Blog | Hiroaki Ooi


8/25(金) ソラブジ《オープス》& 古川聖《ノベレッテ集》完演
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2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (1/5)

c0050810_11282211.jpg◇POC2015 (第22回~第24回) 感想集 http://togetter.com/li/920992

◇POC 第1回~第21回公演 曲目一覧と感想集・動画リンク



大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第26回公演
一柳慧 主要ピアノ作品集
 
2016年2月21日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) 
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/


c0050810_11215955.jpg【演奏曲目】
一柳慧(1933- ) :《トッカータ》(1953、世界初演)

●同:《ピアノ音楽第1》(1959)

●同:《ピアノ・メディア》(1972)

●同:《タイム・シークエンス》(1976)

●同:《星の輪》~独奏笙のための(1983)

●同:《ピアノ音楽第9》(2015、世界初演)

    (休憩15分)

●同:《雲の表情》(1984-99)(全10曲)
  -- 雲の表情 I
  -- 雲の表情 II
  -- 雲の表情 III
  -- IV. 『雲の澪』
  -- V. 『雲霓(うんげい)』
  -- VI. 『雲の瀑』
  -- VII. 『雲の錦』
  -- VIII. 『久毛波那礼(くもばなれ)』
  -- IX. 『雲の潮』
  -- X. 『雲・空間』


一柳慧のピアノ音楽から────西田博至


c0050810_1122369.jpg  一柳慧にとってピアノは、最も親密な楽器である。
  敗戦後の混乱のなかで、まだ十代の少年だった一柳が生活のために、進駐軍のキャンプでヨハン・シュトラウスなどを弾いて稼ぎを得たのもピアノだったし、多くの先鋭的な作家たちがそうであったように、作曲家としての自身の内面と、実験な企みを託すとき、まず選んだ楽器もまたピアノであった。さらに、鋭敏なピアニストとしての活躍も広く、たとえばスティーヴ・ライヒの《ピアノ・フェイズ》の日本での初演者のひとりでもある。1933(昭和8)年生れの一柳は、今も毎晩、ピアノの練習を欠かさないという。

  さて、一柳の父である信二は、戦前のいわゆる阪神間モダニズムの渦中に育ち、パリで学んだチェリストであるが、詩人の竹中郁と深い親交を結んで、詩集などもものしている。母光子もまた、第一次大戦後の戦間期にアメリカへ渡り、駐日大使エドウィン・O・ライシャワーなどを輩出しているオーバリン大学でピアノを学んだ。その母から、幼いころ手ほどきを受けてのち、大東亜戦争とその敗戦のころのブランクを経て、一柳はピアニストとなるべく、宅孝二や原智恵子などからレッスンを受けた。
  空襲や疎開など逼塞した戦時下を過ごしてきた少年にとって、ピアノに触れることは、のびのびと解放された心地をもたらしたというが、特に一柳に強烈な印象を与えたのは原智恵子だった。やがて、ピアニストへの道を進むより、作曲をすることに強い興味を抱くようになった一柳少年の背中を強く押してくれたのも、原だったという。
  原のもとでピアノのレッスンを受けながら、一柳は平尾貴四男から作曲を学び始める。平尾とは気が合ったようだが、その後1953(昭和28)年には若くして亡くなることになる平尾が身体を壊してレッスンの時間が取れなくなったのと、東京藝大への進学を考えて、やがて池内友次郎のもとに移る。そのころ池内から学んでいたのは、一柳たちの少し上の世代である松村禎三、別宮貞雄、一柳とおなじ生年である三善晃などであったが、池内の教え方に、一柳はなじむことができなかったようである。
  その修業のころを振り返って一柳は、かたや原智恵子のように「ピアノだけじゃなくて音楽全体を教えてくれるような非常によい人がいて、もう一方の池内先生は、決して悪いとかいうんじゃないけれども、現実味がないんですよ。(…)音楽における社会性のようなことは皆無の方だったから。もう完全にアカデミックな(…)ハーモニーだとか対位法だとかそういうことだけですからね。こちらとしてはまったく面白くない。別宮さんとか三善さんは、そういうのも百点満点取れるくらい素晴らしかったんだと思うけど、僕は、嫌で、嫌でね」と述べている(1)。

c0050810_11235089.jpg  じぶんの進むべき道をまだはっきりと見出すことのできなかった一柳少年だが、1949(昭和24)年、現在の「日本音楽コンクール」の前身である「音楽コンクール」の室内楽の作曲部門に応募した《ピアノ・ソナタ》で、いきなり一位を獲得する。
  園部三郎はこれを評して、ドビュッシーなどの「フランス音楽の温床の中にいて、彼の若さにもかかわらず、上手にまとめあげさせたというだけ」で、「和声法の薄弱さ」を指摘したが、「しかし、この人が身につけている作曲するための「手」は、なかなか非凡なものだとおもう」と書いている(2)。一柳少年は翌年もおなじ作曲部門で二位、さらに1951(昭和26)年には《ピアノ三重奏曲》で、再び一位を獲る。石桁眞禮生はこの曲を、「前二回のおしゃべりな技巧派」に比べて、「安易」ではあるが「奇をてらわない、素直な音楽の流れが佳い」と評した(3)。

  コンクールで一躍名を知られるようになった一柳少年だったが、これをきっかけに、彼の人生における大切な友誼のひとつが始まる。作曲家をめざすか、美術批評家になるか、まだ決めあぐねていた青年である武満徹が、一柳宅をいきなり訪ねてきたのだった。一柳は武満からクレーやモンドリアンの画集などをみせられて新しい美術への扉を開かれ、武満のほうは一柳に頼んで、彼が聴きたいバッハやリスト、ラヴェルなどをピアノで弾いてもらったり、楽譜などを借りてゆくようになった。進駐軍のメンバーとして日本にやってきていた母の友人を通じて、やっと手に入れたというメシアンの楽譜は、けっきょく一柳のもとには、二度と帰ってこなかったらしい。
  「音楽コンクール」のころの自作を振り返って一柳は、「最初の《ピアノ・ソナタ》は、今からみてもフランスっぽいものであったと思うけれど、あとの二曲はそうでもないですよ。まったく好きなように書きましたから」と語る(4)。
  実際、池内友次郎は、いちおう門下生ではあるが彼の指導からすっかりはみだして「好きなように」書いて持ってくる一柳の曲を、いつも「弾きにくい」とこぼしていたという。

c0050810_11245579.jpg  さて、武満徹が一柳と親交を結んだ1951(昭和26)年とは、彼もそのメンバーだった「実験工房」の活動がスタートした年だった。さまざまなジャンルの若いアーティストたちによって、アンチ・アカデミックな新しい藝術の創造を求めて結成されたこのグループには、秋山邦晴、美術家の山口勝弘や駒井哲郎、ピアニストの園田高弘、そして作曲家としては、武満のほかにも湯浅譲二、鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫が参加した。
  このなかに、一柳の名前はない。
  のちに武満徹の語るところによると、「実験工房の連中は、その当時は、一柳のコンクールに入った音楽なんかを批判していたの。どうもアカデミックだとか、言っていたわけだ」(5)。
つまり、池内友次郎とその門弟たちに代表されるアカデミックな音楽からも、「実験工房」の同人たちが追求するアンチ・アカデミックな音楽のほうからも、一柳慧の音楽の居場所が与えられることはなかった。「日本ではどうやってやってゆけばいいのかということが、まったく掴めなかった」と、のちに一柳は述べている(6)。

  このころ既に一柳は、これからピアニストではなく作曲家としてやってゆくと、腹を決めていた。じぶんの音楽の居場所は、じぶんで何とかするしかない。彼は、海外へ出ることを真剣に考えるようになる。まず、師の原智恵子や父も学んだフランスへの留学が模索されたようだが、けっきょくそれはうまくゆかなかった。
このとき父信二から、むしろニューヨークのほうが留学先としてはよいのではないかとアドヴァイスを受ける。フランスは戦禍からの復興なかばで混乱も続いており、また、大戦の影響でヨーロッパからアメリカへ多くの作曲家が逃れていて、彼らから学ぶこともできるだろうから、と。そして1952(昭和27)年、前年9月にサンフランシスコ講和条約が結ばれて独立を果たしたばかりの日本から、19歳の一柳慧は貨物船に乗り込み、アメリカに向けて旅立った。

c0050810_11265747.jpg  アメリカでの長い修業時代は、まずミネソタ大学の音楽学部からスタートしたが、のちにニューヨークのジュリアード音楽院に移る。
  1954年から1957年までのジュリアード音楽院での時間で、一柳は作曲とピアノの両方を学んだが、ここで一柳に最も大きな影響を与えたのは、ヴィンセント・パーシケッティの作曲のクラスよりもむしろ、ビヴェレッジ・ウェブスターというピアニストからの教えだった。そのころまだ一柳が全然知らなかったバルトークの音楽などを彼から教えられ、非常に刺激を受けたという。

  作曲のほうで奨学金を得たが貧乏暮らしには変わりなく、渡米後もピアノ弾きのアルバイトはずっと続けていた。今度はジュリアードの学内で、ヴァイオリンやチェロの教授たちのところへ出向き、やってくる学生のレッスンの伴奏を弾いていたのである。「この仕事で私は伴奏と同時に、ヴァイオリンやチェロのレパートリーをずいぶん勉強させてもらったものである」と一柳は書いているが、それだけでなく学外にも積極的に出て、さまざまな音楽家たちのもとを訪ねて、一柳は貪欲に音楽を学んでいた。
  渡米の翌夏にはアーロン・コープランドからタンクルウッドで学び、その後もルイジ・ダラピッコラ、《ポエム・エレクトロニーク》を手がけた直後のエドガー・ヴァレーズ、ゴッフレード・ペトラッシ、「とにかく君はベートーヴェンを学ばねばならない」と厳しく指導したボリス・ブラッヒャー、そして特に単なる音楽の師弟というだけでなくライフスタイルまで含めて大きな手本となったのは、モートン・フェルドマンやデイヴィッド・テュードアの師でもあるシュテファン・ヴォールペだった。
  当時のジュリアードの作曲のクラスでは、十二音技法などのヨーロッパの新しい音楽を教えてくれることはなかったらしい。「しかし、どうしてもその辺に入らないとぼくの考え方がおさまらなくなったんで、十二音で作曲していたんですよ」とのことである(7)。

c0050810_11293747.jpg  このころの一柳の作品で、今も私たちが耳にすることができるのは、1954年のエリザベス・クーリッジ賞を獲った《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》――小野洋子(オノ・ヨーコ)はこの曲を聴いて絶賛し、それがふたりの出会いのきっかけになった。のちにふたりの結婚式でも新郎の一柳と、ヴァイオリニストの小林健次によって演奏されたが、この祝宴に出席していた小野の従弟の加瀬英明は「ガタンビシンボンボンと現代音楽を合奏した」と書いている(8)。「ガタンビシンボンボン」のようなところはまるでない曲だが、1969(昭和44)年の小野とジョン・レノンの結婚後に書かれた記事であるから、たぶん覚えていないのを適当に書きとばしたのだろう――や、1956年~1957年に書かれ、アレキサンダー・グレチャニノフ賞を獲った《弦楽四重奏曲》である。

