だからと前衛作曲家として避けてきた、三和音を単純なリズムで連ねた断片を入れてみた。すると出てきたのは、因襲的な意味性は除かれているが原初的な愉悦感は失われていない、未聴感あふれる魅力的な素材だった。自分が作り上げたシステムの正しい使い方に最後の最後に気付き、「この年をもって、私は《ドナトーニ》になった」と自認する翌1977年以降は、シャリーノと並ぶイタリアのポスト戦後前衛を代表する作曲家として、多くの委嘱と弟子を抱えた多忙な生活を送ることになる。絶頂期の大作《フランソワーズ変奏曲》全曲と関連曲を中心とする俯瞰的選曲で、数奇な歩みを振り返る。


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チラシpdf (表)  (裏) 
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by ooi_piano | 2015-12-12 06:52 | POC2015 | Comments(0)
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c0050810_10535552.jpg大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第24回公演
篠原眞 全ピアノ作品
 
2015年12月20日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


【演奏曲目】

篠原眞(1931- ):《組曲 Suite》(1951、世界初演)
I.前奏曲 Preludio - II.セレナータ Serenata - III.間奏曲 Intermezzo - IV.ジーガ Giga

《4つのピアノ曲》(1951/54)
 I.お祖父さんのオルゴール La boîte de la musique du grand-père - II.お留守番 Seul dans la maison - III.昔噺 Il y avait une fois … - IV.さよなら Adieu

《ロンド Rondo》(ピアノ独奏版)(1953/54)

《タンダンス[傾向] Tendence》(1962/69)


(休憩15分)

《アンデュレーションA [波状] Undulation A》(1996)

《ブレヴィティーズ[簡潔] Brevities》(2010/15、世界初演)
1. Decrease [減少] - 2. Articulation [発音] - 3. Dispersion [分散] - 4. Fluctuating stability [変動する安定] - 5. Extension [拡張] - 6. Instability [不安定] - 7. Movement [運動] - 8. High tones [高音] - 9. Echoes [残響] - 10. Progression [発展] - 11. Arpeggios [分散音] - 12. Reflection [反映] - 13. Accel. Rit. [加速 減速] - 14. Low tones [低音] - 15. Instant [瞬間] - 16. Changes [変化] - 17. Motions [動作] - 18. Superimposed divided values [重ねられた分割音価] - 19. Distribution [配分] - 20. Clusters [音塊] - 21. Dissolution – Coagulation [分解―帰結] - 22. Contrasted values [対比する音価] - 23. Regular Irregular [規則的 不規則的] - 24. Superimposed dynamics [重ねられた音強]



篠原眞の歳月~POC♯24「篠原眞全ピアノ作品」に寄せて ────高久暁

c0050810_10544770.jpg 12月20日に行われる「POC♯24 篠原 眞全ピアノ作品」では、1951年に作曲された最初期のピアノ曲《ピアノのための組曲》から、今年完成を見た最新作《ピアノのための簡潔》の世界初演を含む、作曲年代にして64年に及ぶ篠原のピアノ曲が演奏される。篠原のピアノ音楽がまとまった形で紹介される初めての、貴重な機会である。新作については演奏会の当日に篠原のコメントもあるだろう。以下、作品とその周辺について概略を記しておく。

 留学以前の篠原のピアノ曲は、篠原の音楽的自己形成―音楽歴や教育歴ほか―と密接な関係がある。青年期の篠原はピアノの伝説的な名手として知られ、また子どものころから箏にも親しんでいた。のちには《タンダンス》の「初演」を篠原自身が行い、箏のための《たゆたい》(1972)の初演や演奏も手掛けている。篠原の作品に、篠原の「演奏家気質」の反映を見るのは許されるだろう。 
 篠原は独学でピアノや箏の演奏を習得した。篠原の一家・一族は芸術には縁を持たなかったが、家にはピアノや箏があった。大都市(篠原は大阪生まれで、7歳のときに東京に転居)の中流家庭の常として、姉たちがピアノや箏を習っていた。楽器に興味を覚えた篠原は、楽譜の読み方を教わると家にある楽譜を次々に弾いていった。中学を終えるころには、家にあったどんな曲の楽譜も弾けるようになっていた。あたかも『オデュッセイア』に登場する吟誦詩人ヘミオスのようではないか―「わたくしの歌は独りで憶えたもので、神がわたくしの心にあらゆる種類の歌の道を植え付けてくださった」(呉茂一訳)。
 高校生になった篠原は、「分離唱」なる音感教育で知られていた佐々木幸徳(基之)の紹介を受けた。和音からその構成音を「分離」して聞き取って歌い、耳に心まで「開く」とするこのメソッドは、実践の簡便さや相応の効果が発揮されるため、ある世代の音楽教諭や合唱指導者たちから支持されていた。佐々木は音感教育が推進された太平洋戦争期に合唱曲集や初歩的なピアノ教本を出版、戦後は在野で音感教育や合唱指導に当たっていた。
 佐々木はただちに「天才少年」篠原の才能を評価した。篠原は佐々木の主催する催しでピアノ演奏や即興演奏を披露、佐々木は篠原を自身の教育の成果と見なしたようである。しかし篠原からすれば、佐々木の指導にはほとんど意義を見出すことができなかった。佐々木の著書を読めば了解されることだが、佐々木は自分のメソッドを徹底させるだけで優れた音楽家が育まれると確信する、独断的で教祖的な側面があった。