  1956年10月号の『音楽藝術』に、23歳の一柳と、やはり当時渡米中だった音楽史家の皆川達夫との対談が載っている。そこで一柳は現代のアメリカ音楽の情況を問われて、まず、コープランドやサミュエル・バーバーなどは、ヨーロッパの音楽と対決してアメリカの音楽を確立するのだと意気込みすぎて音楽というものの本質から遠ざかってしまい、「結局後に残らないことになってしまった」と手厳しく断ずる。しかし、彼らに続く、ヨーロッパの前衛音楽の単なる模倣だけでもなく、新古典主義への追従でもない「独自の道を歩んで最も注目されている」エリオット・カーターなどの「若い人たち」は「音楽が先に立ち、彼等の中から自然に出てくるアメリカというものを、いろいろの面から一貫して、共通に表現しています」と評した。彼が自身をどちらの側においていたかは云うまでもないだろう。実際、先に挙げた当時の彼の曲には、後者の試みと共通するような傾向が強く現われている。

c0050810_11314649.jpg  しかし、一柳の模索はここで終わらなかった。むしろ、十二音からセリー音楽を用いて、緻密で美しい音楽を書くことはできたが、そこから出られなくなってしまったのである。
  秋山邦晴のインタヴュに答えて、次のように述べている。

  《そのころ、世界中の作曲家が創作ができにくい状況だったわけです。(…)みんな作品の数が減って、四苦八苦しているわけですよ。ぼく自身もたしかにそうだった。十二音にかわってから、相当ペースが落っこっちゃって、せいぜい一年に二曲とかね。非常につくりにくい、行き詰まった感じがあったんですよ。》(9)

  「厳しいルールで律せられていた(…)セリーの音楽の後に、さらに新しく音に意味づけをしたり、秩序構成を考えることはほとんど不可能」(10)であると痛切に感じ、創作の困難の真っただなかに一柳はいた。そんな折、一柳は師事していたヴォールペの、三台のピアノのための新作の第二ピアノを弾くことになり、そのときの第一ピアノだったデイヴィッド・テュードアと親しくなる。1926年生れのテュードアは、《4分33秒》の初演者であるが、このとき既に現代の音楽のずば抜けて優れたピアニストとしてよく知られており、作曲家たちは、「テュードアは与えられたものをすべて、簡単に解決してしまったから、常に「退屈させないために、どんなものが作れるだろう」と自問自答しなければならなかった」(11)ほどだった。
  それ以降、一柳はテュードアと頻繁に行き来するようになっていった。そして1958(昭和33)年、テュードアのリサイタルで、一柳は初めてジョン・ケージに出会い、それからしばらくして、ケージのレクチュアを受けることになる。ケネス・シルヴァーマンの『ジョン・ケージ伝』から、このときの模様を引こう。小野洋子は一柳と一緒にレクチュアを受けていたのだが、そのあとで彼女は、「夫にこう言った――「あなたが求めていたのはこれでしょ?」」 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:53 | POC2015 | Comments(0)

2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (2/5)

(承前)

c0050810_11434597.jpg  それからずっとのちに一柳は、彼だけでなく、ポスト・セリーの音楽への道筋をみつけられないでいた作曲家たちにとって、ジョン・ケージは「神の啓示の如く現われた」と書いている。それほどに当時の彼の作曲家としての暗中模索の日々は苦しく、閉塞しきっていたのだろう。実際、ケージとの出会いのあと、「一年にせいぜい一曲か二曲程度しか創れなかった」一柳が、「その後の一九五六年から六一年にかけては、いっきょに二十曲近い作品を創ることができた」のである。たとえば《ピアノ音楽第一》から《ピアノ音楽第六》もまた、総てこの時期に書かれたものである。
  ケージとの遭遇による一柳の変化は、彼のアメリカでの音楽修業時代を締めくくる最大のものだったと云っていいだろう。音楽面以外でも、一柳が通った「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」でのケージのクラスには、ディック・ヒギンズやジャクソン・マクロー、「ハプニング」の創始者として知られるアラン・カプロウなども在籍しており、ケージの影響を強く受けて、藝術の更新をめざす彼らとも親しく交わることができた。
  さらに、ケージの生涯に亘るパートナーであったマース・カニングハムのカンパニーのレッスンで、ピアノを弾くアルバイトもするようになる。それはすべて即興演奏だったというが、カニングハムやそのダンサーたちだけでなく、当時のカンパニーの美術監督を務めていたロバート・ラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズなどとも友誼を結ぶことになる。一柳の交友が一挙に拡がったのは、「多彩な芸術家たちがケージを中心に、環のように連なって存在し」ていたためだった。

c0050810_11443838.jpg  では、音楽面では、ケージとは一柳にとっていったいどのような存在だったのか?
  まず、一柳が決定的な影響を受けたジョン・ケージとは、或る一般化されたケージではなく、1950年代後半のケージだったということである。
  一柳慧における「ケージの原体験となった音楽」とは、プリペアド・ピアノのための《ソナタとインターリュード》でも《フリーマン・エチュード》でもなく、「図形楽譜の原点とも言える八十四種類の美しいグラフィック・ノーテーションを創案して書かれたピアノとオーケストラのための「コンサート」や、長大な不確定性のピアノ曲「ウィンター・ミュージック」、数枚の透明なプラスチックの板に書かれたものを自由に重ね合わせることで、記号の位置や組み合わせを、紙に書かれて固定されているものより、さらに不確定さを増すように考慮された「ヴァリエションズI-V」など」なのである(12)。
  一柳はのちに、ジョン・ケージを理解するための、見落とされやすいが重要なキィワードとして、「変化」を挙げているが(13)、1950年代後半のジョン・ケージもまた、それまでの自身の辿ってきた音楽の作り方、音楽への向き合い方を、再び捉えなおし、組み立てなおそうとしている、特に大きな変化の渦中にいたのだった。たとえば、1958年には、1951年の自作《易の音楽》について、ケージは、「人間的であるというより非人間的な産物」であり、「たとえ音だけで構成されているとしても、それが全部一緒になって、結局は生きた人間をコントロールしようとしているからだ」(14)と自己批判をするようにさえなっていた。
  これは、たしかに「十二音やセリーの音楽のように音に意味づけすることをやめ、音を人間の意志から解放」(15)するため、作曲の過程に偶然性を持ち込み、音楽を作曲家の軛から解き放つというケージの試みは、《易の音楽》によってひとつの到達を果たした。しかし、どのようなやり方で作曲家が書いたものであれ、結果としては厳密に決定されている楽譜を、演奏家がそのまま奏でるだけでは、演奏家にとっての音楽とは、あいもかわらず不自由で、何も解放されないままだったからである。


c0050810_11453541.jpg  自由であることは、ケージの音楽においてずっと、とても大切にされていることである。そしてそれは決して、絵空事であってはならない。

  《われわれの住んでいる現実はたいへん騒々しく、人びとは何とかそこを逃れ、静かな環境や美しい音を得ようとして音楽を聴く。しかし、そういうふうにして聴かれる音楽というのは、完全な虚構の世界としてとらえられているわけで、虚構の世界にしか美がないということは、裏をかえせば、われわれの住んでいる現実は、たいへんみじめなものだということになる。それでは現実に生きている意味がないんではないかというのが、ケージの一つの主張になります。で、彼は、本当に美しいものというのは、そういう造られた虚構の世界にあるのではなくて、現実そのものでなければおかしいのではないかと云っているわけです。》(16)

  1965(昭和40)年の一柳の言葉である。彼もまた、このケージの音楽への「現実そのもの」に向かう姿勢を強く受け継いでいるのだが、音楽を自由にすることをめざして一柳が進んだ道と、ケージのそれは、結果としてはやはり異なるのである。やがて少しずつ明瞭となってくるふたりの道行きの違いを見つけやすくするためにも、そもそも一柳は、まずケージから何を学んだのかを、いろいろな時期に書かれた一柳自身の言葉から、概観しておくことにしよう。
  一柳が、行きづまっていた音楽の世界にケージは、「神の啓示の如く現われた」と書いていることは先に引いたとおりであるが、しかし一柳はケージの営みを、先人たちが繋いできた音楽からの切断としてではなく、その延長として捉えている。

c0050810_11465151.jpg  1961(昭和36)年、ようやくの日本への帰国と、翌秋のケージとテュードアの来日のころ、一柳は彼らの音楽の紹介を盛んに発表しているのだが、そこではっきりとうかがうことができるのは、ケージの音楽を、「音に楽音(音程を持った音)と噪音の区別をつけることをやめ」た、エドカー・ヴァレーズの《イオニザシオン》やミュジーク・コンクレートのさらなる推し進めとして理解していることである。これはもちろん、噪音を奏でる打楽器としての側面をつよく打ち出すために「発明」された、プリペアド・ピアノのために書かれたさまざまな曲にも、よく現われているが、最も世に膾炙したケージの作品である《4分33秒》においてより端的であるだろう。
  
  《音を音そのものに還そう。彼らは人間ではない。音だ。という考えのもとに、ケージは音に対して、セリーの音楽のように禁欲的とも言える厳格な規制を行う代わりに、選択することを最小限にとどめ、あるがままの音を聴く自在な方法論をつくり出す。》(1998年)(17)

  これを、もう少し詳しく説明しているものも読んでみよう。

  《芸術に、より高い次元の精神美の場を見いだすために、自己主張を極力縮小して人間性を解体させそれによって逆に宇宙や、大自然のもっと大きな動きに同化しようと試みる。自然と人間を別々なものと考えず、人間も自然の一部とみる。そして自然に対して働きかけるのをやめることによって、人間性などという小さな自意識の世界を越えようというわけである。その結果、もはや音に意味をつけたり、自己の観念で有機的な音関係を作ったりしない。その場その場の現実に徹した行為がそのまま音楽につながる。その意味で、生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉そのものなのである。》(1962年)(18)

c0050810_11473811.jpg  シルヴァーマンのケージ伝には、当時の「一柳のことをケージは褒めていたが、それは彼が「自分の想像力という邪魔物から自らの音楽を解放する」やり方をいくつか見出していたからだ」とある。
  「自分の想像力」だとか「人間性などという小さな自意識の世界」といった「邪魔物」を越えて音楽の自由をめざす。しかしそれは何をやってもよいというわけではない。「音に意味をつけたり、自己の観念で有機的な音関係を作ったり」せずに、勝手気儘さえやれば、音楽はおのずと解放されるというようなことなのではない。ケージが一柳を褒めたのは、音楽を自由にするための、「やり方をいくつか見出していた」からであるということに注意しておこう。そう、「やり方」こそが、肝要なのである。
  再び一柳の言葉を引く。だからこそケージは、「演奏する者の主体的表現が生かせるように、結果を固定させないでおく」図形楽譜を導入して、「作曲家もすすんで演奏に携わる」ことができるようにした。そして「演奏家も単に作曲家の書いた物をなぞるのではなく、自らも創造行為にかかわる者としての立場から、演奏を行うように」態度を変更することが求められた。その結果、「作曲家には、音を介した身体性が蘇り、演奏家は再現芸術家という奴隷的な立場から解放されて、演奏の自由を謳歌できるようにな」り、こうして「音楽家はようやく、分業化によって矮小化された役割から解放され、音楽全体へかかわりをもてるようになった」のである(19)。

  しかし、「あるがままの音を聴く」こと、奏でることのために最適の、「その場その場の現実に徹した行為」をとることは、決して簡単なことではない。
  ポール・グリフィスが、まさに一柳がケージのすぐそばで学んでいた「一九五〇年代を通して、ケージが最も心を砕きながらも、しかし最も実現が困難だった目標は、演奏家が「馬鹿騒ぎ」の状態に陥らない方法をとりつつ、かつ同時に彼らに自由な意思で振る舞うことを可能にさせておくことだった」と述べていることからも判るように、「今、行っていることを正確に行う」ことを、実行するのは至難だった。

c0050810_11492699.jpg  それでも1950年代後半のケージは、このやり方で音楽と音楽家を、ともに自由にすることができると信じることができた。それは、彼の傍らに、デイヴィッド・テュードアがいたからだったからかもしれない。
  再びポール・グリフィスの所見を引くなら、「そもそも一九五〇年代のケージの主要な創作は、アマチュア音楽家や現代音楽ファンのための愛想のいい演習課題というよりも、デイヴィッド・テュードアというピアニストがもつ恐るべきヴィルトゥオジティの極限までの開拓と、次に何が起こるかまったく予測すらできない出来事の発見を同時に目的としたものであった」ということになる。
  一柳もまたグリフィスの説を裏づけるように、テュードアの「並はずれた解釈や、演奏から受けた刺激によって」、ケージの音楽は「大きな発展を遂げることが出来たと言っても過言ではない」と述べている(20)。しかしこれは何もケージだけに限ったことではなく、自身もまた鋭敏なピアニストであったがゆえに、ますます感応し得ることも大だっただろう一柳の音楽においても、テュードアからの刺激の痕を認めることはできる。
  実際テュードアは、演奏家がただ楽譜をなぞるのではなく「創造行為にかかわる者として」、「演奏の自由を謳歌」することに真摯に取り組まねばならない、一柳の《ピアノ音楽》のシリーズから、「2番、4番、5番、6番を好んで再々とり上げ、演奏してくれた」のだった。これらの意欲的な作品も、「チュードアが居なければ、それ程注目されることもなく終わっていただろう」とさえ、一柳は述べている(21)。

c0050810_1150447.jpg  一柳は1962(昭和37)年に、当時のテュードアをこう評している。

  《生活と結びついた行為が、そのまま音楽につながる、ということは、今までの音楽に対する態度のように(これは特に演奏家によくみられるのだが)一日に一定の時間を音楽するためにさけば、あとはどんな生活をしていてみよい、というような考えでは成り立っていかない。ちょうど昔、武士が一瞬たりとも気を許さず、常に心の構えを持っていたように、生活に対する心構えが必要となってくる。テュードアは、演奏という、より謙虚な行為に徹することによって、更に無創造性へと近づいていっているように見受けられる。》(22)

  ここではむしろテュードアこそが、ケージや一柳をはじめとする作曲家たちからの挑戦をうけて、「厳格な精神修練によって自分自身の本質を試された後に、音楽家としての自分本来の姿を発見する」(ポール・グリフィス)ことで、1950年代後半のケージの拓いた道を、ケージよりも先んじて歩んでいると読み取ることもできるだろう。

  テュードアによってめざましく実現されたヴィルトゥオジティは、やがて一柳自身の音楽の開拓において、きわめて重要なものとなってくるのだが、ともあれ、1961(昭和36)年の夏、一柳慧は日本に帰朝する。吉田秀和や、当時非常にケージに傾倒していた黛敏郎などに招かれて、大阪で開催された「二十世紀音楽研究所」のコンサートで、ケージやフェルドマン、そして自作の《ピアノ音楽第四》と《ピアノ音楽第六》と《弦楽器のために》を同時に演奏する。11月には個展を開き、さらに翌年の秋にはケージとテュードアも来日して、一柳は彼らや小野洋子などと共に、新しい音楽を聴かせて、日本の音楽家だけでなくさまざまな分野の藝術家たちにも衝撃を与える。これがのちに「ジョン・ケージ・ショック」と呼ばれる、戦後の日本前衛音楽史の一大事となることは、よく知られているだろう)。

  そして一柳は、その熱狂のなかで、云わば「ジョン・ケイジ教の布教師か宣教師にされて」(富岡多恵子)ゆくのだったが、しかし一柳にとっては、先達としてのケージも、新しい音楽のヴィルトゥオーソのテュードアもいない日本で、どのようにして、やっと掴んだみずからの音楽の自由を展開してゆくか、その「やり方」をみつけることこそが、切実な問題であった。  
  日本に帰ってきても、「その場その場の現実に徹した行為がそのまま音楽につながる。その意味で、生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉」は、いつまでも変らず、一柳を貫いていたからである。 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:53 | POC2015 | Comments(0)

2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (3/5)

(承前)

c0050810_852720.jpg  一柳は28歳でアメリカから帰国すると、次々と新しい作品を世に問うていった。
  初演はケージやテュードアの初来日の折に、彼らと一柳、小澤征爾、高橋悠治、小林健次、小野洋子などによって演奏された《サッポロ》()や、NHKによって委嘱された、一柳による初のテープ音楽である《パラレル・ミュージック》では、テープ音楽のもっている「ひとつの宿命的な制約」である「テープ・レコーダの均等な回転」への「挑戦」として「5台かなんかのテープ・レコーダーからいつ音が出てくるかわかんないけれども、ともかく、プロデューサだの、作曲者だの、技師だのいろんなやつがテープをえんえんとひっぱ」ったり、ラジオ放送において「致命的な現象」である「スピーカーの音がわれちゃうまでオーバー・ボリューム」させたりするなどの試みを持ち込んでいる(23)。ケージから吸収した不確定性の音楽の手法を、一柳は自身のものとして、のびのびと用いている。

  また、ケージ来日の1962(昭和37)年に公開された勅使河原宏の映画『おとし穴』は、『砂の女』や『他人の顔』と続く、勅使河原と安部公房、そして武満徹のコラボレーションの端緒となったものだが、この映画の武満によるサウンドトラックでは、高橋悠治とともに、一柳がプリペアド・ピアノを弾いている。
  あるいは、盟友であるヴァイオリニストの小林健次の父である小林米作が手がけた科学映画のサウンドトラックも、一柳は帰国後から多く手がけており、伸びやかな音楽の実験を聴くことができる。

c0050810_871148.jpg  いわゆるジョン・ケージ・ショックが音楽家たちの域を超えて、広く当時の若い美術家たちに深甚な影響を与えたことは先に述べたが、その熱狂のなかで、一柳もまた映画作家、建築家、美術家たちと広く交流し、しばしば、みずからの音楽を彼らとのコミュニケーションのなかから立ち上げていった。
それがたとえば《ミュージック・フォー・ティンゲリー》である。
  これは1963(昭和38)年、東京の南画廊で、来日したジャン・ティンゲリーが東京中を歩き回って、壊れかけの機械の部品やらガラクタを集めて動く彫刻をつくり、新作展を開いた。その個展に接した一柳が、「それらひとつひとつの彫刻が発する音にも、彼の神経が行きとどいているのを強く感じ」、ティンゲリーのオブジェが発する音からテープ音楽をつくったのだった(24)。

  1964(昭和39)年にはマース・カニングハムと、ラウシェンバーグを含むそのカンパニーが来日する。このときケージやテュードアも再びやってきた。東京で、ラウシェンバーグと、カニングハム&ケージの訣別も決定的となったのだったが、この日本でのツアーでは一柳の《サッポロ》も公演で用いられた。

c0050810_881019.jpg  1966(昭和41)年には、音楽家同士のコラボレーションの発展として、一柳は武満徹とともに「オーケストラル・スペース―新しい耳のために」と題された三日間にわたる演奏会の企画をじぶんたちで立ち上げて、クセナキスやリゲティなどの本邦初演のオーケストラ曲や、自作のほかに湯浅譲二や高橋悠治の作品なども上演した。武満徹によると、この演奏会を開催するため、彼らはあちこちから寄付を募ったそうだが、当時売れっ子の作詞&作曲家だった浜口庫之助は、「船のへさきにいる、あなたたちのアドヴァンスド・ミュージックがしっかりしていなきゃ、私たちがいる、船の真ん中も駄目になるから」と云って、ポンと大金を出してくれたそうである(25)。なお、「オーケストラル・スペース」は、1968(昭和43)年にも開催され、スティーヴ・ライヒの《ピアノ・フェイズ》を、前年のニューヨークでの初演の場に居合わせた一柳が、日本に紹介するのは、このときのことである。

  さて、1967(昭和42)年に、ロックフェラー財団の招聘によって、一柳は再び渡米する。このたびは一年弱の滞在であったが、その帰国ののち、人びとは一柳が変貌を遂げたのを知る。
  それまでは、髪を短く整え、眼鏡に背広で銀行員のような成りをしていた一柳が、髪を延ばし、奇矯なデザインの眼鏡をかけ、ヒッピーたちの好んだ花柄のネクタイをしめるようになっていたのである。
  一柳は、云わばアメリカ実験音楽のフロンティアの伝道師として日本に帰ってきた直後の1962(昭和37)年には、しばしば彼もそこへ通った、ケージやテュードアが「その精神性を実生活を通して実践するため、辺鄙なニューヨーク州の片いなかに、自分たちで部落を形成して移り住み、いわゆる都会の文化生活とは縁遠い、素朴で静かな生活を営んで」いたことを紹介している。そして、「この辺は、テレビや、電気洗たく機などを持って、文化生活に甘んじている日本の作曲家たちと比べると、物質文明にさらされているはずのアメリカの精神的な一面がのぞかれていておもしろい」と書いたのだったが(26)、十年ぶりに日本で生活しながら音楽をつくっていた一柳は、ふたたび渡米し帰国することによって、ケージやテュードアたちが進んだような、生活を純化するほうへではなく、むしろ生活を不純化させることに進むことで、音楽を自由にすることのじぶんのなりの活路を見いだそうとしたのである。

c0050810_8104941.jpg  その前に、渡米中に書かれた一柳の《アピアランス》(初演の録音)をみておこう。これは、図形楽譜で書かれた、オシレータとリングモデュレータと複数の楽器のための作品であり、いわゆるライヴ・エレクトロニクスの音楽である。ちなみに、初演では電子機器をケージが、バンドネオンをテュードアが演奏している。いちど定着されてしまうと、どんなに刺激的な音が鳴ろうとそれは静的なものであるテープ音楽の登場において、「演奏音楽と電子音楽はともすれば対極的なものとして考えられていた」。その限界を超えるものとして、一柳はライヴ・エレクトロニクスを持ち込んだのである。
  ライヴ・エレクトロニクスとは、「非スタジオ的電子音楽であり、演奏ステージが即創作と表現の場になって」いるため、「そこでは従来のスタジオにおける電子音楽のように、修正とか、編集とか、やりなおしというものは存在しない。一回一回の演奏がすべて本番である」ことから、「音を聴いたり、音を創ったり、音に反応したり、また新しい音を発見したりというような点で、作曲と演奏が分かちがたく結ばれている」。
  つまり一柳がライヴ・エレクトロニクスの音楽に取り組んだのは、電子音楽の可能性を開拓するというよりも、彼が培ってきた「不確定性の音楽から発祥してきたもの」としてライヴ・エレクトロニクスが捉えられており、これまで追究してきた音楽の自由をさらに推し進めるための「やり方」として選ばれたのだった(27)。

c0050810_8112575.jpg  さて、1968(昭和43)年に帰国した一柳は、「ダラク」(富岡多恵子)の道を突っ走ることになる。
  「ダラク」とは、どういうことか。
  「生活すること、すなわち音楽することであり、「今、行っていることを正確に行う」というケージの言葉」が、一柳の脳裡を離れたことはいちどもなく、また、これからもないだろうことは既に書いた。しかし、二度目の渡米から帰国した一柳は、キノコのオーソリティとしても知られる郊外暮らしのケージのように、その生活を自然に沿わせたかたちで純化してゆくのとは違った道を選んだということである。
  まさにこの帰国の年の一柳に取材し、富岡多恵子が書いた優れたルポルタージュから引いてみよう。