c0050810_10555893.jpg 1950年、都立日比谷高校を卒業した篠原は、浪人を許さなかった家庭の方針で青山学院大学に進学したが(キャンパスが家の近所にあったからといった理由のようである)、1952年には東京芸術大学作曲科に入学、池内友次郎に作曲を、安川加壽子にピアノを師事した。在野の佐々木からアカデミズムの池内への「切り替え」があったことは言うまでもないだろう。
 佐々木の影響下で篠原は重要な音楽活動を開始した。1951年4月に篠原を中心に結成されたアマチュア合唱団「フェーゲライン・コール」である(フェーゲラインはドイツ語の小鳥Vögelein)。篠原の出身校の日比谷高校が当時日本有数の進学校だったことを背景に、合唱団には首都圏の有力大学や東京芸大の学生が集い、のちに合唱指導者や音大の声楽科の教授になった者もいた(音楽学の分野では、篠原が留学して指導者から退いたのちに、音楽学者の佐野光司や日本音楽研究者の蒲生郷昭が参加した。お二人の先生方へ―小文で名前が挙がるのを迷惑に感じられたとすれば、心からお詫び申し上げます―)。篠原はこの合唱団のために指導はもとより、自らアカペラ編成の合唱曲の編曲を100曲以上行った。そのうちのいくつかは、結成当時の東京混声合唱団のレパートリーとなり、篠原の関知しないまま楽譜が出版された。フェーゲライン・コールの活動は1954年に篠原が留学したのちも盛んに続けられ、1950年代から60年代にかけてのアマチュア合唱運動のなかで目覚ましい活躍を遂げることになった。

c0050810_1056493.jpg 東京芸大に入学した篠原は、ピアノ演奏についていくつかの「伝説」を残している。やはりピアノと即興演奏の名手だった林光とは、奏楽堂で「即興演奏対決」が行われたという。どちらがどちらとは言わないが、モーツァルトとクレメンティ、リストとタールベルクの「決闘」のような話ではある。助川敏弥は具体的で興味深い回想を記している(『助川敏弥の回想記』第12回「篠原真(ママ)君の才能」)。引用しよう。
 「この男の才能のすごさは特筆ものです。古今東西のピアノ文献のどれでもすぐに弾ける…いつでも弾ける能力の保持は実に不思議で、[山本]直純も感嘆していました」。あるとき助川たちが、当時芸大の学生で、ラザール・レヴィに見出されてパリに留学することになったピアニスト柳川守に、N響の定期公演で弾くことになっていたラフマニノフの2番の協奏曲を弾いてほしいと懇願した。第2ピアノの弾き手を探していると、廊下を篠原が通りかかった。柳川は暗譜しているから楽譜はない。篠原は「しばらく弾いていないからどこまで覚えているかなぁ」と言ってピアノに向かい、オーケストラのパートを最後まで完全に弾いてしまった。「私たちはひたすら唖然として聞いていました。柳川君にはわるいが、篠原の離れ業の方に驚嘆していたのがほんねです」。筆者はこのエピソードについて篠原に確認したが、篠原は「さあ…ラフマニノフの自作自演のレコードを聴いていたからねぇ」と言うだけであった…!
 篠原は池内の推挙によって1953年10月8日に行われた上田仁指揮の東京交響楽団第56回定期演奏会でオーケストラ曲《ロンド》を初演、1954年にはパリ国立高等音楽院に留学した。

c0050810_10572698.jpg 今回演奏される《ピアノのための組曲》(1951)から《ロンド》(1954)までのピアノ曲は、調性音楽の範囲内でアマチュアからプロフェッショナリズムへと目覚めてゆく篠原の音楽的軌跡として見ることができる。自筆譜のタイトルページに「1951.4」と記された《ピアノのための組曲》は、現存する篠原の最古の作品のひとつである(それ以前の篠原の作曲も存在する)。「プレリュード」(Allegro con anima, 4/4)「セレナータ」(Andantino, 3/8)「間奏曲」(Allegro moderato, 2/2)「ジーガ」(Molto vivace, 3/4(6/8))の4曲は、それぞれがドビュッシーやラヴェルの特定のピアノ曲をモデルとして作曲されている。第1曲には第三者によって理論的に正しい臨時記号が指摘された書き込みがある。篠原はこの曲を池内などの指導者に見せたのかもしれない。
 「お祖父さんのオルゴール」(Allegretto ma non troppo, 3/4)「お留守番」(Andantino espressivo, 6/8)「昔噺」(Andante, 2/4)「さよなら」(Moderato assai, 4/4)の4曲は、1951年ごろから書かれた小品で、1954年6月末に最終的な決定稿が作成された。先に述べたフェーゲライン・コールは、サークル内で『ミルテ』という機関誌(花のミルテの意味)を刊行していたが、その誌上にこれらの小曲の楽譜を頒布する「広告」が掲載されている。子ども向けとも言える、仕上がりのよい平易で可憐な小曲だが、最後の曲が「さよなら」なのは意味深長でもある。
 《ロンド》は、1953年に初演されたオーケストラ曲《ロンド》のピアノ独奏用ヴァージョンである。作品の主要なモデルは例えばシャブリエの音楽であり、後半でロンドの主要主題と中間部の主題が対位法的に組み合わされてクライマックスを作る。この作品は1954年に安川加壽子によって、同年7月に行われた「現代フランスと邦人作品の夕べ」と、篠原を含むフランス政府の奨学金を得た音楽留学生たちのための壮行会的なコンサートの二度演奏されている。今回は61年ぶり三度目の演奏となる。

c0050810_1058187.jpg パリ国立高等音楽院で学んでいた時期の篠原は、公的には音楽院の作曲クラス入学のために提出した《木管三重奏曲》(1956)、トニー・オーバンのクラスで学んで一年目の提出作品《ピアノ三重奏曲》(1957)、一等賞首席を得た修了作品《ヴァイオリン・ソナタ》(1958)の3作しか公表していないが、他にも歌曲やピアノ曲を作曲している。1956年に書かれたピアノ曲は、トニー・オーバンから「このような曲を作ってはいけない」と言われたという。残念ながら今回の演奏会までに楽譜の準備が叶わなかったため、演奏することができなくなった。初演される機会を期待したい。
 音楽院を卒業し、前衛音楽へと参入しようとした時期にも篠原の「演奏家気質」が発動された。モーリス・マルトノからオンド・マルトノの手ほどきを受け、パリを訪れた秋山邦晴からはオンディストになることを強く勧められたという。1958年の夏にダルムシュタットの夏季音楽講習会を訪れ、またハイデルベルク大学のドイツ語の短期研修にも参加していた篠原は、クセナキスらからの助言も考慮し、「前衛」を求めてドイツへと修行の場を変えていった。