  《われわれが自然を聴くとき、より価値のある音というのがそこにあるだろうか。一柳慧は、音の自然、つまり人間の自然を欲している。それを得るためには、まさに俗世間の泥沼へおちてダラクするしか、いまのわれわれには手がないのである。一柳慧はアメリカでつけていたゲイジュツカの翅を切りおとしたが最後、もう四本の脚で這いまわるより仕方ない。ニンゲンや植物や、土のにおいを嗅ぐのには、そのブサイクな恰好がいちばんよく合うかもしれぬ。》(28)

c0050810_814445.gif  渋谷のど真ん中に居を構え、東京中の「俗世間の泥沼」を、花柄のネクタイできめて飛び回りながら、一柳はどんなふうに「音の自然、つまり人間の自然」を掴まえようとしていたのだったか。
  まず一柳は、ちょうどおなじときにニューヨークに滞在していて、いつもずっと一緒にいたというほど親しくつきあった横尾忠則と組んで、草月ホールで「サイコ・デリシャス・ショウ」という音と映像のイヴェントを開催し、さらに、当時の人気TV番組だった『11PM』では、横尾によると、「全時間を一柳さんの選択した様々な音源と、ぼくが選択したありとあらゆる映像を直感的かつ偶然に衝突させることで計算外の創造的調和と秩序を得るという生テレビ初の実験的な試みを行った。音や映像はあらかじめ用意していたものの、放送開始と同時に音とビジョンのチャンス・オペレーションによるパフォーマンスが家庭のブラウン管を刺激的に攻撃し、芸術的狂気を提供した」(29)。これらの試みは、今も当時つくられた《オペラ横尾忠則を歌う。》でうかがうことができる。

  二度目の「オーケストラル・スペース」では、当時先鋭的なロックバンドだったザ・モップスと日本フィルハーモニー交響楽団を共演させる、オーケストラ、グループ・サウンズおよびテープのための《アップ・トゥ・デイト・アプローズ》を発表するが、指揮を担当した武満徹がザ・モップスの演奏を途中で止めてしまい、一柳にとってはずいぶん不満の残るものだったという(30、)。

c0050810_8155752.gif  同年、ミラノ・トリエナーレでの磯崎新の発表したインスタレーション「エレクトリック・ラビリンス」の音楽を担当。メタボリズムの旗手であった黒川紀章が内装を手がけた「スペース・カプセル」というディスコでも、一柳は、奥山重之助と組んで光と音楽の演出を引き受ける。ほぼ同時期に並行して、1970(昭和45)年の大阪万博での幾つものパヴィリオンで使われた音楽も一柳はつくった。万博での彼の仕事で今も聴くことができるのは、「太陽の塔」を取り囲んだ大屋根で流れていたという、コンピュータが黒川紀章の未来の建築のマニフェストを読み上げる《生活空間のための音楽》である。1972(昭和47)年には銀座のソニービルで「音響デザイン展」を開き、一柳は「音師」と名乗り、さまざまな音を発する家具や玩具などのオブジェを発表している。

  このころ一柳は、自身の音楽活動をしばしば、「音の環境デザイン」と呼ぶようになっていた。秋山邦晴に作曲とデザインの違いを問われ、一柳は「作曲された音楽の場合は、どんな音楽でも必ずはじめと終りがある」、「つまりフォームがある」のだが、「デザインというのは作曲として発想されていない音の世界、そして結果的にも音楽と異なった次元の世界」であるという。その例として一柳は「日本の庭園できく滝つぼに落ちる水音とか、ししおどしの竹が石を打つ音とか、あるいはお寺の鐘の音」と並べて、ライヴ・エレクトロニクスの音楽や、横尾や黒川らと組んで行ったイヴェントやディスコの音や光の演出などを挙げる(31)。
  つまり、異なったものを次々にぶちこみ、ぶち合わせる環境としての、また、そこから生れてくるものを受け止め得る器として、この時期の一柳慧の生活/音楽は捉えられているのだった。あるいは、ふたたび富岡多恵子から引くなら、「この音楽家は、どんな音でもはいるイレモノをつくって、そこへやってくるニンゲンどもを待っている」のだった。

c0050810_8173099.gif  当時の一柳の音楽の取り組みを伝える最良のものが、吉田喜重の映画のサウンドトラックだろう。
1965(昭和40)年の『水に書かれた物語』でも一柳は吉田の映画の音楽を担当しているが、一柳ならではの特色と取り組みがはっきりと現われるのは、やはり二度目の帰国後、1968(昭和43)年に組んだ『さらば夏の光』から始まる仕事である。それはこの映画での一柳のクレジットが単なる「音楽」ではなく、「音響デザイン」となっていることからも明らかである。
  続く1969(昭和44)年の『エロス+虐殺』(予告篇)は吉田の代表作でもあるが、ここでの一柳の音楽とその音響デザインが、映像と繰り広げる緊張感に溢れたやり取りの美しさは、特筆に価する。さらに、『煉獄エロイカ』(予告篇)、『告白的女優論』、そして1973(昭和48)年の『戒厳令』(予告篇)では「特別演奏」のクレジットで、観世栄夫、高橋悠治、小杉武久の名前もある。  (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:52 | POC2015 | Comments(0)

2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (4/5)

(承前)

c0050810_8203956.gif  二度目の渡米から帰国後の一柳に顕著だった、あらゆるジャンルの人びととの熱っぽいコラボレーションによる爆発的な活動は、空間への興味であったと纏めることができようが、この収束は一見すると意外な作品を生むことになる。それが1972(昭和47)年に高橋アキによって初演された《ピアノ・メディア》である。
  《ピアノ・メディア》で一柳は、図形楽譜による不確定性の音楽を突きつめた先に、再び五線譜で「はじめと終り」という「フォームがある」音楽を書くことに戻った。そこから、これを云わば一柳の「転向」のはじまりであるとすることもしばしばであるが、ここではむしろ、これまでの一柳の音楽への取り組みの新たな局面であると捉えたい。つまり、空間というものの捉え方の深化と、ヴィルトゥオジティの再発見こそが、一柳にとって《ピアノ・メディア》で達成された最大のことなのである。

  そもそも、一柳は《ピアノ・メディア》をどう発想したのだったか。
  まず、1967(昭和42)年の二度目の渡米の際、一柳はスティーヴ・ライヒの二台のピアノのための《ピアノ・フェイズ》の初演をニューヨークで聴き、それまでテリー・ライリーなどの作品から受けていたミニマル・ミュージックなるものの印象をすっかり刷新されるような感銘を受ける。すぐに日本の武満徹に手紙を書き、帰国後の「オーケストラル・スペース」でこれを自身が本邦初演することを提案し、武満は一柳の「提案を快く受け入れ」た。
  しかし、ピアニストとしてケージ、フェルドマンからブーレーズ、シュトックハウゼンまで、いわゆる前衛音楽をたくさん弾いてきた一柳は「一見、簡潔で単純に見えるライヒの「ピアノ・フェイズ」の演奏には、ほとほと手こずったのを覚えている」と述べる。「海岸の波打ち際についた足跡を、波が次第に洗い流してゆくような(…)繰り返しのなかで、ゆっくりとした漸次的な変化を基調とするライヒの音楽」の演奏には、「ヨーロッパ音楽とはまったく異なる未知の完成と技術が要求されたからである」(32)。
  1969(昭和44)年、一柳は東京大学でモーツァルトのピアノ・ソナタをコンピュータが演奏したテープをそれと知らず聴かされたとき、「音を聴くことにおいてはかなり自信をもっていた」にもかかわらず、これをまったく「人間の演奏と聴き分けられなかった」。この経験を「逆手にとって」、「生身の人間が実際のピアノを弾くわけだが」、「あたかもコンピューターが演奏しているようにきこえる構造をもっている」曲を書くことを思いつき、これがやがて《ピアノ・メディア》となる(33)。

c0050810_8223393.gif  つまり一柳は《ピアノ・メディア》を書く前にまず、ひとりのピアニストとして、「変化や展開を基調とし、ダイナミックに音楽をうたいあげるヨーロッパ音楽の演奏法」(34)に呪縛されていることを、《ピアノ・フェイズ》の演奏に取り組むなかで深く知らされ、コンピュータのモーツァルトを聴くことで、じぶんはよく音を聴くことをなしえているという思い込みも痛打されるということを味わっているのである。
  このふたつの大きな衝撃を一柳はどのように受け止めていったのか。これ以降の彼の音楽の展開の根本には、この問題が常に横たわっている。

  さて、先ほど書いたように《ピアノ・メディア》は五線譜で記された音楽で、右手は九つの音から成るひとつの猛烈に速いフレーズをひたすら機械的に反復し続け、左手は曲が進むにつれてぐんぐん加速し変化してゆくフレーズを弾いてゆく。やがて、「遠くへだたっていた二つの異質な音の世界が、左手のリズムの収縮によって、徐々に接近して」ゆき、加速する左手のスピードは右手のそれとおなじになる。「二つの分離した音空間」のそれぞれは「激しいせめぎ合いのなかで燃焼し、拮抗」し、右手は「左手の音型のなかに埋没し、次第に消滅して」、「残された左手は右手の音型の変質されたかたちとなり、一つの空間的な存在となったところで曲は終る」(35)。
  《ピアノ・メディア》における「速さはピアニストの技術的限界すれすれのところに位置して」おり、「右手にも左手にも和音は一切出現せず、それぞれに独立した拍子やリズムの異なる音型が交差しながら進行する」ため、「いわゆるピアニスティックな抑揚や感性を入れこむ余地の少ない作品」となっている(36)。

c0050810_826448.gif  つまり、《ピアノ・メディア》には、演奏者に対してまず、一切の自己表現を封じ込めるような厳しい楽譜の拘束があるわけだが、しかしこれを以て、演奏者の音楽へのアプローチの自由を束縛しており、1960年代を通して一柳が追究してきた、ケージから学んだ解放の音楽からの後退であると捉えるのは、短見に過ぎるだろう。
  これまでの一柳の歩みを踏まえるならむしろ、この記譜された厳しさは、たとえば不確定性の音楽に対峙した際のデイヴィッド・テュードアに顕著だった、「厳格な精神修練によって自分自身の本質を試された後に、音楽家としての自分本来の姿を発見する」(ポール・グリフィス)ことを、めざしているとみるべきだ。
  つまり、「ピアニストの技術的限界すれすれのところ」で書かれている《ピアノ・メディア》を弾くためにはヴィルトゥオジティが要求されるが、それそのものが目的なのではない。その修練と習熟ののちに発見されるだろう身体性こそが一柳の狙いなのである。
  云い換えるなら、「機械化の洗礼を受けたあとの手や肉体の復権が、人間とアクスティックな楽器の間に、新たな凝縮した関係をつくり出すことができないだろうか」(37)という問いが、一柳に《ピアノ・メディア》を書かせたのである。

c0050810_8285488.gif  さて、佐野光司は「ミニマル・ミュージックの出発点は、同一の音形のずれ、つまり同一の音楽的時間が、一方が遅延されることによって生ずる位相のずれ」であるとする。これに対して一聴するとミニマル・ミュージックそのものであるように思われる《ピアノ・メディア》だが、右手の「不変な音形」と左手の「一定の単位で変化してゆく音形」のそれぞれは、「異なった音楽的時間を進行するため、複数の時間が同時進行している」と述べる。
  この「複数の時間の同時進行」が、一柳の二度目の渡米から帰国してのちの、あらゆる活動を貫いていること、富岡多恵子の言葉をもういちど借りるなら、「この音楽家は、どんな音でもはいるイレモノをつくって、そこへやってくるニンゲンどもを待っている」際の原理であることは、云うまでもないだろう。そして佐野は、《ピアノ・メディア》で、さらに強く音楽の言葉によって打ち出された、「2つの異なった音楽的時間の「層の距離」は一柳によって「空間」として認識されるもととなったのである」と論ずる(38)。