c0050810_1059867.jpg その後の篠原の創作のうち、電子音楽での業績は今日よく知られている。モビール形式の打楽器アンサンブル曲《アルテルナンス(交互)》(1962)をシュトックハウゼンに激賞された篠原は、ピアノ曲で同形式の異なる趣向の作品《タンダンス》を作曲した。篠原の解説を引用する。
 「作品はそれぞれ独自の構造と性格を持ち、ABCDEFの6つのカテゴリーに分けられた21の別々になった部分よりなる。演奏に当たって、全部を用いるかいくつかの部分を選びだし、前もってヴァージョンを作っておかなければならないが、その際Aから始めてBCDEを経てFで終わらなければならないので、ヴァージョンの可能性は非常に多数あっても常に一定の方向が生じることになる。このことから「タンダンス」という題名があたえられた。
 演奏は鍵盤上のみに限られ、エコーやクラスターなどの新しい奏法を追及し、音価や音量の不確定性を取り入れ、ヴィルチュオジティが必要とされる。」
 21の部分は作曲者個人の精神状態や心理状態から導かれている。Aは出発点としての中庸さ、Bは積極的・肯定的、CはBを否定する外的・内的な障害、Dは障害を克服しようとする葛藤や闘争、EはDのあとの消耗や沈滞、Fは新たな出発への期待や憧憬が表わされている。
 このような作曲者の精神や心理状態の語りとしての音楽は、《タンダンス》だけではなく、他の篠原の多くの作品にも共通するものであり、いわば篠原作品の基調をなしている。

c0050810_10594460.jpg 《タンダンス》は日本人作曲家の作曲したピアノ曲の代表的作品のひとつとして演奏や録音が盛んに行われた。現在も自己の創作に厳格なスタンスを取り続けている篠原は、1990年代半ばまで同じ編成の作品の作曲を避けていた。そのため次のピアノ曲《アンデュレーションA》の作曲は、《タンダンス》の最終ヴァージョンの完成から25年以上を経た1996年まで持ち越された。1997年3月に初演された際のプログラム・ノートは次のようになる。
 「この作品は25の部分から成っている。まず12の半音をたどるメロディックな線と、その11の変奏から成る計12の部分―人間のさまざまな心理とその現れとしての行動を暗示する―が提示され、続いてそれぞれの部分が一回ずつ(最初の部分だけは2回)繰り返される。
 この繰り返しは個々の部分を継続的に展開させたもの、さらなる変奏、類似しながらも異なっているもの、などである。ある部分から次の部分へ移行する際には、それぞれ一つ前の部分の繰り返しが間に挟まれる。このことから、作品にはちょうど引いては寄せるような波の動きのようなフォームが与えられる。
 演奏は鍵盤のみに限られているが、通常の奏法に加えて音量ペダルを僅かに押し下げることによって生じる短い余韻、無音で押し下げられた鍵盤の弦の共鳴による長い余韻、ソステヌート・ペダルを用いた保続音とそうでない音の重ね合わせ、などの奏法が用いられている」
 この作品以降、篠原は同一作品の異なるヴァージョンや過去の作品の再作曲を手掛けるようになった。《アンデュレーションA》には二台ピアノ版の《アンデュレーションB》があり、テノール・リコーダーのための《フラグメンテ》や、増幅を伴うバス・フルートのための《パッセージ》は、二十一絃箏や打楽器を入れたデュオ、トリオのヴァージョンや、木管四重奏のヴァージョンが作られた。

c0050810_1103946.jpg 最後に新作《ピアノのための簡潔》について書いておこう。作曲の発端は、2010年にシドニーで行われたISCM(国際現代音楽協会)音楽祭で募集された「演奏時間2分間以内のピアノ曲」に応募する目的で作曲された《プログレッション》(現曲集の第10曲目)である。この曲は第1小節の音符が「I」「S」「C」「M」の形に配置され、以下17小節までの16小節間で、音符によるアルファベットの形がさまざまに変形されて「進展」してゆく。
 《ピアノのための簡潔》では、篠原の創作歴のなかで新たな試みが行われている。作品は想定演奏時間20秒未満から1分半程度までの短い断片的な小曲の集合体であり、タイトルは各小曲の音響体としての現象の記述である。篠原の音楽的着想は多くの場合、作曲者自身の精神・心理状態から導かれてきたが、《簡潔》ではより客観的な音群の操作によって規定されている。この点で作曲面ではかつてのミュージック・セリエルに近い態度が取られていると言えるだろう。

c0050810_1112947.jpg キャリアの初期の大井浩明は篠原作品とともにあった。日本現代音楽協会主催の「競楽」コンクールでは木ノ脇道元とともに《レラシオン》を演奏して優勝し、1994年には須川展也と《シチュエーションズ》の世界初演を行った。ガウデアムス・コンクールでは《タンダンス》を演奏し、1998年には向井山朋子ともに二台ピアノのための《アンデュレーションB》の世界初演を手掛けた。どれも20世紀の出来事だ。今回のPOC♯24は、いわばオデュッセウスか放蕩息子の帰還にあたる催しである。大井の演奏を刮目して待つことにしたい。(文中敬称略)(たかく・さとる/音楽学・音楽評論/日本大学芸術学部教授)
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by ooi_piano | 2015-12-12 05:21 | POC2015 | Comments(0)
感想集 http://togetter.com/li/809779

c0050810_15481814.jpg2015年12月13日(日)19時開演(18時半開場)
公園通りクラシックス(東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp

青栁素晴/テノール(※)、 大川博/バリトン(#)、 大井浩明/ピアノ

■G.マーラー:《リュッケルトの詩による5つの歌曲》(1901/02) [全5曲](作曲者自身によるピアノ伴奏版)(※) [約20分]
  I. 僕の歌をのぞき見ないで - II. 優しい香りがした - III. 俗世から消え失せた - IV. 真夜中に - V. 美しさゆえに愛するなら

■G.マーラー:《子供の死の歌(亡き子を偲ぶ歌)》(詩:リュッケルト)(1901/04) [全5曲](作曲者自身によるピアノ伴奏版)(#) [約25分]
  I. 今や太陽は明るく昇る - II. 今になってみればよくわかる、なぜあんなに暗い炎を - III. おまえのママがドアを開けて入ってくると - IV. 私はよく考える、あの子たちは出かけただけなのだと! - V. こんな天気の時

  (休憩15分)