  実際、先に引いたように、一柳による《ピアノ・メディア》の自作解題には、右手と左手によって産み出される音楽の関係こそが、彼のいう「空間」を現出させることが詳しく述べられていた。この「空間」の探究のために、《ピアノ・メディア》以降、一柳は拡散的なコラボレーションから次第に、「演奏という、より謙虚な行為に徹することによって、更に無創造性へと近づいて」ゆくことのできるヴィルトゥオジティの持ち主たちとの凝縮した協働のほうに向かう。

c0050810_8302322.gif  そしてこの「空間」の探究は同時に、ヨーロッパ音楽の真髄である室内楽というジャンルへの積極的な挑戦でもあった。
  1975(昭和50)年にはフルート、打楽器、ピアノとヴァイオリンのための《トライクローム》、1976(昭和51)年には、やはりピアニストに強靭なヴィルトゥオジティが求められる《タイム・シークエンス》、その翌年にはフルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための《リカレンス》などの緊張感あふれる作品がつぎつぎと産み出される。
  1978(昭和53)年からはピアニストとしても、最初のアメリカ留学のときからの盟友である小林健次と、定期的にデュオの演奏会を開催するようになり、ピアノとヴァイオリンによって奏されるふたつの時間の「かかわりあい」によって、「次第に浮き彫りにされてくる空間性」の「さまざまなシーンを現出させていく」《シーンズ》のシリーズ――《シーンズIII》のみヴァイオリン独奏曲であるが原理は共通である――などが書かれてゆく(39)。
  1982(昭和57)年には、指揮を専らとする前はパーカッショニストの道を歩んでいた岩城宏之からの委嘱で、マリンバとピアノのための《パガニーニ・パーソナル》が書かれている――なおこの作品には二台ピアノ、ヴァイオリンとピアノ、マリンバとオーケストラ、マリンバとピアノと混声合唱などのヴァリエーションもある――が、これは、ブラームスからルトスワフスキまでが取り組んだパガニーニの《カプリース》の24番のテーマを用いて、さらに何ができるかというところから発想された音楽である。1990(平成2)年に一柳は、この曲のことを訊ねられて、「現代音楽というと、アンチ・クラシックというか、昔のものを否定したうえに何か新しいものを作ってゆくという見方をされがち」だが、このごろのじぶんは、「クラシック音楽や日本の伝統音楽を含めて、古典と現代の音楽を何かブリッジさせることができればとも思っている」と答えている(40)。

c0050810_8374765.gif  また、ウォシャウスキー姉弟によって2012年に映画化されているデイヴィッド・ミッチェルの『クラウド・アトラス』――この小説も、時代も場所も異なる物語が同時に進行してゆく――が、そのタイトルを引用していることで知られているピアノのための《雲の表情》のシリーズが、1985(昭和60)年から1999(平成11)年にかけて、息ながく書き継がれてゆく。
  この《雲の表情》の最初の三作を、一柳は、「静止した時間や解体された時間における、空間性の導入と、重層化された時間の構造とかかわりをもつ密度や音色や質感の変化などがこの曲にも主要な要素として包含されており、それらがまた、華やかでピアニスティックなテクスチュアの形成と結びついている」と述べており(41)、ここでも、「空間」とヴィルトゥオジティの探究の結びつきの強さを窺うことができる。 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-31 05:52 | POC2015 | Comments(0)

2月21日(日) 一柳慧 主要ピアノ曲集 (5/5)

(承前)

c0050810_8453567.jpg  1980年代から、一柳が最初に尾高賞を獲った1981(昭和56)年のピアノとオーケストラのための《空間の記憶》を皮切りに、オーケストラ曲の委嘱が増える。しかし、ヴィルトゥオジティによって織り成される複数の時間の「かかわりあい」によってもたらされる「空間」性の探究は、一見それにうってつけであるかのようなオーケストラ曲で発揮されるよりもむしろ、これまで述べてきたような室内楽の諸作と、雅楽の作品によって、より盛んに突き詰められてゆく。
  実際、この年代からの一柳の作品リストをみるなら、室内楽の作品の充実と競るように、いわゆる邦楽器のための曲がずらりと並んでおり、1989(平成元年)年には雅楽と聲明の演奏団体「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」の立ち上げさえ行っている。
  そうであるなら、日本の古典音楽へののめり込みと室内楽への取り組みは、ひとつの探究の、別方向からの進みゆきであると捉えるほうがより精確だろう。

c0050810_8462322.jpg  なお、一柳が邦楽器と取り組んだのは1980年代に入ってからではない。既に、最初の帰国直後の1961(昭和36)年11月に草月ホールで行われた個展で、笙とオルガンのための《回帰》を発表しており、これが一柳が初めて邦楽器に取り組んだ作品である。
  渡米中に一柳は、日本の伝統音楽のレクチュアを依頼され、「できないと断るのもちょっと癪だ」ったので、慌ててコロンビア大学の図書館に駆け込んでみると、日本の音楽や伝統藝能に関する資料がたくさん揃っており、これを「一夜漬けでもって勉強して」講演したことがあったという。そのとき、「日本の古典音楽というものは、西洋的なものを基調にしていませんから、ものすごくモダンに聴こえるわけですよ。音律もそうだし、リズムもそうだし、何か本当に、現代音楽に近いなという気がした。それで、もっと勉強してみようという気持ちになった」そうである(42)。
  そして、《回帰》のリハーサルのとき、一柳はその後もしばしば協働することになる、笙の多忠麿と初めて出会う。このときに多が持ってきた別々の調律を施されたふたつの笙をみて、一柳は、この楽器が属している雅楽という、ヨーロッパのそれとはまったく異なる音楽の持つ歴史の分厚さを教えられ、のちに、ライヒの《ピアノ・フェイズ》やコンピュータのモーツァルトと遭遇したときとおなじように、自身の音楽観を揺るがされる経験を得る。その後も継続的に、邦楽器との取り組みは続き、1963(昭和38)年には琵琶の音を変調させて電子音楽《船隠》を、1965(昭和40)年には尺八、筝、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、銅鑼とオペレータのための《コラージュ》などを発表している。

c0050810_8471989.jpg  さて、1970(昭和45)年には、雅楽に新しい息吹をもたらすため、現代の作曲家たちに新作を委嘱する国立劇場の試みが、黛敏郎《昭和天平楽》の発表から始まる。その後も武満徹《秋庭歌一具》、そして何より1977(昭和52)年のシュトックハウゼン《歴年》などが、このとき国立劇場に属していた木戸敏郎のプロデュースによって生まれてゆくことになるが、一柳もまた委嘱を受けて1980(昭和55)年に《往還楽》、1982(昭和57)年に《廻天楽・往還楽》、そして1984(昭和59)年には、正倉院の宝物などから復元された古代楽器のための《雲の岸、風の根》と、つぎつぎに発表してゆく。
  さらに国立劇場の外でも、1983(昭和58)年には、多忠麿に師事していた宮田まゆみによって初演された、独奏笙のための《星の輪》、1990(平成2)年には自身の組織した「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」のために書かれた、龍笛、篳篥、笙、尺八、筝、琵琶、打物のための《道》など、これ以降も、一柳による日本の古典音楽への取り組みの傾注ぶりは目を瞠るものがある。

  1981(昭和56)年に発表された「音楽――時間と空間の芸術」と題された文で、一柳は、木戸敏郎による御神楽に関する論考から、「一度発せられた音は、物理的には間もなく消滅するが、精神的にはその場に止まって、つぎつぎと堆積してゆく」のであり、「同じ旋律を何度も演奏するのは反復ではなく重複である。重複させることは堆積させることであり、音の堆積は密度を高めてゆくことを意図している」という箇所を引き、古代楽器をふくめた邦楽器のための自作の根底にある狙いを、「時間の経過が音楽の構造化につながるのではなく、空間の堆積が音楽をかたちづくっていく」こと、「音の高さや、持続や、音の強さなどを、西欧の音楽のように、それぞれの要素に分離してしまうのではなく、音の密度としての観点から、一つの有機体のように扱うことで、音楽の流れを、自然界の時間や空間の変化に対応させるかたちをとる」ことと説明する。
  無論これは邦楽器のための曲だけでなく、先に述べた室内楽の諸作品にも通底していることは、もうくだくだ述べるまでもないだろう。

c0050810_848072.jpg  そして、《ピアノ・メディア》以降、図形楽譜で書くことを一柳はやめてしまったわけではなく、邦楽器のための作品では、五線譜とともに、これを大いに用いている。
  このあたりのことを一柳は、「音楽とはパフォーミング・アーツだから、どうしてもパフォーマー(演奏家)が必要になる。そうするとパフォーマーとのいろんなやり取りを成立させなければならない」のだが、図形楽譜を用いた音楽では、演奏者の経験、その取り組みの如何によって、演奏の結果にどうしてもバラつきが出てしまうのは否めない。これは映像やら空間デザインやら音楽家具の製作にまでチャレンジした1970年代までの一柳自身にも、さまざまな局面で痛感されることが少なくなかっただろう。
  すると、作曲者として、出てくる音の結果がどんなものであれ、こちらで引き受けることを肯んじることのできるような、演奏を託せる演奏家もおのずと限られてくることになる。こうなると、より広い可能性に向けて開かれることをめざしているはずの音楽が、秘教的な、閉じたものになっていってしまう。
  しかし、彼が出会った日本の伝統音楽の奏者たちは、「西欧の音楽であれ何であれ、非常に謙虚に受けとめようという姿勢が強かった。(…)グラフィック(図形楽譜)的なものを書いても、ずいぶん一生懸命努力してやってくれる」ことがしばしばだったのである(43)。

c0050810_85021100.gif  そもそも日本の伝統音楽の楽譜は、ヨーロッパ式の「一見すべての音が合理的に書きとれるように見える五線記譜法」によるそれではなく、「それぞれの楽器や声に対し固有のものとして考案され」ている。これを指して、「各楽器がばらばらに記され、記譜も具体性に欠けている」ことから、五線譜より「楽譜としての機能」に関して劣るように云われることがあるが、これを一柳は否定する。むしろ、そうであるからこそ、しばしば五線譜のオタマジャクシを目で追ってそのとおりの音を奏でるだけになってしまう視覚優位の音楽から、「演奏者を楽譜に従属させてしまわない」で、「演奏者が自分なりの立場から音楽にかかわりあえる」ようになり、「音楽は聴覚主導となり、演奏に際して、つねに時間と空間を意識することで、身体性を育むことにもつながってゆく」と述べる。
  むろん日本の伝統音楽は「様式性を重んじ、そのことがたとえば、型の形成に結びついて楽曲に構成感を与えている」のであり、「様式の解体」と「各奏者の独立性」こそを狙いとする不確定性の音楽とぴったり重なり合うものではない(44)。