■G.マーラー:交響曲《大地の歌》(1908)[全6楽章](作曲者自身によるピアノ伴奏版) [国際マーラー協会(ウィーン)監修] (※)(#) [約60分]
  I. 地上の苦を詠う酒宴歌(原詩:李白) - II. 秋に寂しき女(原詩:張籍あるいは銭起) - III. 磁器の園亭(原詩:不明) - IV. 岸辺にて(原詩:李白) - V. 春に酔える男(原詩:李白) - VI. 告別(原詩:王維、孟浩然)


青栁素晴 (テノール) Motoharu AOYAGI, tenor
c0050810_1605468.jpg  福岡県出身。国立音楽大学声楽科卒業。1989年ヴェルディ作曲「オテロ」のロデリーゴ役でオペラデビュー。1996年ベルリン・ドイツ・オペラの首席演出家ヴィンフリートバウエルンファイントの薦めによりドイツ、ベルリンに留学。2000年に帰国。その後二期会で2004年12月の「イエヌーファ」のラツァをはじめ「魔笛」のモノスタトス、「さまよえるオランダ人」のエリック、「天国と地獄」のプルート、「ダフネ」のアポロ」等で出演。他では「オテロ」「タンホイザー」「パルシファル」のタイトルロール、トゥーランドット」のカラフ、「カルメン」のドンホセ、「魔笛」のタミーノ『アイーダ』のラダメス「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥリッドゥ「夕鶴」の与ひょう等を歌う。2006年5月にはハノーファー州立歌劇場で「さまよえるオランダ人」のエリックを2014年12月にはマケドニア、スコピエ劇場で「夕鶴」の与ひょうを歌う。東京交響楽団、山形交響楽団、九州交響楽団、東京シティーフィル、広島交響楽団等との共演もある。二期会会員。国立音楽大学非常勤講師。公式サイト: aoyagi-m.com


大川博 (バリトン) Hiroshi OOKAWA, bariton
c0050810_1672564.jpg  国立音楽大学声楽学科卒業、同大学院音楽研究科声楽専攻修了。二期会オペラ研修所マスタークラス55期修了。修了時に優秀賞を受賞。これまでにオペラ《フィガロの結婚》フィガロ、伯爵役、《コジ・ファン・トゥッテ》グリエルモ、ドン・アルフォンソ役、《ファヴォリータ》アルフォンソ役、《愛の妙薬》ベルコーレ役、《ドン・パスクアーレ》マラテスタ役、《椿姫》ジェルモン役、《仮面舞踏会》レナート役、《蝶々夫人》シャープレス役、《ラ・ボエーム》ショナール役、《妖精ヴィッリ》グリエルモ役、《カヴァレリア・ルスティカーナ》アルフィオ役、《アンドレア・シェニエ》ジェラール役、オペレッタ《こうもり》ファルケ役、日本の作品では松井和彦作曲《金の斧、銀の斧》悪いきこり役、《泣いた赤鬼》木こり役等で出演。サイトウ・キネン・フェスティバル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》でバスソロのカヴァーキャストとして参加。またベートーヴェン作曲《第九》、バッハ作曲《マタイ受難曲》、《ヨハネ受難曲》、モーツァルト作曲《レクイエム》等のソリストを務める。二期会会員。





■東洋学者フリードリヒ・リュッケルト

c0050810_1692072.gif  詩人、東洋学者のフリードリヒ・リュッケルト(1788-1866)はベルリン大学東洋言語学教授を務めたが、アラビア語、ペルシア語に通じた他、実に44ヶ国語の文献を扱い、現代でも用いられる『コーラン』独訳をはじめとして、ヒンドゥー教の聖典『ギータ・ゴーヴィンダ』、古代インドの作家カーリダーサの『シャクンタラー』、ペルシャ詩人フェルドウシィーの『シャー・ナーメ』、同じくペルシャ詩人サアディの『果樹園』、古代中国の『詩経』など数多くのオリエント文学作品の翻訳を残している。
  『詩経』は、孔子(紀元前552‐紀元前479)が収集した民歌を編纂したと伝えられる中国最古の詩篇で、後の『楚辞』、(李白、王維らの)唐詩、宋詞などと共に中国古典文学を代表する文学作品である。リュッケルトによる独訳(1833)は、富士川英郎『西東詩話』(玉川大学出版部)によれば、フランス人宣教師アレキサンドル・ド・ラ・シャルムAlexandre de la Charme (1695-1767)によるラテン語訳『孔子 詩経または詩の本』Confucii Chi-king: sive, Liber carminum(1830独コッタ社刊)からの重訳であり、更に詩人らしく自由な翻案が加えられている点で、ハンス・ベトゲの『中国の笛』(1907)の先駆とも言える。中国詩ドイツ語訳の嚆矢は、Peter Perring Thoms (1790-1855)の英訳詩集『中国の求愛詩』Chinese Courtship: In Verse(1824)を読んだゲーテによる翻案である19篇の小編『中国=ドイツ年暦・日暦』Chinieisch-deutsche Jardes=und Tages-zeiten(1827)だが、ゲーテとリュッケルト以後、1893年リヒャルト・デーメルが(おそらくは友人ハンス・ハイルマンの助力を得て)詩集『けれども恋はAber die Liebe』で、李白「悲歌行」の翻訳「中国の酒宴歌Chinesisches Trinklied」を取り上げるまでの約70年間にわたりその流れは途絶えることになる。早熟な読書家マーラーは少年時代ギムナジウムで、中国文学の西欧への影響をテーマにした未完の小論を残しているというが、それはおそらくゲーテとリュッケルトの2編を対象としたものであったのだろう。
c0050810_1611619.gif  リュッケルトは、シューベルトの連作歌曲集『冬の旅』『美しき粉屋の娘』で知られる詩人ヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)の友人だったが、ミュラー早世後にその遺児で、比較宗教学創始など多大な業績のある東洋学の碩学マックス・ミュラー(1823-1900)が東洋に関心を持ったきっかけは、リュッケルトの薫陶によるものであったという。マックスには、我が国インド仏教学の先駆者南條文雄(1849-1927)、や笠原研寿(1852-1883)、高楠順次郎(1866-1945)が師事しており、南條が編纂した『法華経』サンスクリット語原典、英訳『大明三蔵聖教目録』は、今日でも高く評価されている。東洋学者リュッケルトの遺徳は遥か我が国にまで及んでいるのである。
  詩人としては、ドイツ文学史の資料によってはその名が見られないなど、必ずしも一流として扱われていないが、近年批判校訂版の全集出版も進み、再評価が進んでいる。同じくかつて二流扱いを受けながら再評価されているヴィルヘルム・ミュラーの『冬の旅』は、同時代の大作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)に献呈された、その作曲を期待された詩集であり、図らずもシューベルトとの出会いによってドイツ歌曲史上の最大傑作歌曲集を生み出しているが、ミュラーは自作についてこう語っている。「僕は楽器を弾くことも歌うこともできない。だが詩を書いたとき、僕は歌っているし、楽器も弾いている。もし僕が自ら旋律をあてがうことができたなら、自分の歌を今よりもっと気に入るのだが。でも安心するとしよう。同じ感情を持った心に行き着くことができるだろう。その心はことばから旋律を聴き出し、それを僕に返してくれる。」(渡辺美奈子『ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯―「冬の旅」を中心に』2010年)
c0050810_16121093.gif  往々にして言われるように、二流の詩だから作曲の余地があるのではなく、歌曲の作曲を考慮して作られた上に、優れた作曲家のインスピレーションを引き出す芸術性を持っていたからこそ、リュッケルトの詩からもシューベルト、シューマン、そしてマーラーの名歌曲が生まれたと見るべきだろう。
  『子供の死の歌』を含むマーラーのリュッケルト歌曲群は、第5、第6交響曲と同時期に書かれており、いわゆる「角笛交響曲」のような直接的引用は無いものの、相互の関連が指摘されている。管弦楽伴奏版は10名程度で演奏する小編成のオーケストレーションが施されており、マーラーの指揮による上演はムジークフェラインザールではなく、室内楽用のブラームスザールで行われていたことが分かっている。マーラー自身も、これらの歌曲を大編成の管弦楽で演奏することは悪趣味だとする発言を残した。こうした特異な編成は、その後のシェーンベルクやヴェーベルンの作品群の先駆となっている。


■リュッケルトの詩による5つの歌

  「美しさゆえに愛するなら」を除いて1901年の夏、アルマとの出会いの直前に作曲された歌曲群で、各曲に直接の関連性は見られず、当初は個別に出版された。

1.僕の歌を覗き見ないで(1901年6月)
  曲集中でも最も民謡的な作品。マーラーはこれを内容に乏しい作品とみなし、それゆえに、真っ先に一番好まれることになるだろうと語ったが、マーラー流の韜晦であろう。マーラーの親友バウアー=レヒナーは、まるでマーラー自身が書いた詩のようだと評している。

2.優しい香りがした(1901年8月)
c0050810_1614474.gif  ドイツの初夏にその花(リンデンバウム)が爽やかな甘い香りをもたらすリンデは、和名をセイヨウボダイジュといい、シューベルトの『冬の旅』で「菩提樹」と訳されてあまりにも有名だが、釈迦がその下で悟りを開いたインド菩提樹とは本来何の関係も無い樹木である。樹皮が柔らかくしなやかであることからリンデという名がついたとされ、リュッケルトはこの詩で樹木の名と言葉をかけている。
  シューベルトの「挨拶を贈ろう」、シューマンの「献呈」に並ぶ、リュッケルトの愛の詩に作曲された歌曲の傑作であるこの曲が、アルマとの出会いの前に書かれていたことは興味深い。同じくリュッケルトによる『子供の死の歌』が、作品を完成した後で自らも長女を失うという、悲劇的な予言となったことはあまりにも有名だが、こちらは3か月後の11月に出会うアルマへの熱烈な愛の予言になっているのだ。
  マーラーは原詩の詩行を一部入れ替えて有節形式を崩し、各節を通作的に変容させている。

3.私は俗世から消え失せた(1901年8月)
  李白が影響を受けている中国南北朝時代の詩人鮑照(ほうしょう414-466)の詩『詠史』には、漢代末期の隠者巌君平の生き方がこのように詠われている。

寒暑在一時 季節は絶えず移り変わり
繁華及春媚 花も人もわが世の春を謳歌する
君平独寂寞 その中で巌君平はひっそり生きている
身世両相棄 世間を棄て、世間も彼を棄てて


  李白は「古風其の十三」でこれを引用している。

君平既棄世 巌君平は既に世を棄て
世亦棄君平 世もまた巌君平を棄てた


  興膳宏氏はこの詩について「『寂寞』に甘んじ、あえて『寂寞』を選び取る生き方は、不遇な知識人の精神的な支えとして継承されてゆく」と指摘している(『鑑賞中国の古典 文選』角川書店)。こうした中国的隠逸の思想に通じるリュッケルトの詩について、作曲当時首席指揮者を務めていたウィーン・フィルとの軋轢から逃れて別荘に滞在していたマーラーは、まったくもって自分そのものだと語っている。

4.真夜中に(1901年8月)
  神のいない世界、神に祈る者のいない地上を描く『大地の歌』と全く対照的に、眠れぬ夜の不安と苦悩の全てを神に委ねる人が描かれるが、その有節的単調さと後半の唐突に盛り上がる賛歌のコラールをパロディと見る向きもある。

5.美しさゆえに愛するなら(1902年夏~秋)
  リュッケルトが「シチリア風」と記した、イタリアの民謡詩に取材した詩形である。5曲中唯一アルマとの出会いの後、彼女のために書かれた作であり、この曲のみマーラー自身による管弦楽版は存在しない。