c0050810_8513439.gif  しかし、このことから一柳が、いわゆるジョン・ケージ・ショック期の「やり方」を1980年代以降は撤回してしまったのではなく、ただ、オーケストラに代表されるヨーロッパの音楽をベースとする奏者たちと音楽をつくってゆくための手法としては最適のものではない――1964年にニューヨーク・フィルが《アトラス・エクリプティカリス》を演奏した際、彼らがケージの指示を無視して曲を台なしにしてしまったことを一柳はもちろんよく知っていたし、自身も1966(昭和41)年の「オーケストラル・スペース」における《ライフ・ミュージック》の演奏では、オーケストラから各楽器にコンタクト・マイクをつけることを拒否されるというようなこともあった――と判断したこと、しかしそれを用いることで、より音楽を自由にしてゆけると託すことのできる奏者たちに対しては、この「やり方」も活かし続けていることが見て取れる。一柳にとって図形楽譜とは、決して絵画的連想の具ではなく、その記譜法によってしかよりよく表現することができない音の関係を精確に刻むためのものであることが、よりくっきりとしたということもできよう。

c0050810_8522056.gif  日本の伝統音楽への一柳の取り組みについて、もうひとつだけ指摘しておくべきだろうことは、これが単純な、蕩児の日本回帰とは異なるということである。
  木戸敏郎を中心として、国立劇場が、正倉院などに伝われる古代楽器の断片やもろもろの文献などに基づき、雅楽として今に伝承されているより以前の楽器や奏法を復元して、それを用いた新しい音楽の創造を多くの作曲者に委嘱し、そうしてできた音楽を「伶楽」と呼んでいる。この運動には、たとえば音楽学者の小島美子による激しい批判などもあるが、これまでに述べてきたように、一柳は雅楽のための新作だけでなく、木戸の「伶楽」の考えに共鳴し、このための音楽もたくさん書いている。
  複数の音楽的時間が織り成す空間性を追い続けている作曲家である一柳が、雅楽の世界との遭遇を経て、さらに「伶楽」へと進んだのは、日本へ「アジア諸国からさまざまな音楽が到来したときのいわば未分化な状態へと考えを戻す」ためであり、この道程を逆に向かえば、「いろいろな音楽がせめぎ合うなかから、次第に淘汰され、定着してきた歴史の流れを遡ること」にもなる(45)。つまり、一柳が雅楽や「伶楽」の新作を通じてみつめている日本とは、今ここにある日本そのものへの回帰ではなく、それと重なりつつ、しかしズレを含みながら発ち現われてくる、可能性としての「日本」なのである。

c0050810_8532378.gif  一柳は、日本の戦後とともに生きてきた。フランスの音楽に親しみ、セリー音楽を経て、ジョン・ケージやデイヴィッド・テュードアと遭遇するなかで自身の音楽を確立し、作曲家だけでなくさまざまな藝術家たちとのコラボレーションによってその音楽を拡張し、同時に日本の伝統音楽にも熱心に取り組んできた。
  それらの音楽は、沈黙や間を含めた幾つもの異なる音の時間が、異なっているからこそ生れ得るかかわりあいによって、ひとつの「空間」を織り成すことに向けて、響いている。
  「絶対的基準の神話は解体され、音楽は全体性の回復する(総体的)なものとして見直されるようになってくる」と一柳が書くとき、これは自身の音楽への言及であると同時に、われわれが生活/音楽している、「個々のものがさまざまな時間を宿しながら循環しているはるかに豊かな世界」(46)に向かう、ひとつの祈りでもあるのだろう。





─────────────────────────────────────────
c0050810_8542367.gif1. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
2. 『音楽の友』1950年1月号
3. 『音楽藝術』1951年12月号
4. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
5. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
6. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
7. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
8. 『文藝春秋』1969年8月号より加瀬英明「わが偉大なる従姉小野洋子」
9. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
10. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
11. 白石美雪『ジョン・ケージ』
12. 以上、一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
13. 『Music Today』vol.18一柳慧・秋山邦晴「ジョン・ケージと日本」
14. ポール・グリフィス(訳・堀内宏公)『ジョン・ケージの音楽』
15. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
16. 『現代との対話』より一柳慧「音楽の新しい状況」
17. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
18. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
19. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
20. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
21. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
22. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
23. 『音楽藝術』1963年8月号より座談会「世界の前衛と音楽」から諸井誠の発言
24. CD『ミュージック・フォー・ティンゲリー』の一柳慧によるライナーノート
25. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
26. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
27. 以上、『音楽藝術』1970年12月号より一柳「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」
28. 富岡多恵子『行為と芸術』より「一柳慧」
29. CD『オペラ横尾忠則を歌う。』ブックレットより横尾忠則「一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」」
30. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
31. 『展望』1968年3月号より秋山邦晴による一柳慧インタヴュー「音楽の境界をのりこえろ」
32. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
33. 『世界』1977年7月号より一柳慧「古代と超現代の距離」
34. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
35. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
36. 一柳慧『音を聴く』より「私の作品から」
37. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
38. 以上、『サントリー音楽財団コンサート作曲家の個展'88:一柳慧』パンフレットより佐野光司「一柳慧の音楽」
39. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
40. 『音楽藝術』1990年7月号一柳慧インタヴュー「パガニーニを現代に読み変えて」
41. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
42. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
43. 以上『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
44. 一柳慧『音楽という営み』より「音楽における聴覚の復権」
45. 一柳慧『音楽という営み』より「伝統音楽の今日的再生」
46. 一柳慧『音楽という営み』より「弦楽四重奏曲第3番―インナーランドスケープ」



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by ooi_piano | 2016-01-31 05:51 | POC2015 | Comments(0)

2/10(水) ガブリエル・フォーレ全チェロ作品

c0050810_9333138.jpg2016年2月10日(水)午後7時開演(午後6時半開場)
上森祥平(チェロ)+大井浩明(ピアノ)
Shohei Uwamori + Hiroaki Ooi

東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
[東京都豊島区 巣鴨1丁目15−1 宮田ビル3階]
チラシpdf

入場無料(後払い方式)
※出来るだけ事前に予約御申し込み下さい(ウェブ/ファックス 03-3944-8838(申し込み用紙)/電話 03-3944-1583)


ガブリエル・フォーレ(1845-1924):全チェロ作品
Gabriel Fauré: Intégrale de L'Œuvre pour violoncelle et piano


●子守唄 作品16 (1878/79)
エレジー 作品24 (1883)
●蝶々 作品77 (1885)
●シシリエンヌ 作品78 (1893)
●ロマンス 作品69 (1894)
●セレナーデ 作品98 (1908)
チェロ・ソナタ第1番ニ短調 作品109 (1917) [全3楽章]
  I.Allegro - II.Andante - III.Allegro commodo
チェロ・ソナタ第2番ト短調 作品117 (1921) [全3楽章]
  I.Allegro - II.Andante - III.Allegro vivo

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上森祥平/Shohei Uwamori(Vc.)
  東京藝術大学在学中に第66回日本音楽コンクール第1位入賞、併せて「松下賞」受賞。東京藝術大学にて安宅賞受賞。各地でデビューリサイタルを開催、 その高い表現力や表情を多彩にする包容力は、誌上で高く評価された。宮崎国際室内樂音楽祭にてアイザック・スターン、エマニュエル・アックスの各氏に師事。1ヶ月にわたるレッスンの模様はNHK総合・教育・BSで放送された。2000年スターン氏自らの招きによって、再び同氏及びジュリアード・クァルテットの各氏に師事。同年、ヨーヨー・マ氏のマスタークラスを受講。2001年渡独、ベルリン芸術大学ヴォルファング・ベッチャー氏のクラスに留学。2004年J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲連続演奏会で成功を収め、誌上で絶賛される。パブロ・カザルス国際チェロコンクール、エマニュエル・フォイアマン・グランプリセミファイナリストのほか、ヨーロッパ各地で演奏ののち帰国。3年にわたるドイツ三大Bチェロ作品全 曲リサイタルを成功させ、2008年よりJ.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲演奏会(朝日新聞社主催・浜離宮朝日ホール)を毎年開催。その評価は年を追うごとに高まっている。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭、「東京・春・音楽祭」、NHK-BSプレミアム、NHK-教育テレビ、FM他多数出演。これまでに小林研一郎、下野竜也等各氏指揮のもと、東京交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、京都市交響楽団、大阪フィルハーモニー管弦楽団、大阪交響楽団、神戸市室内合奏団、藝大フィルハーモニア等と共演。ヴォルフガング・ベッチャー、河野文昭、山崎伸子、雨田一孝の各氏に師事。ヤーノシュ・シュタルケル、ダヴィッド・ゲリンガス、ボリス・ペルガメンシコフ 、フランス・ヘルマーソン、フィリップ・ミュレールの各氏のマスタークラス及び公開レッスンを受講。京都市芸術文化特別奨励者及び京都府文化賞奨励賞受賞。公式サイト:http://www.uwamori.jp/
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by ooi_piano | 2016-01-28 09:43 | コンサート情報 | Comments(0)

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その1)


POC2015 感想集 http://togetter.com/li/920992

c0050810_115191.jpg大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第25回公演
マウリシオ・カーゲル 全ピアノ作品
 
2016年1月24日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) 
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/



【演奏曲目】

c0050810_125125.jpgブライアン・ファーニホウ(1943- ):《クヮール - 自己相似リズムによる練習曲》(2011/13、日本初演) [招待作品]

マウリシオ・カーゲル(1931-2008):《4つの小品》(1954、日本初演)

●同:《メタピース - 擬態》(1961)

●同:《MM51 - 映画音楽の小品》(1976)

●同:《鍵盤で - 練習曲》(1977)

●同:《Rrrrrrr...》(1980/81)より「ラーガ」「ラグタイム-ワルツ」「ロンデーニャ」

 (休憩15分)

ヴィンコ・グロボカール(1934- ):一人のピアニストのための《音符(ノーツ)》(1972、日本初演) [招待作品]

●カーゲル:《ヒポクラテスの誓詞》(1984)

●同:《複合過去 - 狂詩曲》(1992/93、日本初演)

●同:《二本の手で - 即興曲》(1995、日本初演)

●同:《即興曲第2番》(1998、日本初演)



マウリシオ・カーゲル覚え書き ─────野々村 禎彦

c0050810_194318.gif ヨーロッパ戦後前衛第一世代には、シュネーベル(1930-) やブソッティ(1931-) のような「普通ではない」作曲家は少なくないが、カーゲル(1931-2008) の前では皆霞んでしまう。論より証拠、〈レパートリー〉(1967-70)(映像版ライヴ版)や《ふたりオーケストラ》(1973)(短縮編集版全曲版リンク)の動画を見てみよう。彼の音楽は、「視覚的的要素の導入」「劇場性の導入」といった文脈で語られることが多いが、そういうお上品な言葉で括れるような代物ではないのは明らか。動画から入ると、視覚的要素に頼り切った際物という印象を受けるかもしれないが、こう見えて音だけでも確固とした世界があるのが只者ではない。