■小栗虫太郎『完全犯罪』と『子供の死の歌』

c0050810_16162113.gif  『子供の死の歌』は、マーラーの作品中でも我が国で早くから親しまれていた。1929年には新交響楽団第58回公演で、柳兼子独唱、近衛秀麿指揮によって日本初演されている。「5章からなる《なき子をしのぶ歌》は、この作者の中年後の歌曲のうち、李太白による《大地の歌》とともに最も重要なものである。(中略)民謡研究家であった作者は、その豊かな旋律に配するに、彼の円熟期における最も色彩豊かな管弦楽をもってして、この一編をあくところなからしめている。ことに最初の4章は、管弦楽器を主体とした室内楽といっても差しつかえない。(中略)《さすらう若人の歌》を燃えるようなチゴイネルの若者の声とすれば、この歌曲は教養ある家庭の父母の悲嘆の心とみることができる。」(近衛秀麿による公演解説より)
  その前年1928年の世界初録音、ハインリッヒ・レーケンパー独唱、ホーレンシュタイン指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団のSPレコードは我が国でも発売され(『亡き幼児らを偲ぶ歌』と題されていた)、今日でも通用する名演奏によってこの曲を鑑賞することが出来た。

  夢野久作『ドグラ・マグラ』、塔晶夫『虚無への供物』と共に、日本の推理小説史上における三大奇書に数えられる『黒死館殺人事件』の著者、小栗虫太郎(おぐりむしたろう1901-1946)の処女作『完全犯罪』(1933年)では、『子供の死の歌』が殺人の小道具に用いられている。
  舞台は中国雲南省奥地の八仙寨(はっせんさい)に、原人骨発掘に従事する英国人学者が建てた、趣味豊かな書斎や豪華な浴槽を有する異人館という奇抜な設定である。探偵役の主人公は、地域を支配する苗族共産軍ロシア人指揮官ワシリー・ザロフで、日本人は全く現れない。共産軍の司令部になった館に出入りする娼婦ヘッダが密室で突如狂笑したのち死亡するという怪死を遂げる。ザロフは毒殺に関する博学を駆使して推理するが、亡き英国人学者の娘で真犯人である科学者のローレル夫人は、おぞましい民族浄化思想によりロマ族のヘッダを殺害した事実を告白し、その手法を誇示する手紙を残して自死する。

c0050810_16192949.gif  「(前略)私のなし遂げた犯罪は、貴方には夢想さえも出来ない、殺人史上空前の形式だからです。(中略)実を申しますと、私が地下室の調子の狂った風琴(オルガン)で弾いた、マーラーの『子供の死の歌』は、ヘッダに餞むけた悲痛な挽歌であったと同時に、恐怖すべき殺人具だったのです。(中略) まず、風琴の最低音に当たる二つの管に、芝生で使う四つ股の護謨布管(ゴムホース)を取付けて、之を浴室に通ずる送湯管と連絡させました。それから、残った二つの支管は、風琴の内部に隠しておいた、或る二つの装置に連なっていたのです。その一つは第一酸化窒素即ち催笑瓦斯、もう一つは青化水素の発生装置でした。」

  こうして被害者ヘッダのいる寝室に、『子供の死の歌』の演奏と共に笑気ガスを送り込んで哄笑を惹き起こし、次いで青酸ガスで殺害したというのである。

  「完全犯罪――それは云う迄もありません。が、一面鑑賞的に見ても、充分芸術としての最高の殺人と云えるでしょう。人を殺す歌謡曲(リード)……何と女性らしい、切々たる余韻をお聴き取りください。」

  そしてザロフの調査により発見されたローレル博士の手紙により、自らも抹殺されるべき民族の末裔と知ったローレル夫人は、自らをも粛清したのであった。(創元推理文庫『日本探偵小説集6 小栗虫太郎集』所収)
  寺山修二(1935-1983)はエッセイ『死の曲』でこの場面を紹介している。

  「(前略)という訳だが、それからマーラーの『亡き子を偲ぶ歌』をきくのが怖ろしくなった。大学へ入った年の夏、女友達とききに行ったコンサートで、思いがけずこの歌が流れ出すと、私は悪夢にうなされたように、汗をびっしょりかいて気を失いそうになり、「このまま死んでしまうのではないか」と思ったものであった。」(河出書房新社 寺山修二コレクション『青少年のための自殺学入門』所収)

c0050810_16214739.gif  寺山が大学に入学した頃の演奏記録には、ゲルハルト・ヒュッシュ独唱クルト・ヴェス指揮NHK交響楽団(1952/7/12 日比谷公会堂)、マリアン・アンダーソン独唱 同(1953/5/22同)という当時の大歌手によるものがある。やや下って1959年、ヒュッシュに師事した中山悌一によるヴィルヘルム・シュヒター指揮同響との演奏がCD化されており、レーケンパー等の解釈の影響が窺えるものの、世界水準に達した名演奏である。この頃にはキャスリーン・フェリアー、フィッシャー=ディースカウによるLPレコードも発売されており、この曲に関して我が国の聴衆は早くから優れた演奏で鑑賞する環境に恵まれていたと言える。
  一連のN響の演奏記録でタイトルは『亡き子をしのぶ歌』とされている。それを一字漢字に改めた、現在定訳に近い『亡き子を偲ぶ歌』は、1957年の堀内敬三 編『世界大音楽全集 第19巻 (声楽篇 ドイツ歌曲集)』所収の、城山美津子訳による歌える訳詩の題が出典と思われる。小栗虫太郎『完全犯罪』が、近衛の日本初演やレーケンパーのSPレコード発売より後であることから見て、小栗は意図的に原題の直訳である『子供の死の歌』を用いたのであろう。


■歌曲集『子供の死の歌』(亡き子を偲ぶ歌)

c0050810_16231531.gif  リュッケルトは5人の子のうち2人を相次いで失った苦悩と、子供たちの生きた証を記すため、実に563篇に及ぶ詩を書き、詩人没後に出版された。当時の様子は新全集版に収録されたリュッケルトの妻の手記で明らかになっている(東京交響楽団HP掲載「2012年 マーラー・リーダー・プロジェクト」の、渡辺美奈子による解説『エルンストとルイーゼを偲ぶ歌』に翻訳が紹介されている)。
  マーラーがこの曲集中3曲を書き上げていた1901年10月、バウアー=レヒナーは日記にこのように記した。「《亡き子を偲ぶ歌》について彼は、それらを作曲したことを悔やんでおり、またそれを一度でも聴かなくてはならないこの世の人々が気の毒だ、と語った。それらの音楽の内容はそれほど悲惨なのだという。」(ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』高野茂訳 音楽之友社) 確かにこの曲集は、マーラーが創作の初期から一貫して主要なテーマとして扱ってきた「地上の苦」を表現した作品群の中でも、最もインパクトの強いものだろう。

1.今や太陽は明るく昇る
  愛する子を失った翌朝、何事もなく昇る太陽。日常はそ知らぬ顔で推移してゆく。現世、浮世とは永遠の一局面なのだ。愛する者の死によってそれを思い知らされた者は疎外感に苦しむ。

2.今になってみればよくわかる、なぜあんなに暗い炎を
  死の予兆に気付かなかったことへの悔恨。第5交響曲第4楽章アダージェット、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』を思わせる動機が用いられる。

3.お前のママがドアを開けて入ってくると
  今は失われた日常の小さな幸せの回想。

4.私はよく考える、あの子たちはでかけただけなのだと!
  子供たちの不在は出かけただけだという現実逃避。

5.こんな天気のとき
  子供の死に対する自責と祈り。マーラーは神の元での安息を願う最終行のあとに、その前の「母の家(Mutter Haus=「生家」の意でもある)にいるかのように」を繰り返して曲を締めくくり、重点を神から母に移した。自筆譜ではこれが「母の膝」(Mutter Schoss=「母胎」「子宮」の意もある)に変更されたあと、出版譜で元に戻されたことがわかっており、この部分にある「子守唄のように」の指示を含め、それをフロイト的に解釈する論者がいるが、あまりに穿ち過ぎの感もある。むしろ素直に、シューベルトの「子守唄」の「眠れ、眠れ、やわらかい膝の上で」Schlafe,schlafe in der Flaumen Schoßeを連想すべきだろう。 (つづく
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by ooi_piano | 2015-12-06 15:35 | コンサート情報 | Comments(0)
(つづき)

■『大地の歌』Das Lied von der Erde 
  ~ピアノ版『大地の歌』から読み取れる物語展開~

1.「地上の苦を詠う酒宴歌」Das Trinklied vom Jammer der Erde 原詩:李白
c0050810_16385223.gif  原詩の「悲歌行」は古くから偽作説があったため我が国では等閑視されていたが、近年中国では真作説が有力になっており、日本でも李白晩年の傑作との評価が出始めている。原詩に比較的忠実なハイルマンの独訳に、ベトゲが題名変更の他かなりの翻案を加えている。

 a) 題名を「悲しみの歌」から「地上の苦を詠う酒宴歌」に変更。
 b) 杯を黄金にすることで、王侯級の華麗な宴席の情景にした。
 c) 悲嘆を吐露するリフレインを、生も死も暗いという箴言(しんげん:戒めの言葉)にした。
 d) 「ただひとつ確実なものは、最後にニヤリと笑う墓」などシニカルな詩句を追加。

  こうして侘しい酒席で人生無常を嘆く詩は、富貴の人々の集う華麗な宴席で、多分に挑発的に無常を説く情景となった。ベトゲは何故このような翻案をしたのだろうか。その出典となりそうなものが、ベトゲが典拠のひとつとするサン=ドニ『唐代詩集』所収の李白小伝にある。そこには、李白が玄宗皇帝に詩才を認められて宮廷に招かれたが、その奇矯な振る舞いを皇帝の取り巻きの貴族たちに憎まれ、ついに追放された史実が記されているのである。つまりベトゲの翻案詩の情景は、玄宗皇帝の宮廷の宴席における李白の振る舞いを想定したという推測が成り立つ。『大地の歌』作曲当時、ウィーン宮廷歌劇場総監督辞任劇の渦中にあったマーラーが、この設定に興味を持たぬはずはあるまいが、実際マーラーが作曲した音楽は劇的で緊張度が高く、悲嘆よりも斜めに構えた諧謔的な傾向が強い。
  マーラーはベトゲの追加したシニカルな詩句を含む第3節後半をリフレインごと削除して有節形式を崩し、劇中歌的な第3節の独立性を明確にした。管弦楽版ではホルンのfffで轟然と提示される、猿の鳴き声を表す4度音程のライトモチーフ的動機は、ピアノ版では続くトリルによる半音下行 (第3, 4小節)の、宴席の喧騒・笑い声の動機のffに対してfであり、猿の声が遠景から響く遠近関係が明らかである〔譜例1〕。(漢詩における悲哀の象徴である猿声は、森の樹上に住むテナガザルのものであり、ニホンザルの騒音的鳴き声とは全く異なる)
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  喧騒を遮って乾杯を制止した李白は、人の死の運命を説き、「悲しみの歌」により哄笑を起こすと予告し、空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」を思わせる箴言「闇なのだ、生も死も」 “Dunkel ist das Leben, ist die Tod!” を垂れる。第2節では玄宗皇帝(この家の主)の酒蔵を讃え、リュートの演奏を予告し、再び箴言を垂れると、それまで李白の口上を嘲るように頻出していたトリルは、御前での歌と演奏を静聴するかのように鎮まり、リュート弾き語りによる酒宴歌「悲しみの歌」が始まる。ここから、前2節では歌詞の“Lied” (第36, 37小節) の部分でだけ響いたトレモロが支配的となる〔譜例2〕。 
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  管弦楽版では(第2ヴァイオリンの)ppp~ppであるために目立たないトレモロの存在感が大きいのはピアノ版の特徴であり、動機としての重要性を示す。猿声動機の構成音A, Eを含むことから、宴席の世俗的な喧騒を表すトリルと対照的な、森(自然界、異界)の響きであろう。トレモロと猿や鳥の鳴き声を背景にリュートの演奏が始まり(第210小節から)、後半は歌とリュートが交互に現れる弾き語りの情景となる。老子の「天長地久」を引用した、人生無常と物欲の空しさを説く歌が進むと、俗物たちの嘲笑のようにトリルが散発し始め、ついに歌を遮ってトリルがffで爆笑するように現れる(第325小節)。予告どおり、歌によって哄笑が引き起こされたのだ。だが間髪を入れず李白は猿の出現を告げる(第328小節)。森の樹上で鳴いていたはずの猿の一匹がいつの間にか墓場に現れ、月光を浴びて叫ぶ禍々しい姿。人間の死の運命を象徴する凶兆の出現に、人々は恐れおののき、これ以後トリルの笑い声は一切沈黙する。わが意を得た李白は猿声の4度下行(第353小節)と笑い声の半音下行(第358-359小節 = 第3-4小節)を歌う。今度は李白が人々を嘲笑する番なのだ〔譜例3〕。
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  地獄落ちの9度下行で人々が倒れ伏すと猿の姿が消えたのか音楽は静まる。一曲歌った李白は約束どおり乾杯を促す。人はその運命の杯を飲み干さなければならないのだから。3度目のリフレインはピアノ版ではまさかの長調で明るく歌われ、最後の“Tod!” で突如暗転し短調の和音を響かせる。続くコーダは、「急速に幕」のト書きがふさわしいような終結和音で閉じられる。
 第1曲にこのような物語を想定すると、『大地の歌』全曲からも物語展開が浮かび上がってくる。李白の宮廷における俗物たちとの対決を発端として、失意、過去の美化された回想、現実逃避、そして長安からの追放までを辿っていると考えられるのだ。