 アルゼンチン・ブエノスアイレスのドイツ系ユダヤ人(革命後の旧ソ連から1920年代に亡命)の家庭に生まれたカーゲルは、声楽・指揮・ピアノ・チェロ・オルガンを個人レッスンで学んだ(後の作品でも独唱と指揮はしばしば自ら行い、ピアノ・チェロ・オルガンを用いた重要作が多い)。音楽学校の入試に失敗し、保守的な音楽教育を受けずに済んだのは、結果的に幸運だったかもしれない。彼は16歳でブエノスアイレス現代音楽協会に参加し、南米で最初に12音技法を用いたフアン・カルロス・パス(1901-72) の薫陶を受けた。後に彼の作品を数多く振ることになる指揮者=作曲家ミヒャエル・ギーレン(1927-) は、1950年にウィーン国立歌劇場の指揮者=練習ピアニストとして渡欧するまでは協会の先輩ピアニストで、1949年にはシェーンベルクのピアノ作品全曲を南米初演している。彼はブエノスアイレス大学で哲学と文学を学んだが、指導教官は世界的作家のボルヘスだった。多文化主義・複雑性指向・映画や写真など視覚芸術を重視する姿勢をはじめ、彼の作風に与えた影響は大きい。作品表の最初を飾る1950年の無伴奏合唱曲はただちに出版され、同年にはアルゼンチン・シネマテークを設立して映画評論家としても活動した。

c0050810_1145148.jpg ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ世界三大オペラ劇場として知られるコロン劇場を擁するブエノスアイレスは、南米におけるヨーロッパ文化の中心地だったが、世界有数のユダヤ人ゲットーが存在することも手伝って、ナチス政権成立後はヨーロッパで活動していた音楽家が数多く亡命しており(例えばエーリッヒ・クライバーは1936-49年にはコロン劇場の首席指揮者を務めていた)、カーゲルはヨーロッパ戦後前衛の状況をリアルタイムで把握して作曲を行っていた。フランス演劇界を代表するルノー=バロー劇団が1953年と54年にアルゼンチンを訪れた際、当時の音楽監督ブーレーズは彼の才能を認め、ヨーロッパ留学を重ねて薦めた。この時ブーレーズに見せたのが《六重奏曲》(1953) であり、弦楽六重奏のための改作版(1957) はヨーロッパ・デビュー曲になった。だが当時の彼は彫刻家の妻と結婚し、ブエノスアイレス室内歌劇場でオペラ制作に携わり、コロン劇場管弦楽団を立ち上げて練習ピアニストと副指揮者も務めていた。彼が1957年のドイツ交換留学を機に、妻とケルンに移住すると決めたのは、1955年の軍事クーデター以降、ペロン政権時代以上に自由が失われたことも大きな要因だった。

 留学の名目は電子音楽の研究であり、留学先をケルンに選んだのも、シュトックハウゼンのお膝元である西ドイツ放送電子音楽スタジオで学ぶためだった。移住後第1作は前衛書法のアンサンブルと合唱のための《アナグラマ》(1957-58) 、次に電子音楽《トランジションI》(1958-60) を手がけたが、続編にあたる《トランジションII》(1958-59) が先に完成した。ピアノ、打楽器、電子音のための作品だが、「打楽器」の内容はピアノの内部奏法専門の奏者を付けることで、視覚的要素の導入の端緒とみなせる。なお、《アナグラマ》の初演は《コンタクテ》電子音楽版の初演の前座だったが、終演後はシュトックハウゼンを差し置いてカーゲルが話題をさらい、この新人作曲家の次作の編成を参考にして《コンタクテ》のピアノと打楽器を伴う版が生まれたという。このように、ドイツ移住初期の彼は、概ねヨーロッパ戦後前衛の動向に忠実だった。留学期限後も母国には戻らないと決めて、安定した職を得るまでは野心的な試みは封印したわけだ。また渡欧時に母国に置いてきた旧作の譜面は散逸した。

c0050810_1173739.jpg 1960年からダルムシュタット国際現代音楽夏期講習の講師職に就くと、彼はいよいよ「器楽による劇場」と称する、視覚的・劇場的要素を全面的に導入したシリーズに取りかかった。このような作品の満足な演奏は通常のアンサンブルには期待できない。そこで、彼は最初の2作《響き》(1960)《舞台上で》(1960) の初演に際し、ケルン現代音楽アンサンブルを創設した。「器楽による劇場」と並行して、ケージの影響を強く受けたコンセプチュアルな試みも、本日の演奏曲《メタピース(模倣物)》(1961) から始めた。またオーケストラのための《ヘテロフォニー》(1959-61) は、線的素材(20世紀前半の作品の断片)を堆積させた独自の音群音楽である。これらの作品は、音響自体を聴く限りまだ戦後前衛の枠内にあるが、《付加された即興》(1962/68) で、いよいよ音響面でもその枠から飛び出した。自由度の高いオルガン独奏曲だが、演奏中にふたりの助手がストップを操作して、電子音楽をはるかに凌ぐ異様な音世界を生み出している。若き日のジョン・ゾーン(1953-) は、この作品のレコードを聴いて音楽を志したという。《アンチテーゼ》(1962) は、元々は電子音と環境音を組み合わせた電子音響音楽だが、そこに俳優の演技を加えると、抽象的な音響が一挙に具体的な意味を持ち始めるのがポイント。この作品は、カーゲル自身が監督して「映画版」を作った最初の実例でもある。

c0050810_121277.jpg 本領発揮の2作の翌1963年にはブランクがあるが、この時期こそがブーレーズが活動の中心を作曲から指揮と教育に移し、シュトックハウゼンが創作の中心を全面的セリー技法による緻密な管理から「プロセス作曲」とライヴエレクトロニクスに移した、戦後前衛の転換点に他ならない。ブランク明けに書かれた《試合》(1964) は、ふたりのチェリストの音による「試合」の「審判」を打楽器奏者が務めるという明快なコンセプトを持つ「器楽による劇場」であり、彼のピークの始まりである。構想のみで中断していた《劇場の記録》(1960/65-67) シリーズも形を持ち始め、5人の俳優が歩き回る際に発する音響のみで構成した〈何もない5人〉(1965) のような、音楽の定義を問い直す作品も含まれる。《ルネサンス楽器のための音楽》(1966) は、古楽復興運動の勃興期の時事的な作品と見せかけて不定形のノイズがダラダラ続く、彼らしい不条理音楽。無伴奏合唱のための《アレルヤ》(1968)(ライヴ映像版) は、60年代後半の代表作。タイトルこそヘンデル《メサイア》のハレルヤ・コーラスに由来するが、テキストは音素のみ、音楽も抽象的で中身は無関係。パート譜のみで総譜はなく、同時発声可能な奏者数の上限を指定して偶然に生成される声の響き合いを聴く、カーゲル流実験音楽である。

c0050810_1224838.jpg 70年代初頭の数年間が彼の創作歴の頂点であり、冒頭で挙げた2作品もこの時期に書かれている。《音響効果》(1968-70)(オリジナル録音2008年ライヴ) は実験音楽路線の集大成。タイトルとは裏腹な「発音装置とスピーカーのための」という副題が、作品の本質を的確に表している。各奏者は200枚以上のカードに記された発音行為を淡々とこなすが、通常の楽器は一切用いず、レコードやテープの再生も重要な要素である。ベートーヴェン生誕200年記念作《Ludwig van》(1969-70) は、ベートーヴェンの主要作品をチープな小編成アンサンブルに編曲した断片のみで構成した大曲。最初に作られた映画版・演奏シーンを譜面化した版・独自の素材によるLPレコード版の3種類があり、ベートーヴェンの音楽をめぐる不毛な状況(消費材化や偶像化に始まり、当時の音楽評論家やカーゲル自身がパネリストの無内容な討論会の場面すらある)を風刺している。そして《州立劇場》(1967-70) は、彼の終生の代表作。ナチス時代の中央集権が独裁を生んだ反省から、旧西ドイツではドイツ統一以前の小国家に由来する州の権限を大幅に強化し、文化政策も州ごとに決めていた。すなわち放送局や放送管弦楽団はもちろん、歌劇場まで各州にひとつずつあり、公的援助に頼り切った音楽状況を象徴している。この作品では、オペラの特定の構成要素を切り出して組曲の形にまとめた。すなわち、〈レパートリー〉は演劇的演出、〈録音行為〉はオーケストラの合奏、〈アンサンブル〉は声のソロ、〈デビュー〉は合唱、〈季節〉は歌唱劇、〈スケジュール〉は器楽の合奏、〈コントル→ダンス〉はダンス、〈ただ乗り〉は器楽のソロ、〈平土間席〉は群衆シーンを各々扱っている。〈レパートリー〉の動画からも明白なように、各瞬間はグロテスクなカリカチュアの連続だが、やがてオペラは本質的にこのようなもので、それを娯楽として享受できているのは慣れにすぎないのではないか、と思えてくる。ハンブルク歌劇場での初演は熱烈な賛否両論を引き起こし、劇場には爆破や放火を予告する脅迫が相次いだという。

c0050810_1233745.jpg この時期で言及すべき作品はまだ多い。州ごとに放送局があるドイツではラジオ劇(H¥horspiel)が盛んだったが、TVドラマに押されて本来の需要が失われる中で、内外の現代作曲家の実験の場へと方向転換していった。ケージ《ロアラトリオ》(1979) やフェラーリ《極西ニュース》(1998-99) のような、各作曲家の代表作もこのメディアから生まれているが、この転換の先陣を切った西ドイツ放送がまず委嘱したのは地元のカーゲル。《録音状態》(1969/71) からこのジャンルは始まった。《エクゾティカ》(1972) は、非ヨーロッパ楽器をヨーロッパ人音楽家が、エキゾティシズム丸出しな「土人」の扮装で演奏するコンセプト。劇場性・実験主義・ヨーロッパ批判など、彼がそれまで探求してきた要素がひとつになった怪作だ。ただし、彼の中では実験音楽的な路線は1970年の作品群で一区切りがついており、クラシック音楽をより伝統的な形(《Ludwig van》のような戦後前衛的引用ではない)で利用する方に興味が移ってゆく。《プログラム》(1972) はこの傾向の端緒をなす室内楽組曲。例えば、〈爪が肉体化される〉ではリスト《暗い雲》を足踏みのリズムが異化し、〈レシタティヴァリエ〉ではJ.S.バッハのカンタータを調子外れな歌唱と装飾性皆無の伴奏で異化する。《フーガ抜きの変奏曲》(1972) はブラームス生誕140年記念曲。《ヘンデルの主題による変奏曲》の大オーケストラへの歪んだ転写。《1898》(1973) はドイチェ・グラモフォン・レーベル創業75周年記念曲で、録音メディアが浸透する以前の家庭内合奏のイメージを、単純な調性的素材をほぼユニゾンで奏するスカスカなアンサンブルの隙間を、児童合唱が簡略譜面に沿って埋めることで再構成している。この並びの中では、《ふたりオーケストラ》(1973) の実験音楽路線は例外的だが、奏者ひとりで大オーケストラに匹敵する数の楽器を、主に紐で操作するチープな装置(彫刻家の妻のデザインで実現した)は、「伝統的な素材の異化」という意味ではこの時期の傾向に沿っている。 (つづく)
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by ooi_piano | 2016-01-11 15:26 | POC2015 | Comments(0)

1月24日(日) カーゲル全ピアノ作品 (その2)