2.「秋の孤独な女」Die Einsame im Herbst 原詩:張籍または銭起
c0050810_16403969.gif  原詩は銭起「效古秋夜長」説(浜尾房子他)と張籍「呉宮怨」説(横山武『グスタフ・マーラー「大地の歌」とその原詩』滋賀大国文会)があるが、前半は銭起、後半は張籍に似ている。寵愛を失った宮女の嘆きの歌であり、枯れた蓮は加齢による容色の衰えがその原因であることを示唆し、第4曲の伏線となる。作曲当時の清朝中国ではこうした詩を君臣関係の比喩とする解釈が優勢だったが、『大地の歌』作曲のきっかけを作ったマーラーの友人で、三十年以上中国に暮らした中国学者フリードリヒ・ヒルトFriedrich Hirth (1845-1927米コロンビア大学中国学主任教授)はそれを知っていた可能性が高い。マーラーが管弦楽版で題を男性化したのは、第1曲の宴席での振る舞いを讒言され、皇帝の寵愛を失った詩人の嘆きを比喩的に描いたことを明確にするためと見ることも出来る。題名と内容から第5曲と対になると考えられる。

3.「磁器のあずまや」Der Pavillon aus Porzellan 原詩不明
  李白「宴陶家亭子」の人名「陶」を陶器と誤訳したというまことしやかな説があるが、仏訳したゴーティエには中国人の助言者丁敦齢がいたことから発想自体に無理がある。詩の内容も題名以外は似ても似つかず、とても原詩とは言えない。おそらくはゴーティエの訳詩集にいくつか存在する創作詩のひとつだろう。当時西欧で中国磁器は黄金並みの貴重品であったことから、磁器の建築物とは、翡翠の橋と同様のユートピア的景物と考えられる。管弦楽版では「青春について」への改題により第4曲と対になることが明確化された。

4.「岸辺にて」Am Ufer 原詩:李白
c0050810_16423129.gif  蓮根を採る労働歌である原詩を西洋人が乙女の花摘みの情景に変えたという珍説があるが事実誤認だ。李白の「採蓮曲」は、乙女が蓮の花を摘む情景を理想美として描き、そのはかなさを嘆く詩である。李白研究の第一人者として知られる市川桃子氏は、マーラーの作曲と管弦楽版の「美について」の題を、「採蓮曲」の真髄を理解したものとして高く評価している(市川桃子『中國古典詩に置ける植物描寫の研究 : 蓮の文化史』 汲古書院 )。


5.「春に酔える男」Der Trinker im Frühling 原詩:李白
  躁と鬱の極端な対比となるが、第2曲と対になる宮廷での失意の歌である。ベトゲが付加した最終節は説明的だが真意を突いている。原詩「春日醉起言志」は李白が宮廷を追放される直前、酒浸りになっていた頃に作られた諧謔詩であり、マーラーがそこまで知る由もないはずだが、驚くべき的確な選択だ。冒頭は荘子の「胡蝶の夢」の引用である。

6.「告別」Der Abschied  原詩:孟浩然/王維
c0050810_1644239.gif  自然派詩人の両雄として「王孟」と呼ばれた王維と孟浩然は堅い友情に結ばれていたが、仕官の夢破れた孟は王に見送られて山に隠棲した。ベトゲはサン=ドニの注釈で両者の友人関係を知り、2人の詩を見開きの両ページに並べた。

  「孟浩然は、次の詩の作者である王維の親友だった。孟浩然が待ち望む友人とは王維のことである。それに対して王維は孟浩然に「友との告別」の詩を書いたのだった。」(ハンス・ベトゲ『中国の笛』巻末注より)

  実際には孟浩然の「宿業師山房待丁公不至」はその題にあるように丁公を待つ詩で、王維の「送別」も送る相手を明記しない特異な送別詩であって孟浩然へのものではないが、大詩人2人の友情にちなんだ粋な演出ではある。
  マーラーはこの2編の詩を用いて2人の友情と別れを描くと共に、後半に第三者視点を導入して自らの心情を託し、第1曲の劇中歌から2度下行の「永遠ewig」を再現して全曲を閉じた。王維の「送別」は内容から見て架空の送別詩で、実体は自らを送る詩という説が有力であり、まさにその通りの解釈を施したマーラーの、眼光紙背に徹する読みの深さに驚かされる。

c0050810_1648146.jpg  『大地の歌』は、無常感を歌う唐詩のアンソロジーによる連作歌曲集であり、全6楽章の交響曲であるとともに、李白の宮廷追放劇による物語展開を持つ作品と言える。俗物たちの讒言(ざんげん)を受け、皇帝の寵愛を失って宮廷を追われ、失意のうちに去ってゆく優れた芸術家の物語はもちろん、李白の伝記的エピソードを表現しようとしたのではなく、マーラー自身の宮廷歌劇場総監督辞任と、新天地アメリカへの渡航を象徴した隠喩であろう。マーラーの当時の心境には諸説があるが、この隠しストーリーからは、内心相当に悔しい思いがあり、それを作品に昇華したと見ることも出来る。そしてそこから読み取れるマーラーの原詩に対する理解度は、通説よりもはるかに深いのである。(甲斐貴也 2015.12)
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by ooi_piano | 2015-12-06 11:33 | コンサート情報 | Comments(0)