(つづき)



c0050810_1264340.gif 1974年のブランクは、戦後前衛の衰退と新ロマン主義の台頭に対応し、カーゲルの音楽もこれに呼応して変化した。1975年以降はクラシック音楽の素材をさらに直接的に利用する方向へと進み、音楽/音響自体よりもコンセプト/コンテクストの面白さに主眼が移ってゆく。ブランク明け最初の《我々の海》(1975) は、「あるアマゾンの部族による地中海地域の発見、講和、改宗」という副題の通り、実際の世界史とは反対の、南米がヨーロッパを支配した仮想世界を描いた舞台作品。《州立劇場》のような抽象化された形態ではなく、常時舞台上に居る演奏者がリブレットに沿って筋書きを進める伝統的な形態に回帰した。クラシック音楽の素材は、南米人が「ヨーロッパ音楽」として戯画化した形で現れる。音楽的には、《エクゾティカ》の裏返しに他ならない。似たコンセプトで民謡を素材にした《カントリー・ミュージック》(1975) の後、クラシック音楽を素材にした大規模な作品は影を潜めるが、この沈黙は《世界の脱創造》(1974-78) の準備のためだった。ヘンデル《世界の創造》を素材に創世記の物語を反転し、最後は創造の仕事に飽きた神による大虐殺で終わる、冒涜的な内容。カーゲル自身は《州立劇場》に次ぐ代表作にすべく意気込んでいたが、非難が巻き起こったわけでもなく、「見なかったことにしよう」という反応が大勢だった。本日の演奏曲《MM51》(1976) と《鍵盤上で》(1977) は、この時期のクラシック音楽寄りの数少ない作品という位置付けになる。《世界の脱創造》の完成後は、シューベルトのリートを素材にしたオペラ《ドイツより》(1977-80)、シューマンの日記の断片に基づく《真夜中の日記》(1981) と、ロマン派の音楽を素材にした作品に立て続けに取り組んだ。50歳記念作品《フィナーレ》(1981) は、この系列の最後の曲にあたる。日本初演時には「指揮者が最後に倒れる曲」としてワイドショーでも取り上げられたが、コロン劇場時代のエーリッヒ・クライバーが演奏中に心臓麻痺で倒れた故事に由来している。

c0050810_1292080.jpg コンセプト/コンテクスト重視の姿勢は、むしろラジオ劇の分野で生かされた。《逆回しにされたアメリカ》(1976) は、ヨーロッパ人による南米原住民の虐殺がテーマ。《我々の海》と対になる、こちらは直球の歴史劇である。タイトルの「逆回し」とは、「殺される側」からの描写であることに加え、言語を奪われた原住民の状況を、逆回しで書いた台詞を逆回転再生して得られるたどたどしい語りで表現していることに由来する。《指導者》(1978-79) では、独裁者の煽動的な政治演説を軍楽隊が伴奏する。ラジオは独裁者の演説を広く届けるために利用された歴史を参照しているが、この作品は舞台上演も可能である。また軍楽隊パートは、《10の敗戦行進曲》(1978) として単独で演奏することもできる。《…オーウェルを読んで》(1984) では、ジョージ・オーウェルが『1984』で描写した「新言語」の問題(極度に単純化された言語では権力に都合の良い概念しか表現できない)を、音と言葉で具体的に提示した。この作品も舞台上演可能である。政治的題材に基づいたこれらのラジオ劇は高く評価され、イタリア賞などの放送劇のための賞を得た。ただしこの受賞は、伝統的な「ラジオドラマ」として革新的だと評価されたということであり、ドイツのラジオ劇の方向転換から生まれたケージやフェラーリの作品のような「優れた現代音楽」としての評価ではない。

c0050810_130573.jpg 結局この時期で最も興味深いのは、《世界の脱創造》や《ドイツより》の合間に書かれた軽音楽を素材とする作品である。《4つの段階》(1976-77) は、木質打楽器トリオのための〈馬場馬術〉(TV版その1その2、ライヴ映像)、コメディアンとピアノ伴奏のための〈プレゼンテーション〉、舞台作業員のための無言劇〈撤去〉、コンサート・スペクタクル〈ヴァリエテ〉()の4曲からなり、《プログラム》の軽音楽版とみなせる。ダンスホールの音楽に他ならない〈ヴァリエテ〉に対し、〈馬場馬術〉は「器楽による劇場」の一種だが、コミカルな所作を伴う音楽はあくまで軽い(タイトルは基本素材のギャロップ音型に由来)。〈プレゼンテーション〉はコメディそのものだが、音楽は単なる記号にすぎない点で異なった段階にあり、〈撤去〉では《州立劇場》ですら扱わなかった裏方にスポットを当て、ひたすら小道具を舞台から撤去する。《タンゴ・アルマン》(1978) の素材は伝統的なタンゴだが、器楽パートは特殊奏法を含めて細かく書き込まれており、現代音楽畑の奏者による精緻な解釈が醸し出す違和感はひとつの狙いだろう。他方、声楽パートに歌詞の指定はなく、それらしい言葉をその場で選ぶことが求められており、即興的解釈を含む「タンゴらしい演奏」も許容している。《Blue’s Blue》(1979) の狙いはまた違う。オリジナルの映画版では、「音楽民族学的再構成」と謳いながら「ブルースはジョン・ブルーというジャズミュージシャンが始めた音楽で…」という嘘の歴史を延々と語った後、「ブルーによるSP録音」と称するカーゲル自身によるノリノリの歌唱(にSP盤のノイズを乗せたもの)が始まり、ソファーに寝そべって聴いていた音楽家たちがやがてそれに合わせて即興演奏を始める。音楽民族学のいかがわしさや、歴史的なポピュラー音楽が録音メディアを通じて本来の対象とは全く違う層に消費されている現状を風刺している。ここまで見てきたように、素材はアルゼンチン時代に接した大衆音楽(「ポピュラー音楽」と呼ぶよりも「軽音楽」がふさわしい)にほぼ限られており、《Rrrrrrr…》シリーズ(1980-82) まで来るとネタ切れ感は否めない。

c0050810_1363120.gif 《フィナーレ》以降クラシック音楽を素材とする作品が再び減ったように見えるのは、J.S.バッハ生誕300年記念曲《聖バッハ受難曲》(1981-85)(その1その2) という大作に取り組んでいたことが理由である。バッハを救世主になぞらえ、生前の作曲家としての評価の低さを「受難」とみなすのが基本的枠組。カーゲルらしからぬシリアスさを保って分厚く書き込まれているが、軽やかさも失われてはおらず、クラシック音楽を素材にした作品群の中では代表作にふさわしい。だが、この作品の成功を受けて、彼の音楽はますます伝統的な方向に向かった。ピアノ三重奏曲第1番(1985) 弦楽四重奏曲第3番(1987) のように、擬古典的と呼ぶ方が適切な作品すら珍しくなくなった。それでも室内楽ならば、調性的な素材に時折挟まれるノイズ奏法や微分音のニュアンスが聴き取れるが、管弦楽作品になると単に保守的としか言いようがない。《ティンパニ協奏曲》(1992) のように、純粋にネタとして消費されている状況が作品に釣り合っている。

c0050810_137274.gif ただし、一度道を踏み外すとそのまま坂を転がり落ちる作曲家が多い中、60歳記念作《1931年12月24日》(1991) の頃から、少なくとも小編成の軽音楽素材の曲は持ち直したように思われる。サロンオーケストラのための《羅針図組曲》(1989-94) も世評は高いが、3奏者のための《セレナーデ》(1994-95)、打楽器奏者と演奏助手のための《アール・ブリュット》(1994-95)、室内アンサンブルのための《オーケストリオン通り》(1995-96) などの作品には、《4つの段階》の時期に劣らぬ生気とウィットがある。ラジオ劇の分野にも復帰し、トランペットのための《コンクール課題曲》(1971/92) 《ファンファンファーレン》(1993)、及びカリヨンのための《メロディ》(1993) の録音を素材に、環境音を加えて音響の遠近感を際立たせた《近くと遠く》(1993-94)、音楽展示場の音環境を再構成した《プレイバック・プレイ》(1996-97) という、テキストに頼らずに音響で勝負した、ケージやフェラーリに比肩する作品を生み出した。本日演奏される《複合過去》(1993) と《二本の手で》(1995) は、この輝きを取り戻した時期の作品である。ただしこの二度目のピークは、60年代半ばから70年代末まで続いた最初のピークほど長くは続かなかった。本日の演奏会を締め括る《即興曲第2番》(1998) が、実質的に最後の曲とみなせる。作品表は死の直前まで埋まっているが、これ以降の作品はコンセプトや視覚的要素は興味深くても、肝心な音楽が伴っていない。

c0050810_2144412.gif 彼が90年代に創作意欲を取り戻したのは、録音メディアの主力がLPからCDに移って生産コストや保管コストが削減されたことで、オイルショック以降冷え込んでいた現代音楽リリースが再び活性化し、仏montaigneレーベルが彼の作品の網羅的リリース(未録音だった70年代半ば以降の作品が中心)を始めたことによる。録音メディアを通じて開かれた回路がなければ、クラシック音楽と隣接した現代音楽業界の中で委嘱も聴取も閉じてしまい、作風もおのずと求められる方向性に沿ったものになる。彼の80年代の停滞はまさにそういう事情による。3大B生誕記念曲がみな彼に委嘱されたのは、「空気を読める作曲家」と業界で評価されていたということだ(その種の委嘱はシュトックハウゼンには行かない)。録音メディアのリリースは売れなければ続かないが、このシリーズはmontaigneレーベルが経営統合で消滅する90年代半ばまで続き、以後はドイツの前衛ジャズレーベルWinter&Winterが引き継いだ。パンク・ムーヴメント以降のポピュラー音楽の転換期に、カーゲルのポストモダン的音楽に強い影響を受けたジョン・ゾーンがNYダウンタウンで細々と始めた、さまざまな音楽の断片を高速で混淆し異化する即興音楽は、飽和した自由即興音楽に代わる方向性として80年代以降の欧米で爆発的に支持され、1990年前後には日本でも広まった(当時のゾーンは高円寺で暮らしていた)。Winter&Winterレーベルが扱う音楽家にはゾーンの盟友も多く、カーゲルの第二のピークを支えた聴取層は明白だ。

c0050810_2153218.jpg また、彼の第二のピークが1998年には終わったのは、この時期にインターネットの利用が急速に普及し、あらゆる音楽データが居ながらにして得られるようになったことで、さまざまな音楽様式を混淆し異化するポストモダン的な音楽のあり方が陳腐化したことを反映している(他方、動画配信が一般化する回線速度に達するまでには間があり、その後のカーゲルが視覚的要素に集中したことは、この角度から説明できるかもしれない)。この転換は、実験的ポピュラー音楽の世界ではさらに明確だった。ゾーンらのミクスチャー即興に代わって、音響派ないし音響的即興と呼ばれた、選び抜いた音を疎らに配置し音色と空間性を重視する方向性が注目を集めた。カーゲルの音楽の変遷は、実験的ポピュラー音楽の変遷と見比べた方が理解しやすいのは、彼が現代音楽界では稀有な、時代状況を見据え続けた作曲家だったことの帰結である。音楽史上、彼はまず実験的ポピュラー音楽との親和性の高さで記憶される存在であり、後年のクラシック音楽寄りの創作は副次的なものにすぎない。
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by ooi_piano | 2016-01-11 15:25 | POC2015 | Comments(0)